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2006年03月15日 (水) | 編集 |
三月一杯で終了かと思われていた「まんが日本昔ばなし」のリバイバル放送だが、四月以降の放送も決定したようだ。
このイマジネーション豊かな名作を継続して観られるとは、素直に嬉しい。
何時まで続けられるのか判らないが、継続されるという事は一定の支持があるという事だろう。
下手に30分で賞味期限が切れてしまう訳のわからん新番組作るより、30年経っても支持される番組を放送する方が、文化的にも遥かに有意義だ。
いっその事全部放送して欲しいくらいだ。
ゴールデンが難しくなったら、夕方とか朝でも良いからずっと続けてくれないかな。
昨年の放送開始から毎回楽しみに観ているが、やっぱり良い物は何十年たっても良い。
マーケティングで最初から特定の客層にしかアピールしないような作りになってる最近のアニメ(もちろん志の高い作品もあるけど)を見慣れた目からすると、「日本昔ばなし」のアバンギャルドさはまるで作り手から視聴者への挑戦みたいにも思える。
もちろんそれはマスターベーション的な独り善がりではなくて、しっかりとした見せる技術に裏打ちされた質の高い挑戦なのだが。
一応、現場の作り手としてこの業界に携わる者としては、こんな風に何十年も、何世代にも渡って愛されるような作品を一度は作ってみたい。
テレビアニメに限らないけど、この業界はもう少し観客や視聴者の見る目を信用すべきだと思う。
どこか「日本昔ばなし」の新シリーズ作らないかね。
お話自体はまだまだストックがあったと思うけど。
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このイマジネーション豊かな名作を継続して観られるとは、素直に嬉しい。
何時まで続けられるのか判らないが、継続されるという事は一定の支持があるという事だろう。
下手に30分で賞味期限が切れてしまう訳のわからん新番組作るより、30年経っても支持される番組を放送する方が、文化的にも遥かに有意義だ。
いっその事全部放送して欲しいくらいだ。
ゴールデンが難しくなったら、夕方とか朝でも良いからずっと続けてくれないかな。
昨年の放送開始から毎回楽しみに観ているが、やっぱり良い物は何十年たっても良い。
マーケティングで最初から特定の客層にしかアピールしないような作りになってる最近のアニメ(もちろん志の高い作品もあるけど)を見慣れた目からすると、「日本昔ばなし」のアバンギャルドさはまるで作り手から視聴者への挑戦みたいにも思える。
もちろんそれはマスターベーション的な独り善がりではなくて、しっかりとした見せる技術に裏打ちされた質の高い挑戦なのだが。
一応、現場の作り手としてこの業界に携わる者としては、こんな風に何十年も、何世代にも渡って愛されるような作品を一度は作ってみたい。
テレビアニメに限らないけど、この業界はもう少し観客や視聴者の見る目を信用すべきだと思う。
どこか「日本昔ばなし」の新シリーズ作らないかね。
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2006年03月15日 (水) | 編集 |
「ヒストリー・オブ・バイオレンス(暴力の歴史)」とは意味深なタイトルだ。
この映画のプロットは、西部劇やフィルムノワールで今まで何度も作られてきた物語のパターンを踏襲している。
血に塗れた過去を隠し、平凡な第二の人生を生きてきた主人公が、ふとした事で過去を暴かれ、再び戦いの世界に舞い戻る。
こんな平凡な設定を、現在社会の暴力と愛の対峙を描き出すために使ったのが、異才デビット・クローネンバーグらしいところかもしれない。
タイトルは、主人公が隠してきた彼自身の暴力の歴史を意味するのだが、同時に世界中で繰り返される暴力への普遍的な考察も含んでいると思う。
トム・ストール(ビゴ・モーテンセン)はインディアナの田舎町でダイナーを経営する平凡な男。
弁護士の妻エディ(マリア・ベロ)と二人の子供と幸せに暮らしている。
ある夜、トムのダイナーが流れ者の強盗に襲われ、従業員を守ろうとしたトムは、相手の銃を奪って強盗二人を射殺してしまう。
田舎町で起こった衝撃的な事件は全国に報道され、トムは一躍地元のヒーローとして祭り上げられる。
数日後、黒ずくめの奇妙な男たちがトムの店を訪れる。
片目に抉られた傷を持つ男、フォガティ(エド・ハリス)は、トムを「ジョーイ」と呼んだ。
フォガティはフィラデルフィアのマフィアで、ジョーイとは彼の片目を抉り、姿を消した殺人狂の危険な男だという。
トムはジョーイなど知らないと言うが、フォガティはトムこそがジョーイだという確信を持っていた。
トムの回りは、次第に血と硝煙の危険な臭いに取り囲まれていく・・・・。
オープニングが凄い。
茹だる様なインディアナの日差しの中、若者と中年の二人の旅人がモーテルをチェックアウトする様子を、ワンカットの長廻しで見せる。
特に何かが起こる訳ではないのに、緊張感溢れる不思議な空気が流れる。
カットが切り替わり、若者が水を取りにオフィスへ戻ると、そこには無造作に転がる従業員の死体が映し出される。
若者は死体には全く興味を示さず水を汲む。
この映画における暴力のあり方を端的に示したシーンだ。
それは全く矛盾無く日常に存在する、一つの出来事に過ぎない。
愛や喜びと同じように、暴力も死もごく普通に存在するのだ。
実は、「ミュンヘン」の続きを観た様な印象を受けた。
あの映画のラストは、暴力の連鎖に関わってしまった主人公のアヴナーが、もはや心の安息を得る資格を永遠に失ってしまった事を暗示していたが、もし彼が全く他人に成りすまして人生の続きを生きたとしたら、こんな展開になるのかもしれない。
そして「ミュンヘン」がアヴナーの旅路を通して、過去から現在へと繋がる普遍的な暴力の連鎖を描いたように、「ヒストリー・オブ・バイオレンス」もまた、トム・ストールの日常と戦いを通して、現在アメリカにおける暴力の歴史を比喩してみせる。
まるで極大と極小が同じ模様を形作るフラクタル曲線のように。
温和なダイナー店主であるトム、平然と殺しを行う危険なジョーイ。
面白いのは、はじめのうちトムは本当にジョーイを知らないように見えることだ。
私も最初は、多重人格の話なのかと思った。(クローネンバーグの好きそうな素材だし)
ところが話が進むうちに、トムはかなり確信的にジョーイを封印していた事がわかる。
トムは「ジョーイは砂漠で死んだ」「3年かけてトムになった」と言う。
彼はある意味で精神的な自殺を図ってまで、ジョーイと暴力を過去に封印したのだろう。
最初にフォガティが尋ねてきた時、「ジョーイなんて知らない」とトムが言うのは嘘ではないのかもしれない。
彼の中ではジョーイは死んだはずの存在なのだ。
そんなジョーイを覚えているのが、精神ではなく肉体であり、肉体が体現する暴力であるのは皮肉だ。
いくら否定しても、身に迫る危険には体が自然に反応してしまう。
電光石火の動きで銃を奪い取り、躊躇無く相手を殺す。
暴力の歴史は確実にトムの中にあり、その瞬間にはジョーイがトムを封印する。
トムの二面性をフラクタラルの極小とすれば、極大は平和な市民社会でありながら、しばしば突然の凶暴性を見せるアメリカの姿だ。
世界でもっとも豊かで満ち足りた市民達。
しかしちょっとしたきっかけさえあれば、世界でもっとも凶暴な軍事国家に豹変するのもアメリカであり、その歴史は暴力に満ちている。
勿論、暴力の歴史がアメリカだけに限らないのは言うまでも無く、映画の中でトムと家族が抱えるジレンマは、そのままフラクタルの自己相似となって一人一人の観客に投影される。
精神と肉体に別々の人格を宿した男を演じるビゴ・モーテンセン、彼を愛しながらも、長年連れ添った男のもう一つの顔に戸惑いを隠せない妻を演じるマリア・ベロは、難しい役柄を自然に演じ切っていると思う。
フォガティ役のエド・ハリスも久々に怪しさ全開で嬉しくなった。
終盤登場するウィリアム・ハートはこの作品でオスカーにノミネートされているが、ちょっとした儲け役という感じ。
どちらかというとノミネートされるならハリスの方じゃないの?と思った。
音楽が例によってハワード・ショアなので、時折スコアが指輪チックに聞こえる所があり、モーテンセンがアラゴルンと一瞬かぶるのはご愛嬌。
過去を断ち切るべく、一人赴いた戦いから戻ったトムと、彼を迎える家族。
この描写が素晴らしい。
戦う他に方法が無かったのは判っているし、そこにいるのはジョーイでなくトムである事も知っている。
なによりも皆互いに愛している。
しかし、そこには以前には決して感じられなかった、冷たく張り詰めた空気が流れている。
トムはもう、家族にとって嘗てのトムではない。
トムの中のジョーイを知ってしまった。
見えないガラスに隔てられている様に、お互いを見つめるトムとエディ。
このごく短いシーンの、モーテンセンとベロの目の演技は見事。
男が抱える暴力の歴史と愛が対峙する瞬間を、一切の無駄なく簡潔に見せた。
愛は暴力を包み込めるのか?
映画は、しかしその結論は見せない。
暴力と愛の狭間でジレンマを抱えるのは、トムとエディに投影された観客一人一人であり、アメリカという社会全体。
暴力の歴史とどう向き合うかという判断は、観る者に委ねたと言う事だろうか。
「ヒストリー・オブ・バイオレンス」は極めて完成度の高い秀作で、クローネンバーグらしさもしっかり持っている。
ただ、これは今回に限らないが、最近のクローネンバーグはコンパクトな世界観で映画を作る傾向があり、以前のような広がりに欠ける気がする。
何と言うか、自身が完全に把握できる箱庭の中でキャラクターを動かし、物語を紡いでいるような感覚を覚えるのだ。
そこにはいつものクローネンバーグはいるのだが、全く新しいクローネンバーグがもたらすサプライズは無い。
見方を変えれば作家監督が円熟の境地に入りつつあるのかもしれないが、スピルバーグの様に貪欲に変化を模索する存在を目にすると、良くも悪くもクローネンバーグの終わりの始まりに見えてしまう。
勿論自分の世界をとことん突き詰めるという方向性もあるし、クローネンバーグの様な強烈な個性を持つ作家監督はそれこそが正常進化なのかもしれないが。
いずれにしてもこの作品の満足度は高い。
さて白昼夢の様に熱っぽい物語の後は、ちょっとスッキリとしたビールが良い。
デビット・クローネンバーグの故郷、カナダのトロントから「ラバット ブルー」を。
メジャーリーグのトロント・ブルージェイズのオーナー企業だった事でも有名なビールだが、カナダビールらしいあっさり味。
あんまりコクはないが、このヘビーな物語の余熱を冷ますにはちょうど良いだろう。
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ラバット ブルー 1本\300
原作グラフィックノベル
この映画のプロットは、西部劇やフィルムノワールで今まで何度も作られてきた物語のパターンを踏襲している。
血に塗れた過去を隠し、平凡な第二の人生を生きてきた主人公が、ふとした事で過去を暴かれ、再び戦いの世界に舞い戻る。
こんな平凡な設定を、現在社会の暴力と愛の対峙を描き出すために使ったのが、異才デビット・クローネンバーグらしいところかもしれない。
タイトルは、主人公が隠してきた彼自身の暴力の歴史を意味するのだが、同時に世界中で繰り返される暴力への普遍的な考察も含んでいると思う。
トム・ストール(ビゴ・モーテンセン)はインディアナの田舎町でダイナーを経営する平凡な男。
弁護士の妻エディ(マリア・ベロ)と二人の子供と幸せに暮らしている。
ある夜、トムのダイナーが流れ者の強盗に襲われ、従業員を守ろうとしたトムは、相手の銃を奪って強盗二人を射殺してしまう。
田舎町で起こった衝撃的な事件は全国に報道され、トムは一躍地元のヒーローとして祭り上げられる。
数日後、黒ずくめの奇妙な男たちがトムの店を訪れる。
片目に抉られた傷を持つ男、フォガティ(エド・ハリス)は、トムを「ジョーイ」と呼んだ。
フォガティはフィラデルフィアのマフィアで、ジョーイとは彼の片目を抉り、姿を消した殺人狂の危険な男だという。
トムはジョーイなど知らないと言うが、フォガティはトムこそがジョーイだという確信を持っていた。
トムの回りは、次第に血と硝煙の危険な臭いに取り囲まれていく・・・・。
オープニングが凄い。
茹だる様なインディアナの日差しの中、若者と中年の二人の旅人がモーテルをチェックアウトする様子を、ワンカットの長廻しで見せる。
特に何かが起こる訳ではないのに、緊張感溢れる不思議な空気が流れる。
カットが切り替わり、若者が水を取りにオフィスへ戻ると、そこには無造作に転がる従業員の死体が映し出される。
若者は死体には全く興味を示さず水を汲む。
この映画における暴力のあり方を端的に示したシーンだ。
それは全く矛盾無く日常に存在する、一つの出来事に過ぎない。
愛や喜びと同じように、暴力も死もごく普通に存在するのだ。
実は、「ミュンヘン」の続きを観た様な印象を受けた。
あの映画のラストは、暴力の連鎖に関わってしまった主人公のアヴナーが、もはや心の安息を得る資格を永遠に失ってしまった事を暗示していたが、もし彼が全く他人に成りすまして人生の続きを生きたとしたら、こんな展開になるのかもしれない。
そして「ミュンヘン」がアヴナーの旅路を通して、過去から現在へと繋がる普遍的な暴力の連鎖を描いたように、「ヒストリー・オブ・バイオレンス」もまた、トム・ストールの日常と戦いを通して、現在アメリカにおける暴力の歴史を比喩してみせる。
まるで極大と極小が同じ模様を形作るフラクタル曲線のように。
温和なダイナー店主であるトム、平然と殺しを行う危険なジョーイ。
面白いのは、はじめのうちトムは本当にジョーイを知らないように見えることだ。
私も最初は、多重人格の話なのかと思った。(クローネンバーグの好きそうな素材だし)
ところが話が進むうちに、トムはかなり確信的にジョーイを封印していた事がわかる。
トムは「ジョーイは砂漠で死んだ」「3年かけてトムになった」と言う。
彼はある意味で精神的な自殺を図ってまで、ジョーイと暴力を過去に封印したのだろう。
最初にフォガティが尋ねてきた時、「ジョーイなんて知らない」とトムが言うのは嘘ではないのかもしれない。
彼の中ではジョーイは死んだはずの存在なのだ。
そんなジョーイを覚えているのが、精神ではなく肉体であり、肉体が体現する暴力であるのは皮肉だ。
いくら否定しても、身に迫る危険には体が自然に反応してしまう。
電光石火の動きで銃を奪い取り、躊躇無く相手を殺す。
暴力の歴史は確実にトムの中にあり、その瞬間にはジョーイがトムを封印する。
トムの二面性をフラクタラルの極小とすれば、極大は平和な市民社会でありながら、しばしば突然の凶暴性を見せるアメリカの姿だ。
世界でもっとも豊かで満ち足りた市民達。
しかしちょっとしたきっかけさえあれば、世界でもっとも凶暴な軍事国家に豹変するのもアメリカであり、その歴史は暴力に満ちている。
勿論、暴力の歴史がアメリカだけに限らないのは言うまでも無く、映画の中でトムと家族が抱えるジレンマは、そのままフラクタルの自己相似となって一人一人の観客に投影される。
精神と肉体に別々の人格を宿した男を演じるビゴ・モーテンセン、彼を愛しながらも、長年連れ添った男のもう一つの顔に戸惑いを隠せない妻を演じるマリア・ベロは、難しい役柄を自然に演じ切っていると思う。
フォガティ役のエド・ハリスも久々に怪しさ全開で嬉しくなった。
終盤登場するウィリアム・ハートはこの作品でオスカーにノミネートされているが、ちょっとした儲け役という感じ。
どちらかというとノミネートされるならハリスの方じゃないの?と思った。
音楽が例によってハワード・ショアなので、時折スコアが指輪チックに聞こえる所があり、モーテンセンがアラゴルンと一瞬かぶるのはご愛嬌。
過去を断ち切るべく、一人赴いた戦いから戻ったトムと、彼を迎える家族。
この描写が素晴らしい。
戦う他に方法が無かったのは判っているし、そこにいるのはジョーイでなくトムである事も知っている。
なによりも皆互いに愛している。
しかし、そこには以前には決して感じられなかった、冷たく張り詰めた空気が流れている。
トムはもう、家族にとって嘗てのトムではない。
トムの中のジョーイを知ってしまった。
見えないガラスに隔てられている様に、お互いを見つめるトムとエディ。
このごく短いシーンの、モーテンセンとベロの目の演技は見事。
男が抱える暴力の歴史と愛が対峙する瞬間を、一切の無駄なく簡潔に見せた。
愛は暴力を包み込めるのか?
映画は、しかしその結論は見せない。
暴力と愛の狭間でジレンマを抱えるのは、トムとエディに投影された観客一人一人であり、アメリカという社会全体。
暴力の歴史とどう向き合うかという判断は、観る者に委ねたと言う事だろうか。
「ヒストリー・オブ・バイオレンス」は極めて完成度の高い秀作で、クローネンバーグらしさもしっかり持っている。
ただ、これは今回に限らないが、最近のクローネンバーグはコンパクトな世界観で映画を作る傾向があり、以前のような広がりに欠ける気がする。
何と言うか、自身が完全に把握できる箱庭の中でキャラクターを動かし、物語を紡いでいるような感覚を覚えるのだ。
そこにはいつものクローネンバーグはいるのだが、全く新しいクローネンバーグがもたらすサプライズは無い。
見方を変えれば作家監督が円熟の境地に入りつつあるのかもしれないが、スピルバーグの様に貪欲に変化を模索する存在を目にすると、良くも悪くもクローネンバーグの終わりの始まりに見えてしまう。
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