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怪物・・・・・評価額1750円
2023年06月07日 (水) | 編集 |
怪物だーれだ。

湖のある街の小学校で起こった、生徒と教師のトラブル。
最初は単純な教師の暴力行為と思われたが、真っ向から食い違う証言に事態は次第に混迷を深めてゆく。
はたして嘘をついているのはどちらなのか?子供たちの言う「怪物」とは誰のことなのか?
是枝裕和が監督を務め、「花束みたいな恋をした」の坂元裕二がオリジナル脚本を手掛けたウェルメイドな心理劇。
発端となる生徒の母親に安藤サクラ、暴力を振るったと疑われる教師に永山瑛太。
キーパーソンとなる二人の子供を黒川想矢と柊木陽太が演じる。
第76回カンヌ国際映画祭で、脚本賞とLGBTQを扱った作品に与えられるクイア・パルム賞に輝いた話題作であり、「万引き家族」と並ぶ是枝裕和のキャリアベストだ。
三月に死去した坂本龍一にとっては、これが映画音楽家としての遺作となる。
※核心部分に触れています。

麦野早織(安藤サクラ)は、一人息子で小学5年生の湊(黒川想矢)と共に、大きな湖のある山間の街に住んでいる。
夫はすでに亡く、クリーニング店に勤めながら、子育てに奮闘するシングルマザーだ。
しかし、ある日を境に湊の様子がおかしくなる。
問い詰めると、担任の保利(永山瑛太)に暴力を振るわれていると言う。
早織は学校に抗議に行くが、校長の伏見(田中裕子)はのらりくらりと事務的な対応に終始し、ようやく現れた保利の言葉も要領を得ない。
一方で保利は、湊がクラスメイトの星川依里(柊木陽太)をいじめているのではないかと疑っていて依里の家を訪ねる。
ところが、現れた父親の清高(中村獅童)は息子のことを「あれはね、化け物ですよ。頭の中に、人間じゃなくて豚の脳が入ってるの」と言い放つ。
学校の暴力事件はマスコミに報じられ、保利は教職を追われるが、何が真実なのかは藪の中。
そんな時、台風が接近する嵐の夜に、湊と依里が突然いなくなる・・・

カンヌで最高賞に当たるパルム・ドールを獲得した「万引き家族」以降、是枝裕和はフランスと韓国を舞台に「真実」「ベイビー・ブローカー」という映画を撮った。
この二本は共に家族をモチーフに、非常に是枝色の強い作品になっていたが、正直なところ人物や物語の掘り下げが浅く、彼の作品としては印象が薄かった。
その原因の一つが、自分で脚本を手掛けていることだと思う。
フランスはもとより、隣国の韓国でも国民性や文化はだいぶ違う。
もちろん綿密な取材は行っているのだろうが、異文化を舞台に外国人が一から物語を作るのは難しい。
いかに是枝裕和をもってしても、表層的なものになってしまった感は否めない。
現地の脚本家を入れてチームを組んだら、結果は違ったものになったかも知れないが、彼は自分のスタイルを変えようとはしなかった。

ところが、5年ぶりで日本で撮った本作は、坂元裕二の書き下ろしである。
是枝裕和が自分で脚本を書かないのは、荻田芳久が脚色を担当したデビュー作、「幻の光」以来のことなのだ。
これは大きな賭けだったと思う。
坂元裕二の作品は、全ての要素が緻密な計算のもとに構成されていて、曖昧さが微塵も無い。
モザイク画のように、一欠片の色が違っていても違和感を感じさせてしまう様な繊細さが特徴だ。
対して、ドキュメンタリスト出身の是枝裕和は、臨機応変に枠を動かす。
子供をキャスティングすれば本名と役名を同じにし、脚本を渡さずに即興性の強い半ドキュメンタリー的な演出でナチュラルさを引き出す。
いわば真逆の個性で、二人がコラボすると聞いた時は、恐ろしく食い合わせが悪いのでは?と思った。
結果的にこの心配は杞憂に終わり、どこまでも坂元裕二的な物語でありながら、終わってみたら是枝裕和の完全な作家映画という、超一流の仕事人同士の理想的なマリアージュとなっている。
ちなみに今回は、子供たちにも事前に脚本を渡し、大人と同じ対応をとったそうだ。

坂本裕二の脚本は、小学校で起こった暴力事件の顛末を三つの視点で描く、いわゆる羅生門ケースの構成となっていて、各パートがおおよそ40分。
最初の視点の主は、安藤サクラ演じる母親の早織だ。
夫を事故で亡くし、女手一つで思春期の息子を育てるシングルマザー。
息子の湊とは仲が良いが、ある日を境にして湊の様子が変わる。
突然髪を自分で切る。夜遅くまで出歩く。車から飛び降りるという奇行に、早織が何があったのかと問い詰めると、自分の頭には豚の脳が入っていると教師の保利から暴言を浴びせられ、暴力を振るわれたと告白する。
当然、早織は学校に抗議に出向くが、この時点で観客は、子供のことを考え、ひたむきな早織にどっぷり感情移入している。
事務的な言動に終始する校長や言動が要領を得ない保利も含め、教師たちはおしなべて不誠実に映る。

だがしかし、保利の視点で語られる物語が始まると、印象は一変する。
学校に赴任して来たばかりの保利は、生徒一人ひとりに寄り添おうとしている誠実な教師
ある日、教室で湊が訳もなく暴れているのを止めようとして、小さな怪我を負わせてしまう。
それ以来、保利の中で湊は要注意の生徒となり、いくつかの出来事が重なって、学級内でいじめが起きているのではないかと疑う様になる。
いじめているのは湊で、被害に遭っているのは男子生徒の中では体が小さく、女子とばかり話しをしている中性的な雰囲気の依里だ。
そんな時に、自分が暴力を振るったとして、突然湊の母親が学校に怒鳴り込んで来たのだから、保利にとっては青天の霹靂
事態を丸く治めるために、校長や上司たちからやってないことをやったと言わされるのだから、要領を得ないのもやむを得ないのである。

この様に、事実関係の認識が異なる噛み合わない大人視点の後に、本当に何が起こったていたのか、湊と依里、二人の子供視点の物語が全てを解き明かす。
浮かび上がるのは、切なくて小さな嘘。
湊と依里は、お互いにほのかな恋心を芽生えさせているのである。
ここへ来て、それまでの大人視点で語られた物語で、大人たちがいかに二人にプレッシャーを与えていたのかも明らかになる。
不倫旅行中に事故にあった夫に対し、意地にも似た複雑な想いを抱える早織は、湊が結婚して家庭を持つまで頑張ると言う。
保利は、体育の授業で無意識に男らしさを男子生徒に求める。
依里の父親に至っては、ストレートに息子の性的指向を否定し、虐待する。
大人たちの言動は自分では全く悪意のないものだが、自らの中に芽生えた衝動に戸惑い、どうしていいのか分からない子供たちにとっては、自分がまるでこの世界の異物になったようなネガティブな感情を抱かせる。
男の子に恋をする自分たちは、豚の脳を持つ怪物で、それは決して人に知られてはならない、そんな切実な考えが嘘を生む。

本作における「本当の怪物」とは、誰もが気付かずに持っている加害性のことだろう。
人は目の前にある事実を知らない、あるいは気付かない場合、真実は一つだと思い込み、早織や保利のように無意識の加害を行なってしまう。
依里の父親のように、分かっていても自分の信じたいように世界を見て加害する者もいる。
そして隠された加害性は、一般的に差別や迫害を受ける側も例外では無い。
自分たちの関係を守ろうとした湊は、結果的に保利をスケープゴートにし、依里は父親が通い詰めるキャバクラに放火して燃やした。
人間の心の認識と現実にギャップがある場合、それを取り繕おうとして、隙間に怪物が生まれるのである。
たとえどんなに親しい間柄であっても、親子であったとしても、人は心のうち全てを外には明かさないし、明かせない。
坂元裕二がカンヌ脚本賞を受賞した後に語った、「たった一人の孤独な人のために書いた」という言葉が、グッっと来る所以である。

人間が現実世界と精神世界、双方に生きている生物である限り、絶対的な真実といいうのは存在しない。
普通の子供とは逆の存在であることを示唆する鏡文字や、まるで怪物の咆哮の様に聞こえる管楽器の音など、物語を紐解くヒントは散りばめられいるが、それらも含めて曖昧性を持たせてある。
物議を醸してる叙情的なラストも含めて、本作があらゆる部分で多面的な解釈を出来るように、あえて作られているのは明らかだ。
湊と依里の秘密基地が、露骨に「銀河鉄道の夜」を思い起こさせる廃列車だったり、かなり意地の悪い設定なのだが、物語のラストは子供たち自身の台詞にもあるように、生まれ変わった世界線だったり、死後の世界というわけでは無いと思う。
実は脚本を読むと、何が起こったのかはもう少し明確に書かれているのだが、是枝裕和はここにもあえて曖昧さを含ませているのだ。
二人が走ってゆく廃線路の先の鉄橋には、以前のシーンでは立ち入り禁止の柵が設置されていたが、ラストでは無くなっている。
私的には、湊と依里が自分たちの心と現実との間にはギャップがあることを受け入れて、未来に向けて歩み出した心象風景を描いたものだと解釈したい。
観る者によって、または観る度に印象が変わる、ロールシャッハテストの様な作りは、「TAR ター」を思わせる部分もある。
内容的には全く異なるものの、あの映画も噛み合わない心と現実をモチーフにした優れた作品だった。
音響が凝っているのも共通しているが、本作では背景でさりげなく流れている消防車のサイレン、スピーカーから流れる役所のアナウンス、そして管楽器の音といった音響設計が、三つのパートの時系列を揃える役割を持っているのも面白い。
いずれにしても、演出、脚本、撮影、美術、音楽と画面の隅々まで超一流の仕事を堪能出来る素晴らしい作品だ。
どこまでもナチュラルな子供たちの描き方は、さすがの是枝節。

今回は、ロケ地となった諏訪からほど近い、長野県上伊那郡の小野酒造の地酒「夜明け前 純米吟醸生一本 」をチョイス。
島崎藤村の同名小説から命名された銘柄だが、蔵元は藤村の長男・島崎楠雄と「この名を使う以上は、命に代えても本物を追求する精神を忘れない」という約束を交わしたという。
上品な吟醸香がふわりと鼻腔に広がる、まろやかな酒。
ザ・スタンダード純米吟醸酒とでも言うべき仕上がりで、クセのない味わいはつけ合わせる料理を選ばず。
冷からぬる燗まで、どんな飲み方をしても美味しくいただける。
「夜明け前」銘柄を代表する一本だ。

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ショートレビュー「波紋・・・・・評価額1700円」
2023年06月03日 (土) | 編集 |
絶望の向こうにあるもの。

3.11から始まる、シニカルなブラックコメディ。
震災直後の放射能パニック下で失踪した夫が、長い歳月が過ぎた後に、末期癌を患って突然帰ってくる。
筒井真理子演じる主人公の依子は、夫不在の間に「緑命会」と言う新興宗教にのめり込んでいて、自分を捨てた夫に対するどす黒い感情と、善行を積まなければならないという教えの板挟みになってしまうのだ。
監督・脚本は、「川っぺりムコリッタ」が記憶に新しい荻上直子。
前作でも人間の秘められた二面性が印象的だったが、今回はダークサイドのカリカチュアが全開だ。
主人公の須藤依子を筒井真理子が怪演し、夫の修を光石研、息子の拓哉を磯村勇斗が演じる。
※核心部分に触れています。

冒頭で福島第一原発の事故後、放射能パニックに陥った首都圏での水の買い占め騒動が描かれ、ガーディニングが趣味だった修は、収穫しても食べられないであろう野菜を見て、ホースの水を出しっぱなしにしたままいなくなる。
現在の依子が信仰する「緑命会」の収入源は、怪しげな命の水の販売で、彼女の家は水のボトルで溢れかえっている。
依子が一人で住む庭は、修の失踪後に存在しない水を愛でる、立派な枯山水に作り変えられていて、タイトル通り全編にわたって水が重要なモチーフとなる。

物語の途中で、故・安倍晋三元首相が2013年の国際オリンピック委員会総会で、福島原発の安全性を保障した演説の一節「the situation is under control.」がテレビから聞こえてくる。
本作の年代は明示されないが、3.11からは10年程度は経っているはずなので、おそらく生放送ではないのだろう。
この言葉通り、依子の日常は一見すると「アンダーコントロール」状態にある。
夫は出て行き、一人息子の拓哉は遠く九州で就職。
半年前に義父も亡くなったので、広い家に一人ぼっち。
彼女の生活は「緑命会」の信仰が中心となっていて、日夜水晶玉に祈りを捧げ、休日には勉強会に出かけ、変なダンスを踊る。

ところが、長らく静かだった枯山水の水面に、夫の突然の帰還という小石が投げ込まれ、波紋が立つ。
これを皮切りにして、危うい均衡のもとに成り立っていた依子の平穏な日常は崩れてゆく。
働いているスーパーには、柄本明演じる値引きジジイがしょっちゅうやって来て、商品が傷んでいるから半額にしろと強要し、拒むと怒鳴りつけられる。
久しぶりに息子が帰ってきたと思ったら、連れて来た恋人の珠美はかなり気の強い聴覚障害者。
いつの間にか、彼女の枯山水には幾つもの石が投げ込まれ波紋だらけになっている。
「緑命会」の教えでは、善行を積まねば魂のステージは上がらないことになっているが、夫をタダで助けるのは癪に触るし、ジジイには反論したいし、障害者の珠美には息子と別れてもらいたい。
どんなに取り繕っても、依子はとことん分かりやすい俗物なのである。

3.11は色々な意味で日本社会にどこにも持って生きようのない閉塞をもたらしたが、ある意味で依子はその象徴みたいな人物だ。
様々な柵によってがんじがらめになっている主人公と、波紋の要因たる家族との会食シーンは、笑っていいんだか、いけないんだか。
問題を押し殺し、平静を装って何年も生きて来たが、出現した複数の波紋が共鳴しあい、結果的に彼女が本来抱えていた問題は全て可視化され、修の癌に効くと、高額な水をお勧めされたことで、心の拠り所だった「緑命会」対する信頼も危うくなる。
依子にとって救いとなるのが、木野花が演じるスーパーの同僚の水木の存在。
ひょんなことから水木と仲良くなり、初めて隠されていた他人の裏側を見たことで、依子自身も本心と向き合う覚悟が出来る。
自由の象徴であるフラメンコの手拍子が効果的に使われており、クライマックスで主人公の自我の解放を後押しする。
なるほど、人間て素晴らしいけどめんどくさい。
もはやロハス系なんて言葉では語れない、映画作家荻上直子の円熟を感じさせる一本だ。
 
今回は、人間の表と裏の物語なので、白と黒のカクテル「ブラック・ベルベット」をチョイス。
スタウトビールとキンキンに冷やした辛口のシャンパン、もしくはスパークリング・ワインを、1:1の割合で静かにゴブレットに注ぐと、スタウトの黒と明るいシャンパンがグラディエーションを形作り、さらに上には白い泡というモノトーンのカクテルが出来上がる。
スタウトの濃厚さとシャンパンの爽快さが混じり合い、二つの発泡性の酒が作り出す泡はベルベットの様にきめ細かい。

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ショートレビュー「岸辺露伴 ルーヴルへ行く・・・・・評価額1650円」
2023年05月29日 (月) | 編集 |
黒い絵に隠された秘密を解け!

荒木飛呂彦原作の大ベストセラー「ジョジョの奇妙な冒険」から生まれたスピンオフ、「岸辺露伴は動かない」シリーズ。
人間を本にして、その記憶を予読むことが出来るスタンド「ヘブンズ・ドア」の使い手、人気漫画家の岸辺露伴を主人公としたシリーズは、2020年から2022年にかけて8話がNHKでドラマ化され好評を博したが、本作は満を持しての映画版。
監督の渡辺一貴、脚本の小林靖子ほかメインスタッフは続投。
岸辺露伴はもちろん高橋一生が演じ、飯豊まりえ演じる編集者の泉京香との迷コンビも健在だ。
※核心部分に触れています。

本作の原作「岸辺露伴 ルーヴルへ行く」は、ルーヴル美術館がルーヴルをモチーフにした、オリジナルのバンデシネ(コミック)を制作するプロジェクトの中で生まれたという。
フランスは日本の漫画のヨーロッパ最大の輸出市場で、ルーヴル側が日本からの参加を熱望し、荒木飛呂彦が応じたことから実現したというから、これはメタ構造を持ったスピンオフのスピンオフなのだ。
今回、露伴が挑むのはルーヴル美術館に所蔵されているという、250年前に山村仁左衛門という日本人絵師が描いた「この世で最も黒く、邪悪な絵」である「月下」の謎。
この絵は露伴が10代の頃の、初恋の記憶と密接に結びついている。

原作は120ページほどの中編なので、ボリューム的には1時間のドラマでも描けるのでは?と思ったのだが、脚色で謎解きと背景の要素を大幅に膨らませ、ミステリアに展開する。
終わってみれば、なかなかに充実した「映画」になっているのだからさすがだ。
「ジョジョの奇妙な冒険」は三池崇史監督でも実写映画化されているが、コスプレショー然としたビジュアルは賛否両論だった。
逆に本作は「ジョジョ」色を薄めて、スピンオフだけの世界観にしたのが大正解だ。
スタンドという超常の力は抑えているものの、漫画的にエキセントリックなのは露伴先生だけ。
ルックスもキャラクターを特徴付けるのはギザギザのヘアバンドの一点のみで、過度に漫画に似せようとしてコスプレショー化することを防いでいる。
特筆すべきは原作シリーズでは一回しか出てこない泉京香を、露伴のバディとしてレギュラー化した隻眼。
飯豊まりえ演じる京香は、あらゆる点で露伴とは対照的な天然癒し系で、基本この二人の掛け合いで物語が展開するので、全体に心地よいリズムが出た。

小林靖子による脚色は、原作プロットの骨子をキープしながら、フランス人画家ルグランが描いたもう一枚の黒い絵「ノワール(黒)」のエピソードを加え、そこから10代の頃の露伴に黒い絵の存在を教えた不思議な女性、奈々瀬との思い出に誘い、なぜ「ノワール」が日本にあるのかを巡るミステリから、ルーヴルへと持って行く。
そして「月下」に秘められた力が明らかになった後で、どの様な経緯で世界で一番黒く、邪悪な絵が誕生したのか、奈々瀬は本当は何者なのかを「ヘブンズ・ドア」が解き明かす。
このエピソードのウェットさも相まって、全体のムードは荒木飛呂彦というよりは、江戸川乱歩や横溝正史ら昭和の怪奇ミステリのような味わいとなっている。

「月下」に使われている本当の黒は、全ての光を吸収するために見ることが出来ない。
逆に絵を見ようとした者の過去の後悔や罪の意識、大昔の血縁者の罪までをも映し出し、呪いとして襲ってくる。
見てはいけないと言われると、どうしても見たくなってしまうもので、この絵はずっと人の血を吸い続けて来たのである。
露伴は「血脈からは逃れられない」と語るが、自分が預かり知らない血族の行為が巡り巡って主人公に災難をもたらすのは他の「ジョジョ」シリーズでも見られる。
絵の呪いを止める役割に露伴が選ばれた理由を含めて、この作者らしい世界観なのだろう。
「ノワール」を露伴から盗んだ男や、ルーヴルで山村仁左衛門を調べた研究者が、本物の「月下」を見ていないのに呪いを発動しちゃったのはなぜ?とか、幾つか疑問はあるが、いずれにしても作り手のセンスの良さが光り、漫画の実写化として十分成功した作品だと思う。
久しぶりにドラマ版を再度観たくなったが、映画公開記念に地上波再放送しないのだろうか。

今回は、後半の舞台となるルーヴルから、「パリジャン」をチョイス。
ドライ・ジン30ml、ドライ・ベルモット20ml、クレーム・ド・カシス10mlをステアして、グラスに注ぐ。
美しいルビー色のカクテルで、クレーム・ド・カシスとドライ・ベルモットの濃厚な色と香理を、清涼なジンがまとめ上げる。
アペリティフとしても人気の、やや甘めのカクテルだ。

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ソフト/クワイエット・・・・・評価額1700円
2023年05月24日 (水) | 編集 |
憎しみの行き着く先は。

これは強烈だ。
92分間ワンショットで描かれる、異色の人種差別ホラー。
主人公のエミリーは、街の白人女性たちと「アーリア人の団結をめざす娘たち」なる白人至上主義のグループを立ち上げる。
序盤の30分は、教会で開かれる和気あいあいとした最初の会合。
しかし帰り道、エミリーと因縁のあるアジア系の姉妹と口論になったことから、事態が急激に動き出す。
悪戯半分に姉妹に嫌がらせをしようとした女たちは、破滅への一本道にはまり込んでしまうのだ。
人種差別をモチーフにしたホラーは、同じブラムハウスの「ゲット・アウト」が記憶に新しいが、トリッキーさが持ち味のジョーダン・ピールに対し、こちらはどストレート。
監督とオリジナル脚本を手掛けたのは、これが長編デビュー作となるベス・デ・アラウージョ。
まさに分断の時代が生んだ、怪/快作だ。
※核心部分に触れています。

幼稚園で教諭を務めるエミリー(ステファニー・エステス)は、白人至上主義を掲げる「アーリア人の団結をめざす娘たち」という団体を設立、教会で開かれる一回目の会合に向かっていた。
メンバーはエミリーの他に元受刑者のレスリー(オリビア・ルカルディ)、グロッサリーストアのオーナーのキム(ダナ・ミリキャン)、小売店従業員のマージョリー(エレノア・ピエンタ)ら6人の女性たち。
彼女たちは自己紹介しながら、移民やユダヤ人、有色人種、フェミニストらへの不満を語り、機関誌を発行して、白人が優越しているという思想を「優しく、静かに」広めてゆくという方針を決める。
団体の目的を知った教会の神父は場所の提供を拒絶し、エミリーは体面を保つために、自宅での二次会を提案し、レスリー、キム、マージョリーが応じる。
ところが、ワインを調達しに寄ったキムの店で、アジア系の姉妹のアン(メリッサ・パウロ)とリリー(シシー・リー)と口論になり、エミリーたちは姉妹に嫌がらせする計画を立てるのだが・・・・


冒頭、トイレで妊娠検査薬を使うエミリーが映し出され、望んでいた妊娠が叶わなかったことが示唆される。
カメラはイライラを抱えたままトイレから出たエミリーを追い、その目線の先にいる有色人種の清掃作業員に移り、次いで駐車場で一人で迎えを待つ少年へと撮影対象を移してゆく。
定まらない被写体に自然と不穏な空気が醸し出され、エミリーが少年に対してある言葉をかけることで、彼女がレイシストであることが描写される。
その後、エミリーは立ち上げたグループの女子会チックな会合にパイを持ち込むのだが、その表面にはナチスの鉤十字の形の切り込みが入っている。

中国系アメリカ人とブラジル出身の父のもとに生まれたベス・デ・アラウージョ監督は、この映画でエミリーたちがヘイトの眼差しを向けるマイノリティの女性だ。
彼女はこの映画の企画を、コロナ禍に起こったある事件から着想したという。
2020年の5月、ニューヨークのセントラルパークで、バードウォッチングをしていた黒人男性が、犬のリードを外して走らせている白人女性と出会う。
その場所はリードを外すことが禁じられていたので、男性がリードをつけるように頼んだところ、女性は拒否し911に黒人に脅迫されていると通報したのだ。
男性がことの一部始終を録画していたことから、女性の嘘はあっという間にバレ、虚偽通報の罪で起訴されることになった。
この事件は、ブラック・ライブズ・マター(BLM)運動が吹き荒れるきっかけとなった、ジョージ・フロイド氏殺害と同じ日に起こったことで、ヘイト犯罪の象徴として日本でも繰り返し報道されたので、覚えている人も多いだろう。

どちらの事件も思いっきり撮影されているのに、なぜ当事者は嘘が通ると思っているのか、当時は不思議だったが、この映画を見るとさもありなんと思う。
加害者は自分のしてることを、罪だと認識していない。
身も蓋もない言い方をするが、要は論理的思考が出来ないくらい馬鹿なのである。
この手のヘイトをする人たちの思考回路は、基本的に「自分が不幸なのは誰かのせいで、自分は悪くない」なのだ。
グループの初会合のシーンが、そのことを分かりやすく伝えている。
自己紹介では、マージョリーが南米からの移民の同僚に昇進の機会を奪われた話をする。
彼女の上司は、同僚の方がリーダーシップが優れていたから昇進させた、と至極真っ当な理由を述べたという。
だが彼女たちは、白人の方が人種的に優れているのだから、有色人種に負けることなどあり得ないと信じているのだ。
普段は思っていても、周りの目を気にして口に出せない本音トークで意気高揚。

そして、破滅へ繋がる事件が起こる。
キムの店でエミリーたちはアンとリリーの姉妹と口論になるのだが、実はエミリーの弟はアンに対するレイプ犯罪で収監中。
エミリーの被害妄想的なヘイト思想には、弟の事件も関係していることが明らかになる。
自分の弟が穢らわしい有色人種をレイプするなど、あってはならないのである。
姉妹は立ち去るが、レイシストたちは収まらない。
悪いことに、グループの中で一番若いレスリーがアジテーター気質で、他のメンバーに復讐を焚き付ける
人間は集団になると、過激な意見に押し流されやすくなる。
彼女らの戦略は「優しく(ソフト)、静かに(クワイエット)」思想を広めるはずが、ここで一気にタガが外れて暴走しはじめるのだ。

共に小さな町の住人で、姉妹の住所もわかっている。
留守宅に入り込んで、嫌がらせで荒らしてやろうという計画そのものが浅はかだが、行ってみると自分たちより劣る人種の姉妹が、実際にはずっと良い暮らしをしていることに再激昂。
白人至上主義団体を作ろうって時点で分かっちゃいるが、全員がかなりのお馬鹿さんなので、状況判断が全く出来ない。
案の定、姉妹が帰宅してしまい、引っ込みがつかなくなった女たちは、最低最悪の行動に出てしまうのである。
この時点で、静かにマウントを取り合っていたグループの中でも、徐々に亀裂が生じる。
マージョリーと子供のいるキムは離脱したがり、エミリーは予期せぬ事態に混乱する。
そんなグループの中で、犯罪歴のあるレスリーがいつの間にかリーダーのポジションになっていて、後先かまわず強引に突っ走る。

シチュエーションは違えど、トランプ落選で議会に突撃して逮捕された連中も、こういうメンタル状態だったんだろうなあと思う。
目先の行動の結果、近い未来に自分がどうなるかまで頭が回らない。
正しいことをしているのだから、自分たちが暴徒として捕まるわけがないと、何の根拠もない思い込みで動いてしまう。
登場人物が愚かすぎるがゆえ、映画の物語が終わった後のことも全て想像できる。
どう考えても、今さら状況をリカバリーすることなど不可能で、地獄に通じる未来しか残されていないのだが、本人たちは最後まで分かっていない。

映画撮影のデジタル移行後、全編ワンショットを売りにする作品は増えたが、技法を生かし切るのは簡単ではなく、とりあえずやってみただけの作品がほとんど。
だがこれは92分間、彼女たちの一人になったかの様な凄まじい臨場感だ。
本作の撮影地は、ベス・デ・アラウージョ監督の地元サンフランシスコに近いインバネスだが、作中での舞台はワイオミングだということが示唆される。
なるほど、リベラルな北カリフォルニアではなく、過去には比較的リベラルな風土だったが、20世紀後半から急速に保守化が進み、白人比率の高いワイオミングを選んだのも、物語の背景的に上手いところを狙ってると思う。
実にアメリカ的な寓話ではあるのだが、エミリーたちのメンタルは日本のネトウヨや陰謀論者にも通じる話。
自分の都合のいいように物事を解釈し、自分の不幸を他人のせいにしてはいけないと、肝に銘じたい。

今回は、刺激が強過ぎる映画に、”魚雷”の名を持つ刺激的なビールを。
シエラネバダ・ブリューイングが2009年より醸造している定番銘柄、「トルピード エクストラIPA」をチョイス。
口当たりは軽やかでクリーミーだが、次いでガツンとくる攻撃的なホップ感。
フレーバーは複雑だが、一度飲んだら忘れられにない、強烈な印象をもたらすIPAらしい一杯だ。

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TAR ター・・・・・評価額1700円
2023年05月18日 (木) | 編集 |
破滅は、彼女に何をもたらしたのか?

異才 トッド・フィールド16年ぶりの新作は、天賦の才に恵まれたオーケストラ指揮者リディア・ターの転落を描く物語。
名門ベルリン・フィルハーモニー初の女性常任指揮者となったリディアは、就任以来の大仕事となるマーラーの交響曲第5番のライブ録音に向けて準備を進めている。
同棲婚の相手はフィルのコンサートマスターで、二人の間には子供もいて順風満帆な人生。
ところが彼女の日常と名声が、ある出来事をきっかけとして、砂上の楼閣の様に崩れてゆく。
タイトルロールのリディア・ターを演じるのは、やはり破滅型のキャラクターを演じた「ブルージャスミン」で、アカデミー主演女優賞に輝いたケイト・ブランシェット。
彼女の“妻”シャロンを「あの日のように抱きしめて」のニーナ・ホス、キーパーソンとなる助手のフランチェスカを「燃ゆる女の肖像」のノエミ・メルランが演じる。
一見すると実話かと思わされるくらいに、徹底的に作り込まれた設定と凝った作劇。
膨大な情報がさりげなく詰め込まれ、一度観ただけで全てを把握するのはほぼ不可能。
なるほど、評判通り一筋縄ではいかない大怪作である。
※核心部分に触れています。

ベルリン・フィル常任指揮者のリディア・ター(ケイト・ブランシェット)は、作曲の才能にも優れ、数々の賞に輝くクラッシック音楽界の寵児。
ニューヨークで開かれたイベントに出席した後、すぐにベルリンに戻り、今度はマーラーの交響曲第5番のライブ録音の準備を進める。
そんな多忙を極める彼女を支えるのが、フィルのコンサートマスターでもある妻のシャロン(ニーナ・ホス)と、アシスタントのフランチェスカ(ノエミ・メルラン)。
リディアは、欠員の出ていたチェロ奏者のオーディションで、ロシア人のオルガ(ソフィー・カウアー)を仮採用するが、彼女にエルガーのチェロ協奏曲のソリストのポジションを与えたことで、シャロンはリディアがオルガに惹かれていることに気づく。
そんな時、かつてリディアが設立した財団のフェローだったクリスタが自殺し、彼女の両親がリディアを告発する事件が起こる。
そしてジュリアード音楽院で授業を持つリディアが、アカハラを行っているように編集された動画が拡散され、オーケストラ内にも徐々に動揺が広がる。
リディアは自分でも気付かないうちに、スキャンダルの網に絡め取られてゆくのだが・・・・


この映画には、一度観ただけでは捉えきれない多くの情報が盛り込まれていて、一見関係のない情報が実は密接に結びついている。
私は初日に鑑賞し、その3日後にもう一度鑑賞したが、一回目の時には流してしまった点と点が繋がり、だいぶ作品解像度が上がったと思う。
72dpiが200dpiくらいにはなったと思うが、これを350dpiに持っていくのは更に複数回の鑑賞が必要だと思うので、現時点で言語化できる範囲でレビューしてみたい。
本作を鑑賞する前は、成功した女性指揮者がパワハラで破滅する物語だと聞いていたのだが、これは思いっきりミスリードだ。
いや、確かにリディアが恣意的に人事権を行使している様に見えなくもないのだが、あくまでもそう解釈することも可能というレベル。
少なくとも画面上では、彼女はハラスメントを行っていない。

例えば、副指揮者のセバスチャンの解任に関しては、ニューヨークで投資家兼アマチュア指揮者のエリオット・カプランと会話した時に、すでにその話が出ている。
マーラーの5番のリハーサルでの出来事はダメ押しであって、セバスチャンが副指揮者としては力不足なのはリディア以外にも認識されていたこと。
後任にフランチェスカを選ばなかったのは、オーケストラの一部でリディアが彼女を贔屓しているという声があったからで、むしろ公平性に気を遣っていることが分かる。
フランチェスカにとっては、失望する結果となったが、あちらを立てればこちらが立たずは組織運営にはつきものの話。
オルガの選抜に関しては、確かに彼女を気に入ってはいるのだろうが、それが性的なものかは想像でしかなく、彼女の実力は他のメンバーも認めている。
ジュリアードで、バッハは女性蔑視の白人男性だと揶揄した男子学生に対して、音楽家が音楽とどう向き合うべきなのかと諭したシーンは、言葉はキツ過ぎるが内容としては当たり前の話だ。

ただし、クリスタの件に関しては過去に何らかの問題があったのは事実だろう。
冒頭のイベント会場で、後ろ姿が描写されるだけのクリスタ(彼女と明示されてはいない)は、以降一度も画面に登場しないが、影のようにリディアのキャリアにつきまとう。
フランチェスカとクリスタは、リディアが優れた女性指揮者を育成するため設立した財団のフェローで、過去にペルーの民族音楽を研究するリディアのフィールドワークに同行していた。
映画の冒頭に長めのオープニングクレジットがあるのだが、この時流れている音声がこのフィールドワーク時のものだろう。
具体的には描かれないものの、そこで三人の間に何かが起こり、クリスタは精神を病んでゆく。
オープニングクレジットに続くイベントで、リディアを賞賛する紹介文をフランチェスカが暗記していることから、この紹介文を書いたのは彼女。
フランチェスカは、副指揮者の地位を得るためにリディアに師事しているが、有能なアシスタントを演じていても、リディアを信頼してはいないのは彼女のプライベートを写したチャット画面からも想像できる。

この画面の撮影者は、フランチェスカしか有り得ないし、チャットの相手もリディアを知っていて、辛辣な言葉を投げかけているので、おそらくクリスタ。
ヴィタ・サックヴィル=ウェストの小説「Challenge」を、リディアに送ったのもクリスタだろう。
両性愛者だったサックヴィル=ウエストが、家族を捨てて恋人のヴァイオレット・ケッペル=トレフューシスと駆け落ちした時期に書いた小説なので、クリスタとリディアの間には何らかの色恋沙汰があったのかも知れない。
本の最初のページに、迷路のような奇妙なイラストが描き込まれていて、それ見たリディアは突然怒って破り捨てる。
この“迷路“は、三人がフィールドワークを行ったシピボ・コニボ族の伝統紋様なのだが、最初に本作を鑑賞して、海外のレビューを巡っていた時にRedditで見つけたのが主人公のター(TAR)とは、ギリシャ神話のミノタウロス(Minotaur)の暗喩ではないかと言う指摘。
王妃パーシパエーと海神ポセイドンの牡牛が姦通して生まれた牛頭の獣人で、あまりの暴虐ぶりに迷宮に封じられ、9年毎に7人の少年と7人の少女を喰らう怪物。
なるほど、クリスタが迷路の紋様という共通の記憶を使って、リディアをミノタウロスに喩えたなら腑に落ちる。
このイラストは、のちに聴覚過敏に陥ったリディアが、就寝中にメトロノームが動いているのに気付く(おそらくは妄想)シーンにも登場している。
またオルガを探して、廃墟のようなアパートの地下を彷徨うシーンは、まさに迷宮のイメージだ。

物語の序盤では、リディアは全く迷っていない。
冒頭のイベントで、司会者から「人々は、指揮者は人間メトロノームみたいなものと思っている」と言われたリディアは、そのことを否定せずに、「時間こそ(音楽の)解釈の重要な要素だ」と語る。
指揮者は、メトロノームのような一定のリズムを作ることもできるし、時計の針を止めるか、進めるかを決定する存在。
音楽における時の支配者であり、彼女の世界も完璧にコントロールされている。
ところが、クリスタによって、リディアの人生が徐々に狂ってゆくと、彼女を取り巻く“音“も思い通りにならなくなる。
公園で聞こえる女性の悲鳴、仕事中にどこからか聞こえてくるチャイムの音、前記した就寝中に聞こえるメトロノームの音、冷蔵庫の微細な機械音など、味方のはずの音が彼女の人生をかき乱し、心を削ってゆく。
SNSで尾鰭がついたスキャンダルは、リディアから仕事を奪い、それがますます精神的に彼女を追い詰める悪循環に陥る。

重要なターニングポイントが、ベルリンを追われたリディアが、ニューヨークのスタテン島にある実家を訪れるシーンだ。
彼女はストレージの中の膨大なビデオテープを見つけ出すのだがこれは、冒頭のイベントで師弟関係にあると語ったレナード・バーンスタインのコンサートを納めたテープ。
彼が音楽の本質と喜びを語る姿を見て、リディアはその言葉を噛み締め涙を流すのだが、直後に帰宅した弟トニーとの会話で、初めて彼女の本名がヨーロッパ風の“リディア”ではなく、いかにもアメリカ的な“リンダ”であることが明かされる。
私はこのシーンをみて、二十世紀を代表するフォトジャーナリスト、ロバート・キャパのことを思い出した。
ハンガリー出身の売れない写真家だったフリードマン・エンドレは、恋人のゲルダ・タローと共に偉大なアメリカ人戦場カメラマン、ロバート・キャパなる架空の人物を作り出し、その人生を生きた。
もしかすると、キャパと同様に彼女の輝かしい経歴もかなりの部分が詐称で、バーンスタインはビデオで見ただけなのかも知れない。
リディアの年齢を、演じるケイト・ブランシェットと同じと仮定すると、バーンスタインの死去時にはまだ21歳。
少なくともプロの音楽家として、リディアが直接彼から薫陶を受けたとは考え難いからだ。
人生の岐路にさしかかった姉に、トニーは「自分がどこから来て、どこへ行くのかも分かってないようだけど」と言葉を投げかける。

人生の迷宮に彷徨うリディアは、最終的に東南アジアのある国で、イベントの指揮者としての仕事を得る。
劇中で国名は明示されないが、脚本にはフィリピンの記載があり、かつて“マーロン・ブランドの映画”が撮影され、持ち込まれたワニが逃げ出し川で繁殖しているというエピソードが出てくる。
ブランドの映画でフィリピンで撮影されたのは「地獄の黙示録」だけであり、この映画もまた主人公がジャングルという緑の迷宮で彷徨う物語だった。
そしてリディアの仕事というのが、コスプレイヤーたちが集う、ビデオゲームの「モンスターハンター」のイベントコンサートなのである。
指揮台に立った彼女には、大きなヘッドセットが渡される。
ここでのリディアは、すでに時の支配者ではない。
ヘッドセットからはスクリーンに映し出される映像と、音楽を同期させるためのメトロノームの様な信号が送られているはずで、音楽の時間は彼女の預かり知らないところであらかじめ決められているのだ。
だがしかし、指揮者としての喜びを奪い取られ、屈辱的な仕事をしているはずの彼女は、妙に突き抜けた表情を見せているのである。

浮かび上がって見えて来るのは、音楽性を巡る長い旅
リディアが演奏しようとして果たせなかったマーラーの交響曲第5番も、様々なトラブルを抱えウィーン・フィルを追われるように辞任したマーラーが、その後に書き上げた代表作。
見事な経歴を持つ名門オーケストラの指揮者として、全てをコントロールすることで完璧な人生を生きて来たリディアは、音楽家として本当に幸せだったのか。
鎧を全て剥ぎ取られ、何者でもない素の自分になった時、ようやく彼女はバーンスタインの語った音楽の理想に立てたのかも知れない。
第二の人生の初仕事が、“怪物“を狩るゲーム音楽であり、彼女が指揮するのが「新世界への旅たち」のシーンというのも意味深だ。
はたして本作は、全てを持っていた女性がキャンセル・カルチャーによって、全てを失うまでを描いた悲劇なのか。
それとも、理想化された自分によってガチガチに固められていた女性が、音楽家としての自由を取り戻すまでの物語なのか。
ちなみに、ラストが「モンスターハンター」のイベント会場だというのも、画面の中では説明がなく、エンドクレジットでようやく分かる。
映画を観ただけでは得られない情報は他にも多々あり、なかなかに挑戦的でイケズな作りである。

今回はうまみたっぷりのドイツビール、フランチスカーナーの「ヴァイスビア」をチョイス。
大麦の他に小麦50%ほど利用し伝統的な上面発酵製法で作られる、バイエルンを代表するヴァイスビア。
フルーティーで柑橘系を感じさせる香り、ホップ感は弱く苦みが少ないので、ビールが苦手な人でも飲める。
軽やかな味わいの一杯だ。

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