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酒を呑んで映画を観る時間が一番幸せ・・・と思うので、酒と映画をテーマに日記を書いていきます。 映画の評価額は幾らまでなら納得して出せるかで、レイトショー価格1200円から+-が基準で、1800円が満点です。ネット配信オンリーの作品は★5つが満点。
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ハリー・ポッターと炎のゴブレット・・・・・評価額1500円
2005年11月28日 (月) | 編集 |
比べるのも失礼だが、「ロード・オブ・ザ・リング」三部作と「ハリポタ」の映画シリーズの一番の違いは、結局映画自体が物語っているか否かだと思う。
「ロード~」が映画単体でも物語の面白さを十二分に味わえるのに対して、「ハリポタ」映画版は一貫して原作の超ゴージャスな「挿絵」に過ぎなかった。
原作を読んでないと、ぶつ切りの物語の流れや人間関係まで「???」となる事が多々あったし。
あくまでも「原作読者のために作ってます」って言うのが、良くも悪くも「ハリポタ」だったんだよね。
ところが「ハリー・ポッターと炎のゴブレット」は、シリーズ史上初めて、原作を読んで無くても面白い映画になった!パチパチ!
(ただし、1~3までは観とくor 読んでおく必要があるけど。)

ハリーたちのホグワーツ魔法学校が、伝統の三大魔法学校対抗戦を開催する事になった。
三つの魔法学校から、一人ずつ代表選手が選ばれ、三つの難関に魔法で挑むのだ。
ホグワーツからは上級生のセドリックが選ばれるが、なぜか追加でエントリーできないはずのハリーも選ばれる。
難関揃いの試合が始まるが、「例のあの人」の怪しい動きもあって、対抗戦は波乱含み。
ハリーは対抗戦を勝ち抜いて、「永遠の栄誉」を手に出来るのか?


ぶっちゃけ原作は分厚い割に中身がスカスカで、現在までのシリーズ中で一番面白くない。(一応私は全部読んでます)
が、逆に映画化に当たってはそれが良かったのかもしれない
分厚くて、中身の密度も濃い原作より、密度の低い原作を脚色するほうが明らかに楽だからね。

他にも今までの原作が基本的に一年を通しての話だったのに対して、これは「三大魔法学校対抗戦」というイベント期間中に絞った話だったり、対抗戦にあわせて課題を解いて行くというロールプレイング的な物語だったり、映画化するのに好都合な話ではあった。
今までの三作は、未完の物語を脚色する制約(後々の事を考えるとキャラクターや物語を大きく変えられない)にモロにぶち当たって、時間内に収めるのに四苦八苦していたのに比べて、物語のテンポのよさは明らかだ。

あと、ここへ来てハリー、ロン、ハーマイオニーを演じる三人に、それなりに表現力が付いてきたというのも無視できない要因ではある。
いや、別に突然演技派になった訳じゃなくて、オトナにコスプレされてセリフを言わせられてる段階を抜け出して、彼らならではのキャラクターが形作られてきたって事かな。
ハーマイオニーのセリフで言えば「人はみんな変わるのね」 (by戸田奈津子)
まあ、色んな意味でオトナになってきてるんだなあって感じ。
前半の学園ラブコメ風の展開も、彼らの生っぽい魅力のおかげで中々楽しい。

勿論、そんな彼らの「今」を上手くすくい取った、マイク・ニューウェルの演出も悪くない。
前三作のクリス・コロンバス、アルフォンソ・キュアロンに比べると、キャリア的には地味な監督だけど、今回は色彩設計などにらしさを見せつつも、良い意味でベテランらしい職人的な仕事をした

まあ、細かい点では色々と突っ込み所もあるし、キャラの心理の流れが強引過ぎるところもあるんだけど、2時間37分を飽きさせずに見せきったのは立派。
正直ハリポタ映画は少々食傷気味だったんだが、これ観たらまた次ぎも観たくなった。

さてさてハリポタたちにお酒は少々早いけど、この映画にはクィディッチワールドカップにちなんで「オハラズ・アイリッシュスタウト」を付け合せ。
真っ黒なボディに強いコクとスムーズなスタウトビール。
ギネスより日本人には飲みやすい。
冬にあうのもアイリッシュの特長だよね。

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オハラズ アイリッシュスタウト 4.3度330ML(イギリス)OHARA'S IRISH STOUT
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ハーマイオニーフェギア 萌えますか?






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大停電の夜に・・・・・評価額1000円
2005年11月25日 (金) | 編集 |
二年前の夏、ニューヨークを中心に、アメリカ北東部の大部分が停電するという、未曾有の大停電が起こった。
都市の生命線が止まり、街は中世に戻ったように真っ暗。
すわ、人々がパニックに陥り略奪や暴動が起こるのでは、という予想に反して大都市の住民は全く冷静で、むしろクールなニューヨーカーには普段はあまり見られない相互扶助の精神まで見られた
人々は蝋燭を手に街のバーでゆったり世間話をし、普段は見られない都会の星空を眺めたりして大停電の夜を過ごしたそうである。

この「ちょっと良い話」をNY以上の大都会である東京の、もっとも輝くクリスマスイブの夜に舞台を移して映画化するという発想は良いと思う。(ちょいベタではあるけど)
ただでさえクリスマス前後は無国籍ぶりが際立つ東京だが、元ネタがNYのせいか映画自体も往年のハリウッド人情映画を目指しているフシがある。
実際、美術陣の健闘もあって、この映画にでてくる東京はちょっと浮世離れした華やかさがあって、実に魅力的だ。

東京、クリスマスイブの夜。
様々な人がそれぞれの思いを載せて、聖なる夜を迎えている。
街は光に溢れ、ある者には幸せな、ある者には悲しい、またある者には切なげな夜になるはずだった。
だが、郊外の変電所に隕石(実は人工衛星)が落下。
大都会東京は、一瞬にして停電してしまう。
そしてその停電は、その夜東京にいた人々の人生を少しずつ変える事となるのだ。


前記したように、大元の発想や設定は良いんだよね。
しかし残念ながら映画はそれを生かす事が出来なかった。
原因はハッキリしていて、要するに登場人物が多すぎるのだ
ざっと数えてみただけで、メインキャラだけで12人もいる!
しかも一見関係ない彼らの人生は、少しずつ互いの人生にかかわりを持っていて、なおかつ彼ら自身の置かれている現在の状況が他の誰かの過去とかぶさるという、実に複雑な作劇をしている。
群像劇とはいっても二時間少々で描ききれる数ではないし、複雑な作劇のわりに脚本もそれほど練った形跡が無い。(例えば、人工衛星マニアの少年と乳癌の少女のエピソードは全く本筋に絡んでこず、物語の世界を広げる以上の役割を果たしていない)
キャラクターの造形自体はそれなりに皆個性的で面白いのに、それぞれの人格に軽くタッチするだけで終わってしまう。
例えば生き別れの母子の40年ぶりの再会など、本来泣きのシーンなのに、私は全く泣けなかった
感動の対面までの母親の登場シーンは僅か2,3シーン、時間にして5分あるかないか過ぎないのだ。
我々観客には「彼女はなんとなくこんな人?」って設定を説明された程度のインフォメーションしかない。
これでは感動したくても感情移入出来ない。
一応、一番じっくり描いているのは、豊川悦司田畑智子演じる、イブの夜で閉店するという場末のバーの、ジャズベースシストくずれの店主と、彼に思いを寄せるキャンドル屋の女の子のお話。
この二人のエピソードは場所が固定されていて、会話劇だったおかげでそれなり突っ込んで描けていた。
いっそのこと、この擬似ニューヨークであるバーのある路地を中心に、舞台劇の様な構造にしたら面白かったのに。

全体に、舞台装置は凝っているのに、描きたい事が多すぎて全て表層を撫でただけで終わってしまった。
画面に入り込んでいけないから、ディテールに余計目が行ってしまい、 「ホテルの非常電源ってあんな何時間も持つんか?」とか「停電なのに天文台の蛍光灯はつくんだ」とか「スゲエ数の蝋燭だなあ、テイクのたんびに消したり点けたり大変だったろうなあ」とかどうでもいいことが頭をよぎってしまう。
クリスマスの夜の寓話に甘く酔いたいのに、アルコールの入ってないカクテルを出されたような気分。
もっとずっと面白く作れた気がするだけに、「もったいない」という思いが強い。

オープニングタイトルロールにも出てくる”TRACKS SANTA” とは北米航空宇宙防衛司令部(NORAD)が毎年実地しているサンタ追跡のボランティアサービス。
なんと日本語サイトまである。
こういう所にもエネルギーを惜しまない、アメリカ人のエンターティナーぶりは流石です。
もっともこれも出てきただけで映画的にほとんど生かされて無いのが残念だが。

ちなみにこの映画、やたらと酒を飲むシーンが出てくる。
日本酒からシャンパン、ビール、ウィスキー、カクテル・・・なにせ舞台の一つがバーだから、ありとあらゆる酒が画面に写ってる。
さてそんな「大停電の夜に」飲みたいのはシングルモルトのお湯割り。
いや、なに宇津井健がお湯割りを飲むシーンが、CMみたいで格好よかったからさ。

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ニッカ(新)余市(よいち)12年 700ml
余市12年物。
国産ウィスキーではニッカが一番好きです。

大停電の夜に~ナイト・オン・クリスマス~
メイキングです。

大停電の夜に
監督自身によるノベライズ版。




サンクスギビング(感謝祭)と映画 「エイプリルの七面鳥」
2005年11月20日 (日) | 編集 |
先日、在米の友人とネットでやり取りしていて、「そう言えばもうじきサンクスギビングだよ」という話になった。
サンクスギビング=感謝祭は、クリスマスやハロゥインほどビジネスに結びつかないせいか、あんまり日本では知られていないが、アメリカではクリスマスの次に重要な行事だ。
11月の第四木曜日から日曜日に掛けての週末は4連休となり、学生達は皆実家に帰り、遠く離れた親類縁者とこの日だけは集まるという家も多い。
どうも日本では感謝祭復活祭と混同して、キリスト教の祭りだと思っている人もいるみたいだが、全然関係ない。
17世紀に新大陸に渡ってきた移民たちが、厳しい自然の中で全滅の危機を迎えた時、ネイティブアメリカン達によって食料と新大陸での生活の知恵を教えられ、生き延びる事が出来た事に由来している。
元々は食料を与えてくれたネイティブアメリカンに感謝を捧げた祭りだったのが、いつの間にか、日々満ち足りた暮らしを出来る事への感謝を捧げ、家族で集まってご馳走を食べる日として定着した物だ。
私も留学生だった頃は、サンクスギビングになると在米の親戚の家で七面鳥をパク付いたものだ。

「そう言えばサンクスギビングを扱った映画って意外と少ないね」
「やっぱり家族で集まってご飯食べるだけだから、ドラマチックにはなりにくいんじゃない?」
「でも、だからこそ作れるお話もあるよ」
「じゃあサンクスギビング映画ってどんなのがある?」

そういわれて考えてみると、確かにあんまり思い浮かばない。
まあ最近の映画ではジョディ・フォスター監督の「ホーム・フォー・ザ・ホリデイ」やバート・フレインドリッチ監督の「家族という名の他人」くらいか?
この二本はどちらもサンクスギビングの食卓を舞台に、それぞれに葛藤を抱えた家族が久々に集まる事で生まれる人間ドラマだ。
「サンクスギビング」=「家族が久々に集まって一緒にご飯を食べる日」という基本設定を忠実に生かしたドラマ構成で、どちらも見ごたえがある。
あと祝日という祝日をギャグにしてしまうナショナルランプーン・シリーズに「ナショナルランプーン サンクスギビング・デイ」というのもあった。
これはあるファミリーが、何年も会ってない親戚にサンクスギビングの食卓に招かれるのだが、行ってみると親戚の家族は皆変人(というか変態)揃いだったというコメディ。
まあナショナルランプーン系のコメディが好きという人にしかお勧めできない。

ん、サンクスギビングにまつわる映画でアレを忘れていました。
「エイプリルの七面鳥」
主演は最近何かと話題のケイティ・ホームズで、監督はこれがデビュー作となるピーター・ヘッジス。
この映画がユニークなのは、「食卓で起こるドラマ」ではなくて、「食卓に至るまでのドラマ」であるという点だ。

ニューヨークの下町に住むエイプリルは、もう何年も家族と疎遠だ。
郊外の住宅地に住む典型的な中流家庭であるエイプリルの家族も、問題児である彼女と関わりあいになりたくないと思っている。
ところが、エイプリルは仲の悪い家族の中でも、特に衝突してきた母親が癌に侵されている事を知り、彼女の好物である七面鳥の丸焼きを作ってサンクスギビングにご馳走する事を決意する。


こうしてサンクスギビングの日、郊外からニューヨークのエイプリルのアパートへ向かう家族の物語と、アパートで慣れない七面鳥料理に悪戦苦闘するエイプリルの物語が同時進行的に描かれるのだ。
アパートへ向かう家族の物語は、典型的なロードムービーの様相を見せる。
彼らは車という閉鎖空間の中で、普段顧みない過去の記憶と向き合う事で、憎しみのうちに封印してきた家族の絆を思い起こすのだ。
衝突してきた母親は、古ぼけた記憶の奥に閉じ込めてきたエイプリルへの愛を取り戻す

同じ頃、アパートではエイプリルが戦っている
彼女は七面鳥という食材と戦い、肝心のオーブンが壊れているという現実と戦い、もうじき家族がやってくるという時間と戦う。
そんなエイプリルの戦いに手を貸すのは、人種も背景も異なるアパートの住民達。
エイプリルの物語は寓話的で、まるでメイフラワー号の移民たちと、彼らの生きるための戦いに手を貸した、ネイティブアメリカンたちの物語の再現のようにも見える。

こうして二つのタイプの違う物語が交互に描かれて行き、エイプリルと家族が再会する時には、感謝祭のご馳走の様にドラマは仕上がっているのだ。
脚本の巧みさとデビュー作とは思えない老練な演出で、かなり満腹感の得られる「エイプリルの七面鳥」は、私のサンクスギビング映画のイチオシかな。

ちなみに私は七面鳥の丸焼きも好きだけど、翌日のランチに食べる前日の食べ残しのコールドターキーサンドイッチの方がどっちかっていうと好きだった。
七面鳥って美味しいけど、肉としては結構淡白なんだよね。

感謝祭ではあまりスポットが当たらないお酒だけど、一応定番として「ホット・ターディー」というのがある。
レシピは家々で違うのだが、基本は暖めたアップルサイダーにラム酒やスパイスを加えたもの。
中にはウィスキーを使ったり、アップルじゃなくてレモンジュースを使うなんて人もいる。
まあ体があったまるアメリカの熱燗みたいなものかな?
最近では解禁日が近いので、ボジョレ・ヌーヴォーを買って感謝祭に開けるって人も多いみたい。

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オススメ映画!

日本の食卓のために! ミニターキー
日本サイズのミニターキー。お料理にトライ!
ALWAYS 三丁目の夕日・・・・・評価額1400円
2005年11月17日 (木) | 編集 |
この映画を観ていて「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲」を思い出した。
「昭和」に限りないノスタルジーを感じ、思い出の世界こそ理想と考える一団が、古き良き「昭和」の世界を再現したテーマパークを作り、町中の大人たち洗脳してその中に引篭もろうとする。
もちろんその「昭和」とは、思い出の中の理想だけを抽出した虚構の世界だ。
しんちゃんたちは、このままでは自分たちの未来まで過去に奪われてしまうと、大人たちの野望を阻止するために立ち上がる。

しんちゃんに出てくる物ほど後ろ向きでないが、まあ「ALWAYS 三丁目の夕日」を一言で言えば「映像で観る昭和30年代テーマパーク」となるだろう。
平成生まれの人も増えているが、現在の日本人の大半を占める昭和生まれにとって、この映画は心のどこかに大切にしている思い出の世界を、若干理想化してリアルに見せてくれる。

西岸良平の原作は既に50巻を越えている膨大な物だから、全てを映像化するのは不可能。
そこで映画版は、原作でもメインで登場する二つの家族に的を絞っている。
一つ目は、夕日町三丁目で小さな自動車修理工場「鈴木オート」を営む、鈴木夫妻と一人息子の一平の一家。
二つ目は、駄菓子屋をやりながら芥川賞を狙う偏屈な小説家の茶川さんだ。
物語は昭和33年春、鈴木オートに集団就職で青森から上京した六子がやって来る所から始まる。
同じ頃、茶川さんの所には親に捨てられた少年、淳之助が転がり込む。
映画はこの二つの家族を中心に、日常で起こる細かな事件を描写しながら、昭和33年という時代を再現してゆく
集団就職、テレビ、力道山、電気冷蔵庫、駄菓子屋・・・時代を彩るキーワードが散りばめられ、それら全てがキラキラと輝く未来への希望だ。
夕日町は、当時の日本を凝縮した町であり、傍らにそびえる建設中の東京タワーが未来へと上昇する日本を象徴している。

監督は「ジュブナイル」「リターナー」の山崎貴。
この人はVFXの出身だけあって、映像の力をよく判っている。
「ALWAYS 三丁目の夕日」主役は堤真一でも吉岡秀隆でも小雪でもない。
VFXと凝った美術で緻密に再現された「昭和33年の東京」圧倒的なビジュアルである。
単にリアルなだけでなく、日本人の心の琴線に触れるような理想化された昭和の世界。
誰もがノスタルジーを感じ、行ってみたくなるような夕日町三丁目は、正しく「クレヨンしんちゃん」に出てきたテーマパークそのものだ。
VFXを担当した白組は、限られた時間の中で素晴らしい仕事をしたと思う

残念なのは、ストーリーテリングが明らかにビジュアルに負けている事。
もっとも原作からして、日常の淡々とした世界を切り取るようなスタイルで描かれている世界だから、物語的なダイナミズムは与えにくいのだけど、だとしたらもう少し物語を整理してコンパクトに纏めるべきだった
上映時間133分はさすがに長すぎる。
正直言って、私は中盤で中ダレを感じて少し退屈した。
内容的にも110分前後に纏められる話だと思う。

とは言っても、クリスマスから大晦日までのクライマックスの展開はなかなかだし、「三丁目の夕日」を具現化したラストではウルウル来た
原作とは登場人物の設定は少し変わっているものの、エピソードやキャラクターのツボは抑えられているので、原作ファンでも納得できるだろう。
なつかしの東京絵巻を観ているだけでも結構楽しめるんで、決して嫌いな映画ではないです。

それにしても、今の十代とかがこの映画を観るとどんな感覚なのかな?
私も昭和30年代は生まれてないけど、物心ついた昭和40年代後半の地方都市には、まだ少しこの映画の世界が残っていた気がする
数は少なかったけど、町にはまだオート三輪が走ってたし、路地は未舗装だったし、高層ビルもほとんど無かった。
コンビニは影も形も無く、子供達がたむろするのは近所の駄菓子屋だった。
だから何となくノスタルジーを感じる事ができるけど、もっと若い人には完全な異世界なのかなあ?
そういえば、この映画は50代の観客がやたらと多いのだそうだ。
なんかナットク・・・

この映画に付け合せるのは、カストリ焼酎・・・と言いたいとこだけど、さすがに健康にヤバイ(笑
焼酎の「ホッピー」割りでどうでしょう。
キンキンに冷やしたホッピーと甲種焼酎(安物でOK)を7:1で豪快に注ぐ。
氷は入れてはいけない。かわりにジョッキもキンキンに冷やしておく事。
今でも下町の小さな居酒屋さんだと定番メニューであるのが嬉しい!
銭湯の帰りとかに一杯やると最高。
平成にしっかりと生き残ってる昭和だね。

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映画の元になったエピソードを集めた特別版




親切なクムジャさん・・・・・評価額1250円
2005年11月14日 (月) | 編集 |
日曜だというのに妙に早起きしてしまい、ふと思い立って映画館に行った。
貧乏人なもんでレイトショーで見るのが習慣化してしまって、よく考えたら初回に見るのなんて3、4年ぶりの気がする。

「復讐者に憐みを」「オールドボーイ」に続く、「復讐三部作」の最終作なんだそうだ。
とは言ってもジョン・フォードの「騎兵隊三部作」や大林宣彦の「尾道三部作」と同じく、監督が自分で定義してる内向きの三部作なんで、物語的には全く独立した関係ない作品である。
唯一、前二作の出演者があちこちにカメオ出演してる事が、関連を示唆する程度だ。

13年間、ウォンモ少年誘拐殺人犯の汚名を着せられて服役してきたイ・クムジャ。
天使の様な微笑みで、刑務所の誰にでも愛を振りまく彼女を、人は「親切なクムジャさん」と呼ぶ。
実はウォンモ少年殺害の真犯人は、クムジャさんの恋人だった英語教師ぺク先生で、クムジャさんは当時一歳だった娘を人質に取られて、ぺクの罪を被ったのだった。
クムジャさんは13年間の刑務所生活の間、ぺクに対する密かな復讐計画を練っていた。
そして遂に出所の日が来た・・・

「親切なクムジャさん」のイメージカラーは白だ。
純白は無垢の色であり、贖罪の色であり、そして・・・何も無い空虚の色である。
真っ白のクムジャさんの中にあるのは復讐の
出所後の彼女が赤いアイシャドーのメイクをしてるのがそれを象徴している。

前半、刑務所の中で培った人脈と情報を使い、クムジャさんは着々と復讐の計画を進め、同時に生き別れとなった娘を探す。
刑務所で、クムジャさんに救われたある者は彼女に家を提供し、ある者は仕事を、またある者は情報を、武器をといった具合に、13年間の「親切」で蓄積した人脈を武器に、密かにぺク先生を追い詰めてゆく。
このプロセスは、軽快なテンポと凝りに凝った映像ロジックを駆使して語られ、文句無しに面白い。
正直このまんま最後まで行ってくれたら、満点つけても良い位だった。

ところが後半、クムジャさんが首尾よく復讐の対象であるぺク先生を捕らえ、彼の更なる凄惨な悪事を知るにいたって、彼女はその復讐に他者を介在させる。
ぺク先生には、彼女以上に「復讐」するに相応しい人々がいたのだ。
クムジャさんは復讐の権利を彼らに譲る。
ここにいたってクムジャさんの「復讐」とは、ぺク先生への憎しみよりも、むしろウォンモ君への「贖罪」であり、クムジャさんの「贖罪」は無垢の純白ではなくぺク先生の血で贖うしかないのが明らかになるが・・・残念ながら、この部分がうまく処理されているとは言えない。
多分、監督が本来やりたかった事はこうだ。

「真っ白で空虚になってしまったクムジャさんの心は、復讐の赤、血の赤で塗りつぶされる事で満たされるはずだった。だが復讐が贖罪を内包しているがゆえ、新たな葛藤を呼び、それが再び今度は空虚ではない純白で満たされる事で救われる。」

正直、想像しただけでも表現が難しい。
後半になると前半のテンポの良いストーリーテリングは影を潜め、パク・チャヌク監督自身が、果たしてどう表現したら良いものかと迷っているうちに終わってしまった印象だ。

パク・チャヌクは現在の韓国映画界において、間違いなく断トツの映像表現のテクニシャンである。
「親切なクムジャさん」で見せる様々な映像のメタファー、多重構造的な脚本のテクニック、さらには心情表現を映像として完成させるセンスの良さは、映画学校の授業に使われるべき物だ。
復讐物なので残酷なシーンも多いが、漫画チックなカリカチュアが上手いので、目を背けたくなるほどでない。
( タイプが違うんで比べるのもなんだが、この辺の洗練度はタランティーのあたりより遥かに上手い)
ネタバレになるのであまり書きたくは無いが、養子に出されたクムジャさんの娘が韓国語を理解しないオーストラリア育ちで、復讐の対象である「英語教師」ぺク先生を通して彼女に心情を吐き出すシークエンスは、正しく映画でしかなし得ないシニカルな表現で、本編の白眉だ。

しかし、なまじテクニックがある故に、描きたい事が明確でなくなると、メタファーやロジックの表現がテーマを覆い隠して拡散させてしまう嫌いがある。
「JSA」や「オールドボーイ」はテーマが明確な分踏みとどまっていたと思うが、これは復讐の内に浮かび上がる贖罪という曖昧さ故か、後半に行くにしたがって拡散傾向が強く出てしまった。

イ・ヨンエは勿論、ぺク先生役のチェ・ミンシク、カメオ出演で美味しいところを持ってゆくユ・ジテにいたるまで、出演者はとても良い。 
(さすがにイ・ヨンエの「女子高生」コスプレはどうかと思ったけどさ・・・汗)
前半の快調さが傑作を予感させただけに、後半の失速がちょっと残念な映画だった。

この映画には無垢、贖罪を意味する純白の食べ物が出てくるシーンが冒頭とラストの二回出てくる。
冒頭の白い豆腐は食べるのを拒否したクムジャさん、ラストで彼女は救われたのだろうか?

この映画には映画のイメージカラーにあわせてカクテルの「ホワイト・レディ」をチョイス。
イギリスを代表するドライ・ジン、ビーフィータージンにホワイトキュラソー、レモンジュースを2:1:1の割合で加え、シェイクする。
非常に完成されたテイストを持つ大人のカクテルであり、このくらいのまとまりが映画にも欲しかった。
いや、面白いか面白くないかって言われたら面白いんですけどね。
レイトショー料金だったら良かったんだけど。
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ビーフィータージン 700ml 40度
ビーフィータージン 700ml 40度


異才パク・チャヌク。この人の映画は色んな意味で「痛い」です。


私の頭の中の消しゴム・・・・・評価額1500円
2005年11月10日 (木) | 編集 |
「四月の雪」が作った韓国映画の興行記録を、あっさり更新しそうなくらいヒットしてるらしい。
あっちはヨン様という目玉はあるが、ホ・ジノの地味な心理ドラマ。
こっちは美男、美女、難病、普遍の愛
超正統派のラブロマンスである。
まあヒットするだろうな。

物語の原作となっているのは、数年前に日本で放送された永作博美主演の「ピュアソウル」というテレビドラマで、私を含めて観た人も多いだろう。
若い夫婦の妻の方が、若年性アルツハイマー病という不治の病に犯され、肉体より先の「心の死」がくるという現実に対して、真実の愛を貫くこうとするというもの。
肉体的な痛みではなく、愛する人の記憶を失ってゆく、愛した人がどんどん別人になってゆくという、ある意味で肉体よりも辛い精神の病を描いていたのが斬新だった。
最近のリメーク映画は、妙にオリジナルに忠実で、何のためにわざわざリメークしたのか判らない様な物が多いが、これは原作が十時間以上ある連続ドラマだったのが幸いしたのか、物語の設定と大筋を上手く使って、オリジナルと言って良い世界を二時間に再構成している。

この映画がユニークなのは事実上の二部構成となっており、前半と後半で物語の視点が全く変わる事だ。
ヘタクソな脚本家だと妙にチグハグな映画になってしまいそうだが、脚本・監督のイ・ジェハンは殆んど違和感を感じさせない。

前半は正しくチョン・ウソンの俺様映画だ。
ウソン演じるチョルスは、複雑な家庭に育った孤独な建築士。
金持ちの令嬢だが、不倫の恋に破れたばかりのスジン(ソン・イェジン)と偶然、偶然、偶然三回くらい出会う。
腕っ節は強く、スジンを襲った引ったくり強盗をムチャな方法で叩きのめしたりするが、その反面スジンのレリーフを繊細に彫ってしまう芸術家でもある。
美形でちょっとワイルドで、しかも影のあるインテリという無敵の役である。
その格好良さたるや、男の私ですら「か、格好イイ・・・」と胸キュンしてしまうほどであり、世間知らずのお嬢様で傷心のスジンなどイチコロだ。
すぐに恋に落ち、積極的にモーション開始。
ついにチョルスのお姫様抱っこを勝ち取るのだ。
前半の視点はずっと恋するスジンで、観客は彼女に感情移入する事で、同じようにチョルスに恋をする。

ところが幸福の絶頂で、スジンがアルツハイマーを発病すると、物語の視点はチョルスに移る。
自分が病気である事を知り、誰よりもチョルスを愛しながら、身を引こうとするスジン。
彼女を見つめるチョルスの視点は、残酷な現実と愛の間で、身を引き裂かれそうになりながら、誰よりも愛しげにスジンを見つめる。
立場が変わって、後半はチョルスがスジンに本当の恋をする視点で描かれ、ソン・イェジンの儚げな可愛さ爆発である。
彼女の「私キレイ!」パワーは、えらく地味だった「四月の雪」(これはこれで好演だが)とは全く別人の様で、この映画を観た男性の98%は彼女に恋をするだろう。

実際、チョン・ウソンとソン・イェジンは素晴らしい。
特に前半のウソンの描写などは、かなりベタベタな部分もあり、一歩間違えると安っぽくなってしまうのだが、ウソンのキャラクターの強さが説得力を与えている。
例えば日本で同じような描写をして説得力を持たせられる人は・・・ちょっと思いつかない。

もっとも王道のラブロマンスではあるが、イ・ジェハンの演出は過剰に泣かせに走る事はせず、かなり抑制が効いている。
その意味で、怒涛の泣きを期待している人は肩透かしをくらうかもしれない。
視点の変換は、スジンはどんどん記憶や認識力を失ってゆくのだから、ストーリテリングの都合上必要だったとも言えるが、結果的にこれが映画に重層的な構造を与え、物語に深みをもたらしている。
家族を含めた主人公二人の周囲をわりと丁寧に描いているのも、物語が深みを持つ上で隠し味的に効いてくるのだ。

地に足のついた描写の中で、唯一あのラストだけはある種のハッピーエンドで、ファンタジーであるかもしれないが、全編を丁寧に描いているからこそ生きてくるシーンであり、正直私はあそこでウルウル来てしまった
全体に丁寧に作られた正統派のラブロマンスで、満足度はかなり高い。
たぶん韓流に嵌った人たちが、本来「四月の雪」に期待していた世界はこっちなんじゃないかな。
あれはあれで好きな映画ですけど。

この映画に付け合せるのはやっぱり劇中で二人が飲んでる「鏡月ソラクサン」でしょ。(タイアップかも?)
「この一杯を飲んだら二人は恋人になる。飲まなければ一生会わない」チョン・ウソンにこんな事言われたら私でも飲んじゃうなあ・・・ってオイ(爆
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鏡月 ソラクサン 360ml 22度
劇中酒!

私の頭の中の消しゴム~君が僕を忘れても~(メイキング)
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サントラです
本田美奈子さん死去  皆「パッセンジャー」を忘れてる
2005年11月08日 (火) | 編集 |
舞台女優の本田美奈子さんが亡くなった。
私とは同世代。
つい先日も同級生が亡くなったばかりだったので、なんともやりきれない。
人間、若かろうが年寄りだろうが、何時何が起こるのかわからないものだ。

たぶん、私の世代にとっての本田美奈子とは、歌の上手かったアイドルだろうし、最近の舞台での活躍を知る人にとっては日本でトップクラスのミュージカル女優だろう。
だが、彼女に生涯にただ一本の映画主演作がある事は、おそらくファンの人ですら忘れているに違いない。

1987年の「パッセンジャー 過ぎ去りし日々」はある意味で奇妙な映画だった。
当時(まあ今でも若干)は辛うじて映画が娯楽の王様としての権威を保っており、アイドルが一流のハクをつけるために映画が作られた時代。
アイドル映画なんて言う言葉もあった。
「パッセンジャー」もそんな流れの中で作られた作品でもあるのだが、監督の和泉聖治はまあいいとして、プロデューサーが何故か「宇宙戦艦ヤマト」の西崎義展。
今は銃刀法違反で塀の中にいる彼の、これはただ一つの実写プロデュース作品であり、劇中では彼の私物のクルーザー「ヤマト号」も見られる。どうでもいいけど。
物語も、バイクレーサーの兄(三田村邦彦!)とロック歌手の妹がそれぞれのフィールドで世界を目指し、それにライバルの妨害や陰謀が絡む。
生と死、愛と友情と裏切りが交錯するドロドロの愛憎劇!彩るのはロックンロール!
はっきり言って、当時でも「こんな古臭いベタベタな話、誰が観るんだ」と思ったくらいだった。
と言いつつ観てる私はいったい・・・(爆
バブル前夜の80年代にあっても、あまりにもストレートというか、まるで日活アクション映画並みのプログラムピクチュアを目指したような映画だったのだ。
完成した映画はそれなりの大作としての扱いを受け、実際のところ思ったよりは観られた
勿論ベタベタなストーリー(原作も西崎氏・・・)は閉口物だし、唯一最大のウリである本田美奈子も、ライブシーンはともかく、演技は下手だった。
和泉聖治の職人演出で辛うじて持っているという感じであったが。
時代錯誤なスピリッツを持った「パッセンジャー」は80年代には到底受け入れられず、大コケ。
本田美奈子は二度と映画に出なかったし、西崎義展も実写からは撤退した。

それから長い年月が経った頃、ある舞台で久々に本田美奈子を観た。
正直言って「パッセンジャー」の頃が想像も出来ないくらい、良い舞台女優になっていた。
感心すると共に、これだけ表現力を磨いたのなら、いつかまた映画をやらないかな~と思ったのを覚えている。

それは永遠に叶わなくなった訳だ。
ワイドショーの追悼番組でも、アイドル、舞台女優というフレーズはあっても、映画女優としての彼女に触れていたものは皆無。(当たり前だが)
だけどバブル前夜の邦画界に、徒花の様に咲いた一人の映画女優がいた事は、たぶんごく少数の人が覚えている

私は特に彼女の熱烈なファンという訳ではないけど、追悼番組で聞いた歌声は、心が洗われるようで、とても綺麗だった
CDでも買って、何か合うお酒を飲みながら、聞いてみようと思う。

心より、ご冥福をお祈りします。



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ブラザーズ・グリム・・・・・評価額1000円
2005年11月07日 (月) | 編集 |
なんか昔ばなし系が続くなあ・・・。
んー、例えばコクと旨味タップリの濃厚トンコツラーメンを食べに、博多の専門店に行ったとする。
ところが出てきたのは、何とも特徴の無い薄味のファミレスラーメンだった・・・・例えて言えばそんな映画だった。

物語は19世紀初頭、フランス占領下のドイツが舞台で、まだ作家になる前のグリム兄弟が主人公だ。
彼らは著名なモンスターハンターとして生計を立てているのだが、実はその対峙するモンスターは全て仲間の仕込み。
田舎の迷信深さを利用して、偽の事件をでっちあげ、それを自分で解決して金をせしめるペテン師の兄弟であった。
同じ頃、呪い伝説のあるある森で、11人の少女が失踪するというミステリアスな事件が起こり、フランス占領軍の命令を受けたグリム兄弟は、嫌々ながら「本物」の魔物と対決せざるを得なくなる。

このプロットは、偽プロフェッショナルが本物の事件と対峙することで、図らずも本物として成長するという「サボテンブラザース」「ギャラクシークエスト」と同じパターンで、特に目新しい物ではない。
もちろん上記の二本は傑作だし、このパターンでもいくらでも面白い映画にはなると思うが、率直に言って私には何故テリー・ギリアムがこの映画を撮ったのかが判らない。

「グリム兄弟が作家になる前に、モンスターハンターだったての面白くない?」
「ああ、それ良いねえ!ファンタジーブームだしねえ」

こんな程度のノリ以上の要素があったとは思えないのだ。
この映画にはテリー・ギリアムという強烈な個性を持つ作家が殆んど見えない。
物語には何のメタファーも無いし、ひねった世界観も無い。
いや、正確には細かな描写で若干ギリアムっぽい毒はあるし、占領軍のフランスを近代の象徴とし、中世の破壊者としての役割を与えようとしているフシはある。
が、その辺はあまりにもあっさりしすぎていて、かなり深読みしなければ判らないし、むしろ演出の力点としてはハリウッドステロタイプ的な悪役である事を強調する方向に向いている。
どっちにしろ「近代vs中世」「自然vs人間」なんてベタなテーマは、こっちはミヤザキアニメで食傷気味なくらいなんだよね。
ついでながらこの作品中のフランス人の扱いは、ナチスドイツ並の酷さである。
イタリア人の描写もあんまりと言えばあんまりだ。
ネタバレになるので書かないけど、終盤のイタリア人の行動の心理もサッパリわからない。
ギリアムはラテン民族に何か恨みでもあるのだろうか??


グリム童話をモチーフとした映画で真っ先に思い浮かぶのは、同じく英国のニール・ジョーダン監督の「狼の血族」だが、あれはセクシャルな心理メタファーとしての童話という明確な演出イメージがあった。
この映画では「ヘンゼルとグレーテル」や「赤頭巾」などの有名な童話のエピソードが散りばめられているが、単にモチーフであるに過ぎず、この映画がグリム兄弟の話である事を観客に思い出させるデコレーション以上の意味は持たない。(逆に思い出させてくれないと、グリム兄弟の話であることすら忘れてしまう)

まあ一言で言って、作家性の薄い普通のハリウッド娯楽映画なのだが、問題は作家性の無いテリー・ギリアムなどはっきりいって無価値って事なのだ。
この人の面白さは「タイムバンデット」や「未来世紀ブラジル」で見せた全ての事象を斜め読みするようなひねくれた世界観であり、寓話性の強いメタファーの表現だったはず。
職人的な演出の技術は決して上手くないし、単純に面白いかどうかで言えば、ギリアムは絶対にスピルバーグみたいには賞賛されない。
正直この映画のテリー・ギリアムは、やりたい事が無かったか、見失って惰性で撮った様な感じ。
ビジュアル的には凝っているので、それなりには観られるが、ギリアムファンには薄味過ぎて物足りないだろうし、単純に面白い娯楽ファンタジーが観たい人には少々かったるいだろう。

私的にもかなり物足りない思いが残ったので、今夜は「電気ブラン」でも飲んで忘れてしまおうと思う。
電気ブランは浅草の神谷バーの名物で、明治15年以来日本で作られ今に伝えられる最古のカクテルである。
正確な作り方は秘伝とされているが、ブランデーをベースに、ワイン、ジン、キュラソーなどをカクテルしてあり、かなりキツイ。
私は調子にのってこれを飲み続け、意識を失った事があります(笑
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「ブラザー」よりこっちのがオススメ


ギリアムならやっぱ「ブラジル」が一番好きです


「まんが日本昔ばなし」のこと
2005年11月03日 (木) | 編集 |
いや、「ストーリーテラー」の話をしたから昔話つながりって訳じゃないんだけどさ・・・

今、「まんが日本昔ばなし」が、ゴールデンで再放送されている。
しかも今までビデオにもDVDにもなっていない、70年代の初期作品だ。
まあ私的には、今回の放送は来年当たりにDVD全集を発売する布石ではないかと思っているのだが、なんにせよ再び観られるのはありがたい。

リアルタイムで観ていた子供の頃には別になんとも思わなかったのだが、よく考えるとこのシリーズは世界のアニメ史上でも例のない超アヴァンギャルドな作りをしていた。
まず30年前にテレビアニメに声優ではなく俳優を起用しているだけでも珍しいのに、たった二人の役者に全てのキャラクターを演じ分けさせるというアイディア。
一応セルアニメが基本ではあるが、物語によっては切絵や影絵、水彩画や版画タッチまで使う表現の自由さ。
芝山努、りんたろう、杉井ギサブローと言った個性溢れる監督たちが、ある意味やりたい放題やったこれらは、今観ても十分斬新で、まあ毎週毎週芸術実験アニメを放送していたようなもんだ
それを20年間に約千本・・・マヂで頭が下がります。

デジタル技術の発達で、表現自体の幅は当時よりずっと広がっているのに、テレビで放送されてるアニメは、無難な漫画が原作の物か、深夜のヲタク向けロボ&萌系ばかり。
案外こういう個性的な作品は出てこない。
実にもったいない話である。
こう言う作品は、今こそ積極的に海外に出したら良いのではないかと思う。
それこそ外務省が買い付けて、映画祭でセレクション上映をしたり、図書館に貸し出したりしたらいいのではないか。
ジャパニーズアニメはミヤザキだけではない事を知らしめ、世界中のクリエイターに刺激を与えるだろう。

そう言えば杉井ギサブロー監督の「あらしのよるに」が正月映画として公開される。
この人も虫プロの異色作「どろろと百鬼丸」から「タッチ」の様な軽妙な佳作、重厚な「銀河鉄道の夜」まで変幻自在の人だ。
劇場用映画としては99年の「スーパードール★リカちゃん リカちゃん絶体絶命!ドールナイツの奇跡」(なんちゅうタイトルだ・・・)以来6年ぶりとなる。
還暦を迎えて作るこれは、いったいどんな世界になっているのか、結構楽しみにしているのだ。

さて今週末は映画を観てお酒を呑むつもりです。
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子供の頃歌ったな


杉井作品はいつも音楽が良いです