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蟲師・・・・・評価額850円
2007年03月29日 (木) | 編集 |
漆原友紀「蟲師」大友克洋が映画化すると聞いたとき、「え?何で大友克洋?」と思った物だ。
確かに彼は「AKIRA」始めアニメの監督として実績があるし、「ワールドアパートメントホラー」など実写の経験もある。
しかし原作「蟲師」のキャラクターの内面描写を中心とした、幽玄の世界にたゆたう様な世界観からは真逆というか、合わないのではないかという危惧をもったのだ。
そして完成した映画版「蟲師」は、残念ながらその通りとなってしまった。

「蟲」と呼ばれる異界の生き物が人間と共生する世界。
蟲によって起こる災いを解決する「蟲師」であるギンコ(オダギリジョー)は、雪深い山里で「阿」「吽」という蟲に侵された人々を治療する。
彼は幼い頃の記憶を持たない。
実は山津波で母を失った後、隻眼白髪の蟲師ヌイ(江角マキコ)に育てられた経験を持つのだが、ある事件によって記憶を失っていた。
虹の形をした「虹蛇」という蟲を追う虹郎(大森南朋)という男と旅をする事になったギンコは、ある日蟲に纏わる事件を記録している淡幽(蒼井優)から、手紙で呼び出されるのだが・・・・


うーん、何でこうなってしまったのか。
とにかく話が判り難い。
漆原友紀の原作は一話完結の短編なので、映画はギンコの過去に纏わる「眇の魚」という「ビギニング」的なエピソードを引き伸ばした上で物語のコアに設定し、それに原作の幾つかのエピソードを組み合わせるという手法をとっている。
そのアイディア自体は悪くないのだが、映画用に新たに構成されたプロットが全く整理不足・描写不足で一体何が起こっているのか、登場人物が何を考えているのかがサッパリ判らない。
原作の短いエピソードの中ではしっかりと描写されていた登場人物の感情の流れが、ぶつ切りにされた上に整合性を欠いたままツギハギされているので、何がなんだかといううちに終わってしまう。
虹郎は何故あれほど虹蛇に固執するのか、何故あれほどギンコを慕うようになったのか。
ヌイは何故あのような行動をとったのか、唖の男は何者なのか。
ギンコが自然に治ってしまったのは何故なのか。
辻褄の合わない、あるいは説明不足で観客がおいていかれてしまう描写があまりにも多い。
これ脚本の時点で、意味不明なのが判らなかったのだろうか。
だとしたら書いた人間も読んだ人間も、能力が低いと言わざるを得ない。
一言で言って、出来の悪い自主映画みたいな脚本である。

元々、漫画家大友克洋という人は、物語の構成力で見せる人ではなく、緻密な世界観と勢いで押し流す様な強引な展開で、なんとか物語を完結させている印象が強い。
自作ならそれで何とかなったのかもしれないが、どちらかというと昔話の様にまったりとして詩的な漆原友紀の世界を映画化するには、それではダメなのは始めから判り切っていた事だろう。
物語を構成出来ないのなら、別の人間に書かせるべきだった。

それでも世界観の映像化に関しては、流石ビジュアルの人だけあってある程度はみせる。
山深い日本の原風景的な世界は美しく、肝心の「蟲」の描写も説得力がある。
ただここでも、原作の世界観と映画の世界観のミスマッチ感は残る。
原作者曰く、「蟲師」の世界観は江戸と明治の間に存在したかの様なイメージの「何処にもない世界」だったはずで、確か原作では「日本」という言葉すら出てこないと思う。
だからこそ、この不思議な御伽噺のような世界が成立しているのだが、映画版「蟲師」では、舞台が明らかに近代の一時期の日本である事を示唆する様な台詞が幾つもある。
原作になく、映画にはあるという事は、かなり意図的に世界観の変更を観客に提示しているという事だが、そのことが何の意味を持つのかも判らない。
漫画の映像化には、大雑把言って徹底的に原作の世界を再現するか、あえて原作から離れるかという二つのやり方があると思う。
そして「蟲師」はビジュアル的には明らかに前者なのにも関わらず、台詞であえてそれを壊す様なインフォメーションを仕込む意図は何なのだろう。
特に意図が無かったとしたら、それこそ物語における台詞の重要性を理解していないという事で、それはそれで問題なのだが。

脚本がこの有様だから予想はつくが、演出的にも褒められた物ではない。
全体にドラマ的な抑揚を欠いた物語に引きずられるように、一カット一カットも間延びした無意味なカットが多い。
良く言えば「行間の間がある」だが、悪く言えば「ダラダラしていて退屈」である。
そもそも「間」とは物語上の意味があって初めて効果があるものであって、物語がよく判らないのに、展開の無い部分を引き伸ばされても意味がない。
例えば終盤、ギンコが養母であるヌイを背負って延々山を歩くシーンがあるが、何で歩いているのかが判らないので、観客はそこに間の意味を感じる事が出来ない。

思うに、この脚本を渡された役者たちも困ったのではないだろうか。
何しろ行動原理が明示されていないのだから、キャラクターが何故このように行動し、何故このような台詞を言うのかがあまりにも漠然としている。
それでも流石に上手い役者はそれなりにぶれずに演じきっているが、中には何のために存在しているのか判らないようなキャラクターも多く、シーンごとにキャラが変わってしまっている可哀想な人もいた。
タイトルロールの蟲師のギンコを演じるオダギリジョーは、それなりに説得力のあるギンコ像を演じていたと思うが、漫画のコスプレになりすぎてビジュアル的にはギンコというよりも成長したキタロウに見えてしまうのが悲しい。

実は「蟲師」にはテレビアニメ版もあり、こちらは中々に優れた作品である。
無理に下手糞な実写版を作るより、アニメのスタッフで長編劇場版を作って欲しい。
その方がよほど見応えのある作品になるような気がする。

さて、原作の「蟲師」には「光酒」という命の元という設定の黄金色の酒が登場するが、この酒のイメージに最も近いのは日本酒の古酒だろう。
今回は天狗舞「古々酒大吟醸」をチョイス。
昔、この酒を始めて飲んだときの衝撃は忘れられない。
仄かに黄金色を帯びたこの美しい液体は、蟲師ならぬ能登杜氏が伝統を封じ込めた芸術品だ。
映画よりもお酒の方が「蟲師」の世界を感じさせると思うのは私だけだろうか。

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