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酒を呑んで映画を観る時間が一番幸せ・・・と思うので、酒と映画をテーマに日記を書いていきます。 映画の評価額は幾らまでなら納得して出せるかで、レイトショー価格1200円から+-が基準で、1800円が満点です。ネット配信オンリーの作品は★5つが満点。
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ナルニア国物語~第一章:ライオンと魔女~・・・・・評価額1250円
2006年02月26日 (日) | 編集 |
衣装箪笥の扉は不思議への扉♪

C・S・ルイス原作のファンタジーの古典、「ナルニア国物語~ライオンと魔女~」の最初の映画化。
ちなみにテレビシリーズは昔あったね。

第二次世界大戦中のイギリス。
ペベンシー家の四兄妹、ピーター、スーザン、エドマンド、ルーシーは、ドイツ軍による爆撃が激しくなったロンドンから疎開して、田舎に住むカーク教授の邸宅に預けられる。
ある日、かくれんぼをして遊んでいたルーシーは、空き部屋に置かれた古い衣装箪笥の中から、不思議の国「ナルニア」に迷い込んでしまう。
そこは嘗て偉大な王アスランの建てた魔法の国。
しかし今アスランは去り、百年の冬でナルニアを支配するのは冷酷な白い魔女。
最初はルーシーの言う事を信じなかったピーターたちだが、ある日偶然にも全員が箪笥を通り抜けてナルニアに入ってしまう。
そこで彼らは、自分達こそナルニアの予言に記された、魔女を倒しナルニアの支配者となるべき、アダムとイブの4人の子供達である事を知るのだが、次男のエドマンドが予言の阻止を狙った白い魔女の手に落ちてしまう。
残された3人は、再び動き出したアスランに会うために長い旅にでるのだが・・・


お話はほぼ原作通り。
「パリポタ」や「ロード・オブ・ザ・リング」は長大な物語をいかに短くするかに腐心していたが、「ナルニア」の場合原作自体が非常にシンプルな物語構成で、それほど長い物でもないので、細かなところまで忠実に再現している。
むしろ原作ではあっさりとしか触れられていないディテール部分は、映画版が大きく膨らませているくらいだ。
クライマックスの魔女の軍勢とアスランの軍勢の戦闘シーンも、原作ではスーザンとルーシーの視点で、僅か数ページほどで描写されているだけだが、映画版はピーターとエドマンドを中心にたっぷり描写され、迫力満点。
ホーンや物言う獣たちなど不思議な住人達もイメージ通りで、「原作の忠実な映像化」を待ち望んでいたファンにとっては、かなり満足のいく物になっていると思う。

ただ、単体の映画としてみると、手放しでは賞賛できないのも事実。
ぶっちゃけ異世界を舞台としたファンタジー映画って、観客に「その世界へ行ってみたい!」と思わせれば半分勝ちだと思う。
「ロード~」も「ハリポタ」も、少なくともビジュアル化された世界観は、原作ファンのイマジネーションを超える物があったと思う。
中つ国が本当にあったら世界中から観光客が押し寄せるだろうし、ホグワーツ魔法学校には定員の一万倍の応募があるだろう。
しかし、ここに描かれた「ナルニア国」は、ちょっと面白そうな生き物はいるものの、それほど行ってみたいとは思わない。
画面がディズニー的(というかシュレック的?)に妙に明るく、ファンタジー映画の魅力であるしっとりした奥行き感に欠けるのも、神話的な雰囲気を構成しきれないマイナスポイントだ。
正直言って、イメージ通りではあるが、挿絵の想像力を超える物ではない。

それではお話がビジュアルの弱さを補完しているか、というとそうでもない。
上記の通り、原作のストーリーラインは極めてシンプルで、特にお話を捻ったところもない。
これは「ナルニア」が例えば重厚な「ロード~」などと比べると、比較的低年齢から読める様に配慮された良質の児童小説であることも影響しているのだが、映画にそのまま置き換えると一本調子な物語になってしまう。
2時間20分というたっぷり目の上映時間を考えても、物語の構成は映画的にもう一ひねりしても良かったのではないか。
例えば魔女とエドマンドの関係や、救出のくだりなどは、物語的に深く広げる余地はあったと思うのだ。
逆に原作にあくまでも忠実に作るなら、現在の上映時間は少し長い。
中ダレする部分もあるし、2時間程度に纏めればもっと物語りのテンションを高いまま保てたと思う。

個人的には、原作では殆ど触れられていない現実世界での戦争(第二次世界大戦)により深く言及したために、ファンタジー世界での戦争とリンクして、「戦う子供達」に妙なリアリティが出てしまったのが残念だ。
絶望的な戦いに剣をとって挑む子供達の姿が、なんだか痛々しい。
ファンタジーの世界で子供達が一段成長する、それはそれで良いのだが映画版ではナルニアを取り戻す戦いが強調され過ぎて、本来描かれていたイマジネーションの飛躍とか家族としての思いやりとかの内面的成長がどこかへ飛んでいってしまった。

アンドリュー・アダムソンの演出は、破綻も無くこの大作を上手く纏めていると思うが、「シュレック」「シュレック2」で見せたような破壊的なエネルギーやスピード感は残念ながら見られない。
偉大な原作をリスペクトし過ぎたか、萎縮してしまったのか、それともスタジオの介入が個性を消し去ったのか。
才能ある人だと思うし、もう少しとんがった個性をだしても良かったと思う。
原作小説の忠実な映像化という点では良く出来た作品だと思うのだが、一本の独立した映画としてみるとそれほどでもないというのが正直なところ。
とは言っても決してつまらない訳じゃないし、原作への強い思い入れも、映画への過度な期待も無い普通の観客には、「ナルニア入門」として最適の作品だと思う。
アメリカでのヒットで続編の製作も決定したらしいので、次がより魅力的になる事を期待したい。
ハリー・グレッグソン・ウィリアムズの音楽はなかなか良かった。

さて今回はイギリスらしくブリティッシュ・マティーニを。
ドライジン40mlに紅茶リキュールのティフィン20mlをステアして、レモンを適量絞る。
本来は食前酒として飲まれる事が多いが、この映画はそれほど腹にもたれないので、観賞後に飲みなおしてもう一本観てもいいかも。

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ジャーヘッド・・・・・評価額1300円
2006年02月25日 (土) | 編集 |
「ジャーヘッド」という不思議な言葉は、海兵隊員を意味する隠語で、そり上げた頭が瓶(jar)に見えることからその名が付いたといわれる。
だが一方で、海兵隊員を「頭が空っぽ」と揶揄する言葉でもある。

アメリカの映画館に行くと、よく軍隊の新兵募集CMが流れている。
世界に冠たるアメリカ軍だから、CMにもえらく金がかかっていて、よく出来てる物も多いのだが、数年前に一本のCMが話題になった事がある。
ゲームを彷彿とさせるファンタジー世界で、主人公が悪の城に仕掛けられた様々なトラップを果敢に突破、ついに巨大なドラゴンの様なボスキャラと対決する。
てっきり映画の予告編かと思いきや、ボスキャラを倒した瞬間、魔法の光に包まれた主人公は、今までのみすぼらしい格好からビシッとした制服に身を包んだ海兵隊員に生まれ変わるではないか!
私は思わず鼻からコークを噴出したね。
「Hey yo! 今日から君も正義の味方!」とは流石に言わなかったけど、アメリカ海兵隊が戦う相手はドラゴンかい!
これ観て「よ~し、俺もアメリカのために正義の味方になるぞお」とか思う奴がいたら、そっちのほうが怖いんだが(笑

このCMに象徴される様に、アメリカでも海兵隊の一般的なイメージっていうのは、他の3軍に比べてちょっと肉体派というか、マッチョで男臭く、勇敢だが頭はあんまり良くない集団という感じだ。
まあ戦場では真っ先に前線に送り込まれる斬り込み隊なんで、勇猛果敢な戦闘プロフェッショナルとして尊敬されてる一面もあるんだけどね。
「ジャーヘッド」は、そんな海兵隊に入隊したアンソニー・スオフォードのノンフィクションを基にした、ちょっと奇妙な湾岸戦争体験記。

1989年。
父も祖父も元海兵隊員という家庭に生まれたスオフォードは、自分も憧れのアメリカ海兵隊に入隊する。
新兵訓練所、そこは普通の若者が数ヶ月の訓練を経て殺人兵器へと生まれ変わる場所。
鬼教官による過酷な訓練に耐え、スオフォードは海兵隊でもエリートである偵察狙撃手に抜擢される。
やがてスウォフォード達が一人前の海兵隊員になった1990年、サダム・フセインのイラクが隣国クウェートに侵攻。
アメリカはクウェート奪還のために湾岸地域に50万を超える大軍を送り込む。
ついに訪れた実戦への期待に胸躍らせるスオフォードだったが、到着した場所は敵の姿も見えない砂漠の真中。
彼らは空爆により敵を主力が殲滅されるまで、一発の弾丸を撃つ事も無く、延々と待たされる事になる・・


非常に丁寧に作られた作品で、今までの戦争映画には無い新しい視点もある。
高く評価できる映画なのだが、同時にどうしても物足りない印象が残ってしまう。
たぶん「ジャーヘッド」の不幸は、その内容から「フルメタルジャケット」という映画史上のマスターピースと比べられてしまう事だろう。
実際のところ、海兵隊という舞台、比較的インテリの主人公のモノローグによって語られる手法、そして前半が新兵訓練所のシークエンス、後半が出征した戦場のシークエンスという構成上の特徴までえらく似通っている。
もちろん2本の作品は時代も設定も違うし、テーマ的にも微妙に異なっているが、劇中の台詞を借りれば、「Every war movie is different. Every war movie is the same」という感じで、非常に似た印象になってしまっている。

もっとも、新兵訓練所が兵隊の人間的感情を消しさり、殺人マシーンを作り上げる様は2本とも同様だが、戦地へ派遣されてからの展開は大きく異なる。
ベトナムを描いた「フルメタルジャケット」の登場人物たちが、戦場で戦う事で精神を麻痺させていくのに対して、「ジャーヘッド」は逆に戦わない事が精神を狂わせる。

湾岸に多国籍軍の兵力が集まるまでの駐留期間は最初に展開した部隊の場合半年。更に開戦しても最初の一ヶ月はず~と空爆。
この間、50万を超える派遣軍は、砂漠のキャンプで酷暑の中延々と待たされた。
殺すための訓練を受け、殺すために戦場にいるのに、何もする事が無い。
何しろ舞台は砂漠の真中、しかもイスラムの国なので、ベトナムみたいな歓楽街も無い。
ぶっちゃけ50万人が壁の無い刑務所にいるような物で、戦う相手は敵の兵隊ではなくて、暇と無力感という自己の内面の敵となる。
そして湾岸戦争は戦闘の殆どが空軍による爆撃で方がつき、地上戦は突入後僅か4日で終わってしまった。
実際にイラク軍との戦闘に参加した兵士はほんの一握りで、スオフォード達を含む殆どの兵士は一発の弾丸を放つ事も無く帰路につく。
彼らは何のためにあの時、あの場所に存在したのか。
勿論軍事戦略などを考えれば、大軍が駐留する事自体に意味があったのかもしれない。
が、殺し殺される覚悟で、極限までテンションを上げた若者達の思いは、行き場を失って静かに彼らの内面を破壊してゆく。

この点で、確かに「ジャーヘッド」は新しい。
戦わず、暇を持て余すことで自己を失って行く登場人物たちは、過去の戦争映画とは一線を画している。
戦場では、結局戦うも地獄、戦わないも地獄。
外面と内面の両方に敵がいる。
ただ、惜しむらくは登場人物が個性的過ぎ、というか初めからかなりイカれた連中として描かれているので、内面との戦いで段々と精神崩壊を起こしている様には必ずしも見えないのだ。
戦争で待たされ過ぎて少しヒステリックになってはいるけど、こいつら初めから殺す気満々のおかしな連中だったじゃんと思ってしまう。
このあたりは、兵士の内面の変貌をメリハリたっぷりに描いた「フルメタルジャケット」とはっきり差が出てしまう所だ。
「アメリカン・ビューティー」「ロード・トゥ・パーディション」のサム・メンデスの演出は相変わらず丁寧だが、今回は脚本段階からキャラクターにもう少し抑揚をつけても良かったのではないかと思う。

スオフォードを演じるジェイク・ギレンホールは好演しているが、私はむしろ相棒の狙撃観測手トロイを演じたピーター・サスガードが強く印象に残った。
劇中でスオフォードとトロイに訪れた、唯一の「殺しの機会」を空軍に奪われて、「せめて一人くらい殺させてくれー!」と駄々子の様に咽び泣くシーンは本編の白眉だったと思う。
ジェイミー・フォックスの鬼上官は、この手の映画の定番キャラクターだが、定番以上のインパクトは無かった。

この映画を例えて言うなら、トンコツをじっくり煮込んでしっかりと味をとった美味しいラーメンなのだが、なんか昔食べたもっと美味しいラーメンと味が似ているのでどうしても比べてしまい、どこか物足りなく感じてしまう、そんな映画。
勿論、映画は本来単体で評価すべきなのだが、まるでメンデスからキューブリックへの挑戦状なのかと思うくらい印象が似てるんだから仕方がない。
人間がやけにちっぽけに感じる砂漠の偵察や、漆黒の闇の中の地獄のような油田火災など、ビジュアルイメージは独特の物を作り出しているが、物語的な類似性を払拭するまでは至っていない。
逆に言えば、ベトナム戦争と湾岸戦争という二十年もの間隔のある戦争を描いて、これほど似た印象の作品が出来るというのは、ある意味でアメリカが歴史から何にも学んでおらず、本質的に変わっていない事の証明でもあり、その点興味深い。
もっとも私の場合、たまたま一月ほど前に「フルメタルジャケット」をDVDで再観賞していたのだが、観ていなければ200円分くらい印象が違ったかもしれない。

まあ確実に言えるのは、この映画を観た世界中の人々は、絶対アメリカと戦争したいとは思わないだろうという事。
だってアメリカと戦争すると、こんなイカれた頭の悪そうな兵隊たちがどっと攻めてくるんですぜ(笑

さて、今回は海兵隊の由来から一本。
アメリカ海兵隊は独立戦争当時の1775年11月、フィラデルフィアの酒場で結成されたという逸話があるくらい酒とは縁が深い。
元々は海軍の陸戦隊なので、当初の隊員は船乗り上がりが多かったと言われる。
当時の船乗りの飲み物と言えば、やはりシェリー酒。
冷蔵設備のない時代に長期の船旅の間も変質しないため、アルコール度数を上げた独特の風味は当時も今も愛されている。
シェリー酒を名乗る事ができるのはスペインのヘレス産のものだけだが、今回は「オロロソ・アルブレッホ」。
喉越しはとても滑らかですっきりしており、灼熱の砂漠で飲んでも美味しい。・・・たぶん。

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切れ味すっきり12年熟成シェリー!オロロソ・アルブレッホ
切れ味すっきり12年熟成シェリー!オロロソ・アルブレッホ \3124


原作本です。





クラッシュ・・・・・評価額1800円
2006年02月20日 (月) | 編集 |
観ている間、自分が映画の登場人物であるかの様な、不思議な感覚で物語に感情移入していた。
この映画は、アメリカの移民社会に暮らしたことのある人間には、まさしく人生に縮図のようなリアリティを持って感じられる。
勿論、アメリカ社会を実際に知らなくても十分面白いと思うが、出てくるキャラクターやエピソードが妙にリアルなので、知っているともっと感情移入しやすいだろう。
「ああ、こういう人いるなあ・・・」「こんな経験をしたよなあ・・・」「この人の気持ちわかるなあ・・・」
エピソードの一つ一つが、いちいち自分の記憶を思い起こさせるのだ。

クリスマス間近のロサンゼルス。
LAPDの黒人刑事グラハムは、恋人のヒスパニック系刑事リアと共に車の追突事故に遭うが、事故現場の隣では偶然にも殺人事件の捜査が行われているところだった。
被害者は黒人の若者。
グラハムは、まるで何かに呼び寄せられるように現場に足を踏み入れる。

その前日。
ペルシャ人商店主のファハド親子は店の防犯のために銃を買いに来て、アラブ人と間違えられ銃砲店の主人と喧嘩になる。
白人にはペルシャ人もアラブ人も見分けがつかない。

夜のウエストウッドでは、黒人の若者ピーターとアンソニーがレストランで受けた差別的な扱いについて悪態をついていた。
二人は、リンカーンナビゲイターに乗ろうとしていた検事のリックと妻のジーンを銃で脅して車を奪い盗る。
奪った車を売ろうとする二人だが、逃げる途中で韓国人の老人を轢いてしまう。

同じ頃、同じ色のナビゲイターに乗っていた黒人のテレビ演出家のキャメロンと妻クリスティンは、人種差別主義者の警官ライアンに停止を命ぜられ、屈辱的な扱いを受ける。
だが、白人社会で地位を築いたキャメロンは、世間体を気にして反論する事が出来ない。
ライアンの同僚のハンセンは、ライアンに不快感を覚えながらも何も言う事が出来ない。

車を奪われたリックの家では、ジーンが家の鍵をヒスパニック系鍵職人のダニエルに付け替えさせていた。
見るからに貧しい身なりのダニエルに、露骨な不信感をあらわにするジーン。
成功者の妻であるジーンは、常に得体の知れない不安感に怯えていた。

仕事を終えて家に帰ったダニエルは、銃声におびえる娘のララに、絶対に弾丸を通さない「魔法のマント」を着せてあげる。
そこへファハドの店から、壊れた鍵を直すようにという依頼が入る。
ファハドの店へ行ったダニエルは、ドアを交換しないと鍵を直す事が出来ないと訴えるが、偏屈で英語の良くわからないファハドは取り合わない。
怒ったダニエルはそのまま帰ってしまい、結果的に店は泥棒に荒らされてしまう。

それまで全く関わりの無かった人々の人生が、運命の巡り合いの様に交錯し、ぶつかり合う不思議な一日が始まった・・・・


連続で満点を付けてしまった。
重すぎず、軽すぎず、物語のバランス的に絶妙の匙加減。
脚本家として既に「ミリオンダラーベイビー」という傑作を物にし、テレビドラマの演出経験があるとはいえ、ポール・ハギスの演出家としてのセンスがこれほどとは思わなかった。
勿論、多様な登場人物のエピソードを重層的に絡ませ、一つのストーリーを紡いで行く脚本のテクニックも抜群だ。
ドン・チードル、サンドラ・ブロック、マット・ディロンにブレンダン・フレイザー、一人でも一枚看板を背負えるクラスのスター達が、一人頭では15分にも満たない出演時間の中で、市井の人々の苦悩と小さな希望を巧みに演じる。
彼らが体現するのは、白人、黒人、ヒスパニック、アジア人、ホワイトカラー、ブルーカラー、刑事、犯罪者・・・・広大なロサンゼルスの街の中で、それぞれの人種や階層を代表する人々だ。
これだけ沢山の登場人物の別々のエピソードが、少しずつ絡まりながら一つの物語を構成するというのは、ロスの広さ一つ考えてみても、ある意味で凄く御都合主義。
何しろ大ロサンゼルスエリアは、関東地方に匹敵する広大な土地で、たった一日の間に見ず知らずの人々が何度も交錯する確率など、天文学的に低いはず。
だがこの脚本が凄いのは、そんな無理を全く感じさせない事なのだ。
技巧を凝らした脚本はしばしばその技巧が嘘臭く感じられ、軽薄な作品になりがちだ。
だが、ポール・ハギスの生み出す登場人物たちは驚くほどリアルで、生々しい魅力に溢れ、その行動に「技巧」は全く感じられない。
主要な登場人物だけでも十数人に及ぶので、一人一人を描くエピソードは短い。
しかしそのモザイクの断片のような僅かの時間の中で、しっかりとキャラクターを描き分け、最終的には大きく複雑な人間模様を描き出すのだ。
この人間観察眼の確かさは驚異的ですらある。

物語のキーになるのは人種と階層による社会の分断。
そしてそれが作り出す「衝突 "CRASH"」だ。
現在、アメリカには法的に人種差別は存在しないし、社会的地位のある人がオフィシャルに差別発言したりしたら大問題になり、地位を追われる事も珍しくない。
しかし、一人一人の心の奥底には、まだまだ壁があるのも事実で、その壁を物理的に形作っているのは人種や階層による都市の分断だ。
アメリカの街を車で走ると、白人地区、黒人地区、ヒスパニック地区と言うように、見事に分かれて住んでいるのが判る。
勿論裕福な白人地区に住むアジア人や黒人もいるが、その場合彼らはコミュニティにおいては「白人の様に振舞う事」を要求される。
それが時には人種の尊厳を損なう事であったとしても。
また人種のピラミッドの頂点である白人の中でも、今度は宗教や職種、出身国による階層が存在する。
貧乏な白人の住む街と、裕福な白人の街は、通ってみれば直ぐに判るほど違うのだ。
しかしこの映画は所謂「差別」をテーマとした単純な物ではない。
映画は、社会の様々なしがらみによって差別され、分断された人々が、物語の中で絡まり衝突し、互いに影響を与えつつ、新しい一日を迎える様子を描いている。
一見して無関係に存在しているように見えても、同じ社会に暮らす人間同士である限り、本当に無関係ではあり得ない。
分断と差別は確かに衝突を生み出すが、映画が描いているのはむしろその衝突の結果として、好むと好まざるとに関わらず、他人を求め、他人と関わらずには生きられない、人間という存在の切ない性だと思う。

「ミリオンダラーベイビー」でもそうだったが、ポール・ハギスの描く物語はとてもリアルで残酷だが、それを見つめる眼差しはとても優しい。
映画はクリスマス前の、たった一日の物語だし、ループするような物語構造に象徴されるように、一つ一つのエピソードに結末は無い。
それでも(ただ一人を除いて)登場人物の誰もが、良くも悪くも昨日とは違った人生に歩みだしている。
哀しいだけの人生は無いし、嬉しい事ばかりが続く訳も無い。
辛くても、哀しくても、そして少し嬉しい事があっても、全てを飲み込んで明日も人生は続く。
この映画は、そんな沢山の無名の「アメリカ人」に対する ささやかな賛歌だと思う。

さて、この映画にはロサンゼルス近郊(とは言ってもかなり遠いけど)のサンタバーバラ産の「ブランダー ソーヴィニヨン・ブラン」を。
カリフォルニアワインというと、日本ではサンフランシスコ近郊のナパバレーが有名だが、
地中海性気候に恵まれた南カリフォルニアもワインどころ。
映画「サイドウェイ」でも舞台になったのは記憶に新しい。
こちらはすっきりしつつも適度な酸味と甘味を感じる大人な白ワイン。
映画の余韻と喧嘩せずに引き立ててくれるでしょう。

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追記:あちこちのブログでこの映画の感想を読んでみると、「現在のアメリカでも、差別が日常であるのが驚いた」とか「アメリカに行くのが怖くなった」とか、映画からアメリカ社会にネガティブな印象を持たれてしまっている方が多いのがちょっとショック。
確かに私も、この映画を「リアル」であると書いたが、「クラッシュ」のリアルさは映画的にカリカチュアされたリアルさである事は理解していただきたい。
物語的なリアルさであって、ドキュメンタリー的なリアルさではないのだ。
この映画は、数十人にも及ぶ登場人物のそれぞれが「差別が生み出すクラッシュに出会う一日」、というコンセプトに基づいて描かれているので、必然的に映画の中はステロタイプと差別だらけになる。
だからといって、現実に生活していて毎日差別を感じる訳では無い。
私の体験的に言えば、日常生活や仕事の上で本当に相手から差別心を感じるのは、精々年に数回程度だ。
もっとも日本人は、様々な要因もあって西海岸では比較的差別にあいにくい人種であり、人種や職種によってはもっと感じているという人もいるだろうけど、逆にマイノリティでも差別など感じないという人もいる訳で。
偏見と差別は深刻な問題ではあるが、むしろ多様な文化を受け入れるアメリカ社会の恩恵を感じる事の方がずっと多いのも、また事実だと思って欲しい。


〇ブランダー ソーヴィニヨンブラン 2004
ブランダー ソーヴィニヨンブラン 2004  \2180




白バラの祈り ゾフィー・ショル、最期の日々・・・・・評価額1800円
2006年02月14日 (火) | 編集 |
真の英雄は戦場や革命の先頭にいるとは限らない。
英雄という存在が、自己の良心と信念に基づいた行動を貫き通した人間だとすれば、ゾフィー・ショルは正しくその称号に相応しい。

1943年、ドイツ・ミュンヘン。
スターリングラード攻防戦でドイツ軍が大敗を喫し、ナチスの威光に陰りが出始めた頃。
21歳の女子大学生ゾフィー・ショルと兄のハンスは、大学の構内で反戦・反ナチスのビラを撒いた容疑でゲシュタポに逮捕される。
彼らは「白バラ」と呼ばれる非暴力の反体制学生グループだった。
ナチス流の正義を説くゲシュタポの取調官モーアに対して、最初のうちは否認を貫いていたゾフィーだったが、活動の証拠を次々に見せ付けられると、ついに容疑を認める。
しかし、それはゾフィーにとって屈服ではなく、モーアとの数日間にわたる激しい論戦の始まりだった・・・。


またまた凄い映画を観てしまった。
第二次大戦中のドイツに実在した、白バラグループのメンバー、ゾフィー・ショルの逮捕から処刑までの最後の5日間を描いた、恐ろしく密度の濃い力作である。
上映時間のおよそ半分を占める、ゾフィーVSゲシュタポ取調官モーアとの論戦が本編の白眉だ。
ナチスの正当性を強硬に主張し、白バラグループの全貌を自白させようとするモーアに対して、ゾフィーは自分の信じる言葉で戦い、その良心と信念に基づく説得力溢れる言葉は、ついにナチスを信奉するモーアの心をも打ち砕く。
この四日間のスリリングな論戦は実に見事で、ゾフィーを演じたユリア・イェンチ、モーア役のアレクサンダー・ヘルト共に、映画の内容同様に互いを圧倒しようとするような強烈な存在感を見せる。

しかし、この映画を観ていてショッキングだったのは、論戦の間、自分が感情移入していたのがゾフィーよりも、(演出的に誘導されている部分があるにしろ)むしろゲシュタポのモーアの方だったという事だ。
私を含めた多くの観客は、たぶんゾフィーほど強くない。
我々は、ゲシュタポ取調官という恐ろしげな肩書を持ってはいるものの、内面は小市民に過ぎないモーアを通して、ゾフィーに論破され、その心の強さを畏怖し、ついに自己の存在基盤としていた価値観が崩壊寸前になるまで追い詰められる。
最後の最後にモーアが助命調書を持ち出し、ゾフィーに取引を迫ったのも、彼女の信念へのささやかな抵抗であると同時に、彼女によって引き出された現状への疑念と良心の働きによるものだろう。
処刑されるゾフィーを見送るモーアの表情は、反逆者を裁く強面の権力者ではなく、哀れな敗北者のものだった。
単純にゾフィーの悲劇性を強調したセンチメンタルな作劇に頼らず、モーアという、ある意味でごく普通の人間を通じて、観客をゾフィーと対峙させるという構造は見事だ。
確固たる良心や信念を持つ存在の前では、我々はいやでも自分の弱さと向き合わねばならない。
マルク・ローテムント監督脚本のフレート・ブライナースドーファーの仕事は完璧と言っていい。

モーアとの取引を拒絶したゾフィーは、いかにもテキトーな裁判を経て人知れず即日処刑される。(この裁判も記録から再現された物らしいが、そのメチャクチャさ加減はある程度当時の情勢を理解していても驚きだ)
全てが終わり、自分が99日あるはずの猶予期間も与えられず、直に処刑される事を知ったゾフィーが、初めて心の内を搾り出す様に嗚咽するシーンはあまりに悲しい。
白バラ達の記録は、多くが戦後も冷戦の間死蔵され、裁判記録を含めてすべてが明るみに出たのは東西ドイツ統一後の90年代になってからだと言う。
白バラ運動は結局ヒットラー打倒を果たす事は出来ず、メンバーの多くも処刑された事で、歴史的な意義は無いという意見もあるそうだ。
しかし、今回の作品も含めて三度も映画化され、書籍も含めてその生き様に感銘を受けた観客は増え続けている。
真の英雄の物語とは、語り継がれる事で死後も長く輝きを放ち影響を与え続けるものだ。
その意味で、ゾフィー・ショルと仲間達の生涯が無駄であったとは全く言えないと思う。
戦争の犠牲者と言うと、我々は戦場で倒れた兵士や、無差別な殺戮の犠牲者だけに思いを馳せがちだが、白バラの若者たち同様に、良心と信念に基づいた非暴力の孤独な戦いを続けた人々は、当時のドイツにも、日本にも、そして現在の世界にも沢山いるはずだ。

ゾフィーは国を思い、その将来を深く憂慮した愛国者だ。
ただし、彼女が愛したドイツという「国」は、ナチス第三帝国という「国家」ではない。
「国」とはまず人であり、文化であり、それらを育む土地であり、そこに存在する諸々を内包する共同体の大きな概念だが、「国家」はそれを運営する機関に過ぎない。
だが愛国心を鼓舞する為政者は、国と国家を巧みに混同させようとし、人はしばしば国を愛し守るつもりで、単なる執行機関に過ぎない国家に忠誠してしまう。
国への奉仕者たる国家が、国を乗っ取ってしまう、それが独裁でありナチス体制だった。
ナチスとその信奉者にとっては国家こそ全てだったが、ゾフィーは国という物の本質を知っていた。
たとえナチスが滅びて、連合軍に占領されても、ドイツ人がそこに存在している限りドイツは滅びないのだ。
「国破れて山河あり」である。

幸いな事に、今の私たちは大概の事では命を懸けなくても好きな事が言える社会に生きている。
その礎となり、さらに圧制への抑止力となっているのは、自己の意思と関係なく戦場に駆り出され、無念の死を遂げた兵士たちよりも、むしろゾフィーのような存在なのではないか。
もし圧制の時代が再来した時、モーアになるのか、ゾフィーになるのか、それともその様な時代の再来自体を阻止するのか自問自答せざるを得ない。

しかしこの映画を観ても思ったけど、信仰の力は強いね。
勿論それだけではないのだが、ゾフィーの良心や信念も、表層的な理屈として構築されているだけじゃなく、心のベースにある信仰に支えられている様に見える。
信心、という以上に自己の精神的な存在基盤という感じか。
平和の時代を見ることなく、「太陽は輝き続ける」と一言を残して逝ったゾフィー。
彼女は、天国へ祝福と共に迎えられたのだろうか。

観賞後には白バラ達の心に思いを馳せて、その名も「ホワイト・ローズ」を。
ドライジン40ml、マラスキーノ15ml、オレンジジュースとレモンジュースをティースプーン1杯ずつ。それと卵白1/2個を十分にシェイク。
味わいはゾフィーの様に強く、しかし優しい。

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ボルス マラスキーノ(チェリー) 700ml 24度
ボルス・マラスキーノ(チェリー) 700ml 24度 \1450


「灰色のバスがやってきた」
劇中、ゾフィーが語るナチスによる障害者の抹殺を描いたノンフィクション。私は学生の頃この本に出会い、衝撃を受けました。


「白バラは散らず」
白バラ事件を描いたノンフィクション。


「白バラの祈り オリジナルシナリオ」
フレート・ブライナースドーファーによる本作の脚本。



PROMISEプロミス/無極・・・・・1200円
2006年02月12日 (日) | 編集 |
「さらば、我が愛~覇王別姫」のチェン・カイコー監督が、真田広之、チャン・ドンゴン、ニコラス・ツェー、セシリア・チャンといったアジアのスター大集合で作ったファンタジー大作。
中国映画伝統の武侠物に、「ロード・オブ・ザ・リング」的な無国籍ファンタジーの風味をミックスした様な世界観を持つ。
その世界は出演者の国籍の如く、中国に日本や韓国をチャンポンしたような感じで、微妙にスターウォーズチック(SWも東洋趣味入ってるから)なのが可笑しい。

何時でもない、何処でもない、アジアに似た世界。
戦場の屍から食料を漁る少女・傾城は、この世界を作った創造者・満神と契約を結ぶ。
この世で望む物全てを与える、ただ一つ、真実の愛以外なら。
20年後、絶世の美女となった傾城は、契約の通り王妃の座にいた。
そのころ、伝説の甲冑を纏う光明大将軍は、王城を包囲する北方の侯爵・無歓の撃退を命じられる。
異常な俊足を持つ奴隷・崑崙と共に王城を目指した光明だが、刺客との戦いで負傷してしまう。
光明は身代わりとして崑崙に甲冑を着せ、王城へと向かわせるのだが、崑崙は逆上した王が傾城を殺害するのを止めようとして、王を殺してしまう。
傾城は仮面を被った崑崙を光明だと信じ、愛を誓うのだが、一方で光明は王殺しの犯人として追われる事になる
果たして傾城は永遠の愛を得る事ができるのだろうか・・・・


井筒監督風に言えば、「なんやらよう判らん映画」だ。
たぶん、この映画はもの凄くアバウトなプロットがあり、それをベースにコンセプトアートが描かれ、そのコンセプトアートの世界が余りにも魅力的だったので、ひたすらその画を再現するという演出ベクトルで作られた映画だ。
物語はプロット段階で練られた形跡が無く、そのままいきなりシナリオ化したようなスカスカな代物。
ディティールも突っ込みどころ満載なのだが、まず幹になる物語が無いのだ。
一応、神と取引した美女を巡る三人の男たちのドラマというのがベースだが、それぞれの男が何をしたいのか判らない。
光明大将軍は、突然なんの脈略も無しに愛欲に溺れるダメ男にしか見えないし、奴隷・崑崙はラブストーリーがやりたいのか、自分のルーツ探しがやりたいのかはっきりしない。
悪の侯爵・無歓も、とりあえず傾城が欲しいのは判ったが、それ以外の行動原理がサッパリ不明だ。
一応、冷酷無比な悪役なのだが、その悪の心で何がやりたいのか、どういう存在になりたいのか判らない。
「サウロンやヴォルデモート卿の目的意識の高さを見習え!」と言いたくなる。
三人のキャラクターの対立構図がハッキリせず、全員が行き当たりばったりで行動してる様にしかみえないのだ。
「ロード・オブ・ザ・リング」並に、全く架空の世界を創造してまでしてやりたかった事は、結局一人の女を巡る痴話喧嘩ってのも、何だか脱力してしまう。
チェン・カイコーという人は「さらば、我が愛~覇王別姫」の様に、脚本がバッチリ決まると非凡な演出力を発揮するが、脚本家としては大味で必ずしも一流ではない様だ。
確かチャン・イーモウが「英雄~HERO」を作った時に、ビジュアルだけで中身が無いと批判してたのはこの人だったと思うが、その言葉そっくりそのまま自分で噛み締めるよ~に。

しかしこの作品の場合、全ての拘りは明らかにビジュアルに向いているので、その点においては見ごたえがある。
CGに多少荒い部分もあるものの、東洋的な様式美を持った美術、殺陣はユニークで、西洋のファンタジーとは一線を画すイメージを作り出すことに成功している。
ただちょっと漫画チック過ぎる部分もあって、やりすぎて失笑寸前の所もあるんだけどね。
だって真田広之なんてでっかい金色の玉二つ使って、サイヤ人みたいに戦うんですぜ(笑
崑崙の走りはまるで8マンフラッシュみたいだし、狙ってやってたらお茶目だとは思うけど、マニアック過ぎでしょ。
ビジュアルは確かに面白いけど、ぶっ飛びすぎて、例えば「グリーン・デスティニー」にあった様な東洋的な情感まで薄味になってしまっているのはちょっと残念だ。

全体に、この手の武侠物やファンタジー映画の好きな人が観れば、それなりに楽しめると思うが、後に残る物は何も無い。
まあ個人的には、最近ヘビーな映画を立て続けに観て心が疲れてたんで、そういう意味では何も考えずに観られて良かった。

付け合せはねえ・・・・間違っても高級紹興酒とかじゃないだろうし、カクテルの「クーニャン」あたりかな。
ピーチリキュールのクレーム・ド・ぺシェとウーロン茶を1:2の比率でステア。
果実香が楽しめる、軽いカクテル。
スライスレモンを付けてね。

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サトネイ・クレーム・ド・ぺシェ  18°(500ml)
サトネイ・クレーム・ド・ぺシェ \2280





伊福部昭氏死去
2006年02月10日 (金) | 編集 |
ifukube


伊福部昭氏が亡くなった。
享年91歳。
言わずと知れた日本映画音楽の巨匠。
たとえ名前を知らなくても、「ゴジラのテーマ」を聞いた事の無い日本人はいないだろう。
実は私は伊福部氏と連れションをした事がある(笑
1983年の8月5日に行われた「SF特撮映画音楽の夕べ」というコンサートがあったのだが、その開演直前にトイレに行ったら隣に見覚えのある小柄な爺さんがいた。
それが当時既に伝説の人だった伊福部氏だった。
すぐに御付の人が呼びに来て出て行ってしまったのだが、私は緊張で出る物も出なくなっちゃって、コンサートの間中トイレに行きたくてたまらなかった。
当時既に69歳。
彼のコンサートをライブで聞いたのは後にも先にもこの一回だけだが、今にして思うと連れションも含めて貴重な体験だったと思う。
関係ないけど私はなぜかトイレと著名人に縁があり、深作欣二、手塚治虫、ジェリー・ゴールドスミスらと連れションした事がある。
彼ら全員が私と連れションした後に亡くなっているのは・・・・多分偶然である。

伊福部昭氏のご冥福をお祈りいたします。

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ミュンヘン・・・・・評価額1750円
2006年02月05日 (日) | 編集 |
久々に本気のスピルバーグは、やはり凄い。
暗殺者になる使命を受け入れる事で、永遠の重荷を背負ってしまった一人の男の長く悲しい心の旅を描く、ある種のロードムービー。
「ミュンヘン」は、20世紀の現実世界を舞台にした、とてもダークなもう一つの「ロード・オブ・ザ・リング」だ。
今回指輪を運ぶのは、エリック・バナ演じるイスラエルの工作員アヴナー。
悲しい憂いを湛える目が印象的だ。

1972年、ドイツ、ミュンヘンの夏季オリンピック。
パレスチナゲリラ「黒い九月」がイスラエル選手団を人質に取り篭城。
ドイツ当局の不手際もあって、人質全員が死亡するという事件が起こる。
イスラエル政府は、事件を計画したパレスチナ幹部に対する報復の暗殺作戦を決断する。
暗殺者として選ばれたのは、情報機関モサドに属するドイツ系イスラエル人のアヴナー。
彼の任務はそれぞれのジャンルのスペシャリストを集めたチームと共に、11人のパレスチナ人「テロリスト」を処刑する事・・・。


旅の仲間は5人。
アヴナー、強烈な民族主義者で車両係のスティーヴ、爆弾担当のロバート(だが本業は玩具屋)。
本業は家具屋だが、文書偽造担当のハンス、そして現場に証拠を残さないための掃除屋のカール
どの面々もスペシャリストと呼ぶには中途半端で、リーダーのアヴナーからして元々警護官で、工作任務に付いた事も人を殺した事も無いという素人。
既にこの時点で、国家の捨て駒に過ぎないのが何となく判る。

物語は終始この5人を中心に、暗殺作戦の細部を徹底的に細かく描く。
荒唐無稽な「ミッション・インポッシブル」や「007」と違って、素人集団のリアルな暗殺作戦なんで、その作戦は実に手際が悪い。
自分たちでは相手の場所を突き止めることすら出来ず、怪しい情報屋に頼らざるを得ないし、爆弾はいつも出来損ないだし、CIAには邪魔されるしで、やっとの思いで何とか任務を遂行してゆく。
ここには娯楽映画の様なカタルシスは全く無いし、ドラマ的な抑揚も希薄だ。
だが、その分「人ひとりを殺す事の重み」がズシリと伝わってくる。
テロリストに正義の鉄槌を下していると思っていたのに、リストに無い人間を巻き添えにし、ついには自分たち自身が狙われる。
相手にしてみれば自分たちこそがテロリストであって、テロリスト同士の殺し合いに過ぎない事にようやく気付き始めるアヴナーたち。
11人を狙った事に対する報復で、その何倍、何十倍もの犠牲が出ている現実も、彼らの精神を少しずつ蝕んでゆく。

情報屋ルイの手違い(では無いような気もするが)で、アヴナー達が敵であるPLOゲリラと同宿するシーンは印象的だ。
アヴナーがゲリラのリーダーに聞く。
「あの何も無い国に本当に帰りたいと思うのか?」
「勿論だ。心のそこからそう思う」
自分たちと敵は、立場が違うだけで、同じ思いを持った鏡のような存在。
ならば殺し合いも無限連鎖になるだけ。

「ミュンヘン」には、パレスチナ問題に対する新しい提案やビジョンは何も無い。
そもそもパレスチナ問題の根本的な解決法などたった一つしかないのは、もう何十年も前から誰もが判っている事だ。
しかしミュンヘン事件から30年以上が経過しても、結局ずっと足踏みが続いている。
あまりにも長く続きすぎて、ともすれば我々は問題の存在すら忘れてしまいそうになる。
その意味で、スピルバーグのような人が、当たり前の事を声を上げて伝える事はとても大事なのだろうと思う。
ユダヤ人であるスピルバーグが、見方によってはイスラエル批判ともとられ得る作品を作る事は、とても勇気がいる事だっただろう。

劇中、アヴナーが繰り返し見る、ミュンヘン事件を再現した悪夢が象徴的だ。
結局、アヴナー達はあの晩ミュンヘンで起こった事のリピートをやっているだけで、そこから一歩も動く事が出来なかった。
そして永遠に続く悪夢に足を踏み入れてしまったのだ。
指輪を滅ぼす使命を果たしたために、結局この世での安息を失ってしまったフロドと同じように、アヴナーもまた一生悪夢から解放される事はないのだろう。

疲れ果てたアヴナーが静かに佇むラストカット、そこには70年代と現代を繋ぐ「ある物」が映し出される。
我々もまた、悪夢から醒める事を未だ許されていない。

この映画には「ヤルデン・マウント・ハーモン」レッドを付け合せたい。
映画に負けない強いボディを持つ上質の酒。
近年世界的な評価を得ているイスラエルのワインだが、実はその多くが中東戦争でシリアから占領したゴラン高原で栽培されている。
ゴラン高原は日本の自衛隊がPKO部隊として派遣されている地域だが、パレスチナ問題が解決されると、シリアに返還される可能性が高い。
もしイスラム教国のシリアに返還されると、イスラエルワインは幻の酒になるかもしれない。
味だけでなく、色々な意味で考えさせてくれるワインである。

・・・ちなみに50円の中途半端なマイナスは、旅の仲間のバックグラウンドをもう少し見せてくれても良かったのでは?と思うから。
でも現状でもしっかりとバランスはとれてるから、この作劇の中では、ほぼパーフェクトだと思う。

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ヤルデン・マウントハーモン・レッド
ヤルデン・マウントハーモン・レッド  \1880


映画のベースとなったノンフィクション


オリジナルサウンドトラック ジョン・ウィリアムス