酒を呑んで映画を観る時間が一番幸せ・・・と思うので、酒と映画をテーマに日記を書いていきます。 映画の評価額は幾らまでなら納得して出せるかで、レイトショー価格1200円から+-が基準で、1800円が満点です。
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2005 unforgettable movies
2005年12月30日 (金) | 編集 |
2005年もそろそろ終わり。
総括の意味で、今年の「忘れられない映画」をピックアップしてみようと思う。
そんなに本数を観てるわけでもないので、ベスト10とかではない。
映画的に優れているか否かでもなく、単に自分的に「忘れられないだろうな」と思う映画。

「カンフーハッスル」は2005年の正月に観た。
チャウ・シンチーの前作の「少林サッカー」にはイマイチ乗り切れなかった私も、クンフー映画への愛に溢れたこの映画には大満足。いい初笑いになった。

「アビエイター」は、描きたい事テンコ盛りのフルコースムービー。
若干消化不良の部分もあるが、近年のスコセッシ作品の中では一番まとまっているのではないか。
ディカプリオとスコセッシは、嘗てのデ・ニーロとのコンビの様に、これから長く楽しませてくれそうだ。

「ミリオンダラーベイビー」は凹む映画だった。
でも凹まされた向こうに見える、人生への優しい賛歌が、この映画を映画史上に残る傑作の域に昇華してる。
クリント・イーストウッドは映画作家として一つの極みに登ったと思った。
師走の12月までは、私の中でこの映画を超える作品には出会わなかった。

「スターウォーズ/エピソード3」は映画としては突っ込みどころ満載だが、私にとってはやはり一つの時代の終わりだった。
27年前に、父に連れられて観た「エピソード4」は私が始めて劇場で観た洋画だった。
ラスト、赤ん坊のルークが見つめるタトゥーインの二重太陽の夕景には、観客としても一つの歴史に付き合ったという充実感があった。
こんな映画はもう二度と現れないかもしれない。

「宇宙戦争」は良くも悪くもスピルバーグだった。
前半の圧倒的な演出と後半の破綻。
後半もっとうまく作れたはずだとは思うが、還暦目前にしても貪欲に変化を模索し続けるスピルバーグの凄さを再認識した。

「運命じゃない人」は、優れたシナリオとセンスの良い演出を堪能出来る、素敵なコンムービー。
今年の邦画は印象に残った作品が少なかったが、これは老若男女だれでも楽しめる秀作だろう。
今後地方の興行やDVDで少しずつでも人気が出てくれると嬉しい。

「シンシティ」はロバート・ロドリゲスのヲタク趣味が炸裂した快作。
ハイレベルな映像技術を駆使して、アニメとも実写ともつかぬ、不思議な幻想都市をスクリーンに構築した。
この独創的なオムニバス映画の主役は、間違いなくこの都市だろう。
既にスタートしているという2、3が楽しみな作品だ。

「ALWAYS三丁目の夕日」は、「シンシティ」と同じように、VFXによって「理想化された昭和三十年代の東京」という幻想都市を作り上げた。
だけどこっちは明るくて万人向けの人情物。
このレトロ系特撮人情物は、邦画の新しい金脈になる可能性がある。

「私の頭の中の消しゴム」はラブストーリーの王道中の王道だ。
12時間もの日本の連続ドラマを、映画として上手く料理し直している。
韓国映画は昨年の「殺人の追憶」のような鮮烈な作品は無かったが、この映画や「マラソン」の様な丁寧に作られた佳作がいくつかあった。

「キングコング」は2005年の最後の最後に現れた、正しくキングの名に相応しい傑作。
3時間を越える上映時間を全く飽きずに堪能した。
一年のトリを飾る作品としてこれほど相応しい物もあるまい。

全体に、作り手の作品に対する情熱や愛を感じられる秀作が多かった。
P・ジャクソンやロドリゲス、イーストウッド御大の様な、個性的な作家監督の年だったと言えるかもしれない。
来年は一体どんな映画に出会えるのか、一発目はやっぱり景気の良いバカ映画がいいかなあ・・・・

それでは、読んでくれた皆さん、良いお年を。

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SAYURI・・・・・評価額1350円
2005年12月28日 (水) | 編集 |
師走は何でこんなに忙しいのだろう。
死ぬよ、マヂで。
聞いた話では芸者さんも、この次期お座敷が多くてとっても忙しいのだそうだ。
経済的にも内容的にも別の世界の話だが、娯楽産業って年末はみんな忙しいのかと変な親近感を覚えてしまう。
さて、そんな芸者さんの世界をハリウッドが映画化した「SAYURI」である。

スピルバーグがこの企画をやると聞いて、たぶん「カラーパープル」みたいになるんだろうなと思った。
舞台は違えど、不幸な生い立ちの女性が主人公の一代記だし、芸者の世界の神秘性を決して安直なオリエンタリズムに流れずに描いた原作「メモワール・オブ・ゲイシャ」は、いかにもスピルバーグ好みのジャーナリスティックな視点を持っている。
が、何時の間にか監督が「シカゴ」のロブ・マーシャルに変わり、キャストにチャン・ツィイーやミッシェル・ヨー初めとする艶やかなチャイニーズアクトレスの名が並び、かなり奇妙なゲイシャワールドのスチルが公表されるにいたって「一体どんな映画になるんよ?」と期待は危惧へと変わった。

物語は昭和のはじめ、貧しい漁村に育った一人の少女が、京都の芸者置き屋に売られる所から始まる。
厳しい芸者の世界で、生きる希望すら失った少女は、ある日「会長」と呼ばれる一人の紳士と出会う。
立派な芸者になれば、あの人と同じ世界へ行ける。
そう信じた少女は、とうとう都一の芸者「さゆり」となり、会長と再会する。
しかし、会長とその親友「延」との関係に悩んださゆりは、結局会長への思いを秘めた物とする。
やがて戦争、敗戦。
生きるために芸者を離れていたさゆりだったが、アメリカ軍の融資を必要とする会長のために、再び芸者に戻る事を決意する・・・


ロブ・マーシャルが監督で、アクションの出来る中国系女優陣がキャスティングされた時点で、私は「シカゴ」、いや「ムーランルージュ」ばりのファンタジーミュージカルになるのではと勝手に想像していた。
が、実際に出来たのはスピルバーグ+マーシャル÷3という感じの、妙に中途半端感のある映画だった。
スピルバーグが撮ればもっと妥協の無い(原作に近い)リアリズム志向の物語になっただろうし、ミュージカル監督としてのマーシャルが本領発揮すればぐっとビジュアルの方に振った映画になるはずだ。
なんと言うか、企画が紆余曲折するうちに色々な人の手が入りすぎて、やりたい事がボケてしまった感じがする。

もっとも、そうは言っても一流のスタッフ・キャストによる映画なので、十分見応えはある。
不幸な生い立ちの少女が様々な困難に立ち向かって行くのは、王道中の王道の物語だし、彼女の物語を彩る女たちの切なく悲しい戦いも含め、芸者の神秘性と存在へのリスペクトは強く出ている。
お話的にはドロドロなんだが、東映の花魁物みたくベタベタな印象にならず、不思議なファンタジー性と品格を持っているのは、この神秘性をフィーチャーした所が大きい。
また芸者役の中でも、特に女の業と悲しさを表現したコン・リーとミッシェル・ヨーの火花散る演技合戦は流石。
考証的に正確かはさておいても、緻密な美術と美しいカメラも特筆に価する。
一流のスタッフ・キャストが一流の仕事を見せているからこそ、もっと吹っ切れた作品になったら、さらに魅力的な作品になったのではないか、とどうしても思ってしまうのだ。

最後に、ネットであちこち見ていると、この映画でタイトルロールのさゆりをはじめ、女性メインキャストの殆んどを中国系が占めている事に対する反発を目にするが、奇妙な話だ。
英語劇である時点で日本人が演じる意味合いはかなり薄れているし、むしろほぼ100%東洋人キャストの映画がハリウッドメジャーで製作された事自体が奇跡と言って良い。
実際、この映画のキャストは日本人、中国人に限らず皆好演していたと思うし、工藤夕貴とチャン・ツィイーの「どっちが芸者らしかったか」で、髪型以外の要素を見出すのはこじ付けとしか思えない。
そもそもチョウ・ユンファシャムの王様を演じても、渡辺謙チベットの僧侶を演じても平気で観てるくせに、日本が舞台になると突然文句をつけ始めるのがおかしい。
もちろん描写をもっとリアルにとか、史実を忠実に描いて欲しいなどは要求としてある意味筋が通るが、それと日本人役は日本人に演じさせろと言うのとは全く別の話だ。
少なくとも日本人が日本語で演じる、(しかも考証的に正確とはいえない)中国史劇なんかを何本も作った国の人間が言えることじゃないのである。(そういえば1月からは西遊記がはじまるな~)

さて今回の付け合せは、たぶんさゆりも飲んだ(?)京都の地酒「玉乃光」の純米大吟醸を。
最近はパック酒なんかにも進出して良くも悪くも大手になった玉乃光だけど、流石にこれは飲み応え十分。
さゆりに負けず劣らず華やか風味のお酒。

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玉乃光 純米大吟醸 備前雄町 100% 720ml
玉乃光 純米大吟醸 備前雄町 \2200


原作本です


ロブ・マーシャルの代表作

キング・コング・・・・・評価額1800円
2005年12月15日 (木) | 編集 |
2005年の「キング・オブ・ザ・ムービーズ」
ピーター・ジャクソンは「ロード・オブ・ザ・リング三部作」に続いて、映画史に残る素晴らしい仕事をやってのけた。
「キング・コング」は、彼の物語とキャラクターへの深い愛、すなわち「映画愛」が結晶した圧倒的な力作であり、男なら涙なしには観られない、究極の愛に生きる漢の映画である。

時は1933年、大恐慌下のニューヨーク。
売れない喜劇女優のアン・ダロウは、怪しげな映画作家カール・デナムに新作への出演を依頼される。
最初は断ったアンだったが、脚本家が尊敬するジャック・ドリスコルだと知って出演を了承。
アン、デナム、ドリスコルらを乗せたロケ船は、太平洋を航海しながら順調に船上での撮影を消化してゆくが、その本当の行き先を知っているのはデナムだけだった。
デナムは海図にも載っていない伝説の島、「髑髏島」を探し出し、誰も見たことの無い秘境ロケを行おうとしていたのだ。
深い霧の中、ついに髑髏島に到着したロケ船だったが、島の先住民にアンが拉致されてしまう。
救出に向かったカール達が見た物は、生贄の祭壇に縛られたアンと、彼女をさらって行くゴリラに似た巨大生物のうしろ姿だった・・・


あまりにも有名な物語自体は、1933年に製作されたオリジナルに極めて忠実で、ほとんどそのまんまと言っていい。
だがオリジナルの上映時間が100分なのに対して、今作はなんと187分という大長編になっている。
最初この異様に長い上映時間を聞いたとき、ピーター・ジャクソンは上映時間が軒並み3時間を越えた「指輪」で変な癖がついて、話を切れない演出家になってしまったのではないかと心配したのだが、全くの杞憂だった。
187分のうち、つまらないシーン、無駄なシーンは全く無い。
ピーター・ジャクソンは、9歳の時にオリジナルの「キングコング」を観て映画監督になる事を決意し、以来リメイクを切望してきたそうだ。
思うにリメイクが実現するまでの35年間の歳月は、彼の頭の中でこの物語への愛を深め、より深く考察する不可欠な準備期間だったのではないか。
オリジナルに極めて忠実でありながら、ジャクソンのイマジネーションによって増えた87分間は、殆どがコングというキャラクターを深く描くのと、現在の技術を得て可能となったスペクタクルシーンに費やされている。
特に、上質のラブストーリーのような盛り上がりを見せる、アンとコングとの心の交流など、コングのキャラクターがより深く描かれた事で、オリジナルでは描ききれなかったテーマ性が浮かび上がり、単に観て面白い映画である以上に、非常に高い精神性を獲得しているのだ。
また長い上映時間は、決して少なくは無い登場人物を描きこむ事を可能とし、主役はもちろん脇役にいたるまで、とても個性的で魅力ある造形になっている。
アンが喜劇女優という設定を生かして、芸の動きでコングとコミュニケーションを取ろうとする秀逸なシーンなど、たっぷりとした上映時間の恩恵だろう。

もちろん指輪チームを総動員したビジュアルは圧巻の一言。
多少指輪のイメージを引きずってもいる、前半の髑髏島での秘境冒険物の部分はジュラシックパークとインディ・ジョーンズと宮崎アニメのアクションを、良い意味でごちゃ混ぜにしたようなシーンの連続で、冒険、冒険また冒険。
一瞬たりとも目が離せない。

後半、ニューヨークを舞台にした怪獣スペクタクルは、舞台が「冬」という事を生かしたユニークな演出も手伝って、見た事も無いスピーディーなアクションが展開される。
コングとアンが再び邂逅し、つかの間のデート(?)を楽しむシーンは、絵画的な美しさすら感じられる。
勿論、オリジナルをこよなく愛するピーター・ジャクソンだから、あまりにも有名なエンパイヤステートビルでのクライマックスまで手抜きなし。
コングに思いっきり感情移入して観ていた私は、ラストで泣けて泣けて仕方なかった。
このぐらいストレートな硬骨漢で、涙を誘うキャラクターは、最近では「グラディエーター」のマキシマス将軍くらいか。
来年のアカデミー賞では、キングコングとアンディ・サーキスに主演男優賞が与えられる事を強く希望する。

ヒロインのナオミ・ワッツも素晴らしい。
実際には存在しないコングを相手に、よくぞここまで感情を表現した。
彼女の前にコングがいるようにしか見えないのは、見事なVFX以上に見事な演技によるものだ。
ジャック・ブラックのマッドサイエンティストならぬ、マッドフィルムメーカっぷりも良かった。

作劇上のごく細かな欠点はあるものの、作品の圧倒的な存在感の前では些細な事に思えてしまう。
例えて言えば、ブロードウェーで派手なミュージカルを観て、☆付きレストランでフルコースの極上ディナーを食べて、更にジャズバーで泣ける音楽を聞きながら美味しいお酒を呑む。
そんな贅沢が味わえる映画。
いや、満腹、満福

付け合せは映画に負けない様な「ジ・アーマー」の強いを、ナオミ・ワッツの故郷オーストラリアから。
フルーティな香りと非常に力強いフルボディな赤。
これならまず料理に力負けする事は無いし、余韻をいっそう引き立ててくれる。

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ジ・アーマー[1997]ジム・バリー
ジ・アーマー[1997]ジム・バリー


オリジナルで予習





あらしのよるに・・・・・評価額1300円
2005年12月12日 (月) | 編集 |
この映画、レイトショーで上映してる所が無い・・・・
ファミリー映画は良い子の時間までですか、そうですか・・・
レイトばっかりで観てると、たまの1800円がえらく高く感じるなあ。

嵐の夜に、ひょんな事からお互い顔も知らないまま「友達」になった、狼のガブと山羊のメイ。
それぞれの群れの中で似た境遇にいた彼らは、親近感を募らせ、捕食者と獲物という関係を乗り越えて、深い友情を育む事になる。
だが、冬が近づき狼たちが本格的に山羊狩りを始めると、ガブとメイの関係はついに周りの知るところとなる。
狼と山羊の仲間たちは、それぞれガブとメイにお互いをスパイするように命じる。
追い詰められた二人は、ついに誰も知らない新天地への逃避行に旅立つのだが・・・


きむらゆういちのベストセラー児童小説を、杉井ギサブローが監督している。
杉井ファンの私としては、久々の劇場映画に期待を募らせていたのだった。
結果的に、杉井監督の演出は65歳の今も衰えず。
特にオープニング数分間は凄いの一言。
僅か数分間の、セリフの無いシーンだが、きっちりとキャラクターの感情の流れを描きわけ、非常に緊迫感のあるシーンとなっている。
いやいや、これだけの演出はそんじょそこらの若造には出来ませんぜ。

しかし、原作者自らが手がけた脚本はちょっと弱い。
原作は未読なのだが、何巻もあると聞く。
なんと言うか、長いお話の一部ずつを切り取ってきて、エピソードを繋げたというダイジェスト感が拭えないのだ。
物語的には前半の友情を育むプロセスと、後半の逃避行に別れているのだが、特に前半は何度か二人のピクニックが繰り返されるだけなので、少々退屈。
何よりも、ちょっと境遇が似てるというだけで、二人がタブーをおかしてまで惹かれあう理由が判らないし、精神的な距離がいきなり近くなり過ぎて妙な違和感を感じてしまう。
ストレートに友情の美しさで押すのは正解だと思うが、その友情の芽生えに「何故」という違和感が付きまとってしまうのだ。
あと狼の首領とメイの母親の因縁など、一応インフォメーションとしては劇中に出てくるものの、物語的には殆んど生かされていないのも残念。
二時間の映画の脚本としては、やはりどこか未熟さを感じてしまう。

もっとも、二人が住みなれた森を捨て、二人だけで暮せる新天地を目指して旅に出てからの展開は悪くない。
前半は山羊側と狼側を両方均等に描こうとして、かえって物語の起承転結のリズムを崩してダレてしまっていたのだが、後半は視点が定まるためだ。
そして、途中からずっと感じてきた妙な違和感の原因が最後で判った。
「私たち、これからずっと二人でいられるね」・・・これって友情というより愛情じゃないのだろうか。
旅の途中、お互いが見せる究極的な自己犠牲の精神は、さすがに「友情」だけで説明するのには無理がある。
さらに互いを思いやる献身的な姿勢とか、ちょっとした悪態とか、よくよく考えると誰でも身に覚えのある胸キュンな感覚(笑
これが種と性をも超えた「禁断の愛の物語」(笑)だとすると、古典的な「ロミオとジュリエット」パターンのラブストーリーとしてすっきり理解できる。
二人が一目ぼれだとすれば、惹かれあう理由も要らないしね。
男同士だし、あくまで「友情だ!」と意地張ってるから、観てる方は何か違和感を感じるが、素直な印象から断言しよう。
ガブ君、メイ君、君らはホモです。
原作がそこまで意図しているのかは未読なんで全く判らないし、偶然そういう印象になっちゃっただけかも知れないけど、二人の逃避行にホモセクシュアルが辿ってきた弾圧の歴史までかぶせて観ると、なんとディープかつ寓話性に富んだ物語か!という見方も成り立つ。
考え過ぎかな?

主人公二人を演じた中村獅童成宮寛貴はとても良いと思う。
二人とも声優の演技とは少し違うのだが、特に中村獅童のガブは、作りすぎかと思うくらいの独特のキャラクターで、不器用なひたむきさを表現していた。
全体に、手放しで傑作とは言えないが、色んな意味でトライが一杯つまった力作。
映像的にも水彩画調のキャラと背景、フル3Dの自然物の融合も面白い効果を生んでいた。
市原悦子のお婆ちゃん山羊のシーンは、ちょっと「まんが日本昔ばなし」のデ・ジャ・ヴ。(笑

ん~これに付け合せるお酒はねえ、気分的には日本酒。
これ舞台はたぶん外国なんだろうけど(日本の狼は絶滅してるし)、ムード的にはとっても日本的なんだよね。
今回は長野県の桝一市村酒造の純米酒「鴻山」をチョイス。
辛口の日本酒なのに、喉の奥で不思議な甘みを感じる酒。
「隠し味」を発見するにはピッタリかも?

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あらしのよるに ガブS
ガブ ぬいぐるみ1800円

あらしのよるに メイS
メイ ぬいぐるみ1300円






奇談・・・・・評価額1100円
2005年12月07日 (水) | 編集 |
異才、諸星大二郎の「妖怪ハンターシリーズ」から二度目の映画化。
にしても何でタイトルが「奇談」なの?
「妖怪ハンター」じゃないにしても、これじゃ内容の想像も出来ない。
作品世界を現すのに、あまりもあっさりし過ぎじゃないの?

大学院で民俗学を専攻する里美は、奇妙な夢に導かれるように、東北の奥地の嘗ての隠れキリシタン村を訪ねる。
彼女は16年前に、この村に預けられ、神隠しにあっていたのだ。
村で里美は、調査にやってきていた民俗学者稗田礼二郎と出会う。
稗田によると、この村には「はなれ」と呼ばれる謎の集落があり、そこにはカソリックの聖書とは全く異なる「世界開始の科の御伝え」という創世神話が伝えられているという。
その頃、「はなれ」の善次という男が十字架にかけられて殺害され、「はなれ」の住人が一人を除いて全員失踪するという事件が起こる。
ただ一人残った重太という男は、みんな「いんへるの」へ行ったと言う。
「いんへるの」とはどこなのか?「世界開始の科の御伝え」の秘密とは?


う~ん、名は体を現すというか・・・
諸星大二郎の原作漫画を、独特の雰囲気を損なわず映像に置き換えている、という意味ならこれは非常によく出来ている。
しかし独立した一本の映画としてみると、何か物足りない印象が残る
全体に話の運びがあっさりしすぎているのだ。
元々原作は一時間くらいの中篇にするのにぴったりというボリュームしかないので、この映画版は原作になっている「生命の木」に「妖怪ハンター」の別のエピソードである「天神さま」の、神隠しにあった子供が時を越えて帰ってくるという設定を加える事で、物語にふくらみを持たせようとしている。
だが、残念ながら、神隠しのエピソードは物語に効果的に組み込まれているとは言えない。
そもそも神隠しは何の意味があるのか?なぜ七歳の子供なのか?なぜ女の子だけは帰ってこられるのか?作中の謎には一切の説明も解決も提示されない。
結果的に二つの謎解きを観客に仕掛けておいて、一方だけ答えを明かし、もう一方はほったらかしで終わってしまっている。
勿論謎を謎のままとして終わらせる物語もあるけど、それならそれなりの作劇が必要で、これはどう考えても脚本の失敗だ。
たぶん原作を読んでない人は、混乱して訳が判らなくなるのではないか。

脚本を複雑化させているのに、個々のエピソードの描写はやけにあっさり。
例えばクライマックスの舞台になる、何百年もの間密かに隠されてきた異界「いんへるの」への入り口は、なんと村の真ん中から展望できる場所にあるのだ。 (少なくとも劇中ではその様にしか見えない)
オイオイ、あんなわかり易い所にあったら、とっくに誰かが見つけてるだろう。
これは原作でももう少し判りにくい場所の設定だったぞ。

撮り方によっては、クライマックスへの盛り上がりの重要なポイントになる、善次の復活もB級ホラーの1シーンをなぞった様な描写で終わってしまっている。
妙に物語を複雑化させるよりも、原作の描写を膨らませていった方が効果的だったような気がしてならない。

「はなれ」の人々の正体や「いんへるの」の意味なども、原作同様に全てセリフでの説明に終始している。
いくら原作に忠実とはいっても、このあたりはストーリーの盛り上げとしてはキモの部分なのだから、映画ならではの語り口を見せて欲しかった。

見るからに深い山々に、100年は経っていそうな茅葺の家々が点在するロケーションはムード満点。
主人公の稗田礼二郎を演じる阿部寛も、前回の映画化の時の沢田研二ほどミスマッチではなく、まあ納得できる。
「みなパライソさいくだあ!」のセリフで有名な昇天シーンのVFXも、やや荒いながらもほぼ原作通りのビジュアルイメージを見せてくれた。
画的な部分では健闘してるだけに、映画としては妙に小さく纏まってしまったのが残念だ。
二時間ドラマだと思えば不満もでないけどねえ・・・・。

さて、この映画の舞台となっている東北は酒どころ。
こんな山奥で自然に抱かれながら飲みたい酒に「出羽桜」の大吟醸をチョイス。
酸味はそれほど強くなく、何よりもフルーティな旨味が口いっぱいに広がる。
日本酒度は+6程度あり、適度な辛味も感じられる。
天童杜氏の巧みの技が生きている一品だ。

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出羽桜酒造 純米大吟醸 『愛山』
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限定品!山形の地酒セット!亀の井 くどき上手 桶仕込み 出羽桜 大古酒 枯山水セット
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あゝ、80’s! 「REM」と8㍉映画の時代
2005年12月05日 (月) | 編集 |
rem

板張りの床にパイプ椅子、無造作に並べられた座布団・・・・そして、熱気ムンムン妙に濃いアングラ顔の観客たち
いや~久々に8㍉映画の上映会に行ったら、80年代にタイムスリップしたのかと思っちゃったよ。
1984年に作られた「REM」という自主映画があるんだけど、そのほぼ二十年ぶりという上映会があったのだ。
当時8㍉映画を撮り始めたばかりの自主映画小僧だった私は、今は無き文芸座ル・ピリエで「REM」を観て、心臓を鷲掴みされたようなショックを受けた。

改造機械人間(サイボーグ)の少女たちがセリにかけられる市場を舞台に、記憶を探すアンドロイドの少女「過子」の物語。
サイボーグですらない完全機械人間の過子は、人間の男の愛を得る事で、自らの生の証を得ようとする。


監督は太田達也。アンドロイド少女の過子を演じるのは、当時「聖ミカエラ学園漂流記」などで小劇場シーンのトップアクトレスだった(今もだけど)美加理
上映時間1時間40分、凝った美術と美しい映像、やたらレベルの高い演技陣による「REM」は正しく「8㍉を超えた8㍉映画」だった。
「ス、スンゲエ~!8㍉でもここまで出来るんか!」
あの頃、ル・ピリエの暗闇で私同様に刺激を受け、そのまんま映像で飯を喰うようになってしまった人間は決して少なくないと思う。

1980年代は日本におけるフィルムの自主制作映画が、ある種のサブカルとしてピークを迎えた時代だった。
まあ日本に限らない事だけど、60年代の終わり頃からテレビに押されて映画の観客動員は減少の一途をたどり、メジャーのスタジオが担ってきた映画人の育成システムが破綻してしまう。
「入社→助監督→監督デビュー」という社員映画人の時代が突然終わってしまった。
そこで社員経験を持たない、自主映画出身者が脚光を浴びる時代が来る。
その第一世代は自主映画から産声を上げたばかりのTVCMの世界で活躍し、映画監督になった大林宣彦らで、彼らに50年代生まれの大森一樹や森田義光、石井聰亙、黒沢清といった人材が続く。
80年代を迎える頃には、手塚眞、今関あきよし、小中和哉、松岡錠司、犬童一心といった60年代生まれの俊英たちが続々と作品を発表し、上映会には長蛇の列が出来た。
難解な芸術作品からおバカSFまで何でもあり。
当時は小劇団のブームもあって、アングラ系サブカルが一気に表舞台を喰おうとしていた。
考えられますか?学生の8㍉映画で小規模ながらビジネスが成立してたんだよ。
同じ頃関西では、日本SF大会のDAICON FILMで大阪芸大の山賀博之、庵野秀明たちが徹底的にエンターテイメント志向の「アニメ、特撮」という大きな流れを作り、やがてそれはガイナックスの設立に繋がってゆく。

まあ、ざっと名前を見ただけでも現在の日本映画の中心にいる人たちがこの頃の自主映画から輩出されてるのが判る。
現代の日本映画が良くも悪くもアングラの流れを汲んでいるのも、このあたりに源流がある。
その後90年代に入って、8㍉は製造から撤退するメーカーが相次ぎ衰退。
ビデオ機材とデジタル技術の進歩に伴い、フィルムに拘って16㍉を使ってきた自主映画作家たちもビデオ撮影、フィルムプリントに乗り換える人続出。
ついにはパソコンでCG作品を作ってネットで配信する時代を迎えるにいたって、自主映画も本当に様変わりしたね。

で、20年ぶりに見た「REM」がどうだったかというと、思い出の中の初恋の人に20年ぶりに再会した気分(笑
灯りが落ちて、カタカタと映写機が回りだし、画面に画が映し出されると・・・

く、暗っ!
8㍉ってこんなに暗かったっけ?(映写機が10年前に壊れてから、自分の作品もずっと観てなかった)
ああ、音割れてるし、カメラの不調が原因だと思うがピンもボケてる・・・
シナリオももっと練り込めるよなあ・・・
編集もっと上手くやったらいいのに・・・


でも、でもだよ。
「REM」に関して言えばやっぱり美加理は素晴らしいし、演出的にもラスト15分の情感と美しさは圧倒的な物があった。(これをイマジナリーラインもモンタージュも知らないアマチュアが作ったのだから凄い)
20年前8㍉小僧で、あれから何百本もの映画を観て、今は一応プロとして映像やってる目から観ても、この部分に関しては全く脱帽するしかない。
思い出の中の「REM」は多少美化されてはいたけども、やっぱり本質的な部分では今見ても古びない物を持っていた。

しかし、日本のサブカル系自主映画も、例えば大林宣彦の「いつか見たドラキュラ」あたりから数えればもう40年くらいの歴史があるわけで(もちろんそれ以前にも存在してるし)、何かこう図書館みたいに保存して、観たい時に観られる様に出来ないものかね。
ネガを持たない8㍉フィルムの場合、作者の所有するオリジナルに何かあれば永遠に失われてしまう訳で、デュープして保存する意味は大きいと思うんだけど。
最近やたらと出来てる映像関係の大学とか、作りませんかね?「自主映画資料館」なんて。
いや、最近一緒に仕事をしたCM関係の若い子に、生まれてこの方「フィルムを扱ったことが無い」と言われて、軽いカルチャーショックを感じた訳で。
まあ映画学校がフィルムを教えない時代だし、ビデオ中心のプロダクションなら、もっともな事ではあるんだけど、「フィルムの自主映画ってどんなのがあったんですかねえ?全然知らないです」とか言われちゃうと、見せてあげたくなっちゃうし、あとはこれだけの作品が二十年間も人目に触れないというのも、何とももったいない話だと思うんだけれど。

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