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ゲド戦記・・・・・評価額1050円
2006年07月30日 (日) | 編集 |
「指輪物語」「ナルニア国物語」に並ぶ三大古典ファンタジーの一つ、アシューラ・K・ル=グィン原作「ゲド戦記」シリーズ初の映画化・・・・ではない。
一応、原作の三巻「さいはての島へ」をベースとしてはいるが、はっきり言って別物だ。
映画「ゲド戦記」の英語タイトルは「Tales from Earthsea」となっている。
「A Wizard of Earthsea」(第一巻「影とのたたかい」) でも、「The Farthest Shore」(第三巻「さいはての島へ」)でもない。
エンドクレジットを見ると、原作「ゲド戦記」の他に、原案として宮崎駿が二十年ほど前にアニメージュ文庫から出した「シュナの旅」がクレジットされている。
要するにこれは、「ゲド戦記」シリーズの世界観をベースに、「シュナの旅」の要素などをミックスして作り出したオリジナルの物語なのだ。
「Tales from Earthsea」という、原作に存在しないタイトル(※)がそれを物語っている。
(※:私は未読だが、「ゲド戦記三部作」から30年後の2001年に出版された短編集「ゲド戦記外伝」が「Tales from Earthsea」のタイトルであるらしい。勿論今回の映画とは無関係だが、これも「外伝」みたいな物と認識してくれという事だろうか)

長く人と交わる事の無かった竜が、再び人の世に出現した時代。
世界の秩序が崩れそうになっている事を感じた大賢人ゲド(通名ハイタカ:菅原文太)は、砂漠で一人の少年を拾う。
少年は父王を殺し、国を捨てて逃げてきた王子アレン(岡田准一)。
彼はもう一人の自分である「影」に怯えていた。
古い友人のテナー(風吹ジュン)を訪ねたゲドとアレンは、顔にやけどの跡のある少女手テルー(手嶌 葵 )と出会う。
その頃、永遠の命を求める邪悪な魔法使クモ(田中裕子)は、ゲドとアレンの存在に気付いていた・・・


この作品の最大の話題は、やはり宮崎駿の息子である宮崎吾朗が初監督をしている事だろう。
偉大な父親に、スタジオジブリという同じ土俵で戦いを挑んだ度胸はある意味凄いと思うが、それと映画の出来は別の話。
一言でいって、非常に真面目な作りではあるのだが、明らかな経験不足は、ジブリのベテランスタッフを持ってしてもカバーしきれていない。
宮崎吾朗が、どこまで「監督」としての権限を行使していたのかは判らないが、脚本の構造、キャラクターの造形、演出のあらゆる部分が「今ひとつ」というレベルに留まっているのは確かだ。
やりたい事は判るのだが、それを表現できていないのだ。

物語は、まるでシリーズ物の途中であるかのように(実際そうなんだけど)スタートするのだが、世界観やキャラクターの背景は描かれない。
原作をいじりすぎて「ゲド戦記」とは言えなくなってしまっているにも関わらず、この部分は原作読者は脳内補完してくれという感じだ。
話自体はシンプルなので、原作未読者でも何とかついて行けるだろうが、この原作へのスタンスの不明瞭さは作品全体に影を落とす。
そもそもこれは「ゲド戦記」を名乗る意味があったのだろうが。
何しろ主人公がゲドという「まことの名」を明かす事すらないのだから、原作のネームバリューというビジネス的な意味以外に、「ゲド戦記」である必然性を感じない。
宮崎吾朗と丹羽圭子による脚本は、前半は淡々としたロードムービー、後半はアクションファンタジーの形を取る。
話自体は滞りなく流れていくのだが、描かれてるドラマにテーマが結びつかない。
物語がテーマを語れていないのだ。
ではどうやってテーマを語っているのかというと、言いたい事は全て台詞で語ってしまう。
台詞を言わせるためにシチュエーションを作り、強引に台詞を引き出しているので、物語から台詞が浮いている。
予告編で散々見せられた「命を大切にしない奴なんて、大嫌いだ!」というテルーの台詞や、ゲドがこのシリーズのキモである「まことの名」の秘密を語るシーンも、え?そこで言うかという唐突さがあった。
百歩譲って台詞でテーマを語るのも一つの手法としてアリだと考えたとしても、物語の流れに乗っていないから、せっかくの台詞が印象に残らないのだ。

物語も原作を色々いじったのは良いが、逆に混乱して映画だけ観ると辻褄が合わなくなってしまっている部分も多い。
アレンが恐れる「影」が結局何なのか、映画を見ただけでは良く判らないし(しかも影の解釈を原作から変えてしまっている)、何故父を殺したのかも良く判らない。
世界全部がおかしくなっているのに、アレンにだけ影が出現した意味も示されない。
クモは何故わざわざリスクを犯してアレンをたぶらかし、ゲドとテナーを殺そうとしたのか判らない。
永遠の命への魔法は別に三人と関係なく、クモは最終的に三人を殺そうとしただけだから、映画を見ただけではクモが自滅したようにしかみえない。
「ゲド戦記」の世界を特徴付ける「まことの名」の秘密も殆ど生かされていない。
たぶん映画だけ観た人は、「まことの名」がどんな意味を持つのかもよく判らないのではないか。
「まことの名」に関しては、「千と千尋の神隠し」でもアイディアをいただいていたが、あっちの方がビジュアル的で判りやすかった様な気がする。
更に物語において、竜の出現がどんな意味を持っていたのかは結局説明されない。
クライマックスのテルーの扱いに至っては、殆どギリシャ悲劇の「機械仕掛けの神(※)」である。
いくらなんでもあれは無いだろう。
強引に落している様で、実は物語的には全く落ちていない。
全体に脚本は、とりあえずお話を進めるのに精一杯で、物語の中で自然にテーマを語ったり、キャラクターを深く掘り下げるというレベルには達してない。
(※:複雑で収集困難な物語の結末に、突然絶対的な神の様な存在が現れ、無理やり話を纏めてしまう事を指す演劇用語)

作品の映像的なクォリティは流石に高い。
制作期間の短さからか、過去の宮崎駿作品に比べれば若干荒い部分も残っているのだが、それでもこれだけ仕上げてくるのはやはり凄い。
ただ、ここでも一体描いているのが何なのか、「ゲド戦記」なのか違うのかが映像のベクトルを迷わせている。
優れたファンタジーは、その世界観で観客を魅了するものだ。
「ロード・オブ・ザ・リング」がそうだったし、宮崎駿の「ナウシカ」や「ラピュタ」や「千と千尋」もそうだった。
だが、この作品のEarthseaは、ただのヨーロッパの中世の街にしか見えず、異世界の魅力が殆んど無い。
原作の世界から想像できるビジュアルとは明らかに違うし、違うなら違うでこの作品ならではの異世界が出来ていれば良いのだが、この世界からはそういう想像力を感じることが出来ない。
あえて言えば、過去のジブリ作品の美術の焼き直しに過ぎない。

だが、動きのある部分の生き生きした表現は流石で、特にクライマックスのアクションシークエンスは、三次元の空間演出も見事で良く出来ている。
アニメーションならではのビジュアル表現もユニークで、手に汗握るなかなかの名シーンだ。
もっとも、この部分をして宮崎吾朗という演出家を評価して良いものかは判らない。
彼がこの作品の「監督」としての仕事をどの程度やっているのか判らないからだ。
実写映画の場合、ぶっちゃけ監督がド素人で何も指示出来なくても、それなりに優秀な助監督とカメラマンがいれば映画は出来る。
実写は対象物が目の前にあるので、極端な話、監督は撮りたい物のイメージを伝えればそれで事足りるのだ。
実際、そうして作られた映画も少なからずある。
しかし、ゼロから全てを作るアニメーションの場合はそうはいかない。
監督がしっかりと頭の中に完成作品を持っていないと、何も始まらないのだ。
そしてスタッフに伝え、指示するべき項目は、実写とは比較にならないくらい多い。
純粋な技術論として、全くの素人がアニメーションを100%監督するのは不可能だ。
現実的にはコンテ、或いはストーリーボードの段階で、宮崎吾朗のイメージをまともな作品に見える様にするための、直しの作業が行われたはずで、その後の段階でどの程度彼のイメージが残っていたのかは判らない。
特にアクションシークエンスは、担当アニメーターの力量がそのまま出る部分だし、カット割りを含めて、クライマックスが宮崎吾朗らしいと言うより、実に宮崎駿らしい仕上がりなのは何とも皮肉だ。

映画「ゲド戦記」は、何となく「キャシャーン」を思わせる映画だった。
勿論作品のスタイルはまるで違うのだが、どちらも素人監督による、よく知られた原作を持つ大作映画で、出来上がったものは原作とは別物になっていた。
そしてどちらもテーマへの取り組みの姿勢は真摯だが、それを表現できていない。
キャシャーンの紀里谷監督はひたすら映像の力を信じ、映像で全てを物語れると信じて玉砕。
「ゲド戦記」の宮崎吾朗は、もう少し物語の重要性を知っていた様だが、それを伝える技術をあまりにも知らなかった様だ。
考えてみれば、超一流レストランで、ホールマネージャーがいきなりシェフをやったような物。
いくら厨房スタッフが優秀でも、シェフの作ったレシピのポテンシャルまではカバーできない。
味は作る前から想像できた。
もし次もやるなら、もう少し脚本・演出のイロハを勉強してからやるべきだろう。
最近、良くも悪くもすっかり世界を斜めから見つめる様になってしまった宮崎駿の世界より、よりストレートな宮崎吾朗的な世界を好む観客層は確実にいるはずだ。
後はそれをいかに物語るかである。

少々辛口になってしまったが、今回はジブリからもさほど遠くない東京の地酒、澤乃井の「大辛口」を(笑
その名の通り辛口だが、すっきり飲みやすくて夏向きだ。
映画もこの位ピリリとしていたら良かったのだが。

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