酒を呑んで映画を観る時間が一番幸せ・・・と思うので、酒と映画をテーマに日記を書いていきます。 映画の評価額は幾らまでなら納得して出せるかで、レイトショー価格1200円から+-が基準で、1800円が満点です。
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■TITLE INDEX
タイトルインディックスを作りました。こちらからご利用ください。
パラノーマル・アクティビティ・・・・・評価額1450円
2010年02月05日 (金) | 編集 |
「パラノーマル・アクティビティ」とは、何ともストレートなタイトル。
ある家で起こった心霊現象を記録した衝撃映像、という触れ込みのフェイクドキュメンタリー調ホラー映画だが、その内容よりも、ど素人の監督が僅か1万5千ドルという冗談の様なローバジェットで作り、結果的に北米だけで1億ドルを超える興行収入を上げた事の方が話題になった。
映画は典型的なハイリスク・ハイリターン産業で、夜逃げしたり破産したりという事が珍しくない業界なのだけど、こういう宝くじ並みの事例が実際にあるから、作りたがる人が後を絶たないんだろうな・・・・

ディトレーダーのミカ(ミカ・スロート)は、毎夜彼の家で起こる怪現象の正体を突き止めようと、最新のビデオをカメラを購入する。
恋人のケイティ(ケイティ・フェザーストーン)は霊媒体質で、子供のころから奇妙な音がしたり、物が勝手に動いたりという現象に悩まされてきたという。
ミカは、二人の寝室にカメラを設置し、寝ている間に何が起こっているのかを記録しようとするのだが・・・


「スピルバーグがリメイクを諦めた」って宣伝してるけど・・・当たり前だ(笑
これは正に一発芸であって、同じ事を二度やっても面白くもなんとも無いし、かといってドラマの設定としてはありきたり過ぎてリメイクの仕様がない。

パソコンとデジタル映像技術の普及によって、映画というものの概念が大きく変わった二十一世紀ならではの作品だ。
今は誰にでも劇場用映画を作ることが出来るし、その出来栄えとちょっとした運によって、メジャー大作以上の注目を集めることも出来る時代である。
もちろん古い時代にも8ミリフィルムがあったし、80年代以降はベータームービーや8ミリビデオという安価なアマチュアのための映像表現ツールは存在した。
だが、それらは所謂プロツールとは作れる映像のクオリティに歴然とした差が存在し、家庭用の8ミリビデオで作った映画を映画館の巨大スクリーンにかけようとは誰も思わなかった。
自主映画とメジャー映画は別の物で、いくら自主映画に素晴らしい作品があったとしても、それが一般の映画館で全国公開される事などあり得ない事だったのだ。

ところが90年代以降のデジタル化の波は、こうしたプロアマの垣根を機材面からも取り払ってしまった。
その結果、様々な人たちが映画を作り始めた事が、本作や「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」に代表されるフェイクドキュメンタリーとか、モキュメンタリーとか言われるジャンルの流行を齎したといえるだろう。
きちんとした物語を構成する技術や、美しく芸術的な映像を作る技術が無くても、アイディアと設定だけで勝負できるこの種の作品は、おそらくアマチュアリズムが最も力を発揮するフィールドの一つだ。
まあ中にはその事を逆手にとり、アマ的な設定の中にプロフェッショナルなストーリーテリングの技術を詰め込んだ「クローバーフィールド」の様な作品も生まれてきているが、本作などは正に設定と状況のリアリティだけで見せ切っていると言って良い。

この映画の作者、オーレン・ペリの様な人物にとって、たぶん古い時代の自主映画作家たちとは、映画を作るという事の意味自体かなり異なっているのだろう。
過去の多くの自主映画作家は、多かれ少なかれ自己の内面の発露として、映画という手段を選択したと思うが、この作品は高価なビデオカメラで何か面白い物を作ってみようというぐらいのノリで、色々と案を練って工夫した結果なのではないか。
ここにあるのは、怖がらせるという目的だけにストレートに特化した作品であり、そしてそれがちゃんと結果に繋がっているから面白い。
ホラー映画を研究し、何が視覚的に状況的に恐怖を呼び起こすかを突き詰めた結果、その状況のみを描写した異色の作品が出来上がったのだ。
まあ私が怖がりなのもあるけど、はっきり言ってコワイ
只のホームビデオなのに、先が見えなくて目が離せない。
主演と言って良いのかわからないが、映画の中で彼ら自身を演じているミカとケイティも、素人っぽさが良い方向に効いている。
ケイティなど、カワイイけどちょっと太目だったりするあたり非常にリアルに感じられ、もしもハリウッドがちゃんとした女優を使って作ったなら、この生っぽさは出なかっただろう。
チープな映像が臨場感を高め、まるで知り合いの家で起こった出来事の様に、スクリーンとの距離感が近く感じられてくるから大したものだ。
異常な状況への恐怖以外に何も無い映画ではあるが、元々観に行くほうもそれ以外は求めてないのだから、これはこれで需要と供給がピッタリとあった、立派な商業映画と言えるだろう。
逆に言えば、映画には物語や精神性が必要で、何らかの「結果」を提示しなければならないと考える人には、全くお勧めできない。

何でもこの映画、最初に映画祭で上映されたバージョンと劇場版ではラストが違うらしい。
映画を観たスピルバーグのアドバイスを受けて、作り直したらしいが、私はラストの20秒ほどの部分は元バージョンには無かったのではないかと想像する。
それまでの、良くも悪くも素人臭くてリアルなトーンに比べると、あの部分だけ妙にハリウッドっぽいからだ。
たぶん、元々は二人が階下に下りて、凄い叫び声が聞こえた所までだったんじゃないかと思う。
それだと不気味ではあるがオチた感が無いので、あれを加えたのだと想像しているのだが、もし元バージョンを観た人がいたら、是非違いを教えて欲しい。

オーレン・ペリの次回作は、「Area51」なのだそうな・・・うわぁキケンな香り(笑
ちなみに本作の続編「Paranormal Activity 2」もすでにアナウンスされていて、ホラーシーズンのハロウィーンにあわせて、今年の10月22日に全米公開が予定されている。
オーレン・ペリがどう関わるのかを含めて、スタッフ・キャストは未発表だが、まあ作ろうと思えばあっという間に作れるだろうから、問題は無いのだろう。
「ブレア・ウィッチ2」の二の舞にならなければ良いが。

今回は、夜寝るのが怖くなったので、ベッドタイムカクテル「ナイトキャップ」をチョイス。
ナイトキャップとは所謂寝酒の事で、これはそのものズバリの名を持つカクテルだ。
ブランデーとオレンジキュラソー、アニゼット、を2:1:1の割合で、これに卵黄を一つ落とし、シェイクして完成。
変な物音が聞こえてくる前に、これを飲んでネコを抱きながら寝てしまおう。
でも、この映画で撮影していた様に、自分が寝てるところってちょっと興味がある。
一度カメラを置いて、撮ってみようと思った人は私だけではないはずだ。
ネコが二足歩行してたりして(笑

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今度は愛妻家・・・・・評価額1700円
2010年02月04日 (木) | 編集 |
・゜゜(ノД`)゜゜・ウワァァァァァァァァァァァン!!
予告編を見て、離婚した夫婦の話なのかなあと思っていたら、完全に騙された。
まさか、まさか、こんな切ない話だったなんて!
途中から完全に涙腺が決壊して、号泣してしまった。
観賞時にハンカチとティッシュが必需品な「今度は愛妻家」は、間違いなく「GO」に並ぶ行定勲の最高傑作である。

自堕落な生活を送るカメラマンの俊介(豊川悦司)は、妻のさくら(薬師丸ひろ子)に愛想を尽かされて、一人旅立たれてしまう。
うるさい妻がいなくなって清々すると思ったのもつかの間、いないならいないで人生から何かが抜け落ちたかの様な喪失感に悶々とする日々。
新人モデルの蘭子(水川あさみ)の誘惑にも心が動かず、蘭子はいつの間にかアシスタントの誠(濱田岳)と懇ろな仲に。
腑抜けの様な生活を送る俊介の前に、ひょっこりと帰ってきたさくらが、離婚する前に写真を撮って欲しいと頼むのだが・・・


脚本が素晴らしく良く出来ている。
物語は殆ど主人公である俊介の家の居間で展開し、メインの登場人物は僅かに5人。
なんだか演劇みたいな構成の作品だなあと思っていたら、原作は中谷まゆみによる舞台劇で、「スカイ・クロラ」伊藤ちひろが映画用の脚本にリライトしている。
なるほど、これは原作者と脚本家が女性で、監督が男性だからこそ描けた作品という気がする。
本作の場合、主人公は夫である俊介で、物語も彼の目線で語られるのだが、大人の男と言うよりもまるでワガママな子供の様な俊介の造形は、女性がじっくりと男性を観察し、男性の中の色々なキャラクターを上手くカリカチュア化する事で作りあげた様に思える。
恐らく男性が書いたら、このキャラクターは率直に言ってかなり恥ずかしいはずで、ここまで素直に描きこめたか疑問だ。
そして、女性による男性への冷静な視線と願望が織り交ざったキャラクターを、男性である行定監督がリアルに演出し、高い演技力を持つ豊川悦司が演じることで、なんとも魅力的な主人公のキャラクターが出来上がった。

物語の前半は、このトヨエツ演じる俊介に、若いアシスタントの誠と新人モデルの蘭子、そして正体不明のゲイバーの経営者、文太といった登場人物たちが絡み、忘れた頃にひょこひょこ帰ってくるさくらとの絶妙の掛け合いもあり、コメディタッチに展開する。
だが、この作品の真の凄さが表れるのは、帰宅したさくらが俊介に離婚を宣言し、最後に自分の写真を撮って欲しいという辺りから。
実は写真のエピソードを境にして、物語は全く予想外の方向に劇的に展開してゆき、前半の全てのエピソードは後半の伏線という二重構造となっているのがわかって来る。
私はこの作品を観ていて、妻の家族に対する壮絶なまでの愛を描いた、ファンタジー映画の秀作、「いま、会いにゆきます」を思い出した。
もちろん内容は全く異なるのだけど、あの作品も綿密に作られた物語のロジックが秀逸で、後半が前半の種明かしになるという構造を持ち、意味深なタイトルが最後の最後に効いてくるあたりは少し似ている。

非常に凝った構造を持つ物語に対する、行定監督の演出もとても細やかで丁寧だ。
前半部分には、物語上だけでなく、演出的にも後半にかかる様々な仕掛けが施されており、それが観客に微妙な違和感を残してゆくのだ。
例えば、俊介が街で誘う井川遥演じるゆりのちょっとしたセリフや表情の演出。
後から考えれば辻褄が合う様に、全てのシーンの整合性が考えられているのである。

そして何よりも、妻のさくらを演じる薬師丸ひろ子を、何とキュートに撮っている事か。
60年代生まれの私の世代にとって、彼女は青春ど真ん中のスーパーアイドルである。
たぶん68年生まれの監督にとってもそれは同じ事で、彼女を撮る視線はまるで憧れの女性を愛でるかの様に、優しさと尊敬がにじみ出ている。
だからこそ、近年演じる事が多くなっていた母親役と違って、この映画の子供のいない「妻」役の薬師丸ひろ子は、正に80年代が戻ってきたかと思うくらい可愛い。
俊介じゃなくても思わず惚れちまいそうだ

彼ら二人以外の登場人物もいい。
誠役の濱田岳と文太役の石橋蓮司は、それぞれ事情を知りつつも、俊介にどう接して良いのかわからない戸惑いと葛藤を巧みに演じていた。
文太がゲイであるという設定は、いかにも演劇的な物で、映画版ではそれほど必然性があるとは思わなかったが、彼の本当の立場が明かされてからはグイグイと感情移入させられた。
唯一、蘭子のキャラクターが、若干全体のトーンから浮いているのが少し気になるが、これは他の登場人物が全て事情を知っていて、彼女だけが一家への乱入者という立場があるので、ある程度致し方ないと思う。
正直、私は水川あさみという役者さんにあまり魅力を感じた事がないのだが、今回初めて「良いかも?」と思える瞬間が幾つもあったのだから、むしろ大したものと言うべきだろう。
全体に役者の演技で見せる部分の多いこの作品、行定監督の特出が最大限生きていると思う。

「今度は愛妻家」というタイトルには、観る人ごとに様々な意味を見出すことが出来るだろう。
これは夫婦の愛を描いた切ないラブストーリーであり、同時に一つの家族の形を描いた暖かいファンタジーでもある。
結婚している人たちにはもちろん、長く付き合っているパートナーがいる人にも、是非ともカップルで観て欲しい作品だ。
観終わった時、隣にいる人の事を、たまらなく愛しく感じるはず。
もちろん、私の様なお一人様が観ても十分泣ける。
物語の妙と、素晴らしい演技を楽しむことの出来る、邦画らしい観応えのある快作である。

今回は俊介とさくらの思い出の地、沖縄の泡盛「請福」から、クースー(古酒)を作るために甕入りをチョイス。
泡盛は3年以上寝かせると、クースーと言われる様になり、時を経るほどにまるで長年連れ添った夫婦の様にマイルドに深みを持ってゆく。
戦争で殆どのクースーが割れてしまったそうだが、それ以前には百年物も珍しくなかったという。
私は以前石垣で50年物のクースーを飲ませてもらった事があるが、それは高級ウィスキーも驚くほど芳醇でコクのある酒に変貌していた。
そこまで熟成させた物は、なかなか手に入れる事は難しいが、泡盛は仕次ぎという方法で、家庭でも延々熟成させる事が出来る。
仕次ぎとは、例えば10年物の酒をある程度飲んで甕の中が減ったら、その分今度は8年物を注ぎ足し、8年ものには5年物をという風に、延々と継ぎ足してゆくことである。
こうする事で、50年でも100年でも持つというワケだ。
新婚旅行で泡盛の甕を一つ買い、沖縄旅行に行くたびに酒を買って、50年後の金婚式に振舞うなんてどうだろうか。

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Dr.パルナサスの鏡・・・・・評価額1500円
2010年01月30日 (土) | 編集 |
世界一山あり谷ありな映画人生を歩む、孤高の映画作家テリー・ギリアム
スタジオとケンカするぐらいは序の口で、「ドン・キホーテを殺した男」では度重なる様々な不幸の波状攻撃を受け、ついに制作を中止せざるを得なくなった顛末は、本編が存在しない最も有名なメイキングである「ロスト・イン・ラ・マンチャ」に詳しい。
今回の「Dr.パルナサスの鏡」では、何とドラマの中核を担う役を演じていたヒース・レジャーが、撮影中に急死するという悲劇に見舞われてしまう。
現実世界と変幻自在の幻想世界が入り混じる本作、不幸中の幸いにも現実世界のシーンは撮り終えていた事から、幻想世界のレジャーの役を生前レジャーと親交のあったジョニー・デップ、ジュード・ロウ、コリン・ファレルの三人が入れ替わって演じるという起死回生の裏ワザ駆使して、何とか完成に漕ぎ着けた。

現代のロンドン。
場末のパブの前で、今日もパルナサス博士率いる移動劇場の幕が開く。
一座は、もうすぐ16歳になる博士の娘ヴァレンティナ(リリー・コール)と、彼女に思いを寄せる若者アントン(アンドリュー・ガーフィールド)、小人のパーシー(ヴァーン・トロイヤー)の四人構成。
観客をステージに置かれた「鏡」の中に誘って、不思議な体験をさせるというのだが、なかなか興味を持ってもらえず、いつも閑古鳥が鳴いている。
ある晩彼らは、橋の下で首を吊って死に掛けていたトニー(ヒース・レジャー)という男を助ける。
記憶を失っているというトニーは、すぐにヴァレンティナと親しくなり、色々なアイディアを出して一座の興行を盛り上げる。
だが、トニーには人に言えない秘密があって・・・


明確に、観客を選ぶ作品だと思う。
ここしばらく“らしさ”を失った作品が多かったが、本作は良くも悪くもギリアム節が全開だ。
パルナサスの一座の唯一最大のウリは、劇中で“イマジナリウム”と呼ばれるステージに置かれた不思議な「鏡」で、これは一見すると単なるハリボテなのだが、実はその鏡の中は入った人間の心が具現化する異世界につながっている。
初期の「バンデッドQ」「バロン」を思わせる不思議世界の描写は、時間的にはそれほど長い物ではないが、ギリアムらしいシュールな造型に溢れており、観客を映画世界に誘うトリップ感はたっぷりだ。

この鏡というアイコンを使って語られるのは、ギリアムの考える「物語論」と言って良いだろう。
遠い昔、世界を存在させるために、「永遠の物語」を紡いでいたパルナサスは、Mr.ニックという悪魔に不死の存在にしてもらう。
やがて、ある女性に恋をした博士は、自らの若さを復活させるために、ニックとある契約を結ぶのだが、奇妙奇天烈な鏡はこの契約の産物で、不条理な鏡の世界に人間を誘い込み理想と欲望のどちらかを選択させる事で、悪魔と勝負を続けているのだ。
契約の期限は刻々と迫るが、博士はそのことを誰にも話せずに、絶望の淵に追い込まれつつある。
元々不明瞭な映画の輪郭は、パルナサスの葛藤と共に崩壊し、それが現実なのか、鏡の作り出す幻想なのか、そもそもどこまでがパルナサスの物語なのか、渾然一体に溶け合う様な作りとなっており、はっきりとしたコアは存在しない。

多分にレジャーの死による細部の変更が影響しているとは思うが、登場人物の位置づけもまたあやふやだ。
一見主役に見える謎の男トニーは、何時しか一座の中で客を鏡の世界へ誘う案内人の様な役割を演じる事になる。
鏡の中はその人物のイマジネーションを反映してるので、トニーの容貌も客の欲望によって、ジョニー・デップになったりジュード・ロウになったりと変化するという訳だ。
だが実際のところ、この話の主役はトニーではない。
この映画は、タイトルロールであるクリストファー・プラマー演じるパルナサス博士の語る、制御不能の物語に閉じ込められた鏡の世界であり、トニーもまた物語のモチーフに過ぎないのだ。

「Dr.パルサナスの鏡」とは、おそらく創造の悪魔と契約してしまい、どんなに不幸が襲い掛かろうとも、永遠に映画を作り続けなければならない、テリー・ギリアム自身の映画世界を描いた作品で、ボロボロになっても物語を語り続ける不死者パルナサスとは、要するにギリアム自身のメタファーだろう。
映画作家はスクリーンという自らの想像力の鏡に人々を誘い、そこで繰り広げられる物語に観客自身を投影させていると考えると、この作品自体が映画という物語る手段のカリカチュアとも思える。
映画の中の物語が境界を失って溶け合ってゆく様に、スクリーンの向こうとこちらもまた、作家と観客のイマジネーションによって融合してゆくのである。

この語り部と受け手の無限ループによって、ギリアムにとっての物語論はどうやら永続性に帰結する。
70年代末頃だっただろうか、何かの本で「物語は完結してはならない」と語っていた栗本薫は、実際本来100巻で完結予定だった「グイン・サーガ」を予定を遥に超えて書き続け、結局著者の死に至るまで完結しなかった。
また物語論的なファンタジーを多く残したミヒャエル・エンデが、友人で翻訳者の田村都志夫に自らの人生や作品について語った談話集「ものがたりの余白 エンデが最後に話したこと」のあとがきで、田村氏は「エンデと話をするということは、あたかもミヒャエル・エンデという庭をあてもなく歩く様なものだった」と記している。
私はパルナサスが自らの物語の中で、迷い葛藤する姿に、この一文を思い出した。
スクリーンというギリアムの鏡の中で、ヒース・レジャーもまた永遠の物語の一部になったのかも知れない。

今回は、幻のギリアム映画に引っ掛けて「ドン・キホーテ」をチョイス。
ギネス・ビールとテキーラを30mlずつ、順にショットグラスへそそぐ。
本来は食前酒だが、夢うつつのような映画から目を覚ますにはこの超辛口がちょうどいい。

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こちらはバートン流の物語論


サロゲート・・・・・1350円
2010年01月27日 (水) | 編集 |
久しぶりのブルース・ウィリス主演作「サロゲート」は、自分の分身の様な身代わりロボットが仕事を含む日常生活をこなし、人間は自宅からそれらを遠隔でオペレートする未来世界を描いたSFサスペンス。
要するに、例の大ヒット映画の元ネタでもあるインターネット上の“アバター”が実体化して社会活動を代行し、人類全体が総引きこもり状態になってしまったような世界である。
「ターミネーター3」のジョナサン・モストウ監督作品だが、所々にそれっぽい描写があるのが可笑しい。
ディテールの作り込みが甘く、アイディアを生かし切れていないのがやや物足りないが、B級エンタメとしてそこそこ楽しめる一本だ。

天才科学者のキャンター博士(ジェイムス・クロムウェル)によって、人生の代行ロボット“サロゲート”が開発されてから14年。
人口の98%がサロゲートを使用し、街を歩いているのはロボットだけで、人々はその殆どが自宅からサロゲートをオペレートする事で暮らしている。
殺人も、疫病も無く、戦争ですら人が死なない世界。
ところが、何者かによってサロゲートが破壊され、オペレートしていた人間までもが死亡するという事件が起こる。
トム・グリアー刑事(ブルース・ウィリス)は、殺された人間がキャンター博士の息子で、たまたま博士のサロゲートをレンタルしていた事を突き止める・・・


人類全体が引きこもり化し、自分そっくりの代行ロボットが社会生活を担うって・・・どこかで聞いたような話だと思っていたが、この映画の世界観って諸星大二郎の短編漫画「夢見る機械」そのものじゃん!
本作の原作はもちろん諸星大二郎ではなくて、ロバート・ヴェディティのグラフィックノベルなのだが、いやはやここまで似ているというのは驚きである。
まあ「夢見る機械」は知る人ぞ知るアングラな漫画なので、パクッた訳ではないだろうが、36年も前に描かれた漫画にようやく時代が追いついたと思うべきか。
ちなみにこの漫画は、過去にフジテレビの「世にも奇妙な物語」枠で一度だけ短編ドラマ化されている。

もっとも、ロボットしかいない社会という世界観は共通するものの、諸星漫画のロボットは人間の記憶や性格を移植された自立型で、引きこもった本人は「マトリックス」に出て来る様な機械で、「永遠に続く理想の夢」を見ているという非常にSFチックな設定。
対してこちらは、21世紀の現在においては必ずしも絵空事とは言えない、人間が遠隔でオペレートし、ロボットの見る物、感じるものをヴァーチャルで体験するというリアルな設定となっている。
正にネットのアバターの進化系の様な設定には、それなりに説得力がある。
理想の自分になれるから、頭の薄いブルース・ウィリスのサロゲートは髪の毛フサフサだったり、チビでデブのオヤジが金髪美女になっていたりするのも、いかにもありそうだと思わされる。
ネット依存症があるのだから、サロゲート依存症もあって当然でしょ、という事なのだろう。
米軍がロボット兵士に切り替わっていたりするのも、無人兵器がどんどん実用化されている現実を考えるとリアルだ。

ただし、サロゲートを使う事で、犯罪からも病気からも逃れられる理想社会が実現しているというのはかなり疑問。
一日中あんな椅子に座りっぱなしで体を全く動かさないのだから、健康には思いっきり悪そうだし、殺人事件だって別に路上強盗や通り魔だけとは限らないだろう。
人々がサロゲートのオペレートに夢中になってるのだから、泥棒は入り放題だし、他人名義の携帯電話が犯罪に使われるのと同じように、未登録やハッキングされたサロゲートを使った犯罪が横行するんじゃなかろうか?
それに発明されてからたった14年で、98%の人がサロゲートを使ってる設定になってたけど、いくらなんでも浸透速度早すぎ。
どんだけ安いんだ、サロゲート。

仮にこのあたりは映画的なウソと考えて突っ込まないとしても、サロゲートがそこまで人々を夢中にさせるほどの力があるように見えてこないのはちょっと問題。
現在でも、社会的なストレスやコンプレックスから、ネット依存症や引きこもりになってしまう人がかなりの数いる訳で、本作の主人公のグリアー刑事夫妻の場合は、どうやら愛する息子の事故死という現実からの逃避が切欠だった様だ。
ただ、ネット依存症と違って、サロゲートではそれほど引きこもり効果は強くないように思えてしまう。
本作と似た設定の映画に、邦画の「ヒノキオ」があるが、あの映画では心と体に傷を負って引きこもりとなってしまった少年が、少しずつ外の世界へとでて行くための体験ツールとしてロボットが位置づけられていた。
こちらでは逆にサロゲートが引きこもりのための手段になっている訳だが、「ヒノキオ」よりもはるかにハイテクなロボットに、自分の五感をシンクロさせる事が出来るのだから、見た目が違うだけで、実質本人が外へ出ているのと感覚的には変わらないのではないのか。
ネットと違って、それ自体は世界中の情報にアクセスできたりする訳でもないし、外出する事で起こりえる肉体的リスクが低減される以外には日常生活が大きく変わるとも思えず、それ故にグリアー夫妻の間にあるサロゲートを使うことへの葛藤が、今ひとつピンと来ないのだ。

正直なところ「サロゲート」は、ハリウッド製SF大作と考えると、内容的にもビジュアル的にも少々物足りない。
マイケル・フェリスとジョン・ブランカトーの脚本は、どうも物語を前に進めるのに精一杯で細部が荒っぽく、アイディアを上手く使いこなせていない様に思える。
まあこの二人が担当した、「ターミネーター3&4」も似たようなものだったので、これが彼らの個性なのかもしれないけど・・・、作り方によっては、かなり深く精神性を描ける設定なのに勿体無い。
だが上映時間が89分と今時の映画にしてはかなり短い本作、SF設定の荒さやドラマ的な底の浅さという部分には目を瞑って、B級プログラムピクチャーの類として観れば、スピーディーでテンポ良く、それなりに楽しめる一本である。
事件の捜査の部分は、まるで時間に追い立てられる様にあまりにも簡単に進んでいってしまうので、ミステリとしての見所はそこそこだが、ジョナサン・モストウの職人的な上手さが生きるアクションシークエンスはさすがに切れ味良く、エキサイティングだ。
好意的に観れば「ターミネーター」+「ダイハード」な訳で、なかなかに出来は良い。
サロゲートに完全依存してしまっている人類、という設定に違和感さえ感じなければ、興味深い世界観とスピーディな展開、適度なアクションと見所はバランス良く揃い、物語的にも特に大きな破綻無く、そつなく纏められているので、安心して観ていられる作品だろう。

今回は、ロボットという言葉を生み出した劇作家カレル・チャペックの母国、チェコのビール「ピルスナー ウルケル」をチョイス。
元々ロボットは労働を意味するチェコ語ROBOTAから作られた造語で、機械人間の反乱を描いた戯曲「ロボット」は全てのロボットSFの元祖と言える。
ちなみにこのビールは世界中にあるピルスナービールの元祖。
チェコ、侮りがたしである。

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かいじゅうたちのいるところ・・・・・評価額1500円
2010年01月20日 (水) | 編集 |
モーリス・センダックによって1963年に創造された、あまりにも有名な絵本「かいじゅうたちのいるところ」の初の実写映画化である。
過去にも幾度と無く企画されてきた映画化だが、最終的に本作を作り上げたのは「マルコビッチの穴」などで知られる鬼才スパイク・ジョーンズ
とにかく世界観全てを作りこむ傾向にある最近のファンタジー映画の中にあって、ハンディ風のカメラでロケーションに拘り、CG全盛時代にあえて巨大な着ぐるみによるかいじゅうたちを登場させるなど、ライブ感を重視したかなりの変り種となった。

乱暴物の少年マックス(マックス・レコーズ)は、母親(キャスリン・キーナー)に叱られて家を飛び出し、泊めてあったボートに乗って海に漕ぎ出す。
長い航海の後に、マックスがたどり着いた島には、奇妙で巨大なかいじゅうたちが住んでいた。
ひょんな事から彼らの王様となったマックスは、キャロル(ジェイムズ・ガンドルフィーニ)というかいじゅうが考えている理想の砦の建設に協力する事になる。
だが、砦を建設しても皆との仲が上手く行かないキャロルは、癇癪を起こしてしまう。
怖くなったマックスは、砦の中に自分が隠れる小部屋を作ろうとするのだが、それがさらにキャロルの怒りをかって・・・・


原作の絵本は、10分もあれば読み終わってしまうシンプルな物。
少年マックスが、船で奇妙なかいじゅうたちのいる島へ行き、そこで彼らの王様となる。
しばらく滞在して大いに楽しんだマックスは、いいかげん飽きて里心がついたので、再び船に乗って家に戻ってくる、というだけの話である。
これだけでは精々短編にしかならない(実際過去に一度だけ短編アニメとして映像化されている)ので、映画は基本構成をそのままに、背景設定を詳細化しエピソードを新たに作り上げることで、元の話を大きく膨らませている。

スパイク・ジョーンズと共同脚本のディブ・エッガーズは、先ずマックス少年を母子家庭に育ち、コミュニケーション能力に少々問題を抱えた孤独で攻撃的な少年に設定した。
映画のファーストカットから暴れながら登場するマックスは、ぶっちゃけ自分が世界の王様でないと気がすまず、他人への思いやりに欠けた可愛げのないガキんちょだ。
そんなマックスが些細な事から母親とケンカをして家を飛び出し、たまたま泊めてあったボートに乗ってかいじゅうたちの島に漂着する。
この辺りの流れは下手に作ると限りなくうそ臭くなって興醒めなのだが、後述する作劇上のロジックを何気なく匂わせる事によって、自然に観客がこの奇妙な冒険旅行に入り込めるようになっている。

島にたどり着いたマックスが出会ったのは、ルックスも性格も非常に個性的な七匹のかいじゅうたち
リーダーのキャロルは、皆と一緒に仲良く暮らす事を夢みて沢山の家を作るのだが、一番一緒にいて欲しかったKWという女の子が孤独になれる所を求めて出て行ってしまい、怒ったキャロルは癇癪を起こして皆で作った家を壊してしまう。
他にも毒舌のジュディスと木に穴を開けるのが得意で朴訥なアイラのカップル、キャロルの右腕的存在で鳥の様な姿のダグラス、寡黙なブルに、小柄でヤギの様に気弱なアレクサンダーといったかいじゅうたちが登場する。
彼らの王様になったマックスは、キャロルの夢に協力して巨大な砦を作り始める。
当初は順調に進んでゆく理想郷の建設計画だが、やがて仲間たちは独善的なキャロルと本当は力の無い王様マックスに愛想を尽かし、だんだんと離れていってしまう。

この「砦」は、冒頭の家でのシークエンスで、マックスがベットとシーツ、そして物言わぬぬいぐるみたちを集めて作った「砦」とそのままシンクロする。
母親を砦に誘ったマックスが拒絶されるように、自分の思い通りにならないと癇癪を起こすキャロルもまた、孤独を感じ仲間たちから浮いている。
そう、この「かいじゅうたちのいるところ」は、マックスの心象風景としてのファンタジーワールドであり、キャロルはマックスの合わせ鏡なのだ。
この世界がマックスの内面にあるという事は、映画の終盤で激高したキャロルがダグラスにある事をする描写でより明確に示される。
まあ原作も限りなく夢オチに近く、映画版も原作の構造をそのまま踏襲したとも言えるのだが、スパイク・ジョーンズはマックスがなぜかいじゅうたちのいる島に行ったのかという理由付けを考え、そのロジカルな回答として、家族の中のかいじゅうであるマックスが、原作とは異なり明確な個性を与えられたもう一人の自分と出会うという構造にしたのだろう。
そう考えると、ユニークなかいじゅうたちも、それぞれ人間の持つ様々な感情のメタファーである事がわかる。
現実世界で家族の王様になりたかったマックスは、かいじゅうたちの王様となり、自分そっくりのキャロルと出会うことで、初めて自分自身を知り、他人の心を尊重し思いやる事の大切さを学ぶのである。
この冒険が、マックスの内面世界への旅である事は、物語の前半からイメージとして示唆されているので、観客も子供が一人で嵐の海へ漕ぎ出すという荒唐無稽な設定をすんなり受け入れられるのだ。

よくもまあ原作のテイストをここまで再現した物だと感心させられるかいじゅうたちの造形は、ジム・ヘンソン・クリーチャー・ショップによるもの。
CGではなく実物を作る事によって、様々な物理的制約を受けるからこそのデザインテイストで、嘗ての「ダーク・クリスタル」や、知る人ぞ知る傑作テレビシリーズ「ストーリーテラー」のムードが色濃く残るアニマトロニクスの着ぐるみかいじゅうたちは、なかなかに味わい深い仕上がりだ。
ざっくりとした造形のかいじゅうたちが、複雑で繊細な内面を抱えているというギャップが、本作の隠し味になっているのだが、着ぐるみにCGによる豊かな表情をプラスすることで細やかな演技面をクリア。
アナログ技術とデジタル技術の効果的な結合を見ることが出来る。

「かいじゅうたちのいるところ」は、2010年の現在に観ると、良い意味でアナログ感が新鮮なファンタジー映画の佳作である。
ただ、基本的にマックスの精神世界で展開する話なので、かいじゅうたちのユニークなキャラクター以外に見せ場に乏しいのも確かだ。
ワクワクする物語の展開を楽しむというよりは、その裏に設定された物を深読みして、心の奥で詩的に解釈するような作品であり、正直子供向けとは言い難く、良くも悪くも淡々とした展開は、むしろ嘗て絵本に親しんだ大人客が子供時代のムードに浸るための物だろう。
話で楽しませようと思えば、この膨らませ方なら70分程度に纏めた方が観やすい映画になったはずで、101分まで引き伸ばすなら、脚色にもう一工夫合っても良かったかもしれない。
もしも子供も楽しめる内容で作るなら、個人的には原恵一あたりにアニメ化してもらっても面白いかなあという気がしている。

大人のためのファンタジーの後には、でしゃばらない優しいテイストのビール「キリン・ハートランド」をチョイス。
ビール文化の原点回帰をテーマに、1986年に生まれた少量生産銘柄で、苦味が少なく、スッキリとした柔らかな味わいが特徴だ。
ニューヨーク沖の沈没船から発見された17世紀のビンにヒントを得てデザインされたという、グリーンのボトルが美しく、作り手の大らかな遊び心が感じられる。
目と舌で味わえる、豊かな奥行きのあるビールである。

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