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2006年11月22日 (水) | 編集 |
あれから、もう11年も経つのか。
テレビ画面に写った神戸の街は、まるで爆撃に遭ったか、怪獣にでも襲撃されかの様だった。
私は、1989年のサンフランシスコ大地震を経験している。
あの時も高速道路が落ち、埋立地は液状化して大きな被害が出た。
しかしアメリカならともかく、地震国で世界に冠たる耐震技術を持つ日本で、あれほどの被害が出るとはテレビを見てもすぐには信じられなかった。
同じ年の8月に、神戸を訪れる機会があったのだが、まだ崩れかけたビルや瓦礫の山、そして亡くなった人を供養するための線香や花束が街のあちこちに残っていて、あらためて自然の力の凄まじさをまざまざと実感したものだ。
この映画は、あの日神戸で被災し、復興に尽力しつつも、還暦目前にしてプロゴルファーを志し、ついに夢を実現させた古市忠夫氏の実話である。
1995年1月17日、午前5時46分、阪神・淡路大震災発生。
神戸市の鷹取商店街で、カメラ店を営む古市忠夫(赤井英和)は、その日全てを失った。
自身と家族は何とか無事だったものの、巨大地震の圧倒的な破壊力とその後の猛火は、鷹取の街を跡形も無く焼き尽くした。
道路も水も寸断され、消防団員でもあった忠夫は、その惨状を見ている事しか出来なかった。
震災後、街の復興に尽力する忠夫だったが、土地の区画整理を含む復興策には反対も多く、苦悩の日々を送ることとなる。
そんなある日、忠夫の車が偶然焼け残っていると知らされる。
車のトランクを開けた忠夫は驚いた。
そこには、忠夫の唯一の趣味であるゴルフのバッグが、全く無傷の状態で横たわっていたのだ・・・・
「ありがとう」のプロデューサーの仙頭武則は兵庫の出身で、この震災で危うく死にかけた経験を持つらしい。
実家に帰省していた彼は、予定外の仕事で東京に戻らざるを得なくなり、偶然にも地震の前夜に神戸を後にしていた。
実家の彼の寝室は、最初の揺れで完全に破壊されていたというから、正に九死に一生を得た事になる。
これはそんな彼の故郷への思いが、色濃く出た作品と言っても良いだろう。
仙頭プロデューサー自らが、特撮監督を兼務(!)して作り上げた大震災の描写は凄まじい。
所謂、娯楽スペクタクルとしての撮り方はしていない。
もしカメラがそこにあったら、どんな映像が写るのかという、徹底的なリアリズムで描写される阿鼻叫喚の地獄絵図は、時間的にはごく短いながらも、そのインパクトで「日本沈没」が裸足で逃げ出す。
あっけなく倒壊する高速道路、自重に耐えられず屋根から潰れてゆく木造家屋、最初の揺れから生き残った者にも、今度は紅蓮の炎が迫る。
瓦礫に埋もれて助け出せない家族を、みすみす見捨てなければならなかった人達。
消防車はあるのに水が出ないで、街が火に焼き尽くされるのをただ見守るしかなかった人達。
あの日、ニュースで伝えられ、情報としては知っていた事実が、現場感をもって描写される。
巨大なオープンセットを用いた震災直後の一連のシークエンスは、日本映画らしからぬスケールとスピード感があり、圧巻といって良い仕上がりだ。
映画は基本的に、古市忠夫という一人の人間が、未曾有の震災を経験し、そこから新しい人生を歩みだす過程を描いている。
震災で全てを失った忠夫は、徐々に日常を取り戻しながら、今度は災害に強い街への復興の音頭をとってゆく。
区画整理を伴う復興案には、当然街の人々の反対もあるのだが、この流れも現実の背景があるだけに説得力がある。
街を取り戻すための戦いの中、偶然焼け残っていた車のトランクから、古市はゴルフバッグを見つけ、後にプロゴルファーを目指す事になる。
今度は自分を復興させるために、彼は「一番好きなもの」を選んだのだ。
残念ながら、この作品はここからが弱い。
物語の中で、震災の経験とその後のプロゴルファーへのチャレンジが上手く繋がらない。
まるで神戸の震災をテーマにした映画と、プロゴルファーへのチャレンジをテーマにした物と、二本の別々の映画が繋がっているかの様だ。
勿論実話なのだから、本物の古市氏本人の中には、はっきりとした感情の流れがあったのだろうが、映画ではそれが見えない。
震災とその後始末が一段落し、忠夫がプロゴルファーチャレンジを宣言するのは映画が始まってから1時間10分ほどが過ぎたあたり。
起承転結で言えば、長い長い「起」があって、ようやく「承」が始まった事になる。
だが、そこからの流れも物語上に「転」に当たる部分が無く、「承」から大した波乱も無く、物語は「結」に収束してしまう。
実話だから仕方が無いという考えもあるだろうが、ドラマ的に後半が平坦な印象なのは否めない。
万田邦敏監督の演出も、あまり登場人物の心の機微を丹念に描いてゆくというタイプではないので、キャラクターが観客の内にグイッと入ってくる訳でもなく、あれよあれよという間に物語が終ってしまう。
やはりこれは、直球過ぎる構成の失敗だと思う。
例えば物語のベースを忠夫のプロゴルファーチャレンジに置き、そこから時系列をミックスする形で震災とその後の出来事を描くとか、逆に震災の経験から、プロゴルファーへのチャレンジを決意するまでの心の流れを中心に描くとか、実話に忠実に作りながら物語を盛り上げる方法はあったと思うのだ。
ただ、後半物語が失速してしまうとは言え、決してダラダラと退屈するほどではない。
前半の震災から復興への流れは怒涛の勢いで圧巻だし、11年という歳月が過ぎ、あの時に起こった事、人々が感じた事を風化させてはならないというテーマ性も強く感じる。
私は、大震災で瓦礫の山になる神戸の描写を見ながら、ふと「ワールド・トレード・センター」を思い浮かべた。
天災と人災の違いはあるが、理不尽な力で市井の人々のささやかな幸せが破壊されて行く悲しみは共通している。
そして、恐るべき破壊の後に来る、希望の光もまた共通しているのだ。
「WTC」では、事件後に全米からレスキュー隊やボランティアが集まってきたが、「ありがとう」にも同様の描写がある。
人間が最後にすがるのは、やはり人間。
地獄のような状況だからこそ、人間の強さ、暖かさが判る。
タイトル通り、劇中の忠夫は何度も何度も「ありがとう」という言葉を口にする。
それは、未曾有の災害を通して、人間は一人では生きられない、生かされているのだと実感したからこその、素直な表現だろう。
そしてそれが、忠夫の逆境からチャレンジする勇気をもらったという気持ちにスムーズに結びついていたら、大傑作になったかもしれないと思うと、少々残念。
しかし、一本の映画として観ると欠点もあるが、色々な意味で観る価値のある作品だとは思う。
この作品を観たら、枕元に非常持ち出し袋と靴くらいは揃えておこうと思うようになる。
それだけの説得力のある作品だ。
さて、神戸・灘といえば日本有数の酒所で、阪神・淡路大震災では多くの蔵元が被害を受けたが、逞しく復興している。
今回は灘の代表的な清酒「福寿 純米吟醸」をチョイス。
純米酒らしい、滑らかでふわりとした広がりのある酒。
こちらの蔵は、震災後にマグニチュード8クラスの地震に堪える免震構造に建て替えたそうだ。
現地では、教訓がしっかりと生きている様だ。
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テレビ画面に写った神戸の街は、まるで爆撃に遭ったか、怪獣にでも襲撃されかの様だった。
私は、1989年のサンフランシスコ大地震を経験している。
あの時も高速道路が落ち、埋立地は液状化して大きな被害が出た。
しかしアメリカならともかく、地震国で世界に冠たる耐震技術を持つ日本で、あれほどの被害が出るとはテレビを見てもすぐには信じられなかった。
同じ年の8月に、神戸を訪れる機会があったのだが、まだ崩れかけたビルや瓦礫の山、そして亡くなった人を供養するための線香や花束が街のあちこちに残っていて、あらためて自然の力の凄まじさをまざまざと実感したものだ。
この映画は、あの日神戸で被災し、復興に尽力しつつも、還暦目前にしてプロゴルファーを志し、ついに夢を実現させた古市忠夫氏の実話である。
1995年1月17日、午前5時46分、阪神・淡路大震災発生。
神戸市の鷹取商店街で、カメラ店を営む古市忠夫(赤井英和)は、その日全てを失った。
自身と家族は何とか無事だったものの、巨大地震の圧倒的な破壊力とその後の猛火は、鷹取の街を跡形も無く焼き尽くした。
道路も水も寸断され、消防団員でもあった忠夫は、その惨状を見ている事しか出来なかった。
震災後、街の復興に尽力する忠夫だったが、土地の区画整理を含む復興策には反対も多く、苦悩の日々を送ることとなる。
そんなある日、忠夫の車が偶然焼け残っていると知らされる。
車のトランクを開けた忠夫は驚いた。
そこには、忠夫の唯一の趣味であるゴルフのバッグが、全く無傷の状態で横たわっていたのだ・・・・
「ありがとう」のプロデューサーの仙頭武則は兵庫の出身で、この震災で危うく死にかけた経験を持つらしい。
実家に帰省していた彼は、予定外の仕事で東京に戻らざるを得なくなり、偶然にも地震の前夜に神戸を後にしていた。
実家の彼の寝室は、最初の揺れで完全に破壊されていたというから、正に九死に一生を得た事になる。
これはそんな彼の故郷への思いが、色濃く出た作品と言っても良いだろう。
仙頭プロデューサー自らが、特撮監督を兼務(!)して作り上げた大震災の描写は凄まじい。
所謂、娯楽スペクタクルとしての撮り方はしていない。
もしカメラがそこにあったら、どんな映像が写るのかという、徹底的なリアリズムで描写される阿鼻叫喚の地獄絵図は、時間的にはごく短いながらも、そのインパクトで「日本沈没」が裸足で逃げ出す。
あっけなく倒壊する高速道路、自重に耐えられず屋根から潰れてゆく木造家屋、最初の揺れから生き残った者にも、今度は紅蓮の炎が迫る。
瓦礫に埋もれて助け出せない家族を、みすみす見捨てなければならなかった人達。
消防車はあるのに水が出ないで、街が火に焼き尽くされるのをただ見守るしかなかった人達。
あの日、ニュースで伝えられ、情報としては知っていた事実が、現場感をもって描写される。
巨大なオープンセットを用いた震災直後の一連のシークエンスは、日本映画らしからぬスケールとスピード感があり、圧巻といって良い仕上がりだ。
映画は基本的に、古市忠夫という一人の人間が、未曾有の震災を経験し、そこから新しい人生を歩みだす過程を描いている。
震災で全てを失った忠夫は、徐々に日常を取り戻しながら、今度は災害に強い街への復興の音頭をとってゆく。
区画整理を伴う復興案には、当然街の人々の反対もあるのだが、この流れも現実の背景があるだけに説得力がある。
街を取り戻すための戦いの中、偶然焼け残っていた車のトランクから、古市はゴルフバッグを見つけ、後にプロゴルファーを目指す事になる。
今度は自分を復興させるために、彼は「一番好きなもの」を選んだのだ。
残念ながら、この作品はここからが弱い。
物語の中で、震災の経験とその後のプロゴルファーへのチャレンジが上手く繋がらない。
まるで神戸の震災をテーマにした映画と、プロゴルファーへのチャレンジをテーマにした物と、二本の別々の映画が繋がっているかの様だ。
勿論実話なのだから、本物の古市氏本人の中には、はっきりとした感情の流れがあったのだろうが、映画ではそれが見えない。
震災とその後始末が一段落し、忠夫がプロゴルファーチャレンジを宣言するのは映画が始まってから1時間10分ほどが過ぎたあたり。
起承転結で言えば、長い長い「起」があって、ようやく「承」が始まった事になる。
だが、そこからの流れも物語上に「転」に当たる部分が無く、「承」から大した波乱も無く、物語は「結」に収束してしまう。
実話だから仕方が無いという考えもあるだろうが、ドラマ的に後半が平坦な印象なのは否めない。
万田邦敏監督の演出も、あまり登場人物の心の機微を丹念に描いてゆくというタイプではないので、キャラクターが観客の内にグイッと入ってくる訳でもなく、あれよあれよという間に物語が終ってしまう。
やはりこれは、直球過ぎる構成の失敗だと思う。
例えば物語のベースを忠夫のプロゴルファーチャレンジに置き、そこから時系列をミックスする形で震災とその後の出来事を描くとか、逆に震災の経験から、プロゴルファーへのチャレンジを決意するまでの心の流れを中心に描くとか、実話に忠実に作りながら物語を盛り上げる方法はあったと思うのだ。
ただ、後半物語が失速してしまうとは言え、決してダラダラと退屈するほどではない。
前半の震災から復興への流れは怒涛の勢いで圧巻だし、11年という歳月が過ぎ、あの時に起こった事、人々が感じた事を風化させてはならないというテーマ性も強く感じる。
私は、大震災で瓦礫の山になる神戸の描写を見ながら、ふと「ワールド・トレード・センター」を思い浮かべた。
天災と人災の違いはあるが、理不尽な力で市井の人々のささやかな幸せが破壊されて行く悲しみは共通している。
そして、恐るべき破壊の後に来る、希望の光もまた共通しているのだ。
「WTC」では、事件後に全米からレスキュー隊やボランティアが集まってきたが、「ありがとう」にも同様の描写がある。
人間が最後にすがるのは、やはり人間。
地獄のような状況だからこそ、人間の強さ、暖かさが判る。
タイトル通り、劇中の忠夫は何度も何度も「ありがとう」という言葉を口にする。
それは、未曾有の災害を通して、人間は一人では生きられない、生かされているのだと実感したからこその、素直な表現だろう。
そしてそれが、忠夫の逆境からチャレンジする勇気をもらったという気持ちにスムーズに結びついていたら、大傑作になったかもしれないと思うと、少々残念。
しかし、一本の映画として観ると欠点もあるが、色々な意味で観る価値のある作品だとは思う。
この作品を観たら、枕元に非常持ち出し袋と靴くらいは揃えておこうと思うようになる。
それだけの説得力のある作品だ。
さて、神戸・灘といえば日本有数の酒所で、阪神・淡路大震災では多くの蔵元が被害を受けたが、逞しく復興している。
今回は灘の代表的な清酒「福寿 純米吟醸」をチョイス。
純米酒らしい、滑らかでふわりとした広がりのある酒。
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2006年11月19日 (日) | 編集 |
メキシコの鬼才、アルフォンソ・キュアロンによる近未来SF大作。
「ハリー・ポッターとアズカバンの囚人」では少々勝手が違ったのか、食い足りない印象が残ったが、こちらは中々の仕上がりだ。
子供が誕生しなくなり、人類が絶滅を予告された架空の未来を舞台に、様々なメタファーを駆使して2006年の現実を炙り出す。
西暦2027年、ロンドン。
人類に子供が生まれなくなって既に18年が過ぎ、未来を失った人類は世界各地で滅びの道を転げ落ちていた。
ここロンドンでは、鎖国体制を敷くことで辛うじて秩序が維持されているが、政府の移民排斥政策に反対するフィッシュと呼ばれる反体制グループによるテロが頻発していた。
エネルギー省に勤める元社会活動家のセオドア・ファロン(クライヴ・オーウェン)は、ある日フィッシュのメンバーによって拉致される。
彼を拉致したグループのリーダーは、嘗ての同士であり妻であったジュリアン(ジュリアン・ムーア)だった。
彼女はセオに、一人の不法移民女性のために、通行証を入手して欲しいと依頼する。
キーと呼ばれたその女性は、なんと妊娠していた・・・
人類に突然子供が生まれなくなるという設定自体は、SFの世界では別に珍しい物ではない、というかちょっと懐古的な70年代風のアイディアだ。
日本でも諸星大二郎の短編漫画「ティラノサウルス号の生還」などに、この設定が見られる。
生物の存在目的とも言うべき、生殖による自己増殖が行われなくなった時、はたして人類はどうなるのか?
アルフォンソ・キュアロンは、この究極的な設定に西暦2006年の世界を投影し、人類の現在に対して問いかける。
この時代、どうやら自暴自棄となった人類は、自然消滅する前に自滅の道を突っ走っている様だ。
アメリカや日本、ヨーロッパ大陸の国は既に滅びているらしく、イギリスだけが抑圧的な警察国家となって、何とか国の形を保っている。
とは言っても、街では爆弾テロが頻発し、不法移民の密告が奨励され、捕まった不法移民は難民キャンプの様な強制収容所に押し込められる。
強制収容所では、人間扱いされない収容者たちによる反乱も起こる。
この映画に描かれている2027年のイギリスは、2006年の世界の縮図であり、今現在世界のどこかで起こっていることが、比喩的に表現されている。
不寛容な移民排斥、内戦、テロ、そして暴力の連鎖。
映画の中で、子供が生まれなくなった理由、そしてキーが妊娠した理由は一切描かれない。
卵が先か、鶏が先か、子供は生むものなのか、それとも生まれるものなのか。
「選択」は誰のものなのか。
この作品において、これは問いかけである。
物語中では子供が生まれなくなった事で、様々な暴力が生まれる事になっているが、実際にこの映画の中で描かれている事は、我々も日々ニュースなどで観ている「世界のどこか」の日常の風景だ。
はたして、今の世界は「子供が生まれてきたい」世界なのだろうか。
不寛容が支配する世界は、「子供が生まれるべき」世界なのだろうか。
キュアロンは2006年のメタファーとしての2027年を描写する事で、我々に人類の生物としての根源的な疑問を投げかける。
原題は「CHILDREN OF MEN」
「人類の子供たち」とでも訳せるだろうか、劇中に登場する「子供」は一人であるのに、複数系であるのがこの物語のテーマを物語る。
一人の子供は全ての命のメタファーである。
不寛容が絶頂へと達する時、物語の中では新たな命が生まれる。
何故か。何故この命は、この暴力の連鎖の中に生まれたのだろうか。
それは結局のところ、命こそが生命体としての人類の希望だからだろう。
戦いを止めよう、暴力の連鎖を断ち切ろうという永年の努力も、勿論自分たちが安全に暮らしたいという事ではあるだろうが、究極的には次の世代にベターな世界を引き継がせたいという内なる欲求だろう。
それは一つの生物としての人類の、集合的無意識と言うべき物かもしれない。
「フィッシュ」の存在が、物語の流れにおいて、妨害者以上の役割を今ひとつ演じられていないなど、作劇上の突っ込みをしたくなる箇所は沢山あるのだが、これはこれで今現在の世相を映した力作だと思う。
嘗てSFは、十分な娯楽性を持ちつつも、現実社会を反映する鏡の役割をするジャンルだった。
「トゥモロー・ワールド」は少々古典的なアイディア以外にも、そんなSFのジャンル的な役割も思い起こさせる社会派の力作だ。
しかし、日本先行公開である本作の、興行の力の入らなさはちょっとどうかと思う。
どういう事情で全米より一ヶ月前に日本公開が決まったのかは知らないが、実に現在的な仕上がりにも関わらず、宣伝ではどんな映画なのもかもわからない。
売り難い映画であることは理解するが、ほとんどB級SF並の扱いで興行される様な作品ではないと思う。
映画自体の評価とは関係ないが、初日に10人ほどしか入っていない劇場で鑑賞し、その点少し残念に思った。
今回はやはり黒ビール。
ギネスドラフトをチョイスしよう。
クリーミーでコクのある独特のテイストは好き嫌いがあるとおもうが、やはり冬場に飲むビールとしてはこれが最高。
ちなみに缶入りギネスには、泡立ちをよくするためにプラスチックのボールが入っているのはよく知られていると思うが、何でもイギリス人の考える20世紀最大の発明はこれなのだそうだ(笑
ところで、ジュリアン・ムーア的には、今回の出演はこれでよかったのだろうか?
相変わらず、出演作選びの基準がよく判らない人だ。
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「ハリー・ポッターとアズカバンの囚人」では少々勝手が違ったのか、食い足りない印象が残ったが、こちらは中々の仕上がりだ。
子供が誕生しなくなり、人類が絶滅を予告された架空の未来を舞台に、様々なメタファーを駆使して2006年の現実を炙り出す。
西暦2027年、ロンドン。
人類に子供が生まれなくなって既に18年が過ぎ、未来を失った人類は世界各地で滅びの道を転げ落ちていた。
ここロンドンでは、鎖国体制を敷くことで辛うじて秩序が維持されているが、政府の移民排斥政策に反対するフィッシュと呼ばれる反体制グループによるテロが頻発していた。
エネルギー省に勤める元社会活動家のセオドア・ファロン(クライヴ・オーウェン)は、ある日フィッシュのメンバーによって拉致される。
彼を拉致したグループのリーダーは、嘗ての同士であり妻であったジュリアン(ジュリアン・ムーア)だった。
彼女はセオに、一人の不法移民女性のために、通行証を入手して欲しいと依頼する。
キーと呼ばれたその女性は、なんと妊娠していた・・・
人類に突然子供が生まれなくなるという設定自体は、SFの世界では別に珍しい物ではない、というかちょっと懐古的な70年代風のアイディアだ。
日本でも諸星大二郎の短編漫画「ティラノサウルス号の生還」などに、この設定が見られる。
生物の存在目的とも言うべき、生殖による自己増殖が行われなくなった時、はたして人類はどうなるのか?
アルフォンソ・キュアロンは、この究極的な設定に西暦2006年の世界を投影し、人類の現在に対して問いかける。
この時代、どうやら自暴自棄となった人類は、自然消滅する前に自滅の道を突っ走っている様だ。
アメリカや日本、ヨーロッパ大陸の国は既に滅びているらしく、イギリスだけが抑圧的な警察国家となって、何とか国の形を保っている。
とは言っても、街では爆弾テロが頻発し、不法移民の密告が奨励され、捕まった不法移民は難民キャンプの様な強制収容所に押し込められる。
強制収容所では、人間扱いされない収容者たちによる反乱も起こる。
この映画に描かれている2027年のイギリスは、2006年の世界の縮図であり、今現在世界のどこかで起こっていることが、比喩的に表現されている。
不寛容な移民排斥、内戦、テロ、そして暴力の連鎖。
映画の中で、子供が生まれなくなった理由、そしてキーが妊娠した理由は一切描かれない。
卵が先か、鶏が先か、子供は生むものなのか、それとも生まれるものなのか。
「選択」は誰のものなのか。
この作品において、これは問いかけである。
物語中では子供が生まれなくなった事で、様々な暴力が生まれる事になっているが、実際にこの映画の中で描かれている事は、我々も日々ニュースなどで観ている「世界のどこか」の日常の風景だ。
はたして、今の世界は「子供が生まれてきたい」世界なのだろうか。
不寛容が支配する世界は、「子供が生まれるべき」世界なのだろうか。
キュアロンは2006年のメタファーとしての2027年を描写する事で、我々に人類の生物としての根源的な疑問を投げかける。
原題は「CHILDREN OF MEN」
「人類の子供たち」とでも訳せるだろうか、劇中に登場する「子供」は一人であるのに、複数系であるのがこの物語のテーマを物語る。
一人の子供は全ての命のメタファーである。
不寛容が絶頂へと達する時、物語の中では新たな命が生まれる。
何故か。何故この命は、この暴力の連鎖の中に生まれたのだろうか。
それは結局のところ、命こそが生命体としての人類の希望だからだろう。
戦いを止めよう、暴力の連鎖を断ち切ろうという永年の努力も、勿論自分たちが安全に暮らしたいという事ではあるだろうが、究極的には次の世代にベターな世界を引き継がせたいという内なる欲求だろう。
それは一つの生物としての人類の、集合的無意識と言うべき物かもしれない。
「フィッシュ」の存在が、物語の流れにおいて、妨害者以上の役割を今ひとつ演じられていないなど、作劇上の突っ込みをしたくなる箇所は沢山あるのだが、これはこれで今現在の世相を映した力作だと思う。
嘗てSFは、十分な娯楽性を持ちつつも、現実社会を反映する鏡の役割をするジャンルだった。
「トゥモロー・ワールド」は少々古典的なアイディア以外にも、そんなSFのジャンル的な役割も思い起こさせる社会派の力作だ。
しかし、日本先行公開である本作の、興行の力の入らなさはちょっとどうかと思う。
どういう事情で全米より一ヶ月前に日本公開が決まったのかは知らないが、実に現在的な仕上がりにも関わらず、宣伝ではどんな映画なのもかもわからない。
売り難い映画であることは理解するが、ほとんどB級SF並の扱いで興行される様な作品ではないと思う。
映画自体の評価とは関係ないが、初日に10人ほどしか入っていない劇場で鑑賞し、その点少し残念に思った。
今回はやはり黒ビール。
ギネスドラフトをチョイスしよう。
クリーミーでコクのある独特のテイストは好き嫌いがあるとおもうが、やはり冬場に飲むビールとしてはこれが最高。
ちなみに缶入りギネスには、泡立ちをよくするためにプラスチックのボールが入っているのはよく知られていると思うが、何でもイギリス人の考える20世紀最大の発明はこれなのだそうだ(笑
ところで、ジュリアン・ムーア的には、今回の出演はこれでよかったのだろうか?
相変わらず、出演作選びの基準がよく判らない人だ。

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2006年11月14日 (火) | 編集 |
1974年に発表された、トビー・フーパー監督の「悪魔のいけにえ」は、ニューシネマ・ホラーとも言うべき異色作で、後のホラー映画に大きな影響を与えた。
テキサスのギラギラとした太陽と乾燥した空気の中、従来のホラー的なムード演出を一切廃したリアリズム重視の演出(低予算の裏返しでもあるのだが)は、チェーンソーの爆音と共に、ホラー映画の歴史に新しい可能性を確かに切り開いた。
フーパーは12年後の86年に、続編「悪魔のいけにえ2」を発表。
82年の「ポルターガイスト」以来、ハリウッドメジャーでの仕事が続いていたフーパーだが、よほど窮屈な思いをしていたのか、古巣に戻って爆発的なテンションの演出を見せる。
一作目の焼き直しではあるものの、これはこれでぶっ飛んだ作品になっていた。
その後、「悪魔のいけにえ3/レザーフェイスの逆襲」「悪魔のいけにえ/レジェンド・オブ・レザーフェイス」の2本が作られるが、フーパーは関わっていない。
時は流れて2003年、ホラーマニアのマイケル・ベイが、フーパーを共同プロデューサーに迎え、「悪魔のいけにえ」は「テキサス・チェーンソー」としてリメイクされる。
そして今回の「テキサス・チェーンソー ビギニング」では、第一作の公開から32年を経て、あのカリバニズム一家の秘密が明かされると言う。
1969年、テキサスの田舎町で食肉工場が閉鎖され、唯一の職場を失った街の住人は散り散りとなる。
ただ、土地に強い執着をもつヒューイット家だけはそこに残る事を決断する。
ヒューイット家の養子であり、変形顔面異常症のトーマス・ヒューイット(アンドリュー・ブリニアースキー)は、閉鎖された食肉工場で工場長を殴り殺してしまう。
保安官がトーマスを逮捕しようとするが、ヒューイット家の家長であるホイトは保安官を殺害、その遺体を一家の食材にしてしまう。
ホイトは自ら保安官に成りすまし、一家の食卓に上る「獲物」狩りを始める。
同じ頃、ベトナム帰還兵で再出征するエリック(マット・ボーマー)と、その弟で入隊を控えたディーン(テイラー・ハンドリー)の兄弟は、それぞれの恋人であるクリッシー(ジョルダーナ・ブリュースター)とベイリー(ディオラ・ベアード)を伴って、入隊前の自動車旅行でテキサスを通りかかっていた。
彼らは、自分達の行く先に、人食い一家が待ち受けていることをまだ知らない・・・
「ビギニング」というタイトルから、あのレザーフェイスや一家の過去が明かされるのだと思っていたが、その辺はオープニングのタイトルバックであっさり描かれるだけ。
とりあえず、レザーフェイスの生い立ちはわかったけど、はっきり言ってタイトルに偽りありだ。
以降の展開は、今までのシリーズと全く同じと言っていい。
例によって、若者達のグループがあのヒューイット家におびき寄せられ、一人また一人と彼らの「食卓」に上がってゆく。
一応、物語の中で、ホイトが保安官を装うようになった理由や、最初にレザーフェイスがチェーンソーを使うシーンも描かれているが、それを強調して見せるような演出にはなっておらず、話の中であっさりと流れていってしまうので、あまり印象に残らない。
基本的に2003年版の「テキサス・チェーンソー」にそのまま繋がる構成で、キャストも共通。
インチキ保安官のホイトを演じるR・リー・アーメイが、相変わらずハイテンションな演技で、客を不快感で包み込む。
保安官の衣装を身に付けてご満悦のホイトに、「女は制服の男が好きだ」なんて台詞をしたり顔で言わせる辺り、彼の出世作である「フルメタル・ジャケット」のハーマン軍曹役を暗に匂わせて判る人には笑える。
ちなみにアーメイは本物の元海兵隊軍曹で指導教官まで勤め、その制服姿のリアリズムからキューブリックが彼をキャスティングしたのは有名な話。
その他の彼の出演作も軍人・警官といった制服役が圧倒的に多い。
一応、レザーフェイスを演じるアンドリュー・ブリニアースキーも前作からの続投なのだが、喋らないし、顔もマスクで隠しているから、物語を支配するホイトの独断場だ。
彼らの獲物である若者達は、それなりに一人一人のキャラクターはしっかりとしているのだが、やはり存在感で悪役には敵わない。
妙に印象に残るのは、今回結構ひどい目に会うオデブの隣人を演じるキャシー・ラムキン。
この人も前作からの続投組みで、こう言う細かい部分でシリーズ物としての世界観をしっかりとした物にしているのは、なかなか上手い。
そう言えばナレーションのジョン・ラロクェットも、74年のオリジナルからのレギュラーだ。
「テキサス・チェーンソー ビギニング」は、これ単体として観れば、なかなか良く出来た作品だと思う。
ただ、毎度毎度やっている事は同じだし、今回の場合はなにせ「ビギニング」なので、ラストも初めから決まっている。
そういう意味で、シリーズを通して観ている目には、「あ~、いつもの通りだなあ・・・」という作品で、ホイトのキャラクターなどの細かい遊びにニヤリとさせられる部分はあるにしろ、物語的に新しい面白さは無かった。
むしろ、今までのシリーズを全く知らない人の方が、新鮮で楽しめるのではないだろうか。
しかし、どうせ前日譚をやるのなら、そっちをメインにした方が面白かった気がする。
「悪魔のいけにえ」は、トビー・フーパーが1966年に起こったテキサスタワー乱射事件と実在の殺人鬼エド・ゲインのキャラクターに触発されて作った事は良く知られているが、実際の事件とエド・ゲインの人生を追った本などを読むと、もの凄く面白い。
いっそのこと、ホイトやレザーフェイスのそれぞれの過去を描き込み、それと食肉工場が閉鎖され、彼らが人間狩りを始める話を交互に描いたら本当の意味での「ビギニング」になったのではないだろうか。
ちなみにエド・ゲインは「悪魔のいけにえ」のほかにも、映画史上に残る二本の作品に大きな影響を与えている。
「サイコ」と「羊たちの沈黙」である。
「悪魔のいけにえ」を含めたこれらの作品が与えた影響を考えると、エド・ゲインの物語こそ、現代アメリカの恐怖映画の原点なのかもしれない。
さて、テキサスはワインやビールもそれなりにあるのだが、この映画にはやはり喉が焼けるようなきついのが合うだろう。
テキサスの名を冠したバーボン、「イエロー・ローズ・オブ・テキサス」をチョイス。
もっとも名前はテキサスだけど、作ってるのはケンタッキー・リザーヴ・ディスティリングというケンタッキー州の会社。
220年という歴史ある蒸留所で、この酒は「テキサスの黄色いバラ」という南北戦争当時の流行歌から名付けられた。
南部の酒らしく、強いわりにはとても飲みやすく、もたれない。
ヒューイット家の面々と違って、テキサス美人なら旅の途中でいくらでも会いたい。
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イエロー ローズ オブ テキサス 8年 750ml 45度
テキサスのギラギラとした太陽と乾燥した空気の中、従来のホラー的なムード演出を一切廃したリアリズム重視の演出(低予算の裏返しでもあるのだが)は、チェーンソーの爆音と共に、ホラー映画の歴史に新しい可能性を確かに切り開いた。
フーパーは12年後の86年に、続編「悪魔のいけにえ2」を発表。
82年の「ポルターガイスト」以来、ハリウッドメジャーでの仕事が続いていたフーパーだが、よほど窮屈な思いをしていたのか、古巣に戻って爆発的なテンションの演出を見せる。
一作目の焼き直しではあるものの、これはこれでぶっ飛んだ作品になっていた。
その後、「悪魔のいけにえ3/レザーフェイスの逆襲」「悪魔のいけにえ/レジェンド・オブ・レザーフェイス」の2本が作られるが、フーパーは関わっていない。
時は流れて2003年、ホラーマニアのマイケル・ベイが、フーパーを共同プロデューサーに迎え、「悪魔のいけにえ」は「テキサス・チェーンソー」としてリメイクされる。
そして今回の「テキサス・チェーンソー ビギニング」では、第一作の公開から32年を経て、あのカリバニズム一家の秘密が明かされると言う。
1969年、テキサスの田舎町で食肉工場が閉鎖され、唯一の職場を失った街の住人は散り散りとなる。
ただ、土地に強い執着をもつヒューイット家だけはそこに残る事を決断する。
ヒューイット家の養子であり、変形顔面異常症のトーマス・ヒューイット(アンドリュー・ブリニアースキー)は、閉鎖された食肉工場で工場長を殴り殺してしまう。
保安官がトーマスを逮捕しようとするが、ヒューイット家の家長であるホイトは保安官を殺害、その遺体を一家の食材にしてしまう。
ホイトは自ら保安官に成りすまし、一家の食卓に上る「獲物」狩りを始める。
同じ頃、ベトナム帰還兵で再出征するエリック(マット・ボーマー)と、その弟で入隊を控えたディーン(テイラー・ハンドリー)の兄弟は、それぞれの恋人であるクリッシー(ジョルダーナ・ブリュースター)とベイリー(ディオラ・ベアード)を伴って、入隊前の自動車旅行でテキサスを通りかかっていた。
彼らは、自分達の行く先に、人食い一家が待ち受けていることをまだ知らない・・・
「ビギニング」というタイトルから、あのレザーフェイスや一家の過去が明かされるのだと思っていたが、その辺はオープニングのタイトルバックであっさり描かれるだけ。
とりあえず、レザーフェイスの生い立ちはわかったけど、はっきり言ってタイトルに偽りありだ。
以降の展開は、今までのシリーズと全く同じと言っていい。
例によって、若者達のグループがあのヒューイット家におびき寄せられ、一人また一人と彼らの「食卓」に上がってゆく。
一応、物語の中で、ホイトが保安官を装うようになった理由や、最初にレザーフェイスがチェーンソーを使うシーンも描かれているが、それを強調して見せるような演出にはなっておらず、話の中であっさりと流れていってしまうので、あまり印象に残らない。
基本的に2003年版の「テキサス・チェーンソー」にそのまま繋がる構成で、キャストも共通。
インチキ保安官のホイトを演じるR・リー・アーメイが、相変わらずハイテンションな演技で、客を不快感で包み込む。
保安官の衣装を身に付けてご満悦のホイトに、「女は制服の男が好きだ」なんて台詞をしたり顔で言わせる辺り、彼の出世作である「フルメタル・ジャケット」のハーマン軍曹役を暗に匂わせて判る人には笑える。
ちなみにアーメイは本物の元海兵隊軍曹で指導教官まで勤め、その制服姿のリアリズムからキューブリックが彼をキャスティングしたのは有名な話。
その他の彼の出演作も軍人・警官といった制服役が圧倒的に多い。
一応、レザーフェイスを演じるアンドリュー・ブリニアースキーも前作からの続投なのだが、喋らないし、顔もマスクで隠しているから、物語を支配するホイトの独断場だ。
彼らの獲物である若者達は、それなりに一人一人のキャラクターはしっかりとしているのだが、やはり存在感で悪役には敵わない。
妙に印象に残るのは、今回結構ひどい目に会うオデブの隣人を演じるキャシー・ラムキン。
この人も前作からの続投組みで、こう言う細かい部分でシリーズ物としての世界観をしっかりとした物にしているのは、なかなか上手い。
そう言えばナレーションのジョン・ラロクェットも、74年のオリジナルからのレギュラーだ。
「テキサス・チェーンソー ビギニング」は、これ単体として観れば、なかなか良く出来た作品だと思う。
ただ、毎度毎度やっている事は同じだし、今回の場合はなにせ「ビギニング」なので、ラストも初めから決まっている。
そういう意味で、シリーズを通して観ている目には、「あ~、いつもの通りだなあ・・・」という作品で、ホイトのキャラクターなどの細かい遊びにニヤリとさせられる部分はあるにしろ、物語的に新しい面白さは無かった。
むしろ、今までのシリーズを全く知らない人の方が、新鮮で楽しめるのではないだろうか。
しかし、どうせ前日譚をやるのなら、そっちをメインにした方が面白かった気がする。
「悪魔のいけにえ」は、トビー・フーパーが1966年に起こったテキサスタワー乱射事件と実在の殺人鬼エド・ゲインのキャラクターに触発されて作った事は良く知られているが、実際の事件とエド・ゲインの人生を追った本などを読むと、もの凄く面白い。
いっそのこと、ホイトやレザーフェイスのそれぞれの過去を描き込み、それと食肉工場が閉鎖され、彼らが人間狩りを始める話を交互に描いたら本当の意味での「ビギニング」になったのではないだろうか。
ちなみにエド・ゲインは「悪魔のいけにえ」のほかにも、映画史上に残る二本の作品に大きな影響を与えている。
「サイコ」と「羊たちの沈黙」である。
「悪魔のいけにえ」を含めたこれらの作品が与えた影響を考えると、エド・ゲインの物語こそ、現代アメリカの恐怖映画の原点なのかもしれない。
さて、テキサスはワインやビールもそれなりにあるのだが、この映画にはやはり喉が焼けるようなきついのが合うだろう。
テキサスの名を冠したバーボン、「イエロー・ローズ・オブ・テキサス」をチョイス。
もっとも名前はテキサスだけど、作ってるのはケンタッキー・リザーヴ・ディスティリングというケンタッキー州の会社。
220年という歴史ある蒸留所で、この酒は「テキサスの黄色いバラ」という南北戦争当時の流行歌から名付けられた。
南部の酒らしく、強いわりにはとても飲みやすく、もたれない。
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2006年11月10日 (金) | 編集 |
殺人犯として服役する兄と、犯罪者の家族として、世間の冷たい風の中に生きる弟を軸に、人間と人間のつながりを描いた東野圭吾のベストセラー小説の映画化。
テレビドラマのベテラン演出家、生野慈朗が映画監督として16年ぶりにメガホンを取った意欲作で、謂れの無い差別を通して描かれる、人権という言葉と世間一般の本音のズレ、傷つけあいながら、それでも響きあう人間の心、犯罪被害者と加害者の心の葛藤など、非常に沢山のテーマが語られている。
実際に世評も高いようだが、私には今ひとつ気持ちの入っていかない作品だった。
リサイクル工場で働きながら、世間の目を避けるようにひっそりと生きる若者が一人。
彼の名は、武島直貴(山田孝之)。
強盗殺人の罪で、千葉の刑務所に服役している武島剛志(玉山鉄二)の弟だ。
犯罪者の兄のために、謂れの無い差別を受けてきた直貴は、極力他人と関わらないように生きている。
刑務所の兄との手紙のやりとりが、人とのかかわりの全てのような生活で、密かに直貴に想いを寄せる由美子(沢尻エリカ)の気持ちにも答えることが出来ない。
そんな世捨て人の様な直貴が、たった一つ打ち込むものが、子供の頃からの憧れだったお笑い芸人への挑戦だった・・・・
テーマに誠実に向き合った作品だし、丁寧に作られている。
俳優も、それぞれのキャラクターを掴んでいたと思うし、作品の完成度はとても高い。
良作だと思う。
しかし、私はこの作品を好きではない。
二時間の間、カメラは事件から数年間の直貴を追いつづける。
直貴の身に起こった事、直貴の内面をしっかりと描写する。
物語が進むにつれて、私はますますこの作品が好きではなくなる。
要するに、出ずっぱりの主人公に全く共感できなかったのだ。
事件後、殺人者の弟として謂れの無い差別を受けた直貴は、次第に人間を避けて暮らすようになる。
差別されるのが怖くて、初めから人との接触を断つ。
この辺りはまだ良い。
しかし、その人間嫌いで人との接触を避けつづけている主人公が、お笑い芸人を目指すと言うのがどうしても理解できない。
ああいう精神状態にある人が、人前に出て笑いをとる事を考えるとは思えないし、注目される職業につこうとする事も矛盾だと思う。
元々お笑いが大好きで、心の根底でそれを捨てられなかったという解釈も成り立つが、それなら自分の過去がネットでちょっと噂になったくらいで、あっさりとお笑いを止めてしまうのはもっと理解できない。
お笑いはこの物語上ではキーとなる職業に設定されているが、主人公の行動を見ている限りは、彼がどんどん捨てて行く、その他の職業と大して変わらない様にしか見えないのだ。
また主人公はあちこちで差別を受けるが、同時に彼の問題を受け入れ、心を開いている人達も沢山出てくる。
彼らの、心に残る台詞も多い。
リサイクル工場の同僚で、元服役囚だった男は言う。
「何かやりたい事があるなら、簡単に諦めるなよ。てっぺんを目指してみろ」
あるいは、直貴の勤める家電量販店の平野会長は、兄の事が人事部にばれて、移動を命じされて腐る直貴にこう諭す。
「犯罪者の家族は、差別されて当たりまえだ。それは犯罪と距離を置こうとする人間の本能だ」
この言葉には、確かに奇麗事ではない、この世間の真理の一面がある。
厳しい現実を踏まえた上で、平野は言う。
「それでも、君には心の通じている人がいるじゃないか。差別の無い国を探すんじゃない、君はここで生きていくんだ」
同情ではなく、心からの励ましの言葉だ。
勿論、厳しい現実に直面して逃げつづける直貴を、ずっと励まし、見守りつづける由美子は、彼の最大の理解者だ。
しかし、主人公は彼らの言葉を聞いて、ほんの少しだけ生き方を改めるものの、すぐにまた逃げ始めてしまうのだ。
いや、彼らだけではない。
一時は直貴と結婚を考えていた金持ちの令嬢朝美も、お笑いコンビの合方も、ネットで事実がばれた後も、直貴を守ろうとした芸能プロだって彼と心を通じようとしていた人々だった。
直貴は、職業と同じように、いとも簡単に彼らを捨てる。
自分と関わる事で、彼らを傷つけたくないと直貴は言うが、本当は自分が傷つきたくないだけなのだ。
幸い私は、殺人犯の家族として差別を受けた事は無いので、直貴の本音の部分は理解できていないのかもしれないが、映画を見る限りでは、直貴は単に心の弱い流されやすい若者にしか見えなかった。
彼は差別と同じくらい、他人の愛を受けていたし、その愛に答える事無く逃げつづけていたのは彼自身だ。
もし、直貴の兄が殺人犯でなくても、彼は結局同じように「後ろ向きの生き方」しか出来ないのではないかという気がしてしまうのだ。
映画はいくつもの手紙が繋ぐ、人と人との心のつながりを描いて、深みのある人間ドラマとなっている。
「手紙」とは、つまり言葉。
言葉がもつ強い力は、確かに伝わってくるし、それは映画という表現において、より効果的に表現されていたと思う。
その意味で、この映画は観る者に真に迫ってくる。
しかし、だからこそ私にはこの主人公が受け入れられない。
彼が刑務所の兄へ送る最後の決別の手紙も、それまでの彼の生き方から、素直に受け取る事が出来なかった。
全ての心が優しく繋がったかのように見えるラストまで、本当に彼は心から人を受け入れ、理解しようとしたのだろうか?という疑念を感じてしまったのだ。
良く出来ているし、決してつまらない訳ではない。
客観的に映画の出来を考えると、相当なレベルの作品だと思う。
ただ、私個人の感情として、この映画は好きではない。
映画の内容とは関係ないけど、直貴と吹石一恵の金持令嬢のエピソードは、どうしても画面から「電車男」を連想してしまった。
直貴に比べると、電車男の方がまだ前向きで、応援のし甲斐もあったと思うのだが・・・・
様々な形の愛が描かれた本作には、やはりしんみりと味わい深い日本酒かな。
愛媛の成龍酒造の、その名も「御代栄 愛燦々」をチョイスしよう。
やや甘口で、口当たりもやわらかく、ほんのりと包み込まれるような幸せを味わえる。
味の輪郭はしっかり強いので、ディープな映画に負ける事も無いだろう。
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テレビドラマのベテラン演出家、生野慈朗が映画監督として16年ぶりにメガホンを取った意欲作で、謂れの無い差別を通して描かれる、人権という言葉と世間一般の本音のズレ、傷つけあいながら、それでも響きあう人間の心、犯罪被害者と加害者の心の葛藤など、非常に沢山のテーマが語られている。
実際に世評も高いようだが、私には今ひとつ気持ちの入っていかない作品だった。
リサイクル工場で働きながら、世間の目を避けるようにひっそりと生きる若者が一人。
彼の名は、武島直貴(山田孝之)。
強盗殺人の罪で、千葉の刑務所に服役している武島剛志(玉山鉄二)の弟だ。
犯罪者の兄のために、謂れの無い差別を受けてきた直貴は、極力他人と関わらないように生きている。
刑務所の兄との手紙のやりとりが、人とのかかわりの全てのような生活で、密かに直貴に想いを寄せる由美子(沢尻エリカ)の気持ちにも答えることが出来ない。
そんな世捨て人の様な直貴が、たった一つ打ち込むものが、子供の頃からの憧れだったお笑い芸人への挑戦だった・・・・
テーマに誠実に向き合った作品だし、丁寧に作られている。
俳優も、それぞれのキャラクターを掴んでいたと思うし、作品の完成度はとても高い。
良作だと思う。
しかし、私はこの作品を好きではない。
二時間の間、カメラは事件から数年間の直貴を追いつづける。
直貴の身に起こった事、直貴の内面をしっかりと描写する。
物語が進むにつれて、私はますますこの作品が好きではなくなる。
要するに、出ずっぱりの主人公に全く共感できなかったのだ。
事件後、殺人者の弟として謂れの無い差別を受けた直貴は、次第に人間を避けて暮らすようになる。
差別されるのが怖くて、初めから人との接触を断つ。
この辺りはまだ良い。
しかし、その人間嫌いで人との接触を避けつづけている主人公が、お笑い芸人を目指すと言うのがどうしても理解できない。
ああいう精神状態にある人が、人前に出て笑いをとる事を考えるとは思えないし、注目される職業につこうとする事も矛盾だと思う。
元々お笑いが大好きで、心の根底でそれを捨てられなかったという解釈も成り立つが、それなら自分の過去がネットでちょっと噂になったくらいで、あっさりとお笑いを止めてしまうのはもっと理解できない。
お笑いはこの物語上ではキーとなる職業に設定されているが、主人公の行動を見ている限りは、彼がどんどん捨てて行く、その他の職業と大して変わらない様にしか見えないのだ。
また主人公はあちこちで差別を受けるが、同時に彼の問題を受け入れ、心を開いている人達も沢山出てくる。
彼らの、心に残る台詞も多い。
リサイクル工場の同僚で、元服役囚だった男は言う。
「何かやりたい事があるなら、簡単に諦めるなよ。てっぺんを目指してみろ」
あるいは、直貴の勤める家電量販店の平野会長は、兄の事が人事部にばれて、移動を命じされて腐る直貴にこう諭す。
「犯罪者の家族は、差別されて当たりまえだ。それは犯罪と距離を置こうとする人間の本能だ」
この言葉には、確かに奇麗事ではない、この世間の真理の一面がある。
厳しい現実を踏まえた上で、平野は言う。
「それでも、君には心の通じている人がいるじゃないか。差別の無い国を探すんじゃない、君はここで生きていくんだ」
同情ではなく、心からの励ましの言葉だ。
勿論、厳しい現実に直面して逃げつづける直貴を、ずっと励まし、見守りつづける由美子は、彼の最大の理解者だ。
しかし、主人公は彼らの言葉を聞いて、ほんの少しだけ生き方を改めるものの、すぐにまた逃げ始めてしまうのだ。
いや、彼らだけではない。
一時は直貴と結婚を考えていた金持ちの令嬢朝美も、お笑いコンビの合方も、ネットで事実がばれた後も、直貴を守ろうとした芸能プロだって彼と心を通じようとしていた人々だった。
直貴は、職業と同じように、いとも簡単に彼らを捨てる。
自分と関わる事で、彼らを傷つけたくないと直貴は言うが、本当は自分が傷つきたくないだけなのだ。
幸い私は、殺人犯の家族として差別を受けた事は無いので、直貴の本音の部分は理解できていないのかもしれないが、映画を見る限りでは、直貴は単に心の弱い流されやすい若者にしか見えなかった。
彼は差別と同じくらい、他人の愛を受けていたし、その愛に答える事無く逃げつづけていたのは彼自身だ。
もし、直貴の兄が殺人犯でなくても、彼は結局同じように「後ろ向きの生き方」しか出来ないのではないかという気がしてしまうのだ。
映画はいくつもの手紙が繋ぐ、人と人との心のつながりを描いて、深みのある人間ドラマとなっている。
「手紙」とは、つまり言葉。
言葉がもつ強い力は、確かに伝わってくるし、それは映画という表現において、より効果的に表現されていたと思う。
その意味で、この映画は観る者に真に迫ってくる。
しかし、だからこそ私にはこの主人公が受け入れられない。
彼が刑務所の兄へ送る最後の決別の手紙も、それまでの彼の生き方から、素直に受け取る事が出来なかった。
全ての心が優しく繋がったかのように見えるラストまで、本当に彼は心から人を受け入れ、理解しようとしたのだろうか?という疑念を感じてしまったのだ。
良く出来ているし、決してつまらない訳ではない。
客観的に映画の出来を考えると、相当なレベルの作品だと思う。
ただ、私個人の感情として、この映画は好きではない。
映画の内容とは関係ないけど、直貴と吹石一恵の金持令嬢のエピソードは、どうしても画面から「電車男」を連想してしまった。
直貴に比べると、電車男の方がまだ前向きで、応援のし甲斐もあったと思うのだが・・・・
様々な形の愛が描かれた本作には、やはりしんみりと味わい深い日本酒かな。
愛媛の成龍酒造の、その名も「御代栄 愛燦々」をチョイスしよう。
やや甘口で、口当たりもやわらかく、ほんのりと包み込まれるような幸せを味わえる。
味の輪郭はしっかり強いので、ディープな映画に負ける事も無いだろう。

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2006年11月09日 (木) | 編集 |
私くらいの年齢の人には、メキシコプロレスと言えばやっぱり「千の顔を持つ男」ミルマスカラスが断トツに有名だろう。
メキシコ人はたぶん世界で一番プロレス(ルチャリブレ)が好きな国民で、田舎の小さな街を旅しても、外国では誰も知らないようなレスラー(ルチャドール)の載った安っぽいチラシがそこらじゅうに貼ってあるし、週末ともなればあちこちのTV局でルチャの番組をやっている。
そんなルチャドールたちの中でも、カソリックの神父でありながら、孤児院の運営資金を稼ぐために自らルチャのマットに立ち、戦い続けた「暴風神父」フライトルメンタの事は、日本のテレビでも紹介されたから知っている人も多いだろう。
これはそんな嘘のような本当の話をベースにした、ハリウッド製メキシコ映画(?)とも言うべき妙なアクションコメディだ。
修道院で育ったナチョは(ジャック・ブラック)は、親の無い子供たちのために食事係をしているが、味の評判はイマイチ。
かといって僧としての仕事も半人前。
あるとき、修道院の学校に新任の先生としてシスター・エンカルナシオン(アナ・デ・ラ・レグエラ)が赴任してくる。
一目惚れしたナチョは、料理係としてやる気を出すが、教会用の食材をやたら身のこなしの軽い痩せた男(ヘクター・ヒメネス)に奪い取られてしまう。
子供たちに、エンカルナシオンに作るための食材が無い。
そんな時、「新人ルチャドール募集!」のポスターがナチョの目に留まる・・・
実はちょっと前から楽しみにしていた作品だった。
フライトルメンタの物語は、日本語で紹介しているサイトもたくさんあるから、知らない人は一度検索して欲しいが、まるで少年漫画のストーリーそのまんま。
札付きの不良少年が苦学の末神父となり、やがて恵まれない子供たちのために、素性をかくした覆面のルチャドールとなる。
しかも弱い(笑
この実に面白そうな実話がベースで、主演はキャリアのピークを迎えつつあるジャック・ブラック、そして「バス男/ナポレオン・ダイナマイト」でブレイクしたジャレッド・ヘスが監督とくれば、期待しない方がおかしい。
きっと抱腹絶倒で、最後にはちょっとホロリとさせてくれるような作品になるんじゃないかと思った。
しかし、完成した作品は、何か・・・今ひとつ面白くない。
いや、笑えない訳ではないのだが、「アハハ・・ハ・・・・」という感じで笑が続かない。
ショープロレスで寸止めの技をかけられているみたいというか、全ての笑いがもうちょっと間が欲しいと言うか、もっと観たいところでカットが変わってしまうと言うか、とにかく突き抜けないのだ。
一言でいってゆるい。
この作品の製作はキッズムービー専門のニッケルオデオン。
本来が子供向けの企画だったからなのかも知れないが、物語、キャラクター、アクション、ギャグ全てが中途半端に終わってしまっている印象だ。
「ナチョリブレ」の第一の失敗は、恐らくジャック・ブラックという強烈な個性を持つ主演俳優を得て、状況からではなく、ナチョというキャラクターから物語を再構成しようとした事。
フライトルメンタの実話がベースとは言っても、実際にはほんの触り程度。
ジャック・ブラックのナチョはダメ修道士で、どちらかと言うと虚栄心からルチャを目指し、孤児院の資金は結果的にそうなったと言う展開。
なので、物語に切実感が無い。
ドラマチックな実話があるのに、キャラを中心に物語を再構成しようとして、結果的に面白くない方向に改悪してしまった。
勿論キャラを中心にしても、それによって物語が生きればよかったのだが、それも上手くいっているとは思えない。
たぶん狙いとしては、同じジャック・ブラック主演の「スクール・オブ・ロック」あたりなのだろうが、中途半端にギャグのシチュエーションを羅列した結果、全体がぶつ切りになってしまっていて、流れが生まれていない。
致命的なのは、ナチョが次第にルチャに本気になって、プロを目指すために強くなり、最後には本物のルチャドールと対決するまでになるのだが、肝心の「強くなる過程」が全く無いのだ。
それまではまともに勝ったことすら無かったのに、荒野で野宿していただけで突然強くなっているのだから、説得力もカタルシスも無い。
いくらコメディといっても、スポコン物に主人公の特訓はお約束でしょう!
あと、ジャック・ブラックの顔見せのためだろうが、ナチョが覆面ルチャドールという設定が殆んど生かされていないのも気になった。
自分が修道士だという事を隠して試合をして、顔を出したら秘密がバレてしまうという所で盛り上がるのに、あれじゃマスクマンの意味が無い。
「ナチョ・リブレ 覆面の神様」は、もともとのモデルの話がいわば少年漫画的スポコンコメディの定番の構造を持つ稀有な実話なのに、映画ではその定番をあえてぶち壊している。
その結果として、さらに面白い物が出来れば良かったのだが、結果的にはコメディとしてもアクションとしても、空回りした作品になってしまっている。
ただ、まあ全くつまらないかというとそうでもない。
前記したようにギャグそのものは、それなりに笑えるし、ジャック・ブラックを始めとしたキャラクターは楽しい。
特にヒロインのシスター・エンカルナシオンを演じたアナ・デ・ラ・レグエラはビックリするくらい綺麗な人で、思わず見とれてしまった。
メキシコのテレビを中心に活動していた女優らしいが、これだけのキャラクターをハリウッドが放っておくはずがない。
とりあえず、この映画の一番の見所は彼女と言っておこう。
今後が楽しみである。
ちなみに本物のフライトルメンタは、還暦近くまでルチャのマットに立ち続けたが、現在では彼の孤児院で育った子供が後を次いで、二代目フライトルメンタとして活躍しているらしい。
映画より、こっちの方がドラマチックで良い話ではないか。
今回はこのハリウッドとメキシコがごちゃ混ぜになった変な映画に、やはりごちゃ混ぜの変なお酒を付け合せよう。
メキシコといえばテキーラ。
そのテキーラとレモンで作るカクテル酒「テキーラスラマ」をチョイス。
どう見てもメキシコの酒に見えるのだが、ボトルで売られている物は何故か原産国オーストラリア(笑
ちなみにラベルのおっさんは、このカクテルの発案者の子孫だそうな。
発案者本人じゃなくて、何で子孫?前歯金歯だし・・・
まあお味の方は、ラベルの暑苦しさとは対照的に熱い国らしいスッキリした良いお酒なんだけど。
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面白かったのに
これも面白かったのに
メキシコ人はたぶん世界で一番プロレス(ルチャリブレ)が好きな国民で、田舎の小さな街を旅しても、外国では誰も知らないようなレスラー(ルチャドール)の載った安っぽいチラシがそこらじゅうに貼ってあるし、週末ともなればあちこちのTV局でルチャの番組をやっている。
そんなルチャドールたちの中でも、カソリックの神父でありながら、孤児院の運営資金を稼ぐために自らルチャのマットに立ち、戦い続けた「暴風神父」フライトルメンタの事は、日本のテレビでも紹介されたから知っている人も多いだろう。
これはそんな嘘のような本当の話をベースにした、ハリウッド製メキシコ映画(?)とも言うべき妙なアクションコメディだ。
修道院で育ったナチョは(ジャック・ブラック)は、親の無い子供たちのために食事係をしているが、味の評判はイマイチ。
かといって僧としての仕事も半人前。
あるとき、修道院の学校に新任の先生としてシスター・エンカルナシオン(アナ・デ・ラ・レグエラ)が赴任してくる。
一目惚れしたナチョは、料理係としてやる気を出すが、教会用の食材をやたら身のこなしの軽い痩せた男(ヘクター・ヒメネス)に奪い取られてしまう。
子供たちに、エンカルナシオンに作るための食材が無い。
そんな時、「新人ルチャドール募集!」のポスターがナチョの目に留まる・・・
実はちょっと前から楽しみにしていた作品だった。
フライトルメンタの物語は、日本語で紹介しているサイトもたくさんあるから、知らない人は一度検索して欲しいが、まるで少年漫画のストーリーそのまんま。
札付きの不良少年が苦学の末神父となり、やがて恵まれない子供たちのために、素性をかくした覆面のルチャドールとなる。
しかも弱い(笑
この実に面白そうな実話がベースで、主演はキャリアのピークを迎えつつあるジャック・ブラック、そして「バス男/ナポレオン・ダイナマイト」でブレイクしたジャレッド・ヘスが監督とくれば、期待しない方がおかしい。
きっと抱腹絶倒で、最後にはちょっとホロリとさせてくれるような作品になるんじゃないかと思った。
しかし、完成した作品は、何か・・・今ひとつ面白くない。
いや、笑えない訳ではないのだが、「アハハ・・ハ・・・・」という感じで笑が続かない。
ショープロレスで寸止めの技をかけられているみたいというか、全ての笑いがもうちょっと間が欲しいと言うか、もっと観たいところでカットが変わってしまうと言うか、とにかく突き抜けないのだ。
一言でいってゆるい。
この作品の製作はキッズムービー専門のニッケルオデオン。
本来が子供向けの企画だったからなのかも知れないが、物語、キャラクター、アクション、ギャグ全てが中途半端に終わってしまっている印象だ。
「ナチョリブレ」の第一の失敗は、恐らくジャック・ブラックという強烈な個性を持つ主演俳優を得て、状況からではなく、ナチョというキャラクターから物語を再構成しようとした事。
フライトルメンタの実話がベースとは言っても、実際にはほんの触り程度。
ジャック・ブラックのナチョはダメ修道士で、どちらかと言うと虚栄心からルチャを目指し、孤児院の資金は結果的にそうなったと言う展開。
なので、物語に切実感が無い。
ドラマチックな実話があるのに、キャラを中心に物語を再構成しようとして、結果的に面白くない方向に改悪してしまった。
勿論キャラを中心にしても、それによって物語が生きればよかったのだが、それも上手くいっているとは思えない。
たぶん狙いとしては、同じジャック・ブラック主演の「スクール・オブ・ロック」あたりなのだろうが、中途半端にギャグのシチュエーションを羅列した結果、全体がぶつ切りになってしまっていて、流れが生まれていない。
致命的なのは、ナチョが次第にルチャに本気になって、プロを目指すために強くなり、最後には本物のルチャドールと対決するまでになるのだが、肝心の「強くなる過程」が全く無いのだ。
それまではまともに勝ったことすら無かったのに、荒野で野宿していただけで突然強くなっているのだから、説得力もカタルシスも無い。
いくらコメディといっても、スポコン物に主人公の特訓はお約束でしょう!
あと、ジャック・ブラックの顔見せのためだろうが、ナチョが覆面ルチャドールという設定が殆んど生かされていないのも気になった。
自分が修道士だという事を隠して試合をして、顔を出したら秘密がバレてしまうという所で盛り上がるのに、あれじゃマスクマンの意味が無い。
「ナチョ・リブレ 覆面の神様」は、もともとのモデルの話がいわば少年漫画的スポコンコメディの定番の構造を持つ稀有な実話なのに、映画ではその定番をあえてぶち壊している。
その結果として、さらに面白い物が出来れば良かったのだが、結果的にはコメディとしてもアクションとしても、空回りした作品になってしまっている。
ただ、まあ全くつまらないかというとそうでもない。
前記したようにギャグそのものは、それなりに笑えるし、ジャック・ブラックを始めとしたキャラクターは楽しい。
特にヒロインのシスター・エンカルナシオンを演じたアナ・デ・ラ・レグエラはビックリするくらい綺麗な人で、思わず見とれてしまった。
メキシコのテレビを中心に活動していた女優らしいが、これだけのキャラクターをハリウッドが放っておくはずがない。
とりあえず、この映画の一番の見所は彼女と言っておこう。
今後が楽しみである。
ちなみに本物のフライトルメンタは、還暦近くまでルチャのマットに立ち続けたが、現在では彼の孤児院で育った子供が後を次いで、二代目フライトルメンタとして活躍しているらしい。
映画より、こっちの方がドラマチックで良い話ではないか。
今回はこのハリウッドとメキシコがごちゃ混ぜになった変な映画に、やはりごちゃ混ぜの変なお酒を付け合せよう。
メキシコといえばテキーラ。
そのテキーラとレモンで作るカクテル酒「テキーラスラマ」をチョイス。
どう見てもメキシコの酒に見えるのだが、ボトルで売られている物は何故か原産国オーストラリア(笑
ちなみにラベルのおっさんは、このカクテルの発案者の子孫だそうな。
発案者本人じゃなくて、何で子孫?前歯金歯だし・・・
まあお味の方は、ラベルの暑苦しさとは対照的に熱い国らしいスッキリした良いお酒なんだけど。

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2006年11月06日 (月) | 編集 |
六月に公開された「デスノート 前編」の続き。
前編は、原作の面白さに頼りきりの展開で、正直あまり芳しい印象ではなかった。
この後編も大して期待はしていなかったが、結論から言うと、前編よりも数段面白い。
野球の試合に例えれば、四回裏まで劣勢だった試合が、その後のベンチの作戦がズバズバ決まり、終ってみればサヨナラで勝利という感じだ。
恋人詩織の死によって、夜神月(藤原竜也)はキラ捜査本部のスタッフになる事に成功する。
同じ頃、アイドルの海砂(戸田恵梨香)がもう一冊のデスノートを拾い、第二のキラを名乗って裁きを開始する。
キラを崇拝する海砂は、見ただけで人を殺せる、死神の目を使って月を見つけ出し、協力する代わりに、彼女にして欲しいと言う。
月をキラ容疑者と疑っている天才探偵「L」(松山ケンイチ)は、別ルートから海砂を第二のキラと断定し、監禁する。
このままでは自分への疑いが深まると考えた月は、一計を案じて、Lに疑いを晴らすために自分も監禁して欲しいと申し出るのだが・・・
まあ前編は、起承転結で言えば「起承」の部分な訳で、一応単独でクライマックスを作ってあるとは言っても、後半の方が盛り上がるのは当たり前。
前半を観た時は、コミックの5巻までしか読んでいなかった私も、今回は最後までしっかり読んで観に行った。
この映画の逆転劇は、一言で言って脚本の勝利だと思う。
原作は「起承転結+転結」という感じで、二部構成というか、後半の物語が二重になっている様な構造だったので、重なっている部分を合わせてくるのだろうなというのは容易に想像がついた。
しかし、実際に出来上がった映画を観ると、長大な物語を予想以上に上手くコンパクトに纏めている。
複雑な人物相関図を手際よく整理して、不要なキャラクターを切り捨て、かぶっているキャラクターを一つに纏める。
大石哲也の脚本は、原作のコンパクト化という面では、前編でもそれなりに上手く仕上げていたが、今回は確実にその上を行く。
また原作の脚色と言う点でも、前編では少々疑問だった改変を、逆に今回は生かして物語に一貫性を持たせることに成功している。
原作を最後まで読んで判ったのだが、前編での物語の改変は、長い原作の中で表現される夜神月のキャラクターの微妙な変化を、前後編4時間半で語るための物だったのだろう。
正直なところ、前半を見たときはスマートな脚色とは思えなかったが、そのお陰で後半ではキャラがぶれない。
偶然か、計算かはわからないが、結果的に前半の破綻を後半で救う形となっている。
トータルで考えると、全12巻もの物語を、実質四時間半に纏め上げた脚本は、なかなかの仕事と言えるのではないだろうか。
金子修介監督の演出は、いつもの通り抑揚の無い一本調子な物だが、物語自体にメリハリがあるので、2時間20分の長尺も決して退屈はしない。
良い脚本を得たときの演出家は、その時点で半分勝ったような物である。
まあ相変わらず、役者の演技をアニメのアフレコ的な芝居がかった方向に誘導しているあたりに、金子修介的な個性は見えるが、演出的には可もなく不可もなくといった感じだ。
もっとも、映画自体が原作におんぶに抱っこという構造は変わっておらず、物語の面白さも、原作のフレームを突き破る程の物ではない。
あくまでも予定調和の範囲内での纏まりではあるし、クライマックスでの死神レムの唐突な行動などに、複雑な物語を単純に纏めた弊害がやや出てしまっている感もある。
また、原作がそうだからと言って、あらゆる謎解きと登場人物の思考を、回想シーンと説明台詞で全て語ってしまうのは、映画としてどうなのよ?という気がしないでもない。
まあしかし、原作を知らなければ、これはこれで面白い話だろうし、説明的なスタイルも逆に新鮮かも知れない。
原作を知っていても、あの話をこんな風にまとめたのか、という驚きは確かにあった。
テーマ性を強調しようと思えばいくらでも出来るだろうし、作り方としてはたぶんそのほうがオリジナリティは出せたはずだ。
ただそっち方面への誘惑をきっぱりと遮断し、長大な原作をむやみに詰め込まず、取捨選択してLとキラの心理戦に絞り、娯楽に徹した作りは好感を持った。
原作に忠実ではあるが、良い意味で脚色された物語なので、原作を知っていても必ずしも先が読めるわけではない。
Lと月という二人の天才の騙し合いはかなりスリリングで、特に後半の展開は目が離せなかった。
逆転満塁ホームランというほど劇的ではないが、コツコツとヒットを繋いで、最後にはサヨナラという感じでスッキリと終ったと思う。
後半だけなら1500円くらいあげても良いが、今回は前後トータルでの評価としたい。
映画の出来が良くなったから、酒もグレードアップしよう。
今回は鹿児島の白玉醸造の焼酎、その名も「天誅」をチョイス。
芋焼酎と米焼酎のブレンド酒で、風味豊かでコクも十分。
こんな天誅になら何度でも当たりたい。
ちなみに白玉酒造には「魔王」という所謂「幻の焼酎」もあり、こちらは名前の通りお値段も凄い。
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白玉醸造 米焼酎 天誅 25°1800ml
前編は、原作の面白さに頼りきりの展開で、正直あまり芳しい印象ではなかった。
この後編も大して期待はしていなかったが、結論から言うと、前編よりも数段面白い。
野球の試合に例えれば、四回裏まで劣勢だった試合が、その後のベンチの作戦がズバズバ決まり、終ってみればサヨナラで勝利という感じだ。
恋人詩織の死によって、夜神月(藤原竜也)はキラ捜査本部のスタッフになる事に成功する。
同じ頃、アイドルの海砂(戸田恵梨香)がもう一冊のデスノートを拾い、第二のキラを名乗って裁きを開始する。
キラを崇拝する海砂は、見ただけで人を殺せる、死神の目を使って月を見つけ出し、協力する代わりに、彼女にして欲しいと言う。
月をキラ容疑者と疑っている天才探偵「L」(松山ケンイチ)は、別ルートから海砂を第二のキラと断定し、監禁する。
このままでは自分への疑いが深まると考えた月は、一計を案じて、Lに疑いを晴らすために自分も監禁して欲しいと申し出るのだが・・・
まあ前編は、起承転結で言えば「起承」の部分な訳で、一応単独でクライマックスを作ってあるとは言っても、後半の方が盛り上がるのは当たり前。
前半を観た時は、コミックの5巻までしか読んでいなかった私も、今回は最後までしっかり読んで観に行った。
この映画の逆転劇は、一言で言って脚本の勝利だと思う。
原作は「起承転結+転結」という感じで、二部構成というか、後半の物語が二重になっている様な構造だったので、重なっている部分を合わせてくるのだろうなというのは容易に想像がついた。
しかし、実際に出来上がった映画を観ると、長大な物語を予想以上に上手くコンパクトに纏めている。
複雑な人物相関図を手際よく整理して、不要なキャラクターを切り捨て、かぶっているキャラクターを一つに纏める。
大石哲也の脚本は、原作のコンパクト化という面では、前編でもそれなりに上手く仕上げていたが、今回は確実にその上を行く。
また原作の脚色と言う点でも、前編では少々疑問だった改変を、逆に今回は生かして物語に一貫性を持たせることに成功している。
原作を最後まで読んで判ったのだが、前編での物語の改変は、長い原作の中で表現される夜神月のキャラクターの微妙な変化を、前後編4時間半で語るための物だったのだろう。
正直なところ、前半を見たときはスマートな脚色とは思えなかったが、そのお陰で後半ではキャラがぶれない。
偶然か、計算かはわからないが、結果的に前半の破綻を後半で救う形となっている。
トータルで考えると、全12巻もの物語を、実質四時間半に纏め上げた脚本は、なかなかの仕事と言えるのではないだろうか。
金子修介監督の演出は、いつもの通り抑揚の無い一本調子な物だが、物語自体にメリハリがあるので、2時間20分の長尺も決して退屈はしない。
良い脚本を得たときの演出家は、その時点で半分勝ったような物である。
まあ相変わらず、役者の演技をアニメのアフレコ的な芝居がかった方向に誘導しているあたりに、金子修介的な個性は見えるが、演出的には可もなく不可もなくといった感じだ。
もっとも、映画自体が原作におんぶに抱っこという構造は変わっておらず、物語の面白さも、原作のフレームを突き破る程の物ではない。
あくまでも予定調和の範囲内での纏まりではあるし、クライマックスでの死神レムの唐突な行動などに、複雑な物語を単純に纏めた弊害がやや出てしまっている感もある。
また、原作がそうだからと言って、あらゆる謎解きと登場人物の思考を、回想シーンと説明台詞で全て語ってしまうのは、映画としてどうなのよ?という気がしないでもない。
まあしかし、原作を知らなければ、これはこれで面白い話だろうし、説明的なスタイルも逆に新鮮かも知れない。
原作を知っていても、あの話をこんな風にまとめたのか、という驚きは確かにあった。
テーマ性を強調しようと思えばいくらでも出来るだろうし、作り方としてはたぶんそのほうがオリジナリティは出せたはずだ。
ただそっち方面への誘惑をきっぱりと遮断し、長大な原作をむやみに詰め込まず、取捨選択してLとキラの心理戦に絞り、娯楽に徹した作りは好感を持った。
原作に忠実ではあるが、良い意味で脚色された物語なので、原作を知っていても必ずしも先が読めるわけではない。
Lと月という二人の天才の騙し合いはかなりスリリングで、特に後半の展開は目が離せなかった。
逆転満塁ホームランというほど劇的ではないが、コツコツとヒットを繋いで、最後にはサヨナラという感じでスッキリと終ったと思う。
後半だけなら1500円くらいあげても良いが、今回は前後トータルでの評価としたい。
映画の出来が良くなったから、酒もグレードアップしよう。
今回は鹿児島の白玉醸造の焼酎、その名も「天誅」をチョイス。
芋焼酎と米焼酎のブレンド酒で、風味豊かでコクも十分。
こんな天誅になら何度でも当たりたい。
ちなみに白玉酒造には「魔王」という所謂「幻の焼酎」もあり、こちらは名前の通りお値段も凄い。

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白玉醸造 米焼酎 天誅 25°1800ml


2006年11月04日 (土) | 編集 |
1959年のある日。
カンザス州の小さな町で、裕福な農家の一家四人が何者かによって惨殺されるという事件が起こる。
この事件を報じる新聞記事に、ふと目を止めた作家が一人。
彼の名は、トルーマン・カポーティ。
映画ファンには「ティファニーで朝食を」の原作者として知られ、脚本家としても活躍した現代文学の巨匠である。
カポーティは、この後執拗に事件を追い、膨大な資料を元に、1966年に一編の作品を発表する。
文学史上の金字塔、「冷血」である。
これは、一人の作家がテーマと出会い、自己の崩壊と引き換えに偉大な創作を生み出すまでを描いた物語だ。
トルーマン・カポーティ(フィリップ・シーモア・ホフマン)は人気作家だ。
原作を書いた映画は大ヒットし、連夜のパーティではいつも主役。
そんな彼が小さな新聞記事に目を止めたのは1959年の事。
カンザス州ホルカムで一家四人が惨殺された凄惨な事件の記事だった。
興味を引かれたカポーティは、幼馴染で作家の卵のネル・ハーパー・リー(キャサリン・キーナー)と共に現地で取材を始める。
やがて犯人として、ペリー・スミス(クリストフ・コリンズJr)とディック・ヒコック(マーク・ペレグリーノ)の二人が逮捕される。
カポーティは二人の犯人へのインタビューを開始し、独自の取材資料とあわせて、「冷血」の執筆を開始する。
裁判の結果二人には死刑の判決が下るが、二人のうちペリー・スミスに強く惹かれたカポーティは、彼らの控訴審のため弁護士を雇い、時間を引き延ばして事件の核心を聞き出そうとするのだが・・・
カポーティを演じるフィリップ・シーモア・ホフマンは、本作でオスカーを受賞した。
私は生前のカポーティの動画を、出演した映画「名探偵登場」くらいでしか見たことが無いので、実際どの程度似ているのかは判らないが、ホフマンが非常にユニークなキャラクターを造形しているのは確かだ。
独特の立ち振る舞い、不思議な喋り方、ビジュアル面だけ見ても一度観たら忘れられないキャラクターだと思う。
ベネット・ミラーの演出も、徹底的にカポーティのキャラクターをフィーチャーする。
二時間の間、殆ど出ずっぱりである。
もっとも、それ以外に撮りようが無かったのかも知れない。
何しろ物語はもの凄くシンプルだ。
殺人犯に惹かれたカポーティが、葛藤を抱えながら彼から真実を聞きだし、本にする。
それだけの物語である。
物語のスタイルは、ある種の対話劇と言える。
過去の作品で言えば、代表的なのはやはり「羊たちの沈黙」だろうか。
最近では「白バラの祈り」もこの類だ。
二人の主人公の対話を中心に物語が構成され、両者の精神的な対峙がドラマを生む。
この作品で言えば、普段は享楽主義者にも見えるカポーティが作家の冷酷な目で、ペリー・スミスの内面を自身の創作物の中に奪い取ろうとする。
逮捕後、拒食症になっていたスミスに、カポーティはまるで自分の子供に対する様にベビーフードを与え、足繁く刑務所に通い、話し相手になる。
なぜ彼はそこまで彼に惹かれたのか?貴重な取材源だったからか?
カポーティは言う。
「スミスと自分は同じ家で育って、彼は裏口から、自分は表玄関から出て行った様なもの」
幼少期の複雑な家庭事情という共通点以上に、カポーティはスミスの中に自分を見たのだろう。
ゆえにカポーティは、スミスから離れなれなくなり、時には嘘を並べてまで彼の口から真実を聞き出そうとする。
だがそれは同時に、自分の半身を裏切る様な、耐え難い精神的苦痛を伴うものだった。
故に、物語の執筆に必要な話を聞きだした後、度重なる死刑の延期に動揺し、一度は逃げ出す。
最初、カポーティにとって、スミスは単なる取材対象に過ぎなかったのかもしれないが、いつの間にか、彼はスミスの中に目にしたくないもう一人の自分を見るのだ。
私にとって「冷血」は、カレッジのクラスでこれに関するレポートを書かなくてはならなくなって、死ぬ思いで原語で読んだ思い出の本だ。(だって、ぶあついんだもの・・・)
その頃はカポーティなんて知らなかったが、後年「ティファニーで朝食を」などの以前の彼の本を読み、「冷血」とのタッチの差にずい分驚いた記憶がある。
なぜ「冷血」が特異な作品だったのか、この作品を観てようやく判った。
カポーティにとって、この作品とこれ以前の「創作」は本質的に異なった体験だったのだろう。
「カポーティ」はとても丁寧に作られている。
しかし、この作品は対話劇の代表として前記した2作品ほどには、心に迫ってこない。
対話劇は、拮抗する存在感をもつ二人が対峙してこそ、スリリングな緊張が持続する。
カポーティは文句無しだが、ペリー・スミスが弱い。
事実を元にしているから、ある程度は仕方がないのかもしれないが、作家が切望し、彼の心を支配した「冷血」の闇が今ひとつ見えないのだ。
同時に、映画からは幼少期の不幸な境遇という共通項以外に、カポーティがスミスに肩入れする理由も映画からは明確には伝わってこない。
スミスの内面描写が不十分で、カポーティが彼の中にもう一人の自分を見出す実感が掴めないためだ。
一人の奇異な作家の評伝としては、なかなか良く出来ているものの、ホフマンの見事な役作りにばかり目が行ってしまい、キャラクターの内面を抉り取るまでは出来ていないと思う。
ベネット・ミラーの演出も、これが実質的に長編デビュー作とは思えない完成度の高さを見せるが、ここはむしろ冒険が必要だった気がする。
さて今回の付け合せは難しい。
晩年のカポーティは酒びたりの生活だったらしく、この映画にもお酒を飲む印象的なシーンがいくつか出てくる。
今回は映画があっさり味だったので、濃いテイストでコクのある強い酒をグイッとやりたい。
ケンタッキーバーボンの逸品、オールド・グランダッドの「114」を。
創業200年を超える歴史ある蒸留所で、オールド・グランダッドとは創業者のベーシル・ヘイデンを指す。
アルコール度数57度。
ヘヴィで、まろやかな本物のバーボンだ。
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カポーティ本人の出演作
映像化された「冷血」
ホフマンが悪役を好演
カンザス州の小さな町で、裕福な農家の一家四人が何者かによって惨殺されるという事件が起こる。
この事件を報じる新聞記事に、ふと目を止めた作家が一人。
彼の名は、トルーマン・カポーティ。
映画ファンには「ティファニーで朝食を」の原作者として知られ、脚本家としても活躍した現代文学の巨匠である。
カポーティは、この後執拗に事件を追い、膨大な資料を元に、1966年に一編の作品を発表する。
文学史上の金字塔、「冷血」である。
これは、一人の作家がテーマと出会い、自己の崩壊と引き換えに偉大な創作を生み出すまでを描いた物語だ。
トルーマン・カポーティ(フィリップ・シーモア・ホフマン)は人気作家だ。
原作を書いた映画は大ヒットし、連夜のパーティではいつも主役。
そんな彼が小さな新聞記事に目を止めたのは1959年の事。
カンザス州ホルカムで一家四人が惨殺された凄惨な事件の記事だった。
興味を引かれたカポーティは、幼馴染で作家の卵のネル・ハーパー・リー(キャサリン・キーナー)と共に現地で取材を始める。
やがて犯人として、ペリー・スミス(クリストフ・コリンズJr)とディック・ヒコック(マーク・ペレグリーノ)の二人が逮捕される。
カポーティは二人の犯人へのインタビューを開始し、独自の取材資料とあわせて、「冷血」の執筆を開始する。
裁判の結果二人には死刑の判決が下るが、二人のうちペリー・スミスに強く惹かれたカポーティは、彼らの控訴審のため弁護士を雇い、時間を引き延ばして事件の核心を聞き出そうとするのだが・・・
カポーティを演じるフィリップ・シーモア・ホフマンは、本作でオスカーを受賞した。
私は生前のカポーティの動画を、出演した映画「名探偵登場」くらいでしか見たことが無いので、実際どの程度似ているのかは判らないが、ホフマンが非常にユニークなキャラクターを造形しているのは確かだ。
独特の立ち振る舞い、不思議な喋り方、ビジュアル面だけ見ても一度観たら忘れられないキャラクターだと思う。
ベネット・ミラーの演出も、徹底的にカポーティのキャラクターをフィーチャーする。
二時間の間、殆ど出ずっぱりである。
もっとも、それ以外に撮りようが無かったのかも知れない。
何しろ物語はもの凄くシンプルだ。
殺人犯に惹かれたカポーティが、葛藤を抱えながら彼から真実を聞きだし、本にする。
それだけの物語である。
物語のスタイルは、ある種の対話劇と言える。
過去の作品で言えば、代表的なのはやはり「羊たちの沈黙」だろうか。
最近では「白バラの祈り」もこの類だ。
二人の主人公の対話を中心に物語が構成され、両者の精神的な対峙がドラマを生む。
この作品で言えば、普段は享楽主義者にも見えるカポーティが作家の冷酷な目で、ペリー・スミスの内面を自身の創作物の中に奪い取ろうとする。
逮捕後、拒食症になっていたスミスに、カポーティはまるで自分の子供に対する様にベビーフードを与え、足繁く刑務所に通い、話し相手になる。
なぜ彼はそこまで彼に惹かれたのか?貴重な取材源だったからか?
カポーティは言う。
「スミスと自分は同じ家で育って、彼は裏口から、自分は表玄関から出て行った様なもの」
幼少期の複雑な家庭事情という共通点以上に、カポーティはスミスの中に自分を見たのだろう。
ゆえにカポーティは、スミスから離れなれなくなり、時には嘘を並べてまで彼の口から真実を聞き出そうとする。
だがそれは同時に、自分の半身を裏切る様な、耐え難い精神的苦痛を伴うものだった。
故に、物語の執筆に必要な話を聞きだした後、度重なる死刑の延期に動揺し、一度は逃げ出す。
最初、カポーティにとって、スミスは単なる取材対象に過ぎなかったのかもしれないが、いつの間にか、彼はスミスの中に目にしたくないもう一人の自分を見るのだ。
私にとって「冷血」は、カレッジのクラスでこれに関するレポートを書かなくてはならなくなって、死ぬ思いで原語で読んだ思い出の本だ。(だって、ぶあついんだもの・・・)
その頃はカポーティなんて知らなかったが、後年「ティファニーで朝食を」などの以前の彼の本を読み、「冷血」とのタッチの差にずい分驚いた記憶がある。
なぜ「冷血」が特異な作品だったのか、この作品を観てようやく判った。
カポーティにとって、この作品とこれ以前の「創作」は本質的に異なった体験だったのだろう。
「カポーティ」はとても丁寧に作られている。
しかし、この作品は対話劇の代表として前記した2作品ほどには、心に迫ってこない。
対話劇は、拮抗する存在感をもつ二人が対峙してこそ、スリリングな緊張が持続する。
カポーティは文句無しだが、ペリー・スミスが弱い。
事実を元にしているから、ある程度は仕方がないのかもしれないが、作家が切望し、彼の心を支配した「冷血」の闇が今ひとつ見えないのだ。
同時に、映画からは幼少期の不幸な境遇という共通項以外に、カポーティがスミスに肩入れする理由も映画からは明確には伝わってこない。
スミスの内面描写が不十分で、カポーティが彼の中にもう一人の自分を見出す実感が掴めないためだ。
一人の奇異な作家の評伝としては、なかなか良く出来ているものの、ホフマンの見事な役作りにばかり目が行ってしまい、キャラクターの内面を抉り取るまでは出来ていないと思う。
ベネット・ミラーの演出も、これが実質的に長編デビュー作とは思えない完成度の高さを見せるが、ここはむしろ冒険が必要だった気がする。
さて今回の付け合せは難しい。
晩年のカポーティは酒びたりの生活だったらしく、この映画にもお酒を飲む印象的なシーンがいくつか出てくる。
今回は映画があっさり味だったので、濃いテイストでコクのある強い酒をグイッとやりたい。
ケンタッキーバーボンの逸品、オールド・グランダッドの「114」を。
創業200年を超える歴史ある蒸留所で、オールド・グランダッドとは創業者のベーシル・ヘイデンを指す。
アルコール度数57度。
ヘヴィで、まろやかな本物のバーボンだ。

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カポーティ本人の出演作
映像化された「冷血」
ホフマンが悪役を好演


2006年11月01日 (水) | 編集 |
本年度のビックリ大賞。
だって監督は熊澤尚人。
評価額300円、「金を取って良いレベルに達していない」とまで酷評した「親指さがし」の監督だ。
正直言って、とてもじゃないけど同一人物による作品とは思えない。
勿論作品によって出来不出来の差の大きな映画作家は沢山いるけど、ここまで極端な例は映画館に通い始めて二十五年、劇場鑑賞本数(推定)1500本で始めてみたかも知れない。
掌を返させてもらうけど、これは珠玉という言葉を使ってもいい、本当に美しい作品になっている。
空に真っ直ぐな不思議な虹が出た日・・・
駆け出しのADとして制作現場を駆けずり回っている智也(市原隼人)の元に、大学時代の友人から電話が入る。
大学時代に自主映画を撮っていて、智也をこの世界に引きずり込んだ張本人であるあおい(上野樹里)が、アメリカで飛行機事故に遭って死んだという。
彼女の実家に駆けつけた智也は、アメリカまで遺体を引き取りに行く家族を、空港まで送っていく事になる。
あおいの盲目の妹かな(蒼井優)は、何故か智也に、あおいを迎えに一緒にアメリカに行って欲しいと懇願するのだった。
空港で彼らを見送った智也の脳裏には、あおいと奇妙な出会いをした学生時代の思い出が蘇ってくるのだった・・・
たまらない。
いろんな意味でリアル過ぎ。
この映画は、8ミリ映画(決して8ミリビデオではない)を撮ったことのある、元自主映画少年にとっては、自分の青春のフラッシュバックを観るような不思議な体験だ。
物語は2006年の現在から始まって、数年前の過去に溯ってゆくのだが、現在のシーンでも主人公たちは24、5歳だから回想シーンももう二十一世紀だろう。
にもかかわらず、この映画に描かれる智也たちの青春は、まるで1980年代と言ってもおかしくない。
それは、この年代の若者を描いたドラマの持つ普遍性以上に、物語において重要なアイコンとなっている、8ミリ映画の存在故かもしれない。
ある意味でこの映画は非常にマニアックだ。
劇中で佐々木蔵之介演じるプロデューサーの、「オレはカメラマン志望で、宮川一夫みたいになりたかった!」という台詞がある。
私が学生時代、宮川一夫は既に伝説の人だったが、今の若者にはそれこそ「宮川一夫?Who?」だろう。
撮影監督の名前なんて、相当の映画ファンじゃなければ知らない。
また8ミリフィルムの種類にまつわる話も、殆んどの観客が理解出来ないだろう。
8ミリには、大きく別けてシングル、スーパー、ダブルと三種類の規格があって、この映画に登場するのはシングルとスーパー。
シングルは日本のフジフィルムの規格で、スーパーはコダック。
コダックの方が、特に暖色系の発色に優れていて優美な質感になるので、多くの自主映画作家はスーパーを使いたがったが、欠点が一つ。
フィルムカートリッジの形が違うので、シングル用のカメラに入らないのだ。
当時8ミリカメラの最高峰と言われたのが、フジのZC-1000(劇中にも登場する巨大なレンズの付いたごついカメラだ)で、とにかく他のカメラでは出来ない色々な事が出来た。
自主映画作家達は、フィルムをとるかカメラをとるかの二者択一で泣きを見たものだった。
この映画で、上野樹理演じるあおいは、コダックしか使わないという設定なのに、カメラは何故かZC-1000を使っている。
こんな初歩的な間違いを何故・・・と不思議に思いながら見ていたら、後のネタ晴らしシーンでビックリ。
なんとあおいは、コダックのフィルムをフジのシングル8用カートリッジに詰めなおして使っていたというエピソードが披露される。
確かに、理屈の上では可能だという話を、私も大昔にした記憶があるが、実際にこんな面倒な事をしている人は見たことがなかった。
このエピソードだけで、8ミリを知っている人には、あおいがいかに映画を、創作を愛していたかが理解できるのだ。
「虹の女神 Rainbow Song」は、あおいの死を通して語られる、記憶の彼方に去り行く青春へのレクイエムであると共に、歴史の彼方に消えつつある8ミリ、いやフィルム映画そのものへのレクイエムなのかもしれない。
1と0の数字の集合体であるデジタル映像と違って、フィルムの映像は正に「焼付け」であり、半透明のフィルムに残った過去の時間の確実な記録を観るたびに、我々はその時代に思いを馳せるのだ。
桜井亜美の物語と脚本(岩井俊二と共同)は、話自体は特に特徴の無いベーシックな物だが、全体を虹の色と同じ7つの章に分け、8ミリというアイコンを設定し、登場人物にもそれぞれ(決して前面には出ないが)象徴としての役回りを振るなど、細かなあそびを感じさせつつ、丁寧にみせる物語としての工夫をしている。
だがこの物語の白眉は、不必要な作為を感じさせない、ナチュラルなキャラクター造形にあると言って良いだろう。
キャラクターがしっかりと形作られているから、それぞれのシチュエーションでの行動、台詞のやりとりが自然に生きてくる。
若い俳優たちがとても良い。
キャラクターを作りすぎる事無く、皆役に全く無理なく嵌っている。
たぶん、元8ミリ少年少女でなくても、彼らのキャラクターには素直に感情移入できるだろう。
主人公の市原隼人と上野樹里は勿論、智也の現在の恋人を演じる相田翔子や、ユーモアたっぷりに秋田弁の自主映画女優を演じる酒井若菜、あおいの父をひょうひょうと演じる小日向文世、いかにも現場にいそうな佐々木蔵之介のプロデューサーなど、キャスティングは絶妙。
そしてその中でも、出番は短いながら、あおいの盲目の妹かなを演じた蒼井優が抜群に良い。
かなは盲目であるが故に、現実の虹の色を見ることは出来ないが、七色の虹の様に複雑な、人間の心の機微を誰よりも敏感に感じとる、物語のキーパーソンだ。
彼女がどれほど素晴しい演技をしているかは、判る人なら登場して3秒で判るはず。
熊澤監督の演出も、しつこい様だが「親指さがし」と同じ監督とは思えないくらいにシャープだ。
物語は無駄なくコンパクトにまとまり、全ての要素が過不足なく画面の中にきっちりと写しこまれている。
正しくプロフェッショナルの芸術的な仕事と言って良い。
共同脚本とプロデュースを兼ねる岩井俊二のカラーを感じない訳でもないのだが、岩井映画の良くも悪くもドライな感覚と比べて、この映画の熊澤演出はもう少し登場人物との距離感が近く、良い意味でウェットだ。
思うに熊澤尚人という人物は、どちらかと言うと私小説的な物語で真価を発揮するタイプなのかもしれない。
これまでの二作は正直言って箸にも棒にも引っかからないどうでも良い作品だったが、三作目にして、一気に持ち味を出してきた。
「虹の女神 Rainbow Song」は、美しい虹色の光を放つ青春映画の佳作だ。
だが、私にとってこの映画はリアルに感じ過ぎて、少々こそばゆい。
懐かしいアルバムを観ているような、不思議な感覚だ。
もしかしたら映画にそれほど興味のない人には、マニアックで暗く、地味な映画に過ぎないのかもしれないという気もする。
是非とも、映画オタクではない普通の観客の意見を聞いてみたいものだ。
今回は、私が8ミリ少年だった頃、映画学校があった大阪は河内の地酒「天野酒 本醸造」を。
それほど特徴は無いが、やや辛口でスッキリして飲みやすい。
これからの季節は燗にして飲むのも良いかも。
近所の酒屋に売っていたので、打ち上げの時とか良く飲んだなあ。
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だって監督は熊澤尚人。
評価額300円、「金を取って良いレベルに達していない」とまで酷評した「親指さがし」の監督だ。
正直言って、とてもじゃないけど同一人物による作品とは思えない。
勿論作品によって出来不出来の差の大きな映画作家は沢山いるけど、ここまで極端な例は映画館に通い始めて二十五年、劇場鑑賞本数(推定)1500本で始めてみたかも知れない。
掌を返させてもらうけど、これは珠玉という言葉を使ってもいい、本当に美しい作品になっている。
空に真っ直ぐな不思議な虹が出た日・・・
駆け出しのADとして制作現場を駆けずり回っている智也(市原隼人)の元に、大学時代の友人から電話が入る。
大学時代に自主映画を撮っていて、智也をこの世界に引きずり込んだ張本人であるあおい(上野樹里)が、アメリカで飛行機事故に遭って死んだという。
彼女の実家に駆けつけた智也は、アメリカまで遺体を引き取りに行く家族を、空港まで送っていく事になる。
あおいの盲目の妹かな(蒼井優)は、何故か智也に、あおいを迎えに一緒にアメリカに行って欲しいと懇願するのだった。
空港で彼らを見送った智也の脳裏には、あおいと奇妙な出会いをした学生時代の思い出が蘇ってくるのだった・・・
たまらない。
いろんな意味でリアル過ぎ。
この映画は、8ミリ映画(決して8ミリビデオではない)を撮ったことのある、元自主映画少年にとっては、自分の青春のフラッシュバックを観るような不思議な体験だ。
物語は2006年の現在から始まって、数年前の過去に溯ってゆくのだが、現在のシーンでも主人公たちは24、5歳だから回想シーンももう二十一世紀だろう。
にもかかわらず、この映画に描かれる智也たちの青春は、まるで1980年代と言ってもおかしくない。
それは、この年代の若者を描いたドラマの持つ普遍性以上に、物語において重要なアイコンとなっている、8ミリ映画の存在故かもしれない。
ある意味でこの映画は非常にマニアックだ。
劇中で佐々木蔵之介演じるプロデューサーの、「オレはカメラマン志望で、宮川一夫みたいになりたかった!」という台詞がある。
私が学生時代、宮川一夫は既に伝説の人だったが、今の若者にはそれこそ「宮川一夫?Who?」だろう。
撮影監督の名前なんて、相当の映画ファンじゃなければ知らない。
また8ミリフィルムの種類にまつわる話も、殆んどの観客が理解出来ないだろう。
8ミリには、大きく別けてシングル、スーパー、ダブルと三種類の規格があって、この映画に登場するのはシングルとスーパー。
シングルは日本のフジフィルムの規格で、スーパーはコダック。
コダックの方が、特に暖色系の発色に優れていて優美な質感になるので、多くの自主映画作家はスーパーを使いたがったが、欠点が一つ。
フィルムカートリッジの形が違うので、シングル用のカメラに入らないのだ。
当時8ミリカメラの最高峰と言われたのが、フジのZC-1000(劇中にも登場する巨大なレンズの付いたごついカメラだ)で、とにかく他のカメラでは出来ない色々な事が出来た。
自主映画作家達は、フィルムをとるかカメラをとるかの二者択一で泣きを見たものだった。
この映画で、上野樹理演じるあおいは、コダックしか使わないという設定なのに、カメラは何故かZC-1000を使っている。
こんな初歩的な間違いを何故・・・と不思議に思いながら見ていたら、後のネタ晴らしシーンでビックリ。
なんとあおいは、コダックのフィルムをフジのシングル8用カートリッジに詰めなおして使っていたというエピソードが披露される。
確かに、理屈の上では可能だという話を、私も大昔にした記憶があるが、実際にこんな面倒な事をしている人は見たことがなかった。
このエピソードだけで、8ミリを知っている人には、あおいがいかに映画を、創作を愛していたかが理解できるのだ。
「虹の女神 Rainbow Song」は、あおいの死を通して語られる、記憶の彼方に去り行く青春へのレクイエムであると共に、歴史の彼方に消えつつある8ミリ、いやフィルム映画そのものへのレクイエムなのかもしれない。
1と0の数字の集合体であるデジタル映像と違って、フィルムの映像は正に「焼付け」であり、半透明のフィルムに残った過去の時間の確実な記録を観るたびに、我々はその時代に思いを馳せるのだ。
桜井亜美の物語と脚本(岩井俊二と共同)は、話自体は特に特徴の無いベーシックな物だが、全体を虹の色と同じ7つの章に分け、8ミリというアイコンを設定し、登場人物にもそれぞれ(決して前面には出ないが)象徴としての役回りを振るなど、細かなあそびを感じさせつつ、丁寧にみせる物語としての工夫をしている。
だがこの物語の白眉は、不必要な作為を感じさせない、ナチュラルなキャラクター造形にあると言って良いだろう。
キャラクターがしっかりと形作られているから、それぞれのシチュエーションでの行動、台詞のやりとりが自然に生きてくる。
若い俳優たちがとても良い。
キャラクターを作りすぎる事無く、皆役に全く無理なく嵌っている。
たぶん、元8ミリ少年少女でなくても、彼らのキャラクターには素直に感情移入できるだろう。
主人公の市原隼人と上野樹里は勿論、智也の現在の恋人を演じる相田翔子や、ユーモアたっぷりに秋田弁の自主映画女優を演じる酒井若菜、あおいの父をひょうひょうと演じる小日向文世、いかにも現場にいそうな佐々木蔵之介のプロデューサーなど、キャスティングは絶妙。
そしてその中でも、出番は短いながら、あおいの盲目の妹かなを演じた蒼井優が抜群に良い。
かなは盲目であるが故に、現実の虹の色を見ることは出来ないが、七色の虹の様に複雑な、人間の心の機微を誰よりも敏感に感じとる、物語のキーパーソンだ。
彼女がどれほど素晴しい演技をしているかは、判る人なら登場して3秒で判るはず。
熊澤監督の演出も、しつこい様だが「親指さがし」と同じ監督とは思えないくらいにシャープだ。
物語は無駄なくコンパクトにまとまり、全ての要素が過不足なく画面の中にきっちりと写しこまれている。
正しくプロフェッショナルの芸術的な仕事と言って良い。
共同脚本とプロデュースを兼ねる岩井俊二のカラーを感じない訳でもないのだが、岩井映画の良くも悪くもドライな感覚と比べて、この映画の熊澤演出はもう少し登場人物との距離感が近く、良い意味でウェットだ。
思うに熊澤尚人という人物は、どちらかと言うと私小説的な物語で真価を発揮するタイプなのかもしれない。
これまでの二作は正直言って箸にも棒にも引っかからないどうでも良い作品だったが、三作目にして、一気に持ち味を出してきた。
「虹の女神 Rainbow Song」は、美しい虹色の光を放つ青春映画の佳作だ。
だが、私にとってこの映画はリアルに感じ過ぎて、少々こそばゆい。
懐かしいアルバムを観ているような、不思議な感覚だ。
もしかしたら映画にそれほど興味のない人には、マニアックで暗く、地味な映画に過ぎないのかもしれないという気もする。
是非とも、映画オタクではない普通の観客の意見を聞いてみたいものだ。
今回は、私が8ミリ少年だった頃、映画学校があった大阪は河内の地酒「天野酒 本醸造」を。
それほど特徴は無いが、やや辛口でスッキリして飲みやすい。
これからの季節は燗にして飲むのも良いかも。
近所の酒屋に売っていたので、打ち上げの時とか良く飲んだなあ。

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