FC2ブログ
酒を呑んで映画を観る時間が一番幸せ・・・と思うので、酒と映画をテーマに日記を書いていきます。 映画の評価額は幾らまでなら納得して出せるかで、レイトショー価格1200円から+-が基準で、1800円が満点です。ネット配信オンリーの作品は★5つが満点。
■ お知らせ
※基本的にネタバレありです。ご注意ください。
※当ブログはリンクフリーです。内容の無断転載はお断りいたします。
※ブログ環境の相性によっては、TB・コメントのお返事が出来ない事があります。ご了承ください
エロ・グロ・出会い系のTB及びコメントは、削除の上直ちにブログ管理会社に通報させていただきます。 また記事と無関係な物や当方が不適切と判断したTB・コメントも削除いたします。
■TITLE INDEX
タイトルインディックスを作りました。こちらからご利用ください。
■ ツイッターアカウント
noraneko285でつぶやいてます。ブログで書いてない映画の話なども。
■ FILMARKSアカウント
noraneko285ツイッターでつぶやいた全作品をアーカイブしています。
「鬼滅の刃」 無限列車編・・・・・評価額1650円
2020年10月20日 (火) | 編集 |
一人は皆のために、皆は勝利のために。

コロナ禍で世界中の映画館が存亡の危機に陥るなか、オープニング三日間で動員342万人、興行収入46億円と言う空前の数字を叩き出し、日本における興業街の救世主となった驚異のブロックバスター。
昨年TVシリーズが放送され、社会現象となった吾峠呼世晴原作のジャンプ漫画「鬼滅の刃」シリーズ初の劇場版だ。
外崎春雄監督をはじめ制作チームも共通。
TVシリーズの最終回からそのまま繋がる「無限列車編」は、シリーズ屈指の名キャラクターである炎柱・煉獄杏寿郎を中心とした物語だ。
先日公開されて、見事なフィナーレを飾った「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」と同じく、TVとの連結作品のため映画単体では成立していないが、タッチもノリもTVシリーズのまんま、ファンが観たかった続編を見せてくれる。

乗客たちが次々と行方不明となっているという、無限列車に乗り込んだ炭治郎(花江夏樹)たちは、鬼殺隊炎柱の煉獄杏寿郎(日野聡)と出会う。
しかし、列車は十二鬼月下弦の壱・魘夢(平川大輔)の支配下にあり、炭治郎たちも彼が巡らせた策略によって眠らされてしまう。
そこは亡った者たちが生きている、永遠の夢の世界。
現実世界を忘れかかったその時に、ようやく自分が夢を見させられていることに気付いた炭治郎は、禰󠄀豆子(鬼頭明里)の鬼血術・爆血を浴びたことをきっかけに覚醒。
善逸(下野紘)、伊之助(松岡禎丞)、杏寿郎も相次いで覚醒するが、魘夢は列車全体と一体化していて、彼らは二百人の眠ったままの乗客を守りながら、魘夢の頸を探さねばならなくなる・・・


私はTVシリーズから入って原作を読みはじめたのだが、それは23巻で完結することが分かっていたから。
この歳になると、自分が生きてる間に終わるかどうかも分からない作品に、延々と付き合う根気は持てないんだな。
原作に忠実な表現ではあるものの、TVシリーズでものすごく細かく思考や状況を台詞で説明するスタイルには最初は結構違和感があった。
映像は美しく、動きも作り込まれているために、ここまで言葉で伝える必要があるのかと思ったのだが、長いシリーズならではの強みで、いつしかそれも特色と感じるようになった。
台詞過多は劇場版でも踏襲されているが、単体作ではなくあくまで全体の一本だからこれで良いと思う。
まあ一部のシネフィルには、こんなん映画じゃないとか言われそうだけど。

「鬼滅の刃」は典型的なヒーローズジャーニーの話型がベースになっているが、大きな特徴が主人公をはじめとした登場人物の行動原理が、揃って“利他”であることだ。
冒険に出るきっかけは、いわば天命。
しかし、主人公の竈門炭治郎の動機は、鬼になってしまった妹の禰󠄀豆子を人間に戻す方法を見つけるためで、決して自分のためには動かない。
利他の行動原理は、主要登場人物から鬼殺隊の末端の名もなき剣士たちまで広く共有されて物語のテーゼとなり、敵対する鬼たちの行動原理である“利己”をアンチテーゼとして、ジンテーゼを導き出す構造。

しかし利己と利他は結構危ういモチーフだ。
人間社会はこの二つがバランスすることで成り立っていて、利己が行き過ぎると社会全体が崩壊し、利他に重きを置き過ぎると個が蔑ろにされてしまう。
強制的に利他を強いられる、究極のシチュエーションが戦争である。
では訳もわからぬうちに戦場に駆り出される若者たちと、本作の登場人物は何が違うのかというと、個々の中での目的意識の明確さだろう。
デュマの「三銃士」がルーツで、今ではラグビーの標語として有名な「One for all, All for one」という言葉がある。
これ「一人は皆のため、皆は一人のため」だと思っている人が多いだろうが、実は「一人は皆のために、皆は勝利(目的)のために」が正解。
前の訳だと、「一人」と「皆」の区分がうやむやで、何をしたいのかも分からないが、後の訳だと「一人」が集まって「皆」となり、共通の「目標」を遂げようとしているのが明瞭だ。

過去に人気を博したジャンプ漫画と比較すると、本作が独特なのは世界が最初から無情に満ちていること。
いつ鬼に襲われて死ぬか、予測不能のおそろしい世界。
原作の中で鬼の頭領である鬼舞辻無惨が、炭治郎に向かってこんなことを言う。
「身内が鬼に殺されたのは、火事や地震で死んだのと同じ。自分は幸運だったと思って元の生活を続けるがいい」と。
要するに「生殺与奪の権はお前らには無いのだから、諦めろ」といっているのだ。
一人ひとりは弱い人間である本作の登場人物は、一人から皆になることでそんな状況に徹底的に抗う。
鬼殺隊の剣士は皆家族や大切な人を鬼に殺されている設定だが、本作は犠牲者の無念をはらし、平和な世を作るという利他を動機に、個人の生き様を描いているのである。

もっとも、本作が熱狂的な支持を受けるのは、日本人が大好きな幕末の志士を思わせる、自由意志に基づく究極の利他を描いているから、だけではないだろう。
例えば登場する多くの鬼たちには、無惨の誘惑に堕ちざるを得なかった切実な動機があり、彼らを人間を捨てるまでに追い詰めた社会の理不尽もじっくりと描かれている。
剣技に劣り、鬼との戦いの最前線に立つことが恐ろしくなってしまった鬼殺隊員たちにも、ちゃんとそれぞれの居場所が用意されていて、決して見捨てられることはない。
端的に言えば「鬼滅の刃」という作品は、絶対悪であり「存在してはいけない生物」である無惨以外の全ての生命に対して優しいのである。
少年少女たちが過酷ないばらの道を歩む物語の裏側にある優しさこそが、今の時代の閉塞した日本人の琴線に触れた最大の理由だと思う。

もちろんこういったテーマ性は重要だが、アクション作品は動いてなんぼ。
TVシリーズも頑張っていたが、本作は劇場用映画として文句無し。
見どころは、それぞれのキャラクターが繰り出す呼吸の剣技だが、止まった白黒画である原作に対し、縦横無尽に動くアニメーション表現はカラフルで楽しい。
ジャンプ漫画の映画化は、ずーっと戦いっぱなしになってしまうことが多く、それはそれで面白いのだが、本作は中盤の魘夢VS炭治郎&猪之助、終盤の猗窩座VS杏寿郎のバトルシークエンス以外に、それぞれのドラマもきっちり描かれていて見応えがある。
そして適度なタメがあるからこそ、クライマックスの猗窩座VS杏寿郎は圧巻だ。
赤と青の魂の激突は、アニメーション活劇の歴史に残ると断言してもいい過ぎではないだろう。
とりあえず杏寿郎がカッコよすぎて、その生きざまに泣けて、成長途中の炭治郎が主役なの忘れそうになるのだが、これは原作もそうだから仕方ない。
制作のユーフォーテーブルの仕事は、十分に称賛に値する。
今後はたぶん来年中にTVシリーズの第二期をやって、再来年に全体のクライマックスに当たる無限城での戦いを、前後編の劇場版二部作でやってエンドと予想。
原作は完結してるから、あまり引っ張ることもできないだろうし。
本作の余韻を胸に、続きを楽しみに待ちたい。

今回は飛騨の老田酒造の「鬼ころし 怒髪衝天辛口 純米原酒」をチョイス。
鬼ころしという銘柄は、なぜか商標登録されていなかったことで全国に100以上も同名の酒があるのだが、元祖と言われているのが1716年創業の老田酒造である。
名前の由来も「鬼を殺すほどうまい」、いやいや「鬼を殺すほどまずい」など諸説あるが、老田酒造によると本来は「鬼を殺すほど辛い」だったそうだ。
安いカップ酒やパック酒に名前が使われたせいで、どちらかというと今ではまずい酒の代名詞のようになってしまってるが、こちらは元祖だけになかなか。
ただし、鬼を殺すほどの辛さなので、好みは分かれるだろう。
飛騨牛などと相性が良いが、痺れるほどの辛口が好きな人にだけお勧めだ。

ランキングバナー 
記事が気に入ったらクリックしてね



[商品価格に関しましては、リンクが作成された時点と現時点で情報が変更されている場合がございます。]

【老田酒造店】 鬼ころし 怒髪衝天辛口 純米原酒 1800ml
価格:2661円(税込、送料別) (2020/10/20時点)



スポンサーサイト



ラストブラックマン・イン・サンフランシスコ・・・・・評価額1700円
2020年10月17日 (土) | 編集 |

街の歴史、家族の歴史。

サンフランシスコの外れに住む、若い黒人男性のジミーと親友のモントの物語。
うらぶれた生活を送るジミーは、幼い頃に祖父の家で過ごした思い出を大切にしていて、いつか家を買い戻そうと考えている。
だが、その想いとは裏腹に、サンフランシスコの不動産は高騰し続け、時間が経てばたつほどハードルは上がるばかり。
ある時、家が一時的に空き家になることを知ったジミーは、思い切った手段に出る。
これは主演のジミー・フェイルズの半自伝的な物語であり、監督のジョー・タルボットは劇中では劇作家志望の親友モントにあたる。
故郷のサンフランシスコと、この街に生きた一族の歴史への、切なさに満ちたラブレターであり、ユニークな視点を持つ人間ドラマだ。
若手監督の抜擢には定評のある、ブラット・ピット率いるプランBエンターテイメントとタルボットとフェイルズが設立したロングショット・フィーチャーズが共同で制作し、昨年のサンダンス映画祭監督賞ほか、高い評価を受けた作品だ。

ジミー・フェイルズ(本人)は、サンフランシスコのハンターズポイントに住む、親友のモント(ジョナサン・メジャース)の部屋に居候している。
彼は暇ができると、幼い頃を過ごした祖父の家に向かう。
1946年に、サンフランシスコの“ファーストブラックマン”となった祖父が建てた家は、今では高級住宅地となったフィルモア地区にある。
ヴィクトリア朝様式の家には、沢山の思い出があり、ジミーはいつの日か家を取り戻したいと思っている。
今の住人は家の手入れをしないので、荒れ放題になるのを見ていられず、勝手に入り込んではペンキを塗ったり修理をしているのだ。
ある日、二人が家に向かうと、引越し業者が荷物を運び出している。
住人の家族に相続問題が起こり、急遽引っ越すことになったという。
相続問題の解決には歳月がかかり、家が数年間空き家になるかもしれないことを知ったジミーは、家を不法占拠して既得権を主張することを思いつくのだが・・・・


10年以上暮らした私の第二の故郷でもあるサンフランシスコは、かつては誰もが夢を見られる街だった。
西部開拓時代には小さな漁村だったが、カリフォルニアで金鉱が発見されると一攫千金を夢見る開拓者たちが集まり、1949年の一年だけで人口が実に25倍となった。
ゴールドラッシュ時に流入した人々は“49ers”と呼ばれ、後にこの街を代表するアメフトチームの名前となったことで現在に名を残している。
合衆国発祥の地である東部から遠く離れ、自由な気風に富んだサンフランシスコ・ベイエリアは、全米でもっとも先進的で、誰をも受け入れた。
劇中で言及されるように、第二次世界大戦前には日本人移民が街を広げ、戦時中の強制収容で彼らの家が空き家となると、南から黒人たちがやってきた。
戦後には、保守的な地域で迫害された同性愛者たちがコミュニテイを作り、ゲイの街と呼ばれるようになり、70年代になるとコッポラやルーカスが移り住み、ニューシネマの西の拠点となる。
サンフランシスコで起こったムーブメントは、数年遅れて全米のムーブメントとなる、そんな街だったのだ。

ところが90年代の終わりから始まったITバブルは、街の様相をすっかり変えてしまった。
もともと半島の先端にある非常に狭い街である。
急増する不動産需要で雨後の筍のように高層コンドミニアムが建てられ、それでも足りずにかつては安くて治安が悪かった地区にも開発が及ぶ。
わずか20年で若者や低所得者たちはあらかた街から消え、街全体がIT長者たちの住む高級住宅地となり、かつてのアヴァンギャルドなサンフランシスコはもう存在しない。
ジミーの祖父の家があるフィルモア地区も、高騰する家賃に耐えかねて黒人住民が去り、今では白人の街となっている。
この物語は現実のジミー・フェイルズの祖父が死去した後、一族が税金を払えずに家を差し押さえらた話が元となっており、劇中で祖父の家の現在の価格とされるのは400万ドル。
フィルモアのヴィクトリアンハウスとしては安いくらいだが、家を手放したとされる90年代には、しても100万ドル台だったと思う。
もはや何をどうしようと、貧乏暮らしのジミーが手を出せる額ではないのだが、彼は家が無人になったのをいいことに、無理やり昔の家具を運び込んで不法占拠してしまう。

なぜ彼はそこまでして祖父の家に執着するのか。
それは過去の思い出だけが、彼が誇れることだからだ。
現在ではジミーの家族は離散してしまい、安アパートに暮らす父親とは反りが合わず、母親は離婚してどこに暮らしているのかも知れない。
唯一、祖父の家にあった家具を保管している叔母一家だけがベイエリアに住んではいるが、市内からは遠く離れた地区。
夢を見られる街サンフランシスコで、一族でただ一人何者かになれた者は、街の“ファーストブラックマン”として、誰かの家を奪うことなく、自ら家を建てた祖父だけなのである。
今がどん底だからこそ、彼は思い出の家を継承することで祖父の血と誇りを受け継ごうとしているのだ。
しかし言葉を変えれば、彼は誇りと現実のギャップに迷い、この街と家に執着することで自らの可能性を捨てている。

誰よりもジミーのことを心配し、寄り添おうとしているモントは、不動産エージェントとの直談判で、家のルーツに関する知りたくなかった秘密を知ってしまう。
もはやジミーが無理をしてまで家を欲する理由は無く、アマチュア劇作家であるモントはある驚くべき方法を使って、彼に痛すぎる真実を伝えるのである。
ひたすら祖父の思い出に執着するジミーが、現実を受け入れ”ラストブラックマン”となるその時まで、彼に寄り添うモントの友情が心を打つ。
一族の家族史と、街の長い歴史を組み合わせることで、本作は非凡な視点を持ち、故郷への哀切な願望があふれだす非常にユニークで力強い作品になっている。
終盤、バスの中で二人組の女性が「サンフランシスコはもう終わってる。他に移る」という話をしていて、それを聞いたジミーが「サンフランシスコを貶さないでくれ」と寂しそうに言うのが強く印象に残る。
面白いのが、現実をベースとしたリアリティのある作劇と、時に白昼夢を感じさせるシュールで寓話的なテリングが対照的なこと。
いつくかのシーンはまるで演劇のステージの様で、「これ演劇原作なのかな?」と思ったのだが、そう言う訳ではなさそう。
ただ全体をモントの書いた演劇の戯曲、というイメージで作っているのかもしれない。
しかしこれ、ある意味で究極のローカルムービーであり、“サンフランシスコ”を肌で知らないと、イマイチ咀嚼しにくい作品な気がする。

今回はまんま「サンフランシスコ 」をチョイス。
スウィート・ベルモット20ml、ドライ・ベルモット20ml、スロー・ジン20ml、アンゴスチュラ・ビターズ1dash、オレンジ・ビターズ1dashを氷を入れたミキシング・グラスでステアし、カクテル ・グラスに注ぐ。
ピンに刺したマラスキーノ・チェリーを飾って完成。
映画はビターだが、こちらはやや甘口で、複雑な香りが都会の夜を演出してくれる。

ランキングバナー 
記事が気に入ったらクリックしてね





ショートレビュー「浅田家!・・・・・評価額1650円」
2020年10月12日 (月) | 編集 |
写真の持つ、本当のチカラ。

「家族」をモチーフに、写真を撮り続けている写真家の浅田政志の物語を、「湯を沸かすほどの熱い愛」「長いお別れ」など、やはり一貫して「家族」のカタチを描いてきた中野量太監督が映画化した作品。
映画の前半は三重県津市に育った政志が、紆余曲折の末に家族写真集「浅田家!」を出版し、やがて写真家として世間に認められるまで。
原作となっている「浅田家!」は、確か2009年に賞をとった頃だったと思うが、書店で見たことがある。
人生は劇場。
ある意味誰もが人生で役を演じていて、成りたかった自分と現実の自分を持っている。
家族と一緒にコスプレして、色んな人生を擬似体験するというアイディアが面白く、「こりゃ楽しそうなことやってるな」と思った。
政志は写真に撮ることで虚実の境界を取り去るのだが、それは実はこの映画がやっていることそのものだと言うメタ構造がユニークだ。
しかしテンポよく、コミカルなタッチで展開する映画は、中盤でガラッと世界を変える。

後半部分の原作となっているのは、2015年に出版された政志と編集者の藤本智士の共著「アルバムのチカラ」だ。
これは東日本大震災後に被災地に向かった政志が、津波に流されて泥だらけになった写真を洗浄し、持ち主に返す活動をしているボランティアと出会い、彼らの活動を支援して行った記録。
映画では一か所が舞台になっているが、写真の回収と返還のボランティア活動は各地の避難所で同時多発的に始まっていて、政志は彼らを取材することで写真洗浄のノウハウを広げていく。
彼はこの活動を通して、家族写真の持つ本当の価値に気づくのだ。
たった一枚の写真が、記憶を蘇らせられる。
写真は、同じ時間を共有してきた家族のための記憶の器であり、それが何十年前のものだったとしても、もうこの世界にはいない人たちを心の中に生かし続けるのである。
ボランティアが救い出した写真の数々が、全てを失い絶望に打ちひしがれた残された人たちの心を癒し、ささやかな希望となってゆく。
写真が思い出を、思い出が現在を、現在が未来を動かすエネルギーとなる。
それが「アルバムのチカラ」であり、家族写真の持つ本当のチカラなのだ。

二宮和也が繊細に表現する、主人公のキャラクターがいい。
写真学校へ行ったものの、突然タトゥーだらけになって帰ってきたかと思えば、卒業後は就職もせずにグータラしてパチスロ三昧。
やる気スイッチが入らないと、典型的なダメ人間
だけど、彼は破天荒だけど誠実。
ダメ人間な様でも、やるときゃやる。
ファインダーの向こうにチラリと見える瞳が、台詞よりも雄弁に感情を語る。
黒木華が演じる、幼なじみで腐れ縁状態の恋人との掛け合いも、かわいくて可笑しい。
冒頭のシーンに仕掛けられた遊び心も楽しいが、題材がグッとシリアスになる後半では、中野量太の持ち味であるユーモアが影を潜めてしまうのはちょっと残念。
まあ、あの悲劇的なシチュエーションではさすがに難しく、無い物ねだりなのは分かってるけど。
驚かされたのは洗浄ボランティアの小野くんを演じた菅田将暉で、スターのオーラを完全に消し去り、ラスト近くでアップになるまで誰が演じているのか全く分からなかった。
この人は主役から二番手三番手まで、変幻自在だな。
まさにカメレオンアクター。

今回は岩手を代表する地酒銘柄、陸前高田市の酔仙酒造の「純米大吟醸 鳳翔」をチョイス。
酔仙は東日本大震災の津波被害で、工場を丸ごと流されるという壊滅的な被害を受けたが、全国の飲兵衛のエールを受けて翌年復活。
今もおいしいお酒を送り出し続けている。
こちらも、豊かな吟醸香と柔らかな口当たりが楽しめる芳潤な酒だ。

ランキングバナー 
記事が気に入ったらクリックしてね






82年生まれ、キム・ジヨン・・・・・評価額1650円
2020年10月10日 (土) | 編集 |
韓国で、女性として生きることとは。

16か国言に翻訳され、各国で広く共感を集めたチョ・ナムジュのベストセラー小説、「82年生まれ、キム・ジヨン」の映画化。
1982年に生まれ、夫と一人娘とともにソウルに暮らす33歳のキム・ジヨンに、ある時から奇妙な言動が現れる。
それはまるで彼女の母親や親友といった、近しい女性たちが憑依したかの様で、ジヨンにはそうなっている間の記憶がない。
平凡な主婦だった彼女は、一体なぜ心の病を発症してしまったのか?
映画は彼女の人生を紐解き、韓国社会で女性として生きることの難しさ、目に見えない透明な差別を描き出してゆく。
主人公のキム・ジヨンを、チョン・ユミが好演。
夫のチョン・デヒョンを、彼女と三度目の共演となるコン・ユが演じる。
俳優として長いキャリアを持ち、監督としていくつかの短編で高い評価を受けたキム・ドヨン監督が、見事な長編デビューを飾った。
※ラストに触れています。

キム・ジヨン(チョン・ユミ)は、夫のチョン・デヒョン(コン・ユ)と娘のアヨンと共に、ソウルのマンションに住んでいる。
彼女はもともと広告代理店で働いていたが、娘の出産を機に退職し、今では専業主婦だ。
秋夕の連休に、三人で夫の実家に里帰りした時、事件が起こる。
突然ジヨンが母親のオ・ミスク(キム・ミギョン)そっくりの口調で、夫の家族を非難し始めたのだ。
驚いたデヒョンは、その場を取り繕ってソウルに帰るが、妻はその出来事を全く覚えていない。
デヒョンは、彼女に何が起こったのかを隠したまま、精神科を受信することを勧めるも、高額な料金を知ったジヨンは受診してくれない。
その後も、ジヨンは亡くなった先輩そっくりに話したり、異常な症状が出ては消えるを繰り返す様になる。
そんな時、代理店時代の上司が独立して新会社を立ち上げることを知ったジヨンは、再就職を決意するのだが・・・


期待通りの素晴らしい仕上がりだ。
タイトルロールを演じるチョン・ユミと、夫役のコン・ユは安定感抜群。
二人は、ゾンビ映画の歴史を書き換えた「新感染 ファイナル・エクスプレス」以来の共演だが、これで「トガニ 幼き瞳の告発」と合わせて、共演作全てが秀作となった。

韓国で130万部を超える大ベストセラーとなった原作小説の表紙は、髪の長い女性の肖像が描かれていて、その顔の部分だけがくり抜かれ、向こうには荒涼とした荒野の風景が広がっている。
この世代でもっとも平凡な名前を持つ、顔のないキム・ジヨンは全ての女性の象徴であり、荒野は女性たちが生きている世知辛い社会というわけだ。
小説は、心を病んだジヨンが夫と共に精神科を受診し、主治医が彼女が生まれてから辿って来た人生を聞き取り、記録したカルテという設定で展開する。
2016年のソウルを起点とし、1982年の出生から現在までが時系列に沿って描かれているのだが、女性の生きづらさを表現するための、小説ならではの様々なロジックが駆使されている。
例えば、小説の男性は夫のデヒョン以外は名前が与えられていない。
女性のキャラクターは全て名前が付けられているのに、男性は「父」「弟」と言った具合で名前がないのだ。
これは韓国社会で既婚女性が「○○のママ」「○○の奥さん」などと呼ばれ、個としての名前を失ってゆくことの反転だという。

しかし、こういった文学的手法は映画では使えないし、第三者視点のカルテ設定も無理がある。
映画は基本キム・ジヨンの一人称的な視点に夫の視点が混じり合う形で描かれ、現在の夫婦の関係を軸として、彼女の回想として過去を振り返るという構成となっている。
もっとも、精神科受診が終盤に移動している以外は、中盤まで話そのものは非常に忠実。
過去の描写が減った分、原作で大きな比重を占めていた、ジヨンの祖母から三代に渡る女性の社会的ポジションの変化といった時代性の要素は希薄になっているものの、現在の主人公の感じてる生きづらさ、見えない差別にフォーカスしたのは正解だと思う。
過去パートが物足りないという人には、日本では初夏に公開された「はちどり」が、ちょうど本作の主人公と同世代となる少女の90年代を描いていて、テーマ的にも共通する部分があるのでお勧めしたい。

韓国の女性というと思い出すのが、私が80年代の終わりに米国に留学していた時に、遊び仲間だったAさんのことだ。
ある時、彼女が泣いていて、聞くと仲の悪い同郷の留学生に「Aさんは処女じゃない」と噂を流されて、それが韓国人留学生たちの間に広まってしまったのだという。
「韓国では処女じゃないとまともな結婚はできない。こんな噂が韓国に伝わったら人生が終わっちゃう」と泣く彼女を慰めつつ、なんと大時代的なと驚いた。
まあ当時の韓国人留学生は財閥の御曹司がいたり、ちょっと特殊な村社会的なグループで必ずしも一般的ではなかったかもしれないが。
80年代生まれのジヨンとは、ちょうどひと回り上の世代だが、本作を観ると価値観に隔世の感があり、改めて韓国女性の置かれているポジション、いや韓国社会そのものが、いかに短期間のうちに急激に変化したのかを実感する。

だが、変わる部分もあれば、なかなか変わらない部分もある。
家族の中で男子を優先しがちなこと、出産後に会社に残りづらい硬直した仕組み、家事や育児がワンオペになりがちなこと、専業主婦を下に見る風潮。
社会に不文律として組み込まれた理不尽が積み重なり、平穏な日常は気づかないうちに静かな生き地獄となる。
「ガラスの天井」という言葉はよく聞くが、ジヨンは階段を上がる以前に道を歩くたびに現れるガラスの壁にぶつかり、いつの間にか出口の無い密室に閉じ込められてしまったのだ。
たぶん彼女が感じているガラスの壁、透明な差別というのは、ベースの部分でよく似た文化を持つ日本の事情ともほぼ完全に一致するのではないか。
作中で印象的に使われている、「ママ虫」という言葉がある。
専業主婦は、夫の収入に寄生して楽して生きている害虫だという、非常に侮蔑的な言葉なのだが、映画の冒頭でサラリーマンからこの言葉を浴びせられたジヨンは、ショックを受けて逃げる様に立ち去ってしまう。
ところが、映画の終盤で精神科に通い始めた彼女は、再び「ママ虫」という言葉を使った男に対して、毅然として反論するのだ。

実は映画の後半は、原作小説と結構異なる。
ジヨンの再就職への挑戦が一つの山場となるが、これは映画のオリジナル。
物語の最後も、小説では彼女の主治医である男性医師が、「私は韓国で女性として、特に子どもを持つ女性として生きるとはどんなことなのか知っている」と言いつつも、出産のために退職する同僚の替りに「未婚の女性を探さなくては」という非常に皮肉な言葉を吐き出して終わる。
対して映画でジヨンの主治医になるのは女性で、物語の終盤にやっと受診した彼女に、「心の病気は(自覚症状がないので)病院に来るまでが大変で、来た時点で治療は半分成功」と告げる。
また夫のデヒョンの、男性として、夫としての葛藤描写、病気を知ったジヨンの実家の家族の描写も増えていて、全体にジヨンが周りの家族に包み込まれる様な構図となっている。
女性の生きづらさだけではなく、では周りはどうあるべきかをも描こうとしているのが映画の大きな特徴だ。

そして物語そのものも、主治医のカルテではなく、もともと作家志望だったジヨン本人が自分の半生を振り返って執筆した小説、というメタ構造に落とし込まれる。
この辺りは、放送作家として活躍していたチョ・ナムジュが、出産と育児のために退職せざるを得なくなった自分自身をモデルとして、原作小説を執筆した事実を取り込んだのだろう。
また小説には社名が出てこないジヨンの元上司が立ち上げる会社「春風」は、監督のキム・ドヨンが本作の製作のために作った映画会社と同名であり、作り手も自分をジヨンと同一視しているのが感じられる。
終始客観的な視点で、女性が韓国で生きる苦悩を描写した小説に対し、映画は顔の無い全女性の象徴ではなく、キム・ジヨンという個性に溢れ、それでいて誰もが感情移入出来る一人の女性の生き様をドラマチックに描く。
ビターな後味を残す小説と、明確なハッピーエンドを迎える映画、好みは分かれるだろうが、物語の閉じ方はこれはこれでアリ。
女性目線で共感できるのはもちろん、男性目線だといろいろ気づきを与えてくれる映画なので、デートムービーとしても最適だと思う。

今回は、コーヒーが重要なアイテムとなっているので、コーヒーリキュールを使った暖かカクテル「ホット・カルーアミルク」をチョイス。
カルーア30mlを入れたマグカップに、暖めたミルク適量を注ぎ入れる。
お好みで、ホイップクリームやシナモンパウダーなどを加えて完成。
コーヒー牛乳っぽいテイストの甘いカクテルで、飲むと体がホカホカしてくるのでこれからの季節にぴったりだ。

ランキングバナー 
記事が気に入ったらクリックしてね





ショートレビュー「甘いお酒でうがい・・・・・評価額1650円」
2020年10月04日 (日) | 編集 |
美味しいお酒と恋の予感。

これは穏やかで、とても好きな映画だな。
アラフォーというよりアラフィフの、松雪泰子演じる独身女性・川嶋佳子の日常を、日記形式で淡々と紡いでゆく。
川嶋佳子は、元々はお笑いコンビの「シソンヌ」のじろうが演じてきた、コントのキャラクターなのだとか。
じろうが自身の小説を元に脚本も担当し、「勝手にふるえてろ」で鮮烈な印象を残した大九明子が監督を務める。
主要な登場人物は、佳子と黒木華が怪演する同僚の若林ちゃん、それに清水尋也の岡本くんの三人だけで、佳子の一人称で語られる物語はサブプロットを持たない完全な一本道。
彼女の半径10メートル以内で展開する、限りなくミニマルな世界だ。

序盤は佳子目線で描かれる、ごく普通の毎日の情景
仕事して、家飲みして、給料日には若林ちゃんと飲みにいく。
時にはブラリとショートトリップに出かけることも。
メインの三人は、ともに同じ出版社に勤めているのだが、具体的にどういう仕事をしているのかなど、ディテールは全く描かれない。
基本的に、本作の描写の全ては実像というよりも佳子の心象
だからお酒を飲みながら肝臓が体を飛び出したりしちゃうし、職場の風景もどこか機械的でシュール。
出世欲などの野心を持たない彼女の人生とって、”仕事”というのは生きてゆくための手段にすぎず、必要ではあるがさほど重要な意味を持たないのだろう。

映画の中盤辺りまでは、静かで落ち着いた雰囲気の佳子よりも、コロコロ表情が変わる若林ちゃんの方がグイグイくる。
「半沢かよ!」とツッコミたくなるほど、オーバーアクション気味に多彩な表情を見せる黒木華が本作のおもしろパートを担当し、コミカルに物語が進行する。
とは言っても、すごくドラマチックなことは起こらない。
平凡な日常に訪れるささやかな幸せを楽しみ、気張らず、無理せず、今の自分をナチュラルに受け入れて生きてゆく。

しかし若林ちゃんの後輩で、佳子よりも二回りは若い、岡本くんが登場する辺りから、恋の予感に佳子の世界が一気に艶めいてくるんだな。
性別は違うが同じアラフィフの一人者として主人公にどっぷり感情移入し、大九明子の術中にはまる。
やはり幾つになっても、恋の衝動には抗えない。
歳の差に遠慮しつつ、ついついときめいてしまう松雪泰子がめっちゃ可愛い。
酒飲みで、なぜかグラッパでうがいするという不思議なルーティンを持つ彼女に、惚れてしまいそうだ。
観終わった直後よりも、後からジワジワ余韻がくる、そんな映画だ。

関係ないけど、ごくごく普通の日常的なシチュエーションに終始する本作。
自転車で疾走する佳子に「もしここで車が突っ込んできたら」とか、三人が海へドライブするところで「実は全員死んでいて・・・」とか、ついつい考えてしまうホラー脳をなんとかしたい。

今回はシボーナ社の「グラッパ ディ バルベーラ」をチョイス。
グラッパはイタリア原産のブランデーの一種だが、ワインを使わずぶどうの搾かすから蒸留されるのが特徴。
普通は熟成させないのだが、こちらは樽熟成させているので、美しい琥珀色をしていてフルーティーな香りも楽しめる。
まあそんな甘くはないと思うし、さすがにこれでうがいするのはもったいない。
佳子もうがいと言いつつ飲んじゃってたし(笑

ランキングバナー 
記事が気に入ったらクリックしてね