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2006年06月29日 (木) | 編集 |
ザ・B級。
「リベリオン」でSFファンの喝采を浴びたカート・ウィマー監督の最新作は、一言でいってバカ全開。
前作は低予算の中にも様式美と格調を感じさせた力作だったが、今回は格調の「か」の字も無い。
徹底的にミラ・ジョヴォヴィッチの華麗なアクションを楽しむためのバカ映画である。
近未来。
人工の変異ウィルスによって吸血鬼・ファージと化した新人類が発生。
人間の政府はファージを制圧するために独裁による恐怖政治を敷くが、弾圧に抵抗するファージとの間に果てしない抗争が勃発する。
夫を弾圧で失ったファージのヴァイオレット(ミラ・ジョヴォヴィッチ)は、ファージを皆殺しにする事のできる人間側の新兵器を奪取する命令を受け、一人敵地に乗り込む。
独裁者ダクサス(ニック・チンランド)の軍隊との戦いの末に、兵器を奪ったヴァイオレットだったが、そのケースの中に入っていたのは、兵器ではなく人間の男の子だった・・・・
二つの種族が対立する世界というのは、脚本家がみんなテレパシーでつながってるのかと思うくらい、最近流行の設定だ。
まあこれ自体は昔からある世界観だし、子連れ女の逃亡アクションという設定も、「グロリア」以来の定番で、特に物語に新鮮味は無い。
というか、この作品の場合まともな物語自体が無い(笑
カート・ウィマーという人は、シナリオライターとしては結構緻密な仕事をしていたりするのだが、自分の監督作品になると思いっきり趣味に走るというか、B級趣味が炸裂する。
それでも初監督の「リベリオン」は、物語こそ典型的なビッグブラザー物ではあったが、低予算のSFアクションにしては珍しいほどに、キャラクターの背景がかなり丹念に描きこまれ、主演のクリスチャン・ベールの好演もあって、ある種の風格すら感じさせる出来だった。
第二作となるこの「ウルトラヴァイオレット」は、前作からビッグブラザー的な世界観こそ多少引き継いでいるものの、作品の作りはまるで正反対だ。
この作品の唯一絶対の存在価値。
それは主演のミラ・ジョヴォヴィッチの圧倒的な存在感と、アクションである。
ウィマーが「リベリオン」で作り出した、ガンアクションとマーシャルアーツを組み合わせた独自の格闘技「ガンカタ」は今回も健在。
ただ本来の銃によるアクションはそれほど多くなく、肉体や剣によるバリエーションを披露している。
まあ銃を使わないなら「ガン」カタでは無いような気もするが、今回はひたすら敵の弾を避け続ける事で、敵を同士討ちさせてしまうという間抜けなんだか凄いんだか判らないような技もあって、これはこれで面白い。
全体に画の作りはアメコミ+日本のアニメ+特撮戦隊物といった感じで、特に今回は中国系スタッフが大挙参加しているせいか、妙にアジアっぽい。
オープニングのファージの襲撃シーンなんて、キャラの見得の切り方が殆んど「パワーレンジャー」か香港映画だし、ヴァイオレットが身に着けている重力コントロールベルト(?)は仮面ライダーを思わせる。
この未来世界とアクションを表現するCGは、現代の作品としてはかなりラフ。
はっきり言ってショボイ。
だがキャラクターの顔にまでCG風の画像処理が施されているので、作品の世界に目が慣れてしまうと気にならなくなる。
この漫画チックな映像が始めから意図した物なのか、それとも時間と金がなくて後から全体をショボイCGにあわせて画像処理したのかは判らないが、いずれにしても統一感はとれている。
まあそんな訳で、アクションを観ている限り相当面白い。
が、いくらなんでも話が適当過ぎじゃないか。
物語自体はありきたりかつ単純なのに、なぜこれほど判り難い語りをするのか。
特に人間とファージ双方から追われる少年の扱いなど、誰が観ても混乱するだろう。
ギミック好きのヲタク監督に共通する悪い癖だが、ディティールの設定に懲りすぎていて、本筋が妙に判りにくくなってしまっている。
凝るのは良いが、本来設定というのは物語の裏にあるものだから、複雑すぎる設定を上手く物語上で表現できないと単に判らない話になってしまう。
最近の作品で言うと、ちょうどチェン・カイコー監督の「PROMISEプロミス/無極」が同じドツボに嵌っていた。
まあカイコーの場合、限りなく真面目に作ったのが結果的にバカ映画になってしまったという感じだったが、ウィマーの場合ははじめから狙っているから、感情を全部台詞で喋っちゃったりするベタさ加減はまだ許せる。
しかしお話に関しては、もう少しやり方があったんじゃないかと思う。
「ウルトラヴァイオレット」は、絵に描いたようなB級、愛すべきバカ映画であって、始めからそのつもりならかなり楽しめると思うが、間違っても「リベリオン」を期待してはいけない。
この作品でカート・ウィマーがやりたかったのは、カッコいい女ヒーローを使って思いつく限りのアクションをやってみる事で、それ以上でも以下でもない。
「リベリオン」ほどの作り手としての思い入れは、この作品からは感じる事はできない。
この映画で残る物といえば、ひたすらカッコいいヴァイオレットの姿のみ。
では鑑賞後もヴァイオレットで締めくくろう。
マスネ社の、その名も「ウォッカ・ア・ラ・ヴァイオレット」を。
実際にヴァイオレットの香りが楽しめるフレーバード・ウォッカで、ボトルのデザインも中々素敵だ。
味わいは軽やかで、まるでミラの身のこなしの様?
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マスネ・ウォッカ・ア・ラ・ヴァイオレット 40度 500ml \2280
これは傑作!
「リベリオン」でSFファンの喝采を浴びたカート・ウィマー監督の最新作は、一言でいってバカ全開。
前作は低予算の中にも様式美と格調を感じさせた力作だったが、今回は格調の「か」の字も無い。
徹底的にミラ・ジョヴォヴィッチの華麗なアクションを楽しむためのバカ映画である。
近未来。
人工の変異ウィルスによって吸血鬼・ファージと化した新人類が発生。
人間の政府はファージを制圧するために独裁による恐怖政治を敷くが、弾圧に抵抗するファージとの間に果てしない抗争が勃発する。
夫を弾圧で失ったファージのヴァイオレット(ミラ・ジョヴォヴィッチ)は、ファージを皆殺しにする事のできる人間側の新兵器を奪取する命令を受け、一人敵地に乗り込む。
独裁者ダクサス(ニック・チンランド)の軍隊との戦いの末に、兵器を奪ったヴァイオレットだったが、そのケースの中に入っていたのは、兵器ではなく人間の男の子だった・・・・
二つの種族が対立する世界というのは、脚本家がみんなテレパシーでつながってるのかと思うくらい、最近流行の設定だ。
まあこれ自体は昔からある世界観だし、子連れ女の逃亡アクションという設定も、「グロリア」以来の定番で、特に物語に新鮮味は無い。
というか、この作品の場合まともな物語自体が無い(笑
カート・ウィマーという人は、シナリオライターとしては結構緻密な仕事をしていたりするのだが、自分の監督作品になると思いっきり趣味に走るというか、B級趣味が炸裂する。
それでも初監督の「リベリオン」は、物語こそ典型的なビッグブラザー物ではあったが、低予算のSFアクションにしては珍しいほどに、キャラクターの背景がかなり丹念に描きこまれ、主演のクリスチャン・ベールの好演もあって、ある種の風格すら感じさせる出来だった。
第二作となるこの「ウルトラヴァイオレット」は、前作からビッグブラザー的な世界観こそ多少引き継いでいるものの、作品の作りはまるで正反対だ。
この作品の唯一絶対の存在価値。
それは主演のミラ・ジョヴォヴィッチの圧倒的な存在感と、アクションである。
ウィマーが「リベリオン」で作り出した、ガンアクションとマーシャルアーツを組み合わせた独自の格闘技「ガンカタ」は今回も健在。
ただ本来の銃によるアクションはそれほど多くなく、肉体や剣によるバリエーションを披露している。
まあ銃を使わないなら「ガン」カタでは無いような気もするが、今回はひたすら敵の弾を避け続ける事で、敵を同士討ちさせてしまうという間抜けなんだか凄いんだか判らないような技もあって、これはこれで面白い。
全体に画の作りはアメコミ+日本のアニメ+特撮戦隊物といった感じで、特に今回は中国系スタッフが大挙参加しているせいか、妙にアジアっぽい。
オープニングのファージの襲撃シーンなんて、キャラの見得の切り方が殆んど「パワーレンジャー」か香港映画だし、ヴァイオレットが身に着けている重力コントロールベルト(?)は仮面ライダーを思わせる。
この未来世界とアクションを表現するCGは、現代の作品としてはかなりラフ。
はっきり言ってショボイ。
だがキャラクターの顔にまでCG風の画像処理が施されているので、作品の世界に目が慣れてしまうと気にならなくなる。
この漫画チックな映像が始めから意図した物なのか、それとも時間と金がなくて後から全体をショボイCGにあわせて画像処理したのかは判らないが、いずれにしても統一感はとれている。
まあそんな訳で、アクションを観ている限り相当面白い。
が、いくらなんでも話が適当過ぎじゃないか。
物語自体はありきたりかつ単純なのに、なぜこれほど判り難い語りをするのか。
特に人間とファージ双方から追われる少年の扱いなど、誰が観ても混乱するだろう。
ギミック好きのヲタク監督に共通する悪い癖だが、ディティールの設定に懲りすぎていて、本筋が妙に判りにくくなってしまっている。
凝るのは良いが、本来設定というのは物語の裏にあるものだから、複雑すぎる設定を上手く物語上で表現できないと単に判らない話になってしまう。
最近の作品で言うと、ちょうどチェン・カイコー監督の「PROMISEプロミス/無極」が同じドツボに嵌っていた。
まあカイコーの場合、限りなく真面目に作ったのが結果的にバカ映画になってしまったという感じだったが、ウィマーの場合ははじめから狙っているから、感情を全部台詞で喋っちゃったりするベタさ加減はまだ許せる。
しかしお話に関しては、もう少しやり方があったんじゃないかと思う。
「ウルトラヴァイオレット」は、絵に描いたようなB級、愛すべきバカ映画であって、始めからそのつもりならかなり楽しめると思うが、間違っても「リベリオン」を期待してはいけない。
この作品でカート・ウィマーがやりたかったのは、カッコいい女ヒーローを使って思いつく限りのアクションをやってみる事で、それ以上でも以下でもない。
「リベリオン」ほどの作り手としての思い入れは、この作品からは感じる事はできない。
この映画で残る物といえば、ひたすらカッコいいヴァイオレットの姿のみ。
では鑑賞後もヴァイオレットで締めくくろう。
マスネ社の、その名も「ウォッカ・ア・ラ・ヴァイオレット」を。
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2006年06月25日 (日) | 編集 |
「ビックリした!」というのがファーストインプレッション。
ジョン・ラセター御大自らが、久々に送り出してきた作品が、これほどマニアックな代物だったとは。
「カーズ」は、勿論非常に優れたファミリー映画であるのだが、それ以上にアメリカの自動車文化とモータースポーツを愛する者にとっては、感涙必死のマニアックムービーである。
その意味で、これは子供向けの映画ではない。
私はあえて、この映画のコアターゲットは「嘗て少年であった、クルマを愛する大人気ないオッサン」であると言いたい。
今までのピクサーアニメと決定的に違うのは、作品が現実をかなり反映していて、物語の背景を知っているのと知らないのとではかなり作品の理解に差が出そうな事。
判る人には判るけど的な部分が多く、ファミリー映画としては減点なのだが、ある意味で早くもマンネリズムに陥っているアメリカCGアニメにあって、この冒険は高く評価したい。
新進レーシングカーのライトニング・マックイーン(オーウェン・ウィルソン)は、長年の憧れであったピストン・カップに挑むために、カリフォルニアに移動する事に。
ところがその途中で、ひょんな事からトランスポーターから落っこちてしまい、地図にも載っていない町、ラジエーター・スプリングスに迷い込んでしまう。
そこは訪れる車も無く、時間に忘れ去られた様な田舎町。
パトカーに追われて町の道路を壊してしまったマックイーンは、裁判で判事を勤める町の有力者、ドク・ハドソン(ポール・ニューマン)に自分が壊した道路の修復を命じられる。
渋々と道路を直し始めるマックイーンだったが、次第に町に住む車たち、トーイングカーのメーターや、都会からのIターン組のポルシェのサリー、フィアットのタイヤ屋ルイジたちの暖かさに触れ、不思議な居心地のよさを感じるのだったが・・・
考えてみればジョン・ラセターの監督作品というのは、「トイ・ストーリー」=「おもちゃ」、「バッグズ・ライフ」=「虫」、そして今回の「クルマ」と男の子が大好きなものばかりを扱ってきた。
他のピクサー作品の監督たちが、父性であったり、ミドルエイジクライシスであったり、それなりに大人の視点でファミリー映画を描いているのに対して、ラセター御大自身は実は大人になり切れない大人、究極の趣味人だったのかもしれない。
物語の舞台となるのは、地図から消えた町ラジエーター・スプリングス。
忘れ去られた旧街道、実在するルート66沿いの田舎町だ。
この映画を真に楽しむためには、このルート66への理解が不可欠であると思う。
アメリカ人は敬愛を込めて、この道をMother Roadと呼ぶ。
五大湖沿岸のイリノイ州シカゴから、カリフォルニア州サンタモニカを結ぶ全長2400マイルに及ぶ長大な街道で、正式に設置されたのは1926年。
合衆国最古の国道の一つである。
だがこのルート自体は、一部は西部開拓時代の幌馬車のルートであり、また古代ネイティブアメリカンの交易ルートでもあった。
その歴史はアメリカ合衆国の歴史よりも古く、正に大陸のMother Roadと呼ぶに相応しい。
ルート66は大陸の東と西を結ぶ大動脈として、半世紀以上に渡ってモノや人、そして文化を運んできた。
その存在がアメリカにとってどれほど重要だったかは、ルート66を描いた様々な小説や映画や音楽によっても知ることができる。
だが、この味わいのある街道も、1985年に近代的なインターステートフリーウェイの全線開通を受けて廃線となる。
映画の舞台となっているのは、ルート66の中でも最後にインターステートI-40号線に置き換えられた、ニューメキシコからアリゾナを抜けるエリアだ。
実際にこのあたりをドライブすると、I-40号線に寄り添うように、荒れた旧道が走り“Historic Route 66”の標識を見ることができる。
90年代頃から当時を懐かしむ人々によって、道路の保存運動が進められ、現在では沿線各州にルート66保存会が活動し、史跡指定されている。
「カーズ」の物語の直接的なアイディアは、このルート66保存運動から来ているのかも知れない。
このあたりには本当に時間に忘れ去られた様な、小さな寂れた街が点在しているのだ。
この映画のもう一つの文化的な背景は、アメリカのモータースポーツだ。
アメリカではヨーロッパのモータースポーツとは全く別に、陸上競技場を巨大にしたようなオーバルトラックでのスタジアムモータースポーツが発展した。
その中でも特にアメリカ南部をバックグラウンドとするのが、NASCARに代表される、一見普通の車の形をしたレーシングカーで行われる、ストックカーレースである。
円周が最大3.2キロものオーバルトラックを時速200マイルで駆け抜けるストックカーレースは、一説には禁酒法時代に酒を満載してパトカーを振り切るために、特別に改造された車がルーツとも言われる。
ショーアップされた内容と見た目の判りやすさで、半世紀以上の歴史を持ち、二代、三代と「家業」として継承されているレーシングファミリーも少なくない。
この作品で、スーパースターの“the King”を堂々と演じているリチャード・ペティも、実際に現役時代キング・ペティと呼ばれた伝説のチャンピオンだ。
ペティ以外にもF1とインディカーのダブルタイトルホルダーであるマリオ・アンドレッティや、ミハエル・シューマッハら本物のレーシングドライバー達が自分の役(勿論車になっているが)で大挙ゲスト出演しているのも、ファンには涙もの。
同じように、主人公のライトニング・マックイーンは、伝説的なアクションスターであり、レーシングドライバーとしても知られるスティーブ・マックイーンをイメージしたキャラクターだろうし、その師匠となるドク・ハドソンを演じるポール・ニューマンも、自身が偉大なレーシングドライバーでもある。
こう言ったマニアックなディティールを眺めているだけでも、クルマ好きのオッサンは飽きないのだが、勿論物語もしっかりと良く出来ている。
基本的に、この物語は「スローライフの勧め」である。
主人公のライトニング・マックイーンは華やかなレーシングカーだが、本心から話せる友もいないし、心休まる時間も無い。
誰一人知る人のいない田舎町で「捕らわれの身」になって、初めてじっくりと自分を振り返る事が出来る。
そのラジエーター・スプリングスを地図から消し去った、インターステートフリーウェイも同じだ。
何よりも効率優先で、成功への強迫観念から疾走し続けるアメリカの姿そのもの。
ジョン・ラセターは、アメリカの持つ豊かな文化遺産である「クルマ」という素材を通して、効率化の果てに失ってしまったもの、古き良きアメリカンスピリッツを描き出す。
そんなに急いで何処行くの?
その成功は本当の幸せをもたらしてくれたの?
失ってしまったものは本当に無いの?
よくよく考えてみれば「クルマ」というものは不思議だ。
速く、快適に、安全に移動するという、効率を最大限追求した製品でありながら、時として効率とは真逆の趣味性を併せ持つ。
ラセターがこのテーマを描くのに、「クルマ」を選んだのは、彼の趣味もさる事ながらクルマの持つ二面性(それはある意味人間そのものだ)が、物語を象徴すると考えたからだろう。
地図から消えた町、ラジエーター・スプリングスは、ある意味で現代人の理想郷だ。
物語の最後で、町は再び賑わいを取り戻すが、それは決して効率化に飲み込まれた訳ではなく、人々(この作品の場合クルマたち)が、一歩立ち止まって考えたからに他ならない。
もしアメリカをクルマで旅する機会があれば、時にはインターステートから降りて、古き良き街道をゆっくりと走ってみる事をお勧めする。
この映画に登場する実に魅力的な風景は、決してアニメの中だけの創作ではなく、基本的に全て実在する。
幾つものラジエーター・スプリングスもまた、誰もがいける場所に存在するのだ。
余談だが、ラジエーター・スプリングスの住人に、フィアット500のルイジがいるのだが、私の知る限りアメリカでオフィシャルにフィアット500が売られた事は無い。
色から言っても、これは「ルパン三世/カリオストロの城」へのラセター流のオマージュの気がする。
そう言えば、宮崎駿もクルマオタクの趣味人だった。
さて、本作の主人公、ライトニング・マックイーンはストックカー。
ストックカーレースを見るにはやっぱり、水みたいに飲みやすいアメリカンビール以外にはあり得ない。
レースのスポンサーもやってる「バドワイザー」で良いでしょう。
青空の下のスタジアムで、バドで渇きを癒しながら、時速200マイルのバトルを堪能する。
いや~久々に日本でも開催してくれないかねえ。
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ジョン・ラセター御大自らが、久々に送り出してきた作品が、これほどマニアックな代物だったとは。
「カーズ」は、勿論非常に優れたファミリー映画であるのだが、それ以上にアメリカの自動車文化とモータースポーツを愛する者にとっては、感涙必死のマニアックムービーである。
その意味で、これは子供向けの映画ではない。
私はあえて、この映画のコアターゲットは「嘗て少年であった、クルマを愛する大人気ないオッサン」であると言いたい。
今までのピクサーアニメと決定的に違うのは、作品が現実をかなり反映していて、物語の背景を知っているのと知らないのとではかなり作品の理解に差が出そうな事。
判る人には判るけど的な部分が多く、ファミリー映画としては減点なのだが、ある意味で早くもマンネリズムに陥っているアメリカCGアニメにあって、この冒険は高く評価したい。
新進レーシングカーのライトニング・マックイーン(オーウェン・ウィルソン)は、長年の憧れであったピストン・カップに挑むために、カリフォルニアに移動する事に。
ところがその途中で、ひょんな事からトランスポーターから落っこちてしまい、地図にも載っていない町、ラジエーター・スプリングスに迷い込んでしまう。
そこは訪れる車も無く、時間に忘れ去られた様な田舎町。
パトカーに追われて町の道路を壊してしまったマックイーンは、裁判で判事を勤める町の有力者、ドク・ハドソン(ポール・ニューマン)に自分が壊した道路の修復を命じられる。
渋々と道路を直し始めるマックイーンだったが、次第に町に住む車たち、トーイングカーのメーターや、都会からのIターン組のポルシェのサリー、フィアットのタイヤ屋ルイジたちの暖かさに触れ、不思議な居心地のよさを感じるのだったが・・・
考えてみればジョン・ラセターの監督作品というのは、「トイ・ストーリー」=「おもちゃ」、「バッグズ・ライフ」=「虫」、そして今回の「クルマ」と男の子が大好きなものばかりを扱ってきた。
他のピクサー作品の監督たちが、父性であったり、ミドルエイジクライシスであったり、それなりに大人の視点でファミリー映画を描いているのに対して、ラセター御大自身は実は大人になり切れない大人、究極の趣味人だったのかもしれない。
物語の舞台となるのは、地図から消えた町ラジエーター・スプリングス。
忘れ去られた旧街道、実在するルート66沿いの田舎町だ。
この映画を真に楽しむためには、このルート66への理解が不可欠であると思う。
アメリカ人は敬愛を込めて、この道をMother Roadと呼ぶ。
五大湖沿岸のイリノイ州シカゴから、カリフォルニア州サンタモニカを結ぶ全長2400マイルに及ぶ長大な街道で、正式に設置されたのは1926年。
合衆国最古の国道の一つである。
だがこのルート自体は、一部は西部開拓時代の幌馬車のルートであり、また古代ネイティブアメリカンの交易ルートでもあった。
その歴史はアメリカ合衆国の歴史よりも古く、正に大陸のMother Roadと呼ぶに相応しい。
ルート66は大陸の東と西を結ぶ大動脈として、半世紀以上に渡ってモノや人、そして文化を運んできた。
その存在がアメリカにとってどれほど重要だったかは、ルート66を描いた様々な小説や映画や音楽によっても知ることができる。
だが、この味わいのある街道も、1985年に近代的なインターステートフリーウェイの全線開通を受けて廃線となる。
映画の舞台となっているのは、ルート66の中でも最後にインターステートI-40号線に置き換えられた、ニューメキシコからアリゾナを抜けるエリアだ。
実際にこのあたりをドライブすると、I-40号線に寄り添うように、荒れた旧道が走り“Historic Route 66”の標識を見ることができる。
90年代頃から当時を懐かしむ人々によって、道路の保存運動が進められ、現在では沿線各州にルート66保存会が活動し、史跡指定されている。
「カーズ」の物語の直接的なアイディアは、このルート66保存運動から来ているのかも知れない。
このあたりには本当に時間に忘れ去られた様な、小さな寂れた街が点在しているのだ。
この映画のもう一つの文化的な背景は、アメリカのモータースポーツだ。
アメリカではヨーロッパのモータースポーツとは全く別に、陸上競技場を巨大にしたようなオーバルトラックでのスタジアムモータースポーツが発展した。
その中でも特にアメリカ南部をバックグラウンドとするのが、NASCARに代表される、一見普通の車の形をしたレーシングカーで行われる、ストックカーレースである。
円周が最大3.2キロものオーバルトラックを時速200マイルで駆け抜けるストックカーレースは、一説には禁酒法時代に酒を満載してパトカーを振り切るために、特別に改造された車がルーツとも言われる。
ショーアップされた内容と見た目の判りやすさで、半世紀以上の歴史を持ち、二代、三代と「家業」として継承されているレーシングファミリーも少なくない。
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ペティ以外にもF1とインディカーのダブルタイトルホルダーであるマリオ・アンドレッティや、ミハエル・シューマッハら本物のレーシングドライバー達が自分の役(勿論車になっているが)で大挙ゲスト出演しているのも、ファンには涙もの。
同じように、主人公のライトニング・マックイーンは、伝説的なアクションスターであり、レーシングドライバーとしても知られるスティーブ・マックイーンをイメージしたキャラクターだろうし、その師匠となるドク・ハドソンを演じるポール・ニューマンも、自身が偉大なレーシングドライバーでもある。
こう言ったマニアックなディティールを眺めているだけでも、クルマ好きのオッサンは飽きないのだが、勿論物語もしっかりと良く出来ている。
基本的に、この物語は「スローライフの勧め」である。
主人公のライトニング・マックイーンは華やかなレーシングカーだが、本心から話せる友もいないし、心休まる時間も無い。
誰一人知る人のいない田舎町で「捕らわれの身」になって、初めてじっくりと自分を振り返る事が出来る。
そのラジエーター・スプリングスを地図から消し去った、インターステートフリーウェイも同じだ。
何よりも効率優先で、成功への強迫観念から疾走し続けるアメリカの姿そのもの。
ジョン・ラセターは、アメリカの持つ豊かな文化遺産である「クルマ」という素材を通して、効率化の果てに失ってしまったもの、古き良きアメリカンスピリッツを描き出す。
そんなに急いで何処行くの?
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失ってしまったものは本当に無いの?
よくよく考えてみれば「クルマ」というものは不思議だ。
速く、快適に、安全に移動するという、効率を最大限追求した製品でありながら、時として効率とは真逆の趣味性を併せ持つ。
ラセターがこのテーマを描くのに、「クルマ」を選んだのは、彼の趣味もさる事ながらクルマの持つ二面性(それはある意味人間そのものだ)が、物語を象徴すると考えたからだろう。
地図から消えた町、ラジエーター・スプリングスは、ある意味で現代人の理想郷だ。
物語の最後で、町は再び賑わいを取り戻すが、それは決して効率化に飲み込まれた訳ではなく、人々(この作品の場合クルマたち)が、一歩立ち止まって考えたからに他ならない。
もしアメリカをクルマで旅する機会があれば、時にはインターステートから降りて、古き良き街道をゆっくりと走ってみる事をお勧めする。
この映画に登場する実に魅力的な風景は、決してアニメの中だけの創作ではなく、基本的に全て実在する。
幾つものラジエーター・スプリングスもまた、誰もがいける場所に存在するのだ。
余談だが、ラジエーター・スプリングスの住人に、フィアット500のルイジがいるのだが、私の知る限りアメリカでオフィシャルにフィアット500が売られた事は無い。
色から言っても、これは「ルパン三世/カリオストロの城」へのラセター流のオマージュの気がする。
そう言えば、宮崎駿もクルマオタクの趣味人だった。
さて、本作の主人公、ライトニング・マックイーンはストックカー。
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2006年06月19日 (月) | 編集 |
正直なところ、全く期待しなかったどころか、地雷を踏む覚悟で観に行った。
何しろ長編人気漫画が原作で、監督が金子修介、そこそこお金の掛かった大作で、おまけに前後編を同時撮影ってギミックまで繰り出して、これって邦画のダメパターンに見事に嵌っているじゃないか(笑
とりあえず原作は5巻くらいまでしか読んでないし、訳判らなくなったらどうしようと思っていたのだが・・・意外と予想したほど悪くなかった。
とは言っても、対戦車地雷(「デビルマン」クラス)が手榴弾になったくらいなんだけど・・・
※ある程度のネタバレを含みます。
法学部に通う夜神月(藤原竜也)は、法律で裁けない犯罪の多さに無力感を感じていた。
あるとき彼は、死神リョークの落とした「デスノート」を拾う。
それは名前を書き込んだ人間を、確実に殺す死のノートだった。
月はデスノートを使って、次々と犯罪者を「処刑」してゆく。
やがて犯罪者の突然死は世間を騒がせる事となり、謎の処刑人は「キラ」と呼ばれ一部の人々に崇拝される様になる。
世界中で起こる犯罪者の突然死に対処するために、インタポールは天才探偵「L」(松山ケンイチ)を日本に送り込む。
偽のテレビ放送を利用して、キラを関東地方在住の警察関係者かその家族と絞り込んだLは、秘密裏にFBIに協力を要請する。
FBI捜査官のレイ(細川茂樹)は、キラ担当の夜神刑事部長(鹿賀丈史 )の子息である月を尾行するのだが・・・
何年か前に、初めて原作漫画の噂を聞いた時の事は覚えている。
「死神のノートを拾った少年が、そのノートを使って犯罪者を殺してゆく話」
正直言って何てバカな話なんだろうと思った。
実際この物語の設定は実に幼稚かつバカバカしく、概要だけ聞いて、面白さを理解できる人はまずいないだろう。
読んでみると、この馬鹿げた設定を妙に説得力のある物にしている大場つぐみの綿密なプロットと、小畑健の緻密な画力に驚かされ、なるほどこれは売れるはずだと思ったものだ。
原作は現在11巻まで出ている長編だが、映画版はとりあえず「デビルマン」と違って、長い話を無理やり縮めようとしなかったのは評価できる。
原作が長大なので、映画版前後編はかなり構成を変えるようで、今回の「前編」は最初の3巻くらいまでをベースにしている。
大石哲也の脚本は、脚色を加えつつも基本的な流れは原作に忠実だ。
実際この話の面白さの大半はキラとLの心理戦であって、すでにある漫画のディティールが非常によく出来ているのだから下手にいじる必要はないのだ。
もっとも面白く観られるのは、結局漫画をなぞった部分のみ、という事も言えてしまうのが辛いところ。
映画版「デスノート」の欠点は、やはりキャラクターを表層でしか表現できていない所だ。
藤原竜也と松山ケンイチの二人は、原作のキャラクターを上手く自分の物にしていて悪くない。
そのほかの出演者も、かなり無理のある設定の中で、必要最低限のリアリティを持たせる事には成功している。
役者の問題ではないのだ。
二人の天才の腹の探りあいは、ある意味で非常にゲームライクな展開を見せる。
漫画なら、モノローグという決定的な武器もあるし、読者が読みながら想像を巡らせる事が出来るから、こういう作りで良いのだが、たった二時間しかない映画で同じ事をやられると、登場人物がゲームの駒でしかなくなってしまう。
他人のやっているゲームを、横で見ている様なものだ。
元々物語の性格上、過度な感情移入は出来ないような構造になっているのだが、それでも流れの中で月とLの内面の情念みたいな物を感じさせてくれないと、少々辛い。
原作で月は、「デスノートを使って新世界の神となる」なんてぶっ飛んだ台詞をかましているのだが、このある意味で幼稚かつ真摯な正義感を表現できてないと物語的なカタルシスは感じられない。
金子修介の演出も、もとから心理劇の得意な人ではないから、余計無機的に感じられてしまう。
物語を改変するなら、二人の天才の内面をあぶりだすような脚色をすべきだったが、現状はどちらかというと、原作のムードを保ったまま、いかに短時間で纏めるかに腐心しているだけで、非常に薄っぺらな印象になってしまっている。
あと映画版では、月に詩織という恋人がいる設定になっていて、これが物語終盤の流れに大きく関わってくる。
FBI捜査官レイの婚約者である南空ナオミを殺すために、詩織の存在を利用するのだが、正直言ってこの改変は失敗だったと思う。
元々ダークヒーロー的な色彩を持つ夜神月が、これによって決定的に悪役となってしまった。
上にも書いたが、月というキャラクターの魅力は幼稚でデカダンスな正義感であって、彼の行動を肯定出来ないまでも、捕まりそうになるとつい応援したくなる稀有なキャラクターだったはずで、だからこそLとの「似た物同士の戦い」が盛り上がる。
犯罪者や自分に敵対する者に容赦はしないが、少なくとも自己保身のために恋人を犠牲にするようなキャラでは無かった。(少なくとも原作の5巻までは)
月自身は、あくまでも正義であり神を気取っている訳で、「死神以上」なのは、悪知恵であって、心ではなかったのではないか?
原作には無い、この映画版オリジナルの(前編の)クライマックスは、キャラクターの一線を越えてしまった気がする。
前後編だけに、物語は途中でバスッと終わるのだが、正直言って後味は悪い。
全体としての評価は秋に公開される後編を観てからでないと下せないが、現状では原作の心理ゲームの面白さをあまり殺さなかったので、辛うじて飽きずに観られるという程度だ。
評価額はあくまでも前編に対する物という事で。
さて今回はデスノートだけに島根県の加茂福酒造の「死神」を(笑
一体何を考えてこんな縁起の悪い名前を付けたのか判らないけど、この蔵の酒はネーミングのセンスがちょっと変わっていて他にも「○いん」とか「HA11」(酵母の名前そのまんま)なんてのもある。
お味の方も死神だけあって、ちょっと独特。
飲みにくくは無いけど、微妙なえぐみがあって、誰にでも受け入れられる味ではないだろう。
逆に少し癖のある酒が飲みたい向きには調度良いかもしれない。
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映画「デスノート」オリジナル・サウンドトラック
何しろ長編人気漫画が原作で、監督が金子修介、そこそこお金の掛かった大作で、おまけに前後編を同時撮影ってギミックまで繰り出して、これって邦画のダメパターンに見事に嵌っているじゃないか(笑
とりあえず原作は5巻くらいまでしか読んでないし、訳判らなくなったらどうしようと思っていたのだが・・・意外と予想したほど悪くなかった。
とは言っても、対戦車地雷(「デビルマン」クラス)が手榴弾になったくらいなんだけど・・・
※ある程度のネタバレを含みます。
法学部に通う夜神月(藤原竜也)は、法律で裁けない犯罪の多さに無力感を感じていた。
あるとき彼は、死神リョークの落とした「デスノート」を拾う。
それは名前を書き込んだ人間を、確実に殺す死のノートだった。
月はデスノートを使って、次々と犯罪者を「処刑」してゆく。
やがて犯罪者の突然死は世間を騒がせる事となり、謎の処刑人は「キラ」と呼ばれ一部の人々に崇拝される様になる。
世界中で起こる犯罪者の突然死に対処するために、インタポールは天才探偵「L」(松山ケンイチ)を日本に送り込む。
偽のテレビ放送を利用して、キラを関東地方在住の警察関係者かその家族と絞り込んだLは、秘密裏にFBIに協力を要請する。
FBI捜査官のレイ(細川茂樹)は、キラ担当の夜神刑事部長(鹿賀丈史 )の子息である月を尾行するのだが・・・
何年か前に、初めて原作漫画の噂を聞いた時の事は覚えている。
「死神のノートを拾った少年が、そのノートを使って犯罪者を殺してゆく話」
正直言って何てバカな話なんだろうと思った。
実際この物語の設定は実に幼稚かつバカバカしく、概要だけ聞いて、面白さを理解できる人はまずいないだろう。
読んでみると、この馬鹿げた設定を妙に説得力のある物にしている大場つぐみの綿密なプロットと、小畑健の緻密な画力に驚かされ、なるほどこれは売れるはずだと思ったものだ。
原作は現在11巻まで出ている長編だが、映画版はとりあえず「デビルマン」と違って、長い話を無理やり縮めようとしなかったのは評価できる。
原作が長大なので、映画版前後編はかなり構成を変えるようで、今回の「前編」は最初の3巻くらいまでをベースにしている。
大石哲也の脚本は、脚色を加えつつも基本的な流れは原作に忠実だ。
実際この話の面白さの大半はキラとLの心理戦であって、すでにある漫画のディティールが非常によく出来ているのだから下手にいじる必要はないのだ。
もっとも面白く観られるのは、結局漫画をなぞった部分のみ、という事も言えてしまうのが辛いところ。
映画版「デスノート」の欠点は、やはりキャラクターを表層でしか表現できていない所だ。
藤原竜也と松山ケンイチの二人は、原作のキャラクターを上手く自分の物にしていて悪くない。
そのほかの出演者も、かなり無理のある設定の中で、必要最低限のリアリティを持たせる事には成功している。
役者の問題ではないのだ。
二人の天才の腹の探りあいは、ある意味で非常にゲームライクな展開を見せる。
漫画なら、モノローグという決定的な武器もあるし、読者が読みながら想像を巡らせる事が出来るから、こういう作りで良いのだが、たった二時間しかない映画で同じ事をやられると、登場人物がゲームの駒でしかなくなってしまう。
他人のやっているゲームを、横で見ている様なものだ。
元々物語の性格上、過度な感情移入は出来ないような構造になっているのだが、それでも流れの中で月とLの内面の情念みたいな物を感じさせてくれないと、少々辛い。
原作で月は、「デスノートを使って新世界の神となる」なんてぶっ飛んだ台詞をかましているのだが、このある意味で幼稚かつ真摯な正義感を表現できてないと物語的なカタルシスは感じられない。
金子修介の演出も、もとから心理劇の得意な人ではないから、余計無機的に感じられてしまう。
物語を改変するなら、二人の天才の内面をあぶりだすような脚色をすべきだったが、現状はどちらかというと、原作のムードを保ったまま、いかに短時間で纏めるかに腐心しているだけで、非常に薄っぺらな印象になってしまっている。
あと映画版では、月に詩織という恋人がいる設定になっていて、これが物語終盤の流れに大きく関わってくる。
FBI捜査官レイの婚約者である南空ナオミを殺すために、詩織の存在を利用するのだが、正直言ってこの改変は失敗だったと思う。
元々ダークヒーロー的な色彩を持つ夜神月が、これによって決定的に悪役となってしまった。
上にも書いたが、月というキャラクターの魅力は幼稚でデカダンスな正義感であって、彼の行動を肯定出来ないまでも、捕まりそうになるとつい応援したくなる稀有なキャラクターだったはずで、だからこそLとの「似た物同士の戦い」が盛り上がる。
犯罪者や自分に敵対する者に容赦はしないが、少なくとも自己保身のために恋人を犠牲にするようなキャラでは無かった。(少なくとも原作の5巻までは)
月自身は、あくまでも正義であり神を気取っている訳で、「死神以上」なのは、悪知恵であって、心ではなかったのではないか?
原作には無い、この映画版オリジナルの(前編の)クライマックスは、キャラクターの一線を越えてしまった気がする。
前後編だけに、物語は途中でバスッと終わるのだが、正直言って後味は悪い。
全体としての評価は秋に公開される後編を観てからでないと下せないが、現状では原作の心理ゲームの面白さをあまり殺さなかったので、辛うじて飽きずに観られるという程度だ。
評価額はあくまでも前編に対する物という事で。
さて今回はデスノートだけに島根県の加茂福酒造の「死神」を(笑
一体何を考えてこんな縁起の悪い名前を付けたのか判らないけど、この蔵の酒はネーミングのセンスがちょっと変わっていて他にも「○いん」とか「HA11」(酵母の名前そのまんま)なんてのもある。
お味の方も死神だけあって、ちょっと独特。
飲みにくくは無いけど、微妙なえぐみがあって、誰にでも受け入れられる味ではないだろう。
逆に少し癖のある酒が飲みたい向きには調度良いかもしれない。

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映画「デスノート」オリジナル・サウンドトラック


2006年06月14日 (水) | 編集 |
是枝裕和監督のデビュー作、「幻の光」は衝撃だった。
能登の漁村を舞台に、心に傷を負った一人の女が、たゆたうような穏やかな時間の中で、徐々に癒されてゆく物語。
ドキュメンタリストらしい距離感のある視点と、その底にある人間愛。
不思議な緊張感のある演出は、決して演技が上手いとは言えない江角マキコすら輝かせた。
カンヌで史上最年少の主演男優賞を受賞した「誰もしらない」まで、一貫してそのスタンスは変わらない。
その是枝監督のはじめての時代劇は、9.11以降の世界を、江戸庶民の力強い生き様に投影した異色の時代劇。
なんとも力の抜けた力作だ。
太平の世が続く元禄15年、江戸。
赤穂浪士が吉良邸に討ち入る少し前の、五代綱吉将軍の治世。
父の仇を打つために、信州松本から江戸にやって来た青木宗左衛門(岡田准一)は、毎日隣の会話も筒抜けの貧乏長屋で目を覚ます。
当時の江戸は世界最大の巨大都市。
そうそう簡単に仇が見つかる訳も無く、長屋の住人貞四郎(古田新太)の怪しげな情報に金を払う毎日。
しかも実のところ、宗左の剣の腕はまるでダメ。
得意技は手習い算術と「逃げ足」という体たらくだった。
そんな宗左の密かな想い人は、向かいに住む子連れの未亡人のおさえさん(宮沢りえ)。
おさえさんは、仇討ちのために仇を探す宗左に、「お父上があなたに教えた物が、憎しみだけだったら悲しい」と話すのだった。
そんなある日、宗左は偶然にも憎き仇、金沢十兵衛を見つけてしまう・・・・
こう言うのを待っていたのである。
「たそがれ清兵衛」のヒット以来、リアルな生活描写に基づいた時代劇が増えたのは嬉しいのだが、何故か馬鹿の一つ覚えの様に藤沢周平ばかりが映像化されるので、やや食傷気味だった。
邦画には嘗て「長屋物」という伝統があった。
時代劇は、別に侍の話じゃなくても良いのだ。
様々な階層の人々が集まってきていた巨大都市・江戸なら、ぶっちゃけ市井の人々の暮しをじっくりと描いた方がよほど面白いのではないか・・・とずっと思っていた。
この作品の主人公は一応侍だが、貧乏長屋のバラエティに富んだ住人たちが織り成す、群像劇としての性格を備えている。
徹底的に生活のディテールに拘った「江戸暮し」の描写は、本編の見所の一つだ。
黒澤、溝口組をはじめ、日本映画黄金時代からの経験を持つベテラン、馬場正男が参加した美術は、生活している人の体臭まで臭ってきそうなリアルさだ。
また衣装の黒澤和子は、黒澤明の実の娘。
この映画には、日本映画が培ってきた伝統の技が確実に生きている。
もっとも作り物然としたテレビ時代劇を見慣れた目には、山崎裕の透明感のあるカメラも手伝って、生活感たっぷりのこの世界が、世相の共通性以上に妙に現代的に見えるのが可笑しい。
本当のところ江戸時代になると、現在に通じる都市機能はほとんど整備され、便利さの差はあれども、生活自体は現在と大して変わらないのが実際の所だったようだ。
ただ現代的とは言っても違いがあるのも事実なので、そのあたりに知っているようで知らない世界をのぞき見るような楽しさがある。
この映画の生活描写の面白さというのは、外国の生活を紹介するテレビのバラエティ番組に近いものがあるかもしれない。
そういえば是枝監督の古巣、テレビマンユニオンは「世界ウルルン」や「世界不思議発見!」など、その手の作品をずいぶん沢山手がけている。
そんなモダーンな江戸長屋に、暴力の連鎖に悩む侍が一人。
岡田准一演じる宗左は、武士の生き方いう理念に縛られた旧時代の遺物である。
太平の世の中になっても、侍だけは相変わらず現実ではなく理念に生きている。
実際のところ、宗左はそんな武士の生き方にかなり疑問を感じているのだが、生まれた時から叩き込まれた生き方はそうそう簡単には変わらず、それが大いに悩みとなり宗左はずっと難しい顔をしている。
宗左の仇討ちと対となる背景として描かれるのが、赤穂浪士の仇討ちなのだが、この事件に対する庶民の受け止め方一つとっても、もはや武士の生き方がリアルな世界ではなく、武士道の理念というイリュージョンの中で自己完結しているのが見て取れる。
侍は何も作り出すことが出来ず、太平の世では無用の長物である事を、自分たちもよく知っている。
だからこそ、侍はますます理念に縋る。
長屋の住人が祭りで演じる仇討ち寸劇も、現実の赤穂浪士も、日々の生活に関係ないという点では結局のところ変わらないのだ。
人が生きていくことに必要なのは、食い物と寝床とちょっとした希望。
仇討ちなんて何の得にもならないが、見世物としては面白い。
ついでにチョイと便乗して稼いじまおう。
そんな強かで愉快な市井の人々の中で、宗左は徐々に呪縛から解放されて侍・青木宗左衛門から人間・青木宗左衛門へと変わってゆく。
実は自分と同じ哀しみを抱えていながら、それを心の奥に封印しているおさえさんの気持ちを知った時、宗左の心はイリュージョンからリアルへと抜けたのだろう。
振り上げた拳を、何かちょっとだけ違う方向に使ってみよう。
必要なのは、憎しみよりも少しだけ慈しみを大切にする気持ち。
全てが終った時、ずっとしかめっ面だった宗左が見せる笑顔が素晴らしい。
基本的に物語の基盤にはずっと宗左がいて、劇中で起こっていく事を受け止めるのだが、全くブレずにキャラクターを纏め上げた岡田准一は中々の好演だったと思う。
ちょっと不幸な影のあるヒロインおさえさんも、今やこの手のキャラクターは宮沢りえの十八番である。
田畑智子、木村祐一、香川照久、上島竜兵らにぎやかな長屋の住人たち、そして討ち入らなかった赤穂浪士・寺坂吉右衛門を演じた寺島進も、それぞれの持ち味を十分に生かされていて、出番は少なくても強い印象を残す。(※:実際の寺坂吉右衛門の行動に関しては諸説あり、討ち入り後に逃亡したという説もある)
ただ腕っ節の強い遊び人のそで吉(加瀬亮)と、同郷の幼馴染おりょう(夏川結衣)の切ない恋のエピソードは、この話の中で唯一主人公と直接絡んでこないせいか、全体の流れから少し浮いている気がする。
「花よりもなほ」は良い意味で肩の力が抜けた、軽量級時代劇の秀作だ。
ハリウッドがアクション時代劇への大オマージュを捧げた「ラスト・サムライ」や、山田洋次の渋い藤沢周平物も良いが、時代劇にはまだまだ色々な可能性がある。
「人情紙風船」や「幕末太陽傳」、あるいは「鴛鴦歌合戦」みたいに現在の世相を反映させながらも、作り手のイマジネーションを爆発させたような傑作、まだまだ出て来るかも知れませぬぞ。
とりあえず、是枝監督には再度の時代劇挑戦を大いに期待したい。
こういう映画を観た後は、気持ちよく酒が飲める。
江戸ならぬ東京都の地酒、「澤乃井の大吟醸」を。
元々澤乃井はコストパフォーマンスの高い良い酒だが、この大吟醸は味わいも格別。
熟した梨の香りを思わせる、実に豊潤な味である。
やや甘い白ワインという感じなので、よく出来た映画のデザートワイン的に飲んでも良いだろう。
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![東京都産地酒澤乃井[大吟醸]720ml大吟醸](http://image.rakuten.co.jp/wshop/data/ws-mall-img/liquoryamato/img64/img10485269157.jpeg)
澤乃井 大吟醸 ?2620
能登の漁村を舞台に、心に傷を負った一人の女が、たゆたうような穏やかな時間の中で、徐々に癒されてゆく物語。
ドキュメンタリストらしい距離感のある視点と、その底にある人間愛。
不思議な緊張感のある演出は、決して演技が上手いとは言えない江角マキコすら輝かせた。
カンヌで史上最年少の主演男優賞を受賞した「誰もしらない」まで、一貫してそのスタンスは変わらない。
その是枝監督のはじめての時代劇は、9.11以降の世界を、江戸庶民の力強い生き様に投影した異色の時代劇。
なんとも力の抜けた力作だ。
太平の世が続く元禄15年、江戸。
赤穂浪士が吉良邸に討ち入る少し前の、五代綱吉将軍の治世。
父の仇を打つために、信州松本から江戸にやって来た青木宗左衛門(岡田准一)は、毎日隣の会話も筒抜けの貧乏長屋で目を覚ます。
当時の江戸は世界最大の巨大都市。
そうそう簡単に仇が見つかる訳も無く、長屋の住人貞四郎(古田新太)の怪しげな情報に金を払う毎日。
しかも実のところ、宗左の剣の腕はまるでダメ。
得意技は手習い算術と「逃げ足」という体たらくだった。
そんな宗左の密かな想い人は、向かいに住む子連れの未亡人のおさえさん(宮沢りえ)。
おさえさんは、仇討ちのために仇を探す宗左に、「お父上があなたに教えた物が、憎しみだけだったら悲しい」と話すのだった。
そんなある日、宗左は偶然にも憎き仇、金沢十兵衛を見つけてしまう・・・・
こう言うのを待っていたのである。
「たそがれ清兵衛」のヒット以来、リアルな生活描写に基づいた時代劇が増えたのは嬉しいのだが、何故か馬鹿の一つ覚えの様に藤沢周平ばかりが映像化されるので、やや食傷気味だった。
邦画には嘗て「長屋物」という伝統があった。
時代劇は、別に侍の話じゃなくても良いのだ。
様々な階層の人々が集まってきていた巨大都市・江戸なら、ぶっちゃけ市井の人々の暮しをじっくりと描いた方がよほど面白いのではないか・・・とずっと思っていた。
この作品の主人公は一応侍だが、貧乏長屋のバラエティに富んだ住人たちが織り成す、群像劇としての性格を備えている。
徹底的に生活のディテールに拘った「江戸暮し」の描写は、本編の見所の一つだ。
黒澤、溝口組をはじめ、日本映画黄金時代からの経験を持つベテラン、馬場正男が参加した美術は、生活している人の体臭まで臭ってきそうなリアルさだ。
また衣装の黒澤和子は、黒澤明の実の娘。
この映画には、日本映画が培ってきた伝統の技が確実に生きている。
もっとも作り物然としたテレビ時代劇を見慣れた目には、山崎裕の透明感のあるカメラも手伝って、生活感たっぷりのこの世界が、世相の共通性以上に妙に現代的に見えるのが可笑しい。
本当のところ江戸時代になると、現在に通じる都市機能はほとんど整備され、便利さの差はあれども、生活自体は現在と大して変わらないのが実際の所だったようだ。
ただ現代的とは言っても違いがあるのも事実なので、そのあたりに知っているようで知らない世界をのぞき見るような楽しさがある。
この映画の生活描写の面白さというのは、外国の生活を紹介するテレビのバラエティ番組に近いものがあるかもしれない。
そういえば是枝監督の古巣、テレビマンユニオンは「世界ウルルン」や「世界不思議発見!」など、その手の作品をずいぶん沢山手がけている。
そんなモダーンな江戸長屋に、暴力の連鎖に悩む侍が一人。
岡田准一演じる宗左は、武士の生き方いう理念に縛られた旧時代の遺物である。
太平の世の中になっても、侍だけは相変わらず現実ではなく理念に生きている。
実際のところ、宗左はそんな武士の生き方にかなり疑問を感じているのだが、生まれた時から叩き込まれた生き方はそうそう簡単には変わらず、それが大いに悩みとなり宗左はずっと難しい顔をしている。
宗左の仇討ちと対となる背景として描かれるのが、赤穂浪士の仇討ちなのだが、この事件に対する庶民の受け止め方一つとっても、もはや武士の生き方がリアルな世界ではなく、武士道の理念というイリュージョンの中で自己完結しているのが見て取れる。
侍は何も作り出すことが出来ず、太平の世では無用の長物である事を、自分たちもよく知っている。
だからこそ、侍はますます理念に縋る。
長屋の住人が祭りで演じる仇討ち寸劇も、現実の赤穂浪士も、日々の生活に関係ないという点では結局のところ変わらないのだ。
人が生きていくことに必要なのは、食い物と寝床とちょっとした希望。
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実は自分と同じ哀しみを抱えていながら、それを心の奥に封印しているおさえさんの気持ちを知った時、宗左の心はイリュージョンからリアルへと抜けたのだろう。
振り上げた拳を、何かちょっとだけ違う方向に使ってみよう。
必要なのは、憎しみよりも少しだけ慈しみを大切にする気持ち。
全てが終った時、ずっとしかめっ面だった宗左が見せる笑顔が素晴らしい。
基本的に物語の基盤にはずっと宗左がいて、劇中で起こっていく事を受け止めるのだが、全くブレずにキャラクターを纏め上げた岡田准一は中々の好演だったと思う。
ちょっと不幸な影のあるヒロインおさえさんも、今やこの手のキャラクターは宮沢りえの十八番である。
田畑智子、木村祐一、香川照久、上島竜兵らにぎやかな長屋の住人たち、そして討ち入らなかった赤穂浪士・寺坂吉右衛門を演じた寺島進も、それぞれの持ち味を十分に生かされていて、出番は少なくても強い印象を残す。(※:実際の寺坂吉右衛門の行動に関しては諸説あり、討ち入り後に逃亡したという説もある)
ただ腕っ節の強い遊び人のそで吉(加瀬亮)と、同郷の幼馴染おりょう(夏川結衣)の切ない恋のエピソードは、この話の中で唯一主人公と直接絡んでこないせいか、全体の流れから少し浮いている気がする。
「花よりもなほ」は良い意味で肩の力が抜けた、軽量級時代劇の秀作だ。
ハリウッドがアクション時代劇への大オマージュを捧げた「ラスト・サムライ」や、山田洋次の渋い藤沢周平物も良いが、時代劇にはまだまだ色々な可能性がある。
「人情紙風船」や「幕末太陽傳」、あるいは「鴛鴦歌合戦」みたいに現在の世相を反映させながらも、作り手のイマジネーションを爆発させたような傑作、まだまだ出て来るかも知れませぬぞ。
とりあえず、是枝監督には再度の時代劇挑戦を大いに期待したい。
こういう映画を観た後は、気持ちよく酒が飲める。
江戸ならぬ東京都の地酒、「澤乃井の大吟醸」を。
元々澤乃井はコストパフォーマンスの高い良い酒だが、この大吟醸は味わいも格別。
熟した梨の香りを思わせる、実に豊潤な味である。
やや甘い白ワインという感じなので、よく出来た映画のデザートワイン的に飲んでも良いだろう。

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![東京都産地酒澤乃井[大吟醸]720ml大吟醸](http://image.rakuten.co.jp/wshop/data/ws-mall-img/liquoryamato/img64/img10485269157.jpeg)
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2006年06月11日 (日) | 編集 |
スパイク・リーはこんなのも撮れるのか・・・
長年彼の作品を観続けてきた印象からすると、正直言ってちょっと意外。
「インサイド・マン」は、緻密なプロットに基づく、よく出来たクライムムービーである。
※重要なネタバレを含みます
その男の名はダルトン・ラッセル(クライブ・オーウェン)。
完全犯罪者。
ニューヨークのマンハッタン信託銀行に銀行強盗が入る。
急報を受けて現場に急行したのは、NY市警のネゴシエイター、フレイジャー(デンゼル・ワシントン)。
同じ頃、連絡を受けた信託銀行の会長アーサー・ケイス(クリストファー・プラマー)は、急遽敏腕弁護士のマデリーン・ホワイト(ジョディ・フォスター)を呼び寄せる。
ケイスは自分自身の過去に纏わるある「秘密」を銀行の貸し金庫に隠してあり、それを警察にも強盗にも触れさせないためにホワイトを現場に送り込む。
現場責任者のダリウス警部(ウィレム・デフォー)の元、犯人グループとコンタクトを試みるフレイジャーだったが、ラッセル以下四人の犯人グループは、人質全員を自分たちと同じコスチュームに着替えさせ、警察にバス二台と燃料満タンのジャンボジェットを要求する。
一体犯人グループの真の狙いは何なのか・・・
いきなりクライブ・オーウェンの独白から始まる。
「私は完全な銀行強盗を成し遂げた」
その犯罪がいかなるものなのか、事件発生から解決までを映画は急ピッチで見せて行く。
展開は早いが、決して駆け足ではない。
スパイク・リーの演出は、まるでベテランの職人監督のように淀み無く滑らかだ。
ラッセル・ジェウィルスの脚本も、過不足無く事件の細部まで描きこまれ、犯罪映画のお手本の様に展開する。
それでいて、この監督・脚本のコンビは、アラブ人と間違えられたシーク教徒が激怒する描写、犯人が人質を射殺したと思ったフレイジャーが激情に駆られて突進するシーン、あるいは意表を付く音楽の使い方などに、しっかりと「らしさ」を見せ付ける。
演技陣は正にオールスターキャストという感じで壮観。
デンゼル・ワシントンとクライブ・オーウェンは、この手の映画ではお約束の対照的なキャラクターを好演。
ジョディ・フォスターは、ゲスト出演的な「ロング・エンゲージメント」を除けば、最近の彼女には珍しく完全な脇役だが、野心的で強気な弁護士というキャラクターを上手く纏めている。
クリストファー・プラマーも、最近の彼の定番である怪しい陰のある老紳士。
唯一ウィレム・デフォーの警部は、あまり面白みが無くて別にデフォーでなくてもよかったような気がするが、全体的にそれぞれの俳優のイメージを、そのままキャラクターに反映させて作品世界に無難にフィットさせている。
誰も強烈な印象は残さないが、脚本の面白さで魅せる犯罪映画なら、これは正しい。
一言で言って面白い。しかし、全体の印象は今ひとつピリッとしない。
その原因は、完全犯罪と動機がリンクしないからだろう。
物語のメインフレームとなる強盗事件の顛末と、物語的なテーマに繋がるケイスの戦争犯罪という秘密が上手く絡み合っていないのだ。
物語の流れを読む限り、ラッセルたちははじめからケイスの秘密を知って、彼の銀行を狙ったように見えるし、映画全体のオチもケイスの罪への「罰」となっている。
だとすると、この物語はキャラクターの感情の流れがケイスの罪へと収束してこなければならないが、そうはなっていない。
そもそもダルトン・ラッセルという男が何者なのか、映画では最後まで説明されないので、彼と彼の犯罪とケイスの秘密との間にどのような相関があるのか観客には判らないのだ。
ラッセルはなぜこのような犯罪を犯したのか?
これがしっかりと描写されないから、ケイスの戦争犯罪という要素は、クライムムービーに無理やり取ってつけたテーマ、物語の添え物になってしまっている。
事件後にラッセルの捜索そっちのけでケイスの秘密を追うフレイジャーの行動にしても、彼は60年前の戦争犯罪を追及するほど、正義感の強い人物には見えないから無理やりな印象が拭えない。
ぶっちゃけケイスの秘密に関しては、クリストファー・プラマーが出てきて、自分の過去に纏わる秘密を守れと語り始めた瞬間、カンの鋭い人はナチス絡みの戦争犯罪だろうなあと読めてしまうと思う。
これが話の本筋に上手く絡めばよりよかったが、ラッセル・ジェウィルスは本筋の銀行強盗のプロットで知恵を使い果たしてしまった様だ。
まあ肝心の所で無理やり感が残ってしまうのが残念だが、練りに練られた完全犯罪の計画など実に見ごたえがあるし、少なくとも上映時間のラスト15分までは十分に面白いクライム・ムービーである事は間違いなく、決して観て損は無い作品だと思う。
今回は映画の「獲物」に引っ掛けて「ダイヤモンド・フィズ」をチョイス。
ドライ・ジン45mlとレモン果汁20mlとシロップ適量をシェイクして、氷を入れたグラスに注ぎ、スパークリングワインを満たして、最後にスライスしたレモンを載せる。
複雑な犯罪映画で込み入った脳をほぐしてくれる、実にすっきりとした味わいのカクテルだ。
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タンカレー ドライジン ?1638
長年彼の作品を観続けてきた印象からすると、正直言ってちょっと意外。
「インサイド・マン」は、緻密なプロットに基づく、よく出来たクライムムービーである。
※重要なネタバレを含みます
その男の名はダルトン・ラッセル(クライブ・オーウェン)。
完全犯罪者。
ニューヨークのマンハッタン信託銀行に銀行強盗が入る。
急報を受けて現場に急行したのは、NY市警のネゴシエイター、フレイジャー(デンゼル・ワシントン)。
同じ頃、連絡を受けた信託銀行の会長アーサー・ケイス(クリストファー・プラマー)は、急遽敏腕弁護士のマデリーン・ホワイト(ジョディ・フォスター)を呼び寄せる。
ケイスは自分自身の過去に纏わるある「秘密」を銀行の貸し金庫に隠してあり、それを警察にも強盗にも触れさせないためにホワイトを現場に送り込む。
現場責任者のダリウス警部(ウィレム・デフォー)の元、犯人グループとコンタクトを試みるフレイジャーだったが、ラッセル以下四人の犯人グループは、人質全員を自分たちと同じコスチュームに着替えさせ、警察にバス二台と燃料満タンのジャンボジェットを要求する。
一体犯人グループの真の狙いは何なのか・・・
いきなりクライブ・オーウェンの独白から始まる。
「私は完全な銀行強盗を成し遂げた」
その犯罪がいかなるものなのか、事件発生から解決までを映画は急ピッチで見せて行く。
展開は早いが、決して駆け足ではない。
スパイク・リーの演出は、まるでベテランの職人監督のように淀み無く滑らかだ。
ラッセル・ジェウィルスの脚本も、過不足無く事件の細部まで描きこまれ、犯罪映画のお手本の様に展開する。
それでいて、この監督・脚本のコンビは、アラブ人と間違えられたシーク教徒が激怒する描写、犯人が人質を射殺したと思ったフレイジャーが激情に駆られて突進するシーン、あるいは意表を付く音楽の使い方などに、しっかりと「らしさ」を見せ付ける。
演技陣は正にオールスターキャストという感じで壮観。
デンゼル・ワシントンとクライブ・オーウェンは、この手の映画ではお約束の対照的なキャラクターを好演。
ジョディ・フォスターは、ゲスト出演的な「ロング・エンゲージメント」を除けば、最近の彼女には珍しく完全な脇役だが、野心的で強気な弁護士というキャラクターを上手く纏めている。
クリストファー・プラマーも、最近の彼の定番である怪しい陰のある老紳士。
唯一ウィレム・デフォーの警部は、あまり面白みが無くて別にデフォーでなくてもよかったような気がするが、全体的にそれぞれの俳優のイメージを、そのままキャラクターに反映させて作品世界に無難にフィットさせている。
誰も強烈な印象は残さないが、脚本の面白さで魅せる犯罪映画なら、これは正しい。
一言で言って面白い。しかし、全体の印象は今ひとつピリッとしない。
その原因は、完全犯罪と動機がリンクしないからだろう。
物語のメインフレームとなる強盗事件の顛末と、物語的なテーマに繋がるケイスの戦争犯罪という秘密が上手く絡み合っていないのだ。
物語の流れを読む限り、ラッセルたちははじめからケイスの秘密を知って、彼の銀行を狙ったように見えるし、映画全体のオチもケイスの罪への「罰」となっている。
だとすると、この物語はキャラクターの感情の流れがケイスの罪へと収束してこなければならないが、そうはなっていない。
そもそもダルトン・ラッセルという男が何者なのか、映画では最後まで説明されないので、彼と彼の犯罪とケイスの秘密との間にどのような相関があるのか観客には判らないのだ。
ラッセルはなぜこのような犯罪を犯したのか?
これがしっかりと描写されないから、ケイスの戦争犯罪という要素は、クライムムービーに無理やり取ってつけたテーマ、物語の添え物になってしまっている。
事件後にラッセルの捜索そっちのけでケイスの秘密を追うフレイジャーの行動にしても、彼は60年前の戦争犯罪を追及するほど、正義感の強い人物には見えないから無理やりな印象が拭えない。
ぶっちゃけケイスの秘密に関しては、クリストファー・プラマーが出てきて、自分の過去に纏わる秘密を守れと語り始めた瞬間、カンの鋭い人はナチス絡みの戦争犯罪だろうなあと読めてしまうと思う。
これが話の本筋に上手く絡めばよりよかったが、ラッセル・ジェウィルスは本筋の銀行強盗のプロットで知恵を使い果たしてしまった様だ。
まあ肝心の所で無理やり感が残ってしまうのが残念だが、練りに練られた完全犯罪の計画など実に見ごたえがあるし、少なくとも上映時間のラスト15分までは十分に面白いクライム・ムービーである事は間違いなく、決して観て損は無い作品だと思う。
今回は映画の「獲物」に引っ掛けて「ダイヤモンド・フィズ」をチョイス。
ドライ・ジン45mlとレモン果汁20mlとシロップ適量をシェイクして、氷を入れたグラスに注ぎ、スパークリングワインを満たして、最後にスライスしたレモンを載せる。
複雑な犯罪映画で込み入った脳をほぐしてくれる、実にすっきりとした味わいのカクテルだ。

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タンカレー ドライジン ?1638


2006年06月07日 (水) | 編集 |
先月の「ポセイドン」に続いて、70年代の名作を元にしたリメイク映画がまた一本。
今回ハリウッド再生工場から出荷されたのは、愛すべき職人監督リチャード・ドナーが1976年に世に送り出した「オーメン」。
「エクソシスト」と共に、70年代のオカルトブームを語る上で絶対外せない傑作だ。
リメイク版に挑んだのは、ついこの前も「飛べフェニックス」のリメイク「フライト・オブ・フェニックス」を撮ったリメイク好きな(?)ジョン・ムーア監督。
2001年6月6日。
ローマ駐在のアメリカ外交官、ロバート・ソーン(リーブ・シュライバー)の妻キャサリン(ジュリア・スタイルズ)が死産した。
ロバートは病院の神父から、妻にショックを与えないために赤ん坊の死を隠し、代わりに母を失った赤ん坊を実子として受け入れる事を提案される。
妻の心を案じたロバートは提案を受け入れ、その赤ん坊はソーン夫妻の息子、ダミアンとして育てられる事になる。
やがて上司の事故死がきっかけで、ロバートは駐英大使となり、一家はロンドンへ移り住んだ。
ダミアンが五歳の誕生日を迎えた時、パーティの会場で乳母が「ダミアン、あなたのために死ぬわ!」という叫びと共に自殺するという痛ましい事件が起こる。
次の日、ロバートの元に、ブレナン(ピート・ポスルスウェイト)と名乗る神父がやってきて、ダミアンは悪魔の子だと告げる。
同じ頃、不気味な雰囲気を持つベイロック婦人(ミア・ファロー)が、どこからか代わりの乳母としてソーン家にやって来た・・・・
私は、リメイク映画の最高の例が、ピーター・ジャクソン版「キング・コング」だとすれば、最悪の例はガス・ヴァン・サント版「サイコ」だと思っている。
オリジナルを最大限尊重しつつ、大きくイマジネーションを膨らませ、独自の世界を作り出していた「キング・コング」に対し、ガス・ヴァン・サントはヒッチコックの忠実なコピーをやったに過ぎない。
リメイク版「サイコ」は、驚くほどにオリジナルを忠実に模倣していたが、良く出来たニセモノを観るくらいならオリジナルを観ればいいのだ。
最近話題の某画伯ではないが、カーボンコピーのようなリメイクに創造の価値を感じる事は出来ない。
ジョン・ムーア版の「オーメン」は残念ながら「キング・コング」よりずっと「サイコ」に近い。
格調高い心理劇でもあった「エクソシスト」に対して、オリジナルの「オーメン」のウリは、どちらかと言うと悪魔の子ダミアンに関わる人々の工夫を凝らした死っぷりだった。
避雷針やら巨大ガラスやら、ギミックと小道具に凝った残酷シーンは、後のスプラッタームービーにも大きな影響を与えた。
今回のリメイク版でもそれは変わらず・・・って言うか変わらな過ぎ。
見せ場全部一緒じゃん!
脚本で単独クレジットされているデビット・セルツァーは、76年のオリジナルの脚本家その人である。
一応リライトされているが、殆んど元の脚本そのまんま。
完全に見比べた訳ではないので確かな事は言えないが、少なくとも印象的なシーンは展開もセリフも殆ど同じだ。
違いと言えば、残酷シーンに使われる小道具が、ガラス板が鉄の看板になっていたり、三輪車がキックボードに変わっていたりする程度。
残酷シーンの演出など、カット割りからアングルまでそっくりそのままパクっている所もある。
どこか一箇所くらいなら、偉大なオリジナルへのオマージュで納得も出来るが、見せ場らしい見せ場全ての演出がコピーなのはいくらなんでもやりすぎだ。
私はこういう仕事をする演出家を軽蔑する。
しかも同じように撮ったからといって、同じように面白かったり、スリリングだったりする訳ではない。
他人の褌で相撲をとる程度なのだから、演出家の腕は数段落ちる。
ジョン・ムーアはホラー演出の根本が判っていない。
アクション映画じゃないんだから、なんでもかんでもサービス精神で見せれば良い訳じゃないのだ。
ブレナン神父が殺されるシークエンスは、オリジナルと見比べると、良い演出とダメな演出の判り安いサンプルになっている。
この部分、オリジナルではジェリー・ゴールドスミスの音楽(「オーメン」でオスカーを初受賞)が素晴しく効果的だったが、音楽の使い方も含めて、リチャード・ドナーの足元にも及ばない。
地味目の俳優陣も悪くは無いが、グレゴリー・ペック、デビット・ワーナーといった癖のある名優が揃ったオリジナルにくらべると著しく軽量に見える。
悪魔の子ダミアンはなかなか面構えは良いのだが、演出がヘタクソなので神秘性を感じさせるまで生かせていない。
唯一「ローズマリーの赤ちゃん」で悪魔の子を身篭っていたミア・ファローが、悪魔の使徒ベイロック婦人役で上品な狂気を感じさせるくらいか。
「オーメン」は、元々オリジナルがお化け屋敷的な派手な見せ方の上手さで名作の評価を得た作品なのだから、オリジナルに忠実にリメイクして同じ見せ場を踏襲した時点で、半分負けは決まったような物だ。
一度入ったお化け屋敷は、お化けの種類や出てくる場所がネタバレしてるから、二度目はもうあんまり怖くない。
しかも、限りなくカーボンコピーであるにも関わらず、全ての面でオリジナルを超えていないのだから救いが無い。
せっかく黙示録の予言の解釈を、76年のオリジナル以降に起こった事と定義してるのだから、物語の内容も30年の間の変化を加えて脚本を作り直せば良かったのだ。
悪魔の関与できそうなネタなら世間にゴロゴロ転がっているではないか。
物語の完成度自体は高いから、オリジナルを観た事の無い人には、ある程度面白く観られると思うが、それは断じてジョン・ムーアの演出が面白いのではなく、パクリ元のリチャード・ドナーの演出が良かっただけの話だ。
正直なところ、これをわざわざ観に行くなら、1500円でオリジナルのDVDを買ったほうがよほど良いと思う。
さて、今回は悪魔つながりでチリワインの「カッシェロ・デル・ディアブロ・ソーヴィニヨン・ブラン」を。
すっきりとしてカポカポ飲めてしまう。
出来の悪いリメイクの口直しには、これを飲みながら、オリジナルを鑑賞してすっきりするのがベターかもしれない。
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カッシェロ・デル・ディアブロ・ソーヴィニヨン・ブラン ¥1480
こっちのが100倍面白い
ジェリー・ゴールドスミスによる旧オーメンシリーズサントラ集
今回ハリウッド再生工場から出荷されたのは、愛すべき職人監督リチャード・ドナーが1976年に世に送り出した「オーメン」。
「エクソシスト」と共に、70年代のオカルトブームを語る上で絶対外せない傑作だ。
リメイク版に挑んだのは、ついこの前も「飛べフェニックス」のリメイク「フライト・オブ・フェニックス」を撮ったリメイク好きな(?)ジョン・ムーア監督。
2001年6月6日。
ローマ駐在のアメリカ外交官、ロバート・ソーン(リーブ・シュライバー)の妻キャサリン(ジュリア・スタイルズ)が死産した。
ロバートは病院の神父から、妻にショックを与えないために赤ん坊の死を隠し、代わりに母を失った赤ん坊を実子として受け入れる事を提案される。
妻の心を案じたロバートは提案を受け入れ、その赤ん坊はソーン夫妻の息子、ダミアンとして育てられる事になる。
やがて上司の事故死がきっかけで、ロバートは駐英大使となり、一家はロンドンへ移り住んだ。
ダミアンが五歳の誕生日を迎えた時、パーティの会場で乳母が「ダミアン、あなたのために死ぬわ!」という叫びと共に自殺するという痛ましい事件が起こる。
次の日、ロバートの元に、ブレナン(ピート・ポスルスウェイト)と名乗る神父がやってきて、ダミアンは悪魔の子だと告げる。
同じ頃、不気味な雰囲気を持つベイロック婦人(ミア・ファロー)が、どこからか代わりの乳母としてソーン家にやって来た・・・・
私は、リメイク映画の最高の例が、ピーター・ジャクソン版「キング・コング」だとすれば、最悪の例はガス・ヴァン・サント版「サイコ」だと思っている。
オリジナルを最大限尊重しつつ、大きくイマジネーションを膨らませ、独自の世界を作り出していた「キング・コング」に対し、ガス・ヴァン・サントはヒッチコックの忠実なコピーをやったに過ぎない。
リメイク版「サイコ」は、驚くほどにオリジナルを忠実に模倣していたが、良く出来たニセモノを観るくらいならオリジナルを観ればいいのだ。
最近話題の某画伯ではないが、カーボンコピーのようなリメイクに創造の価値を感じる事は出来ない。
ジョン・ムーア版の「オーメン」は残念ながら「キング・コング」よりずっと「サイコ」に近い。
格調高い心理劇でもあった「エクソシスト」に対して、オリジナルの「オーメン」のウリは、どちらかと言うと悪魔の子ダミアンに関わる人々の工夫を凝らした死っぷりだった。
避雷針やら巨大ガラスやら、ギミックと小道具に凝った残酷シーンは、後のスプラッタームービーにも大きな影響を与えた。
今回のリメイク版でもそれは変わらず・・・って言うか変わらな過ぎ。
見せ場全部一緒じゃん!
脚本で単独クレジットされているデビット・セルツァーは、76年のオリジナルの脚本家その人である。
一応リライトされているが、殆んど元の脚本そのまんま。
完全に見比べた訳ではないので確かな事は言えないが、少なくとも印象的なシーンは展開もセリフも殆ど同じだ。
違いと言えば、残酷シーンに使われる小道具が、ガラス板が鉄の看板になっていたり、三輪車がキックボードに変わっていたりする程度。
残酷シーンの演出など、カット割りからアングルまでそっくりそのままパクっている所もある。
どこか一箇所くらいなら、偉大なオリジナルへのオマージュで納得も出来るが、見せ場らしい見せ場全ての演出がコピーなのはいくらなんでもやりすぎだ。
私はこういう仕事をする演出家を軽蔑する。
しかも同じように撮ったからといって、同じように面白かったり、スリリングだったりする訳ではない。
他人の褌で相撲をとる程度なのだから、演出家の腕は数段落ちる。
ジョン・ムーアはホラー演出の根本が判っていない。
アクション映画じゃないんだから、なんでもかんでもサービス精神で見せれば良い訳じゃないのだ。
ブレナン神父が殺されるシークエンスは、オリジナルと見比べると、良い演出とダメな演出の判り安いサンプルになっている。
この部分、オリジナルではジェリー・ゴールドスミスの音楽(「オーメン」でオスカーを初受賞)が素晴しく効果的だったが、音楽の使い方も含めて、リチャード・ドナーの足元にも及ばない。
地味目の俳優陣も悪くは無いが、グレゴリー・ペック、デビット・ワーナーといった癖のある名優が揃ったオリジナルにくらべると著しく軽量に見える。
悪魔の子ダミアンはなかなか面構えは良いのだが、演出がヘタクソなので神秘性を感じさせるまで生かせていない。
唯一「ローズマリーの赤ちゃん」で悪魔の子を身篭っていたミア・ファローが、悪魔の使徒ベイロック婦人役で上品な狂気を感じさせるくらいか。
「オーメン」は、元々オリジナルがお化け屋敷的な派手な見せ方の上手さで名作の評価を得た作品なのだから、オリジナルに忠実にリメイクして同じ見せ場を踏襲した時点で、半分負けは決まったような物だ。
一度入ったお化け屋敷は、お化けの種類や出てくる場所がネタバレしてるから、二度目はもうあんまり怖くない。
しかも、限りなくカーボンコピーであるにも関わらず、全ての面でオリジナルを超えていないのだから救いが無い。
せっかく黙示録の予言の解釈を、76年のオリジナル以降に起こった事と定義してるのだから、物語の内容も30年の間の変化を加えて脚本を作り直せば良かったのだ。
悪魔の関与できそうなネタなら世間にゴロゴロ転がっているではないか。
物語の完成度自体は高いから、オリジナルを観た事の無い人には、ある程度面白く観られると思うが、それは断じてジョン・ムーアの演出が面白いのではなく、パクリ元のリチャード・ドナーの演出が良かっただけの話だ。
正直なところ、これをわざわざ観に行くなら、1500円でオリジナルのDVDを買ったほうがよほど良いと思う。
さて、今回は悪魔つながりでチリワインの「カッシェロ・デル・ディアブロ・ソーヴィニヨン・ブラン」を。
すっきりとしてカポカポ飲めてしまう。
出来の悪いリメイクの口直しには、これを飲みながら、オリジナルを鑑賞してすっきりするのがベターかもしれない。

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こっちのが100倍面白い
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2006年06月01日 (木) | 編集 |
中島哲也はCMの世界の巨匠である。
業界には彼を崇拝している人も多いし、実際素晴しい仕事を多く残している。
長編映画三作目となった前作、「下妻物語」もエキセントリックな映像に彩られた快作だったと思う。
15秒という凝縮された世界で、時として物語すら感じさせるCMの技術が、2時間の映画でも十分効果的だという事を見せ付けた。
映像でモノを伝える技術は、そこらの映画屋が裸足で逃げ出すだろう。
東京で自堕落な生活を送っている川尻笙(瑛太)の元に、九州の父(香川照之)が訪ねて来た。
父は、遠い昔に縁を切った松子(中谷美紀)と言う叔母が亡くなった事を告げ、笙に彼女のアパートを片付けるように頼むのだった。
仕方なくゴミ溜めの様な松子の部屋を掃除する笙だったが、生前松子と縁のあった人々との出会いを通して、あまりにも悲惨な松子の人生を追体験する事となる。
松子は23歳の頃家出同然に故郷を出、様々な男に騙され、ソープ嬢(映画ではトルコ嬢)に身を落とし、ついにはヒモを殺して服役し、53歳でボロ雑巾の様に死んだ。
しかし、松子を知る人たちからは彼女の意外な姿が浮かび上がってくる・・・・
今回も、冒頭から終わりまで凄い。
中島監督が培ってきたテクニック、そして映画的な記憶を全てぶちこんだかのような圧倒的な映像の津波である。
アニメーションやミュージカル、CG、果ては黄金時代のテクニカラー調画面と映像テクニックの見本市の様だ。
ただCMやPV出身者のありがちな映画と違うのは、この人は画だけで物語を語れるとは思っていない事だ。
物語の骨子がしっかりとしているのだ。
実際、「嫌われ松子の一生」の脚本は思い返してみても、欠点らしい欠点があまり無い、よく出来たものだったと思う。
この邦画史上もっとも悲惨なヒロインを演じた、中谷美紀も素晴らしい。
彼女は原作を読んで、この役に惚れこんだらしいが、実際観てしまうと確かに彼女以外の松子は考えられない。
この映画には、芸能人大集合的に色々な人が顔を出し、それぞれのキャラクターにあった味付けをされているのだが、全体がバラエティ番組のコントみたいに軽薄な印象にならないのは、全てのキャラクターをがっちりと受け止める中谷の存在が大きい。
彼女が川尻松子という絶対的なキャラクターとして作品世界を支えているので、他の要素はちょっとくらい浮いていても吸収されてしまうのだ。
女性の持つ強さと弱さ、愛と悲しみをギュッと凝縮したような松子。
このぐらい、主演女優の存在感が大きい作品は久しぶりに観た。
このぶっ飛んだ中島ワールドで、キャラクターに一貫したリアリティを持たせ、涙すら誘うのだから正しく一世一代の名演であると思う。
お話も面白いし、映像は凄いし、役者も良い。
普通は傑作になる。
しかし、しかしである・・・・。
私はこの良く出来ているはずの映画に退屈してしまった。
始まってしばらくは、この世界に魅了されていたのだが、一時間を経過する頃には「まだあるの?もういいよ・・・」と思ってしまったのだ。
何故か。
答えは単純である。
要するにお腹一杯になってしまったのだ。
どんな素晴しいシェフの料理でも、コースの最初からメインディッシュばかり出されたらあっという間に満腹になってしまい、もう食べたくないと思うだろう。
この作品の場合も、映像の密度がもの凄いだけに、疲れるのも早かった。
中島演出は、シーンごとに手を変え品を変え楽しませてくれるのだが、基本的なリズムと作品のトーンはずっと一緒なので、箸休めの間が無いのだ。
よく言えばサービス精神旺盛だが、悪く言えば一本調子。
お話自体は、松子の人生で悲惨な出来事が繰り返されていくだけだから、もういいよ感は余計強くなる。
この作品とよく似た構造を持つ映画に、ティム・バートン監督の「ビッグ・フィッシュ」がある。
「嫌われ松子」は死んだ松子の人生を、甥の川尻笙が追体験してゆくという手法で描かれる。
対して、「ビッグ・フィッシュ」の場合、死の床にあるホラ吹きのオヤジ、エドの人生を、真面目な息子のウィルが追ってゆく。
物語の視点になる笙やウィルにとって、松子やエドが始めのうちは尊敬出来ない人物として描かれていて、その人生を辿って行くうちに次第に彼らの心を理解してゆく構造や、過去の世界が思いっきり作り物っぽい心象風景的ファンタジーワールドであったり、何かと共通点が多い。
しかし、途中で満腹になることも無く、全体に落ち着いた印象を残す「ビッグ・フィッシュ」にはあって、「嫌われ松子」に無い物は何か。
サイケなファンタジー調で描かれる父親の過去とは対照的に、「ビッグ・フィッシュ」の現在のシーンは至って大人しい普通の映画だった。
観客は、この「現在」(つまりウィルの視点)を立脚点として、バートンのファンタジーワールドに浸るのだ。
リビングのソファに腰を落ち着けて、窓の外の騒動を眺めるようなものだ。
窓の外でどんなにぶっ飛んだ事態が起きようとも、リビングは物語の基点として確固たるポジションにあるから、落ち着いて観られる。
対して「嫌われ松子」は基本的に笙の視点なのだが、彼のシークエンスも松子のシークエンスも、同じようなタッチで描かれているから、観客が腰を落ち着けられる場所が無い。
最初のうちは楽しんでいられるものの、そのテンションの高さと流れてくる情報量に圧倒され、直に疲れてしまう。
もっともよほど空きっ腹の人や、中島シェフの料理なら幾らでも食べられるくらい感動した!という人なら、時間を忘れて面白く観られるのかもしれないが・・・
まあ、基本的にはしっかりと物語を作ってあるので、松子のキャラクターに支えられて何とか最後まで観られたし、愛に飢えながらも実は誰よりも愛に満ちていたその人生に正直なところ涙も流したが、もうちょっと演出の緩急のメリハリがついていればもっと素晴しい作品になったはずだ。
中嶋哲也は高い技術を持つが故に、その技術を物語の中に詰め込むのに一生懸命になってしまったように見える。
物語は人生と同じ。
ずっとハイテンションなままでは疲れてしまう。
松子が幸せになるのに必要だった物は、たぶんちょっと引いて自分を見る視点だったと思うのだが、実は映画自体も松子の人生そのもののような結果になってしまっているのが、何とも皮肉である。
今回は松子の濃すぎる人生にレクイエムを捧げて麦焼酎の「月の女神」を。
ずっと日陰を歩んできた松子の優しさは、月の女神の呼称こそ相応しい。
10年間長期熟成されたその味は、アルコール度数38度と本格的なスピリット並だが、味わいは円やかでとても優しい。
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月の女神 720ml 38° ?2300
業界には彼を崇拝している人も多いし、実際素晴しい仕事を多く残している。
長編映画三作目となった前作、「下妻物語」もエキセントリックな映像に彩られた快作だったと思う。
15秒という凝縮された世界で、時として物語すら感じさせるCMの技術が、2時間の映画でも十分効果的だという事を見せ付けた。
映像でモノを伝える技術は、そこらの映画屋が裸足で逃げ出すだろう。
東京で自堕落な生活を送っている川尻笙(瑛太)の元に、九州の父(香川照之)が訪ねて来た。
父は、遠い昔に縁を切った松子(中谷美紀)と言う叔母が亡くなった事を告げ、笙に彼女のアパートを片付けるように頼むのだった。
仕方なくゴミ溜めの様な松子の部屋を掃除する笙だったが、生前松子と縁のあった人々との出会いを通して、あまりにも悲惨な松子の人生を追体験する事となる。
松子は23歳の頃家出同然に故郷を出、様々な男に騙され、ソープ嬢(映画ではトルコ嬢)に身を落とし、ついにはヒモを殺して服役し、53歳でボロ雑巾の様に死んだ。
しかし、松子を知る人たちからは彼女の意外な姿が浮かび上がってくる・・・・
今回も、冒頭から終わりまで凄い。
中島監督が培ってきたテクニック、そして映画的な記憶を全てぶちこんだかのような圧倒的な映像の津波である。
アニメーションやミュージカル、CG、果ては黄金時代のテクニカラー調画面と映像テクニックの見本市の様だ。
ただCMやPV出身者のありがちな映画と違うのは、この人は画だけで物語を語れるとは思っていない事だ。
物語の骨子がしっかりとしているのだ。
実際、「嫌われ松子の一生」の脚本は思い返してみても、欠点らしい欠点があまり無い、よく出来たものだったと思う。
この邦画史上もっとも悲惨なヒロインを演じた、中谷美紀も素晴らしい。
彼女は原作を読んで、この役に惚れこんだらしいが、実際観てしまうと確かに彼女以外の松子は考えられない。
この映画には、芸能人大集合的に色々な人が顔を出し、それぞれのキャラクターにあった味付けをされているのだが、全体がバラエティ番組のコントみたいに軽薄な印象にならないのは、全てのキャラクターをがっちりと受け止める中谷の存在が大きい。
彼女が川尻松子という絶対的なキャラクターとして作品世界を支えているので、他の要素はちょっとくらい浮いていても吸収されてしまうのだ。
女性の持つ強さと弱さ、愛と悲しみをギュッと凝縮したような松子。
このぐらい、主演女優の存在感が大きい作品は久しぶりに観た。
このぶっ飛んだ中島ワールドで、キャラクターに一貫したリアリティを持たせ、涙すら誘うのだから正しく一世一代の名演であると思う。
お話も面白いし、映像は凄いし、役者も良い。
普通は傑作になる。
しかし、しかしである・・・・。
私はこの良く出来ているはずの映画に退屈してしまった。
始まってしばらくは、この世界に魅了されていたのだが、一時間を経過する頃には「まだあるの?もういいよ・・・」と思ってしまったのだ。
何故か。
答えは単純である。
要するにお腹一杯になってしまったのだ。
どんな素晴しいシェフの料理でも、コースの最初からメインディッシュばかり出されたらあっという間に満腹になってしまい、もう食べたくないと思うだろう。
この作品の場合も、映像の密度がもの凄いだけに、疲れるのも早かった。
中島演出は、シーンごとに手を変え品を変え楽しませてくれるのだが、基本的なリズムと作品のトーンはずっと一緒なので、箸休めの間が無いのだ。
よく言えばサービス精神旺盛だが、悪く言えば一本調子。
お話自体は、松子の人生で悲惨な出来事が繰り返されていくだけだから、もういいよ感は余計強くなる。
この作品とよく似た構造を持つ映画に、ティム・バートン監督の「ビッグ・フィッシュ」がある。
「嫌われ松子」は死んだ松子の人生を、甥の川尻笙が追体験してゆくという手法で描かれる。
対して、「ビッグ・フィッシュ」の場合、死の床にあるホラ吹きのオヤジ、エドの人生を、真面目な息子のウィルが追ってゆく。
物語の視点になる笙やウィルにとって、松子やエドが始めのうちは尊敬出来ない人物として描かれていて、その人生を辿って行くうちに次第に彼らの心を理解してゆく構造や、過去の世界が思いっきり作り物っぽい心象風景的ファンタジーワールドであったり、何かと共通点が多い。
しかし、途中で満腹になることも無く、全体に落ち着いた印象を残す「ビッグ・フィッシュ」にはあって、「嫌われ松子」に無い物は何か。
サイケなファンタジー調で描かれる父親の過去とは対照的に、「ビッグ・フィッシュ」の現在のシーンは至って大人しい普通の映画だった。
観客は、この「現在」(つまりウィルの視点)を立脚点として、バートンのファンタジーワールドに浸るのだ。
リビングのソファに腰を落ち着けて、窓の外の騒動を眺めるようなものだ。
窓の外でどんなにぶっ飛んだ事態が起きようとも、リビングは物語の基点として確固たるポジションにあるから、落ち着いて観られる。
対して「嫌われ松子」は基本的に笙の視点なのだが、彼のシークエンスも松子のシークエンスも、同じようなタッチで描かれているから、観客が腰を落ち着けられる場所が無い。
最初のうちは楽しんでいられるものの、そのテンションの高さと流れてくる情報量に圧倒され、直に疲れてしまう。
もっともよほど空きっ腹の人や、中島シェフの料理なら幾らでも食べられるくらい感動した!という人なら、時間を忘れて面白く観られるのかもしれないが・・・
まあ、基本的にはしっかりと物語を作ってあるので、松子のキャラクターに支えられて何とか最後まで観られたし、愛に飢えながらも実は誰よりも愛に満ちていたその人生に正直なところ涙も流したが、もうちょっと演出の緩急のメリハリがついていればもっと素晴しい作品になったはずだ。
中嶋哲也は高い技術を持つが故に、その技術を物語の中に詰め込むのに一生懸命になってしまったように見える。
物語は人生と同じ。
ずっとハイテンションなままでは疲れてしまう。
松子が幸せになるのに必要だった物は、たぶんちょっと引いて自分を見る視点だったと思うのだが、実は映画自体も松子の人生そのもののような結果になってしまっているのが、何とも皮肉である。
今回は松子の濃すぎる人生にレクイエムを捧げて麦焼酎の「月の女神」を。
ずっと日陰を歩んできた松子の優しさは、月の女神の呼称こそ相応しい。
10年間長期熟成されたその味は、アルコール度数38度と本格的なスピリット並だが、味わいは円やかでとても優しい。

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