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ショートレビュー「暁に祈れ・・・・・1650円」
2018年12月13日 (木) | 編集 |
この世の地獄を、生き抜く。

流れ着いたタイで逮捕され、収監された刑務所で再起を賭けてムエタイの選手になった実在の英国人ボクサー、ビリー・ムーアの物語。
2014年に出版され、ベストセラーとなったビリーの自伝「A Prayer Before Dawn: My Nightmare in Thailand's Prisons」を原作に、ジャン=ステファーヌ・ソヴェールが監督を務める。


とにかく刑務所の描写が怖すぎる。
全員凶悪、力なき者は生き残れない修羅の国
不衛生な監房に、体を伸ばして寝ることもできないほどの人数が詰め込まれ、喧嘩や虐待、レイプも日常茶飯事。
誰かが死んでもそのまま一晩放置され、看守も賄賂を取り放題の無法地帯だ。
言葉も分からず、奴隷船並みのタコ部屋で、あんな全身刺青のオッさんたちに凄まれたら、私なら初日で精神崩壊するわ。
そんな劣悪な刑務所で、ビリーが頼るのがクスリだ。

元々ビリーはジャンキーのダメ人間で、試合の前にも精神を高揚させるためにクスリを決めるほど。
当然そんな状態で勝てる訳もなく、負けてはまたクスリに頼る悪循環。
これが刑務所の中でも続く。
自分でもダメダメな状況なのは分かっていて、故郷の家族には異国で服役していることも隠している。
だがそんなある日、彼は囚人たちのムエタイチームがあることを知り、眠っていた闘争本能を刺激されるのだ。

これは心弱きファイターが、何度も挫折しながら、ようやく何かをやり遂げて、小さな一歩を踏み出すまでの話。

ムエタイは再起のための重要なモチーフではあるものの、いわゆるスポーツ映画とは違う。

全体に、クローズアップを多用したカメラワークが印象的で、観客を徹底的に主人公に寄り添わせるのだが、方法論としては主人公に張り付いたカメラによってホロコーストを疑似体験させた、「サウルの息子」に近い。
もちろん、表現としてはあれほど極端ではないけれど、我々はビリーとの刑務所暮らしを通して、彼の後悔とどうにもならない未来への閉塞、究極の自己嫌悪を共有する。

タイ語の台詞に字幕が無いのも、ムエタイの試合で何が起こっているのか分からないくらいに極端に寄ったショットが多く、引いた画が意図的に避けられているのも同じ演出意図だろう。

ここに格闘スポーツのカタルシスは無く、命がけの試合の勝利にも、もしかしてこれで負のスパイラルから逃れられるかもしれないという、細やかな希望が見えるのみ。


この映画の魅力は、やはり圧巻の臨場感だ。
ロケが行われたのは実際の元刑務所で、エキストラを務めたのも元囚人たち。
あの恐ろし気な全身刺青もホンモノだというのだから、これは半ドキュメンタリーといっても過言ではないだろう。
“実話の映画化”にありがちな盛った描写は皆無で、物語をドラマチックに盛り上げようという意図も感じられない。
細かな事件はたくさん起こるが、普通の映画のように有機的に結合していかず、それが逆にリアリティを高めているのだ。
ジャン=ステファーヌ・ソヴェールは、リベリア内戦を舞台に過酷な運命を生きる、少年兵たちの日常を描いた「ジョニー・マッド・ドッグ」でも、実際の元少年兵たちを起用して、凄まじいリアリティを醸し出していたが、本作も彼の作家性と実録物の題材がうまくマッチした。
自分に鞭打ち再起を誓っても、簡単には決別できないクスリの恐ろしさも、ヘビーに伝わってくる。
終盤、ビリー・ムーア本人もある役でちょこっと出てくるが、この出演の象徴性も納得。
この世の地獄から這い上がろうと足掻き続ける人間の、静かに熱く燃えたぎる情念の物語だ。

猛烈に疲れる映画の後は、獅子のラベルでおなじみのタイのビール、「シンハー」で喉の渇きを癒したい。
爽やかな口当たりのライトなビールで、タイ料理との相性は抜群。
ビアグラスに氷を入れて注ぐのが南国流。
タイ国内でのシェアは、同じブンロート・ブリュワリーが製造する低価格銘柄、豹のラベルのレオビールに奪われているようだが、やはり味わいはこちらの方が好みだ。

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ショートレビュー「来る・・・・・評価額1600円」
2018年12月08日 (土) | 編集 |
霊媒大戦争(笑

異才・中島哲也の最新作は、日本ホラー小説大賞受賞作、澤村伊智の「ぼぎわんが、来る」を原作としたオカルトホラー。
ただし、小説と映画は全くの別モノだ。
平凡な親子三人家族に怪異が迫る第1章は、かなり忠実。
しかし第2章以降が全く異なっていて、怪異の正体も、そもそもなぜ怪異が来たのか、その原因となった人物も、物語の視点もテーマそのものも全く違うのだけど、これはこれで面白い。

小説は3章構成で、それぞれに主人公が異なる
第1章では、映画版で妻夫木聡が演じる新婚のイクメンパパ、田原秀樹の視点でも物語が進む。
最初は小さな怪異が田原家に忍び寄り、それが幼い頃に聞かされた「ぼぎわん」という子供をさらう妖怪なのではないかと疑いだす。
彼は同窓の民俗学者からオカルトライターの野崎を紹介され、彼の恋人でもある霊媒の真琴と共に怪異に立ち向かうのだが、ぼぎわんは思っていたよりも遥かに凶悪な存在だったこと明らかになるのだ。
そして第2章では、第1章と同じ時系列が秀樹の妻の香奈の回想という形で描かれる。
理想のパパを自認していたはずの秀樹は、実は表面だけ取り繕っているだけの傲慢なダメ夫でダメパパ。
一人娘の知紗を抱えて、実質ワンオペ育児を強いられている香奈をほったらかしにして、遊び呆けているという、第1章の裏側が描かれ、世界が逆転。
第3章では、異界へとさらわれた知紗を奪還するために、野崎が真琴の姉で最強の霊媒、比嘉琴子と組んでぼぎわんの正体を探り、対決する。

原作のぼぎわんは、虐げられ、子供を殺された女性の恨み辛みが呼ぶ怪異で、ぼぎわんという名前の由来、その姿形、歴史的な背景もきっちりと意味付けされていて、いわば日本の歴史的な男性優位社会の歪みによって生まれた妖怪。
小説の登場人物は、秀樹が実はダメダメなのに対して、妻の香奈は良妻賢母として描かれてるのも、ある種フェミニズム的な怪異譚であることを際立たせる。
ところが、映画版ではこの辺りが大幅に脚色されているのだ。
中盤から、それまで描かれていた秀樹視点の物語がひっくり返されるのは同じだが、そこから描かれるのは、夫に劣らず問題を抱えた香奈の物語。
要するに、映画版では男も女も等しく心罪深く、人間のネガティブな面をさらけ出しているのだ。
虐げられた女性の情念と、失われた子供たちへの思慕の念もほぼ消えて、どいつもこいつもダメ人間ばかりなのは、いかにも中島哲也的な「人間なんてそんなもんでしょ」という悪意たっぷりの世界観。
小説的に筋道を立て、時間をかけて語って行くのではなく、行動やセリフといった映像言語で直感的にイヤーな気分を積み上げてゆくのもこの人らしい。

タイトルから「ぼぎわん」が外れた訳も、よく分かる。
本作では、ぼぎわんの正体が何かとか、怪異の民俗学的背景や歴史とか、原作が相当のページ数を使って描いていた辺りはどうでもいいのだ。
ここでは人間は皆壊れかけていて、悪いモノが入り込む隙間だらけ。
だからやって来るのも、ぼぎわんの様な目的が明確な妖怪的存在ではなく、名前も持たず、姿も見えず、ただただ邪悪さだけに純化された“意志”
主要登場人物間の相関関係も強化され、内面に皆どこか似た葛藤を抱えて、お互いに鏡像を見るような構造になっている。
このこんがらがった関係を使って、本来狂言回しの岡田准一演じる野崎にも具体的な葛藤を与え、うまい具合に全体の主人公のポジションに配置。
一連の恐ろしい事件を通して、彼が何を見出すのか?という物語になっている。
さらに怪異が呼ばれた映画オリジナルの動機が導き出されるのだが、ここは残念ながら原因となる人物の描写不足でちょっと弱いのが残念だ。

その分、クライマックスは中島作品らしく、サービス精神全開のド派手なもの。
松たか子がクールに演じる琴子の祓の儀式をサポートするために、彼女のルーツでもある沖縄のユタから、坊主に神職に巫女さんに、果ては韓国のムーダンまで、各界の霊媒たちがワラワラ集まってくる。
まあ、彼らはヤラレ役というか、雑魚キャラで大した見せ場もなく終わっちゃうのだが、どうせならキリスト教のエクソシストも出して、さらに悪ノリの限りを尽くして欲しかったな。
琴子の待ち受ける結界に、アレが迫りながら、時には妖怪に、時には悪魔に変化しながら、世界の霊媒を一人ひとり倒して行くなんて最高じゃないか。
別の映画になっちゃうけど(笑
個人的には、原作で禍々しく描写されるぼぎわんの姿も見てみたかったが、日本映画には珍しい、ごった煮のテイストのスペクタクルホラーで、なかなか楽しめる。

今回は、ぼぎわんならぬ悪魔の名を持つカクテル、「ディアブロ」でお祓い。
ホワイト・ポートワイン40ml、ドライ・ベルモット20ml、レモンジュース1dashをシェイクしてブラスに注ぐ。
名前は禍々しいのだけど、味はアペリティフにぴったりの、爽やかで気持ちの良いカクテルだ。

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斬、・・・・・評価額1700円
2018年12月04日 (火) | 編集 |
人を斬るとは、どういうことか。

殺戮の緑の海は、「野火」のフィリピンのジャングルから、19世紀の日本の森林へ。
250年にわたる太平の世が、終わりを告げようとしている幕末。
この国を支配する新旧の勢力が衝突する乱世を見て、戦いに馳せ参じようとしている、池松壮亮演じる若い浪人・都築杢之進の物語だ。
手練れだが、未だ人を斬ったことのない杢之進は、江戸近郊の農村に逗留中に、塚本晋也監督が自ら演じる無情な壮年の人斬り・澤村次郎左衛門と出会い、改めて刀を持って人を斬り殺すことの意味を突きつけられ葛藤する。
杢之進に想いを寄せる農家の娘・ゆうに蒼井優、杢之進から剣術を学び、自分も江戸行きを決意するゆうの弟・市助にオーディションで選抜された前田隆成。
彼らの前に立ちはだかる、無頼者たちの頭目を中村達也が演じる。
塚本作品らしく上映時間は80分と短めだが、その密度は驚くべきものだ。

風雲急を告げる時代。
貧窮して藩を離れた浪人・都築杢之進(池松壮亮)は、江戸近郊の農村に逗留し、世話になっている農家の娘・ゆう(蒼井優)と共に農作業に汗を流す傍ら、ゆうの弟の市助(前田隆成)に剣術指南をする毎日。
ある日、村の神社で果たし合いがあり、杢之進は壮年の剣士が相手の戦闘力を一撃で奪うのを目撃する。
澤村次郎左衛門(塚本晋也)と名乗ったその男は、杢之進の腕を見込んで、共に江戸へ向かい、そこから京都の動乱へ参戦しようと持ちかける。
もとより江戸行きを決意していた杢之進は快諾し、市助も同行することになるのだが、三人の出立が迫ったある日、平和だった村に無頼者たちの集団が流れてくる。
村人たちと無頼者たちの間に不穏な空気が流れる中、市助が無頼者たちと揉めて、大怪我を負わされる事件が起こってしまう・・・


これはある意味、戦いの結果としてのこの世の地獄を描いた「野火」の精神的続編、いや前編とも言える物語だ。
遠く、江戸から京都で起こっている、薩長連合を中心とした新政府軍と旧幕府軍の戦争は、最初ぼんやりとしたイメージで語られている。
杢之進と澤村は、とりあえず幕府側につくつもりのようだが、彼らの政治信条などが語られることはなく、鎌倉時代以来の御恩と奉公の主従関係に基づく、「いざ鎌倉(江戸)の時は、御公儀のもとに馳せ参じる」という武士の矜持以上の理由は見えない。
農民ながら杢之進に剣術を習い、共に戦いに行こうとする市助に至っては、誰と誰が戦っているのかも、何をイシューとした戦争なのかも知らないのだ。
元来兵士でありながら、250年もの間戦うことを禁じられていた侍にとっては、これは千載一遇のチャンスであり、そこに深い理由は不要なのである。
しかし身近に無頼者たちとの争いが起こると、”人が人を斬り殺すこと”は、急速にリアリティを持って、登場人物たちの人生を絡め取ってゆくのだ。

冒頭、一振りの刀が精錬されてゆく過程が映し出されるが、誰もが裸で生まれてくる無力な人間は、玉鋼でできた刀を手にすることで、そのものが強力な武器となる。
この人間と武器、生物と鉄の関係は、塚本晋也にとっては出世作となった「鉄男」以来、度々描いているモチーフだ。
実際、本作の構造には「鉄男」との類似点がある。
主人公の杢之進は、塚本晋也演じる人斬りの澤村と出会ったことで、彼の体現する非日常の世界へと向かうが、「鉄男」で田口トモロヲ演じる「男」を金属人間にするのも、やはり塚本晋也なのである。
「男」の運転する車に轢かれ、頭に鉄の棒が突き刺さってしまったことで、金属と肉体を融合させる謎の力を手に入れた塚本晋也演じる「ヤツ」は、復讐として「男」を金属人間に変えてしまう。
鉄の棒を刀に置き換えれば、そのまま本作の澤村と杢之進だ。
また「バレット・バレエ」の拳銃に惹かれてゆく男や、「東京フィスト」のボクシングにのめり込む主人公(演じるのは共に塚本晋也)にも、本作に流れるこの作家の一貫した世界観を感じ取ることができる。

一件温和そうに見えて、実は人斬り大好きサイコな剣の達人である澤村は、「野火」で描かれた緑の地獄を彷徨い、心も体もぶっ壊れてしまった日本軍兵士たちの延長線上にある。
もはや刀と一体化し、殺すために殺す人間兵器の姿は、一線を超えてしまった者の行き着く先だ。
澤村は杢之進に対して、侍として戦いを求めるなら覚悟を決めろ、お前も刀と一体化して自分と同質の存在となれと迫る。
杢之進はいざその時になって、初めて自分には人を殺める覚悟がなく、それを欲してもいないことに気づき、無頼者たちと真剣ではなく木の棒で戦おうとするのだ。
しかし、素人ならともかく、手練れ揃いの無頼者たち相手では、当たり前だが全く勝負にならず、結果的に無頼者たちは澤村の手によって斬殺され、杢之進はその場を逃げ出すしかないのだが、澤村は執拗に追ってくる。
もはや金属=刀との同化と殺戮こそが存在理由となっている人間兵器は、杢之進に自らを殺させることで、彼をも精神的に取り込もうとしているのである。
そして彼らを包み込むように存在しているのが、どこまでも深い緑の樹海。
悠久の歴史を見てきた、物言わぬ巨木の根元に這いつくばり、殺し合わねばならない人間たちが哀しい。

刀とは何か、人が刀と一体となった時に、何が起こるのかを描く本作の表現で、非常に特徴的なのが日本刀の音響効果だ。
杢之進が刀を握りしめたビジュアルが、フラッシュバック的に何度も出てくるのだが、斬り合うのではなく、ただ握っている時にも「ギリギリギリ」という金属が軋むような音が入り、それが命の淵に立つ登場人物の、張り詰めた緊張感をうまく表現している。
サウンド担当の北田雅也のツイートによると、「音響効果刀」なる効果音専用の特殊な刀を開発して使っているそうだが、これは新鮮で耳に新しい体験だった。

登場人物中で面白いのが蒼井優が演じるゆうで、単純な男たちと違ってころころと言うことが変わる、一番人間らしい矛盾したキャラクターだ。
気立てのいい村娘は、恋心を抱く杢之進に「戦場に行くな」と言っていたのに、無頼者たちに家族を殺されると、今度は一転して「仇を討て」と言う。
彼に惚れているのに、澤村が圧倒的な強さで無頼者たちをやっつけると、「あらやだ、こっちもちょっとイイわ」とばかりになびきそうになったりする。
移ろい気味で艶っぽい彼女の言動が、杢之進と澤村の運命を無意識に動かしてゆくのである。

明治維新から70年後、侍の末裔たちは刀を銃に持ち替えて、有無を言わさぬ強大な権力によって数百万の人間兵器となって、アジア各地に散っていった。
そして大陸の奥地で、太平洋のジャングルで、それぞれに地獄を彷徨うことになる。
塚本晋也は、戦後70年の節目の年に、「野火」を発表した動機を「日本が再び戦争に向かっているのではないかという懸念」だと語っている。
あれから3年、再びの自主制作体制で本作を作った理由もまた、「その懸念がずっと消えない」からだと言う。
幕末から70年、10年の戦争の時代を挟んで戦後70年。
今年2018年は、明治維新から150年目である。
二本の映画を作らせた作家の深い懸念は、いつの日か現実となってしまうのだろうか。
物語を通して独特の歴史観が見えてくる、作家性豊かな凄みのある力作である。

今回は華やいだ未来への願いを込めて、埼玉を代表する日本酒銘柄・南陽醸造の「花陽浴 純米大吟醸 越後五百万石 無濾過生原酒」をチョイス。
大吟醸ならではの芳醇な吟醸香、フルーティーな甘み、キレ、スッキリとしたのどごし、すべてが絶妙に調和する。
これだけバランスの良い日本酒もなかなかない。
おせちを肴に、正月に飲みたい一本だ。

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「ヘレディタリー 継承」と「イット・カムズ・アット・ナイト」”家”と”家族”にまつわる恐怖譚
2018年11月29日 (木) | 編集 |
ヘレディタリー 継承・・・・・評価額1650円
イット・カムズ・アット・ナイト・・・・・評価額1650円


「ヘレディタリー 継承」と「イット・カムズ・アット・ナイト」は、共に若い映画作家によるセンス・オブ・ワンダーに溢れた恐怖譚だが、それ以外にも特徴的な共通点がある。
それは、全くシチュエーションは違えど、”家”と”家族”にまつわる物語ということだ。
※ネタバレは避けてますが、なるべく観てから読んでください。

「ヘレディタリー(Hereditary)」とは、「遺伝的な」とか「親譲りの」などを意味する。
一家の祖母の死から始まる物語は、真綿で絞め殺される様な、精神的にジワジワくるオカルト・ホラーだ。
亡くなった祖母は、トニ・コレット演じる娘のアニーと長年に渡り折り合いが悪かった。
母の死にもあまり悲しむことが出来ない彼女は、葬儀の後に遺品の中から一通のメモを見つける。
そこには「私を憎まないで」という謎めいたメッセージが書かれていたのだが、以降これでもかというくらい、アニーの家族には不幸が降りかかるのだ。
まずは死んだ鳥の頭をハサミで切り取って持って帰るなど、奇行を繰り返していた長女のチャーリーが、長男のピーターが起こした交通事故により死亡。
娘の死に精神的に追い詰められたアニーは、降霊術によって死んだ家族と交信しているという女性に感化され、次第にスピリチュアルな世界へ救いを求める様になるのだが、不穏な影と目に見えない恐怖が屋敷を覆ってゆくのには気づかない。

アニーの職業がミニチュアハウス作家で、自分が経験したことを、娘の事故などの不幸も含めてミニチュアとして作っているのが面白い。
自分の人生を母にコントロールされてきたと感じているアニーは、現実を虚構に転化し自分の手で作り上げることで抵抗しているのだが、次第に虚実は溶け合って境界を失ってゆく。
何が本当で、何が嘘なのか。
アリ・アリスター監督は、全編にリード、ミスリード取り混ぜた伏線を緻密に配していて、不幸のスパイラルに落ちた一家の人々だけでなく、観客の予想を大いに惑わすのだ。
冒頭、ミニチュアの部屋にカメラが寄って行くと、そこがそのまま現実の屋敷の部屋となるトリックショットが、本作の構造を端的に表していると言えるだろう。
やがて明らかになる、家族と家族の歴史の中に仕掛けられた大いなる罠と、驚くべき結末。
一体、亡くなった祖母は何者だったのか。
ある意味で、タイトルそのものが一番ネタバレに近いかもしれない。

一方の「イット・カムズ・アット・ナイト」は、致死性の奇病が蔓延した、終末の世界を描く。
ジョエル・エドガートン演じる厳格な父親ポールと妻のサラ、17歳の息子トラヴィスが、山奥の大きな家に隠れる様に暮らしている。
情報は途絶え、世界がどうなったのかも分からないまま、三人だけの孤独な世界を生きているのだ。
ところがある日、水を求めた若者ウィルが家に侵入。
ポールらは彼が病気に感染していないことを確認すると、食料と引き換えに、やむなく彼の妻キムと幼い息子のアンドリューを含めた三人家族を、家に迎え入れることになる。
永遠とも思えた孤独は解消し、最初のうち二つの家族は上手くいく。
だがほんの小さな齟齬が積み重なり、彼らの間には目に見えない亀裂が出来てゆき、やがて思わぬところから病原菌の脅威が迫った時、本当の恐怖が姿を現わす。

開いているけど閉じている、森の緑に閉ざされた牢獄とも言える、独特の空間で展開する実質的な密室劇。
迷路の様な家の構造と、事件を呼び込む赤いドアの心理的な象徴性も効いている。
ドラマを引っ張るのはエドガートンの父親だが、実質的主人公をナイーブな17歳の息子に設定したのが上手い。
彼の抱える思春期の葛藤と、心の底にある不安が見せる悪夢が、物語を恐るべき結末へと導いてゆく。
人間を、本当に破滅させるのは何か。
病原菌という恐怖の象徴によって、目覚めてしまったもの。
トレイ・エドワード・シュルツ監督は、終始静かな緊張感が続く、優れた心理スリラーを作り上げた。

同じく”恐怖”を描くといっても、二本の作品はまるでタイプが違う。
詳細はネタバレなので自粛するが、例えば「ヘレディタリー 継承」の場合、とことん惑わせるという作品コンセプトから言っても、一番近いのは韓国製オカルト・ホラーの傑作「哭声/コクソン」かも知れない。
ただ怖いだけでなく、クライマックスになるととぼけたブラックジョークも顔を出す。
客観的に見ると、ものすごく悲惨な状況なのだけど、実はある人物の主観として考えると結局ハッピーエンド?というあたりも惑わされている。
個人的にはこの辺り、藤子・F・不二雄の短編「流血鬼」の不思議な読後感を思い出した。

逆に「イット・カムズ・アット・ナイト」は、超自然的な「ヘレディタリー 継承」よりも、リアリティ重視のスリラー色が強い。
確実に死をもたらす病原菌は決して絵空事とは言えないし、登場人物の感情の推移も十分に納得できる。
大切なものを守ろうとして、実は知らぬ間に破壊してしまうのは人間の悲しい性であり、物語にも「ヘレディタリー 継承」のような捻りはない。
突きつけられる残酷極まりない結末も、自業自得ゆえにストレートに受け止めなければならないものだ。

しかしアメリカから、”家”と”家族”をモチーフとした、優れた恐怖譚が連続して出てくる背景は興味深い。
どちらの作品にも共通するのは、主人公は「家族の本当の姿を知らない」ということである。
トランプ政権の誕生以来、アメリカ社会の分断は深まっているが、それは一般の家庭内も例外ではない。
「隠れトランプ」という言葉に象徴されるように、どちらかといえばリベラルだと思っていた自分の夫や親が、実はトランプに投票したことを知って、ショックを受けたりするケースは私の知っている人たちの中でも起こっている。
もちろん家族の政治信条が違うのは普通のことだが、あそこまで極端な人物ゆえに「まさか」と思ってしまうのだろう。
うがった見方かもしれないが、映画が時代を映す鏡だとすれば、これらの作品は世界を敵と味方に分け、恐怖を煽り立てるトランンプの時代に対して、「もう誰も信じられない」と絶望する人々の心の反映とも思える。
家族の間で大きなわだかまりを抱えているという点では、大ヒットした「クワイエット・プレイス」も、同じ社会的文脈から出てきた作品かもしれない。
まああの映画は、どちらかと言えばポジティブな「知らない」だったが。

今回は、どちらも悪夢が重要な役割を果たすので「ナイトメア・オブ・レッド」を。
ドライ・ジン30ml、カンパリ30ml、パイナップル・ジュース30ml、オレンジ・ビターズ2dashを氷で満たしたグラスに注ぎ、ステアする。
カンパリとビターズの苦みが、ドライ・ジンの清涼感とパイナップルのほのかな甘味によって引き立てられる。
辛口でスッキリした大人なアペリティフ、で実はあんまり悪夢的ではない。

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A GHOST STORY ア・ゴースト・ストーリー・・・・・評価額1750円
2018年11月26日 (月) | 編集 |
永遠の愛は、永遠の呪い。

これは凄い。
久しぶりの本当のネタバレ禁止案件だ。
緑豊かな郊外の小さな家に、若い夫婦が仲睦まじく暮らしている。
だが、ある朝夫は事故死し、妻は病院に安置された彼の遺体に別れを告げて家に帰る。
ところが、夫は幽霊となって戻ってきて、妻を見守りはじめるのだ。
この設定だけ聞くと、嘗ての大ヒット作「ゴースト/ニューヨークの幻」みたいだが、これは物語のほんの発端に過ぎない。
わずか10万ドルという低予算で作られた、「A GHOST STORY ア・ゴースト・ストーリー」の筋立ては正に未見性の塊で、たぶん誰も予測出来ない驚くべきものだ。
幽霊となる夫「C」をケイシー・アフレック、妻の「M」をルーニー・マーラーという旬な二人が演じ、監督・脚本は同じくアフレックとマーラーが主演した「セインツ -約束の果て-」や、ディズニーの実写版「ピートと秘密の友達」で知られるデヴィッド・ロウリーが務める。
詩的で味わい深い、愛と時間と魂に関する哲学的な寓話である。
※観る前には、絶対にこれ以上読まないこと!

ダラス郊外の小さな家に住む、若い夫婦のC(ケイシー・アフレック)とM(ルーニー・マーラー)は、慎ましくも幸せな日々を送っていた。
ある日の朝、Cが突然の交通事故で亡くなり、Mは病院で夫の遺体を確認するとシーツを被せて家に帰る。
ところがCはシーツを被ったままの姿で幽霊となり、そのままMのいる自宅まで戻って来るが、もはや肉体を持たない彼は、一人ぼっちで喪失の悲しみに打ちひしがれる妻を見守ことしかできない。
しかし歳月が過ぎたある時、Mは人生を前に進めるために、幸せな思い出のつまった家の売却を決意し、去って行く。
家に残されたCは、妻が隠した“ある物”を求めるのだが、それは時間を巡る遠大な旅のはじまりだった・・・・


Cという明確な主人公がいるにもかかわらず、なぜタイトルについているのが定冠詞の「The」ではなく不定冠詞の「A」なのか?
ここに本作の核心がある。
そもそも、幽霊ってなんだろう?
もちろん「死んだ人の魂がこの世に残っていること」なのは大前提だ。
おそらく幽霊のいない文化は世界のどこにも無く、幽霊大国イギリスではいわゆる幽霊屋敷の方が由緒ある家ということで、レントが高かったりするらしい。
では幽霊たちは、なぜ死んだ後もこの世にとどまり続けているのだろうか。
ホラー映画なら、例えば「呪怨」シリーズのように深い恨みを抱えて死んで悪霊化、あるいは「死霊館」シリーズのように幽霊というよりも悪魔的な存在のこともある。
だが現実の幽霊屋敷では、多くの場合幽霊はただそこに出没して、ごくたまにラップ音や物がちょっと動くなどの細やかな心霊現象を起こす程度。
特に明確な目的があるようには思えないが、この映画を観た人の多くは、「ああ、幽霊ってこういうものかもしれないな」と感じると思う。

突然の死を迎えたCは、リアルなオバQ的な白いシーツ姿の幽霊になって家に戻ってくる。
この映画の世界では、幽霊はシーツを被っているものらしく、CとMの隣家にいる幽霊も花柄のシーツを被っている。
最初のうちは妻のその後を見守り、彼女に新しい恋の予感を感じとれば、動揺して嫉妬したりもする。
しかし、どうやら幽霊は一カ所に居つくとそこから動けないようで、新生活を始めるためにMが家を売って引っ越してもCはついて行くことができない。
彼が「この世にとどまる訳」はMを見守ることから、彼女が家のリフォーム中に壁板の隙間に隠したメモを読むことに変わるのである。
彼女は引越しの多かった子供時代にも同じことをしていたらしく、昔住んでいた家の隙間に、楽しかった思い出などをつづったメモを隠したというエピソードを生前のCに語っていた。
どうしてもその中身を知りたいCは、少しずつ少しずつ、心霊現象を起こせるわずかな力を使って、メモが埋め込まれた場所の塗料を削って行く。

その間にも時間は過ぎてゆくが、目的を遂げるまで永遠の死を生きる幽霊にとって、もはや時間の概念は無意味。
だから物語の中で流れる、時間の扱いもユニークだ。
Cを失ったMが、友人に差し入れられた不味そうなパイをやけ食いするのを数分間ワンショットの長回しで見せたと思えば、一瞬で数十年が過ぎたりする。
家に住む人々も次々に入れ替わり、遂には家そのものも隠されたメモごと壊されてしまうのだ。
郊外が新たな都心となり、元の家のあった場所が未来的な高層ビルとなっても、どこにも行けないCはさまよい続け、遂には“死”を選ぶ。
しかし、すでに幽霊なのだから、当然二度死ぬことはできず、Cの魂は遥か古の西部開拓時代の同じ場所に飛ばされてしまう。
彼はその土地に家が建ち、CとMが引っ越してきて、自らが死を迎えるのを延々と待ち続けなければならない。
ただ、彼女が隠したメモを読むためだけに。
ここがこの作品の最もユニークな点で、Cの魂は時のループから外れスパイラルへとまよいこむのである。

そう、この映画における幽霊とは、何か一つのことに囚われてしまって人間としての個を失い、その場所にさまよい続ける存在全てのことであり、だからこそ「The」ではなく「A」なのである。
幽霊にはそれぞれこの世にとどまる理由があり、Cの場合はメモを読むこと、隣家の幽霊の場合は「誰か」に会いたくて待ち続けているのだが、その「誰か」が誰なのかすら忘れてしまっている。
人間だった頃の記憶は薄れ、あいまいな時間と空間が醸しだす、まるで微睡みながら夢を見ているような独特の手触りは、私たちに「幽霊でいる感覚」を体験させるためなのだ。
真っ白なシーツに、二つの目の穴だけが空いているビジュアルは、宮崎駿監督の「千と千尋の神隠し」に登場する「カオナシ」からの発想だとか。
極限までにシンプルゆえに、私たちはそこに様々な表情を感じ取る。
夫婦の名前がCとMというアルファベットで設定され、劇中で本当の名前を呼ばれることがないのも、同じ文脈だろう。

ルーニー・マーラー演じるMは、前半で引っ越してしまい退場。
幽霊となったCは出ずっぱりなものの、ずっとシーツを被っていて一切喋らないので、ぶっちゃけ中身がケイシー・アフレックじゃなくても分からない(笑
いや、ジェスチャーも重要な演技だから、ちゃんと本人がやってるのだとは思うけど。
主演としてクレジットされている俳優が、その姿をほとんど見せないというのはある意味斬新だ。

私の知る限りだが、明確に「本作と似ている」と言える作品は同一ジャンルには思いつかない。
流れゆく遠大な時間の中の、変化しない主体を描いているという意味では、たとえば手塚治虫の「火の鳥」や、一脚のロッキングチェアがたどる歴史を描いた、フレデリック・バックの短編アニメーション「クラック!」、あるいは百数十年にわたる小さな家の歴史を描く、バージニア・リー・バートンの絵本「ちいさなおうち」などが近いかもしれない。
まるで覚めない夢の中にいる様な感覚は、ちょっとテレンス・マリック監督の「ツリー・オブ・ライフ」と、アシモフの「バイセンテニアル・マン」を映画化した、クリス・コロンバス監督の「アンドリューNDR114」を彷彿とさせる部分もある。

1.33:1の四隅が丸まった画面は、まるでスクリーンに開いたシーツの覗き穴
私たちは、Cが望みを遂げるまでの数百年間の時空を超えた旅を、幽霊という切ない存在へのシンパシーと共に見守ることとなる。
しかし、物語の展開によって、これほど新鮮に驚かされたのは本当に久しぶりだ。
本国公開は昨年の7月で、すぐに評判の良さは伝わってきたのだが、「シーツを被った幽霊が妻を見守る」以上の情報を一年もブロックして頑張った甲斐があった。
あと、デヴィッド・ロウリーの映画は、短めなのがいい
驚くべき世界観を持つ本作がわずか92分。
前々作の「セインツ」が98分で、次回作でこれまた評判の良い「The Old Man & the Gun」が93分。
ディズニーで撮った「ピートと秘密の友達」は100分を超えるが、あれはエンドクレジットが長いので、本編は90分ちょいだろう。
もちろん長い映画も、その長さが必然であれば全然問題ないのだが、たいていのことは90分もあれば描けるとも言える。
観る方としても真剣な鑑賞にはエネルギーを使うので、このくらいの上映時間が楽でいい。

今回は悠久の時の流れに思いを馳せながら、カリフォルニアはナパバレーから「ファーニエンテ シャルドネ ナパバレー」の2016をチョイス。
故・ギル・ニッケルの情熱によって蘇った、ナパを代表する高級銘柄。
フレッシュな酸味と、芳醇で複雑なフルーツのアロマが絶妙にバランス。
つけ合わせる料理を選ばない、非常に使い勝手の良いワインだ。
個人的にはオリーブ漬けとチーズを肴に、じっくりと味わいたい。

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