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ショートレビュー「ジョジョ・ラビット・・・・・評価額1750円」
2020年01月19日 (日) | 編集 |
軍国少年、愛の意味を知る。

リーゼントのスタンド使いの話ではない。
第二次世界大戦末期、ナチスの熱烈な信者でイマジナリーフレンドがヒトラーという、10歳のドイツ人の少年ジョジョの物語。
ママは何やら忙しくしているし、パパはイタリア戦線へ向かったまま行方不明。
せっかくヒトラーユーゲントへ入団したものの、年長の少年たちからウサギのように弱虫だとイジメられ、あげくに手榴弾を誤爆させて顔に傷の残る大怪我を負い、雑用しかさせてもらえなくなってしまう。
そんな冴えない毎日を送っていたある日、ジョジョは自分の家の屋根裏にユダヤ人の少女が匿われていることを知ってしまい、信じていた世界が揺らぎ始める。

冒頭、ザ・ビートルズの「抱きしめたい」と共に、ナチスとヒトラーへの人々の熱狂が描かれる。
ヒトラー役は「誰だ?この気持ち悪いおっさんは?」と思ったら、タイカ・ワイティティ監督が自ら演じているじゃないか。
まあこの人は元々コメディアンでもあるので、少年の心の中で微妙にカリカチュアされたような、漫画チックなヒトラーには適役。
ナチス政権は疲弊した国民の熱烈な支持を得て誕生し、ヒトラーはロックスター並みの大衆のアイドルだったから、孤独な少年ジョジョが、大人たちが熱狂する独裁者に憧れるのは、時代と社会を考えれば不思議なことではない。
全編に渡ってシニカルなユーモアが前面に出るのはワイティティらしいが、プロットは非常にロジカルに構成され、隅々まで端正に作られた映画だ。
ジョジョの幼さを示すほどけた靴紐の象徴性など、ディテールの描写の数々は極めて繊細で丁寧。

物語の序盤では、まだ平穏だった街にも、だんだんと戦火の香りが漂ってくる。
アメリカとソ連の軍隊が迫り、幼馴染の太っちょヨーキーは、なんと紙で出来たダサい制服を着せられて、いっぱしの少年兵に。
街の広場では、反ナチス運動をしていた大人たちが首を括られて処刑されている。
戦争という異常な状況下で、少年ジョジョは一気に色々な体験をして成長してゆく。
いや、否応なしに成長せざるを得なくなるのだ。
ツノの生えた悪魔だと洗脳されていて、最初は未知の存在だった歳上のユダヤ少女、エルサへの複雑な想いは、やがて初恋の衝動に。
そして、軍国少年は愛する者の突然の喪失と共に、最愛のママから「人間の一番強い力」だと教えられた、愛の意味を知るのである。

幼い想像力から生み出されたイマジナリーフレンドは、ホンモノのヒトラーの死と共にその役割を失い、人を愛する気持ちと本当の勇気を知ったジョジョの前に広がっているのは、未来という名の未知の現実だ。
ヒトラーユーゲントで、ジョジョの「上官」となるサム・ロックウェルと、密かに抵抗運動に身を投じているママのロージー役のスカーレット・ヨハンソンが素晴らしい。
ロックウェル演じる、お調子者の“キャプテン・K”ことクレンツェンドルフ大尉は、劇中では明言されていないのだけど、たぶん気のいい部下のフィンケルとは誰にも知られてはいけない恋人同士で、だからこそジョジョの抱える秘密も守り通す。

アメリカ製の作品ゆえに、キャラクターのドイツ人が全員英語を喋る。
それゆえに「戦時中のドイツ人=ナチス=悪」という単純化したステロタイプタイプからは解放されていて、むしろナチスという集団ヒステリー的な虚飾のファンタジーから、少年の成長とともに地に足をつけた現実へと導かれる、ユニークな寓話となっている。
戦場の子供たちを描いた作品は数多いが、子供の柔軟な感性で恣意的に作られた嘘を乗り越え、差別や分断を解消するというアプローチは新しく、全く説教くさくないのも良い。
ウェルメイドな作品だが、ナチスものという括りがあるので時事性という点ではちょっと弱く、アカデミー賞レースでは苦戦する気がする。
しかし高い普遍性を持ち、冒頭からワクワクが湧いてくるラストカットまで、タイカ・ワイティティのセンス・オブ・ワンダーが炸裂する、青春映画の快作だ。

今回はウサギつながりで、「ジャック・ラビット」をチョイス。
ドライ・ジン30ml、ドライ・ベルモット30ml、トリプル・セック10ml、アプリコット・ブランデー10mlを、氷と共にシェイカーに入れてよくシェイクし、グラスに注ぐ。
ジャック・ラビットとはアメリカ西部に生息する野ウサギのことで、多産のウサギは復活祭の時に卵を運んでくるイースター・バニーというキャラクターでもあることから、復活祭に供されるカクテルとして知られる。
似た名前だが、アップル・ジャックやメープルシロップを使う「アップル・ジャック・ラビット」とは見た目も味わいもだいぶ異なる。

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フォードvsフェラーリ・・・・・評価額1750円
2020年01月13日 (月) | 編集 |
誰も見たことのない世界へ。

ストレート過ぎるタイトルを聞いた時には、「なんちゅうベタな・・・」と思ったが、さすがジェームズ・マンゴールド。
見ごたえたっぷり、いぶし銀の熱血バディドラマだ。
1960年代のル・マン24時間耐久レースで、無敵を誇ったフェラーリに挑んだ新参者、フォードの悪戦苦闘を描く。
熾烈な戦いの中で、物語の軸となるのはマット・デイモンが演じるチームオーナーのキャロル・シェルビーと、クリスチャン・ベイルが好演する開発ドライバーを務めたケン・マイルズ。
これは、エンジン回転数7000rpmオーバー、最高速度340キロという未知の世界を体験した、二人の男の栄光と挫折の物語。
史実をベースとした作品なので、顛末を知っていてももちろん楽しめるが、もし知らない人は変に情報を入れずに鑑賞した方がより感慨深いだろう。
「ラッシュ/プライドと友情」と並ぶ、モータースポーツ映画の最高傑作が誕生した。
※核心部分に触れています。

1960年代初頭、免許取得年齢を迎え始めるベビーブーマー世代にアピールするために、フォードはモータースポーツ部門の拡大を決定。
ル・マン24時間レースで連覇を続けていたフェラーリの買収を狙うも、けんもほろろに追い返される。
ヘンリー・フォード2世(トレイシー・レッツ)は、コンストラクターのキャロル・シェルビー(マット・デイモン)にGT-40と名付けられた車両の開発を託し、フェラーリへの雪辱を誓う。
中途半端な性能のマシンを仕上げるために、シェルビーは優れた開発ドライバーであるケン・マイルズ(クリスチャン・ベール)を招聘し、彼の尽力によって、GT-40はフェラーリを射程に捉える戦闘力を獲得する。
しかし、フォードのモータースポーツ責任者のレオ・ビーブ(ジョシュ・ルーカス)は、怒りっぽく空気を読まないマイルズを危険視し、ル・マンのドライバーから彼を外すことを決定。
シェルビーは、誰よりもGT-40を知り尽くしたマイルズを欠いたまま、フェラーリとの対決を強いられるのだが・・・


冒頭、漆黒の闇の中、地を這うような視点で展開されるレースシーンに、先ずは心を掴まれる。
今を去ること半世紀以上前のこと。
スポーツカーレースの最高峰、ル・マン24時間耐久レースで常勝を誇ったフェラーリを倒すため、巨大メーカーだがレースのノウハウの無いフォードは、一人の男に白羽の矢を立てる。
彼の名は、キャロル・シェルビー
クルマ好きには、伝説の名車“コブラ”の生みの親として有名な人物だが、キャリアを遡れば元F1レーサーにして、1959年のル・マンでアストンマーチンを駆り優勝した実力者。
心臓病のために現役を引退した後も、自分のレーシング・コンストラクター、“シェルビー・アメリカ”を設立して戦い続けているプロフェッショナルだ。
しかし、いかにシェルビーが優秀でも、実績の無いフォードをいきなり頂点のル・マンで勝たせるというのはあまりにも無茶な話。

モーターレーシングは、究極のチームスポーツである。
ドライバーの肉体と、多くの職人によって精密に組み上げられた機械が高度に融合し、そのポテンシャルを長いレース時間中持続することが出来て、初めてまともに機能する。
しかもただ速いだけではダメで、タイヤ交換や燃料補強などのピット戦略、ドライバー同士の相性などの要素が複雑に噛み合って勝敗を左右する。
F1の様なオープンホイールのスプリントレースでもそうなのだから、24時間に5000キロもの距離を、極限のスピードで走り続けなければならない耐久レースは、まさにノウハウの塊だ。
あのトヨタでさえ、ル・マンの初優勝を飾ったのは、本格参戦開始から33年後の2018年なのだから、いかに難しいかが分かる。

フォードは対フェラーリ様に、イギリスのローラ製の車体をベースに自社製エンジンを載せてGT-40を作ったものの、見事に惨敗。
新たに車両開発とワークスチームの運営を託されたシェルビーが、天才的なドライバーだが偏屈で扱い難いケン・マイルズを呼び寄せることから物語が動き出す。
そもそも、同じ自動車メーカーといっても、フォードとフェラーリはその成り立ちから水と油。
大衆のための安価な自動車を、流れ作業の大量生産で作り出したフォードは、その数の力でモータリゼーションの革命を起こした。
対して、レーシングドライバーだったエンツォ・フェラーリが一代で作り上げたフェラーリは、元々レースをするための資金源として市販車を売る会社。
あくまでもレースで勝つことが本業で、市販車はオマケという少数精鋭の“レース屋”集団だ。
映画では、ヘンリー・フォード2世がエンツォに「お前はヘンリー・フォードじゃない。2代目だ。」と言われる(正確にはフォード2世はヘンリーの孫で三代目)。
要するに、「お前はただ創業者の遺産で食ってるボンボンで、全てを一から作った俺とは格が違う」と、ホントのことを言われているのだが、大いにプライドを傷付けられてブチ切れる。

同時に、この言葉には「そもそもお前は、レースのことなど何も知らないじゃないか」という侮蔑の意味も含まれている。
この時代にすでに巨大な官僚的企業だったフォードは、その場その場で臨機応変な戦術変更が必要な、耐久レースのようなカテゴリで戦うには最も向かない。
だからこそ、シェルビーにチームの運営を任せたのだが、それでも彼らは巨大組織の末端という軛から逃れられないのである。
GT-40を開発し、長所も弱点も誰よりも知っていて、なおかつ速いのはマイルズ。
もしエンツォであれば、真っ先にレースドライバーとしても彼を起用するだろう。
だが、あくまでも広報戦略の一環として、レース活動を進めるフォードは、喧嘩っ早くて口の悪いマイルズを警戒し、表舞台に立たせまいとする。
マイルズを欠いたままル・マンに出場した1965年の結果は、スピードではフェラーリを凌駕する瞬間もあったものの、惜敗。
シェルビーとマイルズは、「vsフェラーリ」以前に、「フォードvsフォード」の戦いを強いられてしまうのである。

映画ではフォードのモータースポーツ部門の責任者、レオ・ビーブを悪役っぽく描いているが、フォードの販売を強化するためにレースを統括する彼の立場では、至極まっとうな仕事をしているだけ。
組織の利益は、必ずしも個人、あるいは組織内の一部門の利益と合致するとは限らない。
巨大企業の枠組みの中で、実際に現場を引っ張る人にとっては、シェルビーとマイルズの葛藤は、そのまま我が身に置き換えて感情移入できるだろう。
私は本作を観ながら、もしかしたら今回の「スター・ウォーズ」の制作過程でも、同じようなことがあったんじゃないかなと、シェルビーとマイルズをJ・Jとコリン・トレボロウに、フォード2世をディズニー会長のロバート・アイガーに、ビーブをキャスリン・ケネディに置き換えて想像してしまった(笑

組織と個人の普遍的な関係の中で、本作は徹底的に個人、特に英国に生まれ、アメリカに移り住んだ苦労人であるマイルズに寄り添う。
シェルビーが基本的に仕事関係しか描かれないのに対し、マイルズは妻と息子との関係がじっくり描かれる。
この家族がまた素敵で、世間からは変わり者として見られているマイルズと、非常に強い信頼関係で結ばれているのがよく分かるのだ。
特に妻のモリーは、レース馬鹿の子供っぽい男たちを、半ば達観した目で愛情深く見守っていて、何かに夢中になったら脇目も振らないオタク脳の男にとっては、ある意味理想の女性
さりげない人生の日常の描写を通し、人間関係を突き詰めてゆく辺りは名手マンゴールドの面目躍如だ。
もっとも、シェルビーの私生活が描かれないのは、この時期パートナーがいなかったのに加えて、生涯に実に7回も結婚しているという、家庭人としてはちょっと問題ある人だったからかも知れない(笑

面白いのは、シェルビーが煮え切らない態度のフォード2世を開発中のGT-40に乗せて、レーシングスピードを無理やり体感させるシーン。
私は若い頃にジムカーナなんかをやっていて、本作にも序盤に登場するカリフォルニアのウィロースプリングス・レースウェイで、レーシングカーの助手席に同乗させてもらった経験を思い出した。
たぶん、ドライバーは余裕で流しているだけだったと思うのだが、その凄まじい加減速、コーナーリングGは異次元のレベル。
自分でも走ったことがある、良く知ったコースがまるで別物に見え、「これがプロの世界か」と驚愕したのを覚えている。
人は、自分が経験したことのないものを理解するのは難しい。
このエピソードが事実かどうかは分からないが、自分たちがどれほど厳しいフィールドで戦っているのかを、実感を持ってボスに分からせる秀逸なエピソード。
あの瞬間、フォード2世はそれまで組織の歯車としか考えていなかったシェルビーやマイルズを、とてつもないスキルを持つ個人としてリスペクトしたのだ。

しかし、それでもフォード2世を含めて、誰も組織から自由になれないアイロニー。
1966年のル・マンの結果はある種の”美談”として知っていたが、その裏にこんなドラマが隠されていたとは。
シェルビーやマイルズが危険なレースに挑戦するのは、もちろん勝ちたいという欲求もあるのだろうが、決してそれだけではない。
信頼できる仲間、愛する人たちに支えられ、7000rpmを超える誰も見たことのない領域を極めるため。
彼らはある意味で、永遠に届かないゴールを目指すボヘミアンであり、魂の冒険者なのである。
それは利益という尺度で測られる、ビジネスとしてのレースとは相容れず、その意味では巨大なフォードはよりピュアな存在であるフェラーリにはどうしても勝てなかった。
全てを捧げた者が常に報われるとは限らない、未知の領域を追求した結果としてのビターなラストは、ちょっと「マネーボール」に通じる詩情を感じさせ、今はもういない20世紀の頑固な男たちの見果てぬ夢のロマンが、余韻として心にしみる。

今回は、24時間走り続ける耐久レースに引っ掛けて、「レッド・アイ」をチョイス。
本来は、夜通し飲み明かした後の迎え酒として知られるビアカクテルで、寝不足の充血した目が名前の由来。
トマト・ジュースをタンブラーの四割ほどまで注ぎ、ビールを同分量注いで、軽くステアする。
酒というよりはトマトが強く出ていて、ビール風味のトマト・ジュースという感じ。
疲れ切った胃には炭酸ののど越しと、トマトの酸味が効いてスッキリと飲める一杯だ。

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パラサイト 半地下の家族・・・・・評価額1750円
2020年01月09日 (木) | 編集 |
淀んだ地下には秘密がある。

「グエムル 漢江の怪物」「母なる証明」などで知られる、鬼才ポン・ジュノ監督の最新作は、盟友のソン・ガンホと四度目のタッグを組み、地下に埋もれた現代韓国の闇を描く、シニカルなブラックコメディ。
半地下の家に住み、内職でなんとか食いつないでいる失業者の家族が、ひょんなことから大金持ちの邸宅に入り込み、寄生するように暮らしはじめる。
しかし、この映画が描き出す現代社会のダークサイドは、こちらの想像の斜め上を軽々と超え、遥かにディープ。
二つの家族の出会いは、予期せぬ化学反応を呼び、彼らの運命は負のスパイラルに巻き込まれてゆくのである。
韓国映画としてはじめて、カンヌ国際映画祭の最高賞パルム・ドールに輝いたほか、ゴールデングローブ賞外国語映画賞など、世界各国の映画賞を席巻している超話題作だ。
※核心部分に触れています。

家族全員失業中で、家賃の安い半地下の家で、その日暮らしの生活を送るキム一家。
ある日、長男のギウ(チェ・ウシク)は、友人に紹介されてIT企業のオーナーのパク氏(イ・ソンギョン)の邸宅へ、娘のダヘ(チョン・ジソ)の家庭教師の面接を受けに行くことになる。
すると、パクの妻のヨンギョ(チョ・ヨジョン)に気に入られ、自分だけでなく息子のダソン(チョン・ヒョンジュン)の美術教師として妹のギジョン(パク・ソダム)を送り込むことに成功。
やがてパク家の家政婦ムングァン(イ・ジョンウン)を追い出すと、代わりの家政婦として母のチュンスク(チャン・へジン)が、パクの運転手として父のギテク(ソン・ガンホ)が採用され、キム一家は素性を隠したまま、完全にパク家に寄生するようになる。
生活苦から解放され、羽を伸ばすキム一家だったが、パク一家が揃ってキャンプに出かけたある夜、突然ムングァンが戻ってくる。
実はこの邸宅には、彼女以外に誰も知らない秘密があった・・・・


ポン・ジュノと出演者から、先行上映の観客に”ネタバレ禁止のお願い“が流れる。
なるほど、たしかにこれはあまり情報も入れない方が面白いので、観てない方はこれ以上は読み進まないことをお勧めする。
失業中の貧民層の家族が、ひょんなことから富豪の邸宅にするりと入り込む。
そして富める者の余裕に漬け込んで、彼らの生活に寄生してゆくのだが、ここから先の展開は完全に予想外だった。

韓国の格差社会、金持ち家族と使用人を描いた作品と言うと、本作にも大きな影響を与えていそうなキム・ギヨン監督の古典、「下女」がまず思い浮かぶ。
近年、イム・サンス監督、チョン・ドヨン主演で「ハウスメイド」としてリメイクされたので、こちらはご覧になった方も多いだろう。
1960年に公開された「下女」では、金持ちの音楽家トンシクの家庭に入り込んだ住み込みの家政婦のミョンスクが、ハニートラップで主人を籠絡、幸せだった家族を破滅させてゆく。
この作品で、非常に効果的に使われているのが、トンシクの家の階段だ。
当時の韓国は、一人当たりのGDPが160ドル程度のアジア最貧国の一つ。
庶民の多くが長屋のような粗末な家に住んでいる中、二階を持つ家はそれだけでステータスシンボルであり、様々なエピソードが階段を起点にして展開する。
そして、悲喜交々の階段のドラマは、本作にも確実に受け継がれているのである。

冒頭で、半地下の家に持ち込まれる山水景石が象徴的。
一つの石を自然の山のミニチュアとして見る粋な文化だが、本作も韓国社会のミニチュアだ。
キム家の家族が住んでいる、ゴチャゴチャした下町にある半地下の家は、いわば山の裾野。
「下女」が公開された後、韓国は朴正煕政権下で“漢江の奇跡”と呼ばれる高度成長期を迎えるのだが、この時期に作られた建物には、北朝鮮との再度の戦争を見越して、シェルターや貯蔵庫として使える半地下を作ることが推奨されたという。
しかし長らく戦争は起こらず、無用となった半地下を賃貸物件として貸し出すケースが増えたそうなのだが、そもそも最初から生活空間としては考えられていない。
ほとんど日もささず、ジメジメとした湿気は取れないし、水圧の関係でトイレだけ高い位置にあるなど、居住性が劣悪なために家賃が安く、結果として貧困層の住居となった。
対照的に、下町から長い階段を登った、高台の高級住宅地にあるパク家の邸宅は、いわば山水景石の頂上だ。

邸宅の中の地下室、地上、二階を結ぶ階段。
そして、高級住宅地と下町を結ぶ、長い長い階段。
いくつもの上下移動を要求する階段が、ドラマチックな動線となって物語を展開させるのだが、本作で秀逸なのが水を使った演出だ。
格差社会を肯定する為政者や富裕層によって、しばしば引き合いに出されるのが、富裕層が富めば富むほど、貧しいものにも富のおこぼれがしたたり落ちる、というトリクルダウンの理論。
この考え方を説明するのに、よくシャンパンタワーが用いられるが、本作では激しい雨水がその欺瞞を暴き出す。
高台の高級住宅地に降った雨は、金持ちたちには被害をもたらすこと無く、そのまま下町へと流れ落ち、都市のゴミを巻き込んだ濁流となって貧しい人々を襲う。
下町の最下層にあるキム家の半地下の家などは、完全に水没してしまうのだ。
トリクルダウンでは富はしたたってこない。
怒涛の勢いで流れて来るのは、更なる貧困なのである。

ここまでは、いわば可視化された格差で、予想できるものだが、本作の凄さはこの先にある。
実は、邸宅の地下深くに隠された核シェルターに、誰も知らない最下層のさらに最下層として、文字通りの“インビジブル・マン”が存在しているのだ。
この辺り、昨年話題になったジョーダン・ピール監督の社会派ホラー、「アス」と奇妙に符合するのが面白い。
もちろん描き方は全く異なるが、格差社会をモチーフにしたシニカルな暗喩劇なのも共通。
あの映画では、打ち捨てられた全米の地下施設に暮らすコピー人間たちが、地上の富裕層に対して反乱を起こし、自分たちの存在をデモンストレーションする。
対して本作では、インビジブル・マンの予期せぬ出現によって、二つの家族の間に蓄積されてきた淀みが一気に噴出し、破滅をもたらすのである。
半地下などまだ生ぬるい、本当の絶望は誰にも見えない地の底にあるという訳だ。
予測不能のアクションの連続から、一度住んだら決して拭い去れない“半地下の臭い”というカメラに写らないものが、決定的な意味を持つクライマックスの描写は実に映画的で、巧みな構成と円熟した演出力に思わず唸った。

しかし、これでカンヌ国際映画祭は、2016年の「わたしは、ダニエル・ブレイク」、18年の「万引き家族」、そして本作と、過去4年間で3本、格差社会を扱った映画をパルム・ドールに選んだ訳だ。
もちろんカンヌだけでは無く、例えば昨年世界的な大ヒット作となった「ジョーカー」や、レバノンのスラムを舞台とした「存在のない子供たち」、ケン・ローチが再び格差社会の痛みを描いた「家族を想うとき」、本作と同じく現代韓国の闇に挑んだ「バーニング 劇場版」など、世界中で同一モチーフの映画が続々と作られているのは、もはやこれが汎地球的なイシューで、世界のどこでも同じ問題を抱えているということだ。
本作のパク家の人々がアメリカかぶれなのも、資本主義の格差社会の象徴としてのイメージなのだろう。
この深刻かつ身近なイシューを、驚くべき未見性を秘めた極上のエンターテイメントに仕上げてしまうのが、流石のポン・ジュノ。
もしかしたら、この勢いでアカデミー外国語映画賞まで持っていくのかも知れない。
ぶっ飛んだ映画ではあるが、決して絵空事と言い切れないのが恐ろしい。

今回は格差が作り出す地獄の話なので、「ヘルファイア」をチョイス。
氷を入れたビアジョッキに、ライム1/4を絞り入れる。
スパイスド・ラム30ml、ジンジャー・ビア30ml、タバスコ2dashを注ぎ、軽くステア。
最後にピルスナービールを静かに注ぎいれ、再度軽くステアして完成。
材料からも想像がつく通り、スパイシーで喉を温める効果があり、好みは別れるだろうがそれほどクセが強いわけでも無い。
このぐらいの地獄なら、なんとか耐えられるんだけどなあ。

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男はつらいよ おかえり 寅さん・・・・・評価額1600円
2020年01月05日 (日) | 編集 |
さよなら 寅さん。

昭和の日本映画を代表する国民的人情喜劇、「男はつらいよ」のシリーズ誕生50周年を記念する、まさかの最新作。
主演の渥美清はとうの昔に無くなっているので、吉岡秀隆演じる甥の満男の視点で、現在の出来事に絡めて過去の作品が回想される手法。
50年という歳月と、49本の過去作の存在があって、はじめて可能になった極めて特異な映画である。
吉岡秀隆と後藤久美子の懐かしいカップルの、焼け木杭が微妙にくすぶる物語を軸に、倍賞千恵子や前田吟らお馴染みの面々が再結集。
寅さんが記憶の彼方に去ってから四半世紀、はたして令和の時代に昭和のアイコンが語りかけてくる物語とは何か。
※核心部分に触れています。

脱サラし、小説家となった満男(吉岡秀隆)は、妻の七回忌のためにひとり娘のユリ(桜田ひより)と共に、柴又の実家を訪れる。
そこでは母のさくら(倍賞千恵子)と父の博(前田吟)が今も「くるまや」を守っていた。
法事の後、柴又の人たちと語らう中で、満男はふと楽しく喧しかった伯父の寅さん(渥美清)のことを思い出す。
日本中を旅していた寅さんとは長い間会えておらず、満男の心にはポッカリ穴が空いていた。
そんな時、書店で行われたサイン会で、満男は忘れ得ぬ初恋の人、泉(後藤久美子)と再会する。
ヨーロッパに渡り、今は国連機関で働く彼女を、満男は「会わせたい人がいる」と、小さな喫茶店に連れてゆく。
そこにいたのは、かつて寅さんと夫婦同然の生活を送っていたリリー(浅丘ルリ子)だった・・・


なんとも不思議な手触りの作品である。
半世紀分の過去作が地層の様に積み重なり、その上に構築されたアーカイブとしての映画。
あえて言えば、木下恵介トリビュートだった原恵一監督の「はじまりのみち」に成り立ちは近いが、作り手も演じ手も過去作と同じなので、よりインサイダー的な作りだ。
実はこのアプローチは、「男はつらいよ」シリーズでは二回目。
1995年に第48作の「寅次郎紅の花」が公開された翌年、渥美清が死去したため、誰もがシリーズは打ち止めだと思ったのだが、97年に49作目として「寅次郎ハイビスカスの花 特別篇」が公開された。
これは全国を飛び回るサラリーマンとなった満男の回想という形で、表題作を始めとしていくつかの作品をアーカイブした作品で、本作はいわば満男による「男はつらいよ」アーカイブ・シリーズの第二弾と言える。

本作で妻と死別し、シングルファーザーとしてひとり娘を育てている満男が、脱サラして小説家になってるのは、たぶんに「男はつらいよ」の影響を受けていそうな吉岡秀隆のもう一つの当たり役、「ALWAYS 三丁目の夕日」シリーズの茶川さんを連想させる。
また、ジャン・アレジと事実婚した演じ手の後藤久美子と同じく、満男の元カノの泉もフランス人と結婚して海外で暮らしていたり、俳優の人生キャリアもアーカイブに取り込みつつ、映画は再び満男視点で姿なき寅さんの影を追う。
このシリーズは時事ネタを大胆に取り込むことも特徴だったが、泉が国連高等弁務官事務所で難民支援の仕事をしているのも生っぽい。
共に人生経験を積み、親となった満男と泉を巡る現在のドラマに絡めるように、シチュエーションごとに引用される過去作のチョイスの絶妙なこと。
寅さんのキュートさに笑いながらも、渥美清とはとてつもない才能だったのだなと、今更ながら実感。
もちろん、彼の魅力を最大限に引き出した山田洋次も凄いのだが。

映画の世界では、寅さんはフラリと何処かへ行ったっきり。
妹のさくらは相変わらず彼が帰ってきた時のために、くるまやの二階を開けている。
だから誰も寅さんが死んだとは言わないけど、具体的に彼が何処で何をしているのかは言及されないし、何十年も帰って来ないのに、探そうともしていない。
ただ満男だけが、「こんな時、おじさんだったらどうしただろう?」と寅さんの幻影を追うのである。
どんなに求めても、寅さんはもう戻ってこない。
「おかえり 寅さん」というタイトルだが、これは50年目にして、寅さんにハッキリと「さよなら」を言うため、終わらせるために企画された作品ではないか。

映画版の前身となる、フジテレビのドラマ版「男はつらいよ」では、寅さんはハブに噛まれて死んでしまう。
山田洋次は、高度成長期の一億総サラリーマン化の時代にあって、自由奔放な寅さんのような生き方は、社会が許さないだろうと考えたという。
しかし、この残酷なラストには視聴者の抗議が殺到し、大衆は寅さにリアルさではなく憧れに近いファンタジーを求めていたことに気づいた山田洋次自らの手によって、映画でリブートされたのである。
結果として、映画版「男はつらいよ」は大人気となり、同一俳優で四半世紀にわたって続いた世界最長の映画シリーズとして、ギネスブックにも載った。
だがそれは、稀代の才能だった渥美清という俳優を、寅さんという美化された昭和のアイコンに閉じ込めるという結果となってしまった。
80年代以降、「男はつらいよ」シリーズ以外の渥美清の出演作は、ナレーションを除けばいくつかの山田洋次監督の作品の脇役が全てだ。
渥美清の葬儀で、山田洋次は「あと一作、あと一作」と思いながらも、最後まで寅さんから解放してあげられなかったことを、後悔していると語っている。

映画の終盤、再会した泉と共に過去へのうたかたの旅に出ていた満男が帰宅すると、娘のユリが「おかえり」と声をかける。
寅さんを知らないユリの世代にとっては、満男の心の中にある過去は、存在を実感できない虚構の世界
そして旅を終えた満男は、思い出の中の寅さんを主人公とした小説を書きはじめるのだ。
「寅次郎ハイビスカスの花 特別篇」を含む過去作で、明確な結末が示されなかったので、シリーズをずっと鑑賞していた多くの日本人の心の中で、寅さんの物語はなんとなく続いていた。
しかし本作で、小説の登場人物として寅さんを登場させることで、山田洋次はついに遠大な物語の幕を引く。
冒頭の桑田佳祐の寅さんコスプレをはじめ、この映画の全ては寅さんを主人公としたシリーズを、物語の中の物語、虚構の中の虚構へと封じ込めるためにある。
いわば本作は、過去22年の空白も含めた、渥美清=車寅次郎の物語の完結編にしてレクイエム。
創造主の山田洋次にとっては、物語を閉じることによって、渥美清を寅さんから解放することが、ストーリーテラーとしてのケジメだったのかも知れない。

客入りは半分くらいだったが、年配のお客さんたちから終映後に拍手が出てたのが印象的。
「スター・ウォーズ」でも初日だけなのに(笑
ちなみに、シリーズを一本も観てない友人によると、「知らないでも結構面白かった」そうだ。

今回は、東京23区内に唯一残る酒蔵、北区赤羽の地酒である小山酒造の「丸眞正宗 純米吟醸」をチョイス。
庶民の酒だけあって、辛口でさっぱりとした飽きのこない味わい。
適度な吟醸香と米の旨みも感じられ、とても飲みやすい。
赤羽のおでん屋、丸健水産はこの銘柄のワンカップを、おでん汁で割ったメニューでも有名。
おせちにも飽きてきたこの時期、確かにおでんなどのあったかいメニューと合わせるとぴったりだろう。

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この世界の(さらにいくつもの)片隅に・・・・・評価額 Priceless
2019年12月25日 (水) | 編集 |
すずさん、久しぶりじゃったね〜

2016年11月に公開された、こうの史代原作、片淵須直監督による「この世界の片隅に」の批評的・興行的な大成功を受けて、新たに制作された未映像化部分を含めた完全版。
先日、東京国際映画祭で上映された「特別先行版」からもいくつかのシーンが加えられ、最終的な上映時間はオリジナルよりも42分も伸びた168分。
単体のアニメーション映画としては、世界的にも稀な大長編だが、もちろん単純に尺を伸ばしただけではない。
三年前のオリジナルから、作画や彩色も一部修正され、コトリンゴがうたうエンディングテーマ「たんぽぽ」も重厚な印象に再録されるなど、全体がより作り込まれたものになっている。
タイトルも「この世界の(さらにいくつもの)片隅に」と改まり、テーマ的にもオリジナルを内包しつつよりワイドに、よりディープに進化した。
10年代の最後に登場した、このディケイドのベスト・オブ・ベストといえる珠玉の傑作である。

浦野すず(のん)は、広島市の南端に位置する江波で育った絵が得意な少女。
昭和19年の初春、18歳になった彼女は、故郷から20キロ離れた軍港の街、呉に暮らす北條家の長男で、軍法会議の事務官をしている周作(細谷佳正)のもとへ嫁ぐ。
すずは周作を知らなかったが、ずっと以前の子供時代に、周作がすずを見初めたのだという。
港を見下ろす山裾にある北條家は、すず夫婦と足の悪い義母・サン(新谷真弓)、海軍工廠で働く義父の円太郎(牛山茂)、出戻りの義姉・径子(尾身美詞)とその娘・晴美(稲葉菜月)のにぎやかな六人家族。
若き主婦となったすずは、次第に物資が不足してゆく中、工夫を凝らして一家を盛り立てる。
そんな頃、すずは道に迷って入り込んだ呉の朝日遊郭で、白木リン(岩井七世)という同世代の女性と出会い、道を教えてくれたお礼に、手に入りにくくなった食べ物の絵を描いてあげ、意気投合する。
しかし再会を口にするすずに、リンは「こんな所にはさいさい来るもんじゃない」と言うのだった。
そして、家の蔵を整理していた時、すずはリンの着物に描かれていたのと同じ、綺麗なリンドウが描かれた茶碗を見つける・・・・


当たり前だが、物語の骨子そのものはオリジナルと変わらない。
広島の江波に生まれた想像力豊かな少女、浦野すずが、太平洋戦争末期に軍都・呉に住む北條家の長男・周作のもとに嫁ぎ、戦時下の食糧難や米軍の空襲、家族の死などさまざまな体験をしながら成長してゆく。
この物語が特異なのは、典型的な三幕構成ではなく、日々のこまかなエピソードが、無数に積み重なるような構造で作られていること。
いや、物語のベースの部分に三幕はしっかり見て取れる。
しかし、すずさん本人が「うちゃあぼーっとしとるけえ」と語っているように、彼女は極めて平凡かつ受動的な人で、普通の物語の主人公のように積極的に動かない。
何しろぼーっとしてる間に結婚までしてしまい、物語の中で「自分はこうしたい」と初めて明確に主張するのが、もう映画も終盤、原爆投下の朝に「広島の実家に戻るのをやめる」と径子に告げるシーンなのである。

この映画は、戦争の時代でもひたすら平凡を貫くすずさんの日記帳の様に、受け身の彼女が経験する様々な出来事を描写してゆくのだが、オリジナルでは描かれていなかったいくつものエピソードが組み込まれることで、物語が有機的に変化し、元々あったシーンに新たな意味が付与される。
例えばすずさんが尋常小学校六年の時に、彼女の幼馴染にして初恋の人である水原が、事故死した兄の鉛筆をくれるシーンがある。
オリジナルの映画だと単に「鉛筆をくれた」と言う現象だけなのだが、本作ではその前に水原のせいですずが鉛筆を無くしてしまう描写が加えられ、二人の間に異なる感情のやりとりが生まれているのである。
本作では特に、オリジナルでは迷子になったすずさんに、道を教えるエピソードしか描かれなかった、遊郭のリンさんとのエピソードが大幅に増えていて、彼女の存在が周作との夫婦の関係にも影響してくる。

すずさんは、自分と結婚する前の周作を知らない。
しかし、周りの人々の言動や、リンさんとの交流を通して、彼女は徐々に理解する。
自分と結婚する前に、周作には別の恋人がいたこと。
その人にプレゼントしようと周作が買っていた茶碗に、鮮やかなリンドウの花が描かれていたこと。
リンさんの持っている名札が、周作のノートの切れ端であること。
いくつもの状況証拠が重なることによって、すずさんはリンさんこそが周作が最初に愛した人であることを確信し、自分はもしかしたら彼女の“代用品”に過ぎないのではないかと葛藤する。

オリジナルでは、すずさんと周作の夫婦と、義姉の径子と晴美親子との絡みを中心に展開していったが、本作ではすずさんを軸として、片方に周作、もう片方にリンさんがいるというヤジロベエの様な関係になっていて、すずさんが内と外で新妻としての悩みを募らせつつ、径子親子や水原が彼女の人生に影響を与えてゆく。
これにより、彼女のキャラクターがぐっと多面的になって、妻として周作へ静かにぶつける怒りや、一人の女性としてのリンさんへのコンプレックスなど、天然なだけではない複雑な人間性を描き出すのである。
また、すずさんの感情との対比によって、周作の心理描写もより豊かになった。
重巡青葉の水兵となっていた水原が、入湯上陸で北條の家に泊まりに来た夜、彼女を水原のいる納屋へと送り出した周作が、玄関のカギをかけてしまう描写などに、お互いの過去への苦悩が見て取れる。
それまで異なる人生を送ってきた新米夫婦の、時にはつまずきながらの、二人三脚の成長物語としての側面は大幅に強化されている。

周作の言葉を借りれば、人生は振り返って「過ぎたこと、選ばんかった道」ばかり。
すずさんとリンさんの人生は、もしかしたら入れ替わっていたかもしれない。
周りの反対を押し切って、周作がリンさんと結婚していたら、すずさんと周作は幼いころに一瞬邂逅しただけで、一生再会しなかったかもしれない。
妹のすみちゃんの言う通り、北條家に気兼ねして広島の実家に帰っていたら、原爆で死んでいたかもしれない。
右腕の怪我があるので、すずさんは原爆直後の広島への救援活動には参加出来なかったが、実際に広島へ行った隣組の知多さんは被爆し、原爆症の症状が出ている。
彼女もまた、“もしも”のすずさんなのである。
いくつもの「選ばんかった道」の結果として、すずさんの今の人生がある。
おそらくすずさんは、草津の祖母の家で出会った“座敷童”が、行き場なくさまよっていた頃のリンさんだったことにも気付いただろう。
戦後の焼け跡の広島で、戦災孤児となった幼い少女を、偶然出会ったすずさんと周作が躊躇なく連れ帰ったのは、もしかしたら晴美の面影だけではなく、リンさんの気高くも薄幸な人生が心によぎった結果かもしれない。

タイトル通り、本作はすずさんというキャラクターを掘り下げ、彼女の見る世界を広げることによって、「この世界の(さらにいくつも)の片隅」を見せてくれる。
もの言わぬ記憶の器でなく、すずさんの視点を通して語られることで、彼女の周りにいた人たちも死んで消えてなくならず、物語の虚構を超えて、かつて存在していたかもしれない人たちとして物語の中で新たな命を持つ。
元の物語はそのまま生かされているので、「この世界の片隅に」と全くの別ものという訳ではない。
しかし今まで見えていたのが、すずさんの見た50%の世界だとしたら、今回は限りなく100%へと広がった。
オリジナルの時点でとんでもない傑作だったが、それを丸ごと取り込みさらなるブラッシュアップを経て、もはや文句のつけようがない。
日本映画史上、アニメーション映画史上に永遠に残るであろう、国宝級の名作はプライスレス!

今回は、今や広島を代表する蔵の一つとなった、呉の相原酒造から「雨後の月 大吟醸 月光」をチョイス。
雨が降った後、顔を出した月が澄み切った光で周りを照らす、と言うイメージで命名されたと言う。
低温熟成された大吟醸は、まろやかに旨味が広がり、まことに芳潤。
戦争という最悪の荒天を生き抜いた、すずさんたちの命の輝きこそ、この酒に相応しい。

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