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2006年03月29日 (水) | 編集 |
ラップランドという地名を初めて知ったのは、たぶん「ニルスの不思議な旅」を読んだ時だ。
スカンジナビアとロシアの北極圏に跨る、広大な森と湖の世界。
夏になると太陽の沈まぬ白夜が、冬になると太陽の登らない極夜もある不思議な土地。
そしてそこは様々な神話・伝説を生んだサーミ人たちが暮らす、物語の故郷でもある。
これはそんなラップランドが戦場となった、20世紀のある時期の物語。
ちなみに妖精は出てこない(笑
フィンランド北極圏の地、ラップランド。
そこではロシア軍とドイツ軍、ドイツに同盟していたフィンランド軍が戦っていた。
平和主義者であるフィンランド軍の狙撃兵ヴェイッコは、戦いを放棄した罪でドイツ軍の軍服を着せられて、鎖で岩に繋がれたまま置き去りにされてしまう。
彼は僅かに残された食料と装備で、数日間かけてなんとか岩を砕いて杭を引き抜くと、鎖を引きずったまま歩き出だした。
ロシア軍大尉イワン(アレクサンドル・ロゴシュキン)は歴戦の勇士だが、仲間に売られ秘密警察に逮捕される。
だがイワンを乗せた護送車は味方の誤爆によって破壊され、彼も重傷を負う。
たまたま通りかかった近くに住むサーミ人の女アンニ(アンニ=クリスティーナ・ユーソ)は、瀕死のイワンを自分の小屋まで運び、看病してやることにする。
一方、鎖を外したいヴェイッコも、道具を借りようとアンニの家にやってくる。
未亡人のアンニは久々に現れた「いい男」二人を、自分の小屋にかくまってやることにした。
北極圏の小屋で顔を合わせた二人の兵士と一人の女。
ところが、困った事にアンニ、ヴェイッコ、イワンはお互いの言語を全く理解することができなかったのだ・・・・
第二次世界大戦の頃の話だけど、なんとなく「むか~し、むかしの物語」ってフレーズが似合いそうだ。
民話的な長閑さと、寓話性が印象的な佳作。
言葉が通じないフィンランド人、ロシア人、サーミ人の三人は、それぞれ実際にその言語のネイティブが演じている。
実際のところ、この三つの言語の違いなんて聞き慣れない耳にはまったく判らないのだけど、日本語と韓国語と中国語で喋りあうような物かと思うと何となく想像できる。
登場人物が互いの言葉を理解しないで、それぞれの勝手な解釈で行動し、それが思いも寄らない可笑しさを生み出すというのは、コメディの定番の一つ。
映画の大半は大してドラマチックな事も起こらず、この三人の心の行き違いが生み出す、ユーモラスな日常を描写しているのだが、ベタベタなのは判っていてもやっぱり笑ってしまう。
恐らく意図的だと思うが、アレクサンドル・ロゴシュキン監督の演出テンポも恐ろしくのんび~り、ま~たりしてる。
例えば岩に鎖でつながれたヴェイッコが、自由になろうと必死に岩を砕くさまを延々と数十分間に渡って見せる。
ハリウッド映画ならどんなに粘ってもこの半分だろう。
人によっては退屈するかもしれないが、観てるうちに段々とこのテンポに慣れてきて、気持ちもま~たりしてくるから不思議。
このラップランド時間に身を委ねられるかどうかが評価の分かれ目かもしれない。
言葉の通じない二人の兵士は、最初のうちはそれぞれの色眼鏡で互いを見ている。
イワンはヴェイッコを、ファシストのドイツ兵だと思い込み、隙あらば殺そうとしているし、ヴェイッコはイワンを頭の固い戦争屋のロシア人だと思ってる。
だがアンニの存在によって、敵対する二人の兵士に、やがて変化が訪れる。
未亡人アンニにとっての二人は、兵士でも外国人でもない。
ただ久々に彼女の前に現れた「いい男たち」。
どっちかと言うと欲望の対象だ(笑
言語という社会性から解き放たれ、己の欲望に正直になった時、三人は初めて素の人間として互いを見つめる。
兵士としての敵対は、次第に男としての敵対に変わり、固定観念が引き起こす「ある事件」をきっかけに、色眼鏡は遂に色を失う。
戦場から解き放たれた兵士たちは、アンニの小屋でただの人間に戻り、やがて去って行く。
映画の後半は殆ど3人しか出てこないのだが、厳しい自然の中で気の向くままに生きているアンニ役のサーミ人女優、アンニ=クリスティーナ・ユーソがとても良い。
小汚い格好をしているが、ちょっとしたしぐさがチャーミングで、固定観念にとらわれた二人の男たちとは対照的な自然体の生き方を、存在感たっぷりに演じている。
もっとも、一見世間とは関わり無く生きてる様に見える彼女だが、どうやら夫は兵隊にとられて戦死した様だから、やはり外の世界と無関係ではいられないのではあるが。
このあたりのちょっとしたディティールが映画に深みを加えている。
ところでタイトルの「ククーシュカ」って劇中にも何の説明も無かったんで、何の言葉かと思ったんだけど、どうやらロシア語で「カッコー」の意味。
カッコーは狙撃兵を表す隠語でもあり、アンニの本名でもある。
またカッコーは他人の巣に卵を産んで、育てさせる鳥でもある。
映画を観終わると結構意味深な気がする・・・
さて、この映画には当然ウォッカ・・・では強すぎる。
ここはラップランド美人アンニに引っ掛けて、日本酒の「南部美人」を。
スッキリとしたシャープな飲み口と心地よい香味は正に美人の名に相応しい。
遠野物語を生んだ岩手県は、民話と伝説の里。
雪深い日本のラップランド・・・かな?
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南部美人 木桶仕込み純米酒 桶の民 500ml \2625

南部美人(なんぶびじん) 純米吟醸無濾過生原酒 蔵元直送品 \1620
スカンジナビアとロシアの北極圏に跨る、広大な森と湖の世界。
夏になると太陽の沈まぬ白夜が、冬になると太陽の登らない極夜もある不思議な土地。
そしてそこは様々な神話・伝説を生んだサーミ人たちが暮らす、物語の故郷でもある。
これはそんなラップランドが戦場となった、20世紀のある時期の物語。
ちなみに妖精は出てこない(笑
フィンランド北極圏の地、ラップランド。
そこではロシア軍とドイツ軍、ドイツに同盟していたフィンランド軍が戦っていた。
平和主義者であるフィンランド軍の狙撃兵ヴェイッコは、戦いを放棄した罪でドイツ軍の軍服を着せられて、鎖で岩に繋がれたまま置き去りにされてしまう。
彼は僅かに残された食料と装備で、数日間かけてなんとか岩を砕いて杭を引き抜くと、鎖を引きずったまま歩き出だした。
ロシア軍大尉イワン(アレクサンドル・ロゴシュキン)は歴戦の勇士だが、仲間に売られ秘密警察に逮捕される。
だがイワンを乗せた護送車は味方の誤爆によって破壊され、彼も重傷を負う。
たまたま通りかかった近くに住むサーミ人の女アンニ(アンニ=クリスティーナ・ユーソ)は、瀕死のイワンを自分の小屋まで運び、看病してやることにする。
一方、鎖を外したいヴェイッコも、道具を借りようとアンニの家にやってくる。
未亡人のアンニは久々に現れた「いい男」二人を、自分の小屋にかくまってやることにした。
北極圏の小屋で顔を合わせた二人の兵士と一人の女。
ところが、困った事にアンニ、ヴェイッコ、イワンはお互いの言語を全く理解することができなかったのだ・・・・
第二次世界大戦の頃の話だけど、なんとなく「むか~し、むかしの物語」ってフレーズが似合いそうだ。
民話的な長閑さと、寓話性が印象的な佳作。
言葉が通じないフィンランド人、ロシア人、サーミ人の三人は、それぞれ実際にその言語のネイティブが演じている。
実際のところ、この三つの言語の違いなんて聞き慣れない耳にはまったく判らないのだけど、日本語と韓国語と中国語で喋りあうような物かと思うと何となく想像できる。
登場人物が互いの言葉を理解しないで、それぞれの勝手な解釈で行動し、それが思いも寄らない可笑しさを生み出すというのは、コメディの定番の一つ。
映画の大半は大してドラマチックな事も起こらず、この三人の心の行き違いが生み出す、ユーモラスな日常を描写しているのだが、ベタベタなのは判っていてもやっぱり笑ってしまう。
恐らく意図的だと思うが、アレクサンドル・ロゴシュキン監督の演出テンポも恐ろしくのんび~り、ま~たりしてる。
例えば岩に鎖でつながれたヴェイッコが、自由になろうと必死に岩を砕くさまを延々と数十分間に渡って見せる。
ハリウッド映画ならどんなに粘ってもこの半分だろう。
人によっては退屈するかもしれないが、観てるうちに段々とこのテンポに慣れてきて、気持ちもま~たりしてくるから不思議。
このラップランド時間に身を委ねられるかどうかが評価の分かれ目かもしれない。
言葉の通じない二人の兵士は、最初のうちはそれぞれの色眼鏡で互いを見ている。
イワンはヴェイッコを、ファシストのドイツ兵だと思い込み、隙あらば殺そうとしているし、ヴェイッコはイワンを頭の固い戦争屋のロシア人だと思ってる。
だがアンニの存在によって、敵対する二人の兵士に、やがて変化が訪れる。
未亡人アンニにとっての二人は、兵士でも外国人でもない。
ただ久々に彼女の前に現れた「いい男たち」。
どっちかと言うと欲望の対象だ(笑
言語という社会性から解き放たれ、己の欲望に正直になった時、三人は初めて素の人間として互いを見つめる。
兵士としての敵対は、次第に男としての敵対に変わり、固定観念が引き起こす「ある事件」をきっかけに、色眼鏡は遂に色を失う。
戦場から解き放たれた兵士たちは、アンニの小屋でただの人間に戻り、やがて去って行く。
映画の後半は殆ど3人しか出てこないのだが、厳しい自然の中で気の向くままに生きているアンニ役のサーミ人女優、アンニ=クリスティーナ・ユーソがとても良い。
小汚い格好をしているが、ちょっとしたしぐさがチャーミングで、固定観念にとらわれた二人の男たちとは対照的な自然体の生き方を、存在感たっぷりに演じている。
もっとも、一見世間とは関わり無く生きてる様に見える彼女だが、どうやら夫は兵隊にとられて戦死した様だから、やはり外の世界と無関係ではいられないのではあるが。
このあたりのちょっとしたディティールが映画に深みを加えている。
ところでタイトルの「ククーシュカ」って劇中にも何の説明も無かったんで、何の言葉かと思ったんだけど、どうやらロシア語で「カッコー」の意味。
カッコーは狙撃兵を表す隠語でもあり、アンニの本名でもある。
またカッコーは他人の巣に卵を産んで、育てさせる鳥でもある。
映画を観終わると結構意味深な気がする・・・
さて、この映画には当然ウォッカ・・・では強すぎる。
ここはラップランド美人アンニに引っ掛けて、日本酒の「南部美人」を。
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2006年03月26日 (日) | 編集 |
「BROKEBACK MOUNTAIN」とは、直訳すれば「壊れ背の山」。
ワイオミングにはスキーや山歩きをしに何度も行った事があるが、この地名は記憶に無い。
映画から想像するに、ロッキー山脈かティートン山脈の一部の様だが、創作された聖域なのかもしれない。
この映画は、あまりにも美しいワイオミングの自然に抱かれた、二人の男の二十年余りにわたる秘められた愛の物語である。
1963年夏。
カウボーイのジャック・ツイスト(ジェイク・ギレンホール)とイニス・デルマー(ヒース・レジャー)は、ワイオミングのブロークバック・マウンテンで出会った。
彼らは羊の放牧のために、ひと夏を山で過ごす事となったのだ。
雄大な自然の中に人間はたった二人。
二人は直に打ち解け、友情を育んでゆく。
ある夜、テントの中でジャックはイニスを誘い、二人は結ばれた。
戸惑いながらも幸せなひと夏が過ぎ、山を降りた二人は思い出を胸に秘め、それぞれの街へ帰っていった。
やがて二人とも結婚し、子供も出来た。
数年の歳月が過ぎた頃、ジャックからイニスへ手紙が届く。
「会いたい」
再会した二人は、直にあの愛が真実であったことを確信する。
二人は何時しか、思い出のブロークバック・マウンテンへと向かっていた。
1963年のあの夏の様に・・・・
「ゲイのカウボーイのラブストーリー」というセンセーショナルな側面ばかりクローズアップされているが、実際のところお話そのものはごく普通。
二人の若者がブロークバック・マウンテンの自然の中で出会い、愛し合う。
やがて別れが訪れ、二人はそれぞれに家庭を持つが、秘められた愛は長く続いてゆくという物。
たまたま愛し合うカップルが男同士であるという要素が加えられているだけで、ある意味で不倫物ラブストーリーの王道的な物語だ。
原作はアニー・プルーの短編小説だが、元々同性愛あるいはバイセクシャルという素材は女性の創作する物語では珍しくない。
この作品の設定はハーレクインロマンス、あるいは竹宮恵子あたりの少女漫画にもありそうだ。
勿論男が観ても十分伝わる物はあるけど、どっちかというとこの映画は女性受けするんじゃないだろうか。
面白いのはアン・リー監督の淡々とした演出も、どこか70年代の少女漫画調で、耽美的な美しさを求めている様に見える事。
この人の作風は一作ごとにわりと自由に変化するけど、この作品や「グリーンデスティニー」などを観ても、何気に漫画っぽさは一つのキーワードだ。
勿論少女漫画なら画的な美しさは不可欠で、主役はイケメン二人だし、二人の愛を抱くワイオミングの雄大な自然は、撮影監督ロドリゴ・プリエトの素晴しいカメラによって切り取られ、作品に神聖さをもプラスしている。
感情を露にし、時に刹那的にすら見えるジャックを演じたジェイク・ギレンホール、家庭人としての自分と、禁断の愛との間で葛藤するイニスを演じたヒース・レジャーは共に今までのベストと言って良い。
そしてイニスの妻アルマを演じたミッシェル・ウィリアムスは更に素晴しい。
夫とジャックのキスシーンを目撃してしまい、絶望と愛の狭間で葛藤する心理を上手く演じている。
物語中でも比較的比重の重いイニスの家庭描写は、彼女の好演で非常にリアリティのある物となっている。
ジャックの妻で典型的な仮面夫婦のラリーンを演じるのは、アン・ハサウェイ。
お姫様役のイメージから脱皮しようと頑張っているが、芸達者な共演者の中に入るとまだちょっと力不足。
ズラ似合ってなかったし。
1963年から20年に渡る、二人の長い長い愛と葛藤の日々の終わりは、ジャックからイニスへと託された「ある物」で締めくくられる。
これは完全にネタバレになるので具体的に書かないが、ある物は非常に象徴的だ。
最初それはジャックの物がイニスの物を包む様にして登場するのだが、最終的にイニスはそれを逆にする。
イニスの物がジャックを包み込むのだ。
この愛の物語は、初めての夏からずっとジャックがイニスを求め続けた。
七夕の織姫と彦星の様に、二人だけの聖域で年に数回しか会えない関係でも、常にジャックがイニスに会いに行き、イニスはその愛の激しさに戸惑いながらも応えてきた。
全てが終わった時、イニスは始めて自分からジャックを包み込み、ジャックの狂おしいまでの愛は、遂にイニスの永遠の愛を勝ち取るのだ。
それは禁じられていたが故に、純粋さが突き詰められた究極の愛の勝利といっても良いと思う。
普遍的かつ究極的な愛の物語である「ブロークバック・マウンテン」は文句なしに名作だとは思うのだが、私は微妙に奥歯に物が挟まった様な感覚を覚えた。
私は二人の主人公のうち、どっちかというとイニスに感情移入して観たのだが、劇中最も強く感情移入してしまったのがイニスの妻のアルマだったのだ。
たぶん、私自身が昔似たシチュエーションでアルマの気持ちを味わった事があるからかもしれない。(別に彼女がレズビアンだったって訳じゃなかったけどさ)
だからラストでジャックとイニスの愛が永遠となり、全てが昇華された時も、「いや、あんたたちは良かったかもしれないけど、あたしの気持ちはどうしてくれるのよ?」って感じが残ってしまったのだ。
この映画、観る人間の恋愛観や過去の経験で微妙に感想が異なるかもしれない(笑
さて今回は、映画の舞台となっているワイオミングの地ビール「スネーク リバー」をチョイス。
アメリカにはmicrobreweryと呼ばれる地ビールの業者が無数にあり、こちらは冬季オリンピックの舞台としても知られるジャクソンホール近郊の会社。
残念ながら日本では入手できない様だが、ジャクソンや隣接するグランド・ティートン国立公園、イエローストーン国立公園などで飲むことが出来る。
スッキリとした味わいで、夏の山にも冬のスキーの後にもぴったり。
これにヘラジカのローストがあればもう最高!
アメリカ旅行の機会に是非お試しあれ。
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原作小説
ワイオミングにはスキーや山歩きをしに何度も行った事があるが、この地名は記憶に無い。
映画から想像するに、ロッキー山脈かティートン山脈の一部の様だが、創作された聖域なのかもしれない。
この映画は、あまりにも美しいワイオミングの自然に抱かれた、二人の男の二十年余りにわたる秘められた愛の物語である。
1963年夏。
カウボーイのジャック・ツイスト(ジェイク・ギレンホール)とイニス・デルマー(ヒース・レジャー)は、ワイオミングのブロークバック・マウンテンで出会った。
彼らは羊の放牧のために、ひと夏を山で過ごす事となったのだ。
雄大な自然の中に人間はたった二人。
二人は直に打ち解け、友情を育んでゆく。
ある夜、テントの中でジャックはイニスを誘い、二人は結ばれた。
戸惑いながらも幸せなひと夏が過ぎ、山を降りた二人は思い出を胸に秘め、それぞれの街へ帰っていった。
やがて二人とも結婚し、子供も出来た。
数年の歳月が過ぎた頃、ジャックからイニスへ手紙が届く。
「会いたい」
再会した二人は、直にあの愛が真実であったことを確信する。
二人は何時しか、思い出のブロークバック・マウンテンへと向かっていた。
1963年のあの夏の様に・・・・
「ゲイのカウボーイのラブストーリー」というセンセーショナルな側面ばかりクローズアップされているが、実際のところお話そのものはごく普通。
二人の若者がブロークバック・マウンテンの自然の中で出会い、愛し合う。
やがて別れが訪れ、二人はそれぞれに家庭を持つが、秘められた愛は長く続いてゆくという物。
たまたま愛し合うカップルが男同士であるという要素が加えられているだけで、ある意味で不倫物ラブストーリーの王道的な物語だ。
原作はアニー・プルーの短編小説だが、元々同性愛あるいはバイセクシャルという素材は女性の創作する物語では珍しくない。
この作品の設定はハーレクインロマンス、あるいは竹宮恵子あたりの少女漫画にもありそうだ。
勿論男が観ても十分伝わる物はあるけど、どっちかというとこの映画は女性受けするんじゃないだろうか。
面白いのはアン・リー監督の淡々とした演出も、どこか70年代の少女漫画調で、耽美的な美しさを求めている様に見える事。
この人の作風は一作ごとにわりと自由に変化するけど、この作品や「グリーンデスティニー」などを観ても、何気に漫画っぽさは一つのキーワードだ。
勿論少女漫画なら画的な美しさは不可欠で、主役はイケメン二人だし、二人の愛を抱くワイオミングの雄大な自然は、撮影監督ロドリゴ・プリエトの素晴しいカメラによって切り取られ、作品に神聖さをもプラスしている。
感情を露にし、時に刹那的にすら見えるジャックを演じたジェイク・ギレンホール、家庭人としての自分と、禁断の愛との間で葛藤するイニスを演じたヒース・レジャーは共に今までのベストと言って良い。
そしてイニスの妻アルマを演じたミッシェル・ウィリアムスは更に素晴しい。
夫とジャックのキスシーンを目撃してしまい、絶望と愛の狭間で葛藤する心理を上手く演じている。
物語中でも比較的比重の重いイニスの家庭描写は、彼女の好演で非常にリアリティのある物となっている。
ジャックの妻で典型的な仮面夫婦のラリーンを演じるのは、アン・ハサウェイ。
お姫様役のイメージから脱皮しようと頑張っているが、芸達者な共演者の中に入るとまだちょっと力不足。
ズラ似合ってなかったし。
1963年から20年に渡る、二人の長い長い愛と葛藤の日々の終わりは、ジャックからイニスへと託された「ある物」で締めくくられる。
これは完全にネタバレになるので具体的に書かないが、ある物は非常に象徴的だ。
最初それはジャックの物がイニスの物を包む様にして登場するのだが、最終的にイニスはそれを逆にする。
イニスの物がジャックを包み込むのだ。
この愛の物語は、初めての夏からずっとジャックがイニスを求め続けた。
七夕の織姫と彦星の様に、二人だけの聖域で年に数回しか会えない関係でも、常にジャックがイニスに会いに行き、イニスはその愛の激しさに戸惑いながらも応えてきた。
全てが終わった時、イニスは始めて自分からジャックを包み込み、ジャックの狂おしいまでの愛は、遂にイニスの永遠の愛を勝ち取るのだ。
それは禁じられていたが故に、純粋さが突き詰められた究極の愛の勝利といっても良いと思う。
普遍的かつ究極的な愛の物語である「ブロークバック・マウンテン」は文句なしに名作だとは思うのだが、私は微妙に奥歯に物が挟まった様な感覚を覚えた。
私は二人の主人公のうち、どっちかというとイニスに感情移入して観たのだが、劇中最も強く感情移入してしまったのがイニスの妻のアルマだったのだ。
たぶん、私自身が昔似たシチュエーションでアルマの気持ちを味わった事があるからかもしれない。(別に彼女がレズビアンだったって訳じゃなかったけどさ)
だからラストでジャックとイニスの愛が永遠となり、全てが昇華された時も、「いや、あんたたちは良かったかもしれないけど、あたしの気持ちはどうしてくれるのよ?」って感じが残ってしまったのだ。
この映画、観る人間の恋愛観や過去の経験で微妙に感想が異なるかもしれない(笑
さて今回は、映画の舞台となっているワイオミングの地ビール「スネーク リバー」をチョイス。
アメリカにはmicrobreweryと呼ばれる地ビールの業者が無数にあり、こちらは冬季オリンピックの舞台としても知られるジャクソンホール近郊の会社。
残念ながら日本では入手できない様だが、ジャクソンや隣接するグランド・ティートン国立公園、イエローストーン国立公園などで飲むことが出来る。
スッキリとした味わいで、夏の山にも冬のスキーの後にもぴったり。
これにヘラジカのローストがあればもう最高!
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原作小説


2006年03月23日 (木) | 編集 |
アカデミー賞を受賞したとは言え、観る前はちょっと心配だった。
アードマンが初めて米メジャーと組んだ前作の「チキンラン」は、それなりに良く出来てはいたものの、慣れない長編である事を過剰に意識した脚本で、いつものような歯切れの良さが見えなかった。
しっかりとした起承転結のストーリーラインを作り、その中でお得意のギャグやアクションを見せようとしたのだが、キッチリ作った物語が逆に枷となってしまい発想が飛躍せずに萎縮してしまっていた。
その反省か、今回は長さこそ80分を越えるが、ストーリーラインはそれほどしっかりとした物ではなく、むしろ小技を繋いで客を飽きさせないという短編的な作りに戻った。
結果的に、これは大正解!
小気味良いテンポでギャグが決まり、子供はもちろん大人が見ても十分に楽しめる85分だった。
ちょっと間抜けな発明家のウォレスと忠犬グルミットは、ウサギ駆除会社を作って大忙し。
街は恒例の「巨大野菜コンテスト」に向かって盛り上がっており、野菜を荒らすウサギが頭痛の種だったのだ。
だがウサギがあまりにも増えてしまったために、ウォレスはウサギを野菜嫌いにする機械を作り、自らが実験台となる。
ウォレスの「野菜嫌い」とウサギの「野菜好き」の心を交換するのだ。
途中で機械が暴走するアクシデントはあったが、実験は成功。
ウサギは野菜嫌いになって、かわりにウォレスが野菜好きとなった。
ウサギ被害から解放されて、コンテスト主催者のレディ・トッティントンさんも大喜び。
しかし、その夜から街に巨大なウサギの怪物が出没するようになる・・・・
原題は「Wallace & Gromit in The Curse of the Were-Rabbit(ウサギ男の呪い)」。
ピンと来る人もいるだろうが、このタイトルは英ハマー・プロの名作「The Curse of werewolf(吸血 狼男)」や「The Curse of Frankenstein(フランケンシュタインの呪い)」のパロディで、映画全体がちょっとクラッシックな英国ホラーのオマージュで溢れている。(時節柄「キングコング」なんかも入ってる)
58年生まれのニック・パーク監督(スティーブ・ボックスと共同監督)にとっては、子供の頃テレビで震えながら観た作品の映画的記憶だろう。
「チキンラン」ではハリウッド大作の「大脱走」をパロディにしていたが、こんなところにも原点回帰が見られる。
結果的に作りなれた自分のスタイルに戻った事が良かったのだろう。
前記したように映画の作りとしては、短編的だ。
一応全体としてのストーリーラインはあるが、それほどカッチリしたものではなく、物語としてはかなりゆるい。
かわりに話があっちこっちに飛び、その場面場面でアイディア抜群の見せ場がふんだんに仕掛けられている。
お客はなんとな~く観てるうちに、ギャグに爆笑し、キャラの愛らしさを楽しみ、アクションに手に汗握り、何時の間にか終わっている。
小技の連続なので集中力も要らず、その意味で小さな子供にとっても映画館でおとなしく見ていられる作品だろう。
実際春休み中で場内の半分は子供だったが、やかましくおしゃべりしたり、走り回る子もおらず、皆楽しそうに画面に見入っていた。
セルやCGでは絶対出せない、独特のキャラクターアニメの魅力は今回も満載。
お馴染みウォレスとグルミット以外にも、野菜マニアで心優しいレディ・トッティントンさんや、彼女に恋するイヤミなハンターのヴィクター、何故か怪物退治グッズをコレクションしてる変な神父さんなど、楽しい登場人物が満載だ。
一番キャラが立ってるのはウジャウジャでてくるブタ鼻のウサギたちで、とぼけた表情も可愛くて、三十過ぎのオッサンでも思わず人形が欲しくなる。
温かみのあるクレイアニメの映像は、刺激的な日本のアニメになれた子供達にも十分アピールしただろう。
まあテーマ的に深いものは無いし、85分と程よい短さなので満腹感もそこそこだが、精神的に心地よい「遊びの時間」を提供してくれる良作だ。
たぶん同じくらいのボリュームの作品二本立てだと、ちょうどお腹一杯になるんだけどな。
この腹八分目感が、映画館を出た人に旧作のDVDを買わせる手だとしたら大した物だ。
関係ないけどこの映画のウサギ男見てて、手塚治虫の短編ホラー漫画「ウォビット」を思い出したのは私だけだろうか。
漫画の顔はもっと怖いけど、そっくりだったよ。
さてさて、見終わって気分はライトなブランチでもって感じなんだが、キッズアニメでお酒を選ぶのは難しい。
ここはちょっと変則。
私がたまに行くレストランのデザートメニューなんだけどね。
アイスクリーム1スクープの回りに、グレープ風味のヨーグルトを敷き、大さじ2~3程度の「ルジェ クレーム カルテット」をソースとして注ぐ。
口の広いシャンパングラスなんかに盛り付けるとお洒落。
この程度の量で酔いはしないけど、甘味が引き出されて美味いよ。
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ルジェ クレーム カルテット 700ml ¥2034

こんなのもありました。カーアクセサリー色々。
アードマンが初めて米メジャーと組んだ前作の「チキンラン」は、それなりに良く出来てはいたものの、慣れない長編である事を過剰に意識した脚本で、いつものような歯切れの良さが見えなかった。
しっかりとした起承転結のストーリーラインを作り、その中でお得意のギャグやアクションを見せようとしたのだが、キッチリ作った物語が逆に枷となってしまい発想が飛躍せずに萎縮してしまっていた。
その反省か、今回は長さこそ80分を越えるが、ストーリーラインはそれほどしっかりとした物ではなく、むしろ小技を繋いで客を飽きさせないという短編的な作りに戻った。
結果的に、これは大正解!
小気味良いテンポでギャグが決まり、子供はもちろん大人が見ても十分に楽しめる85分だった。
ちょっと間抜けな発明家のウォレスと忠犬グルミットは、ウサギ駆除会社を作って大忙し。
街は恒例の「巨大野菜コンテスト」に向かって盛り上がっており、野菜を荒らすウサギが頭痛の種だったのだ。
だがウサギがあまりにも増えてしまったために、ウォレスはウサギを野菜嫌いにする機械を作り、自らが実験台となる。
ウォレスの「野菜嫌い」とウサギの「野菜好き」の心を交換するのだ。
途中で機械が暴走するアクシデントはあったが、実験は成功。
ウサギは野菜嫌いになって、かわりにウォレスが野菜好きとなった。
ウサギ被害から解放されて、コンテスト主催者のレディ・トッティントンさんも大喜び。
しかし、その夜から街に巨大なウサギの怪物が出没するようになる・・・・
原題は「Wallace & Gromit in The Curse of the Were-Rabbit(ウサギ男の呪い)」。
ピンと来る人もいるだろうが、このタイトルは英ハマー・プロの名作「The Curse of werewolf(吸血 狼男)」や「The Curse of Frankenstein(フランケンシュタインの呪い)」のパロディで、映画全体がちょっとクラッシックな英国ホラーのオマージュで溢れている。(時節柄「キングコング」なんかも入ってる)
58年生まれのニック・パーク監督(スティーブ・ボックスと共同監督)にとっては、子供の頃テレビで震えながら観た作品の映画的記憶だろう。
「チキンラン」ではハリウッド大作の「大脱走」をパロディにしていたが、こんなところにも原点回帰が見られる。
結果的に作りなれた自分のスタイルに戻った事が良かったのだろう。
前記したように映画の作りとしては、短編的だ。
一応全体としてのストーリーラインはあるが、それほどカッチリしたものではなく、物語としてはかなりゆるい。
かわりに話があっちこっちに飛び、その場面場面でアイディア抜群の見せ場がふんだんに仕掛けられている。
お客はなんとな~く観てるうちに、ギャグに爆笑し、キャラの愛らしさを楽しみ、アクションに手に汗握り、何時の間にか終わっている。
小技の連続なので集中力も要らず、その意味で小さな子供にとっても映画館でおとなしく見ていられる作品だろう。
実際春休み中で場内の半分は子供だったが、やかましくおしゃべりしたり、走り回る子もおらず、皆楽しそうに画面に見入っていた。
セルやCGでは絶対出せない、独特のキャラクターアニメの魅力は今回も満載。
お馴染みウォレスとグルミット以外にも、野菜マニアで心優しいレディ・トッティントンさんや、彼女に恋するイヤミなハンターのヴィクター、何故か怪物退治グッズをコレクションしてる変な神父さんなど、楽しい登場人物が満載だ。
一番キャラが立ってるのはウジャウジャでてくるブタ鼻のウサギたちで、とぼけた表情も可愛くて、三十過ぎのオッサンでも思わず人形が欲しくなる。
温かみのあるクレイアニメの映像は、刺激的な日本のアニメになれた子供達にも十分アピールしただろう。
まあテーマ的に深いものは無いし、85分と程よい短さなので満腹感もそこそこだが、精神的に心地よい「遊びの時間」を提供してくれる良作だ。
たぶん同じくらいのボリュームの作品二本立てだと、ちょうどお腹一杯になるんだけどな。
この腹八分目感が、映画館を出た人に旧作のDVDを買わせる手だとしたら大した物だ。
関係ないけどこの映画のウサギ男見てて、手塚治虫の短編ホラー漫画「ウォビット」を思い出したのは私だけだろうか。
漫画の顔はもっと怖いけど、そっくりだったよ。
さてさて、見終わって気分はライトなブランチでもって感じなんだが、キッズアニメでお酒を選ぶのは難しい。
ここはちょっと変則。
私がたまに行くレストランのデザートメニューなんだけどね。
アイスクリーム1スクープの回りに、グレープ風味のヨーグルトを敷き、大さじ2~3程度の「ルジェ クレーム カルテット」をソースとして注ぐ。
口の広いシャンパングラスなんかに盛り付けるとお洒落。
この程度の量で酔いはしないけど、甘味が引き出されて美味いよ。

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こんなのもありました。カーアクセサリー色々。


2006年03月20日 (月) | 編集 |
全メニューがコレステロールの塊みたいな中華料理店「満豚記」の超コッテリ料理で気合を入れ、ジェット・リー最後のクンフー映画であるという「SPIRITスピリット」を観た。
全中学生に衝撃を与えた武術映画「少林寺」から25年。
様々なヒーローを演じてきたリーの、華麗な美技の見納めだというのだから、これは観ない訳にはいかない。(まあ、2年もしたらまたやってると思うけど)
二十世紀初頭の天津。
武道家のフォ・ユァンジア(ジェット・リー)は天津一の武道家を目指して、他流試合で連戦連勝。
勝ち続ける事こそ全てと信じるフォに、母は「武道とは他人を倒すための物ではなく、自分に打ち勝つ事こそが大切だ」と諭すのだが、強さゆえに傲慢になっていたフォは聞く耳を持たない。
ある時誤解から激情に駆られたフォは、試合で天津一を争うライバルの武道家チンを殺してしまう。
名実共に天津一となったフォだが、その代償はあまりにも大きかった。
フォの母親と愛娘がチンの家族によって殺されたのだ。
全てに絶望し放浪するフォがたどり着いたのは、山深い少数民族の村。
都会の喧騒とは無縁なその山里で、盲目の少女・月慈(スン・リー)との穏やかな暮らしによって徐々に癒されてゆくフォ。
数年後、生まれ変わったフォは再び天津に帰るのだが、そこで彼が見たのは、列強に侵略されすっかり自信を失った中国の姿だった・・・
クンフー映画に少し詳しい者なら、フォ・ユァンジアの名前くらいは知っているだろう。
中国では伝説の武道家であり、ブルース・リーの「ドラゴン怒りの鉄拳」の主人公は、フォの弟子という設定だった。
これはそのフォ本人の生涯を描いた伝記映画なのだ。
まあしかし伝記といっても、それ程リアルでもシリアスでもない。
私はフォの生涯にそれ程詳しい訳ではないが、それでもこの映画がかなり神話的なフィクションを交えた、講談調の物語なのは判る。
心に傷を負った英雄が、清浄なる地で癒され、希望を失った世の中のために再び立ち上がる英雄伝なのだ。
その意味では、百年前の中国を舞台にした「北斗の拳」みたいな物だ。(あれほど派手じゃないけど)
アクションシーンはテンコ盛りだが、最大のクライマックスは、中村獅童演じる日本の武道家・田中との一騎打ち。
日本刀VS三節昆、空手VS拳法の戦いは、かなり「ありえね~」要素が入ってるが、アクション監督のユェン・ウーピンのアイディア一杯で見ごたえ十分だ。
この映画は、日本を含む列強により中国が侵略され、中国人が希望を失っている時代の話なので、必然的に日本人も敵役になるのだが、中村のキャラクターは悪役と言うよりは威風堂々とした魅力的なライバルとして描かれている。
まあケンシロウに対するラオウみたいなもの(?)だが、こんなところも少年漫画的だ。
かわりに列強の腹黒さの代表は、原田眞人演じるミスター三田が担当してくれている。
この人は本来監督だけど、「ラストサムライ」以来、悪の日本人役が妙に様になってきた(笑
最近はハリウッドでB級ホラーばっかり撮ってた、ロニー・ユー監督の演出は手堅い。
フォの幼少期からの成長と、その強さ故の傲慢さがもたらす悲劇から、少数民族の村で月慈の優しさに癒され、精神的に生まれ変わるまではなかなかに快調だ。
この月慈の村は、ここだけ突然童話調な美しい里山なのだが、この村の風景と言うのは中国人にとっての精神的な理想郷なのかもしれない。
と、一時間は物語の流れに任せて自然に過ぎてゆくのだが、後半再び天津に帰ってきてからの展開は、あまりにも駆け足だ。
癒されて帰ってきたフォが過去の所業を悔い改めるのは良いのだが、その後再び試合にいたるまでの心情描写が完全に不足している。
街に外国人が溢れていて、外人レスラーが中国人武道家に連勝してるという新聞記事を読んだだけで、突然憂国の志士になってしまうのだから、訳が判らない。
ここはもう少ししっかりとフォの内面を描くべきだった。
想像するに中国人にとってのフォと言うのは、日本人における力道山みたいなものなのかもしれない。
力道山が空手チョップで白人レスラーをなぎ倒し、敗戦で自信を失っていた日本人を熱狂させたように、フォ・ユァンジアもまた、その戦う姿を大衆に見せる事で、中国人の自尊心を回復させたのだろう。
死を賭した田中との悲壮な戦いのシーンは、先日観た「力道山」のクライマックスと重なり、思わず熱い物がこみ上げてきた。
ジェット・リーの魂のアクションには観る人を感動させる十分な力があるだけに、物語のフォロー不足が残念。
リーアクションの集大成と言うにはちょっと不満が残る。
あとこれだけは言っておきたいのだが、エンドクレジットに流れる妙チクリンな日本語主題歌は一体何??
映画の内容と全くマッチしないばかりか、大して魅力的でもない楽曲で映画の余韻がぶち壊しだ。
勿論こんな曲は本国版には無いし、本来の主題歌はずっと映画に合った物だ。
この手のタイアップは昔からあるが、よほど慎重にやらない限りは全く相乗効果など望めないばかりか、映画ファンの怒りを買う結果になる。
一体こんなセンスの無いタイアップ企画に、何の効果を期待しているのか理解に苦しむ。
私が監督なら絶対許可しないよ、こんなの。
さて、今日は映画の前に食べた中華が腹に堪えているが、さらに紹興酒で中華尽くし。
紹興酒とは浙江省紹興市でもち米と麦麹から作られた酒の事だが、元々私は紹興酒の美味さってよく判らなかった。
だがある中国人に「なぜ普通に飲まない?」といわれて目から鱗が落ちた。
それまで私はずっと日本風の燗に砂糖を入れる飲み方で飲んでたんだけど、実はクオリティの高い紹興酒は普通にストレートで飲んだ方が美味いのだ。
砂糖入りで飲んでる方、お試しあれ。
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紹興酒 塔牌 純十年陳花彫 瑠璃彩磁 500ml壷 \2500
全中学生に衝撃を与えた武術映画「少林寺」から25年。
様々なヒーローを演じてきたリーの、華麗な美技の見納めだというのだから、これは観ない訳にはいかない。(まあ、2年もしたらまたやってると思うけど)
二十世紀初頭の天津。
武道家のフォ・ユァンジア(ジェット・リー)は天津一の武道家を目指して、他流試合で連戦連勝。
勝ち続ける事こそ全てと信じるフォに、母は「武道とは他人を倒すための物ではなく、自分に打ち勝つ事こそが大切だ」と諭すのだが、強さゆえに傲慢になっていたフォは聞く耳を持たない。
ある時誤解から激情に駆られたフォは、試合で天津一を争うライバルの武道家チンを殺してしまう。
名実共に天津一となったフォだが、その代償はあまりにも大きかった。
フォの母親と愛娘がチンの家族によって殺されたのだ。
全てに絶望し放浪するフォがたどり着いたのは、山深い少数民族の村。
都会の喧騒とは無縁なその山里で、盲目の少女・月慈(スン・リー)との穏やかな暮らしによって徐々に癒されてゆくフォ。
数年後、生まれ変わったフォは再び天津に帰るのだが、そこで彼が見たのは、列強に侵略されすっかり自信を失った中国の姿だった・・・
クンフー映画に少し詳しい者なら、フォ・ユァンジアの名前くらいは知っているだろう。
中国では伝説の武道家であり、ブルース・リーの「ドラゴン怒りの鉄拳」の主人公は、フォの弟子という設定だった。
これはそのフォ本人の生涯を描いた伝記映画なのだ。
まあしかし伝記といっても、それ程リアルでもシリアスでもない。
私はフォの生涯にそれ程詳しい訳ではないが、それでもこの映画がかなり神話的なフィクションを交えた、講談調の物語なのは判る。
心に傷を負った英雄が、清浄なる地で癒され、希望を失った世の中のために再び立ち上がる英雄伝なのだ。
その意味では、百年前の中国を舞台にした「北斗の拳」みたいな物だ。(あれほど派手じゃないけど)
アクションシーンはテンコ盛りだが、最大のクライマックスは、中村獅童演じる日本の武道家・田中との一騎打ち。
日本刀VS三節昆、空手VS拳法の戦いは、かなり「ありえね~」要素が入ってるが、アクション監督のユェン・ウーピンのアイディア一杯で見ごたえ十分だ。
この映画は、日本を含む列強により中国が侵略され、中国人が希望を失っている時代の話なので、必然的に日本人も敵役になるのだが、中村のキャラクターは悪役と言うよりは威風堂々とした魅力的なライバルとして描かれている。
まあケンシロウに対するラオウみたいなもの(?)だが、こんなところも少年漫画的だ。
かわりに列強の腹黒さの代表は、原田眞人演じるミスター三田が担当してくれている。
この人は本来監督だけど、「ラストサムライ」以来、悪の日本人役が妙に様になってきた(笑
最近はハリウッドでB級ホラーばっかり撮ってた、ロニー・ユー監督の演出は手堅い。
フォの幼少期からの成長と、その強さ故の傲慢さがもたらす悲劇から、少数民族の村で月慈の優しさに癒され、精神的に生まれ変わるまではなかなかに快調だ。
この月慈の村は、ここだけ突然童話調な美しい里山なのだが、この村の風景と言うのは中国人にとっての精神的な理想郷なのかもしれない。
と、一時間は物語の流れに任せて自然に過ぎてゆくのだが、後半再び天津に帰ってきてからの展開は、あまりにも駆け足だ。
癒されて帰ってきたフォが過去の所業を悔い改めるのは良いのだが、その後再び試合にいたるまでの心情描写が完全に不足している。
街に外国人が溢れていて、外人レスラーが中国人武道家に連勝してるという新聞記事を読んだだけで、突然憂国の志士になってしまうのだから、訳が判らない。
ここはもう少ししっかりとフォの内面を描くべきだった。
想像するに中国人にとってのフォと言うのは、日本人における力道山みたいなものなのかもしれない。
力道山が空手チョップで白人レスラーをなぎ倒し、敗戦で自信を失っていた日本人を熱狂させたように、フォ・ユァンジアもまた、その戦う姿を大衆に見せる事で、中国人の自尊心を回復させたのだろう。
死を賭した田中との悲壮な戦いのシーンは、先日観た「力道山」のクライマックスと重なり、思わず熱い物がこみ上げてきた。
ジェット・リーの魂のアクションには観る人を感動させる十分な力があるだけに、物語のフォロー不足が残念。
リーアクションの集大成と言うにはちょっと不満が残る。
あとこれだけは言っておきたいのだが、エンドクレジットに流れる妙チクリンな日本語主題歌は一体何??
映画の内容と全くマッチしないばかりか、大して魅力的でもない楽曲で映画の余韻がぶち壊しだ。
勿論こんな曲は本国版には無いし、本来の主題歌はずっと映画に合った物だ。
この手のタイアップは昔からあるが、よほど慎重にやらない限りは全く相乗効果など望めないばかりか、映画ファンの怒りを買う結果になる。
一体こんなセンスの無いタイアップ企画に、何の効果を期待しているのか理解に苦しむ。
私が監督なら絶対許可しないよ、こんなの。
さて、今日は映画の前に食べた中華が腹に堪えているが、さらに紹興酒で中華尽くし。
紹興酒とは浙江省紹興市でもち米と麦麹から作られた酒の事だが、元々私は紹興酒の美味さってよく判らなかった。
だがある中国人に「なぜ普通に飲まない?」といわれて目から鱗が落ちた。
それまで私はずっと日本風の燗に砂糖を入れる飲み方で飲んでたんだけど、実はクオリティの高い紹興酒は普通にストレートで飲んだ方が美味いのだ。
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2006年03月15日 (水) | 編集 |
三月一杯で終了かと思われていた「まんが日本昔ばなし」のリバイバル放送だが、四月以降の放送も決定したようだ。
このイマジネーション豊かな名作を継続して観られるとは、素直に嬉しい。
何時まで続けられるのか判らないが、継続されるという事は一定の支持があるという事だろう。
下手に30分で賞味期限が切れてしまう訳のわからん新番組作るより、30年経っても支持される番組を放送する方が、文化的にも遥かに有意義だ。
いっその事全部放送して欲しいくらいだ。
ゴールデンが難しくなったら、夕方とか朝でも良いからずっと続けてくれないかな。
昨年の放送開始から毎回楽しみに観ているが、やっぱり良い物は何十年たっても良い。
マーケティングで最初から特定の客層にしかアピールしないような作りになってる最近のアニメ(もちろん志の高い作品もあるけど)を見慣れた目からすると、「日本昔ばなし」のアバンギャルドさはまるで作り手から視聴者への挑戦みたいにも思える。
もちろんそれはマスターベーション的な独り善がりではなくて、しっかりとした見せる技術に裏打ちされた質の高い挑戦なのだが。
一応、現場の作り手としてこの業界に携わる者としては、こんな風に何十年も、何世代にも渡って愛されるような作品を一度は作ってみたい。
テレビアニメに限らないけど、この業界はもう少し観客や視聴者の見る目を信用すべきだと思う。
どこか「日本昔ばなし」の新シリーズ作らないかね。
お話自体はまだまだストックがあったと思うけど。
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このイマジネーション豊かな名作を継続して観られるとは、素直に嬉しい。
何時まで続けられるのか判らないが、継続されるという事は一定の支持があるという事だろう。
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いっその事全部放送して欲しいくらいだ。
ゴールデンが難しくなったら、夕方とか朝でも良いからずっと続けてくれないかな。
昨年の放送開始から毎回楽しみに観ているが、やっぱり良い物は何十年たっても良い。
マーケティングで最初から特定の客層にしかアピールしないような作りになってる最近のアニメ(もちろん志の高い作品もあるけど)を見慣れた目からすると、「日本昔ばなし」のアバンギャルドさはまるで作り手から視聴者への挑戦みたいにも思える。
もちろんそれはマスターベーション的な独り善がりではなくて、しっかりとした見せる技術に裏打ちされた質の高い挑戦なのだが。
一応、現場の作り手としてこの業界に携わる者としては、こんな風に何十年も、何世代にも渡って愛されるような作品を一度は作ってみたい。
テレビアニメに限らないけど、この業界はもう少し観客や視聴者の見る目を信用すべきだと思う。
どこか「日本昔ばなし」の新シリーズ作らないかね。
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2006年03月15日 (水) | 編集 |
「ヒストリー・オブ・バイオレンス(暴力の歴史)」とは意味深なタイトルだ。
この映画のプロットは、西部劇やフィルムノワールで今まで何度も作られてきた物語のパターンを踏襲している。
血に塗れた過去を隠し、平凡な第二の人生を生きてきた主人公が、ふとした事で過去を暴かれ、再び戦いの世界に舞い戻る。
こんな平凡な設定を、現在社会の暴力と愛の対峙を描き出すために使ったのが、異才デビット・クローネンバーグらしいところかもしれない。
タイトルは、主人公が隠してきた彼自身の暴力の歴史を意味するのだが、同時に世界中で繰り返される暴力への普遍的な考察も含んでいると思う。
トム・ストール(ビゴ・モーテンセン)はインディアナの田舎町でダイナーを経営する平凡な男。
弁護士の妻エディ(マリア・ベロ)と二人の子供と幸せに暮らしている。
ある夜、トムのダイナーが流れ者の強盗に襲われ、従業員を守ろうとしたトムは、相手の銃を奪って強盗二人を射殺してしまう。
田舎町で起こった衝撃的な事件は全国に報道され、トムは一躍地元のヒーローとして祭り上げられる。
数日後、黒ずくめの奇妙な男たちがトムの店を訪れる。
片目に抉られた傷を持つ男、フォガティ(エド・ハリス)は、トムを「ジョーイ」と呼んだ。
フォガティはフィラデルフィアのマフィアで、ジョーイとは彼の片目を抉り、姿を消した殺人狂の危険な男だという。
トムはジョーイなど知らないと言うが、フォガティはトムこそがジョーイだという確信を持っていた。
トムの回りは、次第に血と硝煙の危険な臭いに取り囲まれていく・・・・。
オープニングが凄い。
茹だる様なインディアナの日差しの中、若者と中年の二人の旅人がモーテルをチェックアウトする様子を、ワンカットの長廻しで見せる。
特に何かが起こる訳ではないのに、緊張感溢れる不思議な空気が流れる。
カットが切り替わり、若者が水を取りにオフィスへ戻ると、そこには無造作に転がる従業員の死体が映し出される。
若者は死体には全く興味を示さず水を汲む。
この映画における暴力のあり方を端的に示したシーンだ。
それは全く矛盾無く日常に存在する、一つの出来事に過ぎない。
愛や喜びと同じように、暴力も死もごく普通に存在するのだ。
実は、「ミュンヘン」の続きを観た様な印象を受けた。
あの映画のラストは、暴力の連鎖に関わってしまった主人公のアヴナーが、もはや心の安息を得る資格を永遠に失ってしまった事を暗示していたが、もし彼が全く他人に成りすまして人生の続きを生きたとしたら、こんな展開になるのかもしれない。
そして「ミュンヘン」がアヴナーの旅路を通して、過去から現在へと繋がる普遍的な暴力の連鎖を描いたように、「ヒストリー・オブ・バイオレンス」もまた、トム・ストールの日常と戦いを通して、現在アメリカにおける暴力の歴史を比喩してみせる。
まるで極大と極小が同じ模様を形作るフラクタル曲線のように。
温和なダイナー店主であるトム、平然と殺しを行う危険なジョーイ。
面白いのは、はじめのうちトムは本当にジョーイを知らないように見えることだ。
私も最初は、多重人格の話なのかと思った。(クローネンバーグの好きそうな素材だし)
ところが話が進むうちに、トムはかなり確信的にジョーイを封印していた事がわかる。
トムは「ジョーイは砂漠で死んだ」「3年かけてトムになった」と言う。
彼はある意味で精神的な自殺を図ってまで、ジョーイと暴力を過去に封印したのだろう。
最初にフォガティが尋ねてきた時、「ジョーイなんて知らない」とトムが言うのは嘘ではないのかもしれない。
彼の中ではジョーイは死んだはずの存在なのだ。
そんなジョーイを覚えているのが、精神ではなく肉体であり、肉体が体現する暴力であるのは皮肉だ。
いくら否定しても、身に迫る危険には体が自然に反応してしまう。
電光石火の動きで銃を奪い取り、躊躇無く相手を殺す。
暴力の歴史は確実にトムの中にあり、その瞬間にはジョーイがトムを封印する。
トムの二面性をフラクタラルの極小とすれば、極大は平和な市民社会でありながら、しばしば突然の凶暴性を見せるアメリカの姿だ。
世界でもっとも豊かで満ち足りた市民達。
しかしちょっとしたきっかけさえあれば、世界でもっとも凶暴な軍事国家に豹変するのもアメリカであり、その歴史は暴力に満ちている。
勿論、暴力の歴史がアメリカだけに限らないのは言うまでも無く、映画の中でトムと家族が抱えるジレンマは、そのままフラクタルの自己相似となって一人一人の観客に投影される。
精神と肉体に別々の人格を宿した男を演じるビゴ・モーテンセン、彼を愛しながらも、長年連れ添った男のもう一つの顔に戸惑いを隠せない妻を演じるマリア・ベロは、難しい役柄を自然に演じ切っていると思う。
フォガティ役のエド・ハリスも久々に怪しさ全開で嬉しくなった。
終盤登場するウィリアム・ハートはこの作品でオスカーにノミネートされているが、ちょっとした儲け役という感じ。
どちらかというとノミネートされるならハリスの方じゃないの?と思った。
音楽が例によってハワード・ショアなので、時折スコアが指輪チックに聞こえる所があり、モーテンセンがアラゴルンと一瞬かぶるのはご愛嬌。
過去を断ち切るべく、一人赴いた戦いから戻ったトムと、彼を迎える家族。
この描写が素晴らしい。
戦う他に方法が無かったのは判っているし、そこにいるのはジョーイでなくトムである事も知っている。
なによりも皆互いに愛している。
しかし、そこには以前には決して感じられなかった、冷たく張り詰めた空気が流れている。
トムはもう、家族にとって嘗てのトムではない。
トムの中のジョーイを知ってしまった。
見えないガラスに隔てられている様に、お互いを見つめるトムとエディ。
このごく短いシーンの、モーテンセンとベロの目の演技は見事。
男が抱える暴力の歴史と愛が対峙する瞬間を、一切の無駄なく簡潔に見せた。
愛は暴力を包み込めるのか?
映画は、しかしその結論は見せない。
暴力と愛の狭間でジレンマを抱えるのは、トムとエディに投影された観客一人一人であり、アメリカという社会全体。
暴力の歴史とどう向き合うかという判断は、観る者に委ねたと言う事だろうか。
「ヒストリー・オブ・バイオレンス」は極めて完成度の高い秀作で、クローネンバーグらしさもしっかり持っている。
ただ、これは今回に限らないが、最近のクローネンバーグはコンパクトな世界観で映画を作る傾向があり、以前のような広がりに欠ける気がする。
何と言うか、自身が完全に把握できる箱庭の中でキャラクターを動かし、物語を紡いでいるような感覚を覚えるのだ。
そこにはいつものクローネンバーグはいるのだが、全く新しいクローネンバーグがもたらすサプライズは無い。
見方を変えれば作家監督が円熟の境地に入りつつあるのかもしれないが、スピルバーグの様に貪欲に変化を模索する存在を目にすると、良くも悪くもクローネンバーグの終わりの始まりに見えてしまう。
勿論自分の世界をとことん突き詰めるという方向性もあるし、クローネンバーグの様な強烈な個性を持つ作家監督はそれこそが正常進化なのかもしれないが。
いずれにしてもこの作品の満足度は高い。
さて白昼夢の様に熱っぽい物語の後は、ちょっとスッキリとしたビールが良い。
デビット・クローネンバーグの故郷、カナダのトロントから「ラバット ブルー」を。
メジャーリーグのトロント・ブルージェイズのオーナー企業だった事でも有名なビールだが、カナダビールらしいあっさり味。
あんまりコクはないが、このヘビーな物語の余熱を冷ますにはちょうど良いだろう。
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ラバット ブルー 1本\300
原作グラフィックノベル
この映画のプロットは、西部劇やフィルムノワールで今まで何度も作られてきた物語のパターンを踏襲している。
血に塗れた過去を隠し、平凡な第二の人生を生きてきた主人公が、ふとした事で過去を暴かれ、再び戦いの世界に舞い戻る。
こんな平凡な設定を、現在社会の暴力と愛の対峙を描き出すために使ったのが、異才デビット・クローネンバーグらしいところかもしれない。
タイトルは、主人公が隠してきた彼自身の暴力の歴史を意味するのだが、同時に世界中で繰り返される暴力への普遍的な考察も含んでいると思う。
トム・ストール(ビゴ・モーテンセン)はインディアナの田舎町でダイナーを経営する平凡な男。
弁護士の妻エディ(マリア・ベロ)と二人の子供と幸せに暮らしている。
ある夜、トムのダイナーが流れ者の強盗に襲われ、従業員を守ろうとしたトムは、相手の銃を奪って強盗二人を射殺してしまう。
田舎町で起こった衝撃的な事件は全国に報道され、トムは一躍地元のヒーローとして祭り上げられる。
数日後、黒ずくめの奇妙な男たちがトムの店を訪れる。
片目に抉られた傷を持つ男、フォガティ(エド・ハリス)は、トムを「ジョーイ」と呼んだ。
フォガティはフィラデルフィアのマフィアで、ジョーイとは彼の片目を抉り、姿を消した殺人狂の危険な男だという。
トムはジョーイなど知らないと言うが、フォガティはトムこそがジョーイだという確信を持っていた。
トムの回りは、次第に血と硝煙の危険な臭いに取り囲まれていく・・・・。
オープニングが凄い。
茹だる様なインディアナの日差しの中、若者と中年の二人の旅人がモーテルをチェックアウトする様子を、ワンカットの長廻しで見せる。
特に何かが起こる訳ではないのに、緊張感溢れる不思議な空気が流れる。
カットが切り替わり、若者が水を取りにオフィスへ戻ると、そこには無造作に転がる従業員の死体が映し出される。
若者は死体には全く興味を示さず水を汲む。
この映画における暴力のあり方を端的に示したシーンだ。
それは全く矛盾無く日常に存在する、一つの出来事に過ぎない。
愛や喜びと同じように、暴力も死もごく普通に存在するのだ。
実は、「ミュンヘン」の続きを観た様な印象を受けた。
あの映画のラストは、暴力の連鎖に関わってしまった主人公のアヴナーが、もはや心の安息を得る資格を永遠に失ってしまった事を暗示していたが、もし彼が全く他人に成りすまして人生の続きを生きたとしたら、こんな展開になるのかもしれない。
そして「ミュンヘン」がアヴナーの旅路を通して、過去から現在へと繋がる普遍的な暴力の連鎖を描いたように、「ヒストリー・オブ・バイオレンス」もまた、トム・ストールの日常と戦いを通して、現在アメリカにおける暴力の歴史を比喩してみせる。
まるで極大と極小が同じ模様を形作るフラクタル曲線のように。
温和なダイナー店主であるトム、平然と殺しを行う危険なジョーイ。
面白いのは、はじめのうちトムは本当にジョーイを知らないように見えることだ。
私も最初は、多重人格の話なのかと思った。(クローネンバーグの好きそうな素材だし)
ところが話が進むうちに、トムはかなり確信的にジョーイを封印していた事がわかる。
トムは「ジョーイは砂漠で死んだ」「3年かけてトムになった」と言う。
彼はある意味で精神的な自殺を図ってまで、ジョーイと暴力を過去に封印したのだろう。
最初にフォガティが尋ねてきた時、「ジョーイなんて知らない」とトムが言うのは嘘ではないのかもしれない。
彼の中ではジョーイは死んだはずの存在なのだ。
そんなジョーイを覚えているのが、精神ではなく肉体であり、肉体が体現する暴力であるのは皮肉だ。
いくら否定しても、身に迫る危険には体が自然に反応してしまう。
電光石火の動きで銃を奪い取り、躊躇無く相手を殺す。
暴力の歴史は確実にトムの中にあり、その瞬間にはジョーイがトムを封印する。
トムの二面性をフラクタラルの極小とすれば、極大は平和な市民社会でありながら、しばしば突然の凶暴性を見せるアメリカの姿だ。
世界でもっとも豊かで満ち足りた市民達。
しかしちょっとしたきっかけさえあれば、世界でもっとも凶暴な軍事国家に豹変するのもアメリカであり、その歴史は暴力に満ちている。
勿論、暴力の歴史がアメリカだけに限らないのは言うまでも無く、映画の中でトムと家族が抱えるジレンマは、そのままフラクタルの自己相似となって一人一人の観客に投影される。
精神と肉体に別々の人格を宿した男を演じるビゴ・モーテンセン、彼を愛しながらも、長年連れ添った男のもう一つの顔に戸惑いを隠せない妻を演じるマリア・ベロは、難しい役柄を自然に演じ切っていると思う。
フォガティ役のエド・ハリスも久々に怪しさ全開で嬉しくなった。
終盤登場するウィリアム・ハートはこの作品でオスカーにノミネートされているが、ちょっとした儲け役という感じ。
どちらかというとノミネートされるならハリスの方じゃないの?と思った。
音楽が例によってハワード・ショアなので、時折スコアが指輪チックに聞こえる所があり、モーテンセンがアラゴルンと一瞬かぶるのはご愛嬌。
過去を断ち切るべく、一人赴いた戦いから戻ったトムと、彼を迎える家族。
この描写が素晴らしい。
戦う他に方法が無かったのは判っているし、そこにいるのはジョーイでなくトムである事も知っている。
なによりも皆互いに愛している。
しかし、そこには以前には決して感じられなかった、冷たく張り詰めた空気が流れている。
トムはもう、家族にとって嘗てのトムではない。
トムの中のジョーイを知ってしまった。
見えないガラスに隔てられている様に、お互いを見つめるトムとエディ。
このごく短いシーンの、モーテンセンとベロの目の演技は見事。
男が抱える暴力の歴史と愛が対峙する瞬間を、一切の無駄なく簡潔に見せた。
愛は暴力を包み込めるのか?
映画は、しかしその結論は見せない。
暴力と愛の狭間でジレンマを抱えるのは、トムとエディに投影された観客一人一人であり、アメリカという社会全体。
暴力の歴史とどう向き合うかという判断は、観る者に委ねたと言う事だろうか。
「ヒストリー・オブ・バイオレンス」は極めて完成度の高い秀作で、クローネンバーグらしさもしっかり持っている。
ただ、これは今回に限らないが、最近のクローネンバーグはコンパクトな世界観で映画を作る傾向があり、以前のような広がりに欠ける気がする。
何と言うか、自身が完全に把握できる箱庭の中でキャラクターを動かし、物語を紡いでいるような感覚を覚えるのだ。
そこにはいつものクローネンバーグはいるのだが、全く新しいクローネンバーグがもたらすサプライズは無い。
見方を変えれば作家監督が円熟の境地に入りつつあるのかもしれないが、スピルバーグの様に貪欲に変化を模索する存在を目にすると、良くも悪くもクローネンバーグの終わりの始まりに見えてしまう。
勿論自分の世界をとことん突き詰めるという方向性もあるし、クローネンバーグの様な強烈な個性を持つ作家監督はそれこそが正常進化なのかもしれないが。
いずれにしてもこの作品の満足度は高い。
さて白昼夢の様に熱っぽい物語の後は、ちょっとスッキリとしたビールが良い。
デビット・クローネンバーグの故郷、カナダのトロントから「ラバット ブルー」を。
メジャーリーグのトロント・ブルージェイズのオーナー企業だった事でも有名なビールだが、カナダビールらしいあっさり味。
あんまりコクはないが、このヘビーな物語の余熱を冷ますにはちょうど良いだろう。

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ラバット ブルー 1本\300
原作グラフィックノベル


2006年03月12日 (日) | 編集 |
久々の本格オカルト映画だと思って観に行ったら、真面目な裁判劇だった。
1970年代に当時の西ドイツで起こった、悪魔祓いによる死亡事件とその後の裁判をベースにした「エミリー・ローズ」は、オカルト映画的な恐ろしい描写も満載なのだが、悪魔が存在するか否かが争われた裁判を通して本質的な信仰のあり方を問う、中々に切れ味の鋭い佳作だった。
ある田舎町で、19歳の大学生エミリー・ローズ(ジェニファー・カーペンター)が非業の死を遂げる。
被疑者として逮捕されたのは、エミリーに悪魔祓いを施したカソリックのムーア神父(トム・ウィルキンソン)。
衰弱したエミリーに必要な医療を受けさせず、悪魔祓いの儀式を行った事で死に追いやったのではないかという嫌疑をかけられたのだ。
ムーアを弁護する事になったのは、売れっ子女性弁護士のエリン・ブリナー(ローラ・リニー)。
彼女は法廷で、敬虔なクリスチャンであり、神の使徒である神父が罪を犯したのなら、より厳しく裁かれるべきだと考えるイーサン・トマス検事(キャンベル・スコット)と対決する事となる。
争点は「悪魔は存在するのか否か」。
世間の注目を集める裁判が始まった・・・・
オカルト映画としてはかなりの変化球だろう。
実に正統派の法廷ドラマなのである。
裁判の始まりによってドラマの幕が開き、検察・弁護双方の論戦によって、徐々に事件の本質が観客に明らかにされるという仕組み。
その事件が、殺人や詐欺と言った定番の犯罪ではなく、「悪魔憑き」という点が本作の最大の特徴であり、売りだ。
通常の裁判物なら、いかに真実を証明するかがスリリングな展開を生む。
だがこの裁判の争点は、第一に「エミリーは医学による治療が必要な精神病だったのかどうか?」、第二に「精神病でなかったとしたら悪魔は存在するのか」なので、ぶっちゃけた話どっちも証明のしようがない。
検察・弁護双方は、お互いの主張が「真実」ではなく「可能性」に過ぎない事を強調し、どちらの可能性の方に信憑性があるかという所に落としてくる。
基本的に、エミリーが悪魔に魅入られてから死ぬまでの関係者の証言が、再現ドラマとして観客には提示されるので、観ている観客としては「これはどう見ても悪魔が憑いてるだろう」と思うのだが、実際の裁判では当然ながら「悪魔がいます」なんて主張する方が不利。
物語的には、科学的見地を強調する検察に対抗して、エリンとムーアがエミリーの中の悪魔がいた可能性を、いかにして陪審員に信じさせるのかが見物となる。
もっとも本質的には法廷ドラマとは言っても、この映画の恐怖描写は相当な物だ。
映画全体としては変化球だが、恐怖描写は直球勝負。
このジャンルには「エクソシスト」という金字塔が存在するが、「エミリー・ローズ」の恐怖描写は、「エクソシスト」を超えられないまでもかなり迫ったと思う。
特筆すべきは、タイトルロールのエミリーを演じたジェニファー・カーペンターの憑依演技で、これはかなり怖い。
悪魔憑きネタのオカルトは、憑かれたキャラクターの演技力で恐怖度が半分決まるような物だが、カーペンターの演技は、もはや伝説のリンダ・ブレア以来のベストアクトだったと思う。
面白いのはエミリーの主観による様々な恐怖のビジュアル化に、明らかに日本のホラー映画の影響が観られる点だ。
通りすぎる人々の顔が全てムンクの「叫び」の様に見える描写や、同級生の男の子の目が突然黒い穴になる描写などは「呪怨」や「回路」といった作品の影響が見て取れるが、西洋的なオカルト描写に取り込まれると意外や新鮮で恐ろしい。
ステーキに醤油をかけてみたら、意外と美味しかったみたいな物だ。
観客が恐怖描写に震えているうちに、裁判は佳境に入っていくのだが、元々真実の究明を目的とした裁判ではないだけに、最終的には「信仰のあり方」という個人の心の中の非常に曖昧な部分に入っていかざるを得ない。
実際の裁判とは違うのだろうが、映画的には「こう落とすしかないよね」というグレーな結論になっている。
全体にオカルト映画としても裁判劇としても中々面白いのだが、若干淡々とし過ぎている嫌いもある。
多分、最終的に心の問題を描いているのにも関わらず、視点がキャラクターの心の奥まで入っていかないから、ドラマ的な抑揚が不足しているのだ。
例えば悪魔を否定するトマス検事が敬虔なクリスチャンで、悪魔を信じさせようとするエリンが不可知論者であるという皮肉な設定は、あまり生かされていない。
後半の二人の精神的な逆転は、突っ込んで描けば非常に深いテーマが描けるのに、あっさりと終わってしまっている。
私は特に○○教の信者という事は無いが、スピリチュアルな世界は信じるし、神も悪魔も存在すると思っているので、信仰というテーマは非常に興味がある。
だからこそ、スコット・デリクソン監督には裁判を通してエリンやムーア、トマスの信仰観にどの様な変化が起こったのかもっと深く突っ込んで欲しかったのだが、このあたりは少し喰い足りなかった。
もっとも、そこまでやると上映時間を含めてかなりの大作になってしまうし、現状でも十分面白いのだが。
さて今回は物語の元となったドイツから、黒ビールの「ケストリッツァー シュヴァルツビア」をチョイス。
映画がわりと淡々としてあっさり味だったので、ちょっと濃い目のビールとソーセージでも合わせて満腹になりましょう。
ちょっとクセはあるけど、飲み応え十分の本場物ビールだ。
ちなみに私は悪魔に会った事は無いけど、お化けは見たことあります・・・
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ケストリッツァーシュヴァルツビア ¥320
1970年代に当時の西ドイツで起こった、悪魔祓いによる死亡事件とその後の裁判をベースにした「エミリー・ローズ」は、オカルト映画的な恐ろしい描写も満載なのだが、悪魔が存在するか否かが争われた裁判を通して本質的な信仰のあり方を問う、中々に切れ味の鋭い佳作だった。
ある田舎町で、19歳の大学生エミリー・ローズ(ジェニファー・カーペンター)が非業の死を遂げる。
被疑者として逮捕されたのは、エミリーに悪魔祓いを施したカソリックのムーア神父(トム・ウィルキンソン)。
衰弱したエミリーに必要な医療を受けさせず、悪魔祓いの儀式を行った事で死に追いやったのではないかという嫌疑をかけられたのだ。
ムーアを弁護する事になったのは、売れっ子女性弁護士のエリン・ブリナー(ローラ・リニー)。
彼女は法廷で、敬虔なクリスチャンであり、神の使徒である神父が罪を犯したのなら、より厳しく裁かれるべきだと考えるイーサン・トマス検事(キャンベル・スコット)と対決する事となる。
争点は「悪魔は存在するのか否か」。
世間の注目を集める裁判が始まった・・・・
オカルト映画としてはかなりの変化球だろう。
実に正統派の法廷ドラマなのである。
裁判の始まりによってドラマの幕が開き、検察・弁護双方の論戦によって、徐々に事件の本質が観客に明らかにされるという仕組み。
その事件が、殺人や詐欺と言った定番の犯罪ではなく、「悪魔憑き」という点が本作の最大の特徴であり、売りだ。
通常の裁判物なら、いかに真実を証明するかがスリリングな展開を生む。
だがこの裁判の争点は、第一に「エミリーは医学による治療が必要な精神病だったのかどうか?」、第二に「精神病でなかったとしたら悪魔は存在するのか」なので、ぶっちゃけた話どっちも証明のしようがない。
検察・弁護双方は、お互いの主張が「真実」ではなく「可能性」に過ぎない事を強調し、どちらの可能性の方に信憑性があるかという所に落としてくる。
基本的に、エミリーが悪魔に魅入られてから死ぬまでの関係者の証言が、再現ドラマとして観客には提示されるので、観ている観客としては「これはどう見ても悪魔が憑いてるだろう」と思うのだが、実際の裁判では当然ながら「悪魔がいます」なんて主張する方が不利。
物語的には、科学的見地を強調する検察に対抗して、エリンとムーアがエミリーの中の悪魔がいた可能性を、いかにして陪審員に信じさせるのかが見物となる。
もっとも本質的には法廷ドラマとは言っても、この映画の恐怖描写は相当な物だ。
映画全体としては変化球だが、恐怖描写は直球勝負。
このジャンルには「エクソシスト」という金字塔が存在するが、「エミリー・ローズ」の恐怖描写は、「エクソシスト」を超えられないまでもかなり迫ったと思う。
特筆すべきは、タイトルロールのエミリーを演じたジェニファー・カーペンターの憑依演技で、これはかなり怖い。
悪魔憑きネタのオカルトは、憑かれたキャラクターの演技力で恐怖度が半分決まるような物だが、カーペンターの演技は、もはや伝説のリンダ・ブレア以来のベストアクトだったと思う。
面白いのはエミリーの主観による様々な恐怖のビジュアル化に、明らかに日本のホラー映画の影響が観られる点だ。
通りすぎる人々の顔が全てムンクの「叫び」の様に見える描写や、同級生の男の子の目が突然黒い穴になる描写などは「呪怨」や「回路」といった作品の影響が見て取れるが、西洋的なオカルト描写に取り込まれると意外や新鮮で恐ろしい。
ステーキに醤油をかけてみたら、意外と美味しかったみたいな物だ。
観客が恐怖描写に震えているうちに、裁判は佳境に入っていくのだが、元々真実の究明を目的とした裁判ではないだけに、最終的には「信仰のあり方」という個人の心の中の非常に曖昧な部分に入っていかざるを得ない。
実際の裁判とは違うのだろうが、映画的には「こう落とすしかないよね」というグレーな結論になっている。
全体にオカルト映画としても裁判劇としても中々面白いのだが、若干淡々とし過ぎている嫌いもある。
多分、最終的に心の問題を描いているのにも関わらず、視点がキャラクターの心の奥まで入っていかないから、ドラマ的な抑揚が不足しているのだ。
例えば悪魔を否定するトマス検事が敬虔なクリスチャンで、悪魔を信じさせようとするエリンが不可知論者であるという皮肉な設定は、あまり生かされていない。
後半の二人の精神的な逆転は、突っ込んで描けば非常に深いテーマが描けるのに、あっさりと終わってしまっている。
私は特に○○教の信者という事は無いが、スピリチュアルな世界は信じるし、神も悪魔も存在すると思っているので、信仰というテーマは非常に興味がある。
だからこそ、スコット・デリクソン監督には裁判を通してエリンやムーア、トマスの信仰観にどの様な変化が起こったのかもっと深く突っ込んで欲しかったのだが、このあたりは少し喰い足りなかった。
もっとも、そこまでやると上映時間を含めてかなりの大作になってしまうし、現状でも十分面白いのだが。
さて今回は物語の元となったドイツから、黒ビールの「ケストリッツァー シュヴァルツビア」をチョイス。
映画がわりと淡々としてあっさり味だったので、ちょっと濃い目のビールとソーセージでも合わせて満腹になりましょう。
ちょっとクセはあるけど、飲み応え十分の本場物ビールだ。
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2006年03月06日 (月) | 編集 |
タイトルの「シリアナ」とは、日本語にするとちょっと淫靡な響きがあるが(笑)、これは元々アメリカの政府筋が使い始めた言葉で、イラン・イラク・シリアの三国が一つの統一国家になった場合の仮称。
元々民族的に近いイラクとシリアに、イランが+1として組み込まれてるのがミソ。
実際にはイラク・シリアはともかく、民族の違うイランが一緒になれるとは思えないんだが、まあアメリカの中東観の一つを示した言葉だ。
映画は直接シリアナのことを描いてる訳ではないが、四人の主人公を通して「アメリカにとっての中東」の真の姿を描き出す。
CIAのベテラン工作員、ボブ・バーンズ(ジョージ・クルーニー)は、テヘランで武器商人を暗殺する任務に成功するが、何者かに現場からミサイルを持ち去られてしまう。
ワシントンに戻った彼は、最後の任務として中東の某王国のナシール王子暗殺を命じられる。
王子はテロ組織のスポンサーである疑いを掛けられていた。
ベネット・ホリデイ(ジェフリー・ライト)はワシントンの弁護士。
彼の仕事は石油メジャーのコネックス社とキリーン社の合併を政府に認めさせるため、両社の違法行為を調べ上げ、政府と有利に取引する事。
コネックス社はナシール王子が石油採掘権を中国に渡したために、ナシールの国での事業が出来なくなり、新興企業のキリーンとの合併を余儀なくされていた。
一方で、ベネットのボスであるホワイティングは、ナシールを失脚させ、言いなりになる弟を王位につけようと謀略をめぐらしていた。
ジェネーブのエネルギーアナリスト、ブライアン・ウッドマン(マット・デイモン)は、ナシール王子のパーティで起こった事故で息子を亡くす。
しかしその事をきっかけに、ウッドマンはアドバイザーとして中東の改革を目指すナシールの側近の地位を得る。
ナシールの目指す改革とは、アラブ自立への道だった。
ワシーム(マズハール・ムニール)は、パキスタンからの出稼ぎ青年。彼はナシールの国の石油施設で働いていたが、コネックス社が採掘権を失ったことから失業する。
失意の彼は原理主義組織のイスラム神学校に入り浸り、次第に西洋の価値観を憎悪し、殉教を賛美する思想を教え込まれて行く。
やがて組織から彼が見せられたのは、テヘランで消えたミサイルだった・・・
綿密なリサーチに基づいた力作なのは認めるが、正直言ってピンと来ない映画だった。
複雑な物語の果てに悲劇があり、世界は欲望と陰謀に満ちてる事は判ったけど、「So what?(それで?)」って感じ。
監督・脚本は、「トラフィック」の脚本で知られるスティーブン・ギャガン。
元々ソダバーグ一派の、「どう、君らついて来れるかな?」的なマスターベーション的な作りはあまり好きではないのだが、この映画も不必要なまでに物語を複雑にして突き放した目線で見ている。
ただ、バラバラのピースになっているから複雑に見えるだけで、もともとの話自体はそれほどでもない。
要するに石油会社は違法行為をしてでも利権を追及し、アナリストや法律家はその利権に乗っかり、アメリカ政府は私企業の力が強まりすぎるのを牽制するが、結局皆産油国の自立は望んでおらず、それぞれの組織が自分の意のままになる傀儡政権を作ろうとする。
すると現地人の生活は何時までも良くならず、イスラム神学校へ入り浸って自爆テロに走る奴も出てくるって事。
この映画が観客の脳みそをフル回転させ、128分かけて描いた事って、マイケル・ムーアが「華氏911」の中で、1分ほどで簡潔に喋ってた事とほとんど一緒じゃないのか。
いや、ムーアでなくても、9・11以来この手のルポ本やドキュメンタリーは多いし、石油業界と現地政権との癒着やアメリカ政府の陰謀なんて、今更こんなに凝ったやり方で描かなくても、誰でも知ってると思うんだが。
この映画ではじめてこう言うことを知った!という人にはそれなりに価値があるかもしれないが、少なくともアメリカ市場において、この露骨に「インテリ向けですよん」という作劇について行ける様な人が、国際情勢のイロハも知らないなんて事はあまり無いと思うし、逆に中東関係の知識の無い人に観てもらうには余りにも説明不足だ。
出稼ぎ青年が失業し、イスラム神学校で自爆テロ犯に変わってゆくエピソードは、直接他のエピソードと関わらないので割と一貫して流れで観られるけど、これもそれ自体が目新しい事実じゃないし。
まあ描かれている事が判りきっている事であると言う点では、例えば「ミュンヘン」なんかも一緒だけど、決定的に違うのは、こちらはキャラクターの内面が殆ど描かれてないので、事象だけを見せられてるって事。
結果、作り手の訴えたい事が全く伝わってこない。
「ふーん、世界って怖いね」という以上に観るものの心に訴える物が無いのだ。
四人の主人公にしても、彼らの立場や行動の理由は示されているけど、感情の流れが殆ど見えないので、それぞれの展開がえらく唐突に感じる。
また突然説明もなしに登場する、「これ誰??」的なキャラクターも多いので、ある程度物語の流れから推測する脳内補完が必要だ。
物語について行くのにそれなりの脳みそが必要な脚本だが、私は別に映画を観ながら脳を鍛えたい訳ではないので、こう言うのが上手い脚本とは思えない。
今こういう作品を観てもらう必要があるのは、どっちかと言うとインテリ層よりも普段ニュースも新聞も見ないで、ガソリンが安けりゃそれでブッシュを支持するような人達だと思うのだが、そういう人達を端から対象外にしてるような映画の作りはどうなのよ?
正直言って、何かを人に伝えたいと言うよりも、こう言った事を描いた!という自己満足をより強く感じてしまうのだが。
まあこれが映像を使った物語パズルだと思うと、結構面白いので飽きはしなかったが、作り手が誰に見せて、どんなことを伝えたいのかが判らない作品だった。
さて、この映画で描かれたように、現代社会で石油は黄金に等しく、石油に関わる人々は皆黄金の夢を見てる。
そんなところからこじ付けて、「ゴールデン・ドリーム」を。
イタリアンリキュールのガリアーノ、ホワイトキュラソー、オレンジジュース、生クリームをそれぞれ15ml。
シェイクして完成。
オレンジの風味が強く、生クリームがマイルドな感覚を生む。
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ガリアーノ 700ml 30度 ¥1600
元々民族的に近いイラクとシリアに、イランが+1として組み込まれてるのがミソ。
実際にはイラク・シリアはともかく、民族の違うイランが一緒になれるとは思えないんだが、まあアメリカの中東観の一つを示した言葉だ。
映画は直接シリアナのことを描いてる訳ではないが、四人の主人公を通して「アメリカにとっての中東」の真の姿を描き出す。
CIAのベテラン工作員、ボブ・バーンズ(ジョージ・クルーニー)は、テヘランで武器商人を暗殺する任務に成功するが、何者かに現場からミサイルを持ち去られてしまう。
ワシントンに戻った彼は、最後の任務として中東の某王国のナシール王子暗殺を命じられる。
王子はテロ組織のスポンサーである疑いを掛けられていた。
ベネット・ホリデイ(ジェフリー・ライト)はワシントンの弁護士。
彼の仕事は石油メジャーのコネックス社とキリーン社の合併を政府に認めさせるため、両社の違法行為を調べ上げ、政府と有利に取引する事。
コネックス社はナシール王子が石油採掘権を中国に渡したために、ナシールの国での事業が出来なくなり、新興企業のキリーンとの合併を余儀なくされていた。
一方で、ベネットのボスであるホワイティングは、ナシールを失脚させ、言いなりになる弟を王位につけようと謀略をめぐらしていた。
ジェネーブのエネルギーアナリスト、ブライアン・ウッドマン(マット・デイモン)は、ナシール王子のパーティで起こった事故で息子を亡くす。
しかしその事をきっかけに、ウッドマンはアドバイザーとして中東の改革を目指すナシールの側近の地位を得る。
ナシールの目指す改革とは、アラブ自立への道だった。
ワシーム(マズハール・ムニール)は、パキスタンからの出稼ぎ青年。彼はナシールの国の石油施設で働いていたが、コネックス社が採掘権を失ったことから失業する。
失意の彼は原理主義組織のイスラム神学校に入り浸り、次第に西洋の価値観を憎悪し、殉教を賛美する思想を教え込まれて行く。
やがて組織から彼が見せられたのは、テヘランで消えたミサイルだった・・・
綿密なリサーチに基づいた力作なのは認めるが、正直言ってピンと来ない映画だった。
複雑な物語の果てに悲劇があり、世界は欲望と陰謀に満ちてる事は判ったけど、「So what?(それで?)」って感じ。
監督・脚本は、「トラフィック」の脚本で知られるスティーブン・ギャガン。
元々ソダバーグ一派の、「どう、君らついて来れるかな?」的なマスターベーション的な作りはあまり好きではないのだが、この映画も不必要なまでに物語を複雑にして突き放した目線で見ている。
ただ、バラバラのピースになっているから複雑に見えるだけで、もともとの話自体はそれほどでもない。
要するに石油会社は違法行為をしてでも利権を追及し、アナリストや法律家はその利権に乗っかり、アメリカ政府は私企業の力が強まりすぎるのを牽制するが、結局皆産油国の自立は望んでおらず、それぞれの組織が自分の意のままになる傀儡政権を作ろうとする。
すると現地人の生活は何時までも良くならず、イスラム神学校へ入り浸って自爆テロに走る奴も出てくるって事。
この映画が観客の脳みそをフル回転させ、128分かけて描いた事って、マイケル・ムーアが「華氏911」の中で、1分ほどで簡潔に喋ってた事とほとんど一緒じゃないのか。
いや、ムーアでなくても、9・11以来この手のルポ本やドキュメンタリーは多いし、石油業界と現地政権との癒着やアメリカ政府の陰謀なんて、今更こんなに凝ったやり方で描かなくても、誰でも知ってると思うんだが。
この映画ではじめてこう言うことを知った!という人にはそれなりに価値があるかもしれないが、少なくともアメリカ市場において、この露骨に「インテリ向けですよん」という作劇について行ける様な人が、国際情勢のイロハも知らないなんて事はあまり無いと思うし、逆に中東関係の知識の無い人に観てもらうには余りにも説明不足だ。
出稼ぎ青年が失業し、イスラム神学校で自爆テロ犯に変わってゆくエピソードは、直接他のエピソードと関わらないので割と一貫して流れで観られるけど、これもそれ自体が目新しい事実じゃないし。
まあ描かれている事が判りきっている事であると言う点では、例えば「ミュンヘン」なんかも一緒だけど、決定的に違うのは、こちらはキャラクターの内面が殆ど描かれてないので、事象だけを見せられてるって事。
結果、作り手の訴えたい事が全く伝わってこない。
「ふーん、世界って怖いね」という以上に観るものの心に訴える物が無いのだ。
四人の主人公にしても、彼らの立場や行動の理由は示されているけど、感情の流れが殆ど見えないので、それぞれの展開がえらく唐突に感じる。
また突然説明もなしに登場する、「これ誰??」的なキャラクターも多いので、ある程度物語の流れから推測する脳内補完が必要だ。
物語について行くのにそれなりの脳みそが必要な脚本だが、私は別に映画を観ながら脳を鍛えたい訳ではないので、こう言うのが上手い脚本とは思えない。
今こういう作品を観てもらう必要があるのは、どっちかと言うとインテリ層よりも普段ニュースも新聞も見ないで、ガソリンが安けりゃそれでブッシュを支持するような人達だと思うのだが、そういう人達を端から対象外にしてるような映画の作りはどうなのよ?
正直言って、何かを人に伝えたいと言うよりも、こう言った事を描いた!という自己満足をより強く感じてしまうのだが。
まあこれが映像を使った物語パズルだと思うと、結構面白いので飽きはしなかったが、作り手が誰に見せて、どんなことを伝えたいのかが判らない作品だった。
さて、この映画で描かれたように、現代社会で石油は黄金に等しく、石油に関わる人々は皆黄金の夢を見てる。
そんなところからこじ付けて、「ゴールデン・ドリーム」を。
イタリアンリキュールのガリアーノ、ホワイトキュラソー、オレンジジュース、生クリームをそれぞれ15ml。
シェイクして完成。
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2006年03月06日 (月) | 編集 |
韓流の影響か、若い女性の姿も結構目立ったが、全体にロビーで待つ観客の年齢層が高いのだ。
「そりゃ力道山だからシニアですよ。力さんだもの、力さん。」
そんな年配の方の声も聞こえる。
私は力道山の時代には未だ生まれていないが、「力道山」という存在が、日本人の心に刻まれた一つ時代の象徴であり、偶像なのだという事はよく判る。
私の父や祖父も、力道山の話をする時は、まるで子供の様に嬉しそうに語った物だ。
しかし、そんなリアルタイムでヒーロー力道山を見た世代にとっては、この映画に描かれた一人の人間としての力道山には少し違和感を感じるかもしれない。
これは異国のヒーロー「力道山」という偶像を演じ続け、39歳の若さで逝った朝鮮人、金信洛の孤独で切ない魂の物語なのだ。
太平洋戦争下の東京。
朝鮮半島出身の力士、金信洛は先輩力士たちの執拗な苛めに耐え、横綱を目指していた。
ある日、空襲警報の鳴り響く中、金は芸子の綾を助ける。
綾の身元引受人は、金の所属する二所の関部屋の後援者、菅野武雄だった。
やがて金は、裏社会にも大きな影響力を持つ大物である菅野の後援を得て「力道山」の四股名を襲名し、私生活では綾をパートナーとして角界で活躍するようになる。
しかし目前だった大関昇進が、金が朝鮮人である事を理由に見送りになると、力士を廃業し自暴自棄な生活を送る様になる。
ある日クラブで酔って暴れていた力道山は、居合わせたプロレスラーのハロルド坂田にこてんぱんに倒される。
世界には人種や国籍を問われない西洋の相撲、プロレスリングがある。
一念発起した力道山は、菅野に頭を下げ、アメリカにプロレス修行に出る。
やがて帰国した力道山は、伝家の宝刀空手チョップで白人レスラーに連戦連勝。
一躍時代のヒーローに躍り出るのだが・・・
作り手の強い想いを感じる力作だ。
たぶん日本人がこの映画を撮っていたら、全く違った物になっただろう。
日韓合作だが、これはやはり韓国の映画であり、成功を夢見て日本に渡り、力道山と言う偶像を一生かけて演じきった金信洛を、ある程度の神話的フィクションも取り混ぜて見つめた作品だ。
力道山を演じるのは「ペパーミント・キャンディー」や「オアシス」の名演で知られるソル・ギョング。
この作品では体重を28キロも増やし、筋トレをつみ、レスリングの技を学んで、プロレスラー力道山を見事に演じ切っている。
日本が舞台で、日本人として生きた男の物語だから、彼の台詞も90%以上が日本語。
吹き替えを拒否して、自ら演じたその日本語は、やはりちょっとイントネーションが変だ。
ただし、その違和感は直に気にならなくなる。
一つには小手先の発音などどうでもよく思えるほど、ギョングが力道山になりきっているので、台詞にしっかりと感情が入っていること。
もう一つは、この訛った日本語が、生涯をかけて日本人を演じようとした力道山自身と重なり、妙なリアリティを与えているためだ。
(実際に力士時代の力道山には、強い朝鮮語訛りが残っていたそうだ)
勿論、そのためにはギョングの力道山を受ける芝居も重要になってくるのだが、力道山の理解者であった二人の人物、綾と菅野を演じた中谷美紀、藤竜也も素晴しい。
特に中谷は、登場シーンは少ないながらも、今までのキャリアでベストかもしれない凛とした美しさと存在感を見せる。(正直、この人こんなに綺麗な人だったんだと見とれてしまった)
ソン・へソン監督の過去の作品は未見だが、韓国の演出家は役者を生かすのが上手い人が多いね。
演出自体も、若干一本調子な気はするが、しっかりと時代と人間を見つめた基本に忠実なもので好感が持てる。
惜しむらくは、中盤の脚本の整理がやや雑で、ここで物語の流れが滞ってしまう事だ。
前半の力士時代からプロレスで成功するまでの流れは、シンプルに纏まっているのだが、中盤からは物語が三つの流れに分かれる。
成功が疑心暗鬼を生み、徐々に壊れてゆく力道山の心の物語、力道山を取り巻く裏社会を含めたプロレス界の物語、そして力道山を愛しながらも、彼の変化に戸惑いを隠せない綾の物語。
この三つの流れが上手く絡みながらスムーズに流れていけば良いのだが、現状では少しぶつ切り感があり、中ダレを感じさせてしまっている。
特に力道山と綾の感情の絡みが、やや平坦になってしまっているのが残念だ。
終盤の流れが再びスムーズになるだけに、もう少し上手く整理できていたら、もっと良い作品になったのにとどうしても思ってしまう。
さて力道山と言えば当然プロレスで、肝心のプロレスシーンをいかに描くかが重要な訳だが、この映画はその点も合格だ。
現役プロレスラーが出演した試合のシーンは迫力満点。
凄いのは、ここでもギョングが本物のレスラーたちに全くビジュアル負けしてない事で、ダイナミックな技の受け身も演技とは思えない。
プロスポーツの選手を描いた映画で、肉体の迫力をここまで表現した役者はちょっと記憶にない。
この作品のギョングは本当に良い仕事をしている。
力道山に熱狂する昭和30年代の日本も、へたな日本映画顔負けに忠実に再現されている。
セットやVFXがよく出来てる分、劇中で走ってる車の年式が合ってないのがちょっと気にかかったが、それはまあご愛嬌の範囲だろう。
大きすぎる夢に生きた力道山の生涯が幸せだったのかどうかは、映画を観ても小物の私には判らなかった。
日本人のヒーローを演じ続けた力道山だが、ドキュメンタリーやノンフィクション本などを見ると、やはりアイデンティティの葛藤は大きかった様で、晩年の精神的な不安定さもそこから来ていたのかもしれない。
映画にも出てくるが、たまに幼馴染のミンギョルの店を訪ね、その時だけは素の金信洛に戻っていたエピソードなどは史実に即したものだった様だ。
ただ、日本人になりきるために封印してきた母国語で、最後の最後に同郷の金一(原爆頭突きの大木金太郎!)に夢を語るシーンは、それまでの心の鎧を脱ぎ捨てた様で、とても心に沁みる良いシーンだったと思う。
力道山こと金信洛の故郷、北朝鮮には、現在でも「力道山酒」という酒が売られているという。
残念ながら私は未経験だが、聞く所によるとかなり強い焼酎の様だ。
実際の力道山も相当な酒豪であったらしいから、きっとミンギョルの店でも故郷を想って焼酎を飲んでいたんじゃなかろうか。
そんな発想で、今日は韓国焼酎「チャミスル」を付け合せ。
力道山酒ほど強くはないが、飲みやすくて凛とした味わいの酒。
どっちかと言うと力道山よりも綾のイメージかな。
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チャミスル お買い得な1BOX \5250
「そりゃ力道山だからシニアですよ。力さんだもの、力さん。」
そんな年配の方の声も聞こえる。
私は力道山の時代には未だ生まれていないが、「力道山」という存在が、日本人の心に刻まれた一つ時代の象徴であり、偶像なのだという事はよく判る。
私の父や祖父も、力道山の話をする時は、まるで子供の様に嬉しそうに語った物だ。
しかし、そんなリアルタイムでヒーロー力道山を見た世代にとっては、この映画に描かれた一人の人間としての力道山には少し違和感を感じるかもしれない。
これは異国のヒーロー「力道山」という偶像を演じ続け、39歳の若さで逝った朝鮮人、金信洛の孤独で切ない魂の物語なのだ。
太平洋戦争下の東京。
朝鮮半島出身の力士、金信洛は先輩力士たちの執拗な苛めに耐え、横綱を目指していた。
ある日、空襲警報の鳴り響く中、金は芸子の綾を助ける。
綾の身元引受人は、金の所属する二所の関部屋の後援者、菅野武雄だった。
やがて金は、裏社会にも大きな影響力を持つ大物である菅野の後援を得て「力道山」の四股名を襲名し、私生活では綾をパートナーとして角界で活躍するようになる。
しかし目前だった大関昇進が、金が朝鮮人である事を理由に見送りになると、力士を廃業し自暴自棄な生活を送る様になる。
ある日クラブで酔って暴れていた力道山は、居合わせたプロレスラーのハロルド坂田にこてんぱんに倒される。
世界には人種や国籍を問われない西洋の相撲、プロレスリングがある。
一念発起した力道山は、菅野に頭を下げ、アメリカにプロレス修行に出る。
やがて帰国した力道山は、伝家の宝刀空手チョップで白人レスラーに連戦連勝。
一躍時代のヒーローに躍り出るのだが・・・
作り手の強い想いを感じる力作だ。
たぶん日本人がこの映画を撮っていたら、全く違った物になっただろう。
日韓合作だが、これはやはり韓国の映画であり、成功を夢見て日本に渡り、力道山と言う偶像を一生かけて演じきった金信洛を、ある程度の神話的フィクションも取り混ぜて見つめた作品だ。
力道山を演じるのは「ペパーミント・キャンディー」や「オアシス」の名演で知られるソル・ギョング。
この作品では体重を28キロも増やし、筋トレをつみ、レスリングの技を学んで、プロレスラー力道山を見事に演じ切っている。
日本が舞台で、日本人として生きた男の物語だから、彼の台詞も90%以上が日本語。
吹き替えを拒否して、自ら演じたその日本語は、やはりちょっとイントネーションが変だ。
ただし、その違和感は直に気にならなくなる。
一つには小手先の発音などどうでもよく思えるほど、ギョングが力道山になりきっているので、台詞にしっかりと感情が入っていること。
もう一つは、この訛った日本語が、生涯をかけて日本人を演じようとした力道山自身と重なり、妙なリアリティを与えているためだ。
(実際に力士時代の力道山には、強い朝鮮語訛りが残っていたそうだ)
勿論、そのためにはギョングの力道山を受ける芝居も重要になってくるのだが、力道山の理解者であった二人の人物、綾と菅野を演じた中谷美紀、藤竜也も素晴しい。
特に中谷は、登場シーンは少ないながらも、今までのキャリアでベストかもしれない凛とした美しさと存在感を見せる。(正直、この人こんなに綺麗な人だったんだと見とれてしまった)
ソン・へソン監督の過去の作品は未見だが、韓国の演出家は役者を生かすのが上手い人が多いね。
演出自体も、若干一本調子な気はするが、しっかりと時代と人間を見つめた基本に忠実なもので好感が持てる。
惜しむらくは、中盤の脚本の整理がやや雑で、ここで物語の流れが滞ってしまう事だ。
前半の力士時代からプロレスで成功するまでの流れは、シンプルに纏まっているのだが、中盤からは物語が三つの流れに分かれる。
成功が疑心暗鬼を生み、徐々に壊れてゆく力道山の心の物語、力道山を取り巻く裏社会を含めたプロレス界の物語、そして力道山を愛しながらも、彼の変化に戸惑いを隠せない綾の物語。
この三つの流れが上手く絡みながらスムーズに流れていけば良いのだが、現状では少しぶつ切り感があり、中ダレを感じさせてしまっている。
特に力道山と綾の感情の絡みが、やや平坦になってしまっているのが残念だ。
終盤の流れが再びスムーズになるだけに、もう少し上手く整理できていたら、もっと良い作品になったのにとどうしても思ってしまう。
さて力道山と言えば当然プロレスで、肝心のプロレスシーンをいかに描くかが重要な訳だが、この映画はその点も合格だ。
現役プロレスラーが出演した試合のシーンは迫力満点。
凄いのは、ここでもギョングが本物のレスラーたちに全くビジュアル負けしてない事で、ダイナミックな技の受け身も演技とは思えない。
プロスポーツの選手を描いた映画で、肉体の迫力をここまで表現した役者はちょっと記憶にない。
この作品のギョングは本当に良い仕事をしている。
力道山に熱狂する昭和30年代の日本も、へたな日本映画顔負けに忠実に再現されている。
セットやVFXがよく出来てる分、劇中で走ってる車の年式が合ってないのがちょっと気にかかったが、それはまあご愛嬌の範囲だろう。
大きすぎる夢に生きた力道山の生涯が幸せだったのかどうかは、映画を観ても小物の私には判らなかった。
日本人のヒーローを演じ続けた力道山だが、ドキュメンタリーやノンフィクション本などを見ると、やはりアイデンティティの葛藤は大きかった様で、晩年の精神的な不安定さもそこから来ていたのかもしれない。
映画にも出てくるが、たまに幼馴染のミンギョルの店を訪ね、その時だけは素の金信洛に戻っていたエピソードなどは史実に即したものだった様だ。
ただ、日本人になりきるために封印してきた母国語で、最後の最後に同郷の金一(原爆頭突きの大木金太郎!)に夢を語るシーンは、それまでの心の鎧を脱ぎ捨てた様で、とても心に沁みる良いシーンだったと思う。
力道山こと金信洛の故郷、北朝鮮には、現在でも「力道山酒」という酒が売られているという。
残念ながら私は未経験だが、聞く所によるとかなり強い焼酎の様だ。
実際の力道山も相当な酒豪であったらしいから、きっとミンギョルの店でも故郷を想って焼酎を飲んでいたんじゃなかろうか。
そんな発想で、今日は韓国焼酎「チャミスル」を付け合せ。
力道山酒ほど強くはないが、飲みやすくて凛とした味わいの酒。
どっちかと言うと力道山よりも綾のイメージかな。

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