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2006年08月16日 (水) | 編集 |
何とロマンチックな映画だろうか。
ほぼ20年ぶりに蘇った元祖アメリカンヒーロー「スーパーマン・リターンズ」は、正しくファンが待ち望んでいた形で帰って来た。
’78年に発表された「スーパーマン」は、リチャード・ドナー監督以下、原案・共同脚本マリオ・プーゾ、美術ジョン・バリー、音楽ジョン・ウィリアムズと、70年代を代表するスタッフが送りだしたSFアドベンチャーの古典にして、過去何度も映像化された「スーパーマン」の決定版だ。
バットマンなどと違って素顔を常に晒しているスーパーマンの復活は、一歩間違えるとファンから総スカンを喰らう危険性を孕んでいる。
しかし、熱烈なスーパーマンファンであるという、ブライアン・シンガー監督入魂の「スーパーマン・リターンズ」は、オリジナルを内包しつつ、現代的なテーマ性と最新テクノロジーによるダイナミックな映像を加えられ、見事な復活作となったと思う。
スーパーマンことクラーク・ケント(ブランドン・ラウス)が地球を去ってから五年。
故郷クリプトン星を探す旅の果てに、スーパーマンは地球に帰って来た。
久しぶりにデイリープラネット社に出社したクラークだったが、想いを寄せていたロイス・レイン(ケイト・ボスワース)はなんと既に一児の母。
しかも「スーパーマン不要論」でピューリッツア賞を受賞していた。
複雑な思いを抱えるクラークだったが、ロイスの乗った飛行機に事故が発生。
スーパーマンに変身したクラークは、間一髪でロイスを救出する。
再会した二人だったが、五年間の時間はそう簡単には埋まらない。
同じ頃、刑務所を出所したレックス・ルーサーは、北極圏にあるスーパーマンの「孤独なる砦」からクリプトン星の知識を治めたクリスタルを盗み出していた・・・
物語は「スーパーマン2/冒険編」でスーパーマンが地球を去ってから5年後という設定になっている。
なぜかギャグに走って、ファンの間で評判の悪い「スーパーマン3/電子の要塞」と、予算不足でB級テイスト漂う「スーパーマン4/最強の敵」は無かった事にされているが、まあ妥当な判断だろう。
監督のブライアン・シンガーは、自ら育て上げた「X-MEN3」を蹴ってまで、こちらを撮りたかった程のファンだから、流石に「スーパーマン」のツボを知っている。
続編の形をとってはいるが、物語的にはリメイクの色彩も濃い。
オープニングで、宇宙空間に懐かしいスリットスキャン映像のクレジットタイトルが登場し、ジョン・ウィリアムズのテーマ曲が響いた瞬間、もうオールドファンは胸の高鳴りを覚えてしまう。
悪役にレックス・ルーサーを持ってくるあたりや、旧作でスーパーマンの父・ジョー=エルを演じたマーロン・ブランドの、映像と音声での再登場、回想シーンで描かれるスーパーマンの少年時代やクリプトン星の最後など、リチャード・ドナー監督による第一作のテイストをあえて再現している。
大西洋に新大陸を作ってアメリカを沈めてしまうという、ルーサーの凄いんだかマヌケなんだかよく判らない悪の計画も、一作目でルーサーが企んだカリフォルニア沈没計画を思わせる。
物語の筋立ても最近のマーベル系アメコミ映画にくらべると、ある程度おおらかで荒唐無稽。
リアリズムに基づいて、物語を厳密に考えれば、突っ込みどころはいくらでもある。
元々スーパーマンというキャラクター自体が、普通に素顔を晒しているのに、眼鏡をかけて髪形を変えただけで誰も気付かないという、あり得ない設定なので、リアリズムを追求するような作りには向いてないのだ。
シンガーはそのあたりをしっかりと心得ていて、ウソがリアルで通じるスーパーマン世界を作りこんでいる。
一言で言えば、ロマンチックで牧歌的。
作品のリズムも、少々クラシックなゆったりとした物で、アクションシーンも最近のハリウッドアクションの様に細かいカットを繋ぐやり方はしていない。
細切れの映像で強引に見せるのではなく、一カットの中で、何が起こっているのかしっかりと見せる。
シンガー自身の「X-MEN」シリーズと比べても、全体のテンポは明らかにスローだ。
しかしスローテンポとは言っても、単に無駄なカットや間延びしたカットが多くてスローなのとは違う。
いわば計算されたスローテンポであって、観客をスーパーマンの世界に自然に誘うための「映画的時間」なのだ。
現代の映画的テンポに慣れてしまった観客の中には、もしかしたらこの作品のテンポを「たるい」と感じる人もいるかもしれないが、私はこのハリウッド黄金時代を思わせる適度にゆったりしたテンポにすっかり魅了されてしまった。
勿論、単に懐古趣味に走っただけの作品ではない。
旧作に最大限のリスペクトを捧げつつ、テーマ性や映像表現では「今」を追及している。
最初のアメリカンヒーロとも言うべきスーパーマンは、言わばアメリカの善意のメタファーだ。
元々アメリカは、迫害された清教徒たちが自由と博愛を求めて作り上げた実験的な国であり、国の始まりが理想主義からスタートしているのである。
勿論その歴史が必ずしも理想通りではなく、むしろ暴力と血に塗れているのも周知の事実ではあるが、自由・博愛・平等に基づく善意の精神は、多くのアメリカ人にとって理想であり、無償の善意が尊ばれる社会である事には変わりがない。
ところが、スーパーマンが地球を離れている間に、世界は変わってしまった。
9.11が起こり、善意のアメリカは世界中で嫌われ者になり、猜疑心が敵を生むという悪循環に陥ってしまっている。
善意は利権の衣に包まれ、当のアメリカ人自身が、自分達の価値観に対して疑念を抱くようになってしまった。
地球に帰って来たスーパーマンを迎えるのが、ロイス・レインの執筆した「スーパーマン不要論」なのは象徴的だ。
帰って来たスーパーマンは、自分の存在意義に悩むが、結局導き出したものは原点回帰だった。
愚直なまでの無償の善意。
今回のスーパーマンは、いつの間にか暗闇に迷ってしまい、善意の本質に帰ろうとするアメリカのメタファーである。
傷つき、倒れても、人々のために行動しようとするスーパーマンは、アメリカが本来理想としていたはずの美しいキリスト教的精神そのものなのだ。
映像的に特筆すべきは、旧作では技術的に限界のあったスーパーマンの飛翔感で、優美な軌跡を描くカメラワークと共に、実に見事なものとなっている。
まるで頬を撫ぜる風すら感じられそうで、これほどの飛翔感を映像で表現したのは、宮崎駿のアニメ以来ではないだろうか。
お約束のロイス・レインとの空中デートのシーンも、なんとも美しくロマンチックに仕上がっている。
故クリストファー・リーヴからバトンを受け継ぎ、新世代のスーパーマンを演じるブランドン・ラウスは、どことなく面影がリーヴに似ている。
今、リーヴのスーパーマンが、人々の頭にあるスーパーマンのスタンダードである事を考えれば、これは納得。
登場した瞬間から、ラウスのスーパーマンは違和感無く観客に受け入れられるだろう。
ロイス・レインを演じるケイト・ボスワースは、チャーミングだがちょっと気が強そうな顔立ち。
実は旧作のキャスティング最大の欠点といわれたのが、マーゴット・キダーが演じたロイス・レインだった。
彼女自身は優れた女優なのだが、どちらかというとホラー映画のスクリーミングクィーンの印象が強く、神経質そうな顔立ちもあまり「ロイス・レイン」ぽくは無かった。
当時のSF雑誌などでは、SWのキャリー・フィッシャーなども引き合いにだして、「何故SF映画のヒロインはブサイクなのか」などという、非常に失礼な記事があったりしたものだ。
今回のボスワースは、個人的には合格点で、「スーパーマンの彼女」に相応しいと思う。
ジーン・ハックマンからレックス・ルーサー役を受け継いだケビン・スペイシーは、全く顔は似てないが、邪悪ながらどこかマヌケで憎めないハックマンのルーサーを思い起こさせる。
キャラのイメージを壊さず、しかし自分の物にして再生させる。
オスカー俳優の、流石の名演である。
「スーパーマン・リターンズ」には、黄金時代のハリウッド映画のオーラがある。
そしてファンタジーのオブラートに包まれてはいるが、2006年の現実を全く忘れさせる作品でもない。
偶然だろうが、この作品には9.11を描いた「ユナイテッド93」を思わせるシーンが含まれている。
スーパーマンの存在しない現実の厳しさと、映画に垣間見られるロマンチックなアメリカの理想。
スーパーマンの様にありたい、というアメリカの試行錯誤はまだまだ続くのだろう。
そしてもう一つ、この作品では原作コミックでも起こった事の無い、ある意味でとてもショッキングな事実が明かされる。
それは古い物を取り込んで新しい血を作り出すという、作り手が自らに課した、この作品の隠れテーマにもつながるのだが、今後のシリーズとしての展開に大きな影響を与えそうだ。
そう、人類にとっても、映画ファンにとっても、まだまだスーパーマンは必要なのだ。
スーパーマンの舞台となるメトロポリスは、NYをイメージした架空の都市。
ならばNYの愛称である「ビッグ・アップル」で映画をしめよう。
多目の氷を入れたタンブラーにウォッカを注ぎ、アップルジュースを適量加えて軽くステアして完成。
マンハッタンの空中デートの後、カクテルで口説かれたら、誰だってスーパーマンに惚れてしまうだろう。
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ほぼ20年ぶりに蘇った元祖アメリカンヒーロー「スーパーマン・リターンズ」は、正しくファンが待ち望んでいた形で帰って来た。
’78年に発表された「スーパーマン」は、リチャード・ドナー監督以下、原案・共同脚本マリオ・プーゾ、美術ジョン・バリー、音楽ジョン・ウィリアムズと、70年代を代表するスタッフが送りだしたSFアドベンチャーの古典にして、過去何度も映像化された「スーパーマン」の決定版だ。
バットマンなどと違って素顔を常に晒しているスーパーマンの復活は、一歩間違えるとファンから総スカンを喰らう危険性を孕んでいる。
しかし、熱烈なスーパーマンファンであるという、ブライアン・シンガー監督入魂の「スーパーマン・リターンズ」は、オリジナルを内包しつつ、現代的なテーマ性と最新テクノロジーによるダイナミックな映像を加えられ、見事な復活作となったと思う。
スーパーマンことクラーク・ケント(ブランドン・ラウス)が地球を去ってから五年。
故郷クリプトン星を探す旅の果てに、スーパーマンは地球に帰って来た。
久しぶりにデイリープラネット社に出社したクラークだったが、想いを寄せていたロイス・レイン(ケイト・ボスワース)はなんと既に一児の母。
しかも「スーパーマン不要論」でピューリッツア賞を受賞していた。
複雑な思いを抱えるクラークだったが、ロイスの乗った飛行機に事故が発生。
スーパーマンに変身したクラークは、間一髪でロイスを救出する。
再会した二人だったが、五年間の時間はそう簡単には埋まらない。
同じ頃、刑務所を出所したレックス・ルーサーは、北極圏にあるスーパーマンの「孤独なる砦」からクリプトン星の知識を治めたクリスタルを盗み出していた・・・
物語は「スーパーマン2/冒険編」でスーパーマンが地球を去ってから5年後という設定になっている。
なぜかギャグに走って、ファンの間で評判の悪い「スーパーマン3/電子の要塞」と、予算不足でB級テイスト漂う「スーパーマン4/最強の敵」は無かった事にされているが、まあ妥当な判断だろう。
監督のブライアン・シンガーは、自ら育て上げた「X-MEN3」を蹴ってまで、こちらを撮りたかった程のファンだから、流石に「スーパーマン」のツボを知っている。
続編の形をとってはいるが、物語的にはリメイクの色彩も濃い。
オープニングで、宇宙空間に懐かしいスリットスキャン映像のクレジットタイトルが登場し、ジョン・ウィリアムズのテーマ曲が響いた瞬間、もうオールドファンは胸の高鳴りを覚えてしまう。
悪役にレックス・ルーサーを持ってくるあたりや、旧作でスーパーマンの父・ジョー=エルを演じたマーロン・ブランドの、映像と音声での再登場、回想シーンで描かれるスーパーマンの少年時代やクリプトン星の最後など、リチャード・ドナー監督による第一作のテイストをあえて再現している。
大西洋に新大陸を作ってアメリカを沈めてしまうという、ルーサーの凄いんだかマヌケなんだかよく判らない悪の計画も、一作目でルーサーが企んだカリフォルニア沈没計画を思わせる。
物語の筋立ても最近のマーベル系アメコミ映画にくらべると、ある程度おおらかで荒唐無稽。
リアリズムに基づいて、物語を厳密に考えれば、突っ込みどころはいくらでもある。
元々スーパーマンというキャラクター自体が、普通に素顔を晒しているのに、眼鏡をかけて髪形を変えただけで誰も気付かないという、あり得ない設定なので、リアリズムを追求するような作りには向いてないのだ。
シンガーはそのあたりをしっかりと心得ていて、ウソがリアルで通じるスーパーマン世界を作りこんでいる。
一言で言えば、ロマンチックで牧歌的。
作品のリズムも、少々クラシックなゆったりとした物で、アクションシーンも最近のハリウッドアクションの様に細かいカットを繋ぐやり方はしていない。
細切れの映像で強引に見せるのではなく、一カットの中で、何が起こっているのかしっかりと見せる。
シンガー自身の「X-MEN」シリーズと比べても、全体のテンポは明らかにスローだ。
しかしスローテンポとは言っても、単に無駄なカットや間延びしたカットが多くてスローなのとは違う。
いわば計算されたスローテンポであって、観客をスーパーマンの世界に自然に誘うための「映画的時間」なのだ。
現代の映画的テンポに慣れてしまった観客の中には、もしかしたらこの作品のテンポを「たるい」と感じる人もいるかもしれないが、私はこのハリウッド黄金時代を思わせる適度にゆったりしたテンポにすっかり魅了されてしまった。
勿論、単に懐古趣味に走っただけの作品ではない。
旧作に最大限のリスペクトを捧げつつ、テーマ性や映像表現では「今」を追及している。
最初のアメリカンヒーロとも言うべきスーパーマンは、言わばアメリカの善意のメタファーだ。
元々アメリカは、迫害された清教徒たちが自由と博愛を求めて作り上げた実験的な国であり、国の始まりが理想主義からスタートしているのである。
勿論その歴史が必ずしも理想通りではなく、むしろ暴力と血に塗れているのも周知の事実ではあるが、自由・博愛・平等に基づく善意の精神は、多くのアメリカ人にとって理想であり、無償の善意が尊ばれる社会である事には変わりがない。
ところが、スーパーマンが地球を離れている間に、世界は変わってしまった。
9.11が起こり、善意のアメリカは世界中で嫌われ者になり、猜疑心が敵を生むという悪循環に陥ってしまっている。
善意は利権の衣に包まれ、当のアメリカ人自身が、自分達の価値観に対して疑念を抱くようになってしまった。
地球に帰って来たスーパーマンを迎えるのが、ロイス・レインの執筆した「スーパーマン不要論」なのは象徴的だ。
帰って来たスーパーマンは、自分の存在意義に悩むが、結局導き出したものは原点回帰だった。
愚直なまでの無償の善意。
今回のスーパーマンは、いつの間にか暗闇に迷ってしまい、善意の本質に帰ろうとするアメリカのメタファーである。
傷つき、倒れても、人々のために行動しようとするスーパーマンは、アメリカが本来理想としていたはずの美しいキリスト教的精神そのものなのだ。
映像的に特筆すべきは、旧作では技術的に限界のあったスーパーマンの飛翔感で、優美な軌跡を描くカメラワークと共に、実に見事なものとなっている。
まるで頬を撫ぜる風すら感じられそうで、これほどの飛翔感を映像で表現したのは、宮崎駿のアニメ以来ではないだろうか。
お約束のロイス・レインとの空中デートのシーンも、なんとも美しくロマンチックに仕上がっている。
故クリストファー・リーヴからバトンを受け継ぎ、新世代のスーパーマンを演じるブランドン・ラウスは、どことなく面影がリーヴに似ている。
今、リーヴのスーパーマンが、人々の頭にあるスーパーマンのスタンダードである事を考えれば、これは納得。
登場した瞬間から、ラウスのスーパーマンは違和感無く観客に受け入れられるだろう。
ロイス・レインを演じるケイト・ボスワースは、チャーミングだがちょっと気が強そうな顔立ち。
実は旧作のキャスティング最大の欠点といわれたのが、マーゴット・キダーが演じたロイス・レインだった。
彼女自身は優れた女優なのだが、どちらかというとホラー映画のスクリーミングクィーンの印象が強く、神経質そうな顔立ちもあまり「ロイス・レイン」ぽくは無かった。
当時のSF雑誌などでは、SWのキャリー・フィッシャーなども引き合いにだして、「何故SF映画のヒロインはブサイクなのか」などという、非常に失礼な記事があったりしたものだ。
今回のボスワースは、個人的には合格点で、「スーパーマンの彼女」に相応しいと思う。
ジーン・ハックマンからレックス・ルーサー役を受け継いだケビン・スペイシーは、全く顔は似てないが、邪悪ながらどこかマヌケで憎めないハックマンのルーサーを思い起こさせる。
キャラのイメージを壊さず、しかし自分の物にして再生させる。
オスカー俳優の、流石の名演である。
「スーパーマン・リターンズ」には、黄金時代のハリウッド映画のオーラがある。
そしてファンタジーのオブラートに包まれてはいるが、2006年の現実を全く忘れさせる作品でもない。
偶然だろうが、この作品には9.11を描いた「ユナイテッド93」を思わせるシーンが含まれている。
スーパーマンの存在しない現実の厳しさと、映画に垣間見られるロマンチックなアメリカの理想。
スーパーマンの様にありたい、というアメリカの試行錯誤はまだまだ続くのだろう。
そしてもう一つ、この作品では原作コミックでも起こった事の無い、ある意味でとてもショッキングな事実が明かされる。
それは古い物を取り込んで新しい血を作り出すという、作り手が自らに課した、この作品の隠れテーマにもつながるのだが、今後のシリーズとしての展開に大きな影響を与えそうだ。
そう、人類にとっても、映画ファンにとっても、まだまだスーパーマンは必要なのだ。
スーパーマンの舞台となるメトロポリスは、NYをイメージした架空の都市。
ならばNYの愛称である「ビッグ・アップル」で映画をしめよう。
多目の氷を入れたタンブラーにウォッカを注ぎ、アップルジュースを適量加えて軽くステアして完成。
マンハッタンの空中デートの後、カクテルで口説かれたら、誰だってスーパーマンに惚れてしまうだろう。

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