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2007年03月29日 (木) | 編集 |
漆原友紀の「蟲師」を大友克洋が映画化すると聞いたとき、「え?何で大友克洋?」と思った物だ。
確かに彼は「AKIRA」始めアニメの監督として実績があるし、「ワールドアパートメントホラー」など実写の経験もある。
しかし原作「蟲師」のキャラクターの内面描写を中心とした、幽玄の世界にたゆたう様な世界観からは真逆というか、合わないのではないかという危惧をもったのだ。
そして完成した映画版「蟲師」は、残念ながらその通りとなってしまった。
「蟲」と呼ばれる異界の生き物が人間と共生する世界。
蟲によって起こる災いを解決する「蟲師」であるギンコ(オダギリジョー)は、雪深い山里で「阿」「吽」という蟲に侵された人々を治療する。
彼は幼い頃の記憶を持たない。
実は山津波で母を失った後、隻眼白髪の蟲師ヌイ(江角マキコ)に育てられた経験を持つのだが、ある事件によって記憶を失っていた。
虹の形をした「虹蛇」という蟲を追う虹郎(大森南朋)という男と旅をする事になったギンコは、ある日蟲に纏わる事件を記録している淡幽(蒼井優)から、手紙で呼び出されるのだが・・・・
うーん、何でこうなってしまったのか。
とにかく話が判り難い。
漆原友紀の原作は一話完結の短編なので、映画はギンコの過去に纏わる「眇の魚」という「ビギニング」的なエピソードを引き伸ばした上で物語のコアに設定し、それに原作の幾つかのエピソードを組み合わせるという手法をとっている。
そのアイディア自体は悪くないのだが、映画用に新たに構成されたプロットが全く整理不足・描写不足で一体何が起こっているのか、登場人物が何を考えているのかがサッパリ判らない。
原作の短いエピソードの中ではしっかりと描写されていた登場人物の感情の流れが、ぶつ切りにされた上に整合性を欠いたままツギハギされているので、何がなんだかといううちに終わってしまう。
虹郎は何故あれほど虹蛇に固執するのか、何故あれほどギンコを慕うようになったのか。
ヌイは何故あのような行動をとったのか、唖の男は何者なのか。
ギンコが自然に治ってしまったのは何故なのか。
辻褄の合わない、あるいは説明不足で観客がおいていかれてしまう描写があまりにも多い。
これ脚本の時点で、意味不明なのが判らなかったのだろうか。
だとしたら書いた人間も読んだ人間も、能力が低いと言わざるを得ない。
一言で言って、出来の悪い自主映画みたいな脚本である。
元々、漫画家大友克洋という人は、物語の構成力で見せる人ではなく、緻密な世界観と勢いで押し流す様な強引な展開で、なんとか物語を完結させている印象が強い。
自作ならそれで何とかなったのかもしれないが、どちらかというと昔話の様にまったりとして詩的な漆原友紀の世界を映画化するには、それではダメなのは始めから判り切っていた事だろう。
物語を構成出来ないのなら、別の人間に書かせるべきだった。
それでも世界観の映像化に関しては、流石ビジュアルの人だけあってある程度はみせる。
山深い日本の原風景的な世界は美しく、肝心の「蟲」の描写も説得力がある。
ただここでも、原作の世界観と映画の世界観のミスマッチ感は残る。
原作者曰く、「蟲師」の世界観は江戸と明治の間に存在したかの様なイメージの「何処にもない世界」だったはずで、確か原作では「日本」という言葉すら出てこないと思う。
だからこそ、この不思議な御伽噺のような世界が成立しているのだが、映画版「蟲師」では、舞台が明らかに近代の一時期の日本である事を示唆する様な台詞が幾つもある。
原作になく、映画にはあるという事は、かなり意図的に世界観の変更を観客に提示しているという事だが、そのことが何の意味を持つのかも判らない。
漫画の映像化には、大雑把言って徹底的に原作の世界を再現するか、あえて原作から離れるかという二つのやり方があると思う。
そして「蟲師」はビジュアル的には明らかに前者なのにも関わらず、台詞であえてそれを壊す様なインフォメーションを仕込む意図は何なのだろう。
特に意図が無かったとしたら、それこそ物語における台詞の重要性を理解していないという事で、それはそれで問題なのだが。
脚本がこの有様だから予想はつくが、演出的にも褒められた物ではない。
全体にドラマ的な抑揚を欠いた物語に引きずられるように、一カット一カットも間延びした無意味なカットが多い。
良く言えば「行間の間がある」だが、悪く言えば「ダラダラしていて退屈」である。
そもそも「間」とは物語上の意味があって初めて効果があるものであって、物語がよく判らないのに、展開の無い部分を引き伸ばされても意味がない。
例えば終盤、ギンコが養母であるヌイを背負って延々山を歩くシーンがあるが、何で歩いているのかが判らないので、観客はそこに間の意味を感じる事が出来ない。
思うに、この脚本を渡された役者たちも困ったのではないだろうか。
何しろ行動原理が明示されていないのだから、キャラクターが何故このように行動し、何故このような台詞を言うのかがあまりにも漠然としている。
それでも流石に上手い役者はそれなりにぶれずに演じきっているが、中には何のために存在しているのか判らないようなキャラクターも多く、シーンごとにキャラが変わってしまっている可哀想な人もいた。
タイトルロールの蟲師のギンコを演じるオダギリジョーは、それなりに説得力のあるギンコ像を演じていたと思うが、漫画のコスプレになりすぎてビジュアル的にはギンコというよりも成長したキタロウに見えてしまうのが悲しい。
実は「蟲師」にはテレビアニメ版もあり、こちらは中々に優れた作品である。
無理に下手糞な実写版を作るより、アニメのスタッフで長編劇場版を作って欲しい。
その方がよほど見応えのある作品になるような気がする。
さて、原作の「蟲師」には「光酒」という命の元という設定の黄金色の酒が登場するが、この酒のイメージに最も近いのは日本酒の古酒だろう。
今回は天狗舞の「古々酒大吟醸」をチョイス。
昔、この酒を始めて飲んだときの衝撃は忘れられない。
仄かに黄金色を帯びたこの美しい液体は、蟲師ならぬ能登杜氏が伝統を封じ込めた芸術品だ。
映画よりもお酒の方が「蟲師」の世界を感じさせると思うのは私だけだろうか。
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原作
確かに彼は「AKIRA」始めアニメの監督として実績があるし、「ワールドアパートメントホラー」など実写の経験もある。
しかし原作「蟲師」のキャラクターの内面描写を中心とした、幽玄の世界にたゆたう様な世界観からは真逆というか、合わないのではないかという危惧をもったのだ。
そして完成した映画版「蟲師」は、残念ながらその通りとなってしまった。
「蟲」と呼ばれる異界の生き物が人間と共生する世界。
蟲によって起こる災いを解決する「蟲師」であるギンコ(オダギリジョー)は、雪深い山里で「阿」「吽」という蟲に侵された人々を治療する。
彼は幼い頃の記憶を持たない。
実は山津波で母を失った後、隻眼白髪の蟲師ヌイ(江角マキコ)に育てられた経験を持つのだが、ある事件によって記憶を失っていた。
虹の形をした「虹蛇」という蟲を追う虹郎(大森南朋)という男と旅をする事になったギンコは、ある日蟲に纏わる事件を記録している淡幽(蒼井優)から、手紙で呼び出されるのだが・・・・
うーん、何でこうなってしまったのか。
とにかく話が判り難い。
漆原友紀の原作は一話完結の短編なので、映画はギンコの過去に纏わる「眇の魚」という「ビギニング」的なエピソードを引き伸ばした上で物語のコアに設定し、それに原作の幾つかのエピソードを組み合わせるという手法をとっている。
そのアイディア自体は悪くないのだが、映画用に新たに構成されたプロットが全く整理不足・描写不足で一体何が起こっているのか、登場人物が何を考えているのかがサッパリ判らない。
原作の短いエピソードの中ではしっかりと描写されていた登場人物の感情の流れが、ぶつ切りにされた上に整合性を欠いたままツギハギされているので、何がなんだかといううちに終わってしまう。
虹郎は何故あれほど虹蛇に固執するのか、何故あれほどギンコを慕うようになったのか。
ヌイは何故あのような行動をとったのか、唖の男は何者なのか。
ギンコが自然に治ってしまったのは何故なのか。
辻褄の合わない、あるいは説明不足で観客がおいていかれてしまう描写があまりにも多い。
これ脚本の時点で、意味不明なのが判らなかったのだろうか。
だとしたら書いた人間も読んだ人間も、能力が低いと言わざるを得ない。
一言で言って、出来の悪い自主映画みたいな脚本である。
元々、漫画家大友克洋という人は、物語の構成力で見せる人ではなく、緻密な世界観と勢いで押し流す様な強引な展開で、なんとか物語を完結させている印象が強い。
自作ならそれで何とかなったのかもしれないが、どちらかというと昔話の様にまったりとして詩的な漆原友紀の世界を映画化するには、それではダメなのは始めから判り切っていた事だろう。
物語を構成出来ないのなら、別の人間に書かせるべきだった。
それでも世界観の映像化に関しては、流石ビジュアルの人だけあってある程度はみせる。
山深い日本の原風景的な世界は美しく、肝心の「蟲」の描写も説得力がある。
ただここでも、原作の世界観と映画の世界観のミスマッチ感は残る。
原作者曰く、「蟲師」の世界観は江戸と明治の間に存在したかの様なイメージの「何処にもない世界」だったはずで、確か原作では「日本」という言葉すら出てこないと思う。
だからこそ、この不思議な御伽噺のような世界が成立しているのだが、映画版「蟲師」では、舞台が明らかに近代の一時期の日本である事を示唆する様な台詞が幾つもある。
原作になく、映画にはあるという事は、かなり意図的に世界観の変更を観客に提示しているという事だが、そのことが何の意味を持つのかも判らない。
漫画の映像化には、大雑把言って徹底的に原作の世界を再現するか、あえて原作から離れるかという二つのやり方があると思う。
そして「蟲師」はビジュアル的には明らかに前者なのにも関わらず、台詞であえてそれを壊す様なインフォメーションを仕込む意図は何なのだろう。
特に意図が無かったとしたら、それこそ物語における台詞の重要性を理解していないという事で、それはそれで問題なのだが。
脚本がこの有様だから予想はつくが、演出的にも褒められた物ではない。
全体にドラマ的な抑揚を欠いた物語に引きずられるように、一カット一カットも間延びした無意味なカットが多い。
良く言えば「行間の間がある」だが、悪く言えば「ダラダラしていて退屈」である。
そもそも「間」とは物語上の意味があって初めて効果があるものであって、物語がよく判らないのに、展開の無い部分を引き伸ばされても意味がない。
例えば終盤、ギンコが養母であるヌイを背負って延々山を歩くシーンがあるが、何で歩いているのかが判らないので、観客はそこに間の意味を感じる事が出来ない。
思うに、この脚本を渡された役者たちも困ったのではないだろうか。
何しろ行動原理が明示されていないのだから、キャラクターが何故このように行動し、何故このような台詞を言うのかがあまりにも漠然としている。
それでも流石に上手い役者はそれなりにぶれずに演じきっているが、中には何のために存在しているのか判らないようなキャラクターも多く、シーンごとにキャラが変わってしまっている可哀想な人もいた。
タイトルロールの蟲師のギンコを演じるオダギリジョーは、それなりに説得力のあるギンコ像を演じていたと思うが、漫画のコスプレになりすぎてビジュアル的にはギンコというよりも成長したキタロウに見えてしまうのが悲しい。
実は「蟲師」にはテレビアニメ版もあり、こちらは中々に優れた作品である。
無理に下手糞な実写版を作るより、アニメのスタッフで長編劇場版を作って欲しい。
その方がよほど見応えのある作品になるような気がする。
さて、原作の「蟲師」には「光酒」という命の元という設定の黄金色の酒が登場するが、この酒のイメージに最も近いのは日本酒の古酒だろう。
今回は天狗舞の「古々酒大吟醸」をチョイス。
昔、この酒を始めて飲んだときの衝撃は忘れられない。
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2007年03月23日 (金) | 編集 |
うーむ、微妙・・・・・
「パフューム ある人殺しの物語」を簡潔に説明すれば、神の嗅覚を持つ、究極の臭いフェチの変態さんの一代記である。
世評通り、前半は圧倒的に面白いのだが、後半の展開が私にはどうにも違和感が拭えなかった。
パリの鮮魚市場で産み落とされ、孤児院で育ったジャン=バティスト・グルヌイユ(ベン・ウィショー)は、幼い頃から香りに異常な興味をしめす奇妙な子供だった。
大人になったグルヌイユは、ある日街で理性を狂わせる魅惑的な香りを嗅ぐ。
それは女性の体臭。
臭いに夢中になるあまり、女性に騒がれてしまったグルヌイユは、思わず口を塞いで女性を殺してしまう。
禁断の香りに魅せられたグルヌイユは、落ち目の香水調合師バルディーニ(ダスティン・ホフマン)とであった事で、その才能を開花させる。
グルヌイユの香水のおかげでバルディーニの店は大繁盛。
しかし、人間の体臭を保存する方法を模索するグルヌイユは、香水の都と呼ばれるグラーツへの旅を決意する。
グラースの入り口で、グルヌイユは運命を感じる香りを嗅ぐ。
香りの主は、グラースの有力者リシ(アラン・リックマン)の娘で、赤毛の美少女ローラ(レイチェル・ハード=ウッド)だった。
グラースで、遂に人間の体臭を香水にする事に成功するグルヌイユだったが、そのためには相手を殺さねばならなかった。
香水のために、次々と街の美少女たちを手にかけてゆくグルヌイユ。
そして、その目線の先にはいつもローラがいた・・・
前半、悪臭渦巻く十八世紀のパリで生まれたグルヌイユが、数奇な運命に導かれる様にして香水調合師となり、やがて人間の体臭という究極の香りに魅せられてゆくプロセスは文句なしに面白い。
見えないし聞こえない「香り」というものは、映画で表現するのが最もし難い物だと思う。
だがトム・ティクヴア監督は様々な工夫を凝らして、グルヌイユの特別な才能を説得力をもって描写する事に成功している。
ベン・ウィショーの好演もあり、まるで画面からさまざまな香りが漂ってきそうな臨場感を感じる。
香りの表現で面白かったのは、バルディーニがグルヌイユの調合した香りをかいだ瞬間の至福の表現で、一瞬で回りの風景が変わり別の物語の中に投げだされた様になる。
ワイン評論家がワインのテイストを文章で表現する時、しばしば風景や物語に例える事があるが、これはそれを実際に映像にしてみせた、他に例を見ない表現だったと思う。
徹底的に香りに拘って物語が進む前半は、「薔薇の名前」の名手アンドリュー・バーキンの脚本もテンポよく、史実通りの「悪臭の都パリ」をリアルに再現したビジュアルも含め、視覚的にも物語的にも極めてユニークで一気に時間が過ぎる。
しかし、人間の体臭を香水に閉じ込める技を学ぶため、グルヌイユがグラーツに行き、そこで遂に連続殺人に手を染める様になると、映画は普通の猟奇殺人物と大して変わらなくなってしまうのだ。
ここでは香りそのものよりも、いかに香りの元である美女を狩り、その香りを閉じ込めるか、というプロセスの描写が主体となり、物語の前半が持っていた独特の魅力は急速に薄れる。
もっともこのあたりは、見せ方が上手いので決して退屈はしないのだが。
問題は、この後。
究極の香水を作るために必要な香りはあと一つ。
殺人鬼の影を感じ、グラースから逃亡するローラを追って、グルヌイユは超人的な嗅覚を発揮する。
正直言って私はこの件の描写で失笑してしまった。
いくらなんでもあれはやりすぎだろう。
たとえば前半、グルヌイユが無数の香料の瓶の中から香水の成分を全て言い当てる描写があるが、あれは何となく説得力がある。
ソムリエの中には香りだけでワインの銘柄やビンテージを当ててしまう人もいるし、そのぐらいなら「才能」という範囲に収まるだろう。
だがローラを追いかけるグルヌイユの嗅覚は、もはやマーベルコミックの超人並みである。
それまでしっかりとキープしていた映画の世界観の枠が、あそこでポンと外れてしまった。
そしてクライマックス、遂に究極の香水を作り出したグルヌイユが、逮捕され裁判にかけられ、そこで彼は香りによって驚くべき奇跡を起こす。
この描写がずいぶんと話題になっている様だが、私にはあまり説得力が感じられなかった。
衆人たちが訳の判らないままに、グルヌイユを聖人の様に思ってしまい自らの理性を失ってゆくというのはパゾリーニの「テオレマ」を思わせる。
しかしあえて具体的説明を排し、登場人物の行動と心理描写だけで寓話的に見せきった「テオレマ」と異なり、この作品の場合香水の香りという良くも悪くも具体的な物理現象となっているので、どうにもリアルとファンタジーの間でどっちつかずになってしまった感がある。
結局の所、究極の香水とは「愛」そのものであり、自らは体臭(つまりは愛)を持たないグルヌイユが作り上げたというアイロニーがこの物語の収束する場なのだろうが、このラスト20分はそれまでの映画のトーンとあまりにも異質だ。
全体に寓話的な話ではあるが、前半のわりと「ありそうな話」から、これほどのホラ話に持ってゆくのなら、ありえない事がありえる世界観への物語上でのシフトが必要だと思う。
現実的に人間の体臭をどんなに混ぜ合わせようが、香りにあんな力は無いのを判っているこちらとしては、「すげ~」より「ありえね~」が先に立つ。
クライマックスに突然壮大なホラ話を持ってくるという手法その物は決して斬新ではないし、映画のオチのつけ方として別に悪くは無いのだが、私にはなんだか始まりと終わりが別の映画を観ているような違和感を感じてしまった。
思うにこの物語の展開、文章ならもっとスムーズに読めるのではないだろうか。
想像力で理解する小説なら説得力があっても、実際にその物を映像にされてしまうと、やたらと大げさな描写に見えて白けてしまう。
ダスティン・ホフマンが人生最良の眠りにつくあたりまでは大傑作だったのだが、後半の展開が少々残念な作品だった。
さて、今回は香水に負けぬ魅惑的な香りのワインをセレクトしよう。
ボルドーのマルゴー村は「シャトージスクール」の2004。
マルゴーで作られるワインは、よく優美で女性的と言われるが、これは正に凝縮された複雑な味わいと、豊かな果実香りが心地よい。
もしグルヌイユが香水ではなく酒の香りに魅せられていたら、どんな酒を創ったのだろうか。
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「パフューム ある人殺しの物語」を簡潔に説明すれば、神の嗅覚を持つ、究極の臭いフェチの変態さんの一代記である。
世評通り、前半は圧倒的に面白いのだが、後半の展開が私にはどうにも違和感が拭えなかった。
パリの鮮魚市場で産み落とされ、孤児院で育ったジャン=バティスト・グルヌイユ(ベン・ウィショー)は、幼い頃から香りに異常な興味をしめす奇妙な子供だった。
大人になったグルヌイユは、ある日街で理性を狂わせる魅惑的な香りを嗅ぐ。
それは女性の体臭。
臭いに夢中になるあまり、女性に騒がれてしまったグルヌイユは、思わず口を塞いで女性を殺してしまう。
禁断の香りに魅せられたグルヌイユは、落ち目の香水調合師バルディーニ(ダスティン・ホフマン)とであった事で、その才能を開花させる。
グルヌイユの香水のおかげでバルディーニの店は大繁盛。
しかし、人間の体臭を保存する方法を模索するグルヌイユは、香水の都と呼ばれるグラーツへの旅を決意する。
グラースの入り口で、グルヌイユは運命を感じる香りを嗅ぐ。
香りの主は、グラースの有力者リシ(アラン・リックマン)の娘で、赤毛の美少女ローラ(レイチェル・ハード=ウッド)だった。
グラースで、遂に人間の体臭を香水にする事に成功するグルヌイユだったが、そのためには相手を殺さねばならなかった。
香水のために、次々と街の美少女たちを手にかけてゆくグルヌイユ。
そして、その目線の先にはいつもローラがいた・・・
前半、悪臭渦巻く十八世紀のパリで生まれたグルヌイユが、数奇な運命に導かれる様にして香水調合師となり、やがて人間の体臭という究極の香りに魅せられてゆくプロセスは文句なしに面白い。
見えないし聞こえない「香り」というものは、映画で表現するのが最もし難い物だと思う。
だがトム・ティクヴア監督は様々な工夫を凝らして、グルヌイユの特別な才能を説得力をもって描写する事に成功している。
ベン・ウィショーの好演もあり、まるで画面からさまざまな香りが漂ってきそうな臨場感を感じる。
香りの表現で面白かったのは、バルディーニがグルヌイユの調合した香りをかいだ瞬間の至福の表現で、一瞬で回りの風景が変わり別の物語の中に投げだされた様になる。
ワイン評論家がワインのテイストを文章で表現する時、しばしば風景や物語に例える事があるが、これはそれを実際に映像にしてみせた、他に例を見ない表現だったと思う。
徹底的に香りに拘って物語が進む前半は、「薔薇の名前」の名手アンドリュー・バーキンの脚本もテンポよく、史実通りの「悪臭の都パリ」をリアルに再現したビジュアルも含め、視覚的にも物語的にも極めてユニークで一気に時間が過ぎる。
しかし、人間の体臭を香水に閉じ込める技を学ぶため、グルヌイユがグラーツに行き、そこで遂に連続殺人に手を染める様になると、映画は普通の猟奇殺人物と大して変わらなくなってしまうのだ。
ここでは香りそのものよりも、いかに香りの元である美女を狩り、その香りを閉じ込めるか、というプロセスの描写が主体となり、物語の前半が持っていた独特の魅力は急速に薄れる。
もっともこのあたりは、見せ方が上手いので決して退屈はしないのだが。
問題は、この後。
究極の香水を作るために必要な香りはあと一つ。
殺人鬼の影を感じ、グラースから逃亡するローラを追って、グルヌイユは超人的な嗅覚を発揮する。
正直言って私はこの件の描写で失笑してしまった。
いくらなんでもあれはやりすぎだろう。
たとえば前半、グルヌイユが無数の香料の瓶の中から香水の成分を全て言い当てる描写があるが、あれは何となく説得力がある。
ソムリエの中には香りだけでワインの銘柄やビンテージを当ててしまう人もいるし、そのぐらいなら「才能」という範囲に収まるだろう。
だがローラを追いかけるグルヌイユの嗅覚は、もはやマーベルコミックの超人並みである。
それまでしっかりとキープしていた映画の世界観の枠が、あそこでポンと外れてしまった。
そしてクライマックス、遂に究極の香水を作り出したグルヌイユが、逮捕され裁判にかけられ、そこで彼は香りによって驚くべき奇跡を起こす。
この描写がずいぶんと話題になっている様だが、私にはあまり説得力が感じられなかった。
衆人たちが訳の判らないままに、グルヌイユを聖人の様に思ってしまい自らの理性を失ってゆくというのはパゾリーニの「テオレマ」を思わせる。
しかしあえて具体的説明を排し、登場人物の行動と心理描写だけで寓話的に見せきった「テオレマ」と異なり、この作品の場合香水の香りという良くも悪くも具体的な物理現象となっているので、どうにもリアルとファンタジーの間でどっちつかずになってしまった感がある。
結局の所、究極の香水とは「愛」そのものであり、自らは体臭(つまりは愛)を持たないグルヌイユが作り上げたというアイロニーがこの物語の収束する場なのだろうが、このラスト20分はそれまでの映画のトーンとあまりにも異質だ。
全体に寓話的な話ではあるが、前半のわりと「ありそうな話」から、これほどのホラ話に持ってゆくのなら、ありえない事がありえる世界観への物語上でのシフトが必要だと思う。
現実的に人間の体臭をどんなに混ぜ合わせようが、香りにあんな力は無いのを判っているこちらとしては、「すげ~」より「ありえね~」が先に立つ。
クライマックスに突然壮大なホラ話を持ってくるという手法その物は決して斬新ではないし、映画のオチのつけ方として別に悪くは無いのだが、私にはなんだか始まりと終わりが別の映画を観ているような違和感を感じてしまった。
思うにこの物語の展開、文章ならもっとスムーズに読めるのではないだろうか。
想像力で理解する小説なら説得力があっても、実際にその物を映像にされてしまうと、やたらと大げさな描写に見えて白けてしまう。
ダスティン・ホフマンが人生最良の眠りにつくあたりまでは大傑作だったのだが、後半の展開が少々残念な作品だった。
さて、今回は香水に負けぬ魅惑的な香りのワインをセレクトしよう。
ボルドーのマルゴー村は「シャトージスクール」の2004。
マルゴーで作られるワインは、よく優美で女性的と言われるが、これは正に凝縮された複雑な味わいと、豊かな果実香りが心地よい。
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2007年03月18日 (日) | 編集 |
子供の頃、博物館が大好きだった人は多いと思う。
私もその一人で、恐竜の化石、古代のジオラマ、歴史上の人物や絶滅した生物たちの精巧な人形といった陳列物にロマンを掻き立てられたものだ。
そして、たぶん多くの子供たちが、一度はこんな事を想像したことがあるはずだ。
「これ、夜になると動き出すんじゃ?」
ベン・スティラー主演、ショーン・レビ監督の「ナイトミュージアム」は、そんな子供っぽい発想を、大真面目に大作映画にしてしまった愛すべき作品だ。
NYに住むラリー(ベン・スティラー)は、何をやっても長続きしないダメ男。
息子のリッキー(ジェイク・チェリー)も、そんな父に愛想をつかしつつあり、別れた妻の再婚相手になついてしまっている。
父親の尊厳を取り戻そうと、仕事を探したラリーは、博物館の夜警の職につく。
先任の三人の夜警、セシル(ディック・ヴァン・ダイク)、ガス(ミッキー・ルーニー)、レジナルド(ビル・コッブス)は、ラリーに手書きのマニュアルと鍵を手渡して退職してしまう。
残されたラリーは、最初の夜の見回りを始めるのだが、あろう事かセンターホールのティラノサウルスの化石が忽然と消えている。
驚いて探し回るラリーの前に現れたのは、骨だけで動き回るティラノサウルスだった。
それだけではない、なんとミニチュアのジオラマから蝋人形まで、博物館のありとあらゆる物が、動き出していた・・・・
NYの自然史博物館には15年位前に行った事があるが、映画に出てきたものとは微妙に違った気がする。
本物はもっと途轍もなく大きな建物だったような・・・?
しかしこの映画、夜の博物館に行ってみたいと一度でも思ったことのある人は観て損は無いと思う。
物語の発想は子供っぽく、実際に出来上がった映画も深い物は何も無いが、とにかく楽しい。
ルーズベルト大統領にフン族のアッティラ大王、はてはローマ皇帝オクタヴィウスやエジプトのファラオまでの歴史上の人物、骨だけのティラノサウルスやアフリカの動物たちまで、あらゆる展示品が生命を持って動き出す。
しかも彼らは敵対していたり、怒っていたり、いたずらしたりで放って置くと博物館が無茶苦茶になってしまうような大騒動を夜毎繰り広げるのだ。
古代ローマvs西部のカウボーイ、このビジュアルだけでも楽しいのだが、警備員であるラリーにとっては大問題。
彼は最初、この予想外の事態に尻尾を巻いて逃げ出そうとするが、賢人ルーズベルト大統領の助言や、何よりもリッキーの信頼を取り戻したいという思いで、この途方もなく奇妙な博物館の夜に立ち向かってゆく。
最初はルーズベルトが何代目の大統領かも知らなかったラリーが、陳列物の歴史や背景を勉強し、彼らの性格を把握し、何とか夜の博物館を手懐けてゆく。
前半はこの過程が中々楽しい。
そして後半になると、博物館のあらゆる物に生命を与えていたエジプトの魔法のタブレットが盗まれ、取り戻さなければ博物館が死んでしまうという事態が起こり、ラリーとバラエティ豊かな博物館の住人たちが、いかにしてタブレットを取り戻すのかというサスペンスが物語を盛り上げる。
日本では何故か人気の無いベン・スティラーだが、本作では流石に本領発揮、ノリノリの演技を見せる。
喜劇役者の大先輩であるルーズベルト役のロビン・ウィリアムズ、そして一癖も二癖もありそうな先任夜警たちを演じる、ベテラン三人との掛け合いは見所だ。
正直、ミッキー・ルーニーなんてとっくに死んでいると思っていた(笑
一応テーマ的には、ダメ男が始めて初志貫徹する事で父性を復権させ、親子の絆をとり戻すという事なんだろうけど、おもちゃ箱をひっくり返した様な映画の中では、隠し味程度の印象だ。
まあ元々テーマ性でみせる様な作品でもないし、テーマの部分は物語の底で押さえになっていれば十分なのだろう。
ただ、これが主人公の行動原理のベースにあるので、荒唐無稽なお話にわりとしっかりした芯が出来ている。
ラリーの父性復権という本筋に、ルーズベルトが伝説的なネイティブアメリカンの女性、サカジャエウァに寄せる恋心や、ローマ皇帝オクタヴィウスと西部の探検家ジェデディア・スミスとの仲良くどつきあう奇妙な友情などのサブストーリーも上手く絡み合い、物語の纏まりは悪くない。
「ナイトミュージアム」は決して深い映画ではないし、細かな突っ込みどころも沢山あるが、正に春休み向けのとても楽しいファミリー映画だ。
大人も子供も、これを観たらきっとまた博物館に行ってみたくなる。
そして夜の博物館に、ちょっとした想像をめぐらせる事だろう。
万人にお勧めできる娯楽映画だ。
今回は、楽しい映画を観て帰ってきて、そのまま楽しい夢を観るつもりで、ベッドタイムカクテル「ナイトキャップ」を。
元々ナイトキャップとは所謂寝酒の事で、色々なナイトキャップがあるのだが、今回は一般的にそのものの名で呼ばれるカクテル。
ブランデーとオレンジキュラソー、アニゼット、を2:1:1の割合で、これに卵黄を一つ落とし、シェイクして完成。
アニゼットは前回紹介した「ウゾ12」と同じアニスを原料としたリキュールで、香りに癖がある。
好み次第だが、この香りが嫌いでなければゆったりと体が温まり、心地よい夢に誘われるだろう。
香りがダメなら他のリキュールを試してみるのも良いが、個性の強いものの方が味がしっかりと締まる様だ。
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私もその一人で、恐竜の化石、古代のジオラマ、歴史上の人物や絶滅した生物たちの精巧な人形といった陳列物にロマンを掻き立てられたものだ。
そして、たぶん多くの子供たちが、一度はこんな事を想像したことがあるはずだ。
「これ、夜になると動き出すんじゃ?」
ベン・スティラー主演、ショーン・レビ監督の「ナイトミュージアム」は、そんな子供っぽい発想を、大真面目に大作映画にしてしまった愛すべき作品だ。
NYに住むラリー(ベン・スティラー)は、何をやっても長続きしないダメ男。
息子のリッキー(ジェイク・チェリー)も、そんな父に愛想をつかしつつあり、別れた妻の再婚相手になついてしまっている。
父親の尊厳を取り戻そうと、仕事を探したラリーは、博物館の夜警の職につく。
先任の三人の夜警、セシル(ディック・ヴァン・ダイク)、ガス(ミッキー・ルーニー)、レジナルド(ビル・コッブス)は、ラリーに手書きのマニュアルと鍵を手渡して退職してしまう。
残されたラリーは、最初の夜の見回りを始めるのだが、あろう事かセンターホールのティラノサウルスの化石が忽然と消えている。
驚いて探し回るラリーの前に現れたのは、骨だけで動き回るティラノサウルスだった。
それだけではない、なんとミニチュアのジオラマから蝋人形まで、博物館のありとあらゆる物が、動き出していた・・・・
NYの自然史博物館には15年位前に行った事があるが、映画に出てきたものとは微妙に違った気がする。
本物はもっと途轍もなく大きな建物だったような・・・?
しかしこの映画、夜の博物館に行ってみたいと一度でも思ったことのある人は観て損は無いと思う。
物語の発想は子供っぽく、実際に出来上がった映画も深い物は何も無いが、とにかく楽しい。
ルーズベルト大統領にフン族のアッティラ大王、はてはローマ皇帝オクタヴィウスやエジプトのファラオまでの歴史上の人物、骨だけのティラノサウルスやアフリカの動物たちまで、あらゆる展示品が生命を持って動き出す。
しかも彼らは敵対していたり、怒っていたり、いたずらしたりで放って置くと博物館が無茶苦茶になってしまうような大騒動を夜毎繰り広げるのだ。
古代ローマvs西部のカウボーイ、このビジュアルだけでも楽しいのだが、警備員であるラリーにとっては大問題。
彼は最初、この予想外の事態に尻尾を巻いて逃げ出そうとするが、賢人ルーズベルト大統領の助言や、何よりもリッキーの信頼を取り戻したいという思いで、この途方もなく奇妙な博物館の夜に立ち向かってゆく。
最初はルーズベルトが何代目の大統領かも知らなかったラリーが、陳列物の歴史や背景を勉強し、彼らの性格を把握し、何とか夜の博物館を手懐けてゆく。
前半はこの過程が中々楽しい。
そして後半になると、博物館のあらゆる物に生命を与えていたエジプトの魔法のタブレットが盗まれ、取り戻さなければ博物館が死んでしまうという事態が起こり、ラリーとバラエティ豊かな博物館の住人たちが、いかにしてタブレットを取り戻すのかというサスペンスが物語を盛り上げる。
日本では何故か人気の無いベン・スティラーだが、本作では流石に本領発揮、ノリノリの演技を見せる。
喜劇役者の大先輩であるルーズベルト役のロビン・ウィリアムズ、そして一癖も二癖もありそうな先任夜警たちを演じる、ベテラン三人との掛け合いは見所だ。
正直、ミッキー・ルーニーなんてとっくに死んでいると思っていた(笑
一応テーマ的には、ダメ男が始めて初志貫徹する事で父性を復権させ、親子の絆をとり戻すという事なんだろうけど、おもちゃ箱をひっくり返した様な映画の中では、隠し味程度の印象だ。
まあ元々テーマ性でみせる様な作品でもないし、テーマの部分は物語の底で押さえになっていれば十分なのだろう。
ただ、これが主人公の行動原理のベースにあるので、荒唐無稽なお話にわりとしっかりした芯が出来ている。
ラリーの父性復権という本筋に、ルーズベルトが伝説的なネイティブアメリカンの女性、サカジャエウァに寄せる恋心や、ローマ皇帝オクタヴィウスと西部の探検家ジェデディア・スミスとの仲良くどつきあう奇妙な友情などのサブストーリーも上手く絡み合い、物語の纏まりは悪くない。
「ナイトミュージアム」は決して深い映画ではないし、細かな突っ込みどころも沢山あるが、正に春休み向けのとても楽しいファミリー映画だ。
大人も子供も、これを観たらきっとまた博物館に行ってみたくなる。
そして夜の博物館に、ちょっとした想像をめぐらせる事だろう。
万人にお勧めできる娯楽映画だ。
今回は、楽しい映画を観て帰ってきて、そのまま楽しい夢を観るつもりで、ベッドタイムカクテル「ナイトキャップ」を。
元々ナイトキャップとは所謂寝酒の事で、色々なナイトキャップがあるのだが、今回は一般的にそのものの名で呼ばれるカクテル。
ブランデーとオレンジキュラソー、アニゼット、を2:1:1の割合で、これに卵黄を一つ落とし、シェイクして完成。
アニゼットは前回紹介した「ウゾ12」と同じアニスを原料としたリキュールで、香りに癖がある。
好み次第だが、この香りが嫌いでなければゆったりと体が温まり、心地よい夢に誘われるだろう。
香りがダメなら他のリキュールを試してみるのも良いが、個性の強いものの方が味がしっかりと締まる様だ。

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2007年03月12日 (月) | 編集 |
開場30分前に行ったのに、もう既に劇場の前は長蛇の列。
古代ギリシャとペルシャ帝国が戦ったペルシャ戦争の激戦地、テルモピレーの戦いを基にしたグラフィックノベルを映画化した「300」は、オスカーシーズン明けで、派手な大作を求めていた観客の要求にピタリと嵌ったようだ。
一説に総兵力200万人とも言われる、ペルシャ侵攻軍に立ち向かったスパルタ重装歩兵の数、300人がそのままタイトルとなっている。
紀元前480年8月。
日の出の勢いで勢力を広げるペルシャの影が、ギリシャにも迫る。
スパルタ王レオニダス(ジェラルド・バトラー)は、降伏を迫るペルシャ王クセルクセス一世(ロドリゴ・サントロ)の使者を殺害。
戦いは不可避とみたレオニダスは、主戦論と慎重論に揺れる議会の承認を待たず、300人の忠実な手勢を率いて最前線のテルモピレーへ向う。
そこは海岸から街道へ向う道が左右の切り立った崖に囲まれ、防御にはうってつけの場所だった。
レオニダスの妻ゴルゴー(リナ・ハーディー)は、何とか議会を説得して援軍を送ろうとするが、ペルシャの謀略は議会にも及んでいた。
その頃前線では、ついに100万を超えるペルシャ軍が上陸。
迎え撃つのはスパルタ軍300人と僅かな数のギリシャ同盟軍のみ。
レオニダスと300人のスパルタ兵たちの名を、歴史に永遠に刻む事になる三日間の激戦が始まった・・・・
観た事の無いタイプの映画であることは間違いない。
原作はヘロトドスの「歴史」に記されたテルモピレーの戦いを元に、フランク・ミラーとリン・バーレイがある程度の脚色を交えて描いた80ページほどの中篇で、リメイク版「ドーン・オブ・ザ・デッド」でシャープな映像感覚を見せたザック・スナイダー監督が映像化している。
映画はかなり原作に忠実・・・というか、いかに原作をそのまま映像に置き換えられるかが本作の基本的なコンセプトだ。
原作本は珍しい横長サイズで、広げると見開きいっぱいの戦闘シーンが迫力だが、映画もそれに合わせたようにシネスコサイズ。
あらゆるカットの構図やポーズがまるで絵画の様にビシッと決まり、本当に動くグラフィックノベルという感じだ。
巨大な画面で繰り広げられる、マッチョな半裸戦士たちの大迫力の肉弾戦も、殺陣の流れの中で、一番決まった瞬間をバレットタイムで強調する様な撮り方をしている。
漫画のコマ割りを思わせるが、今まで観た事の無い表現だと思う。
面白のは、ビジュアル表現は原作そのものにプラスして、他の漫画や映画の影響もチラチラしていて、たとえばペルシャ軍の描写や、一部の奇形キャラのデザインなどは原作よりも、日本の漫画「ベルセルク」の影響を感じるし、絵画的な戦闘シーン、特に矢の表現は明らかにチャン・イーモウの「英雄~HERO」だろう。
「ロード・オブ・ザ・リング」は言わずもがな。
格好の良い映像を作るためなら、原作のくくりをはみ出してもなりふり構わず追求するという、ある意味潔い姿勢だが、継ぎ接ぎ感は不思議とない。
ベースとなっているビジュアルイメージのコンセプトが明快なために、他からいただいてきたイメージも吸収されてしまうのだ。
ぶっちゃけた話、キャラクターの深い描きこみとか、歴史物としての物語の背景の広がりとかはあまり無い。
原作は事実関係をかなり整理して脚色しており、それほど時代考証に忠実な作品でもない。
ペルシャ戦争という歴史を描いた物語というより、あくまでも100万の敵に立ち向かった300人という判官びいきの心情に訴える英雄伝なのだ。
敵であるペルシャ側の描写なんて、もう相当にぶっ飛んでいて、クセルクセス王なんてチェ・ホンマンよりでかい巨人だし、顔ピアスだらけで「ヘルレイザー」に出てくる人(?)かと思った。
王のテント内なんて、まるで悪魔崇拝のサバトみたいだし(笑
最近には珍しく、政治的に正しい描写よりも原作通り、悪らしい悪っぽさが優先されている。
要するに「漫画」なのだ。
まあ物語を深読みすれば、ペルシャ帝国はまさにアメリカの言う「悪の枢軸」であるイランその物な訳で、僅か300人で孤軍奮闘するスパルタ軍がアメリカなのか?という見方も出来なくは無いが、たぶんそんな深い事は考えていないだろう。
物語はシンプルな原作で十分、後は原作の一コマ一コマを、いかに凄い映像に置き換えるのかという事に、全ての労力を捧げた様な映画なのだ。
ただこれを動く絵画と考えると、ある意味で原作を超えているのではないか。
洋邦を問わず、漫画の映画化は数多くあるが、映像表現で原作より凄いと思えたのはもしかしたら初めてかもしれない。
しかしこの映画、ほとんど全カットにエフェクトが加えられ、俳優の肉体を含めて実際にカメラによって現場で撮られた物がどの程度完成した画面に残っているのか、私にもわからない。
もうここまでくると、実写映画というよりも、実写を素材として使ったアニメーションといった方がしっくり来る気がする。
一言で言って「300」は超豪華な動く戦国絵巻であって、その意味ではかなりエポックな作品といえる。
フランク・ミラーの原作を読んでいる人にも、そうでない人にも「派手で凄い映像を観た」という満足観は確実に与えてくれる。
物語を観に行くというよりも、美術館で壮麗な歴史絵画の連作を鑑賞する、そんな印象の作品だ。
今回はギリシャのスピリット、「ウゾ12」で熱き心を燃やそう。
水で割ると、カルピスの様な色に白濁する事でしられるギリシャの大衆酒。
日本で言えば焼酎みたいなものだろうが、香草のアニスの強烈な香りが印象的で、日本人には好みが分かれるかもしれない。
当然ながらギリシャ料理との相性がよろしい。
映画の後でギリシャレストランでも行って、オリーブを齧りながらグビグビやるのも良いだろう。
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原作
アートブック。表紙から映画のコンセプトが良くわかる。
古代ギリシャとペルシャ帝国が戦ったペルシャ戦争の激戦地、テルモピレーの戦いを基にしたグラフィックノベルを映画化した「300」は、オスカーシーズン明けで、派手な大作を求めていた観客の要求にピタリと嵌ったようだ。
一説に総兵力200万人とも言われる、ペルシャ侵攻軍に立ち向かったスパルタ重装歩兵の数、300人がそのままタイトルとなっている。
紀元前480年8月。
日の出の勢いで勢力を広げるペルシャの影が、ギリシャにも迫る。
スパルタ王レオニダス(ジェラルド・バトラー)は、降伏を迫るペルシャ王クセルクセス一世(ロドリゴ・サントロ)の使者を殺害。
戦いは不可避とみたレオニダスは、主戦論と慎重論に揺れる議会の承認を待たず、300人の忠実な手勢を率いて最前線のテルモピレーへ向う。
そこは海岸から街道へ向う道が左右の切り立った崖に囲まれ、防御にはうってつけの場所だった。
レオニダスの妻ゴルゴー(リナ・ハーディー)は、何とか議会を説得して援軍を送ろうとするが、ペルシャの謀略は議会にも及んでいた。
その頃前線では、ついに100万を超えるペルシャ軍が上陸。
迎え撃つのはスパルタ軍300人と僅かな数のギリシャ同盟軍のみ。
レオニダスと300人のスパルタ兵たちの名を、歴史に永遠に刻む事になる三日間の激戦が始まった・・・・
観た事の無いタイプの映画であることは間違いない。
原作はヘロトドスの「歴史」に記されたテルモピレーの戦いを元に、フランク・ミラーとリン・バーレイがある程度の脚色を交えて描いた80ページほどの中篇で、リメイク版「ドーン・オブ・ザ・デッド」でシャープな映像感覚を見せたザック・スナイダー監督が映像化している。
映画はかなり原作に忠実・・・というか、いかに原作をそのまま映像に置き換えられるかが本作の基本的なコンセプトだ。
原作本は珍しい横長サイズで、広げると見開きいっぱいの戦闘シーンが迫力だが、映画もそれに合わせたようにシネスコサイズ。
あらゆるカットの構図やポーズがまるで絵画の様にビシッと決まり、本当に動くグラフィックノベルという感じだ。
巨大な画面で繰り広げられる、マッチョな半裸戦士たちの大迫力の肉弾戦も、殺陣の流れの中で、一番決まった瞬間をバレットタイムで強調する様な撮り方をしている。
漫画のコマ割りを思わせるが、今まで観た事の無い表現だと思う。
面白のは、ビジュアル表現は原作そのものにプラスして、他の漫画や映画の影響もチラチラしていて、たとえばペルシャ軍の描写や、一部の奇形キャラのデザインなどは原作よりも、日本の漫画「ベルセルク」の影響を感じるし、絵画的な戦闘シーン、特に矢の表現は明らかにチャン・イーモウの「英雄~HERO」だろう。
「ロード・オブ・ザ・リング」は言わずもがな。
格好の良い映像を作るためなら、原作のくくりをはみ出してもなりふり構わず追求するという、ある意味潔い姿勢だが、継ぎ接ぎ感は不思議とない。
ベースとなっているビジュアルイメージのコンセプトが明快なために、他からいただいてきたイメージも吸収されてしまうのだ。
ぶっちゃけた話、キャラクターの深い描きこみとか、歴史物としての物語の背景の広がりとかはあまり無い。
原作は事実関係をかなり整理して脚色しており、それほど時代考証に忠実な作品でもない。
ペルシャ戦争という歴史を描いた物語というより、あくまでも100万の敵に立ち向かった300人という判官びいきの心情に訴える英雄伝なのだ。
敵であるペルシャ側の描写なんて、もう相当にぶっ飛んでいて、クセルクセス王なんてチェ・ホンマンよりでかい巨人だし、顔ピアスだらけで「ヘルレイザー」に出てくる人(?)かと思った。
王のテント内なんて、まるで悪魔崇拝のサバトみたいだし(笑
最近には珍しく、政治的に正しい描写よりも原作通り、悪らしい悪っぽさが優先されている。
要するに「漫画」なのだ。
まあ物語を深読みすれば、ペルシャ帝国はまさにアメリカの言う「悪の枢軸」であるイランその物な訳で、僅か300人で孤軍奮闘するスパルタ軍がアメリカなのか?という見方も出来なくは無いが、たぶんそんな深い事は考えていないだろう。
物語はシンプルな原作で十分、後は原作の一コマ一コマを、いかに凄い映像に置き換えるのかという事に、全ての労力を捧げた様な映画なのだ。
ただこれを動く絵画と考えると、ある意味で原作を超えているのではないか。
洋邦を問わず、漫画の映画化は数多くあるが、映像表現で原作より凄いと思えたのはもしかしたら初めてかもしれない。
しかしこの映画、ほとんど全カットにエフェクトが加えられ、俳優の肉体を含めて実際にカメラによって現場で撮られた物がどの程度完成した画面に残っているのか、私にもわからない。
もうここまでくると、実写映画というよりも、実写を素材として使ったアニメーションといった方がしっくり来る気がする。
一言で言って「300」は超豪華な動く戦国絵巻であって、その意味ではかなりエポックな作品といえる。
フランク・ミラーの原作を読んでいる人にも、そうでない人にも「派手で凄い映像を観た」という満足観は確実に与えてくれる。
物語を観に行くというよりも、美術館で壮麗な歴史絵画の連作を鑑賞する、そんな印象の作品だ。
今回はギリシャのスピリット、「ウゾ12」で熱き心を燃やそう。
水で割ると、カルピスの様な色に白濁する事でしられるギリシャの大衆酒。
日本で言えば焼酎みたいなものだろうが、香草のアニスの強烈な香りが印象的で、日本人には好みが分かれるかもしれない。
当然ながらギリシャ料理との相性がよろしい。
映画の後でギリシャレストランでも行って、オリーブを齧りながらグビグビやるのも良いだろう。

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原作
アートブック。表紙から映画のコンセプトが良くわかる。


2007年03月07日 (水) | 編集 |
キャサリン・パターソン原作の児童小説「テラビシアにかける橋 "Bridge to Terabithia"」の映画化。
原作は未読なので、予告編やポスターの印象にだまされて、てっきり「ハリポタ」や「ナルニア」的な異世界ファンタジーだと思って観に行った。
ところが実際には異世界の部分はほんの僅かにスパイスとして使われているだけで、どちらかというと「スタンド・バイ・ミー」的な思春期の心の成長を扱った地味な物語。
ディズニー映画だけあって「パンズ・ラビリンス」の様なダークさは微塵も無いが、不器用な少年が友情、淡い恋、そして生と死に向かい合ったかけがえの無い時間が瑞々しく描かれ、これはこれでなかなかに感動的。
少年ジェス(ジョシュ・ハッチャーソン)にとっては、家も学校も居心地が悪い。
子沢山で裕福とは言えない家では、歳の離れた姉たちには何かにつけてからかわれるし、小さな妹は付きまとってちょっとうるさい。
学校には意地悪な同級生もいるし、上級生の女番長はもっと怖い。
ただ、音楽のエドモンド先生(ズーイー・ディシャネル)にはほのかな恋心を抱いている事もあって、音楽は好きだ。
とりあえずの自慢できる事は、絵が上手い事と足が速い事くらい。
ところが自慢の足も、休み明けのレースで都会からの転校生の女の子に負けてしまう。
レスリー(アンナソフィア・ロブ)と名乗ったその女の子は、裕福な家の一人娘だったが、偶然にもジェスの家の新しい隣人だった。
やがて空想好きの二人は、森の奥に自分たちだけの遊び場を見つけ、そこを空想の王国テラビシアと名付け、王と王女の役を演じる事に夢中になってゆく。
テラビシアでの小さな冒険は、現実世界でのジェスを少しずつアクティブに変えてゆく。
しかしある日、予想もしなかった悲劇が二人の日々を終わらせてしまう・・・・
「パンズ・ラビリンス」の幻想の世界は、戦争という切羽詰った状況が生み出した悪夢的迷宮だったが、それに比べれば本作の主人公ジェスの置かれた環境など可愛いもの。
ちょっと貧しくて、家では口喧しい女姉妹に囲まれ、自分の居場所がないと感じているくらいだ。
とは言うものの、子供本人としては結構真剣に悶々と悩んでいるのは、誰でも経験があるから判るだろう。
ジェスはカートゥーンを描くのが得意なくらいだから、元々空想力のある子供。
この時期の少年にとって、同世代の女の子はとにかく大人っぽく見える物だし、裕福で都会的に洗練されたレスリーにジェス影響されるのは至極当然な展開だ。
物語は、常に自分の周りのことで精一杯のジェスの視点で進む。
しっかり者のレスリーとテラビシアでの冒険を通じた友情を軸に、ジェスの家庭事情、姉妹との関係、学校のいじめっ子、エドモンド先生への恋など、地味ながらリアルなエピソードがバランスよく並び飽きさせない。
二人の空想から始まった、森の奥に広がる幻想の王国「テラビシア」は、どちらかというと逃避の場というよりも、自分の意思で世界を作る事で、個としての自分をしっかりと確立するステージという感じだろう。
だから最初の頃ジェスにとってのテラビシアは、恐ろしい怪物の跋扈する不安の森でもあった。
レスリーと二人で、文字通りテラビシアを手作りしながら、その世界で自分の責任を果たす事で、ジェスは少しずつ自信を付けてゆく。
そしてジェスをテラビシアに導いたレスリーを悲劇が襲い、そのことをジェスが自分の中でしっかりと受け止めた時、空想のテラビシアは始めてジェスを本当の王と認めるのだ。
主人公の二人を演じる、ジョシュ・ハッチャーソンとアンナソフィア・ロブは共に思春期の初々しさを感じさせて好演。
優柔不断で自分に自信の持てないジェスは、どっちかというと似たようなタイプの子供だった私には、妙にリアルに感じられた(笑
アンナソフィア・ロブは「チャーリーとチョコレート工場」のバイオレット役を演じていた子役だが、こんな子が同級生だったらクラスの男子は全員初恋に落ちているだろう。
本作では主題歌まで歌っちゃって、アメリカのティーンには次世代のアイドル的な存在なのかもしれない。
面白いのは、こんな魅力的な子が身近にいるのに、ジェスにとって「恋」の対象はあくまでもずっと年上のエドモンド先生で、レスリーに対してはどちらかというと友情+α止まりだと言う事。
私がジェスの立場だったら、レスリーが現れた瞬間エドモンド先生のことは忘れちゃいそうだけど、このあたり熱し難く冷め難そうなジェスの性格を反映してそうでリアルだ。
ジェスとレスリーの関係も、十歳前後という微妙な年齢ならではの独特な物かもしれない。
監督はガボア・クスポ・・・って誰?と思ったらプロデューサーとしての実績はあるが、監督としてはこれがデビュー作らしい。
強い個性は無いが、キャラクターをしっかりと掴んで細やかな心の機微を描き出しており、悪くない。
ただ、ジェスとレスリーが始めてテラビシアに渡るシーンで、演出的に絶対必要なあるカットを撮っていないなど、淡々とし過ぎて演出的なメリハリには欠ける印象がある。
個人的には子供を上手く撮れる人にダメ監督はいないと思うのだけど、次作に期待したい人である。
「テラビシアにかける橋」は、派手な娯楽ファンタジーを期待して観に行くと肩透かしを食らうが、田舎育ちの人なら誰にでも記憶があるであろう「空想の森」での冒険を思い出させてくれる、それなりに愛すべき佳作である。
はたしてこれが今現在の子供たちにとってリアルなのかは正直判らないが、少なくともいい歳した大人にとっては、ちょっと胸キュンな懐かしい時間に浸れる作品と言えるだろう。
今回は十歳の頃の自分を眺めるつもりで、ほろ苦く優しいお酒をチョイスしよう。
カリフォルニアはガイザー・ピークの2003年もの「カベルネ・ソーヴィニヨン」は、すっきりとした透明感のあるテイストに、りんごを芯に様々な果実が舌を楽しませる。
仄かに感じるにがみは青春の味?
ほろ酔い気分になれば、遠い記憶の中にいる自分と冒険の旅にでられるかも。
追記:ようやく日本公開が決まった様なのでタイトルの(仮)をとります。
2008年の正月第二弾の公開だそうです。
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原作は未読なので、予告編やポスターの印象にだまされて、てっきり「ハリポタ」や「ナルニア」的な異世界ファンタジーだと思って観に行った。
ところが実際には異世界の部分はほんの僅かにスパイスとして使われているだけで、どちらかというと「スタンド・バイ・ミー」的な思春期の心の成長を扱った地味な物語。
ディズニー映画だけあって「パンズ・ラビリンス」の様なダークさは微塵も無いが、不器用な少年が友情、淡い恋、そして生と死に向かい合ったかけがえの無い時間が瑞々しく描かれ、これはこれでなかなかに感動的。
少年ジェス(ジョシュ・ハッチャーソン)にとっては、家も学校も居心地が悪い。
子沢山で裕福とは言えない家では、歳の離れた姉たちには何かにつけてからかわれるし、小さな妹は付きまとってちょっとうるさい。
学校には意地悪な同級生もいるし、上級生の女番長はもっと怖い。
ただ、音楽のエドモンド先生(ズーイー・ディシャネル)にはほのかな恋心を抱いている事もあって、音楽は好きだ。
とりあえずの自慢できる事は、絵が上手い事と足が速い事くらい。
ところが自慢の足も、休み明けのレースで都会からの転校生の女の子に負けてしまう。
レスリー(アンナソフィア・ロブ)と名乗ったその女の子は、裕福な家の一人娘だったが、偶然にもジェスの家の新しい隣人だった。
やがて空想好きの二人は、森の奥に自分たちだけの遊び場を見つけ、そこを空想の王国テラビシアと名付け、王と王女の役を演じる事に夢中になってゆく。
テラビシアでの小さな冒険は、現実世界でのジェスを少しずつアクティブに変えてゆく。
しかしある日、予想もしなかった悲劇が二人の日々を終わらせてしまう・・・・
「パンズ・ラビリンス」の幻想の世界は、戦争という切羽詰った状況が生み出した悪夢的迷宮だったが、それに比べれば本作の主人公ジェスの置かれた環境など可愛いもの。
ちょっと貧しくて、家では口喧しい女姉妹に囲まれ、自分の居場所がないと感じているくらいだ。
とは言うものの、子供本人としては結構真剣に悶々と悩んでいるのは、誰でも経験があるから判るだろう。
ジェスはカートゥーンを描くのが得意なくらいだから、元々空想力のある子供。
この時期の少年にとって、同世代の女の子はとにかく大人っぽく見える物だし、裕福で都会的に洗練されたレスリーにジェス影響されるのは至極当然な展開だ。
物語は、常に自分の周りのことで精一杯のジェスの視点で進む。
しっかり者のレスリーとテラビシアでの冒険を通じた友情を軸に、ジェスの家庭事情、姉妹との関係、学校のいじめっ子、エドモンド先生への恋など、地味ながらリアルなエピソードがバランスよく並び飽きさせない。
二人の空想から始まった、森の奥に広がる幻想の王国「テラビシア」は、どちらかというと逃避の場というよりも、自分の意思で世界を作る事で、個としての自分をしっかりと確立するステージという感じだろう。
だから最初の頃ジェスにとってのテラビシアは、恐ろしい怪物の跋扈する不安の森でもあった。
レスリーと二人で、文字通りテラビシアを手作りしながら、その世界で自分の責任を果たす事で、ジェスは少しずつ自信を付けてゆく。
そしてジェスをテラビシアに導いたレスリーを悲劇が襲い、そのことをジェスが自分の中でしっかりと受け止めた時、空想のテラビシアは始めてジェスを本当の王と認めるのだ。
主人公の二人を演じる、ジョシュ・ハッチャーソンとアンナソフィア・ロブは共に思春期の初々しさを感じさせて好演。
優柔不断で自分に自信の持てないジェスは、どっちかというと似たようなタイプの子供だった私には、妙にリアルに感じられた(笑
アンナソフィア・ロブは「チャーリーとチョコレート工場」のバイオレット役を演じていた子役だが、こんな子が同級生だったらクラスの男子は全員初恋に落ちているだろう。
本作では主題歌まで歌っちゃって、アメリカのティーンには次世代のアイドル的な存在なのかもしれない。
面白いのは、こんな魅力的な子が身近にいるのに、ジェスにとって「恋」の対象はあくまでもずっと年上のエドモンド先生で、レスリーに対してはどちらかというと友情+α止まりだと言う事。
私がジェスの立場だったら、レスリーが現れた瞬間エドモンド先生のことは忘れちゃいそうだけど、このあたり熱し難く冷め難そうなジェスの性格を反映してそうでリアルだ。
ジェスとレスリーの関係も、十歳前後という微妙な年齢ならではの独特な物かもしれない。
監督はガボア・クスポ・・・って誰?と思ったらプロデューサーとしての実績はあるが、監督としてはこれがデビュー作らしい。
強い個性は無いが、キャラクターをしっかりと掴んで細やかな心の機微を描き出しており、悪くない。
ただ、ジェスとレスリーが始めてテラビシアに渡るシーンで、演出的に絶対必要なあるカットを撮っていないなど、淡々とし過ぎて演出的なメリハリには欠ける印象がある。
個人的には子供を上手く撮れる人にダメ監督はいないと思うのだけど、次作に期待したい人である。
「テラビシアにかける橋」は、派手な娯楽ファンタジーを期待して観に行くと肩透かしを食らうが、田舎育ちの人なら誰にでも記憶があるであろう「空想の森」での冒険を思い出させてくれる、それなりに愛すべき佳作である。
はたしてこれが今現在の子供たちにとってリアルなのかは正直判らないが、少なくともいい歳した大人にとっては、ちょっと胸キュンな懐かしい時間に浸れる作品と言えるだろう。
今回は十歳の頃の自分を眺めるつもりで、ほろ苦く優しいお酒をチョイスしよう。
カリフォルニアはガイザー・ピークの2003年もの「カベルネ・ソーヴィニヨン」は、すっきりとした透明感のあるテイストに、りんごを芯に様々な果実が舌を楽しませる。
仄かに感じるにがみは青春の味?
ほろ酔い気分になれば、遠い記憶の中にいる自分と冒険の旅にでられるかも。
追記:ようやく日本公開が決まった様なのでタイトルの(仮)をとります。
2008年の正月第二弾の公開だそうです。

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2007年03月05日 (月) | 編集 |

サンフランシスコの芝居小屋で、「ONE-MAN STAR WARS TRILOGY」という芝居、というかパフォーマンスを観た。
チャールズ・ロスというカナダ人の役者が、たった一人でSWの全キャラクターを演じ、効果音や音楽まで一人でやるという驚愕のパフォーマンス。
正にリアル「劇団ひとり」(笑
しかも一時間くらいの上演時間なのに、トリロジーのタイトルどおりに全部を詰め込んであるのだ(笑

はっきり言って限りなくアホであるが、実際に観ると、これはなかなか凄い。
昔大学に行っていた頃、「水戸黄門」の登場人物全部を一人で演じるという妙な8ミリ映画を作っている人がいたが、映画の場合はまだカット割りとカメラワークという武器があるので演じ分けはしやすい。
しかし、出ずっぱりの舞台の場合、本当に一人でキャラのアクションと声色を使い分け、しかもそれが客にわかるようにしなければならない。
SWのあのシーン、このシーンをいったい一人でどんな風に?という興味がほとんど全てのこの舞台、冒頭の二十世紀フォックスのファンファーレで既にクスクス笑いがもれはじめ、時間が進むにつれてロスのパフォーマンスはどんどんハイテンションに。
「ジェダイの復讐」まで来て、ルークvsヴェーダーvsパルパティンの三つ巴の戦いになると、もはや名人芸の域に達していて、素直に感動してしまった。
しかもアクションしながら音楽や効果音も口で付けてるし(笑
リアル阿修羅男爵を観ている気分である。
数々の工夫を凝らしたキャラ表現でも、私のお気に入りはほとんど腕の動きだけで表現されたジャバ・ザ・ハットで、これは本当に爆笑物。
一時間に凝縮されたトリロジーは本当にあっという間で、笑いすぎて胸が苦しくなった。
このパフォーマンス、SWファンには大ウケ間違いなしだ。
一時間の間、喋りっぱなし動きっぱなしのチャールズ・ロスは、このパフォーマンスを2001年に地元トロントで始め、以来世界中で公演の旅を続け、ルーカス卿の公認もめでたく取得。
今回のSF公演はルーカスの地元だけに、もしかして観に来たかも。
日本公演はまだの様だが、もし実現したらSWファンなら駆けつけて決して損はしない。
英語劇でも心配御無用。
何しろ話は誰でも知ってるトリロジーのダイジェストだし、「サガ」を何度も見ているファンなら、細かなアドリブは別としても、だいたいの流れは追えると思う。
脳内で映画を思い浮かべながら観れば、より楽しい。
ちなみに一人パフォーマンスの成功に味を占めたロスは、今度は「ONE-MAN LORD OF THE RINGS」なる新作も完成させているらしい(笑
こちらはロスのファンサイト。
http://www.onemanstarwars.com/

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2007年03月02日 (金) | 編集 |
うわぁ・・・想像していたのと全然違う。
予告編の印象から、ちょっとダークな「不思議な国のアリス」、あるいはアニメ好きの
ギレルモ・デル・トロならスペイン版の「千と千尋の神隠し」的な物を想像していた。
そして映画が始まってからもしばらくの間は、深い森と苔生した遺跡の風情などに、宮崎アニメ的な世界を感じていたのだが、まさか入り口は「千と千尋」でも出口まで行くと「火垂るの墓」だったとは!
正直なところこれほど凹む、いや切なく残酷な作品だとは想像も出来なかった。
メキシコの異才、ギレルモ・デル・トロの、これは間違いなく最高傑作。
戦争で愛する者、愛する世界を次々と失ってゆく少女が夢見る、理想の世界とはつまり・・・
1944年、フランコ独裁体制下のスペイン。
長く続いた内戦は終結に向かっているが、未だ地方の山岳地帯では戦いが続いている。
戦争で父を失ったオフェーリア(イバナ・バケロ)は、フランコ軍将校であるビダル大尉(セルジ・ロペス)と再婚した母カルメン(アリアドナ・ヒル)と共に、父の任地である最前線の山奥にやって来る。
カルメンはビダルの子を妊娠していたが、オフェーリアは、母を自分の世継ぎを生む機械くらいにしか思っていないビダルを決して父親とは認めない。
屋敷にはオフェーリア親子の世話をするメルセデス(マリベル・ベルドゥ)やファレーロ医師(アレックス・アンゲロ)も出入りしているが、実は彼らはレジスタンスの一員で、ビダルとは敵同士。
ある夜、オフェーリアは森で出会ったナナフシの妖精に導かれて、屋敷の奥の森にあるラビリンスに導かれる。
そこには「パン」と名乗る羊頭の男がいて、オフェーリアこそは遠い昔に悲劇の死を遂げた地底の国の姫の生まれ変わりではないかと言う。
パンはオフェーリアが本当に姫かどうかを確かめるために、三つの使命を与えるのだが・・・
ギレルモ・デル・トロは不思議な映画作家だ。
ハリウッドデビュー作となった「ミミック」以来、「ブレイド2」 「ヘルボーイ」といった作品では、B級オタクテイスト溢れるエンターテイナーぶりを発揮するのに対して、母国語であるスペイン語映画になると、本作や同じスペイン内戦を舞台とした「デビルズ・バックボーン」に見られるように、やたらと文学的な世界を展開する。
もっとも、ハリウッド映画も含めて、そのベースにある耽美的な美意識と異形愛は共通しているのだが。
本作の場合、思春期の少女が想像力の翼を広げ、幻想の世界に入り込むというお話自体は、「不思議の国のアリス」以来の定番であり、特に目新しいものでは無い。
実際、第一の使命を果たすとき、オフェーリアは青緑のドレスに白いエプロンという、アリスを思わせる姿で登場する。
だが、そのコスチュームは直ぐに脱いでしまった上に、泥まみれになってしまい、これがアリス的ファンタジーとは一線を画す物語であることが象徴的に描写される。
彼女が入り込む幻想の世界は、現実とはまた違った意味で悪夢的で禍々しく、上映時間に占める割合はごく短いのだが、世界観のデザインと造形は実に見事で強く印象に残る。
クリーチャーデザインは、ちょっと昔のマットジョージ風でもあり、ガマ怪物、いないないばあ怪物(以上、勝手に命名)と、どことなく東洋的な風情もあってユニークだ。
オフェーリアが幻想の世界に出入りするときに使うのが、出入り口を描くとそこにドアが出来る魔法のチョークというアイディアも、昔某漫画で見たような気がするが、このあたりのセンスはデル・トロのオタク趣味を反映しているのかもしれない。
勿論幻想世界の描写だけでなく、現実世界の陰鬱とした世界観も含め、ビジュアルイメージの作りこみは見事で、今年のオスカーで撮影、美術、メイクアップの三冠を制覇したのも納得の仕上がりだ。
物語は現実世界の戦争と、オフェーリアの抱く幻想の世界とが交互に描かれる。
現実世界では、オフェーリアが一番愛した父は戦死し、冷酷な養父がレジスタンスを狩り立て、妊娠中の母親は病に伏せる。
母親以外で唯一オフェーリアが心を許すメルセデスは、実はレジスタンスのスパイでオフェーリアもその正体を知るが、黙っている事を約束する。
フェアリーテイルの世界は、過酷な現実に疲れ切ったオフェーリアが逃げ込んだ先。
現実の世界が彼女を追い詰めれば追い詰めるほど、幻想の世界は力を持って広がり、オフェーリアの精神を取り込んでゆく。
いや、正確には逃げたのではなく、そこは彼女が彼女の世界を守るために、戦う事の出来る場所なのだ。
故に、この世界自体はオフェーリアの望む世界ではなく、そこへ行くまでの試練の場となっている。
大人たちが森で戦っている間、オフェーリアもまた戦っている。
幻想の世界での出来事は、大人たちの世界とは一見関係なさそうだが、そこもまた現実が生み出した世界であり、無関係ではいられない。
彼女自身最初気づいていないのだが、実は自分自身を守るため、妊娠して体調の優れないお母さんを回復させるため、嫌いな養父の子だけども母の胎内に抱かれた弟に愛を与えるため、オフェーリアは怪物たちの待つ世界で試練を受け、マンドレイクの魔法に自らの血を与える。
しかし、お母さんが魔法を拒絶し、現実がまたも愛する者を奪っていった時、物語の結末とオフェーリアの運命は決まったのかもしれない。
現実から生まれた幻想の世界が、現実に拒絶された時、オフェーリアに残された唯一の道は、幻想の世界で望みを叶える事。
しかし、彼女に課された最後の試練とは・・・
映画のラストは、深い。
果たして、これは悲劇なのか、それともオフェーリアの視点からはハッピーエンドなのか、観る者の心の奥底に重い余韻を残して物語は幕を閉じる。
秋の日本公開まではだいぶ間があるので、今回核心部分のネタバレは避けたが、秋にもう一度観て、改めてディープに語ってみたい作品である。
ファンタジーの装いではあるが、子供が巻き込まれる凄惨な戦争映画でもある。
大人でも目を背けたくなる描写もあり、幼い子供に観せたらトラウマ化必至の作品なので注意。
基本的には大人のための映画だ。
今回は血のように濃い、スペインの赤ワイン「ヴィーニャス・デ・ガイン」の2003年をチョイス。
スペイン有数のワイン産地リオハの名品。
今まさにこのワインを飲みながらこの文章を書いているが、ロバート・パーカーが93ポイントを付けるのも納得の仕上がりだ。
パーカーほど詩的な表現力は持ち合わせていないが、オフェーリアの幻想のような繊細さと、午前十一時の太陽のような陽気さを併せ持つ、映画に劣らぬ名作だと言っておこう。
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ヴィーニャス・デ・ガイン
スペイン内戦を舞台にした異色作。本作の源流か。
ハリウッド進出作は、ゴキブリホラー。虫への偏愛ぶりは本作でも健在。
予告編の印象から、ちょっとダークな「不思議な国のアリス」、あるいはアニメ好きの
ギレルモ・デル・トロならスペイン版の「千と千尋の神隠し」的な物を想像していた。
そして映画が始まってからもしばらくの間は、深い森と苔生した遺跡の風情などに、宮崎アニメ的な世界を感じていたのだが、まさか入り口は「千と千尋」でも出口まで行くと「火垂るの墓」だったとは!
正直なところこれほど凹む、いや切なく残酷な作品だとは想像も出来なかった。
メキシコの異才、ギレルモ・デル・トロの、これは間違いなく最高傑作。
戦争で愛する者、愛する世界を次々と失ってゆく少女が夢見る、理想の世界とはつまり・・・
1944年、フランコ独裁体制下のスペイン。
長く続いた内戦は終結に向かっているが、未だ地方の山岳地帯では戦いが続いている。
戦争で父を失ったオフェーリア(イバナ・バケロ)は、フランコ軍将校であるビダル大尉(セルジ・ロペス)と再婚した母カルメン(アリアドナ・ヒル)と共に、父の任地である最前線の山奥にやって来る。
カルメンはビダルの子を妊娠していたが、オフェーリアは、母を自分の世継ぎを生む機械くらいにしか思っていないビダルを決して父親とは認めない。
屋敷にはオフェーリア親子の世話をするメルセデス(マリベル・ベルドゥ)やファレーロ医師(アレックス・アンゲロ)も出入りしているが、実は彼らはレジスタンスの一員で、ビダルとは敵同士。
ある夜、オフェーリアは森で出会ったナナフシの妖精に導かれて、屋敷の奥の森にあるラビリンスに導かれる。
そこには「パン」と名乗る羊頭の男がいて、オフェーリアこそは遠い昔に悲劇の死を遂げた地底の国の姫の生まれ変わりではないかと言う。
パンはオフェーリアが本当に姫かどうかを確かめるために、三つの使命を与えるのだが・・・
ギレルモ・デル・トロは不思議な映画作家だ。
ハリウッドデビュー作となった「ミミック」以来、「ブレイド2」 「ヘルボーイ」といった作品では、B級オタクテイスト溢れるエンターテイナーぶりを発揮するのに対して、母国語であるスペイン語映画になると、本作や同じスペイン内戦を舞台とした「デビルズ・バックボーン」に見られるように、やたらと文学的な世界を展開する。
もっとも、ハリウッド映画も含めて、そのベースにある耽美的な美意識と異形愛は共通しているのだが。
本作の場合、思春期の少女が想像力の翼を広げ、幻想の世界に入り込むというお話自体は、「不思議の国のアリス」以来の定番であり、特に目新しいものでは無い。
実際、第一の使命を果たすとき、オフェーリアは青緑のドレスに白いエプロンという、アリスを思わせる姿で登場する。
だが、そのコスチュームは直ぐに脱いでしまった上に、泥まみれになってしまい、これがアリス的ファンタジーとは一線を画す物語であることが象徴的に描写される。
彼女が入り込む幻想の世界は、現実とはまた違った意味で悪夢的で禍々しく、上映時間に占める割合はごく短いのだが、世界観のデザインと造形は実に見事で強く印象に残る。
クリーチャーデザインは、ちょっと昔のマットジョージ風でもあり、ガマ怪物、いないないばあ怪物(以上、勝手に命名)と、どことなく東洋的な風情もあってユニークだ。
オフェーリアが幻想の世界に出入りするときに使うのが、出入り口を描くとそこにドアが出来る魔法のチョークというアイディアも、昔某漫画で見たような気がするが、このあたりのセンスはデル・トロのオタク趣味を反映しているのかもしれない。
勿論幻想世界の描写だけでなく、現実世界の陰鬱とした世界観も含め、ビジュアルイメージの作りこみは見事で、今年のオスカーで撮影、美術、メイクアップの三冠を制覇したのも納得の仕上がりだ。
物語は現実世界の戦争と、オフェーリアの抱く幻想の世界とが交互に描かれる。
現実世界では、オフェーリアが一番愛した父は戦死し、冷酷な養父がレジスタンスを狩り立て、妊娠中の母親は病に伏せる。
母親以外で唯一オフェーリアが心を許すメルセデスは、実はレジスタンスのスパイでオフェーリアもその正体を知るが、黙っている事を約束する。
フェアリーテイルの世界は、過酷な現実に疲れ切ったオフェーリアが逃げ込んだ先。
現実の世界が彼女を追い詰めれば追い詰めるほど、幻想の世界は力を持って広がり、オフェーリアの精神を取り込んでゆく。
いや、正確には逃げたのではなく、そこは彼女が彼女の世界を守るために、戦う事の出来る場所なのだ。
故に、この世界自体はオフェーリアの望む世界ではなく、そこへ行くまでの試練の場となっている。
大人たちが森で戦っている間、オフェーリアもまた戦っている。
幻想の世界での出来事は、大人たちの世界とは一見関係なさそうだが、そこもまた現実が生み出した世界であり、無関係ではいられない。
彼女自身最初気づいていないのだが、実は自分自身を守るため、妊娠して体調の優れないお母さんを回復させるため、嫌いな養父の子だけども母の胎内に抱かれた弟に愛を与えるため、オフェーリアは怪物たちの待つ世界で試練を受け、マンドレイクの魔法に自らの血を与える。
しかし、お母さんが魔法を拒絶し、現実がまたも愛する者を奪っていった時、物語の結末とオフェーリアの運命は決まったのかもしれない。
現実から生まれた幻想の世界が、現実に拒絶された時、オフェーリアに残された唯一の道は、幻想の世界で望みを叶える事。
しかし、彼女に課された最後の試練とは・・・
映画のラストは、深い。
果たして、これは悲劇なのか、それともオフェーリアの視点からはハッピーエンドなのか、観る者の心の奥底に重い余韻を残して物語は幕を閉じる。
秋の日本公開まではだいぶ間があるので、今回核心部分のネタバレは避けたが、秋にもう一度観て、改めてディープに語ってみたい作品である。
ファンタジーの装いではあるが、子供が巻き込まれる凄惨な戦争映画でもある。
大人でも目を背けたくなる描写もあり、幼い子供に観せたらトラウマ化必至の作品なので注意。
基本的には大人のための映画だ。
今回は血のように濃い、スペインの赤ワイン「ヴィーニャス・デ・ガイン」の2003年をチョイス。
スペイン有数のワイン産地リオハの名品。
今まさにこのワインを飲みながらこの文章を書いているが、ロバート・パーカーが93ポイントを付けるのも納得の仕上がりだ。
パーカーほど詩的な表現力は持ち合わせていないが、オフェーリアの幻想のような繊細さと、午前十一時の太陽のような陽気さを併せ持つ、映画に劣らぬ名作だと言っておこう。

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ヴィーニャス・デ・ガイン
スペイン内戦を舞台にした異色作。本作の源流か。
ハリウッド進出作は、ゴキブリホラー。虫への偏愛ぶりは本作でも健在。
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