■ お知らせ
※基本的にネタバレありです。ご注意ください。
※当ブログはリンクフリーです。内容の無断転載はお断りいたします。
※ブログ環境の相性によっては、TB・コメントのお返事が出来ない事があります。ご了承ください
※エロ・グロ・出会い系のTB及びコメントは、削除の上直ちにブログ管理会社に通報させていただきます。 また記事と無関係な物や当方が不適切と判断したTB・コメントも削除いたします。
■TITLE INDEX
※タイトルインディックスを作りました。こちらからご利用ください。
■ ツイッターアカウント※基本的にネタバレありです。ご注意ください。
※当ブログはリンクフリーです。内容の無断転載はお断りいたします。
※ブログ環境の相性によっては、TB・コメントのお返事が出来ない事があります。ご了承ください
※エロ・グロ・出会い系のTB及びコメントは、削除の上直ちにブログ管理会社に通報させていただきます。 また記事と無関係な物や当方が不適切と判断したTB・コメントも削除いたします。
■TITLE INDEX
※タイトルインディックスを作りました。こちらからご利用ください。
※noraneko285でつぶやいてます。ブログで書いてない映画の話なども。
※noraneko285ツイッターでつぶやいた全作品をアーカイブしています。


2006年12月30日 (土) | 編集 |
早いもので、2006年も間も無く去ろうとしている。
今年も、「忘れられない映画」をピックアップしてみようと思う。
今年の映画にキーワードを付けるならば、それは「戦」だろう。
9.11から五年が過ぎ、あの事件がもたらした物、背景にあった物、そして事件その物を描いた作品まで現れた。
直接的にせよ、間接的にせよ、映画作家達が9.11以降の世界について、一斉に声をあげ始めたのは確かだと思う。
「ホテルルワンダ」は、先進国に住む我々が、リアルに想像する事が難しいアフリカの紛争を、平凡だが極めて魅力的な主人公の目線を借りる事で、普遍性を持って描いた力作だった。
この作品の他にも「ロード・オブ・ウォー」など、暴力の連鎖が途切れない、アフリカの現実を描いた作品も今年は目立った。
「ミュンヘン」は、巨匠スピルバーグからの、9.11以降の世界に対する重い問いかけだ。
30年以上前の暴力の連鎖が、実は今現在も続いていて、9.11にも確実に繋がっている。
主人公が迷い込んだ悪夢の迷宮に明日いるのは、もしかすると我々かもしれない。
「クラッシュ」は、現代のLAを舞台に、人種偏見がもたらす様々な「衝突」を描いた群像劇。
ここにも、人間と人間の小さな戦が繰り広げられている。
しかし、ギリギリのところで、ポール・ハギスの人間を信じる眼差しの暖かさに救われた。
「白バラの祈り ゾフィー・ショル、最期の日々」は、戦争という人間のもっとも愚かな行いの中で、一人の女性が信念と良心を守り抜いた壮絶な戦の物語。
ゾフィーを演じたユリア・イェンチ、モーア役のアレクサンダー・ヘルトの火花散る演技合戦も見事だった。
「かもめ食堂」は、ある意味「戦」というキーワードからもっとも遠い、平和な作品。
ドラマチックな事は何も起こらない。
だが、北欧フィンランドの日本料理店を舞台にした心地よい映画的時間は、肩の力を抜いて浸っていたくなる魅力に満ちている。
「ナイロビの蜂」は、先進国に食い物にされるアフリカの現実と、ある一組の夫婦の深い愛を描いた意欲作。
やや未消化の部分も残るものの、ル・カレの骨太のプロットを正面から受け止めて、なお強烈な個性を放つ、フェルナンド・メイレレスの作家性は高く評価出来る。
「花よりもなほ」は、天下泰平の大都会江戸を舞台に、「侍」という平和な時代にはある意味場違いな存在を通して、暴力の連鎖の無意味さを描いた異色作。
間接的ながらアフター9.11を描いた、数少ない邦画としても評価したい。
この作品も、山田洋次の「武士の一分」も、邦画時代劇の伝統がしっかりと生きている事を示した。
「カーズ」は、ピクサーのボス、ジョン・ラセター自ら作り上げた超マニアックムービー。
これほどマニアックなディテールを持ちながら、同時に老若男女誰にでも楽しめるファミリームービーに仕上がっている懐の深さに脱帽。
「パイレーツ・オブ・カリビアン/デッドマンズ・チェスト」は、とても不思議な映画だ。
技術論的にこの映画を語れば、欠点だらけのダメダメな映画。
しかし、この映画には、ダメなのを判っていても人を惹きつける、映画的時間の魅力があるのだ。来年もやって来る、ジャック・スパローの次なる冒険が待ち遠しい。
「時をかける少女」は、夏の本命「ゲド戦記」の影に隠れながら、質の面で圧勝した。
過去に何度も映像化された作品を、リメイク的続編という変化球で、新鮮に蘇らせた手腕は見事。
ネットの口コミで日を追うごとに増えつづけた観客は、「ホテルルワンダ」と並んでネットの興行パワーを証明する結果となった。
「ユナイテッド93」は、正直言って今の段階では映画の出来うんぬんを評価する事は出来ない。
あの日、あの時に起こった事の一部を、徹底的に現象として描写した、色々な意味で特別な映画だ。
9.11を直接描いた作品は、この作品以外にも「ワールド・トレード・センター」があったが、オリバー・ストーンは内容的に9.11そのものからは逃げている。
あえて直球で来たポール・グリーングラスの作品は、観客に心の奥底にしまい込んだ9.11と、再び向き合う事を要求している様だ。
「スーパーマン・リターンズ」は、旧作への大いなるリスペクトを含んだ見事な復活編。
古典的なハリウッド映画を思わせる風格と、最新テクノロジーによって生み出された映像スペクタクルは観客を映画のロマンに誘う。
ややレトロな味付けながら、スーパーマンとて2006年という時代から逃れられない現実は、劇中のスーパーマンの位置付けにも現れている。
「グエムル 漢江の怪物」は、韓国の異才ポン・ジュノによる怪作。
前半の圧倒的な演出力と、半ば狙った笑いと破綻は、韓国が抱える不のメタファーをくっきりと浮かび上がらせる。
前作「殺人の追憶」とは全くテイストの違う作品ながら、背景に強い社会性を持った娯楽映画というスタンスは共通。
この才能豊かな監督がどこへ行こうとしているのか、当分目が離せない。
「フラガール」は、丁寧に作られた娯楽映画の王道。
流行のレトロ路線ながら、物語にしっかりと普遍性を盛り込み、判りやすい起承転結、個性のはっきりしたキャラクター、クライマックスのダンスシーンの迫力まで、正しく娯楽映画の教科書の様な作品だった。
「虹の女神 Rainbow Song」は、今年最低点をつけた「親指さがし」の熊澤尚人監督による、起死回生のホームラン。
全体の雰囲気に岩井俊二の影を感じるものの、適度なウエット感を持った瑞々しい佳作。
8mm映画を巡る若者達のドラマは、そのままフィルム映画へのレクイエムとなっている。
「硫黄島からの手紙」と「父親たちの星条旗」の硫黄島二部作は、様々な「戦」が描かれた今年の映画の締めくくりに相応しい。
二つの視点を持つことで、過去のあらゆる戦争映画が越えられなかった表現の壁を軽々とブレイクスルーし、戦争の本質を浮かび上がらせた映画史に残る傑作である。
60年前の太平洋の孤島を巡る戦いは、今の時代に深く、静かな問いを投げかける。
我々は、それに対する答えをまだ見つけていない。
他にも、多くの作家が、戦い続ける人類と暴力の連鎖をテーマに映画を作った。
クローネンバーグの「ヒストリー・オブ・バイオレンス」や、クリスチャン・カリオンの「戦場のアリア」、韓国の俊英パク・クァンヒョンの「トンマッコルへようこそ」、アルフォンソ・キュアロンの「トゥモローワールド」などは、それぞれ注目に値する作品だった。
残念なのは、9.11とその後の戦に決して無縁でない日本から、(ドキュメンタリーの「9.11-8.15 日本心中」を別とすれば)この問題に正面から向き合った作品が観られなかったことだ。
70年代の遺物の様な「男たちの大和 YAMATO」では話にならない。
またアン・リーの「ブロークバック・マウンテン」や、ミヒャエル・ハネケの「隠された記憶」、アレクサンドル・ソクーロフの「太陽」など、ベテランの個性派作家による小品にも、印象的な作品が多かった。
さて、来年はどんな映画に出会えるのか。
それでは皆さん、良いお年を。
記事が気に入ったらクリックしてね

こちらもクリック!

も一回お願い!
今年も、「忘れられない映画」をピックアップしてみようと思う。
今年の映画にキーワードを付けるならば、それは「戦」だろう。
9.11から五年が過ぎ、あの事件がもたらした物、背景にあった物、そして事件その物を描いた作品まで現れた。
直接的にせよ、間接的にせよ、映画作家達が9.11以降の世界について、一斉に声をあげ始めたのは確かだと思う。
「ホテルルワンダ」は、先進国に住む我々が、リアルに想像する事が難しいアフリカの紛争を、平凡だが極めて魅力的な主人公の目線を借りる事で、普遍性を持って描いた力作だった。
この作品の他にも「ロード・オブ・ウォー」など、暴力の連鎖が途切れない、アフリカの現実を描いた作品も今年は目立った。
「ミュンヘン」は、巨匠スピルバーグからの、9.11以降の世界に対する重い問いかけだ。
30年以上前の暴力の連鎖が、実は今現在も続いていて、9.11にも確実に繋がっている。
主人公が迷い込んだ悪夢の迷宮に明日いるのは、もしかすると我々かもしれない。
「クラッシュ」は、現代のLAを舞台に、人種偏見がもたらす様々な「衝突」を描いた群像劇。
ここにも、人間と人間の小さな戦が繰り広げられている。
しかし、ギリギリのところで、ポール・ハギスの人間を信じる眼差しの暖かさに救われた。
「白バラの祈り ゾフィー・ショル、最期の日々」は、戦争という人間のもっとも愚かな行いの中で、一人の女性が信念と良心を守り抜いた壮絶な戦の物語。
ゾフィーを演じたユリア・イェンチ、モーア役のアレクサンダー・ヘルトの火花散る演技合戦も見事だった。
「かもめ食堂」は、ある意味「戦」というキーワードからもっとも遠い、平和な作品。
ドラマチックな事は何も起こらない。
だが、北欧フィンランドの日本料理店を舞台にした心地よい映画的時間は、肩の力を抜いて浸っていたくなる魅力に満ちている。
「ナイロビの蜂」は、先進国に食い物にされるアフリカの現実と、ある一組の夫婦の深い愛を描いた意欲作。
やや未消化の部分も残るものの、ル・カレの骨太のプロットを正面から受け止めて、なお強烈な個性を放つ、フェルナンド・メイレレスの作家性は高く評価出来る。
「花よりもなほ」は、天下泰平の大都会江戸を舞台に、「侍」という平和な時代にはある意味場違いな存在を通して、暴力の連鎖の無意味さを描いた異色作。
間接的ながらアフター9.11を描いた、数少ない邦画としても評価したい。
この作品も、山田洋次の「武士の一分」も、邦画時代劇の伝統がしっかりと生きている事を示した。
「カーズ」は、ピクサーのボス、ジョン・ラセター自ら作り上げた超マニアックムービー。
これほどマニアックなディテールを持ちながら、同時に老若男女誰にでも楽しめるファミリームービーに仕上がっている懐の深さに脱帽。
「パイレーツ・オブ・カリビアン/デッドマンズ・チェスト」は、とても不思議な映画だ。
技術論的にこの映画を語れば、欠点だらけのダメダメな映画。
しかし、この映画には、ダメなのを判っていても人を惹きつける、映画的時間の魅力があるのだ。来年もやって来る、ジャック・スパローの次なる冒険が待ち遠しい。
「時をかける少女」は、夏の本命「ゲド戦記」の影に隠れながら、質の面で圧勝した。
過去に何度も映像化された作品を、リメイク的続編という変化球で、新鮮に蘇らせた手腕は見事。
ネットの口コミで日を追うごとに増えつづけた観客は、「ホテルルワンダ」と並んでネットの興行パワーを証明する結果となった。
「ユナイテッド93」は、正直言って今の段階では映画の出来うんぬんを評価する事は出来ない。
あの日、あの時に起こった事の一部を、徹底的に現象として描写した、色々な意味で特別な映画だ。
9.11を直接描いた作品は、この作品以外にも「ワールド・トレード・センター」があったが、オリバー・ストーンは内容的に9.11そのものからは逃げている。
あえて直球で来たポール・グリーングラスの作品は、観客に心の奥底にしまい込んだ9.11と、再び向き合う事を要求している様だ。
「スーパーマン・リターンズ」は、旧作への大いなるリスペクトを含んだ見事な復活編。
古典的なハリウッド映画を思わせる風格と、最新テクノロジーによって生み出された映像スペクタクルは観客を映画のロマンに誘う。
ややレトロな味付けながら、スーパーマンとて2006年という時代から逃れられない現実は、劇中のスーパーマンの位置付けにも現れている。
「グエムル 漢江の怪物」は、韓国の異才ポン・ジュノによる怪作。
前半の圧倒的な演出力と、半ば狙った笑いと破綻は、韓国が抱える不のメタファーをくっきりと浮かび上がらせる。
前作「殺人の追憶」とは全くテイストの違う作品ながら、背景に強い社会性を持った娯楽映画というスタンスは共通。
この才能豊かな監督がどこへ行こうとしているのか、当分目が離せない。
「フラガール」は、丁寧に作られた娯楽映画の王道。
流行のレトロ路線ながら、物語にしっかりと普遍性を盛り込み、判りやすい起承転結、個性のはっきりしたキャラクター、クライマックスのダンスシーンの迫力まで、正しく娯楽映画の教科書の様な作品だった。
「虹の女神 Rainbow Song」は、今年最低点をつけた「親指さがし」の熊澤尚人監督による、起死回生のホームラン。
全体の雰囲気に岩井俊二の影を感じるものの、適度なウエット感を持った瑞々しい佳作。
8mm映画を巡る若者達のドラマは、そのままフィルム映画へのレクイエムとなっている。
「硫黄島からの手紙」と「父親たちの星条旗」の硫黄島二部作は、様々な「戦」が描かれた今年の映画の締めくくりに相応しい。
二つの視点を持つことで、過去のあらゆる戦争映画が越えられなかった表現の壁を軽々とブレイクスルーし、戦争の本質を浮かび上がらせた映画史に残る傑作である。
60年前の太平洋の孤島を巡る戦いは、今の時代に深く、静かな問いを投げかける。
我々は、それに対する答えをまだ見つけていない。
他にも、多くの作家が、戦い続ける人類と暴力の連鎖をテーマに映画を作った。
クローネンバーグの「ヒストリー・オブ・バイオレンス」や、クリスチャン・カリオンの「戦場のアリア」、韓国の俊英パク・クァンヒョンの「トンマッコルへようこそ」、アルフォンソ・キュアロンの「トゥモローワールド」などは、それぞれ注目に値する作品だった。
残念なのは、9.11とその後の戦に決して無縁でない日本から、(ドキュメンタリーの「9.11-8.15 日本心中」を別とすれば)この問題に正面から向き合った作品が観られなかったことだ。
70年代の遺物の様な「男たちの大和 YAMATO」では話にならない。
またアン・リーの「ブロークバック・マウンテン」や、ミヒャエル・ハネケの「隠された記憶」、アレクサンドル・ソクーロフの「太陽」など、ベテランの個性派作家による小品にも、印象的な作品が多かった。
さて、来年はどんな映画に出会えるのか。
それでは皆さん、良いお年を。

記事が気に入ったらクリックしてね

こちらもクリック!

も一回お願い!
スポンサーサイト


2006年12月25日 (月) | 編集 |
サンフランシスコの、エンバカデロセンターシネマという小さなアートシアターで、「硫黄島からの手紙」を再鑑賞。
一本の映画を二度観るのは、今年初めてである。
最初の記事はこちら。
劇場はほぼ満席。映画の性格上、やはり年配者の姿が目立つ。
物が物だけに、観客の反応は判り難いが、米兵が捕虜を射殺するシーンでは、「Oh,No…」といった声にならない呟きが場内を満たす。
アメリカ人にとって、軍は建国以来もっとも信頼を置く政府組織。
失敗した戦争であるベトナム以降ならともかく、正義の戦争という神話が生きていた第二次世界大戦でのこのシーンは、彼らにとってかなりショッキングなのだ。
この日は映画館で、知人の映画資料館スタッフ(既に退職しているそうだが)に会ったので、映画が終わった後、カフェでこの映画について二人で語った。
インテリでリベラル派に属するアメリカ人の観方として、ちょっと面白かったので紹介しよう。
私:どうだった?君は「父親たちの星条旗」には不満があると言っていたが。
彼:そうだ、しかしこの映画を観て、少し考えが変わった。これは君の言うとおり、二本で一つの映画だ。ビジネスだから仕方が無いけど、第一部、第二部と連続上映してくれた方が意図が伝わる。私は「父親たちの星条旗」を観た時に、テーマは伝わってくるが、未完成で満足できないと思った。
私:二本作ると割り切っているから、1本だけでは良くわからない部分がある。今まで二部、三部構成で一つのテーマを語った映画はあったけど、視点を変えるというのは初めてではないか?縦ではなく、横に広げるというか。
彼:そうかもしれない。これは「ラショウモンケース※ 」を、映画のロジックに取り入れたものかもしれないね。
私:ああ、なるほど。一つの物事を異なる視点から描いた2本の映画を、さらに異なる視点で我々が観ている。私は交錯した視線が、最終的に戦争の本質を浮かび上がらせたと思っている。
確かに「羅生門」だ。アメリカ人にとって、単品としてのこの映画はどんな風に写るのだろう。
彼:う~ん、正直いって私は、観ている間これがクリント・イーストウッドの映画だという事を忘れていた。非常に良く出来た日本映画だ。ただ、思い返して見ると今まで観た日本の戦争映画とも違うんだよ。一言で言えば、鏡のような映画かな。
私:鏡?
彼:つまり、この映画はすこし特殊だ。それは戦争映画ではあるけど、描こうとしているのが何人かの日本人の内面だけだという事。戦闘シーンも、悲劇的な死も、全て彼らの内面を描くためにある。私たちアメリカ人は、だんだんとこの素晴らしい日本の兵士たちに感情移入してゆく。そして、例のあのシーン(捕虜射殺のシーンらしい)で気づくんだ。「おい、やめろ!彼らは私たちと同じ人間だぞ!」ってね。最初は何者かわからない日本兵たちを観ているつもりだったのが、いつのまにか彼らは違う言葉、違う肌の色をしているだけで、私たち自身だということに気づくんだ。
私:それで鏡か。そういえば日本でも「父親たちの星条旗」の感想で、「第二次大戦中のアメリカの苦悩をはじめて知った」という物が多かったな。程度の違いはあれ、戦争のもたらす物は一緒だと。日本ではアメリカが楽勝したというイメージが強いから。
彼:冗談だろ。まさか君もそう思っちゃいまいね。
私:アメリカ史や社会に関しては、かなり勉強したから、私はそうは思わないけど、やはりイメージって強いと思う。まあそれも含めて、この映画は漠然とした戦争へのイメージを壊ししていると思う。
彼:その通り。硫黄島の戦いだけじゃない。イーストウッドの視点は過去と、現在の両方に向いている。この映画を観た人たちのイラク戦争への認識も変わると思うよ。
私:どういう風に?
彼:単純だけど、ニュースでアメリカ軍が武装勢力を30人殺害と聞いたとしたら、「ああ30人の自分たちと同じ人間が殺されたんだ」と思う想像力が生まれるだろう。マスコミは敵でも味方でも民間人の死には反応するけど、兵士の死は当然と思っている。これは長年の情報操作でもあるんだけどね。
私:私もマスコミや過去の戦争映画は、少なくとも敵の兵士に関しては一つの記号としてみなす事が多かったと思う。記号だから死んでも悲しむ必要は無い。でも、カメラの向こうにある現実は違う。
彼:映画の中で、逃亡する日本兵シミズが、バロン西の読んだ手紙に心を動かされるシーンがあっただろう。彼は「私はアメリカ人を知らない」と言っていたけど、これは観ているアメリカ人の言葉でもある。
私:イーストウッドはテーマを直接的に語るのをあえて避けているけど、ここだけはストレートだった。テーマの核心なんだろうね。
彼:アメリカ人が人間だと知って、戦いとは違う道を選んだシミズは、いまだ敵が人間とは知らないアメリカ人に殺される。非常に複雑な思いを抱かせられた。
私:結局、互いを知る事しか無いという事だろうか。こうしてアメリカ人と日本人が硫黄島の映画を作って、それに関して語り合ってるのも考えてみれば不思議な事だよね。私たちは、栗林が幻視した未来に生きているのかな。
映画談義はしばらく続いたのだが、一応硫黄島関連はここまで。
話した内容を思い出しながら描いているので、正確な会話の再現ではないので、あしからず。
私は二本が一つの作品として機能する事で、観る者の国籍にかかわらず普遍的なメッセージがおくられると考えたが、やはり日米でそれぞれの作品の観かたは違えど、同じような想いを抱く事が判った。
この映画のロジックを「羅生門」に例えるのはなるほどと思った。
日本映画も見慣れた、映画を観るプロの意見であり、一般の観客の意見と必ずしも一致するものではないだろうが、「硫黄島からの手紙」はアメリカ人の心にもしっかりと届いている様だ。
※「ラショウモンケース」=黒澤明監督の「羅生門」を語源とする法律用語。一つの事件を複数の関係者の異なる視点から見る事で、まったく違った本質が浮かび上がる事を言う。
記事が気に入ったらクリックしてね

こちらもクリック!

も一回お願い!
一本の映画を二度観るのは、今年初めてである。
最初の記事はこちら。
劇場はほぼ満席。映画の性格上、やはり年配者の姿が目立つ。
物が物だけに、観客の反応は判り難いが、米兵が捕虜を射殺するシーンでは、「Oh,No…」といった声にならない呟きが場内を満たす。
アメリカ人にとって、軍は建国以来もっとも信頼を置く政府組織。
失敗した戦争であるベトナム以降ならともかく、正義の戦争という神話が生きていた第二次世界大戦でのこのシーンは、彼らにとってかなりショッキングなのだ。
この日は映画館で、知人の映画資料館スタッフ(既に退職しているそうだが)に会ったので、映画が終わった後、カフェでこの映画について二人で語った。
インテリでリベラル派に属するアメリカ人の観方として、ちょっと面白かったので紹介しよう。
私:どうだった?君は「父親たちの星条旗」には不満があると言っていたが。
彼:そうだ、しかしこの映画を観て、少し考えが変わった。これは君の言うとおり、二本で一つの映画だ。ビジネスだから仕方が無いけど、第一部、第二部と連続上映してくれた方が意図が伝わる。私は「父親たちの星条旗」を観た時に、テーマは伝わってくるが、未完成で満足できないと思った。
私:二本作ると割り切っているから、1本だけでは良くわからない部分がある。今まで二部、三部構成で一つのテーマを語った映画はあったけど、視点を変えるというのは初めてではないか?縦ではなく、横に広げるというか。
彼:そうかもしれない。これは「ラショウモンケース※ 」を、映画のロジックに取り入れたものかもしれないね。
私:ああ、なるほど。一つの物事を異なる視点から描いた2本の映画を、さらに異なる視点で我々が観ている。私は交錯した視線が、最終的に戦争の本質を浮かび上がらせたと思っている。
確かに「羅生門」だ。アメリカ人にとって、単品としてのこの映画はどんな風に写るのだろう。
彼:う~ん、正直いって私は、観ている間これがクリント・イーストウッドの映画だという事を忘れていた。非常に良く出来た日本映画だ。ただ、思い返して見ると今まで観た日本の戦争映画とも違うんだよ。一言で言えば、鏡のような映画かな。
私:鏡?
彼:つまり、この映画はすこし特殊だ。それは戦争映画ではあるけど、描こうとしているのが何人かの日本人の内面だけだという事。戦闘シーンも、悲劇的な死も、全て彼らの内面を描くためにある。私たちアメリカ人は、だんだんとこの素晴らしい日本の兵士たちに感情移入してゆく。そして、例のあのシーン(捕虜射殺のシーンらしい)で気づくんだ。「おい、やめろ!彼らは私たちと同じ人間だぞ!」ってね。最初は何者かわからない日本兵たちを観ているつもりだったのが、いつのまにか彼らは違う言葉、違う肌の色をしているだけで、私たち自身だということに気づくんだ。
私:それで鏡か。そういえば日本でも「父親たちの星条旗」の感想で、「第二次大戦中のアメリカの苦悩をはじめて知った」という物が多かったな。程度の違いはあれ、戦争のもたらす物は一緒だと。日本ではアメリカが楽勝したというイメージが強いから。
彼:冗談だろ。まさか君もそう思っちゃいまいね。
私:アメリカ史や社会に関しては、かなり勉強したから、私はそうは思わないけど、やはりイメージって強いと思う。まあそれも含めて、この映画は漠然とした戦争へのイメージを壊ししていると思う。
彼:その通り。硫黄島の戦いだけじゃない。イーストウッドの視点は過去と、現在の両方に向いている。この映画を観た人たちのイラク戦争への認識も変わると思うよ。
私:どういう風に?
彼:単純だけど、ニュースでアメリカ軍が武装勢力を30人殺害と聞いたとしたら、「ああ30人の自分たちと同じ人間が殺されたんだ」と思う想像力が生まれるだろう。マスコミは敵でも味方でも民間人の死には反応するけど、兵士の死は当然と思っている。これは長年の情報操作でもあるんだけどね。
私:私もマスコミや過去の戦争映画は、少なくとも敵の兵士に関しては一つの記号としてみなす事が多かったと思う。記号だから死んでも悲しむ必要は無い。でも、カメラの向こうにある現実は違う。
彼:映画の中で、逃亡する日本兵シミズが、バロン西の読んだ手紙に心を動かされるシーンがあっただろう。彼は「私はアメリカ人を知らない」と言っていたけど、これは観ているアメリカ人の言葉でもある。
私:イーストウッドはテーマを直接的に語るのをあえて避けているけど、ここだけはストレートだった。テーマの核心なんだろうね。
彼:アメリカ人が人間だと知って、戦いとは違う道を選んだシミズは、いまだ敵が人間とは知らないアメリカ人に殺される。非常に複雑な思いを抱かせられた。
私:結局、互いを知る事しか無いという事だろうか。こうしてアメリカ人と日本人が硫黄島の映画を作って、それに関して語り合ってるのも考えてみれば不思議な事だよね。私たちは、栗林が幻視した未来に生きているのかな。
映画談義はしばらく続いたのだが、一応硫黄島関連はここまで。
話した内容を思い出しながら描いているので、正確な会話の再現ではないので、あしからず。
私は二本が一つの作品として機能する事で、観る者の国籍にかかわらず普遍的なメッセージがおくられると考えたが、やはり日米でそれぞれの作品の観かたは違えど、同じような想いを抱く事が判った。
この映画のロジックを「羅生門」に例えるのはなるほどと思った。
日本映画も見慣れた、映画を観るプロの意見であり、一般の観客の意見と必ずしも一致するものではないだろうが、「硫黄島からの手紙」はアメリカ人の心にもしっかりと届いている様だ。
※「ラショウモンケース」=黒澤明監督の「羅生門」を語源とする法律用語。一つの事件を複数の関係者の異なる視点から見る事で、まったく違った本質が浮かび上がる事を言う。

記事が気に入ったらクリックしてね

こちらもクリック!

も一回お願い!


2006年12月21日 (木) | 編集 |
世界的な、ベストセラーファンタジー小説の映画化・・・。
原作は未読なのだが、所謂古典ではなく、最近のファンタジーブームに乗った作品の様だ。
これがどの程度原作に忠実な作りなのかは判らないのだが、映画はなんだかデジャヴを感じまくりの一本だった。
十七歳の少年エラゴン(エド・スペリーアス)は、ある日森で不思議な青い輝きを放つ石を見つける。
それはアラゲイジア帝国の運命を左右する、ドラゴンの卵だった。
嘗てアラゲイジアは、ドラゴンライダーと呼ばれる竜と心を通じ、剣と魔法の使い手である高潔なる人々の力で、繁栄をきわめた。
しかし今、ドラゴンライダーは滅び、暴君ガルバトリックス王(ジョン・マルコビッチ)による支配が続いている。
卵からかえったメスのドラゴン、サフィラを育て始めたエラゴンは、自分が最後のドラゴンライダーに選ばれた事を知る。
しかし、ドラゴンライダー復活を知った帝国の魔手は、ついにエラゴンを捕らえる。
エラゴンは、古の時代を知るブロム(ジェレミー・アイアンズ)の助けで、何とか村から脱出するのだが・・・
あらすじを読めば一目瞭然のように、これは剣と魔法版の「スターウォーズ/エピソード4」だ。
ジェダイ騎士団をドラゴンライダーに代えて、フォースを魔法に、舞台を宇宙から異世界に移せば「エラゴン」の世界の出来上がり。
主人公は露骨にルークしているし、ブロムはどう見てもオビワンだ。
ダースヴェイダーもいればレイア姫も、パルパティンもいる。
まさかハンソロは出てこないだろうと思ったら、なんとなくそれっぽい役回りの奴も出てきた。
C3-POとR2-D2の凹凸コンビだけが不在だが、お姫様が「送った物」を見れば、これはそのままドラゴンに置き換えられているのがわかる。
まあキャラクターだけなら、たとえば「パイレーツ・オブ・カリビアン」あたりも「SW」の影響が顕著だったが、この作品はそれだけではない。
世界観、物語の展開もかなり被っていて、特に前半の展開はほとんどそのままリメイクといっても過言ではない。
何しろ「エピ4」で撮影されながらも編集でカットされた、ルークに幼馴染のビッグスが故郷を出て宇宙へ出る事を告げるエピソードが、エラゴンに従兄弟のローランが村を出て行く事を告げるエピソードとして再現されているくらいだし、育ての親の叔父さんはやっぱり同じように殺される。
作り手も、物語があまりにも「エピ4」と似ている事を意識しているのは確実で、ルークが未来への思いを胸にタトゥイーンの夕日を見つめる名シーンを、カット割りもそっくりそのままに、再現する茶目っ気を見せている。
双子の様に似ている「エピソード4」と「エラゴン」を差別化しているのは、やはり一方の主役と言うべきドラゴンの存在だろう。
実は現在の映画に登場するあらゆるドラゴン像に、決定的な影響を与えた映画が存在する。
1981年の「ドラゴンスレイヤー」に登場する悪のドラゴン、ヴァーミスラックスは、それまでの古典的なモデルアニメーションに変わって、コンピューター制御によるゴーモーションと呼ばれる新技術によって映像化され、(当時としては)恐ろしくリアルな動きが話題となったが、何よりも映画ファンをしびれさせたのが、それ以前の映画に登場するドラゴンとは一線を画すシャープで禍々しい造形だった。
ヴァーミスラックスは、80年代以降に作られたほとんど全てのドラゴンのデザインの原型となった。
しかし今回のドラゴン、サフィラはメスであり、気高く正義のドラゴンであるという設定にあわせて、羽毛のあるグリフォンなどとの融合が見られるなど、ユニークなデザインアプローチがされている。
シャープさ、格好良さという点では疑問がなくもないが、存在感は悪くなく、空中戦の迫力もなかなかのもの。
脱ヴァーミスラックスのドラゴン像として、それなりに成功していると思う。
レイチェル・ワイズの声も気品があって、キャラクターに深みを与えている。
ファンタジー映画のビジュアルとして、ドラゴンは合格。
しかし、もう一方の「剣と魔法」に関しては、ここでもデジャヴを感じてしまう。
魔法の表現は、どれもどこかで見たようなものばかりで、ビジュアルとして別に悪くは無いが、かといって胸をときめかせるまでには至らない。
ドラゴンの力を借りて、エラゴンが「見えない敵」を見る事が出来る魔法の表現など、「プレデター」かよ!と思ってしまった。
あと、これは最近のファンタジーや剣劇物全般に言えることだが、チャンバラの描写が下手糞だ。
余りにもキャラクターに寄った、細かいカットで繋ぎ過ぎて、何が起こっているのかさっぱり判らない。
「グラディエーター」あたりから顕著になってきた流行の手法だが、この撮り方はたとえば乱戦の迫力を表現したりするのには向いているが、殺陣の格好良さを見せるにはまったく向かない。
上手い演出家はシーンによってしっかりと撮り方を変えるものだが、これはそれが出来ていない。
さらにクライマックスの反乱軍ヴァーデンの拠点の攻防戦は、位置関係がきちんと描写されておらず、味方陣地の構造がどうなっているのか良くわからないし、敵がどこからやって来ているのかも判らない。
さらに画が暗い上に、細切れのアクションがダラダラと続いているだけなので、ドラゴンの空中戦の背景画以上の物にはなっていない。
このあたりは、同じジャンルに「LOTR」というお手本があるのだから、もうちょっと勉強して欲しいところ。
シュテフェン・ファンマイアー監督の演出は、VFX畑の出身らしくドラゴンの空中戦など上手い部分もあるものの、全体的に大味な感は否めない。
この世界を彩るキャラクターは、やはりブロム役のジェレミー・アイアンズの存在感が頭一つ抜けている。
主人公のエラゴンを演じるエド・スペリーアスは、存在感の軽さまでルークを真似た訳ではないだろうが、時折良い表情を見せるものの、特徴の無いキャラクターであまり印象に残らない。
ダースヴェイダー的悪役のロバート・カーライルはどうにもクリストファー・ウォーケンに見えてしまって参った。
悪の王にはジョン・マルコビッチがキャスティングされているが、ほとんど演技らしい演技の機会を与えられず、マルコビッチであった事すらクレジットで確認するまで判らず。
まあラスボスの彼の活躍は続編でという事か。
「エラゴン 遺志を継ぐ者」は、娯楽映画としてはアベレージに達しているし、見ている間はそれなりに楽しめる。
しかし104分という、内容の割には短めの上映時間にギュウギュウに詰め込まれたビジュアルは、観ている間中どこかで観たようなイメージが観る者の脳裏にデジャヴを引き起こし、結果的に過去の名作を寄せ集めたような妙に安っぽい印象になってしまっている。
なんでも原作者のクリストファー・パオリーニは、17歳の時にこの作品を書いたとか。
原作を読まずに言うのもなんだが、SWファンの高校生が世界観とキャラクターをそっくりパクってこれを書いたと考えると何か納得。
既に完成された作品のプロットをいただいているのだから、当たり前と言えば当たり前だが、物語はわりとまとまっているし、悪くは無い。
しかしだからと言って元ネタを超える何かがある訳でも無く、それなりに楽しめるB級映画以上の物ではない。
そんな印象だ。
はたして、第二部以降にはオリジナリティを期待しても良いのだろうか。
ドラゴンつながりでスペインのベルベラーナによる「テンプラリーニョ・ドラゴン・ヴィノ・デ・ラ・ティエラ」をチョイス。
フルーティで芳醇な赤。
お味は値段を考えれば十分満足で、コストパフォーマンスも頗る高い。
記事が気に入ったらクリックしてね

こちらもクリック!

も一回お願い!

原作は未読なのだが、所謂古典ではなく、最近のファンタジーブームに乗った作品の様だ。
これがどの程度原作に忠実な作りなのかは判らないのだが、映画はなんだかデジャヴを感じまくりの一本だった。
十七歳の少年エラゴン(エド・スペリーアス)は、ある日森で不思議な青い輝きを放つ石を見つける。
それはアラゲイジア帝国の運命を左右する、ドラゴンの卵だった。
嘗てアラゲイジアは、ドラゴンライダーと呼ばれる竜と心を通じ、剣と魔法の使い手である高潔なる人々の力で、繁栄をきわめた。
しかし今、ドラゴンライダーは滅び、暴君ガルバトリックス王(ジョン・マルコビッチ)による支配が続いている。
卵からかえったメスのドラゴン、サフィラを育て始めたエラゴンは、自分が最後のドラゴンライダーに選ばれた事を知る。
しかし、ドラゴンライダー復活を知った帝国の魔手は、ついにエラゴンを捕らえる。
エラゴンは、古の時代を知るブロム(ジェレミー・アイアンズ)の助けで、何とか村から脱出するのだが・・・
あらすじを読めば一目瞭然のように、これは剣と魔法版の「スターウォーズ/エピソード4」だ。
ジェダイ騎士団をドラゴンライダーに代えて、フォースを魔法に、舞台を宇宙から異世界に移せば「エラゴン」の世界の出来上がり。
主人公は露骨にルークしているし、ブロムはどう見てもオビワンだ。
ダースヴェイダーもいればレイア姫も、パルパティンもいる。
まさかハンソロは出てこないだろうと思ったら、なんとなくそれっぽい役回りの奴も出てきた。
C3-POとR2-D2の凹凸コンビだけが不在だが、お姫様が「送った物」を見れば、これはそのままドラゴンに置き換えられているのがわかる。
まあキャラクターだけなら、たとえば「パイレーツ・オブ・カリビアン」あたりも「SW」の影響が顕著だったが、この作品はそれだけではない。
世界観、物語の展開もかなり被っていて、特に前半の展開はほとんどそのままリメイクといっても過言ではない。
何しろ「エピ4」で撮影されながらも編集でカットされた、ルークに幼馴染のビッグスが故郷を出て宇宙へ出る事を告げるエピソードが、エラゴンに従兄弟のローランが村を出て行く事を告げるエピソードとして再現されているくらいだし、育ての親の叔父さんはやっぱり同じように殺される。
作り手も、物語があまりにも「エピ4」と似ている事を意識しているのは確実で、ルークが未来への思いを胸にタトゥイーンの夕日を見つめる名シーンを、カット割りもそっくりそのままに、再現する茶目っ気を見せている。
双子の様に似ている「エピソード4」と「エラゴン」を差別化しているのは、やはり一方の主役と言うべきドラゴンの存在だろう。
実は現在の映画に登場するあらゆるドラゴン像に、決定的な影響を与えた映画が存在する。
1981年の「ドラゴンスレイヤー」に登場する悪のドラゴン、ヴァーミスラックスは、それまでの古典的なモデルアニメーションに変わって、コンピューター制御によるゴーモーションと呼ばれる新技術によって映像化され、(当時としては)恐ろしくリアルな動きが話題となったが、何よりも映画ファンをしびれさせたのが、それ以前の映画に登場するドラゴンとは一線を画すシャープで禍々しい造形だった。
ヴァーミスラックスは、80年代以降に作られたほとんど全てのドラゴンのデザインの原型となった。
しかし今回のドラゴン、サフィラはメスであり、気高く正義のドラゴンであるという設定にあわせて、羽毛のあるグリフォンなどとの融合が見られるなど、ユニークなデザインアプローチがされている。
シャープさ、格好良さという点では疑問がなくもないが、存在感は悪くなく、空中戦の迫力もなかなかのもの。
脱ヴァーミスラックスのドラゴン像として、それなりに成功していると思う。
レイチェル・ワイズの声も気品があって、キャラクターに深みを与えている。
ファンタジー映画のビジュアルとして、ドラゴンは合格。
しかし、もう一方の「剣と魔法」に関しては、ここでもデジャヴを感じてしまう。
魔法の表現は、どれもどこかで見たようなものばかりで、ビジュアルとして別に悪くは無いが、かといって胸をときめかせるまでには至らない。
ドラゴンの力を借りて、エラゴンが「見えない敵」を見る事が出来る魔法の表現など、「プレデター」かよ!と思ってしまった。
あと、これは最近のファンタジーや剣劇物全般に言えることだが、チャンバラの描写が下手糞だ。
余りにもキャラクターに寄った、細かいカットで繋ぎ過ぎて、何が起こっているのかさっぱり判らない。
「グラディエーター」あたりから顕著になってきた流行の手法だが、この撮り方はたとえば乱戦の迫力を表現したりするのには向いているが、殺陣の格好良さを見せるにはまったく向かない。
上手い演出家はシーンによってしっかりと撮り方を変えるものだが、これはそれが出来ていない。
さらにクライマックスの反乱軍ヴァーデンの拠点の攻防戦は、位置関係がきちんと描写されておらず、味方陣地の構造がどうなっているのか良くわからないし、敵がどこからやって来ているのかも判らない。
さらに画が暗い上に、細切れのアクションがダラダラと続いているだけなので、ドラゴンの空中戦の背景画以上の物にはなっていない。
このあたりは、同じジャンルに「LOTR」というお手本があるのだから、もうちょっと勉強して欲しいところ。
シュテフェン・ファンマイアー監督の演出は、VFX畑の出身らしくドラゴンの空中戦など上手い部分もあるものの、全体的に大味な感は否めない。
この世界を彩るキャラクターは、やはりブロム役のジェレミー・アイアンズの存在感が頭一つ抜けている。
主人公のエラゴンを演じるエド・スペリーアスは、存在感の軽さまでルークを真似た訳ではないだろうが、時折良い表情を見せるものの、特徴の無いキャラクターであまり印象に残らない。
ダースヴェイダー的悪役のロバート・カーライルはどうにもクリストファー・ウォーケンに見えてしまって参った。
悪の王にはジョン・マルコビッチがキャスティングされているが、ほとんど演技らしい演技の機会を与えられず、マルコビッチであった事すらクレジットで確認するまで判らず。
まあラスボスの彼の活躍は続編でという事か。
「エラゴン 遺志を継ぐ者」は、娯楽映画としてはアベレージに達しているし、見ている間はそれなりに楽しめる。
しかし104分という、内容の割には短めの上映時間にギュウギュウに詰め込まれたビジュアルは、観ている間中どこかで観たようなイメージが観る者の脳裏にデジャヴを引き起こし、結果的に過去の名作を寄せ集めたような妙に安っぽい印象になってしまっている。
なんでも原作者のクリストファー・パオリーニは、17歳の時にこの作品を書いたとか。
原作を読まずに言うのもなんだが、SWファンの高校生が世界観とキャラクターをそっくりパクってこれを書いたと考えると何か納得。
既に完成された作品のプロットをいただいているのだから、当たり前と言えば当たり前だが、物語はわりとまとまっているし、悪くは無い。
しかしだからと言って元ネタを超える何かがある訳でも無く、それなりに楽しめるB級映画以上の物ではない。
そんな印象だ。
はたして、第二部以降にはオリジナリティを期待しても良いのだろうか。
ドラゴンつながりでスペインのベルベラーナによる「テンプラリーニョ・ドラゴン・ヴィノ・デ・ラ・ティエラ」をチョイス。
フルーティで芳醇な赤。
お味は値段を考えれば十分満足で、コストパフォーマンスも頗る高い。

記事が気に入ったらクリックしてね

こちらもクリック!

も一回お願い!



2006年12月19日 (火) | 編集 |
「スチュワート・リトル」でも知られる、アメリカの児童文学者E.B.ホワイトのロングセラー、二度目の映画化。
最初は1973年のアニメ映画だから、実写化は初めてだ。
当時はほとんど考えられなかった、動物が主人公の実写映画も、CGの進化ですっかり定着した。
喋る子豚の話というと、どうしても「ベイブ」を連想してしまうが、これはまた違った魅力のある、ホリデーシーズンに家族で観るのにちょうど良い、ファミリームービーの佳作となっている。
アメリカの、どこにでもある田舎町。
そこに住む農家のエブラル家に11匹の子豚が生まれた。
しかし母豚の乳房は10個しかない。
仕方なく、一匹を処分しようとする父親だったが、娘のファーン(ダコタ・ファニング)が「自分が育てるから殺さないで」と説得する。
ファーンはまるで母親の様に、ウィルバーと名付けた子豚を育て始める。
どんどんと大きくなるウィルバーは、やがて向かいのザッカーマン農場に預けられるが、ウィルバーはそこでたくさんの動物たちと暮らし始める。
ガチョウのグッシーとゴリー、羊のサミュエル、馬のアイクに牛のビッツィーとベッツィー。
飼われている訳ではないが、自由なネズミのティンプルトンもこの農場の住人だ。
ある日、ウィルバーの耳に、農場の動物たちとは違う透き通った声が聞こえてきた。
それは、小さな小さなもう一匹の住人、クモのシャーロットの声だった。
すぐに仲良くなったウィルバーとシャーロット、しかしウィルバーには春に生まれた子豚の運命が近づいていた。
クリスマスにハムにされる。
自分の運命を知って怯えるウィルバー。
ファーンも何とかウィルバーを救おうとするが、良いアイディアは浮かばない。
落ち込むウィルバーに、やさしく声をかけたのはシャーロット。
「私があなたを守ってあげる」
シャーロットはある方法を使って、人間にメッセージを送ろうとするのだが・・・
アメリカのどこにでもありそうで、しかしどこか理想化された田舎町で展開する寓話的ファンタジー。
ハムにされそうな子豚が、周りの人々(?)のやさしさで救われるのはこの手の話の定番だが、なるほどロングセラーとなっているのには訳がある。
この物語のテーマは、「かわいそうな子豚を救おう」ではないのだ。
人間の少女ファーンとウィルバーの擬似親子的な関係、そしてウィルバーとクモのシャーロットの友情が紡ぎ出す奇跡の物語は、最終的にザッカーマン農場という小さな世界における命のサイクルを描き出す。
誰もが期待するように、子豚のウィルバーは救われる。
だがそれはあくまでも、周りの存在が彼を守りたかったが故の例外として描かれ、食物連鎖を否定しない。
そもそもウィルバーがファーンに助けられたこと自体が偶然。
彼の兄弟は、母豚の乳房にありついたが故に、普通に豚として食べられてしまっただろう。
シャーロットにしても、自分が生き延びるために、弱い虫たちを食料にして生きてゆく事をしっかりとウィルバーに見せる。
ウィルバーに起こった奇跡も、取捨選択の結果に過ぎないという、ある意味残酷な現実から映画は逃げない。
クリスマスの雪を見たい。
そう言うウィルバーを助けようとするシャーロットの寿命は、実際にはウィルバーよりも遥かに短い。
彼女ははじめから雪を見ることなど出来ないのだ。
自分の命を次の世代につなぐため、沢山の卵を身ごもったシャーロットは、弱った体でウィルバーとの約束を果たそうとする。
彼女が命を賭して守り抜いたウィルバーの命は、やがてシャーロットの残した沢山の命とめぐり合う。
そしてウィルバーとの一年を通じて、生と死に向かい合ったファーンもまた、一人の人間として確実に成長を遂げているのだ。
どぎつさやシニカルさに頼ることなく、プロットの中で自然に命のサイクルと生のすばらしさを理解させる物語は流石だ。
人間の主人公ファーンを演じるのはダコタ・ファニング。
あまりにも芸達者過ぎて、一癖のある役が多い彼女にしては、珍しくストレートな子供らしい役だ。
演技の完成度は言わずもがな。
人間側のキャストがファニングの一点豪華主義なのに対して、動物たちのボイスキャストは凄い。子豚のウィルバーこそ、子役のドミニク・スコット・ケイだが、タイトルロールのシャーロットを演じるジュリア・ロバーツを筆頭に、スティーブ・ブシェミ、キャシー・ベイツ、ロバート・レッドフォード、オフラ・ウィンフリーと正にオールスターキャスト。
極めつけはナレーションにサム・シェパードだ。
このキャストをライブアクションで雇ったら、ギャラだけで軽く1億ドルコースだろう。
ボイスキャストならではの豪華布陣かもしれない。
おそらく日本では吹き替え版がメインとなるだろうが、せっかくなので大人の観客には原語版で観ることをお勧めする。
実際ロバーツやブシェミはなかなかの好演だ。
ゲイリー・ウィニック監督の過去の作品は観たことが無いが、プロフィールを見るとどちらかというとプロデューサーとして実績がある人の様だ。
私のお気に入りの「エイプリルの七面鳥」も彼のプロデュースだが、厳しい現実に裏打ちされた、優しさや希望の描き方はこの作品と通じるものがあるかもしれない。
「シャーロットのおくりもの」は良い意味で典型的なファミリー映画だ。
ビジュアル的な派手さは無いし、物語も刺激的ではない。
しかし、しっかりとしたプロットを持つ脚本は、安心して観ていられるのと同時に、さりげなく深いテーマを感じさせてくれるし、遊び心のある美しい映像と豪華なキャストは、地味ながら映画的な満足感を与えてくれる。
もちろん、テーマ的にはいくらでも深く描ける内容であり、これでは物足りないし、ご都合主義だという意見もあるだろうが、命のしくみに初めて触れる子供たちには、とても判り易い物語になっていると思う。
クリスマスシーズンに、家族で観るのにはピッタリ。
でも、さすがにこれを観た後は、スペアリブを食べたくなくなった(笑
この映画にはクリスマスシーズン用にスパークリングワイン、「クックス・ブリュット」をチョイスしよう。
カリフォルニアらしい飲みやすくライトなテイストで、じんわりと暖かい気分になりたいクリスマスパーティにピッタリ。
お子様たちにはちょっと早いけど。
記事が気に入ったらクリックしてね

こちらもクリック!

も一回お願い!

最初は1973年のアニメ映画だから、実写化は初めてだ。
当時はほとんど考えられなかった、動物が主人公の実写映画も、CGの進化ですっかり定着した。
喋る子豚の話というと、どうしても「ベイブ」を連想してしまうが、これはまた違った魅力のある、ホリデーシーズンに家族で観るのにちょうど良い、ファミリームービーの佳作となっている。
アメリカの、どこにでもある田舎町。
そこに住む農家のエブラル家に11匹の子豚が生まれた。
しかし母豚の乳房は10個しかない。
仕方なく、一匹を処分しようとする父親だったが、娘のファーン(ダコタ・ファニング)が「自分が育てるから殺さないで」と説得する。
ファーンはまるで母親の様に、ウィルバーと名付けた子豚を育て始める。
どんどんと大きくなるウィルバーは、やがて向かいのザッカーマン農場に預けられるが、ウィルバーはそこでたくさんの動物たちと暮らし始める。
ガチョウのグッシーとゴリー、羊のサミュエル、馬のアイクに牛のビッツィーとベッツィー。
飼われている訳ではないが、自由なネズミのティンプルトンもこの農場の住人だ。
ある日、ウィルバーの耳に、農場の動物たちとは違う透き通った声が聞こえてきた。
それは、小さな小さなもう一匹の住人、クモのシャーロットの声だった。
すぐに仲良くなったウィルバーとシャーロット、しかしウィルバーには春に生まれた子豚の運命が近づいていた。
クリスマスにハムにされる。
自分の運命を知って怯えるウィルバー。
ファーンも何とかウィルバーを救おうとするが、良いアイディアは浮かばない。
落ち込むウィルバーに、やさしく声をかけたのはシャーロット。
「私があなたを守ってあげる」
シャーロットはある方法を使って、人間にメッセージを送ろうとするのだが・・・
アメリカのどこにでもありそうで、しかしどこか理想化された田舎町で展開する寓話的ファンタジー。
ハムにされそうな子豚が、周りの人々(?)のやさしさで救われるのはこの手の話の定番だが、なるほどロングセラーとなっているのには訳がある。
この物語のテーマは、「かわいそうな子豚を救おう」ではないのだ。
人間の少女ファーンとウィルバーの擬似親子的な関係、そしてウィルバーとクモのシャーロットの友情が紡ぎ出す奇跡の物語は、最終的にザッカーマン農場という小さな世界における命のサイクルを描き出す。
誰もが期待するように、子豚のウィルバーは救われる。
だがそれはあくまでも、周りの存在が彼を守りたかったが故の例外として描かれ、食物連鎖を否定しない。
そもそもウィルバーがファーンに助けられたこと自体が偶然。
彼の兄弟は、母豚の乳房にありついたが故に、普通に豚として食べられてしまっただろう。
シャーロットにしても、自分が生き延びるために、弱い虫たちを食料にして生きてゆく事をしっかりとウィルバーに見せる。
ウィルバーに起こった奇跡も、取捨選択の結果に過ぎないという、ある意味残酷な現実から映画は逃げない。
クリスマスの雪を見たい。
そう言うウィルバーを助けようとするシャーロットの寿命は、実際にはウィルバーよりも遥かに短い。
彼女ははじめから雪を見ることなど出来ないのだ。
自分の命を次の世代につなぐため、沢山の卵を身ごもったシャーロットは、弱った体でウィルバーとの約束を果たそうとする。
彼女が命を賭して守り抜いたウィルバーの命は、やがてシャーロットの残した沢山の命とめぐり合う。
そしてウィルバーとの一年を通じて、生と死に向かい合ったファーンもまた、一人の人間として確実に成長を遂げているのだ。
どぎつさやシニカルさに頼ることなく、プロットの中で自然に命のサイクルと生のすばらしさを理解させる物語は流石だ。
人間の主人公ファーンを演じるのはダコタ・ファニング。
あまりにも芸達者過ぎて、一癖のある役が多い彼女にしては、珍しくストレートな子供らしい役だ。
演技の完成度は言わずもがな。
人間側のキャストがファニングの一点豪華主義なのに対して、動物たちのボイスキャストは凄い。子豚のウィルバーこそ、子役のドミニク・スコット・ケイだが、タイトルロールのシャーロットを演じるジュリア・ロバーツを筆頭に、スティーブ・ブシェミ、キャシー・ベイツ、ロバート・レッドフォード、オフラ・ウィンフリーと正にオールスターキャスト。
極めつけはナレーションにサム・シェパードだ。
このキャストをライブアクションで雇ったら、ギャラだけで軽く1億ドルコースだろう。
ボイスキャストならではの豪華布陣かもしれない。
おそらく日本では吹き替え版がメインとなるだろうが、せっかくなので大人の観客には原語版で観ることをお勧めする。
実際ロバーツやブシェミはなかなかの好演だ。
ゲイリー・ウィニック監督の過去の作品は観たことが無いが、プロフィールを見るとどちらかというとプロデューサーとして実績がある人の様だ。
私のお気に入りの「エイプリルの七面鳥」も彼のプロデュースだが、厳しい現実に裏打ちされた、優しさや希望の描き方はこの作品と通じるものがあるかもしれない。
「シャーロットのおくりもの」は良い意味で典型的なファミリー映画だ。
ビジュアル的な派手さは無いし、物語も刺激的ではない。
しかし、しっかりとしたプロットを持つ脚本は、安心して観ていられるのと同時に、さりげなく深いテーマを感じさせてくれるし、遊び心のある美しい映像と豪華なキャストは、地味ながら映画的な満足感を与えてくれる。
もちろん、テーマ的にはいくらでも深く描ける内容であり、これでは物足りないし、ご都合主義だという意見もあるだろうが、命のしくみに初めて触れる子供たちには、とても判り易い物語になっていると思う。
クリスマスシーズンに、家族で観るのにはピッタリ。
でも、さすがにこれを観た後は、スペアリブを食べたくなくなった(笑
この映画にはクリスマスシーズン用にスパークリングワイン、「クックス・ブリュット」をチョイスしよう。
カリフォルニアらしい飲みやすくライトなテイストで、じんわりと暖かい気分になりたいクリスマスパーティにピッタリ。
お子様たちにはちょっと早いけど。

記事が気に入ったらクリックしてね

こちらもクリック!

も一回お願い!



2006年12月11日 (月) | 編集 |
「父親たちの星条旗」 に続く、「硫黄島二部作」の第二弾。
太平洋の小さな孤島を巡る戦いを、アメリカ側の視点、日本側の視点でそれぞれ一本づつの映画にするという、クリント・イーストウッド監督の壮大な実験映画だ。
第一部の「父親たち~」は、単体でも優れた映画として完結はしていたが、ところどころ第二部と組み合わせるための「相欠き」のような部分があり、イーストウッドが二本を合わせて一本の映画として機能させようとしている意図は明らかだった。
はたして、この極めてユニークな試みを通して浮かび上がってきた物とはなんだったのだろうか。
現在の硫黄島で、洞窟の地下から数百通もの手紙が発見された。
60年前の戦場からの手紙。
それは現在に一体何を伝えるのか。
昭和十九年六月。
硫黄島に新任の司令官栗林忠道(渡辺謙)が降り立った。
アメリカ駐在武官の経験があり、誰よりも欧米を知る栗林は、それまで軍が想定していた米軍の上陸を水際で阻止する作戦を破棄。
島全体に網の目のような地価要塞を構築し、上陸した米軍を地下から攻撃する作戦を立てる。
島の防衛戦としては前代未聞の栗林の作戦は、軍内部にも反対の者が多かったが、一方でロサンゼルス五輪の馬術競技ゴールドメダリスト、バロン西(伊原剛志)ら、理解者もいた。
海岸の塹壕掘りから、岩山の洞窟堀へ、兵士達が一心不乱に働いた。
妻と生まれたばかりの娘を残して、一兵卒として硫黄島へ出征していたパン屋の西郷(二宮和也)は、栗林によって上官の理不尽な暴力から救われる。
以来、栗林と二宮は不思議な縁で結ばれる事になる。
昭和二十年二月、ついに圧倒的な数の米軍が島に押し寄せた。
栗林以下二万一千の日本兵達は一ヶ月を超える絶望的な戦いに身を投じてゆく・・・
「父親たちの星条旗」では、硫黄島の戦いと銃後のアメリカを通して、戦争と国家、個人の関係を描いたイーストウッド。
第二弾となる「硫黄島からの手紙」で、アメリカ人である彼が描き出したのは、「私たちは一体誰と戦ったのか?」という一点につきる。
戦場で戦う相手は、勿論「敵(ENEMY)」である。
しかし、映画はこの極端に単純化された単語の裏に、何千、何万という生身の人間がいる事を赤裸々に描き出す。
登場する日本軍のキャラクターが将軍から兵卒、主戦論者から反戦論者までバラエティに富んでいるのも、敵という言葉によって掻き消されてしまった個人を強調したかったからだろう。
映画は2時間20分の間、硫黄島で戦った人間としての日本人を徹底的に描写する。
この映画はアメリカ人にとっては、記号化された敵を人間として再認識する作品となり、日本人にとっては、結果的に当時の日本人像を極めてニュートラルな立場から丁寧に描いた稀有な「日本映画」となっている。
「父親たちの星条旗」の受け取り方が当然日米で違うように、「硫黄島からの手紙」もまた、日米では異なった受け取り方をされるだろう。
観るものの立場によって、映画の観方は変わる。
しかし、この二本の映画が一つに合わさった時、映画史上例の無い化学反応が起こる。
異なる見方を組み合わせることによって、この戦いの当事者であるアメリカ人、日本人、そしてそれ以外の全ての国の観客たちに、一つのシンプルなメッセージが送られる。
それは60年前の硫黄島にいたのは、日本人であり、アメリカ人であり、一人一人心を持った人間であったという事。
そして、戦争とはどんな理屈をつけても、結局は同じ人間と人間の殺し合いである事。
この当たり前の事実を、これほどまでの説得力を持って、実感させた映画は過去に存在しなかったと言って良いと思う。
戦争の遂行とは人間から人間性を奪い、単純に記号化する事であり、過去に作られたあらゆる戦争映画も、どこかで人間の記号化という部分から逃れることが出来なかった。
しかしイーストウッドは、硫黄島の戦いを大胆に視点とアプローチを変えた二部作とする事で、初めて記号化の呪縛から脱出している。
敵、鬼畜米英、悪魔、イエローモンキーetc.、為政者はあらゆる言葉を使って、そこにいる人間を記号化する。
事の真理を誰よりも知っているのは、あの時、あの島にいた日米数万の兵士達。
「硫黄島を忘れるな」
硫黄島二部作は、静かに、しかし重く語りかける。
これは、島に眠る数万の戦没者へのレクイエムであると同時に、無念の死を遂げた彼らから、今なお戦いつづける人類への、本質的なメッセージである。
脚本を担当したのは日系の若手ライター、アイリス・ヤマシタ。
ストーリーには「父親たちの星条旗」からポール・ハギスが加わっているが、基本的に「硫黄島からの手紙」の方は、ほぼヤマシタの手による物の様だ。
日系人であり、比較的リサーチしやすい題材だろうが、ライターにとっては実質的な外国映画をここまで細やかに描き切ったのは賞賛に値すると思う。
彼女にオフィスには、一体どれだけの資料が積み上げられたのだろうか。
アイリス・ヤマシタによって、紙の上で人格を与えられた60年前の日本人たちに、今度はイーストウッドと俳優たちが魂を吹き込む。
日本語の台詞の翻訳には、日本人キャストたちも積極的に参加したらしく、そのため本作の日本語台詞は外国映画であることを全く意識させない自然な物だ。
物語の中心にいるのは、硫黄島の指揮官である栗林中将と、一兵卒である西郷の二人。
全く逆の立場にいる二人の日本人を、渡辺謙と二宮和也が好演する。
二人の主役はともに合理主義者であり、現代的な思考の持ち主だ。
物語は彼ら二人を軸に、様々なキャラクターが交錯する群像劇として進む。
これは今現在から過去を観る作品のアプローチとして正しい。
だがこの映画が凄いのは、台詞のあるほとんどすべてのキャラクターに明確な個性と人間性を与え、印象に残らないキャラクターがただの一人もいないという事だ。
全てのキャラクターに血が通っている。
イーストウッドが、いかにこの作品で人間を描く事に執着したかがここで判る。
もっとも、それは同時に、技術論的にはこの作品の欠点ともなっているのだが。
「父親たちの星条旗」にしろ「硫黄島からの手紙」にしろ、技術論の観点から欠点を指摘するのは簡単な事だ。
しかし、この二部作は、一世紀を超える映画の歴史の中で、誰もやっていない事にチャレンジし、大きな成果を上げている。
少なくとも「戦争」というもののミクロとマクロを同時に描き、本質を浮かび上がらせたという点で、硫黄島二部作の前に「戦争映画」は無かったとも言えるし、これ以降作られるシリアスな戦争映画は、このニ作の影響から逃れることは出来ないだろう。
映画ファンにとって、クリント・イーストウッド監督による二本の映画を2006年の今現在、映画館で同時に観られるのはとても幸運な事だ。
映画史のエポックを、リアルタイムで体験できるのだから。
我々は、100年残る映画を目撃したのだ。
さて、「父親たちの星条旗」には神亀を付け合せたが、これだけの作品に合わせるとなると本当にチョイスに困る。
ここは日本酒の最高峰の一つである、「十四代 純米大吟醸 藩州山田錦」を合わせよう。
優しく芳醇な吟醸香が立ち上り、コク、キレ、喉ごしのバランスが絶妙。
四世紀に及ぶ歴史を持つ、蔵元の技術の結晶だ。
この映画を観ることの出来る映画ファンが幸せである様に、この酒を飲むことが出来る飲兵衛もまた幸せである。
記事の続き「硫黄島からの手紙 / アメリカの目線」はこちら。
記事が気に入ったらクリックしてね

こちらもクリック!

も一回お願い!

太平洋の小さな孤島を巡る戦いを、アメリカ側の視点、日本側の視点でそれぞれ一本づつの映画にするという、クリント・イーストウッド監督の壮大な実験映画だ。
第一部の「父親たち~」は、単体でも優れた映画として完結はしていたが、ところどころ第二部と組み合わせるための「相欠き」のような部分があり、イーストウッドが二本を合わせて一本の映画として機能させようとしている意図は明らかだった。
はたして、この極めてユニークな試みを通して浮かび上がってきた物とはなんだったのだろうか。
現在の硫黄島で、洞窟の地下から数百通もの手紙が発見された。
60年前の戦場からの手紙。
それは現在に一体何を伝えるのか。
昭和十九年六月。
硫黄島に新任の司令官栗林忠道(渡辺謙)が降り立った。
アメリカ駐在武官の経験があり、誰よりも欧米を知る栗林は、それまで軍が想定していた米軍の上陸を水際で阻止する作戦を破棄。
島全体に網の目のような地価要塞を構築し、上陸した米軍を地下から攻撃する作戦を立てる。
島の防衛戦としては前代未聞の栗林の作戦は、軍内部にも反対の者が多かったが、一方でロサンゼルス五輪の馬術競技ゴールドメダリスト、バロン西(伊原剛志)ら、理解者もいた。
海岸の塹壕掘りから、岩山の洞窟堀へ、兵士達が一心不乱に働いた。
妻と生まれたばかりの娘を残して、一兵卒として硫黄島へ出征していたパン屋の西郷(二宮和也)は、栗林によって上官の理不尽な暴力から救われる。
以来、栗林と二宮は不思議な縁で結ばれる事になる。
昭和二十年二月、ついに圧倒的な数の米軍が島に押し寄せた。
栗林以下二万一千の日本兵達は一ヶ月を超える絶望的な戦いに身を投じてゆく・・・
「父親たちの星条旗」では、硫黄島の戦いと銃後のアメリカを通して、戦争と国家、個人の関係を描いたイーストウッド。
第二弾となる「硫黄島からの手紙」で、アメリカ人である彼が描き出したのは、「私たちは一体誰と戦ったのか?」という一点につきる。
戦場で戦う相手は、勿論「敵(ENEMY)」である。
しかし、映画はこの極端に単純化された単語の裏に、何千、何万という生身の人間がいる事を赤裸々に描き出す。
登場する日本軍のキャラクターが将軍から兵卒、主戦論者から反戦論者までバラエティに富んでいるのも、敵という言葉によって掻き消されてしまった個人を強調したかったからだろう。
映画は2時間20分の間、硫黄島で戦った人間としての日本人を徹底的に描写する。
この映画はアメリカ人にとっては、記号化された敵を人間として再認識する作品となり、日本人にとっては、結果的に当時の日本人像を極めてニュートラルな立場から丁寧に描いた稀有な「日本映画」となっている。
「父親たちの星条旗」の受け取り方が当然日米で違うように、「硫黄島からの手紙」もまた、日米では異なった受け取り方をされるだろう。
観るものの立場によって、映画の観方は変わる。
しかし、この二本の映画が一つに合わさった時、映画史上例の無い化学反応が起こる。
異なる見方を組み合わせることによって、この戦いの当事者であるアメリカ人、日本人、そしてそれ以外の全ての国の観客たちに、一つのシンプルなメッセージが送られる。
それは60年前の硫黄島にいたのは、日本人であり、アメリカ人であり、一人一人心を持った人間であったという事。
そして、戦争とはどんな理屈をつけても、結局は同じ人間と人間の殺し合いである事。
この当たり前の事実を、これほどまでの説得力を持って、実感させた映画は過去に存在しなかったと言って良いと思う。
戦争の遂行とは人間から人間性を奪い、単純に記号化する事であり、過去に作られたあらゆる戦争映画も、どこかで人間の記号化という部分から逃れることが出来なかった。
しかしイーストウッドは、硫黄島の戦いを大胆に視点とアプローチを変えた二部作とする事で、初めて記号化の呪縛から脱出している。
敵、鬼畜米英、悪魔、イエローモンキーetc.、為政者はあらゆる言葉を使って、そこにいる人間を記号化する。
事の真理を誰よりも知っているのは、あの時、あの島にいた日米数万の兵士達。
「硫黄島を忘れるな」
硫黄島二部作は、静かに、しかし重く語りかける。
これは、島に眠る数万の戦没者へのレクイエムであると同時に、無念の死を遂げた彼らから、今なお戦いつづける人類への、本質的なメッセージである。
脚本を担当したのは日系の若手ライター、アイリス・ヤマシタ。
ストーリーには「父親たちの星条旗」からポール・ハギスが加わっているが、基本的に「硫黄島からの手紙」の方は、ほぼヤマシタの手による物の様だ。
日系人であり、比較的リサーチしやすい題材だろうが、ライターにとっては実質的な外国映画をここまで細やかに描き切ったのは賞賛に値すると思う。
彼女にオフィスには、一体どれだけの資料が積み上げられたのだろうか。
アイリス・ヤマシタによって、紙の上で人格を与えられた60年前の日本人たちに、今度はイーストウッドと俳優たちが魂を吹き込む。
日本語の台詞の翻訳には、日本人キャストたちも積極的に参加したらしく、そのため本作の日本語台詞は外国映画であることを全く意識させない自然な物だ。
物語の中心にいるのは、硫黄島の指揮官である栗林中将と、一兵卒である西郷の二人。
全く逆の立場にいる二人の日本人を、渡辺謙と二宮和也が好演する。
二人の主役はともに合理主義者であり、現代的な思考の持ち主だ。
物語は彼ら二人を軸に、様々なキャラクターが交錯する群像劇として進む。
これは今現在から過去を観る作品のアプローチとして正しい。
だがこの映画が凄いのは、台詞のあるほとんどすべてのキャラクターに明確な個性と人間性を与え、印象に残らないキャラクターがただの一人もいないという事だ。
全てのキャラクターに血が通っている。
イーストウッドが、いかにこの作品で人間を描く事に執着したかがここで判る。
もっとも、それは同時に、技術論的にはこの作品の欠点ともなっているのだが。
「父親たちの星条旗」にしろ「硫黄島からの手紙」にしろ、技術論の観点から欠点を指摘するのは簡単な事だ。
しかし、この二部作は、一世紀を超える映画の歴史の中で、誰もやっていない事にチャレンジし、大きな成果を上げている。
少なくとも「戦争」というもののミクロとマクロを同時に描き、本質を浮かび上がらせたという点で、硫黄島二部作の前に「戦争映画」は無かったとも言えるし、これ以降作られるシリアスな戦争映画は、このニ作の影響から逃れることは出来ないだろう。
映画ファンにとって、クリント・イーストウッド監督による二本の映画を2006年の今現在、映画館で同時に観られるのはとても幸運な事だ。
映画史のエポックを、リアルタイムで体験できるのだから。
我々は、100年残る映画を目撃したのだ。
さて、「父親たちの星条旗」には神亀を付け合せたが、これだけの作品に合わせるとなると本当にチョイスに困る。
ここは日本酒の最高峰の一つである、「十四代 純米大吟醸 藩州山田錦」を合わせよう。
優しく芳醇な吟醸香が立ち上り、コク、キレ、喉ごしのバランスが絶妙。
四世紀に及ぶ歴史を持つ、蔵元の技術の結晶だ。
この映画を観ることの出来る映画ファンが幸せである様に、この酒を飲むことが出来る飲兵衛もまた幸せである。
記事の続き「硫黄島からの手紙 / アメリカの目線」はこちら。

記事が気に入ったらクリックしてね

こちらもクリック!

も一回お願い!



2006年12月07日 (木) | 編集 |
ジェームス・ボンド・ザ・ビギニング。
もともとこの「カジノ・ロワイヤル」のリメイクを提案したのは、タランティーノだったという。
故イアン・フレミングの残したボンド原作は既にすべて映画化されていたが、唯一この「カジノ・ロワイヤル」だけは、67年にデヴィッド・ニーヴンがジェームス・ボンドを演じたパロディ映画として作られただけで、本家のイオンプロ製作007シリーズでは手付かずのままだった。
タランティーノ脚本監督での映画化は頓挫したが、その後ニール・パーヴィスとロバート・ウェイドのレギュラー脚本陣に、ポール・ハギスが加わる形で脚本が完成。
監督には「ゴールデンアイ」以来11年ぶりにマーティン・キャンベルがカムバックした。
しかし、この作品の最大の話題は、ダニエル・クレイグが本家007シリーズとしては6代目となる新ボンドを襲名した事だろう。
シリーズ初の金髪のボンド、そして初代ショーン・コネリー以来の30代の若さ溢れるボンドである。
大幅に若返ったボンドにあわせて、この作品は彼が007になる前、そして007としての最初のミッションを描く、「誕生編」となっている。
MI6の若き情報部員ジェームス・ボンド(ダニエル・クレイグ)は、ダブルオーエージェントへの試験でもある最初の暗殺任務を完了。
しかし昇格後の任務でいきなり外国の大使館を爆破、丸腰のテロリストを射殺、しかもその顛末がメディアに報道されたことで上司M(ジュディ・ディンチ)を激怒させてしまう。
Mの怒りをよそに、射殺したテロリストから手がかりを得ていたボンドは、一人バハマに飛び、テロリストから資金を預かり、その金を運用することで莫大な利益を得ている投資家のル・シッフル(マッツ・ミケルセン)がいることを突き止める。
ル・シッフルが、ベンチャー航空機メーカーの新型機を爆弾テロで破壊し、株の売り抜けを狙っている事を知ったボンドは、間一髪で爆破テロを阻止する。
ボンドの活躍で巨額の負債を抱え込んだル・シッフルは世界中の富豪が集まるカジノ大会、「カジノ・ロワイヤル」で一攫千金を狙う。
テロリスト資金の遮断を狙うMI6は、組織一のギャンブラーであるジェームス・ボンドを、監視役の財務省エージェント、ヴェスパー(エヴァ・グリーン)と共に、対戦相手としてカジノ・ロワイヤルに送り込むが・・・・
今回で007は一回仕切りなおし、これが旧シリーズと新シリーズの橋渡しの役目をする作品だという事を、強く感じさせる作りになっている。
ぐっと若返った新ボンドを生かすように、今回はシリーズでおなじみのハイテクスパイグッズの類がほとんど登場しない。
唯一、新旧のボンドを象徴するかのように、初代ボンドカーのアストンマーチンDB5と最新型のアストンマーチンDBSが44年の時を経て共演を果たしている程度だ。
しかしその分、肉体のアクションはすごい。
特に前半の、爆弾テロリストとの建設中のビルを舞台にした3D追いかけっこは圧巻、というかボンドもテロリストも身体能力高すぎ(笑
垂直の壁をポンポン飛び跳ねるわ、目もくらむようなクレーン上で全力疾走するわ、ほとんど実写版「未来少年コナン」(古いか)の様なぶっ飛んだアクションに目が離せない。
航空機テロを阻止するための「インディ・ジョーンズ」ばりのトラックアクションも、このシリーズが元祖連続活劇だという事を思い起こさせてくれる。
40~50代のオジサマ達が、漫画チックなハイテク兵器のギミックに頼ったアクションを展開していた旧シリーズとははっきりと一線を画している。
後半のカジノ・ロワイヤルのシーンになると、アクションよりル・シッフルとの知的な騙し合いがメインとなるが、こういう心理戦も最近の007ではほとんど無かった展開だが、ダニエル・グレイグとマッツ・ミケルセンの好演もあって、なかなかスリリング。
偶然だが、ボンドが毒を盛られる設定など、最近のロシア元スパイ毒殺事件を連想させて、妙にリアルに感じられる。
このカジノ・ロワイヤルのシークエンスは、カードゲームの基礎知識を持っているとさらに楽しめるだろう。
そして、決定直後はいろいろと議論を呼んだ6代目ダニエル・クレイグ。
結果的にこのキャスティングは大成功ではないだろうか。
三代目ロジャー・ムーアから五代目ピアーズ・ブロスナンまでに確立したボンド像よりは、どちらかというと野性味たっぷりの初代ショーン・コネリーに近い新ボンドは、若さゆえの暴走や失敗もまた人間的で、長い年月の間に完成されすぎたジェームス・ボンドをいい意味で壊している。
最初のうちは、今までのボンドのイメージが強すぎて、少し違和感を感じたが、ものの10分でまったく気にならなくなる。
私はショーン・コネリーのイメージと共に、若いころのスティーブ・マックイーンの面影も新ボンドに感じたのだが、いずれにせよ荒々しく、攻撃的なボンドは魅力的だ。
新しさが目立つ本作だが、第一作「ドクター・ノオ」からの44年間・21作に及ぶ遺産も決して忘れてはいない。
前記した二台のアストンもその一つだが、シリーズの名物に成りつつあったジュディ・ディンチのMの続投、CIAエージェントのフェリックス・レイターの再登場など、シリーズファンの喜びそうな要素もしっかりと残している。
そして、ボンドのトレードマークとも言える、特性マティーニ誕生の秘密。
古いものを生かしつつ、シリーズの原点を見つめて、21世紀の現在に新鮮なイメージで再生するという本作のコンセプトは成功していると言ってよいだろう。
惜しむらくは、マーティン・キャンベルの演出がやや一本調子で、メリハリに乏しいこと、そして一度本筋が終わった後に、どんでん返しの物語が続く構造なのだが、この最後にいたる過程がやや冗長な点だ。
一度緊張が途切れるだけに、もう少し畳み掛けるようなテンポが欲しかった。
「カジノ・ロワイヤル」は新生ボンドに相応しい、新しい息吹を感じさせるスパイアクションの快作だ。
この路線が定着するのか、それとも質的にもこれ一発の復活に終わってしまうのか、すべては2008年に公開予定の次回作にかかっていると言って良いだろう。
ここまで旧シリーズの遺産をしっかりと生かして、新生ボンドを作り上げたのだから、そろそろ宿敵スペクターも復活させてくれないだろうか。
久々に、ボンド映画の公開が楽しみになった。
さて、今回はもう決まっている。
私ではなくてボンド様よりのご指定で、本作でそのルーツが明かされたヴェスパー・マティーニを。
レシピはゴードン・ジン3、ウォッカ1、キナ・リレ1/2でシェイクし、薄切りのレモンピールを加える。
もちろん、ステアしてはいけない。
ちなみに本作の公開以来、フランスにあるキナ・リレの蔵元には世界中から注文が殺到し、うれしい悲鳴を上げているという。
記事が気に入ったらクリックしてね

こちらもクリック!

も一回お願い!
もともとこの「カジノ・ロワイヤル」のリメイクを提案したのは、タランティーノだったという。
故イアン・フレミングの残したボンド原作は既にすべて映画化されていたが、唯一この「カジノ・ロワイヤル」だけは、67年にデヴィッド・ニーヴンがジェームス・ボンドを演じたパロディ映画として作られただけで、本家のイオンプロ製作007シリーズでは手付かずのままだった。
タランティーノ脚本監督での映画化は頓挫したが、その後ニール・パーヴィスとロバート・ウェイドのレギュラー脚本陣に、ポール・ハギスが加わる形で脚本が完成。
監督には「ゴールデンアイ」以来11年ぶりにマーティン・キャンベルがカムバックした。
しかし、この作品の最大の話題は、ダニエル・クレイグが本家007シリーズとしては6代目となる新ボンドを襲名した事だろう。
シリーズ初の金髪のボンド、そして初代ショーン・コネリー以来の30代の若さ溢れるボンドである。
大幅に若返ったボンドにあわせて、この作品は彼が007になる前、そして007としての最初のミッションを描く、「誕生編」となっている。
MI6の若き情報部員ジェームス・ボンド(ダニエル・クレイグ)は、ダブルオーエージェントへの試験でもある最初の暗殺任務を完了。
しかし昇格後の任務でいきなり外国の大使館を爆破、丸腰のテロリストを射殺、しかもその顛末がメディアに報道されたことで上司M(ジュディ・ディンチ)を激怒させてしまう。
Mの怒りをよそに、射殺したテロリストから手がかりを得ていたボンドは、一人バハマに飛び、テロリストから資金を預かり、その金を運用することで莫大な利益を得ている投資家のル・シッフル(マッツ・ミケルセン)がいることを突き止める。
ル・シッフルが、ベンチャー航空機メーカーの新型機を爆弾テロで破壊し、株の売り抜けを狙っている事を知ったボンドは、間一髪で爆破テロを阻止する。
ボンドの活躍で巨額の負債を抱え込んだル・シッフルは世界中の富豪が集まるカジノ大会、「カジノ・ロワイヤル」で一攫千金を狙う。
テロリスト資金の遮断を狙うMI6は、組織一のギャンブラーであるジェームス・ボンドを、監視役の財務省エージェント、ヴェスパー(エヴァ・グリーン)と共に、対戦相手としてカジノ・ロワイヤルに送り込むが・・・・
今回で007は一回仕切りなおし、これが旧シリーズと新シリーズの橋渡しの役目をする作品だという事を、強く感じさせる作りになっている。
ぐっと若返った新ボンドを生かすように、今回はシリーズでおなじみのハイテクスパイグッズの類がほとんど登場しない。
唯一、新旧のボンドを象徴するかのように、初代ボンドカーのアストンマーチンDB5と最新型のアストンマーチンDBSが44年の時を経て共演を果たしている程度だ。
しかしその分、肉体のアクションはすごい。
特に前半の、爆弾テロリストとの建設中のビルを舞台にした3D追いかけっこは圧巻、というかボンドもテロリストも身体能力高すぎ(笑
垂直の壁をポンポン飛び跳ねるわ、目もくらむようなクレーン上で全力疾走するわ、ほとんど実写版「未来少年コナン」(古いか)の様なぶっ飛んだアクションに目が離せない。
航空機テロを阻止するための「インディ・ジョーンズ」ばりのトラックアクションも、このシリーズが元祖連続活劇だという事を思い起こさせてくれる。
40~50代のオジサマ達が、漫画チックなハイテク兵器のギミックに頼ったアクションを展開していた旧シリーズとははっきりと一線を画している。
後半のカジノ・ロワイヤルのシーンになると、アクションよりル・シッフルとの知的な騙し合いがメインとなるが、こういう心理戦も最近の007ではほとんど無かった展開だが、ダニエル・グレイグとマッツ・ミケルセンの好演もあって、なかなかスリリング。
偶然だが、ボンドが毒を盛られる設定など、最近のロシア元スパイ毒殺事件を連想させて、妙にリアルに感じられる。
このカジノ・ロワイヤルのシークエンスは、カードゲームの基礎知識を持っているとさらに楽しめるだろう。
そして、決定直後はいろいろと議論を呼んだ6代目ダニエル・クレイグ。
結果的にこのキャスティングは大成功ではないだろうか。
三代目ロジャー・ムーアから五代目ピアーズ・ブロスナンまでに確立したボンド像よりは、どちらかというと野性味たっぷりの初代ショーン・コネリーに近い新ボンドは、若さゆえの暴走や失敗もまた人間的で、長い年月の間に完成されすぎたジェームス・ボンドをいい意味で壊している。
最初のうちは、今までのボンドのイメージが強すぎて、少し違和感を感じたが、ものの10分でまったく気にならなくなる。
私はショーン・コネリーのイメージと共に、若いころのスティーブ・マックイーンの面影も新ボンドに感じたのだが、いずれにせよ荒々しく、攻撃的なボンドは魅力的だ。
新しさが目立つ本作だが、第一作「ドクター・ノオ」からの44年間・21作に及ぶ遺産も決して忘れてはいない。
前記した二台のアストンもその一つだが、シリーズの名物に成りつつあったジュディ・ディンチのMの続投、CIAエージェントのフェリックス・レイターの再登場など、シリーズファンの喜びそうな要素もしっかりと残している。
そして、ボンドのトレードマークとも言える、特性マティーニ誕生の秘密。
古いものを生かしつつ、シリーズの原点を見つめて、21世紀の現在に新鮮なイメージで再生するという本作のコンセプトは成功していると言ってよいだろう。
惜しむらくは、マーティン・キャンベルの演出がやや一本調子で、メリハリに乏しいこと、そして一度本筋が終わった後に、どんでん返しの物語が続く構造なのだが、この最後にいたる過程がやや冗長な点だ。
一度緊張が途切れるだけに、もう少し畳み掛けるようなテンポが欲しかった。
「カジノ・ロワイヤル」は新生ボンドに相応しい、新しい息吹を感じさせるスパイアクションの快作だ。
この路線が定着するのか、それとも質的にもこれ一発の復活に終わってしまうのか、すべては2008年に公開予定の次回作にかかっていると言って良いだろう。
ここまで旧シリーズの遺産をしっかりと生かして、新生ボンドを作り上げたのだから、そろそろ宿敵スペクターも復活させてくれないだろうか。
久々に、ボンド映画の公開が楽しみになった。
さて、今回はもう決まっている。
私ではなくてボンド様よりのご指定で、本作でそのルーツが明かされたヴェスパー・マティーニを。
レシピはゴードン・ジン3、ウォッカ1、キナ・リレ1/2でシェイクし、薄切りのレモンピールを加える。
もちろん、ステアしてはいけない。
ちなみに本作の公開以来、フランスにあるキナ・リレの蔵元には世界中から注文が殺到し、うれしい悲鳴を上げているという。

記事が気に入ったらクリックしてね

こちらもクリック!

も一回お願い!


2006年12月03日 (日) | 編集 |
木村拓哉、毒にあたって苦しんでても、高熱にうなされてても・・ええ男やなあ・・・。
私も風邪をひいて、一週間以上体調が最悪。
キムタクじゃないので、もう人前に出ることすら出来ないボロボロの状態だ。
映画を観る気力も無かったのだが、ようやくある程度回復してきたので、ずっと期待していたこの作品をチョイスした。
山田洋次による、藤沢周平原作の時代小説の映画化第三弾。
タイトルの「武士の一分」の一分とは、つまり「面目」の事。
盲目の剣士が、命を賭しても守らねばならないと考えた一分とは、はたして何だったのか。
奥州・海坂藩の三十石の下級武士、三村新之丞(木村拓哉)は、妻の加世(壇れい)と慎ましくも幸せな日々を送っていた。
新之丞は藩主の毒見役という御役目が嫌で、早めの隠居を考えていた。
剣の腕には覚えがあり、自宅で小さな道場を開こうと考えていたのだ。
そんな小さな夢を加世に打ち明けた矢先、新之丞は御役目で季節外れの貝の毒に当たり、生死の境を彷徨う事に。
ようやく一命を取り留めたが、新之丞の目は二度と光を見る事が出来なくなっていた。
自暴自棄になる新之丞を、この世に繋ぎとめたのは、加世の深い愛だった。
やがて落ち着きを取り戻し、目が見えなくても一日一日をしっかりと生きていこうと考える新之丞だったが、生活は次第に立ち行かなくなる。
しかし、かねてから美しい加世に邪な思いを寄せていた番頭の島田(坂東三津五郎)が、三村家の窮状に付け込んで、密かに加世をわがものにしようと狙っていた・・・・
慎ましい夫婦の愛を、静かに描いた秀作である。
物語の大半は、新之丞と妻・加世の日常の描写に費やされる。
特に新之丞が毒にあたって失明してからの物語は、三村家の中間・徳平とのコミカルなやり取りを別とすれば、新之丞の元同僚や親戚がたまにやってきては、物語を展開するきっかけを与える以外、ほぼ夫婦二人だけの描写が続く。
この日常の描写がすごい。
美術や演技の細やかさは言うまでも無いが、雷鳴、風の音、季節ごとの虫の声、蛍や蝶といった庭の生き物といった自然のディテールが、これでもかと言うくらいに徹底的に描写され、画面に生命を与えている。
小さな家と庭だけでも、時の流れと季節があり、盲目の主人公もまた、それを一部で感じながら、妻と二人の生活を送る。
変わらない様に見える日常も、実は毎日が少しずつ違い、夫婦の心もまた変わる。
その微妙な変化を巧みに表現しているからこそ、この作品の「日常」は観る者にとって、決して飽きる事無く流れて行く。
映画の中で象徴的に使われているのが、何度も出てくる食事のシーンだ。
勿論これは新之丞が毒見役であり、食事によって人生が大きく変わった事とかけてあるのだが、家で彼がとる食事のシーンに、主人公夫婦の心情がしっかりと描かれている。
一汁一菜のシンプルな食事。
しかし、その中でも幸せな食事、絶望の縁の食事、再び希望を取り戻した食事など、様々な意味があり、小説で言えば「章」の様な役割で、物語の節々に用意されている。
そして、この夫婦のささやかな日常が、卑劣な上司の謀によって破壊されると、一転して新之丞の「武士の一分」即ち侍としての誇りと、加世への愛を賭けた、戦いの物語となってゆく。
それまで淡々とした日常の描写が続いていたが故に、クライマックスの果し合いのシーンは、突如として異質の緊張感に包まれる。
片方が盲目の斬り合いというと、どうしても「座頭市」を連想してしまうが、漫画チックなあちらと違って、こちらはあくまでもリアリズム重視。
山田洋次は過去の藤沢周平物でも、クライマックスに時代劇ならではの見事な殺陣の見せ場を作ってきたが、この作品の物も中々の仕上がり。
盲目という圧倒的不利を抱えた新之丞の戦いに、観客は目が離せない。
山田洋次の演出は、ファーストカットからラストカットまで、画面の真ん中から四つの隅々まで、全く隙無く行き届いており、殆んどアニメーション演出並の計算を感じさせつつも、エモーショナルな躍動を忘れない。
観客は、円熟という言葉の意味を、この作品から感じ取るだろう。
主人公の三村新之丞を演じる木村拓哉が実に良い。
彼はデ・ニーロの様にカメレオン的に役に成りきるタイプではないが、三船敏郎やジョン・ウェインの様に役を自分の方へ引き寄せる力を持った本物のスター俳優だ。
もっともカリフォルニア訛りのモンゴル人を平然と演じたジョン・ウェインほどには、自らのスター性に頼る事も無く、実際今回の三村新之丞役においても、かなり細やかな役作りを行っている。
ただ、方言を使って、みすぼらしい姿をして、江戸時代の盲目の侍・三村新之丞をリアルに作り上げても、そこ写っているのが他ならぬ「木村拓哉」であることが画面にオーラを加えているのだ。
そして、新之丞と深い愛で結ばれた加世を演じる壇れいがまた良い。
宝塚出身で、映画はこれがデビュー作だそうだが、しっとりとした情感を感じさせる佇まいといい、極めて高いレベルの演技力といい、これほどの演技者がいままで映画に出ていなかったのが不思議なくらいだ。
宝塚というのは、本当に才能の宝庫なんだなあと今更ながら感心した。
「武士の一分」は非常に丁寧に作られた秀作だが、例えば同じ山田洋次の藤沢物「たそがれ清兵衛」あたりと比べると、映画的なスケール感では多少物足りなさも感じる。
あの作品では、幕末の心優しき侍という主人公を通して、侍の存在その物のたそがれ時を表現するという時代性で作品世界に物語的な広がりをもたせ、更に奥州という土地柄を生かした雄大なロケーションでビジュアル的な広がりをも持たせていた。
その点、この作品では一つ一つのシーンは実に細かく作りこまれているものの、物語は感情的にはあくまでも新之丞と加世の心の葛藤以外には広がらず、また舞台の大半は新之丞の家の中で展開してしまい、自然の風景も殆んど出てこないので、極めて完成度は高いものの、やや箱庭的な印象になってしまう。
もっとも、それはあくまでも「比較すれば」という話であって、「たそがれ~」とは内容もテーマも違うこの作品に対しては、無い物ねだりのような欲求かもしれない。
「武士の一分は間違いなく、現在日本映画でもっともクオリティの高い仕事を観ることの出来る作品であり、観終わった観客は「良い物を観た」という深い満足感に包まれて劇場を後にするだろう。
今回は、藤沢周平の故郷であり、時代劇三部作の舞台のモデルでもある山形県は庄内の地酒「くどき上手」の大吟醸を。
華やかさを保ちつつも、すっきりとした爽やかな飲み口は、なるほど知らぬ間に酔わされていそうな酒だ。
キムタクのような美男子に生まれなかった身としては、せめてくどき上手にはなりたいものである。
記事が気に入ったらクリックしてね

こちらもクリック!

も一回お願い!

私も風邪をひいて、一週間以上体調が最悪。
キムタクじゃないので、もう人前に出ることすら出来ないボロボロの状態だ。
映画を観る気力も無かったのだが、ようやくある程度回復してきたので、ずっと期待していたこの作品をチョイスした。
山田洋次による、藤沢周平原作の時代小説の映画化第三弾。
タイトルの「武士の一分」の一分とは、つまり「面目」の事。
盲目の剣士が、命を賭しても守らねばならないと考えた一分とは、はたして何だったのか。
奥州・海坂藩の三十石の下級武士、三村新之丞(木村拓哉)は、妻の加世(壇れい)と慎ましくも幸せな日々を送っていた。
新之丞は藩主の毒見役という御役目が嫌で、早めの隠居を考えていた。
剣の腕には覚えがあり、自宅で小さな道場を開こうと考えていたのだ。
そんな小さな夢を加世に打ち明けた矢先、新之丞は御役目で季節外れの貝の毒に当たり、生死の境を彷徨う事に。
ようやく一命を取り留めたが、新之丞の目は二度と光を見る事が出来なくなっていた。
自暴自棄になる新之丞を、この世に繋ぎとめたのは、加世の深い愛だった。
やがて落ち着きを取り戻し、目が見えなくても一日一日をしっかりと生きていこうと考える新之丞だったが、生活は次第に立ち行かなくなる。
しかし、かねてから美しい加世に邪な思いを寄せていた番頭の島田(坂東三津五郎)が、三村家の窮状に付け込んで、密かに加世をわがものにしようと狙っていた・・・・
慎ましい夫婦の愛を、静かに描いた秀作である。
物語の大半は、新之丞と妻・加世の日常の描写に費やされる。
特に新之丞が毒にあたって失明してからの物語は、三村家の中間・徳平とのコミカルなやり取りを別とすれば、新之丞の元同僚や親戚がたまにやってきては、物語を展開するきっかけを与える以外、ほぼ夫婦二人だけの描写が続く。
この日常の描写がすごい。
美術や演技の細やかさは言うまでも無いが、雷鳴、風の音、季節ごとの虫の声、蛍や蝶といった庭の生き物といった自然のディテールが、これでもかと言うくらいに徹底的に描写され、画面に生命を与えている。
小さな家と庭だけでも、時の流れと季節があり、盲目の主人公もまた、それを一部で感じながら、妻と二人の生活を送る。
変わらない様に見える日常も、実は毎日が少しずつ違い、夫婦の心もまた変わる。
その微妙な変化を巧みに表現しているからこそ、この作品の「日常」は観る者にとって、決して飽きる事無く流れて行く。
映画の中で象徴的に使われているのが、何度も出てくる食事のシーンだ。
勿論これは新之丞が毒見役であり、食事によって人生が大きく変わった事とかけてあるのだが、家で彼がとる食事のシーンに、主人公夫婦の心情がしっかりと描かれている。
一汁一菜のシンプルな食事。
しかし、その中でも幸せな食事、絶望の縁の食事、再び希望を取り戻した食事など、様々な意味があり、小説で言えば「章」の様な役割で、物語の節々に用意されている。
そして、この夫婦のささやかな日常が、卑劣な上司の謀によって破壊されると、一転して新之丞の「武士の一分」即ち侍としての誇りと、加世への愛を賭けた、戦いの物語となってゆく。
それまで淡々とした日常の描写が続いていたが故に、クライマックスの果し合いのシーンは、突如として異質の緊張感に包まれる。
片方が盲目の斬り合いというと、どうしても「座頭市」を連想してしまうが、漫画チックなあちらと違って、こちらはあくまでもリアリズム重視。
山田洋次は過去の藤沢周平物でも、クライマックスに時代劇ならではの見事な殺陣の見せ場を作ってきたが、この作品の物も中々の仕上がり。
盲目という圧倒的不利を抱えた新之丞の戦いに、観客は目が離せない。
山田洋次の演出は、ファーストカットからラストカットまで、画面の真ん中から四つの隅々まで、全く隙無く行き届いており、殆んどアニメーション演出並の計算を感じさせつつも、エモーショナルな躍動を忘れない。
観客は、円熟という言葉の意味を、この作品から感じ取るだろう。
主人公の三村新之丞を演じる木村拓哉が実に良い。
彼はデ・ニーロの様にカメレオン的に役に成りきるタイプではないが、三船敏郎やジョン・ウェインの様に役を自分の方へ引き寄せる力を持った本物のスター俳優だ。
もっともカリフォルニア訛りのモンゴル人を平然と演じたジョン・ウェインほどには、自らのスター性に頼る事も無く、実際今回の三村新之丞役においても、かなり細やかな役作りを行っている。
ただ、方言を使って、みすぼらしい姿をして、江戸時代の盲目の侍・三村新之丞をリアルに作り上げても、そこ写っているのが他ならぬ「木村拓哉」であることが画面にオーラを加えているのだ。
そして、新之丞と深い愛で結ばれた加世を演じる壇れいがまた良い。
宝塚出身で、映画はこれがデビュー作だそうだが、しっとりとした情感を感じさせる佇まいといい、極めて高いレベルの演技力といい、これほどの演技者がいままで映画に出ていなかったのが不思議なくらいだ。
宝塚というのは、本当に才能の宝庫なんだなあと今更ながら感心した。
「武士の一分」は非常に丁寧に作られた秀作だが、例えば同じ山田洋次の藤沢物「たそがれ清兵衛」あたりと比べると、映画的なスケール感では多少物足りなさも感じる。
あの作品では、幕末の心優しき侍という主人公を通して、侍の存在その物のたそがれ時を表現するという時代性で作品世界に物語的な広がりをもたせ、更に奥州という土地柄を生かした雄大なロケーションでビジュアル的な広がりをも持たせていた。
その点、この作品では一つ一つのシーンは実に細かく作りこまれているものの、物語は感情的にはあくまでも新之丞と加世の心の葛藤以外には広がらず、また舞台の大半は新之丞の家の中で展開してしまい、自然の風景も殆んど出てこないので、極めて完成度は高いものの、やや箱庭的な印象になってしまう。
もっとも、それはあくまでも「比較すれば」という話であって、「たそがれ~」とは内容もテーマも違うこの作品に対しては、無い物ねだりのような欲求かもしれない。
「武士の一分は間違いなく、現在日本映画でもっともクオリティの高い仕事を観ることの出来る作品であり、観終わった観客は「良い物を観た」という深い満足感に包まれて劇場を後にするだろう。
今回は、藤沢周平の故郷であり、時代劇三部作の舞台のモデルでもある山形県は庄内の地酒「くどき上手」の大吟醸を。
華やかさを保ちつつも、すっきりとした爽やかな飲み口は、なるほど知らぬ間に酔わされていそうな酒だ。
キムタクのような美男子に生まれなかった身としては、せめてくどき上手にはなりたいものである。

記事が気に入ったらクリックしてね

こちらもクリック!

も一回お願い!

| ホーム |