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※タイトルインディックスを作りました。こちらからご利用ください。
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2008年06月29日 (日) | 編集 |
原田眞人は日本映画史においては、かなり特異な映画作家であると思う。
若くして米国を拠点に評論活動を開始し、やがて「さらば映画の友よ インディアンサマー」で監督に転進、近年は俳優としても外国映画の悪の日本人役でおなじみだ。
そのしばし露骨なまでのハリウッド志向ゆえか、日本のいわゆるシネフィルと言われる人々の評価は、あまり高くない様に思える。
実際、79年以来、ほぼ年一本のペースで生み出してきた作品群は、正直なところかなり出来栄えにバラツキがあり、「おニャン子ザ・ムービー 危機イッパツ」「ガンヘッド」のような、意欲は買えるものの、どうにも理解に苦しむような作品も多いのだが、その一方で「KAMIKAZE TAXE」「バウンス ko GALS」「金融腐食列島 呪縛」の様な秀作も着実に物にしているのだから、ある意味で掴み所の無い作家である。
今回の「クライマーズ・ハイ」は、幸いな事に後者。
それも、彼のフィルモグラフィーの中でも、かなりハイランクに位置する作品となった。
1985年8月12日。
乗員乗客524人を乗せたJAL123便が消息を絶った。
情報が錯綜する中、機体は群馬県御巣鷹山に墜落した事が明らかになる。
群馬県前橋市にある北関東新聞社では、カリスマ社長白河(山崎努)の命令で、一匹狼の悠木和雅(堤真一)が全権デスクに任命された。
史上最大の航空機事故という大事件。
悠木は県警キャップの佐山(堺雅人)らを事故現場へ急行させた。
そんな時、悠木は販売局員で親友である安西(高嶋政宏)が、突然倒れた事を知らされる・・・・
23年前に起こった、あの大惨事は覚えている人も多いだろう。
単独の航空機事故としては空前絶後であり、事故原因などをめぐっていまだに様々な新説が飛びかうほどインパクトの大きな事件だった。
しかし、この作品は日航機墜落事故を扱ってはいるものの、直接それを描いた作品ではない。
これは、未曾有の大事件に直面した一地方新聞社の記者たちの、荒れ狂う怒涛の中での一週間を描いたドラマなのだ。
タイトルの「クライマーズ・ハイ」とは危険な山に挑む登山家が、やがて恐怖すら忘れる精神の高揚を迎える現象を言う。
彼らは「ハイ」の状態を抜けると、逆に恐怖が噴出して一歩も動けなくなるという。
映画の構造はちょっと複雑だ。
この映画には二つの山があり、そのうちの一つが一週間、もう一つが23年という時間軸を介して複雑に絡み合っている。
最初の山は言うまでも無く日航機墜落事故だ。
会社の誰もが扱ったことの無いほどの大事件に、戸惑いと異様な高揚を感じながら挑む、悠木ら記者たち。
編集局内での人間関係のせめぎ合い、締め切りと言う時間との戦い、編集局と販売局との対立といったドラマが、2時間25分の上映時間の間、雪崩のように押し寄せる。
原作者の横山秀夫は、事件当時実際に群馬県の地方新聞記者としてこの事件の取材にあたり、自らの経験に基づいて物語をつむいでいる。
それゆえか、北関東新聞社内での人間ドラマは圧倒的なリアリティを感じさせる。
近年の原田作品の特徴である、極端に細かいカットを繋いでゆくスタイルも、この作品では生きている。
この手法は物語に緊張感を与え、リズムをある程度自由に操れるなどの利点があるが、反面ドラマの断片化をもたらす。
前作の「魍魎の函」では、元々複雑な物語が演出によってさらに断片化されて、原作既読者でもよくわからない話になってしまっていたが、この作品の場合、そもそも事態を完全に把握している人物が、登場人物の中にも誰もいないという設定なので、彼らの混乱と緊張をさらに強調する効果的な演出となっているのである。
もう一つの山は、物語を縦に長く貫き、この複雑な物語を大きく包み込む役割を果たしている。
それは父性という山を巡る物語だ。
日航機事件をめぐる一週間は、私生児として生まれた悠木が、彼の擬似的な父親である、新聞社のカリスマ社長・白河という山に挑む一週間でもある。
そして、曖昧なまま終わったこの登頂に、悠木がある種の決着をつけるためのもう一つの山を巡る物語が現在を舞台に描かれる。
23年前の「山」が比喩的な物であったのに対して、こちらは谷川岳の衝立岩を舞台とした本物の登山であり、過去に自らが挑んだ山が何だったのかという、悠木の内面の葛藤への答えを求める旅であると同時に、彼の中にくすぶる父性へのわだかまりを解き放つための道程でもある。
これは時間を越えた二つの「山」に挑んだ悠木が、「クライマーズ・ハイ」の恐怖を乗り越えて山の頂に立つまでの物語なのである。
惜しむらくは、この現在の登山の象徴性が、過去のドラマと完全にシンクロするとは言いがたい点で、特に悠木と白河の葛藤は両者の関係性にモヤモヤした点が多くて、やや説明不足の感がある。
結果的に、悠木と彼自身の息子・淳との関係も曖昧さが残ってしまっている。
もっとも、元々親子関係など明快な物ではなく、あえてそれを残したという捕らえ方が出来なくもないのだが。
「クライマーズ・ハイ」は、濃密な人間ドラマであり、史上最大の航空機事故に直面した新聞社というパニック状態の中、数十名の社員が引切り無しに画面に登場しては消える。
驚くべき事に、これほど登場人物の多い映画にもかかわらず、彼らはみなしっかりと個性を持ち、明確にキャラ立ちしている。
これは原作のキャラクター造形に加えて脚本の見事さもあるが、俳優たちも素晴らしい。
主人公悠木を演じるの堤真一はこの複雑な物語の中で、しっかりと中心の軸となって好演しているが、彼以上にインパクトのあるのが県警キャップを演じた堺雅人だ。
この怪演は、間違いなく今年観たベストアクトの一つだろう。
今回は、舞台となる群馬の地酒から。
高井株式会社の「巌 大吟醸」をチョイス。
端麗やや辛口で、吟醸酒らしい香りを楽しめる。
山歩きの後などに、山の幸を肴に、こんなお酒を冷で飲むのは最高である。
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若くして米国を拠点に評論活動を開始し、やがて「さらば映画の友よ インディアンサマー」で監督に転進、近年は俳優としても外国映画の悪の日本人役でおなじみだ。
そのしばし露骨なまでのハリウッド志向ゆえか、日本のいわゆるシネフィルと言われる人々の評価は、あまり高くない様に思える。
実際、79年以来、ほぼ年一本のペースで生み出してきた作品群は、正直なところかなり出来栄えにバラツキがあり、「おニャン子ザ・ムービー 危機イッパツ」「ガンヘッド」のような、意欲は買えるものの、どうにも理解に苦しむような作品も多いのだが、その一方で「KAMIKAZE TAXE」「バウンス ko GALS」「金融腐食列島 呪縛」の様な秀作も着実に物にしているのだから、ある意味で掴み所の無い作家である。
今回の「クライマーズ・ハイ」は、幸いな事に後者。
それも、彼のフィルモグラフィーの中でも、かなりハイランクに位置する作品となった。
1985年8月12日。
乗員乗客524人を乗せたJAL123便が消息を絶った。
情報が錯綜する中、機体は群馬県御巣鷹山に墜落した事が明らかになる。
群馬県前橋市にある北関東新聞社では、カリスマ社長白河(山崎努)の命令で、一匹狼の悠木和雅(堤真一)が全権デスクに任命された。
史上最大の航空機事故という大事件。
悠木は県警キャップの佐山(堺雅人)らを事故現場へ急行させた。
そんな時、悠木は販売局員で親友である安西(高嶋政宏)が、突然倒れた事を知らされる・・・・
23年前に起こった、あの大惨事は覚えている人も多いだろう。
単独の航空機事故としては空前絶後であり、事故原因などをめぐっていまだに様々な新説が飛びかうほどインパクトの大きな事件だった。
しかし、この作品は日航機墜落事故を扱ってはいるものの、直接それを描いた作品ではない。
これは、未曾有の大事件に直面した一地方新聞社の記者たちの、荒れ狂う怒涛の中での一週間を描いたドラマなのだ。
タイトルの「クライマーズ・ハイ」とは危険な山に挑む登山家が、やがて恐怖すら忘れる精神の高揚を迎える現象を言う。
彼らは「ハイ」の状態を抜けると、逆に恐怖が噴出して一歩も動けなくなるという。
映画の構造はちょっと複雑だ。
この映画には二つの山があり、そのうちの一つが一週間、もう一つが23年という時間軸を介して複雑に絡み合っている。
最初の山は言うまでも無く日航機墜落事故だ。
会社の誰もが扱ったことの無いほどの大事件に、戸惑いと異様な高揚を感じながら挑む、悠木ら記者たち。
編集局内での人間関係のせめぎ合い、締め切りと言う時間との戦い、編集局と販売局との対立といったドラマが、2時間25分の上映時間の間、雪崩のように押し寄せる。
原作者の横山秀夫は、事件当時実際に群馬県の地方新聞記者としてこの事件の取材にあたり、自らの経験に基づいて物語をつむいでいる。
それゆえか、北関東新聞社内での人間ドラマは圧倒的なリアリティを感じさせる。
近年の原田作品の特徴である、極端に細かいカットを繋いでゆくスタイルも、この作品では生きている。
この手法は物語に緊張感を与え、リズムをある程度自由に操れるなどの利点があるが、反面ドラマの断片化をもたらす。
前作の「魍魎の函」では、元々複雑な物語が演出によってさらに断片化されて、原作既読者でもよくわからない話になってしまっていたが、この作品の場合、そもそも事態を完全に把握している人物が、登場人物の中にも誰もいないという設定なので、彼らの混乱と緊張をさらに強調する効果的な演出となっているのである。
もう一つの山は、物語を縦に長く貫き、この複雑な物語を大きく包み込む役割を果たしている。
それは父性という山を巡る物語だ。
日航機事件をめぐる一週間は、私生児として生まれた悠木が、彼の擬似的な父親である、新聞社のカリスマ社長・白河という山に挑む一週間でもある。
そして、曖昧なまま終わったこの登頂に、悠木がある種の決着をつけるためのもう一つの山を巡る物語が現在を舞台に描かれる。
23年前の「山」が比喩的な物であったのに対して、こちらは谷川岳の衝立岩を舞台とした本物の登山であり、過去に自らが挑んだ山が何だったのかという、悠木の内面の葛藤への答えを求める旅であると同時に、彼の中にくすぶる父性へのわだかまりを解き放つための道程でもある。
これは時間を越えた二つの「山」に挑んだ悠木が、「クライマーズ・ハイ」の恐怖を乗り越えて山の頂に立つまでの物語なのである。
惜しむらくは、この現在の登山の象徴性が、過去のドラマと完全にシンクロするとは言いがたい点で、特に悠木と白河の葛藤は両者の関係性にモヤモヤした点が多くて、やや説明不足の感がある。
結果的に、悠木と彼自身の息子・淳との関係も曖昧さが残ってしまっている。
もっとも、元々親子関係など明快な物ではなく、あえてそれを残したという捕らえ方が出来なくもないのだが。
「クライマーズ・ハイ」は、濃密な人間ドラマであり、史上最大の航空機事故に直面した新聞社というパニック状態の中、数十名の社員が引切り無しに画面に登場しては消える。
驚くべき事に、これほど登場人物の多い映画にもかかわらず、彼らはみなしっかりと個性を持ち、明確にキャラ立ちしている。
これは原作のキャラクター造形に加えて脚本の見事さもあるが、俳優たちも素晴らしい。
主人公悠木を演じるの堤真一はこの複雑な物語の中で、しっかりと中心の軸となって好演しているが、彼以上にインパクトのあるのが県警キャップを演じた堺雅人だ。
この怪演は、間違いなく今年観たベストアクトの一つだろう。
今回は、舞台となる群馬の地酒から。
高井株式会社の「巌 大吟醸」をチョイス。
端麗やや辛口で、吟醸酒らしい香りを楽しめる。
山歩きの後などに、山の幸を肴に、こんなお酒を冷で飲むのは最高である。
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2008年06月26日 (木) | 編集 |
韓国の鬼才イ・チャンドンは、私が最も敬愛する映画作家の一人である。
一人の男の自殺の瞬間から、時を遡って彼自身の人生と、韓国現代史をシンクロさせて描いた「ペパーミント・キャンディー」、社会のはみ出し者同士の恋を大胆な設定で描いた「オアシス」など、彼の映画は常に等身大の普通の人間が抱える深いドラマを、思いもしなかった切り口から見せてくれる。
前作、「オアシス」の完成後、韓国政府の文化観光部長官という、日本で言えば文化庁長官に当たる要職に就いていたが、復帰作となる本作「シークレット・サンシャイン」は5年のブランクを感じさせない素晴らしい仕上がりであった。
夫を亡くしたシネ(チョン・ドヨン)は、一人息子のジュンと共に、夫の故郷である密陽に越してくる。
車の故障で立ち往生していたシネは、地元で自動車修理工場を営む冴えない中年男ジョンチャン(ソン・ガンホ)に助けられる。
小さな田舎町で、隣近所との葛藤を抱えながらもピアノ教室を開き、ジュンと二人で新生活をスタートさせたシネ。
ジョンチャンはそんな彼女に好意を持ち、頼まれもしないのに色々と気を焼くが、シネが振り向いてくれる気配はない。
そんなある日、シネの留守中にジュンが何者かに誘拐され、殺害される事件が起こってしまう・・・
イ・チャンドンは1954年生まれ。
70年代から80年代の韓国に吹き荒れた民主化運動のリーダーの一人であり、その後に作家として活動した後に、96年の「グリーンフィッシュ」で映画界に進出したという異色の経歴の持ち主である。
それ故か、彼の映画は登場人物の個人史を感じさせる物が多い。
主人公の人生が韓国現代史そのもののメタファーとなっている「ペパーミント・キャンディー」はそれが顕著に現れているが、本作もまた主人公であるシネの閉ざされた心の中の自分史と言える。
その意味で、これは個人の歴史が外に開いていった「ペパーミント・キャンディー」と対をなす様な作品である。
夫を失い、心に傷を負ったシネが目指したのは夫の故郷であり、「秘密の日だまり」という意味の名を持つ密陽という小さな街。
その街で彼女を待っていたのは、愛する息子の死という更なる喪失だった。
「小さな日だまりにも神の意志が宿る」と失意のシネを勧誘するキリスト教会のメンバーに、「日だまりなどただの光だ」と言い放つシネが求めていた物は何か。
喪失感に耐えかねて、心と体のバランスを崩しかけていたシネは、衝動的に訪れたキリスト教会で、突如として信仰に目覚める。
信仰はシネの心を支え、彼女は一時の安息得る。
ところがこの信仰が、ある事をきっかけにシネに更なる葛藤をもたらす事になるのである。
自分の感じていた神が、他人の感じている神とは異なるという、ある意味当たり前の事実を知った時、神の絶対的な癒しは彼女の中で偽りに変わってしまう。
人間だけでなく神にまで裏切られたシネが、天を睨みつけながらある方法で信仰を破壊しようとするシーンは衝撃的だ。
心の拠り所を失ったシネは、自らの生を確認するかの様に自らを傷つける。
極限まで追い込まれた人間存在の切なさを、その華奢な体いっぱいに表現したチョン・ドヨンが素晴らしく、彼女は本作で韓国人として初めて、カンヌ国際映画祭の主演女優賞を受賞している。
下心見え見えでシネを支える田舎のおっちゃん、ジョンチャン役には、今や韓国を代表する名優となったソン・ガンホ。
思えば彼を初めて観たのも、イ・チャンドンの「グリーンフィッシュ」だった。
切なく哀しい人生の中で、庭先を照らす小さな日だまりの様な希望。
あらゆる悲惨な運命に翻弄されたシネが、一つの答えにたどり着くラストは、とても静かで、しかし感動的な名シーンだ。
人間を癒すのはやはり人間なのだと思う。
この映画の持つ厳しさと優しさ、観賞後に深く尾を引く独特の後味は、クリント・イーストウッドの映画にも通じる物がある。
韓流スターだけではない、韓国映画の地力を見せつける見事な作品であった。
今回は「日だまり」にまつわる話なので、滋賀県の北島酒造の「太陽の一滴」をチョイス。
特に強い特徴は無い酒だが、純米酒らしいふくらみを適度に持ち、全体のバランスが良くシチュエーションを選ばない。
市井の人々が、人生の喜び悲しみを感じて飲むのは、こういう良い意味で普通の酒だろう。
イ・チャンドンの燻し銀の世界は、イーストウッド同様に日本酒がよく似合う。
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一人の男の自殺の瞬間から、時を遡って彼自身の人生と、韓国現代史をシンクロさせて描いた「ペパーミント・キャンディー」、社会のはみ出し者同士の恋を大胆な設定で描いた「オアシス」など、彼の映画は常に等身大の普通の人間が抱える深いドラマを、思いもしなかった切り口から見せてくれる。
前作、「オアシス」の完成後、韓国政府の文化観光部長官という、日本で言えば文化庁長官に当たる要職に就いていたが、復帰作となる本作「シークレット・サンシャイン」は5年のブランクを感じさせない素晴らしい仕上がりであった。
夫を亡くしたシネ(チョン・ドヨン)は、一人息子のジュンと共に、夫の故郷である密陽に越してくる。
車の故障で立ち往生していたシネは、地元で自動車修理工場を営む冴えない中年男ジョンチャン(ソン・ガンホ)に助けられる。
小さな田舎町で、隣近所との葛藤を抱えながらもピアノ教室を開き、ジュンと二人で新生活をスタートさせたシネ。
ジョンチャンはそんな彼女に好意を持ち、頼まれもしないのに色々と気を焼くが、シネが振り向いてくれる気配はない。
そんなある日、シネの留守中にジュンが何者かに誘拐され、殺害される事件が起こってしまう・・・
イ・チャンドンは1954年生まれ。
70年代から80年代の韓国に吹き荒れた民主化運動のリーダーの一人であり、その後に作家として活動した後に、96年の「グリーンフィッシュ」で映画界に進出したという異色の経歴の持ち主である。
それ故か、彼の映画は登場人物の個人史を感じさせる物が多い。
主人公の人生が韓国現代史そのもののメタファーとなっている「ペパーミント・キャンディー」はそれが顕著に現れているが、本作もまた主人公であるシネの閉ざされた心の中の自分史と言える。
その意味で、これは個人の歴史が外に開いていった「ペパーミント・キャンディー」と対をなす様な作品である。
夫を失い、心に傷を負ったシネが目指したのは夫の故郷であり、「秘密の日だまり」という意味の名を持つ密陽という小さな街。
その街で彼女を待っていたのは、愛する息子の死という更なる喪失だった。
「小さな日だまりにも神の意志が宿る」と失意のシネを勧誘するキリスト教会のメンバーに、「日だまりなどただの光だ」と言い放つシネが求めていた物は何か。
喪失感に耐えかねて、心と体のバランスを崩しかけていたシネは、衝動的に訪れたキリスト教会で、突如として信仰に目覚める。
信仰はシネの心を支え、彼女は一時の安息得る。
ところがこの信仰が、ある事をきっかけにシネに更なる葛藤をもたらす事になるのである。
自分の感じていた神が、他人の感じている神とは異なるという、ある意味当たり前の事実を知った時、神の絶対的な癒しは彼女の中で偽りに変わってしまう。
人間だけでなく神にまで裏切られたシネが、天を睨みつけながらある方法で信仰を破壊しようとするシーンは衝撃的だ。
心の拠り所を失ったシネは、自らの生を確認するかの様に自らを傷つける。
極限まで追い込まれた人間存在の切なさを、その華奢な体いっぱいに表現したチョン・ドヨンが素晴らしく、彼女は本作で韓国人として初めて、カンヌ国際映画祭の主演女優賞を受賞している。
下心見え見えでシネを支える田舎のおっちゃん、ジョンチャン役には、今や韓国を代表する名優となったソン・ガンホ。
思えば彼を初めて観たのも、イ・チャンドンの「グリーンフィッシュ」だった。
切なく哀しい人生の中で、庭先を照らす小さな日だまりの様な希望。
あらゆる悲惨な運命に翻弄されたシネが、一つの答えにたどり着くラストは、とても静かで、しかし感動的な名シーンだ。
人間を癒すのはやはり人間なのだと思う。
この映画の持つ厳しさと優しさ、観賞後に深く尾を引く独特の後味は、クリント・イーストウッドの映画にも通じる物がある。
韓流スターだけではない、韓国映画の地力を見せつける見事な作品であった。
今回は「日だまり」にまつわる話なので、滋賀県の北島酒造の「太陽の一滴」をチョイス。
特に強い特徴は無い酒だが、純米酒らしいふくらみを適度に持ち、全体のバランスが良くシチュエーションを選ばない。
市井の人々が、人生の喜び悲しみを感じて飲むのは、こういう良い意味で普通の酒だろう。
イ・チャンドンの燻し銀の世界は、イーストウッド同様に日本酒がよく似合う。
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2008年06月24日 (火) | 編集 |
ヘヴィな作品が並んだ今年のアカデミー賞戦線の中で、異彩を放った軽妙なティーンコメディ。
「サンキュー・スモーキング」の、というよりはアイヴァン・ライトマンの息子と入った方がまだ通りがいい、二代目監督ジェイソン・ライトマンの作風は、同じコメディでも大味でアクの強いオヤジとは正反対で、淡白でスタイリッシュな今風のスタイル。
タイトルロールの「JUNO/ジュノ」に、若き演技派エレン・ペイジを得て、2作目にしてアカデミー監督賞ノミネートを果たしてしまった。
ジュノ(エレン・ペイジ)は16歳高校生。
バンド仲間のポーリー(マイケル・セラ)と興味本位でした最初のセックスで妊娠してしまう。
友達のリア(オリヴィア・サルービー)に相談したジュノは、最初中絶をしようとするが、病院の前で中絶反対運動をしていた同級生に「胎児にはもう爪があるのよ」と言われ産む決心をする。
とは言っても高校生の両親に子供が育てられる訳も無く、ジュノはフリーペーパーで養子を募集してる金持ちの若夫婦、バネッサ(ジェニファー・ガーナー)とマーク(ジェイソン・ベイトマン)を見つけ、里子に出す契約を交わす。
だんだんと大きくなるお腹をかかえ、高校生活続けるジュノは、次第に養子先の夫婦と仲良くなってゆくのだが・・・
十代の妊娠という深刻になりがちなテーマを扱っているにもかかわらず、物語は良い意味で軽く、明るい。
妊娠が発覚して、あっさりと堕胎を選択するジュノが、胎児にも爪があると知って、生む決意をするエピソードは、彼女の性格を上手く表現して秀逸なシーンだ。
よく言えば行動的、悪く言えば軽薄、でも行動は感情にストレートなジュノは、9ヶ月間の妊婦生活を通して、喜びと悲しみ、出会いと別離も含んだ様々な人生のステージに出会い、少し大人になって行く。
彼女が理想の大人を見た、バネッサとマーク夫婦の現実を知っても、それでも変わらない母としての愛を信じるだけの心を、ジュノは物語を通して獲得するのである。
相変わらずエレン・ペイジは上手い。
ジュノという主人公は、かなりエキセントリックで、見方によってはイカレた16歳。
下手な役者がこの役をやったら、全くリアリティも無く、ひたすら漫画チックな代物になっていただろうが、彼女はかなりの説得力をもって演じる事に成功している。
ペイジというピッタリの演技者を得ることが出来たのは、この作品にとっては幸運だったと言えるだろう。
ただ、彼女の過去の作品を観ていると、どうも同系統の「特殊な少女」の役柄が続いていて、デジャヴを感じなくも無いのだけど。
役者が良いおかげで、ジュノという少女のキャラクターに現実的な存在感は与えられているものの、正直なところ友達になりたいタイプではない。
若い少女たちが観客なら、また観方も違ってくるだろうが、おっさんにとっては天然な分むしろコワイよ、この娘は。
案の定、養子先の旦那は微妙に勘違いしていたし(笑
主人公への感情移入が難しいにもかかわらず、この作品が幅広い世代の多くの人々に支持されたのは、ジュノを取り巻く周りの人々が魅力的だからかもしれない。
娘の予期せぬ妊娠を受け止める両親。
ジュノの赤ちゃんを待ち望む、養子縁組先の若い夫婦。
そしてチアリーダーの友人リアに、赤ちゃんの頼りない父親であるポーリー。
人生の様々なパートを体現する彼らの存在が、多くの観客にこの物語の中で目の置き所を提供している様に見える。
脚本のディアブロ・コディは、ジュノの九ヶ月の中の要所要所に巧みに彼らを配置し、1人の少女が自らの妊娠という物語の終着点にちゃんと成長してたどり着けるように道筋をつけている。
本年度のアカデミーオリジナル脚本賞を受けただけあり、プロットはシンプルながらきっちりと構成され、登場人物のバランスも良い。
もっとも、物語的にはとてもきれいにまとまってはいるものの、深くは無い。
それは多分、ジュノを含めた登場人物が、ディアブロ・コディの頭の中で完全に制御された存在だからだろう。
このキャラクターはこう動くから、こっちはこう行動する、というようにある意味ですべての登場人物が明確な役割を持った作家のコマであり、ステロタイプを脱し切れていない。
要するに、これはコディの好みのキャラクターしか登場しない、良くも悪くも彼女の箱庭なのだ。
ライトマンの演出も、この脚本の長所を生かすべく、適度に引いた視線で捕らえているせいもあり、物語の持つテーマ性の深さとは対照的に、映画の印象はわりと表層的だ。
まあ、深刻なテーマをあえて深く追求せずに、一人の少女の気持ちだけに絞って表現し、観客を気持ちよく笑わせつつ、ちょっとしんみりさせて、最後に少しだけ考えさせると思えば、これはとてもよく出来た映画であると思う。
観る人によって、心の階層のどこまで入ってくるかは異なると思うが、誰もが爽やかな気分で映画館を後に出来る、そんな作品である。
さて本作の主人公の名前はローマ神話の女性・家庭の守護神JUNOからとられている訳だが、JUNOとは6月の女神でもあり、いわゆる「ジューン・ブライド」という言葉は、この月に結婚すればJUNOの祝福を受けて幸福になれるという言い伝えから来ている。
6月といえば星占術では双子座だが、星占をモチーフにした「フォーチュネイト」というシリーズワインがある。
今回はその6月を象徴する「フォーチュネイト・サンソー・ジェモー」をチョイス。
企画物だが、味も悪くない。
ライトな映画には気軽に飲めるこんなワインが結構合う。
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「サンキュー・スモーキング」の、というよりはアイヴァン・ライトマンの息子と入った方がまだ通りがいい、二代目監督ジェイソン・ライトマンの作風は、同じコメディでも大味でアクの強いオヤジとは正反対で、淡白でスタイリッシュな今風のスタイル。
タイトルロールの「JUNO/ジュノ」に、若き演技派エレン・ペイジを得て、2作目にしてアカデミー監督賞ノミネートを果たしてしまった。
ジュノ(エレン・ペイジ)は16歳高校生。
バンド仲間のポーリー(マイケル・セラ)と興味本位でした最初のセックスで妊娠してしまう。
友達のリア(オリヴィア・サルービー)に相談したジュノは、最初中絶をしようとするが、病院の前で中絶反対運動をしていた同級生に「胎児にはもう爪があるのよ」と言われ産む決心をする。
とは言っても高校生の両親に子供が育てられる訳も無く、ジュノはフリーペーパーで養子を募集してる金持ちの若夫婦、バネッサ(ジェニファー・ガーナー)とマーク(ジェイソン・ベイトマン)を見つけ、里子に出す契約を交わす。
だんだんと大きくなるお腹をかかえ、高校生活続けるジュノは、次第に養子先の夫婦と仲良くなってゆくのだが・・・
十代の妊娠という深刻になりがちなテーマを扱っているにもかかわらず、物語は良い意味で軽く、明るい。
妊娠が発覚して、あっさりと堕胎を選択するジュノが、胎児にも爪があると知って、生む決意をするエピソードは、彼女の性格を上手く表現して秀逸なシーンだ。
よく言えば行動的、悪く言えば軽薄、でも行動は感情にストレートなジュノは、9ヶ月間の妊婦生活を通して、喜びと悲しみ、出会いと別離も含んだ様々な人生のステージに出会い、少し大人になって行く。
彼女が理想の大人を見た、バネッサとマーク夫婦の現実を知っても、それでも変わらない母としての愛を信じるだけの心を、ジュノは物語を通して獲得するのである。
相変わらずエレン・ペイジは上手い。
ジュノという主人公は、かなりエキセントリックで、見方によってはイカレた16歳。
下手な役者がこの役をやったら、全くリアリティも無く、ひたすら漫画チックな代物になっていただろうが、彼女はかなりの説得力をもって演じる事に成功している。
ペイジというピッタリの演技者を得ることが出来たのは、この作品にとっては幸運だったと言えるだろう。
ただ、彼女の過去の作品を観ていると、どうも同系統の「特殊な少女」の役柄が続いていて、デジャヴを感じなくも無いのだけど。
役者が良いおかげで、ジュノという少女のキャラクターに現実的な存在感は与えられているものの、正直なところ友達になりたいタイプではない。
若い少女たちが観客なら、また観方も違ってくるだろうが、おっさんにとっては天然な分むしろコワイよ、この娘は。
案の定、養子先の旦那は微妙に勘違いしていたし(笑
主人公への感情移入が難しいにもかかわらず、この作品が幅広い世代の多くの人々に支持されたのは、ジュノを取り巻く周りの人々が魅力的だからかもしれない。
娘の予期せぬ妊娠を受け止める両親。
ジュノの赤ちゃんを待ち望む、養子縁組先の若い夫婦。
そしてチアリーダーの友人リアに、赤ちゃんの頼りない父親であるポーリー。
人生の様々なパートを体現する彼らの存在が、多くの観客にこの物語の中で目の置き所を提供している様に見える。
脚本のディアブロ・コディは、ジュノの九ヶ月の中の要所要所に巧みに彼らを配置し、1人の少女が自らの妊娠という物語の終着点にちゃんと成長してたどり着けるように道筋をつけている。
本年度のアカデミーオリジナル脚本賞を受けただけあり、プロットはシンプルながらきっちりと構成され、登場人物のバランスも良い。
もっとも、物語的にはとてもきれいにまとまってはいるものの、深くは無い。
それは多分、ジュノを含めた登場人物が、ディアブロ・コディの頭の中で完全に制御された存在だからだろう。
このキャラクターはこう動くから、こっちはこう行動する、というようにある意味ですべての登場人物が明確な役割を持った作家のコマであり、ステロタイプを脱し切れていない。
要するに、これはコディの好みのキャラクターしか登場しない、良くも悪くも彼女の箱庭なのだ。
ライトマンの演出も、この脚本の長所を生かすべく、適度に引いた視線で捕らえているせいもあり、物語の持つテーマ性の深さとは対照的に、映画の印象はわりと表層的だ。
まあ、深刻なテーマをあえて深く追求せずに、一人の少女の気持ちだけに絞って表現し、観客を気持ちよく笑わせつつ、ちょっとしんみりさせて、最後に少しだけ考えさせると思えば、これはとてもよく出来た映画であると思う。
観る人によって、心の階層のどこまで入ってくるかは異なると思うが、誰もが爽やかな気分で映画館を後に出来る、そんな作品である。
さて本作の主人公の名前はローマ神話の女性・家庭の守護神JUNOからとられている訳だが、JUNOとは6月の女神でもあり、いわゆる「ジューン・ブライド」という言葉は、この月に結婚すればJUNOの祝福を受けて幸福になれるという言い伝えから来ている。
6月といえば星占術では双子座だが、星占をモチーフにした「フォーチュネイト」というシリーズワインがある。
今回はその6月を象徴する「フォーチュネイト・サンソー・ジェモー」をチョイス。
企画物だが、味も悪くない。
ライトな映画には気軽に飲めるこんなワインが結構合う。
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2008年06月19日 (木) | 編集 |
「インディ」の事を書いたら、80年代を代表するもう一人のアクションヒーロー、ジョン・ランボーの事も書かねばなるまい。
こちらの「ランボー/最後の戦場」も、第一作の「ランボー」の公開から26年、第三作の「ランボー/怒りのアフガン」から数えても20年ぶりの復活作となった。
ベトナムから帰還し、故郷に拒絶された事から始まったランボーの長い旅は、今回一応の結末を迎えた様に見える。
故郷を離れ、タイの片田舎でスネークショー用の蛇を狩って暮らしているジョン・ランボー(シルベスター・スタローン)の元へ、アメリカのキリスト教系NGOグループが訪れる。
彼らはミャンマー政府軍に迫害されている少数民族・カレン族の支援のために、水路でミャンマーへ潜入しようとしており、その水先案内人をランボーに頼みに来たのだ。
一度は断ったランボーだったが、メンバーのサラ(ジュリー・ベンズ)の熱意にほだされて、グループをミャンマーに送り届ける。
ところがグループが訪れた村は、ミャンマー政府軍の奇襲攻撃を受け、村民は虐殺され、アメリカ人たちは捕虜として捕らえられてしまう。
グループが属する教会は、救出のために傭兵部隊を雇い、ランボーは彼らとともに再びミャンマーに潜入するのだが・・・
ランボーを演じるシルベスター・スタローンは御歳62歳。
インディのハリソン・フォード同様に、実年齢よりはずっと若く見えるものの、さすがに旧作の様にムキムキの筋肉を誇示する事も無ければ、華麗な肉体アクションで観客を魅了する事も無い。
その代わり、ここにあるのは圧倒的なまでの殺戮描写だ。
水田に沢山の対人地雷を投げ込み、その中にカレン族の人々を追い込んで爆死させるミャンマー政府軍の描写はナチスも真っ青の鬼畜ぶりだし、NGOグループを救出するランボーと傭兵部隊vsミャンマー軍の戦闘は、まるで「プライベート・ライアン」かと思わせる様な、凄まじい弾丸と火薬のパワーでスクリーンを覆い尽くす。
人間の肉体がバラバラのピースとして吹き飛び、内蔵がまき散らされるその描写は、ロケーション中心の撮影との相乗効果で、目を背けたくなるくらいのリアリティを感じさせる。
レイティングの不利を承知で、これほどまでに凄惨な描写となった背景には、ミャンマー軍とカレン族の内戦の現状を少しでも世界に知らせたいというスタローンの意向があったという。
ミャンマー軍がこんなに非人道的な存在なのかどうかは、正直なところよく判らないが、映画の描写はアフリカのダルフール内戦などで伝え聞く虐殺の内容と酷似しているし、昨年の仏教僧のデモ鎮圧、今年のサイクロン被害への対応をみても、まあ当たらずとも遠からずな存在であることは容易に想像できる。
当然ながらミャンマー政府はこの映画に激怒し、国内上映を禁止、逆にカレン族は映画に感謝する声明を出しているという。
元々「ランボー」の一作目には、国家の歯車として消費された一人の男が、自分を使い捨てたアメリカに対して、たった一人の内戦を仕掛けるという社会派アクションの側面があった。
実は一作目においてランボーは誰一人として殺しておらず、にもかかわらず悪鬼の様に恐れられ、狩り立てられるその姿が、ベトナムという傷に蓋をして無かった事にしたがるアメリカ社会への痛烈な批判となっていた。
第二作、第三作が一作目とは正反対のアメリカ万歳のオバカアクション映画と化した事で、その事はほぼ忘れ去られていたが、今回は殺した人の数は対照的ながら、26年ぶりに本来の作品のあり方に原点回帰したという印象だ。
本作は、長年世界の悲しみだけを見て生きて来たランボーと、良く言えば善意、悪く言えば能天気なNGOグループのメンバー、そしてランボーと同じ側にいながら打算的な傭兵部隊という三つの相反する価値観のぶつかり合いの物語でもある。
戦場という極限状態での葛藤が、結局彼ら自身をも変えてゆくという展開は面白い。
頑に命を奪う事を否定しているNGOグループの医者が、結局自らの手で敵を殺し狼狽するシーンなど、かなり皮肉が利いているし、半ば達観しているランボー自身もサラとのふれあいで頑な心を少しずつ溶かされてゆく。
本作のキャッチコピーにもなっている「ムダに生きるか、何のために死ぬか・・・・お前が決めろ」など、要所要所で放たれるランボーの名台詞も、ほとんど台詞がない故に非常に印象的。
もっとも、元々寡黙なキャラクターではあるのだが、いくら何でもしゃべらな過ぎで、ランボーの感情の変化がほとんど伝わって来ないのはちょと残念。
ランボーがサラとの触れあいで、彼の中に眠っていた大切な何かを目覚めさせたのは何となく判るのだが、彼女の何がランボーの心の琴線にふれたのかはよく判らない。
ミャンマー軍との最後の戦いの後の故郷への帰還も、同様の理由で少し唐突に感じた。
遠くからサラを見守るランボーの眼差しが、まるで親にかまってもらえない小さな子供の様に寂しげだったのが印象的ではあったが、一作目のラスト近くで、ランボーが元上官に向かって感情を爆発させるシーンほどではないにしろ、彼の内面の変化がはっきりと判る描写がどこかに欲しかった。
それでも物語の最後で、一作目の主題歌である名曲「It's a long road」の旋律が流れ、そのタイトル通りの長い長い故郷への道をランボーが去ってゆくシーンは、一人のヒーローの旅路の果てを見届けたという一定の感慨がある。
91分というコンパクトな上映時間の中身はなかなかに濃密だ。
今回は、一作目の舞台となったワシントン州から、ヘッジスの「レッドマウンテン」をチョイス。
ランボーの旅は、26年前にこの地から始まった。
複雑な果実香が楽しめるボディの強い赤は、まさしく「First blood」を思わせる。
ランボーの永久の安息を願って、乾杯。
まあ、何年かしたらまたやりそうな気がしないでも無いけど(笑
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こちらの「ランボー/最後の戦場」も、第一作の「ランボー」の公開から26年、第三作の「ランボー/怒りのアフガン」から数えても20年ぶりの復活作となった。
ベトナムから帰還し、故郷に拒絶された事から始まったランボーの長い旅は、今回一応の結末を迎えた様に見える。
故郷を離れ、タイの片田舎でスネークショー用の蛇を狩って暮らしているジョン・ランボー(シルベスター・スタローン)の元へ、アメリカのキリスト教系NGOグループが訪れる。
彼らはミャンマー政府軍に迫害されている少数民族・カレン族の支援のために、水路でミャンマーへ潜入しようとしており、その水先案内人をランボーに頼みに来たのだ。
一度は断ったランボーだったが、メンバーのサラ(ジュリー・ベンズ)の熱意にほだされて、グループをミャンマーに送り届ける。
ところがグループが訪れた村は、ミャンマー政府軍の奇襲攻撃を受け、村民は虐殺され、アメリカ人たちは捕虜として捕らえられてしまう。
グループが属する教会は、救出のために傭兵部隊を雇い、ランボーは彼らとともに再びミャンマーに潜入するのだが・・・
ランボーを演じるシルベスター・スタローンは御歳62歳。
インディのハリソン・フォード同様に、実年齢よりはずっと若く見えるものの、さすがに旧作の様にムキムキの筋肉を誇示する事も無ければ、華麗な肉体アクションで観客を魅了する事も無い。
その代わり、ここにあるのは圧倒的なまでの殺戮描写だ。
水田に沢山の対人地雷を投げ込み、その中にカレン族の人々を追い込んで爆死させるミャンマー政府軍の描写はナチスも真っ青の鬼畜ぶりだし、NGOグループを救出するランボーと傭兵部隊vsミャンマー軍の戦闘は、まるで「プライベート・ライアン」かと思わせる様な、凄まじい弾丸と火薬のパワーでスクリーンを覆い尽くす。
人間の肉体がバラバラのピースとして吹き飛び、内蔵がまき散らされるその描写は、ロケーション中心の撮影との相乗効果で、目を背けたくなるくらいのリアリティを感じさせる。
レイティングの不利を承知で、これほどまでに凄惨な描写となった背景には、ミャンマー軍とカレン族の内戦の現状を少しでも世界に知らせたいというスタローンの意向があったという。
ミャンマー軍がこんなに非人道的な存在なのかどうかは、正直なところよく判らないが、映画の描写はアフリカのダルフール内戦などで伝え聞く虐殺の内容と酷似しているし、昨年の仏教僧のデモ鎮圧、今年のサイクロン被害への対応をみても、まあ当たらずとも遠からずな存在であることは容易に想像できる。
当然ながらミャンマー政府はこの映画に激怒し、国内上映を禁止、逆にカレン族は映画に感謝する声明を出しているという。
元々「ランボー」の一作目には、国家の歯車として消費された一人の男が、自分を使い捨てたアメリカに対して、たった一人の内戦を仕掛けるという社会派アクションの側面があった。
実は一作目においてランボーは誰一人として殺しておらず、にもかかわらず悪鬼の様に恐れられ、狩り立てられるその姿が、ベトナムという傷に蓋をして無かった事にしたがるアメリカ社会への痛烈な批判となっていた。
第二作、第三作が一作目とは正反対のアメリカ万歳のオバカアクション映画と化した事で、その事はほぼ忘れ去られていたが、今回は殺した人の数は対照的ながら、26年ぶりに本来の作品のあり方に原点回帰したという印象だ。
本作は、長年世界の悲しみだけを見て生きて来たランボーと、良く言えば善意、悪く言えば能天気なNGOグループのメンバー、そしてランボーと同じ側にいながら打算的な傭兵部隊という三つの相反する価値観のぶつかり合いの物語でもある。
戦場という極限状態での葛藤が、結局彼ら自身をも変えてゆくという展開は面白い。
頑に命を奪う事を否定しているNGOグループの医者が、結局自らの手で敵を殺し狼狽するシーンなど、かなり皮肉が利いているし、半ば達観しているランボー自身もサラとのふれあいで頑な心を少しずつ溶かされてゆく。
本作のキャッチコピーにもなっている「ムダに生きるか、何のために死ぬか・・・・お前が決めろ」など、要所要所で放たれるランボーの名台詞も、ほとんど台詞がない故に非常に印象的。
もっとも、元々寡黙なキャラクターではあるのだが、いくら何でもしゃべらな過ぎで、ランボーの感情の変化がほとんど伝わって来ないのはちょと残念。
ランボーがサラとの触れあいで、彼の中に眠っていた大切な何かを目覚めさせたのは何となく判るのだが、彼女の何がランボーの心の琴線にふれたのかはよく判らない。
ミャンマー軍との最後の戦いの後の故郷への帰還も、同様の理由で少し唐突に感じた。
遠くからサラを見守るランボーの眼差しが、まるで親にかまってもらえない小さな子供の様に寂しげだったのが印象的ではあったが、一作目のラスト近くで、ランボーが元上官に向かって感情を爆発させるシーンほどではないにしろ、彼の内面の変化がはっきりと判る描写がどこかに欲しかった。
それでも物語の最後で、一作目の主題歌である名曲「It's a long road」の旋律が流れ、そのタイトル通りの長い長い故郷への道をランボーが去ってゆくシーンは、一人のヒーローの旅路の果てを見届けたという一定の感慨がある。
91分というコンパクトな上映時間の中身はなかなかに濃密だ。
今回は、一作目の舞台となったワシントン州から、ヘッジスの「レッドマウンテン」をチョイス。
ランボーの旅は、26年前にこの地から始まった。
複雑な果実香が楽しめるボディの強い赤は、まさしく「First blood」を思わせる。
ランボーの永久の安息を願って、乾杯。
まあ、何年かしたらまたやりそうな気がしないでも無いけど(笑
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2008年06月15日 (日) | 編集 |
何十年も映画を観ていると、段々と映画館でワクワクする感覚というものを味わう事が出来なくなってくる。
別に映画を嫌いになった訳ではないが、記憶の引き出しが多くなりすぎて、新鮮さを感じ難くなるのかもしれない。
そんな私でも、予告編で「LucasFilm Ltd.」の重厚なロゴを目にし、ジョン・ウィリアムスの軽快なテーマを耳にすると、つい胸の高鳴りを覚えてしまうのだから、やはり10代の頃に観た映画というのは凄く強い影響を与えるのだなあと思う。
そして「ついに」というか「やっと」というか、あのおっさんが帰ってきた。
前作「最後の聖戦」から19年、第一作「失われたアーク《聖櫃》」からは実に27年。
おかえりなさい、ヘンリー・ジョーンズJr.先生、正直ちょっと待ちくたびれたよ。
1957年、ネバダ。
ソ連KGBの特殊部隊に捕らえられたインディ(ハリソン・フォード)とマック(レイ・ウィンストン)は、エリア51にある米軍の巨大な倉庫に連行される。
KGBを率いるイリーナ・スパルコ(ケイト・ブランシェット)は、膨大な箱の中から、1947年に情報部時代のインディがロズウェルで回収したある物を探せと命じる。
箱を見つけたインディは、間一髪逃走に成功するが、マックの裏切りもあり、ロズウェルの箱はKGBに奪われてしまう。
大学に戻ったインディだったが、赤狩りが吹き荒れる世の中、KGBと接触を持ったインディは、スパイの疑いをかけられて大学にいられなくなってしまう。
そんな折、バイクに乗った若者マット(シャイア・ラブーフ)が、旧友の考古学者オックスリー(ジョン・ハート)が南米で消息を絶ったという知らせを持ってくる。
オックスリーは伝説のクリスタル・スカルと黄金郷の秘密を解いたが、何者かに拉致されてしまったらしい。
南米に飛んだインディとマットは、オックスリーの暗号に導かれ、ついにクリスタル・スカルを発見するのだが、それはあのロズウェルの箱と深い関わりがあるのだった・・・
「レイダース/失われたアーク《聖櫃》」は私にとって特別な映画だ。
公開当時中学生だった私は、この作品のあまりの面白さに衝撃を受け、完全に映画という物にはまってしまったのだ。
勿論それまでも映画は普通に好きだったが、「レイダース」ショックによって毎週末になると映画館をハシゴするシネマフリーク生活にどっぷりつかってしまい、そのまま27年が過ぎて今日にいたるのである。
それだけに今回の「クリスタル・スカルの王国」は期待も大きかった分、不安もあった。
なにしろこれは主人公インディアナ・ジョーンズのキャラクターで持っている様なヒーロー物であり、そのタイトルロールを演じるハリソン・フォードはもう67歳なのだ。
先生、大丈夫?と思ってしまったのも事実。
また過去の三作で、娯楽映画の究極の形を切れ味鋭い演出で見せてくれたスティーブン・スピルバーグも、「最後の聖戦」以降大きく作風を変えており、果たして素直に「インディアナ・ジョーンズ」の世界に戻ることが出来るのだろうかという点もちょっと心配だった。
結果的に言えば、何の心配も要らなかった。
確かに白髪が増えて皺も深くなったけど、インディはインディだったし、スピルバーグの演出も、まるで昨日「最後の聖戦」を撮ったかの様に、軽やかに、楽しげに、「昔の仕事」をしてくれていた。
懐かしいCGではないパラマウントのロゴから、一作目と同じデザインのオープニングタイトルで、私は自然に「インディアナ・ジョーンズ」の世界へ入ってゆく事が出来た。
前作との19年の間隔は、そのまま映画の中でも時間の流れとして使われ、我らがインディも前作から19年分歳をとっているという設定である。
嘗ての仇敵ナチスドイツは滅び、冷戦真っ只中の1950年代、新たな敵はKGBだ。
そういえばKGBが敵役の娯楽映画も久しぶりに観た気がする。
KGBにロズウェルの「機密」を奪われてしまったインディを事情聴取するFBIが、彼を「ジョーンズ大佐」と呼んでいたり、古い相棒であるマックとの会話から想像するに、インディは「最後の聖戦」の後第二次大戦中からその後しばらくの間、本物のスパイとして活動していたらしい。
そしてその頃にあのロズウェル事件と関わり、そこで回収された物が、実はクリスタル・スカルの正体であるという設定だ。
SF的要素が入ってくる事に違和感を感じるという意見もある様だが、私はこの点は全くOKだった。
アクションや展開も漫画チックな「インディ」は、元より真面目な考古学物ではないし、超古代のスーパーパワーをオカルティズムたっぷりに描いたのが、元々このシリーズの特徴であり、昔から宇宙人と超古代文明というのはオカルトの定番ではないか。
むしろ今までの集大成として、この「未知との遭遇」との合体は大いに楽しんだ。
クリスタル・スカルの真のパワーが明らかになるクライマックスは、一作目のアークを思い起こさせる、VFXのスペクタクルとなっているが、27年の技術の進歩を反映して、その迫力は相当な物だ。
勿論、売り物のアクションは今回も盛りだくさん。
第一作のラストからつながる「エリア51」の倉庫での空間を縦横無尽に使った立体アクションから、アマゾンのジャングルでのカーチェイス、お馴染み遺跡のトラップからの脱出劇まで、迫力満点のアクションシークエンスがこれでもかというくらい詰め込まれている。
インディは文字通り老骨に鞭打って頑張るが、今回は若い相棒であるマットが三分の一くらいは分担してアクションを担当、存在感ではまだまだ適わないが、三作目のインディと父ヘンリーを思わせるなかなかの名コンビ。
マット役は22歳のシャイア・ラブーフが演じているが、これは本来なら故リバー・フェニックスがやるべきだった役だろう。
インディの復活がこれほどまでに遅れたのも、もしかしたらフェニックスの早すぎる死も一因だったのかもしれない。
マットとインディを意外な形で結びつける役柄で、カレン・アレン演じるマリオン・レイヴンウッドも27年ぶりに復活。
オールドファンは登場シーンの口調だけで一笑いできるだろう。
敵役のイリーナ・スパルコはケイト・ブランシェットが、DCコミックに出てきそうなくらい、漫画チックでステロタイプな悪役を楽しそうに演じている。
KGBにはもう一人マッチョな男の指揮官もいるのだが、コイツの役回りは旧三作を観ている人ならば容易に想像がつき、その通りの見せ場を作ってくれる。
「インディ・ジョーンズ/クリスタル・スカルの王国」は、オールドファンにとっては19年ぶりに馴染みのバーを訪れた様な、懐かしさいっぱいの体験であり、若いファンにとっては伝説を始めてテレビ画面ではなく大スクリーンで楽しむ事の出来る作品となるだろう。
久しぶりに訪れたバーは、当時と何も変わっていなかった。
その事を指して、新しさが無いと批判する事も出来るだろう。
実際海外では概ね好評ながら、一部の批評家は「既視感が付きまとう」という事を言っている様だ。
しかし、今までの三作+テレビの「ヤング・インディアナ・ジョーンズ」を思い返してみても、今回の展開はこのシリーズとしてはかなり冒険していないか?
果たしてこれ以上の「何か新しい物」を組み込んだとしたら、それはそれで「こんなのインディじゃない」という批判が溢れた様な気がする。
「インディ」は「インディ」であって、「マトリックス」ではないのである。
スピルバーグは、過去の三作の遺産を効果的に組み込みながら、ファンの望む物を忠実に作り上げていると思う。
少なくとも私は、冒頭から冒険の続きを予感させるエンディングまで、10代の頃の様にワクワクしっぱなしだった。
あえてちょっと残念だった点を言えば、「失われたアーク《聖櫃》」のトラックチェイス、「魔宮の伝説」のトロッコチェイスのようなコアになるアクションシークエンスが見えづらい点、インディの鞭があんまり活躍しなかった事くらいか。
中盤のある危機は、実は鞭を使えば簡単に脱出出来たのではないか?
まあ、細かい矛盾や破綻は実際のところ沢山あるのだが、ぶっちゃけこの作品の場合そんな事はどうでもいい。
いつかまた、このおっさんに会える日を、また心待ちにしてしまいそうだ。
それはもしかしたら、ヘンリー・ジョーンズ三世の冒険かも知れないが、それはそれで楽しみである。
今回はルーカスフィルムから程近い、ナパバレーを代表する銘柄、スタッグスリープ・ワインセラーズの「カベルネ・ソーヴィニヨン カスク23」をチョイス。
非常に出荷数の少ない高級ワインだが、伝説的な1976年のアメリカとフランスのワイン対決でフランスを圧倒してカベルネのナンバーワンに輝いた名品だ。
十分に値段分の価値はある。
ワインと遺跡の共通点は、時を越えるパワーを持つことかも知れない。
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別に映画を嫌いになった訳ではないが、記憶の引き出しが多くなりすぎて、新鮮さを感じ難くなるのかもしれない。
そんな私でも、予告編で「LucasFilm Ltd.」の重厚なロゴを目にし、ジョン・ウィリアムスの軽快なテーマを耳にすると、つい胸の高鳴りを覚えてしまうのだから、やはり10代の頃に観た映画というのは凄く強い影響を与えるのだなあと思う。
そして「ついに」というか「やっと」というか、あのおっさんが帰ってきた。
前作「最後の聖戦」から19年、第一作「失われたアーク《聖櫃》」からは実に27年。
おかえりなさい、ヘンリー・ジョーンズJr.先生、正直ちょっと待ちくたびれたよ。
1957年、ネバダ。
ソ連KGBの特殊部隊に捕らえられたインディ(ハリソン・フォード)とマック(レイ・ウィンストン)は、エリア51にある米軍の巨大な倉庫に連行される。
KGBを率いるイリーナ・スパルコ(ケイト・ブランシェット)は、膨大な箱の中から、1947年に情報部時代のインディがロズウェルで回収したある物を探せと命じる。
箱を見つけたインディは、間一髪逃走に成功するが、マックの裏切りもあり、ロズウェルの箱はKGBに奪われてしまう。
大学に戻ったインディだったが、赤狩りが吹き荒れる世の中、KGBと接触を持ったインディは、スパイの疑いをかけられて大学にいられなくなってしまう。
そんな折、バイクに乗った若者マット(シャイア・ラブーフ)が、旧友の考古学者オックスリー(ジョン・ハート)が南米で消息を絶ったという知らせを持ってくる。
オックスリーは伝説のクリスタル・スカルと黄金郷の秘密を解いたが、何者かに拉致されてしまったらしい。
南米に飛んだインディとマットは、オックスリーの暗号に導かれ、ついにクリスタル・スカルを発見するのだが、それはあのロズウェルの箱と深い関わりがあるのだった・・・
「レイダース/失われたアーク《聖櫃》」は私にとって特別な映画だ。
公開当時中学生だった私は、この作品のあまりの面白さに衝撃を受け、完全に映画という物にはまってしまったのだ。
勿論それまでも映画は普通に好きだったが、「レイダース」ショックによって毎週末になると映画館をハシゴするシネマフリーク生活にどっぷりつかってしまい、そのまま27年が過ぎて今日にいたるのである。
それだけに今回の「クリスタル・スカルの王国」は期待も大きかった分、不安もあった。
なにしろこれは主人公インディアナ・ジョーンズのキャラクターで持っている様なヒーロー物であり、そのタイトルロールを演じるハリソン・フォードはもう67歳なのだ。
先生、大丈夫?と思ってしまったのも事実。
また過去の三作で、娯楽映画の究極の形を切れ味鋭い演出で見せてくれたスティーブン・スピルバーグも、「最後の聖戦」以降大きく作風を変えており、果たして素直に「インディアナ・ジョーンズ」の世界に戻ることが出来るのだろうかという点もちょっと心配だった。
結果的に言えば、何の心配も要らなかった。
確かに白髪が増えて皺も深くなったけど、インディはインディだったし、スピルバーグの演出も、まるで昨日「最後の聖戦」を撮ったかの様に、軽やかに、楽しげに、「昔の仕事」をしてくれていた。
懐かしいCGではないパラマウントのロゴから、一作目と同じデザインのオープニングタイトルで、私は自然に「インディアナ・ジョーンズ」の世界へ入ってゆく事が出来た。
前作との19年の間隔は、そのまま映画の中でも時間の流れとして使われ、我らがインディも前作から19年分歳をとっているという設定である。
嘗ての仇敵ナチスドイツは滅び、冷戦真っ只中の1950年代、新たな敵はKGBだ。
そういえばKGBが敵役の娯楽映画も久しぶりに観た気がする。
KGBにロズウェルの「機密」を奪われてしまったインディを事情聴取するFBIが、彼を「ジョーンズ大佐」と呼んでいたり、古い相棒であるマックとの会話から想像するに、インディは「最後の聖戦」の後第二次大戦中からその後しばらくの間、本物のスパイとして活動していたらしい。
そしてその頃にあのロズウェル事件と関わり、そこで回収された物が、実はクリスタル・スカルの正体であるという設定だ。
SF的要素が入ってくる事に違和感を感じるという意見もある様だが、私はこの点は全くOKだった。
アクションや展開も漫画チックな「インディ」は、元より真面目な考古学物ではないし、超古代のスーパーパワーをオカルティズムたっぷりに描いたのが、元々このシリーズの特徴であり、昔から宇宙人と超古代文明というのはオカルトの定番ではないか。
むしろ今までの集大成として、この「未知との遭遇」との合体は大いに楽しんだ。
クリスタル・スカルの真のパワーが明らかになるクライマックスは、一作目のアークを思い起こさせる、VFXのスペクタクルとなっているが、27年の技術の進歩を反映して、その迫力は相当な物だ。
勿論、売り物のアクションは今回も盛りだくさん。
第一作のラストからつながる「エリア51」の倉庫での空間を縦横無尽に使った立体アクションから、アマゾンのジャングルでのカーチェイス、お馴染み遺跡のトラップからの脱出劇まで、迫力満点のアクションシークエンスがこれでもかというくらい詰め込まれている。
インディは文字通り老骨に鞭打って頑張るが、今回は若い相棒であるマットが三分の一くらいは分担してアクションを担当、存在感ではまだまだ適わないが、三作目のインディと父ヘンリーを思わせるなかなかの名コンビ。
マット役は22歳のシャイア・ラブーフが演じているが、これは本来なら故リバー・フェニックスがやるべきだった役だろう。
インディの復活がこれほどまでに遅れたのも、もしかしたらフェニックスの早すぎる死も一因だったのかもしれない。
マットとインディを意外な形で結びつける役柄で、カレン・アレン演じるマリオン・レイヴンウッドも27年ぶりに復活。
オールドファンは登場シーンの口調だけで一笑いできるだろう。
敵役のイリーナ・スパルコはケイト・ブランシェットが、DCコミックに出てきそうなくらい、漫画チックでステロタイプな悪役を楽しそうに演じている。
KGBにはもう一人マッチョな男の指揮官もいるのだが、コイツの役回りは旧三作を観ている人ならば容易に想像がつき、その通りの見せ場を作ってくれる。
「インディ・ジョーンズ/クリスタル・スカルの王国」は、オールドファンにとっては19年ぶりに馴染みのバーを訪れた様な、懐かしさいっぱいの体験であり、若いファンにとっては伝説を始めてテレビ画面ではなく大スクリーンで楽しむ事の出来る作品となるだろう。
久しぶりに訪れたバーは、当時と何も変わっていなかった。
その事を指して、新しさが無いと批判する事も出来るだろう。
実際海外では概ね好評ながら、一部の批評家は「既視感が付きまとう」という事を言っている様だ。
しかし、今までの三作+テレビの「ヤング・インディアナ・ジョーンズ」を思い返してみても、今回の展開はこのシリーズとしてはかなり冒険していないか?
果たしてこれ以上の「何か新しい物」を組み込んだとしたら、それはそれで「こんなのインディじゃない」という批判が溢れた様な気がする。
「インディ」は「インディ」であって、「マトリックス」ではないのである。
スピルバーグは、過去の三作の遺産を効果的に組み込みながら、ファンの望む物を忠実に作り上げていると思う。
少なくとも私は、冒頭から冒険の続きを予感させるエンディングまで、10代の頃の様にワクワクしっぱなしだった。
あえてちょっと残念だった点を言えば、「失われたアーク《聖櫃》」のトラックチェイス、「魔宮の伝説」のトロッコチェイスのようなコアになるアクションシークエンスが見えづらい点、インディの鞭があんまり活躍しなかった事くらいか。
中盤のある危機は、実は鞭を使えば簡単に脱出出来たのではないか?
まあ、細かい矛盾や破綻は実際のところ沢山あるのだが、ぶっちゃけこの作品の場合そんな事はどうでもいい。
いつかまた、このおっさんに会える日を、また心待ちにしてしまいそうだ。
それはもしかしたら、ヘンリー・ジョーンズ三世の冒険かも知れないが、それはそれで楽しみである。
今回はルーカスフィルムから程近い、ナパバレーを代表する銘柄、スタッグスリープ・ワインセラーズの「カベルネ・ソーヴィニヨン カスク23」をチョイス。
非常に出荷数の少ない高級ワインだが、伝説的な1976年のアメリカとフランスのワイン対決でフランスを圧倒してカベルネのナンバーワンに輝いた名品だ。
十分に値段分の価値はある。
ワインと遺跡の共通点は、時を越えるパワーを持つことかも知れない。
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