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2006年10月07日 (土) | 編集 |
この話、元々は監督のM・ナイト・シャマランが、自分の娘に語って聞かせたベッドタイムストーリーなのだそうだ。
なるほどね・・・確かに睡眠効果抜群。
しかし、映画館にお金払って観に来ている観客まで、寝かしつけちゃダメだろう。
どう観ても、この話は即興で考えたベッドタイムストーリーで、それ以上の物ではない。
色々と考えた痕跡は見て取れるが、あらゆる要素が滑ってしまって、物語の肉付けに失敗している。
結果的に、安っぽいお子様ランチを、フォーマルなレストランのテーブルに置いたような、ひどくアンバランスで観る者を戸惑わせるような、奇妙奇天烈な映画が出来上がってしまった。
クリーブランド・ヒープ(ポール・ジアマッティ)は、アパートの管理人として、世捨て人の様に静かに暮らしていた。
ある夜ヒープは、深夜のプールを裸で泳ぐ少女(ブライス・ダラス・ハワード)と出会う。
彼女は、自分は「ナーフ(水の精)」で、世界を変える可能性を持つ「器」の役割を担う人間に会いに来たと言う。
しかし同時にナーフを狙う恐ろしい怪物に追われいて、怪物はスキがあれば彼女を殺そうとしているらしい。
ヒープは、アパートの住人たちの協力を得て、彼女を元の世界に帰そうとするのだが・・・
元々私は、シャマランの映画をそれほど評価してない。
世評の断トツに高い「シックス・センス」にしたところで、作りの丁寧さは認めるが、それ程凄い映画とも思えず、ほぼ同時に製作された同じようなオチを持つ二本、「アザーズ」と「エコーズ」の方が自分の中ではポイント高かったりする。
「アザーズ」はDVD買ってしまったけど、「シックス・センス」は二度見ようとは思わなかったし。
基本的にこの人は、B級の人だと思う。
過去のB級映画の設定を借りてきて、それをちょっと違った目線で、A級大作の丁寧さで撮る。
あくまでも本質はB級で、故にその趣味性が比較的素直に出た「アンブレイカブル」「サイン」はそれなりに楽しんだ。
だが露骨なブラットベリのパクリを、文芸作家気取りでテーマ性を前面に出して撮った「ヴィレッジ」辺りになると途端に馬脚を現す。
元ネタのブラットベリが、シンプルなストーリーラインと最小限のキャラクターで、世界の本質をズバリと突いて見せるのに対して、シャマランの「A級大作」は中味をこねくり回し過ぎて、肝心のテーマと遊離してしまっていた。
この噛みあってない感は、今回さらにパワーアップ。
シャマランは、他愛の無いベッドタイムストーリーをそのまんま映画にするのは流石に厳しいと思ったのか、これを現実世界のくたびれた大人たちの中に持ってくるというアイディアを考え出した。
これ自体は別に悪くない。
しかもヒロインは言う、「私の名はストーリー」と。
すわ、シャマランは作家と名のつく人なら一度はぶち当たる、「物語とは何ぞや」という究極のテーマに、正面から向き合おうとしたのかと思った。
ところが・・・やっぱりシャマランである・・・。
「物語」について多少考えたっぽい名残はあるものの、結果的にこれは「子供のために考えたベッドタイムストーリーを何とか大人が楽しめるように作りました」というもの以上の物ではなかった。
というか元々が即興で考えた話だからか、それを現実世界に移し変える作業もなんだか即興で作ってるような無理やり感溢れる代物になっている。
既に全世界の映画ライターや映画ファンが散々言ってると思うが、一番不思議なのは、この実に他愛の無い御伽噺を、登場人物の普通の大人達が、何の抵抗もなくあっさりと信じてしまう事だ。
真夜中のプールで、全裸で泳いでいた得体の知れない女が、「私は水の精で、怪物に狙われてるの」と言ったら、普通即行で警察か保健所に電話するだろう。
何で主人公が荒唐無稽な話をあっさりと信じてしまうのか。
百歩譲って、ストーリーと出合った人は、彼女の持つ特別な何かを感じ取って信じてしまうにしても、ヒープから間接的に話を聞いただけのアパートの住人たちまで、何の疑問もなくこの荒唐無稽な話を受け入れるのはどう考えても違和感がある。
勿論ファンタジーやSFで、普通あり得ない様なぶっ飛んだ話が、日常世界に侵入してくるものはいくらでもある。
この作品が問題なのは、そのための説得力ある仕掛けや、登場人物のリアクションをまるっきり省いてしまっている事なのだ。
シャマランはスピルバーグに憧れて、映画監督を目指したらしいが、とりあえず「E.T」をもう20回くらい観直した方が良い。
もう一つ決定的なのは、この「御伽噺」をアパートの住人の韓国人のおばさんが知っていて、話の展開をどんどん喋ってしまうのである。
まあこれによって、ヒープが状況を理解してコントロールするという展開が生まれているのだが、話のネタを半分ばらしてしまっている様な物だから、次に何が起こるのかというワクワク感は当然スポイルされる。
そもそも、この全くアジア的でない御伽噺が何で韓国人の口から「東洋の伝説」として語られなければならないのか理解に苦しむ。
前記した様に、この映画の御伽噺自体が、妙に無国籍というか、設定が適当というか、即興感漂うユルイ代物なのだ。
怪物の設定とか、その怪物の天敵の意味づけなど、かなりアバウトにしか語られていないし、水の精のお迎えが何で鷲?とかどうでも良い突込みを入れたくなってしまう。
関係ないけど、大鷲のシーンで「グワイヒア・・・グワイヒア・・・」と呟いていた人が全世界に200万人くらいいたと思う(笑
まあ韓国の伝説という設定は、通訳がいないと会話が成立しないという、画的な面白さ故に設定した事だと思うが、この映画は一事が万事この調子で、何か一つ面白い事をする代わりに、何か重要な部分が破綻してゆくのだ。
そして、ぶっ壊れたまんま、唐突に映画は幕を閉じる。
ひとことで言って、眠くてたまらない。
このところ名演が続いていたポール・ジアマッティも、さすがにこのつかみ所の無い役柄には苦戦したのではないだろうか。
何しろ行動原理に説得力が無いのだから。
ストーリー役のブライス・ダラス・ハワードは「ヴィレッジ」に引き続いての出演だが、まあ・・・こんなキャラだよねという感じで可もなく不可もなくという印象。
ある意味一番目立ってるのは、もうカメオ出演なんてものじゃなくて、完全に準主役級になってしまってるシャマラン自身。
監督業に限界を感じて、役者に転身でもするつもりだろうか。
脇役ではボブ・バラバン演じる映画評論家が、シャマランの批評家観が反映されて(?)ちょっと笑えるキャラクターだった。
スタッフ関連では、クリストファー・ドイルが撮影監督を務めているのが目を引くが、特に彼の個性が生かされていたとは思わない。
まあ綺麗だったし画作りは悪くなかったと思うが。
M・ナイト・シャマランは、この作品の前に長年契約していたディズニーと別れ、新たにワーナーと契約したらしいが、一発目にこれやられちゃったワーナーは頭が痛いだろう。
次がシャマランの作家生命をかけた勝負作にならざるを得ないと思う。
今回は、水の精ならぬ「杜の妖精」をチョイス。
鹿児島の太久保酒造の芋焼酎で、蔵に住み着く妖精たちが仕上げに加わって作り上げたという触れ込み。
適度に芋の風味が残る、芋らしい芋焼酎だ。
まあ実際自然の気分次第で仕上がりが大きく変わる酒作りは、妖精の仕事も入っているのかもしれない。
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しかし、映画館にお金払って観に来ている観客まで、寝かしつけちゃダメだろう。
どう観ても、この話は即興で考えたベッドタイムストーリーで、それ以上の物ではない。
色々と考えた痕跡は見て取れるが、あらゆる要素が滑ってしまって、物語の肉付けに失敗している。
結果的に、安っぽいお子様ランチを、フォーマルなレストランのテーブルに置いたような、ひどくアンバランスで観る者を戸惑わせるような、奇妙奇天烈な映画が出来上がってしまった。
クリーブランド・ヒープ(ポール・ジアマッティ)は、アパートの管理人として、世捨て人の様に静かに暮らしていた。
ある夜ヒープは、深夜のプールを裸で泳ぐ少女(ブライス・ダラス・ハワード)と出会う。
彼女は、自分は「ナーフ(水の精)」で、世界を変える可能性を持つ「器」の役割を担う人間に会いに来たと言う。
しかし同時にナーフを狙う恐ろしい怪物に追われいて、怪物はスキがあれば彼女を殺そうとしているらしい。
ヒープは、アパートの住人たちの協力を得て、彼女を元の世界に帰そうとするのだが・・・
元々私は、シャマランの映画をそれほど評価してない。
世評の断トツに高い「シックス・センス」にしたところで、作りの丁寧さは認めるが、それ程凄い映画とも思えず、ほぼ同時に製作された同じようなオチを持つ二本、「アザーズ」と「エコーズ」の方が自分の中ではポイント高かったりする。
「アザーズ」はDVD買ってしまったけど、「シックス・センス」は二度見ようとは思わなかったし。
基本的にこの人は、B級の人だと思う。
過去のB級映画の設定を借りてきて、それをちょっと違った目線で、A級大作の丁寧さで撮る。
あくまでも本質はB級で、故にその趣味性が比較的素直に出た「アンブレイカブル」「サイン」はそれなりに楽しんだ。
だが露骨なブラットベリのパクリを、文芸作家気取りでテーマ性を前面に出して撮った「ヴィレッジ」辺りになると途端に馬脚を現す。
元ネタのブラットベリが、シンプルなストーリーラインと最小限のキャラクターで、世界の本質をズバリと突いて見せるのに対して、シャマランの「A級大作」は中味をこねくり回し過ぎて、肝心のテーマと遊離してしまっていた。
この噛みあってない感は、今回さらにパワーアップ。
シャマランは、他愛の無いベッドタイムストーリーをそのまんま映画にするのは流石に厳しいと思ったのか、これを現実世界のくたびれた大人たちの中に持ってくるというアイディアを考え出した。
これ自体は別に悪くない。
しかもヒロインは言う、「私の名はストーリー」と。
すわ、シャマランは作家と名のつく人なら一度はぶち当たる、「物語とは何ぞや」という究極のテーマに、正面から向き合おうとしたのかと思った。
ところが・・・やっぱりシャマランである・・・。
「物語」について多少考えたっぽい名残はあるものの、結果的にこれは「子供のために考えたベッドタイムストーリーを何とか大人が楽しめるように作りました」というもの以上の物ではなかった。
というか元々が即興で考えた話だからか、それを現実世界に移し変える作業もなんだか即興で作ってるような無理やり感溢れる代物になっている。
既に全世界の映画ライターや映画ファンが散々言ってると思うが、一番不思議なのは、この実に他愛の無い御伽噺を、登場人物の普通の大人達が、何の抵抗もなくあっさりと信じてしまう事だ。
真夜中のプールで、全裸で泳いでいた得体の知れない女が、「私は水の精で、怪物に狙われてるの」と言ったら、普通即行で警察か保健所に電話するだろう。
何で主人公が荒唐無稽な話をあっさりと信じてしまうのか。
百歩譲って、ストーリーと出合った人は、彼女の持つ特別な何かを感じ取って信じてしまうにしても、ヒープから間接的に話を聞いただけのアパートの住人たちまで、何の疑問もなくこの荒唐無稽な話を受け入れるのはどう考えても違和感がある。
勿論ファンタジーやSFで、普通あり得ない様なぶっ飛んだ話が、日常世界に侵入してくるものはいくらでもある。
この作品が問題なのは、そのための説得力ある仕掛けや、登場人物のリアクションをまるっきり省いてしまっている事なのだ。
シャマランはスピルバーグに憧れて、映画監督を目指したらしいが、とりあえず「E.T」をもう20回くらい観直した方が良い。
もう一つ決定的なのは、この「御伽噺」をアパートの住人の韓国人のおばさんが知っていて、話の展開をどんどん喋ってしまうのである。
まあこれによって、ヒープが状況を理解してコントロールするという展開が生まれているのだが、話のネタを半分ばらしてしまっている様な物だから、次に何が起こるのかというワクワク感は当然スポイルされる。
そもそも、この全くアジア的でない御伽噺が何で韓国人の口から「東洋の伝説」として語られなければならないのか理解に苦しむ。
前記した様に、この映画の御伽噺自体が、妙に無国籍というか、設定が適当というか、即興感漂うユルイ代物なのだ。
怪物の設定とか、その怪物の天敵の意味づけなど、かなりアバウトにしか語られていないし、水の精のお迎えが何で鷲?とかどうでも良い突込みを入れたくなってしまう。
関係ないけど、大鷲のシーンで「グワイヒア・・・グワイヒア・・・」と呟いていた人が全世界に200万人くらいいたと思う(笑
まあ韓国の伝説という設定は、通訳がいないと会話が成立しないという、画的な面白さ故に設定した事だと思うが、この映画は一事が万事この調子で、何か一つ面白い事をする代わりに、何か重要な部分が破綻してゆくのだ。
そして、ぶっ壊れたまんま、唐突に映画は幕を閉じる。
ひとことで言って、眠くてたまらない。
このところ名演が続いていたポール・ジアマッティも、さすがにこのつかみ所の無い役柄には苦戦したのではないだろうか。
何しろ行動原理に説得力が無いのだから。
ストーリー役のブライス・ダラス・ハワードは「ヴィレッジ」に引き続いての出演だが、まあ・・・こんなキャラだよねという感じで可もなく不可もなくという印象。
ある意味一番目立ってるのは、もうカメオ出演なんてものじゃなくて、完全に準主役級になってしまってるシャマラン自身。
監督業に限界を感じて、役者に転身でもするつもりだろうか。
脇役ではボブ・バラバン演じる映画評論家が、シャマランの批評家観が反映されて(?)ちょっと笑えるキャラクターだった。
スタッフ関連では、クリストファー・ドイルが撮影監督を務めているのが目を引くが、特に彼の個性が生かされていたとは思わない。
まあ綺麗だったし画作りは悪くなかったと思うが。
M・ナイト・シャマランは、この作品の前に長年契約していたディズニーと別れ、新たにワーナーと契約したらしいが、一発目にこれやられちゃったワーナーは頭が痛いだろう。
次がシャマランの作家生命をかけた勝負作にならざるを得ないと思う。
今回は、水の精ならぬ「杜の妖精」をチョイス。
鹿児島の太久保酒造の芋焼酎で、蔵に住み着く妖精たちが仕上げに加わって作り上げたという触れ込み。
適度に芋の風味が残る、芋らしい芋焼酎だ。
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