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2006年09月30日 (土) | 編集 |
美術家・大浦信行が、9.11と8.15をキーワードに、現在日本と世界の姿を模索する、思想探求映画とも言うべき異色作。
大浦監督は自作の昭和天皇をモチーフにしたリトグラフ作品を巡って、これを不敬だとして図録を焼却処分とした富山県立近代美術館を相手取り、事の是非を争った「大浦・天皇コラージュ事件裁判」で知られる人物だ。
この作品、チラシにはドキュメンタリーと書いてあるが、一般的にイメージされる記録映画とは違う。
私は、これはドキュメンタリーではないと思う。
勿論、定義づけは色々な考えがあるだろうが、記録映画的な映像を中心にしながら、この作品からは作者の強烈な創作的物語意識が伝わってくる。
テーマを模索しながらも、作者の頭の中には一つの作品としての形が、はじめからある程度見えていたのではないだろうか。
ドキュメンタリー的要素を持った劇映画であると言うのが私の印象だ。
とは言っても、普通の映画とは違う。
この作品において、粗筋は意味を持たない。
私は大浦信行監督の過去の映像作品は未見。
しかし、彼がコラージュを得意とする美術家であることを考えると、なるほどなと思う。
動画と静止画の違いはあれど、創作のスタイルには共通する物がある。
この作品は言わば、動くコラージュだ。
自らが絵筆を取り、カンバスにゼロから描いてゆく絵画と異なり、既にある素材を組み合わせることで、新しいテーマを浮かび上がらせるコラージュ。
この作品も、大浦監督が自身を投影する様々な人物の言葉を組み合わせることで、彼の描こうとするテーマが浮かび上がる。
作品の前半は、美術評論家の針生一郎が中心だ。
登場していきなり、魚屋の店先で売り物の生魚を頭からパクリ。
とありあえず掴みは強烈な爺さんである。
彼が仏文学者で思想化の鵜飼哲、美術評論家の椹木野衣や哲学者の鶴見俊輔らの論客を訪ね、8.15から9.11を経た日本と世界の姿を、芸術の表現をモチーフに解こうとする。
この流れの中で、鶴見俊輔は日本の表現世界の中に存在する、内なる朝鮮文化にキーを見い出し、これを受けて後半の中心となるのは韓国の詩人金芝河だ。
朴政権時代、政治犯として死刑判決を受けた金芝河は、今「恨(ハン)」とアジア的世界観をベースに、民族の統一と世界平和を模索する。
これ等、賢人たちの語りの間に、直接的な連続性はない。
ぶっちゃけ、テーマに対してそれぞれが自分の考えを語っているだけで、バラバラの素材。
しかしコラージュ作家は、ここにそれぞれのピースを繋ぎとめ、彼の思い描く「物語」を構築するキーパーソンを設定している。
それが、重信メイ(命)。
彼女は元日本赤軍リーダーの重信房子を母に、パレスチナ解放闘争の闘士を父に、戦火のレバノンに生まれ、早くにイスラエル軍の攻撃で父を失う。
母もイスラエル情報機関の暗殺対象だったために、メイの存在自体が秘密にされ、28歳で日本に帰国するまで国籍すら持たなかったという。
彼女は、作品の中で、彼女の中の日本、彼女の中の世界の未来を探す旅をする。
勿論、これは彼女の旅であると同時に、監督・大浦信行の意図したシナリオでもある。
映画の中で、重信メイは大浦監督の詩の朗読者でもある。
これは上手い。ある意味ずるい。
今、日本でジャーナリストを志す、この運命の娘ほど、この作品のテーマを体現した存在はあるまい。
大浦監督は、創作と記録の狭間に立つ彼女のほかにも、コラージュを構成するための「枠」の役目をもつ創作劇の要素を二つ作っている。
一つは重信メイの内面のメタファーのようにも見える、神秘的なムードを持つ少女(岡部真理恵)。
もう一つは全編を通して、藤田嗣治の戦争絵画「アッツ島玉砕」の巨大な模写を描き続ける男(島倉二千六)だ。
重信メイを含めたこれ等三つの要素が、トリニティとなり、作品に輪郭を与えているのである。
映画としての印象は、何となくソクーロフの、「太陽」に似ている。
別に天皇を扱っているからという訳ではなく、たゆたうような流れの中で語られる監督・大浦信行の心象風景としての東アジアが、そう見せているのかもしれない。
フィルターをかけて、あえて青空を封印した世界も、深海の様なムードを作り出している。
その分、劇中の語りの中の9.11の青空のイメージが、鮮烈に観る者の脳裏に蘇り、明らかにWTCのイメージで切り取られた、東京のウォーターフロントの高層ビルのシルエットに繋がっているのだが。
一見無さそうに見える連続性が、深層的に仕掛けられているあたりも、「太陽」を連想させる所以かもしれない。
表現に携わる人間として、非常に興味深かったのは前半の針生一郎と賢人たちの語らいだ。
評論家の言葉というのは、それ自体が立派な芸術表現であることがよく判る。
我々が作品の中で漠然と発している事、あるいは大した考えも無く発した言葉に、彼らは意味を与え、更なる広がりを作り出すのだ。
それは決して独りよがりとか、思い込みとかいうレベルの思考ではない。
一つの芸術から生まれるもう一つの新しい表現と言って良い。(勿論評論の世界もピンキリではあるけど)
前半の極めてディープな世界に対して、後半重信メイが自分の言葉で金芝河と語り合うくだりは、ぐっと一般的な世界と平和論となる。
この辺りには、前半の様な強烈な言葉の力は無く、むしろ重信メイと金芝河という共に激動の人生を生きてきた二人の(それもパレスチナと南北問題というバックグラウンドを背負った二人の)、生なリアリズムが説得力となる。
芸術というコアから始まり、一般性に降りて来て、テーマを浮かび上がらせて落とす。
ここに、大浦信行のコラージュ思想探求映画は一つのしっかりした形を示すのである。
しかし、ある意味で評価の難しい作品ではある。
単純に一本の映画として面白いかどうかと聞かれたら、否と答えるしかない。
淡々とした会話と、難解な詩、メタファーとしての映像表現だけで構成された作品であって、娯楽というベクトルは殆んど持っていないし、その物差しでこの作品を評価すればぶっちゃけ評価額500円が良いところだ。
しかし、この映画の標榜するテーマに興味があり、深く考えてみたいという人には、何らかの形でヒントをくれる作品である事は確かだ。
この映画を観るべきか否かは、このテーマに興味があるか否か、と同義であるといって良いと思う。
私的には、非常に興味深い作品であった。
この作品の場合、評価額は観る人の興味の対象、その時の気分によって全く変わると言っていいかもしれない。
ああ、あとオープニングのタイトルバックで、今年100歳になる舞踏家の大野一雄の上半身だけの舞踏があるのだが、これが素晴しい。
肉体の表現とは、こういうものだというインパクトがある。
ここだけでも観る価値がある映像だ。
さて、これは付け合せるのが難しいな。
東アジアのお酒の原風景が想像できる韓国のマッコリにしておこう。
マッコリは非常に種類が多いので、私もまだ知らないものが多い。
これは純米マッコリの「山城」。
一度韓国にマッコリ探求の旅にでも行きたいものだ。
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大浦監督は自作の昭和天皇をモチーフにしたリトグラフ作品を巡って、これを不敬だとして図録を焼却処分とした富山県立近代美術館を相手取り、事の是非を争った「大浦・天皇コラージュ事件裁判」で知られる人物だ。
この作品、チラシにはドキュメンタリーと書いてあるが、一般的にイメージされる記録映画とは違う。
私は、これはドキュメンタリーではないと思う。
勿論、定義づけは色々な考えがあるだろうが、記録映画的な映像を中心にしながら、この作品からは作者の強烈な創作的物語意識が伝わってくる。
テーマを模索しながらも、作者の頭の中には一つの作品としての形が、はじめからある程度見えていたのではないだろうか。
ドキュメンタリー的要素を持った劇映画であると言うのが私の印象だ。
とは言っても、普通の映画とは違う。
この作品において、粗筋は意味を持たない。
私は大浦信行監督の過去の映像作品は未見。
しかし、彼がコラージュを得意とする美術家であることを考えると、なるほどなと思う。
動画と静止画の違いはあれど、創作のスタイルには共通する物がある。
この作品は言わば、動くコラージュだ。
自らが絵筆を取り、カンバスにゼロから描いてゆく絵画と異なり、既にある素材を組み合わせることで、新しいテーマを浮かび上がらせるコラージュ。
この作品も、大浦監督が自身を投影する様々な人物の言葉を組み合わせることで、彼の描こうとするテーマが浮かび上がる。
作品の前半は、美術評論家の針生一郎が中心だ。
登場していきなり、魚屋の店先で売り物の生魚を頭からパクリ。
とありあえず掴みは強烈な爺さんである。
彼が仏文学者で思想化の鵜飼哲、美術評論家の椹木野衣や哲学者の鶴見俊輔らの論客を訪ね、8.15から9.11を経た日本と世界の姿を、芸術の表現をモチーフに解こうとする。
この流れの中で、鶴見俊輔は日本の表現世界の中に存在する、内なる朝鮮文化にキーを見い出し、これを受けて後半の中心となるのは韓国の詩人金芝河だ。
朴政権時代、政治犯として死刑判決を受けた金芝河は、今「恨(ハン)」とアジア的世界観をベースに、民族の統一と世界平和を模索する。
これ等、賢人たちの語りの間に、直接的な連続性はない。
ぶっちゃけ、テーマに対してそれぞれが自分の考えを語っているだけで、バラバラの素材。
しかしコラージュ作家は、ここにそれぞれのピースを繋ぎとめ、彼の思い描く「物語」を構築するキーパーソンを設定している。
それが、重信メイ(命)。
彼女は元日本赤軍リーダーの重信房子を母に、パレスチナ解放闘争の闘士を父に、戦火のレバノンに生まれ、早くにイスラエル軍の攻撃で父を失う。
母もイスラエル情報機関の暗殺対象だったために、メイの存在自体が秘密にされ、28歳で日本に帰国するまで国籍すら持たなかったという。
彼女は、作品の中で、彼女の中の日本、彼女の中の世界の未来を探す旅をする。
勿論、これは彼女の旅であると同時に、監督・大浦信行の意図したシナリオでもある。
映画の中で、重信メイは大浦監督の詩の朗読者でもある。
これは上手い。ある意味ずるい。
今、日本でジャーナリストを志す、この運命の娘ほど、この作品のテーマを体現した存在はあるまい。
大浦監督は、創作と記録の狭間に立つ彼女のほかにも、コラージュを構成するための「枠」の役目をもつ創作劇の要素を二つ作っている。
一つは重信メイの内面のメタファーのようにも見える、神秘的なムードを持つ少女(岡部真理恵)。
もう一つは全編を通して、藤田嗣治の戦争絵画「アッツ島玉砕」の巨大な模写を描き続ける男(島倉二千六)だ。
重信メイを含めたこれ等三つの要素が、トリニティとなり、作品に輪郭を与えているのである。
映画としての印象は、何となくソクーロフの、「太陽」に似ている。
別に天皇を扱っているからという訳ではなく、たゆたうような流れの中で語られる監督・大浦信行の心象風景としての東アジアが、そう見せているのかもしれない。
フィルターをかけて、あえて青空を封印した世界も、深海の様なムードを作り出している。
その分、劇中の語りの中の9.11の青空のイメージが、鮮烈に観る者の脳裏に蘇り、明らかにWTCのイメージで切り取られた、東京のウォーターフロントの高層ビルのシルエットに繋がっているのだが。
一見無さそうに見える連続性が、深層的に仕掛けられているあたりも、「太陽」を連想させる所以かもしれない。
表現に携わる人間として、非常に興味深かったのは前半の針生一郎と賢人たちの語らいだ。
評論家の言葉というのは、それ自体が立派な芸術表現であることがよく判る。
我々が作品の中で漠然と発している事、あるいは大した考えも無く発した言葉に、彼らは意味を与え、更なる広がりを作り出すのだ。
それは決して独りよがりとか、思い込みとかいうレベルの思考ではない。
一つの芸術から生まれるもう一つの新しい表現と言って良い。(勿論評論の世界もピンキリではあるけど)
前半の極めてディープな世界に対して、後半重信メイが自分の言葉で金芝河と語り合うくだりは、ぐっと一般的な世界と平和論となる。
この辺りには、前半の様な強烈な言葉の力は無く、むしろ重信メイと金芝河という共に激動の人生を生きてきた二人の(それもパレスチナと南北問題というバックグラウンドを背負った二人の)、生なリアリズムが説得力となる。
芸術というコアから始まり、一般性に降りて来て、テーマを浮かび上がらせて落とす。
ここに、大浦信行のコラージュ思想探求映画は一つのしっかりした形を示すのである。
しかし、ある意味で評価の難しい作品ではある。
単純に一本の映画として面白いかどうかと聞かれたら、否と答えるしかない。
淡々とした会話と、難解な詩、メタファーとしての映像表現だけで構成された作品であって、娯楽というベクトルは殆んど持っていないし、その物差しでこの作品を評価すればぶっちゃけ評価額500円が良いところだ。
しかし、この映画の標榜するテーマに興味があり、深く考えてみたいという人には、何らかの形でヒントをくれる作品である事は確かだ。
この映画を観るべきか否かは、このテーマに興味があるか否か、と同義であるといって良いと思う。
私的には、非常に興味深い作品であった。
この作品の場合、評価額は観る人の興味の対象、その時の気分によって全く変わると言っていいかもしれない。
ああ、あとオープニングのタイトルバックで、今年100歳になる舞踏家の大野一雄の上半身だけの舞踏があるのだが、これが素晴しい。
肉体の表現とは、こういうものだというインパクトがある。
ここだけでも観る価値がある映像だ。
さて、これは付け合せるのが難しいな。
東アジアのお酒の原風景が想像できる韓国のマッコリにしておこう。
マッコリは非常に種類が多いので、私もまだ知らないものが多い。
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2006年09月27日 (水) | 編集 |
お洒落な水辺の家を舞台に、時を越える愛を描いてヒットした、チョン・ジヒョン主演の韓国産ラブファンタジーのハリウッド版リメイク。
オリジナル撮影当時、ヒロインのチョン・ジヒョンは19歳。
対してリメイク版のサンドラ・ブロックとキアヌ・リーヴスは共に42歳。
(物語上は30代の設定のようだ)
舞台も登場人物の年齢も、ずい分と変わった様だが、実際に観ると思った以上にオリジナルのムードを残している。
元々韓国版の「イルマーレ」自体が、極端に生活臭さを抜き取った無国籍なムードだったし、時を越えた文通が育むラブストーリーという設定は、ある意味でノーマン・ロックウェルの絵画以上に、アメリカのノスタルジーのアイコンである、ジャック・フィニイの名作短編小説「愛の手紙」が元ネタなのは確実だろう。
リメイクではあるが、物語が故郷に里帰りした様なものかもしれない。
湖畔の家に越してきた建築家のアレックス(キアヌ・リーヴス)の元に、この家の前の住人だというケイト(サンドラ・ブロック)と言う女性から手紙が届く。
彼女は、シカゴ市内に引っ越したので、自分に届く手紙を転送して欲しいと言う。
しかしアレックスが引っ越して来るまでは、この家は長年空家だったはず。
いぶかしんだアレックスは、彼女が今住んでいるというシカゴの住所に行ってみるが、そこはまだ建設中の建物だった。
手紙のやり取りをしているうちに、実はケイトの手紙は二年先の2006年から届いている事が判る。
ケイトはアレックスが出て行った後に、この家に引っ越してくるはずの未来の住人なのだ。
半信半疑のうちに、手紙のやり取りを重ねる二人。
やがて、彼らの内に仄かな恋心が目覚めるのだが・・・・
結論から言うと、これは成功したリメイクといえると思う。
オリジナルでは、非アジア的なムードをキープするために、主役二人以外の要素を極力排除して、ある種の閉鎖的なファンタジー世界を構築していた。
それが独特のムードのある作品にしていたのだが、同時にドラマ的な抑揚の無さに繋がっていた事も否めない。
リメイク版では、オリジナルのストーリーラインを生かしながら、主人公たちの年齢を倍に引き上げた事が、結果的にドラマに広がりと深みをもたらしている。
オリジナルでは設定されていたものの、積極的には描かれていなかった主人公たちのバックグラウンドが丁寧に描かれ、人生のターニングポイントの年齢に差し掛かった二人ゆえのドラマが紡がれる。
まだ、老け込む歳ではないが、それなりに人生経験も積んで、夢も現実も知っている。
この微妙な年代ならばこそのドラマをうまく作っているのだ。
建築家のアレックスは、同業の偉大な父親との関係に悩み、ある意味で父との葛藤を乗り越える為に、嘗て父が設計した湖畔の家へと帰ってくる。
父親は「家(house)」を作ったが、「家庭(home)」は作れなかったというアレックス。
オリジナルの舞台は広がりを感じる海辺の家(イルマーレは「海」の意)だったのに対して、こちらは閉じた世界である湖の「Lake house」なのは象徴的だ。
彼は長年疎遠だった父を理解しようとしつつ、ケイトと作る自分なりのhomeを求めている。
同時にケイトの医師という設定も、生と死の交錯するこの物語のもう一つの側面を象徴する。
オリジナルにもあった、約束の時間に彼がこられなかった理由、更にアレックスの父の最期のエピソードが、彼女の医師という生き方とリンクする。
さらりと触れられているケイトが医師を目指した理由、病院のベテラン女性医師の語る医師を目指す娘への思いなども、ドラマにさりげなく広がりを加えている。
愛と別離、生と死、父と息子、過去と未来、この映画ではいくつもの要素が対立しながらも、溶け合う場所を待っている。
ある意味で対照的なキャラクターである、アレックスとケイトもそう。
二年前を生きるアレックスが、何も知らない2004年のケイトに戸惑いながらアプローチするシーンは、まるで中学生の初デートを見ているみたいで、微笑ましくもイライラする(笑
映画的には、対立する沢山の要素をどう融合させるかが落としどころとなり、それぞれに大体の結論をつけると、最後はいよいよ主役たちの番となる。
これがハリウッド進出第一作となる、アルゼンチンのアレハンドロ・アグレスティ監督は、主人公二人にリアルな人間性を与えた上で、重すぎず、軽すぎず、ラブストーリーとして適度なバランスをもってドラマを引っ張る。
デビッド・オーバーンの脚本も、オリジナルを尊重しつつ、人間ドラマとして膨らませる事に成功していると思う。
だが、オリジナルよりも物語が複雑化した結果、元々はあまり気にならなかったタイムパラドックスの疑問点が浮き上がってしまったり、一部の描写が御都合主義に見えてしまうのも事実。
また、狙ってやってるとは思うが、2004年と2006年、そして2008年が交錯する後半の描写は、しっかりと画面を観てないと混乱する。
あえて複雑な構造にして、観客を騙そうとしてる割には、一番重要な物語のオチが途中で読めてしまい、しかも何のひねりもなくそのまんま描写されるのは少し興醒めだ。
全体に、良い感じで作られている佳作だけに、物語の収束点がストレート過ぎて情感の無いラストになってしまったのは実に勿体無い気がする。
ちなみにハリウッド版は「Lake house」が舞台だから、「イルマーレ」じゃ無いじゃんと思って観ていたら、「イルマーレ」はドラマの中でキーとなるレストランの名前としてちゃんと登場。
この辺は、オリジナルへのさり気無いリスペクトで、好感度アップ。
さて、映画のオチが今ひとつ締まらなかったので、プチプチと口の中で弾けるスパークリングワインの刺激でオチをつけよう。
タイトルそのまんま。
イタリアはドネリの「イル・マーレ・スプマンテ」を。
スプマンテはイタリア語で発泡の意味。
喉越しスッキリ。名前の通り青い海のようなすがすがしいワインだ。
イタリアのスプマンテは日本ではまだマイナーな分、中味の割にはリーズナブルに楽しめる物が多くてお勧めだ。
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イル・マーレ スプマンテ

スプマンテ三本セット
「愛の手紙」はじめ表題作「ゲイルズバーグの春を愛す」ほか傑作ぞろいのフィニイ短編集。
アマゾンで画像が出ないのが残念だけど、表紙の画がまた良い。
オリジナル
オリジナル撮影当時、ヒロインのチョン・ジヒョンは19歳。
対してリメイク版のサンドラ・ブロックとキアヌ・リーヴスは共に42歳。
(物語上は30代の設定のようだ)
舞台も登場人物の年齢も、ずい分と変わった様だが、実際に観ると思った以上にオリジナルのムードを残している。
元々韓国版の「イルマーレ」自体が、極端に生活臭さを抜き取った無国籍なムードだったし、時を越えた文通が育むラブストーリーという設定は、ある意味でノーマン・ロックウェルの絵画以上に、アメリカのノスタルジーのアイコンである、ジャック・フィニイの名作短編小説「愛の手紙」が元ネタなのは確実だろう。
リメイクではあるが、物語が故郷に里帰りした様なものかもしれない。
湖畔の家に越してきた建築家のアレックス(キアヌ・リーヴス)の元に、この家の前の住人だというケイト(サンドラ・ブロック)と言う女性から手紙が届く。
彼女は、シカゴ市内に引っ越したので、自分に届く手紙を転送して欲しいと言う。
しかしアレックスが引っ越して来るまでは、この家は長年空家だったはず。
いぶかしんだアレックスは、彼女が今住んでいるというシカゴの住所に行ってみるが、そこはまだ建設中の建物だった。
手紙のやり取りをしているうちに、実はケイトの手紙は二年先の2006年から届いている事が判る。
ケイトはアレックスが出て行った後に、この家に引っ越してくるはずの未来の住人なのだ。
半信半疑のうちに、手紙のやり取りを重ねる二人。
やがて、彼らの内に仄かな恋心が目覚めるのだが・・・・
結論から言うと、これは成功したリメイクといえると思う。
オリジナルでは、非アジア的なムードをキープするために、主役二人以外の要素を極力排除して、ある種の閉鎖的なファンタジー世界を構築していた。
それが独特のムードのある作品にしていたのだが、同時にドラマ的な抑揚の無さに繋がっていた事も否めない。
リメイク版では、オリジナルのストーリーラインを生かしながら、主人公たちの年齢を倍に引き上げた事が、結果的にドラマに広がりと深みをもたらしている。
オリジナルでは設定されていたものの、積極的には描かれていなかった主人公たちのバックグラウンドが丁寧に描かれ、人生のターニングポイントの年齢に差し掛かった二人ゆえのドラマが紡がれる。
まだ、老け込む歳ではないが、それなりに人生経験も積んで、夢も現実も知っている。
この微妙な年代ならばこそのドラマをうまく作っているのだ。
建築家のアレックスは、同業の偉大な父親との関係に悩み、ある意味で父との葛藤を乗り越える為に、嘗て父が設計した湖畔の家へと帰ってくる。
父親は「家(house)」を作ったが、「家庭(home)」は作れなかったというアレックス。
オリジナルの舞台は広がりを感じる海辺の家(イルマーレは「海」の意)だったのに対して、こちらは閉じた世界である湖の「Lake house」なのは象徴的だ。
彼は長年疎遠だった父を理解しようとしつつ、ケイトと作る自分なりのhomeを求めている。
同時にケイトの医師という設定も、生と死の交錯するこの物語のもう一つの側面を象徴する。
オリジナルにもあった、約束の時間に彼がこられなかった理由、更にアレックスの父の最期のエピソードが、彼女の医師という生き方とリンクする。
さらりと触れられているケイトが医師を目指した理由、病院のベテラン女性医師の語る医師を目指す娘への思いなども、ドラマにさりげなく広がりを加えている。
愛と別離、生と死、父と息子、過去と未来、この映画ではいくつもの要素が対立しながらも、溶け合う場所を待っている。
ある意味で対照的なキャラクターである、アレックスとケイトもそう。
二年前を生きるアレックスが、何も知らない2004年のケイトに戸惑いながらアプローチするシーンは、まるで中学生の初デートを見ているみたいで、微笑ましくもイライラする(笑
映画的には、対立する沢山の要素をどう融合させるかが落としどころとなり、それぞれに大体の結論をつけると、最後はいよいよ主役たちの番となる。
これがハリウッド進出第一作となる、アルゼンチンのアレハンドロ・アグレスティ監督は、主人公二人にリアルな人間性を与えた上で、重すぎず、軽すぎず、ラブストーリーとして適度なバランスをもってドラマを引っ張る。
デビッド・オーバーンの脚本も、オリジナルを尊重しつつ、人間ドラマとして膨らませる事に成功していると思う。
だが、オリジナルよりも物語が複雑化した結果、元々はあまり気にならなかったタイムパラドックスの疑問点が浮き上がってしまったり、一部の描写が御都合主義に見えてしまうのも事実。
また、狙ってやってるとは思うが、2004年と2006年、そして2008年が交錯する後半の描写は、しっかりと画面を観てないと混乱する。
あえて複雑な構造にして、観客を騙そうとしてる割には、一番重要な物語のオチが途中で読めてしまい、しかも何のひねりもなくそのまんま描写されるのは少し興醒めだ。
全体に、良い感じで作られている佳作だけに、物語の収束点がストレート過ぎて情感の無いラストになってしまったのは実に勿体無い気がする。
ちなみにハリウッド版は「Lake house」が舞台だから、「イルマーレ」じゃ無いじゃんと思って観ていたら、「イルマーレ」はドラマの中でキーとなるレストランの名前としてちゃんと登場。
この辺は、オリジナルへのさり気無いリスペクトで、好感度アップ。
さて、映画のオチが今ひとつ締まらなかったので、プチプチと口の中で弾けるスパークリングワインの刺激でオチをつけよう。
タイトルそのまんま。
イタリアはドネリの「イル・マーレ・スプマンテ」を。
スプマンテはイタリア語で発泡の意味。
喉越しスッキリ。名前の通り青い海のようなすがすがしいワインだ。
イタリアのスプマンテは日本ではまだマイナーな分、中味の割にはリーズナブルに楽しめる物が多くてお勧めだ。

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イル・マーレ スプマンテ

スプマンテ三本セット
「愛の手紙」はじめ表題作「ゲイルズバーグの春を愛す」ほか傑作ぞろいのフィニイ短編集。
アマゾンで画像が出ないのが残念だけど、表紙の画がまた良い。
オリジナル


2006年09月24日 (日) | 編集 |
今から40年ほど前、東北の田舎町に、突如として「ハワイ」が出現した。
斜陽産業となっていた炭鉱の失業対策として、掘削のさいに湧き出る温泉とその熱を利用し、巨大なドームの中に常夏のハワイを再現した温泉リゾートを作ったのだ。
まだ海外旅行が庶民には夢だった時代、東京ディズニーランドも影も形も無かった時代、誰でもハワイを体験できる「常磐ハワイアンセンター」(現:スパリゾートハワイアン)は、日本最初のテーマパークであり、近年続々と生まれている温泉リゾートのパイオニアだった。
これはそんな「東北のハワイ」誕生の前夜、フラのリズムに夢を賭けた少女たちが起こした、小さな、しかしとても美しい奇跡の様な物語だ。
昭和40年、福島県常磐炭鉱。
嘗ては黒いダイヤと呼ばれた石炭も、石油時代に入り需要が低迷。
大量解雇の危機に瀕した炭鉱町を救うべく、一つのアイディアが具現化されつつあった。
炭鉱の副産物であった温泉を利用し、東北に「ハワイ」を再現する一大リゾート。
そこで働くハワイアンバンド、ホテルマンたち、そして華麗なステージを提供するフラのダンサーたちも、全て炭鉱の人々でまかなうという大胆な計画だった。
炭鉱で育った少女紀美子(蒼井優)は、親友の早苗(徳永えり)に誘われて、フラのダンサーに応募する。
コーチ役として、東京から元SKDの花形ダンサーだった平山まどか(松雪泰子)が呼び寄せられる。
盆踊りしか踊った事の無い、東北の田舎娘たちを、僅か数ヶ月でプロのダンサーとして育て上げる。
炭鉱町の少女たちの夢を乗せて、一見無謀な計画は動き出した・・・
私事で恐縮だが、常磐ハワイアンセンターとフラダンスに対しては、かなり思い入れがある。
昭和40年代の後半、当時の我が家からは車で二、三時間ほどの距離で、ちょっとした泊りの家族旅行というと、いつもここへ行っていたのだ。
正直温泉の印象は殆んど覚えていないのだが、幼少の私の脳裏に鮮烈に焼きついているのが、毎夜ステージで披露されていたフラダンスのイメージだった。
両親によると、私はいつも最前列にいって、食い入る様にステージを見つめていたらしい。
年端もいかない子供ですら判る、強烈な肉体のリズムと色彩は、ダンスという芸術の持つ特別な「言語」だ。
この映画でも、その事は効果的に生かされている。
当初、お互いの考えのギャップから、ギクシャクしてレッスンすら始められない、まどか先生と紀美子たち。
その壁を崩したのは、まどか先生のダンス。
始めてまどか先生の踊る姿を見た紀美子たちは、瞬時に自分たちが向かおうとしている世界の魅力を知る。
あるいは、紀美子の進路に反対していた母親は、誰もいないスタジオで、一人踊り続ける娘の姿を見る。
百の言葉でも伝わらなかった娘の思いを、その瞬間母は理解する。
ダンスという肉体によるビジュアル表現の力は、ある意味映画に通じる。
フラダンスの映画であるからには、映画のクライマックスは当然ステージ。
ダンスの躍動感、カタルシスを観客に感じさせる事が出来るかが、この映画の最終的な成否の分れ目だ。
その重責を一人で背負ったのが、蒼井優。
勿論、演出の見事さもあるのだが、クライマックスの彼女のソロダンスのシーンには思わず鳥肌が立った。
正に舞台ミュージカル出身者の面目躍如で、ソロの部分での説得力があるから、続く群舞のスペクタクルが生きる。
ステージが終わった瞬間、映画の中で観衆が総立ちの拍手を送るシーンでは、思わず釣られて拍手しそうになったくらいだ。
物語の精神的なクライマックスとも言える、駅で東京へ帰ろうとするまどか先生に、フラの振り付けで自分の思いを告げようとする、情感溢れる名シーンと共に、ラスト数十分の彼女の存在は鮮烈。
ある意味、このキャスティングは奇跡だ。
蒼井優という若い才能の爆発が、映画のクライマックスと見事な相乗効果を挙げているが、それを受ける立場の松雪泰子もまた良い。
紀美子の動に対して、まどかの静。
物語が進むに連れて、衣装の色彩などでも表現されてゆく、全く違った人生を歩んできた二人の「ダンサー」のキャラクターの対比もドラマに深みを与えている。
彼女は李相日監督から「これを貴方の代表作にしたい」と口説かれたそうだが、しっかりと約束は果たされているのではないだろうか。
凛とした存在感を見せる母親役の富司純子や、時代の変化を理解しつつも自分の生き方を変える事の出来ない兄役の豊川悦司ら、ベテランの芸達者たちがしっかりと脇を固める。
意外といっては失礼ながら、面白いキャラクターになっていたのが南海キャンディーズの静ちゃん。
彼女が画面に写るだけで、何となく可笑しくて、画面にインパクトが加わるのだ。
李相日監督と羽原大介による脚本は、全く奇を衒った部分の無い直球勝負。
ドラマの要素をみると、この映画には最近の邦画の二つの金脈が含まれている事がわかる。
「がんばっていきまっしょい」から「スウィングガールズ」「シムソンズ」に連なる、田舎のがんばる少女物。
そして昨年の「ALWAYS三丁目の夕日」が発掘した、昭和ノスタルジーという新しい金脈。
だが、この映画の作り手たちが、直接これ等の作品からインスパイアされているという事は無いだろう。
言ってみれば、愚直なまでに王道の物語なのだ。
どちらかと言うと前記の作品たちが、過去の王道の物語から、物語の要素を拝借しているという方が正しいかもしれない。
実際のところ、「フラガール」を観て思い浮かぶのは、邦画よりもむしろハリウッド映画、それも古き良きハリウッドを継承する物語だ。
最近の作品では、大恐慌時代に人々の夢を乗せて走った競走馬の物語「シービスケット」や、第二次大戦中に結成された、女子プロ野球リーグを描いた「プリティリーグ」が近いかもしれない。
と、色々な映画が思い浮かぶように、「フラガール」の物語は一言で言ってテンコ盛り。
色々な要素が絡み合っているが、この映画が凄いのは、二時間未満の上映時間で全ての要素をそれなりに描き切り、無駄らしい無駄が殆んど無いという事だ。
あえて欠点を言えば、物語もキャラクターもある意味紋切り型で、良い意味での破綻が無い。
全ての登場人物が幸せになる結末からも判るように、優等生的にきっちりと纏まりすぎているのだ。
人間、贅沢な物で、ボロボロに破綻した物語を見せられると、「プロなら破綻せずに描け」と批判するが、あまりにもきっちりと纏められると、今度はどこかに破綻が欲しくなるもの。
脚本と同様に演出も直球勝負なので、きっちり感はより強くなる。
大いに泣いて笑って、映画の楽しさがつまった「フラガール」だが、ダンス以外に突き抜けた何かがもう一つあれば、映画史に残る傑作となっただろう。
それでも、これだけしっかりと丁寧に作られた娯楽映画は、そうそう観られる物ではない。
昭和40年という、人々の記憶がはっきりしている分、一番再現の難しい「少し昔」を違和感なく作り上げたビジュアル、しっかりとキャラクターの感情とハワイアンのムードを盛り上げる音楽、そして群像劇の中の短い登場時間の中で、炭鉱の男たちやフラガールたちの個性を作り上げた演技陣。
極めて質の高い日本映画が、確かにここにはある。
今回は私もストレートに「ハワイアン」でオチをつけよう。
シェイカーに氷を入れ、ドライ・ジンとパイナップルジュースを2:1の割合で、オレンジキュラソーを適量加えてシェイクする。
パイナップルジュースに代えてオレンジジュースを使う店も多い。
甘口だが、結構強い。
飲み過ぎると脳みそがハワイになっちゃうかも(笑
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ビーフィーター47° ドライ・ジン ¥1320
斜陽産業となっていた炭鉱の失業対策として、掘削のさいに湧き出る温泉とその熱を利用し、巨大なドームの中に常夏のハワイを再現した温泉リゾートを作ったのだ。
まだ海外旅行が庶民には夢だった時代、東京ディズニーランドも影も形も無かった時代、誰でもハワイを体験できる「常磐ハワイアンセンター」(現:スパリゾートハワイアン)は、日本最初のテーマパークであり、近年続々と生まれている温泉リゾートのパイオニアだった。
これはそんな「東北のハワイ」誕生の前夜、フラのリズムに夢を賭けた少女たちが起こした、小さな、しかしとても美しい奇跡の様な物語だ。
昭和40年、福島県常磐炭鉱。
嘗ては黒いダイヤと呼ばれた石炭も、石油時代に入り需要が低迷。
大量解雇の危機に瀕した炭鉱町を救うべく、一つのアイディアが具現化されつつあった。
炭鉱の副産物であった温泉を利用し、東北に「ハワイ」を再現する一大リゾート。
そこで働くハワイアンバンド、ホテルマンたち、そして華麗なステージを提供するフラのダンサーたちも、全て炭鉱の人々でまかなうという大胆な計画だった。
炭鉱で育った少女紀美子(蒼井優)は、親友の早苗(徳永えり)に誘われて、フラのダンサーに応募する。
コーチ役として、東京から元SKDの花形ダンサーだった平山まどか(松雪泰子)が呼び寄せられる。
盆踊りしか踊った事の無い、東北の田舎娘たちを、僅か数ヶ月でプロのダンサーとして育て上げる。
炭鉱町の少女たちの夢を乗せて、一見無謀な計画は動き出した・・・
私事で恐縮だが、常磐ハワイアンセンターとフラダンスに対しては、かなり思い入れがある。
昭和40年代の後半、当時の我が家からは車で二、三時間ほどの距離で、ちょっとした泊りの家族旅行というと、いつもここへ行っていたのだ。
正直温泉の印象は殆んど覚えていないのだが、幼少の私の脳裏に鮮烈に焼きついているのが、毎夜ステージで披露されていたフラダンスのイメージだった。
両親によると、私はいつも最前列にいって、食い入る様にステージを見つめていたらしい。
年端もいかない子供ですら判る、強烈な肉体のリズムと色彩は、ダンスという芸術の持つ特別な「言語」だ。
この映画でも、その事は効果的に生かされている。
当初、お互いの考えのギャップから、ギクシャクしてレッスンすら始められない、まどか先生と紀美子たち。
その壁を崩したのは、まどか先生のダンス。
始めてまどか先生の踊る姿を見た紀美子たちは、瞬時に自分たちが向かおうとしている世界の魅力を知る。
あるいは、紀美子の進路に反対していた母親は、誰もいないスタジオで、一人踊り続ける娘の姿を見る。
百の言葉でも伝わらなかった娘の思いを、その瞬間母は理解する。
ダンスという肉体によるビジュアル表現の力は、ある意味映画に通じる。
フラダンスの映画であるからには、映画のクライマックスは当然ステージ。
ダンスの躍動感、カタルシスを観客に感じさせる事が出来るかが、この映画の最終的な成否の分れ目だ。
その重責を一人で背負ったのが、蒼井優。
勿論、演出の見事さもあるのだが、クライマックスの彼女のソロダンスのシーンには思わず鳥肌が立った。
正に舞台ミュージカル出身者の面目躍如で、ソロの部分での説得力があるから、続く群舞のスペクタクルが生きる。
ステージが終わった瞬間、映画の中で観衆が総立ちの拍手を送るシーンでは、思わず釣られて拍手しそうになったくらいだ。
物語の精神的なクライマックスとも言える、駅で東京へ帰ろうとするまどか先生に、フラの振り付けで自分の思いを告げようとする、情感溢れる名シーンと共に、ラスト数十分の彼女の存在は鮮烈。
ある意味、このキャスティングは奇跡だ。
蒼井優という若い才能の爆発が、映画のクライマックスと見事な相乗効果を挙げているが、それを受ける立場の松雪泰子もまた良い。
紀美子の動に対して、まどかの静。
物語が進むに連れて、衣装の色彩などでも表現されてゆく、全く違った人生を歩んできた二人の「ダンサー」のキャラクターの対比もドラマに深みを与えている。
彼女は李相日監督から「これを貴方の代表作にしたい」と口説かれたそうだが、しっかりと約束は果たされているのではないだろうか。
凛とした存在感を見せる母親役の富司純子や、時代の変化を理解しつつも自分の生き方を変える事の出来ない兄役の豊川悦司ら、ベテランの芸達者たちがしっかりと脇を固める。
意外といっては失礼ながら、面白いキャラクターになっていたのが南海キャンディーズの静ちゃん。
彼女が画面に写るだけで、何となく可笑しくて、画面にインパクトが加わるのだ。
李相日監督と羽原大介による脚本は、全く奇を衒った部分の無い直球勝負。
ドラマの要素をみると、この映画には最近の邦画の二つの金脈が含まれている事がわかる。
「がんばっていきまっしょい」から「スウィングガールズ」「シムソンズ」に連なる、田舎のがんばる少女物。
そして昨年の「ALWAYS三丁目の夕日」が発掘した、昭和ノスタルジーという新しい金脈。
だが、この映画の作り手たちが、直接これ等の作品からインスパイアされているという事は無いだろう。
言ってみれば、愚直なまでに王道の物語なのだ。
どちらかと言うと前記の作品たちが、過去の王道の物語から、物語の要素を拝借しているという方が正しいかもしれない。
実際のところ、「フラガール」を観て思い浮かぶのは、邦画よりもむしろハリウッド映画、それも古き良きハリウッドを継承する物語だ。
最近の作品では、大恐慌時代に人々の夢を乗せて走った競走馬の物語「シービスケット」や、第二次大戦中に結成された、女子プロ野球リーグを描いた「プリティリーグ」が近いかもしれない。
と、色々な映画が思い浮かぶように、「フラガール」の物語は一言で言ってテンコ盛り。
色々な要素が絡み合っているが、この映画が凄いのは、二時間未満の上映時間で全ての要素をそれなりに描き切り、無駄らしい無駄が殆んど無いという事だ。
あえて欠点を言えば、物語もキャラクターもある意味紋切り型で、良い意味での破綻が無い。
全ての登場人物が幸せになる結末からも判るように、優等生的にきっちりと纏まりすぎているのだ。
人間、贅沢な物で、ボロボロに破綻した物語を見せられると、「プロなら破綻せずに描け」と批判するが、あまりにもきっちりと纏められると、今度はどこかに破綻が欲しくなるもの。
脚本と同様に演出も直球勝負なので、きっちり感はより強くなる。
大いに泣いて笑って、映画の楽しさがつまった「フラガール」だが、ダンス以外に突き抜けた何かがもう一つあれば、映画史に残る傑作となっただろう。
それでも、これだけしっかりと丁寧に作られた娯楽映画は、そうそう観られる物ではない。
昭和40年という、人々の記憶がはっきりしている分、一番再現の難しい「少し昔」を違和感なく作り上げたビジュアル、しっかりとキャラクターの感情とハワイアンのムードを盛り上げる音楽、そして群像劇の中の短い登場時間の中で、炭鉱の男たちやフラガールたちの個性を作り上げた演技陣。
極めて質の高い日本映画が、確かにここにはある。
今回は私もストレートに「ハワイアン」でオチをつけよう。
シェイカーに氷を入れ、ドライ・ジンとパイナップルジュースを2:1の割合で、オレンジキュラソーを適量加えてシェイクする。
パイナップルジュースに代えてオレンジジュースを使う店も多い。
甘口だが、結構強い。
飲み過ぎると脳みそがハワイになっちゃうかも(笑

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2006年09月23日 (土) | 編集 |
う~む・・・、作り方によってはそれなりに美味しくなりそうな素材だったけれど、シェフが途中でレシピを間違ってしまった様な作品。
感動系オカルトかと思いきや、途中から全く別の方向へ行ってしまった。
あまりにも唐突で辻褄の合わない展開の連続で、ポカ~ンとしたままクレジットタイトルが流れて終了。
(思いっきりネタバレしてます)
建築家のジョナサン(マイケル・キートン)の妻で、ベストセラー作家のアンナ(チャンドラ・ウェスト)が事故死。
立ち直りの切っ掛けをつかめずにいたジョナサンだが、ある日レイモンド(イアン・マクニース)という男が尋ねてきて、アンナからのメッセージを受け取ったという。
レイモンドは霊界からの通信を、ラジオやテレビの空き周波数で傍受するEVPと呼ばれる現象の研究家で、偶然ジョナサンに呼びかけるアンナの声を傍受したのだった。
最初は信じられなかったジョナサンだが、何度も妻の声を聞くうちに、自分でも機材をそろえてEVPの傍受に没頭するようになる。
だがある時、レイモンドが何者かによって殺されるという事件が起こる・・・・
本作のウリは、死者が現世に電子機器を通してメッセージを伝えようとするEVP(Electronic Voice Phenomena:電子音声現象)という現象を物語の中心に添えている事。
ただ、霊界から何らかの形でメッセージが届き、それによって物語が展開するという設定は、オカルト系映画ではそれ程珍しくない。
最近ではケビン・コスナーが死んだ妻からのメッセージを受け取る「コーリング」があったし、スペクタクルホラーの金字塔「ポルターガイスト」で、霊界に連れ去られる少女に最初にメッセージを送ってくる「TVピープル」は正にEVPそのものだ。
まあどちらかというと、映画の中のサイドディッシュという扱いに過ぎなかったEVPそのものを、中心に持ってくるという発想は悪くない。
問題は、作り手がEVPという素材を、メインディッシュに料理できていないという事なのだ。
愛する者を失った男が、死んだ妻のEVPメッセージを受け取り、半信半疑でこの世界にのめりこんでゆく。
ここまでの導入部は悪くない。
しかし、男が自宅に機材を買い集め、妻のメッセージを聞き逃すまいと、EVPに没頭する姿が映画の中心になってくると、途端につまらなくなる。
なぜならEVPの描写自体が、酷く退屈な代物だからだ。
ぶっちゃけた話、映画におけるEVPのビジュアルとは、たくさんのモニタ画面に写った所謂「砂の嵐」と、周波数の合ってないラジオの雑音が全てだ。
EVPとは本来そういうものだともいえるだろうが、ここにジェフリー・サックス監督の「演出」が感じられないのが辛い。
画的につまらなければ、演出的に盛り上げる技が欲しかった。
映画の前半は、どちらかというと「コーリング」の様な、死者と残された者が織り成す感動系に行くのかと思わせる展開。
しかし、妻アンナからの通信が、ジョナサンに「未来」のビジョンを見せ始め、EVPに関わった人間たちが、次々と奇妙な死を遂げるあたりから、物語はオカルトホラーに急展開する。
霊媒師は、ジョナサンに「EVPは悪霊に見つかってしまう。危険だ」と次げる。
EVPに関わった者達は、悪霊の怒りを買ってしまったのか。
ジョナサンは、アンナの見せるビジョンに従い、死ぬはずの人間たちを救ってゆくが、いつしか自分自身の身にも危険が迫る。
このあたりまでの展開は、典型的なオカルトホラーで、目に見えない力によって人々が殺されてゆく恐怖を描く。
しかし、この話それだけでは終わらないのだ。
クライマックスで、ジョナサンはアンナのビジョンの情報から、彼女の死の真相を解き明かす。
アンナは事故死ではなく、誘拐され、殺されたのだと。
しかもその犯人は、EVPに関わったもう一人の女性を監禁しているというのだ。
え?オカルト映画なのに誘拐?
そう、ここでEVPに関わった人間の幾つかの死は、EVPを通して悪霊に取り付かれた人間が犯していた犯罪だという唐突な事実が明らかになる。
ここで一気に疑問噴出。
そもそも悪霊は、それ自体が人間をコントロールし、殺す力があった。
それなのに、何故人間を介在させる必要があるのか?
何故悪霊に取り付かれた人間は殺されず、誘拐なんて犯罪を犯しているのか。
悪霊が物理的な力を持たないのならともかく、クライマックスでジョナサンと戦うのは、悪霊に取り付かれた人間ではなく、悪霊そのもので、しかも強い(笑
ジョナサンの骨をへし折りボコボコにするのだ。
こんな力があるなら人間など介在させずに、殺したい奴は好きな方法で殺せるでしょ?
そもそも3人いる(らしい)悪霊は何者なのか?何を怒っているのか?
何でアンナは、愛するジョナサンを危険に晒すメッセージをわざわざ送ったのか?(しかも土壇場で実体化し、こんどは「帰れ」と矛盾した事を言う)
物語的にはEVPに関わった人間が、悪霊によって殺されるのが原則のようだが、アンナ自身は生前EVPとは関わっていない。
何故彼女は例外なのか?
映画はこれ等の疑問に答えることなく、唐突に、破綻したまま終わる。
普通のハリウッド映画な前半に対して、このラスト20分のぶっ壊れっぷりは、ある意味凄い。
アメリカのファミレスに入ったのに、出口は香港の屋台街に繋がってた様な物だ。
結局のところ、EVPというネタを思いついたのは良かったが、その素材を上手く生かして料理できず、訳の判らないC級ディナーが出来上がってしまった。
しかしまあ、映画を観終わるとちょっとだけテレビの砂の嵐を注視してみたくなる、その程度の作品。
今回はミスマッチつながりで、チャイナ・ワイン。
中国でワイン?という意外性が楽しい「ドラゴンシールカベルネ」を。
中国は近年ワインの生産量、人気共に急速に高まっているワインの新興国でもある。
実際のところ、そのお味は少なくとも映画よりはずっとまともで、普通に楽しめる。
まだ本格的なワイン作りは30年ほどの歴史しか持たない国であり、今後が非常に楽しみである。
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![[中国]ドラゴンシールカベルネ赤ワイン](http://thumbnail.image.rakuten.co.jp/@0_gold/imarket/image/42000934.jpg?_ex=64x64)
感動系オカルトかと思いきや、途中から全く別の方向へ行ってしまった。
あまりにも唐突で辻褄の合わない展開の連続で、ポカ~ンとしたままクレジットタイトルが流れて終了。
(思いっきりネタバレしてます)
建築家のジョナサン(マイケル・キートン)の妻で、ベストセラー作家のアンナ(チャンドラ・ウェスト)が事故死。
立ち直りの切っ掛けをつかめずにいたジョナサンだが、ある日レイモンド(イアン・マクニース)という男が尋ねてきて、アンナからのメッセージを受け取ったという。
レイモンドは霊界からの通信を、ラジオやテレビの空き周波数で傍受するEVPと呼ばれる現象の研究家で、偶然ジョナサンに呼びかけるアンナの声を傍受したのだった。
最初は信じられなかったジョナサンだが、何度も妻の声を聞くうちに、自分でも機材をそろえてEVPの傍受に没頭するようになる。
だがある時、レイモンドが何者かによって殺されるという事件が起こる・・・・
本作のウリは、死者が現世に電子機器を通してメッセージを伝えようとするEVP(Electronic Voice Phenomena:電子音声現象)という現象を物語の中心に添えている事。
ただ、霊界から何らかの形でメッセージが届き、それによって物語が展開するという設定は、オカルト系映画ではそれ程珍しくない。
最近ではケビン・コスナーが死んだ妻からのメッセージを受け取る「コーリング」があったし、スペクタクルホラーの金字塔「ポルターガイスト」で、霊界に連れ去られる少女に最初にメッセージを送ってくる「TVピープル」は正にEVPそのものだ。
まあどちらかというと、映画の中のサイドディッシュという扱いに過ぎなかったEVPそのものを、中心に持ってくるという発想は悪くない。
問題は、作り手がEVPという素材を、メインディッシュに料理できていないという事なのだ。
愛する者を失った男が、死んだ妻のEVPメッセージを受け取り、半信半疑でこの世界にのめりこんでゆく。
ここまでの導入部は悪くない。
しかし、男が自宅に機材を買い集め、妻のメッセージを聞き逃すまいと、EVPに没頭する姿が映画の中心になってくると、途端につまらなくなる。
なぜならEVPの描写自体が、酷く退屈な代物だからだ。
ぶっちゃけた話、映画におけるEVPのビジュアルとは、たくさんのモニタ画面に写った所謂「砂の嵐」と、周波数の合ってないラジオの雑音が全てだ。
EVPとは本来そういうものだともいえるだろうが、ここにジェフリー・サックス監督の「演出」が感じられないのが辛い。
画的につまらなければ、演出的に盛り上げる技が欲しかった。
映画の前半は、どちらかというと「コーリング」の様な、死者と残された者が織り成す感動系に行くのかと思わせる展開。
しかし、妻アンナからの通信が、ジョナサンに「未来」のビジョンを見せ始め、EVPに関わった人間たちが、次々と奇妙な死を遂げるあたりから、物語はオカルトホラーに急展開する。
霊媒師は、ジョナサンに「EVPは悪霊に見つかってしまう。危険だ」と次げる。
EVPに関わった者達は、悪霊の怒りを買ってしまったのか。
ジョナサンは、アンナの見せるビジョンに従い、死ぬはずの人間たちを救ってゆくが、いつしか自分自身の身にも危険が迫る。
このあたりまでの展開は、典型的なオカルトホラーで、目に見えない力によって人々が殺されてゆく恐怖を描く。
しかし、この話それだけでは終わらないのだ。
クライマックスで、ジョナサンはアンナのビジョンの情報から、彼女の死の真相を解き明かす。
アンナは事故死ではなく、誘拐され、殺されたのだと。
しかもその犯人は、EVPに関わったもう一人の女性を監禁しているというのだ。
え?オカルト映画なのに誘拐?
そう、ここでEVPに関わった人間の幾つかの死は、EVPを通して悪霊に取り付かれた人間が犯していた犯罪だという唐突な事実が明らかになる。
ここで一気に疑問噴出。
そもそも悪霊は、それ自体が人間をコントロールし、殺す力があった。
それなのに、何故人間を介在させる必要があるのか?
何故悪霊に取り付かれた人間は殺されず、誘拐なんて犯罪を犯しているのか。
悪霊が物理的な力を持たないのならともかく、クライマックスでジョナサンと戦うのは、悪霊に取り付かれた人間ではなく、悪霊そのもので、しかも強い(笑
ジョナサンの骨をへし折りボコボコにするのだ。
こんな力があるなら人間など介在させずに、殺したい奴は好きな方法で殺せるでしょ?
そもそも3人いる(らしい)悪霊は何者なのか?何を怒っているのか?
何でアンナは、愛するジョナサンを危険に晒すメッセージをわざわざ送ったのか?(しかも土壇場で実体化し、こんどは「帰れ」と矛盾した事を言う)
物語的にはEVPに関わった人間が、悪霊によって殺されるのが原則のようだが、アンナ自身は生前EVPとは関わっていない。
何故彼女は例外なのか?
映画はこれ等の疑問に答えることなく、唐突に、破綻したまま終わる。
普通のハリウッド映画な前半に対して、このラスト20分のぶっ壊れっぷりは、ある意味凄い。
アメリカのファミレスに入ったのに、出口は香港の屋台街に繋がってた様な物だ。
結局のところ、EVPというネタを思いついたのは良かったが、その素材を上手く生かして料理できず、訳の判らないC級ディナーが出来上がってしまった。
しかしまあ、映画を観終わるとちょっとだけテレビの砂の嵐を注視してみたくなる、その程度の作品。
今回はミスマッチつながりで、チャイナ・ワイン。
中国でワイン?という意外性が楽しい「ドラゴンシールカベルネ」を。
中国は近年ワインの生産量、人気共に急速に高まっているワインの新興国でもある。
実際のところ、そのお味は少なくとも映画よりはずっとまともで、普通に楽しめる。
まだ本格的なワイン作りは30年ほどの歴史しか持たない国であり、今後が非常に楽しみである。

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2006年09月18日 (月) | 編集 |
ザ・悪趣味。
事故の予知によって死を免れたティーンたちが、執拗に追ってくる「死を実行しようとする力」によって、凝りに凝った殺され方をするスプラッターホラーのシリーズ第三弾。
第一作「ファイナル・デスティネーション」の飛行機事故、第二作「デッドコースター」の大規模交通事故に続いて、今回は何とジェットコースター事故。
前作の「Final Destination2」に「デッドコースター」という邦題をつけた担当者は、どうやら映画の主人公並の、予知能力の持ち主の様だ。(もしかしたら、映画の方が邦題からインスピレーションを得たのかもしれないが)
高校の卒業イベントで、遊園地にやってきたウェンディ(メアリー・エリザベス・ウィンステッド)は、乗るはずだったジェットコースターの事故を予知してしまう。
恐怖に駆られたウェンディは、悲鳴を上げてジェットコースターを降りるが、その直後に実際にジェットコースターは大事故を起こす。
ウェンディと一緒に、数人がジェットコースターを降りて難を逃れたが、そのうちの二人が日焼けサロンの不可解な事故で死亡。
ウェンディと、同じく生き残ったケビン(ライアン・メリマン)は、数年前にも同じように予知で事故から逃れたものの、後から生き残り全員が不可解な死を遂げた事件の存在を知り、自分たちにも死が迫っているのではないかと考える。
ウェンディは、事件当日撮った写真の中に、「死のヒント」が隠されている事を発見するのだが・・・
ホラー映画で、「死の予兆」という物を最初にビジュアル的に表現して、恐怖演出に取り入れたのは76年版の「オーメン」(タイトル自体が「予兆」という意味)が最初ではないかと思う。
あの映画では、カメラマンが死の予兆を写真に撮り、その予兆通りの死に様を見せることで、悪魔の強大な魔力と執拗さを表現していて、写真によって予告された死が、いかにして登場人物を襲うのかというギミックが大きな見せ場となっていた。
言ってみれば、このシリーズは「オーメン」で描かれた死の予兆と、実際に死が訪れる時のギミックの面白さだけを抽出して発展させたような作品だ。
実際今回は、主人公が事故前に撮った写真に、登場人物がどのように死ぬかのヒントが隠されているという設定になっており、いやでも「オーメン」を連想させる。
そう言えば、今年公開されたリメイク版の「オーメン」は、死のギミックに懲りすぎて、逆にこっちの描写をパクった様な印象になってしまっていた。
このシリーズにはジェイソンやフレディのような魅力的な殺人鬼もいないし、「スクリーム」のような捻った展開がある訳でもない。
何しろ相手は姿形のない「死を実行しようとする力」、言わば死神そのものなのだから、殺される側の出来る事は殆んど無い。
精々死の順番に法則を見つけて、その法則を崩してみたらどうなるかと試みるくらいだが、相手が具体的でないだけに、死との対決という要素にドラマ性は薄い。
必然的に映画の見所は、殆んど全て登場人物の死にっぷりという事になる。
監督は第二作のデビット・R・エリスに代わって、シリーズの生みの親でもあるジェームス・ウォンがカムバック。
この人は90年代にテレビの「X-ファイル」などで活躍した人だが、思えばあのシリーズも、しばしば物語に「予兆」を上手く使っていた。
今回は相変わらず、最高に悪趣味な死のシチュエーションを描いてくれる。
写真で漠然と示されたヒントから、一体どんな死が訪れるのか、これはもう笑っちゃうくらい凝った仕掛けで、さながら「ルーブ・ゴールドバーグ・マシン」の様な物だ。
これは非常に簡単な事を、不必要に複雑なプロセスで実行する機械の事で、サンフランシスコ出身のアーティスト、ルーブ・ゴールドバーグの作品に由来する。
一昔前に話題となった、ホンダ・アコードのCMや「ピタゴラスイッチ」に出てくる機械なんかが正にこれ。
この作品の場合、「死」という単純な結果を導き出すのに、恐ろしく複雑かつビジュアル的な仕掛けが幾つも作られていて、これが本作の唯一の見せ場にして最大の特徴となっている。
怖い、というよりも、よくこんな凝った仕掛けを考えたなあというビックリの方の面白さで、その意味ではとてもよく出来ている。
逆に言えば、ぶっちゃけ面白い死にっぷり意外は何にも無い映画で、アメリカのカーニバルのファンハウスみたいなもの。
細かいことを言い出せば、例えばこの映画の死は、予知のせいで死ぬはずだったのに死ななかった人間に、予定通りちゃんと死んでもらう「修正」のはずなのに、事故を予知する前に撮った写真に、既に死のヒントがあるのは何で?とか、突っ込みどころはたくさんある。
が、映画の狙いがもの凄く明確なので、細かいところの破綻はあまり気にならない。
明るく楽しく悪趣味なホラーが観たい人には、最良の選択であり、それ以上でもそれ以下でもない。
私としては、ある意味想像通り。
期待した範囲で十分満足だった。
今回は、ルーブ・ゴールドバーグの出身地、サンフランシスコ近郊のワイナリー、カレラの「シャルドネ・セントラル・コースト」を。
ブルゴーニュの有名銘柄にも負けない、良質の白。
非常に飲み安いが、奥行きはとても深い。
ま、映画があまりにも軽すぎて物足りないという人は、こちらでお口直しをどうぞ。
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![セントラルコースト・シャルドネ[2001] カレラ(白)Central Coast CHARDONNAY 2001 CALERA](http://thumbnail.image.rakuten.co.jp/@0_mall/onigashima/cabinet/wine01/calera_cc_ch01a.jpg?_ex=64x64)
事故の予知によって死を免れたティーンたちが、執拗に追ってくる「死を実行しようとする力」によって、凝りに凝った殺され方をするスプラッターホラーのシリーズ第三弾。
第一作「ファイナル・デスティネーション」の飛行機事故、第二作「デッドコースター」の大規模交通事故に続いて、今回は何とジェットコースター事故。
前作の「Final Destination2」に「デッドコースター」という邦題をつけた担当者は、どうやら映画の主人公並の、予知能力の持ち主の様だ。(もしかしたら、映画の方が邦題からインスピレーションを得たのかもしれないが)
高校の卒業イベントで、遊園地にやってきたウェンディ(メアリー・エリザベス・ウィンステッド)は、乗るはずだったジェットコースターの事故を予知してしまう。
恐怖に駆られたウェンディは、悲鳴を上げてジェットコースターを降りるが、その直後に実際にジェットコースターは大事故を起こす。
ウェンディと一緒に、数人がジェットコースターを降りて難を逃れたが、そのうちの二人が日焼けサロンの不可解な事故で死亡。
ウェンディと、同じく生き残ったケビン(ライアン・メリマン)は、数年前にも同じように予知で事故から逃れたものの、後から生き残り全員が不可解な死を遂げた事件の存在を知り、自分たちにも死が迫っているのではないかと考える。
ウェンディは、事件当日撮った写真の中に、「死のヒント」が隠されている事を発見するのだが・・・
ホラー映画で、「死の予兆」という物を最初にビジュアル的に表現して、恐怖演出に取り入れたのは76年版の「オーメン」(タイトル自体が「予兆」という意味)が最初ではないかと思う。
あの映画では、カメラマンが死の予兆を写真に撮り、その予兆通りの死に様を見せることで、悪魔の強大な魔力と執拗さを表現していて、写真によって予告された死が、いかにして登場人物を襲うのかというギミックが大きな見せ場となっていた。
言ってみれば、このシリーズは「オーメン」で描かれた死の予兆と、実際に死が訪れる時のギミックの面白さだけを抽出して発展させたような作品だ。
実際今回は、主人公が事故前に撮った写真に、登場人物がどのように死ぬかのヒントが隠されているという設定になっており、いやでも「オーメン」を連想させる。
そう言えば、今年公開されたリメイク版の「オーメン」は、死のギミックに懲りすぎて、逆にこっちの描写をパクった様な印象になってしまっていた。
このシリーズにはジェイソンやフレディのような魅力的な殺人鬼もいないし、「スクリーム」のような捻った展開がある訳でもない。
何しろ相手は姿形のない「死を実行しようとする力」、言わば死神そのものなのだから、殺される側の出来る事は殆んど無い。
精々死の順番に法則を見つけて、その法則を崩してみたらどうなるかと試みるくらいだが、相手が具体的でないだけに、死との対決という要素にドラマ性は薄い。
必然的に映画の見所は、殆んど全て登場人物の死にっぷりという事になる。
監督は第二作のデビット・R・エリスに代わって、シリーズの生みの親でもあるジェームス・ウォンがカムバック。
この人は90年代にテレビの「X-ファイル」などで活躍した人だが、思えばあのシリーズも、しばしば物語に「予兆」を上手く使っていた。
今回は相変わらず、最高に悪趣味な死のシチュエーションを描いてくれる。
写真で漠然と示されたヒントから、一体どんな死が訪れるのか、これはもう笑っちゃうくらい凝った仕掛けで、さながら「ルーブ・ゴールドバーグ・マシン」の様な物だ。
これは非常に簡単な事を、不必要に複雑なプロセスで実行する機械の事で、サンフランシスコ出身のアーティスト、ルーブ・ゴールドバーグの作品に由来する。
一昔前に話題となった、ホンダ・アコードのCMや「ピタゴラスイッチ」に出てくる機械なんかが正にこれ。
この作品の場合、「死」という単純な結果を導き出すのに、恐ろしく複雑かつビジュアル的な仕掛けが幾つも作られていて、これが本作の唯一の見せ場にして最大の特徴となっている。
怖い、というよりも、よくこんな凝った仕掛けを考えたなあというビックリの方の面白さで、その意味ではとてもよく出来ている。
逆に言えば、ぶっちゃけ面白い死にっぷり意外は何にも無い映画で、アメリカのカーニバルのファンハウスみたいなもの。
細かいことを言い出せば、例えばこの映画の死は、予知のせいで死ぬはずだったのに死ななかった人間に、予定通りちゃんと死んでもらう「修正」のはずなのに、事故を予知する前に撮った写真に、既に死のヒントがあるのは何で?とか、突っ込みどころはたくさんある。
が、映画の狙いがもの凄く明確なので、細かいところの破綻はあまり気にならない。
明るく楽しく悪趣味なホラーが観たい人には、最良の選択であり、それ以上でもそれ以下でもない。
私としては、ある意味想像通り。
期待した範囲で十分満足だった。
今回は、ルーブ・ゴールドバーグの出身地、サンフランシスコ近郊のワイナリー、カレラの「シャルドネ・セントラル・コースト」を。
ブルゴーニュの有名銘柄にも負けない、良質の白。
非常に飲み安いが、奥行きはとても深い。
ま、映画があまりにも軽すぎて物足りないという人は、こちらでお口直しをどうぞ。

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![セントラルコースト・シャルドネ[2001] カレラ(白)Central Coast CHARDONNAY 2001 CALERA](http://thumbnail.image.rakuten.co.jp/@0_mall/onigashima/cabinet/wine01/calera_cc_ch01a.jpg?_ex=64x64)


2006年09月11日 (月) | 編集 |
あぶないあぶない。
危うく寝そうになった。
どんなに疲れていても、映画館で寝た事だけは無い私が落ちそうになった。
いやはや一言で言って、観客からお金を取って良いレベルに達していない。
ベストセラー小説の映画化だかなんだか知らないが、こんな物を劇場にかけて恥ずかしくないのだろうか。
ビデオ直行、 ネット配信ONLYでも仕方が無い出来である。
(ネタバレしてます、どうでもいいですが・・・・)
同窓会で久々に出会った武(三宅健)、智彦(松山ケンイチ)、知恵(伊藤歩)、綾(永井流奈)、信久(尾上寛之)、の五人は共通のトラウマを持っていた。
8年前、廃屋のホテルで「親指さがし」という心霊あそびの最中に、五人の友達だった由美子が失踪したのだ。
特に武は、由美子の失踪に人一倍強い責任を感じていた。
親指さがしの世界に、由美子が閉じ込められていると信じる武は、「親指さがし」を再現して、由美子を連れ戻そうとするのだが、失敗。
ところがその夜に、信久が何者かに親指を切り取られて殺害されるという事件が起こる。
ネットに流布する「親指さがしの呪い。」
それは、「親指さがしでいなくなった子供は、大人になると帰ってくる。呪いを解かないと、一緒に遊んだ子供は皆殺される」という物だった。
残された四人は、親指さがしの謎を解こうとするのだが・・・・
困ったな、これ。
本当に褒める所が無い・・・・
脚本もダメなら演出もダメ、演技は総じて学芸会並。
特に主役の三宅健は酷い。
あらゆる台詞のトーンが同じに聞こえる。
彼にとって「感情を込める」とは、「力む」と同義らしい。
もっとも、若い役者たちに同情の余地はある。
彼らを導くべき演出はもっと酷い。
この状況で、人間はこういう動きをしないだろうという演出が多すぎる。
例えば親指さがしの結果、心霊現象(?)で不思議な部屋へ行った少年時代の武は、いきなり机の引き出しを調べ始める。
想像してみて欲しい。
あなたがふと気付くと、見覚えの無い部屋にいる状況を。
まずは部屋を隅々まで見渡し、窓の外を覗いたりしないだろうか。
机の引き出しなどディティールに目が行くのはその後のはずだ。
だが武は、真っ先に机の引き出しをもの凄い勢いで開け始めるのだ。
あるいは公衆便所から奇妙な物音を聞いた信久が、様子を伺いに便所の個室に入る。
入り口から覗けば全て見える、小さな個室である。
なのに信久は、わざわざ奥まで侵入して見渡す。
目の前には壁しかないのに(笑
もう「ドアを閉めて閉じ込めますよ」と予告してる様な演出である。
そこには、状況と演技の整合性への配慮などどこにも無い。
細かい事かも知れないが、全体はディティールの積み重ねである。
この映画には、普通に観ていて疑問に感じる、登場人物の行動が無数にある。
佐野史郎などベテラン俳優をもってしても、演出の不条理までは覆せない。
どんなに芝居が上手かろうが、状況と整合性の無い演技は浮いてしまう。
下手糞な演出のせいで、演技陣は総じて下手糞な芝居に見えてしまっている。
ただ、演出面もまた同情の余地はある。
何故なら脚本がどうにもならない酷い代物だからだ・・・が、監督の熊澤尚人は脚本も自分で書いている(まなべゆきこ・高橋泉との共同脚本)から、どうあがいても言い訳できない責任者だ。
この映画はベストセラー小説を原作としているらしいが、未読なのでどこまで原作に忠実なのかは判らない。
しかし映画に関して言えば、物語は全く支離滅裂で、訳の判らない所だらけだ。
物語は、5人の同級生が同窓会で久々に出会い、ネットに流布する「親指さがしの呪い」という噂に怯え、呪いの真相を探るという謎解きが本筋だ。
物語の中盤、唐突に親指さがしの呪いのルーツは「サキの呪い」だという情報がもたらされるのだが、これがどこから来た話なのかが謎。
一応、武の元にファックスが送られてくるのだが、差出人が誰なのか、一体何故武に送ったのか全く説明が無い。
サキの屋敷の村人が、同じ文章を持っている描写があるので、その村人が送ったのかもしれないが、何故それを武に送ったのかは謎のままだ。
しかも物語が進むにつれ、この上映時間のかなりの部分を占める「サキの呪い」は、本筋と全く関係ない事がわかる。
ミステリの作劇には、本筋とは別の傍流をあえて作り、観客をミスリードするという手法が確かにあるが、この作品の場合そんな高級な物ではない。
30分近い時間を使って、意味不明な「サキの呪い」を出した訳は、「自分の中の闇」というたった一つの台詞を言わせるためだけだ。
もっと奇妙なのは、結局由美子の失踪の真相を、知恵が始めから知っていたという事だ。
彼女は何故8年前に警察に言わなかったのか、8年後の今も何故その事を黙っているのか、真実を知りながら、ありもしない呪いの真相を調べているのだから訳が判らない。
トラウマを忘れていた、という解釈も成り立つが、由美子の失踪が知恵にとってそれ程のトラウマとなっている描写も無い。
だいたい由美子の「隠れ場所」は、始めから設定に無理ありすぎだろう。
更に言ってしまえば、呪いの真犯人の行動原理も滅茶苦茶。
由美子の真相に責任を感じるのは判るが、何でそこから彼自身が呪いになってしまうのかが理解できない。
説明が何も無いから当たり前だが。
それでも、物語の謎めいた部分はまだ多少なりとも興味を持てるから救いがあるのだが、事件の全貌が判ってからがまた長い。
もう終わっている話を、C級ホラーみたいな演出で意味も無く引き伸ばすのは、ただでさえ退屈な映画でグロッキーしている観客に、駄目押しのラッシュを浴びせる様な物である。
もうここまで言ったら、ついでに言っておこう。
音の使い方は殆んど70年代のC級ホラーだ。
今時これはないだろうと思った。
ビジュアルもダサい。
カメラ自体は別に悪くないのだが、どう見ても真夏の真昼間に咲き誇る、造花丸出しの朝顔(昼顔?どちらにしても造花にしか見えない)や、露骨にプラスチッキーな岩、出来の悪い由美子のミイラ(砂になってたけど骨はどこ行ったのよ?)など美術のクオリティが低い。
演出の責任もあるが、もうちょっと見栄えをフォローしてやれば良いのに。
私は、なるべく映画は映画館で観たいと思ってるし、観た映画はたとえ出来が悪くても、なるべく良いところを見つけてポジティブに考えたいと思っている。
が、これに関しては観て後悔した。
無駄金を使いたくなければ、この映画に行ってはいけない。
欠伸とため息、いびきだけが響く映画館というのは精神衛生上も良くない。
もしどうしても観たければ、レンタルビデオで七泊八日レンタルOKになった頃、更に割引券を使って観て調度トントンという程度ではないだろうか。
正直言って、この映画に合わせたい酒は無い。
この映画を引きずって酒を飲んだら、どんな酒も不味くなってしまうだろう。
年に一度出会うかどうかの駄作である。
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いやはや一言で言って、観客からお金を取って良いレベルに達していない。
ベストセラー小説の映画化だかなんだか知らないが、こんな物を劇場にかけて恥ずかしくないのだろうか。
ビデオ直行、 ネット配信ONLYでも仕方が無い出来である。
(ネタバレしてます、どうでもいいですが・・・・)
同窓会で久々に出会った武(三宅健)、智彦(松山ケンイチ)、知恵(伊藤歩)、綾(永井流奈)、信久(尾上寛之)、の五人は共通のトラウマを持っていた。
8年前、廃屋のホテルで「親指さがし」という心霊あそびの最中に、五人の友達だった由美子が失踪したのだ。
特に武は、由美子の失踪に人一倍強い責任を感じていた。
親指さがしの世界に、由美子が閉じ込められていると信じる武は、「親指さがし」を再現して、由美子を連れ戻そうとするのだが、失敗。
ところがその夜に、信久が何者かに親指を切り取られて殺害されるという事件が起こる。
ネットに流布する「親指さがしの呪い。」
それは、「親指さがしでいなくなった子供は、大人になると帰ってくる。呪いを解かないと、一緒に遊んだ子供は皆殺される」という物だった。
残された四人は、親指さがしの謎を解こうとするのだが・・・・
困ったな、これ。
本当に褒める所が無い・・・・
脚本もダメなら演出もダメ、演技は総じて学芸会並。
特に主役の三宅健は酷い。
あらゆる台詞のトーンが同じに聞こえる。
彼にとって「感情を込める」とは、「力む」と同義らしい。
もっとも、若い役者たちに同情の余地はある。
彼らを導くべき演出はもっと酷い。
この状況で、人間はこういう動きをしないだろうという演出が多すぎる。
例えば親指さがしの結果、心霊現象(?)で不思議な部屋へ行った少年時代の武は、いきなり机の引き出しを調べ始める。
想像してみて欲しい。
あなたがふと気付くと、見覚えの無い部屋にいる状況を。
まずは部屋を隅々まで見渡し、窓の外を覗いたりしないだろうか。
机の引き出しなどディティールに目が行くのはその後のはずだ。
だが武は、真っ先に机の引き出しをもの凄い勢いで開け始めるのだ。
あるいは公衆便所から奇妙な物音を聞いた信久が、様子を伺いに便所の個室に入る。
入り口から覗けば全て見える、小さな個室である。
なのに信久は、わざわざ奥まで侵入して見渡す。
目の前には壁しかないのに(笑
もう「ドアを閉めて閉じ込めますよ」と予告してる様な演出である。
そこには、状況と演技の整合性への配慮などどこにも無い。
細かい事かも知れないが、全体はディティールの積み重ねである。
この映画には、普通に観ていて疑問に感じる、登場人物の行動が無数にある。
佐野史郎などベテラン俳優をもってしても、演出の不条理までは覆せない。
どんなに芝居が上手かろうが、状況と整合性の無い演技は浮いてしまう。
下手糞な演出のせいで、演技陣は総じて下手糞な芝居に見えてしまっている。
ただ、演出面もまた同情の余地はある。
何故なら脚本がどうにもならない酷い代物だからだ・・・が、監督の熊澤尚人は脚本も自分で書いている(まなべゆきこ・高橋泉との共同脚本)から、どうあがいても言い訳できない責任者だ。
この映画はベストセラー小説を原作としているらしいが、未読なのでどこまで原作に忠実なのかは判らない。
しかし映画に関して言えば、物語は全く支離滅裂で、訳の判らない所だらけだ。
物語は、5人の同級生が同窓会で久々に出会い、ネットに流布する「親指さがしの呪い」という噂に怯え、呪いの真相を探るという謎解きが本筋だ。
物語の中盤、唐突に親指さがしの呪いのルーツは「サキの呪い」だという情報がもたらされるのだが、これがどこから来た話なのかが謎。
一応、武の元にファックスが送られてくるのだが、差出人が誰なのか、一体何故武に送ったのか全く説明が無い。
サキの屋敷の村人が、同じ文章を持っている描写があるので、その村人が送ったのかもしれないが、何故それを武に送ったのかは謎のままだ。
しかも物語が進むにつれ、この上映時間のかなりの部分を占める「サキの呪い」は、本筋と全く関係ない事がわかる。
ミステリの作劇には、本筋とは別の傍流をあえて作り、観客をミスリードするという手法が確かにあるが、この作品の場合そんな高級な物ではない。
30分近い時間を使って、意味不明な「サキの呪い」を出した訳は、「自分の中の闇」というたった一つの台詞を言わせるためだけだ。
もっと奇妙なのは、結局由美子の失踪の真相を、知恵が始めから知っていたという事だ。
彼女は何故8年前に警察に言わなかったのか、8年後の今も何故その事を黙っているのか、真実を知りながら、ありもしない呪いの真相を調べているのだから訳が判らない。
トラウマを忘れていた、という解釈も成り立つが、由美子の失踪が知恵にとってそれ程のトラウマとなっている描写も無い。
だいたい由美子の「隠れ場所」は、始めから設定に無理ありすぎだろう。
更に言ってしまえば、呪いの真犯人の行動原理も滅茶苦茶。
由美子の真相に責任を感じるのは判るが、何でそこから彼自身が呪いになってしまうのかが理解できない。
説明が何も無いから当たり前だが。
それでも、物語の謎めいた部分はまだ多少なりとも興味を持てるから救いがあるのだが、事件の全貌が判ってからがまた長い。
もう終わっている話を、C級ホラーみたいな演出で意味も無く引き伸ばすのは、ただでさえ退屈な映画でグロッキーしている観客に、駄目押しのラッシュを浴びせる様な物である。
もうここまで言ったら、ついでに言っておこう。
音の使い方は殆んど70年代のC級ホラーだ。
今時これはないだろうと思った。
ビジュアルもダサい。
カメラ自体は別に悪くないのだが、どう見ても真夏の真昼間に咲き誇る、造花丸出しの朝顔(昼顔?どちらにしても造花にしか見えない)や、露骨にプラスチッキーな岩、出来の悪い由美子のミイラ(砂になってたけど骨はどこ行ったのよ?)など美術のクオリティが低い。
演出の責任もあるが、もうちょっと見栄えをフォローしてやれば良いのに。
私は、なるべく映画は映画館で観たいと思ってるし、観た映画はたとえ出来が悪くても、なるべく良いところを見つけてポジティブに考えたいと思っている。
が、これに関しては観て後悔した。
無駄金を使いたくなければ、この映画に行ってはいけない。
欠伸とため息、いびきだけが響く映画館というのは精神衛生上も良くない。
もしどうしても観たければ、レンタルビデオで七泊八日レンタルOKになった頃、更に割引券を使って観て調度トントンという程度ではないだろうか。
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2006年09月10日 (日) | 編集 |
「マイアミ・バイス」と言えば、派手なアクションとスタイリッシュな映像で80年代を代表する、大ヒット刑事ドラマ。
しかし、テレビドラマのスケールアップ版を期待して行くと拍子抜けする。
タイトルだけは同じだが、全くの別物と言っていい。
何しろ誰でも一度は聞いた事があるであろう、あの有名なテーマ曲すら流れないのだ。
テレビシリーズでドン・ジョンソンとフィリップ・マイケル・トーマスが演じたマイアミ警察特捜課の刑事、ソニー・クロケットとリカルド“リコ”・タブスは、コリン・ファレルとジェイミー・フォックスに代変りしたが、まあ何となくオリジナルキャストと似た雰囲気のある二人ではある。
主役二人が、刑事のくせにやたらと目立つフェラーリに乗っていたりする「お約束」は踏襲しているが、ぶっちゃけテレビ版との共通点はソニーとリコのキャラクターだけと言っていい。
テレビ版で製作総指揮を務めていた、シリーズの生みの親、マイケル・マン監督自らによるリメイクの狙いは、80年代的な明るくお気楽なテレビシリーズの世界を大胆にぶち壊し、二十一世紀の新しい「マイアミ・バイス」を作る事だった様だ。
マイアミ警察の特捜課刑事、ソニー(コリン・ファレル)とリコ(ジェイミー・フォックス)が使っていた情報屋の家族が殺され、本人は自殺するという事件が起こる。
情報屋は、ソニーたちがFBIの麻薬組織への捜査に協力させていた人物で、同時に麻薬組織に潜入していたFBI捜査官も殺された。
どうやら捜査組織内に情報の漏洩があるらしい。
FBIは麻薬組織に顔の割れていないソニーとリコに、麻薬組織への潜入捜査を依頼する。
組織の幹部ホセ・イエロ(ジョン・オーティス)に、「運び屋」として接触した二人は、マイアミへの運びを成功させた事で、組織の財務を担当するアジア系の美女イザベラ(コン・リー)の信頼を得る事に成功するのだが・・・・
なかなかムーディなフィルムノワールとなっている。
マイケル・マンの映画といえば、どちらかというとスタイリッシュで男臭いハードボイルドというイメージがある。
魅力的な男性キャラとは対照的に、女性の影が薄くて、実際のところ彼の映画の女性キャラは殆んど覚えていない。
今回も、話の本筋はワイルドなクライムアクションではあるのだが、コン・リー演じるイザベラとソニーのロマンスが、物語の傍流として設定されていて、過去の作品とはかなり印象が異なる。
フロリダから南米、キューバへ、007ばりに展開する大走査線に、最初は捜査のために接近したソニーとイザベラの情熱的な恋愛が絡み合い、アクションとロマンスの二層構造で楽しめる様になっている。
ストレートな物語を映像の力で味付けする、マン流のノワールに、初めて魅力的なファム・ファタールが登場したというところだろうか。
しかし、ドラマとしてのバランスはあまり良いとは言えない。
巨大犯罪組織への潜入捜査という本筋と、ソニーとイザベラのロマンスが乖離してしまっている。
確かに、この物語の場合、ソニーとイザベラの仲が深まれば深まるほど、ドラマチックなジレンマが生まれ、サスペンスが高まる、という構造にはなっているのだが、少々そっちに力が入りすぎている。
キューバでのバカンスのシークエンスなどは、いくらなんでも長すぎる。
二人のロマンスの間、他のキャラクターの動きは殆ど描かれないから、突然別種の映画になった様に感じてしまう。
おかげで刑事二人のコンビ物なのに、イザベラとのシークエンスがあるソニーの方にドラマの比重が圧倒的に傾いてしまい、リコは殆ど脇役状態。
よくジェイミー・フォックスがこの脚本でOKしたものだ。(その分、コン・リーが儲け役になっているのだが)
ソニーとイザベラのロマンスと並行して、リコや敵側組織の動きを描いた方がドラマ的なメリハリも出るし、バランスも良くなるのだが、現状ではフィルムノワールの真ん中が突然情熱的なラブストーリーになって、物語が両断されてしまっている。
本来ならば、中間部分で盛り上がったソニーとイザベラの関係が、後半の展開に効いてくるはずなのだが、あまり生かされていないのも残念だ。
マイケル・マンの描く男たちの世界は、あくまでもストイックでそれが魅力でもあるのだが、少し艶っぽい展開を盛り込んだ今回は、もう少しキャラクターの感情の機微をドラマに組み込んだ方が良かったのではないだろうか。
逆にベタベタな展開ながらも、恋愛感情を上手くサスペンスの盛り上げに使っていたのが、「M.i.Ⅲ」だった。
もっともマンのスタイルからすると、あんな判り易い展開はダサ過ぎて考えられないのかもしれないが。
映像は相変わらず格好良いし、アクションもそれ自体は見応え十分。
しかし、マイケル・マンの男臭いフィルムノワールを期待していくと少々不完全燃焼だし、往年のテレビシリーズの映画版としてはあまりにも違い過ぎる。
それなりに楽しめるし、悪くは無いけど、何となく中途半端な居心地の悪い作品だ。
完成された古いものを壊して、その基礎を変えずに全く新しい物を築くというのは、オリジナルの作者であってもなかなかに難しいものであるらしい。
映画の後は焼ける程に熱いテキーラを。
カリブ海の海風の様に、香りが強くコクのある「ミラグロ・レポサド」は、ボトルデザインは洒落ているが、味の方は男臭く、ストイックだ。
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しかし、テレビドラマのスケールアップ版を期待して行くと拍子抜けする。
タイトルだけは同じだが、全くの別物と言っていい。
何しろ誰でも一度は聞いた事があるであろう、あの有名なテーマ曲すら流れないのだ。
テレビシリーズでドン・ジョンソンとフィリップ・マイケル・トーマスが演じたマイアミ警察特捜課の刑事、ソニー・クロケットとリカルド“リコ”・タブスは、コリン・ファレルとジェイミー・フォックスに代変りしたが、まあ何となくオリジナルキャストと似た雰囲気のある二人ではある。
主役二人が、刑事のくせにやたらと目立つフェラーリに乗っていたりする「お約束」は踏襲しているが、ぶっちゃけテレビ版との共通点はソニーとリコのキャラクターだけと言っていい。
テレビ版で製作総指揮を務めていた、シリーズの生みの親、マイケル・マン監督自らによるリメイクの狙いは、80年代的な明るくお気楽なテレビシリーズの世界を大胆にぶち壊し、二十一世紀の新しい「マイアミ・バイス」を作る事だった様だ。
マイアミ警察の特捜課刑事、ソニー(コリン・ファレル)とリコ(ジェイミー・フォックス)が使っていた情報屋の家族が殺され、本人は自殺するという事件が起こる。
情報屋は、ソニーたちがFBIの麻薬組織への捜査に協力させていた人物で、同時に麻薬組織に潜入していたFBI捜査官も殺された。
どうやら捜査組織内に情報の漏洩があるらしい。
FBIは麻薬組織に顔の割れていないソニーとリコに、麻薬組織への潜入捜査を依頼する。
組織の幹部ホセ・イエロ(ジョン・オーティス)に、「運び屋」として接触した二人は、マイアミへの運びを成功させた事で、組織の財務を担当するアジア系の美女イザベラ(コン・リー)の信頼を得る事に成功するのだが・・・・
なかなかムーディなフィルムノワールとなっている。
マイケル・マンの映画といえば、どちらかというとスタイリッシュで男臭いハードボイルドというイメージがある。
魅力的な男性キャラとは対照的に、女性の影が薄くて、実際のところ彼の映画の女性キャラは殆んど覚えていない。
今回も、話の本筋はワイルドなクライムアクションではあるのだが、コン・リー演じるイザベラとソニーのロマンスが、物語の傍流として設定されていて、過去の作品とはかなり印象が異なる。
フロリダから南米、キューバへ、007ばりに展開する大走査線に、最初は捜査のために接近したソニーとイザベラの情熱的な恋愛が絡み合い、アクションとロマンスの二層構造で楽しめる様になっている。
ストレートな物語を映像の力で味付けする、マン流のノワールに、初めて魅力的なファム・ファタールが登場したというところだろうか。
しかし、ドラマとしてのバランスはあまり良いとは言えない。
巨大犯罪組織への潜入捜査という本筋と、ソニーとイザベラのロマンスが乖離してしまっている。
確かに、この物語の場合、ソニーとイザベラの仲が深まれば深まるほど、ドラマチックなジレンマが生まれ、サスペンスが高まる、という構造にはなっているのだが、少々そっちに力が入りすぎている。
キューバでのバカンスのシークエンスなどは、いくらなんでも長すぎる。
二人のロマンスの間、他のキャラクターの動きは殆ど描かれないから、突然別種の映画になった様に感じてしまう。
おかげで刑事二人のコンビ物なのに、イザベラとのシークエンスがあるソニーの方にドラマの比重が圧倒的に傾いてしまい、リコは殆ど脇役状態。
よくジェイミー・フォックスがこの脚本でOKしたものだ。(その分、コン・リーが儲け役になっているのだが)
ソニーとイザベラのロマンスと並行して、リコや敵側組織の動きを描いた方がドラマ的なメリハリも出るし、バランスも良くなるのだが、現状ではフィルムノワールの真ん中が突然情熱的なラブストーリーになって、物語が両断されてしまっている。
本来ならば、中間部分で盛り上がったソニーとイザベラの関係が、後半の展開に効いてくるはずなのだが、あまり生かされていないのも残念だ。
マイケル・マンの描く男たちの世界は、あくまでもストイックでそれが魅力でもあるのだが、少し艶っぽい展開を盛り込んだ今回は、もう少しキャラクターの感情の機微をドラマに組み込んだ方が良かったのではないだろうか。
逆にベタベタな展開ながらも、恋愛感情を上手くサスペンスの盛り上げに使っていたのが、「M.i.Ⅲ」だった。
もっともマンのスタイルからすると、あんな判り易い展開はダサ過ぎて考えられないのかもしれないが。
映像は相変わらず格好良いし、アクションもそれ自体は見応え十分。
しかし、マイケル・マンの男臭いフィルムノワールを期待していくと少々不完全燃焼だし、往年のテレビシリーズの映画版としてはあまりにも違い過ぎる。
それなりに楽しめるし、悪くは無いけど、何となく中途半端な居心地の悪い作品だ。
完成された古いものを壊して、その基礎を変えずに全く新しい物を築くというのは、オリジナルの作者であってもなかなかに難しいものであるらしい。
映画の後は焼ける程に熱いテキーラを。
カリブ海の海風の様に、香りが強くコクのある「ミラグロ・レポサド」は、ボトルデザインは洒落ているが、味の方は男臭く、ストイックだ。

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2006年09月03日 (日) | 編集 |
すばらしい。
監督第二作にして、「殺人の追憶」という殿堂級の傑作を物にしたポン・ジュノが、何と「怪獣映画」をやると聞いて以来、観たくてたまらなかった作品だが、今日観て確信した。
ポン・ジュノは、韓国は勿論、現在世界の映画界において、最高の才能の一人である。
この人の映画に「娯楽だから」「社会派だから」というエクスキューズは無い。
時代性のある骨太のプロット、様々な比喩表現を駆使した高い芸術性を持ちながら、完璧に面白い。
2000年。
漢江上流の米軍基地から、劇薬ホルムアルデヒドが垂れ流されるという事件が発生。
ソウルの中心を流れる大河漢江は汚染される。
6年後、漢江の河川敷で売店を営むパク・ヒボン(ピョン・ヒボン)とその息子カンドゥ(ソン・ガンホ)は、今日も行楽客のためにビールを出したり、スルメを焼いたりする変わり映えのしない毎日を送っている。
すると突然、彼らの前に魚に似た正体不明の巨大生物が出現、人々を襲い始める。
カンドゥは娘のヒョンソを連れて逃げようとするが、一瞬はぐれた瞬間、怪物の長い尾がヒョンソに巻き付き、そのまま漢江に姿を消してしまう。
怪物の犠牲者の合同葬にはカンドゥの弟で飲んだくれのナミル(パク・ヘイル)、妹でアーチェリー選手のナムジュ(ペ・ドゥナ)もやって来た。
ところがそこに政府の役人たちが踏み込み、怪物に接触したカンドゥ一家は、未知のウィルスに感染した疑いで隔離されてしまう。
その夜、カンドゥの携帯電話が鳴る。
電話の向こうから聞こえてくるのは、死んだはずのヒョンソの声だ。
「お父さん、助けて。私は今、大きな排水溝の中・・・」
冒頭の米軍基地のエピソードから、六年後の怪物の出現、少女の拉致にいたるまでの展開は正に圧巻である。
短い時間で状況をしっかりと説明しながら、キャラクターの性格を描写し、尚且つ今までに観た事も無いような怪物スペクタクルを放り込む。
市井の人々の生活に、突如として宇宙からの侵略者が出現する、スピルバーグの「宇宙戦争」を思わせる展開だが、このあたりの演出力は実際スピルバーグ級だ。
観客は、漢江の河川敷で怪物に襲われた人々と同じように、全く無防備のままパニックに襲われる。
そしてヒョンソからの電話によって生存が知らされると、今度は怪物を追う一家の前に、韓国政府やアメリカという予期せぬ壁が立ちふさがり、物語のテーマ性と重層的な構造が明らかになる。
日本の大怪獣「ゴジラ」が米軍の水爆実験により、ケロイドの皮膚を持つ巨大怪獣として生まれ、アメリカの核に対する強い批判をテーマとして持っていたように、今回も原因は米軍である。
2000年に実際に起こったホルムアルデヒドの垂れ流し事件にヒントを得て製作された本作は、怪物自体が米軍とアメリカに対する強い批判のメタファーの性格を持つ。
一部にはその事をもって、この作品を「反米映画」と括る向きもあるようだが、ポン・ジュノの批判精神の矛先は、何もアメリカだけに限らない。
限られた情報に基づくいい加減な報道で、市民がウィルスパニックに陥る状況は、SARS騒動を思わせるし、娘を怪物に拉致された家族の訴えに政府が耳を貸さず、何もしてくれないという状況は北朝鮮による拉致と韓国政府の無策ぶりを思わせる。
基本的にポンジュノの批判は、アメリカ、自国政府、マスコミと、現在韓国における「権力」全てに向けられているように思える。
勿論、モンスター映画で声高に反権力を唱えるような野暮な事はしない。
ポン・ジュノのデビュー作、「ほえる犬は噛まない」以来の、皮肉のスパイスが効いたシニカルな笑いは今回も健在。
カンドゥ一家のユーモラスなキャラクター付けもあって、ナンセンスなギャグを通して現代韓国の歪みが浮かび上がる。
風刺映画の王道的な手法である。
もっともアメリカやWHOが、怪物騒動に無茶な介入をするあたりは、狙いとしてはブラックジョークなのだろうが、映画全体のトーンと今ひとつマッチしておらず、単に荒っぽい展開に見えてしまうのが惜しい。
また同じように狙いは判るがやや饒舌過ぎる音楽も、もうちょっと抑えた方が味わい深くなったと思う。
ポン・ジュノ映画の常連俳優陣は、今回も味ありすぎのソン・ガンホを筆頭に、皆役に嵌っているが、やはり主役は「怪物」だ。
ピーター・ジャクソンが設立したニュージーランドWETAの手による怪物は、魚類とも両生類ともつかない独特のおぞましい造形で、日本的な「怪獣」というよりはハリウッド映画のモンスターに近い。
尻尾を使って橋脚にぶら下がる行動や、両生類のような動きは「レリック」や「ミミック」を思わせるが、絶妙なのがサイズ。
小型のトラックくらいの体は大きすぎず小さすぎず、人間には十分恐ろしいが、ちょっと頑張れば倒せそうなサイズである。
生物を超越して、殆んど神のごとき存在となってしまった日本の「怪獣」は、もはや市井の人々の視線に降りてくるのは不可能な存在だが、この怪物は人間によって生み出され、人間と対決するという存在意義を強くにじませる。
7,80年代の韓国の高度成長期は、嘗て「漢江の奇跡」と呼ばれた。
豊かさを象徴する奇跡の河から、今度は得体の知れない怪物が現れる。
淀んだ色の都会の大河は、煌びやかな都市の裏に人知れず消えていった様々な矛盾や闇が沈殿する異界だ。
漢江のナナシの怪物もまた、現代韓国の生み出した不のメタファーなのかもしれない。
庶民であるカンドゥ一家は、そんな怪物に翻弄され、痛ましい犠牲を出しながらも強かに生きてゆく。
彼らの人生もまた、河の流れの様に留まる事は無い。
さてさて、漢江よりももっと沈殿物の多そうな、東京の隅田川あたりには、一体何が潜んでいるのやら。
今回は劇中で象徴的に使われる韓国ビールの「ハイト」でシメを。
韓国のビールは、全体にアメリカのビールと日本のビールの中間的な味わいで、適度なコクとすっきりした喉越しが魅力。
ビールの味はそれぞれの国の気候によってずい分と方向性が違うのだが、これも夏のソウルあたりで飲むと一番旨いのだろう。
日本で飲むならどっちかと言うと秋のイメージかな。
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ハイトビール(500ml瓶12本)
文句なしの傑作!
センス抜群のポン・ジュノのデビュー作
監督第二作にして、「殺人の追憶」という殿堂級の傑作を物にしたポン・ジュノが、何と「怪獣映画」をやると聞いて以来、観たくてたまらなかった作品だが、今日観て確信した。
ポン・ジュノは、韓国は勿論、現在世界の映画界において、最高の才能の一人である。
この人の映画に「娯楽だから」「社会派だから」というエクスキューズは無い。
時代性のある骨太のプロット、様々な比喩表現を駆使した高い芸術性を持ちながら、完璧に面白い。
2000年。
漢江上流の米軍基地から、劇薬ホルムアルデヒドが垂れ流されるという事件が発生。
ソウルの中心を流れる大河漢江は汚染される。
6年後、漢江の河川敷で売店を営むパク・ヒボン(ピョン・ヒボン)とその息子カンドゥ(ソン・ガンホ)は、今日も行楽客のためにビールを出したり、スルメを焼いたりする変わり映えのしない毎日を送っている。
すると突然、彼らの前に魚に似た正体不明の巨大生物が出現、人々を襲い始める。
カンドゥは娘のヒョンソを連れて逃げようとするが、一瞬はぐれた瞬間、怪物の長い尾がヒョンソに巻き付き、そのまま漢江に姿を消してしまう。
怪物の犠牲者の合同葬にはカンドゥの弟で飲んだくれのナミル(パク・ヘイル)、妹でアーチェリー選手のナムジュ(ペ・ドゥナ)もやって来た。
ところがそこに政府の役人たちが踏み込み、怪物に接触したカンドゥ一家は、未知のウィルスに感染した疑いで隔離されてしまう。
その夜、カンドゥの携帯電話が鳴る。
電話の向こうから聞こえてくるのは、死んだはずのヒョンソの声だ。
「お父さん、助けて。私は今、大きな排水溝の中・・・」
冒頭の米軍基地のエピソードから、六年後の怪物の出現、少女の拉致にいたるまでの展開は正に圧巻である。
短い時間で状況をしっかりと説明しながら、キャラクターの性格を描写し、尚且つ今までに観た事も無いような怪物スペクタクルを放り込む。
市井の人々の生活に、突如として宇宙からの侵略者が出現する、スピルバーグの「宇宙戦争」を思わせる展開だが、このあたりの演出力は実際スピルバーグ級だ。
観客は、漢江の河川敷で怪物に襲われた人々と同じように、全く無防備のままパニックに襲われる。
そしてヒョンソからの電話によって生存が知らされると、今度は怪物を追う一家の前に、韓国政府やアメリカという予期せぬ壁が立ちふさがり、物語のテーマ性と重層的な構造が明らかになる。
日本の大怪獣「ゴジラ」が米軍の水爆実験により、ケロイドの皮膚を持つ巨大怪獣として生まれ、アメリカの核に対する強い批判をテーマとして持っていたように、今回も原因は米軍である。
2000年に実際に起こったホルムアルデヒドの垂れ流し事件にヒントを得て製作された本作は、怪物自体が米軍とアメリカに対する強い批判のメタファーの性格を持つ。
一部にはその事をもって、この作品を「反米映画」と括る向きもあるようだが、ポン・ジュノの批判精神の矛先は、何もアメリカだけに限らない。
限られた情報に基づくいい加減な報道で、市民がウィルスパニックに陥る状況は、SARS騒動を思わせるし、娘を怪物に拉致された家族の訴えに政府が耳を貸さず、何もしてくれないという状況は北朝鮮による拉致と韓国政府の無策ぶりを思わせる。
基本的にポンジュノの批判は、アメリカ、自国政府、マスコミと、現在韓国における「権力」全てに向けられているように思える。
勿論、モンスター映画で声高に反権力を唱えるような野暮な事はしない。
ポン・ジュノのデビュー作、「ほえる犬は噛まない」以来の、皮肉のスパイスが効いたシニカルな笑いは今回も健在。
カンドゥ一家のユーモラスなキャラクター付けもあって、ナンセンスなギャグを通して現代韓国の歪みが浮かび上がる。
風刺映画の王道的な手法である。
もっともアメリカやWHOが、怪物騒動に無茶な介入をするあたりは、狙いとしてはブラックジョークなのだろうが、映画全体のトーンと今ひとつマッチしておらず、単に荒っぽい展開に見えてしまうのが惜しい。
また同じように狙いは判るがやや饒舌過ぎる音楽も、もうちょっと抑えた方が味わい深くなったと思う。
ポン・ジュノ映画の常連俳優陣は、今回も味ありすぎのソン・ガンホを筆頭に、皆役に嵌っているが、やはり主役は「怪物」だ。
ピーター・ジャクソンが設立したニュージーランドWETAの手による怪物は、魚類とも両生類ともつかない独特のおぞましい造形で、日本的な「怪獣」というよりはハリウッド映画のモンスターに近い。
尻尾を使って橋脚にぶら下がる行動や、両生類のような動きは「レリック」や「ミミック」を思わせるが、絶妙なのがサイズ。
小型のトラックくらいの体は大きすぎず小さすぎず、人間には十分恐ろしいが、ちょっと頑張れば倒せそうなサイズである。
生物を超越して、殆んど神のごとき存在となってしまった日本の「怪獣」は、もはや市井の人々の視線に降りてくるのは不可能な存在だが、この怪物は人間によって生み出され、人間と対決するという存在意義を強くにじませる。
7,80年代の韓国の高度成長期は、嘗て「漢江の奇跡」と呼ばれた。
豊かさを象徴する奇跡の河から、今度は得体の知れない怪物が現れる。
淀んだ色の都会の大河は、煌びやかな都市の裏に人知れず消えていった様々な矛盾や闇が沈殿する異界だ。
漢江のナナシの怪物もまた、現代韓国の生み出した不のメタファーなのかもしれない。
庶民であるカンドゥ一家は、そんな怪物に翻弄され、痛ましい犠牲を出しながらも強かに生きてゆく。
彼らの人生もまた、河の流れの様に留まる事は無い。
さてさて、漢江よりももっと沈殿物の多そうな、東京の隅田川あたりには、一体何が潜んでいるのやら。
今回は劇中で象徴的に使われる韓国ビールの「ハイト」でシメを。
韓国のビールは、全体にアメリカのビールと日本のビールの中間的な味わいで、適度なコクとすっきりした喉越しが魅力。
ビールの味はそれぞれの国の気候によってずい分と方向性が違うのだが、これも夏のソウルあたりで飲むと一番旨いのだろう。
日本で飲むならどっちかと言うと秋のイメージかな。

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