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2006年01月30日 (月) | 編集 |
熱帯モンスーンの強風が人々の善意の仮面を剥ぎ取り、生々しい内面の業を暴き出す様な異色の人間ドラマ。
ラテンアメリカの、咽返るような暑く重苦しい空気感が印象的だ。
舞台になっているエクアドルは高地の国だから、実際には大して暑くないらしいけどね。
マイアミのスペイン語テレビ局のリポーター、マノロとその一行はエクアドルを震撼させている「モンスター」という子供ばかりを襲う連続殺人鬼を追っていた。
ある被害者の葬儀を取材中、被害者の双子の兄弟が、聖書のセールスマン、ビニシオの運転するトラックに轢かれてしまうという事件が起こる。
マノロは逆上した群集によるリンチからビニシオを救うが、警察はビニシオを拘留する。
翌日、復讐を恐れるビニシオから、メディアの力で助けて欲しいと哀願されるマノロだが、そういう事は出来ないと断る。
だが食い下がるビニシオは、「ここから出してくれたら、モンスターに関して知ってる事を話す」とマノロに取引を持ちかける。
ビニシオが「モンスター」なのではないかと疑いを抱いたマノロは、スクープを狙い、警察に話さないままビニシオをインタビューして探り始める・・・
殺人鬼「モンスター」が誰なのかという、一般にミステリーが拘る部分は、冒頭からネタバレ全開でやってるような物なので、はっきり言ってどうでもいい。
犯人探しのミステリーではないのだ。
物語はいくつもの二重構造からなっている。
リンチ事件と連続殺人という二つの事件の真相が次第に重なっていくのと同時に、マノロの掲げる報道の正義と内面の野心、ビニシオの善良な父親の顔と内面の狂気などが徐々にあぶりだされ、人間の業の持つ二面性を暴き出す。
テーマ的には報道の正義とエゴって事なんだろうけど、実際セバスチャン・コルデロ監督が描きたかったのは、報道に限らず人間の業の持つ二面性と原罪だろう。
その点でこの映画はとてもラテンアメリカ的、というかカソリック的であると思う。
ビニシオの職業が聖書のセールスマンだと言う設定は象徴的だ。
この映画では、人間の行いに全て原罪が内包されている。
殺人鬼の「モンスター」が善良そうな市民の仮面を被っている様に、マノロもまた真実を追究するジャーナリストという仮面を被った「モンスター」なのだ。
取材する側とされる側、真実の追究者と殺人鬼、全く異なる立場の二人の人間性はどこかで交わっている。
野心に満ちたマノロをエネルギッシュに演じるジョン・レグイザモ、穏やかな表情の内に狂気を潜ませるダミアン・アルカザールの二人は、見た目もキャラクターも正反対だが、内面の葛藤と心の闇を感じさせる好演。
セバスチャン・コルデロ監督自身による脚本も緻密だ。
惜しむらくは重層的な物語構造が災いして、最終的に言いたい事が今ひとつクリアでない。
メッセージ性の強い映画は、あえてテーマの解釈を観客に委ねるというのも有効な手法だと思うが、この作品に関して言えば、メディアの正義の虚像という表のテーマと、人間の原罪と業という裏のテーマ、どっちつかずでもやもやした印象が残ってしまうのだ。
少なくともマノロの心の解釈は、もう少しクリアに表現出来ていた方が良かったと思う。
物語的には全く違うが、ミステリーの体裁を取りながら、深く静かに人間の内面を突いた韓国の傑作「殺人の追憶」に少し似たタイプの作品。
あの映画ほどのストイックさがあれば、ラストの後味の悪さももう少し突き抜けた物になっただろう。
この良くも悪くも暑苦しい映画の後には、あんまりヘビーな物は飲みたくない。
南米料理屋は探すのが大変なので、メキシコ料理屋でファヒータでもぱく付きながら、「ソル」あたりで喉をすっきりさせるのがベター。
ライトなビールで単体で飲んでも良いし、ラムなんかとカクテルにしてもいい。
そう言えば南国のビールはライトな物が多いが、やっぱり暑苦しい夜に暑苦しい酒は敬遠されるのだろう。
テキーラやラムにしても強いけど後を引かないしね。
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ラテンアメリカの、咽返るような暑く重苦しい空気感が印象的だ。
舞台になっているエクアドルは高地の国だから、実際には大して暑くないらしいけどね。
マイアミのスペイン語テレビ局のリポーター、マノロとその一行はエクアドルを震撼させている「モンスター」という子供ばかりを襲う連続殺人鬼を追っていた。
ある被害者の葬儀を取材中、被害者の双子の兄弟が、聖書のセールスマン、ビニシオの運転するトラックに轢かれてしまうという事件が起こる。
マノロは逆上した群集によるリンチからビニシオを救うが、警察はビニシオを拘留する。
翌日、復讐を恐れるビニシオから、メディアの力で助けて欲しいと哀願されるマノロだが、そういう事は出来ないと断る。
だが食い下がるビニシオは、「ここから出してくれたら、モンスターに関して知ってる事を話す」とマノロに取引を持ちかける。
ビニシオが「モンスター」なのではないかと疑いを抱いたマノロは、スクープを狙い、警察に話さないままビニシオをインタビューして探り始める・・・
殺人鬼「モンスター」が誰なのかという、一般にミステリーが拘る部分は、冒頭からネタバレ全開でやってるような物なので、はっきり言ってどうでもいい。
犯人探しのミステリーではないのだ。
物語はいくつもの二重構造からなっている。
リンチ事件と連続殺人という二つの事件の真相が次第に重なっていくのと同時に、マノロの掲げる報道の正義と内面の野心、ビニシオの善良な父親の顔と内面の狂気などが徐々にあぶりだされ、人間の業の持つ二面性を暴き出す。
テーマ的には報道の正義とエゴって事なんだろうけど、実際セバスチャン・コルデロ監督が描きたかったのは、報道に限らず人間の業の持つ二面性と原罪だろう。
その点でこの映画はとてもラテンアメリカ的、というかカソリック的であると思う。
ビニシオの職業が聖書のセールスマンだと言う設定は象徴的だ。
この映画では、人間の行いに全て原罪が内包されている。
殺人鬼の「モンスター」が善良そうな市民の仮面を被っている様に、マノロもまた真実を追究するジャーナリストという仮面を被った「モンスター」なのだ。
取材する側とされる側、真実の追究者と殺人鬼、全く異なる立場の二人の人間性はどこかで交わっている。
野心に満ちたマノロをエネルギッシュに演じるジョン・レグイザモ、穏やかな表情の内に狂気を潜ませるダミアン・アルカザールの二人は、見た目もキャラクターも正反対だが、内面の葛藤と心の闇を感じさせる好演。
セバスチャン・コルデロ監督自身による脚本も緻密だ。
惜しむらくは重層的な物語構造が災いして、最終的に言いたい事が今ひとつクリアでない。
メッセージ性の強い映画は、あえてテーマの解釈を観客に委ねるというのも有効な手法だと思うが、この作品に関して言えば、メディアの正義の虚像という表のテーマと、人間の原罪と業という裏のテーマ、どっちつかずでもやもやした印象が残ってしまうのだ。
少なくともマノロの心の解釈は、もう少しクリアに表現出来ていた方が良かったと思う。
物語的には全く違うが、ミステリーの体裁を取りながら、深く静かに人間の内面を突いた韓国の傑作「殺人の追憶」に少し似たタイプの作品。
あの映画ほどのストイックさがあれば、ラストの後味の悪さももう少し突き抜けた物になっただろう。
この良くも悪くも暑苦しい映画の後には、あんまりヘビーな物は飲みたくない。
南米料理屋は探すのが大変なので、メキシコ料理屋でファヒータでもぱく付きながら、「ソル」あたりで喉をすっきりさせるのがベター。
ライトなビールで単体で飲んでも良いし、ラムなんかとカクテルにしてもいい。
そう言えば南国のビールはライトな物が多いが、やっぱり暑苦しい夜に暑苦しい酒は敬遠されるのだろう。
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2006年01月26日 (木) | 編集 |
この映画、本来日本公開の予定が無かったのだが、ネット上の署名活動で公開が決まったのだそうだ。
運動を展開した「『ホテル・ルワンダ』日本公開を求める会」、そして彼らに答えた配給会社には、深くお礼を申し上げたい。
これほどの作品が「商売にならなそうだから」なんて理由で未公開に終わったら、そら恥ですわ。
(もちろんこの作品の興行が困難なのは理解しているが)
アメリカでも僅か7館から公開が始まって、口コミで話題を呼び最終的に800館を越える劇場で公開された。
日本でも公開中のシアターNは連日満員だという。
いや映画ファンも捨てたもんじゃないね。
1994年。
嘗ての支配民族で少数派ツチ族と、多数派フツ族の内戦が続くアフリカ、ルワンダ。
ベルギー系四つ星ホテル「ミル・コリン」の支配人でフツ族のポール・ルセサバギナは、そんな状況に不安を感じつつも、ツチ族の妻と二人の子供と幸せな生活を送っていた。
しかし和平協定が結ばれるはずの日、フツ族の大統領機が撃墜された事をきっかけに、フツ族民兵によるツチ族市民の無差別虐殺が始まる。
ポールは妻子をミル・コリンに避難させるが、ホテルには市内各地から助けを求めるツチ族の避難民が押し寄せてくる。
その数1200人。
混迷を極める現地情勢に、国連軍も旧宗主国のベルギー軍も去った。
ホテルを守るのは、それまでに培った四っ星ホテルの品格と、ポールの機転だけ・・・・
わずか10年ほど前に、中部アフリカのルワンダで起こった大虐殺を題材にした大変な労作だ。
映画は一軒のホテルと一人の男を中心に、極限状態の100日間を一気に見せる。
物語は終始主人公のポールを中心に描かれ、突然生活の全てを破壊される事態に直面し、それでも自分自身に誠実であろうとする彼の心の軌跡を追って行く。
単に硬派なだけの戦争ドラマではなく、物語はポールとミル・コリン・ホテルに降りかかる絶体絶命の危機また危機を、いかに乗り越えるのかという構造を持っているので、話としても十分面白い。
観客を全く飽きさせず、同時に伝えるべき物は伝えるという脚本は見事な仕上がりだ。
あえて言えば、非常に限定された場所から描いているので、犠牲者80万とも100万もと言われるルワンダ虐殺の全体像が見えにくい、という事はいえるかもしれない。
が、私も昔興味を持って調べた事があるけど、映画の背景となるツチ族とフツ族の対立は、周辺国や植民地時代からの様々な要素が絡み合って非常に複雑で、一般の観客にリアリティをもってアフリカの紛争を感じ取ってもらうには、この様にパーソナルな視点からアプローチするのが正解だったと思う。
実際、映画を観た事で、アフリカの現実に興味を持つ人は沢山いるはず、というかこれ観て無関心のままだったらヤバイでしょ、人として。
この映画を観た観客に、「もっと知りたい」と思わせた時点で映画の目的は達成されてると思う。
そこから先は観た人個々の問題な訳だし。
テリー・ジョージ監督は、北アイルランド紛争に材をとったジム・シェリダン監督の「父の祈りを」の脚本家として知られる人物だが、自身も北アイルランド紛争に絡んで拘留された事があるそうだ。
そういう体験のせいか、視点は常に冷静で現象を少し引いた目線で見つめ、イデオロギーは勿論キャラクターに過度に感情移入するのも極力避けている。
ごくごく平凡なポールは、我々がルワンダの現実をリアルにイメージするための目だ。
その意味でこの映画は、アフリカを舞台に暗躍する武器商人を描いた「ロード・オブ・ウォー」と共通する手法で描かれている。
ただ目になる人物がずっと我々に近い普通の男だけに、観客としてはずっとリアルに感情移入できるのだが。
だが、虐殺される市民「ホテルルワンダ」と武器商人「ロード・オブ・ウォー」という、アフリカの紛争を全く逆の立場から描いた2本の映画が、ほぼ同じ時期に作られた事はある意味歴史的必然だろう。
ルワンダでは94年以降、民族和解の努力が続けられているが、アフリカ(だけではないが)各地では今も戦火が続いているのだ。
今、この瞬間にも無数のポール・ルセサバギナが世界に向けて助けを求め、同時にユーリー・オルロフが銃を売りまくっているはずだ。
是非この2本はセットで観て何かを感じ、考えて欲しい物だ。
殆ど出ずっぱりで主人公ポールを演じるドン・チードルがとても良い。
ポールは、何も大きな使命感に駆り立てられて英雄的な行為をする訳ではない。
民兵に連行される隣人を見捨てるなど、むしろ何処にでもいるヘタレだ。
しかしこの眉毛の下がった気の弱そうな男が、迫り来る死の影にビビリながらも、父として夫として、そして誇り高きホテルマンとして誠実に行動した結果、1200人もの命が救われた。
彼は何か特別な事をしたわけでなく、人間として自分の立場で当たり前のことを当たり前に実行しただけ。
ただ戦争という当たり前でない時に、それを実行できるかどうかは、やはりその人の心の本質的な強さだろう。
そう言えばずっと前に何かで読んだんだが、オスカー・シンドラーや杉原千畝の様に、戦時下自らの危険を顧みず人を助けた人には、幼少期に周囲の愛に満ちた生活を送ったと言う共通項があるそうだ。
逆にヒトラーの様な独裁者達は愛に飢えた幼少期を過ごした人が多いとも・・・。
勿論それだけでは無いだろうが、やはり人間最後の希望は愛か。
さて付け合せだが、面白かったのが、登場人物がみんな極限状態にも関わらずしょっちゅう酒飲んでる事。
まあ飲まなきゃやってられねえって事なのかもしれないが、物語的にも酒が「命の水」という扱いで生かされているし、実に美味そうだった。
と言うわけで、劇中の物とは違うが、私のお勧めベルギービールの「ヒューガルテンホワイト」を。
フルーティかつライトな飲み口で映画を観て余韻に浸るのにはぴったり。
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運動を展開した「『ホテル・ルワンダ』日本公開を求める会」、そして彼らに答えた配給会社には、深くお礼を申し上げたい。
これほどの作品が「商売にならなそうだから」なんて理由で未公開に終わったら、そら恥ですわ。
(もちろんこの作品の興行が困難なのは理解しているが)
アメリカでも僅か7館から公開が始まって、口コミで話題を呼び最終的に800館を越える劇場で公開された。
日本でも公開中のシアターNは連日満員だという。
いや映画ファンも捨てたもんじゃないね。
1994年。
嘗ての支配民族で少数派ツチ族と、多数派フツ族の内戦が続くアフリカ、ルワンダ。
ベルギー系四つ星ホテル「ミル・コリン」の支配人でフツ族のポール・ルセサバギナは、そんな状況に不安を感じつつも、ツチ族の妻と二人の子供と幸せな生活を送っていた。
しかし和平協定が結ばれるはずの日、フツ族の大統領機が撃墜された事をきっかけに、フツ族民兵によるツチ族市民の無差別虐殺が始まる。
ポールは妻子をミル・コリンに避難させるが、ホテルには市内各地から助けを求めるツチ族の避難民が押し寄せてくる。
その数1200人。
混迷を極める現地情勢に、国連軍も旧宗主国のベルギー軍も去った。
ホテルを守るのは、それまでに培った四っ星ホテルの品格と、ポールの機転だけ・・・・
わずか10年ほど前に、中部アフリカのルワンダで起こった大虐殺を題材にした大変な労作だ。
映画は一軒のホテルと一人の男を中心に、極限状態の100日間を一気に見せる。
物語は終始主人公のポールを中心に描かれ、突然生活の全てを破壊される事態に直面し、それでも自分自身に誠実であろうとする彼の心の軌跡を追って行く。
単に硬派なだけの戦争ドラマではなく、物語はポールとミル・コリン・ホテルに降りかかる絶体絶命の危機また危機を、いかに乗り越えるのかという構造を持っているので、話としても十分面白い。
観客を全く飽きさせず、同時に伝えるべき物は伝えるという脚本は見事な仕上がりだ。
あえて言えば、非常に限定された場所から描いているので、犠牲者80万とも100万もと言われるルワンダ虐殺の全体像が見えにくい、という事はいえるかもしれない。
が、私も昔興味を持って調べた事があるけど、映画の背景となるツチ族とフツ族の対立は、周辺国や植民地時代からの様々な要素が絡み合って非常に複雑で、一般の観客にリアリティをもってアフリカの紛争を感じ取ってもらうには、この様にパーソナルな視点からアプローチするのが正解だったと思う。
実際、映画を観た事で、アフリカの現実に興味を持つ人は沢山いるはず、というかこれ観て無関心のままだったらヤバイでしょ、人として。
この映画を観た観客に、「もっと知りたい」と思わせた時点で映画の目的は達成されてると思う。
そこから先は観た人個々の問題な訳だし。
テリー・ジョージ監督は、北アイルランド紛争に材をとったジム・シェリダン監督の「父の祈りを」の脚本家として知られる人物だが、自身も北アイルランド紛争に絡んで拘留された事があるそうだ。
そういう体験のせいか、視点は常に冷静で現象を少し引いた目線で見つめ、イデオロギーは勿論キャラクターに過度に感情移入するのも極力避けている。
ごくごく平凡なポールは、我々がルワンダの現実をリアルにイメージするための目だ。
その意味でこの映画は、アフリカを舞台に暗躍する武器商人を描いた「ロード・オブ・ウォー」と共通する手法で描かれている。
ただ目になる人物がずっと我々に近い普通の男だけに、観客としてはずっとリアルに感情移入できるのだが。
だが、虐殺される市民「ホテルルワンダ」と武器商人「ロード・オブ・ウォー」という、アフリカの紛争を全く逆の立場から描いた2本の映画が、ほぼ同じ時期に作られた事はある意味歴史的必然だろう。
ルワンダでは94年以降、民族和解の努力が続けられているが、アフリカ(だけではないが)各地では今も戦火が続いているのだ。
今、この瞬間にも無数のポール・ルセサバギナが世界に向けて助けを求め、同時にユーリー・オルロフが銃を売りまくっているはずだ。
是非この2本はセットで観て何かを感じ、考えて欲しい物だ。
殆ど出ずっぱりで主人公ポールを演じるドン・チードルがとても良い。
ポールは、何も大きな使命感に駆り立てられて英雄的な行為をする訳ではない。
民兵に連行される隣人を見捨てるなど、むしろ何処にでもいるヘタレだ。
しかしこの眉毛の下がった気の弱そうな男が、迫り来る死の影にビビリながらも、父として夫として、そして誇り高きホテルマンとして誠実に行動した結果、1200人もの命が救われた。
彼は何か特別な事をしたわけでなく、人間として自分の立場で当たり前のことを当たり前に実行しただけ。
ただ戦争という当たり前でない時に、それを実行できるかどうかは、やはりその人の心の本質的な強さだろう。
そう言えばずっと前に何かで読んだんだが、オスカー・シンドラーや杉原千畝の様に、戦時下自らの危険を顧みず人を助けた人には、幼少期に周囲の愛に満ちた生活を送ったと言う共通項があるそうだ。
逆にヒトラーの様な独裁者達は愛に飢えた幼少期を過ごした人が多いとも・・・。
勿論それだけでは無いだろうが、やはり人間最後の希望は愛か。
さて付け合せだが、面白かったのが、登場人物がみんな極限状態にも関わらずしょっちゅう酒飲んでる事。
まあ飲まなきゃやってられねえって事なのかもしれないが、物語的にも酒が「命の水」という扱いで生かされているし、実に美味そうだった。
と言うわけで、劇中の物とは違うが、私のお勧めベルギービールの「ヒューガルテンホワイト」を。
フルーティかつライトな飲み口で映画を観て余韻に浸るのにはぴったり。

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2006年01月23日 (月) | 編集 |
「ボーン・アイデンティティ」+「ローズ家の戦争」+「女と男の名誉」÷3=「Mr.&Mrs.スミス」
ホリデーシーズンに相応しい、よく出来たハリウッド映画。
カップル、家族、友達、誰を誘って観に行っても不満は出ないだろう。
逆に映画から人生へ深い啓示を求める向きは、間違っても行ってはいけない・・・と思ったが、これは「結婚」というテーマにおいて、そっち方面にもある程度答えてるかな?
結婚5年目を迎えるスミス夫妻はそろそろ倦怠期。
他の多くのカップル同様にカウンセラーにも通ってる。
しかし、彼らには人とは違った秘密があった。
Mr.&Mrs.スミスは共に超一流の殺し屋。
しかもお互いにその事を知らない。
ある時、二人の属する別々の組織が同じターゲットをダブルブッキングしてしまった事から、今度は組織の秘密を守るためにお互いをターゲットにする事になってしまう・・・
まああれだ、私は未婚なんで幸か不幸かよく知らないけど、要するに倦怠期の夫婦喧嘩の極端なやつだ。
いままで何となく引っかかりを感じつつも、継続してきた結婚生活。
一つの小さな(?)秘密がばれた事をきっかけに、一気に爆発。
そんで「雨降って地固まる」が如くより強い絆が生まれるって事ね。
ブラッド・ピットは格好良いし、アンジェリーナ・ジョリーはセクシーかつ可愛い。
スパイアクションの快作「ボーン・アイデンティティ」のダグ・リーマン監督の演出は快調そのもの。
あえて言えば二人の間で決着がついた後、クライマックスまでの流れが少し悪い。
二人の対決が組織の陰謀だったとかの、サスペンス風の裏ネタは要らなかったんじゃないかな。
特にドラマ上生きてるとも思えないし。
ドラマ的なクライマックスは二人の和解で終わってるんだから、そこから最後の大バトルまでは一気に持っていった方が良かったと思う。
話のプロセスが進むごとに、挟み込まれる結婚カウンセリングのシーンが可笑しい。
バカバカしい漫画みたいな話に、ちょっとしたアクセントとリアリティを加えてる。
物語の起承転結はあくまでも夫婦の結婚クライシスに持ってきて、バックグラウンドのストーリーにはラストすら明示しないのも観客の想像力を刺激する。
「ボーン・アイデンティティ」でも思ったが、この監督センスが良い。
かなり楽しんだので、付け合せはブラピの言うところの「祝いの酒」シャンパンを。
とは言ってもシャンパーニュの正式なシャンパンではなくスペイン産のスパークリングワイン、「ロジャーグラート」の「カヴァ プリュット」をお勧めしたい。
コストパフォーマンスを考えればヘタなシャンパーニュブランドよりずっと呑み応えアリ。
倦怠期の夫婦も満足できるでしょう(笑
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ロジャーグラート カヴァ ロゼ ブリュット \1750
ホリデーシーズンに相応しい、よく出来たハリウッド映画。
カップル、家族、友達、誰を誘って観に行っても不満は出ないだろう。
逆に映画から人生へ深い啓示を求める向きは、間違っても行ってはいけない・・・と思ったが、これは「結婚」というテーマにおいて、そっち方面にもある程度答えてるかな?
結婚5年目を迎えるスミス夫妻はそろそろ倦怠期。
他の多くのカップル同様にカウンセラーにも通ってる。
しかし、彼らには人とは違った秘密があった。
Mr.&Mrs.スミスは共に超一流の殺し屋。
しかもお互いにその事を知らない。
ある時、二人の属する別々の組織が同じターゲットをダブルブッキングしてしまった事から、今度は組織の秘密を守るためにお互いをターゲットにする事になってしまう・・・
まああれだ、私は未婚なんで幸か不幸かよく知らないけど、要するに倦怠期の夫婦喧嘩の極端なやつだ。
いままで何となく引っかかりを感じつつも、継続してきた結婚生活。
一つの小さな(?)秘密がばれた事をきっかけに、一気に爆発。
そんで「雨降って地固まる」が如くより強い絆が生まれるって事ね。
ブラッド・ピットは格好良いし、アンジェリーナ・ジョリーはセクシーかつ可愛い。
スパイアクションの快作「ボーン・アイデンティティ」のダグ・リーマン監督の演出は快調そのもの。
あえて言えば二人の間で決着がついた後、クライマックスまでの流れが少し悪い。
二人の対決が組織の陰謀だったとかの、サスペンス風の裏ネタは要らなかったんじゃないかな。
特にドラマ上生きてるとも思えないし。
ドラマ的なクライマックスは二人の和解で終わってるんだから、そこから最後の大バトルまでは一気に持っていった方が良かったと思う。
話のプロセスが進むごとに、挟み込まれる結婚カウンセリングのシーンが可笑しい。
バカバカしい漫画みたいな話に、ちょっとしたアクセントとリアリティを加えてる。
物語の起承転結はあくまでも夫婦の結婚クライシスに持ってきて、バックグラウンドのストーリーにはラストすら明示しないのも観客の想像力を刺激する。
「ボーン・アイデンティティ」でも思ったが、この監督センスが良い。
かなり楽しんだので、付け合せはブラピの言うところの「祝いの酒」シャンパンを。
とは言ってもシャンパーニュの正式なシャンパンではなくスペイン産のスパークリングワイン、「ロジャーグラート」の「カヴァ プリュット」をお勧めしたい。
コストパフォーマンスを考えればヘタなシャンパーニュブランドよりずっと呑み応えアリ。
倦怠期の夫婦も満足できるでしょう(笑

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2006年01月20日 (金) | 編集 |
新しい年になったので、何か新しい事を書きたいと思い、「自分史の中の映画」というカテゴリを作った。
子供の頃、映画という物に出会ってから早や30年。
多分劇場だけで1000本は観てると思うけど、その中で私的に重要なウェイトを占めている映画を取り上げてみたい。
このブログでも何度か韓国映画やドラマを取り上げてきたが、実は私は結構年季の入った韓国映画ウォッチャーだったりする。
今でこそ、毎月の様に新作を劇場やDVDで観る事が出来るが、日本で最初に韓国映画がロードショーされたのが何時かご存知だろうか。
私の知る限りでは、映画祭などの限定的な上映を除けば、1988年にイ・ギュヒョン監督の「青春スケッチ」とぺ・チャンホ監督の「鯨とり~コレサニャン~」の2本立てが、殆んど単館扱いの小さな規模でロードショーされたのが最初だ。
公開したのは、朴炳陽氏のアジア映画社。
当時の韓国は軍事独裁が終わり民主化宣言が出された直後。
オリンピック開催などで徐々にその社会が世界に知られるようになって来た頃だ。
映画学科の学生だった私は、激動の国から来た映画にいたく興味をそそられた。
「青春スケッチ」(原題:ミミとチョルスの青春スケッチ)は、当時韓国を代表するスターとなりつつあったカン・スヨン主演の、まあ所謂アイドル映画だ。
ジャーナリスト志望の学生チョルスが、英文科の女子学生のミミに恋をする。
チョルスの友人の「宝島」という変人も加わって、若者たちの恋と将来への葛藤が描かれる明るく楽しい青春映画。
カン・スヨンは確かにとても可愛くて演技も上手かったが、後に「シバジ」(製作はこの前年)を観た時の衝撃はまだ感じなかった。
物語自体はわりとありふれてるし、脚本や技術面ではむしろ稚拙さが目立ったというのが当時の正直な印象。
もっとも民主化宣言の頃の韓国社会の前向きな明るさというか、時代の空気の様なものは感じられるんだけどね。
驚いたのは「鯨とり~コレサニャン~」だ。
当時韓国の俊英と言われたペ・チャンホ監督によるロードムービー。
正真正銘の傑作だった。
私が以降ずっと韓国映画を観続けているのは、この作品の好印象によると言ってもいい。
主人公は内気な大学生ピョンテ(キム・スチョル)と、ひょんな事から彼と友達になったホームレスの「親分」(アン・ソンギ)。
そして口のきけない娼婦のチュンジャ(イ・ミスク)。
ピョンテと「親分」は悪徳売春宿からチュンジャを救い出し、一路彼女の故郷であるトンヘ(日本海)の村を目指すのだ。
「青春スケッチ」同様に、脚本のディテールや、編集、撮影技術などは、当時の日本映画と比べても稚拙さが目立つ。
しかしこの作品には、それらを補って余りある品格と人間愛、そして何よりも作り手が語りたい「物語」があるのだ。
タイトルの「鯨とり」とは、私は聴いた事が無いが、放送禁止となった唄のタイトルから来ているそうだ。
大学生ピョンテにとっては「鯨」とは何か大きな物、掴み取りたい物。
しかし長い旅の終わりに、最終的にたどり着く彼の「鯨」は無償の愛である。
「鯨とり」の製作された1984年は、民主化闘争が大きな盛り上がりを見せる少し前の時代だ。
映画の内容は一見時代性とは関係ない様だが、無気力に生きるピョンテが、チュンジャの自由を取り戻し、自分自身の心に確固たる自我を築く物語が、同時代の人々に無感動に受け取られる訳は無い。
私はここに、長い長い独裁と言論封殺下に生きる映画人たちの気骨を観た。
キム・スチョルとイ・ミスクも好演してるが、二人を精神的に導く「親分」アン・ソンギが素晴らしい。
この希代の名優は以来ずっと私のフェイバリットコリアンアクターなのだ。
80年代の民主化以降、急速に世界に開かれた韓国映画は、まるで砂漠に水か沁み込むかの様に、急激に映像技術を吸収し、表現技法を洗練させた。
私は海外映画祭などで毎年の様に多くの韓国映画を観てきたが、ここ15年間の技術的な洗練と表現の多様化はまさに爆発的だった。
日本での韓流ブームはある日突然やってきたような印象があるが、その背景には80年代から、地道に韓国映画を紹介してきた朴炳陽氏やシネカノンの李鳳宇氏の様なディストリビューターの努力、そして何よりも韓国映画自体の多様化がある。
産業化が急速に進み、製作本数公開本数共に増えた結果、玉石混合になりつつあるが、それはやむを得ないだろう。
日本における韓流の元祖ともいうべきこの二本は、残念ながらビデオ、DVD共に絶版になってしまっているが、一部のレンタルビデオ店にはまだ当時のビデオが残っている所もある様なので、機会があれば是非ご覧あれ。
特に「鯨とり」ね。
「鯨とり」以降、韓流以前、いくつもの傑作を観てきたが、それはまた別の機会に紹介したい。
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子供の頃、映画という物に出会ってから早や30年。
多分劇場だけで1000本は観てると思うけど、その中で私的に重要なウェイトを占めている映画を取り上げてみたい。
このブログでも何度か韓国映画やドラマを取り上げてきたが、実は私は結構年季の入った韓国映画ウォッチャーだったりする。
今でこそ、毎月の様に新作を劇場やDVDで観る事が出来るが、日本で最初に韓国映画がロードショーされたのが何時かご存知だろうか。
私の知る限りでは、映画祭などの限定的な上映を除けば、1988年にイ・ギュヒョン監督の「青春スケッチ」とぺ・チャンホ監督の「鯨とり~コレサニャン~」の2本立てが、殆んど単館扱いの小さな規模でロードショーされたのが最初だ。
公開したのは、朴炳陽氏のアジア映画社。
当時の韓国は軍事独裁が終わり民主化宣言が出された直後。
オリンピック開催などで徐々にその社会が世界に知られるようになって来た頃だ。
映画学科の学生だった私は、激動の国から来た映画にいたく興味をそそられた。
「青春スケッチ」(原題:ミミとチョルスの青春スケッチ)は、当時韓国を代表するスターとなりつつあったカン・スヨン主演の、まあ所謂アイドル映画だ。
ジャーナリスト志望の学生チョルスが、英文科の女子学生のミミに恋をする。
チョルスの友人の「宝島」という変人も加わって、若者たちの恋と将来への葛藤が描かれる明るく楽しい青春映画。
カン・スヨンは確かにとても可愛くて演技も上手かったが、後に「シバジ」(製作はこの前年)を観た時の衝撃はまだ感じなかった。
物語自体はわりとありふれてるし、脚本や技術面ではむしろ稚拙さが目立ったというのが当時の正直な印象。
もっとも民主化宣言の頃の韓国社会の前向きな明るさというか、時代の空気の様なものは感じられるんだけどね。
驚いたのは「鯨とり~コレサニャン~」だ。
当時韓国の俊英と言われたペ・チャンホ監督によるロードムービー。
正真正銘の傑作だった。
私が以降ずっと韓国映画を観続けているのは、この作品の好印象によると言ってもいい。
主人公は内気な大学生ピョンテ(キム・スチョル)と、ひょんな事から彼と友達になったホームレスの「親分」(アン・ソンギ)。
そして口のきけない娼婦のチュンジャ(イ・ミスク)。
ピョンテと「親分」は悪徳売春宿からチュンジャを救い出し、一路彼女の故郷であるトンヘ(日本海)の村を目指すのだ。
「青春スケッチ」同様に、脚本のディテールや、編集、撮影技術などは、当時の日本映画と比べても稚拙さが目立つ。
しかしこの作品には、それらを補って余りある品格と人間愛、そして何よりも作り手が語りたい「物語」があるのだ。
タイトルの「鯨とり」とは、私は聴いた事が無いが、放送禁止となった唄のタイトルから来ているそうだ。
大学生ピョンテにとっては「鯨」とは何か大きな物、掴み取りたい物。
しかし長い旅の終わりに、最終的にたどり着く彼の「鯨」は無償の愛である。
「鯨とり」の製作された1984年は、民主化闘争が大きな盛り上がりを見せる少し前の時代だ。
映画の内容は一見時代性とは関係ない様だが、無気力に生きるピョンテが、チュンジャの自由を取り戻し、自分自身の心に確固たる自我を築く物語が、同時代の人々に無感動に受け取られる訳は無い。
私はここに、長い長い独裁と言論封殺下に生きる映画人たちの気骨を観た。
キム・スチョルとイ・ミスクも好演してるが、二人を精神的に導く「親分」アン・ソンギが素晴らしい。
この希代の名優は以来ずっと私のフェイバリットコリアンアクターなのだ。
80年代の民主化以降、急速に世界に開かれた韓国映画は、まるで砂漠に水か沁み込むかの様に、急激に映像技術を吸収し、表現技法を洗練させた。
私は海外映画祭などで毎年の様に多くの韓国映画を観てきたが、ここ15年間の技術的な洗練と表現の多様化はまさに爆発的だった。
日本での韓流ブームはある日突然やってきたような印象があるが、その背景には80年代から、地道に韓国映画を紹介してきた朴炳陽氏やシネカノンの李鳳宇氏の様なディストリビューターの努力、そして何よりも韓国映画自体の多様化がある。
産業化が急速に進み、製作本数公開本数共に増えた結果、玉石混合になりつつあるが、それはやむを得ないだろう。
日本における韓流の元祖ともいうべきこの二本は、残念ながらビデオ、DVD共に絶版になってしまっているが、一部のレンタルビデオ店にはまだ当時のビデオが残っている所もある様なので、機会があれば是非ご覧あれ。
特に「鯨とり」ね。
「鯨とり」以降、韓流以前、いくつもの傑作を観てきたが、それはまた別の機会に紹介したい。

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2006年01月16日 (月) | 編集 |
ハリウッド版「呪怨」で、全米No.1を成し遂げた清水崇監督の輪廻転生をテーマとしたホラー映画。
ちなみに「呪怨」の時に、マスコミがやたらと「日本人初全米No.1」を連呼してたが、日本人初の全米1位は1999年に全米興収8600万ドルを記録した「ポケモン」の湯山邦彦監督であって、清水崇は「実写初」である。
キッズアニメだからって無かった事にしないよ~に。
注:以下の文章はある程度ネタバレを含みます
観ながら何度かデジャヴを感じてしまった。
いや、別にタイトルが「輪廻」だからではない。
撮影所のホラーは中田秀夫監督の「女優霊」だし、山の中のホテルの怪談は「シャイニング」を思わせる。(ホテルの色彩デザイン一緒だし)
他にも、この映画にはジョージ・A・ロメロから韓国映画まで、過去のホラーのモチーフがちりばめられている。
もちろん単純にパクってる訳じゃないので、悪いことではない。
過去のホラーへのオマージュと映画的再生も含めての「輪廻」だとしたらそれはそれで面白い。
実は私は、清水崇という作家をあんまり高く評価してなかった。
確かに最初のビデオ版「呪怨」は、不条理ホラーという新しい流れを作りだした力作だった。
だが、その後の「呪怨」シリーズの連発は、ビジネス的な要求があったとしてもいい加減飽きた。
結局のところ、呪いが不条理に拡散してゆく話だから、明確なオチがつく訳でもなく、毎回毎回同じ事が繰り返されるだけで、怖がらせの手口も客に読まれる様になってしまっていた。
まあ多分清水監督自身もそろそろ飽きていたのだろう、「輪廻」は不条理からある程度離れて、クラッシクなゴーストストーリーの趣を見せる。
35年前に、あるホテルで起こった大量殺人事件を描く映画が作られる事となり、新人女優の渚(優香)が主役に抜擢される。
しかし、映画の準備が進むにつれて、渚は自らが演じる被害者の少女の幻影に悩まされるようになる。
同じ頃、やはり事件に関連した夢を見ていた女子大生の弥生(香里奈)は、事件被害者の生まれ変わりだという由香の協力を得て、自分と事件の関わりを探り始める。
やがて撮影が始まると、渚の心はホテルのセットと35年前の世界を行き来するようになる。
一体35年前の事件と渚、弥生らはどんな関わりがあるのか・・・
要するに、過去の殺人事件の被害者たちの霊が、自分たちの転生者を使って事件を再現し、犯人の転生者に復讐するという話なんだが、この構造自体は、話の流れに乗ってわりと早く解明されてしまう。
で、興味としては「誰」が「誰」の転生者なのかという事になる。
一体犯人役は誰なのか?
渚や弥生の運命は?
この当たりの見せ方は流石に上手い。
私もかなり終わりの方まで騙された。
ただ、正直言って最後のほうは面白がりつつも混乱してしまった。
復讐しようとしてるのは被害者の霊なのに、生まれ変わりもいるって事は、霊と魂は別の物??とか、転生者の中にはえらく年寄りなのもいて、もしかしてのり移られてるだけ??とか、気にしだすと全部が気になってしまう。
結局お前ら被害者加害者の何なのさ????と考え込んでしまった。
お話は不条理から離れたが、今度は設定が不条理なのだ。
例によってその辺の細かい説明はないから、何となく想像するしかないのだが、なまじちゃんとしたストーリーがあるだけに、妙な消化不良感が残ってしまう。
このあたりは脚本でもきちんと整理されてないのではないか。
何となく、勢いと「呪怨」で培った不条理パワーで誤魔化された様に感じてしまうのが残念。
ま、そこに行くまでのプロセスは十分怖いし面白いんだけど。
ちなみにこの映画で感じたデジャヴの中で、作品に最も影響を与えたと思われるのは、ジェームス・ディアディン監督が、思春期の少女の心理をテーマにした異色のオカルトホラー「コールドルーム」だ。
こちらは現在のベルリンと第二次世界大戦下のベルリンを結んだ悲恋テイストの物語で、話的には全然別だが、主人公が過去と現在を行き来する映像表現などがそっくり。
なかなかの作品なので、機会があれば是非ご覧あれ。
さて今回の付け合せはカリフォルニアの至高のワイン、「ファー・ニエンテ」のデザートワイン、ドルチェを。
なんでかというと、ファー・ニエンテというブランドは19世紀に生まれ一時途絶え、20世紀半ばに転生を果たしたという歴史があるのだ。
元のファー・ニエンテがどの様な味だったのかは知る由も無いが、少なくとも映画の霊と違って素晴らしい転生を果たしている。
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![【ドルチェ ~ファー ニエンテ~】 [2001]アメリカ大陸究極の甘口高級デザートワイン狂信的ファ...](http://image.rakuten.co.jp/wshop/data/ws-mall-img/cwa/img64/img10411854631.jpeg)
【Dolce ~Far Niente~ 】 [2001] \10900
ちなみに「呪怨」の時に、マスコミがやたらと「日本人初全米No.1」を連呼してたが、日本人初の全米1位は1999年に全米興収8600万ドルを記録した「ポケモン」の湯山邦彦監督であって、清水崇は「実写初」である。
キッズアニメだからって無かった事にしないよ~に。
注:以下の文章はある程度ネタバレを含みます
観ながら何度かデジャヴを感じてしまった。
いや、別にタイトルが「輪廻」だからではない。
撮影所のホラーは中田秀夫監督の「女優霊」だし、山の中のホテルの怪談は「シャイニング」を思わせる。(ホテルの色彩デザイン一緒だし)
他にも、この映画にはジョージ・A・ロメロから韓国映画まで、過去のホラーのモチーフがちりばめられている。
もちろん単純にパクってる訳じゃないので、悪いことではない。
過去のホラーへのオマージュと映画的再生も含めての「輪廻」だとしたらそれはそれで面白い。
実は私は、清水崇という作家をあんまり高く評価してなかった。
確かに最初のビデオ版「呪怨」は、不条理ホラーという新しい流れを作りだした力作だった。
だが、その後の「呪怨」シリーズの連発は、ビジネス的な要求があったとしてもいい加減飽きた。
結局のところ、呪いが不条理に拡散してゆく話だから、明確なオチがつく訳でもなく、毎回毎回同じ事が繰り返されるだけで、怖がらせの手口も客に読まれる様になってしまっていた。
まあ多分清水監督自身もそろそろ飽きていたのだろう、「輪廻」は不条理からある程度離れて、クラッシクなゴーストストーリーの趣を見せる。
35年前に、あるホテルで起こった大量殺人事件を描く映画が作られる事となり、新人女優の渚(優香)が主役に抜擢される。
しかし、映画の準備が進むにつれて、渚は自らが演じる被害者の少女の幻影に悩まされるようになる。
同じ頃、やはり事件に関連した夢を見ていた女子大生の弥生(香里奈)は、事件被害者の生まれ変わりだという由香の協力を得て、自分と事件の関わりを探り始める。
やがて撮影が始まると、渚の心はホテルのセットと35年前の世界を行き来するようになる。
一体35年前の事件と渚、弥生らはどんな関わりがあるのか・・・
要するに、過去の殺人事件の被害者たちの霊が、自分たちの転生者を使って事件を再現し、犯人の転生者に復讐するという話なんだが、この構造自体は、話の流れに乗ってわりと早く解明されてしまう。
で、興味としては「誰」が「誰」の転生者なのかという事になる。
一体犯人役は誰なのか?
渚や弥生の運命は?
この当たりの見せ方は流石に上手い。
私もかなり終わりの方まで騙された。
ただ、正直言って最後のほうは面白がりつつも混乱してしまった。
復讐しようとしてるのは被害者の霊なのに、生まれ変わりもいるって事は、霊と魂は別の物??とか、転生者の中にはえらく年寄りなのもいて、もしかしてのり移られてるだけ??とか、気にしだすと全部が気になってしまう。
結局お前ら被害者加害者の何なのさ????と考え込んでしまった。
お話は不条理から離れたが、今度は設定が不条理なのだ。
例によってその辺の細かい説明はないから、何となく想像するしかないのだが、なまじちゃんとしたストーリーがあるだけに、妙な消化不良感が残ってしまう。
このあたりは脚本でもきちんと整理されてないのではないか。
何となく、勢いと「呪怨」で培った不条理パワーで誤魔化された様に感じてしまうのが残念。
ま、そこに行くまでのプロセスは十分怖いし面白いんだけど。
ちなみにこの映画で感じたデジャヴの中で、作品に最も影響を与えたと思われるのは、ジェームス・ディアディン監督が、思春期の少女の心理をテーマにした異色のオカルトホラー「コールドルーム」だ。
こちらは現在のベルリンと第二次世界大戦下のベルリンを結んだ悲恋テイストの物語で、話的には全然別だが、主人公が過去と現在を行き来する映像表現などがそっくり。
なかなかの作品なので、機会があれば是非ご覧あれ。
さて今回の付け合せはカリフォルニアの至高のワイン、「ファー・ニエンテ」のデザートワイン、ドルチェを。
なんでかというと、ファー・ニエンテというブランドは19世紀に生まれ一時途絶え、20世紀半ばに転生を果たしたという歴史があるのだ。
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2006年01月12日 (木) | 編集 |
新年から観た映画が2本続けて戦争物。
いやドラマの「里見八犬伝」も戦の話だから、三連チャンか。
つくづく人間てのは戦う事が好きなんだねえ。
もっとも、実在の武器商人たちの物語をベースに、「ガタカ」の監督、また「ターミナル」の脚本家としても知られるアンドリュー・ニコルが描き出した「ロード・オブ・ウォー」は、「戦」をある種のファンタジーとして描いた国産2本よりも遥かに鮮烈かつ現実的だ。
NY、リトルオデッサに住むウクライナ移民の子、ユーリー・オルロフは、明日の見えない暮らしに嫌気が差し、弟を誘って武器の取引を始める。
はじめは街のギャングたちを相手に自動小銃を売りさばく程度だったが、やがて海外の紛争地域に違法に武器を流す様になる。
そしてソ連崩壊によって、故国ウクライナから流出した大量の武器を押さえたオルロフは、一気に世界のトップクラスの武器商人に成り上がって行くのだった。
巨万の富を築き、愛さえも捏造した演出で買ったオルロフだったが、やがて弟は良心の呵責から心を病み、違法取引を繰り返すオルロフ自身にも捜査の手が伸びる・・・
オープニングのタイトルバックは、ロシアで作られた一発の弾丸が、やがてアフリカの戦場で一人の少年兵の命を奪うまでをワンカットで描く。
戦場とは孤立して存在するのではなく、否応無く世界中と繋がっているのだという事を、リアルに観客に認識させる秀逸なシーンだ。
ニコラス・ケイジが良い。
正直言ってキャラのパターンがいつも同じで、あまり好きなタイプの役者ではないのだけど、この超ビジネスマンははまり役だ。
彼は悪びれもせず、法の目を掻い潜り、銃を、弾丸を、戦車を、戦闘ヘリを、顧客を選ばず売りまくる。
そこに倫理はない。
劇中の台詞でもあるが、究極的には「金でもない」のだろう。
あるのはただ、需要と供給というビジネスの理論だけ。
ユーリー・オルロフのような男にとっては、このビジネスを成立させて運営させている事が、自分の存在理由なのだ。
そして、自己の存在価値を見出した男は実に魅力的だ。
観客は驚く。
この平和の破壊者たる男のサクセスに感情移入し、取引成功に喜び、逮捕を免れて安堵し、恋の成就にエールを送っている自分に。
その背後に無数の死があったとしても、彼は殺してない、彼は売っただけだから。
違法合法を問わず、現実に起こっている戦争で使われている武器の殆んどは5大国のエンジニアによって作られ、政治家によって認可され、ビジネスマンによって顧客まで運ばれる。
現実に殺しあうステージに行くまでには、どこにでもいる先進国の普通の市民が戦争の遂行に力を貸しているのだ。
血で血を洗う殺戮は、戦争のほんの一部に過ぎない。
この映画が白眉なのは、自分たちの平和な社会が、実は戦争を作り出している張本人であるという事を描き出した事だ。
よく現在のアメリカで作った物だと思っていたが、やはり資本はアメリカでは調達できなかったようだ。
完成して公開できただけでも大した物だが。
大変な力作だが、しかし、この映画はユーリー・オルロフの内面には切り込んでいかない。
観客は最後まで、このユニークで魅力的なビジネスマンに興味を抱きつつも、その心を覗く事が出来ない。
アンドリュー・ニコルはインタビューの中で「武器商人たちはとても魅力的で、彼らを好きにならないように気をつけなければならなかった」という趣旨の事を語っている。
その言葉どおり、作者の視点は武器商人の内面に深く切り込むよりは、淡々と彼らが行う事象とその結果の描写に向いている。
オルロフのキャラクターの造形も、複数の武器商人を組み合わせた物だろう。
ユーリー・オルロフは私たちがこの世界の現実を垣間見るための、魅力的な「目」である。
ある意味でとても客観的かつジャーナリスティックであり、観客に「こういう事実もある」という事を知らせるには十分な内容だろう。
が、引いた視線はある種の軽さと非現実感も生みだす。
我々が凄惨な戦場のニュースを見ながら平気で晩御飯を食べられるように、この映画も観終わって5分後にはスーパーで何を買うかを考えている自分がいる。
無い物ねだりかもしれないが、もしこの映画がジャーナリスティックな視点を保ちつつ、もう一段ユーリー・オルロフの内面をえぐって見せてくれたら、さらに力のある映画になったと思うのだ。
その点だけがちょっと残念だ。
こんな現実は酒を飲んで忘れたくなるが、決して忘れてはいけない。
今日は登場人物がグビグビやってるウォッカベースのカクテル「コザック」を。
ウォッカとブランデー、ライムサイダーを3:2:1の比率で。
最後にシロップを少々。
ちなみにコザックとは帝政ロシア軍最精強の騎兵隊の事・・・・
人間てやつは・・・・
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いやドラマの「里見八犬伝」も戦の話だから、三連チャンか。
つくづく人間てのは戦う事が好きなんだねえ。
もっとも、実在の武器商人たちの物語をベースに、「ガタカ」の監督、また「ターミナル」の脚本家としても知られるアンドリュー・ニコルが描き出した「ロード・オブ・ウォー」は、「戦」をある種のファンタジーとして描いた国産2本よりも遥かに鮮烈かつ現実的だ。
NY、リトルオデッサに住むウクライナ移民の子、ユーリー・オルロフは、明日の見えない暮らしに嫌気が差し、弟を誘って武器の取引を始める。
はじめは街のギャングたちを相手に自動小銃を売りさばく程度だったが、やがて海外の紛争地域に違法に武器を流す様になる。
そしてソ連崩壊によって、故国ウクライナから流出した大量の武器を押さえたオルロフは、一気に世界のトップクラスの武器商人に成り上がって行くのだった。
巨万の富を築き、愛さえも捏造した演出で買ったオルロフだったが、やがて弟は良心の呵責から心を病み、違法取引を繰り返すオルロフ自身にも捜査の手が伸びる・・・
オープニングのタイトルバックは、ロシアで作られた一発の弾丸が、やがてアフリカの戦場で一人の少年兵の命を奪うまでをワンカットで描く。
戦場とは孤立して存在するのではなく、否応無く世界中と繋がっているのだという事を、リアルに観客に認識させる秀逸なシーンだ。
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正直言ってキャラのパターンがいつも同じで、あまり好きなタイプの役者ではないのだけど、この超ビジネスマンははまり役だ。
彼は悪びれもせず、法の目を掻い潜り、銃を、弾丸を、戦車を、戦闘ヘリを、顧客を選ばず売りまくる。
そこに倫理はない。
劇中の台詞でもあるが、究極的には「金でもない」のだろう。
あるのはただ、需要と供給というビジネスの理論だけ。
ユーリー・オルロフのような男にとっては、このビジネスを成立させて運営させている事が、自分の存在理由なのだ。
そして、自己の存在価値を見出した男は実に魅力的だ。
観客は驚く。
この平和の破壊者たる男のサクセスに感情移入し、取引成功に喜び、逮捕を免れて安堵し、恋の成就にエールを送っている自分に。
その背後に無数の死があったとしても、彼は殺してない、彼は売っただけだから。
違法合法を問わず、現実に起こっている戦争で使われている武器の殆んどは5大国のエンジニアによって作られ、政治家によって認可され、ビジネスマンによって顧客まで運ばれる。
現実に殺しあうステージに行くまでには、どこにでもいる先進国の普通の市民が戦争の遂行に力を貸しているのだ。
血で血を洗う殺戮は、戦争のほんの一部に過ぎない。
この映画が白眉なのは、自分たちの平和な社会が、実は戦争を作り出している張本人であるという事を描き出した事だ。
よく現在のアメリカで作った物だと思っていたが、やはり資本はアメリカでは調達できなかったようだ。
完成して公開できただけでも大した物だが。
大変な力作だが、しかし、この映画はユーリー・オルロフの内面には切り込んでいかない。
観客は最後まで、このユニークで魅力的なビジネスマンに興味を抱きつつも、その心を覗く事が出来ない。
アンドリュー・ニコルはインタビューの中で「武器商人たちはとても魅力的で、彼らを好きにならないように気をつけなければならなかった」という趣旨の事を語っている。
その言葉どおり、作者の視点は武器商人の内面に深く切り込むよりは、淡々と彼らが行う事象とその結果の描写に向いている。
オルロフのキャラクターの造形も、複数の武器商人を組み合わせた物だろう。
ユーリー・オルロフは私たちがこの世界の現実を垣間見るための、魅力的な「目」である。
ある意味でとても客観的かつジャーナリスティックであり、観客に「こういう事実もある」という事を知らせるには十分な内容だろう。
が、引いた視線はある種の軽さと非現実感も生みだす。
我々が凄惨な戦場のニュースを見ながら平気で晩御飯を食べられるように、この映画も観終わって5分後にはスーパーで何を買うかを考えている自分がいる。
無い物ねだりかもしれないが、もしこの映画がジャーナリスティックな視点を保ちつつ、もう一段ユーリー・オルロフの内面をえぐって見せてくれたら、さらに力のある映画になったと思うのだ。
その点だけがちょっと残念だ。
こんな現実は酒を飲んで忘れたくなるが、決して忘れてはいけない。
今日は登場人物がグビグビやってるウォッカベースのカクテル「コザック」を。
ウォッカとブランデー、ライムサイダーを3:2:1の比率で。
最後にシロップを少々。
ちなみにコザックとは帝政ロシア軍最精強の騎兵隊の事・・・・
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2006年01月08日 (日) | 編集 |
VIVA!菅野美穂!
正月に録っておいた「里見八犬伝」を今頃観た。
たぶん83年の深作欣二監督作以来の映像化。
深作版が思いっきり脚色されてるのに対して、馬琴の原作にはこっちの方が近い。
テレビドラマとしては、という括りになるが、作品自体も結構楽しめた。
テーマ的にも、戦による「不の連鎖」を持ってきているあたり、現在への主張があって好感が持てる。
「いま、会いにゆきます」の土井裕泰監督の演出は、相変わらず強い個性は無いが、手堅い。
ビジュアルは正直言って、「ロード・オブ・ザ・リング」やら「トロイ」やら観慣れた目にはかなりチープだし、やたらナレーションで説明し過ぎとか、脚本上の時間軸がおかしいとか突っ込みどころは色々あるが、テレビにしては頑張ってるという感じ。
が、ほぼ五時間という長さのおかげで、キャラクターをそれなりに描きこめていて、悪役を含めて結構面白い造形になっている。
タッキー初めとする八犬士は、馬琴の原作みたいに神童ではなく、個性豊かな若き豪傑で、このあたりは21世紀に映像化するには正解だろう。
しかし誰より素晴らしいのは、悪役玉梓を演じた菅野美穂である。
実質八犬士を一人で相手にしてるような物だが、存在感で全く負けてないどころか圧倒している。
観終わって一番心に残るのは、八犬士の活躍じゃなくて玉梓の悲しみなんだから。
テレビドラマなどではわりと普通の役を演じている事が多いが、やはりこの人の真骨頂は「異形の心」を演じている時である。
本人には心外かもしれないが、個人的には故岸田森のスピリットを受け継ぐ、日本最高の怪奇スターであると思ってる。(もちろんそれだけじゃないけどね)
彼女ほどの才能が、いまだ決定打といえる映画の代表作を持っていないのはある意味映画界の罪である。
「DOLLS」は印象的だったが、持てるポテンシャルはあんな物ではないだろう。
悪役サイドでは、日ごろから岸田森フリークを公言している、佐野史郎の怪しさ炸裂のキャラクターも中々面白かった。
日本のテレビ局にも、こういう古典文学ベースのドラマに、もっと積極的に取り組んで欲しいところだ。
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深作版「八犬伝」 これはこれで面白い。
北野武監督作品「DOLLS」いまの所これが一番印象的だった
正月に録っておいた「里見八犬伝」を今頃観た。
たぶん83年の深作欣二監督作以来の映像化。
深作版が思いっきり脚色されてるのに対して、馬琴の原作にはこっちの方が近い。
テレビドラマとしては、という括りになるが、作品自体も結構楽しめた。
テーマ的にも、戦による「不の連鎖」を持ってきているあたり、現在への主張があって好感が持てる。
「いま、会いにゆきます」の土井裕泰監督の演出は、相変わらず強い個性は無いが、手堅い。
ビジュアルは正直言って、「ロード・オブ・ザ・リング」やら「トロイ」やら観慣れた目にはかなりチープだし、やたらナレーションで説明し過ぎとか、脚本上の時間軸がおかしいとか突っ込みどころは色々あるが、テレビにしては頑張ってるという感じ。
が、ほぼ五時間という長さのおかげで、キャラクターをそれなりに描きこめていて、悪役を含めて結構面白い造形になっている。
タッキー初めとする八犬士は、馬琴の原作みたいに神童ではなく、個性豊かな若き豪傑で、このあたりは21世紀に映像化するには正解だろう。
しかし誰より素晴らしいのは、悪役玉梓を演じた菅野美穂である。
実質八犬士を一人で相手にしてるような物だが、存在感で全く負けてないどころか圧倒している。
観終わって一番心に残るのは、八犬士の活躍じゃなくて玉梓の悲しみなんだから。
テレビドラマなどではわりと普通の役を演じている事が多いが、やはりこの人の真骨頂は「異形の心」を演じている時である。
本人には心外かもしれないが、個人的には故岸田森のスピリットを受け継ぐ、日本最高の怪奇スターであると思ってる。(もちろんそれだけじゃないけどね)
彼女ほどの才能が、いまだ決定打といえる映画の代表作を持っていないのはある意味映画界の罪である。
「DOLLS」は印象的だったが、持てるポテンシャルはあんな物ではないだろう。
悪役サイドでは、日ごろから岸田森フリークを公言している、佐野史郎の怪しさ炸裂のキャラクターも中々面白かった。
日本のテレビ局にも、こういう古典文学ベースのドラマに、もっと積極的に取り組んで欲しいところだ。

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2006年01月05日 (木) | 編集 |
あけましておめでとうございます。
新年の一発目は角川春樹の起死回生の一打。
実妹の辺見じゅんのノンフィクション「男たちの大和」の映画化だ。
どうもヒットしているらしい。
大和世代からヤマト世代まで、その象徴性と悲劇的最後も相俟って、戦艦大和の物語はたぶん日本人の琴線に触れる部分があるんだろう。
正直言って、角川春樹と佐藤純彌って取り合わせは80年代で終わってる気がするし、ひたすらセンチメンタルなバカ映画なんだろうなあと思いつつ観に行った。
物語は現在から始まる。
戦後60年目の2005年。
戦艦大和の生き残りで、漁師として世捨て人の様に生きてきた神尾克己の元に、一人の女性が現れる。
彼女は大和で神尾の上官だった内田二曹の娘で、どうしても大和が沈んだ海に行きたいという。
戸惑いながらも彼女の要求を受け入れ、大和最後の海へと向かう神尾の脳裏に、昭和17年から20年にかけて、大和の中間達と共に過ごした激動の時代が蘇る・・・・
原作は未読だが、現在を基点に過去を回想するという手法は、まあ「タイタニック」と「プライベート・ライアン」をパクって・・・いや参考にしたのだろう。
映画全体も、上記二本の強い影響の元に作られているのは一目瞭然だ。
過ぎ去った60年前の過去を、現在の物語として蘇らせる。
ありきたりではあるが、映画的な文法としては正しい。
ただ本家の二本と違って、あまり成功しているとは言えない。
せっかく現在のフィルターをかけて過去を見るという文法で描いてるのに、「男たちの大和」には現在の視点が見えない。
この映画でライアン二等兵に当たる役は仲代達也なんだけど、彼自身があまりにも強烈な戦争体験のせいで、昭和20年で思考停止してしまってる設定なんで、結局映画のどこにも現在の視点はないのだ。
最後の最後で「何で60年も生かされてきたのか理由が判った」という台詞があるのだが、たった一言で片付けられてもねえ。
わたしゃ全然判らなかったよ。
仲代達也の戦後より、孤児を集めて11人も育て上げたという設定の、中村獅童演じる内田二曹の戦後の方がよほど興味深い。
設定だけで描かれてないんだけどね。(笑
本来この映画におけるテーマは「現在から眺めた大和とその時代とは」って事なんだろうけど、元々の映画の仕掛けが機能不全に陥っているので、何が言いたいのか全然判らない。
「ああ、激しく辛かったが、純粋で美しかったわが青春」という単なるセンチメンタルな泣かせ映画になってしまってるんではという予感的中。 (まあ泣ければ良いという人には良いかもしれない)
テーマが見えず、愛する者との別離と死という判りやすい泣かせのシチュエーションだけになってしまってる。
勿論それがテーマを描き出していれば、それでも良いのだが、中途半端に群像劇にしてしまってるだけに、個々を描くエピソードが断片的で弱い。
愛する者を守るため、あるいは新生日本の礎になるため、など劇中では幾つかの「死ぬ理由」が語られる。
でもねえ、正直言って無謀な戦争で死ぬしかない状況に置かれてしまったので、ヤケクソでそう思うしかなかった様にしか見えなかった。
大体映画ではあの戦争の意味も何も語られてないんだから、納得出来る死など描ける訳が無い。
登場人物達は、目の前の敵との戦いについては考え語っても、誰一人として戦争その物の意味には触れない。
「俺たちは新しい日本の礎になるために散る、それでイイではないか」とか言われても説得力無い。
右系の人に怒られるかも知れないが、私ならイヤだよ。散りたい人は勝手に散ってください。
少なくとも無能な為政者に皮肉の一つも言って散るね。
「いや、ヤケクソでもそう思うしかなかった時代だったんだ!」という意見もあるだろうが、それならはじめから現在を基点になどしなければ良かったのだ。
実際に60年前に生きた人々が、この映画に出てくるほど単純に死を受け入れた訳じゃないだろう。
彼らには「プライベート・ライアン」に描かれていたように、それぞれプライベートな戦う理由があった(又は見つけた)はずだし、もちろん中には映画の様に無理やり自分を納得させて死地へ赴いた人もいるだろう。
だが、六十年後に作られたこれは、当時の人々の個々の人生へのリスペクトというよりも、現代人の懐古趣味が勝ってしまったように思える。
劇中やたらと米軍の記録映像が出てくるのだが、この扱いのテキトーさを見ても、歴史的事実を描写する事への真摯さは全く見られない。
タイトルロールの「大和」もあまりキャラが立っているとは言えない。
でかいセットを作ったは良いけど、甲板ばっかり出てくるので、艦の全体像、若者たちを抱く「大和という存在」があまり見えない。
このあたりも「タイタニック」とのセンスの差が一目瞭然になってしまう。
全体に「男たちの大和 YAMATO」は、映画自体が時代遅れの巨大戦艦そのものだ。
映画としては破綻したB級映画だが、象徴性でなんとか持っているという感じだった。
さて、なんか正月の酔いも醒めてしまったけど、戦艦大和には日本酒の「加茂鶴」が乗っていたらしく、この映画でも乗組員が呑んでるシーンがある。
「加茂鶴」自体は広島のおいしいお酒なんでオススメ。
映画で泣けた人には勿論、泣けなかった人には口直しの一杯として良いかも。
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新幹線大爆破 佐藤純彌のこれは傑作
新年の一発目は角川春樹の起死回生の一打。
実妹の辺見じゅんのノンフィクション「男たちの大和」の映画化だ。
どうもヒットしているらしい。
大和世代からヤマト世代まで、その象徴性と悲劇的最後も相俟って、戦艦大和の物語はたぶん日本人の琴線に触れる部分があるんだろう。
正直言って、角川春樹と佐藤純彌って取り合わせは80年代で終わってる気がするし、ひたすらセンチメンタルなバカ映画なんだろうなあと思いつつ観に行った。
物語は現在から始まる。
戦後60年目の2005年。
戦艦大和の生き残りで、漁師として世捨て人の様に生きてきた神尾克己の元に、一人の女性が現れる。
彼女は大和で神尾の上官だった内田二曹の娘で、どうしても大和が沈んだ海に行きたいという。
戸惑いながらも彼女の要求を受け入れ、大和最後の海へと向かう神尾の脳裏に、昭和17年から20年にかけて、大和の中間達と共に過ごした激動の時代が蘇る・・・・
原作は未読だが、現在を基点に過去を回想するという手法は、まあ「タイタニック」と「プライベート・ライアン」を
映画全体も、上記二本の強い影響の元に作られているのは一目瞭然だ。
過ぎ去った60年前の過去を、現在の物語として蘇らせる。
ありきたりではあるが、映画的な文法としては正しい。
ただ本家の二本と違って、あまり成功しているとは言えない。
せっかく現在のフィルターをかけて過去を見るという文法で描いてるのに、「男たちの大和」には現在の視点が見えない。
この映画でライアン二等兵に当たる役は仲代達也なんだけど、彼自身があまりにも強烈な戦争体験のせいで、昭和20年で思考停止してしまってる設定なんで、結局映画のどこにも現在の視点はないのだ。
最後の最後で「何で60年も生かされてきたのか理由が判った」という台詞があるのだが、たった一言で片付けられてもねえ。
わたしゃ全然判らなかったよ。
仲代達也の戦後より、孤児を集めて11人も育て上げたという設定の、中村獅童演じる内田二曹の戦後の方がよほど興味深い。
設定だけで描かれてないんだけどね。(笑
本来この映画におけるテーマは「現在から眺めた大和とその時代とは」って事なんだろうけど、元々の映画の仕掛けが機能不全に陥っているので、何が言いたいのか全然判らない。
「ああ、激しく辛かったが、純粋で美しかったわが青春」という単なるセンチメンタルな泣かせ映画になってしまってるんではという予感的中。 (まあ泣ければ良いという人には良いかもしれない)
テーマが見えず、愛する者との別離と死という判りやすい泣かせのシチュエーションだけになってしまってる。
勿論それがテーマを描き出していれば、それでも良いのだが、中途半端に群像劇にしてしまってるだけに、個々を描くエピソードが断片的で弱い。
愛する者を守るため、あるいは新生日本の礎になるため、など劇中では幾つかの「死ぬ理由」が語られる。
でもねえ、正直言って無謀な戦争で死ぬしかない状況に置かれてしまったので、ヤケクソでそう思うしかなかった様にしか見えなかった。
大体映画ではあの戦争の意味も何も語られてないんだから、納得出来る死など描ける訳が無い。
登場人物達は、目の前の敵との戦いについては考え語っても、誰一人として戦争その物の意味には触れない。
「俺たちは新しい日本の礎になるために散る、それでイイではないか」とか言われても説得力無い。
右系の人に怒られるかも知れないが、私ならイヤだよ。散りたい人は勝手に散ってください。
少なくとも無能な為政者に皮肉の一つも言って散るね。
「いや、ヤケクソでもそう思うしかなかった時代だったんだ!」という意見もあるだろうが、それならはじめから現在を基点になどしなければ良かったのだ。
実際に60年前に生きた人々が、この映画に出てくるほど単純に死を受け入れた訳じゃないだろう。
彼らには「プライベート・ライアン」に描かれていたように、それぞれプライベートな戦う理由があった(又は見つけた)はずだし、もちろん中には映画の様に無理やり自分を納得させて死地へ赴いた人もいるだろう。
だが、六十年後に作られたこれは、当時の人々の個々の人生へのリスペクトというよりも、現代人の懐古趣味が勝ってしまったように思える。
劇中やたらと米軍の記録映像が出てくるのだが、この扱いのテキトーさを見ても、歴史的事実を描写する事への真摯さは全く見られない。
タイトルロールの「大和」もあまりキャラが立っているとは言えない。
でかいセットを作ったは良いけど、甲板ばっかり出てくるので、艦の全体像、若者たちを抱く「大和という存在」があまり見えない。
このあたりも「タイタニック」とのセンスの差が一目瞭然になってしまう。
全体に「男たちの大和 YAMATO」は、映画自体が時代遅れの巨大戦艦そのものだ。
映画としては破綻したB級映画だが、象徴性でなんとか持っているという感じだった。
さて、なんか正月の酔いも醒めてしまったけど、戦艦大和には日本酒の「加茂鶴」が乗っていたらしく、この映画でも乗組員が呑んでるシーンがある。
「加茂鶴」自体は広島のおいしいお酒なんでオススメ。
映画で泣けた人には勿論、泣けなかった人には口直しの一杯として良いかも。

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