酒を呑んで映画を観る時間が一番幸せ・・・と思うので、酒と映画をテーマに日記を書いていきます。 映画の評価額は幾らまでなら納得して出せるかで、レイトショー価格1200円から+-が基準で、1800円が満点です。
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ポセイドン・・・・・評価額1450円
2006年05月28日 (日) | 編集 |
プロデューサーのアーウィン・アレンロナルド・ニーム監督が1972年に世に送り出した「ポセイドン・アドベンチャー」は、低予算のアメリカンニューシネマがハリウッドを席巻する中、巨額の予算を投じたパニックスペクタクル大作というジャンルを定着させた名作だった。
このパニック映画ブームの流れの中で、75年には「JAWS」の大ヒットによりスティーブン・スピルバーグが一躍時の人となり、70年代後半以降のニューハリウッド派による第二の黄金時代に繋がって行く。
今回34年ぶりのリメイク、「ポセイドン」のメガホンを取ったのは、何故か「水物」の作品が多いウォルフガング・ペーターゼン
既に古典としての評価が確定した作品のリメイクであるから、どうしてもオリジナルと比べたくなってしまうのが人の性というもの。

大型クルーズ客船のポセイドン号は、大晦日の夜に突如として発生した超巨大波によって転覆してしまう。
生き残った人々に、船長は救助隊がくるまで動くなと警告する。
しかし、ギャンブラーで元海軍の潜水艦乗りのディラン(ジョシュ・ルーカス)は、船は沈没まで間が無いと判断し、船底にあるプロペラチューブを通って外へ脱出する事を思いつく。
彼の意見に賛同した元NY市長のラムジー(カート・ラッセル)、船の設計士であるネルソン(リチャード・ドレイファス)を始めとする10人の人々は、天地が逆さまになった船内を、上へ上へと登っていくのだが・・・


オリジナルの上映時間は117分。
対してリメイク版は99分とコンパクトになっている。
この18分の上映時間の差が、今回のリメイク版のスタンスを端的に示している。
お話の大まかな流れは同じで、メインの登場人物の数も同じ。
では切られたのは何かというと、人間ドラマである。
 
往年のパニックスペクタクルの特徴の一つは、社会の様々な階層に属する人々が、共通の危機に対して団結してサバイバルするという物だった。
その過程で、それぞれのキャラクターの持っているバックグラウンドや心理が描かれ、物語に深みを加えるのだ。
オリジナルの「ポセイドン・アドベンチャー」「タワーリング・インフェルノ」と言った名作と言われるパニック映画は、例外なく優れた群像劇としての性格を持っていた。

しかし今回のリメイク版は、登場人物の背景を大胆なまでに削ぎ落とし、殆ど語らない。
勿論キャラのインフォメーションが全く無ければ、観客も感情移入出来ないから、簡潔ににおわせる程度には描いている。
例えばカート・ラッセル演じるラムジーの役は、オリジナルでジーン・ハックマンが演じたスコット牧師に当たる。
オリジナルで人々を率いる事になったスコットは、こんな事態に自分を放り込んだ神に対して、ずっと疑問を投げかけている。
苦難の行程を通して、聖職者としてのスコットの人生観や心の変化を細やかに描いていた。
対してリメイク版では、ラムジーが嘗て消防士として大惨事で活躍し、NY市長を務めた「らしい」という情報が与えられる程度で、彼の内面はまったくと言って良いほど描写されない。
他の登場人物も同様で、ちらりと人生模様を感じさせるだけで、深みを感じさせる様なドラマは無く、総じて「ポセイドン」は群像劇としてのドラマ性においてかなり薄い。

しかし、この作品においてこれは必ずしもマイナスばかりではないと思う。
ウォルフガンク・ペーターゼンの演出は、徹底的に危機からのサバイバルを描いているのだが、当然そこには「人間の生と死」という最大限にドラマチックな状況が描かれているからだ。
そこでは良い人間が生き残るとは限らない。
エレベーターシャフトでの決死の綱渡り。
一人の人間に、二人がぶら下がりしがみ付く。
一番下の人間を蹴落とさなければ、皆助からない。
その時、人はどうするのか。何ができて何が出来ないのか。
また、唯一の外への出口であるプロペラチューブ。
しかし高速で回転するプロペラが動いたまま。
誰かが水に沈んだコントロール室でスイッチを切らなければならない。
だがそこは、決して戻ってくる事の出来ない距離にある。
誰が行くのか。
迫り来る炎と水、逃げ場の無い密室に閉じ込められる閉塞感。
さすが潜水艦映画の最高峰、「U・ボート」を生み出したペーターゼン。
この巨大な迷宮からの脱出行のスリリングさは圧巻で、そこには確実に人間の生命のドラマがある。
人間ドラマを生と死という極限のポイントに絞り、後は徹底的にサバイバルアクションで見せると言う目論見は、ある程度成功していると思う。

ちょっと勿体無いなあと思うのは、せっかく船が転覆しているという設定なのに、ビジュアル的にあまり生かされていない事。
オリジナルでは天井(つまり元々は床)からぶら下がった巨大なクリスマスツリーを登っていくという様な、面白い演出があったのだが、リメイク版では上下が逆になっているのがあまりよく判らない。
吹き抜けのホールを渡るあたりは、一番逆さまの面白さが出る所だと思うのだが、セットデザインがそれを強調していない事もあり、普通に通り過ぎてしまう。
このあたりは工夫次第でさらに面白くなった所だと思う。

それに娯楽大作として十分楽しめるのは確かだが、観終わった感慨は人間ドラマに比例して薄い。
なんか、満腹感が無いのだ。
刺激的なメニューを腹八分目くらいまで一気に詰め込んだ感じで、美味しかったけどもうちょっと何か欲しいと言う想いが残る。
その一つの要因に、主役の存在感の無さがあると思う。
ジョシュ・ルーカス演じるディランは、主役であるにも関わらず、登場人物の中でもっともキャラクターの描写が少ない。
観客に提供される情報は彼が二枚目のギャンブラーであると言う程度だ。
最初は皆を見捨てて行こうとする様な、少し非常な男に見えるのに、段々と英雄的な行動をするなどキャラクターも一定しない。
これは内面が全く描かれていないから、彼の精神的な変化が伝わらず、行動だけが変わったように見えてしまうためだ。
せめて主役のディランくらいは、ある程度内面が判るように描く必要があったと思う。

「ポセイドン」はスリリングな娯楽映画で、ジェットコースターのようなスリルを味わうにはぴったりの作品だろう。
トータルで観ると、偉大なオリジナルを超えていないと思うが、これはこれで十分に面白い。

今回は、海神ポセイドンの子、アミカスの名をもつユニークなアメリカンワインを。
西海岸だとやはりナパやサンタバーバラのあるカリフォルニアがワインどころとして有名だが、この「ブルックス・アミカス」はオレゴン産。
オーガニック栽培の葡萄を使った希少なワインは、複雑でフルーティな風味が楽しめ、同時にとても飲みやすい。
私もこのブルックスという人物は最近知ったのだが、残念なことに亡くなってしまい、このビンテージが彼の手がけた最後の年となるそうだ。
クオリティは十分高いので、映画の物足りない部分に満腹感を足してくれるかも知れない。

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ブルックスの意志を次ぐ有志達のがファーストヴィンーテージブルックス・アミカス[2004]

ブルックス・アミカス 2004   ?2457







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隠された記憶・・・・・評価額1650円
2006年05月25日 (木) | 編集 |
映画は本来映像と音で表現される物だから、文章でその作品を説明するのは難しい物だが、これはその中でも極めつけだろう。
ミヒャエル・ハネケ監督「隠された記憶」は、文章どころか目に見える映像と音すら直接作品の本質を表してはいない。
これは「スクリーンに投射されたモノ」を、観客が心の中でもう一度読み解き、初めて映画として完成する異色のスリラーなのだ。

テレビの人気キャスターのジョルジュ(ダニエル・オートゥイユ)は、妻のアン(ジュリエット・ビノシュ)と息子のピエロ(レクター・マクドンスキ)と共に幸せな生活を送っていた。
ある日、彼らの家を延々と写した奇妙なビデオテープが送られてくる。
最初のうちは単なるイタズラかと思っていたジョルジュだったが、ビデオは不気味な画と共に、何度も送られてくる。
その内容も、単に家を写した物から、他人の知らないジョルジュの過去に関係する映像へと変化してくる。
犯人の目的はなんなのか。
次第に恐怖に駆られる一家だったが、ジョルジュは遠い過去に封印した一つの記憶に思い当たる。
それはフランスがアルジェリアを支配していた40年以上昔、ジョルジュが幼い頃にアルジェリア移民の少年に犯した、小さな「罪」の記憶だった・・・


映画は一軒の家を延々と写したビデオテープから始まる。
何の変哲も無い日常の風景。
一体誰が、何のためにこんな物を送りつけてきたのか。
物語はここから、一人の男とその家族の、隠された内面を、深く静かに探っていく。

作品のタイトルでもある「HIDDEN( Caché)」は非常に象徴的だ。
確かに、この作品ではあらゆる物が隠されている。
主人公の隠された記憶というのが物語上の大きなファクターなのだが、ハネケは物語上だけではなく、表現のあちこちに「隠す」というキーワードを散りばめた。
この話は表面から隠された、見えない部分にこそ物語の本質があるという、映像メディアとして非常に大胆な構造を持っている。
この映画の場合、画面に写っているのは物語のほんの一部に過ぎず、観客は終始行間を読まなければならない。
もっともハネケはそれなりに親切な人の様で、特に意識せずとも観客の心理を自然と行間に導いてくれる。

例えば送られてきたビデオテープ。
画面はずっとそのビデオを見ているジョルジュの主観ショットだ。
またオフィスに届いた気味の悪い葉書。
これもジョルジュの主観ショットで、彼の顔は見えない。
ここは普通の映画であれば、切り返しで彼の顔を捉え、反応を見せるだろう。
だが、ハネケはあえてジョルジュの表情を観客から「隠す」ことで、ある種のもどかしさと不安感を煽り、見えない物への想像力を書き立てる。
この瞬間、ジョルジュはどんな表情をしているのだろうか?何を思っているのだろうか?
観客は自然にハネケの術中にはまり、写っていない行間を読む作業に没頭するのだ。

ビデオテープの映像自体も「隠す」事のメタファーになっている。
延々と写される家、しかし中は見えない。
物語の展開にしたがって、ビデオが写し出す対象が変わっても、それは部屋の中に入らない。
そしてジョルジュがビデオに導かれる様に過去の封印を解き、隠された過去と向き合う瞬間、ビデオの映像は突然部屋の真中に飛び出すのだ。
これはビデオテープの映像が、物語上の装置であるのと同時に、精神性に置いてはジョルジュの心象映像でもあるということだろう。
それは、この映画のビデオ画像に、走査線が表現されていない事からも想像できる。
映画の中で「ビデオ画像」という設定で映像を見せる場合、他のシーンと差別化するために質感を変えるのが普通だ。
しかしこの作品のビデオ画像は他のシーンと全く同じ質感で表現されている。
つまり、別ける必要が無いのだ。

様々なレトリックを駆使して、ハネケがこの作品に「隠した物」は何か。
それはたぶん一つではないのだろう。
想像力を逞しくすれば、この映画からは隠されたいろいろなテーマを読み取る事が出来る。
それは一人の人間の抱える心の闇の問題だったり、フランスとアルジェの間にある政治的なテーマだったり、人種間の葛藤だったりと様々だ。
あえて言えば、この映画自体が人間の心の本質を探る装置のような物かも知れない。
考えてみれば、ミヒャエル・ハネケの作品と言うのは、毎回スタイルは違うものの、いつだって人間の内面を炙り出すために存在している。

さて、色々と物議をかもしているラストだが、これはもう非常にシンプルに受け取って良いと思う。
このシーンのテーマ的な解釈については色々と想像できるだろう。
ただ私は、サスペンス映画としてのこの映画が、実は冒頭で既にネタバレしているというのを再確認出来たと受け取ったのだけど、いかがだろうか。

さて今回はハネケの故郷であるオーストリア産のワインをチョイス。
オーストリアは結構ワインどころであり、美味しいワインも多い。
そんな中でこちら、オーストリア独自の白葡萄、グリューナー・ヴェルトリーナーのワイン「ベルンハルト・オット・グリューナー・ヴェルトリーナー・ローゼンベルク・レゼルヴ」はなかなかの飲み応え。
映画の後は、ワインに隠された複雑な味を発見するのも良いのではなかろうか。

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ベルンハルト・オット・グリューナー・ヴェルトリーナー・ローゼンベルク・レゼルヴ[2003]年B...
ベルンハルト・オット・グリューナー・ヴェルトリーナー・ローゼンベルク・レゼルヴ[2004]年  \3580





ダ・ヴィンチ・コード・・・・・評価額1400円
2006年05月21日 (日) | 編集 |
ダン・ブラウンの原作はだいぶ前に読んで、映画化を楽しみにしていた1本。
直前のカンヌ映画祭のプレス試写で不評だったとか、失笑されたとかの報道があったんで、ベテラン、ロン・ハワード監督をもってしても、ベストセラー小説の映画化にありがちな、不のスパイラルに陥っちゃったかとちょっと心配だったんだが・・・・

※ 以下重大なネタバレを含みます

ルーブル美術館の館長、ジャック・ソニエール(ジャン・ピエール・マリエール)が殺害された。
たまたまパリに滞在していたハーバード大学教授ロバート・ラングドン(トム・ハンクス)は、フランス司法警察のファーシュ警部(ジャン・レノ)に呼び出される。
ソニエールはダイングメッセージとして、自らの体でダ・ヴィンチの「ウィトルウィウス的人体図」の形を作って死んでいたのだ。
ファーシュは専門家のラングドンの意見を聞きたいと言うが、実はラングドンを犯人だと睨んでいた。
そこへソニエールの孫娘で暗号分析官のソフィー・ヌヴー(オドレイ・トトゥ)が現れ、これは祖父の残した暗号だと密かにラングドンへ告げる。
ソフィーと共にソニエールの暗号を解読したラングドンは、彼が伝説的な秘密結社シオン修道会の総長で、残された暗号は2000年間封印されてきたキリストの聖杯への鍵である事を知る。
同じ頃、カソリック原理主義組織オプス・ディのアリンガローサ司教(アルフレッド・モリーナ)は、配下の暗殺者シラス(ポール・ベタニー)を使って聖杯を手に入れようとしていた。
追い詰められたラングドンとソフィーは、聖杯研究家であるイギリス人貴族ティービング(イアン・マッケラン)に助けを求めるのだが・・・・


結果的には頑張ってたんじゃないの?
確かにこれも「基本的には原作の読者向け」ではあって、未読だと解りづらいところもあるけど、例えばハリポタの1作目のような、原作読者であってもあちこちに唐突感があるような無理な作りはしていなかった。
絶賛するほどとは思わないが、少なくともそんなに酷い出来じゃない。

アキヴァ・ゴールズマンの脚本は原作のプロットにほぼ忠実に、しかし全く同じではない。
何人かのメインキャラクターの性格付けや関係は、原作版とは少し異なり、その脚色は成功している部分と失敗している部分がある。
一番大きく変わっているのはファーシュ警部アリンガローサ司教の関係だ。
原作ではアリンガローサはそれほど過激な人間ではなく、ファーシュともシラスに犯行を重ねさせないために協力しあう関係だ。
しかし映画版ではアリンガローサはむしろシラスの犯行を支援し、そのためにオプス・ディの信者であるファーシュを利用する。
原作に比べると、よりカソリックの陰謀部分が強調されていて、明確な悪役としての性格が与えられている。(オプス・ディは執拗にこの映画に抗議しているようだが、確かにこりゃ怒りたくもなるわな)
この脚色は物語の構造とキャラの性格を簡略にして、短い時間で関係を整理するための物だろうが、原作の構造と大きく異なる分、既読者にはちょっと違和感があって、むしろ頭の中が混乱した。
また明らかに描写不足のところもある。
例えば銀行からラングドンたちを逃がした支店長が、突然銃を向けるシーン。
これは原作でもやや唐突だったシーンなのだが、支店長が何故考えを変えたのかが描かれていないため、彼も陰謀の加担者であるかの様に見える。
またリー・ティービングと執事の関係も、執事側の動機が全く描写されないので、行動の意味が良くわからなくなっている。
このあたりは、原作未読者には特に混乱するところだろう。

しかし、原作で結構なページ数を費やしている、登場人物の過去の出来事や、聖杯に関する歴史的な解説を、フラッシュバック風の映像で簡潔に描写したのは良かった。
もう少し丁寧に描いた方が、判りやすいところもあったが(例えばシラスの過去など)映画全体のテンポを崩さずに、必要最小限に纏めたのは評価出来る。
またティービングの屋敷でダ・ヴィンチの「最後の晩餐」を解説するのに、パソコンのディスプレイを使って視覚的に見せてくれたのは映画ならではのアイディアだ。
そしてプレス試写で失笑されたという、キリストの継承者の正体が明かされるシーンだが、
ここも原作とは大きく異なる。
実は私は原作を読んだ時に、こんな御都合主義はないだろうとあきれた部分なのだ。
原作では殺害されたソニエールとソフィーは実の家族で、ソフィーの両親とも二千年間もひっそりと生きて来たキリストの末裔だという設定になっていた。
と言う事は、ソニエール自身もキリストの末裔で、ソフィーの両親もたまたまキリストの末裔同士が結婚してるという、関係者は皆キリストの末裔だらけというあまりと言えばあまりに漫画チックな設定だった。
映画ではソニエールとソフィーに血縁関係は無く、彼はシオン修道会の総長として、ただ一人生き残ったキリストの末裔であるソフィーの守護者であったという設定になっている。
この方がずっと無理は無い。
しかし・・・・その秘密をラングドンが語るシーンで、秘密結社の壁にドーンと家系図が書いてあるのはいかがな物か。
たぶん失笑をかったのはこれだろう。
いくら判りやすくするためとは言っても、これじゃ二時間ドラマ並み。
観客はそこまで馬鹿じゃない。

映画版にはソフィーが自分の秘密を知った後、原作には無い信仰の意味をラングドンが語るシーンが付け加えられている。(正確には原作の描写を補完している)
原作には、ぶっちゃけた話明確なテーマが無い。
映画化するに当たって、ここが一番難しいところだと思っていたのだが、ドラマ的な閉めにテーマを持ってきたのは流石だ。
ややとって付けた感がなくはないが、この会話があるのとないのとでは印象がまるで違った筈だ。

ところで劇中の、教会が守ってきた権威と女性論みたいなところで、妙なデジャヴを感じたのだが、実はこの話は某国の女性の皇位継承問題と良く似ていたりする。
天皇は正しく司祭王そのもので、元々宗教的権威だ。
この映画のキリスト教と女性の関係を、天皇制と女性に置き換えてみると、これはこれでなかなか興味深いかもしれない。

さて今回は、もうこれしかないくらいにそのまんま。
「レオナルド・ダ・ビンチ」の赤を。
ボディはそれほど強くないが、イタリアワインらしくフルーティで飲みやすい。
ハリウッド映画の観賞後にはこのくらいの華やかなワインが良いだろう。

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レオナルド・ダ・ビンチ 赤ワイン
レオナルド・ダ・ビンチ 赤ワイン ?1890








盗作騒動で話題の本。これはこれで面白い。


Limit of Love 海猿・・・・・評価額1150円
2006年05月18日 (木) | 編集 |
正直言うと前作の印象が芳しくなく、これは劇場スルーする予定だったが、私の回りの人達の間でなかなか評判が良いので、期待半分不安半分で観に行ってみる事にした。
結論から言っておくと、まあそんなに悪くは無いが、こんなにヒットするほどの内容とは思えなかった。
確かに映像はグレードアップしてるけど、中身はあまり褒められない。

前作から2年。
海上保安官仙崎大輔(伊藤英明)は、鹿児島・第十管区で機動救難隊員として働いていた。
東京に住む恋人、伊沢環菜(加藤あい)とは遠距離恋愛中だ。
結婚を控え、久しぶりに環菜が遊びに来た日、彼女の想いに心を揺さぶられた大輔は、思わずケンカをしてしまう。
翌日、鹿児島沖で大型フェリー・くろーばー号の座礁事故が発生。
大輔はバディの吉岡哲也(佐藤隆太)たちと現場に急行する。
既に船は浸水を始め、どんどんと傾いていく。
船内に積載された195台もの車両が引火すれば大爆発の危険もある。
沈没までのタイムリミットは約4時間。
大輔たちは、時間との戦いの中620名もの乗客の脱出作戦を開始するが、乗客の中には偶然船に乗り合わせていた環菜の姿もあった。
ようやく殆んどの乗客の退避が終わった頃、爆発に巻き込まれ場所を見失った大輔と吉岡は、怪我人と妊婦と共に、船底に取り残されていた・・・・


この手の話の定番ではあるが、基本的なプロットは悪くないと思う。
福田靖の脚本は、主にテレビドラマをフィールドとする人だけあって、短い時間でキャラのわかり易い特徴を立てているし、既に2年以上同じキャラクターを演じている俳優陣も、すっかりとキャラを自分のものにしていて、演技の上手い下手以上にはまっている。
一万トン級のフェリーの爆発炎上を描いたVFXの出来栄えも、ハリウッド映画に遜色ない。

が・・・盛り上がらない。
絶体絶命の状況からの決死の脱出行のはずなのに、ちっとも手に汗握れない。
問題は福田靖の脚本羽住英一郎の演出共に、作りすぎ、喋りすぎなのである。
ドイツの建築家ミースの「ディティールに神が宿る」という有名な言葉があるが、この映画に関してはディティールが、正確に言えばディティールの組み合わせの無頓着さが全体を殺している。

不思議なことに、この映画では映像と言葉の役割がはっきりと別れている様に見える。
映像はスリルを、言葉は感動を担当しているかの様だ。
普通映画はこの二つが溶け合って、相乗効果をもたらす物なのだが、この映画ではむしろお互いを邪魔しあっている様に見える。
沈没する船からの脱出行という、一刻を争うドラマなのに、登場人物たちが喋る喋る。
しかもその台詞が、いちいち状況にそぐわない芝居がかった台詞なのだ。
彼らが演説してる間、スリリングな脱出ドラマの流れは断ち切られてしまう。
そして台詞で高まった観客の感情は、派手な映像で断ち切られる。
映像はかなり頑張っているし、台詞も一つ一つを聞けばなかなかの名台詞もある。
なのに、両者は決して融合しない。

沈没間際、高さ20メートルの垂直のシャフトを、怪我人を背負って登らねば助からないというシチュエーションで、上官の下川が電話で大輔に問う。
「登り切る自信はあるのか?」
これに大輔はなんとこう答えるのだ。
「・・・みんなで、空が見たいんです」
・・・・・言わないだろ。
詩人じゃないんだから、一刻を争い生きるか死ぬかのシチュエーションで、こんな文学的な表現をするわけがない。
「はい」「いいえ」だろ、普通。
この台詞は他のシーンに掛かって来るので意味がない訳ではないが、使いどころを間違っている。
しかもこの後、恋人の環菜に電話を代わってもらった大輔は、さっさと登らないと死ぬという状況下で延々とプロポーズをするのだ。
私が怪我人なら、こんな暢気な救助隊員は嫌だ。
当然ながら、この間タイムリミットのある脱出劇と言う本来のドラマは忘れ去られている。

要するに脚本家も監督も、それぞれのシーンをドラマチックにする事だけに一生懸命で、全体を観ていないのだ。
木を見て森を見ず、とは正しくこの映画の事だ。
故に感情の流れがぶつ切りで、非常にテンポが悪い。
観ながら30分くらいカットしたくなった。

映像は頑張っていると書いたが、それも全体の流れを見ない作りのせいで効果が半減している。
この映画にはバレバレのウソが無数にある。
例えばクライマックスの、煙突のシャフトを登るシーン。
外観のショットでは船体は45度くらいは傾いてるのに、中から見るとなぜかシャフトは殆んど垂直のまま。
また梯子を登る大輔たちに、煙突上部から浸水したと思われる海水が襲い掛かるのだが、やはり外観ショットでは煙突は海面遥か上にあって、どう見ても海水は浸入しそうに無い。
映画の演出上のウソといえばそうかも知れないが、こんな誰が観ても一目でおかしいと思えるウソはセンスの無いウソである。
ウソは突き通すことが出来れば立派な演出だが、ばれてしまえば観客を白けさせるただの失敗だ。
というかこんなの脚本の段階で無理があるのはわかるはずなのに、何故このままOKが出てるのか。
このあたりはテレビ的なウソへの無頓着さが出てしまっている様に思う。
伝統的にテレビドラマはウソへのこだわりが、映画とは比較にならないくらい低い。
昼間のシーンのつながりが突然夜になっている様な、エド・ウッド並のウソも決して珍しくない。
不思議とテレビドラマではあまり気にならないのだが、暗闇で集中して画面を観る映画の観客は、テレビの視聴者と同じようには観ていない。
このレベルのウソがばれない、あるいはばれても気にならないと思ってるなら、それはあまりにも映画を理解していない。

と、まあ突っ込みどころは30箇所くらいある映画なのだ。
これが全然良いところのない単なるダメ映画なら諦めもつくのだが、この映画の場合そうでもないのがもったいない。
何だかんだ言って画は派手で良く出来てるし、一部だけ見れば良い部分も多いのは事実。
普段映画を観ない人、テレビドラマの延長と割り切って観に来る人には、これでもある程度満足できるのかもしれない。
しかし、これでもうちょっと全体を纏め上げるセンスがあれば、ずっと良い作品になったのもこれまた事実だと思うのだ。

さて鹿児島が舞台で男臭い海難救助隊の話だから、鑑賞後はやっぱり地鶏でも喰いながら薩摩焼酎かね。
今回は海猿ならぬ「海童」の純芋をチョイス。
芋くさーいのが苦手な人にはチョイきついかも知れないが、芋の風味が好きな人にはこのくらいの強さがあっても良いだろう。

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海童2000純芋500ml
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ナイロビの蜂・・・・・評価額1700円
2006年05月16日 (火) | 編集 |
ブラジル、リオのスラムで生きる少年たちの姿を鮮烈に描いた、「シティ・オブ・ゴッド」フェルナンド・メイレレス監督のハリウッド進出第一作。
何と「鏡の国の戦争」などで知られる、スパイ・冒険小説の大御所ル・カレの小説を題材に選んできた。
こうなると、深みのある娯楽大作を期待したくなるが、流石にこの人は一筋縄ではいかない。
「ナイロビの蜂」は第一級のサスペンス、ラブストーリーであると同時に、「ホテルルワンダ」「ロード・オブ・ウォー」などと同様、「アフリカの現実」を扱った硬派な社会派映画でもあるのだ。

在ケニアのイギリス外交官ジャスティン(レイフ・ファインズ)は、ナイロビの空港で、奥地のロキへ向かう妻テッサ(レイチェル・ワイズ)を見送る。
彼女はアフリカの医療問題に取り組んでいるNGO活動家だった。
だが数日後、ジャスティンの元に、トゥルカナ湖の南端でテッサが殺害されたという悲報が届く。
愛する妻はなぜ殺されたのか。
テッサの生前の行動を追うジャスティンは、彼女がアフリカを新薬の実験場とする多国籍製薬会社の告発を計画していた事を知る。
新薬市場の巨額の利権を巡る陰謀が、テッサを死に追いやったという確信を得たジャスティンだったが、陰謀には英外務省の幹部も絡んでおり、彼自身も命を狙われる。
妻テッサの本当の姿を知ったジャスティンは、一人真相を探るべく動き始める・・・。


一組の夫婦の深い愛を描いたラブストーリーと、先進国に食い物にされるアフリカの現実を描いた社会派ドラマ
この全くベクトルの異なる二つの物語を、一本の映画に纏め上げた仕事は見事だ。
たぶんメイレレスという人の中では、個人と社会という物の問題意識が違和感なく溶け合っているのだろう。
「シティ・オブ・ゴッド」でもコンビを組んだセザール・シャローンによるカメラは、アフリカの大地を縦横無尽に駆け抜ける。
メイレレスの演出は、劇映画のセオリーにドキュメンタリーを思わせる第三者的な視点を織り交ぜ、リアリズムを醸し出すと同時に、常に何者かに見張られているような不安感を感じさせる。
ロンドンのシークエンスの、街頭カメラの使い方を含めて、サスペンス演出として実にスリリングだ。
ある意味であまりに重いラストまで、表層的な感傷を排し心の深層に焦点を置いたメイレレスの仕事は、ハリウッド映画的な判りやすさを備えつつ、彼自身の作家性を殺していない。
アメリカに拠点を移した途端、突然個性を失ってしまう作家が多い中、この確固たるスタンスは大いに評価すべきだ。

同時に、原作のル・カレにも敬意を表したい。
この原作は未読なので、どの程度忠実に描かれているのか判らないが、骨子のしっかりとしたプロットは間違いなく彼の物だろう。
70歳を超えて、このような骨太の物語を生み出すエネルギーは流石である。(ちなみに私は小説では「パナマの仕立屋」が好き)

ジャスティンを演じたレイフ・ファインズは、あくまでも語り部として出すぎず、しかし妻の愛の深さに次第に目を開かされる静かな男を巧みに演じた。
そしてレイチェル・ワイズは、心の奥底に切ないほど深い愛を湛えたテッサを演じて、深い印象を残す。
オスカー受賞も納得の名演だ。

ジャスティンがアフリカに赴任する時、テッサは自分から彼にプロポーズする。
プロポーズの言葉は”learn me”(私を探求して)。
意味深なこの言葉は、映画の構造をそのまま表現している。
映画は徹底的に夫ジャスティンの視点で描かれる。
最初のうち、テッサの印象はそれ程良い物ではない。
美しく情熱的だが、少々ヒステリックで目的のためなら手段を選ばない女性に見える。
だがこれはメイレレスの周到な計算。
ジャスティンはテッサを愛しているが、それは彼女を知っている事とは違う。
テッサは彼を愛するが故に壁を作り、容易に内面には入り込めず、実はこの夫婦はお互いの愛の一番深い部分を知らないのだ。
ジャスティン同様に、観客はしばしば独善的にも見えるテッサに戸惑い、その旅路を辿る。
そして彼女の戦いの、本当の姿を知るのだ。
”learn me”
その言葉に導かれる様にテッサを追い、全てを目の当たりにした時、観客は彼女の深い愛と、彼女の命を奪ったアフリカの病巣を知る。
同時にジャスティンは、命をとした旅の果てに、遂にテッサの魂と一体化するのだ。

観終わった印象は深い。
心の奥にドーンと重い物を抱え込んだ気分だ。
しかし、同時に僅かな違和感も感じる。
二人のラブストーリーとしては文句無しだが、政治的なメッセージは少し軽い。
勿論アフリカの現実が軽いのではない。
一本の映画として巧みに纏め上げているが、精神性は完全には融合していないからだ。
二つの別々のメッセージを受け取ったような感じだ。
このあたりは生まれ育ったブラジルを舞台に、より物語とテーマが近かった「シティ・オブ・ゴッド」に比べると、若干の物足りなさを感じる。
しかし、近年稀にみる情念を感じる大人のラブストーリー
既婚者も独身者も観るべし。

この映画には「ハイランドパーク」の25年物を。
アルコール度数50%を超える本物のスピリットだ。
スコットランド北端の島オークニー島にある、世界最北の蒸留所で作られるこの酒の味わいは、愛の様に深く複雑で、そして重い。
食後酒として定評のあるこの酒は、映画の余韻もより深めてくれるだろう。
これは余韻にじっくりと浸りたくなる映画だ。

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ハイランドパーク25年
ハイランドパーク25年  ¥10800











アンジェラ・・・・・評価額850円
2006年05月14日 (日) | 編集 |
やたらとプロデュース作が多いので、毎月のように名前を見ているが、監督作品は1999年の「ジャンヌ・ダルク」から6年ぶりとなるリュック・ベッソン監督の新作。
デビュー作の「最後の戦い」以来となるモノクロ映像を駆使して、チビのダメ男と長身の金髪美人の不思議な冒険を描く、異色のラブストーリーだ。

巨額の借金で首が回らなくなった28歳のダメ男アンドレ(ジャメル・ドゥブーズ)は、セーヌ川に身投げしようとして、なぜか同じように身投げしようとしていた謎の美女アンジェラ(リー・ラスムッセン)を助ける嵌めに。
「私はあなたの半身」
そう言うアンジェラは、突飛な行動でアンドレの運命を徐々に好転させてゆく。
慎重180cmで娼婦の格好をしたブロンド美人アンジェラ。
対してチビでブサイクのダメ男アンドレ。
アンドレは、一体アンジェラは何故自分を助けるのか、次第に疑問を抱くのだが・・・


よく言えば、フランス版「猟奇的な彼女」。
ダメ人間の男が、美人だけけど変な女の子に振り回されて、一皮剥けるという構造は似ている。
しかし似てるのはそれだけ。
この映画にはその設定を生かすセンスも、相応しい物語も用意されていない。

正直、私はこの映画に対してあまり語る言葉を持たない。
はっきり言ってどうでもいいというか、なんか気の抜けたシャンパン、あるいは見た目は綺麗だけど味の無い料理を食べさせられた気分だ。
リュック・ベッソンは映画の撮り方を忘れてしまったのだろうか。

一番面白いのは映画の冒頭、アンジェラが登場する前だ。
どっからどうみてもダメそうな主人公が、金策に右往左往するのシークエンスはそれなりに笑えるし、テンポも良い。
しかし、肝心のアンジェラが登場すると、何だか映画全体がグダグダになってしまう。
アンジェラはダメ男に染み付いたコンプレックスを取り除き、ある種のポジティブシンキングを叩き込もうとする。
この映画の殆んどはこの二人の掛け合いで進んでいくのだが、これがあまりにも陳腐。
場当たり的に面白そうなシチュエーションが、右から左へとどんどん流れてゆくが、一つ一つのシーンの感情が次に繋がらない。
物語が紡がれていないのだ。

観ているうちに、童顔の主人公が、どんどん頭の悪い男子中学生に見えてくる。
実際にこのキャラクターの中身は中学生並のメンタリティだ。
対応するアンジェラも、コミケで売ってる中高生作家の漫画同人誌あたりに出てきそうなキャラクターで、この二人の掛け合いは正直言ってどこまでがシリアスでどこまでがギャグなのか判らない。
いや、物によっては中高生作家のキャラクターの方が、よっぽどリアリティがあるかもしれない。
終盤、アンドレが始めて「言いたい事を言う」シーンで、アンジェラが涙するあたりは噴出しそうになった。
途中で何度も、「もしかしたらこれはコメディなのか??」と自問自答したが、最後まで観るかぎりでは、どうやらシリアスのつもりだったようだ。
ジャメル・ドゥブーズリー・ラスムッセンの凹凸コンビ自体はビジュアル的に悪くないだけに、このキャラクター造形はあまりにも勿体無い。

主役二人がそうなのだから、生みの親たるリュック・ベッソンの描き出す二人の心の交わりもローティーン並みの代物だ。
何の捻りも無いラストシーンまで、あらゆる心情を全て口に出し、ベタベタな台詞の羅列で突っ走る。
とてもじゃないけど、「ニキータ」「レオン」を生み出したのと同一人物の作品とは思えない。
あのしっとりとした余韻を残す、「ニキータ」の大人なラストを生み出した感覚はどこ行っちゃったのよ?
撮影監督ティエリー・アルボガストによるモノクロ映像も、確かに綺麗だけどアンジェラのビジュアル以外にたいして意味のある物にはなってなかったし。

とりあえずこれは無かった事にして忘れてあげるから、次の「Arthur and the Minimoys」ではしっかりと映画の撮り方を思い出すこと。

さてと、というわけで劇中のアンドレじゃないけど、「ウォッカトニック」でも飲んでダメ映画は忘れましょう。
ウォッカとトニックウォーターを4:7で、氷を入れたグラスに注ぎ、軽くステアしてライムを落として完成。
まあ酔って流しちゃいましょ。

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戦場のアリア JOYEUX NOËL・・・・・評価額1600円
2006年05月10日 (水) | 編集 |
「クリスマスの奇跡」を扱った映画は数あれど、この映画はその中でも異色作と言えるだろう。
何しろ舞台は第一次世界大戦中のノーマンズランド(両陣営の中間にある無人地帯)で、しかも実話がベースとなっている。
この映画を観た人は、奇跡という物が本来人間の中に自然に存在していることを知るだろう。

1914年、オーストリア皇太子の暗殺を切欠に、第一次世界大戦が勃発。
ヨーロッパ大陸は戦場となった。
フランス北部の最前線デルソー、そこでは三つの国の軍隊が塹壕の中で対峙していた。
フランス軍、同盟者のスコットランド軍、敵対するドイツ軍。
数十メートルというほんの僅かな距離を隔て、彼らはもう何ヶ月も戦い続けているのだ。
フランス軍中尉オードベール(ギョーム・カネ)は、出産を控えた愛妻の写真を見つめて恐怖に打ち勝とうとしていた。
スコットランド軍のパーマー神父(ゲイリー・ルイス)は、同郷の若者達の後見人として衛生兵の職務に着いていた。
厳格なホルストマイヤー中尉(ダニエル・ブリュール)に率いられたドイツ軍には、世界的なテノール歌手ニコラウス・シュプリンク(ベンノ・フュルマン)が一兵士として従軍していた。
彼らは皆、一年で一番大切なクリスマスには家で過ごせるはずだという希望を抱いていた。
だがこう着状態の戦況はクリスマスが近づいても変わらない。
その頃、ニコラウスの妻でソプラノ歌手のアナ・ソレンセン(ダイアン・クルーガー)は、戦地の皇太子に司令部でのコンサートを開き聖歌を捧げたいと申し出た。
たった一晩でも夫に会いたいがゆえの、危険を覚悟の計画だった。
皇太子は許可し、アナとニコラウスは皇太子のために前線司令部でクリスマスイブのコンサートを開く。
歌う喜びを取り戻したニコラウスは、塹壕の中にいる仲間のために、最前線で歌いたいと言う。
そして1914年、クリスマスイブの夜。
ノーマンズランドの荒野に、クリスマスツリーが掲げられ、美しい歌声が響き渡った。
ドイツ人の歌声に呼応するかの様に、スコットランドのバグパイプが伴奏を始める。
それは90年以上経った現在にも語り継がれる、奇跡の夜の始まりだった・・・


昔アメリカに引っ越した当初印象的だったのが、エレベーターで乗り合わせた人同士が挨拶をする習慣だ。
目配せで、笑顔で、あるいは「Hi」という言葉で。
最初はいかにもオープンなカリフォルニアンらしいなあと思っていたが、やがてこれには理由があることがわかった。
エレベーターで犯罪にあわないために、自然に生まれた習慣なのだ。
犯罪心理学的にも、一度でも挨拶を交わした人間を襲う事は、どんな犯罪者でも躊躇すると言う。

この映画のポイントも、クリスマスの奇跡よりも、むしろその後に起こった兵士たちの変化にある。
ドイツ軍、スコットランド軍、フランス軍の兵士たちは、クリスマスイブの夜の交流によって、初めて相手を人間と認識する。
子供の頃からの歪んだ愛国教育で、互いを鬼畜の様に思って殺し合いをしていた彼らは、顔を見、言葉を交わし、酒を飲み、サッカーに興じる事で相手が全く同じ様な人間だという事を実感する。
互いを単なる「敵」では無く、顔のある人間として認識してしまった彼らは、もう殺し合う事が出来ない。
フランス軍中尉が、クリスマス停戦への非難に反論する言葉が印象的だ。
「ドイツ人を殺せと叫ぶ連中よりも、ドイツ兵の方がよほど人間的だ!」
この言葉は結局のところ、戦争という物が無知と偏見の産物だという事を端的に表現している。
互いを知らないから、恐れ、憎む。
無知は罪ではないが、無知なる自分を知らない事は罪である。

クリスチャン・カリオン監督の演出は全く奇を衒った所の無い正攻法だ。
もっともこれだけドラマチックな物語と、ヨーロッパのオールスターとも言うべき素晴らしいキャストが揃えば、演出家のすべき最良の仕事は、基本に忠実に撮る事かもしれない。
スタッフ、キャストの心配りは画面の隅々まで極めてハイレベルに行き届いており、いわば三ツ星レストランのディナーの様な、完成度の高い仕事を堪能できる。
あえて欠点を指摘するなら、これだけの群像劇を2時間で描いたがために、若干物語が表層的になった。
アナとニコラウスやオードベールなど、ある程度深く描かれているキャラクターはいるものの、ユダヤ人であるホルストマイヤー中尉などは明らかに描き足りないし、パーマー神父と司教との対立なども、ある意味紋切り型だ。
しかし、それでもこの作品が極めて崇高なテーマをもった立派な作品である事は間違い無い。
少しでも多くの人に観てもらいたい作品だ。

この1914年のクリスマスの停戦は、実際には一箇所ではなく複数の場所で起こった様で、この映画にもチラッと出てくる停戦下でのサッカーの試合は、2001年に製作されたリーナ・クリール監督「オフサイド」という短編映画にも描かれている。
この優れた短編はウェッブなどで配信されているので、観た人も多いだろう。
この映画のような塹壕での持久戦は、戦争の形態の変化で次第に無くなっていくのだが、長期間至近距離で過ごした敵味方が次第に敵愾心を失って停戦すると言う、この映画と似たような話は、第二次世界大戦の頃までしばしばあったようだ。
時代も場所も違うが、38度線の南北の警備兵同士が友達になってしまう事で起こる悲劇を描いた、パク・チャヌク監督の傑作「JSA」もこの話を元ネタにしているのかもしれない。

しかし芸術に携わる物としては、とても勇気を貰った映画だった。
映画の前半でニコラウスが「芸術家は戦争の役に立たない」と叱責されるシーンが在る。
確かに芸術家は戦争の役には立たないかもしれないが、戦争を止める役には立った。
兵士達が人間性を取り戻すきっかけとなったのは、聖夜の音楽であったというのは感動的だ。
アナとニコラウスの歌声(ナタリー・デッセーロランド・ヴィラゾンによる素晴らしい吹き替え)が、ノーマンズランドに響き渡るシーンは鳥肌が立った。
そしてその後の心の安息を取り戻させるのは、宗派を超えた信仰であり、より互いを理解しあうのに役立ったのはサッカーだ。
宗教と芸術、そしてスポーツの本質的な姿がここには在る。
そう言えばもう直ぐ公開になる日独合作映画「バルトの楽園」も、戦時下の日独の音楽を通じた交流の話だね。
芸術は軍事力の様に直接的な力は持たないが、人間の心の奥底に、深く静かに働きかける力が確かにあると思う。
人間は恐怖よりも感動を選ぶ、そう信じたい物だ。

この映画には、物語に登場する三つの国から三本のお酒を選ぼうと思う。
まずスコットランドからはスコッチの名品「ジョニー・ウォーカー・ブルーラベル」を。
ドイツからはヘッペンハイムの国営醸造所のシャルドネとして知られる「ヘッペンハイマー・シュタインコップフ・シャルドネ・シュペートレーゼ・トロッケン」を。
そしてフランスからはクリスマスに欠かせないシャンパン、シャンパーニュの「ゴッセ・ブリュット・エクセレンス」をチョイス。
これらの酒はあらゆる芸術同様に軽々と国境を越える。
文化の違いは、時として憎しみや恐れを生み出すが、これらの酒はそれぞれの文化の違いがいかに素晴らしい差異を生み出し、同時にその素晴らしさは味わう文化を選ばない事を教えてくれる。
違いを恐れるのでなく、違いを楽しめば、きっと戦争など起こらない。

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ジョニーウォーカー ブルーラベル 750ml 43度
ジョニーウォーカー ブルーラベル 750ml 43度  \11500

国営醸造所が造るナチュラルな果実味にバリックの香りヘッペンハイマー・シュタインコップフ・...
ヘッペンハイマー・シュタインコップフ・シャルドネ・シュペートレーゼ・トロッケン[2003]750ml  \3980

◆シャンパーニュ史に残る老舗ブランド  ゴッセ・ブリュット・エクセレンス[NV]
ゴッセ・ブリュット・エクセレンス  \4500





アイス・エイジ2・・・・・評価額1350円
2006年05月06日 (土) | 編集 |
2002年のヒット作、「アイス・エイジ」の続編。
前作では氷河期を舞台に、サーベルタイガー、マンモス、ナマケモノの三匹が、人間の赤ちゃんを親元へ返すという「三人の名付親」あるいは「ウィロー」チックな話だったが、今回人間は出てこない。
全体のモチーフになってるのは「ノアの箱舟」だ。

氷河期も終わりに近づき、地球は温暖化。
サーベルタイガーのディエゴ(デニス・レアリー)、マンモスのマニー(レイ・ロマーノ)、ナマケモノのシド(ジョン・レグイザモ)が暮らす緑の谷間も春の陽気に溢れていた。
しかし暖かくなったせいで、氷河のダムが溶け出し、大洪水が起こる事が判明。
動物たちは谷の果てにあるという「船」を目指して旅を始める。
旅の途中で、マニーはオポッサムに育てられたために自分の事をオポッサムだと思い込んでいる、変なマンモスの女の子エリーと出会う。
自分の事を地球最後のマンモスだと思っていたマニーは、エリーに恋心を抱くのだが・・・・


「アイス・エイジ」はピクサー作品などと比べると低予算作品だったが、前作のヒットで予算もついたのか、「アイス・エイジ2」は映像的には大幅にグレードアップしている。
風景も美しいし、楽しいキャラクターも増えた。
前作のクリス・ウェッジ監督「ロボッツ」と制作期間がかぶったために外れ(スクラット役での出演は継続)、前作と「ロボッツ」でコ・ディレクターを勤めたカルロス・サルダーニャがメインで監督している。
キャストも含めて基本的には前作と同じチームの作品なので、雰囲気もテンポもほぼそのまんま。
前作が好きな人には安心して観ていられる作品になった。

伝統的にアメリカのアニメーションは、しっかりとしたストーリー性に裏打ちされたディズニーの長編アニメーション系の作品が保守本流としてあり、その傍流としてドタバタアクションの小ネタの連続で見せるカートゥーン系の作品がある。
セルからCGへとアニメの技法は代わったが、ディズニー流のスムーズな物語を高い完成度で見せるのが一連のピクサー作品だとすれば、この「アイス・エイジ」シリーズはカートゥーンの楽しさを持っている。
勿論大筋の物語はあるのだが、それはあまりしっかりとした物ではなく、プロットはけっこうゆるい。
この映画では「洪水が起こるので舟を探す旅をする」というのが全体の物語なのだが、実際それほど切羽詰った様には見えないし、話はあっちこっちへ飛びまくる。
マーニーの恋物語や、シドが炎の王様に祭り上げられる話、など個別のエピソードの面白さで繋いで行くのだ。
この特徴を際立たせているのが、前作から延々とドングリを追いかけてるリスのスクラットのエピソードだ。
繰り返し挿入されるこの本筋と全く関係ないエピソードは、物語の場面転換の他に、元々小ネタの連続である物語に統一感を与えるという重要な役割を果している。
このスクラットのワーナーカートゥーンを思わせるドタバタは、実は本筋よりも面白いんじゃないかと言う位に抱腹絶倒
DVD化の時は是非スクラットのエピソードだけを連続再生出来るようにして欲しい。

対して、本筋の方は元々そういう作りと判ってはいても、少し焦点がボケすぎたかもしれない。
今回は主役三人にそれぞれテーマが与えられている。
マーニーは恋だし、シドは他人からのリスペクトを貰う事、ディエゴは水への恐怖の克服だ。
このそれぞれのテーマが本筋の旅と今ひとつかみ合わない
最終的に物語が収束して来ないのだ。
故に若干の中ダレを感じてしまうし、迫り来る大洪水のサスペンスがそれほど盛り上がらない。
全体に映像やアクションは進化したけども、その分内容的には多少大味になってしまったという所だろうか。
それでも能天気な娯楽映画を楽しく観たい、という気分の時にはピッタリの作品だと思う。

まあこれに酒をあわせるのもなんだけど、この明るく楽しい雰囲気にあえて合わせればアメリカンなバドワイザーあたりだろう。
薄味で水みたいにガバガバのめるから、あんまり酒飲んでるって感じじゃないし。
そういえば昔バドのアイスビールって言うのもあったね。
消えちゃったけど、今にして思えば語呂合わせとしてはピッタリだったかも(笑

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バドワイザー 缶 1ケース(24本) 330ml
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「アイス・エイジ」の元ネタか?
アンダーワールド・エボリュ-ション・・・・・評価額1450円
2006年05月01日 (月) | 編集 |
昔はヒット作の続編というと、内容的にも興行的にも精々一作目の80%程度という法則があった。
勿論「ゴッドファーザー」のような例外や、「007」シリーズの様な一話完結物では続編にもいい作品はあったのだけど、全体に続編というと所謂「二匹目の鰌」を狙って、終わった話に無理やり続きをくっ付けた様な物が多かったからだ。
しかし近年になって、初めからシリーズ化を想定した作品の良質な続編が量産されるようになって、もはやこの法則は過去の物になった。
特に「スパイダーマン」「X-マン」の様なアメコミヒーロー系の場合、一作目は世界観やキャラの紹介で費やされる時間が長い分、ヒーローが本領発揮し内面描写の余裕も出てくる2作目の方が、圧倒的に面白いという新たな法則が生まれたと言っても良いと思う。
ヴァンパイア処刑人、セリーンを主人公とした「アンダーワールド」シリーズはアメコミ原作ではないが、レン・ワイズマン監督の創造した作品世界は極めてアメコミチックであるためか、見事にこの法則に当てはまった。
一作目の「アンダーワールド」は複雑な人物関係や設定の説明について行くのが忙しく、娯楽映画としてはやや中途半端だったが、「エボリューション」はタイトル通りに進化しているのだ。

ヴァンパイア一族の処刑人セリーン(ケイト・ベッキンセール)は、長老であるビクターが自分の親の仇である事を知り、彼を殺す。
ライカン(狼男)族だけではなく、身内からも追われる身となったセリーンは、唯一の味方であるヴァンパイアとライカンの混血種のマイケル(スコット・スピードマン)と共に逃亡する。
一方、復活したヴァンパイアの祖マーカスは、数百年前に幽閉された双子の兄弟であり、ライカンの祖であるウィリアムを解放し、二人で世界を支配しようと企む。
ウィリアムの幽閉場所を設計した者が、セリ-ンの父であり、彼女の記憶こそがウィリアムの幽閉地への地図である事を知ったマーコスは、執拗にセリ-ンを追跡するのだった・・・


2003年の「アンダーワールド」の完全な続編。
前作の終ったところから物語が始まるので、前作を観てないとたぶん訳がわからないだろう。
必ず観賞後にストーリーを覚えている状態で観に行くこと。
正直言って私はうろ覚えだったので、始まってから15分くらいは目の前のストーリーを追いながら旧作を思い出すのに苦労した。

基本的には前作同様「女ブレイド」
「マトリックス」以来の、レザー系ファッションを纏ったお洒落なキャラクターによるスピーディーなアクションを、古典的なモンスター映画の設定と組み合わせた物だ。(実際にはマトリックスよりブレイドの一作目の方が先なんだけど)
お話的には何の関係もないのだけど、本シリーズと「ブレイド」シリーズは同じ原作者による物なのかと錯覚するほど、基本的な世界観や雰囲気が良く似ている。
進化した「アンダーワールド」を差別化しているのは、ブルーを基調としたモノトーンに近い色調の画面と、都会的なブレイドとは間逆の秘境ムードの舞台設定か。

主演のケイト・ベッキンセールとワイズマン監督は、前作の完成後に結婚している。
だからという訳ではないだろうが、この作品では彼女をとても魅力的に撮っている。
ベッキンセールの抜ける様な白い肌が黒髪とレザーファッションに映え、スタイル抜群の彼女が長い手足を振り回すアクションは実に格好良い。
この映画はベッキンセール以外に殆ど女性キャラが登場せず、対照的に男性キャラはどちらかと言うとむさ苦しいタイプが並ぶから、必然的に彼女の美しさが際立つと言う寸法だ。
「キャットウーマン」や「エレクトラ」など、女ヒーロー物が軒並み苦戦する中、このシリーズが気を吐いているのは、キャラクターと役者の絶妙なマッチングにプラスして、夫婦愛という見えないパワーがあるからかもしれない(マヂで)。

「アンダーワールド・エボリューション」は、ホリディシーズンに遊園地やお化け屋敷のノリで観に行くのにぴったりだ。
この映画は画面に写っている物が全てであり、観た人が想像力を働かせたり、物語の中に深い意味を見出したりする事は殆ど出来ない。
正直言って脚本は少々仕上がりが荒く、判りにくい部分もあるので、もう少しエピソードの流れを整理した方がより観易くなるとは思うが、元々テーマ性の強い話ではないので、決定的な欠点にはなっていない。
まあその分、世界はしっかりと作られえており、106分間飽きさせない工夫は十分に凝らされている。

ぶっちゃけ観終って残る物は何も無い。
最近のヒーロー物は、2作目ともなると主人公の苦悩や内面の葛藤を描いて、中々深みがあったりする物だが、この作品はそんな暇を全く与えず、ひたすら生き残りのための戦いで引っ張る。
戦いに関係ないシーンは、僅かにセリーンとマイケルのベッドシーンが箸休めとしてあるくらいで、徹底的にアクション+ちょいエロ
ある意味、純娯楽映画として潔い。
ホラーアクション系のエンタメで、ついでに美女も観賞したいなら、チョイスして損はしない映画だと思う。
アクションシーンはマトリックスの様にCGをCGとして際立たせたユニークな物ではなく、スピード感と動きのアイディアで見せる古典的な物で、中々迫力がある。
前作でも思ったが、表面的なビジュアルはいかにもマトリックス以降のスタイリッシュアクション調を纏ってはいるが、ワイズマン監督の映画的な記憶は80年代のジェットコースタームービーの様だ。
この作品では前半のトラックを使ったチェイスシーンや、クライマックスの墜落したヘリの前でのアクションシーンに「レイダース/失われたアーク」へのオマージュを見ることができる。
勿論そのまんまパクってる訳ではなく、設定を生かしてアレンジされているのだが、映画ファンならニヤリとさせられる所だ。

この映画の後には、セリ-ンをイメージしたクールなお酒を飲みたい。
ダークな冬の夜の様な、澄んだトーンにはウォッカの三大銘柄の一つ、モスコフスカヤの「クリスタル」がぴったりだろう。
このお酒はかなり辛口で、スッキリして飲みやすい。
余計な事はせず、キンキンに冷やしてストレートで。
美女は素のままでも美女なのだ。

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