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Vフォー・ヴェンデッタ・・・・・評価額1400円
2006年04月24日 (月) | 編集 |
「Vフォー・ヴェンデッタ」の舞台は、ナチスに似た超保守政党が支配する近未来のイギリス。
そこでは全ての自由は剥奪され、監視された国民は権力への服従しか許されない。
同性愛者、移民、重度障害者、信仰無き者は社会から排除され、アウシュビッツや731部隊を思わせる収容所で処刑される。
仮面の怪人「V」はそんな社会に反旗を翻したテロリストである。

超保守党政権による独裁下、自由を失ったイギリス。
両親を政治弾圧によって失ったイヴィー(ナタリー・ポートマン)は、ある夜外出禁止時間に外に出ていて自警団に逮捕されそうになるが、無気味な仮面を被ったテロリスト「V」(ヒューゴ・ウィービング)に助けられる。
Vは裁判所の爆破を皮切りに、党幹部の暗殺を続け、テレビ局を乗っ取って国民に対して独裁との対決を呼びかける。
「1年後の11月5日、国会の前に立とう」
政府は必死になってVを逮捕しようとするが、神出鬼没なVは政府をあざ笑うかの様に犯行を重ね、大衆は次第にVを英雄視するようになっていく。
ロンドン警視庁のフィンチ警視(スティーブン・レイ)は、Vの正体を追ううちに、20年前に超保守党が政権を握るきっかけとなった、ウィルステロ事件に隠された秘密を知ってしまう。
一方、Vの元を離れたイヴィーも権力の手に落ち、V逮捕に協力するように強要されるのだが・・・


テロリズムとは何か。
辞書にはこう書いてある。

テロリズム [terrorism] :
「一定の政治目的を実現するために暗殺・暴行などの手段を行使することを認める主義、およびそれに基づく暴力の行使。テロ。」(三省堂・大辞林より)


ではどこまでがテロでどこからが戦争なのか。
内戦とテロの区別は何か。
第二次世界大戦中のレジスタンスは?パレスチナの武装組織は?タリバーンは?
たぶん答えは無い。
立場が変われば暴力への見方も変わるからだ。
イスラエルにとっては恐ろしいテロでも、パレスチナにとっては占領者からの解放闘争であろうし、第二次大戦中の欧州のレジスタンスだってナチスから見ればテロだっただろう。
近い所では、伊藤博文を暗殺した安重根も日本ではテロリストのイメージが強いが、韓国では「義士」だったりする。

この映画は1605年にロンドンで起こったガイ・フォークス事件(火薬陰謀事件:Gunpowder Plot)をモデルにしたコミックを原作としている。
ガイ・フォークスは、1605年にイギリス国会議事堂を爆破しようとして逮捕されたテロリストだ。
当時のイギリスは、国王ジェームズ一世を頂点とする英国国教会によるカソリック・清教徒への弾圧が激しく、ガイ・フォークスらラジカルなカソリックの一派は、国会議事堂を国王もろとも爆破する事で、クーデターを企てた。
しかし、計画は途中で察知され、フォークスは決行直前に逮捕され、仲間諸共翌年処刑される。
劇中で象徴的に語られる「11月5日」はフォークスが逮捕された日である。
イギリスではこの事件の知名度は極めて高く、映画の主人公Vが被っているマスクもフォークスを模した物だ。
原作が発表されたのは1982年で、当時のサッチャー保守政権への批判が根底にあるのだが、2005年に発表された映画版の批判対象は、明らかにアメリカのブッシュ政権だ。
彼らのキリスト教保守派への擦りより、少数派への不寛容、理念よりも力を信仰する政治姿勢などを、極端にカリカチュアしたのがこの映画の世界ともいえる。

暴力と理念、テロと平和、寛容と不寛容。
この極めて魅力的な難題を、「マトリックス」で良くも悪くも大衆の度肝を抜いたウォシャウスキー兄弟と、彼らの盟友であるジェイムズ・マクティーグ監督が、いかに映画的に料理するのか?
作り方によっては娯楽と社会派の垣根を軽々と飛び越える快作になるのでは、と期待した。
実際ダークな世界観や、ナイフ技を中心としたスピード感あるアクションは中々だし、風刺的に描かれる近未来の管理社会も興味深い。

しかし、しかし、この映画は何だか噛み合わないのだ。
ウォシャウスキー兄弟による脚本は、どうもピントがずれている。
Vの行動は政治的な目的のためというよりも、自分を苦しめた権力者への復讐だ。
確かにナタリー・ポートマンは理念に目覚めたかもしれないが、V自身の行動原理は理念というよりは私怨だろう。
彼は彼の行動によって大衆が立ち上がることを欲してはいたが、立ち上がってどうして欲しいとか、どんな世界になって欲しいとかの理念は全く語っていない。
物語を追っていっても、彼の目的は結局私怨を晴らすところで終わるので、革命には直接繋がらない。
Vにとっての革命とは、何か理念があっての物ではなくて、復讐の総決算としての革命であるようにしか見えないのだ。

映画の中の精神的なクライマックスとして、大雨の中「命よりも大切な理念」に目覚めたイヴィーが、フラッシュバックで炎の中のVと重なるシーンがある。
ここはイヴィーが、もう物言わぬ大衆ではなく、Vの様に理念を持って生まれ変わったという重要なシーンなのだが、元々Vの方に理念があるようには見えないから、観ている観客にとって二人は重ならない。
雨と炎という判りやすい対照によって、描こうとする事の意味は判るのだが、精神的なカタルシスを得る事は出来ない。

クライマックスで、権力の前に無数のVの仮面を着けた市民が立ちはだかるシーンも、物言わぬ大衆がVの理念に触発され、ついに国家と対決するという、本来は凄く感動的な場面なのだが、あまり盛り上がらない。
それは結局革命の象徴としてのVが、革命の理念を提示していないからではないか。
結局革命は、Vを「勘違い」した大衆によって成り立ってしまう。
Vの存在を問われたイヴィーはこんな意味の事を言う。
「Vは私であり貴方、Vは皆の中にある」
つまり理念は一人一人の中にあり、それを自覚するか否かであるという事で、Vが最後までマスクを取って「個」に戻らないのもそれを象徴するためだろう。
だがV自身が大衆を導くというよりも、政府とは別の意味で大衆を利用した存在なので、イヴィーの思わせぶりな語りにも、「いや、それアンタの勘違い・・・」と突っ込みたくなってしまった。
テロリズムの暴力をいかに解釈するのかという興味も、これが根本的には復讐劇であるところで、従来の映画の中の暴力と変わらなくなってしまった。

「Vフォー・ヴェンデッタ」はテーマ的には極めて興味深い作品だし、今日性もある。
だが、肝心のテーマから主人公が逃げてしまい、結果的に映画自体もテーマと内容がなんだか噛み合わないうちに終わってしまった。
もっとも、作者達がこのテーマともっと深く格闘したところで、物語的には自己矛盾に陥って破綻するだけだったかも知れない。
映画の中でVが英雄視するガイ・フォークスにしたって、彼の革命が目指したのは「カソリックが支配する世の中」だったのだから。
理念は個々の中で異なるから、その葛藤には終わりが無いのだ。
その意味で「Vフォー・ヴェンデッタ」は、少々不完全燃焼ながら、社会風刺を含む娯楽映画としてはギリギリのバランスの上に踏みとどまった、と言えるのかもしれない。

さて今回は、ガイ・フォークスが育ったヨークから「サミエル・スミス ぺールエール ビール」
栓を抜くと立ち上がるモルトの香りが特徴的だけど、それほど癖は無く飲みやすい。
英国のビールがどうも苦手という人にでも、薦められる1本だ。
映画のほうは正直言って、もうちょっと癖があっても良かったと思うが、まあイギリスを舞台にした「イギリス映画風のハリウッド映画」だと思えば案外良いところを突いているのかもしれない(笑

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サミエルスミス ぺールエール ビール
サミエルスミス ぺールエール ビール  \408