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2006年02月20日 (月) | 編集 |
観ている間、自分が映画の登場人物であるかの様な、不思議な感覚で物語に感情移入していた。
この映画は、アメリカの移民社会に暮らしたことのある人間には、まさしく人生に縮図のようなリアリティを持って感じられる。
勿論、アメリカ社会を実際に知らなくても十分面白いと思うが、出てくるキャラクターやエピソードが妙にリアルなので、知っているともっと感情移入しやすいだろう。
「ああ、こういう人いるなあ・・・」「こんな経験をしたよなあ・・・」「この人の気持ちわかるなあ・・・」
エピソードの一つ一つが、いちいち自分の記憶を思い起こさせるのだ。
クリスマス間近のロサンゼルス。
LAPDの黒人刑事グラハムは、恋人のヒスパニック系刑事リアと共に車の追突事故に遭うが、事故現場の隣では偶然にも殺人事件の捜査が行われているところだった。
被害者は黒人の若者。
グラハムは、まるで何かに呼び寄せられるように現場に足を踏み入れる。
その前日。
ペルシャ人商店主のファハド親子は店の防犯のために銃を買いに来て、アラブ人と間違えられ銃砲店の主人と喧嘩になる。
白人にはペルシャ人もアラブ人も見分けがつかない。
夜のウエストウッドでは、黒人の若者ピーターとアンソニーがレストランで受けた差別的な扱いについて悪態をついていた。
二人は、リンカーンナビゲイターに乗ろうとしていた検事のリックと妻のジーンを銃で脅して車を奪い盗る。
奪った車を売ろうとする二人だが、逃げる途中で韓国人の老人を轢いてしまう。
同じ頃、同じ色のナビゲイターに乗っていた黒人のテレビ演出家のキャメロンと妻クリスティンは、人種差別主義者の警官ライアンに停止を命ぜられ、屈辱的な扱いを受ける。
だが、白人社会で地位を築いたキャメロンは、世間体を気にして反論する事が出来ない。
ライアンの同僚のハンセンは、ライアンに不快感を覚えながらも何も言う事が出来ない。
車を奪われたリックの家では、ジーンが家の鍵をヒスパニック系鍵職人のダニエルに付け替えさせていた。
見るからに貧しい身なりのダニエルに、露骨な不信感をあらわにするジーン。
成功者の妻であるジーンは、常に得体の知れない不安感に怯えていた。
仕事を終えて家に帰ったダニエルは、銃声におびえる娘のララに、絶対に弾丸を通さない「魔法のマント」を着せてあげる。
そこへファハドの店から、壊れた鍵を直すようにという依頼が入る。
ファハドの店へ行ったダニエルは、ドアを交換しないと鍵を直す事が出来ないと訴えるが、偏屈で英語の良くわからないファハドは取り合わない。
怒ったダニエルはそのまま帰ってしまい、結果的に店は泥棒に荒らされてしまう。
それまで全く関わりの無かった人々の人生が、運命の巡り合いの様に交錯し、ぶつかり合う不思議な一日が始まった・・・・
連続で満点を付けてしまった。
重すぎず、軽すぎず、物語のバランス的に絶妙の匙加減。
脚本家として既に「ミリオンダラーベイビー」という傑作を物にし、テレビドラマの演出経験があるとはいえ、ポール・ハギスの演出家としてのセンスがこれほどとは思わなかった。
勿論、多様な登場人物のエピソードを重層的に絡ませ、一つのストーリーを紡いで行く脚本のテクニックも抜群だ。
ドン・チードル、サンドラ・ブロック、マット・ディロンにブレンダン・フレイザー、一人でも一枚看板を背負えるクラスのスター達が、一人頭では15分にも満たない出演時間の中で、市井の人々の苦悩と小さな希望を巧みに演じる。
彼らが体現するのは、白人、黒人、ヒスパニック、アジア人、ホワイトカラー、ブルーカラー、刑事、犯罪者・・・・広大なロサンゼルスの街の中で、それぞれの人種や階層を代表する人々だ。
これだけ沢山の登場人物の別々のエピソードが、少しずつ絡まりながら一つの物語を構成するというのは、ロスの広さ一つ考えてみても、ある意味で凄く御都合主義。
何しろ大ロサンゼルスエリアは、関東地方に匹敵する広大な土地で、たった一日の間に見ず知らずの人々が何度も交錯する確率など、天文学的に低いはず。
だがこの脚本が凄いのは、そんな無理を全く感じさせない事なのだ。
技巧を凝らした脚本はしばしばその技巧が嘘臭く感じられ、軽薄な作品になりがちだ。
だが、ポール・ハギスの生み出す登場人物たちは驚くほどリアルで、生々しい魅力に溢れ、その行動に「技巧」は全く感じられない。
主要な登場人物だけでも十数人に及ぶので、一人一人を描くエピソードは短い。
しかしそのモザイクの断片のような僅かの時間の中で、しっかりとキャラクターを描き分け、最終的には大きく複雑な人間模様を描き出すのだ。
この人間観察眼の確かさは驚異的ですらある。
物語のキーになるのは人種と階層による社会の分断。
そしてそれが作り出す「衝突 "CRASH"」だ。
現在、アメリカには法的に人種差別は存在しないし、社会的地位のある人がオフィシャルに差別発言したりしたら大問題になり、地位を追われる事も珍しくない。
しかし、一人一人の心の奥底には、まだまだ壁があるのも事実で、その壁を物理的に形作っているのは人種や階層による都市の分断だ。
アメリカの街を車で走ると、白人地区、黒人地区、ヒスパニック地区と言うように、見事に分かれて住んでいるのが判る。
勿論裕福な白人地区に住むアジア人や黒人もいるが、その場合彼らはコミュニティにおいては「白人の様に振舞う事」を要求される。
それが時には人種の尊厳を損なう事であったとしても。
また人種のピラミッドの頂点である白人の中でも、今度は宗教や職種、出身国による階層が存在する。
貧乏な白人の住む街と、裕福な白人の街は、通ってみれば直ぐに判るほど違うのだ。
しかしこの映画は所謂「差別」をテーマとした単純な物ではない。
映画は、社会の様々なしがらみによって差別され、分断された人々が、物語の中で絡まり衝突し、互いに影響を与えつつ、新しい一日を迎える様子を描いている。
一見して無関係に存在しているように見えても、同じ社会に暮らす人間同士である限り、本当に無関係ではあり得ない。
分断と差別は確かに衝突を生み出すが、映画が描いているのはむしろその衝突の結果として、好むと好まざるとに関わらず、他人を求め、他人と関わらずには生きられない、人間という存在の切ない性だと思う。
「ミリオンダラーベイビー」でもそうだったが、ポール・ハギスの描く物語はとてもリアルで残酷だが、それを見つめる眼差しはとても優しい。
映画はクリスマス前の、たった一日の物語だし、ループするような物語構造に象徴されるように、一つ一つのエピソードに結末は無い。
それでも(ただ一人を除いて)登場人物の誰もが、良くも悪くも昨日とは違った人生に歩みだしている。
哀しいだけの人生は無いし、嬉しい事ばかりが続く訳も無い。
辛くても、哀しくても、そして少し嬉しい事があっても、全てを飲み込んで明日も人生は続く。
この映画は、そんな沢山の無名の「アメリカ人」に対する ささやかな賛歌だと思う。
さて、この映画にはロサンゼルス近郊(とは言ってもかなり遠いけど)のサンタバーバラ産の「ブランダー ソーヴィニヨン・ブラン」を。
カリフォルニアワインというと、日本ではサンフランシスコ近郊のナパバレーが有名だが、
地中海性気候に恵まれた南カリフォルニアもワインどころ。
映画「サイドウェイ」でも舞台になったのは記憶に新しい。
こちらはすっきりしつつも適度な酸味と甘味を感じる大人な白ワイン。
映画の余韻と喧嘩せずに引き立ててくれるでしょう。
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追記:あちこちのブログでこの映画の感想を読んでみると、「現在のアメリカでも、差別が日常であるのが驚いた」とか「アメリカに行くのが怖くなった」とか、映画からアメリカ社会にネガティブな印象を持たれてしまっている方が多いのがちょっとショック。
確かに私も、この映画を「リアル」であると書いたが、「クラッシュ」のリアルさは映画的にカリカチュアされたリアルさである事は理解していただきたい。
物語的なリアルさであって、ドキュメンタリー的なリアルさではないのだ。
この映画は、数十人にも及ぶ登場人物のそれぞれが「差別が生み出すクラッシュに出会う一日」、というコンセプトに基づいて描かれているので、必然的に映画の中はステロタイプと差別だらけになる。
だからといって、現実に生活していて毎日差別を感じる訳では無い。
私の体験的に言えば、日常生活や仕事の上で本当に相手から差別心を感じるのは、精々年に数回程度だ。
もっとも日本人は、様々な要因もあって西海岸では比較的差別にあいにくい人種であり、人種や職種によってはもっと感じているという人もいるだろうけど、逆にマイノリティでも差別など感じないという人もいる訳で。
偏見と差別は深刻な問題ではあるが、むしろ多様な文化を受け入れるアメリカ社会の恩恵を感じる事の方がずっと多いのも、また事実だと思って欲しい。

ブランダー ソーヴィニヨンブラン 2004 \2180
この映画は、アメリカの移民社会に暮らしたことのある人間には、まさしく人生に縮図のようなリアリティを持って感じられる。
勿論、アメリカ社会を実際に知らなくても十分面白いと思うが、出てくるキャラクターやエピソードが妙にリアルなので、知っているともっと感情移入しやすいだろう。
「ああ、こういう人いるなあ・・・」「こんな経験をしたよなあ・・・」「この人の気持ちわかるなあ・・・」
エピソードの一つ一つが、いちいち自分の記憶を思い起こさせるのだ。
クリスマス間近のロサンゼルス。
LAPDの黒人刑事グラハムは、恋人のヒスパニック系刑事リアと共に車の追突事故に遭うが、事故現場の隣では偶然にも殺人事件の捜査が行われているところだった。
被害者は黒人の若者。
グラハムは、まるで何かに呼び寄せられるように現場に足を踏み入れる。
その前日。
ペルシャ人商店主のファハド親子は店の防犯のために銃を買いに来て、アラブ人と間違えられ銃砲店の主人と喧嘩になる。
白人にはペルシャ人もアラブ人も見分けがつかない。
夜のウエストウッドでは、黒人の若者ピーターとアンソニーがレストランで受けた差別的な扱いについて悪態をついていた。
二人は、リンカーンナビゲイターに乗ろうとしていた検事のリックと妻のジーンを銃で脅して車を奪い盗る。
奪った車を売ろうとする二人だが、逃げる途中で韓国人の老人を轢いてしまう。
同じ頃、同じ色のナビゲイターに乗っていた黒人のテレビ演出家のキャメロンと妻クリスティンは、人種差別主義者の警官ライアンに停止を命ぜられ、屈辱的な扱いを受ける。
だが、白人社会で地位を築いたキャメロンは、世間体を気にして反論する事が出来ない。
ライアンの同僚のハンセンは、ライアンに不快感を覚えながらも何も言う事が出来ない。
車を奪われたリックの家では、ジーンが家の鍵をヒスパニック系鍵職人のダニエルに付け替えさせていた。
見るからに貧しい身なりのダニエルに、露骨な不信感をあらわにするジーン。
成功者の妻であるジーンは、常に得体の知れない不安感に怯えていた。
仕事を終えて家に帰ったダニエルは、銃声におびえる娘のララに、絶対に弾丸を通さない「魔法のマント」を着せてあげる。
そこへファハドの店から、壊れた鍵を直すようにという依頼が入る。
ファハドの店へ行ったダニエルは、ドアを交換しないと鍵を直す事が出来ないと訴えるが、偏屈で英語の良くわからないファハドは取り合わない。
怒ったダニエルはそのまま帰ってしまい、結果的に店は泥棒に荒らされてしまう。
それまで全く関わりの無かった人々の人生が、運命の巡り合いの様に交錯し、ぶつかり合う不思議な一日が始まった・・・・
連続で満点を付けてしまった。
重すぎず、軽すぎず、物語のバランス的に絶妙の匙加減。
脚本家として既に「ミリオンダラーベイビー」という傑作を物にし、テレビドラマの演出経験があるとはいえ、ポール・ハギスの演出家としてのセンスがこれほどとは思わなかった。
勿論、多様な登場人物のエピソードを重層的に絡ませ、一つのストーリーを紡いで行く脚本のテクニックも抜群だ。
ドン・チードル、サンドラ・ブロック、マット・ディロンにブレンダン・フレイザー、一人でも一枚看板を背負えるクラスのスター達が、一人頭では15分にも満たない出演時間の中で、市井の人々の苦悩と小さな希望を巧みに演じる。
彼らが体現するのは、白人、黒人、ヒスパニック、アジア人、ホワイトカラー、ブルーカラー、刑事、犯罪者・・・・広大なロサンゼルスの街の中で、それぞれの人種や階層を代表する人々だ。
これだけ沢山の登場人物の別々のエピソードが、少しずつ絡まりながら一つの物語を構成するというのは、ロスの広さ一つ考えてみても、ある意味で凄く御都合主義。
何しろ大ロサンゼルスエリアは、関東地方に匹敵する広大な土地で、たった一日の間に見ず知らずの人々が何度も交錯する確率など、天文学的に低いはず。
だがこの脚本が凄いのは、そんな無理を全く感じさせない事なのだ。
技巧を凝らした脚本はしばしばその技巧が嘘臭く感じられ、軽薄な作品になりがちだ。
だが、ポール・ハギスの生み出す登場人物たちは驚くほどリアルで、生々しい魅力に溢れ、その行動に「技巧」は全く感じられない。
主要な登場人物だけでも十数人に及ぶので、一人一人を描くエピソードは短い。
しかしそのモザイクの断片のような僅かの時間の中で、しっかりとキャラクターを描き分け、最終的には大きく複雑な人間模様を描き出すのだ。
この人間観察眼の確かさは驚異的ですらある。
物語のキーになるのは人種と階層による社会の分断。
そしてそれが作り出す「衝突 "CRASH"」だ。
現在、アメリカには法的に人種差別は存在しないし、社会的地位のある人がオフィシャルに差別発言したりしたら大問題になり、地位を追われる事も珍しくない。
しかし、一人一人の心の奥底には、まだまだ壁があるのも事実で、その壁を物理的に形作っているのは人種や階層による都市の分断だ。
アメリカの街を車で走ると、白人地区、黒人地区、ヒスパニック地区と言うように、見事に分かれて住んでいるのが判る。
勿論裕福な白人地区に住むアジア人や黒人もいるが、その場合彼らはコミュニティにおいては「白人の様に振舞う事」を要求される。
それが時には人種の尊厳を損なう事であったとしても。
また人種のピラミッドの頂点である白人の中でも、今度は宗教や職種、出身国による階層が存在する。
貧乏な白人の住む街と、裕福な白人の街は、通ってみれば直ぐに判るほど違うのだ。
しかしこの映画は所謂「差別」をテーマとした単純な物ではない。
映画は、社会の様々なしがらみによって差別され、分断された人々が、物語の中で絡まり衝突し、互いに影響を与えつつ、新しい一日を迎える様子を描いている。
一見して無関係に存在しているように見えても、同じ社会に暮らす人間同士である限り、本当に無関係ではあり得ない。
分断と差別は確かに衝突を生み出すが、映画が描いているのはむしろその衝突の結果として、好むと好まざるとに関わらず、他人を求め、他人と関わらずには生きられない、人間という存在の切ない性だと思う。
「ミリオンダラーベイビー」でもそうだったが、ポール・ハギスの描く物語はとてもリアルで残酷だが、それを見つめる眼差しはとても優しい。
映画はクリスマス前の、たった一日の物語だし、ループするような物語構造に象徴されるように、一つ一つのエピソードに結末は無い。
それでも(ただ一人を除いて)登場人物の誰もが、良くも悪くも昨日とは違った人生に歩みだしている。
哀しいだけの人生は無いし、嬉しい事ばかりが続く訳も無い。
辛くても、哀しくても、そして少し嬉しい事があっても、全てを飲み込んで明日も人生は続く。
この映画は、そんな沢山の無名の「アメリカ人」に対する ささやかな賛歌だと思う。
さて、この映画にはロサンゼルス近郊(とは言ってもかなり遠いけど)のサンタバーバラ産の「ブランダー ソーヴィニヨン・ブラン」を。
カリフォルニアワインというと、日本ではサンフランシスコ近郊のナパバレーが有名だが、
地中海性気候に恵まれた南カリフォルニアもワインどころ。
映画「サイドウェイ」でも舞台になったのは記憶に新しい。
こちらはすっきりしつつも適度な酸味と甘味を感じる大人な白ワイン。
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追記:あちこちのブログでこの映画の感想を読んでみると、「現在のアメリカでも、差別が日常であるのが驚いた」とか「アメリカに行くのが怖くなった」とか、映画からアメリカ社会にネガティブな印象を持たれてしまっている方が多いのがちょっとショック。
確かに私も、この映画を「リアル」であると書いたが、「クラッシュ」のリアルさは映画的にカリカチュアされたリアルさである事は理解していただきたい。
物語的なリアルさであって、ドキュメンタリー的なリアルさではないのだ。
この映画は、数十人にも及ぶ登場人物のそれぞれが「差別が生み出すクラッシュに出会う一日」、というコンセプトに基づいて描かれているので、必然的に映画の中はステロタイプと差別だらけになる。
だからといって、現実に生活していて毎日差別を感じる訳では無い。
私の体験的に言えば、日常生活や仕事の上で本当に相手から差別心を感じるのは、精々年に数回程度だ。
もっとも日本人は、様々な要因もあって西海岸では比較的差別にあいにくい人種であり、人種や職種によってはもっと感じているという人もいるだろうけど、逆にマイノリティでも差別など感じないという人もいる訳で。
偏見と差別は深刻な問題ではあるが、むしろ多様な文化を受け入れるアメリカ社会の恩恵を感じる事の方がずっと多いのも、また事実だと思って欲しい。

ブランダー ソーヴィニヨンブラン 2004 \2180
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