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2006年07月30日 (日) | 編集 |
「指輪物語」「ナルニア国物語」に並ぶ三大古典ファンタジーの一つ、アシューラ・K・ル=グィン原作の「ゲド戦記」シリーズ初の映画化・・・・ではない。
一応、原作の三巻「さいはての島へ」をベースとしてはいるが、はっきり言って別物だ。
映画「ゲド戦記」の英語タイトルは「Tales from Earthsea」となっている。
「A Wizard of Earthsea」(第一巻「影とのたたかい」) でも、「The Farthest Shore」(第三巻「さいはての島へ」)でもない。
エンドクレジットを見ると、原作「ゲド戦記」の他に、原案として宮崎駿が二十年ほど前にアニメージュ文庫から出した「シュナの旅」がクレジットされている。
要するにこれは、「ゲド戦記」シリーズの世界観をベースに、「シュナの旅」の要素などをミックスして作り出したオリジナルの物語なのだ。
「Tales from Earthsea」という、原作に存在しないタイトル(※)がそれを物語っている。
(※:私は未読だが、「ゲド戦記三部作」から30年後の2001年に出版された短編集「ゲド戦記外伝」が「Tales from Earthsea」のタイトルであるらしい。勿論今回の映画とは無関係だが、これも「外伝」みたいな物と認識してくれという事だろうか)
長く人と交わる事の無かった竜が、再び人の世に出現した時代。
世界の秩序が崩れそうになっている事を感じた大賢人ゲド(通名ハイタカ:菅原文太)は、砂漠で一人の少年を拾う。
少年は父王を殺し、国を捨てて逃げてきた王子アレン(岡田准一)。
彼はもう一人の自分である「影」に怯えていた。
古い友人のテナー(風吹ジュン)を訪ねたゲドとアレンは、顔にやけどの跡のある少女手テルー(手嶌 葵 )と出会う。
その頃、永遠の命を求める邪悪な魔法使クモ(田中裕子)は、ゲドとアレンの存在に気付いていた・・・
この作品の最大の話題は、やはり宮崎駿の息子である宮崎吾朗が初監督をしている事だろう。
偉大な父親に、スタジオジブリという同じ土俵で戦いを挑んだ度胸はある意味凄いと思うが、それと映画の出来は別の話。
一言でいって、非常に真面目な作りではあるのだが、明らかな経験不足は、ジブリのベテランスタッフを持ってしてもカバーしきれていない。
宮崎吾朗が、どこまで「監督」としての権限を行使していたのかは判らないが、脚本の構造、キャラクターの造形、演出のあらゆる部分が「今ひとつ」というレベルに留まっているのは確かだ。
やりたい事は判るのだが、それを表現できていないのだ。
物語は、まるでシリーズ物の途中であるかのように(実際そうなんだけど)スタートするのだが、世界観やキャラクターの背景は描かれない。
原作をいじりすぎて「ゲド戦記」とは言えなくなってしまっているにも関わらず、この部分は原作読者は脳内補完してくれという感じだ。
話自体はシンプルなので、原作未読者でも何とかついて行けるだろうが、この原作へのスタンスの不明瞭さは作品全体に影を落とす。
そもそもこれは「ゲド戦記」を名乗る意味があったのだろうが。
何しろ主人公がゲドという「まことの名」を明かす事すらないのだから、原作のネームバリューというビジネス的な意味以外に、「ゲド戦記」である必然性を感じない。
宮崎吾朗と丹羽圭子による脚本は、前半は淡々としたロードムービー、後半はアクションファンタジーの形を取る。
話自体は滞りなく流れていくのだが、描かれてるドラマにテーマが結びつかない。
物語がテーマを語れていないのだ。
ではどうやってテーマを語っているのかというと、言いたい事は全て台詞で語ってしまう。
台詞を言わせるためにシチュエーションを作り、強引に台詞を引き出しているので、物語から台詞が浮いている。
予告編で散々見せられた「命を大切にしない奴なんて、大嫌いだ!」というテルーの台詞や、ゲドがこのシリーズのキモである「まことの名」の秘密を語るシーンも、え?そこで言うかという唐突さがあった。
百歩譲って台詞でテーマを語るのも一つの手法としてアリだと考えたとしても、物語の流れに乗っていないから、せっかくの台詞が印象に残らないのだ。
物語も原作を色々いじったのは良いが、逆に混乱して映画だけ観ると辻褄が合わなくなってしまっている部分も多い。
アレンが恐れる「影」が結局何なのか、映画を見ただけでは良く判らないし(しかも影の解釈を原作から変えてしまっている)、何故父を殺したのかも良く判らない。
世界全部がおかしくなっているのに、アレンにだけ影が出現した意味も示されない。
クモは何故わざわざリスクを犯してアレンをたぶらかし、ゲドとテナーを殺そうとしたのか判らない。
永遠の命への魔法は別に三人と関係なく、クモは最終的に三人を殺そうとしただけだから、映画を見ただけではクモが自滅したようにしかみえない。
「ゲド戦記」の世界を特徴付ける「まことの名」の秘密も殆ど生かされていない。
たぶん映画だけ観た人は、「まことの名」がどんな意味を持つのかもよく判らないのではないか。
「まことの名」に関しては、「千と千尋の神隠し」でもアイディアをいただいていたが、あっちの方がビジュアル的で判りやすかった様な気がする。
更に物語において、竜の出現がどんな意味を持っていたのかは結局説明されない。
クライマックスのテルーの扱いに至っては、殆どギリシャ悲劇の「機械仕掛けの神(※)」である。
いくらなんでもあれは無いだろう。
強引に落している様で、実は物語的には全く落ちていない。
全体に脚本は、とりあえずお話を進めるのに精一杯で、物語の中で自然にテーマを語ったり、キャラクターを深く掘り下げるというレベルには達してない。
(※:複雑で収集困難な物語の結末に、突然絶対的な神の様な存在が現れ、無理やり話を纏めてしまう事を指す演劇用語)
作品の映像的なクォリティは流石に高い。
制作期間の短さからか、過去の宮崎駿作品に比べれば若干荒い部分も残っているのだが、それでもこれだけ仕上げてくるのはやはり凄い。
ただ、ここでも一体描いているのが何なのか、「ゲド戦記」なのか違うのかが映像のベクトルを迷わせている。
優れたファンタジーは、その世界観で観客を魅了するものだ。
「ロード・オブ・ザ・リング」がそうだったし、宮崎駿の「ナウシカ」や「ラピュタ」や「千と千尋」もそうだった。
だが、この作品のEarthseaは、ただのヨーロッパの中世の街にしか見えず、異世界の魅力が殆んど無い。
原作の世界から想像できるビジュアルとは明らかに違うし、違うなら違うでこの作品ならではの異世界が出来ていれば良いのだが、この世界からはそういう想像力を感じることが出来ない。
あえて言えば、過去のジブリ作品の美術の焼き直しに過ぎない。
だが、動きのある部分の生き生きした表現は流石で、特にクライマックスのアクションシークエンスは、三次元の空間演出も見事で良く出来ている。
アニメーションならではのビジュアル表現もユニークで、手に汗握るなかなかの名シーンだ。
もっとも、この部分をして宮崎吾朗という演出家を評価して良いものかは判らない。
彼がこの作品の「監督」としての仕事をどの程度やっているのか判らないからだ。
実写映画の場合、ぶっちゃけ監督がド素人で何も指示出来なくても、それなりに優秀な助監督とカメラマンがいれば映画は出来る。
実写は対象物が目の前にあるので、極端な話、監督は撮りたい物のイメージを伝えればそれで事足りるのだ。
実際、そうして作られた映画も少なからずある。
しかし、ゼロから全てを作るアニメーションの場合はそうはいかない。
監督がしっかりと頭の中に完成作品を持っていないと、何も始まらないのだ。
そしてスタッフに伝え、指示するべき項目は、実写とは比較にならないくらい多い。
純粋な技術論として、全くの素人がアニメーションを100%監督するのは不可能だ。
現実的にはコンテ、或いはストーリーボードの段階で、宮崎吾朗のイメージをまともな作品に見える様にするための、直しの作業が行われたはずで、その後の段階でどの程度彼のイメージが残っていたのかは判らない。
特にアクションシークエンスは、担当アニメーターの力量がそのまま出る部分だし、カット割りを含めて、クライマックスが宮崎吾朗らしいと言うより、実に宮崎駿らしい仕上がりなのは何とも皮肉だ。
映画「ゲド戦記」は、何となく「キャシャーン」を思わせる映画だった。
勿論作品のスタイルはまるで違うのだが、どちらも素人監督による、よく知られた原作を持つ大作映画で、出来上がったものは原作とは別物になっていた。
そしてどちらもテーマへの取り組みの姿勢は真摯だが、それを表現できていない。
キャシャーンの紀里谷監督はひたすら映像の力を信じ、映像で全てを物語れると信じて玉砕。
「ゲド戦記」の宮崎吾朗は、もう少し物語の重要性を知っていた様だが、それを伝える技術をあまりにも知らなかった様だ。
考えてみれば、超一流レストランで、ホールマネージャーがいきなりシェフをやったような物。
いくら厨房スタッフが優秀でも、シェフの作ったレシピのポテンシャルまではカバーできない。
味は作る前から想像できた。
もし次もやるなら、もう少し脚本・演出のイロハを勉強してからやるべきだろう。
最近、良くも悪くもすっかり世界を斜めから見つめる様になってしまった宮崎駿の世界より、よりストレートな宮崎吾朗的な世界を好む観客層は確実にいるはずだ。
後はそれをいかに物語るかである。
少々辛口になってしまったが、今回はジブリからもさほど遠くない東京の地酒、澤乃井の「大辛口」を(笑
その名の通り辛口だが、すっきり飲みやすくて夏向きだ。
映画もこの位ピリリとしていたら良かったのだが。
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一応、原作の三巻「さいはての島へ」をベースとしてはいるが、はっきり言って別物だ。
映画「ゲド戦記」の英語タイトルは「Tales from Earthsea」となっている。
「A Wizard of Earthsea」(第一巻「影とのたたかい」) でも、「The Farthest Shore」(第三巻「さいはての島へ」)でもない。
エンドクレジットを見ると、原作「ゲド戦記」の他に、原案として宮崎駿が二十年ほど前にアニメージュ文庫から出した「シュナの旅」がクレジットされている。
要するにこれは、「ゲド戦記」シリーズの世界観をベースに、「シュナの旅」の要素などをミックスして作り出したオリジナルの物語なのだ。
「Tales from Earthsea」という、原作に存在しないタイトル(※)がそれを物語っている。
(※:私は未読だが、「ゲド戦記三部作」から30年後の2001年に出版された短編集「ゲド戦記外伝」が「Tales from Earthsea」のタイトルであるらしい。勿論今回の映画とは無関係だが、これも「外伝」みたいな物と認識してくれという事だろうか)
長く人と交わる事の無かった竜が、再び人の世に出現した時代。
世界の秩序が崩れそうになっている事を感じた大賢人ゲド(通名ハイタカ:菅原文太)は、砂漠で一人の少年を拾う。
少年は父王を殺し、国を捨てて逃げてきた王子アレン(岡田准一)。
彼はもう一人の自分である「影」に怯えていた。
古い友人のテナー(風吹ジュン)を訪ねたゲドとアレンは、顔にやけどの跡のある少女手テルー(手嶌 葵 )と出会う。
その頃、永遠の命を求める邪悪な魔法使クモ(田中裕子)は、ゲドとアレンの存在に気付いていた・・・
この作品の最大の話題は、やはり宮崎駿の息子である宮崎吾朗が初監督をしている事だろう。
偉大な父親に、スタジオジブリという同じ土俵で戦いを挑んだ度胸はある意味凄いと思うが、それと映画の出来は別の話。
一言でいって、非常に真面目な作りではあるのだが、明らかな経験不足は、ジブリのベテランスタッフを持ってしてもカバーしきれていない。
宮崎吾朗が、どこまで「監督」としての権限を行使していたのかは判らないが、脚本の構造、キャラクターの造形、演出のあらゆる部分が「今ひとつ」というレベルに留まっているのは確かだ。
やりたい事は判るのだが、それを表現できていないのだ。
物語は、まるでシリーズ物の途中であるかのように(実際そうなんだけど)スタートするのだが、世界観やキャラクターの背景は描かれない。
原作をいじりすぎて「ゲド戦記」とは言えなくなってしまっているにも関わらず、この部分は原作読者は脳内補完してくれという感じだ。
話自体はシンプルなので、原作未読者でも何とかついて行けるだろうが、この原作へのスタンスの不明瞭さは作品全体に影を落とす。
そもそもこれは「ゲド戦記」を名乗る意味があったのだろうが。
何しろ主人公がゲドという「まことの名」を明かす事すらないのだから、原作のネームバリューというビジネス的な意味以外に、「ゲド戦記」である必然性を感じない。
宮崎吾朗と丹羽圭子による脚本は、前半は淡々としたロードムービー、後半はアクションファンタジーの形を取る。
話自体は滞りなく流れていくのだが、描かれてるドラマにテーマが結びつかない。
物語がテーマを語れていないのだ。
ではどうやってテーマを語っているのかというと、言いたい事は全て台詞で語ってしまう。
台詞を言わせるためにシチュエーションを作り、強引に台詞を引き出しているので、物語から台詞が浮いている。
予告編で散々見せられた「命を大切にしない奴なんて、大嫌いだ!」というテルーの台詞や、ゲドがこのシリーズのキモである「まことの名」の秘密を語るシーンも、え?そこで言うかという唐突さがあった。
百歩譲って台詞でテーマを語るのも一つの手法としてアリだと考えたとしても、物語の流れに乗っていないから、せっかくの台詞が印象に残らないのだ。
物語も原作を色々いじったのは良いが、逆に混乱して映画だけ観ると辻褄が合わなくなってしまっている部分も多い。
アレンが恐れる「影」が結局何なのか、映画を見ただけでは良く判らないし(しかも影の解釈を原作から変えてしまっている)、何故父を殺したのかも良く判らない。
世界全部がおかしくなっているのに、アレンにだけ影が出現した意味も示されない。
クモは何故わざわざリスクを犯してアレンをたぶらかし、ゲドとテナーを殺そうとしたのか判らない。
永遠の命への魔法は別に三人と関係なく、クモは最終的に三人を殺そうとしただけだから、映画を見ただけではクモが自滅したようにしかみえない。
「ゲド戦記」の世界を特徴付ける「まことの名」の秘密も殆ど生かされていない。
たぶん映画だけ観た人は、「まことの名」がどんな意味を持つのかもよく判らないのではないか。
「まことの名」に関しては、「千と千尋の神隠し」でもアイディアをいただいていたが、あっちの方がビジュアル的で判りやすかった様な気がする。
更に物語において、竜の出現がどんな意味を持っていたのかは結局説明されない。
クライマックスのテルーの扱いに至っては、殆どギリシャ悲劇の「機械仕掛けの神(※)」である。
いくらなんでもあれは無いだろう。
強引に落している様で、実は物語的には全く落ちていない。
全体に脚本は、とりあえずお話を進めるのに精一杯で、物語の中で自然にテーマを語ったり、キャラクターを深く掘り下げるというレベルには達してない。
(※:複雑で収集困難な物語の結末に、突然絶対的な神の様な存在が現れ、無理やり話を纏めてしまう事を指す演劇用語)
作品の映像的なクォリティは流石に高い。
制作期間の短さからか、過去の宮崎駿作品に比べれば若干荒い部分も残っているのだが、それでもこれだけ仕上げてくるのはやはり凄い。
ただ、ここでも一体描いているのが何なのか、「ゲド戦記」なのか違うのかが映像のベクトルを迷わせている。
優れたファンタジーは、その世界観で観客を魅了するものだ。
「ロード・オブ・ザ・リング」がそうだったし、宮崎駿の「ナウシカ」や「ラピュタ」や「千と千尋」もそうだった。
だが、この作品のEarthseaは、ただのヨーロッパの中世の街にしか見えず、異世界の魅力が殆んど無い。
原作の世界から想像できるビジュアルとは明らかに違うし、違うなら違うでこの作品ならではの異世界が出来ていれば良いのだが、この世界からはそういう想像力を感じることが出来ない。
あえて言えば、過去のジブリ作品の美術の焼き直しに過ぎない。
だが、動きのある部分の生き生きした表現は流石で、特にクライマックスのアクションシークエンスは、三次元の空間演出も見事で良く出来ている。
アニメーションならではのビジュアル表現もユニークで、手に汗握るなかなかの名シーンだ。
もっとも、この部分をして宮崎吾朗という演出家を評価して良いものかは判らない。
彼がこの作品の「監督」としての仕事をどの程度やっているのか判らないからだ。
実写映画の場合、ぶっちゃけ監督がド素人で何も指示出来なくても、それなりに優秀な助監督とカメラマンがいれば映画は出来る。
実写は対象物が目の前にあるので、極端な話、監督は撮りたい物のイメージを伝えればそれで事足りるのだ。
実際、そうして作られた映画も少なからずある。
しかし、ゼロから全てを作るアニメーションの場合はそうはいかない。
監督がしっかりと頭の中に完成作品を持っていないと、何も始まらないのだ。
そしてスタッフに伝え、指示するべき項目は、実写とは比較にならないくらい多い。
純粋な技術論として、全くの素人がアニメーションを100%監督するのは不可能だ。
現実的にはコンテ、或いはストーリーボードの段階で、宮崎吾朗のイメージをまともな作品に見える様にするための、直しの作業が行われたはずで、その後の段階でどの程度彼のイメージが残っていたのかは判らない。
特にアクションシークエンスは、担当アニメーターの力量がそのまま出る部分だし、カット割りを含めて、クライマックスが宮崎吾朗らしいと言うより、実に宮崎駿らしい仕上がりなのは何とも皮肉だ。
映画「ゲド戦記」は、何となく「キャシャーン」を思わせる映画だった。
勿論作品のスタイルはまるで違うのだが、どちらも素人監督による、よく知られた原作を持つ大作映画で、出来上がったものは原作とは別物になっていた。
そしてどちらもテーマへの取り組みの姿勢は真摯だが、それを表現できていない。
キャシャーンの紀里谷監督はひたすら映像の力を信じ、映像で全てを物語れると信じて玉砕。
「ゲド戦記」の宮崎吾朗は、もう少し物語の重要性を知っていた様だが、それを伝える技術をあまりにも知らなかった様だ。
考えてみれば、超一流レストランで、ホールマネージャーがいきなりシェフをやったような物。
いくら厨房スタッフが優秀でも、シェフの作ったレシピのポテンシャルまではカバーできない。
味は作る前から想像できた。
もし次もやるなら、もう少し脚本・演出のイロハを勉強してからやるべきだろう。
最近、良くも悪くもすっかり世界を斜めから見つめる様になってしまった宮崎駿の世界より、よりストレートな宮崎吾朗的な世界を好む観客層は確実にいるはずだ。
後はそれをいかに物語るかである。
少々辛口になってしまったが、今回はジブリからもさほど遠くない東京の地酒、澤乃井の「大辛口」を(笑
その名の通り辛口だが、すっきり飲みやすくて夏向きだ。
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2006年07月25日 (火) | 編集 |
筒井康隆原作の、あまりにも有名なSFジュブナイル小説の三度目の映画化。
またまたリメイク作品である。
最初の映画化は83年の原田知世主演・大林宣彦監督版。
二度目は97年に、83年版の製作を手がけた角川春樹監督で映画化。
実は映画化される前にも、NHKの少年ドラマシリーズ枠で、「タイムトラベラー」のタイトルでドラマ化もされており、単発ドラマなども含めると今回で何と7回目の映像化となるそうだ。
ドラマ、映画、そして今回のアニメーション映画と、これほどまでに様々な手法で何度も作られるのは、所謂ジュブナイル小説の先駆けでもある原作が、非常にビジュアル的で映画化にピッタリの長さであり、尚且つ内容が普遍的だからだろう。
しかし、今回の細田守監督版は、単に過去の作品をそのままリメイクしたという訳ではない。
原作、そして今までの映像化は、高校生芳山和子と、ラベンダーの花を求めて未来から来た転校生の切ないラブストーリーだった。
今回は、芳山和子は脇に退き、弾けんばかりに元気一杯の彼女の姪・紺野真琴がタイムトラベラーとなるのだ。
つまり、成長した芳山和子というキャラクターを媒介として、旧作と新作、実写とアニメが時を越えてつながり、リメイクでありながら続編でもあるという凝った作りとなっている。
野球好きの女子高生紺野真琴(仲里依紗)は、同級生で野球仲間の二人の男友達、功介(板倉光隆)と千昭(石田卓也)といつも三人でつるんで遊んでいる。
ある日真琴は、ひょんな事から時間を飛び越えるタイムリープの能力を持ってしまう。
最初は戸惑って、やはり若い頃に同じ能力を持っていたという叔母の芳山和子(原沙知絵)に相談したりしていたものの、その便利さが判ると今度は時間を飛びまくり。
何しろこの能力さえあれば、どんな失敗にもリセットが効くのだ。
しかしある時、千昭が自分の事を好きだという事を知り、三人の関係を壊したくない真琴は、タイムリープで彼の心にもリセットをかけようとするのだが・・・・。
多くの人にとって、「時かけ」と言えば83年版が思い浮かぶだろう。
というか他の映像化は、殆んど忘れ去られていると言っても良いかも知れない。
これが映画デビュー作となった、当時16歳の原田知世が初々しく芳山和子を演じ、大林宣彦が故郷尾道・竹原の情緒的な風景を舞台に描いた、ジャック・フィニイ的SFファンタジーの佳作だった。
今回の細田監督版も、基本的なイメージは83年版を継承している。
舞台は首都圏と思われる街に改められているが、坂や階段が多い街並みの風景(しかもこれが効果的に演出に組み込まれている)や、レトロな雰囲気の真琴の家、印象的な音楽の使い方、そしてなによりも今回は真琴をそっと見守る叔母として登場する、芳山和子のキャラクターなどに旧作のイメージは強く残されている。
旧作へリスペクトを捧げつつ、本筋ではオリジナリティを追求する。
安直なリメイクとしなかった細田監督と脚本の奥寺佐渡子の狙いは的中。
この23年ぶりの「続編」は、懐かしくも新しいイメージに満ちている。
元々の主人公、芳山和子はどちらかというと大人しい控えめな少女として描かれていたが、姪っ子の真琴は正反対。
脳内どピーカン、超アクティブで底抜けに明るいお調子者。
元気を絵に描いたようなキャラクターだ。
このキャラクターをして、今回の映画を「現代的」と評する向きもあるようだが、別に80年代に比べて今の少女全般が特に元気になったとも思えない。
むしろ描きたい事に必要なキャラを作ったら、こうなったという感じではなかろうか。
勿論旧作との差別化の意味もあるだろうし、実際に劇中で芳山和子が自分と真琴の違いを語るシーンもある。
旧作では、ラベンダーの香りと共に幻想的に描かれていたタイムリープも、今回は真琴のキャラに合わせたのか、豪快にジャンプをする事で起こる。
物語の前半は、偶然獲得したタイムリープの能力に、真琴が能天気に喜ぶ。
テストがあれば前日に戻って答えを暗記し、妹に食べられたプリンは食べられる前に戻って先に食べ、カラオケは時間切れになれば最初に戻る。
この過程はテンポもよく、ちょっと「ドラえもん」チックなギャグ描写の連続で抱腹絶倒。
問題が起これば過去に戻ってリセットというのは、確かに「現代的」かもしれない。
しかし、調子に乗ってタイムリープを繰り返しているうちに、真琴は周りの人々の心までも操ろうとしてしまう。
真琴といつも一緒の功介と千昭。
三人組の微妙な関係を壊したくない真琴は、彼らの恋心を都合よくコントロールしようとするのだが、過去をいじればいじるほどに綻びが生じてしまう。
そうして、心の痛みを伴うタイムパラドックスの果てに、真琴は知る。
変わらない関係など無いという事を。
どんなに真琴があがいても、時は否応無く流れてゆく。
そして初めて、誰かを愛する自分の本当の心にも気付くのだ。
後半の物語の流れは、コメディタッチの前半とは打って変わって、タイムパラドックスを効果的に使ったスリリングかつ切ない恋愛SFファンタジーとなり、「時かけ」の世界へ回帰する。
細田守監督は、「劇場版デジモンアドベンチャー」や「ONE PIECE THE MOVIE オマツリ男爵と秘密の島」などでも、キッズだけに独占させておくのは勿体無い、独特のムードのある演出を見せていたが、今回も十分楽しませつつ作家性はしっかりと出している。
私は、実写と違ってゼロから作るアニメーションとは、最終的にはディテールの勝負だと思っている。
それは単純な画の上手い下手や、モーションのスムーズさの問題ではなく(勿論それも重要だが)、絵空事をいかにリアルに感じさせるかというセンスの部分が大きい。
細田監督は、メインのキャラクターの動かし方以外に、間合いの取り方や、ちょっとした日常のリアリティの表現が抜群に上手い。
この人は「デジモン」の評価で、スタジオジブリの「ハウルの動く城」の監督に抜擢されながら、制作途中に宮崎駿と衝突して降板させられた人。
正直なところ「ハウルの動く城」を観てがっかりした私としては、今回の仕上がりを観て、細田版の「ハウル」を観たかったなあという思いが強くなった。
真琴役の仲里依紗、功介役の板倉光隆と千昭役の石田卓也をはじめ、芳山和子をしっとりと演じた原沙知絵、クラスメート役の垣内彩未(旧作で津田ゆかりが演じた役かな?)、内気な下級生役の谷村美月ら、若い実写の俳優中心のキャストも、総じて好演。
私はアニメーション映画で、声優以外の人を使うのは必ずしも効果的でないと思っているのだが、今回の作品に関しては、技術的な拙さより彼らの生なリアル感が上手く生かされ、悪くなかったと思う。
厳密に観ると、SF的な理屈の部分でやや脚本の処理が荒っぽかったり、後半の展開が駆け足になってしまっていたり、イマイチな部分もある。
アニメーションとしても、例えばジブリ作品ほどの映像的なクオリティは無い。
しかしこの細田版「時かけ」には、青春真っ只中の真琴達と同世代の人にも、「芳山和子」と同世代の人にも、同時にアピールする、ちょっと懐かしくて新鮮な楽しさが十分につまっている。
今回は、83年版のロケ地広島は竹原の地酒「誠鏡 純米大吟醸」を。
純米大吟醸としてはやや辛口で、フルーティ。
竹原は知る人ぞ知る広島の酒どころの一つ。
そう言えば旧作の尾美としのりは、造り酒屋ならぬ醤油醸造所の息子って設定だったね。
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誠鏡 純米大吟醸 幻 赤箱 720ml ?4280
またまたリメイク作品である。
最初の映画化は83年の原田知世主演・大林宣彦監督版。
二度目は97年に、83年版の製作を手がけた角川春樹監督で映画化。
実は映画化される前にも、NHKの少年ドラマシリーズ枠で、「タイムトラベラー」のタイトルでドラマ化もされており、単発ドラマなども含めると今回で何と7回目の映像化となるそうだ。
ドラマ、映画、そして今回のアニメーション映画と、これほどまでに様々な手法で何度も作られるのは、所謂ジュブナイル小説の先駆けでもある原作が、非常にビジュアル的で映画化にピッタリの長さであり、尚且つ内容が普遍的だからだろう。
しかし、今回の細田守監督版は、単に過去の作品をそのままリメイクしたという訳ではない。
原作、そして今までの映像化は、高校生芳山和子と、ラベンダーの花を求めて未来から来た転校生の切ないラブストーリーだった。
今回は、芳山和子は脇に退き、弾けんばかりに元気一杯の彼女の姪・紺野真琴がタイムトラベラーとなるのだ。
つまり、成長した芳山和子というキャラクターを媒介として、旧作と新作、実写とアニメが時を越えてつながり、リメイクでありながら続編でもあるという凝った作りとなっている。
野球好きの女子高生紺野真琴(仲里依紗)は、同級生で野球仲間の二人の男友達、功介(板倉光隆)と千昭(石田卓也)といつも三人でつるんで遊んでいる。
ある日真琴は、ひょんな事から時間を飛び越えるタイムリープの能力を持ってしまう。
最初は戸惑って、やはり若い頃に同じ能力を持っていたという叔母の芳山和子(原沙知絵)に相談したりしていたものの、その便利さが判ると今度は時間を飛びまくり。
何しろこの能力さえあれば、どんな失敗にもリセットが効くのだ。
しかしある時、千昭が自分の事を好きだという事を知り、三人の関係を壊したくない真琴は、タイムリープで彼の心にもリセットをかけようとするのだが・・・・。
多くの人にとって、「時かけ」と言えば83年版が思い浮かぶだろう。
というか他の映像化は、殆んど忘れ去られていると言っても良いかも知れない。
これが映画デビュー作となった、当時16歳の原田知世が初々しく芳山和子を演じ、大林宣彦が故郷尾道・竹原の情緒的な風景を舞台に描いた、ジャック・フィニイ的SFファンタジーの佳作だった。
今回の細田監督版も、基本的なイメージは83年版を継承している。
舞台は首都圏と思われる街に改められているが、坂や階段が多い街並みの風景(しかもこれが効果的に演出に組み込まれている)や、レトロな雰囲気の真琴の家、印象的な音楽の使い方、そしてなによりも今回は真琴をそっと見守る叔母として登場する、芳山和子のキャラクターなどに旧作のイメージは強く残されている。
旧作へリスペクトを捧げつつ、本筋ではオリジナリティを追求する。
安直なリメイクとしなかった細田監督と脚本の奥寺佐渡子の狙いは的中。
この23年ぶりの「続編」は、懐かしくも新しいイメージに満ちている。
元々の主人公、芳山和子はどちらかというと大人しい控えめな少女として描かれていたが、姪っ子の真琴は正反対。
脳内どピーカン、超アクティブで底抜けに明るいお調子者。
元気を絵に描いたようなキャラクターだ。
このキャラクターをして、今回の映画を「現代的」と評する向きもあるようだが、別に80年代に比べて今の少女全般が特に元気になったとも思えない。
むしろ描きたい事に必要なキャラを作ったら、こうなったという感じではなかろうか。
勿論旧作との差別化の意味もあるだろうし、実際に劇中で芳山和子が自分と真琴の違いを語るシーンもある。
旧作では、ラベンダーの香りと共に幻想的に描かれていたタイムリープも、今回は真琴のキャラに合わせたのか、豪快にジャンプをする事で起こる。
物語の前半は、偶然獲得したタイムリープの能力に、真琴が能天気に喜ぶ。
テストがあれば前日に戻って答えを暗記し、妹に食べられたプリンは食べられる前に戻って先に食べ、カラオケは時間切れになれば最初に戻る。
この過程はテンポもよく、ちょっと「ドラえもん」チックなギャグ描写の連続で抱腹絶倒。
問題が起これば過去に戻ってリセットというのは、確かに「現代的」かもしれない。
しかし、調子に乗ってタイムリープを繰り返しているうちに、真琴は周りの人々の心までも操ろうとしてしまう。
真琴といつも一緒の功介と千昭。
三人組の微妙な関係を壊したくない真琴は、彼らの恋心を都合よくコントロールしようとするのだが、過去をいじればいじるほどに綻びが生じてしまう。
そうして、心の痛みを伴うタイムパラドックスの果てに、真琴は知る。
変わらない関係など無いという事を。
どんなに真琴があがいても、時は否応無く流れてゆく。
そして初めて、誰かを愛する自分の本当の心にも気付くのだ。
後半の物語の流れは、コメディタッチの前半とは打って変わって、タイムパラドックスを効果的に使ったスリリングかつ切ない恋愛SFファンタジーとなり、「時かけ」の世界へ回帰する。
細田守監督は、「劇場版デジモンアドベンチャー」や「ONE PIECE THE MOVIE オマツリ男爵と秘密の島」などでも、キッズだけに独占させておくのは勿体無い、独特のムードのある演出を見せていたが、今回も十分楽しませつつ作家性はしっかりと出している。
私は、実写と違ってゼロから作るアニメーションとは、最終的にはディテールの勝負だと思っている。
それは単純な画の上手い下手や、モーションのスムーズさの問題ではなく(勿論それも重要だが)、絵空事をいかにリアルに感じさせるかというセンスの部分が大きい。
細田監督は、メインのキャラクターの動かし方以外に、間合いの取り方や、ちょっとした日常のリアリティの表現が抜群に上手い。
この人は「デジモン」の評価で、スタジオジブリの「ハウルの動く城」の監督に抜擢されながら、制作途中に宮崎駿と衝突して降板させられた人。
正直なところ「ハウルの動く城」を観てがっかりした私としては、今回の仕上がりを観て、細田版の「ハウル」を観たかったなあという思いが強くなった。
真琴役の仲里依紗、功介役の板倉光隆と千昭役の石田卓也をはじめ、芳山和子をしっとりと演じた原沙知絵、クラスメート役の垣内彩未(旧作で津田ゆかりが演じた役かな?)、内気な下級生役の谷村美月ら、若い実写の俳優中心のキャストも、総じて好演。
私はアニメーション映画で、声優以外の人を使うのは必ずしも効果的でないと思っているのだが、今回の作品に関しては、技術的な拙さより彼らの生なリアル感が上手く生かされ、悪くなかったと思う。
厳密に観ると、SF的な理屈の部分でやや脚本の処理が荒っぽかったり、後半の展開が駆け足になってしまっていたり、イマイチな部分もある。
アニメーションとしても、例えばジブリ作品ほどの映像的なクオリティは無い。
しかしこの細田版「時かけ」には、青春真っ只中の真琴達と同世代の人にも、「芳山和子」と同世代の人にも、同時にアピールする、ちょっと懐かしくて新鮮な楽しさが十分につまっている。
今回は、83年版のロケ地広島は竹原の地酒「誠鏡 純米大吟醸」を。
純米大吟醸としてはやや辛口で、フルーティ。
竹原は知る人ぞ知る広島の酒どころの一つ。
そう言えば旧作の尾美としのりは、造り酒屋ならぬ醤油醸造所の息子って設定だったね。

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誠鏡 純米大吟醸 幻 赤箱 720ml ?4280


2006年07月22日 (土) | 編集 |
ネタ切れリメイクブームなのはハリウッドだけではないらしい。
こちらは1973年のパニック映画ブーム真っ只中に公開された、小松左京原作、森谷司郎監督の「日本沈没」のリメイク。
劇場映画の後、同名のテレビシリーズも作られた。
オリジナルは僅か3ヶ月という突貫工事で作られたせいか、やや大味な部分もあるのだが、「日本という故郷を失った日本人は、それでも日本人でありつづけられるのか?」という鋭いテーマ性を持った力作ではあった。
高度成長期も終わりに差し掛かり、田中角栄総理の列島改造論によって、日本の風景が急速に変わりつつあった「時代」に対する問いかけでもあったのだろう。
誰もが、そこに存在するのが当たり前だと思っている「日本」という風景。
それが当たり前でなかったら?という問いかけは、33年経った今観ても、それなりの説得力がある。
その73年版「日本沈没」が、初めて劇場で観た映画だったという樋口慎嗣監督によるリメイクは、21世紀にどんな問いかけをしてくるのか、とても楽しみに観に行った。
※バッチリネタバレしとります。
深海潜水艇わだつみ6500のパイロット小野寺(草剛)は、沼津地方で起こった大地震に巻き込まれ、レスキュー隊員の阿部玲子(柴崎コウ)とともに、親を失った少女美咲(福田麻由子)を救出する。
その頃日本は群発する巨大地震に襲われていた。
地質学者の田所博士(豊川悦司)と共に、日本海溝の調査に赴いた小野寺は、日本列島が地殻変動によって、僅か一年で海に沈むという恐るべき事実を知る。
危機管理大臣となった田所の元妻である鷹森沙織(大地真央)は、日本国民を全て国外に脱出させようとするが、準備の間にも大地震が列島を襲い、火山は火を噴く。
このまま脱出できない人々と共に、日本は沈むのかと思われていたが、田所には日本を救うための秘策があった・・・
今回のリメイクが、オリジナルと一番違うのは「テーマが無い」事である。
いきなりネタバレすると、今回日本列島は沈まない。
草くんの起こした「奇跡」によって救われるのだ。
よってオリジナルのテーマは、殆んど消えていて、そしてそれに変わるテーマが見えない。
いや、描きたい事は何となく判る。
日本が沈むというマクロな問題を通して、個人としての日本人の心というミクロを描きたいのだろうが、それをエモーションとして感じる事が出来ない。
この映画は、まずなによりも脚本が酷すぎる。
小松左京の原作をベースとしているものの、正反対のラストを見れば判るように、ディティールは大きく異なる。
原作の設定と、大まかな登場人物だけ借りてきたという感じだが、それはまあ良い。
問題は、この映画が描こうとしている物に、脚本が全くアプローチできていない事なのだ。
登場人物は整理できてないし、シチュエーションはぶつ切り。
時間軸もおかしければ、空間の位置関係もメチャクチャ。
とてもプロの脚本家の仕事とは思えない。
まず登場人物に魅力が無い。
草剛の主人公は、映画が始まってから一時間半以上、ただ優柔不断にウロウロしているだけで何もしない。
相手役の柴咲コウは、ハイパーレスキュー隊員という設定なのに、オープニング以外にそれを生かしたシーンが全く無い。
ディザスタームービーで、主人公がレスキュー隊員で、救助のシーンが無いって・・・・どういう事ですか?
二人の間のロマンスもあまりにも唐突。
柴崎コウは、突然草くんに告白されてビックリしていた様だが、それは観客も同じ事。
何しろそれまでの二人の描写といえば、下町の物干し台で身の上話をしているくらいなのだから、省略にもほどがある。
これで草くんに、深刻な顔で「僕にも、守りたい人がいるんです」なんて言われても説得力なし。
必要な描写はないのに、無駄な設定や描写は盛りだくさんだ。
柴崎コウの死んだ爺さんが鳶の棟梁だったとか実はウソだったとか、トヨエツと大地真央が元夫婦だったとか、単に設定されているだけで物語的には全く生かされていない。
腹黒い政治家を登場させて、悪役を作ったりしているが、この手の話ではドラマを盛り上げる事にもならないし、意味が無い。
もっと必要な描写はあるでしょ!と見ながらイライラした。
彼ら二人だけではなく、全ての登場人物の描写が薄っぺらで感情の流れもぶつ切りなので、二時間十五分の間、誰にも感情移入することが出来ない。
この手の映画で一番の見せ場である都市破壊のスペクタクルは、流石によく出来ている。
よく知っている風景が、人知の及ばない力で破壊される画というのはやはり面白い。
しかし、実際に破壊の描写は案外と少なくて、日本全国の壊れちゃった後の風景を見せられるカットが多いので、今ひとつスペクタクルが持続しない。
なんか「災害絵葉書」を見せられているみたいだった。
人工衛星から見た日本列島の超鳥瞰図を多用しているのも、客観性を過度に強めてしまっていると思う。
衛星からの視点は旧作でもウリだったし、日本列島がどんどん崩れてゆくのをリアルに見せる効果はあるのだが、今回は使いすぎだった気がする。
衛星視点から見たイメージと、下界の状態が違いすぎるという突っ込みも入れられてしまう。
だが決定的なのは、この未曾有のディザスターの下に、主人公たちがいないという事なのだ。
前記したようにせっかくハイパーレスキュー隊員という設定なのに、柴崎コウが災害に立ち向かって人々を救助する描写は無い。
草くんが危険に巻き込まれるのは、本来の任務に戻る最後の30分だけだ。
要するに主人公二人とは関係ないところで災害が起きているので、日本が沈むほどの大災害という実感が無い。
ニュース映像を見ているみたいで、全然臨場感が無いのだ。
唯一、二人が親代わりになっている被災少女の美咲ちゃんと、柴崎コウの育ての親達が、避難中に危機に陥るけど、メインキャラクターが「日本沈没」と直面するのはクライマックスの草薙くんを除けばそこだけだ。
この酷い脚本を書いたのはどこの素人ですか?と見ると、なんと加藤正人。
立派なプロである。
しかし、この人は元々淡々とした心理劇なんかを得意としていたはず。
作品のテイストと、この人のテイストが全く合っていないのだ。
脚本家はある意味技術者であり、明確に得手不得手がある場合が多い。
ウッディ・アレンに「スター・ウォーズ」の脚本を依頼する馬鹿がいないように、加藤正人にもこの作品は無理だったのではないか。
なぜこの人選なのか理解に苦しむ。
正直、この脚本では誰が撮っても面白くはならなかったと思うが、樋口監督の仕事にも得手不得手がはっきり出てしまっている様に思う。
脚本の不備を差し引いても、主人公二人のロマンスはあまりにもベタベタで恥ずかしい。
反面、細かな画作りなどは流石に素晴しい物があるのだが、脚本がこれでは焼け石に水。
私は特撮監督としての樋口慎嗣の仕事を尊敬しているし、決して演出力の無い人ではないと思う。
が、この脚本の問題を把握できなかったとしたらそれはそれで問題だと思う。
前作の「ローレライ」も脚本の弱さが目立ったが、ドラマツルギーとは結局8割方は人間の感情の流れの事なのだ。
1シーンごとの感情をしっかり表現したつもりでも、それが二時間十五分の流れとなっていなければ、ドラマは成立しない。
率直に言って平成の「日本沈没」は、映画という器だけあって、そこに何をどう盛り付けるべきか、脚本家、監督、プロデューサーを含めて最終的にビジョンを持った人間がいなかったとしか思えない。
派手な都市破壊スペクタクルも、オールスターキャストも、「何をどう描くか」という指針なくしては空虚なだけである。
映画の中の日本列島は、草薙くんの特攻によって沈没から救われるが、映画「日本沈没」はその名の通りに見事に沈没してしまった。
さて、主人公の草くんは実家が会津の造り酒屋という設定。
そこで今回は会津の地酒「辰泉 京の華 大吟醸」を。
その名の通り、吟醸酒らしいふっくらとして華やかなお酒。
作り手が、どんな味を目指して作ったのかが、最初の一口で伝わってくる。
映画の方も、この位しっかりしたテーマがあったらよかったのに。
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辰泉 京の華 純米大吟 1.8L \6130
こちらは1973年のパニック映画ブーム真っ只中に公開された、小松左京原作、森谷司郎監督の「日本沈没」のリメイク。
劇場映画の後、同名のテレビシリーズも作られた。
オリジナルは僅か3ヶ月という突貫工事で作られたせいか、やや大味な部分もあるのだが、「日本という故郷を失った日本人は、それでも日本人でありつづけられるのか?」という鋭いテーマ性を持った力作ではあった。
高度成長期も終わりに差し掛かり、田中角栄総理の列島改造論によって、日本の風景が急速に変わりつつあった「時代」に対する問いかけでもあったのだろう。
誰もが、そこに存在するのが当たり前だと思っている「日本」という風景。
それが当たり前でなかったら?という問いかけは、33年経った今観ても、それなりの説得力がある。
その73年版「日本沈没」が、初めて劇場で観た映画だったという樋口慎嗣監督によるリメイクは、21世紀にどんな問いかけをしてくるのか、とても楽しみに観に行った。
※バッチリネタバレしとります。
深海潜水艇わだつみ6500のパイロット小野寺(草剛)は、沼津地方で起こった大地震に巻き込まれ、レスキュー隊員の阿部玲子(柴崎コウ)とともに、親を失った少女美咲(福田麻由子)を救出する。
その頃日本は群発する巨大地震に襲われていた。
地質学者の田所博士(豊川悦司)と共に、日本海溝の調査に赴いた小野寺は、日本列島が地殻変動によって、僅か一年で海に沈むという恐るべき事実を知る。
危機管理大臣となった田所の元妻である鷹森沙織(大地真央)は、日本国民を全て国外に脱出させようとするが、準備の間にも大地震が列島を襲い、火山は火を噴く。
このまま脱出できない人々と共に、日本は沈むのかと思われていたが、田所には日本を救うための秘策があった・・・
今回のリメイクが、オリジナルと一番違うのは「テーマが無い」事である。
いきなりネタバレすると、今回日本列島は沈まない。
草くんの起こした「奇跡」によって救われるのだ。
よってオリジナルのテーマは、殆んど消えていて、そしてそれに変わるテーマが見えない。
いや、描きたい事は何となく判る。
日本が沈むというマクロな問題を通して、個人としての日本人の心というミクロを描きたいのだろうが、それをエモーションとして感じる事が出来ない。
この映画は、まずなによりも脚本が酷すぎる。
小松左京の原作をベースとしているものの、正反対のラストを見れば判るように、ディティールは大きく異なる。
原作の設定と、大まかな登場人物だけ借りてきたという感じだが、それはまあ良い。
問題は、この映画が描こうとしている物に、脚本が全くアプローチできていない事なのだ。
登場人物は整理できてないし、シチュエーションはぶつ切り。
時間軸もおかしければ、空間の位置関係もメチャクチャ。
とてもプロの脚本家の仕事とは思えない。
まず登場人物に魅力が無い。
草剛の主人公は、映画が始まってから一時間半以上、ただ優柔不断にウロウロしているだけで何もしない。
相手役の柴咲コウは、ハイパーレスキュー隊員という設定なのに、オープニング以外にそれを生かしたシーンが全く無い。
ディザスタームービーで、主人公がレスキュー隊員で、救助のシーンが無いって・・・・どういう事ですか?
二人の間のロマンスもあまりにも唐突。
柴崎コウは、突然草くんに告白されてビックリしていた様だが、それは観客も同じ事。
何しろそれまでの二人の描写といえば、下町の物干し台で身の上話をしているくらいなのだから、省略にもほどがある。
これで草くんに、深刻な顔で「僕にも、守りたい人がいるんです」なんて言われても説得力なし。
必要な描写はないのに、無駄な設定や描写は盛りだくさんだ。
柴崎コウの死んだ爺さんが鳶の棟梁だったとか実はウソだったとか、トヨエツと大地真央が元夫婦だったとか、単に設定されているだけで物語的には全く生かされていない。
腹黒い政治家を登場させて、悪役を作ったりしているが、この手の話ではドラマを盛り上げる事にもならないし、意味が無い。
もっと必要な描写はあるでしょ!と見ながらイライラした。
彼ら二人だけではなく、全ての登場人物の描写が薄っぺらで感情の流れもぶつ切りなので、二時間十五分の間、誰にも感情移入することが出来ない。
この手の映画で一番の見せ場である都市破壊のスペクタクルは、流石によく出来ている。
よく知っている風景が、人知の及ばない力で破壊される画というのはやはり面白い。
しかし、実際に破壊の描写は案外と少なくて、日本全国の壊れちゃった後の風景を見せられるカットが多いので、今ひとつスペクタクルが持続しない。
なんか「災害絵葉書」を見せられているみたいだった。
人工衛星から見た日本列島の超鳥瞰図を多用しているのも、客観性を過度に強めてしまっていると思う。
衛星からの視点は旧作でもウリだったし、日本列島がどんどん崩れてゆくのをリアルに見せる効果はあるのだが、今回は使いすぎだった気がする。
衛星視点から見たイメージと、下界の状態が違いすぎるという突っ込みも入れられてしまう。
だが決定的なのは、この未曾有のディザスターの下に、主人公たちがいないという事なのだ。
前記したようにせっかくハイパーレスキュー隊員という設定なのに、柴崎コウが災害に立ち向かって人々を救助する描写は無い。
草くんが危険に巻き込まれるのは、本来の任務に戻る最後の30分だけだ。
要するに主人公二人とは関係ないところで災害が起きているので、日本が沈むほどの大災害という実感が無い。
ニュース映像を見ているみたいで、全然臨場感が無いのだ。
唯一、二人が親代わりになっている被災少女の美咲ちゃんと、柴崎コウの育ての親達が、避難中に危機に陥るけど、メインキャラクターが「日本沈没」と直面するのはクライマックスの草薙くんを除けばそこだけだ。
この酷い脚本を書いたのはどこの素人ですか?と見ると、なんと加藤正人。
立派なプロである。
しかし、この人は元々淡々とした心理劇なんかを得意としていたはず。
作品のテイストと、この人のテイストが全く合っていないのだ。
脚本家はある意味技術者であり、明確に得手不得手がある場合が多い。
ウッディ・アレンに「スター・ウォーズ」の脚本を依頼する馬鹿がいないように、加藤正人にもこの作品は無理だったのではないか。
なぜこの人選なのか理解に苦しむ。
正直、この脚本では誰が撮っても面白くはならなかったと思うが、樋口監督の仕事にも得手不得手がはっきり出てしまっている様に思う。
脚本の不備を差し引いても、主人公二人のロマンスはあまりにもベタベタで恥ずかしい。
反面、細かな画作りなどは流石に素晴しい物があるのだが、脚本がこれでは焼け石に水。
私は特撮監督としての樋口慎嗣の仕事を尊敬しているし、決して演出力の無い人ではないと思う。
が、この脚本の問題を把握できなかったとしたらそれはそれで問題だと思う。
前作の「ローレライ」も脚本の弱さが目立ったが、ドラマツルギーとは結局8割方は人間の感情の流れの事なのだ。
1シーンごとの感情をしっかり表現したつもりでも、それが二時間十五分の流れとなっていなければ、ドラマは成立しない。
率直に言って平成の「日本沈没」は、映画という器だけあって、そこに何をどう盛り付けるべきか、脚本家、監督、プロデューサーを含めて最終的にビジョンを持った人間がいなかったとしか思えない。
派手な都市破壊スペクタクルも、オールスターキャストも、「何をどう描くか」という指針なくしては空虚なだけである。
映画の中の日本列島は、草薙くんの特攻によって沈没から救われるが、映画「日本沈没」はその名の通りに見事に沈没してしまった。
さて、主人公の草くんは実家が会津の造り酒屋という設定。
そこで今回は会津の地酒「辰泉 京の華 大吟醸」を。
その名の通り、吟醸酒らしいふっくらとして華やかなお酒。
作り手が、どんな味を目指して作ったのかが、最初の一口で伝わってくる。
映画の方も、この位しっかりしたテーマがあったらよかったのに。

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2006年07月16日 (日) | 編集 |
「パイレーツ・オブ・カリビアンの失われた宝箱/エピソード2/海底海賊の逆襲」
この二作目になって、シリーズとしての全貌が明らかになってきた感じだ。
ゴア・ヴァービンスキー監督とプロデューサーのジェリー・ブラッカイマーのコンビは、共にジョージ・ルーカスの手による7、80年代を代表する偉大な二つのシリーズ、「スター・ウォーズ」(の旧シリーズ)と「インディアナ・ジョーンズ」を、21世紀に再生しようとしている様だ。
特に、この二作目のプロットは、ほとんど「スター・ウォーズ/帝国の逆襲」の再構成版と言っても良い。
ディズニーランドのアトラクション「カリブの海賊」の世界観に、「スター・ウォーズ」の物語と「インディ」の秘境冒険アクションをプラス。
それが映画「パイレーツ・オブ・カリビアン」の世界だ。
物語は、ウィル・ターナー(オーランド・ブルーム)とエリザベス(キーラ・ナイトレイ)が結婚式で逮捕されるところから始まる。
罪状は海賊ジャック・スパロー(ジョニー・デップ)を逃がした事。
腹黒い提督は、ウィルにスパローと交渉し、彼の持っている不思議な「コンパス」を持ち帰ればエリザベスを助けると持ちかける。
ウィルはスパローとブラックパール号を探す旅に出る。
一方のスパローは、深海からの影に怯えていた。
13年前に、スパローはブラックパールを手に入れるために、幽霊船「フライングダッチマン」のデイヴィ・ジョーンズと、自分の魂を売る契約を交わした。
その契約が切れる時が来たのだ。
もし捕まれば、スパローはフライングダッチマンに100年間繋がれてしまう。
唯一逃れる方法は、海のどこかに隠されている、ジョーンズの心臓が入った箱「デッドマンズ・チェスト」を手に入れる事・・・・
第一作からその匂いはしていたのだが、二作目となってますます主役の三人の相関関係は「スター・ウォーズ」に似てきた。
勿論ジャック・スパローはハン・ソロで、ウィルはルーク、エリザベスはレイアだ。
本来は脇であったスパローが、ウィルを押しのけて完全に主役になってしまっているあたりも、微妙な三角関係を匂わせるのも同じだし、何時ウィルとエリザベスが実は姉弟だって言い出すかドキドキしてしまった(笑
デイヴィ・ジョーンズとスパローの関係はそのまま、ジャバ・ザ・ハットとハン・ソロだし、
他にも物語を構成する要素は、殆ど「スター・ウォーズ」の旧シリーズにそのルーツを観る事が出来る。
元々「スター・ウォーズ」自体が、嘗てのハリウッド冒険映画の再生であり、その中には確実にエロール・フリンなどの「海賊映画」も入っていただろう。
「インディ」も、同じくハリウッド初期の連続活劇や、ハロルド・ロイドやバスター・キートンのスラップスティックコメディの再生であった。
どちらも、既に「古臭い」と思われていたジャンルを新しい舞台、新しい技法を駆使して、新鮮な娯楽として蘇らせたのだ。
その意味で、「パイレーツ・オブ・カリビアン」は古きハリウッドの、再々生版と言えるかもしれない。
もっとも「海賊映画」というジャンル自体、80年代の「パイレーツ・ムービー」、90年代の「カットスロート・アイランド」と大コケが続き、既に観客に見捨てられた古いジャンルと思われていたのだから、このシリーズにルーカスの借り物として以上の価値があるのも間違いないのだが。
物語が「サガ」の形をとってきた以上、これ単体では映画として機能していない。
キャラクターの関係一つとっても、前作を観ていないと全く判らないだろうし、物語自体も元ネタの「帝国の逆襲」と同じく、完結していない。
この第二作はあくまでも三部作の途中、正確に言えば第一作は完結していたから、これは第二部の前編なのだ。(もっとも、最近プロデューサーのブラッカイマーは6部まで作ると言っているらしい。まんまSWやん!)
逆に言えば、単体の映画としてはこの作品は欠点だらけだ。
「帝国の逆襲」自体が洗練された物語の流れを持っているとは言いがたかったのだが、要素要素を継接ぎしたこの作品のストーリーラインはもっと破綻している。
いくつものストーリーの流れが異なる場所で同時進行するのだが、整理不足も甚だしく、物語もキャラクターの感情の流れもぶつ切り。
おかげでメインキャラクターの誰にも感情移入が出来ず、感情を描こうとするシーンになると激しく中ダレを感じてしまう始末。
ヴァービンスキー監督の演出も、物語の破綻を勢いで押し流すほどのキレはない。
基本的に、前作が気に入って、キャラクターにも思い入れがある観客に向けた作品なので、映画自体が観客の脳内補完に依存してしまっている部分がある。
上映時間は二時間半もあるのだが、とりあえず大風呂敷を広げて、いろんなおもちゃをぶちまけたという印象で終ってしまう。
ここまで広げた物語をどう収束させるのかは、とりあえず次のお楽しみというところか。
しかし、欠点だらけにも関わらず、「パイレーツ・オブ・カリビアン/デッドマンズ・チェスト」は魅力的だ。
それはジョニー・デップ演じる、ジャック・スパローという不世出のキャラクターの魅力を別とすれば、この映画の世界全体が、観客の無邪気な映画的記憶を呼び覚ます、装置の様な役割をしているからだろう。
前記した「スター・ウォーズ」と「インディ」は勿論、それらが再生させた古きハリウッド映画、またそれらに触発された80年代のジャッキー・チェンのアクション映画。
いや、さらに子供の頃にディズニーランドの「カリブの海賊」で、想像力の扉を開かれ、海賊気分で脳内トリップした思い出まで見事に呼び起こしているかもしれない。
だから「パイレーツ・オブ・カリビアン」の世界は、新作でありながらどこか懐かしく、観る者の冒険心を刺激する。
多少中ダレがあって、ストーリーが破綻していても、この冒険の続きを観たい!と思わせる力があるのだ。
それはたぶん、この映画の作り手自身が、自分達の映画的記憶で大いに楽しんでいるからに他ならないと思う。
工夫を凝らした冒険アクションの数々はハラハラドキドキというよりも、ワクワクする楽しさに溢れている。
ある意味で、とても幸せな映画である。
さて、この映画にあわせるお酒はもうこれしかない。
この映画でも重要な小道具として登場する、海賊の酒といえばラム。
カリブに浮かぶ、米領プエルトリコ産のロンリコをチョイス。
こちらはプエルトリコではもっとも古い、150年の歴史を持つ蒸留所。
ロンとはスペイン語でラムの事で、ロンリコとは豊穣のラムというような意味らしい。
海賊気分を満喫できるが、強いので飲みすぎには注意。
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ロンリコ 151 ¥1449
この二作目になって、シリーズとしての全貌が明らかになってきた感じだ。
ゴア・ヴァービンスキー監督とプロデューサーのジェリー・ブラッカイマーのコンビは、共にジョージ・ルーカスの手による7、80年代を代表する偉大な二つのシリーズ、「スター・ウォーズ」(の旧シリーズ)と「インディアナ・ジョーンズ」を、21世紀に再生しようとしている様だ。
特に、この二作目のプロットは、ほとんど「スター・ウォーズ/帝国の逆襲」の再構成版と言っても良い。
ディズニーランドのアトラクション「カリブの海賊」の世界観に、「スター・ウォーズ」の物語と「インディ」の秘境冒険アクションをプラス。
それが映画「パイレーツ・オブ・カリビアン」の世界だ。
物語は、ウィル・ターナー(オーランド・ブルーム)とエリザベス(キーラ・ナイトレイ)が結婚式で逮捕されるところから始まる。
罪状は海賊ジャック・スパロー(ジョニー・デップ)を逃がした事。
腹黒い提督は、ウィルにスパローと交渉し、彼の持っている不思議な「コンパス」を持ち帰ればエリザベスを助けると持ちかける。
ウィルはスパローとブラックパール号を探す旅に出る。
一方のスパローは、深海からの影に怯えていた。
13年前に、スパローはブラックパールを手に入れるために、幽霊船「フライングダッチマン」のデイヴィ・ジョーンズと、自分の魂を売る契約を交わした。
その契約が切れる時が来たのだ。
もし捕まれば、スパローはフライングダッチマンに100年間繋がれてしまう。
唯一逃れる方法は、海のどこかに隠されている、ジョーンズの心臓が入った箱「デッドマンズ・チェスト」を手に入れる事・・・・
第一作からその匂いはしていたのだが、二作目となってますます主役の三人の相関関係は「スター・ウォーズ」に似てきた。
勿論ジャック・スパローはハン・ソロで、ウィルはルーク、エリザベスはレイアだ。
本来は脇であったスパローが、ウィルを押しのけて完全に主役になってしまっているあたりも、微妙な三角関係を匂わせるのも同じだし、何時ウィルとエリザベスが実は姉弟だって言い出すかドキドキしてしまった(笑
デイヴィ・ジョーンズとスパローの関係はそのまま、ジャバ・ザ・ハットとハン・ソロだし、
他にも物語を構成する要素は、殆ど「スター・ウォーズ」の旧シリーズにそのルーツを観る事が出来る。
元々「スター・ウォーズ」自体が、嘗てのハリウッド冒険映画の再生であり、その中には確実にエロール・フリンなどの「海賊映画」も入っていただろう。
「インディ」も、同じくハリウッド初期の連続活劇や、ハロルド・ロイドやバスター・キートンのスラップスティックコメディの再生であった。
どちらも、既に「古臭い」と思われていたジャンルを新しい舞台、新しい技法を駆使して、新鮮な娯楽として蘇らせたのだ。
その意味で、「パイレーツ・オブ・カリビアン」は古きハリウッドの、再々生版と言えるかもしれない。
もっとも「海賊映画」というジャンル自体、80年代の「パイレーツ・ムービー」、90年代の「カットスロート・アイランド」と大コケが続き、既に観客に見捨てられた古いジャンルと思われていたのだから、このシリーズにルーカスの借り物として以上の価値があるのも間違いないのだが。
物語が「サガ」の形をとってきた以上、これ単体では映画として機能していない。
キャラクターの関係一つとっても、前作を観ていないと全く判らないだろうし、物語自体も元ネタの「帝国の逆襲」と同じく、完結していない。
この第二作はあくまでも三部作の途中、正確に言えば第一作は完結していたから、これは第二部の前編なのだ。(もっとも、最近プロデューサーのブラッカイマーは6部まで作ると言っているらしい。まんまSWやん!)
逆に言えば、単体の映画としてはこの作品は欠点だらけだ。
「帝国の逆襲」自体が洗練された物語の流れを持っているとは言いがたかったのだが、要素要素を継接ぎしたこの作品のストーリーラインはもっと破綻している。
いくつものストーリーの流れが異なる場所で同時進行するのだが、整理不足も甚だしく、物語もキャラクターの感情の流れもぶつ切り。
おかげでメインキャラクターの誰にも感情移入が出来ず、感情を描こうとするシーンになると激しく中ダレを感じてしまう始末。
ヴァービンスキー監督の演出も、物語の破綻を勢いで押し流すほどのキレはない。
基本的に、前作が気に入って、キャラクターにも思い入れがある観客に向けた作品なので、映画自体が観客の脳内補完に依存してしまっている部分がある。
上映時間は二時間半もあるのだが、とりあえず大風呂敷を広げて、いろんなおもちゃをぶちまけたという印象で終ってしまう。
ここまで広げた物語をどう収束させるのかは、とりあえず次のお楽しみというところか。
しかし、欠点だらけにも関わらず、「パイレーツ・オブ・カリビアン/デッドマンズ・チェスト」は魅力的だ。
それはジョニー・デップ演じる、ジャック・スパローという不世出のキャラクターの魅力を別とすれば、この映画の世界全体が、観客の無邪気な映画的記憶を呼び覚ます、装置の様な役割をしているからだろう。
前記した「スター・ウォーズ」と「インディ」は勿論、それらが再生させた古きハリウッド映画、またそれらに触発された80年代のジャッキー・チェンのアクション映画。
いや、さらに子供の頃にディズニーランドの「カリブの海賊」で、想像力の扉を開かれ、海賊気分で脳内トリップした思い出まで見事に呼び起こしているかもしれない。
だから「パイレーツ・オブ・カリビアン」の世界は、新作でありながらどこか懐かしく、観る者の冒険心を刺激する。
多少中ダレがあって、ストーリーが破綻していても、この冒険の続きを観たい!と思わせる力があるのだ。
それはたぶん、この映画の作り手自身が、自分達の映画的記憶で大いに楽しんでいるからに他ならないと思う。
工夫を凝らした冒険アクションの数々はハラハラドキドキというよりも、ワクワクする楽しさに溢れている。
ある意味で、とても幸せな映画である。
さて、この映画にあわせるお酒はもうこれしかない。
この映画でも重要な小道具として登場する、海賊の酒といえばラム。
カリブに浮かぶ、米領プエルトリコ産のロンリコをチョイス。
こちらはプエルトリコではもっとも古い、150年の歴史を持つ蒸留所。
ロンとはスペイン語でラムの事で、ロンリコとは豊穣のラムというような意味らしい。
海賊気分を満喫できるが、強いので飲みすぎには注意。

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ロンリコ 151 ¥1449


2006年07月12日 (水) | 編集 |
気の抜けたシャンパンみたいだった空虚な大作、「ブラザーズ・グリム」に続いてテリー・ギリアムが送り出してきたのは、「嫌われ松子」が裸足で逃げ出す、とんでもなく悲惨な少女ローズの物語。
彼女が生きるのは、残酷な現実に打ち砕かれた大人たちの夢が積もり重なる物語の干潟=Tideland。
ローズは、彼女の周りの小さな世界全てを、自らのイマジネーションの世界に閉じ込める事で、自分自身を守り抜く。
前作とは一転して、低予算の小品。
「ブラザーズ・グリム」は雇われ監督で、プロデューサーと衝突して揉めに揉めたらしいが、こちらは企画から携わり脚本も書いている、100%ギリアムの作家映画だ。
10歳のジェライザ=ローズ(ジョデル・フェルランド)の日常は悲惨だ。
落ちぶれた元ロックスターのお父さん(ジェフ・ブリッジス)とお母さん(ジェニファー・ティリー)は揃ってジャンキー。
お父さんは憧れのユトランドにローズと一緒に旅をしようと口癖の様に言うが、そのくせクスリを打って自分ひとり「バケーション」に行ってしまう。
ある日、クスリの副作用でお母さんが急死してしまい、残されたローズとお父さんはユトランドならぬお父さんの実家のあるテキサスへ旅立つ。
ローズのトランクに入っているのはお母さんの形見のドレスと、4つの頭だけのバービー人形。
それぞれちゃんと名前のある「友達」だ。
テキサスの田舎に着いたローズとお父さんだったが、もう長く住む人のいない実家は殆んど廃屋状態。
しかもお父さんはさっそくクスリを打って「バケーション」に行ってしまう。
翌日、朝が来てもお父さんは動かない。
ローズは仕方なく家とその回りを探検するのだが、黒いベールをかぶった奇妙な女デル(ジャネット・マクティア)と出会う。
彼女はローズの家の近くに、子供の心を持つ大人の弟ディキンス(ブレンダン・フレッチャー)と暮らしている。
ある日ローズは、相変わらず動かないお父さんを、ディキンスに紹介してあげる。
ディキンスは潜水艦を持っていて、草原の海でサメ退治をしているという。
ローズはこの新しい「お友達」とどんどん仲良くなってゆくのだが・・・・
とてもギリアムっぽい・・・・
誰が作ったのか判らないくらい無個性だった「ブラザーズ・グリム」に比べたら、「ローズ・イン・タイドランド」の作家性は明らかだ。
ダークで、シニカルで、物事を全て斜め読みするような視点。
語り口としてのギリアム節は健在・・・・しかし、この映画の場合何がやりたいのか良く判らない。
ミッチ・カリンの原作小説のベースとなっているのは、劇中でも引用されるルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」だろう。
御昼寝の最中に、ウサギの穴から不思議の世界への冒険に出かけたアリス。
対してローズは悲惨な現実を「お話の世界」に脳内変換する事で、不思議の世界に生きる。
だが、アリスが不思議の国の冒険を通して、自分で考え、自分で行動する大人への一つのステップを登ったのに対して、ローズの不思議の世界はどこに繋がっているのだろうか。
ローズは回りで起こる事象全てを、自分の想像力の「お話の世界」に閉じ込める事で生きて行くが、彼女の世界が何のメタファーであるのか、何を意味するのかがよく判らない。
一応、現実世界のお話化にはステップがあって、ローズの周りの現実の状況が酷くなればなるほど、世界のお話化は進行するという構造になっている。
ただ、それをこの映画が上手く表現していたとは思えない。
予算不足もあったのかもしれないが、ローズの想像力が生み出す不思議な世界の描写が、殆んどシークエンスでなくカットでしか描かれないので、イマジネーションの力をビジュアルとして実感する事が出来ない。
ローズは殆んど出ずっぱり、喋りっぱなしで、彼女の「お話」を語っているのだが、映像がそれをフォローしない。
アンドリュー・ワイエスの絵画を思わせる風景は美しいが、そこからのイマジネーションの飛躍を観る事が出来ないのだ。
想像するに、ギリアムがやりたかったのは少女版「バンデットQ」みたいな物で、回りの現実がどんな状況であっても、それを自分の内面に取り込んで消化してしまう子供のイマジネーションの強さ、少女の女としての強さみたいなものを描きたかったのではないだろうか。
本来なら現実の状況の悪化に伴って、ローズの「お話の世界」はどんどんと広がってゆき、それを「バロン」や「ブラジル」で見せたようなぶっ飛んだ映像として見せたかったのだと思うのだが、実際には殆んどローズの語りだけでお話を進めてしまっている印象だ。
あまりにもローズというキャラクターだけに頼ってしまっているために、どうにも一本調子になってしまい、特に前半一時間くらいは殆んど何の展開も無くて正直言って退屈だ。
後半他のキャラクターが物語りに絡むようになって、やや持ち直すが、全体としては中途半端なダークファンタジーという印象で、ギリアム完全復活とはいかなかったと思う。
しかし、見所が無いかと言えばそうではない。
この今ひとつピリッとしないギリアム版「不思議の国のアリス」を、ほとんど一人で成立させているのがローズを演じるジョデル・フェルランドだ。
「サイレントヒル」でも出番は少ないながら、一人三役を演じ分けるという芸達者ぶりだったが、「ローズ・イン・タイドランド」での彼女はもっと凄い。
何だこの強烈な存在感と不思議な色香は。
「ハイド・アンド・シーク」のダコタ・ファニングスにも幼い色香にドキリとさせられる瞬間があったが、ジョデル・フェルランドのローズは10歳の「女」そのものの表現でダコタの上を行く。
ジャンキーの両親との日常とも言えない様な日常での自然な生活感、「バケーション」に行ってしまったまま動かない父に甘える、一瞬大人の女に見えるような艶かしい表情、そして子供の心を持つディキンスとのキスシーンで見せる無邪気なセクシーさ。
無垢な様でいて、しかし世界の全てを知っているかのような視線の強さが印象的だ。
長い黒髪に綺麗な卵形の輪郭、パッチリしたオメメと絵に描いたような美少女だけに、更にこの演技力があれば鬼に金棒。
ギリアムが、ローズのキャラクターに全面的におんぶに抱っこしてしまったのも判る気がする。
ある意味「ローズ・イン・タイドランド」はジョデル・フェルランドのための映画であって、またジョデル・フェルランドの力で何とか持っていると言っても良い。
前作の「ブラザーズ・グリム」を、私は専門店のラーメンを食べに行ったのに、出てきたのはファミレスラーメンだったと評したが、今回の「ローズ・イン・タイドランド」を例えれば、出てきたのは専門店のラーメンだったが、肝心のオヤジさんの腕が落ちちまった!という感じだろうか。
しかし、その中にあってチャーシューだけは抜群に美味かったので、まあ後悔はしなかったと言う感じだ。
さて、今回は少女の夢の様なあま~いカクテル「サザン・オレンジ」をチョイス。
ピーチリキュールのサザンカンフォート、クレームドペシェ、フレッシュオレンジジュースを、1:1:3の割合で氷を入れたタンブラーに注いでステアする。
オレンジのスライスを挿して完成。
簡単に作れるので、この映画でファンタジーの甘味が物足りなかったという人はどうぞ。
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サザンカンフォート 21° 750ml

ルジェ クレームドペシェ ミニチュア 15度50ml
彼女が生きるのは、残酷な現実に打ち砕かれた大人たちの夢が積もり重なる物語の干潟=Tideland。
ローズは、彼女の周りの小さな世界全てを、自らのイマジネーションの世界に閉じ込める事で、自分自身を守り抜く。
前作とは一転して、低予算の小品。
「ブラザーズ・グリム」は雇われ監督で、プロデューサーと衝突して揉めに揉めたらしいが、こちらは企画から携わり脚本も書いている、100%ギリアムの作家映画だ。
10歳のジェライザ=ローズ(ジョデル・フェルランド)の日常は悲惨だ。
落ちぶれた元ロックスターのお父さん(ジェフ・ブリッジス)とお母さん(ジェニファー・ティリー)は揃ってジャンキー。
お父さんは憧れのユトランドにローズと一緒に旅をしようと口癖の様に言うが、そのくせクスリを打って自分ひとり「バケーション」に行ってしまう。
ある日、クスリの副作用でお母さんが急死してしまい、残されたローズとお父さんはユトランドならぬお父さんの実家のあるテキサスへ旅立つ。
ローズのトランクに入っているのはお母さんの形見のドレスと、4つの頭だけのバービー人形。
それぞれちゃんと名前のある「友達」だ。
テキサスの田舎に着いたローズとお父さんだったが、もう長く住む人のいない実家は殆んど廃屋状態。
しかもお父さんはさっそくクスリを打って「バケーション」に行ってしまう。
翌日、朝が来てもお父さんは動かない。
ローズは仕方なく家とその回りを探検するのだが、黒いベールをかぶった奇妙な女デル(ジャネット・マクティア)と出会う。
彼女はローズの家の近くに、子供の心を持つ大人の弟ディキンス(ブレンダン・フレッチャー)と暮らしている。
ある日ローズは、相変わらず動かないお父さんを、ディキンスに紹介してあげる。
ディキンスは潜水艦を持っていて、草原の海でサメ退治をしているという。
ローズはこの新しい「お友達」とどんどん仲良くなってゆくのだが・・・・
とてもギリアムっぽい・・・・
誰が作ったのか判らないくらい無個性だった「ブラザーズ・グリム」に比べたら、「ローズ・イン・タイドランド」の作家性は明らかだ。
ダークで、シニカルで、物事を全て斜め読みするような視点。
語り口としてのギリアム節は健在・・・・しかし、この映画の場合何がやりたいのか良く判らない。
ミッチ・カリンの原作小説のベースとなっているのは、劇中でも引用されるルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」だろう。
御昼寝の最中に、ウサギの穴から不思議の世界への冒険に出かけたアリス。
対してローズは悲惨な現実を「お話の世界」に脳内変換する事で、不思議の世界に生きる。
だが、アリスが不思議の国の冒険を通して、自分で考え、自分で行動する大人への一つのステップを登ったのに対して、ローズの不思議の世界はどこに繋がっているのだろうか。
ローズは回りで起こる事象全てを、自分の想像力の「お話の世界」に閉じ込める事で生きて行くが、彼女の世界が何のメタファーであるのか、何を意味するのかがよく判らない。
一応、現実世界のお話化にはステップがあって、ローズの周りの現実の状況が酷くなればなるほど、世界のお話化は進行するという構造になっている。
ただ、それをこの映画が上手く表現していたとは思えない。
予算不足もあったのかもしれないが、ローズの想像力が生み出す不思議な世界の描写が、殆んどシークエンスでなくカットでしか描かれないので、イマジネーションの力をビジュアルとして実感する事が出来ない。
ローズは殆んど出ずっぱり、喋りっぱなしで、彼女の「お話」を語っているのだが、映像がそれをフォローしない。
アンドリュー・ワイエスの絵画を思わせる風景は美しいが、そこからのイマジネーションの飛躍を観る事が出来ないのだ。
想像するに、ギリアムがやりたかったのは少女版「バンデットQ」みたいな物で、回りの現実がどんな状況であっても、それを自分の内面に取り込んで消化してしまう子供のイマジネーションの強さ、少女の女としての強さみたいなものを描きたかったのではないだろうか。
本来なら現実の状況の悪化に伴って、ローズの「お話の世界」はどんどんと広がってゆき、それを「バロン」や「ブラジル」で見せたようなぶっ飛んだ映像として見せたかったのだと思うのだが、実際には殆んどローズの語りだけでお話を進めてしまっている印象だ。
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何だこの強烈な存在感と不思議な色香は。
「ハイド・アンド・シーク」のダコタ・ファニングスにも幼い色香にドキリとさせられる瞬間があったが、ジョデル・フェルランドのローズは10歳の「女」そのものの表現でダコタの上を行く。
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ある意味「ローズ・イン・タイドランド」はジョデル・フェルランドのための映画であって、またジョデル・フェルランドの力で何とか持っていると言っても良い。
前作の「ブラザーズ・グリム」を、私は専門店のラーメンを食べに行ったのに、出てきたのはファミレスラーメンだったと評したが、今回の「ローズ・イン・タイドランド」を例えれば、出てきたのは専門店のラーメンだったが、肝心のオヤジさんの腕が落ちちまった!という感じだろうか。
しかし、その中にあってチャーシューだけは抜群に美味かったので、まあ後悔はしなかったと言う感じだ。
さて、今回は少女の夢の様なあま~いカクテル「サザン・オレンジ」をチョイス。
ピーチリキュールのサザンカンフォート、クレームドペシェ、フレッシュオレンジジュースを、1:1:3の割合で氷を入れたタンブラーに注いでステアする。
オレンジのスライスを挿して完成。
簡単に作れるので、この映画でファンタジーの甘味が物足りなかったという人はどうぞ。

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サザンカンフォート 21° 750ml

ルジェ クレームドペシェ ミニチュア 15度50ml


2006年07月10日 (月) | 編集 |
コナミの大ヒット・ホラーゲーム「サイレントヒル」の映画化。
私はゲームの1が出た頃、ちょっとやった事があるくらいで、正直あんまり覚えていないけど、世界観や雰囲気はなかなか上手く再現している様に思う。
※以下かなりネタバレしてます。
ローズ(ラダ・ミッチェル)は養女のシャロン(ジョデル・フェルランド)の夢遊病に悩まされていた。
意識の無い状態でシャロンが口走る「サイレントヒル」という言葉。
それは30年前に、火災によって多くの犠牲者を出し、廃棄されたゴーストタウンの事だった。
サイレントヒルのあった場所が、シャロンが捨てられた孤児院に近い事を知ったローズは、夫のクリストファー(ショーン・ビーン)に黙って、シャロンと二人でサイレントヒルを目指す。
途中、二人の様子を怪しんだ白バイ警官(ローリー・ホールデン)に追われたローズは、飛び出して来た人影を避けようとして、事故を起こしてしまう。
目が覚めたとき、助手席にいたはずのシャロンの姿は消えていた。
白い灰が降りしきる、サイレントヒルの廃墟でシャロンを探すローズだったが、不気味なサイレンが鳴り響くと、暗闇のあちこちから人間とも怪物ともつかないクリーチャーが出現する。
ローズは追ってきた白バイ警官のベネットの協力を得て、このサイレントヒルの謎を解き、
シャロンを探そうとするのだが・・・・
監督は「ジェヴォーダンの獣」のクリストフ・ガンズ。
前作でも映画全体の出来は別として、中世フランスの退廃的なムードやビジュアルのディティールの作りこみは大した物だったが、その特質はこの作品でも生きている。
この映画の主役は実はローズでもシャロンでもなく、タイトルロールにもなっているサイレントヒルという街その物だ。
この映画でローズたちが迷い込むのは、現実とは違う次元のサイレントヒル。
そこは30年前の事件の「罪」のために現れた、現世とあの世の狭間の世界だ。
複雑に入り組んだ街を霧とも煙とも突かない靄が覆いつくし、絶え間なく雪のような灰が降りしきる。
そしてサイレンが鳴って地獄との境界が取り払われると、街は闇に包まれ恐ろしいクリーチャーが跋扈する。
この世界観の構築はかなりよく出来ていて、ムード満点。
所謂「お化け屋敷物」で、家が主役となるホラー映画は数多いが、これは街全体が巨大なお化け屋敷の様な状況を描いた作品なのだ。
お化け屋敷を飾るクリーチャーたちも、ゲームからいるキャラクターなのか、映画のオリジナルかは覚えていないが、かなりおぞましい造形で、怖い。
恐らく幽霊の動きに暗黒舞踏を取り入れた日本のホラー映画の影響だろうが、クリーチャーたちの身悶えるような動きも、いかにも内側に憎しみや苦しみを秘めていそうで効果的だ。
へたに不意打ちや音でビックリさせようとしていない分、暗闇から湧いて出てくる様なクリーチャーを使った恐怖演出はなかなかの出来栄えだと思う。
同じくゲームを原作とする「バイオハザード」シリーズが、ゾンビ映画からの派生進化系なら、こちらは正統派のお化け屋敷ホラーの進化系と言える。
物語の構成は、前半後半で別の映画の様に別れている。
前半は訳も判らずサイレントヒルに放り込まれた主人公たちが、闇のクリーチャーたちから逃げ回るサバイバル編。
後半は、このサイレントヒルに閉じ込められている人間たちに出会い、30年前の呪いを完結させる謎解き編だ。
この異次元のサイレントヒルでの出来事の合間合間に、現実のサイレントヒルで、消えた妻子を探すクリストファーの姿が描写され、少しずつ謎に迫って行くという構造だ。
しかし、サバイバル編はともかく、謎解きの語りはあまり上手いとは言えない。
本来は、現実世界のクリストファーが30年前の事件を解き明かし、異次元のサイレントヒルではローズたちがこの呪われた世界の謎を解き明かすのが一番すっきりするのだが、どうにも中途半端だ。
それはこの映画の世界で、全ての原因とされる少女アレッサの存在が今ひとつ明確でないからだろう。
一体なぜ彼女はそれほどまでに忌み嫌われたのか?(一応理由らしいものは示されてはいるのだが、どうもあれだけでは説得力に欠ける)
彼女の事件と街を壊滅させた火災とはどうリンクするのか?(これは劇中で説明が無い)
異次元のサイレントヒル、そしてそこに「閉じ込められた人々」とアレッサの関係も今ひとつ不明瞭だ。
謎解きが謎解きになっておらず、最終的には狂信者を罰して終わりと言う風になってしまっているので、消化不良化は否めない。
これでアレッサがキャリーや貞子の様な「定め」を持って生まれてきているなら、説得力もあるのだが、説明が無いのでなんとも言えない。
あとキャラクターも、感情の流れに基づいてしっかりと作られているとは言いがたく、行き当たりばったりな無茶な行動が目に付く。
ローズがなぜ夫に黙ってシャロンを連れ出したのかわからないし、警官をブッチしたり、状況も判らない中手錠のまま逃げ出したり、情緒不安定なのは娘じゃなくてアンタでは?と思ってしまうような行動が多い。
これはローズだけではなくて、他のキャラクターも同様で、感情の流れではなくて、状況を展開させるために動いている様な印象がある。
まあそのあたりもゲーム的と言えばそうなのだが。
「サイレントヒル」は、良くも悪くも世界観によって支えら得ている映画だ。
お化け屋敷のムードを味わう分にはよく出来ているが、クリストフ・ガンズはストーリーテラーとしてはあまり有能ではない。
それでも、ゲームの世界観を映画で楽しむという用途においてはよく出来ていると思うし、「アザーズ」を思わせる秀逸なラストも余韻がある。
脚本さえもうちょっと練り込めば傑作となっただろうに、少し残念だ。
ちなみに、開拓を繰り返して広がってきたアメリカ合衆国には、けっこうな数のゴーストタウンがある。
私の住んでいた街の近くにも、100年くらい前に放棄された小さな村の跡があり、学生時代に(立ち入り禁止だったけど)肝試しに行ったことがある。
残念ながら(?)幽霊には合えなかったけど。
今回は、そのゴーストタウンからもさほど遠くない、サイレントヒルならぬ「ストーニー・ヒル・シャルドネ」を。
カリフォルニアというよりもフランス的な適度な酸味のある大人な白ワイン。
霧の中に曖昧に消えた映画の余韻も、キリリと引き締めてくれそうだ。
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![【40%OFF】特価ストーニー・ヒル・シャルドネ[1997]](http://image.rakuten.co.jp/wshop/data/ws-mall-img/wassys/img64/img10101663544.jpeg)
ストーニー・ヒル・シャルドネ[1997] ¥4800
私はゲームの1が出た頃、ちょっとやった事があるくらいで、正直あんまり覚えていないけど、世界観や雰囲気はなかなか上手く再現している様に思う。
※以下かなりネタバレしてます。
ローズ(ラダ・ミッチェル)は養女のシャロン(ジョデル・フェルランド)の夢遊病に悩まされていた。
意識の無い状態でシャロンが口走る「サイレントヒル」という言葉。
それは30年前に、火災によって多くの犠牲者を出し、廃棄されたゴーストタウンの事だった。
サイレントヒルのあった場所が、シャロンが捨てられた孤児院に近い事を知ったローズは、夫のクリストファー(ショーン・ビーン)に黙って、シャロンと二人でサイレントヒルを目指す。
途中、二人の様子を怪しんだ白バイ警官(ローリー・ホールデン)に追われたローズは、飛び出して来た人影を避けようとして、事故を起こしてしまう。
目が覚めたとき、助手席にいたはずのシャロンの姿は消えていた。
白い灰が降りしきる、サイレントヒルの廃墟でシャロンを探すローズだったが、不気味なサイレンが鳴り響くと、暗闇のあちこちから人間とも怪物ともつかないクリーチャーが出現する。
ローズは追ってきた白バイ警官のベネットの協力を得て、このサイレントヒルの謎を解き、
シャロンを探そうとするのだが・・・・
監督は「ジェヴォーダンの獣」のクリストフ・ガンズ。
前作でも映画全体の出来は別として、中世フランスの退廃的なムードやビジュアルのディティールの作りこみは大した物だったが、その特質はこの作品でも生きている。
この映画の主役は実はローズでもシャロンでもなく、タイトルロールにもなっているサイレントヒルという街その物だ。
この映画でローズたちが迷い込むのは、現実とは違う次元のサイレントヒル。
そこは30年前の事件の「罪」のために現れた、現世とあの世の狭間の世界だ。
複雑に入り組んだ街を霧とも煙とも突かない靄が覆いつくし、絶え間なく雪のような灰が降りしきる。
そしてサイレンが鳴って地獄との境界が取り払われると、街は闇に包まれ恐ろしいクリーチャーが跋扈する。
この世界観の構築はかなりよく出来ていて、ムード満点。
所謂「お化け屋敷物」で、家が主役となるホラー映画は数多いが、これは街全体が巨大なお化け屋敷の様な状況を描いた作品なのだ。
お化け屋敷を飾るクリーチャーたちも、ゲームからいるキャラクターなのか、映画のオリジナルかは覚えていないが、かなりおぞましい造形で、怖い。
恐らく幽霊の動きに暗黒舞踏を取り入れた日本のホラー映画の影響だろうが、クリーチャーたちの身悶えるような動きも、いかにも内側に憎しみや苦しみを秘めていそうで効果的だ。
へたに不意打ちや音でビックリさせようとしていない分、暗闇から湧いて出てくる様なクリーチャーを使った恐怖演出はなかなかの出来栄えだと思う。
同じくゲームを原作とする「バイオハザード」シリーズが、ゾンビ映画からの派生進化系なら、こちらは正統派のお化け屋敷ホラーの進化系と言える。
物語の構成は、前半後半で別の映画の様に別れている。
前半は訳も判らずサイレントヒルに放り込まれた主人公たちが、闇のクリーチャーたちから逃げ回るサバイバル編。
後半は、このサイレントヒルに閉じ込められている人間たちに出会い、30年前の呪いを完結させる謎解き編だ。
この異次元のサイレントヒルでの出来事の合間合間に、現実のサイレントヒルで、消えた妻子を探すクリストファーの姿が描写され、少しずつ謎に迫って行くという構造だ。
しかし、サバイバル編はともかく、謎解きの語りはあまり上手いとは言えない。
本来は、現実世界のクリストファーが30年前の事件を解き明かし、異次元のサイレントヒルではローズたちがこの呪われた世界の謎を解き明かすのが一番すっきりするのだが、どうにも中途半端だ。
それはこの映画の世界で、全ての原因とされる少女アレッサの存在が今ひとつ明確でないからだろう。
一体なぜ彼女はそれほどまでに忌み嫌われたのか?(一応理由らしいものは示されてはいるのだが、どうもあれだけでは説得力に欠ける)
彼女の事件と街を壊滅させた火災とはどうリンクするのか?(これは劇中で説明が無い)
異次元のサイレントヒル、そしてそこに「閉じ込められた人々」とアレッサの関係も今ひとつ不明瞭だ。
謎解きが謎解きになっておらず、最終的には狂信者を罰して終わりと言う風になってしまっているので、消化不良化は否めない。
これでアレッサがキャリーや貞子の様な「定め」を持って生まれてきているなら、説得力もあるのだが、説明が無いのでなんとも言えない。
あとキャラクターも、感情の流れに基づいてしっかりと作られているとは言いがたく、行き当たりばったりな無茶な行動が目に付く。
ローズがなぜ夫に黙ってシャロンを連れ出したのかわからないし、警官をブッチしたり、状況も判らない中手錠のまま逃げ出したり、情緒不安定なのは娘じゃなくてアンタでは?と思ってしまうような行動が多い。
これはローズだけではなくて、他のキャラクターも同様で、感情の流れではなくて、状況を展開させるために動いている様な印象がある。
まあそのあたりもゲーム的と言えばそうなのだが。
「サイレントヒル」は、良くも悪くも世界観によって支えら得ている映画だ。
お化け屋敷のムードを味わう分にはよく出来ているが、クリストフ・ガンズはストーリーテラーとしてはあまり有能ではない。
それでも、ゲームの世界観を映画で楽しむという用途においてはよく出来ていると思うし、「アザーズ」を思わせる秀逸なラストも余韻がある。
脚本さえもうちょっと練り込めば傑作となっただろうに、少し残念だ。
ちなみに、開拓を繰り返して広がってきたアメリカ合衆国には、けっこうな数のゴーストタウンがある。
私の住んでいた街の近くにも、100年くらい前に放棄された小さな村の跡があり、学生時代に(立ち入り禁止だったけど)肝試しに行ったことがある。
残念ながら(?)幽霊には合えなかったけど。
今回は、そのゴーストタウンからもさほど遠くない、サイレントヒルならぬ「ストーニー・ヒル・シャルドネ」を。
カリフォルニアというよりもフランス的な適度な酸味のある大人な白ワイン。
霧の中に曖昧に消えた映画の余韻も、キリリと引き締めてくれそうだ。

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2006年07月04日 (火) | 編集 |
J.J.エイブラムスって誰?
96年に第一作が公開されたトム様プロモーション映画の第三作。
このシリーズは一作目がブライアン・デ・パルマ、二作目がジョン・ウーと、当代切っての個性派監督を起用してきたが、今回は何故か知らない人。
調べてみると、TVドラマの「LOST」などで注目を集めた人物のようだ。
癖のある作家監督との共同作業に嫌気がさしたのか、それとも映像が派手過ぎると自分が霞んでしまうと思ったのか、シリーズのプロデューサーを兼ねるトム・クルーズの胸の内は判らない。
エイブラムスに決まるまでには紆余曲折あったようだが、いずれにしてもいきなり地味な人選になった感は否めない。
アメリカでの評を観ても、これはあんまり期待できないかなあと思っていたのだが、実際に観てみるとこれがなかなか良く出来た娯楽映画だった。
IMF(インポッシブル・ミッション・フォース)エージェント、イーサン・ハント(トム・クルーズ)は、現場を引退し教官としての任務についている。
医師のジュリア(ミッシェル・モナハン)とも結婚したばかり。
ある日、自分の教え子であるエージェント・ファリス(ケリー・ラッセル)が、武器商人であるダビアン(フィリップ・シーモア・ホフマン)の手に落ちたので、救出して欲しいという依頼を受ける。
ドイツに飛んだハント達は、ファリスの救出に成功するが、頭に埋め込まれた小型時限爆弾によって、ファリスは殺されてしまう。
教え子を殺されたハントは、パーティに出席するためにバチカンを訪れたダビアンを拉致。
ダビアンが「ラビットフット」という謎の武器の取引を計画している事を知る。
アメリカに到着してダビアンを護送するハント達だったが、そこにファリスが秘密裏にハントに送った通信が解読されて届く。
そこにはIMFのブラッセル局長(ローレンス・フィッシュバーン)こそが、ダビアンと通じている裏切り者だと告げられていた・・・・
冒頭から緊迫感が持続する。
映画は、捕らえられたイーサン・ハントが、妻を人質にとられて脅迫されているシーンから幕を開ける。
一度主人公が苦境に陥った状態を見せてから、時間を溯って物語を展開する手法だ。
観客としては、クライマックスの一歩手前を既に観てる訳だから、一体何時・何故主人公があんな状態に陥るのだろうと言う興味で物語りに入り込む。
斬新ではないが、巧い導入だ。
力の入った数々のアクションシーンも迫力満点。
エイブラムスのアクション演出には、ジョン・ウーの様なけれん味は無いが、割るべきところでカットを割り、動かすべきところで人間やカメラをしっかりと動かす、いわば教科書通りの正しいアクション。
映像的なメリハリには乏しいが、下手にCGCGしたあり得ない動きや、やたらカット割りが細かくて何が起こっているのかも判らないような、今風演出よりずっと良い。
トム・クルーズの体を張ったアクションも映える。
特に中盤の、橋の上での攻防戦は、空vs地上を中心した立体的な大アクションで非常に見応えがある。
また上海の街中での、追っ手との激しいカーチェイス中に、時間までに電話しなければ妻が殺されてしまうのに、電波が届かないというサスペンスを加えて、二つのスリルの相乗効果で盛り上げるなど、小技の効かせ具合もなかなか見事だ。
物語の味付けで言えば、今回はイーサン・ハントのキャラクターも、引退し結婚した元スパイという前二作とは違った設定となっている。
「守るべき者」を持ってしまった、非情の世界の男という志向なのだが、この辺りは昨年からすっかり恋愛モードになってしまったトム本人とかぶって微笑ましい。
この恋愛感情を含めたキャラクターの心情は、多少ベタながらしっかりと手抜きなしで描かれていて、これが良い意味で作品の重みとなっている。
キャラクターの感情が描かれていない作品は、どんなに描写が凄くても、無機質な印象になってしまうが、イーサン・ハントはじめ「M.i.Ⅲ」のキャラクターには血が通っている。
しかし手放しで絶賛も出来ない。
派手なアクションと、力技の展開でグングン進めていくが、全体を通してみるとトム達が何をやっているのか今ひとつ良く判らない。
今回のミッションは人質と引き換えに「ラビットフット」という謎のアイテムを奪取する事と、組織内の裏切り者との対決という二つの要素があるのだが、このどちらもが曖昧なまま物語が推移してしまう。
主人公が自分でも何かわからない物(この映画の場合「ラビットフット」。元ネタはヒッチね)に振り回されると言うのは、サスペンス映画には良くある展開ではあるが、それならもう少し悪役をビシッと立てておくべきだった。
お話の前半は武器商人のダビアンという明確な悪役がいるのだが、話が進むにつれてダビアンはそれほど重要ではなく、組織内の裏切り者の方がどちらかと言うとボスキャラだという展開になる。
ところがこのキャラクターがあんまり悪役らしい悪役でないので、肝心のクライマックスが締らない。
そこまでが派手だっただけに、身内でドタバタしてるうちに地味に終ってしまった印象だ。
それに、よく考えると悪役達の行動原理にも矛盾が沢山。
観ているうちは展開の早さで誤魔化されたが、後から考えるとサスペンス物としての脚本は結構荒い。
ハントから聞き出そうとしてた事は、無線を聞いていたなら既に知ってるはずだし、確かめるだけなら、わざわざリスクを犯してまであんな行動に出る必要は無かったはず。
大体ハントが誘いに乗らなかったら、どうやってラビットフットを手に入れるつもりだったのだろうか。
この辺りの矛盾の多さも、全体としての満足感をスポイルする要因となっていると思う。
誰が本当の敵か判らないというところでサスペンスを盛り上げているので、やむを得ない部分はあるのだが、今回はミッション中身自体が明確でなく、うやむやのまま力技で進められてしまった感がある。
せっかくダビアンという中々魅力的な悪役を用意したのだから、物語をもう少し整理して、ハントとダビアンの心理戦を含む戦いに絞ればもっとすっきりとしたと思う。
まあ突っ込みどころは残るものの、手間とお金のたっぷり掛かった大作である。
何だかんだ言っても、トム・クルーズにはお金を出しても良いスターの華があるし、しっかりと払った分は楽しませてくれる。
夏休みに涼を取りながら観る娯楽としては、十分な出来だと思う。
映画の後はスッキリしたビールが合うだろう。
スペインのビール、「クルーズカンポ」と洒落てみる。
強い特徴は無いが、メキシコビールに似た感じで、ライトで飲みやすい中にも適度に引っかかるコクがある。
スペイン料理屋でピンチョスでもつまみに軽く酔っ払おう。
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96年に第一作が公開されたトム様プロモーション映画の第三作。
このシリーズは一作目がブライアン・デ・パルマ、二作目がジョン・ウーと、当代切っての個性派監督を起用してきたが、今回は何故か知らない人。
調べてみると、TVドラマの「LOST」などで注目を集めた人物のようだ。
癖のある作家監督との共同作業に嫌気がさしたのか、それとも映像が派手過ぎると自分が霞んでしまうと思ったのか、シリーズのプロデューサーを兼ねるトム・クルーズの胸の内は判らない。
エイブラムスに決まるまでには紆余曲折あったようだが、いずれにしてもいきなり地味な人選になった感は否めない。
アメリカでの評を観ても、これはあんまり期待できないかなあと思っていたのだが、実際に観てみるとこれがなかなか良く出来た娯楽映画だった。
IMF(インポッシブル・ミッション・フォース)エージェント、イーサン・ハント(トム・クルーズ)は、現場を引退し教官としての任務についている。
医師のジュリア(ミッシェル・モナハン)とも結婚したばかり。
ある日、自分の教え子であるエージェント・ファリス(ケリー・ラッセル)が、武器商人であるダビアン(フィリップ・シーモア・ホフマン)の手に落ちたので、救出して欲しいという依頼を受ける。
ドイツに飛んだハント達は、ファリスの救出に成功するが、頭に埋め込まれた小型時限爆弾によって、ファリスは殺されてしまう。
教え子を殺されたハントは、パーティに出席するためにバチカンを訪れたダビアンを拉致。
ダビアンが「ラビットフット」という謎の武器の取引を計画している事を知る。
アメリカに到着してダビアンを護送するハント達だったが、そこにファリスが秘密裏にハントに送った通信が解読されて届く。
そこにはIMFのブラッセル局長(ローレンス・フィッシュバーン)こそが、ダビアンと通じている裏切り者だと告げられていた・・・・
冒頭から緊迫感が持続する。
映画は、捕らえられたイーサン・ハントが、妻を人質にとられて脅迫されているシーンから幕を開ける。
一度主人公が苦境に陥った状態を見せてから、時間を溯って物語を展開する手法だ。
観客としては、クライマックスの一歩手前を既に観てる訳だから、一体何時・何故主人公があんな状態に陥るのだろうと言う興味で物語りに入り込む。
斬新ではないが、巧い導入だ。
力の入った数々のアクションシーンも迫力満点。
エイブラムスのアクション演出には、ジョン・ウーの様なけれん味は無いが、割るべきところでカットを割り、動かすべきところで人間やカメラをしっかりと動かす、いわば教科書通りの正しいアクション。
映像的なメリハリには乏しいが、下手にCGCGしたあり得ない動きや、やたらカット割りが細かくて何が起こっているのかも判らないような、今風演出よりずっと良い。
トム・クルーズの体を張ったアクションも映える。
特に中盤の、橋の上での攻防戦は、空vs地上を中心した立体的な大アクションで非常に見応えがある。
また上海の街中での、追っ手との激しいカーチェイス中に、時間までに電話しなければ妻が殺されてしまうのに、電波が届かないというサスペンスを加えて、二つのスリルの相乗効果で盛り上げるなど、小技の効かせ具合もなかなか見事だ。
物語の味付けで言えば、今回はイーサン・ハントのキャラクターも、引退し結婚した元スパイという前二作とは違った設定となっている。
「守るべき者」を持ってしまった、非情の世界の男という志向なのだが、この辺りは昨年からすっかり恋愛モードになってしまったトム本人とかぶって微笑ましい。
この恋愛感情を含めたキャラクターの心情は、多少ベタながらしっかりと手抜きなしで描かれていて、これが良い意味で作品の重みとなっている。
キャラクターの感情が描かれていない作品は、どんなに描写が凄くても、無機質な印象になってしまうが、イーサン・ハントはじめ「M.i.Ⅲ」のキャラクターには血が通っている。
しかし手放しで絶賛も出来ない。
派手なアクションと、力技の展開でグングン進めていくが、全体を通してみるとトム達が何をやっているのか今ひとつ良く判らない。
今回のミッションは人質と引き換えに「ラビットフット」という謎のアイテムを奪取する事と、組織内の裏切り者との対決という二つの要素があるのだが、このどちらもが曖昧なまま物語が推移してしまう。
主人公が自分でも何かわからない物(この映画の場合「ラビットフット」。元ネタはヒッチね)に振り回されると言うのは、サスペンス映画には良くある展開ではあるが、それならもう少し悪役をビシッと立てておくべきだった。
お話の前半は武器商人のダビアンという明確な悪役がいるのだが、話が進むにつれてダビアンはそれほど重要ではなく、組織内の裏切り者の方がどちらかと言うとボスキャラだという展開になる。
ところがこのキャラクターがあんまり悪役らしい悪役でないので、肝心のクライマックスが締らない。
そこまでが派手だっただけに、身内でドタバタしてるうちに地味に終ってしまった印象だ。
それに、よく考えると悪役達の行動原理にも矛盾が沢山。
観ているうちは展開の早さで誤魔化されたが、後から考えるとサスペンス物としての脚本は結構荒い。
ハントから聞き出そうとしてた事は、無線を聞いていたなら既に知ってるはずだし、確かめるだけなら、わざわざリスクを犯してまであんな行動に出る必要は無かったはず。
大体ハントが誘いに乗らなかったら、どうやってラビットフットを手に入れるつもりだったのだろうか。
この辺りの矛盾の多さも、全体としての満足感をスポイルする要因となっていると思う。
誰が本当の敵か判らないというところでサスペンスを盛り上げているので、やむを得ない部分はあるのだが、今回はミッション中身自体が明確でなく、うやむやのまま力技で進められてしまった感がある。
せっかくダビアンという中々魅力的な悪役を用意したのだから、物語をもう少し整理して、ハントとダビアンの心理戦を含む戦いに絞ればもっとすっきりとしたと思う。
まあ突っ込みどころは残るものの、手間とお金のたっぷり掛かった大作である。
何だかんだ言っても、トム・クルーズにはお金を出しても良いスターの華があるし、しっかりと払った分は楽しませてくれる。
夏休みに涼を取りながら観る娯楽としては、十分な出来だと思う。
映画の後はスッキリしたビールが合うだろう。
スペインのビール、「クルーズカンポ」と洒落てみる。
強い特徴は無いが、メキシコビールに似た感じで、ライトで飲みやすい中にも適度に引っかかるコクがある。
スペイン料理屋でピンチョスでもつまみに軽く酔っ払おう。

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