酒を呑んで映画を観る時間が一番幸せ・・・と思うので、酒と映画をテーマに日記を書いていきます。 映画の評価額は幾らまでなら納得して出せるかで、レイトショー価格1200円から+-が基準で、1800円が満点です。
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トンマッコルへようこそ・・・・・評価額1450円
2006年10月29日 (日) | 編集 |
スタジオジブリ的アニメ風実写映画。
人里はなれた山中に、誰も知らない理想郷があるという物語や伝説は多い。
古くは陶淵明の「桃花源記」の中の桃源郷、近代ではヒルトンの「失われた地平線」のシャングリラなどがその代表だろう。
この映画に登場するトンマッコル(韓国語で「子供の様に純粋な」という意味)も、そんな理想郷の一つ。
現在まで尾を引く現実の戦争と、限りなくファンタジーに近い理想郷伝説を掛け合わせた、極めてユニークな力作である。

朝鮮戦争が激しさを増す1950年。
江原道の山奥に、一機の米軍偵察機が墜落する。
パイロットのスミス(スティーブ・テシュラー)を助けたのは、トンマッコルという村に住む人々。
そこは前世紀にタイムスリップしたような不思議な村で、村人は外界と隔絶した自給自足の生活を営んでいるために、戦争のことなど知らない。
同じ頃、更に二つのグループが、引き寄せられる様にトンマッコルにやって来る。
一つは韓国軍のピョ少尉(シン・ハギュン)と衛生兵のムン・サンサン(ソ・ジェギョン)。
もう一つは、村の少女ヨイル(カン・ヘジョン)に導かれた、人民軍部隊の生き残りでリ中隊長(チョン・ジェヨン)、下士官のヨンヒ(イム・ハリョン)、若い兵士のテッキ(リュ・ドッグァン)の3人だ。
敵味方6人の軍人たちは、最初こそ反目するものの、穏やかな村人たちの中で暮らすうちに、徐々に心の武装を解き、人間に戻ってゆく。
しかし、トンマッコルを敵の対空陣地と勘違いした国連軍は、スミスを救出して一体を爆撃する計画を立てていた・・・


音楽が久石譲という事もあるが、彩度の高い絵具で描いた様な、人工的な画柄で描写されるトンマッコルは、まるでスタジオジブリのアニメーションに登場する異界の村の様に、漫画チックで現実感の無いファンタジーワールドだ。
勿論、これは狙いだろう。
トンマッコルは、現実であって現実には存在しない。
この映画で、とても印象的に描かれているのが、トンマッコルのいたるところで群れているだ。
洋の東西を問わず、蝶はしばしば魂の象徴として描写される。
トンマッコルは、戦火の朝鮮半島で命を落とした数百万の犠牲者の魂が静かに休む、彼岸の地なのだ。

そんな村にやって来た、心に傷を負った6人の兵士たちは、やがて俗世の心を捨て、安らぎを取り戻す。
だが、激しさを増す戦争は、異界であるトンマッコルまで現実世界に引き戻す。
6人の兵士たちは、自らの浄化と引き換えに、図らずも清浄の地を汚してしまったことに、まだ気付かない。
そして外界からの悪意を持った侵入者である、空挺部隊が舞い降りる時、無数の蝶がトンマッコルから飛び去ってゆく。
戦場となるトンマッコルはもはや安息の地ではない。
それ故に、理想郷の巫女の役割を持つ少女ヨイルは死に、トンマッコルは戦争と言う現世の現象の前に、取るに足らない田舎の村として出現せざるをえなくなる。
だが、この村で人間である事を取り戻した6人が、再び軍服の兵士に戻る時、彼らが守るべき物として選んだのは他ならぬトンマッコルだった。

異なった背景を持つ6人の中でも、韓国軍のピョ少尉と人民軍のリ中隊長は、それぞれに自分の責任で沢山の命を奪ってきたと言うトラウマを抱えている。
そんな彼らにとって、死者の魂の休まる場であるトンマッコルを守るのは、ある意味で必然なのだ。
それは、彼らの命を賭したトンマッコルの再浄化に他ならない。

ラスト30分の彼らの戦いは、迫力満点で圧巻の仕上がり。
僅かな兵力で、空を行く爆撃部隊をトンマッコルから引き離し、自分たちに引き付けようとするクライマックスは、まるで地上vs空の「七人の侍」だ。(人数足りないけど)
これが長編デビュー作となる、パク・クァンヒョン監督は、アニメーション的実写とも言うべき、独特の映像センスを存分にみせつける。
韓国からは、また一人注目すべき映画作家が登場した。

力作である。
ただ、凝りに凝った映像が、しばしば映画のテンポを壊してしまっているのは残念。
見事なビジュアルイメージを沢山見せようとして、間延びしてしまっているカットが多々ある。
また敵味方同士の睨み合いなど、前半部分の演出はやや一本調子で、もう少し刈り込めばもっとテンポの良い観易い作品になったと思う。
この辺りは、新人監督の経験の少なさが出てしまったところかも知れない。

全てが終わった後の、意外なラストシーンは、様々に解釈できそうだ。
私は、あれは同じ時間の同じ場所にある、人々の魂が暮らすもう一つのトンマッコルだと思ったのだが、たぶん観た人それぞれの解釈が正解という事で良いのだろう。

この不思議な映画には、不思議なお酒を付け合せよう。
その名も「酔蝶花」という。
福井県の朝日酒造の純米吟醸酒で、なんと中に桜の花と金箔が入っており、花に舞う蝶を表現している。
キワモノと思いきや、お味の方もなかなかの物。
コストパフォーマンスは高いとは言えないが、これはあくまでもあそび心。
贈り物でこんな酒をもらったら、ちょっとビックリするかも知れない。

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桜と金箔が入ってます酔蝶花 720ml
酔蝶花


久石譲による渾身の力作


本作へ強い影響を与えていそうだ


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父親たちの星条旗・・・・・評価額1700円
2006年10月26日 (木) | 編集 |
一枚の有名な写真がある。
太平洋戦争の激戦地、硫黄島の擂鉢山の山頂に、星条旗を突き立てる6人のアメリカ兵を写したものだ。
1945年2月23日にAP通信のジョー・ローゼンタールによって撮影され、ピューリッツァー賞を受賞したこの写真は、おそらく戦争報道の歴史上、もっとも有名な写真となった。
アメリカの勝利を予感させる、この写真に写っていた兵士のうち3名は、その後の戦闘で死亡。
政府は残る3名を帰国させ、英雄として祭り上げ、戦時国債販売キャンペーンに参加させる。
しかし、この写真はある種のやらせだった。
激戦を制し、硫黄島陥落の瞬間に撮影されたように見える写真は、とりあえず擂鉢山だけ落した後、戦闘が小康状態の時に山に登って立てられた物であり、しかも擂鉢山の星条旗は実は2本あった。
一本目は立てられた直後に回収され、彼ら3人は二本目の星条旗を立てたメンバーだった。
つまり、彼ら3人は硫黄島作戦に参加していただけのただの兵士で、特別な武功をたてた訳でもなく、単に写真撮影の為に国旗を立てただけだったのだ。
クリント・イーストウッド監督と脚本のポール・ハギスウィリアム・ブロイレスJrは、図らずも英雄として故国に迎えられた3人の平凡な兵士の葛藤と、硫黄島の戦場を交互に描き、英雄とは何か、個人にとって戦争とは何か という骨太なテーマを真っ向から描く。
なおこの作品は、硫黄島二部作として企画されており、硫黄島攻防戦をアメリカ側からの視点で描いた本作に続いて、日本側からの視点で描かれた「硫黄島からの手紙」がまもなく封切られる。

1945年2月。
小笠原諸島硫黄島に米軍が上陸。
日本軍にとっては本土防衛の拠点であり、アメリカ軍にとっては日本本土攻略の拠点。
両軍の一進一退の攻防が繰り広げられるが、数日後硫黄島からの一枚の写真が、全米を沸かせる。
島の最高峰である擂鉢山に、星条旗を掲げる米兵たちの写真が、新聞の一面を飾ったのだ。
長期化する戦争に財政が逼迫していたアメリカ政府は、写真に写っている兵士を本土に呼び戻し、戦時国債の販促キャンペーンに利用しようとする。
6名の兵士のうち、3人は既に戦死しており、海兵隊のレニー・ギャグノン(ジェシー・ブラッドフォード)とアイラ・ヘイズ(アダム・ビーチ)、海軍衛生兵のジョン・”ドク”・ブラッドリー(ライアン・フィリップス)の三人が呼び戻される。
死の恐怖に怯える戦場から一転、まるでハリウッドスターの様に扱われる3人だったが、あの写真には、世間が知らない秘密があった・・・


凄まじい戦闘シーンに目を奪われる。
砲弾の炸裂音がズシンと腹に響き、機関銃の弾丸は空気を切り裂くように迫ってくる。
「プライベート・ライアン」の有名なオマハビーチのシーンをさらにリアルにしたような、まるで自分が戦場の中に投げ込まれたような感覚を覚える。
間違いなく映画史上に残る、強烈な戦場描写だ。
一転してアメリカ本土。
花火にサーチライト、ド派手な演出の元、硫黄島の英雄達がスポットライトを浴びる。
絶望と死が支配する戦場と、あまりにも華やかで平和な銃後
しかしその平和は、実は戦場の兵士によって辛うじて守られている、言わば「仮の平和」である事を意識している者は、英雄として迎えられた3人の兵士以外にはいない。
そして戦場でこの世界の裏側を這いずり回り、深く傷つけられた彼らは、故国でまた偽の表舞台を歩かせられ、さらに深い心の傷を負うのだ。

映画の作りはちょっと複雑だ。
帰国後の彼らと、戦場の彼らが交互に描かれ、全体としてはドクの息子でこの作品の原作者でもあるジェームス・ブラッドリーの語りで構成される。
ただし、彼が語り部としての役割を与えられるのは、起承転結の「結」に入ってからであり、映画の大半で語り部の役目をするのは父であるドクである。
ドクから息子であるジェームスへ視点が移り、物語を俯瞰することで、60年前に起こった一つの物語に現在の視点、現在に描く意味を与えている。
たぶん多くの人が比較するであろう、また実際本作へも大きな影響を与えていると思われる「プライベート・ライアン」と比べても、本作の現在性は明らかだ。
三人の兵士の中でも、英雄扱いに有頂天になって行くレニーと、逆に罪悪感から自己崩壊を起こして行くアイラの間で、ドクは一番ニュートラルなポジションを与えられ、観客とあの時代との窓口になっている。

しかし、この映画の感情の面での主人公と言えるのは、アイラであろう。
ネイティブアメリカンの出身であるアイラは、初めから葛藤を抱えている。
多くのネイティブアメリカンは、白人社会に自分達を認めさせるために従軍した。
「征服者のために戦う」という自己矛盾に蓋をして。
アイラ自身の背景は、それほど明確に描かれている訳ではないが、元々抱えている矛盾の上に、さらに偽の英雄と言う矛盾が重なり、徐々に内面から壊れてゆく。
イーストウッドは、このキャラクターにかなりの愛情を注ぎ、丁寧に描写する。
それはアイラこそが、現場の兵士と銃後の国家という、同じ目的を持っているように見えながら、実際には現場は国家の目的のための駒にしか過ぎないという現実を体現する存在だからだろう。
いつ死ぬか判らない戦場に送り返される時、アイラが見せるほっとした笑顔が、国家に裏切られた個人を象徴して切ない。
イーストウッドは国家によって作り出された様々な「伝説」を辛らつに批判する。
「米軍は決して兵士を見捨てない」という、映画や小説でもたびたび登場し、象徴的に語られるフレーズも、真実の一面であって全てではないという事実を表現する事を躊躇しない。
そして、見捨てないのは軍や政府ではなく、現場の兵士一人一人であるという、ある意味当たり前の真実を突きつけるのだ。

激しく感情が動かされるとか、涙が出るとかいう映画ではないが、観終わってから心に染み入る様に映画が自分の中に広がってゆき、感情が長く尾を引く。
ただこの作品への最終的な評価は、やはりもう一本の「硫黄島からの手紙」を待ちたいと思う。
勿論この作品だけでもしっかりと完結しているし、テーマも語られている。
しかし、対になる作品があると判って観ると、やはりそういう作りになっているのだ。
日本兵を、殆ど顔の無い単なる「敵」として描いたのも、リアリズムという理由の他に、もう一本が控えているからだろう。
と言う訳で、今回の評価は暫定である。
「硫黄島からの手紙」が待ち遠しい。

それにしても、今現在によくこの作品を作った物だ。
60年前の物語とはいえ、現在の視点をもったこの作品は、現実に今も戦争を遂行しているアメリカにとってあまりにもリアルだ。
案の定、この作品は共和党右派から激しい非難を浴びているらしい。
イラク戦争でも、アメリカ政府はジェシカ・リンチ上等兵の救出作戦をプロパガンダに利用しようとして、逆に批判されるという一幕があった。
結局のところ、本質は何も変わっていないのだ。

なお、過去のイーストウッド作品の例に漏れず、この作品も物語からデコレーションを極力削ぎ落とし、必要以上の説明を避けている。
イーストウッドは観客を甘やかさない。
別の言い方をすれば、観客を信用して映画を作っている。
太平洋戦争のある程度の流れ、硫黄島という場所の意味程度は、観客も当然理解しているという前提で作られた映画なので、自信の無い方は予習しておいた方が良いだろう。
ただ、この点に関しては、字幕の情報量の少なさも残念だ。
台詞の一つ一つに何気なく重要なインフォメーションが含まれているのだが、簡略な字幕でかなりの情報が抜け落ちている。
読みやすさは重要だが、ここはもう少し詰め込んでも良かったのではないだろうか。

イーストウッドの映画を観ると、わびさびの心のを感じて無性に日本酒が飲みたくなる。
それは、彼の映画がある意味でとてもハリウッド的ながら、根底に洋の東西を越えた精神性があるからだろう。
今回は頑なに純米酒だけを造りつづける、埼玉県の神亀から、古酒のブレンド酒である「ひこ孫 時のながれ」をチョイス。
長い歳月で熟成されるには、元の酒に相当のクオリティが必要。
この作品にはそれだけの酒とつりあう価値があると思う。
果たして、「硫黄島からの手紙」の後に、これ以上の酒を選ぶ事が出来るのか。
楽しみである。

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【ひこ孫】時のながれ500ml









スネーク・フライト・・・・・評価額1400円
2006年10月22日 (日) | 編集 |
「SNAKES ON A PLANE」という、もの凄く判りやすく、且つB級臭いタイトルが受けて、本国では公開のだいぶ前からネット上で「祭り」状態だったパニックホラー。
邦題は残念ながら「スネーク・フライト」と、あまり面白みの無い物に落ち着いてしまったが、このくらい「待ち望まれたB級映画」(笑)も珍しい。
監督は「デッドコースター」のB級野郎、デビッド・R・エリス
そして主演はB級魂を持つ大スター、サミュエル・L・ジャクソンだ!

ハワイのオアフ島で、ギャングのボスの殺人を目撃してしまった青年ショーン(ネイサン・フィリップス)は、ギャングから命を狙われる。
FBI捜査官のネヴィル・フリン(サミュエル・L・ジャクソン)は、裁判で証人となってもらうために、LAにショーンを連れてゆく事を決意。
二人は飛行機に乗り込むのだが、証言される前にショーンを暗殺しようとするギャングは、大量の毒蛇を時限装置で機内に放ち、飛行機を墜落させようとするのだが・・・


時限装置で蛇を放すくらいなら、始めから爆弾で機体ごと爆破すりゃ良いじゃん、という突っ込みはとりあえず無し。
「駅馬車」「何でインディアンは馬を撃たない?」というのと同じ事だ。
この映画のプロットは、70年代のパニック映画ブームの頃に、様々なシチュエーションで空の危機を描いて人気だった「エアポート」シリーズに、アニマルホラーをミックスした物。
言ってみれば「エアポート2006/毒蛇軍団の襲撃」だ。
レトロ感覚を刺激する、二つのB級テイストの融合に、ファンは大いなるB級、いやC級映画を期待したのだろうが、完成した映画は予想外にしっかりと作られており、むしろ「A-」くらいの風格がある。

作り手が、この手の物語を上手く作るコツを知っているのだ。
本当のB級映画にありがちな様に、物語があっちこっちへ飛ばず、基本的に飛行機の機内だけの物語に絞ったのがまずポイント。
下手糞な映画だと、物語を大きく見せようと、本筋以外の傍流を並行して描こうとして、かえって貧乏臭くなってしまう。
もう一つは、運命共同体である乗客のキャラクターをしっかりと役割付けして、それぞれに必要な伏線を丁寧に描く事。
この点もまあ合格。
特に客室乗務員四人の描き分けなんて、非常に判りやすく、しかも無理が無い。
また主演のサミュエル・L・ジャクソンが黒人で、ヒロイン役の客室乗務員クレアが白人。
悪役のギャングのボスがアジア系なので、乗客の中にもアジア人の英雄的なキャラクターを配してバランスをとるなど、「政治的に正しい」ハリウッド映画としてもそつが無い。

もっとも、本国のネットで盛り上げていたB級ファンたちは、もっと「どうしょうも無いけど、どこか愛すべき映画」を期待していたのかもしれない。
実のところ私もその口で、「う~む、蛇のCGの出来が良すぎる!これはもっとゴムっぽくなきゃ!」とか観ながら思っていた(笑
出来が良くて文句を言われる映画というのも珍しい。

勿論本当に欠点もある。
本作は二階席のあるボーイング747が舞台となっていて、後半この機体の構造が効果的に使われている。
しかし、飛行機が広すぎて、構造を俯瞰した説明の描写が無いために、位置関係が非常に判り難い。
どこでパニックが起こって、どこへ逃げて、どこが壊れて、どこへ修理しに行くのかが、観客にすんなりと入ってこないので、恐怖感やサスペンスを阻害してしまっている。
747に何度も乗ったことのある人なら何となく判るが、そうでない人は混乱するだろう。
最近では「ポセイドン」で、船の見取り図で脱出経路を確認するという、とても判りやすい説明カットがあったが、この作品でも飛行機の構造と乗客の配置を見せるカットが欲しかった。
最近どうも位置関係の説明が下手で、盛り上がりに欠く作品が多い気がする。
説明カットというのは作り手からすると野暮な物だが、物語によってはどうしても必要な物でもあるのだ。
もっとも、この作品の場合は、あんまりしっかりと見せちゃうと、「蛇があんなところから入ってくる訳無いじゃん」とばれちゃうので、誤魔化した部分もあるとは思うけど。

また登場人物の描写も、セオリー通りとは言うものの、人数が多くて一人一人の描写自体は短い。
そのためドラマチックに成りそうなキャラクターでも、活躍の場を殆んど与えられなかったり、殺され役がわりとどうでも良いキャラクターばっかりだったり、全体にテイストがあっさりとし過ぎている感がある。
よく言えばくどくなくてすっきりしてるのだが、悪く言えば一瞬しか頭に残らない。
まあこの手の映画はそれで良いという気もするが。

「スネーク・フライト」は70年代のB級映画をよく理解した作り手たちが、しっかりと丁寧に作り上げた出来の良い娯楽作品だ。
本当のバカ映画を期待した人には、ある意味で期待ハズレかもしれないが、アニマルホラーとしてだけではなく、航空パニック物としても見せ場はタップリで、週末の夜に見るには調度良い作品だった。
残酷度もそこそこ、バカ度もそこそこ、いたって正しいハリウッド映画である。

今回は蛇だから、ハブ酒・・・ではなくて毒蛇にちなんでカクテルの「イエロー・ラットラー」をチョイス。
「黄色いガラガラ蛇」という名前のわりには、それほど刺激的ではなく、観賞後に喉を潤すのに最適。
ドライジン、スィート・ベルモット、ドライ・ベルモット、オレンジジュースを1:1:1:1でシェイク。
グラスに注いでパール・オニオンを加えて完成。
レシピ本によっては2:1:1:1の割合になっている物もあるが、個人的にはドライジンが強すぎない方がバランスが良いと思う。


  ×      ×       ×       ×       ×

ところで、唐突にご挨拶。
当ブログは今日でちょうど開設一周年を迎えました。
本来自分の勉強の為に作品分析として始めたブログですが、今では予想外に沢山の人達が読みに来てくれるようになりました。
今後は、読んでいただいている事を意識しつつ、よりよい内容に進化させていこうと思っています。
今後とも御愛顧をお願いいたします。

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チンザノ ドライ ヴェルモット 1000ml 18度
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エアポートシリーズのBOXセット。
第一作「大空港」から「エアポート80」まで。







木更津キャッツアイ/ワールドシリーズ・・・・・評価額1500円
2006年10月20日 (金) | 編集 |
まいったな。
まさか「木更津キャッツアイ」に、感動させられるとは思ってもみなかった。
てっきりオチャラケたバカ騒ぎで終わらせるのかと思ったら、なんとわりと直球(?)の「映画」してるじゃないか。
こっちにしてみたら、変化球が来るぞ来るぞと身構えていたのに、予想外の球に見逃しの三振してしまった気分。

今更言うまでも無いが、2002年にテレビシリーズがスタートした「木更津キャッツアイ」の、劇場用映画第二弾にして完結編。
テレビシリーズでは、21歳にして不治の病を宣告されたぶっさんこと田渕公平が、元高校野球部の仲間と共に、昼は野球とバンド、夜は何故か怪盗団となる「木更津キャッツアイ」を結成して、ドタバタを巻き起こす。
今回の物語は、テレビと映画「日本シリーズ」の後、ぶっさんが死んでから3年後に始まる。
脚本は勿論宮藤官九郎で、監督も金子文紀が続投。
メインキャラクターもおなじみの面々だ。

ぶっさん(岡田准一)が本当に死んでから三年。
嘗ての木更津キャッツの面々も、今はバラバラだ。
アニ(塚本高史)は、アキバでITやってる(らしい)。
マスター(佐藤隆太)は、大阪で「野球狂の詩二号店」をがんばっている(らしい)。
ウッチー(岡田義徳)は相変わらずどこにいるんだかわからない。
一人、バンビ(櫻井翔)だけが木更津に残り、市役所で働いている。
時は市長選挙の真っ只中。
神取市長(高田純次)の対立候補は、なんとあさだ先生(薬師丸ひろこ)だ。
ある日、市長についてショッピングモールの開発予定地に行ったバンビは、そこでぶっさんの声を聞く。
「If you built it, he will come(それを作れば、彼はやってくる)」
「それ」って、何だ?
バンビはアニやマスターを呼び戻し、ぶっさんを復活させようとするのだが・・・


正直言って、私は前作の「日本シリーズ」を楽しめなかった。
たぶんテレビでやれなかった事を全部ぶち込んで、「祭り」にしたかったのだろうが、あまりにも細かい小ネタの連続で、逆に間延びして、非常に観難い作品になってしまっていた。
オチャラケたコントだと思えばそれなりに面白いけど、さすがに二時間は持たない。
何しろエピソードを詰め込めるだけ詰め込んだ結果、「野球」も「泥棒」も殆んど忘れ去られしまっていて、テレビシリーズの延長線上にある豪華版というよりは、番外編のセルフパロディみたいになってしまっていた。

そのあたりの反省もあったのかもしれないが、この「ワールドシリーズ」(このタイトルも伏線になっていたりする)は、ずい分とシンプルになった。
相変わらずノリは過剰なくらいにチャライし、色々なキャラクターがごった煮的に登場したり、時系列が行ったり来たりするのは相変わらずなのだが、話に「ぶっさんの復活」という幹があるので観易い。
復活のネタが「フィールド・オブ・ドリームス」の限りなくアホなパロディという事もあり、「野球」という括りが本筋となり、「泥棒」も忘れない程度に話に盛り込まれていて、良い意味でテレビシリーズのテイストがぶっさんと一緒に復活した感じだ。

ぶっさんが死んでから復活するまでの、3年と言う歳月が切ない。
前作の「日本シリーズ」はテレビシリーズが終わってから、それ程間の無い時期の話という設定だったが、今回はまるまる3年を経過している訳だから、おなじみの登場人物たちにも大きな変化が起こっている。
永遠に変わりそうも無かったキャッツの面々も、良くも悪くも少し大人になっている。
彼らにとって、22歳で逝ったぶっさんは、青春の象徴なのだろう。
ぶっさんの復活は、ある意味過去においてきた3年前の自分自身との再会。
それは懐かしい反面、過去を通して否応無しに現在の自分と向き合う瞬間でもある。

藤子・F・不二雄の漫画に「劇画オバQ」という作品がある。
大人になった正ちゃんの元に、二十年ぶりにオバQが戻ってくる。
最初は懐かしがり、歓迎する正ちゃんたちだったが、二十年前で時が止まっているオバQの居場所は、もうそこには無かったという作品だ。
クドカンが「劇画オバQ」を意識したのかどうかは判らないが、「木更津キャッツアイ/ワールドシリーズ」は、2006年の現在から2003年の過去への肯定的決別の物語だ。
復活したぶっさんに、彼らが伝えたかった言葉。
それはたぶん、それぞれが引きずっている自分自身の過去に対する言葉だ。
またこれは、ドラマの中の台詞であるのと同時に、五年間同じ物語を紡いで来た、作り手たちの言葉でもあるのだろう。
長時間かけて物語を育てる。
単発の映画ではなかなかなし得ない、作品と作り手、観客の間の良い意味での持たれ合いは、テレビドラマベースの作品ならではの味わいかもしれない。

この映画を観に行く人は、まず間違いなくテレビシリーズからのファンだと思うが、五年間「木更津キャッツアイ」に付き合ってきた人たちには、とても満足できる完結編となっていると思う。
逆に今までのシリーズを観た事の無い人には、全く理解不能な世界である事は間違いない。
これは良くも悪くもファンのための映画であって、そうでなければ無理して観る必要は無いと思うが、観た事無いけど、どうしても観たいという人には、少なくとも前作の「日本シリーズ」で予習しておく事をお勧めする。

さて、木更津キャッツの面々といえばビールをこよなく愛する人々。
今回は、房総半島の反対側だけど、千葉の地ビール「寒菊 九十九里オーシャンビール」をチョイス。
九十九里に釣りや海水浴に行く人にはおなじみのビールだが、名前から想像できるように本来は日本酒の蔵元。
名前はもの凄くミスマッチだけど、水の美味しさは折り紙つきなので、ビールもなかなかいける。

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寒菊 『千葉県』九十九里ビール花ロマン10本詰合せ 0610p_大特価
寒菊 『千葉県』九十九里ビール花ロマン10本詰合せ









ブラック・ダリア・・・・・評価額1250円
2006年10月18日 (水) | 編集 |
1940年代のハリウッド。
虚構の迷宮をたゆたう人間模様が、モザイクの様に折り重なって一つの文様を形作る。
47年に起こった、未解決の猟奇殺人事件をベースに書かれたジェイムズ・エルロイの小説を、ブライアン・デ・パルマ監督が映像化した本作の製作は難航を極めたらしいが、ようやく完成。
残酷でムーディ、エルロイ的であり、デ・パルマ的である。
しかし味の輪郭は、最後までくっきりと浮かび上がってこない。

LAPDの警官バッキー(ジョシュ・ハーネット)は、元ボクサー。
ひょんな事から、同じく元ボクサーのリーランド(アーロン・エッカート)と試合をする事になる。
氷の様に冷静なバッキーと、炎の様に情熱的なリーランドの「ファイアー&アイス」は、その後特捜部でパートナーとなる。
リーランドにはケイ(スカーレット・ヨハンソン)という同居女性がいて、彼らは奇妙な三角関係を形作る。
1947年のある日、若い女性の惨殺死体が発見される。
腰の部分で真っ二つに切断され、内臓は抜かれ、口は耳まで切り裂かれていた。
その奇妙な死体を、人々は「ブラック・ダリア」と呼び、捜査にはファイアー&アイスが当たる事になるのだが・・・


狙いはわかる。
物語の基盤となるのはファイアー&アイスとケイの三角関係
そこに「ブラック・ダリア」という異物が投げ込まれる事で、水面に広がった波紋が複雑に絡み合い、やがて同心円上にアンサンブルを奏でるという物だ。

ディテールは素晴らしい。
40年代のLAを再現した美術、衣装は全く見事な仕上がりだし、何と言っても久々登場の名手ヴィルモス・ジグモンドの画作りには感嘆するしかない。
ドライなシャープさを保ちつつ、シーンによってはしっとりとしたウェット感を持たせ、ややソフトでレトロな質感に統一させて落とし込む。
「ブラック・ダリア」の発見前と後で微妙にタッチを変えるなど、その仕事は非常に繊細。
ジグモンド・タッチとよばれた独特の画は健在である。

若干控えめながら、映像的にデ・パルマらしさもたっぷりと味わう事が出来る。
デ・パルマと言えばヒッチコック偏愛から発展した、3次元のサスペンス描写であるが、今回も例によって「めまい」を思わせる螺旋階段での攻防などに、そのテイストはしっかりと発揮されている。
昔からのファンとして嬉しいのは、「ファントム・オブ・パラダイス」の“The Phantom”ウィリアム・フィンレイの復活!
デ・パルマ作品では81年の「殺しのドレス」以来。
その他の作品を入れても13年ぶりの映画出演だという。

そのフィンレイも含めて、キャラクターは曲者揃いだ。
見事なまでに、屈折したキャラクターしか出てこない。
この物語の語り部となっているのは、ジョシュ・ハーネット演じる「アイス」で、彼のナレーションで全体の話が進む。
一応、登場人物の中では一番まともそうではあるのだが、それでも内面の屈折は隠せない。
位置付けとしては、原作者であるエルロイの映画の中での代弁者となるのだろうが、元々エルロイ自身、10歳の時に母親を殺害され、それがきっかけで犯罪や死に興味を持ち、作家になったと言う人なので、初めから目に見えることをストレートには描いていない。
個々の事件を透かして、人間の複雑な心理を描き出す作家のスタイルからすると、このキャラクター造形はある意味当然かもしれない。

複雑なモザイクのような心を持つ、屈折した人間達の織り成す相互関係の中心に、ポンと投げ出された一つの死体「ブラック・ダリア」。
人々はその死体に引き付けられ、執着し、やがて彼らの内面の姿が同心円の中に浮かび上がるはず・・・だったのだろう。
残念ながら、この映画はタイトルロールの「ブラック・ダリア」が決定的に弱い。
物語は、ファイアーが「ブラック・ダリア」に異様な執着を見せるところから大きく動くのだが、なぜファイアーがそれほど死体に執着するのか判らない。
その後の展開でも、アンサンブルの中心にあるべき「ブラック・ダリア」のイメージが弱いので、人々が愛し、裏切り、傷付け合いながら離れられず、徐々に事件の全貌が明らかになる過程の説得力が失われている。
最終的に事件が解決しても、浮かび上がった物が何だったのか、ぼやけたままだ。

本来、「ブラック・ダリア」が世界一有名な死体となった理由は、やはりその強烈なビジュアルであり、死体からうっすらと見える犯人の心、そしてそれを鏡に映し出される自分の内面が見えるからだろう。
映画は、肝心の死体を殆ど見せない事で、同心円の中心を欠いてしまったのだ。
ここはやはり、「とてつもなくおぞましく、しかし目を離せない」死体をしっかりと描写すべきだったのではないか。
映画というビジュアル表現においては、それでこそ「ブラック・ダリア」のイメージが人々の心に食い込んでゆき、目に見えない力に引き付けれる様に、バラバラのピースが収束してゆく様が説得力を持つという物だ。
レイティングの問題もあったのだろうが、物語の中心にしっかりとした形を与えられず、結果的に全体がぼやけた味に仕上がってしまったのはなんとも残念。
何となくだが、70年代のデ・パルマならこの辺を曖昧にはしなかったような気がする。
異才デ・パルマも、もう66歳。
まだ歳だとは思いたくないけれど・・・・

今回は、LAに近いワインどころ、サンタバーバーラからヒッチング・ポストの「シラー ビッグサークル」を。
映画「サイドウェイ」で大ブレイクしたHPのワイン。
このぐらい、しっかりした輪郭が映画にもあれば大満足だったのだが、観賞後はこれで脳内補完しよう。

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●ヒッチング ポスト シラー ビッグサークル 2003
ヒッチング・ポスト シラー ビッグサークル 2003









地獄の変異・・・・・評価額1300円
2006年10月17日 (火) | 編集 |
ナショナルジオグラフィック的秘境冒険映画+モンスターホラー。
「地獄の変異」なんて、まるで7、80年代の東宝東和配給作品みたいな凄そうなタイトルがついているが、原題は「the Cave(洞窟)」と大人しい物だ。
基本的に地底洞窟の冒険がメインで、ホラーの部分はやや比重の大きなアクセント。
実際の洞窟ロケーションをメインとした、神秘的なケーブダイビングの描写は素晴らしいが、描きたい事がやや不明瞭だ。

ルーマニア、カルパチア山脈。
70年代の爆発事故で土砂に埋もれた教会の地下から、巨大な洞窟が発見される。
中世テンプル騎士団が、翼を持つ悪魔と戦った、という伝説をもつこの洞窟を探検するために、ジャック(コール・ハウザー)とタイラー(エディ・ジブリアン)の兄弟を中心としたプロのダイビングチームが呼び寄せられる。
生物学者のキャサリン(レナ・ハーディ)らを加えた探検隊は、神秘的な巨大洞窟に下りていくが、探検隊の一人が巨大な捕食動物に襲われ、持っていた水中スクーターが岩に激突、爆発の衝撃で洞窟の出口が塞がってしまう。
ジャックたちは食料が尽きる前に、自力で脱出しようと、さらに洞窟の奥へ踏み込むのだが、そんな彼らを「翼を持つ悪魔」が狙っていた・・・


ルーマニアの山岳地帯を行く軍用車を、スローモーションのこったカメラワークで捉えたオープニングは、マイケル・マン監督「ザ・キープ」そっくり。
「ザ・キープ」はルーマニアの山奥に、何かを封じ込めた遺跡があり、そこをドイツ軍が占領する。
対してこちらは、やはりルーマニアの山奥に、何かを封じ込めた古い教会があり、そこに眠る宝を狙って、トレジャーハンターがやって来る。
基本設定を含めて、このオープニングはマンへのオマージュか。
ルーマニアの田舎というのは、ヨーロッパでも吸血鬼伝説の秘境というイメージであり、いかにも我々の知らない何かが潜んでいそうな気はする。

時代は飛んで現在になり、土砂崩れで埋まった洞窟が発見されると、いよいよ本筋の洞窟探検だ。
全長140キロに及ぶ迷路のような洞窟は、セットとロケーションを巧みに織り交ぜているが、特に水中洞窟のロケーションは、殆どナショナルジオグラフィックのドキュメンタリーを観ているようで、素晴らしい。
ライトの加減で様々な表情を見せる、地底の未知なる世界は、それだけで十分魅力的だ。
映画は、出口を塞がれた探検隊が、いかにして脱出するのかという秘境冒険映画を本筋として、そこに妨害者たる地底の怪物「翼を持つ悪魔」が絡んでくる。
コウモリに似たこの怪物は、どうやら地上も水中自由自在で、さらに空も飛べるという、ある意味御都合主義なスーパー怪物。
迷宮のような洞窟の中で、いつこの捕食動物に襲われるか、いかにして撃退するかという「エイリアン」のようなモンスターホラーの要素が加味される。

しかもこの映画はこれだけではない。
この洞窟の中には、閉ざされた生態系の中で、生物を急激に洞窟の環境に適応させる寄生微生物が存在する事が判り、リーダーのジャックが感染してしまう。
はたして、洞窟生物の特質を得たジャックは、洞窟から皆を脱出させる救世主なのか、それとも皆を地底世界に留め置こうとしているのか、ジャックへの疑心暗鬼がサスペンスを増幅させるという構造になっている。

秘境探検、モンスターホラー、さらには心理サスペンスと娯楽要素テンコモリだが、残念ながら、相乗効果を上げるには至っていない。
一つには洞窟の地形があまりにも複雑かつ、暗く、位置関係が良く判らないので怪物との戦いが今ひとつ盛り上がらない。
怪物も強いんだか弱いんだか良く判らず、捕食動物の群れに、無防備な人間たちが徐々に追い詰められているというサスペンスが弱いのだ。
本来なら、モンスターホラーというソースが、本筋にじっくりと染み込んで味わいを倍化させて欲しいのだが、この作品ではソースの絡みが今ひとつの印象だ。
ジャックが徐々に地底生物へと変異することへの疑心暗鬼も、変異の描写が黒目が十字形になって、耳が良く聞こえる様になったくらいなので、変わっていく実感に乏しい。
途中からは信頼できるリーダーに戻ってしまって、サスペンスも途切れてしまう。
この寄生微生物の設定は、ラストにも絡んでくるのだが、洞窟の中での描写が弱いから、ラストでもそれほどのインパクトは生んでいない。

と、総合的に観ると不満も多いが、つまらないかというとそうではない。
それぞれの要素が絡み合っての相乗効果は不完全燃焼気味だが、洞窟探検、モンスターホラーとそれぞれの要素で観れば、まずまず良く出来ている。
これが劇場用映画デビューとなるジェームス・ハントも、CMディレクターとして、あるいは「マトリックス」シリーズの第二班監督として豊かな経験を持つだけに、決して破綻はせずに無難に纏めている。
この手のB級アクション・ホラー系の好きな人には、それなりに楽しめる作品だろう。

今回は、舞台となったカルパチア山脈からクロ・ビュザオ メルローをチョイス。
ルーマニアはワイン作りの歴史は非常に古く、実に5000年を遡ると言う。
これはそんな伝統を強く感じる、ボディの力強いワイン。
未知の洞窟の様に、濃く、深い。

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クロ ビュザオ メルロー [2003](デルマーレAC)ルーマニアカルパチア山脈の麓からすごいワイン...



ワールド・トレード・センター
2006年10月14日 (土) | 編集 |
「ワールド・トレード・センター」というそのものズバリのタイトルながら、予告編を観た時「ユナイテッド93」の予告の様なショックは感じなかった。
ニコラス・ケイジというハリウッドスターを前面に出し、典型的な感動物な雰囲気も、この作品をいかにも「作り物」に見せていたからだろう。
しかし、映画が始まって、炎上するWTCが映し出されると、やはり生々しくあの日の感覚が蘇ってきた。
警官たちが、熱さに耐えかねた人が落下するのを目撃するカットでは、思わず目を背けた。
血まみれの人達が生気の無い顔で呆然と歩き、警官たちも状況を把握できないまま救助に入り、やがてビルが倒壊するまでの数十分間は、正直言ってやはりちょっときつかった。

この映画は、9.11のあの日、炎上するWTCに救助に入って倒壊に巻き込まれ、重症を負いながらも奇跡的に助け出された二人の警官と、二人を待ち続けた彼らの家族の物語だ。
同じ日に起こった事を描きながら、オリバー・ストーンの視点は「ユナイテッド93」のポール・グリーングラスとは全く異なる。
グリングラスが、作家としての視点を慎重に消し去り、登場人物への感情移入すらさせないほど、徹底的に「現象」を描いたのに対して、ストーンの視点はあの時、あの場所にいた「個人」をフィーチャーする。
グリーングラスとは対照的に、徹底的に「個」に感情移入させることで、9.11のごく一部を切り取る事に成功している。
手法は違えど、どちらの作品も9.11そのものを俯瞰するのは、意図的に避けている。
それは多分、まだ早すぎるのだ。

ビルが倒壊し、主人公である二人の警官、ジョン・マクローリン(ニコラス・ケイジ)ウィル・ヒメノ(マイケル・ペーニャ)が瓦礫の下に生き埋めになると、映画はある意味で「9.11物」である事を離れる。
スクリーンに映し出されるのは、暗闇の中での二人の生への渇望と、情報錯綜する中で、彼らの帰りを待ち続けるジョンの妻ドナ(マリア・ベロ)とウィルの妻アリソン(マギー・ギレンホール)の姿が殆んどで、実際に描かれている事は普通のディザスタームービーと変わらない。
タイトルを知らずに、ここから映画を観たら、どこかの大地震か何かを描いた作品だと思うかもしれない。
とは言っても、カメラが地上へ出て、倒壊したグランドゼロの瓦礫の山の恐ろしくリアルなセットを映し出すと、やはりこれが人間の起こした邪悪な行為の産物である事を、否応無く思い出さざるをえないのだが。

暗闇の中、動く事も出来ず表情すら殆んど写らない中で、時に気丈で時に人間の弱さをさらけ出すジョンを演じたニコラス・ケイジは「ロード・オブ・ウォー」 に続いて好演。
この人、芝居は相変わらずワンパターンだが、歳をとるにつれて段々と味が出てきた。
回想シーンでつづられる家族との平和な日々の、仏頂面の不器用そうな表情と、瓦礫の下での絶望と苦痛と希望の感情を露にした表情(殆んど見えないのだが、なぜか見える様な気がする)のコントラストが印象的だ。
マイケル・ペーニャは「クラッシュ」で、「透明マントの奇跡」に救われるダニエル役が印象的だったが、ここでもしっかりした存在感を見せる。
この作品、男二人は全く身動きの取れない状況で進んでゆくので、いわば「静」のドラマ。「動」の部分は、彼らの妻たちが担当する。
二人の妻、ドナとアリソンは、何となく夫たちと性格が似ているのが面白い。
やはり似た物夫婦って言うのは実際多いのかもしれない。
ドナはどちらかというと、内面の葛藤を必死に抑え、冷静に振舞おうとする。
演じるのは「ヒストリー・オブ・バイオレンス」のマリア・ベロ。
私の中ではこの作品のベストアクトは彼女である。
ERのアンナ先生も素晴しい役者になった。
対して、マギー・ギレンホール演じるアリソンは、感情を表にだして自分から動くタイプ。
いかにもラテン系の男性が惚れそうなタイプで、妙にリアルだった。

この作品は、あの9.11の日に起こった小さな奇跡を描いた小品である。
あの日、人類はパンドラの箱が開くのを目撃した。
しかし、あらゆる邪悪と絶望がNYから電波とネットワークに乗って地球を覆ってゆくのを目の当たりにした後で、グランドゼロの瓦礫の下に、小さな善意と希望を観る。
人間は、とてつもなく恐ろしい事も、信じられないくらい美しい事も同時に出来るのだ。
ジョンとウィルが助け出された時の、大きな歓喜。
勿論、この歓喜の外に、何千という絶望と悲しみがあった事もまた事実であり、オリバー・ストーンは声高ではなく、静かにしかしはっきりとメンションする事を忘れない。
内容のセンシティブさ故に、強い主張を織り込めず、やや中途半端ではあるものの、結果的に抑制の効いた演出は、近年の彼の作品の中ではベストだろう。

この映画の後半には、事件を知ってNYに駆けつけた多くの善意の人々が登場する。
現場の人々にとって地獄に仏とは、正にこのことだっただろう。
今回は、その名も「ニューヨーク」で彼らにささやかに乾杯。
バーボン、ライムジュースをそれぞれ45ml、15ml、グレナデンシロップを1tspをシェイクし、グラスに注ぐ。
朝焼けのNYの様に美しく、スッキリしたカクテルだ。

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アタゴオルは猫の森・・・・・評価額900円
2006年10月10日 (火) | 編集 |
90分のPVを観させられているような作品。
冒頭いきなりミュージカル(?)仕立てのステージシーンから始まるのだが、おなじみ「アタゴオル」の登場人物より先に画面に登場するのは、MC役の石井竜也猫
そう、この作品の音楽監督を務める石井竜也まんまの姿の、全くアタゴオルらしくない猫だ。
この作品の作り手に問いたい。
貴方達は、いったい誰に向けてこの作品を作ったのか?

人間と猫が共に暮らす、不思議の国アタゴオル。
デブ猫ヒデヨシ(山寺宏一)は、湖に沈んだ奇妙な箱を開けてしまうが、それは古代の植物の女王ピレア(夏木マリ)を封印した物だった。
封印をとかれたピレアは、人間や猫を植物化してアタゴオルを支配しようとする。
その時、ヒデヨシの前に輝彦宮(小桜エツ子)と名乗るマメのような小さな生き物が現れる・・・


原作は言うまでもなく、人間と猫が共に暮らす「アタゴオル」を舞台にしたますむらひろしのベストセラー漫画。
今回は、その外伝「ギルドマ」を映画化している。
恐らくこの作品を観に来るお客さんの殆んどは、原作のファンか、少なくともますむら氏の世界に魅力を感じている人たちだろう。
そして、作品のオープニングは、ファンタジー世界へ観客を誘う、一番重要なシークエンスであるはずだ。
ところがこの作品は、アタゴオルとは全く関係ない、限りなく現実の石井竜也で始まってしまう。(なにしろこの人、監督よりクレジットが上なのだ)

正直、私はこのオープニングに引いた。
何で石井竜也?せっかく大物ミュージシャンを招聘したのだから、本編にも出して元を取ろうとでも言うのだろうか?
それとも、音楽監督自らが出演を希望されたのだろうか?
いやいや、自身でも映画監督の経験のある人が、こんな乱暴な事を望むとは思えない。
別に彼が音楽監督なのが問題なのではない。
ぶっちゃけ久々に名前を聞いた人だけど、ネームバリューは確かにあるから映画の宣伝に使うのも良いだろう。
ただ、なぜ本編にまで持ってこなければいけないのか?
「アタゴオル」は盛りの過ぎたミュージシャンに頼らなければ、中味が成立しない程度の話なのか?
わざわざ多くのファンのいる原作をぶち壊してまで、このような作り方をする意図が理解できない。
「ハリー・ポッター」の映画音楽をマイケル・ジャクソンが担当し、本編にマイケル・ジャクソン本人の役で登場したら、ファンはどう思うだろうか?

「銀河鉄道の夜」の様な例外はあるが、どうも大物ミュージシャンとアニメは相性が悪い。
10年ほど前に映画化された「エルマーの冒険」では音楽に小室哲也木根尚登を起用して、妙に音楽が前面にでた喧しい作品になってしまっていた。
今回もしかり。
なぜかこのアタゴオルはミュージカル仕立てで、しかも音楽シーンが物語全体の流れを切ってしまう。
映像的にも、西久保瑞穂監督の演出は黒バックにキャラクターだけがいて、そこにエフェクトの光が舞うという様な、PVチックな画を多用しているので、アクションシーンなど、1カット1カットは綺麗でも、つながりになると位置関係が判らず、画の連続性が無くて躍動感に繋がらない。
あまり原作へのリスペクトを感じないにもかかわらず、キャラクターや世界観の説明は「原作読んで知ってるでしょ」とばかりに端折られてしまっている事もあり、お話自体は、原作の流れから極端に離れた物ではないのに、ぶつ切りのシチュエーションを繋いで作ってあるという印象になってしまっている。
当然ながら物語に織り込まれたテーマ性も、上っ面を撫でただけで終わってしまっている。
主人公のヒデヨシなんて、原作を読んでない人にとってはやたらと騒がしいだけのキャラクターにしか見えないだろう。
私などは知っていても「紅まぐろ紅まぐろと喧しい!」と叱りつけたくなってしまった(笑
後半、輝彦宮と徐々に心を通わせるあたりも、その「徐々に」の描写が決定的に不足しているので、突然性格が変わった様に見えてしまう。
まあ、原作読んでいればある程度脳内補完もできるだろうが、それならもっと原作をリスペクトしろよと言いたくなってしまうのだ。

では、映像的にお話の弱さを補うほどの物をみせてくれるかというとそうでもない。
今回の作品は、あのアタゴオル世界とキャラクターを3DCGで描くというのが大きな特徴であり、またウリだ。
私は同業者として、がんばって画を作っているなあとは思うものの、正直言って全面的に素晴しいとは思えない。
フルCGは、照明と質感の決め込みが難しい。
これが決まっていないと、同じものを撮ってもシーンによってまるで別の質感に見えてしまったり、別の手法で作っているのかと思うくらい違って見えてしまう事がある。
この作品では、日中のアタゴオルのシーンは、わりと原作のイメージに近いイラスト調の質感(彩度とコントラストが高過ぎの気もするが)で統一されているものの、夜のシーン、女王の宮殿のシーンなどでそれぞれ見た目の質感がかなり異なってしまっている。
もっとも夜の一部シーンの極端なグロー&ガウス処理など、明らかに狙ってやっている所もあるが、画に落ち着きが無くてあまり効果的とは思えない。
しっかりと画の決め込みが出来ていれば、こういう小手先の効果はあまり入れる必要は無いのだ。
どうも、監督の画作りの考え方が、フル3Dというよりは中途半端にセルベースの2Dアニメ的な気がする。

同様にキャラクターデザインや美術も、原作に忠実な部分と大きく違う部分で統一感が無いのが気になる。
特にピレアや彼女の宮殿などのデザインは、殆んどオリジナルデザインと言って良いほど原作と違うが、どちらかというとますむらひろしというよりは松本零士みたいで、おかげで魂を食べる描写まで「銀河鉄道999」「喰命聖女」というエピソードを連想してしまった。
一部にハッとするような鮮烈な画もあるだけに、全体の印象として、「これがアタゴオルの世界だ」という基本のイメージを構築できていないのが勿体無い。

全体に「アタゴオルは猫の森」は、関わった人々の思惑が違いすぎて、尚且つそれぞれの考えをすり合わせられないうちに制作してしまった様な印象を受けた。
物語的にも、映像的にも、また企画自体も、最終的にこんな作品にしたいというビジョンが無く、中途半端に原作に忠実で、中途半端に違うというなんともチグハグな印象になってしまった。
映画的には、舞台が固定される後半はやや持ち直すが、通しで観れば原作のダイジェスト以上の物にはなってない。
作り方によっては、新しいタイプのCGアニメになる可能性があっただけに、この仕上がりは少し残念だ。

さて今回は、原作者ますむらひろしの出身地、山形から「東北泉純米吟醸 瑠璃色の海」をチョイス。
酒米雄町を精米歩合45%と大吟醸並に磨き上げた、ちょっと甘口でスッキリしたお酒。
ますむらひろしはお隣岩手県出身の宮沢賢治の漫画化でも知られる人だが、この澄んだお酒からはイーハトーブの春の香りがする。
映画にもこのくらいしっかりした輪郭があれば良かったのに。

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高橋酒造 東北泉 純米吟醸 瑠璃色の海720ml
高橋酒造 東北泉 純米吟醸 瑠璃色の海720ml


原作です


ますむら物ではこれは傑作










レディ・イン・ザ・ウォーター・・・・・評価額700円
2006年10月07日 (土) | 編集 |
この話、元々は監督のM・ナイト・シャマランが、自分の娘に語って聞かせたベッドタイムストーリーなのだそうだ。
なるほどね・・・確かに睡眠効果抜群
しかし、映画館にお金払って観に来ている観客まで、寝かしつけちゃダメだろう。
どう観ても、この話は即興で考えたベッドタイムストーリーで、それ以上の物ではない。
色々と考えた痕跡は見て取れるが、あらゆる要素が滑ってしまって、物語の肉付けに失敗している。
結果的に、安っぽいお子様ランチを、フォーマルなレストランのテーブルに置いたような、ひどくアンバランスで観る者を戸惑わせるような、奇妙奇天烈な映画が出来上がってしまった。

クリーブランド・ヒープ(ポール・ジアマッティ)は、アパートの管理人として、世捨て人の様に静かに暮らしていた。
ある夜ヒープは、深夜のプールを裸で泳ぐ少女(ブライス・ダラス・ハワード)と出会う。
彼女は、自分は「ナーフ(水の精)」で、世界を変える可能性を持つ「器」の役割を担う人間に会いに来たと言う。
しかし同時にナーフを狙う恐ろしい怪物に追われいて、怪物はスキがあれば彼女を殺そうとしているらしい。
ヒープは、アパートの住人たちの協力を得て、彼女を元の世界に帰そうとするのだが・・・


元々私は、シャマランの映画をそれほど評価してない。
世評の断トツに高い「シックス・センス」にしたところで、作りの丁寧さは認めるが、それ程凄い映画とも思えず、ほぼ同時に製作された同じようなオチを持つ二本、「アザーズ」「エコーズ」の方が自分の中ではポイント高かったりする。
「アザーズ」はDVD買ってしまったけど、「シックス・センス」は二度見ようとは思わなかったし。
基本的にこの人は、B級の人だと思う。
過去のB級映画の設定を借りてきて、それをちょっと違った目線で、A級大作の丁寧さで撮る。
あくまでも本質はB級で、故にその趣味性が比較的素直に出た「アンブレイカブル」「サイン」はそれなりに楽しんだ。
だが露骨なブラットベリのパクリを、文芸作家気取りでテーマ性を前面に出して撮った「ヴィレッジ」辺りになると途端に馬脚を現す。
元ネタのブラットベリが、シンプルなストーリーラインと最小限のキャラクターで、世界の本質をズバリと突いて見せるのに対して、シャマランの「A級大作」は中味をこねくり回し過ぎて、肝心のテーマと遊離してしまっていた。

この噛みあってない感は、今回さらにパワーアップ。
シャマランは、他愛の無いベッドタイムストーリーをそのまんま映画にするのは流石に厳しいと思ったのか、これを現実世界のくたびれた大人たちの中に持ってくるというアイディアを考え出した。
これ自体は別に悪くない。
しかもヒロインは言う、「私の名はストーリー」と。
すわ、シャマランは作家と名のつく人なら一度はぶち当たる、「物語とは何ぞや」という究極のテーマに、正面から向き合おうとしたのかと思った。

ところが・・・やっぱりシャマランである・・・。
「物語」について多少考えたっぽい名残はあるものの、結果的にこれは「子供のために考えたベッドタイムストーリーを何とか大人が楽しめるように作りました」というもの以上の物ではなかった。
というか元々が即興で考えた話だからか、それを現実世界に移し変える作業もなんだか即興で作ってるような無理やり感溢れる代物になっている。
既に全世界の映画ライターや映画ファンが散々言ってると思うが、一番不思議なのは、この実に他愛の無い御伽噺を、登場人物の普通の大人達が、何の抵抗もなくあっさりと信じてしまう事だ。
真夜中のプールで、全裸で泳いでいた得体の知れない女が、「私は水の精で、怪物に狙われてるの」と言ったら、普通即行で警察か保健所に電話するだろう。
何で主人公が荒唐無稽な話をあっさりと信じてしまうのか。
百歩譲って、ストーリーと出合った人は、彼女の持つ特別な何かを感じ取って信じてしまうにしても、ヒープから間接的に話を聞いただけのアパートの住人たちまで、何の疑問もなくこの荒唐無稽な話を受け入れるのはどう考えても違和感がある。
勿論ファンタジーやSFで、普通あり得ない様なぶっ飛んだ話が、日常世界に侵入してくるものはいくらでもある。
この作品が問題なのは、そのための説得力ある仕掛けや、登場人物のリアクションをまるっきり省いてしまっている事なのだ。
シャマランはスピルバーグに憧れて、映画監督を目指したらしいが、とりあえず「E.T」をもう20回くらい観直した方が良い。

もう一つ決定的なのは、この「御伽噺」をアパートの住人の韓国人のおばさんが知っていて、話の展開をどんどん喋ってしまうのである。
まあこれによって、ヒープが状況を理解してコントロールするという展開が生まれているのだが、話のネタを半分ばらしてしまっている様な物だから、次に何が起こるのかというワクワク感は当然スポイルされる。
そもそも、この全くアジア的でない御伽噺が何で韓国人の口から「東洋の伝説」として語られなければならないのか理解に苦しむ。
前記した様に、この映画の御伽噺自体が、妙に無国籍というか、設定が適当というか、即興感漂うユルイ代物なのだ。
怪物の設定とか、その怪物の天敵の意味づけなど、かなりアバウトにしか語られていないし、水の精のお迎えが何で鷲?とかどうでも良い突込みを入れたくなってしまう。
関係ないけど、大鷲のシーンで「グワイヒア・・・グワイヒア・・・」と呟いていた人が全世界に200万人くらいいたと思う(笑
まあ韓国の伝説という設定は、通訳がいないと会話が成立しないという、画的な面白さ故に設定した事だと思うが、この映画は一事が万事この調子で、何か一つ面白い事をする代わりに、何か重要な部分が破綻してゆくのだ。
そして、ぶっ壊れたまんま、唐突に映画は幕を閉じる。
ひとことで言って、眠くてたまらない。

このところ名演が続いていたポール・ジアマッティも、さすがにこのつかみ所の無い役柄には苦戦したのではないだろうか。
何しろ行動原理に説得力が無いのだから。
ストーリー役のブライス・ダラス・ハワードは「ヴィレッジ」に引き続いての出演だが、まあ・・・こんなキャラだよねという感じで可もなく不可もなくという印象。
ある意味一番目立ってるのは、もうカメオ出演なんてものじゃなくて、完全に準主役級になってしまってるシャマラン自身。
監督業に限界を感じて、役者に転身でもするつもりだろうか。
脇役ではボブ・バラバン演じる映画評論家が、シャマランの批評家観が反映されて(?)ちょっと笑えるキャラクターだった。
スタッフ関連では、クリストファー・ドイルが撮影監督を務めているのが目を引くが、特に彼の個性が生かされていたとは思わない。
まあ綺麗だったし画作りは悪くなかったと思うが。

M・ナイト・シャマランは、この作品の前に長年契約していたディズニーと別れ、新たにワーナーと契約したらしいが、一発目にこれやられちゃったワーナーは頭が痛いだろう。
次がシャマランの作家生命をかけた勝負作にならざるを得ないと思う。

今回は、水の精ならぬ「杜の妖精」をチョイス。
鹿児島の太久保酒造の芋焼酎で、蔵に住み着く妖精たちが仕上げに加わって作り上げたという触れ込み。
適度に芋の風味が残る、芋らしい芋焼酎だ。
まあ実際自然の気分次第で仕上がりが大きく変わる酒作りは、妖精の仕事も入っているのかもしれない。

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太久保酒造 杜の妖精 芋1.8L






涙そうそう・・・・・評価額1400円
2006年10月02日 (月) | 編集 |
タイトル通り、泣ける。
この映画の原作は、夏川りみがカバー版を唄って大ヒットした、BEGINの名曲「涙そうそう」だ。
森山良子によるこの切ない歌詞は、彼女が若くして逝った実の兄への想いを綴ったものだという。
映画は、歌詞のイメージを忠実に映像化していると言って良いだろう。

沖縄本島で、飲食店を開く夢を追う洋太郎(妻夫木聡)の元に、島で暮らしていた妹カオル(長澤まさみ)が高校進学のために引っ越してくる。
幼い頃に両親の再婚で義理の兄妹となり、父の失踪と母(小泉今日子)の死を乗り越えて支え合いながら生きてきた二人。
久々に再会した妹が大人っぽくなっていたことに、ちょっとドキドキする洋太郎。
彼は、「どんな時でもカオルを守る」という亡き母との約束を忘れた事は無かった。
自分の店を持とうとした洋太郎だったが、詐欺にあって全財産を失い、借金を背負ってしまう。
それでも親代わりとして、借金を返して妹を大学に行かせるために、洋太郎は昼夜を問わず働き始めるのだが・・・


ただでさえ泣ける曲をモチーフに、描かれるのは懸命に生きる血のつながらない兄妹の物語。
幼い頃の両親との不幸な別れ、母との約束を果そうと必死で妹を守ろうとする兄、自分たちを捨てた父親との邂逅、妹の自立。
そして永遠の別れ。
殆んど韓流ドラマ並に設えられた泣かせの設定を料理するのは、ファンタジー映画の傑作「いま、会いにゆきます」土井裕泰監督
この企画は元々福澤克雄の監督作品として準備されていたのだが、彼の急病で急遽土井裕泰がピンチヒッターに立って撮影に入ったという経緯がある。
制作途中での交代劇は、何かと大変だっただろうが、完成した作品は見事なまでに土井カラーに染められている。

「いま、会いにゆきます」では、長野県の田舎町を、まるでスタジオジブリのアニメーションに出てくる、理想化された日本のハートランドの様に写し取ったビジュアルが印象的だったが、この作品でも同様のセンスは生きている。
元々本土とは違った、ゆったりとした空気の流れる沖縄が舞台ではあるが、洋太郎とカオルの住む廃屋を改造したペントハウス(?)や、宜野湾のカオルのアパート、洋太郎の夢であった手作りのお店などの、ありそうで現実には無い和洋折衷の美術、そして明るく彩度の高いカメラによって、この作品の世界はある種のファンタジーの様な独特のムードを醸し出している。
てっきり「いま会い」のスタッフが続投しているのかと思いきや、撮影は柴主高秀から浜田毅へ、美術は種田陽平から小川富美夫にそれぞれ代わっているから、この映像センスは土井監督の物であると言って良いだろう。

この美しい理想郷に、ドロドロの愛憎劇は似合わない。
「いま会い」もそうだったが、この映画にも船越英一郎の詐欺師を除けば、悪人は登場しない。
家族を捨てた父親も含めて、皆それぞれの生を一生懸命に生きている人々だ。
愛と憎しみの葛藤を見せるのではなく、描かれるのは愛と愛の葛藤だ。

妻夫木聡が抜群に良い。
爽やかで人の良さそうな、元々彼の持っているイメージ通りの役柄ではあるのだが、逆に言えばリアリティという点では嘘臭くなりがちなキャラクターである。
淡々とした生活の描写の中、例えば愛しい妹を見つめる視線一つとっても、幾つもの感情を演じわける。
丁寧な、良い芝居である。
カオルを演じる長澤まさみも、イメージ通りの役を無難にこなして十分存在感を発揮しているが、ここは文字通り妻夫木の役者が上だ。
をまあこんなかわいい妹がいたら、お兄ちゃん無条件に頑張っちゃうけどね。

この二人の切なくも小さな世界を、沖縄出身のバイブレイヤーたちがしっかりと固め、リアリティを与えている。
特に二人の育ての親であるオバアを演じる平良とみは、相変わらず存在そのものが「映画」であるとしか言い様がない。
カオルに愛する者の生と死の意味を、まるで一遍の詩の様な響きのウチナーグチの訛りで、切々と語るシーンは、喜びも悲しみも全てを包み込んで、ゆったりと波打つ沖縄の海の様に美しく、本編の白眉だ。

作品世界構築に関しては、ビジュアル、キャラクター共に、撮影前のゴタゴタを感じさせない高い完成度を持つこの作品だが、残念ながら物語の練り込み不足までは誤魔化せていない。
キャラクターの魅力で何とか持ってはいるが、前半の展開は一本調子でドラマ的な起伏に欠ける。
いや、ドラマチックな事件は起こっているのだが、それを受けたキャラクターの心理描写までもが妙にあっさりしているので、ドラマとしての抑揚に繋がっていない。
逆に、後半のカオルの独立からの展開は、あまりにもご都合主義で強引だ。
結果的に、深読みしない限り、物語を通して何を言いたいのか判り難い作品になってしまっている。
画面からは、丁寧な映画作りが伝わってくるだけに、肝心の設計図たる脚本の完成度の低さが心底勿体無いと思う。

しかし、こうした欠点を抱えつつも、「涙そうそう」は「泣ける映画」というこの作品本来の目的に対して、確実な結果を出していると言って良い。
私の涙腺は、前半の母と洋太郎の「約束」の所から既に決壊。
そして詩の様に美しい、平良とみの語りの後で、洋太郎が最後の最後に仕掛けたサプライズには、もう判っていても号泣せざるを得なかった。

多分、「フラガール」に泣いた人は、こちらも泣けるだろう。
映画としての完成度にはずい分と差があるが、少なくとも「泣き」に関しては互角の勝負である。
秋にはやはりしんみりと泣ける映画が似合う。
あと、エンドクレジットで席を立たないように。
この作品の場合、単なる「おまけ」ではなく、本当のラストはクレジットの後にある。

今回は、沖縄の生んだスピリッツ、泡盛の古酒を。
「瑞泉の17年物」はホンノリと色付いて、味もマイルドに変化しつつある。
嘗ては100年を超える物も珍しくなかったという、泡盛の古酒だが、残念ながら戦争で殆んどが破壊されてしまった。
現在では数十年ものまで出回るようになっているが、歳月を経た泡盛は、この映画の登場人物の心の様に、おおらかで優しい。

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[沖縄県] 瑞泉酒造瑞泉 おもろ 17年 40度 720ml
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