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2006年11月01日 (水) | 編集 |
本年度のビックリ大賞。
だって監督は熊澤尚人。
評価額300円、「金を取って良いレベルに達していない」とまで酷評した「親指さがし」の監督だ。
正直言って、とてもじゃないけど同一人物による作品とは思えない。
勿論作品によって出来不出来の差の大きな映画作家は沢山いるけど、ここまで極端な例は映画館に通い始めて二十五年、劇場鑑賞本数(推定)1500本で始めてみたかも知れない。
掌を返させてもらうけど、これは珠玉という言葉を使ってもいい、本当に美しい作品になっている。
空に真っ直ぐな不思議な虹が出た日・・・
駆け出しのADとして制作現場を駆けずり回っている智也(市原隼人)の元に、大学時代の友人から電話が入る。
大学時代に自主映画を撮っていて、智也をこの世界に引きずり込んだ張本人であるあおい(上野樹里)が、アメリカで飛行機事故に遭って死んだという。
彼女の実家に駆けつけた智也は、アメリカまで遺体を引き取りに行く家族を、空港まで送っていく事になる。
あおいの盲目の妹かな(蒼井優)は、何故か智也に、あおいを迎えに一緒にアメリカに行って欲しいと懇願するのだった。
空港で彼らを見送った智也の脳裏には、あおいと奇妙な出会いをした学生時代の思い出が蘇ってくるのだった・・・
たまらない。
いろんな意味でリアル過ぎ。
この映画は、8ミリ映画(決して8ミリビデオではない)を撮ったことのある、元自主映画少年にとっては、自分の青春のフラッシュバックを観るような不思議な体験だ。
物語は2006年の現在から始まって、数年前の過去に溯ってゆくのだが、現在のシーンでも主人公たちは24、5歳だから回想シーンももう二十一世紀だろう。
にもかかわらず、この映画に描かれる智也たちの青春は、まるで1980年代と言ってもおかしくない。
それは、この年代の若者を描いたドラマの持つ普遍性以上に、物語において重要なアイコンとなっている、8ミリ映画の存在故かもしれない。
ある意味でこの映画は非常にマニアックだ。
劇中で佐々木蔵之介演じるプロデューサーの、「オレはカメラマン志望で、宮川一夫みたいになりたかった!」という台詞がある。
私が学生時代、宮川一夫は既に伝説の人だったが、今の若者にはそれこそ「宮川一夫?Who?」だろう。
撮影監督の名前なんて、相当の映画ファンじゃなければ知らない。
また8ミリフィルムの種類にまつわる話も、殆んどの観客が理解出来ないだろう。
8ミリには、大きく別けてシングル、スーパー、ダブルと三種類の規格があって、この映画に登場するのはシングルとスーパー。
シングルは日本のフジフィルムの規格で、スーパーはコダック。
コダックの方が、特に暖色系の発色に優れていて優美な質感になるので、多くの自主映画作家はスーパーを使いたがったが、欠点が一つ。
フィルムカートリッジの形が違うので、シングル用のカメラに入らないのだ。
当時8ミリカメラの最高峰と言われたのが、フジのZC-1000(劇中にも登場する巨大なレンズの付いたごついカメラだ)で、とにかく他のカメラでは出来ない色々な事が出来た。
自主映画作家達は、フィルムをとるかカメラをとるかの二者択一で泣きを見たものだった。
この映画で、上野樹理演じるあおいは、コダックしか使わないという設定なのに、カメラは何故かZC-1000を使っている。
こんな初歩的な間違いを何故・・・と不思議に思いながら見ていたら、後のネタ晴らしシーンでビックリ。
なんとあおいは、コダックのフィルムをフジのシングル8用カートリッジに詰めなおして使っていたというエピソードが披露される。
確かに、理屈の上では可能だという話を、私も大昔にした記憶があるが、実際にこんな面倒な事をしている人は見たことがなかった。
このエピソードだけで、8ミリを知っている人には、あおいがいかに映画を、創作を愛していたかが理解できるのだ。
「虹の女神 Rainbow Song」は、あおいの死を通して語られる、記憶の彼方に去り行く青春へのレクイエムであると共に、歴史の彼方に消えつつある8ミリ、いやフィルム映画そのものへのレクイエムなのかもしれない。
1と0の数字の集合体であるデジタル映像と違って、フィルムの映像は正に「焼付け」であり、半透明のフィルムに残った過去の時間の確実な記録を観るたびに、我々はその時代に思いを馳せるのだ。
桜井亜美の物語と脚本(岩井俊二と共同)は、話自体は特に特徴の無いベーシックな物だが、全体を虹の色と同じ7つの章に分け、8ミリというアイコンを設定し、登場人物にもそれぞれ(決して前面には出ないが)象徴としての役回りを振るなど、細かなあそびを感じさせつつ、丁寧にみせる物語としての工夫をしている。
だがこの物語の白眉は、不必要な作為を感じさせない、ナチュラルなキャラクター造形にあると言って良いだろう。
キャラクターがしっかりと形作られているから、それぞれのシチュエーションでの行動、台詞のやりとりが自然に生きてくる。
若い俳優たちがとても良い。
キャラクターを作りすぎる事無く、皆役に全く無理なく嵌っている。
たぶん、元8ミリ少年少女でなくても、彼らのキャラクターには素直に感情移入できるだろう。
主人公の市原隼人と上野樹里は勿論、智也の現在の恋人を演じる相田翔子や、ユーモアたっぷりに秋田弁の自主映画女優を演じる酒井若菜、あおいの父をひょうひょうと演じる小日向文世、いかにも現場にいそうな佐々木蔵之介のプロデューサーなど、キャスティングは絶妙。
そしてその中でも、出番は短いながら、あおいの盲目の妹かなを演じた蒼井優が抜群に良い。
かなは盲目であるが故に、現実の虹の色を見ることは出来ないが、七色の虹の様に複雑な、人間の心の機微を誰よりも敏感に感じとる、物語のキーパーソンだ。
彼女がどれほど素晴しい演技をしているかは、判る人なら登場して3秒で判るはず。
熊澤監督の演出も、しつこい様だが「親指さがし」と同じ監督とは思えないくらいにシャープだ。
物語は無駄なくコンパクトにまとまり、全ての要素が過不足なく画面の中にきっちりと写しこまれている。
正しくプロフェッショナルの芸術的な仕事と言って良い。
共同脚本とプロデュースを兼ねる岩井俊二のカラーを感じない訳でもないのだが、岩井映画の良くも悪くもドライな感覚と比べて、この映画の熊澤演出はもう少し登場人物との距離感が近く、良い意味でウェットだ。
思うに熊澤尚人という人物は、どちらかと言うと私小説的な物語で真価を発揮するタイプなのかもしれない。
これまでの二作は正直言って箸にも棒にも引っかからないどうでも良い作品だったが、三作目にして、一気に持ち味を出してきた。
「虹の女神 Rainbow Song」は、美しい虹色の光を放つ青春映画の佳作だ。
だが、私にとってこの映画はリアルに感じ過ぎて、少々こそばゆい。
懐かしいアルバムを観ているような、不思議な感覚だ。
もしかしたら映画にそれほど興味のない人には、マニアックで暗く、地味な映画に過ぎないのかもしれないという気もする。
是非とも、映画オタクではない普通の観客の意見を聞いてみたいものだ。
今回は、私が8ミリ少年だった頃、映画学校があった大阪は河内の地酒「天野酒 本醸造」を。
それほど特徴は無いが、やや辛口でスッキリして飲みやすい。
これからの季節は燗にして飲むのも良いかも。
近所の酒屋に売っていたので、打ち上げの時とか良く飲んだなあ。
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だって監督は熊澤尚人。
評価額300円、「金を取って良いレベルに達していない」とまで酷評した「親指さがし」の監督だ。
正直言って、とてもじゃないけど同一人物による作品とは思えない。
勿論作品によって出来不出来の差の大きな映画作家は沢山いるけど、ここまで極端な例は映画館に通い始めて二十五年、劇場鑑賞本数(推定)1500本で始めてみたかも知れない。
掌を返させてもらうけど、これは珠玉という言葉を使ってもいい、本当に美しい作品になっている。
空に真っ直ぐな不思議な虹が出た日・・・
駆け出しのADとして制作現場を駆けずり回っている智也(市原隼人)の元に、大学時代の友人から電話が入る。
大学時代に自主映画を撮っていて、智也をこの世界に引きずり込んだ張本人であるあおい(上野樹里)が、アメリカで飛行機事故に遭って死んだという。
彼女の実家に駆けつけた智也は、アメリカまで遺体を引き取りに行く家族を、空港まで送っていく事になる。
あおいの盲目の妹かな(蒼井優)は、何故か智也に、あおいを迎えに一緒にアメリカに行って欲しいと懇願するのだった。
空港で彼らを見送った智也の脳裏には、あおいと奇妙な出会いをした学生時代の思い出が蘇ってくるのだった・・・
たまらない。
いろんな意味でリアル過ぎ。
この映画は、8ミリ映画(決して8ミリビデオではない)を撮ったことのある、元自主映画少年にとっては、自分の青春のフラッシュバックを観るような不思議な体験だ。
物語は2006年の現在から始まって、数年前の過去に溯ってゆくのだが、現在のシーンでも主人公たちは24、5歳だから回想シーンももう二十一世紀だろう。
にもかかわらず、この映画に描かれる智也たちの青春は、まるで1980年代と言ってもおかしくない。
それは、この年代の若者を描いたドラマの持つ普遍性以上に、物語において重要なアイコンとなっている、8ミリ映画の存在故かもしれない。
ある意味でこの映画は非常にマニアックだ。
劇中で佐々木蔵之介演じるプロデューサーの、「オレはカメラマン志望で、宮川一夫みたいになりたかった!」という台詞がある。
私が学生時代、宮川一夫は既に伝説の人だったが、今の若者にはそれこそ「宮川一夫?Who?」だろう。
撮影監督の名前なんて、相当の映画ファンじゃなければ知らない。
また8ミリフィルムの種類にまつわる話も、殆んどの観客が理解出来ないだろう。
8ミリには、大きく別けてシングル、スーパー、ダブルと三種類の規格があって、この映画に登場するのはシングルとスーパー。
シングルは日本のフジフィルムの規格で、スーパーはコダック。
コダックの方が、特に暖色系の発色に優れていて優美な質感になるので、多くの自主映画作家はスーパーを使いたがったが、欠点が一つ。
フィルムカートリッジの形が違うので、シングル用のカメラに入らないのだ。
当時8ミリカメラの最高峰と言われたのが、フジのZC-1000(劇中にも登場する巨大なレンズの付いたごついカメラだ)で、とにかく他のカメラでは出来ない色々な事が出来た。
自主映画作家達は、フィルムをとるかカメラをとるかの二者択一で泣きを見たものだった。
この映画で、上野樹理演じるあおいは、コダックしか使わないという設定なのに、カメラは何故かZC-1000を使っている。
こんな初歩的な間違いを何故・・・と不思議に思いながら見ていたら、後のネタ晴らしシーンでビックリ。
なんとあおいは、コダックのフィルムをフジのシングル8用カートリッジに詰めなおして使っていたというエピソードが披露される。
確かに、理屈の上では可能だという話を、私も大昔にした記憶があるが、実際にこんな面倒な事をしている人は見たことがなかった。
このエピソードだけで、8ミリを知っている人には、あおいがいかに映画を、創作を愛していたかが理解できるのだ。
「虹の女神 Rainbow Song」は、あおいの死を通して語られる、記憶の彼方に去り行く青春へのレクイエムであると共に、歴史の彼方に消えつつある8ミリ、いやフィルム映画そのものへのレクイエムなのかもしれない。
1と0の数字の集合体であるデジタル映像と違って、フィルムの映像は正に「焼付け」であり、半透明のフィルムに残った過去の時間の確実な記録を観るたびに、我々はその時代に思いを馳せるのだ。
桜井亜美の物語と脚本(岩井俊二と共同)は、話自体は特に特徴の無いベーシックな物だが、全体を虹の色と同じ7つの章に分け、8ミリというアイコンを設定し、登場人物にもそれぞれ(決して前面には出ないが)象徴としての役回りを振るなど、細かなあそびを感じさせつつ、丁寧にみせる物語としての工夫をしている。
だがこの物語の白眉は、不必要な作為を感じさせない、ナチュラルなキャラクター造形にあると言って良いだろう。
キャラクターがしっかりと形作られているから、それぞれのシチュエーションでの行動、台詞のやりとりが自然に生きてくる。
若い俳優たちがとても良い。
キャラクターを作りすぎる事無く、皆役に全く無理なく嵌っている。
たぶん、元8ミリ少年少女でなくても、彼らのキャラクターには素直に感情移入できるだろう。
主人公の市原隼人と上野樹里は勿論、智也の現在の恋人を演じる相田翔子や、ユーモアたっぷりに秋田弁の自主映画女優を演じる酒井若菜、あおいの父をひょうひょうと演じる小日向文世、いかにも現場にいそうな佐々木蔵之介のプロデューサーなど、キャスティングは絶妙。
そしてその中でも、出番は短いながら、あおいの盲目の妹かなを演じた蒼井優が抜群に良い。
かなは盲目であるが故に、現実の虹の色を見ることは出来ないが、七色の虹の様に複雑な、人間の心の機微を誰よりも敏感に感じとる、物語のキーパーソンだ。
彼女がどれほど素晴しい演技をしているかは、判る人なら登場して3秒で判るはず。
熊澤監督の演出も、しつこい様だが「親指さがし」と同じ監督とは思えないくらいにシャープだ。
物語は無駄なくコンパクトにまとまり、全ての要素が過不足なく画面の中にきっちりと写しこまれている。
正しくプロフェッショナルの芸術的な仕事と言って良い。
共同脚本とプロデュースを兼ねる岩井俊二のカラーを感じない訳でもないのだが、岩井映画の良くも悪くもドライな感覚と比べて、この映画の熊澤演出はもう少し登場人物との距離感が近く、良い意味でウェットだ。
思うに熊澤尚人という人物は、どちらかと言うと私小説的な物語で真価を発揮するタイプなのかもしれない。
これまでの二作は正直言って箸にも棒にも引っかからないどうでも良い作品だったが、三作目にして、一気に持ち味を出してきた。
「虹の女神 Rainbow Song」は、美しい虹色の光を放つ青春映画の佳作だ。
だが、私にとってこの映画はリアルに感じ過ぎて、少々こそばゆい。
懐かしいアルバムを観ているような、不思議な感覚だ。
もしかしたら映画にそれほど興味のない人には、マニアックで暗く、地味な映画に過ぎないのかもしれないという気もする。
是非とも、映画オタクではない普通の観客の意見を聞いてみたいものだ。
今回は、私が8ミリ少年だった頃、映画学校があった大阪は河内の地酒「天野酒 本醸造」を。
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