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ファースト・マン・・・・・評価額1750円
2019年02月11日 (月) | 編集 |
彼は、月で何を見たのか。

20世紀の神話となった、アポロ11号の月面着陸
おそらく世界中のほとんど誰もがその顛末を知っていて、展開の意外性など作りようがない話を、若き鬼才デミアン・チャゼルはどう料理したのか。
アポロ11号船長であり、月面に人類最初の足跡を残したニール・アームストロングを、「ラ・ラ・ランド」に続いてチャゼルとタッグを組むライアン・ゴズリングが演じ、妻のジャネットをクレア・フォイが好演。
エグゼクティブ・プロデューサーをスティーブン・スピルバーグが務め、ジェイムズ・R・ハンセンの同名ノンフィクションを元に、「スポットライト 世紀のスクープ」「ペンダゴン・ペーパー/最高機密文書」など、実録物を得意とするジョシュ・シンガーが脚色を担当した。
原作はアームストロングの人生を少年時代から描いているのだが、映画はテストパイロット時代の1961年からアポロ11号の帰還までの9年間に絞られている。
※ラストに触れています。

国立航空諮問委員会(NACA)でテストパイロットを務めるニール・アームストロング(ライアン・ゴズリング)は、幼い娘のカレンを脳腫瘍で亡くし、悲しみを引きずったままNASAの宇宙飛行士選抜試験を受けることになる。
ジェミニ計画の宇宙飛行士に選抜されたアームストロングは、妻のジャネット(クレア・フォイ)と二人の息子と共にヒューストンへ赴任。
ジェミニ8号の船長に選ばれ、初の宇宙空間でのドッキングという大役を担うことに。
宇宙で予期せぬトラブルに襲われるも、冷静な判断で危機を脱し、無事帰還したアームストロングは、NASAの信頼を得て月を目指すアポロ計画にも携わることとなる。
巨大なサターンロケットの開発も着々と進み、最終地上試験を残すのみとなっていた頃、ワシントンでパーティに出席していたアームストロングは、NASAからの一本の電話を受ける。
それは、試験中のアポロ1号で火災が発生し、友人のエド・ホワイト(ジェイソン・クラーク)ら三人の宇宙飛行士が死亡したというものだった・・・


映画はNACAのテストパイロット時代、アームストロングが極超音速実験機ノースアメリカンX-15のテストに挑むシーンから幕を開ける。
X-15は最大速度マッハ6.7、到達高度は107キロという、友人機としては未だ破られていない記録を持つ、スペースプレーンのパイオニアである。
この時、母機のNB-52から発進したロケット機は、高度14万フィートで大気層に押し返されて機体を下げることが出来なくなるバルーニングという現象を起こし、目標地点を大幅に通り過ぎてなんとか着陸に成功する。
カメラはほぼアームストロングのアップと、彼の見ている視界、ごく僅かな機体のディテールしか描写しない。
要するに、観客が得られる情報もアームストロングと同じであり、テストパイロットの緊張感をそのまま体験。
一気に作品世界に引き込まれる。

この後、アームストロングはNASAの宇宙飛行士選抜に合格し、中盤ではジェミニ8号でのミッションが描かれるのだが、ここでも映し出されるのはアームストロングのアップと彼の視界、あとは「カメラがあってもおかしくない場所」からのディテール映像に限られ、引いた客観ショットは全く使われないのである。
その分、音楽映画で名を馳せたチャゼルだけあって、音響演出が凄い。
心臓に悪い宇宙船の軋み音、体を芯から揺さぶるロケットの爆音など、視覚情報が制限されている分、映像と音響の相乗効果で宇宙飛行士の感じている世界を存分に体感できる。
宇宙空間でのドッキング技術を確立するため、ターゲット衛星のアジェナとドッキングを成功させた後、ジェミニ宇宙船が突如として予期せぬスピンロール状態に陥る辺りでは、観客はもうアームストロングに感覚的に同化しているから、心底恐ろしい。
視界の狭さをこれほど生かしきった恐怖演出は、過去に観たことが無い。

チャゼルは、ライアン・ゴズリングが寡黙に演じる、アームストロングの人生にピタリと寄り添う。
冒頭のX-15、中盤のジェミニ8号、そして終盤のアポロ11号
彼の人生における三つの大イベントの他にも、仕事に追われる日々と、ジャネットや子供たちとの家庭生活を交互に描いてゆく。
家庭の描写は、まるでアームストロング家の日常を覗き見るような、ハンディ風のカメラワークが印象的。
カメラは終始アームストロングの心象を追い、内に閉じているのである。
しかし、終盤に差し掛かりアポロ11号の冒険が始まると、チャゼルは一気に演出的なアプローチを変え、アームストロングの内面を神秘的な宇宙の光景へと開いてゆくのだ。

X-15のエピソードの後、アームストロングは幼い娘のカレンを脳腫瘍で失う。
心の傷を抱えたまま、彼は未知なる宇宙に挑戦することで自分と家族の環境を変え、悲しみを紛らわせようとするのである。
だが、ヒューストンへ移っても、死の影はアームストロングから離れない。
ジェミニ9号の船長を務めるはずだった同僚のエリオット・シーが事故死し、彼の葬儀の場でアームストロングは娘の幻影を見る。
直後のジェミニ8号のミッションでは、自らが命を落としそうになり、次いでアメリカ宇宙開発史上で最悪の悲劇となるアポロ1号の火災事故で、一度に三人の仲間を失う。
家族のドラマとしてのクライマックスは、打ち上げの直前になって、アームストロングが二人の息子をダイニングに呼び「月へ行く」と告げるシーンだろう。
彼はこの時代の多くの男たちと同じように、仕事に打ち込むことで、「最も嫌なイメージ=死」に背を向けているのだが、ジャネットに「息子たちに、父親が帰らない時の覚悟をさせて」と言われ、ようやく自分が死ぬ可能性を吐露するのである。
多くの喪失の記憶を引きずりながらも、自ら死に向き合うことで、アームストロングの心はようやく解放されるのだ。

月面のシークエンスは、一瞬ロケかと錯覚するくらいリアリティ満点。
未知の星に、第一歩を踏み出したアームストロングは、生死の境界を越えて、荘厳なる無音の世界に亡きカレンを感じる。
そして、イーグル着陸船から少し離れたクレーターに歩み寄った彼は、「ある物」を月に置いてくるのだ。
時系列の前後はあれど基本的に史実に沿った本作で、アームストロングがクレーターの縁に立つまでは事実だが、この「ある物」の描写だけはフィクション。
宇宙飛行士は、プライベートな記念品を一定重量以下なら月に持ってゆくことが許されていて、アームストロングは実際に何を持っていたのか、詳細は目録が残っていないとして、記憶以上のことは語らなかったという。
ただ、それはあくまでも記念品に「一緒に月へ行った」という付加価値を付けるためなので、置いてくるのはまた別の話。
極めて映画的な「ある物」の描写は、娘の死を起点として、伝説的な宇宙飛行士の心の内を描いたデミアン・チャゼルならではの、心象的な解釈なのだろう。

月面を歩いた二人は、当然帰還後にスーパースターとなるのだが、映画はそこまでは描かない。
検疫のために隔離中のアームストロングが、ジャネットとガラス越しの再会を果たすラストは、本作のスタンス、描きたいことを象徴する、味わい深い名シーン。
アームストロングは月からの帰還以降は、職務以外であまり人前に出ることもなく、2年後にはNASAを退官し、ビジネスマンとして活動した後、晩年はファンからのサインの求めも断り半隠遁生活を送っていたという。
アポロ計画以来半世紀、宇宙開発が次第に商業的になってゆく中で、人類に新たなフロンティアを開いたアームストロングは、メディアによって偶像化されてゆき、逆にその実像は歴史の霧の中でぼやけていった。
これは、アメリカの世紀の栄光の神話に、「英雄」として閉じ込められていたアームストロングを、心に深い悲しみを抱えた一人の父親、一人の夫、一人の人間として解き放った作品かもしれない。
アメリカ宇宙開発史をモチーフとした、新たな傑作である。

今回は「ブルー・ムーン」をチョイス。
ドライ・ジン30ml、クレーム・ド・バイオレット(パルフェ・タムール)15ml、レモンジュース15mlをシェイクしてグラスに注ぐ。
幻想的な紫が美しいカクテル。
ビターなジンにレモンの酸味の組み合わせが、サッパリとしたクールさを演出する。
ブルー・ムーン本来の意味は、暦の関係で3ヶ月間に4度の満月がある場合の、3番目の満月の事。
歴史的には凶兆の月とされてきたが、珍しいことなので、現在では見ると幸せになれる吉兆の月とされているのだそうな。

ところでアポロ11号のシークエンスは、演出アプローチが違うので、結構客観ショットがあるのだけど、ヒコーキ好きとしては、X-15の飛んでる姿も見たかったな・・・。

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アクアマン・・・・・評価額1750円
2019年02月09日 (土) | 編集 |
アーサー王の帰還。

いやー評判通りの面白さ!
間違いなく、「マン・オブ・スティール」から始まったDCエクステンディッド・ユニバース(DCEU)のベストだ。
色々トラブった挙句に興行的失敗作となってしまった、DCヒーロー大集合映画「ジャスティス・リーグ」でデビューを飾った海のヒーロー、「アクアマン」の単体作品。
人間の灯台守と海底王国アトランティス人の王女の間に生まれた、アクアマンことアーサー・カリーが、地上征服を餌に海底世界の覇者“オーシャン・マスター”の座を狙う異父弟、オームの野望を阻止する。
陽性の神話系統のヒーローという意味では、マーベルの「ソー」に近いキャラクターなのだが、なんでもアリの破天荒な内容とジェームズ・ワン監督の相性が抜群で、ムチャクチャ楽しい娯楽大作に仕上がっている。
ハワイ先住民の血をひくジェイソン・モモアが、お茶目カッコいいアクアマンを好演し、相方のおてんば王女メラにはアンバー・ハード。
ニコール・キッドマン、ウィレム・デフォー、ドルフ・ラングレンといったベテランの大物たちが脇を固める重厚なキャスティング。
今更だけど、やっぱこれを作ってから、「ジャスティス・リーグ」やれば良かったのにねえ。

アーサー・カリー(ジェイソン・モモア)は、アトランティスの王女アトランナ(ニコール・キッドマン)と、人間の灯台守トーマス・カリー(テムエラ・モリソン)の息子として生まれ、その特殊能力を生かし“アクアマン”として世界の海で起こる事件で活躍中。
ある時、巨大な津波が沿岸を襲う事件が起こり、メラ(アンバー・ハード)からこれがアーサーの異父弟でアトランティス王オーム(パトリック・ウィルソン)による地上攻撃の前兆だと知らされる。
オームは海を汚し続ける地上人への海底人の反感を利用し、地上人によるアトランティス攻撃をでっち上げ、海中の七王国全てを支配するオーシャン・マスターとなることを狙っていた。
阻止するには、アーサー自らがアトランティスへ赴き、自分の方が王にふさわしいことを全ての海底人の前で証明しなければならない。
準備不足のままオームと戦うことになったアーサーだったが、メラの機転で一旦退き、アトランティス王権の象徴でありながら、初代国王の遺体とともに行方不明になっている黄金のトライデント(三叉槍)を探す旅に出る。
しかし、その間にもオームによる七王国の支配は着々と進んでいた・・・・


本作を端的に言い表すならば、DCEUの世界観の中での神話の再構築だ。
物語の骨格となっているのは、「スター・ウォーズ:エピソードⅣ」に大きな影響を与えたことでも有名な、ジョセフ・キャンベルの名著「千の顔をもつ英雄」に著された、いわゆる「ヒーローズ・ジャーニー」である。
これは世界の英雄神話を分析すると、共通した構造があることを明らかにしたもので、「エピソードⅣ」の大成を受けて、研究が盛んになったハリウッドの脚本術のベースともなった。
もっとも、「ヒーローズ・ジャーニー」自体は、現在の脚本構造としてはもはや時代遅れなので、要素を忠実にトレースしつつ、順番はより効果的に構成されているのだけど、基本的に特殊な血を受け継いだ“運命の子”が、冒険を通して成長し、真の英雄となるまでを描く、定番の「ザ・貴種流離譚」だ。

それぞれの要素に関しては、過去に「ヒーローズ・ジャーニー」を元に作られた映画の中でも特に忠実に作られている。
基本構造は「セパレーション」「イニシエーション」「リターン」の三幕なのだが、このうち第一幕の終わりの部分は「闇への航海」と定義され、しばしば冒険への導入描写として、主人公は巨大な魚に飲み込まれてしまう。
映画にこの構造を当てはめるときは、普通別のシチュエーションに置き換えるのだが、本作は海中が舞台なのをいいことに、本当に巨大魚(クジラ)の口に入ってみせる。
ちなみに「ピノキオ」のクジラのエピソードが、神話にインスパイアされていることも、作中でメンションされている通り。

さらに、「リターン」の終わりに至って、主人公はそれまで纏っていた仮の姿を捨て、真の英雄(神的な存在)となることで、以前の自分が属していた世界と、新たに統べることになった世界の境界を取り払い、「二つの世界を導く者」となる。
本作では人間とアトランティスの血を受け継いだアクアマンは、七つの王国の王・オーシャン・マスターとなり、地上と海との架け橋となる。
彼の名前の由来であるアーサー王伝説も、「ヒーローズ・ジャーニー」の典型例であり、ウィレム・デフォーが演じるバルコは、いわば海の世界の魔術師マーリンか。
真の王の証として、アーサーが黄金のトライデントを引き抜くのは、もちろん宝剣エクスカリバーに符合する。

面白いのは、この古典的な構造を使いながら、テーマ的なモダナイズはあえて行わず、なんでもアリのファンタジー映画としてそのまま昇華していることだ。
一応、オームがオーシャン・マスターの座を求める理由は、統一軍を率いて「海を汚し続ける地上に懲罰を加えるため」ということになっているのだが、それは建前であって映画は異父兄弟の王権をめぐる争いに終始し、“地上の罪”がフォーカスされることは結局ない。
これがマーベルだったら、やっぱり王家のお家騒動の話だった「ブラックパンサー」が、アフロアメリカン史を内包する極めて政治的な映画だったように、環境汚染の問題と絡めるなど、少なからず現実とのリンクを作って来そうだが、本作の場合はエンターテイメントとしての割り切りがものすごく潔い。
テーマ性の追求は分断の解消という普遍的なものに留め、リアリティラインを含め、過去のDCEUからの縛りもほとんど無くしているがゆえ、ジェームズ・ワンの演出もやりたい放題、まさにフリーダムなアメコミ映画の楽しさに満ちているのである。

クジラの腹からの冒険の大半が、黄金のトライデントを探すトレジャーハンティングの旅に割かれていて、ブラックマンタら追っ手のヴィランズと戦いながら、陸海空を駆け抜ける冒険は、ちょっと「インディ・ジョーンズ」的な風味も。
そういえばジェームズ・ワンて、完全にルーカス、スピルバーグ世代で、元から彼らの大ファンを公言していたような。
なるほど、「スター・ウォーズ」+「インディ・ジョーンズ」のノリも納得だ。
砂漠の砂海王国とか、あれを海の王国に含めるのは相当に無理があるのだけど、海の中ばっかりだと画的なメリハリに欠けるので、シチリアでの市街戦を含めて、陸のエピソードが良いアクセントになっていたのではないか。
海溝の国の怪物たちの恐ろしさは、さすがホラーで名を馳せた監督だし、トライデントを守る巨大怪獣は「パシフィック・リム」まで入ってるてんこ盛り。
それまで出てきたほぼ全てのキャラクターが勢ぞろいして激突する、クライマックスのバトルシークエンスに至っては、もうボリュームありすぎてお腹いっぱい。

アメコミの世界は、ハリウッドよりもずっと以前から、積極的に神話のキャラクターや物語構造を取り入れてきた歴史がある。
その意味では海の神話の再構築である本作は、まさに鉄板の安定感で調理され、刺激的なスパイスで味付けされた豪華フルコース。
「ワイルド・スピード SKY MISSION」に続く本作で、ジェームズ・ワンは決してホラー映画だけではない、エンターテイナーとしての豊かな才能を存分に証明してみせた。
例によってエンドクレジット中のおまけもあり、続編も作る気満々。
それが「アクアマン2」になるのか、仕切り直しの「ジャスティス・リーグ2」になるのかは分からないが、これだけ楽しませてくれたのだから、やっぱり期待しない訳にはいかないだろう!

今回は主演のジェイソン・モモアのルーツ、ハワイのクラフトビール「コナ ハナレイ・アイランドIPA」をチョイス。
パッションフルーツ、オレンジ、グアバを使用したフルーツIPA。
IPAとは、インディアン・ペール・エールのことで、強いホップ感が特徴。
ホップの苦味とフルーティな香りのハーモニーを楽しめる、コナならではの強かわいいビールは、ワイルドでチャーミングなアクアマンにぴったり。

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ショートレビュー「メリー・ポピンズ リターンズ・・・・・評価額1650円」
2019年02月09日 (土) | 編集 |
メリーは、今回もMr.バンクスを救いにやって来る。

P・L・トラヴァースの児童小説を原作とする、ミュージカル映画の金字塔「メリー・ポピンズ」の、実に54年ぶりとなるオフィシャルな続編。
物語の中では前作から25年が経過し、主人公はバンクス家の長男だったマイケルへと代替わり。
かつて子供だったキャラクターが大人になって、社会のしがらみを絡めた問題を抱えているのは昨年の「プーと大人になった僕」と同じ構図だ。
一家の大黒柱となったマイケルは、最愛の妻を亡くしたばかりで、三人の子供たちをどう育てていいのか分からず、姉のジェーンのサポートを受けてもなおテンパり気味。
しかも背景となるのは大恐慌時代。
バンクス家は、借金の焦げ付きで家を失う危機に瀕しているのである。


八方塞がりの状況のマイケルの元へ、魔法使いのナニー、メリー・ポピンズが25年ぶりに現れる。
「メリー・ポピンズ」制作のビハインド・ザ・シーンを描いた「ウォルト・ディズニーの約束」では、ディズニー側が作品のテーマを理解していないと思った原作者のトラヴァースがこう言い放つ。
「メリー・ポピンズが子供たちを救いにやって来たですって?あきれた!」
現在日本でも虐待やネグレクトに苦しむ子供は後をたたないが、そこまで極端でなくても子供たちが抱えている問題の原因は往々にして親。
親が幸せでないのに、子供が幸せになれる可能性は低い。
救われるべきは子供たちではなく、社会という牢獄に閉じ込められ、信頼できる友だちもおらず、ただ厳格で利己的なふりをして自分を保っているかわいそうな父親、Mr.バンクスなのである。

メリー・ポピンズが子供たちとの愉快な冒険を通して、二代目Mr.バンクス、マイケルの硬直した心を間接的に溶かし、一家の危機を救う流れは、本作でも踏襲されている。

しかし、前作で子供たちが作った理想のナニーを求めるチラシのような、メリーが再びやって来る「動機」の部分が無かったり、マイケルの抱えている葛藤が第一義的には「家を失う」という極めて物理的なもので、どちらかといえば精神的な救いをもたらすメリーの存在とのマッチングが今ひとつだったりといった問題点もちらほら。
クライマックスの流れは、前作というよりも「プーと大人になった僕」を思わせ、メリーの行動などはちょいご都合主義を感じさせてしまうのだが、まあギリギリ良しとしよう。

前作の凧揚げのシーンつながりだからか、今回メリー・ポピンズは凧を手にして空から現れる。
Mrs.バンクスが婦人参政権運動をしていた流れで、娘のジェーンも労働運動をしていたり、悪役の銀行の頭取ミスター・ドース・シニアを演じたディック・ヴァン・ダイクが、歳をとったドース・ジュニア役で再登場したり、意外と前作とのつながり要素が多いので、知っていた方が楽しめるだろうが、単体で観ても問題ない作り。

ディック・ヴァン・ダイクのルックスが全く変わってないので、一瞬CGかと思った。
まあよく考えたら、前作の彼は本作のジャックに当たるメリーの友だちのバートと二役だったから、ドース・シニア役は老けメイクだった訳だが、それにしても93歳にして現役とは!
バルーン・レディ役で登場のアンジェラ・ランズベリーといい、90代元気すぎ。
そういえば、赤い風船が童心の象徴となっているのも、「プーと大人になった僕」と共通している。



シャーマン兄弟による前作の歌はそのままは使われておらず、全てマーク・シャイマンが書き下ろしたニューナンバーなのだが、カラフルなミュージカルシークエンスのビジュアルは素晴らしく、ボリュームも満点でお腹いっぱい。
陶器の世界の手描きアニメーション表現は、前作への熱いオマージュを感じさせ、嬉しくなってしまった。

やはり餅は餅屋で、ロブ・マーシャル監督の演出は、ミュージカル作品では水を得た魚の如く生き生きしてる。
惜しむらくは、楽曲のクオリティは総じてハイレベルなものの、前作の「チム・チム・チェリー」の様な、決定的にインパクトのある歌が無いこと。
これがあるか無いかでは、作品の最終的な印象の強さがだいぶ違ってきてしまう。
特筆すべきはタイトルロールを演じるエミリー・ブラントで、伝説的なジュリー・アンドリュースに勝るとも劣らない名演をみせ、歌やダンスも見事な仕上がり。

アカデミー主演女優賞にノミネートされなかったのが、ちょっと信じられないくらいだ。

今回はまんま「メリー・ポピンズ」をチョイス。
ドライ・ジン60mlとクレーム・ド・カカオ(カカオ・リキュール)10mlを、氷で満たしたミキシング・グラスに入れ、ステアし、カクテルグラスに注ぐ。
チョコレート色の大人なカクテル。
カカオの香りとジンの清涼感のマッチングは、以外と悪くない。

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バーニング 劇場版・・・・・評価額1750円
2019年02月03日 (日) | 編集 |
「彼」は、何を焼いたのか。

現代韓国を代表する巨匠・イ・チャンドン監督は、京都造形芸術大学で教鞭をとったり、何かと日本にも縁深い人だが、「ポエトリー アグネスの詩」以来、8年ぶりの新作となる「バーニング 劇場版」は、村上春樹の短編小説「納屋を焼く」の映画化。
さらにNHKが資本参加していて、148分の劇場版の他に、95分のTVドラマ版が作られ、日本では映画の公開に先立つ12月29日に放送されている。
原作は突然失踪した「彼女」を巡る、「僕」と「彼」のミステリアスな物語。
映画化に当たって、舞台は80年代初頭の日本から現在の韓国へと移し替えられ、「僕」に当たる主人公のジョンスを「ベテラン」などで知られるユ・アイン、忽然と姿を消す「彼女」のヘミを新人チョン・ジョンソ、謎多き「彼」ベンを「ウォーキング・デッド」のスティーブン・ユァンが演じる。
イ・チャンドンは、「冬の小鳥」のウニー・ルコントや「私の少女」のチョン・ジュリなど、後進の育成でも大きな実績を上げているが、本作で共同脚本を務めるオ・ジョンミも、彼の教え子だという。
文学的なムードの向こうに、韓国社会の今を浮き彫りにする、味わい深い傑作である。
※核心部分に触れています。

小説家志望の青年イ・ジョンス(ユ・アイン)は、ある日幼馴染の女性シン・ヘミ(チョン・ジョンソ)と再会し、彼女がアフリカ旅行へ行っている間、アパートで買っている猫の餌をあげてほしいと頼まれる。
半月後、ジョンスが帰国するヘミを空港に迎えに行くと、彼女から旅行中に知り合ったという謎めいた青年ベン(スティーブン・ユァン)を紹介される。
何の仕事をしているのかはっきりしないが、高級マンションに住み、ポルシェを乗り回すベンは、ジョンスに「僕は時々ビニールハウスを燃やしています」と打ち明ける。
韓国には汚くて、無用で、誰も気にしないビニールハウスがたくさんあるので、それを燃やしているというのだ。
ところが、その日を境にヘミが失踪し、連絡が取れなくなってしまう。
彼女に強い恋心を抱いていたジョンスは、必死に行方を探すのだが、ある可能性に思い当たる・・・


同じタイトルの作品ながら、大きく尺の違う二つのバージョンが作られるのは、劇場公開版に対するディレクターズカット版などの形で過去にも度々作られているが、本作の場合はそういった作品とは位置付けが異なる。
本作の劇場版とTVドラマ版は、同じ原作で同じ脚本を使って撮影されているにも関わらず、編集というテリングの妙によって、全く異なるムードとテーマ持つ、別々の作品に仕上がっているのである。
劇場版を観るまでドラマ版を観ないという人もいるだろうが、鑑賞順はTVドラマ版→劇場版が好ましい。
なぜなら、劇場版はドラマ版を内包する作りになっているからで、年末放送、2月劇場公開と言うスケジュールも作者の計算通りだと思う。

村上春樹の原作の映像化としては、断然ドラマ版の方がしっくりくる。
原作では平凡な若者である「僕」が、付き合っている「彼女」から、謎めいた金持ちの「彼」を紹介される。
「彼」の趣味は、他人の納屋へガソリンをかけて焼いてしまうことで、近々また焼く予定だという。
「僕」は「彼」がいつ実行するのだろうと思い、辺りにある納屋を見て回るがどれも燃えた様子はない。
再び「彼」に会った時、「僕」はいつ納屋を焼くのかと聞くが、「彼」は「納屋はもう燃やした」と答えるのだ。
そしてそれ以来、「彼女」は「僕」の前から姿を消す。
このわずか30ページほどのシンプルな物語を、比較的忠実に映像化したのがドラマ版。
原作同様に、ヘミの行方は知れないままで、空っぽになった彼女の部屋で、ジョンスが「小説」を書き始めるところで終わる。
自らも作家として活躍しているだけあって、イ・チャンドンのスタイルはいつにも増して非常に文学的。
描き過ぎず、曖昧な部分を多く残し、観客の想像力を刺激するTVドラマ版は、短編小説の映像化のお手本のような構成だ。

対して劇場版は、脚色によって原作の後半部分を大幅に膨らませ、独自要素を多く組み込んだ結果、原作ともドラマ版とも、まるで別物に仕上がっている。
こちらでは、失踪したヘミに何が起こったのか、ジョンスの必死の捜索の結果、ほぼ全てが明らかになるのだ。
ベンの家に隠された大量の女物のアクセサリー、男の家には似つかわしくない化粧道具、ポルシェの向かった先、水のない井戸の謎、姿なき猫の名前など、TVドラマ版では触れられていないか、ぼんやりとした「ヒント」にとどまっていた描写が、こちらではジョンスの執念の行動によって、たどり着く真相の「証拠」として機能する。
知り合ってしばらく経った時、ベンはジョンスとヘミを自宅に食事に招き、「料理するのが好きだ」と語る。
それは、いつでも自分の好み通りに料理して、好きなように食べられるから。
都会で孤立し、経済的に困窮し、誰からも気にかけられていない、社会の低層にいる若い女性たちを“食材”として釣り上げ、自分にふさわしい体裁に仕立て上げてから、「焼く(殺す)」
ジョンスは、ベンが温和な仮面の下に恐るべき嗜虐性を秘めた冷酷なシリアルキラーであり、おそらくヘミはもうこの世にいないことを確信するのである。

ここには、原作やTVドラマ版の曖昧さは無い。
何をしてるか分からないがやたらと金を持っていて、旅行に行ったり高級車を乗り回したり、毎夜遊び呆けているベンを、ジョンスはフィツジェラルドの小説、「グレート・ギャツビー」に例え「韓国にはギャツビーが沢山いる」とつぶやく。
閉塞して地べたを這いつくばる自分やヘミたちとは、別の世界に住む得体の知れない怪物たち。
面白いのは、この様に考えるジョンスのキャラクター造形に、もう一つの「納屋を焼く」が色濃い影響を与えていることだ。
劇中でジョンスが、自分の好きな作家として、ウィリアム・フォークナーの名を上げるが、彼の小説に「納屋を焼く」という本作の原作と同タイトルの作品がある。
これは19世紀末のアメリカを舞台に、異様にプライドの高い父親を持った少年の話で、少年の一家は父親が地主の納屋に放火したとして、町から追放される。
父親は新しい地主の元で小作人として働くことになるのだが、ここでも父親は地主とトラブルを起こし、怒りに任せて納屋に火をつけようとするのだ。
村上春樹自身は、両作の関連性を否定しているが、イ・チャンドンはフォークナーの小説の少年と父親を、本作のジョンスと父親のキャラクターに投影し、二つの「納屋を焼く」の融合を試みている。

これにより、原作の「僕」という名前すらないぼんやりとしたキャラクターが、世知辛い社会に生きるイ・ジョンスというリアルな若者としてクッキリした像を結ぶ。
ジョンスが生まれ育ったのは、日がな一日スピーカーから北朝鮮と韓国の宣伝放送が聞こえて来る国境の寒村で、畜産業に失敗した父親はフォークナーの小説と同じく、怒りに任せて事件を起こし裁判中。
彼自身も小説を書きたいと漠然と思ってはいるが、実際には何を書いたらいいのか分からない。
映画が映し出すのは、高止まりの失業率、開き続ける格差社会、カード破産などに直面し、どこにも行けず、何者にもなれない若者たちの閉塞と絶望。
ヘミの言葉を借りれば、彼らは精神的にも物理的にも大いなる飢えを抱えた、「グレート・ハンガー」なのだ。

さらに、変更されたラストによって、「焼く」という言葉にも、新たな意味が生まれている。
「グレート・ギャツビー」と「グレート・ハンガー」、一見すると真逆の立場で、似ても似つかぬ境遇にいるベンとジョンスは、どちらも「自分が生きている」という強烈な「実感」を欲しているという点では似た者同士。
だからこそ水と油はラストに融合し、薄ぼんやりとした霧の中、激しい炎となって燃え上がる。
原作の「焼く」のイメージは、心の中で不気味に静かに燃える感じだったが、本作の「焼く」はまさに生と死の証であり、お互いの身も心も焼き尽くす熱量だ。
ベンは韓国のどこにでも「自分の同時存在がいる」と語るが、ジョンスやヘミにも無数の同時存在がいるのだろう。
その意味でこれは、小説の設定を借りて、韓国社会のカリカチュアを試みた作品と言えるかもしれない。
「バーニング 劇場版」は、原作やTVドラマ版より具体的で社会派の色彩が強く、村上春樹の色は限りなく薄い。
滲み出る人間の哀しみと痛みのリアリティは、いかにもイ・チャンドンらしい作家映画だ。
映画を勉強している若い人は、是非とも劇場版とTVドラマ版を鑑賞し、両作品の狙いの違いを分析してみるといい。
物語とテーマの関係、編集の力を知る最高の教材だと思う。

今回はボイラー室で見つかったという猫ちゃんが可愛かったので、「ボイラー・メイカー」をチョイス。
適量のビールを入れたグラスの中に、ショットグラスに注いだバーボンを落として完成。
元々はボイラー工場の労働者が、手っ取り早く酔っ払うために、ビールにバーボンを入れたのが発祥とされる。
これのバーボンを韓国焼酎に変えると、韓国名物の「爆弾酒」となる。
まー世の中飲まなきゃやってられないことも多いけど、二日酔い必至のデンジャラスな酒である。

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ショートレビュー「バハールの涙・・・・・評価額1650円」
2019年01月31日 (木) | 編集 |
女だから、戦う理由がある。

イラクのクルド人自治区で、街を支配するイスラミック・ステート(IS)との戦いに身を投じる、女性だけの戦闘部隊の物語。
突然襲ってきたISに家族の男性を皆殺しにされ、自らは性奴隷にされた過去を持つ隊長バハールと、彼女を取材するフランス人ジャーナリストのマチルドの視点で描かれている。
「彼女が消えた浜辺」のゴルシフテ・ファラハニがバハールを、演出家としても知られるエマニュエル・ベルコがマチルドを演じ、これが二作目の長編作品となるエヴァ・ユッソンが監督・脚本を務める。
原題の「Les Filles du Soleil(太陽の女たち)」はバハールが率いる女性部隊の名。
バハールと彼女の部隊は、実在する多くのクルド人女性兵士を、マチルドはシリア内戦で殺害された隻眼のジャーナリスト、マリー・コルヴィンをモデルにしている。

アブー・バクル・アル=バグダーディーが、武装組織だったISが“国家”を建国することと、自らのカリフへの即位を宣言したのは2014年。
シリア内戦の混乱に乗じて、瞬く間に勢力を拡大し、シリアとイラクの広い地域を支配下に置いたが、映像で見てもなおにわかには信じがたい、凄まじく残虐な暴政を敷いたことは記憶に新しい。
本作は、ISの急拡大期に当たる2014年夏に、イラクのトルコ国境近くのヤズディ教徒の町・シンジャルが攻撃された事実を元にしている。
国を持たない世界最大の民族と言われるクルド人は、大半がイスラム教徒だが、本作の主人公のバハールは、少数派のヤズディ教徒。
クルド人の一部が信仰する、独自の民族宗教だ。
異教徒に激しい憎しみを燃やすISにとっては、人間扱いしないでいい相手である。
2014年8月3日に町は陥落。
50万人が脱出したが、逃げ遅れた人も多く、男たちは無慈悲に虐殺され、女たちはISの兵士たちの性奴隷となり、子供たちは少年兵とするために連行された。
しかし、脱出に成功した女性たちの中には、自ら志願して抵抗組織の兵士になる者も多かったという。

映画は、奪われた子供たちの奪還作戦を描く“現在”を起点に、元は弁護士として幸せな人生を送っていたバハールの身に何が起こったのか、いかにしてISの支配を脱して、自ら銃を取るようになったのかを時系列を行き来しながら紡いでゆく。
作品自体はフィクションだが、モチーフは現実の出来事。
今年のノーベル平和賞を受賞した、ナディア・ムラドもバハールと同じシンジャル出身のヤズディ教徒で、ISに性奴隷にされた後脱出し、性暴力被害者の救済に当たっている人物。
作中には、ダリア・サイードというISに誘拐された女性の救出活動をしている女性政治家が出てきて、彼女のテレビでの呼びかけを見たバハールが、救出を依頼したことになっている。
銃後にいて助けるのか、最前線に立って戦うのか、選択は人それぞれだが、とんでもなく邪悪な暴力に直面した時、どちらも必要なのだと思う。
現実のクルド人女性部隊の戦いをルポしたニュース番組や動画も何度か見たことがあるが、彼女らの動機は「愛する者を殺されたから」「性奴隷として辱められたから」と映画と同じだった。
「女に殺されたら、天国に行けない」と信じるISの狂信的な兵士にとっては、勇猛なクルド女性部隊は恐怖の的だったという。

だいぶ沈静化したとは言っても現在進行形の戦争の話であり、映画的に盛った描写は皆無。
市街戦の戦闘描写はバハールに同行取材するマチルドの視点で描かれ、徹底的にリアリズム重視に仕上がっていて、まるで自分もその場にいるかの様な臨場感。
現実にも、こんな凄惨なことがたくさんあったのだろうと感じさせる。
戦争映画ではあるが、これはアクション映画ではないのだ。
バタバタと倒れてゆく「太陽の女たち」の姿と、彼女たちが自らを鼓舞するスローガン、「命、女、自由の時代」が心に刺さる。
今、観るべき作品だ。

今回は、烈女の映画なので「ドラゴン・レディ」をチョイス。
ホワイト・ラム45ml、オレンジ・ジュース60ml、グレナデン・シロップ10ml、キュラソー適量をステアしてグラスに注ぎ、スライスしたオレンジを添える。
ドラゴン・レディとは、元々男を支配するような神秘的な魅力のあるアジア人女性を指す言葉だが、この酒は結構甘口でジュース感覚で飲める。
バハールの様な女性たちに、平和な生活が戻りますように。

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