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酒を呑んで映画を観る時間が一番幸せ・・・と思うので、酒と映画をテーマに日記を書いていきます。 映画の評価額は幾らまでなら納得して出せるかで、レイトショー価格1200円から+-が基準で、1800円が満点です。
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愛しのアイリーン・・・・・評価額1700円
2018年09月22日 (土) | 編集 |
幸せって何だっけ?

強烈。

おそらく、日本映画史上最も放送禁止用語を連発した作品。

こりゃ地上波放送不可だな。

コミュニケーションの断絶がもたらす、寓話的な悲喜劇。

安田顕演じる寒村に暮らす中年男・岩男が、フィリピンから若い妻・アイリーンを金で買ってくる。

だが、そこは保守的な村社会。
岩男を溺愛する老いた母親は、決してアイリーンを“嫁”として認めようとしない。
「ザ・ワールド・イズ・マイン」など、不条理劇で知られる新井英樹の同名漫画を、「ヒメアノ~ル」の吉田恵輔が映画化。
暴走する愛に翻弄される岩男を安田顕が好演し、アイリーンをナッツ・シトイ、彼女に憎しみを募らせる岩男の母親・ツルを木野花が怪演している。
※核心部分に触れています。

宍戸岩男(安田顕)は認知症の父・源造(品川徹)と母のツル(木野花)と三人で、地方の寒村に暮らしている。
四十路に入っても結婚の当てはなく、毎夜自慰にふける息子に、ツルはしきりに見合いをすすめるが岩男は受け入れない。
パチンコ店に勤める岩男は、同僚の愛子(河井青葉)に恋心を抱いている。
だが、彼女がその清楚なイメージとは違って、かなり乱れた男関係をもっていることを知り、激しく動揺。
誰にも告げずに姿を消してしまう。
しばらく後、源蔵が亡くなり、その葬儀の最中に岩男がフィリピン人の若い女性・アイリーン(ナッツ・シトイ)を連れて突然戻ってくる。
実は愛子に振られた岩男は、なけなしの貯金300万円を払って国際結婚斡旋会社に申し込み、フィリピンに渡っていたのだ。
だが、岩男を“理想の嫁”と結婚させようと目論んでいたツルはこの結婚を認めず、猟銃を持ち出してアイリーンに突きつけるのだが・・・



タイトルロールのアイリーン自身は、強いドラマを持っていない。

まだ十代の若い彼女は、ある程度したたかではあるものの、基本はただ幸せになりたくて、他人も幸せにしたいシンプルな人物だからだ。
実質金で買われる形で日本に嫁いでも、愛する人と結ばれたいと、簡単には岩男に体を許さない。
少しずつ日本語を勉強し、何も知らない岩男のことを好きになって、いつか本当の夫婦になろうと努力している。
彼女の問題は、周りが皆「ドラマを持っている」人々、即ち煩悩と葛藤の塊の様な人間たちばかりだということなのだ。


夫の岩男は相当鬱屈しているが、それでもまだ彼女を愛そうとするし少しずつだが心を通わせる。

ところが、どうしても息子に“理想の嫁”をとらせたい姑のツルが、伊勢谷友介演じるアイリーンを狙う女衒の塩崎にそそのかされて、要らん策略を巡らせたことで全てが壊れてゆく。
ツルに売り飛ばされたアイリーンを奪還するために図らずも塩崎を殺した岩男は、共犯者となったアイリーンとその高揚感の中で遂に結ばれるが、もともと女を口説くことも出来ない気弱な中年男。
時がたつに連れて殺人の記憶は彼の心にのしかかり、塩崎の仲間たちの脅迫めいた追及もあって、遂にはぶっ壊れてしまう。
彼の場合、不安と恐怖のはけ口は死の対照としてのセックスに向かい、アイリーンだけでなく、愛子やツルが見合いをさせようとしていた“理想の嫁”候補の琴美にまで誰彼かまわず手を出し、せっかく作り上げようとしていた幸せを自ら崩してしまうのだ。


実の母に障子の穴から自慰やセックスを覗かれてしまうプライバシーゼロの住環境、そんな家で子離れ出来ない親に親離れ出来ない子、根拠のない思い込みからくる人種差別に昔ながらの女性蔑視、有ること無いことゴシップがたちまち広まるコミュニティ、家族になろうとする相手の言葉すら学ぼうとしない傲慢さ、全ての要因がコミュニケーションを阻み「幸せになりたい」というごく単純な目標を遠ざける。
言わば日本の田舎の不条理で嫌な部分が全て顕在化する様な物語で、この居心地の悪さはニューシネマ系ホラーで描かれるアメリカ南部に匹敵する。

映画は現在設定だし、全く違和感ないのだが、実はビックコミックスピリッツ誌に本作の原作の連載が始まったのは四半世紀近く昔の1995年。
バブル期の80年代から90年代にかけて、「金はあるけど嫁は来ない」農村部の日本人男性がフィリピンに行って見合いをし、国際結婚するのがある種のブームとなった。
お金のために嫁ぐ女性は、日本に出稼ぎに来る女性と合わせて「ジャパゆきさん」と呼ばれ、映画やドラマでもモチーフになったりしたが、当然うまくいかないケースも多発し、金にモノを言わせた人身売買ではないかと批判されて社会問題となったのはよく覚えている。
もちろん幸せになった人もたくさんいたのだろうが、言葉も通じず文化も違う、自分よりもずっと年上の男性と家庭を持つことがイージーな訳がない。
新井英樹はそんな社会情勢に影響を受けて、当時の日本社会の問題点を赤裸々に描き出した訳だが、原作に比較的忠実に映像化された本作が、23年経った今も一定の現在性を保ち続けているのは、それだけの間社会が停滞しているということか。

キャスト陣はみな素晴らしいが、特に歪んだ愛に突き動かされるツル役の木野花の怪演が怖い。
普段は映画やドラマで気立てのいいおばちゃん役で目にすることが多い人だけに、そのギャップに圧倒される。

しかしアイリーンを執拗にいたぶる彼女自身も、かつて嫁いだ宍戸家で“子を産む機械”としての役割を果たせず、不条理な圧力にさらされて、その結果として一粒種の岩男を盲目的に溺愛するようになってしまったのが切ない。

映画のツルほど極端な人は珍しいだろうが、ああいうメンタルの人はまだまだ実際に沢山いそうだ。
どんどん自分の中の小さな世界に入り込み、コミュニケーションを拒否する彼女が、最終的に“声”を失うのは非常に象徴的。

古谷実原作の「ヒメアノ~ル」に続いて、漫画原作の不条理劇を見事なクオリティで映像化した吉田惠輔の演出は、土着的でねちっこく、まるでエキセントリックな平成版の今村昌平の様。
今村昌平の代表作の一つが姥捨の風習のある村を描き、カンヌ映画祭のパルム・ドール(グランプリ)に輝いた「楢山節考」だが、本作でも姥捨が重要な要素になっているのは面白い。
あの映画の村は長男しか結婚を許されず、老いた親は齢70歳になると山へ捨てられる。
村人の関心はもっぱら食べることとセックスに向いていたが、飽食の時代となった現在では食べ物に葛藤は無くなった。
しかしセックスに関しては別で、本作では実の親によって長男であっても「楢山節考」の奴(やっこ)の様に結婚を阻まれるのだ。
本作の村が「楢山節考」の村の現在の姿と考えると、ある意味精神的な続編とも捉えられる。
「楢山節考」の姥捨は子を幸せにするための母の自己犠牲だったが、本作の姥捨は子を不幸にしてしまったことへの自己懲罰だ。
共通するのは、どちらの母も新たな子孫の誕生を予感しながら死を迎えるということである。
本作でツルが体現しているのは、姥捨の風習があった時代から続く、日本の田舎の“原罪”なのかも知れない。

今回はアイリーンと飲みたいフィリピンのビール、「サン・ミゲル ピルセン」をチョイス。
サン・ミゲルは本国で9割という圧倒的なシェアを持つ、フィリピン国産ビールの代表格。
いくつかのタイプがあるのだが、暑い国のビールらしく基本的にはどれもライトな方向性。
典型的なピスルナーのピルセンが、喉越しスッキリで適度なコクもあり、日本人のビール好きには一番しっくりくる味わいだろう。
東南アジアのビール文化の例にもれず、緩くなって来たらビアジョッキにガンガン氷を入れちゃうのが現地流。

ところで、内容には関係ないけど、ラブホのシーンで自動ピストン椅子的な昭和SFチックな謎マシンが出てきたんだけど、アレは実在するのか(笑

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ショートレビュー「ザ・プレデター・・・・・評価額1500円」
2018年09月19日 (水) | 編集 |
80年代的、少年冒険SF。

スピンオフの「AVP」2部作を除いて、「プレデター」「プレデター2」「プレデターズ」と過去に3作が作られている「プレデター」シリーズの第4作。
ただし、プレデターの惑星を舞台とした3作目で起こったことは、地球には知られていない設定で、ロサンゼルスでプレデターと警官たちが戦った2作目の直接の続編となっている。
人類サイドとしても、ブサイクな宇宙人が地球に侵入して人間狩りをしているのは把握していて、それなりに対策を講じている設定だ。
日本での公開初日から、まるで二本の別の映画を観てきたかのように賛否が真逆の感想ツイートが流れてきていたが、なるほどコレは監督のシェーン・ブラックと共同脚本を務める盟友フレッド・デッカー、この二人の作家映画
特に今となっては「あの人は今」的に懐かしい名前となった、デッカーの色が妙に強いのだ。

今までの3作は、どれもより強い敵を求めるプレデターと、軍人や警察や犯罪者といった地球人の戦闘プロフェッショナルのバトルアクション。
それに対して、シリーズの定石は打っているものの、少年がキーパーソンとなり、ジャングルでも大都会でもなく、アメリカのサバーブが舞台となる本作のテイストは、過去のシリーズというよりも思いっきり80年代ジュブナイルSFの香りに満ちているんだな。
それもスピルバーグとかの“A”グレードのやつじゃ無く、笑っちゃうほどのプロットのアバウトさとかも含めて、デッカーが監督してた「ドラキュリアン」とか「クリープス」とか“B”グレードのヤツだ(笑
J・J・エイブラムスを筆頭に、ルーカス/スピルバーグで育った世代が今のハリウッドの主流になったこともあって、彼の「SUPER8/スーパーエイト」など、この時代にオマージュを捧げた作品も増えた。
しかし、後年の作家の作品には多分にノスタルジーとリスペクトが入っているのに対し、ブラックとデッカーは80年代にバリバリ現役だった人たちだ。
本作に描かれる世界は、あの頃を懐かしんで作っているのではなく、ガチに全然進化してないのである。

ギークな天才少年、パパがいない家庭、なぜか街外れに落ちる宇宙船にゲームスタイルのSFガジェット、内臓ドバーの無邪気なスプラッターシーン、これらはどれも80年代のB級SFやホラー映画の定番要素
あの頃のSFのノリが好きなら本作は絶対楽しめるし、逆にズレを感じてしまえばショボすぎてダメと思うだろう。
私は第1作の出演者でもあり、劇中でプレデターに血祭りにあげられた第一号となったブラックのセルフオマージュ的な描写や、人間を殺すだけで食わないんだから「“プレデター”じゃないじゃん」とネーミングそのものにイチャモンつけたりする悪ノリ気味のギャグ部分も含めて結構楽しんだ。
プレデター対策に当たる軍の部隊が、なぜだかやたらと味方を殺したがるのは引っかかったが、ある程度整合性に目を瞑っても、やりたいことをごった煮的にブチ込んでくる猥雑なサービス精神には喝采。
プレデターのペットの宇宙犬が、いい感じに感情移入キャラになって、最後には可愛く思えてくるのも良かった。
お世辞にも洗練されているとは言い難いし、全然今風じゃないので万人向けとも言い難いが、心の内の厨二病を刺激される楽しい娯楽映画だ。
だけど、よくこの脚本でOK出たなと思ったが、プロデュース陣もみんなあの頃のお仲間たちなのね。

これには水みたいな王道のアメリカンビール、「ミラードラフト」をチョイス。
典型的なのど越し重視のライトな味わいだが、週末の夜にB級映画を観ながら飲むのにはちょうどいい。
おつまみは脂っこいピザかフライドチキン。
因みに「プレデター」シリーズでは、あんまり皆んな語ってくれないスティーヴン・ホプキンス監督の2作目が一番好きだな。

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累-かさね-・・・・・評価額1650円
2018年09月17日 (月) | 編集 |
内と外、ホンモノはどっちだ?

いや~コレは面白い!
演技の天才ながら顔に大きな傷を持ち、コンプレックスの塊の累(かさね)と、美貌を誇りながら役者として致命的な病気を抱え、スランプに陥ったニナ。
この二人がキスで12時間だけ顔が入れ替わる不思議な口紅を使い、“相互保管”の関係になる。
顔はニナで中身は累、二人で一人となった彼女は瞬く間にスターダムを駆け上がるのだが、当然ながら当人たちの間には亀裂が生まれてゆく。
芳根京子と土屋太鳳という旬な二人の若手女優が、お互いがお互いを演じるという絶妙な演技のコンビネーションで魅せる。
松浦だるまの同名漫画を、「ONE PIECE FILM GOLD」の黒岩勉が脚色、監督は「シムソンズ」「脳内ポイズンベリー」などを手がけた佐藤祐市。
佐藤監督としても、キャリアベストの仕上がりとなった。

今は亡き伝説的な大女優・淵透世(檀れい)を母に持つ淵累(芳根京子)は天性の演技力を持ちながらも、顔の大きな傷にコンプレックスを感じ、人目を避けて暮らしている。
そんな彼女に母が残したのが口紅一本。
この口紅は不思議な力があり、口紅をつけてキスをすると、相手と顔が12時間だけ入れ替わる。
ある時、累は透世の関係者だったという羽生田(浅野忠信)という男に出会う。
羽生田は売り出し中の女優・丹沢ニナ(土屋太鳳)のマネージメントをしているのだが、彼女はクライン・レビン症候群という一度眠りに落ちると長期間覚醒しないという難病を抱えて、ひどいスランプの状態。
ニナが回復するまでの間、身代わりとして顔を入れ替えて舞台に立つという羽生田の提案を受け入れた累は、オーディションで演出家の烏合(横山裕)を魅了し、見事に「かもめ」の役を勝ち取る。
しかし、累が烏合に恋心を抱いたことで、ニナとの関係が徐々に変化してゆく。
舞台の上演が間近に迫ったある日、ニナを突然の発作が襲い意識を失って昏睡に陥ってしまうのだが・・・


中の人・累と外の人・ニナが顔を入れ替える物語は、ジョン・ウー監督のハリウッドでの出世作「フェイス/オフ」を思わせる。
あの映画ではジョン・トラボルタ演じるFBI捜査官が、テロリストのニコラス・ケイジの顔に整形し、仕掛けられた細菌爆弾のを巡って潜入捜査をするのだが、テロリストは逆にトラボルタの顔に整形し、彼の人生を奪おうとする。
もちろん本作はあんな銃撃戦満載のアクション映画ではないが、“顔”というアイデンティティを一番分かりやすく象徴するものを奪い合うというコンセプトは共通する。
さらに「シンデレラ」的な魔法の終わる12時間のタイムリミットを設けることによって、中味バレのサスペンスが非常にうまく機能している。
口紅がなぜ顔を入れ替えるのかという説明は全くないが、作品世界における唯一の“人智を超えた不可思議なもの”という位置付けで、これはこれで良いと思う。

二人のハイブリッドは舞台の上で開花して行くのだが、彼女らの存在そのものが、虚構が現実を超えるてゆくあらゆるナラティブ芸術・創造のメタファー
作品中でニナと契約し、彼女の顔を借りた累が演じる二本の劇中劇が、本作のストーリーのモチーフでありながら、本作の展開によって新たな意味を与えられる双方向性の構造になっているのが面白い。
彼女が最初に挑むのが、チェーホフの「かもめ」だ。
この戯曲は新しい形式の演劇を生み出そうとする若き劇作家のコスチャと、彼が想いを寄せる女優志望のニーナ、コスチャと確執を抱える母親で大女優のアルカージナ、彼女の愛人の人気作家トリゴーリンらの物語。
女優を夢見てコスチャを裏切る劇中のニーナは、名前を見れば分かる通りニナのモチーフであり、最終幕で全てを失いながら忍耐を重ねて生きてゆく姿は、その後のニナ=累の向かう道を示唆する。
またカモメを撃ってニーナに捧げるコスチャの行動は生贄を求める羽生田の、ニーナとトリゴーリンはニナと烏合の、コスチャとアルカジーナの親子は累と透世の関係に繋がりを見ることができる。

本作の前半部分では累は巻き込まれ型のキャラクターで、「ニナが累の演技力を借りている」状況だったのが、彼女が演じ、喝采を浴びる快感に目覚めると、次第に「累がニナの外見を借りている」構図に変わってゆく。
そして終盤になって彼女が演じることになり、本作のクライマックスとなるのが、オスカー・ワイルドが新約聖書を元に書き下ろした戯曲「サロメ」だ。
ユダヤの王女サロメは、実の兄弟だった前王から妻ヘロディアを略奪したヘロデ王の義理の娘。
彼女は預言者ヨカナーンに一目惚れするのだが、彼は神の言葉を聞くことに夢中で全く相手をしてくれない。
失恋したサロメは、絶対にヨカナーンにキスすることを誓う。
そんな時、ヘロデから宴席で踊れば、望むものを何でも与えるといわれたサロメは、七つのヴェールの踊りを披露し、その褒美としてヨカナーンの首を所望する。
望み通りヨカナーンの生首を手にしたサロメは、彼の唇にキスをし、その様子を見たヘロデは恐れ戦いてサロメを殺させる。
この戯曲に関しては、過去1世紀以上にわたって様々な解釈がなされてきたが、ここでは望みを遂げるために愛するものの命を所望する狂気のサロメに累の欲望と覚悟が、彼女のために犠牲となるヨカナーンにニナが投影されている。
劇中劇のシーンでは、累のイメージとしてヨハナーンの首がニナの首に見えているという描写もあり、よく知られた戯曲とのシナジー効果によって、物語のテーマが分かりやすく浮かび上がるという凝った仕掛け。
引用される二つの戯曲の両方で“キス”が重要な要素となっていて、それが現実のキスとリンクしているのも象徴的だ。

累とニナという同じ顔にそれぞれ二つの人格を宿すキャラクターを、お互いに演じ分けた芳根京子と土屋太鳳の役作りの仕上がりは圧巻の説得力。
このコンセプトは役者に互角の実力がないと成立しないが、二人とも演技賞ものの素晴らしさ。
芳根京子が非常に上手い役者なのはもはや言うまでもないが、今回は彼女と対になることで土屋太鳳という才能がいかに無駄使いされているのかもよく分かった。
これだけの演技の振り幅を持っているのだから、毎年の様に似たような役柄を演じているのはやっぱり勿体ないだろう。
外連味たっぷりの佐藤祐市のテリングのスタイルも、ストーリーとピッタリとマッチ。
いい意味でマンガチックな部分も含めて、邦画離れした華やかさとデカダンスを併せ持つ、秀逸なピカレスクドラマだ。

しかし、芳根京子は頬に大きな傷をつけても、やっぱりかなりキレイなのである。
原作の累はもともと醜い容姿にさらに傷があるという設定だが、映画の累はあれならわざわざ入れ替わらなくても、舞台ならメイクでなんとかなる様な気がしてしまった。
役者さんがキレイ過ぎるのが映画版の欠点と言えば欠点かな。
本作はこれ単体で綺麗に完結しているが、基本的に女優・累の物語のビギニングとしての構造を持つ。
コンプレックスの塊だった彼女が、いつか借り物の外見ではなく、本当の自分自身に向き合うのか、是非続編を期待したい。

今回は累とニナの二人から、白と黒のカクテル「ブラック・ベルベット」をチョイス。
スタウトビールとキンキンに冷やした辛口のシャンパン、もしくはスパークリング・ワインを、1:1の割合で静かにゴブレットに注ぐと、スタウトの黒と明るいシャンパンのグラディエーションに乗った白い泡という綺麗なモノトーンのカクテルが出来上がる。
スタウトのコクとシャンパンの辛口の爽やかさを併せ持ち、その泡は名前の通りベルベットの様にきめ細かく、舌触りを楽しめる。

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ショートレビュー「500ページの夢の束・・・・・評価額1650円」
2018年09月14日 (金) | 編集 |
長寿と繁栄を🖖

これはオタク心を擽られてキュンとくる。
主人公は「スター・トレック」の大ファンで、その知識ではどんなマニアにも負けないウェンディ。
彼女は自閉症スペクトラムを抱え、唯一の肉親である姉一家とも離れて、サンフランシスコのケアハウスで暮らしている。
ある時、「スター・トレック」の50周年記念脚本コンテストが開かれることを知ったウェンディは、エンタープライズを失い、たった二人で未知の惑星に取り残されたカークとスポックの冒険を描く、427ページに及ぶ大長編を書き上げる。
だが、もう郵送では間に合わないことがわかり、彼女は愛犬ピートとともにロサンゼルスのパラマウント・ピクチャーズへ直接届けることを決意するのだ。

自閉症スペクトラムには、日々のルーティンを変えることを嫌うという症状がある。
毎日のスケジュールから着るものまで、厳格にルールを決めて生活しているウェンディにとって、ルーティンを全て無視して400マイル先のロサンゼルスを目指す旅は、まさに人生を変える大冒険
そしてその旅路は、「スター・トレック」の劇中で宇宙艦隊本部があるサンフランシスコから、実際に作品が作られている場所への、虚構から現実への旅でもある。
普段の生活では決して超えることのない大通りを渡り、なんとか長距離バスに乗ったものの、犬を連れていることがバレてど田舎の街道に放り出されてしまう。
さらに心無い人にお金を盗まれ、わずかに残ったコインもぼられそうになったり、図らずもウェンディは自分の描いた脚本と同じように絶体絶命の危機に陥ってしまうのだ。

“感情”という得体のしれないものに手こずるスポックは、自閉症スペクトラムで他者とのコミュニケーションが極めて苦手なウェンディにとって、物語の中のもう一人の自分。
現実と脚本の二重構造によって、ロサンゼルスへの困難な旅が未知の惑星での冒険の、親友カークへの友情が離れて暮らす姉への想いのメタファーとなる。
一方、ウェンディの失踪に気づいたケアハウス側でも大騒ぎになるのだが、トニ・コレット演じるこの施設の責任者が”スコッティ”で、しかも「スタートレック」のことを全く知らないのが面白い。
彼女は彼女で思春期の息子との間に問題を抱えていて、ウェンディの事件がきっかけとなり「スター・トレック」が親子の仲を取り持つサブストーリーもいい感じ。


創作への情熱が困難な現実を変えて行くという点で、本作は幼少期に誘拐され25年間外の世界を知らずに育った青年を描いた「ブリグズビー・ベア」に通じるものがある。
あの映画は、心のよりどころだった子供向け番組「ブリグズビー・ベア」という虚構を自ら作ることによって、主人公が過去と未来の現実に向き合い消化する、いわば内的な旅だった。
こちらでは、誰かに本当の自分のことを知ってもらいたい、伝えたいという外向きの気持ちがウェンディのロードムービーを通してストレートに描かれている。
現実のビターさも、そっと創作者としての彼女の背中を押す優しさがあって、寓話としてちょうどいい塩梅。
まあ米国スタイルの脚本はレターサイズ1ページを1分で数えるので、427ページ分だと7時間越えの超大作になっちゃうから、どんなに出来が良くても実際に作るのは難しいわな。


彼女を保護しようとするお巡りさんとのグリンゴン語のやりとりとか、とても微笑ましいんだけどこれもアメリカ文化の中の「スター・トレック」の重みあっての描写。

もし日本で作ったら、この話は成立するのだろうか?するとしたら何の作品で?とちょっと考えてしまった。
天才子役から、すっかり演技派のポジションに定着したダコタ・ファニングの繊細な演技が素晴らしく、ピート役の犬ちゃんがとんでもなく可愛くて、いいアクセントになっている。

しかし、これは作品のコンセプト上致し方ないことだと思うのだけど、「ブリグズビー・ベア」の「スター・ウォーズ」オマージュが上手い具合に架空の子供向け番組に吸収されて普遍性を獲得していたのに対し、こちらはモロに「スタート・レック」縛り。

これが劇中の“スコッティ”みたいに、元ネタを知らない人にとっては作品への入りづらさに繋がってる部分はあると思う。

今回は、本家「スター・トレック」でも合わせた、サンフランシスコを代表する地ビール「アンカースチーム」をチョイス。
華やかな香りとコク、適度な苦味をもつ高温醗酵のスチームビール。
ラベルに描かれたアンカー(碇)マークは、港町サンフランシスコの歴史を象徴する。
23世紀にはエンタープライズのクルーも、このビールで一杯やっているかもしれない。

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判決、ふたつの希望・・・・・評価額1700円
2018年09月12日 (水) | 編集 |
なぜ「謝罪」を求めるのか。

二人の男の些細な喧嘩から始まる裁判劇。

きっかけはアパート2階のバルコニーに撒いた水が、下の工事現場の現場監督にかかったトラブルだが「謝れ!」「いやだ!」の繰り返しが暴力沙汰を呼び裁判に。

原告のアパートの住民は右派政党を支持するキリスト教徒のレバノン市民、被告の現場監督はパレスチナ難民。

単純な事件を裁くだけの小さな裁判は、文字通りの水掛け論から、やがて国を二分する大騒動になってゆく。
本作は第90回アカデミー賞の外国語映画部門にレバノンの作品として初めてノミネートを果たし、ベネチア国際映画祭では、被告のパレスチナ難民を演じたカメル・エル・バシャが最優秀男優賞に輝いた。
ジアド・ドゥエイリ監督はベイルートに生まれ、内戦を逃れて映画を学ぶために渡米、タランティーノ作品の撮影部などハリウッドで活動した後に帰国。
四作目の長編監督作品となる本作が、初めての日本公開作品となった。

ベイルートで自動車修理工場を営むキリスト教徒のトニー(アデル・カラム)は、間もなく臨月を迎える妻のシリーン(リタ・ハーエク)と職場近くのアパートに暮らしている。
ある日、バルコニーの植物に水を撒いていると、その排水が壊れた樋から道路で工事をしていたパレスチナ難民の現場監督のヤーセル(カメル・エル・バシャ)に降りかかり、口論となる。
ヤーセルから「クズ野郎!」と罵られたトニーは、工事会社に謝罪を求めて抗議。
住人とのトラブルを恐れる上司にとりなされ、ヤーセルも一度は謝罪に同意するのだが、パレスチナ難民排斥を主張するキリスト教右派政党「レバノン軍団」を支持するトニーから「シャロンに抹殺されていればな!」と罵声を浴びせられ、こらえ切れずに暴力を振るってしまう。
トニーは「謝罪」を求めてヤーセルを提訴。
裁判では、なぜヤーセルがトニーを殴ったのか、その動機が争点となるのだが、やがて裁判は世間の注目を集め、双方の支援者を巻き込む形で、キリスト教徒とパレスチナ難民を含むスンニ派イスラム教徒の対立へと発展してゆく・・・


イスラエル建国に伴い、1948年に勃発した第一次中東戦争によって発生したパレスチナ難民の数は、おおよそ70万人。
その後のイスラエルの占領と、度重なる戦争によって、自治政府のあるヨルダン川西岸地区、ハマスが支配するガザ地区の他にも、レバノンをはじめとする周辺国に難民が移り住み、自治区外に暮らすパレスチナ人は現在では500万人以上と言われる。
難民キャンプは自治され、事実上の治外法権で、劇中に描かれたようにレバノンの治安機関も原則として手が出せない。
いわば国の中に別の国がある状態ながら、難民は経済的にはレバノン社会に依存しており、不満を募らせるレバノン市民との慢性的な対立構造が形作られている。
ジアド・ドゥエイリ監督は、自分がパレスチナ難民の配管工とトラブルになった体験からこの映画を着想したというが、直接のきっかけはそうだったとしても、この映画全体が内戦の時代に多感な十代を送り、事実上の難民として国外に出ざるを得なかった自らの人生を、色濃く反映させていることは間違いないだろう。

映画の序盤は、パレスチナ人への憎しみを募らせる原告トニーの傲慢さが強調され、より弱い立場の被告に感情移入。
何しろこの人、ヤーセルに水をかけて謝りもしないだけでなく、せっかく彼が取り付けてくれた新品の雨樋までバッキバキに叩き壊してしまうのだ。
そりゃヤーセルでなくても「クズ野郎!」と言いたくなるし、お前が先に謝れと思ってしまう。

しかし、二人の極めてパーソナルな争いは、裁判となったことでレバノン社会の内部分断の象徴となってくる。
レバノン人キリスト教徒、パレスチナ人の多くが属するスンニ派イスラム教徒、双方の支援者による対立が過熱し、遂には大統領までもが仲裁に入る事態に発展しても、二人は戸惑いながらも和解を拒否し、最後まで裁判を戦い抜く。
大統領府に呼び出された後、故障したヤーセルの車をトニーが無言で直す描写がある。
この時点で二人とも内心ではお互いを許しても良いと思っているのだが、それぞれが背負っている歴史とメンツが邪魔をする。

なぜトニーは、ここまで執拗にパレスチナ人を憎むのか。
隠していた彼の過去を知った弁護人は、法廷である映像を見せる。
それは1976年に、トニーの故郷であるダムールで起こった虐殺の記録
レバノン社会では人口の40%を占める多数派キリスト教徒とイスラム教徒、イスラム教徒間でもスンニ派とシーア派の対立があり、さらに影響力を行使しようとするイスラエルやイラン、シリアといった周辺国の思惑も絡み対立構造が非常に複雑でセンシティブ。
70年代には宗教間の衝突から報復の連鎖が起こり、ダムールではパレスチナ人を含むイスラム系民兵によってキリスト教徒の住民が虐殺され、当時6歳のトニーは虐殺の数少ない生き残りだったのだ。

レバノン・フランス合作作品である本作の仏語タイトルは「L'insulte(侮辱)」
「中東こそ“侮辱"という言葉の故郷です」とトニーの弁護士は言う。
対立する人種・宗教が拮抗するこの国では、立場はある日突然変わる。
“侮辱"されたからと、昨日平和な暮らしを送っていた市民が今日には命からがら難民となり、今日笑いあっていた隣人が明日には自分の命を奪いにくる。
見えてくるのは、不安定な中東情勢に翻弄され、長年にわたり内戦が続いた多民族国家レバノンの悲しい歴史だ。
トニーにはパレスチナ難民を憎む理由があるが、一方でイスラエルの軍人・政治家としてパレスチナ抑圧を進めたシャロンを引き合いに出して罵声を浴びせるのは、ユダヤ人に「ヒトラーに抹殺されてればな!」と言うのと同じくらいの侮辱行為。

観客はスクリーンを通して裁判を傍聴しているうちに、双方の背負っているもの、何が彼らにとっての“侮辱"なのかを知り、自分だったらこの危険で難しい裁判をどうジャッジするかを考える。

実際に映画が導き出す判決は、日本の常識からはちょっと違ったもの。

これはあくまでもフィクションのドラマだが、微妙な均衡のもとに成り立っているレバノン社会では、言葉の暴力もまた物理的暴力と同じくらい危険なもので、見過ごすことは出来ないということだろう。
血で血を洗う内戦状態を脱してから、まだたったの四半世紀。
不安定な安保状況は今も続く。
ちょっとした火種も大きな悲劇に繋がりかねない特殊性故の結論ではあるものの、多様性の社会に必要なのは他者への尊重とリスペクトで、基準の線引きが難しいが何よりも他人を侮辱しないことというのは、基本的には世界のどこでも当てはまる得る普遍的な教訓だ。

感情に突き動かされ、理念に凝り固まった男たちに対し、女たちが総じて柔軟なのが印象深い。
とことんまで謝罪にこだわるトニーを諌める妻シリーン、難民の権利を守るためにヤーセルの弁護を買って出るナディーンは、それぞれのペアとなる男性との対比で、より理知的なキャラクターが強調されている。
レバノン市民、パレスチナ難民、男と女、色々な立場で考えたくなる知的な秀作だ。

中東にあってキリスト教徒の多いレバノンは、古代からのワインどころ。
今回は1857年創立の現存するレバノン最古のワイナリー、シャトー・クサラから「ブラン・ド・ロブセルヴァトワール」をチョイス。
フルーティで辛口、クセのないニュートラルな一本。
ロブセルヴァトワールとは仏語で「天文台」の意味。
天空に広がる星空を見上げながらワインを共に飲めば、地上のちっぽけな争いなどどうでもよくなってくる。

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