■ お知らせ
※基本的にネタバレありです。ご注意ください。
※当ブログはリンクフリーです。内容の無断転載はお断りいたします。
※ブログ環境の相性によっては、TB・コメントのお返事が出来ない事があります。ご了承ください
※エロ・グロ・出会い系のTB及びコメントは、削除の上直ちにブログ管理会社に通報させていただきます。 また記事と無関係な物や当方が不適切と判断したTB・コメントも削除いたします。
■TITLE INDEX
※タイトルインディックスを作りました。こちらからご利用ください。
■ ツイッターアカウント※基本的にネタバレありです。ご注意ください。
※当ブログはリンクフリーです。内容の無断転載はお断りいたします。
※ブログ環境の相性によっては、TB・コメントのお返事が出来ない事があります。ご了承ください
※エロ・グロ・出会い系のTB及びコメントは、削除の上直ちにブログ管理会社に通報させていただきます。 また記事と無関係な物や当方が不適切と判断したTB・コメントも削除いたします。
■TITLE INDEX
※タイトルインディックスを作りました。こちらからご利用ください。
※noraneko285でつぶやいてます。ブログで書いてない映画の話なども。
※noraneko285ツイッターでつぶやいた全作品をアーカイブしています。


2017年08月16日 (水) | 編集 |
神奈川芸術劇場KAAT キッズ・プログラム 海外招待2作品。
「アルヴィン・スプートニクの海底探険」は、オーストラリアに本拠を置き、新しい演劇の形に挑戦しているザ・ラスト・グレート・ハントによる冒険譚。
作・演出はティム・ワッツ、出演はサム・ロングリー。
日本では2012、13年にも上演されたが、首都圏では今回が初。
舞台は、温暖化で陸地が水没した地球。
生き残ったわずかな人々は、加藤久仁生監督の「つみきのいえ」の様に、海に突き出した家で暮らしている。
主人公のアルヴィンは、小さな家で愛する妻のアリーナとささやかながら幸せな人生を送っていたが、妻は病気で死んでしまう。
この世界では死者たちは天国ではなく、原初の生命が生まれた海の底に帰ってゆく。
アルヴィンは亡き妻の魂を追いながら、地球の奥底にあるという未知の空洞を解放し、世界を救うために、一人海底深く潜ってゆくのである。
地球を模しているのであろう、丸いスクリーンに映し出される可愛いアニメーションが物語を進行させ、そこに演劇、パペットのパフォーマンスがシームレスに融合し、ミニマルでユニークな演劇空間が生み出される。
たった一人のパフォーマーと、お世辞にも金がかかっているとは言えない最小限のギミックだけで、観客の頭の中には豊かな世界観が投影される。
潜水服を着たアルヴィンの二頭身のパペットは、日本人にはどうしても目玉のオヤジに見えてしまうのだけど、この単純なフェイスレスなパペットが、驚くほど豊かに感情を伝えてくるのだ。
音楽にダニー・エルフマンが使われてることもあって、ピュアなラブストーリーはちょっとティム・バートンの初期の映画を思わせる。
どこまでも一途なアルヴィンの想いが、昇華されるラストには思わず涙。
気になったのは、子供向けのプログラムなのに、字幕の漢字の多さ。
歌詞やセリフはスクリーンに映し出されるのだけど、あれは小さい子は読めないぞ。
この種の公演ではひらがなを増やすとか、日本語版での上演を検討してほしい。
KAATのロビーで劇団コープスの「ひつじ」のパフォーマンスも上演。
コレも非常にシュールで面白かった。
物語がある訳でなく、四頭のひつじとひつじ飼いの日常が描かれる。
要するに、人間がひつじに成り切っているだけなのだが、これが実に上手くて、だんだん本物に見えてくるから凄い。
毛刈りや搾乳、おしっこや餌やりなど、工夫たっぷりリアルに再現されたひつじあるあるを見てるだけで、けっこう飽きないのだ。
大人ですらいつの間にか本物のひつじを見てる感覚になっているのだから、 子供たちは完全に動物を観察してる感覚で、餌やりタイムには落としたキャベツを与えている子も(笑
パフォーマーさんも大変だ。
終いにゃ交尾までしてたけど、あれ子供に「何やってるの」と聞かれたら親は困るだろうな(笑
両作とも今回は明日8月17日が最終。
とても素晴らしい作品なので、是非再演をお願いしたい。
記事が気に入ったらクリックしてね
「アルヴィン・スプートニクの海底探険」は、オーストラリアに本拠を置き、新しい演劇の形に挑戦しているザ・ラスト・グレート・ハントによる冒険譚。
作・演出はティム・ワッツ、出演はサム・ロングリー。
日本では2012、13年にも上演されたが、首都圏では今回が初。
舞台は、温暖化で陸地が水没した地球。
生き残ったわずかな人々は、加藤久仁生監督の「つみきのいえ」の様に、海に突き出した家で暮らしている。
主人公のアルヴィンは、小さな家で愛する妻のアリーナとささやかながら幸せな人生を送っていたが、妻は病気で死んでしまう。
この世界では死者たちは天国ではなく、原初の生命が生まれた海の底に帰ってゆく。
アルヴィンは亡き妻の魂を追いながら、地球の奥底にあるという未知の空洞を解放し、世界を救うために、一人海底深く潜ってゆくのである。
地球を模しているのであろう、丸いスクリーンに映し出される可愛いアニメーションが物語を進行させ、そこに演劇、パペットのパフォーマンスがシームレスに融合し、ミニマルでユニークな演劇空間が生み出される。
たった一人のパフォーマーと、お世辞にも金がかかっているとは言えない最小限のギミックだけで、観客の頭の中には豊かな世界観が投影される。
潜水服を着たアルヴィンの二頭身のパペットは、日本人にはどうしても目玉のオヤジに見えてしまうのだけど、この単純なフェイスレスなパペットが、驚くほど豊かに感情を伝えてくるのだ。
音楽にダニー・エルフマンが使われてることもあって、ピュアなラブストーリーはちょっとティム・バートンの初期の映画を思わせる。
どこまでも一途なアルヴィンの想いが、昇華されるラストには思わず涙。
気になったのは、子供向けのプログラムなのに、字幕の漢字の多さ。
歌詞やセリフはスクリーンに映し出されるのだけど、あれは小さい子は読めないぞ。
この種の公演ではひらがなを増やすとか、日本語版での上演を検討してほしい。
KAATのロビーで劇団コープスの「ひつじ」のパフォーマンスも上演。
コレも非常にシュールで面白かった。
物語がある訳でなく、四頭のひつじとひつじ飼いの日常が描かれる。
要するに、人間がひつじに成り切っているだけなのだが、これが実に上手くて、だんだん本物に見えてくるから凄い。
毛刈りや搾乳、おしっこや餌やりなど、工夫たっぷりリアルに再現されたひつじあるあるを見てるだけで、けっこう飽きないのだ。
大人ですらいつの間にか本物のひつじを見てる感覚になっているのだから、 子供たちは完全に動物を観察してる感覚で、餌やりタイムには落としたキャベツを与えている子も(笑
パフォーマーさんも大変だ。
終いにゃ交尾までしてたけど、あれ子供に「何やってるの」と聞かれたら親は困るだろうな(笑
両作とも今回は明日8月17日が最終。
とても素晴らしい作品なので、是非再演をお願いしたい。

スポンサーサイト


2017年08月09日 (水) | 編集 |
ゴールデン街劇場にて。
天願大介演出/脚本、月船さらら主演。
これは期待以上の傑作だった。
原作となっているのは、乱歩文学の最高峰とも評される長編小説「孤島の鬼」だ。
昭和4年に雑誌連載という形で発表された原作は、美しい婚約者・初代を何者かに殺された主人公・簑浦金之助が、同性愛者で金之助への愛を隠さない諸戸道雄と共に事件の謎に迫り、ある孤島に隠された恐るべき秘密にたどり着くという物語。
乱歩らしく、推理小説でありながら冒険譚であり、怪奇趣味に同性愛にエログロと、時代を考えれば相当にアナーキーな怪作である。
これを全部舞台化したら、おそらく5、6時間はかかる超大作になってしまうが、本作は小説の中で重要な鍵となる、「秀ちゃんの日記」の部分だけを抜き出して、70分の独白劇に仕立て上げている。
何時何処だか分からない土蔵の中に、聡明な美少女の秀ちゃんともう一人の男の子が閉じ込められていて、二人は物心ついた時から土蔵の外へは出たことがなく、世話をしてくれる老人も詳しいことは教えてくれない。
実は二人にはある秘密が隠されているのだが、秀ちゃんは鉄格子のはまった小さな窓から見える海と山、老人が差し入れてくれた数冊の本から世界を想像し、外に出ることが出来ない我が身の不幸を日記に書き綴るのである。
基本、土蔵の中だけで展開するワンシチュエーションで、登場人物もたった4人。
舞台美術も土蔵の三方の壁と畳、わずかな小物。
観客との距離感が限りなくゼロの、ゴールデン街劇場独特のアングラ感も、絶妙な場の演出効果となっている。
ミニマルな劇的空間に、月船さららの妖艶に円熟した演技が誘う。
この人は華やかな宝塚出身だけど、天願監督との初タッグとなった「世界で一番美しい夜」から昨年の大珍品「変態だ」、舞台「なまず」や出口結美子との演劇ユニットmetroの活動など、インディーズ作品の印象が強い。
本作も含めて、演じることへの愛が伝わってきて、その熱は確実に観客にも伝播する。
70分のうち、だいたい95パーセントは彼女の独白で、客席間近で演じられる異形の悲しみに、何時しかどっぷりと感情移入。
可能な限り要素を削り落とした結果生まれる、芝居への没入感こそ、本作の最大の魅力だろう。
4月の初演を見逃したが、思いのほか早く再演を鑑賞できて良かった。
ゴールデン街劇場で8月13日まで。
記事が気に入ったらクリックしてね
天願大介演出/脚本、月船さらら主演。
これは期待以上の傑作だった。
原作となっているのは、乱歩文学の最高峰とも評される長編小説「孤島の鬼」だ。
昭和4年に雑誌連載という形で発表された原作は、美しい婚約者・初代を何者かに殺された主人公・簑浦金之助が、同性愛者で金之助への愛を隠さない諸戸道雄と共に事件の謎に迫り、ある孤島に隠された恐るべき秘密にたどり着くという物語。
乱歩らしく、推理小説でありながら冒険譚であり、怪奇趣味に同性愛にエログロと、時代を考えれば相当にアナーキーな怪作である。
これを全部舞台化したら、おそらく5、6時間はかかる超大作になってしまうが、本作は小説の中で重要な鍵となる、「秀ちゃんの日記」の部分だけを抜き出して、70分の独白劇に仕立て上げている。
何時何処だか分からない土蔵の中に、聡明な美少女の秀ちゃんともう一人の男の子が閉じ込められていて、二人は物心ついた時から土蔵の外へは出たことがなく、世話をしてくれる老人も詳しいことは教えてくれない。
実は二人にはある秘密が隠されているのだが、秀ちゃんは鉄格子のはまった小さな窓から見える海と山、老人が差し入れてくれた数冊の本から世界を想像し、外に出ることが出来ない我が身の不幸を日記に書き綴るのである。
基本、土蔵の中だけで展開するワンシチュエーションで、登場人物もたった4人。
舞台美術も土蔵の三方の壁と畳、わずかな小物。
観客との距離感が限りなくゼロの、ゴールデン街劇場独特のアングラ感も、絶妙な場の演出効果となっている。
ミニマルな劇的空間に、月船さららの妖艶に円熟した演技が誘う。
この人は華やかな宝塚出身だけど、天願監督との初タッグとなった「世界で一番美しい夜」から昨年の大珍品「変態だ」、舞台「なまず」や出口結美子との演劇ユニットmetroの活動など、インディーズ作品の印象が強い。
本作も含めて、演じることへの愛が伝わってきて、その熱は確実に観客にも伝播する。
70分のうち、だいたい95パーセントは彼女の独白で、客席間近で演じられる異形の悲しみに、何時しかどっぷりと感情移入。
可能な限り要素を削り落とした結果生まれる、芝居への没入感こそ、本作の最大の魅力だろう。
4月の初演を見逃したが、思いのほか早く再演を鑑賞できて良かった。
ゴールデン街劇場で8月13日まで。



2015年05月17日 (日) | 編集 |
今年2月に封切られた、ももいろクローバーZ主演の映画「幕が上がる」の舞台版。
脚本は原作者の平田オリザが執筆し、演出は映画と同じく本広克行が務めているが、ただ映画のストーリーをそのまま舞台に移し変えるのではなく、映画では描かれなかった原作のエピソードを、更に膨らませたスピンオフとなっている。
とは言っても、この舞台版は単独では作品として成立しておらず、完全に映画版の追補編として構成されているのがユニークだ。
映画は、ももクロのアイドル映画としての色彩が強く、同じキャストによる舞台の客層も基本的には彼女たちのファン、あるいは演劇ファン。
ならば当然映画を観た上でこちらも観に来るだろうという、ある種の割りきりが可能とした大胆な作劇である。
舞台版で描かれるのは、県立富士ヶ丘高校演劇部が地区大会を突破し、部の躍進を牽引していた吉岡先生が学校を辞めた直後の約一週間。
いわば信じていた大人に梯子を外され、動揺を隠せない部員たちが、いかにして県大会に向けて立ち直るかの物語だ。
舞台に登場するのはももクロの5人と、二年生、一年生役の部員7人だけで、吉岡先生役の黒木華はもちろん、ムロツヨシも出てこない。
それでも「吉岡先生だったらこうする」「吉岡先生はこう言ってた」など、数々の台詞によって舞台を支配するのは、姿無き黒木華なのである。
演劇部員たちは、吉岡先生の呪縛を振りほどき、あまりに大きすぎる穴を、自分たちの力だけで埋めねばならない。
映画では尺の関係もあってかあまり描かれなかった、地区大会の反省を踏まえ、部員たちが「銀河鉄道の夜」を作り込んで行く過程をじっくり見せる。
この舞台版で追加された、中西さんの過去に纏わるある設定によって、さおりは演出家としての新たな壁にぶち当たり、芝居作りの中心にいる彼女の葛藤は、周りを巻き込んで広がってゆく。
同時にこのエピソードは、なぜ今の時代に「銀河鉄道の夜」なのか?という疑問に対して、作者・平田オリザからの一つのアンサーとなっているのである。
舞台というライブであるゆえ、芝居の中に芝居があるメタ的構造は映画版より必然的に強調され、おそろしく自然な演劇部の“日常”を見ていると、いつしかこの“部活”はホンモノで、百田夏菜子は本当に演出家なのだと錯覚するほど。
いや映画のメイキング、「幕が上がる、その前に。彼女たちのひと夏の挑戦」を見ると、劇中劇の役者たちの意識としては、直接的にさおりに演技指導を受けているので、あながち錯覚でもないっぽいが。
まず弱小高校演劇部を描いた小説があり、その小説を演技経験の無いももクロが演じる事によって、彼女たちの役者としての成長を描く、ある意味でドキュメンタリー的な味わいのある映画が作られた。
そして、今回は映画を経由して物語は舞台に回帰し、ももクロたちはついに本当に演劇人としての第一歩を踏み出したわけだが、彼女たちの演技は映画版よりさらに成長して、これが初舞台とはとても思えない仕上がりだ。
映画では百田夏菜子と他のメンバーの間で、キャラクターの完成度に若干の差を感じたが、今回は皆完璧に役を自分のものとしていて、自信に満ちた堂々たる演技だった。
やはり本広監督の俳優の演技を引き出す能力は、確実に非凡だと思う。
だから、ももクロと演劇との出会いとなる、平田オリザ主催の演劇ワークショップへの参加から、映画の制作と公開、そして今回の舞台版という約1年に渡る、どこでもないどこかへの旅の集大成として、「幕が上がる」と「銀河鉄道の夜」が一つに溶け合い、メタのメタとなるラストはとても感動的だ。
平田オリザは、小説の「幕が上がる」の一つのテーマは「出会い」だと言う。
小説と映画と舞台がトライアングルを形作り、ももクロと部員役の少女たちのリアルな成長とシンクロさせたユニークな試みは、作り手と観客双方に確実に幾つもの新しい出会いをもたらしたと思う。
おそらく映画も舞台も、少女たちが歩み出した長い長い旅の通過点にすぎないのかもしれないが、いつの日か、旅の第2章を期待したい。
ところで、私が観に行った日は、映画版でがるるの祖父を演じた鶴瓶師匠が見に来ていて、幕間に“お祖父ちゃん、部室にがるるを訪ねる”的なアドリブ寸劇を見せてくれたのは、嬉しいサプライズだった。
お祖父ちゃん、校門でがるるに会えたんだろうか?
記事が気に入ったらクリックしてね
脚本は原作者の平田オリザが執筆し、演出は映画と同じく本広克行が務めているが、ただ映画のストーリーをそのまま舞台に移し変えるのではなく、映画では描かれなかった原作のエピソードを、更に膨らませたスピンオフとなっている。
とは言っても、この舞台版は単独では作品として成立しておらず、完全に映画版の追補編として構成されているのがユニークだ。
映画は、ももクロのアイドル映画としての色彩が強く、同じキャストによる舞台の客層も基本的には彼女たちのファン、あるいは演劇ファン。
ならば当然映画を観た上でこちらも観に来るだろうという、ある種の割りきりが可能とした大胆な作劇である。
舞台版で描かれるのは、県立富士ヶ丘高校演劇部が地区大会を突破し、部の躍進を牽引していた吉岡先生が学校を辞めた直後の約一週間。
いわば信じていた大人に梯子を外され、動揺を隠せない部員たちが、いかにして県大会に向けて立ち直るかの物語だ。
舞台に登場するのはももクロの5人と、二年生、一年生役の部員7人だけで、吉岡先生役の黒木華はもちろん、ムロツヨシも出てこない。
それでも「吉岡先生だったらこうする」「吉岡先生はこう言ってた」など、数々の台詞によって舞台を支配するのは、姿無き黒木華なのである。
演劇部員たちは、吉岡先生の呪縛を振りほどき、あまりに大きすぎる穴を、自分たちの力だけで埋めねばならない。
映画では尺の関係もあってかあまり描かれなかった、地区大会の反省を踏まえ、部員たちが「銀河鉄道の夜」を作り込んで行く過程をじっくり見せる。
この舞台版で追加された、中西さんの過去に纏わるある設定によって、さおりは演出家としての新たな壁にぶち当たり、芝居作りの中心にいる彼女の葛藤は、周りを巻き込んで広がってゆく。
同時にこのエピソードは、なぜ今の時代に「銀河鉄道の夜」なのか?という疑問に対して、作者・平田オリザからの一つのアンサーとなっているのである。
舞台というライブであるゆえ、芝居の中に芝居があるメタ的構造は映画版より必然的に強調され、おそろしく自然な演劇部の“日常”を見ていると、いつしかこの“部活”はホンモノで、百田夏菜子は本当に演出家なのだと錯覚するほど。
いや映画のメイキング、「幕が上がる、その前に。彼女たちのひと夏の挑戦」を見ると、劇中劇の役者たちの意識としては、直接的にさおりに演技指導を受けているので、あながち錯覚でもないっぽいが。
まず弱小高校演劇部を描いた小説があり、その小説を演技経験の無いももクロが演じる事によって、彼女たちの役者としての成長を描く、ある意味でドキュメンタリー的な味わいのある映画が作られた。
そして、今回は映画を経由して物語は舞台に回帰し、ももクロたちはついに本当に演劇人としての第一歩を踏み出したわけだが、彼女たちの演技は映画版よりさらに成長して、これが初舞台とはとても思えない仕上がりだ。
映画では百田夏菜子と他のメンバーの間で、キャラクターの完成度に若干の差を感じたが、今回は皆完璧に役を自分のものとしていて、自信に満ちた堂々たる演技だった。
やはり本広監督の俳優の演技を引き出す能力は、確実に非凡だと思う。
だから、ももクロと演劇との出会いとなる、平田オリザ主催の演劇ワークショップへの参加から、映画の制作と公開、そして今回の舞台版という約1年に渡る、どこでもないどこかへの旅の集大成として、「幕が上がる」と「銀河鉄道の夜」が一つに溶け合い、メタのメタとなるラストはとても感動的だ。
平田オリザは、小説の「幕が上がる」の一つのテーマは「出会い」だと言う。
小説と映画と舞台がトライアングルを形作り、ももクロと部員役の少女たちのリアルな成長とシンクロさせたユニークな試みは、作り手と観客双方に確実に幾つもの新しい出会いをもたらしたと思う。
おそらく映画も舞台も、少女たちが歩み出した長い長い旅の通過点にすぎないのかもしれないが、いつの日か、旅の第2章を期待したい。
ところで、私が観に行った日は、映画版でがるるの祖父を演じた鶴瓶師匠が見に来ていて、幕間に“お祖父ちゃん、部室にがるるを訪ねる”的なアドリブ寸劇を見せてくれたのは、嬉しいサプライズだった。
お祖父ちゃん、校門でがるるに会えたんだろうか?

記事が気に入ったらクリックしてね


2014年08月15日 (金) | 編集 |
スティーブン・スピルバーグの同名映画の元となった舞台劇。
第一次世界大戦の軍馬の歴史に興味を持ったマイケル・モーパーゴが、1982年に児童小説として発表した「ウォー・ホース〜戦火の馬〜」は、2007年になってニック・スタフォードによって戯曲化され、ロンドンでの初演は大きな成功を収めた。
この舞台に感動したプロデューサーのフランク・マーシャル、キャスリーン・ケネディ夫妻が作品をスピルバーグに紹介し、映画化されたのが2011年。
映画を切っ掛けに始まった海外公演ツアーが、ようやく極東の国にもやって来た。

本作を鑑賞すると、映画版と構成が非常によく似ている事に驚かされる。
プロットの流れはほぼ一緒と言っても良いが、146分の映画に対して、舞台はおおよそ130分弱くらいか。
若干短くなっている分、登場人物の数や役割はある程度変わっている。
例えば、映画では戦いの中で騎手を失った馬のジョーイとトップソーンが、複数のドイツ軍人との邂逅を繰り返してゆくが、舞台では厭戦気分から戦いを離脱しようとするドイツ軍のミューラー大尉が、終盤まで二頭の庇護者となる。
また、基本的に馬が主人公であり、ジョーイを軸に物語を進めてゆく映画に比べると、こちらはやや人間より、特にジョーイを必死に探す飼主のアルバート少年の比重が大きくなっている。
映画の方がジョーイを狂言回しとして、象徴的、寓話的で、舞台はジョーイとアルバートの絆の物語としての色彩がより強い。
とはいえ、舞台でもジョーイをはじめとした馬たちの存在感は抜群だ。
南アフリカのハンドスプリング・パペット・カンパニーによる、実物大パペットの演技はいつの間にか本物より本物らしく見えてくる。
なんでも創立者のエイドリアン・コーラーとバジル・ジョーンズは、文楽人形からパペットによる演技の可能性の広がりを確信したのだという。
なるほど中に入ってる二人と頭担当の一人の組合せは、確かに文楽の三人遣い。
文楽では頭を操作する主遣いは素顔を出している事もあるが、こちらも頭の担当は常に素顔のままパペットの横に張り付いている。
もっとも、競馬場の中継映像などで、馬の横で人が手綱を引いてるイメージがあるせいか、あまり違和感は感じず、むしろ物語が進むにつれて、迫真性を増す彼らの演技に魅せられ、そこに魂を感じるのである。
逆に馬パペット以外の舞台装置などは、極力シンプル。
強いストロボ光で時間がスローモーションになる様な、映画的手法を実に演劇的空間の中に使ってるのが興味深い。
本作が描くのは、恐怖と不条理が支配する戦争の時代だ。
物言わぬジョーイが人々の希望の象徴となり、たとえどんなに悲惨で苛酷な状況にあっても、人間の心には決して失われないものが確かにあるというテーマが浮かび上がるのは映画と共通。
もちろん舞台だけでも十分に感動できるが、映画を観ている人は同じ話で同じテーマを描いた、映像言語と演劇言語との違いを比べてみると二重に面白い作品だと思う。
スピルバーグが惚れ込んだのも納得の、素晴らしい作品だ。
渋谷シアター・オーブにて、8月24日まで。
ちなみにカーテンコールのみだが、撮影OKなのも嬉しい。
馬パペットの繊細な動きをじっくり見たい人は、オペラグラス持参がおススメだ。
記事が気に入ったらクリックしてね
第一次世界大戦の軍馬の歴史に興味を持ったマイケル・モーパーゴが、1982年に児童小説として発表した「ウォー・ホース〜戦火の馬〜」は、2007年になってニック・スタフォードによって戯曲化され、ロンドンでの初演は大きな成功を収めた。
この舞台に感動したプロデューサーのフランク・マーシャル、キャスリーン・ケネディ夫妻が作品をスピルバーグに紹介し、映画化されたのが2011年。
映画を切っ掛けに始まった海外公演ツアーが、ようやく極東の国にもやって来た。

本作を鑑賞すると、映画版と構成が非常によく似ている事に驚かされる。
プロットの流れはほぼ一緒と言っても良いが、146分の映画に対して、舞台はおおよそ130分弱くらいか。
若干短くなっている分、登場人物の数や役割はある程度変わっている。
例えば、映画では戦いの中で騎手を失った馬のジョーイとトップソーンが、複数のドイツ軍人との邂逅を繰り返してゆくが、舞台では厭戦気分から戦いを離脱しようとするドイツ軍のミューラー大尉が、終盤まで二頭の庇護者となる。
また、基本的に馬が主人公であり、ジョーイを軸に物語を進めてゆく映画に比べると、こちらはやや人間より、特にジョーイを必死に探す飼主のアルバート少年の比重が大きくなっている。
映画の方がジョーイを狂言回しとして、象徴的、寓話的で、舞台はジョーイとアルバートの絆の物語としての色彩がより強い。
とはいえ、舞台でもジョーイをはじめとした馬たちの存在感は抜群だ。
南アフリカのハンドスプリング・パペット・カンパニーによる、実物大パペットの演技はいつの間にか本物より本物らしく見えてくる。
なんでも創立者のエイドリアン・コーラーとバジル・ジョーンズは、文楽人形からパペットによる演技の可能性の広がりを確信したのだという。
なるほど中に入ってる二人と頭担当の一人の組合せは、確かに文楽の三人遣い。
文楽では頭を操作する主遣いは素顔を出している事もあるが、こちらも頭の担当は常に素顔のままパペットの横に張り付いている。
もっとも、競馬場の中継映像などで、馬の横で人が手綱を引いてるイメージがあるせいか、あまり違和感は感じず、むしろ物語が進むにつれて、迫真性を増す彼らの演技に魅せられ、そこに魂を感じるのである。
逆に馬パペット以外の舞台装置などは、極力シンプル。
強いストロボ光で時間がスローモーションになる様な、映画的手法を実に演劇的空間の中に使ってるのが興味深い。
本作が描くのは、恐怖と不条理が支配する戦争の時代だ。
物言わぬジョーイが人々の希望の象徴となり、たとえどんなに悲惨で苛酷な状況にあっても、人間の心には決して失われないものが確かにあるというテーマが浮かび上がるのは映画と共通。
もちろん舞台だけでも十分に感動できるが、映画を観ている人は同じ話で同じテーマを描いた、映像言語と演劇言語との違いを比べてみると二重に面白い作品だと思う。
スピルバーグが惚れ込んだのも納得の、素晴らしい作品だ。
渋谷シアター・オーブにて、8月24日まで。
ちなみにカーテンコールのみだが、撮影OKなのも嬉しい。
馬パペットの繊細な動きをじっくり見たい人は、オペラグラス持参がおススメだ。

記事が気に入ったらクリックしてね


2010年07月31日 (土) | 編集 |
バレエと言えば、普通は劇場で観賞するもの。
だが、「清里フィールドバレエ」は清里高原のリゾート、「萌木の村」に設けられた特設会場で夏の間だけ上演される野外バレエだ。
既に20年の歴史があるというその舞台は、想像以上の素晴らしさだった。
森の中の広場に作られた会場は、日が落ちる頃には多くのリピーターを含む観客でぎっしり。
会場には本格的な石窯ピザや地ビールをサービスする出店や、虫除けスプレーまで完備されている。
もっとも、会場周辺の木々には、環境に配慮した漢方の虫除け薬が散布されているそうで、思いのほか虫は少ない。
演目はセルゲイ・プロコフィエフ作曲による「シンデレラ」である。
バレエシャンブルウェストと、萌木の村を拠点とする舩木洋子バレエフォレストによる演舞は迫力満点。
ダイナミックな踊りと、カラフルで遊び心のある衣装やセットが良く知られた物語を盛り上げる。
そして何よりも、森の中にポッカリ開けた空間という非日常感が、観客を真夏の夜の夢へと誘う。
仄かな星明り、ひんやりとした高原の空気、そして照明に誘われて乱舞する虫達までもが、ある種の演出効果として機能しているのだ。
更に自然の闇と一体化した演劇空間が、観客に独特の研ぎ澄まされた五感を与え、舞台との一体感を増幅するのである。
これはミュージックフェスや薪能などにも通じる感覚だろう。
野外である事を上手く生かした暗転や、ダンサー達が観客席にまで飛び込んでくる演出も楽しく、インターミッションを挟んで二幕一時間半ほどの舞台は、あっという間にフィナーレを迎える。
クライマックスは演劇的演出とライブの臨場感が相まって、圧倒的なカタルシスを感じさせてくれる。
視覚的で展開がわかりやすいので、バレエファンでなくても十分に楽しめる。
色紙を購入すると参加できる出演者のサイン会などもあり、親子連れにもお勧めだ。
今年の公演は8月9日まで。
演目は「シンデレラ」「白鳥の湖」「天上の詩」が日替わりとなる。
記事が気に入ったらクリックしてね

こちらもお願い
だが、「清里フィールドバレエ」は清里高原のリゾート、「萌木の村」に設けられた特設会場で夏の間だけ上演される野外バレエだ。
既に20年の歴史があるというその舞台は、想像以上の素晴らしさだった。
森の中の広場に作られた会場は、日が落ちる頃には多くのリピーターを含む観客でぎっしり。
会場には本格的な石窯ピザや地ビールをサービスする出店や、虫除けスプレーまで完備されている。
もっとも、会場周辺の木々には、環境に配慮した漢方の虫除け薬が散布されているそうで、思いのほか虫は少ない。
演目はセルゲイ・プロコフィエフ作曲による「シンデレラ」である。
バレエシャンブルウェストと、萌木の村を拠点とする舩木洋子バレエフォレストによる演舞は迫力満点。
ダイナミックな踊りと、カラフルで遊び心のある衣装やセットが良く知られた物語を盛り上げる。
そして何よりも、森の中にポッカリ開けた空間という非日常感が、観客を真夏の夜の夢へと誘う。
仄かな星明り、ひんやりとした高原の空気、そして照明に誘われて乱舞する虫達までもが、ある種の演出効果として機能しているのだ。
更に自然の闇と一体化した演劇空間が、観客に独特の研ぎ澄まされた五感を与え、舞台との一体感を増幅するのである。
これはミュージックフェスや薪能などにも通じる感覚だろう。
野外である事を上手く生かした暗転や、ダンサー達が観客席にまで飛び込んでくる演出も楽しく、インターミッションを挟んで二幕一時間半ほどの舞台は、あっという間にフィナーレを迎える。
クライマックスは演劇的演出とライブの臨場感が相まって、圧倒的なカタルシスを感じさせてくれる。
視覚的で展開がわかりやすいので、バレエファンでなくても十分に楽しめる。
色紙を購入すると参加できる出演者のサイン会などもあり、親子連れにもお勧めだ。
今年の公演は8月9日まで。
演目は「シンデレラ」「白鳥の湖」「天上の詩」が日替わりとなる。

記事が気に入ったらクリックしてね

こちらもお願い