■ お知らせ
※基本的にネタバレありです。ご注意ください。
※当ブログはリンクフリーです。内容の無断転載はお断りいたします。
※ブログ環境の相性によっては、TB・コメントのお返事が出来ない事があります。ご了承ください
※エロ・グロ・出会い系のTB及びコメントは、削除の上直ちにブログ管理会社に通報させていただきます。 また記事と無関係な物や当方が不適切と判断したTB・コメントも削除いたします。
■TITLE INDEX
※タイトルインディックスを作りました。こちらからご利用ください。
■ ツイッターアカウント※基本的にネタバレありです。ご注意ください。
※当ブログはリンクフリーです。内容の無断転載はお断りいたします。
※ブログ環境の相性によっては、TB・コメントのお返事が出来ない事があります。ご了承ください
※エロ・グロ・出会い系のTB及びコメントは、削除の上直ちにブログ管理会社に通報させていただきます。 また記事と無関係な物や当方が不適切と判断したTB・コメントも削除いたします。
■TITLE INDEX
※タイトルインディックスを作りました。こちらからご利用ください。
※noraneko285でつぶやいてます。ブログで書いてない映画の話なども。
※noraneko285ツイッターでつぶやいた全作品をアーカイブしています。
2019年11月03日 (日) | 編集 |
今度こそ、“それ”を倒す。
アメリカの小さな町デリーに27年毎に現れ、子供たちを攫う“それ”こと恐怖のピエロ、ペニーワイズと、彼の存在に気付いた町の落ちこぼれキッズ“ルーザーズ・クラブ”の戦いを描く完結編。
前作 「IT/イット “それ”が見えたら、終わり。」から27年が経ち、すっかり大人になった彼らの元に、ただ一人町に残っていたマイクから連絡が入る。
“それ”が戻ってきた、と。
今なお、子供時代に起因する閉塞と葛藤を抱えている彼らは、運命に呼び寄せられるように、デリーへと集う。
今度こそ、恐怖の源泉の記憶をぬぐい去るために。
監督は前作に引き続きアンディ・ムスキエティが務め、脚本を担当するゲイリー・ドーベルマンを始め、主要スタッフの多くが続投。
ジェシカ・チャステインやジェームズ・マカヴォイら、大人キャストと、前作の子供たちとのマッチングも絶妙。
大人編ならではの、酸いも甘いも嚙み分けたビターなテイストも加わり、ギミック満載のホラーと見応えある人間ドラマがバランスした、再びの快作となった。
※核心部分に触れています。
ルーザーズ・クラブの誓いから27年後。
ホラー作家となったビル(ジェームズ・マカヴォイ/ジェイデン・リバハー)は、自作の映画の撮影中にマイク(イザイア・ムスタファ/チョーズン・ジェイコブス)からの電話を受ける。
27年前に対決し、殺したはずのペニーワイズが戻ってきたというのだ。
マイクの招集に、かつてのルーザーズは続々と懐かしいデリーに集う。
DV夫との関係に悩むべバリー(ジェシカ・チャステイン/ソフィア・リリス)、建築家として成功しているベン(ジェイ・ライアン/ジェレミー・レイ・テイラー)、リスクコンサルタントになったエディ(ジェームズ・ランソン/ジャック・ディラン・グレイザー)、コメディアンのリッチー(ビル・ヘイダー/フィン・ウルフハード)、そしてマイク。
ただ一人、スタンリー(アンディ・ビーン/ワイアット・オレフ)だけが姿を見せず、べバリーが妻に連絡を取ったところ、マイクの電話を受けた後に自殺したことが分かる。
実は、ペニーワイズに拉致された時、“死の光”に晒されたべバリーは、ルーザーズ全員の死の瞬間を見ていた。
運命を変えるには、再びペニーワイズと対決し、今度こそ滅ぼすしかない。
彼らは、対決に備えて、それぞれの過去と向き合い始めるのだが・・・・
素晴らしいクオリティだった子供編「Chapter One」を受けて、「Chapter Two」は大団円を迎える大人編。
1986年に出版されたスティーヴン・キングの原作小説は、大人になった主人公たちを描く1985年の現在を起点に、子供時代の1958年との二つの時代を描く。
現在と過去は平行に語られてゆき、1990年に放送されたTVムービー版でもこの構造は踏襲されていた。
しかし、今回のリメイク版では、時系列を子供編と大人編に分離して描いているのが大きな特徴だ。
時代は一回りして子供編が1989年、大人編を2016年に設定。
ちなみに前作が公開された2017年が、TVムービー版が放送されてから27年後なのは、もちろん狙っているのだろう。
前作の「Chapter One」は単体で上手くまとまっていたが、今回は子供編の物語を踏まえた上で、登場人物の現在がそれぞれの過去との関係性で語られる。
そのため、現在だけでなく過去パートも描く必要があり、尺的には大幅にボリュームアップし、ホラージャンルでは異例の169分という大長編となったが、無駄がないので冗長さは全く感じない。
大人になっても払拭出来ない恐怖の根源を、メンバー全員分丁寧に描いていかなればなければならないので、これは必要な長さなのだ。
子供の頃のルーザーズは、それぞれ“恐怖のイメージ”に囚われていて、それをペニーワイズに付け込まれる。
ビルは弟のジョージを死なせてしまったという贖罪の意識、べバリーは父親からの虐待、ベンは体型からくるコンプレックスに孤独感、エディは超過保護な母親の支配、リッチーはストレートにピエロが苦手で、スタンレーは厳格なユダヤのラビである父親から落ちこぼれの烙印を押された罪悪感、マイクは両親を原因不明の火事で失った記憶。
直接的な力か、心理的な力かの違いはあれど、彼らは自らを押さえつけていた恐怖に立ち向かい、恐怖を利用して子供たちをコントロールしようとするペニーワイズを倒した。
ところが大人になった彼らは、相変わらず子供時代の恐怖を引きずっているのである。
なぜならペニーワイズが生きているのだから、彼らの恐怖も決して消えることはないのだ。
例えばビルは、いくつかのキングの小説の主人公と同じく、作者自身を反映したホラー作家になっていて、恐怖に囚われたまま。
父の虐待から逃れたベバリーはというと、今度は夫のDVに悩まされている。
すっかり肉体改造に成功したベンも、べバリーが彼の書いたポエムの作者をビルと勘違いし、失恋してしまったトラウマから逃れられない。
リッチーは同性愛の衝動を押し殺し、エディは母親そっくりの妻に支配されていて、スタンリーに至っては再びペニーワイズと対決する勇気が持てず、自殺してしまう。
彼らはいまだに恐怖の呪縛から自由になってはおらず、葛藤を心の奥底で燻らせているからこそ、再びデリーに集わねばならないのだ。
土地に蓄積された負の力によって、人々が宿命的に縛り付けられるという、原作小説の実にキング的な面白さは、単体の作品と割り切った前作では失われていたが、本作では二つの時代が有機的に結びつくことで見事に復活している。
二本合わせて5時間以上を費やすのだから、リッチーのエディに対する感情の裏表の意味はあれど、物語的には無くても成立するエイドリアン・メロン(演じるのはまさかのグザビエ・ドラン!)の悲惨なエピソードから始まって、なるべく満遍なくぶち込むという意図は強く感じる。
最初の30分の第一幕でルーザーズの再結集、第二幕ではペニーワイズを滅ぼすためにマイクが調べ上げた、先住民に伝わるチュードの儀式に必要なアイテム探しのために、それぞれが過去と向き合う。
そして最後のおおよそ50分が、ペニーワイズとの因縁の対決という構造。
「七人の侍」から「アベンジャーズ/エンドゲーム」まで、一人ひとりは欠点を抱えた集団が、強大な敵と戦う時の典型的なプロットだが、非常にスマートに纏められている。
面白いのは終盤脚色で結構変えてきてるところで、これはたぶん劇中繰り返される「ラストがひどい」の台詞に引っ掛けてある。
キングの小説は、「面白いけどラストが尻すぼみでスッキリしない」というのはよく言われること。
本作でもビルが自作のラストを酷評され、「人々はハッピーエンドを望むけど、現実にはそうとは限らないだろ?」と反論するシーンがある。
実際、原作小説にはビルの妻のオードラが“死の光”を見て意識を失い、ペニーワイズを倒した後もなかなか回復しないという描写がある。
映画ではその辺の不穏な要素をばっさりカットし、ペニーワイズの倒し方もルーザーズの恐怖の克服に結び付けて、全員にとって人生の一区切りとなるハッピーエンドにしている。
だから劇中で、自転車のシルヴァー号を買い戻すため骨董店を訪れたビルが、スティーヴン・キング自身が演じる店主と出会い、またしても小説のラストにダメ出しされるシーンはメタ的な可笑しさ。
もしかしたら本作のラストは、キング的には「ミスト」と同じく、自分の小説のアイデアよりベターと思えたのかも知れない。
まあ小説には小説の味わいもあるので、原作ファンには異論もあるだろうけど。
ところで、様々なホラー映画へのオマージュ満載の本作、べバリーがトイレに閉じ込められて血まみれになるシーンの「シャイニング」のパロディには笑ったが、何気に誰よりもジョン・カーペンターを全力でリスペクトしているのが可笑しい。
いや私も「こいつは何の冗談だ?」は大好きだし、面白かったんだけどさ(笑
他目立つところでは、1987年のデリーの映画館には「エルム街の悪夢」がかかっているのだが、製作スタジオのニュー・ライン・シネマは今はワーナーの一ブランドだし、神出鬼没のペニーワイズの恐怖演出はどこかフレディっぽい。
また隠れLGBTキャラの大人リッチーのシャツが、「エルム街の悪夢2」のゲイの主人公が着ているシャツと同じ柄だったり、作品としては一番影響を受けていそうだ。
そんな訳で、前回は「ナイトメア・オブ・レッド」をチョイスしたが、今回は「ナイトメア」を。
ドライ・ジン30ml、デュボネ30ml、チェリー・ブランデー15ml、オレンジジュース15mlを氷と共にシェイクし、グラスに注ぎ、マラスキーノチェリーを一つ飾って完成。
デュボネとチェリー・ブランデーの甘みと、オレンジの酸味のバランスがいい。
アルコール度数が高く、飲みすぎると名前の通り悪夢に落ちる。
記事が気に入ったらクリックしてね
アメリカの小さな町デリーに27年毎に現れ、子供たちを攫う“それ”こと恐怖のピエロ、ペニーワイズと、彼の存在に気付いた町の落ちこぼれキッズ“ルーザーズ・クラブ”の戦いを描く完結編。
前作 「IT/イット “それ”が見えたら、終わり。」から27年が経ち、すっかり大人になった彼らの元に、ただ一人町に残っていたマイクから連絡が入る。
“それ”が戻ってきた、と。
今なお、子供時代に起因する閉塞と葛藤を抱えている彼らは、運命に呼び寄せられるように、デリーへと集う。
今度こそ、恐怖の源泉の記憶をぬぐい去るために。
監督は前作に引き続きアンディ・ムスキエティが務め、脚本を担当するゲイリー・ドーベルマンを始め、主要スタッフの多くが続投。
ジェシカ・チャステインやジェームズ・マカヴォイら、大人キャストと、前作の子供たちとのマッチングも絶妙。
大人編ならではの、酸いも甘いも嚙み分けたビターなテイストも加わり、ギミック満載のホラーと見応えある人間ドラマがバランスした、再びの快作となった。
※核心部分に触れています。
ルーザーズ・クラブの誓いから27年後。
ホラー作家となったビル(ジェームズ・マカヴォイ/ジェイデン・リバハー)は、自作の映画の撮影中にマイク(イザイア・ムスタファ/チョーズン・ジェイコブス)からの電話を受ける。
27年前に対決し、殺したはずのペニーワイズが戻ってきたというのだ。
マイクの招集に、かつてのルーザーズは続々と懐かしいデリーに集う。
DV夫との関係に悩むべバリー(ジェシカ・チャステイン/ソフィア・リリス)、建築家として成功しているベン(ジェイ・ライアン/ジェレミー・レイ・テイラー)、リスクコンサルタントになったエディ(ジェームズ・ランソン/ジャック・ディラン・グレイザー)、コメディアンのリッチー(ビル・ヘイダー/フィン・ウルフハード)、そしてマイク。
ただ一人、スタンリー(アンディ・ビーン/ワイアット・オレフ)だけが姿を見せず、べバリーが妻に連絡を取ったところ、マイクの電話を受けた後に自殺したことが分かる。
実は、ペニーワイズに拉致された時、“死の光”に晒されたべバリーは、ルーザーズ全員の死の瞬間を見ていた。
運命を変えるには、再びペニーワイズと対決し、今度こそ滅ぼすしかない。
彼らは、対決に備えて、それぞれの過去と向き合い始めるのだが・・・・
素晴らしいクオリティだった子供編「Chapter One」を受けて、「Chapter Two」は大団円を迎える大人編。
1986年に出版されたスティーヴン・キングの原作小説は、大人になった主人公たちを描く1985年の現在を起点に、子供時代の1958年との二つの時代を描く。
現在と過去は平行に語られてゆき、1990年に放送されたTVムービー版でもこの構造は踏襲されていた。
しかし、今回のリメイク版では、時系列を子供編と大人編に分離して描いているのが大きな特徴だ。
時代は一回りして子供編が1989年、大人編を2016年に設定。
ちなみに前作が公開された2017年が、TVムービー版が放送されてから27年後なのは、もちろん狙っているのだろう。
前作の「Chapter One」は単体で上手くまとまっていたが、今回は子供編の物語を踏まえた上で、登場人物の現在がそれぞれの過去との関係性で語られる。
そのため、現在だけでなく過去パートも描く必要があり、尺的には大幅にボリュームアップし、ホラージャンルでは異例の169分という大長編となったが、無駄がないので冗長さは全く感じない。
大人になっても払拭出来ない恐怖の根源を、メンバー全員分丁寧に描いていかなればなければならないので、これは必要な長さなのだ。
子供の頃のルーザーズは、それぞれ“恐怖のイメージ”に囚われていて、それをペニーワイズに付け込まれる。
ビルは弟のジョージを死なせてしまったという贖罪の意識、べバリーは父親からの虐待、ベンは体型からくるコンプレックスに孤独感、エディは超過保護な母親の支配、リッチーはストレートにピエロが苦手で、スタンレーは厳格なユダヤのラビである父親から落ちこぼれの烙印を押された罪悪感、マイクは両親を原因不明の火事で失った記憶。
直接的な力か、心理的な力かの違いはあれど、彼らは自らを押さえつけていた恐怖に立ち向かい、恐怖を利用して子供たちをコントロールしようとするペニーワイズを倒した。
ところが大人になった彼らは、相変わらず子供時代の恐怖を引きずっているのである。
なぜならペニーワイズが生きているのだから、彼らの恐怖も決して消えることはないのだ。
例えばビルは、いくつかのキングの小説の主人公と同じく、作者自身を反映したホラー作家になっていて、恐怖に囚われたまま。
父の虐待から逃れたベバリーはというと、今度は夫のDVに悩まされている。
すっかり肉体改造に成功したベンも、べバリーが彼の書いたポエムの作者をビルと勘違いし、失恋してしまったトラウマから逃れられない。
リッチーは同性愛の衝動を押し殺し、エディは母親そっくりの妻に支配されていて、スタンリーに至っては再びペニーワイズと対決する勇気が持てず、自殺してしまう。
彼らはいまだに恐怖の呪縛から自由になってはおらず、葛藤を心の奥底で燻らせているからこそ、再びデリーに集わねばならないのだ。
土地に蓄積された負の力によって、人々が宿命的に縛り付けられるという、原作小説の実にキング的な面白さは、単体の作品と割り切った前作では失われていたが、本作では二つの時代が有機的に結びつくことで見事に復活している。
二本合わせて5時間以上を費やすのだから、リッチーのエディに対する感情の裏表の意味はあれど、物語的には無くても成立するエイドリアン・メロン(演じるのはまさかのグザビエ・ドラン!)の悲惨なエピソードから始まって、なるべく満遍なくぶち込むという意図は強く感じる。
最初の30分の第一幕でルーザーズの再結集、第二幕ではペニーワイズを滅ぼすためにマイクが調べ上げた、先住民に伝わるチュードの儀式に必要なアイテム探しのために、それぞれが過去と向き合う。
そして最後のおおよそ50分が、ペニーワイズとの因縁の対決という構造。
「七人の侍」から「アベンジャーズ/エンドゲーム」まで、一人ひとりは欠点を抱えた集団が、強大な敵と戦う時の典型的なプロットだが、非常にスマートに纏められている。
面白いのは終盤脚色で結構変えてきてるところで、これはたぶん劇中繰り返される「ラストがひどい」の台詞に引っ掛けてある。
キングの小説は、「面白いけどラストが尻すぼみでスッキリしない」というのはよく言われること。
本作でもビルが自作のラストを酷評され、「人々はハッピーエンドを望むけど、現実にはそうとは限らないだろ?」と反論するシーンがある。
実際、原作小説にはビルの妻のオードラが“死の光”を見て意識を失い、ペニーワイズを倒した後もなかなか回復しないという描写がある。
映画ではその辺の不穏な要素をばっさりカットし、ペニーワイズの倒し方もルーザーズの恐怖の克服に結び付けて、全員にとって人生の一区切りとなるハッピーエンドにしている。
だから劇中で、自転車のシルヴァー号を買い戻すため骨董店を訪れたビルが、スティーヴン・キング自身が演じる店主と出会い、またしても小説のラストにダメ出しされるシーンはメタ的な可笑しさ。
もしかしたら本作のラストは、キング的には「ミスト」と同じく、自分の小説のアイデアよりベターと思えたのかも知れない。
まあ小説には小説の味わいもあるので、原作ファンには異論もあるだろうけど。
ところで、様々なホラー映画へのオマージュ満載の本作、べバリーがトイレに閉じ込められて血まみれになるシーンの「シャイニング」のパロディには笑ったが、何気に誰よりもジョン・カーペンターを全力でリスペクトしているのが可笑しい。
いや私も「こいつは何の冗談だ?」は大好きだし、面白かったんだけどさ(笑
他目立つところでは、1987年のデリーの映画館には「エルム街の悪夢」がかかっているのだが、製作スタジオのニュー・ライン・シネマは今はワーナーの一ブランドだし、神出鬼没のペニーワイズの恐怖演出はどこかフレディっぽい。
また隠れLGBTキャラの大人リッチーのシャツが、「エルム街の悪夢2」のゲイの主人公が着ているシャツと同じ柄だったり、作品としては一番影響を受けていそうだ。
そんな訳で、前回は「ナイトメア・オブ・レッド」をチョイスしたが、今回は「ナイトメア」を。
ドライ・ジン30ml、デュボネ30ml、チェリー・ブランデー15ml、オレンジジュース15mlを氷と共にシェイクし、グラスに注ぎ、マラスキーノチェリーを一つ飾って完成。
デュボネとチェリー・ブランデーの甘みと、オレンジの酸味のバランスがいい。
アルコール度数が高く、飲みすぎると名前の通り悪夢に落ちる。
記事が気に入ったらクリックしてねスポンサーサイト
2019年10月28日 (月) | 編集 |
田舎残酷物語。
「楽園」ちゅうか、描かれているのはむしろ「地獄」?
とあるY字路で起こった少女誘拐事件を起点に、12年後の現在で杉咲花、綾野剛、佐藤浩市の運命が動き出す。
杉咲花が熱演する湯川紡は、行方不明になった少女と直前まで一緒にいた同級生で、彼女が死んで自分が生き残ったことから罪悪感に苛まれ、12年後の新たな事件により更なる傷を負う。
綾野剛が演じるのは、日本に定住している元難民の青年・中村豪士。
内気で日本語が少し不自由な彼は、やがて紡と関わるようになるが、新たな事件が起こると、周囲から孤立していることで疑われ、大した根拠もなく事件の容疑者となってしまう。
そして、佐藤浩市演じる田中善次郎は、12年前の事件とは直接の関わりはないのだが、現在の豪士と紡と小さな接点を持ち、ほんの些細なことからドミノ倒しのように、人生を破滅へと追い込まれてゆく。
吉田修一の原作「犯罪小説集」は、それぞれ現実に起こった事件をモチーフとした短編集で、本作はその中の「青田Y字路」と「万屋善次郎」をミックスして脚色。
「青田Y字路」がモチーフとしているのは、1979年から90年にかけて、四人の少女が犠牲となった「北関東連続幼女誘拐殺人事件」。
この事件は未だに未解決で、1990年の事件では誘拐殺人の容疑で無関係の男性が逮捕され、後に冤罪と証明された「足利事件」としても知られる。
もう一つの「万屋善次郎」は、2013年に起こった「山口連続放火殺人事件」がモデル。
こちらは故郷の限界集落にUターンした中年男性が、徐々に周囲から村八分となり、精神を病んで村の老人たち五人を次々と殺害した事件で、事実関係もかなり忠実な作り。
映画は二本の原作をシームレスに繋いだ上で、「罪」「罰」「人間」の三章構成としていて、最初に罪が犯され、次に非常に曖昧な罰が下される。
「罪」と「罰」の登場人物たちの行動が、常軌を逸するくらい愚かで強引なことに戸惑うが、最後まで観ると、「なるほどこれは狙いか」と分かる。
なぜなら最終章の「人間」で、そもそも罪を作り出したのは誰なのか?罪なき人は存在するのか?が問われるからだ。
だから本当は何が起こったのか?という部分は、物語の帰結する先へ導くために重要な要素ではあるものの、謎解ミステリ的なベクトルはほとんど無い。
新約聖書のヨハネによる福音書の第八章で、姦淫の罪で捕まって人々の前に引き出された女を見たイエスは、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」と語る。
その結果、その場にいた誰一人として石を投げることができなかった。
ところが、本作劇中の同一のシチュエーションでは、理性と良心を体現するイエスはおらず、人々は自分の罪を省みることなく先を争って石を投げつけるのだ。
罪びとが根拠のない罰を下し、その結果として新たな罪が生まれる。
本作で描かれるのは、罪と罰の無限スパイラルに陥ってしまった悲しい人の心なのである。
絡み合う人間たちのドラマは、瀬々敬久監督の持ち味が発揮されて見応え充分。
しかし、ここに描かれる日本の田舎は、ある意味ホラーより恐ろしい。
モデルになった実際の事件の報道を読んだ時も思ったが、なんで田舎の年寄りは「人が増えて欲しい」とか「若者に来て欲しい」とか言いながら、逆に人を遠ざけるようなことをするのだろう。
もちろん全部が全部そうじゃないだろうけど、こういう田舎も実際珍しくはない。
本作では、ある程度以上の年齢の登場人物はほぼ一様に救いようがなく、あえて「老害」という嫌な言葉を意識させるように作ってるが、それも一定のリアルがあるからだろう。
罪人たちの中で、唯一自らの罪に向き合い、罪を抱えて生きてゆく決意をする、杉咲花を実質的な主人公としてしているのも、作品の指向する先を示唆する。
果たして彼女は希望となり得るのか?人間は、本当に「楽園」に生きられるのだろうか?
今回は原作者の故郷、長崎から壱岐の酒「純米大吟業 横山50」をチョイス。
長崎は日本酒文化圏と焼酎文化圏の混じり合う地で、これは焼酎の蔵元として知られる重家酒造が、かつて醸造していた日本酒を四半世紀ぶりに復活させた酒。
蔵元の横山さんの名と山田錦の精米歩合がそのまま名前になっている。
フルーティーで、純米大吟醸らしい芳醇な吟醸香。
濃厚だが雑味なくスーッと喉に落ちる、やや辛口の味わいが上質だ。
記事が気に入ったらクリックしてね
「楽園」ちゅうか、描かれているのはむしろ「地獄」?
とあるY字路で起こった少女誘拐事件を起点に、12年後の現在で杉咲花、綾野剛、佐藤浩市の運命が動き出す。
杉咲花が熱演する湯川紡は、行方不明になった少女と直前まで一緒にいた同級生で、彼女が死んで自分が生き残ったことから罪悪感に苛まれ、12年後の新たな事件により更なる傷を負う。
綾野剛が演じるのは、日本に定住している元難民の青年・中村豪士。
内気で日本語が少し不自由な彼は、やがて紡と関わるようになるが、新たな事件が起こると、周囲から孤立していることで疑われ、大した根拠もなく事件の容疑者となってしまう。
そして、佐藤浩市演じる田中善次郎は、12年前の事件とは直接の関わりはないのだが、現在の豪士と紡と小さな接点を持ち、ほんの些細なことからドミノ倒しのように、人生を破滅へと追い込まれてゆく。
吉田修一の原作「犯罪小説集」は、それぞれ現実に起こった事件をモチーフとした短編集で、本作はその中の「青田Y字路」と「万屋善次郎」をミックスして脚色。
「青田Y字路」がモチーフとしているのは、1979年から90年にかけて、四人の少女が犠牲となった「北関東連続幼女誘拐殺人事件」。
この事件は未だに未解決で、1990年の事件では誘拐殺人の容疑で無関係の男性が逮捕され、後に冤罪と証明された「足利事件」としても知られる。
もう一つの「万屋善次郎」は、2013年に起こった「山口連続放火殺人事件」がモデル。
こちらは故郷の限界集落にUターンした中年男性が、徐々に周囲から村八分となり、精神を病んで村の老人たち五人を次々と殺害した事件で、事実関係もかなり忠実な作り。
映画は二本の原作をシームレスに繋いだ上で、「罪」「罰」「人間」の三章構成としていて、最初に罪が犯され、次に非常に曖昧な罰が下される。
「罪」と「罰」の登場人物たちの行動が、常軌を逸するくらい愚かで強引なことに戸惑うが、最後まで観ると、「なるほどこれは狙いか」と分かる。
なぜなら最終章の「人間」で、そもそも罪を作り出したのは誰なのか?罪なき人は存在するのか?が問われるからだ。
だから本当は何が起こったのか?という部分は、物語の帰結する先へ導くために重要な要素ではあるものの、謎解ミステリ的なベクトルはほとんど無い。
新約聖書のヨハネによる福音書の第八章で、姦淫の罪で捕まって人々の前に引き出された女を見たイエスは、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」と語る。
その結果、その場にいた誰一人として石を投げることができなかった。
ところが、本作劇中の同一のシチュエーションでは、理性と良心を体現するイエスはおらず、人々は自分の罪を省みることなく先を争って石を投げつけるのだ。
罪びとが根拠のない罰を下し、その結果として新たな罪が生まれる。
本作で描かれるのは、罪と罰の無限スパイラルに陥ってしまった悲しい人の心なのである。
絡み合う人間たちのドラマは、瀬々敬久監督の持ち味が発揮されて見応え充分。
しかし、ここに描かれる日本の田舎は、ある意味ホラーより恐ろしい。
モデルになった実際の事件の報道を読んだ時も思ったが、なんで田舎の年寄りは「人が増えて欲しい」とか「若者に来て欲しい」とか言いながら、逆に人を遠ざけるようなことをするのだろう。
もちろん全部が全部そうじゃないだろうけど、こういう田舎も実際珍しくはない。
本作では、ある程度以上の年齢の登場人物はほぼ一様に救いようがなく、あえて「老害」という嫌な言葉を意識させるように作ってるが、それも一定のリアルがあるからだろう。
罪人たちの中で、唯一自らの罪に向き合い、罪を抱えて生きてゆく決意をする、杉咲花を実質的な主人公としてしているのも、作品の指向する先を示唆する。
果たして彼女は希望となり得るのか?人間は、本当に「楽園」に生きられるのだろうか?
今回は原作者の故郷、長崎から壱岐の酒「純米大吟業 横山50」をチョイス。
長崎は日本酒文化圏と焼酎文化圏の混じり合う地で、これは焼酎の蔵元として知られる重家酒造が、かつて醸造していた日本酒を四半世紀ぶりに復活させた酒。
蔵元の横山さんの名と山田錦の精米歩合がそのまま名前になっている。
フルーティーで、純米大吟醸らしい芳醇な吟醸香。
濃厚だが雑味なくスーッと喉に落ちる、やや辛口の味わいが上質だ。
記事が気に入ったらクリックしてね
2019年10月24日 (木) | 編集 |
すこしむかし、ロンドンの片隅に。
「さむがりやのサンタ」「スノーマン」などで知られる漫画作家のレイモンド・ブリックスが、今は亡き最愛の両親のために作った「記憶の器」としてのアニメーション映画。
ブリックス自身がエグゼクティブ・プロデューサーをつとめ、監督・脚本は「スノーマン」などブリックス作品のアニメーターとして活躍し、本作の公開後の2018年に惜しまれつつ亡くなったロジャー・メインウッド。
まだ馬車と自動車が混在していた時代の晩秋のロンドンで、牛乳配達人のアーネストが、上流階級の邸宅で住み込みのメイドをしていた5歳年上のエセルを誘ってから、二人が共に死を迎える1971年まで、40年以上にわたる結婚生活が、素晴らしいクオリティのアニメーションで描かれる。
1928年。
ロンドンでメイドとして働くエセル(ブレンダ・ブレッシン)は、屋敷の窓から外を見ている時、若い牛乳配達人と目が合う。
以来、なんとなく彼の存在を意識するようになり、名前も知らない配達人の姿を窓越しに探すようになる。
ところがある日、彼は突然屋敷を訪れるとエセルをデートに誘い、アーネスト(ジム・ブロードベンド)と名乗った。
意気投合した二人は恋人同士となり、やがて結婚。
数年後には息子のレイモンド(ルーク・トレッダウェイ)も生まれ、三人家族として幸せな生活を送っていた。
しかし、時代の空気はすこしずつきな臭さを増し、ついにナチス・ドイツとの戦争が始まる。
瞬く間にヨーロッパ大陸は制圧され、ロンドンにもドイツ軍の空襲が迫る中、夫婦はレイモンドを田舎に疎開させることを決意する・・・・
映画の冒頭、現在のレイモンド本人が現れ、こう言う。
「There was nothing extraordinary about my mum and dad, nothing dramatic. No divorce or anything, but they were my parents and I wanted to remember them by doing a picture book.(私の両親に関しては特別なことは何もなく、ドラマチックでもありません。離婚も何もありませんでしたが、彼らは私の両親であり、絵本にすることで彼らを覚えていたかったのです。」
なるほど、ここに描かれているのはとことん平凡で普通で、それなりに幸せな人生。
だけど、特別なことが何もないからこそ、彼らの暮らしの物語は誰が観ても感情移入できる普遍性があり、とても愛おしいのである。
ロンドンの街角で出会ったエセルとアーネスト、初めてのデートは映画。
イギリスでは1928年の11月に封切られた、ジョン・フォード監督、ヴィクター・マクラグレン主演の「血涙の志士」に連れ立って出かける。
1930年に結婚した二人は、ウィンブルドンに小さな家を買って新婚生活を始めるのだが、当時としては晩婚の二人はなかなか子宝には恵まれず、エセルが38歳の時に大変な難産の末にようやくレイモンドが生まれ、夫婦にとっては唯一の子供となった。
まだ第一次大戦の傷が残る時代に始まり、つかの間の平和の後の再びの戦争、そして数十年の間に価値観が激変する戦後へ。
階級社会イギリスにあって、アーネストは気のいいお調子者で労働党支持者、エセルは以前メイドとして金持ちの生活を見ていたからか、チャーチル好きの上流指向で、ちょっと見栄っ張り。
二人はどう見ても労働者階級なのだが、彼女は「うちは労働者階級じゃありませんから!」が口癖だったりする(笑
一見すると対照的な男女が、夫婦という形になると、不思議と心地よい幸せのハーモニーを奏で始めるのだ。
時代は移り変わっても、二人の間には常に穏やかな優しい時間が流れ、大きな変化を作り出すのは、戦争という巨大な暴力と、堅い仕事をしてほしいという母の反対を押し切って、芸術の道に進む親の心子知らずなレイモンドくらい。
レイモンドの妻ジーンが統合失調症を患っていて、若くして亡くなったという話は初めて知ったが、「病気のことがあるので子供は作れない」という息子の話を聞いて、涙を見せるエセルの母心が切ない。
戦時中のシーケンスはかなりの時間を費やして描かれ、ドイツ軍の空襲に政府の指示通りに対処しようとする描写は、レイモンド・ブリックス原作、ジミー・T・ムラカミ監督の名作アニメーション映画「風が吹くとき」の老夫婦を思わせる。
そして、爆弾の雨が降る中でも何とか「日常」を手放すまいと奮闘する二人の姿には、「この世界の片隅に」のすずさん家族が重なる。
生活描写がやたらと細やかでユーモラスなだけでなく、どちらの映画でも一家の「子供」が疎開することになり、本作ではレイモンド少年が無事に田舎に逃げ延びるが、「この世界の片隅に」では間に合わず、幼い命を落とすることになるのも、二つの家族が同じ世界のわずかに違った鏡像である印象を強めている。
もちろん、本作は戦前戦中に加えて戦後の話もボリュームが大きいし、映画の描こうとするものは異なるのだが、この二本はセットで鑑賞すると間違いなくより感慨深い。
新婚の時に購入してから、空襲で大きな被害を受けてもずっと住み続けたウィンブルドンの家には、時代ごとにガスコンロ、電話、テレビ、自動車などの新しいアイテムが現れ、世間では人類が月へ降り立ったり、エセルの知らない「同性愛」が合法化されたりする。
本質的には40年以上ほとんど変わらない個人史と、ダイナミックに変化し続ける社会史の、流れる時の速度の違いが面白い。
冒頭とエンディングにレイモンド本人が実写で登場する他は、彼独特の優しい絵柄のアニメーションで描かれるが、レイモンドが看取ったエセルとアーネストの「死」の描写のみ異質にリアルなタッチなのが印象的。
40年以上に及ぶ物語の中で、レイモンドが両親と暮らした時間は1/3くらいなので、夫婦の描写の大半はおそらく作者の記憶+聞かされた話+イマジネーションなのだろうが、両親の死だけは全くオブラートに包まない彼の主観的記憶ということだろう。
最後は夢の世界に生きたエセルが逝き、彼女を追うようにしてアーネストが亡くなった後、住む人のいなくなった実家の整理をするレイモンドの前に、彼が子供の頃に植えた洋梨の木が、大きな枝を広げているのが人生の時間を感じさせて心に染み入る。
どこまでも普通だけど、どこまでも美しい映画で、自身の母への想いを込めたというポール・マッカートニーの主題歌「In the Blink of an Eye」も味わい深い。
ところで、新居に引っ越した時にどこからともなく現れ、二人の人生に最後まで寄り添う、黒猫のスージーさんはいったい何歳なんだろう?
ここだけ、“すこし・ふしぎ”な物語。
今回は、レイモンド・ブリックスの代表作から「スノーマン」をチョイス。
同じ名前のカクテルは世界中に色々なレシピがあるのだが、これは日本酒を使った変わり種。
グラスに冷やした日本酒40ml、無糖のプレーンヨーグルト60mlの順に注ぎ、軽くステアして、最後にお好みでレモンを振りかけて完成。
乳酸菌同士のマリーアージュは意外と相性が良く、ちょっとマッコリを思わせるテイスト。
使う日本酒は好みにもよるが、辛口よりもちょい辛程度の純米吟醸の相性が良いと思う。
記事が気に入ったらクリックしてね
「さむがりやのサンタ」「スノーマン」などで知られる漫画作家のレイモンド・ブリックスが、今は亡き最愛の両親のために作った「記憶の器」としてのアニメーション映画。
ブリックス自身がエグゼクティブ・プロデューサーをつとめ、監督・脚本は「スノーマン」などブリックス作品のアニメーターとして活躍し、本作の公開後の2018年に惜しまれつつ亡くなったロジャー・メインウッド。
まだ馬車と自動車が混在していた時代の晩秋のロンドンで、牛乳配達人のアーネストが、上流階級の邸宅で住み込みのメイドをしていた5歳年上のエセルを誘ってから、二人が共に死を迎える1971年まで、40年以上にわたる結婚生活が、素晴らしいクオリティのアニメーションで描かれる。
1928年。
ロンドンでメイドとして働くエセル(ブレンダ・ブレッシン)は、屋敷の窓から外を見ている時、若い牛乳配達人と目が合う。
以来、なんとなく彼の存在を意識するようになり、名前も知らない配達人の姿を窓越しに探すようになる。
ところがある日、彼は突然屋敷を訪れるとエセルをデートに誘い、アーネスト(ジム・ブロードベンド)と名乗った。
意気投合した二人は恋人同士となり、やがて結婚。
数年後には息子のレイモンド(ルーク・トレッダウェイ)も生まれ、三人家族として幸せな生活を送っていた。
しかし、時代の空気はすこしずつきな臭さを増し、ついにナチス・ドイツとの戦争が始まる。
瞬く間にヨーロッパ大陸は制圧され、ロンドンにもドイツ軍の空襲が迫る中、夫婦はレイモンドを田舎に疎開させることを決意する・・・・
映画の冒頭、現在のレイモンド本人が現れ、こう言う。
「There was nothing extraordinary about my mum and dad, nothing dramatic. No divorce or anything, but they were my parents and I wanted to remember them by doing a picture book.(私の両親に関しては特別なことは何もなく、ドラマチックでもありません。離婚も何もありませんでしたが、彼らは私の両親であり、絵本にすることで彼らを覚えていたかったのです。」
なるほど、ここに描かれているのはとことん平凡で普通で、それなりに幸せな人生。
だけど、特別なことが何もないからこそ、彼らの暮らしの物語は誰が観ても感情移入できる普遍性があり、とても愛おしいのである。
ロンドンの街角で出会ったエセルとアーネスト、初めてのデートは映画。
イギリスでは1928年の11月に封切られた、ジョン・フォード監督、ヴィクター・マクラグレン主演の「血涙の志士」に連れ立って出かける。
1930年に結婚した二人は、ウィンブルドンに小さな家を買って新婚生活を始めるのだが、当時としては晩婚の二人はなかなか子宝には恵まれず、エセルが38歳の時に大変な難産の末にようやくレイモンドが生まれ、夫婦にとっては唯一の子供となった。
まだ第一次大戦の傷が残る時代に始まり、つかの間の平和の後の再びの戦争、そして数十年の間に価値観が激変する戦後へ。
階級社会イギリスにあって、アーネストは気のいいお調子者で労働党支持者、エセルは以前メイドとして金持ちの生活を見ていたからか、チャーチル好きの上流指向で、ちょっと見栄っ張り。
二人はどう見ても労働者階級なのだが、彼女は「うちは労働者階級じゃありませんから!」が口癖だったりする(笑
一見すると対照的な男女が、夫婦という形になると、不思議と心地よい幸せのハーモニーを奏で始めるのだ。
時代は移り変わっても、二人の間には常に穏やかな優しい時間が流れ、大きな変化を作り出すのは、戦争という巨大な暴力と、堅い仕事をしてほしいという母の反対を押し切って、芸術の道に進む親の心子知らずなレイモンドくらい。
レイモンドの妻ジーンが統合失調症を患っていて、若くして亡くなったという話は初めて知ったが、「病気のことがあるので子供は作れない」という息子の話を聞いて、涙を見せるエセルの母心が切ない。
戦時中のシーケンスはかなりの時間を費やして描かれ、ドイツ軍の空襲に政府の指示通りに対処しようとする描写は、レイモンド・ブリックス原作、ジミー・T・ムラカミ監督の名作アニメーション映画「風が吹くとき」の老夫婦を思わせる。
そして、爆弾の雨が降る中でも何とか「日常」を手放すまいと奮闘する二人の姿には、「この世界の片隅に」のすずさん家族が重なる。
生活描写がやたらと細やかでユーモラスなだけでなく、どちらの映画でも一家の「子供」が疎開することになり、本作ではレイモンド少年が無事に田舎に逃げ延びるが、「この世界の片隅に」では間に合わず、幼い命を落とすることになるのも、二つの家族が同じ世界のわずかに違った鏡像である印象を強めている。
もちろん、本作は戦前戦中に加えて戦後の話もボリュームが大きいし、映画の描こうとするものは異なるのだが、この二本はセットで鑑賞すると間違いなくより感慨深い。
新婚の時に購入してから、空襲で大きな被害を受けてもずっと住み続けたウィンブルドンの家には、時代ごとにガスコンロ、電話、テレビ、自動車などの新しいアイテムが現れ、世間では人類が月へ降り立ったり、エセルの知らない「同性愛」が合法化されたりする。
本質的には40年以上ほとんど変わらない個人史と、ダイナミックに変化し続ける社会史の、流れる時の速度の違いが面白い。
冒頭とエンディングにレイモンド本人が実写で登場する他は、彼独特の優しい絵柄のアニメーションで描かれるが、レイモンドが看取ったエセルとアーネストの「死」の描写のみ異質にリアルなタッチなのが印象的。
40年以上に及ぶ物語の中で、レイモンドが両親と暮らした時間は1/3くらいなので、夫婦の描写の大半はおそらく作者の記憶+聞かされた話+イマジネーションなのだろうが、両親の死だけは全くオブラートに包まない彼の主観的記憶ということだろう。
最後は夢の世界に生きたエセルが逝き、彼女を追うようにしてアーネストが亡くなった後、住む人のいなくなった実家の整理をするレイモンドの前に、彼が子供の頃に植えた洋梨の木が、大きな枝を広げているのが人生の時間を感じさせて心に染み入る。
どこまでも普通だけど、どこまでも美しい映画で、自身の母への想いを込めたというポール・マッカートニーの主題歌「In the Blink of an Eye」も味わい深い。
ところで、新居に引っ越した時にどこからともなく現れ、二人の人生に最後まで寄り添う、黒猫のスージーさんはいったい何歳なんだろう?
ここだけ、“すこし・ふしぎ”な物語。
今回は、レイモンド・ブリックスの代表作から「スノーマン」をチョイス。
同じ名前のカクテルは世界中に色々なレシピがあるのだが、これは日本酒を使った変わり種。
グラスに冷やした日本酒40ml、無糖のプレーンヨーグルト60mlの順に注ぎ、軽くステアして、最後にお好みでレモンを振りかけて完成。
乳酸菌同士のマリーアージュは意外と相性が良く、ちょっとマッコリを思わせるテイスト。
使う日本酒は好みにもよるが、辛口よりもちょい辛程度の純米吟醸の相性が良いと思う。
記事が気に入ったらクリックしてね
2019年10月18日 (金) | 編集 |
青春の、忘れもの。
共に1976年生まれの長井龍雪、岡田麿里、田中将賀によるクリエイターズユニット、“超平和バスターズ”原作による秩父を舞台としたアニメーション作品第三弾。
幼い頃に両親を亡くし、13歳年上の姉と暮らすミュージシャン志望の女子高校生の前に、なぜか姉の元カレが13年前の姿で現れる。
いったい彼は何者なのか?幽霊?生き霊?それとも?
いかにもアニメーション的なぶっ飛んだ設定のもと、描かれるのは極めて繊細に紡がれる人間ドラマだ。
監督、脚本、キャラクターデザイン兼総作画監督は、もちろん超平和バスターズの三人がそれぞれ担当する。
音楽映画でもあり、あいみょんが担当する劇中歌と主題歌も素晴らしいのだが、昭和世代としては物語のキーとなる曲にゴダイゴの「ガンダーラ」が使われるのもたまらない。
前二作からさらなる進化を見せる、痛くて切なくて優しい珠玉の青春ストーリーだ。
※核心部分に触れています。
ミュージシャン志望の17歳の高校生、相生あおい(若山詩音)は13年前に両親を亡くして以来、姉のあかね(吉岡里帆)と二人暮らし。
恋人の金室慎之介、通称しんの(吉沢亮)と共に上京する夢を諦めて、ずっと自分を育ててくれたあかねに対し、あおいは負い目を感じていて、高校を卒業したらこの街を出て、あかねの人生を自由にする、そう決めている。
そんな時、地元の音楽祭に人気演歌歌手の新渡戸団吉(松平健)が出演することになり、そのバックバンドのギタリストとして慎之介が13年ぶりに街に戻って来た。
ひょんなことから音楽祭で慎之介と共演することになったあおいは、すっかりやさぐれた大人になってしまった慎之介にショックを受ける。
同じ頃、あおいの前になぜか記憶の中にいる13年前の姿ままのもう一人のしんのが現れる。
大人の慎之介と、高校生の頃のしんの。
あおいは何とか現在の慎之介を更生させて、あかねの初恋を成就させようとするのだが、いつの間にか自分がしんのに恋をしていた・・・
フジテレビのノイタミナ枠で放送された「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。(あの花)」、劇場用作品として作られた「心が叫びたがってるんだ。(ここさけ)」、そしてタイトルから「。」が取れた本作の特徴は、30代のあかねと慎之介のエピソードが大きな比重を占めていることだろう。
主人公は高校生のあおいだが、彼女の抱えている問題はあかねと慎之介の関係と深く結びついているので、物語は三者それぞれの葛藤がほぼ三つ巴。
ティーンの群像劇だった前二作でも、当然ながら重要な役割を果たす大人のキャラクターはいたが、本作ほどではなかった。
「あの花」では幼くして亡くなった少女めんまの幽霊、「ここさけ」ではおしゃべりな主人公の声を封じる玉子の妖精と、超自然的な現象が起こっていたが、本作で日常に投げ込まれる怪異は、突然13年前の姿で現れるもう一人のしんのだ。
彼が出現するのは、ずっと音楽の練習に使われている古いお堂で、かつてはしんの自身もここでバンド演奏し、今はあおいがベースの練習に通っている。
しんの本人も自分が何なのか、なぜ13年後に現れたのか分からず、なぜかお堂からは出ることができない。
あかねと慎之介の再会に、あおいと非日常の存在であるしんのとの接触が触媒となって、人間関係の化学反応が起こる仕組みだ。
二人とも白目の中にホクロがある、“目玉スターズ”のあおいとしんのは元来似た者同士。
あおいが、山に囲まれた秩父の街を閉塞の象徴と捉えているのは「ここさけ」と同様で、しんのはギター、あおいはベースと楽器は違えど、同じようにミュージシャンとして東京で天下を取る夢を持っている。
だからこそ、あおいにとっては半分夢を叶えたものの、すっかりやさぐれて戻って来た慎之介がショックだし、逆に慎之介にとってはかつての自分のように、真っ直ぐに音楽に向かい合っていて、実力も備わったあおいの存在が気にさわる。
今の慎之介に失望すればするほど、あおいはその反作用で今の自分と同い年で、明るく朗らかだった13年前のしんのに惹かれてゆく。
「そこに行けば どんな夢も かなうというよ」と歌う「ガンダーラ」が慎之介とあおいに共通する思い出の曲であることが象徴するように、年齢の差こそあれ二人は目的地を探し続けているボヘミアンなのだ。
過去と現在に“外”を志向した二人とは逆に、“内”である秩父の大地に地にどっしりと足をつけているのがあかね。
若くして大人にならねばならなかった彼女は、あおいやしんの、現在の慎之介よりもずっと大人で、母親に近い感情で皆を見守っている。
あおいは姉の青春を奪ったという、慎之介は迎えに来る約束を果たせなかったという負い目をあかねに対して感じていて、そのことが二人の人生の足かせとなっているのだが、当のあかねは全然そんなことを思っていない。
なぜなら彼女は「空の青さを知る人」だから。
この映画のタイトルは、有名な「井の中の蛙」の諺に、後世に付け加えられた文言から来ている。
いくつかバリエーションはあるようだが、「井の中の蛙大海を知らず」に「されど空の青さを知る」と続く。
井戸の中のような秩父の町から、海は見えない。
だけど空しか見えないからこそ、外の世界では気にも留めない、ここにしかない大切なことに気づける。
あかねはそういう人生を送って来た人であり、13年前からやって来たしんのの存在に触発された小さな冒険の先に、あおいと慎之介はあかねの本当の想いを知るのだ。
それは同時に、過ぎ去ったはずの青春そのものであるしんのが、なぜ今現れたのかという疑問に対する明確なアンサーでもある。
「あの花」「ここさけ」がそれぞれTVドラマ、映画で実写化されたことでも分かるように、本作も基本的には写実的でリアルな世界観。
田中将賀による魅力的なキャラクターが、すっかりお馴染みになった美しい秩父の情景の中で生き生きと躍動する。
特にあかねとあおいの眉太姉妹は、対照的な性格が造形から滲み出て秀逸。
「君の名は。」以来、新海誠作品でもすっかり有名になったが、やはりデザインの持つ作品世界での比重という点では超平和バスターズ作品の方が印象深い。
いかにも意思が強そうなあおい役を好演する若山詩音、二作続けて男を投げ飛ばすあかね役の吉岡里帆、31歳と18歳をきっちり演じ分けた吉沢亮ら、ボイスキャストも素晴らしい。
吉岡里帆は、この一ヶ月の間にすっかりお気に入りの役者になってしまった。
また本作は音楽映画でもあり、凝りに凝った音響演出も面白い。
冒頭の、あおいがイヤホンをして、サイレントな世界に重低音でベースを響かせながら「ガンダーラ」を弾くシーンで、いきなり作品世界に引き込まれる。
楽器はもちろんだが、実写作品以上に自然音も丁寧に付けられていることで、この世界の現実感がグッと高まるのである。
物語の決着は本編でキッチリつけ、あいみょんの素敵な主題歌を聴かせながら、エピローグ的に余韻に浸れるエンドクレジットまで、見事な仕上がりとなった。
三作目にして、超平和バスターズは魅惑的な独特のカラーを持つ“秩父ユニバース”を確立した感があり、相性抜群のこのチームの次回作を早速期待したくなる。
ところで、これも実写化されそうな気がするのだけど、キャストは誰が良いだろう。
今回は秩父の武甲酒造から、「武甲正宗 特別純米 無濾過原酒」をチョイス。
この蔵は、「ここさけ」とコラボしてその名も「秩父ここさけ」なるコラボ酒も出していたのだけど、今回は特にコラボは無いようだ。
無濾過原酒らしく、吟醸香がふわりと広がり、口に含むと非常に濃厚な米の旨みが強烈に広がる。
慎之介は酒弱かったけど、あかねさんと飲み明かしたい酒だ。
記事が気に入ったらクリックしてね
共に1976年生まれの長井龍雪、岡田麿里、田中将賀によるクリエイターズユニット、“超平和バスターズ”原作による秩父を舞台としたアニメーション作品第三弾。
幼い頃に両親を亡くし、13歳年上の姉と暮らすミュージシャン志望の女子高校生の前に、なぜか姉の元カレが13年前の姿で現れる。
いったい彼は何者なのか?幽霊?生き霊?それとも?
いかにもアニメーション的なぶっ飛んだ設定のもと、描かれるのは極めて繊細に紡がれる人間ドラマだ。
監督、脚本、キャラクターデザイン兼総作画監督は、もちろん超平和バスターズの三人がそれぞれ担当する。
音楽映画でもあり、あいみょんが担当する劇中歌と主題歌も素晴らしいのだが、昭和世代としては物語のキーとなる曲にゴダイゴの「ガンダーラ」が使われるのもたまらない。
前二作からさらなる進化を見せる、痛くて切なくて優しい珠玉の青春ストーリーだ。
※核心部分に触れています。
ミュージシャン志望の17歳の高校生、相生あおい(若山詩音)は13年前に両親を亡くして以来、姉のあかね(吉岡里帆)と二人暮らし。
恋人の金室慎之介、通称しんの(吉沢亮)と共に上京する夢を諦めて、ずっと自分を育ててくれたあかねに対し、あおいは負い目を感じていて、高校を卒業したらこの街を出て、あかねの人生を自由にする、そう決めている。
そんな時、地元の音楽祭に人気演歌歌手の新渡戸団吉(松平健)が出演することになり、そのバックバンドのギタリストとして慎之介が13年ぶりに街に戻って来た。
ひょんなことから音楽祭で慎之介と共演することになったあおいは、すっかりやさぐれた大人になってしまった慎之介にショックを受ける。
同じ頃、あおいの前になぜか記憶の中にいる13年前の姿ままのもう一人のしんのが現れる。
大人の慎之介と、高校生の頃のしんの。
あおいは何とか現在の慎之介を更生させて、あかねの初恋を成就させようとするのだが、いつの間にか自分がしんのに恋をしていた・・・
フジテレビのノイタミナ枠で放送された「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。(あの花)」、劇場用作品として作られた「心が叫びたがってるんだ。(ここさけ)」、そしてタイトルから「。」が取れた本作の特徴は、30代のあかねと慎之介のエピソードが大きな比重を占めていることだろう。
主人公は高校生のあおいだが、彼女の抱えている問題はあかねと慎之介の関係と深く結びついているので、物語は三者それぞれの葛藤がほぼ三つ巴。
ティーンの群像劇だった前二作でも、当然ながら重要な役割を果たす大人のキャラクターはいたが、本作ほどではなかった。
「あの花」では幼くして亡くなった少女めんまの幽霊、「ここさけ」ではおしゃべりな主人公の声を封じる玉子の妖精と、超自然的な現象が起こっていたが、本作で日常に投げ込まれる怪異は、突然13年前の姿で現れるもう一人のしんのだ。
彼が出現するのは、ずっと音楽の練習に使われている古いお堂で、かつてはしんの自身もここでバンド演奏し、今はあおいがベースの練習に通っている。
しんの本人も自分が何なのか、なぜ13年後に現れたのか分からず、なぜかお堂からは出ることができない。
あかねと慎之介の再会に、あおいと非日常の存在であるしんのとの接触が触媒となって、人間関係の化学反応が起こる仕組みだ。
二人とも白目の中にホクロがある、“目玉スターズ”のあおいとしんのは元来似た者同士。
あおいが、山に囲まれた秩父の街を閉塞の象徴と捉えているのは「ここさけ」と同様で、しんのはギター、あおいはベースと楽器は違えど、同じようにミュージシャンとして東京で天下を取る夢を持っている。
だからこそ、あおいにとっては半分夢を叶えたものの、すっかりやさぐれて戻って来た慎之介がショックだし、逆に慎之介にとってはかつての自分のように、真っ直ぐに音楽に向かい合っていて、実力も備わったあおいの存在が気にさわる。
今の慎之介に失望すればするほど、あおいはその反作用で今の自分と同い年で、明るく朗らかだった13年前のしんのに惹かれてゆく。
「そこに行けば どんな夢も かなうというよ」と歌う「ガンダーラ」が慎之介とあおいに共通する思い出の曲であることが象徴するように、年齢の差こそあれ二人は目的地を探し続けているボヘミアンなのだ。
過去と現在に“外”を志向した二人とは逆に、“内”である秩父の大地に地にどっしりと足をつけているのがあかね。
若くして大人にならねばならなかった彼女は、あおいやしんの、現在の慎之介よりもずっと大人で、母親に近い感情で皆を見守っている。
あおいは姉の青春を奪ったという、慎之介は迎えに来る約束を果たせなかったという負い目をあかねに対して感じていて、そのことが二人の人生の足かせとなっているのだが、当のあかねは全然そんなことを思っていない。
なぜなら彼女は「空の青さを知る人」だから。
この映画のタイトルは、有名な「井の中の蛙」の諺に、後世に付け加えられた文言から来ている。
いくつかバリエーションはあるようだが、「井の中の蛙大海を知らず」に「されど空の青さを知る」と続く。
井戸の中のような秩父の町から、海は見えない。
だけど空しか見えないからこそ、外の世界では気にも留めない、ここにしかない大切なことに気づける。
あかねはそういう人生を送って来た人であり、13年前からやって来たしんのの存在に触発された小さな冒険の先に、あおいと慎之介はあかねの本当の想いを知るのだ。
それは同時に、過ぎ去ったはずの青春そのものであるしんのが、なぜ今現れたのかという疑問に対する明確なアンサーでもある。
「あの花」「ここさけ」がそれぞれTVドラマ、映画で実写化されたことでも分かるように、本作も基本的には写実的でリアルな世界観。
田中将賀による魅力的なキャラクターが、すっかりお馴染みになった美しい秩父の情景の中で生き生きと躍動する。
特にあかねとあおいの眉太姉妹は、対照的な性格が造形から滲み出て秀逸。
「君の名は。」以来、新海誠作品でもすっかり有名になったが、やはりデザインの持つ作品世界での比重という点では超平和バスターズ作品の方が印象深い。
いかにも意思が強そうなあおい役を好演する若山詩音、二作続けて男を投げ飛ばすあかね役の吉岡里帆、31歳と18歳をきっちり演じ分けた吉沢亮ら、ボイスキャストも素晴らしい。
吉岡里帆は、この一ヶ月の間にすっかりお気に入りの役者になってしまった。
また本作は音楽映画でもあり、凝りに凝った音響演出も面白い。
冒頭の、あおいがイヤホンをして、サイレントな世界に重低音でベースを響かせながら「ガンダーラ」を弾くシーンで、いきなり作品世界に引き込まれる。
楽器はもちろんだが、実写作品以上に自然音も丁寧に付けられていることで、この世界の現実感がグッと高まるのである。
物語の決着は本編でキッチリつけ、あいみょんの素敵な主題歌を聴かせながら、エピローグ的に余韻に浸れるエンドクレジットまで、見事な仕上がりとなった。
三作目にして、超平和バスターズは魅惑的な独特のカラーを持つ“秩父ユニバース”を確立した感があり、相性抜群のこのチームの次回作を早速期待したくなる。
ところで、これも実写化されそうな気がするのだけど、キャストは誰が良いだろう。
今回は秩父の武甲酒造から、「武甲正宗 特別純米 無濾過原酒」をチョイス。
この蔵は、「ここさけ」とコラボしてその名も「秩父ここさけ」なるコラボ酒も出していたのだけど、今回は特にコラボは無いようだ。
無濾過原酒らしく、吟醸香がふわりと広がり、口に含むと非常に濃厚な米の旨みが強烈に広がる。
慎之介は酒弱かったけど、あかねさんと飲み明かしたい酒だ。
記事が気に入ったらクリックしてね
2019年10月14日 (月) | 編集 |
ビートルズ世代からのラブレター。
ダニー・ボイルとリチャード・カーティス、センスの塊同士の幸福なマリアージュ。
主人公は、ヒメーシュ・パテル演じるジャック・マリック。
元教師で売れないミュージシャンの彼は、幼馴染のエリーをマネージャーに音楽活動をしているが、鳴かず飛ばずの日々。
もはやこれまでと、音楽の道を諦めようとしている。
そんなある日、世界中で謎の大停電が起こり、暗闇の中でバスにはねられたジャックが目覚めたら、そこは誰もビートルズを知らないパラレルワールド。
彼は名曲の数々を、自分の作品として発表しはじめるのだ。
もちろん、ビートルズの楽曲を全て完璧に覚えているわけではないので、必死に記憶を辿り、曖昧な部分は所縁の地に“聖地巡礼”してヒントを探す。
当然ヒットしてジャックは時の人になるのだが、彼の心には他人の功績を利用している罪悪感が積み重なり、成功と共に人生で本当に大切なものを失ってゆく。
※核心部分に触れています。
ドラマの葛藤そのものは非常に単純で、物語の帰結点も充分に予測可能。
要は「売れたい!」と思っていたのだが、いざ売れてみると、自分が本当に欲しかったものは、そこには無かったというありきたりなもの。
ただ本作の場合は、そこに至るまでの展開が秀逸だ。
当初ジャックは、パラレルワールドでビートルズを知っているのは自分だけだと思っているのだが、実は他にも元の世界からやって来た、ビートルズの記憶を持つ人たちがいる。
ところが、彼らはジャックを非難したり、告発したりするわけではない。
元の世界とそっくりだけど、大切な何かが欠けているパラレルワールドで、ビートルズの作品を次々と発表するジャックに、彼らは「ビートルズをこの世界に届けてくれてありがとう」と感謝の言葉を伝えるのである。
劇中で、ケイト・マッキノン演じるアメリカの敏腕マネージャーが、パラレルワールドでジャックを見出し、スター街道へと導くエド・シーランのことを「彼は洗礼者ヨハネ。ジャックこそがメシアだ」という台詞があるが、音楽の神の言葉を伝えるという点では、ジャックはまさに神に遣わされた伝道者で救世主なのである。
そして終盤でカメオ出演のロバート・カーライルが、ある人物として登場するシーンなんて、あんなのファンは絶対に泣くやろ!
共に1956年生まれのボイルとカーティスは、物心つく頃がまさにビートルズ全盛期のビートルズ世代。
これはビートルズに対する本物の愛がなければ、絶対に作れない話だ。
モスクワでのライブの時に「バック・イン・ザ・U.S.S.R.」を披露したり、精神的に追い込まれている時に歌うのが「ヘルプ!」だったり、楽曲の歌詞が物語のシチュエーションに絶妙にフィットして、思わず笑っちゃう。
偉大なビートルズが無ければ、彼らの影響を受けまくったアレもコレも無いよね?的なパラレルワールドの遊びも楽しい。
最近はやりの20世紀ミュージシャンへのトリビュート作品としても、かなりの変化球で面白い。
全編にわたってビートルズLOVEが溢れた、まさに究極のファン・メイド・ムービーと言える本作だが、逆に言えば観客も全員ビートルズが好きという前提で作られた作品で、彼らの楽曲にどれほど思い入れがあるか否かで、刺さり具合は変わって来そうだ。
また、あらゆる芸術は生み出された時代や社会を強く反映しているものなので、ビートルズが存在しない世界で、21世紀の現在に彼らの楽曲が発表されたとしても、映画のように熱狂的に受け入れられるとは限らないんじゃないかなあとちょっと思った。
普遍性を持った素晴らしい楽曲群なのは間違いないが、案外そこそこのヒットで収まりそうな気がするのだが、こればっかりは分からないけど。
しかし劇中で歌ってるのはパテルだけど、これだけビートルズの楽曲使ったら、権利関係だけでもの凄いお金がかかっただろうな。
劇中のジャックはいつもビールを飲んでいるので、今回は「カールスバーグ」をチョイス。
マイルドな口当たりと、クリアな喉越しでとても飲みやすく、まさに万人に好まれるビールの王道。
なんでイギリスの映画にデンマークのビール?と思われるだろうが、カールスバーグはビートルズの故郷、リヴァプールを本拠地とするプレミアリーグのリヴァプールFCを、四半世紀以上スポンサードしている銘柄。
リヴァプールの試合の歓声を聞かせながらホップを育てた、「The Red Hops Experiment」というリヴァプールのサポーター専用のビールまであるというから驚きだ。
記事が気に入ったらクリックしてね
ダニー・ボイルとリチャード・カーティス、センスの塊同士の幸福なマリアージュ。
主人公は、ヒメーシュ・パテル演じるジャック・マリック。
元教師で売れないミュージシャンの彼は、幼馴染のエリーをマネージャーに音楽活動をしているが、鳴かず飛ばずの日々。
もはやこれまでと、音楽の道を諦めようとしている。
そんなある日、世界中で謎の大停電が起こり、暗闇の中でバスにはねられたジャックが目覚めたら、そこは誰もビートルズを知らないパラレルワールド。
彼は名曲の数々を、自分の作品として発表しはじめるのだ。
もちろん、ビートルズの楽曲を全て完璧に覚えているわけではないので、必死に記憶を辿り、曖昧な部分は所縁の地に“聖地巡礼”してヒントを探す。
当然ヒットしてジャックは時の人になるのだが、彼の心には他人の功績を利用している罪悪感が積み重なり、成功と共に人生で本当に大切なものを失ってゆく。
※核心部分に触れています。
ドラマの葛藤そのものは非常に単純で、物語の帰結点も充分に予測可能。
要は「売れたい!」と思っていたのだが、いざ売れてみると、自分が本当に欲しかったものは、そこには無かったというありきたりなもの。
ただ本作の場合は、そこに至るまでの展開が秀逸だ。
当初ジャックは、パラレルワールドでビートルズを知っているのは自分だけだと思っているのだが、実は他にも元の世界からやって来た、ビートルズの記憶を持つ人たちがいる。
ところが、彼らはジャックを非難したり、告発したりするわけではない。
元の世界とそっくりだけど、大切な何かが欠けているパラレルワールドで、ビートルズの作品を次々と発表するジャックに、彼らは「ビートルズをこの世界に届けてくれてありがとう」と感謝の言葉を伝えるのである。
劇中で、ケイト・マッキノン演じるアメリカの敏腕マネージャーが、パラレルワールドでジャックを見出し、スター街道へと導くエド・シーランのことを「彼は洗礼者ヨハネ。ジャックこそがメシアだ」という台詞があるが、音楽の神の言葉を伝えるという点では、ジャックはまさに神に遣わされた伝道者で救世主なのである。
そして終盤でカメオ出演のロバート・カーライルが、ある人物として登場するシーンなんて、あんなのファンは絶対に泣くやろ!
共に1956年生まれのボイルとカーティスは、物心つく頃がまさにビートルズ全盛期のビートルズ世代。
これはビートルズに対する本物の愛がなければ、絶対に作れない話だ。
モスクワでのライブの時に「バック・イン・ザ・U.S.S.R.」を披露したり、精神的に追い込まれている時に歌うのが「ヘルプ!」だったり、楽曲の歌詞が物語のシチュエーションに絶妙にフィットして、思わず笑っちゃう。
偉大なビートルズが無ければ、彼らの影響を受けまくったアレもコレも無いよね?的なパラレルワールドの遊びも楽しい。
最近はやりの20世紀ミュージシャンへのトリビュート作品としても、かなりの変化球で面白い。
全編にわたってビートルズLOVEが溢れた、まさに究極のファン・メイド・ムービーと言える本作だが、逆に言えば観客も全員ビートルズが好きという前提で作られた作品で、彼らの楽曲にどれほど思い入れがあるか否かで、刺さり具合は変わって来そうだ。
また、あらゆる芸術は生み出された時代や社会を強く反映しているものなので、ビートルズが存在しない世界で、21世紀の現在に彼らの楽曲が発表されたとしても、映画のように熱狂的に受け入れられるとは限らないんじゃないかなあとちょっと思った。
普遍性を持った素晴らしい楽曲群なのは間違いないが、案外そこそこのヒットで収まりそうな気がするのだが、こればっかりは分からないけど。
しかし劇中で歌ってるのはパテルだけど、これだけビートルズの楽曲使ったら、権利関係だけでもの凄いお金がかかっただろうな。
劇中のジャックはいつもビールを飲んでいるので、今回は「カールスバーグ」をチョイス。
マイルドな口当たりと、クリアな喉越しでとても飲みやすく、まさに万人に好まれるビールの王道。
なんでイギリスの映画にデンマークのビール?と思われるだろうが、カールスバーグはビートルズの故郷、リヴァプールを本拠地とするプレミアリーグのリヴァプールFCを、四半世紀以上スポンサードしている銘柄。
リヴァプールの試合の歓声を聞かせながらホップを育てた、「The Red Hops Experiment」というリヴァプールのサポーター専用のビールまであるというから驚きだ。
記事が気に入ったらクリックしてね