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2007年01月31日 (水) | 編集 |
アア、ヤッチマッタァ・・・・・
実の父の賭けた呪いのため、生れながらに体の四十八ヶ所を魔物に奪われた剣士・百鬼丸の冒険を描いた「どろろ」は、手塚治虫の代表作の一つだ。
原作発表後間もない1969年に、杉井ギザブロー、富野由悠季らによってテレビアニメ化されているが、その後も多くの映画人によって実写映画化が試みられた。
しかし、全身が武器であるサイボーグ剣士・百鬼丸の表現方法、様々な形の魔物たちの実体化など技術的な困難、また見方によっては身体障害者への差別的表現ともとられる内容のためことごとく頓挫、近年では殆んど幻の企画となっていた。
正直に言って、映画化されると聞いた時は驚き、「ああ、やられちまったか」と思った。
私はかなりの原作のファンであり、以前「どろろ」をモチーフにした物語を作り、実現はしなかったが、映像化の企画書を作った事もある。
それだけに今回の映画化はちょっと悔し気はしたが、かなり期待したのだ。
海外でも「LOTR」を始め、以前は幻といわれた原作の映画化が相次いでいるが、今回の実写映画化も、90年代以降の急激な技術的進歩と無関係ではないだろう。
あの手塚の狂気とも言うべきダークファンタジーが、現在のデジタル技術と結びついたら、どんな凄い物ができるだろうか。
期待するなという方が無理だ。
しかし、しかしである・・・・この映画の作り手たちは、ものの見事に「ヤッチマッタ」のだ・・・・
大地の東の果ての国。
天下を我が手に握らんとする武将・醍醐影光(中井貴一)は、四十八匹の魔物に生まれてくる我が子を生贄に捧げる。
魔物たちは、影光の願いと引き換えに、赤子から体の四十八ヶ所を奪い、その子は目も耳も無い虫の様な姿で生まれ、人知れず河に流された。
―――二十年後。
泥棒を生業として生きるどろろ(柴咲コウ)は、両の腕に刀を仕込んだ剣士・百鬼丸(妻夫木聡)と出会う。
魔物退治をして旅するその男は、魔物を切るたびに奪われた体の一部を取り返すのだという。
百鬼丸の左手の刀を値打ち物と見込んだどろろは、百鬼丸に付きまとい、共に旅を始めるのだが・・・
塩田明彦は、映画化にあたり、二つの点で大きく原作を改変している。
一つ目は、物語の舞台を日本ではなく、何処でもない何時でもない異世界とした事で、この舞台設定が本作の成否に大きな影響を与えたのは確実である。
原作では正確な時代と場所の記述は無いものの、その舞台が中世の日本なのは確実で、そもそもなぜ映画が異世界を舞台にしたのかがよく判らない。
映画版の舞台となるのは、まるで日本と中央アジアあたりがミックスされたような世界で、まあやりたい事は和製「LOTR」なのだろう。
しかし、この映画の作り手は、異世界を説得力を持って作り上げる難しさを理解していない。
この映画の世界は、何かの方向性をもってデザインされたというよりは、単に思いついた要素を無秩序にぶちこんだようだ。
侍たちの鎧や着物のデザインなどは普通の時代劇と大して変わらない。
なのに城は無意味に複雑に天空に捩れて聳え立っており、宿場の繁華街では中央アジア風のステージが繰り広げられている。
軍隊の使っている刀は湾曲した日本刀なのに、軍旗に描かれている紋章は、西洋風の直刀に蛇が絡み付いている物である。
無国籍なのは、無秩序とは違う。
本当の無国籍には、様々な文化が交じり合ってゆく過程を透視できるものであるが、この作品の世界にはその様なものは見えない。
「LOTR」の素晴しい世界は、原作者のトールキンが研究者としての数十年間の知識の蓄積を元に、緻密な世界観を活字で描きこみ、それを映画化にあたって、アラン・リーを始めとするコンセプトアーティストが、世界の歴史観から建造物の内部構造までもを考慮して徹底的にデザインすることで生まれた。
残念ながら彼らの仕事に比べると、「どろろ」にはデザインが存在しないと言っても良い。
城は一体何故あの形でなければならないのか、衣装は何故あの衣装なのか。
以前にも何度か書いたと思うが、異世界を舞台としたファンタジー映画は、観客に「その世界に行ってみたい」と思わせたら半分勝ちである。
逆に言えば、説得力があり、尚且つ魅力的な異世界を作るのはそれだけ難しいのだ。
どのような理由で実写版「どろろ」の舞台が異世界に決まったのかは知らないが、異世界を作る事をナメた時点で、この映画はもう半分負けは決まっていたと言っていいだろう。
そしてデザイン不在は、一方の主役とも言うべき魔物たちにも当てはまる。
とにかく魔物たちのデザインがダサい。
キャラクター権の都合で原作のデザインをそのまま使いたくなかったのは理解するが、それに変わるデザインがこれで良いのか。
どう考えても、これは改悪である。
しかも、その描写がまた酷い。
両手を刀にした百鬼丸など、一部によく出来た物もあるが、とてもじゃないけどこの映画のVFXは現在の観客に許容されるレベルではない。
着ぐるみとCGをミックスしているが、質感はまるで異なり、コンポジットも甘い、甘すぎる。
この作品の一番の見せ場であるはずのVFXは、テレビの「仮面ライダー」に負けている。
これ、OK出した最終責任者は一体誰なんだろう。
VFXだけではない。
アクション監督に、香港の大御所チン・シウトンを連れてきたりしているが、殆んど生かされていない。
ワイヤーアクションは確かに香港風だが、カット割りがこれで良い訳がない。
編集を含めたアクションのレベルは80年代の香港B級アクション並。
これがもし、チン・シウトンの意向に沿ったものだったとしたら、はっきり言って手を抜かれてる。
もう一点、原作と映画で大きく異なるのが、タイトルロールのどろろの設定である。
原作のどろろは十歳くらいの男の子の格好をした少女だが、映画のどろろはどうみても小汚い格好をした大人の女である。
映画を観た限りでは、この点も特に必然性のある改変ではない様に見える。
恐らくマーケッティング的な理由なのだろうが、意外な事にこのどろろはマイナスにはなっていない。
年齢の違いはあれど、どろろの性格付け自体は原作を踏襲している事、柴咲コウが自分なりにキャラクターを作ってぶれずに演じきっているので、この映画版どろろは決して悪くない。
同じことは百鬼丸の妻夫木聡や中井貴一にも言える。
妻夫木聡は、確かに百鬼丸に見える瞬間が何度もあった。
俳優たちは、キャラクターを掴み、しっかりと演じているのだ。
異世界、魔物、アクションと様々な要素を持つこの作品を、塩田明彦は纏め切れていない。
正直いって、この映画からは原作への愛も感じられないし、どのような作品にしようというビジョンも見えない。
何しろ体の四十八ヶ所を奪われる意味すら表現されておらず、物語がテーマ性を失ってしまっているのだ。
ただ、比較的コンパクトに纏まった原作のプロットと主人公のキャラクターを、下手にいじろうとしなかったのだけは消極的ながら評価出来る。
優れた物語の骨格と、キャラクターは維持されているだけに、何とか物語の流れにのって最後まで観ることは辛うじて出来る。
塩田明彦の作品は、初期の「月光の囁き」や「害虫」はなかなか面白かったが、「黄泉がえり」のヒット以来、どうも畑違いの作品ばかり手がけている様に思えてならない。
人間描写がそれなりにしっかりしている事は、本作でも判るのだが。
日本漫画の金字塔「どろろ」の初の実写映画化は、残念ながらかなりトホホな仕上がりだった。
原作のポテンシャルはこんな物ではないだけに、今はただお客さんが早く忘れてくれることを祈るのみである。
将来の再映画化に禍根を残さないように。
今回はその名も「魔界への誘い」という凄い名前の黒麹芋焼酎をチョイス。
お味の方は名前とは全く逆で、意外とマイルドで上品。
とは言ってもクセになる芋臭さはしっかりと持っているのだが。
映画の物足りなさをフォローするには、十分なクオリティを持った酒だ。
それにしても、芋焼酎って魔王だの魔界だの、おどろおどろしい名前の物が多いのは何でなのだろう。
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原作発表後間もない1969年に、杉井ギザブロー、富野由悠季らによってテレビアニメ化されているが、その後も多くの映画人によって実写映画化が試みられた。
しかし、全身が武器であるサイボーグ剣士・百鬼丸の表現方法、様々な形の魔物たちの実体化など技術的な困難、また見方によっては身体障害者への差別的表現ともとられる内容のためことごとく頓挫、近年では殆んど幻の企画となっていた。
正直に言って、映画化されると聞いた時は驚き、「ああ、やられちまったか」と思った。
私はかなりの原作のファンであり、以前「どろろ」をモチーフにした物語を作り、実現はしなかったが、映像化の企画書を作った事もある。
それだけに今回の映画化はちょっと悔し気はしたが、かなり期待したのだ。
海外でも「LOTR」を始め、以前は幻といわれた原作の映画化が相次いでいるが、今回の実写映画化も、90年代以降の急激な技術的進歩と無関係ではないだろう。
あの手塚の狂気とも言うべきダークファンタジーが、現在のデジタル技術と結びついたら、どんな凄い物ができるだろうか。
期待するなという方が無理だ。
しかし、しかしである・・・・この映画の作り手たちは、ものの見事に「ヤッチマッタ」のだ・・・・
大地の東の果ての国。
天下を我が手に握らんとする武将・醍醐影光(中井貴一)は、四十八匹の魔物に生まれてくる我が子を生贄に捧げる。
魔物たちは、影光の願いと引き換えに、赤子から体の四十八ヶ所を奪い、その子は目も耳も無い虫の様な姿で生まれ、人知れず河に流された。
―――二十年後。
泥棒を生業として生きるどろろ(柴咲コウ)は、両の腕に刀を仕込んだ剣士・百鬼丸(妻夫木聡)と出会う。
魔物退治をして旅するその男は、魔物を切るたびに奪われた体の一部を取り返すのだという。
百鬼丸の左手の刀を値打ち物と見込んだどろろは、百鬼丸に付きまとい、共に旅を始めるのだが・・・
塩田明彦は、映画化にあたり、二つの点で大きく原作を改変している。
一つ目は、物語の舞台を日本ではなく、何処でもない何時でもない異世界とした事で、この舞台設定が本作の成否に大きな影響を与えたのは確実である。
原作では正確な時代と場所の記述は無いものの、その舞台が中世の日本なのは確実で、そもそもなぜ映画が異世界を舞台にしたのかがよく判らない。
映画版の舞台となるのは、まるで日本と中央アジアあたりがミックスされたような世界で、まあやりたい事は和製「LOTR」なのだろう。
しかし、この映画の作り手は、異世界を説得力を持って作り上げる難しさを理解していない。
この映画の世界は、何かの方向性をもってデザインされたというよりは、単に思いついた要素を無秩序にぶちこんだようだ。
侍たちの鎧や着物のデザインなどは普通の時代劇と大して変わらない。
なのに城は無意味に複雑に天空に捩れて聳え立っており、宿場の繁華街では中央アジア風のステージが繰り広げられている。
軍隊の使っている刀は湾曲した日本刀なのに、軍旗に描かれている紋章は、西洋風の直刀に蛇が絡み付いている物である。
無国籍なのは、無秩序とは違う。
本当の無国籍には、様々な文化が交じり合ってゆく過程を透視できるものであるが、この作品の世界にはその様なものは見えない。
「LOTR」の素晴しい世界は、原作者のトールキンが研究者としての数十年間の知識の蓄積を元に、緻密な世界観を活字で描きこみ、それを映画化にあたって、アラン・リーを始めとするコンセプトアーティストが、世界の歴史観から建造物の内部構造までもを考慮して徹底的にデザインすることで生まれた。
残念ながら彼らの仕事に比べると、「どろろ」にはデザインが存在しないと言っても良い。
城は一体何故あの形でなければならないのか、衣装は何故あの衣装なのか。
以前にも何度か書いたと思うが、異世界を舞台としたファンタジー映画は、観客に「その世界に行ってみたい」と思わせたら半分勝ちである。
逆に言えば、説得力があり、尚且つ魅力的な異世界を作るのはそれだけ難しいのだ。
どのような理由で実写版「どろろ」の舞台が異世界に決まったのかは知らないが、異世界を作る事をナメた時点で、この映画はもう半分負けは決まっていたと言っていいだろう。
そしてデザイン不在は、一方の主役とも言うべき魔物たちにも当てはまる。
とにかく魔物たちのデザインがダサい。
キャラクター権の都合で原作のデザインをそのまま使いたくなかったのは理解するが、それに変わるデザインがこれで良いのか。
どう考えても、これは改悪である。
しかも、その描写がまた酷い。
両手を刀にした百鬼丸など、一部によく出来た物もあるが、とてもじゃないけどこの映画のVFXは現在の観客に許容されるレベルではない。
着ぐるみとCGをミックスしているが、質感はまるで異なり、コンポジットも甘い、甘すぎる。
この作品の一番の見せ場であるはずのVFXは、テレビの「仮面ライダー」に負けている。
これ、OK出した最終責任者は一体誰なんだろう。
VFXだけではない。
アクション監督に、香港の大御所チン・シウトンを連れてきたりしているが、殆んど生かされていない。
ワイヤーアクションは確かに香港風だが、カット割りがこれで良い訳がない。
編集を含めたアクションのレベルは80年代の香港B級アクション並。
これがもし、チン・シウトンの意向に沿ったものだったとしたら、はっきり言って手を抜かれてる。
もう一点、原作と映画で大きく異なるのが、タイトルロールのどろろの設定である。
原作のどろろは十歳くらいの男の子の格好をした少女だが、映画のどろろはどうみても小汚い格好をした大人の女である。
映画を観た限りでは、この点も特に必然性のある改変ではない様に見える。
恐らくマーケッティング的な理由なのだろうが、意外な事にこのどろろはマイナスにはなっていない。
年齢の違いはあれど、どろろの性格付け自体は原作を踏襲している事、柴咲コウが自分なりにキャラクターを作ってぶれずに演じきっているので、この映画版どろろは決して悪くない。
同じことは百鬼丸の妻夫木聡や中井貴一にも言える。
妻夫木聡は、確かに百鬼丸に見える瞬間が何度もあった。
俳優たちは、キャラクターを掴み、しっかりと演じているのだ。
異世界、魔物、アクションと様々な要素を持つこの作品を、塩田明彦は纏め切れていない。
正直いって、この映画からは原作への愛も感じられないし、どのような作品にしようというビジョンも見えない。
何しろ体の四十八ヶ所を奪われる意味すら表現されておらず、物語がテーマ性を失ってしまっているのだ。
ただ、比較的コンパクトに纏まった原作のプロットと主人公のキャラクターを、下手にいじろうとしなかったのだけは消極的ながら評価出来る。
優れた物語の骨格と、キャラクターは維持されているだけに、何とか物語の流れにのって最後まで観ることは辛うじて出来る。
塩田明彦の作品は、初期の「月光の囁き」や「害虫」はなかなか面白かったが、「黄泉がえり」のヒット以来、どうも畑違いの作品ばかり手がけている様に思えてならない。
人間描写がそれなりにしっかりしている事は、本作でも判るのだが。
日本漫画の金字塔「どろろ」の初の実写映画化は、残念ながらかなりトホホな仕上がりだった。
原作のポテンシャルはこんな物ではないだけに、今はただお客さんが早く忘れてくれることを祈るのみである。
将来の再映画化に禍根を残さないように。
今回はその名も「魔界への誘い」という凄い名前の黒麹芋焼酎をチョイス。
お味の方は名前とは全く逆で、意外とマイルドで上品。
とは言ってもクセになる芋臭さはしっかりと持っているのだが。
映画の物足りなさをフォローするには、十分なクオリティを持った酒だ。
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2007年01月17日 (水) | 編集 |
作品の成り立ちから仕上がりまで、これはまた異色のアニメーション。
松本大洋の原作は、タイトルは知っていたものの未読。
したがって原作の物語、キャラクターは全く知らない。
義理と人情とヤクザの街「宝町」。
この不思議な街をテリトリーに、自由に飛びまわる二人の少年、クロ(二宮和也)とシロ(蒼井優)は通称ネコと呼ばれ、街の大人たちからも恐れられる存在だ。
ある日、この街に三人の殺し屋を連れたヘビ(本木雅弘)と呼ばれる男が現れ、街を巨大プロジェクトで再開発しようとする。
昔かたぎのヤクザ、ネズミ(田中泯)は反発して組を割り、ネズミの部下だった木村(伊勢谷友介)はヘビについた。
彼らの思惑は、自由に生きるネコたちの運命をも大きく変えていく・・・
映画を観て原作も読んでみたくなった。
この作品の主役は、現実の日本からは僅かに次元がずれたパラレルワールドの様な、「宝町」という街そのものだ。
東京に残された、アジア的なエキセントリックさを増幅して、画面の中にぶちまけた様なこの街は、恐ろしく細密に作りこまれたディティールによって、リアルな生命を感じさせる。
街の細部が描写されるたびに、一瞬その場所を知っているようなデジャヴを感じるのだ。
どことなくレトロで、エネルギーに満ち溢れたこの街は、優れたファンタジーの鉄則である、「行ってみたくなる世界」に当てはまる。
主な登場人物は、通称ネコと呼ばれる二人のストリートキッズ、クロとシロ。
彼らに絡むのは、時代の流れを感じつつも、それに流されている刑事たち、そして街の利権を狙うヤクザ、殺し屋たちだ。
面白いのは、警官やヤクザを含む街の住人たちは、ごく普通の人間として描かれているのに、主人公のネコ、そして殺し屋たちはまるで物理法則から解き放たれたような超人的な身体能力を持っていること。
もしかしたら彼らはメタファーとしてのキャラクターで、実はほんとにネコ=猫という解釈もアリなのかと思った。
主人公のクロとシロを演じるのは二宮和也と蒼井優という、正に今が旬の俳優たちだ。
基本的に二人とも好演していると思うが、男同士という設定のシロとクロのキャラクターに、シロを演じた蒼井優はやはりどこか女性を感じさせてしまう。
銭湯で風呂に入るシーンが無ければ、ずっとシロは女だと思い込んでいただろう。
もっともその事が、劇中のシロとクロの互いを想う感情に、微妙かつ複雑な色をつける事にもなっており、もしかしたら狙ったキャラクター作りなのかもしれないが。
クライマックスでクロの内面世界が、(作品の世界における)リアルを侵食して行くのは、「エヴァンゲリオン」を思わせる。
作品が最終的に個人の内面に回帰するのは、時代の気分を反映した物なのかもしれないが、正直ちょこっと「またかよ」と思ったのも事実。
シロとクロがその名の通り光と影であり、相互補完の関係なのは物語の初めからイヤというほど描かれている。
だから最後にクロの内面による侵食を救うのも・・・ネタバレするまでもなく読めてしまう。
ただこの作品の場合、クロとシロ以外のサブストーリーもよく出来ていて、ネズミとヤクザ・木村のエピソードや、ヘビとその殺し屋たちの存在感、何よりも圧倒的な世界観の情報量が、観念的なクライマックスに世界全体が落ち込むのを防いでいる。
したがって作品世界のバランスは最後まで崩れない。
監督のマイケル・アリアスは日本アニメの魅力に引かれ、来日して15年。
これもまた外国人監督による、見事な「日本映画」である。
今回は「宝」つながりで芋焼酎の「薩摩 宝山」をチョイス。
芋臭さは好みが分かれるだろうが、好き物にはたまらない。
宝町の雑多な世界には、野趣溢れる焼酎がピッタリだ。
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松本大洋の原作は、タイトルは知っていたものの未読。
したがって原作の物語、キャラクターは全く知らない。
義理と人情とヤクザの街「宝町」。
この不思議な街をテリトリーに、自由に飛びまわる二人の少年、クロ(二宮和也)とシロ(蒼井優)は通称ネコと呼ばれ、街の大人たちからも恐れられる存在だ。
ある日、この街に三人の殺し屋を連れたヘビ(本木雅弘)と呼ばれる男が現れ、街を巨大プロジェクトで再開発しようとする。
昔かたぎのヤクザ、ネズミ(田中泯)は反発して組を割り、ネズミの部下だった木村(伊勢谷友介)はヘビについた。
彼らの思惑は、自由に生きるネコたちの運命をも大きく変えていく・・・
映画を観て原作も読んでみたくなった。
この作品の主役は、現実の日本からは僅かに次元がずれたパラレルワールドの様な、「宝町」という街そのものだ。
東京に残された、アジア的なエキセントリックさを増幅して、画面の中にぶちまけた様なこの街は、恐ろしく細密に作りこまれたディティールによって、リアルな生命を感じさせる。
街の細部が描写されるたびに、一瞬その場所を知っているようなデジャヴを感じるのだ。
どことなくレトロで、エネルギーに満ち溢れたこの街は、優れたファンタジーの鉄則である、「行ってみたくなる世界」に当てはまる。
主な登場人物は、通称ネコと呼ばれる二人のストリートキッズ、クロとシロ。
彼らに絡むのは、時代の流れを感じつつも、それに流されている刑事たち、そして街の利権を狙うヤクザ、殺し屋たちだ。
面白いのは、警官やヤクザを含む街の住人たちは、ごく普通の人間として描かれているのに、主人公のネコ、そして殺し屋たちはまるで物理法則から解き放たれたような超人的な身体能力を持っていること。
もしかしたら彼らはメタファーとしてのキャラクターで、実はほんとにネコ=猫という解釈もアリなのかと思った。
主人公のクロとシロを演じるのは二宮和也と蒼井優という、正に今が旬の俳優たちだ。
基本的に二人とも好演していると思うが、男同士という設定のシロとクロのキャラクターに、シロを演じた蒼井優はやはりどこか女性を感じさせてしまう。
銭湯で風呂に入るシーンが無ければ、ずっとシロは女だと思い込んでいただろう。
もっともその事が、劇中のシロとクロの互いを想う感情に、微妙かつ複雑な色をつける事にもなっており、もしかしたら狙ったキャラクター作りなのかもしれないが。
クライマックスでクロの内面世界が、(作品の世界における)リアルを侵食して行くのは、「エヴァンゲリオン」を思わせる。
作品が最終的に個人の内面に回帰するのは、時代の気分を反映した物なのかもしれないが、正直ちょこっと「またかよ」と思ったのも事実。
シロとクロがその名の通り光と影であり、相互補完の関係なのは物語の初めからイヤというほど描かれている。
だから最後にクロの内面による侵食を救うのも・・・ネタバレするまでもなく読めてしまう。
ただこの作品の場合、クロとシロ以外のサブストーリーもよく出来ていて、ネズミとヤクザ・木村のエピソードや、ヘビとその殺し屋たちの存在感、何よりも圧倒的な世界観の情報量が、観念的なクライマックスに世界全体が落ち込むのを防いでいる。
したがって作品世界のバランスは最後まで崩れない。
監督のマイケル・アリアスは日本アニメの魅力に引かれ、来日して15年。
これもまた外国人監督による、見事な「日本映画」である。
今回は「宝」つながりで芋焼酎の「薩摩 宝山」をチョイス。
芋臭さは好みが分かれるだろうが、好き物にはたまらない。
宝町の雑多な世界には、野趣溢れる焼酎がピッタリだ。

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2007年01月09日 (火) | 編集 |
今更ながら、あけましておめでとうございます。
新年の一発目は、これも今更ながら「王の男」。
日本では何故か一年近くも封切りが遅れたが、一昨年の韓国No.1ヒット作だ。
比較的低予算の時代劇という事で、本国でも興行的には期待されていなかったそうだが、蓋を開けてみたら国民の四人に一人が観たという空前の大ヒットとなった。
一体何が韓国人の心の琴線に触れたのか、とても興味深く鑑賞した。
旅芸人のチャンセン(カム・ウソン)と、女より美しい女形芸人のコンギル(イ・ジュンギ)は幼馴染。
ある時、都で王を揶揄した芸を披露したところ、たちまち大人気に。
しかし、時は朝鮮王朝最悪の暴君・燕山君(チョン・ジニョン)の時代。
チャンセンの一座の噂はすぐに王の重臣の耳に入り、捕らえられてしまう。
王を侮辱する者は死刑、しかしチャンセンは、自分たちの芸でもしも王が笑ったら、それは侮辱ではないと言い張る。
かくしてチャンセン一座は、宮廷に入り王の玉座の前で芸を披露する事になるのだが・・・
なるほど異色の時代劇だ。
朝鮮王朝の時代、宮廷に勤める女官は、原則的に全員が王と婚姻しているとみなされた「王の女」だった。
この作品では、芸人たちが王に囲われ宮廷に住み着き「王の男」となる。
中心となるのは狂気の暴君、燕山君と二人の芸人。
設定自体は日本の少女漫画あたりにもありそうな作りだが、ここに描かれている男同士の奇妙な三角関係は、所謂単純な同性愛とは明らかに違う、韓国の風土独特のものだ。
よく日本は「和」の国で、韓国は「恨(ハン)」の国だといわれる。
「恨」を理解すれば韓国人を理解できるとも。
しかし私たちが「和」という概念を具体的に説明しづらい様に、「恨」もまた単純には理解しづらい。
日本語の「恨み(うらみ)」とは全く違うのだ。
何人かの韓国人に「恨」について説明してもらった事があるが、正直なところ言葉では判ったような判らないような、もやもやとした印象だった。
「恨」を言葉で理解出来ないのは今でも変わらないのだが、感覚的には韓国の巨匠イム・グォンテク監督の一連の作品(「シバジ」「風の岡を越えて~西便制」「祝祭」など)を観ると、何となくこれが「恨」、もしくは「恨」の一面なのかという物が掴めて来る。
それは単純に言えば人間と人間の交わりがもたらす、情念の衝突とも言うべき感情のざわめきの事だと思う。
男女の情愛や友情、憎しみなどの根底に潜む、静かだが、同時に激烈な深層的な心の動きで、何年、何十年もの時を経てなお人間の感情を掻き立てるものだ。
韓国映画にしばしば現れる、愛と憎しみ、笑と悲しみといった相反する感情を同時に表現するキャラクターたちは、「恨」という概念によって突き動かされている様な気がする。
「王の男」のイ・ジュンイク監督はイム・グォンテクよりだいぶ若いが、ここに描かれている感情は共通のものだ。
主人公のチャンセンと美形の女形コンギルの関係は、兄弟の様であり、親友の様であり、また恋人の様でもある。
彼らの間の深い絆こそ、心の奥底の情念で結びついた「恨」そのものである様な気がする。
そして彼ら二人の間に割って入る、燕山君との感情も、愛憎半ばした「恨」に突き動かされた物なのだろう。
イ・ジュンギ演じる美少年のコンギルの評判が高いが、この映画でもっとも興味深く魅力的な登場人物は、朝鮮王朝史上最悪の暴君として知られる燕山君だ。
チャンセンとコンギルが、芸人が寸劇で使う仮面の様に、人間の持つ一面を強調したキャラクターだとしたら、燕山君はより複雑で深い心の闇を持つ人物として描かれている。
幼くして母を謀殺され、心に傷を負った燕山君は、いわば究極のマザコンであり、同時に偉大な父王の影に怯える、エディプスコンプレックスを抱えた倒錯者として描かれる。
彼にはキーセン出身のノクスという情婦がいるが、彼女への感情はとても複雑だ。
母の愛を求めながら、実際には母性とは正反対の享楽的な女性を側に置く。
そして母性的な愛情は、男性であるコンギルに求め、彼の前ではまるで子供の様に振舞うのだ。
人間の持つ悲しみを具現化したような燕山君のキャラクターは、本編の白眉であり、演じるチョン・ジニョンは韓国版ジャック・ニコルソンとも言うべき怪演で、強い印象を残す。
本作の作品的なクオリティは、さすがに1000万人を動員しただけあって高いが、時代劇のキモである映像面の表現には疑問がある。
好みの問題かもしれないが、全編を通し、隅々まで明るく見通せる画作りは如何なものか。
「王の男」は、衣装や美術に非常に凝った色彩設計を取り入れており、彩度の高い色彩をなるべく見せようという意図なのだと思うが、ちょっと光が回りすぎている。
確かに色は綺麗だが、奥行きが無く平坦で、まるで一昔前のNHK時代劇を観ている様で興ざめだ。
夜の森の遠くの木々にまで、煌々と照明が当たっているのはいくらなんでもやりすぎではないだろうか。
映像が登場人物の心の闇をフォローするようなものだったら、更に深みを感じただろうが、
本作の場合、見た目の華麗さに走った映像が、ドラマ的な情感をスポイルしてしまったような気がする。
「王の男」は、異文化としての韓国文化を理解しようとすると極めて興味深い作品だ。
登場人物たちは魅力的で、人間の心の結びつきを追求したテーマ性も深い。
しかし、同時にまるで古典歌舞伎を観ているような、ある種の型にはまった堅苦しさを感じたのも事実で、物語的な自由度が、様式的な美学の追求によって制限されてしまった様な印象があり、この点少々残念だ。
さて今回は、映画と直接関係はないのだが、今年一年心酔わせる映画に出会いたいという願いを込めて、「酔心」の純米酒「ブナのしずく」をチョイス。
その名のとおり、透き通った軽やかなお酒。
今年も一年間、素敵な映画とお酒にであえますように。
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「チャングム」同じ時代を舞台にした娯楽時代劇の傑作
新年の一発目は、これも今更ながら「王の男」。
日本では何故か一年近くも封切りが遅れたが、一昨年の韓国No.1ヒット作だ。
比較的低予算の時代劇という事で、本国でも興行的には期待されていなかったそうだが、蓋を開けてみたら国民の四人に一人が観たという空前の大ヒットとなった。
一体何が韓国人の心の琴線に触れたのか、とても興味深く鑑賞した。
旅芸人のチャンセン(カム・ウソン)と、女より美しい女形芸人のコンギル(イ・ジュンギ)は幼馴染。
ある時、都で王を揶揄した芸を披露したところ、たちまち大人気に。
しかし、時は朝鮮王朝最悪の暴君・燕山君(チョン・ジニョン)の時代。
チャンセンの一座の噂はすぐに王の重臣の耳に入り、捕らえられてしまう。
王を侮辱する者は死刑、しかしチャンセンは、自分たちの芸でもしも王が笑ったら、それは侮辱ではないと言い張る。
かくしてチャンセン一座は、宮廷に入り王の玉座の前で芸を披露する事になるのだが・・・
なるほど異色の時代劇だ。
朝鮮王朝の時代、宮廷に勤める女官は、原則的に全員が王と婚姻しているとみなされた「王の女」だった。
この作品では、芸人たちが王に囲われ宮廷に住み着き「王の男」となる。
中心となるのは狂気の暴君、燕山君と二人の芸人。
設定自体は日本の少女漫画あたりにもありそうな作りだが、ここに描かれている男同士の奇妙な三角関係は、所謂単純な同性愛とは明らかに違う、韓国の風土独特のものだ。
よく日本は「和」の国で、韓国は「恨(ハン)」の国だといわれる。
「恨」を理解すれば韓国人を理解できるとも。
しかし私たちが「和」という概念を具体的に説明しづらい様に、「恨」もまた単純には理解しづらい。
日本語の「恨み(うらみ)」とは全く違うのだ。
何人かの韓国人に「恨」について説明してもらった事があるが、正直なところ言葉では判ったような判らないような、もやもやとした印象だった。
「恨」を言葉で理解出来ないのは今でも変わらないのだが、感覚的には韓国の巨匠イム・グォンテク監督の一連の作品(「シバジ」「風の岡を越えて~西便制」「祝祭」など)を観ると、何となくこれが「恨」、もしくは「恨」の一面なのかという物が掴めて来る。
それは単純に言えば人間と人間の交わりがもたらす、情念の衝突とも言うべき感情のざわめきの事だと思う。
男女の情愛や友情、憎しみなどの根底に潜む、静かだが、同時に激烈な深層的な心の動きで、何年、何十年もの時を経てなお人間の感情を掻き立てるものだ。
韓国映画にしばしば現れる、愛と憎しみ、笑と悲しみといった相反する感情を同時に表現するキャラクターたちは、「恨」という概念によって突き動かされている様な気がする。
「王の男」のイ・ジュンイク監督はイム・グォンテクよりだいぶ若いが、ここに描かれている感情は共通のものだ。
主人公のチャンセンと美形の女形コンギルの関係は、兄弟の様であり、親友の様であり、また恋人の様でもある。
彼らの間の深い絆こそ、心の奥底の情念で結びついた「恨」そのものである様な気がする。
そして彼ら二人の間に割って入る、燕山君との感情も、愛憎半ばした「恨」に突き動かされた物なのだろう。
イ・ジュンギ演じる美少年のコンギルの評判が高いが、この映画でもっとも興味深く魅力的な登場人物は、朝鮮王朝史上最悪の暴君として知られる燕山君だ。
チャンセンとコンギルが、芸人が寸劇で使う仮面の様に、人間の持つ一面を強調したキャラクターだとしたら、燕山君はより複雑で深い心の闇を持つ人物として描かれている。
幼くして母を謀殺され、心に傷を負った燕山君は、いわば究極のマザコンであり、同時に偉大な父王の影に怯える、エディプスコンプレックスを抱えた倒錯者として描かれる。
彼にはキーセン出身のノクスという情婦がいるが、彼女への感情はとても複雑だ。
母の愛を求めながら、実際には母性とは正反対の享楽的な女性を側に置く。
そして母性的な愛情は、男性であるコンギルに求め、彼の前ではまるで子供の様に振舞うのだ。
人間の持つ悲しみを具現化したような燕山君のキャラクターは、本編の白眉であり、演じるチョン・ジニョンは韓国版ジャック・ニコルソンとも言うべき怪演で、強い印象を残す。
本作の作品的なクオリティは、さすがに1000万人を動員しただけあって高いが、時代劇のキモである映像面の表現には疑問がある。
好みの問題かもしれないが、全編を通し、隅々まで明るく見通せる画作りは如何なものか。
「王の男」は、衣装や美術に非常に凝った色彩設計を取り入れており、彩度の高い色彩をなるべく見せようという意図なのだと思うが、ちょっと光が回りすぎている。
確かに色は綺麗だが、奥行きが無く平坦で、まるで一昔前のNHK時代劇を観ている様で興ざめだ。
夜の森の遠くの木々にまで、煌々と照明が当たっているのはいくらなんでもやりすぎではないだろうか。
映像が登場人物の心の闇をフォローするようなものだったら、更に深みを感じただろうが、
本作の場合、見た目の華麗さに走った映像が、ドラマ的な情感をスポイルしてしまったような気がする。
「王の男」は、異文化としての韓国文化を理解しようとすると極めて興味深い作品だ。
登場人物たちは魅力的で、人間の心の結びつきを追求したテーマ性も深い。
しかし、同時にまるで古典歌舞伎を観ているような、ある種の型にはまった堅苦しさを感じたのも事実で、物語的な自由度が、様式的な美学の追求によって制限されてしまった様な印象があり、この点少々残念だ。
さて今回は、映画と直接関係はないのだが、今年一年心酔わせる映画に出会いたいという願いを込めて、「酔心」の純米酒「ブナのしずく」をチョイス。
その名のとおり、透き通った軽やかなお酒。
今年も一年間、素敵な映画とお酒にであえますように。

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