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硫黄島からの手紙・・・・・評価額1800円
2006年12月11日 (月) | 編集 |
「父親たちの星条旗」 に続く、「硫黄島二部作」の第二弾。
太平洋の小さな孤島を巡る戦いを、アメリカ側の視点、日本側の視点でそれぞれ一本づつの映画にするという、クリント・イーストウッド監督壮大な実験映画だ。
第一部の「父親たち~」は、単体でも優れた映画として完結はしていたが、ところどころ第二部と組み合わせるための「相欠き」のような部分があり、イーストウッドが二本を合わせて一本の映画として機能させようとしている意図は明らかだった。
はたして、この極めてユニークな試みを通して浮かび上がってきた物とはなんだったのだろうか。

現在の硫黄島で、洞窟の地下から数百通もの手紙が発見された。
60年前の戦場からの手紙。
それは現在に一体何を伝えるのか。

昭和十九年六月。
硫黄島に新任の司令官栗林忠道(渡辺謙)が降り立った。
アメリカ駐在武官の経験があり、誰よりも欧米を知る栗林は、それまで軍が想定していた米軍の上陸を水際で阻止する作戦を破棄。
島全体に網の目のような地価要塞を構築し、上陸した米軍を地下から攻撃する作戦を立てる。
島の防衛戦としては前代未聞の栗林の作戦は、軍内部にも反対の者が多かったが、一方でロサンゼルス五輪の馬術競技ゴールドメダリスト、バロン西(伊原剛志)ら、理解者もいた。
海岸の塹壕掘りから、岩山の洞窟堀へ、兵士達が一心不乱に働いた。
妻と生まれたばかりの娘を残して、一兵卒として硫黄島へ出征していたパン屋の西郷(二宮和也)は、栗林によって上官の理不尽な暴力から救われる。
以来、栗林と二宮は不思議な縁で結ばれる事になる。
昭和二十年二月、ついに圧倒的な数の米軍が島に押し寄せた。
栗林以下二万一千の日本兵達は一ヶ月を超える絶望的な戦いに身を投じてゆく・・・


「父親たちの星条旗」では、硫黄島の戦いと銃後のアメリカを通して、戦争と国家、個人の関係を描いたイーストウッド。
第二弾となる「硫黄島からの手紙」で、アメリカ人である彼が描き出したのは、「私たちは一体誰と戦ったのか?」という一点につきる。
戦場で戦う相手は、勿論「敵(ENEMY)」である。
しかし、映画はこの極端に単純化された単語の裏に、何千、何万という生身の人間がいる事を赤裸々に描き出す。
登場する日本軍のキャラクターが将軍から兵卒、主戦論者から反戦論者までバラエティに富んでいるのも、敵という言葉によって掻き消されてしまった個人を強調したかったからだろう。
映画は2時間20分の間、硫黄島で戦った人間としての日本人を徹底的に描写する。
この映画はアメリカ人にとっては、記号化された敵を人間として再認識する作品となり、日本人にとっては、結果的に当時の日本人像を極めてニュートラルな立場から丁寧に描いた稀有な「日本映画」となっている。
「父親たちの星条旗」の受け取り方が当然日米で違うように、「硫黄島からの手紙」もまた、日米では異なった受け取り方をされるだろう。

観るものの立場によって、映画の観方は変わる。
しかし、この二本の映画が一つに合わさった時、映画史上例の無い化学反応が起こる。
異なる見方を組み合わせることによって、この戦いの当事者であるアメリカ人、日本人、そしてそれ以外の全ての国の観客たちに、一つのシンプルなメッセージが送られる。
それは60年前の硫黄島にいたのは、日本人であり、アメリカ人であり、一人一人心を持った人間であったという事。
そして、戦争とはどんな理屈をつけても、結局は同じ人間と人間の殺し合いである事。
この当たり前の事実を、これほどまでの説得力を持って、実感させた映画は過去に存在しなかったと言って良いと思う。
戦争の遂行とは人間から人間性を奪い、単純に記号化する事であり、過去に作られたあらゆる戦争映画も、どこかで人間の記号化という部分から逃れることが出来なかった。
しかしイーストウッドは、硫黄島の戦いを大胆に視点とアプローチを変えた二部作とする事で、初めて記号化の呪縛から脱出している。
敵、鬼畜米英、悪魔、イエローモンキーetc.、為政者はあらゆる言葉を使って、そこにいる人間を記号化する。
事の真理を誰よりも知っているのは、あの時、あの島にいた日米数万の兵士達。
「硫黄島を忘れるな」
硫黄島二部作は、静かに、しかし重く語りかける。
これは、島に眠る数万の戦没者へのレクイエムであると同時に、無念の死を遂げた彼らから、今なお戦いつづける人類への、本質的なメッセージである。

脚本を担当したのは日系の若手ライター、アイリス・ヤマシタ
ストーリーには「父親たちの星条旗」からポール・ハギスが加わっているが、基本的に「硫黄島からの手紙」の方は、ほぼヤマシタの手による物の様だ。
日系人であり、比較的リサーチしやすい題材だろうが、ライターにとっては実質的な外国映画をここまで細やかに描き切ったのは賞賛に値すると思う。
彼女にオフィスには、一体どれだけの資料が積み上げられたのだろうか。

アイリス・ヤマシタによって、紙の上で人格を与えられた60年前の日本人たちに、今度はイーストウッドと俳優たちが魂を吹き込む。
日本語の台詞の翻訳には、日本人キャストたちも積極的に参加したらしく、そのため本作の日本語台詞は外国映画であることを全く意識させない自然な物だ。
物語の中心にいるのは、硫黄島の指揮官である栗林中将と、一兵卒である西郷の二人。
全く逆の立場にいる二人の日本人を、渡辺謙二宮和也が好演する。
二人の主役はともに合理主義者であり、現代的な思考の持ち主だ。
物語は彼ら二人を軸に、様々なキャラクターが交錯する群像劇として進む。
これは今現在から過去を観る作品のアプローチとして正しい。
だがこの映画が凄いのは、台詞のあるほとんどすべてのキャラクターに明確な個性と人間性を与え、印象に残らないキャラクターがただの一人もいないという事だ。
全てのキャラクターに血が通っている。
イーストウッドが、いかにこの作品で人間を描く事に執着したかがここで判る。
もっとも、それは同時に、技術論的にはこの作品の欠点ともなっているのだが。

「父親たちの星条旗」にしろ「硫黄島からの手紙」にしろ、技術論の観点から欠点を指摘するのは簡単な事だ。
しかし、この二部作は、一世紀を超える映画の歴史の中で、誰もやっていない事にチャレンジし、大きな成果を上げている。
少なくとも「戦争」というもののミクロとマクロを同時に描き、本質を浮かび上がらせたという点で、硫黄島二部作の前に「戦争映画」は無かったとも言えるし、これ以降作られるシリアスな戦争映画は、このニ作の影響から逃れることは出来ないだろう。
映画ファンにとって、クリント・イーストウッド監督による二本の映画を2006年の今現在、映画館で同時に観られるのはとても幸運な事だ。
映画史のエポックを、リアルタイムで体験できるのだから。
我々は、100年残る映画を目撃したのだ。

さて、「父親たちの星条旗」には神亀を付け合せたが、これだけの作品に合わせるとなると本当にチョイスに困る。
ここは日本酒の最高峰の一つである、「十四代 純米大吟醸 藩州山田錦」を合わせよう。
優しく芳醇な吟醸香が立ち上り、コク、キレ、喉ごしのバランスが絶妙。
四世紀に及ぶ歴史を持つ、蔵元の技術の結晶だ。
この映画を観ることの出来る映画ファンが幸せである様に、この酒を飲むことが出来る飲兵衛もまた幸せである。

記事の続き「硫黄島からの手紙 / アメリカの目線」はこちら。

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