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白バラの祈り ゾフィー・ショル、最期の日々・・・・・評価額1800円
2006年02月14日 (火) | 編集 |
真の英雄は戦場や革命の先頭にいるとは限らない。
英雄という存在が、自己の良心と信念に基づいた行動を貫き通した人間だとすれば、ゾフィー・ショルは正しくその称号に相応しい。

1943年、ドイツ・ミュンヘン。
スターリングラード攻防戦でドイツ軍が大敗を喫し、ナチスの威光に陰りが出始めた頃。
21歳の女子大学生ゾフィー・ショルと兄のハンスは、大学の構内で反戦・反ナチスのビラを撒いた容疑でゲシュタポに逮捕される。
彼らは「白バラ」と呼ばれる非暴力の反体制学生グループだった。
ナチス流の正義を説くゲシュタポの取調官モーアに対して、最初のうちは否認を貫いていたゾフィーだったが、活動の証拠を次々に見せ付けられると、ついに容疑を認める。
しかし、それはゾフィーにとって屈服ではなく、モーアとの数日間にわたる激しい論戦の始まりだった・・・。


またまた凄い映画を観てしまった。
第二次大戦中のドイツに実在した、白バラグループのメンバー、ゾフィー・ショルの逮捕から処刑までの最後の5日間を描いた、恐ろしく密度の濃い力作である。
上映時間のおよそ半分を占める、ゾフィーVSゲシュタポ取調官モーアとの論戦が本編の白眉だ。
ナチスの正当性を強硬に主張し、白バラグループの全貌を自白させようとするモーアに対して、ゾフィーは自分の信じる言葉で戦い、その良心と信念に基づく説得力溢れる言葉は、ついにナチスを信奉するモーアの心をも打ち砕く。
この四日間のスリリングな論戦は実に見事で、ゾフィーを演じたユリア・イェンチ、モーア役のアレクサンダー・ヘルト共に、映画の内容同様に互いを圧倒しようとするような強烈な存在感を見せる。

しかし、この映画を観ていてショッキングだったのは、論戦の間、自分が感情移入していたのがゾフィーよりも、(演出的に誘導されている部分があるにしろ)むしろゲシュタポのモーアの方だったという事だ。
私を含めた多くの観客は、たぶんゾフィーほど強くない。
我々は、ゲシュタポ取調官という恐ろしげな肩書を持ってはいるものの、内面は小市民に過ぎないモーアを通して、ゾフィーに論破され、その心の強さを畏怖し、ついに自己の存在基盤としていた価値観が崩壊寸前になるまで追い詰められる。
最後の最後にモーアが助命調書を持ち出し、ゾフィーに取引を迫ったのも、彼女の信念へのささやかな抵抗であると同時に、彼女によって引き出された現状への疑念と良心の働きによるものだろう。
処刑されるゾフィーを見送るモーアの表情は、反逆者を裁く強面の権力者ではなく、哀れな敗北者のものだった。
単純にゾフィーの悲劇性を強調したセンチメンタルな作劇に頼らず、モーアという、ある意味でごく普通の人間を通じて、観客をゾフィーと対峙させるという構造は見事だ。
確固たる良心や信念を持つ存在の前では、我々はいやでも自分の弱さと向き合わねばならない。
マルク・ローテムント監督脚本のフレート・ブライナースドーファーの仕事は完璧と言っていい。

モーアとの取引を拒絶したゾフィーは、いかにもテキトーな裁判を経て人知れず即日処刑される。(この裁判も記録から再現された物らしいが、そのメチャクチャさ加減はある程度当時の情勢を理解していても驚きだ)
全てが終わり、自分が99日あるはずの猶予期間も与えられず、直に処刑される事を知ったゾフィーが、初めて心の内を搾り出す様に嗚咽するシーンはあまりに悲しい。
白バラ達の記録は、多くが戦後も冷戦の間死蔵され、裁判記録を含めてすべてが明るみに出たのは東西ドイツ統一後の90年代になってからだと言う。
白バラ運動は結局ヒットラー打倒を果たす事は出来ず、メンバーの多くも処刑された事で、歴史的な意義は無いという意見もあるそうだ。
しかし、今回の作品も含めて三度も映画化され、書籍も含めてその生き様に感銘を受けた観客は増え続けている。
真の英雄の物語とは、語り継がれる事で死後も長く輝きを放ち影響を与え続けるものだ。
その意味で、ゾフィー・ショルと仲間達の生涯が無駄であったとは全く言えないと思う。
戦争の犠牲者と言うと、我々は戦場で倒れた兵士や、無差別な殺戮の犠牲者だけに思いを馳せがちだが、白バラの若者たち同様に、良心と信念に基づいた非暴力の孤独な戦いを続けた人々は、当時のドイツにも、日本にも、そして現在の世界にも沢山いるはずだ。

ゾフィーは国を思い、その将来を深く憂慮した愛国者だ。
ただし、彼女が愛したドイツという「国」は、ナチス第三帝国という「国家」ではない。
「国」とはまず人であり、文化であり、それらを育む土地であり、そこに存在する諸々を内包する共同体の大きな概念だが、「国家」はそれを運営する機関に過ぎない。
だが愛国心を鼓舞する為政者は、国と国家を巧みに混同させようとし、人はしばしば国を愛し守るつもりで、単なる執行機関に過ぎない国家に忠誠してしまう。
国への奉仕者たる国家が、国を乗っ取ってしまう、それが独裁でありナチス体制だった。
ナチスとその信奉者にとっては国家こそ全てだったが、ゾフィーは国という物の本質を知っていた。
たとえナチスが滅びて、連合軍に占領されても、ドイツ人がそこに存在している限りドイツは滅びないのだ。
「国破れて山河あり」である。

幸いな事に、今の私たちは大概の事では命を懸けなくても好きな事が言える社会に生きている。
その礎となり、さらに圧制への抑止力となっているのは、自己の意思と関係なく戦場に駆り出され、無念の死を遂げた兵士たちよりも、むしろゾフィーのような存在なのではないか。
もし圧制の時代が再来した時、モーアになるのか、ゾフィーになるのか、それともその様な時代の再来自体を阻止するのか自問自答せざるを得ない。

しかしこの映画を観ても思ったけど、信仰の力は強いね。
勿論それだけではないのだが、ゾフィーの良心や信念も、表層的な理屈として構築されているだけじゃなく、心のベースにある信仰に支えられている様に見える。
信心、という以上に自己の精神的な存在基盤という感じか。
平和の時代を見ることなく、「太陽は輝き続ける」と一言を残して逝ったゾフィー。
彼女は、天国へ祝福と共に迎えられたのだろうか。

観賞後には白バラ達の心に思いを馳せて、その名も「ホワイト・ローズ」を。
ドライジン40ml、マラスキーノ15ml、オレンジジュースとレモンジュースをティースプーン1杯ずつ。それと卵白1/2個を十分にシェイク。
味わいはゾフィーの様に強く、しかし優しい。

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「灰色のバスがやってきた」
劇中、ゾフィーが語るナチスによる障害者の抹殺を描いたノンフィクション。私は学生の頃この本に出会い、衝撃を受けました。


「白バラは散らず」
白バラ事件を描いたノンフィクション。


「白バラの祈り オリジナルシナリオ」
フレート・ブライナースドーファーによる本作の脚本。



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