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2007年04月30日 (月) | 編集 |
人間たちが痛々しい。
神が創った人間が、天に近づくほど高いバベルの塔を作ろうとしたとき、神は怒り一つだった人間たちの言葉を別々のいくつもの言語に分け、互いに話しが出来なくした。
言葉を分かたれた人間たちは、散り散りになり今も永遠の混沌の中にいる。
アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督の「バベル」は、そのタイトルのとおり色々な意味で分断された孤独な人間たちを描いた現代の寓話である。
モロッコの山羊飼いの少年が、いたずらで放った弾丸が一発。
その弾は偶然にも、観光バスに乗っていたアメリカ人夫婦リチャード(ブラッド・ピット)とスーザン(ケイト・ブランシェット)の妻の体を貫く。
彼らは夫婦の絆を取り戻すための旅の途中だった。
アメリカ政府は事件をテロと見なし、モロッコ警察は犯人を血眼で捜し始める。
事件に使われたライフルは、日本人ハンターのヤスジロー(役所広司)がモロッコ人ガイドに譲ったものだった。
カリフォルニアでは、メキシコ人ベビーシッターのアメリア(アドリアナ・バラッザ)が夫婦の二人の子供と留守を預かっていた。
彼女はメキシコで行われる息子の結婚式を楽しみにしていたが、事件のおかげで夫婦の帰国は遅れ結婚式に間に合わなくなる。
どうしても出席したい彼女は、雇い主の二人の子供をつれて、メキシコに行くことを決意する。
その頃東京では、ヤスジローの聾唖の娘チエコ(菊地凛子)が、絶望的な孤独の中さ迷っていた。
母親の自殺以来、父親とのコミュニケーションもギクシャクしているチエコは、自らの生の証を求めるように、歯医者を誘惑し、モロッコの事件を調べに来た刑事の胸で慟哭する。
メキシコで結婚式に出席したアメリアは、甥のサンチャゴ(ガエル・ガルシア・ベルナル)の車でカリフォルニアに帰ろうとするが、国境の検問で最悪のトラブルを引き起こしてしまう・・・・
一見した所、一件の交通事故から様々な人間模様が描かれてゆく「クラッシュ」に似ている。
ただ、あちらは一つ一つの出来事が時にご都合主義を感じさせるほど密接に絡み合い、結果的に物語がLAの雪というファンタジーに向けて収束してゆくのに対して、「バベル」で描かれるエピソード間の関連性は希薄だ。
ビリヤードの玉のように、一つのショットがいくつもの玉を動かしてゆくのとは異なり、世界のあちこちで同時多発的に人間が過ちを犯し、それがもたらした結果の中であがいている。
それぞれのエピソードをつなぐ細い糸は、これが人類の物語であるということを示すためのロジックに過ぎない。
「バベル」で描かれるのは分断、混乱、そして救済。
モロッコで撃たれたアメリカ人夫婦は、聖書の記述そのままに、異なる文化の中で分断と混乱を味わう。
しかし結果的に、その経験が失われかけた夫婦の絆を取り戻すきっかけとなる。
妻の自殺以来、家の中で分断されたままだった日本の親子もまた、混乱の末に互いの手をとりあう。
対して、アメリカ人夫婦を撃ってしまったモロッコの少年の家族、そしてアメリカ人夫婦の子供たちのベビーシッターであるメキシコ女性は、結局救済を受けずに物語は終わる。
アメリカ、日本、メキシコ、モロッコ。
富める者には救済が用意されているが、相対的貧者は救済されないあたりに、イニャリトゥの人間への深い洞察と切ない愛情が見て取れる。
ただ同時に疑問が無い訳でもない。
米国での公開時から言われてきた「登場人物が紋切り型」という批判は、なるほどある程度的確な指摘だ。
場所と時系列をシャッフルした物語構造の影響もあり、登場人物は全体に深みに欠ける。
彼らが生きてきた過去の長い人生をあまり感じることが出来ないのだ。
特にモロッコとアメリカ、メキシコのエピソードは、それぞれに物語がテンポ良く進んでゆくので、なおさらキャラクターをじっくりと見せる間を欠いており、どちらかというと俳優の力に頼った演出になってしまっている。
またモロッコの少年とメキシコ人ベビーシッターが陥った災いは、ある意味で彼ら自身の浅はかな行動の結果であって、冷静に観ると同情は出来るが感情移入しにくいのも事実だ。
もちろんこれは弱い立場にいる者ほど、悪循環に陥りやすいという意図があるのだろうが、そのことが上手く表現されているとは言いがたく、むしろそれぞれの物語を連鎖させるための作為を感じさせてしまう。
このあたりは、少々作劇のロジックに凝り過ぎて、本質が薄味になってしまった感は否めない。
一方で、日本のエピソードは他のエピソードとの関連が間接的なものに留まっている事もあり、独立した物語の印象が強い。
聾唖の少女の魂の慟哭は、観る者の胸を強く打ち、すべてのエピソードの中でもっとも強く、はっきりと救済を暗示させる。
イニャリトゥが他の登場人物以上に菊地凛子演じるチエコをフィーチャーし、彼女の救済を物語の大トリに持ってきているのは、日本という富める社会の中で、聾唖という障害、母の自殺という心の傷によって孤独を抱え込んだチエコというキャラクターが、物語全体のテーマを象徴すると考えたからだろう。
小さな家の中での和解が、バベルの塔を思わせる無数の摩天楼がそびえる東京の空へ広がってゆくカットはこの作品を象徴する素晴らしいカットだった。
「バベル」は、人間性というものを多角的な視点から描こうとした意欲作であり、非常に観応えがある作品だ。
少し似た物語構造を持つ「クラッシュ」が、最終的に物語をファンタジーに落とし込む事で、人間への希望を表現していたのに対して、イニャリトゥはあくまでも生身の人間のリアルにこだわる。
それは作品としては必ずしも成功していない部分を含むのだが、分断と混乱の中であがく人間たちの姿は、観る者の心に静かな波紋を投げかける。
個人的には初めてイニャリトゥを知った「アモーレス・ペロス」ほどのインパクトは感じなかったが、大変な力作なのは確かであり、観る価値のある作品だと思う。
今回は、人間のポジティブなつながりを感じさせてくれるお酒をチョイス。
私も最近紹介されて知ったお酒なのだが、栃木県のCOCOファームワイナリーの「白」。
こちらは元々、こころみ学園という知的障害を持つ人たちの施設が主体となって設立されたワイナリーで、今から半世紀ほど前に彼ら自身によって開墾された畑をルーツに持つ。
現在ではカリフォルニアにも畑があり、国産葡萄とのブレンドでワインを生産しているが、なかなかに見事な仕上がりだ。
白は洋梨を思わせる酸味と甘みがあり、若干の苦味が舌に残るが不快な苦味ではなく良い意味でワインのクセになっている。
インターナショナルな広がりも含め、人間の絆を感じさせてくれるお酒ではないか。
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神が創った人間が、天に近づくほど高いバベルの塔を作ろうとしたとき、神は怒り一つだった人間たちの言葉を別々のいくつもの言語に分け、互いに話しが出来なくした。
言葉を分かたれた人間たちは、散り散りになり今も永遠の混沌の中にいる。
アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督の「バベル」は、そのタイトルのとおり色々な意味で分断された孤独な人間たちを描いた現代の寓話である。
モロッコの山羊飼いの少年が、いたずらで放った弾丸が一発。
その弾は偶然にも、観光バスに乗っていたアメリカ人夫婦リチャード(ブラッド・ピット)とスーザン(ケイト・ブランシェット)の妻の体を貫く。
彼らは夫婦の絆を取り戻すための旅の途中だった。
アメリカ政府は事件をテロと見なし、モロッコ警察は犯人を血眼で捜し始める。
事件に使われたライフルは、日本人ハンターのヤスジロー(役所広司)がモロッコ人ガイドに譲ったものだった。
カリフォルニアでは、メキシコ人ベビーシッターのアメリア(アドリアナ・バラッザ)が夫婦の二人の子供と留守を預かっていた。
彼女はメキシコで行われる息子の結婚式を楽しみにしていたが、事件のおかげで夫婦の帰国は遅れ結婚式に間に合わなくなる。
どうしても出席したい彼女は、雇い主の二人の子供をつれて、メキシコに行くことを決意する。
その頃東京では、ヤスジローの聾唖の娘チエコ(菊地凛子)が、絶望的な孤独の中さ迷っていた。
母親の自殺以来、父親とのコミュニケーションもギクシャクしているチエコは、自らの生の証を求めるように、歯医者を誘惑し、モロッコの事件を調べに来た刑事の胸で慟哭する。
メキシコで結婚式に出席したアメリアは、甥のサンチャゴ(ガエル・ガルシア・ベルナル)の車でカリフォルニアに帰ろうとするが、国境の検問で最悪のトラブルを引き起こしてしまう・・・・
一見した所、一件の交通事故から様々な人間模様が描かれてゆく「クラッシュ」に似ている。
ただ、あちらは一つ一つの出来事が時にご都合主義を感じさせるほど密接に絡み合い、結果的に物語がLAの雪というファンタジーに向けて収束してゆくのに対して、「バベル」で描かれるエピソード間の関連性は希薄だ。
ビリヤードの玉のように、一つのショットがいくつもの玉を動かしてゆくのとは異なり、世界のあちこちで同時多発的に人間が過ちを犯し、それがもたらした結果の中であがいている。
それぞれのエピソードをつなぐ細い糸は、これが人類の物語であるということを示すためのロジックに過ぎない。
「バベル」で描かれるのは分断、混乱、そして救済。
モロッコで撃たれたアメリカ人夫婦は、聖書の記述そのままに、異なる文化の中で分断と混乱を味わう。
しかし結果的に、その経験が失われかけた夫婦の絆を取り戻すきっかけとなる。
妻の自殺以来、家の中で分断されたままだった日本の親子もまた、混乱の末に互いの手をとりあう。
対して、アメリカ人夫婦を撃ってしまったモロッコの少年の家族、そしてアメリカ人夫婦の子供たちのベビーシッターであるメキシコ女性は、結局救済を受けずに物語は終わる。
アメリカ、日本、メキシコ、モロッコ。
富める者には救済が用意されているが、相対的貧者は救済されないあたりに、イニャリトゥの人間への深い洞察と切ない愛情が見て取れる。
ただ同時に疑問が無い訳でもない。
米国での公開時から言われてきた「登場人物が紋切り型」という批判は、なるほどある程度的確な指摘だ。
場所と時系列をシャッフルした物語構造の影響もあり、登場人物は全体に深みに欠ける。
彼らが生きてきた過去の長い人生をあまり感じることが出来ないのだ。
特にモロッコとアメリカ、メキシコのエピソードは、それぞれに物語がテンポ良く進んでゆくので、なおさらキャラクターをじっくりと見せる間を欠いており、どちらかというと俳優の力に頼った演出になってしまっている。
またモロッコの少年とメキシコ人ベビーシッターが陥った災いは、ある意味で彼ら自身の浅はかな行動の結果であって、冷静に観ると同情は出来るが感情移入しにくいのも事実だ。
もちろんこれは弱い立場にいる者ほど、悪循環に陥りやすいという意図があるのだろうが、そのことが上手く表現されているとは言いがたく、むしろそれぞれの物語を連鎖させるための作為を感じさせてしまう。
このあたりは、少々作劇のロジックに凝り過ぎて、本質が薄味になってしまった感は否めない。
一方で、日本のエピソードは他のエピソードとの関連が間接的なものに留まっている事もあり、独立した物語の印象が強い。
聾唖の少女の魂の慟哭は、観る者の胸を強く打ち、すべてのエピソードの中でもっとも強く、はっきりと救済を暗示させる。
イニャリトゥが他の登場人物以上に菊地凛子演じるチエコをフィーチャーし、彼女の救済を物語の大トリに持ってきているのは、日本という富める社会の中で、聾唖という障害、母の自殺という心の傷によって孤独を抱え込んだチエコというキャラクターが、物語全体のテーマを象徴すると考えたからだろう。
小さな家の中での和解が、バベルの塔を思わせる無数の摩天楼がそびえる東京の空へ広がってゆくカットはこの作品を象徴する素晴らしいカットだった。
「バベル」は、人間性というものを多角的な視点から描こうとした意欲作であり、非常に観応えがある作品だ。
少し似た物語構造を持つ「クラッシュ」が、最終的に物語をファンタジーに落とし込む事で、人間への希望を表現していたのに対して、イニャリトゥはあくまでも生身の人間のリアルにこだわる。
それは作品としては必ずしも成功していない部分を含むのだが、分断と混乱の中であがく人間たちの姿は、観る者の心に静かな波紋を投げかける。
個人的には初めてイニャリトゥを知った「アモーレス・ペロス」ほどのインパクトは感じなかったが、大変な力作なのは確かであり、観る価値のある作品だと思う。
今回は、人間のポジティブなつながりを感じさせてくれるお酒をチョイス。
私も最近紹介されて知ったお酒なのだが、栃木県のCOCOファームワイナリーの「白」。
こちらは元々、こころみ学園という知的障害を持つ人たちの施設が主体となって設立されたワイナリーで、今から半世紀ほど前に彼ら自身によって開墾された畑をルーツに持つ。
現在ではカリフォルニアにも畑があり、国産葡萄とのブレンドでワインを生産しているが、なかなかに見事な仕上がりだ。
白は洋梨を思わせる酸味と甘みがあり、若干の苦味が舌に残るが不快な苦味ではなく良い意味でワインのクセになっている。
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2007年04月29日 (日) | 編集 |
私は元々リリー・フランキーのイラストや文章はそれほど好きではないので、200万部の大ベストセラーとなった本作の原作も読んでいないし、テレビドラマも観逃している。
さすがにこれだけ話題になると、本を読んでいなくても大体の粗筋は知っていたが、あまり興味の無かった本作を観にいったのは、オカンのキャスティングに妙に惹かれたからだ。
そしてやはり、「東京タワー オカンとボクと、時々、オトン」は樹木希林あっての作品であり、彼女のため(つまりはリリー・フランキーの亡きオカンのための)映画になっている。
1960年代初め「ボク」(オダギリジョー/冨浦智嗣/田中平)は、愛情深いオカン(樹木希林/内田也哉子)に見守られながら九州で育った。
建築家で絵描きの端くれだったオトン(小林薫)は、時々しか家に帰ってこない自由人。
やがてオカンとボクは、寂れ始めた炭鉱町にあったオカンの実家に暮らすようになる。
カエルの子はカエル、幼い頃から絵が好きだったボクは、東京の美大に進学するも、放蕩三昧の日々を送り、就職もせず借金まみれのその日暮らし。
そんなボクを変えたのは、オカンの病気だった。
喉の癌にオカンが倒れた事をきっかけに、生活を改めたボクは、やがてある程度の成功を収めオカンを東京に呼び寄せるのだが・・・・・
たぶん泣かされるんだろうなあ、と思いつつ、やっぱり泣かされてしまった。
一言で言えば、ダメ人間の息子からの、苦労をかけた亡き母親への懺悔であり、感謝状の様な作品である。
リリー・フランキー氏以上のダメ息子である私としては、とても人事とは思えない。
改心するまでのボクの放蕩ぶりなんて、まるで鏡を見てるようで恥ずかしくなった(汗
物語的に、若干「北の国から」とかぶるところがある。
地方から東京に出てきた息子が、放蕩の限りを尽くして、ついに親子の愛を再確認するあたり、あの国民的ドラマの父親と母親を交換したバージョンと見る事もできるだろう。
ハリウッド映画では近年鼻につく位家族の愛を前面に出した物が多くなったが、なんだかんだ言っても日本人だって親子の情愛物には弱いのだ。
結局これは全地球的に普遍的な感情だという事だろう。
樹木希林が素晴らしい。
この作品は間違いなく彼女無しではありえないし、圧倒的な説得力をもって「ボク」の最愛のオカンを演じている。
若い頃のオカンを実の娘である内田也哉子を演じているのも絶妙で、当たり前だが二人の入れ替わりはまったく違和感がない。
その分、「ボク」が高校生から大学に入ると、突然オダギリジョーになってしまうのがチョイ気になってしまった。
まあ些細な事だし、オダギリジョーもなかなかの好演で、話が進むにつれてどう見ても似ているとは言えないリリー・フランキーに見えてくる。
割を食った形なのが時々オトンを演じた小林薫か。
決して悪くは無いのだが、オカンのインパクトが強すぎて、割と普通の良い人に見えてしまうのが少々残念。
ここはもうちょっとアクの強い人が欲しかった気がする。
観ながら、たとえば内田裕也あたりでも良かったかなあと思ったが、そうすると内田家のドキュメンタリー(笑)になってしまうのでさじ加減が難しいところだ。
その他、大量のカメオ出演者を含む演技陣は実に豪華なのだが、これ見よがしの撮り方はしてないので、細かいところで誰が出てるのか、後からDVDでチェックするのも楽しいだろう。
松岡錠司の演出は泣かせのツボを抑えてあるものの、決してこれでもかという強引さは無く、淡々とボクとオカンの40年を描く。
読んでないので原作にどこまで忠実なのかはわからないが、松尾スズキの完成度の高い脚本を、演出がでしゃばり過ぎず、キャラクターの感情に忠実に描いていて好感が持てる。
「バタアシ金魚」の頃の強い個性はなりを潜めているが、ベテランらしい円熟を感じさせる仕事だと思う。
松岡組常連の笠松則通の画作りもしっとりとした物語によく馴染み、1960年代の九州から現代の東京までを違和感無く作り上げたビジュアルも抜かりは無い。
実に丁寧な作りの作品である。
「東京タワー オカンとボクと、時々、オトン」は、「ベストセラーの映画化にありがちな安直な企画なのでは?」と、結構意地悪な目で観ても、結果的にストレートに泣かされてしまう、素直に良い映画だ。
この過剰なまでのマザコンっぷりに引くという人もいるだろうが、男なんて誰でも多少はマザコンの気があるものだし、この映画に描かれた親子双方からの深い愛はそのまま素直に受け取りたい。
この時期の封切は、おそらく母の日にあわせたのだろうが、実際のところここまでのストレートな愛情表現を母親と観られる男はそうそういるまい。
オカンに捧げられた映画ではあるが、実際にオカンと観るのは気恥ずかし過ぎる。
だが、これを観るとだれでも親孝行しなきゃなあ・・・・という気分にはなるだろう。
エンドロールの福山雅治の主題歌まで、しんみりと泣かせてくれる良い出来だった。
今回は島根県の澄川酒造場のその名も「東洋美人 純米吟醸 愛山」をチョイス。
希少な酒米「愛山」を使った、まったりとしたコクとまろやかさ、そしてふわりと広がる果実のような吟醸香が印象的な優しい酒だ。
この映画を観た後は、こんな酒を飲みながら、オカンの手料理を食べたくなる。
たまにはマザコンな気分で酒を飲むのも悪くなかろう。
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さすがにこれだけ話題になると、本を読んでいなくても大体の粗筋は知っていたが、あまり興味の無かった本作を観にいったのは、オカンのキャスティングに妙に惹かれたからだ。
そしてやはり、「東京タワー オカンとボクと、時々、オトン」は樹木希林あっての作品であり、彼女のため(つまりはリリー・フランキーの亡きオカンのための)映画になっている。
1960年代初め「ボク」(オダギリジョー/冨浦智嗣/田中平)は、愛情深いオカン(樹木希林/内田也哉子)に見守られながら九州で育った。
建築家で絵描きの端くれだったオトン(小林薫)は、時々しか家に帰ってこない自由人。
やがてオカンとボクは、寂れ始めた炭鉱町にあったオカンの実家に暮らすようになる。
カエルの子はカエル、幼い頃から絵が好きだったボクは、東京の美大に進学するも、放蕩三昧の日々を送り、就職もせず借金まみれのその日暮らし。
そんなボクを変えたのは、オカンの病気だった。
喉の癌にオカンが倒れた事をきっかけに、生活を改めたボクは、やがてある程度の成功を収めオカンを東京に呼び寄せるのだが・・・・・
たぶん泣かされるんだろうなあ、と思いつつ、やっぱり泣かされてしまった。
一言で言えば、ダメ人間の息子からの、苦労をかけた亡き母親への懺悔であり、感謝状の様な作品である。
リリー・フランキー氏以上のダメ息子である私としては、とても人事とは思えない。
改心するまでのボクの放蕩ぶりなんて、まるで鏡を見てるようで恥ずかしくなった(汗
物語的に、若干「北の国から」とかぶるところがある。
地方から東京に出てきた息子が、放蕩の限りを尽くして、ついに親子の愛を再確認するあたり、あの国民的ドラマの父親と母親を交換したバージョンと見る事もできるだろう。
ハリウッド映画では近年鼻につく位家族の愛を前面に出した物が多くなったが、なんだかんだ言っても日本人だって親子の情愛物には弱いのだ。
結局これは全地球的に普遍的な感情だという事だろう。
樹木希林が素晴らしい。
この作品は間違いなく彼女無しではありえないし、圧倒的な説得力をもって「ボク」の最愛のオカンを演じている。
若い頃のオカンを実の娘である内田也哉子を演じているのも絶妙で、当たり前だが二人の入れ替わりはまったく違和感がない。
その分、「ボク」が高校生から大学に入ると、突然オダギリジョーになってしまうのがチョイ気になってしまった。
まあ些細な事だし、オダギリジョーもなかなかの好演で、話が進むにつれてどう見ても似ているとは言えないリリー・フランキーに見えてくる。
割を食った形なのが時々オトンを演じた小林薫か。
決して悪くは無いのだが、オカンのインパクトが強すぎて、割と普通の良い人に見えてしまうのが少々残念。
ここはもうちょっとアクの強い人が欲しかった気がする。
観ながら、たとえば内田裕也あたりでも良かったかなあと思ったが、そうすると内田家のドキュメンタリー(笑)になってしまうのでさじ加減が難しいところだ。
その他、大量のカメオ出演者を含む演技陣は実に豪華なのだが、これ見よがしの撮り方はしてないので、細かいところで誰が出てるのか、後からDVDでチェックするのも楽しいだろう。
松岡錠司の演出は泣かせのツボを抑えてあるものの、決してこれでもかという強引さは無く、淡々とボクとオカンの40年を描く。
読んでないので原作にどこまで忠実なのかはわからないが、松尾スズキの完成度の高い脚本を、演出がでしゃばり過ぎず、キャラクターの感情に忠実に描いていて好感が持てる。
「バタアシ金魚」の頃の強い個性はなりを潜めているが、ベテランらしい円熟を感じさせる仕事だと思う。
松岡組常連の笠松則通の画作りもしっとりとした物語によく馴染み、1960年代の九州から現代の東京までを違和感無く作り上げたビジュアルも抜かりは無い。
実に丁寧な作りの作品である。
「東京タワー オカンとボクと、時々、オトン」は、「ベストセラーの映画化にありがちな安直な企画なのでは?」と、結構意地悪な目で観ても、結果的にストレートに泣かされてしまう、素直に良い映画だ。
この過剰なまでのマザコンっぷりに引くという人もいるだろうが、男なんて誰でも多少はマザコンの気があるものだし、この映画に描かれた親子双方からの深い愛はそのまま素直に受け取りたい。
この時期の封切は、おそらく母の日にあわせたのだろうが、実際のところここまでのストレートな愛情表現を母親と観られる男はそうそういるまい。
オカンに捧げられた映画ではあるが、実際にオカンと観るのは気恥ずかし過ぎる。
だが、これを観るとだれでも親孝行しなきゃなあ・・・・という気分にはなるだろう。
エンドロールの福山雅治の主題歌まで、しんみりと泣かせてくれる良い出来だった。
今回は島根県の澄川酒造場のその名も「東洋美人 純米吟醸 愛山」をチョイス。
希少な酒米「愛山」を使った、まったりとしたコクとまろやかさ、そしてふわりと広がる果実のような吟醸香が印象的な優しい酒だ。
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2007年04月21日 (土) | 編集 |
今から17年前のバブル時代、NHKが70億円の巨費を注ぎ込んで、ハリウッドで製作した一本のSF映画があった。
西暦2050年、太陽が突如として膨張を初め、巨大な太陽フレアによって地球は滅亡の危機に瀕する。
人類は反物質爆弾を搭載した宇宙船ヘリオス号を太陽に送り、太陽の膨張を止めようとする、というのがその物語。
本作「サンシャイン2057」のプロットを最初に聞いたとき、邦題まで劇似のハリウッド製NHK映画「クライシス2050」の基本設定を、太陽が膨らむのと萎むのを逆にしたリメイクなのかと思った。
搭乗員の中に一人だけ日本人がいたりするのも同じで、とにかく設定には共通項が多い。
西暦2057年、太陽は死にかけていた。
人類は、マンハッタン島のサイズの巨大核爆弾を搭載した宇宙船イカロス2号を太陽に送り、太陽内部の核融合を活性化させる計画に最後の希望を託した。
乗組員はキャプテン・カネダ(真田広之)以下、核物理学者のキャパ(キリアン・マーフィー)、生物学者のコラゾン(ミッシェル・ヨー)ら世界各国から集まった8人。
船は長い旅の末に水星に到達、その重力を利用して太陽への最後の行程に旅立った。
長い間の宇宙生活の影響で乗組員たちの間に軋轢も目立ってきた頃、イカロス2号に奇妙な信号が届く。
それは7年前に消息を絶った、イカロス1号からの救難信号だった。
1号の核爆弾が生きていれば、計画の成功の可能性が増すと考えたクルーたちは、進路を変更して1号の救助へ向かう。
果たして7年の間待ち続けた1号に、生存者はいるのだろうか・・・・・
前作、「28日後…」ではゾンビ映画の世界観を使って、ディープな心理スリラーを作り上げたダニー・ボイルの事、今回はあまりの出来の悪さにアラン・スミシー監督名義(笑)となり、誰もが忘れているバブリーなSF映画の設定を借りてきて、同じような事をしようとしたのだろうと予想した。
結論から言うと、確かに「クライシス2050」と似た部分は多いのだが、実は古今東西のさまざまなSF映画がごった煮的に設定やプロットに取り込まれている。
思いつくだけでも、他に「イベントホライゾン」「2001年宇宙の旅」「エイリアン」「サイレントランニング」といった作品の要素がチラホラ。
全体の印象としては「クライシス2050」の設定で「イベントホライゾン」の物語をやったといった感じだろうか。
基本的な作品のコンセプトは、予想通り「28日後…」と良く似ている。
SFの設定を使った心理スリラーである。
人類の未来が自分たちにかかっているという切迫感、閉鎖空間がもたらす濃密で微妙な人間関係。
比較的ゆったりとしたペースで描かれる8人の登場人物たちのドラマは、なかなかに良く出来ており、7年前に消息を絶ったはずのイカロス1号からの謎の救難信号が届いてからは、ミステリー的な要素も加わって飽きさせない。
そして孤独な宇宙空間で、あまりにも巨大な太陽と対峙する人間という舞台装置が、この作品にハードSFとしての哲学性と神秘性を付与している。
「サンシャイン2057」を並みのSFスリラー以上のものにしているのは、何よりも徹底的に作りこまれたコンセプトデザインと、圧倒的な太陽のビジュアルである。
まさにSFの決め手はディティールにあるという事を再確認させてもらった。
この作品を観れば誰でも、まるで自分がイカロス2号の乗組員として宇宙を旅しているような錯覚を起こすだろう。
そのくらい映像は見事であり、ここしばらくのSF映画の中でも圧倒的に素晴らしい。
物語の中で、登場人物の多くが太陽そのものに魅了され、宗教的な啓示すら感じている様に設定されているが、それに説得力を与えているのは、間違いなくビジュアルの見事さである。
惜しむらくは「もう一人の乗組員」が登場した後の展開が、あまりにもホラーチックすぎて、なおかつ「イベントホライゾン」に似すぎている点だ。
物語的な盛り上げにはなっているのだが、本作のハードSFとしての風格には若干水を差す展開だったのではないだろうか。
ホラー的な展開が前面に出すぎて、彼らはいったい太陽で何を見て、何を感じたのか、太陽とは彼らにとって何だったのかがぼやけてしまった。
人間がその本当の姿を絶対に見ることが出来ない(観た瞬間目が焼けてしまう)太陽という、ある意味で神そのものの様な存在と対峙したときの人間たちの姿が、本来この作品の核であるはずで、ここまでホラー色を強める必要は無かったというのが正直なところだ。
ダニー・ボイルという映画作家の資質にも関係するのかもしれないが、「イベントホライゾン」だけではなく、様々な映画のシチュエーションをそのまんま感じさせてしまうのも、トータルで考えるとネガティブな面が強いと思う。
もっとも観ていてしょっちゅうデジャヴを感じさせるのは、SFファンには元ネタを想像して楽しめる要素でもある。
宇宙船の中に森があるというのは、70年代を代表する傑作「サイレントランニング」だし、コンピューターとの対峙は「2001年宇宙の旅」を思わせる。
また、太陽に向かう宇宙船の名前が、ギリシャ神話で翼を付けてどこまでも天に昇って行って、ついには翼の蝋が溶けて墜落したイカロスだったり、物語の語り部の役目をするキャラクターがロバート・キャパ(笑)だったり、言葉の遊びも楽しい。
太陽に向かう船にそんな名前付けちゃいかんだろう(笑
ところで、いろいろなデジャヴを感じた本作だが、どうしてもオリジナルが思い出せないのが二点。
一つは暴走するコンピューターを止めるために、冷却水の中に無理やり押し込むというシーン。
もう一つは、未知の第三者が密航しているがゆえに、宇宙船の酸素が足りなくなってしまうという部分。
この二点はそっくりなシチュエーションを別の作品で観た様な記憶があるのだが、どうにも思い出せずにもやもやする。
ご存知の方は是非教えて欲しい。
今回は、真田広之のサムライ魂に敬意を表して、滋賀県の北島酒造の「太陽の一滴」をチョイス。
「いってき」ではなく「ひとしずく」と読ませる。
適度に酸味が感じられ、純米酒らしいふくよかさを持つバランスの良い飲みやすいお酒。
太陽に消えたイカロスたちが何を見たのか、一滴分だけでも知りたかった。
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西暦2050年、太陽が突如として膨張を初め、巨大な太陽フレアによって地球は滅亡の危機に瀕する。
人類は反物質爆弾を搭載した宇宙船ヘリオス号を太陽に送り、太陽の膨張を止めようとする、というのがその物語。
本作「サンシャイン2057」のプロットを最初に聞いたとき、邦題まで劇似のハリウッド製NHK映画「クライシス2050」の基本設定を、太陽が膨らむのと萎むのを逆にしたリメイクなのかと思った。
搭乗員の中に一人だけ日本人がいたりするのも同じで、とにかく設定には共通項が多い。
西暦2057年、太陽は死にかけていた。
人類は、マンハッタン島のサイズの巨大核爆弾を搭載した宇宙船イカロス2号を太陽に送り、太陽内部の核融合を活性化させる計画に最後の希望を託した。
乗組員はキャプテン・カネダ(真田広之)以下、核物理学者のキャパ(キリアン・マーフィー)、生物学者のコラゾン(ミッシェル・ヨー)ら世界各国から集まった8人。
船は長い旅の末に水星に到達、その重力を利用して太陽への最後の行程に旅立った。
長い間の宇宙生活の影響で乗組員たちの間に軋轢も目立ってきた頃、イカロス2号に奇妙な信号が届く。
それは7年前に消息を絶った、イカロス1号からの救難信号だった。
1号の核爆弾が生きていれば、計画の成功の可能性が増すと考えたクルーたちは、進路を変更して1号の救助へ向かう。
果たして7年の間待ち続けた1号に、生存者はいるのだろうか・・・・・
前作、「28日後…」ではゾンビ映画の世界観を使って、ディープな心理スリラーを作り上げたダニー・ボイルの事、今回はあまりの出来の悪さにアラン・スミシー監督名義(笑)となり、誰もが忘れているバブリーなSF映画の設定を借りてきて、同じような事をしようとしたのだろうと予想した。
結論から言うと、確かに「クライシス2050」と似た部分は多いのだが、実は古今東西のさまざまなSF映画がごった煮的に設定やプロットに取り込まれている。
思いつくだけでも、他に「イベントホライゾン」「2001年宇宙の旅」「エイリアン」「サイレントランニング」といった作品の要素がチラホラ。
全体の印象としては「クライシス2050」の設定で「イベントホライゾン」の物語をやったといった感じだろうか。
基本的な作品のコンセプトは、予想通り「28日後…」と良く似ている。
SFの設定を使った心理スリラーである。
人類の未来が自分たちにかかっているという切迫感、閉鎖空間がもたらす濃密で微妙な人間関係。
比較的ゆったりとしたペースで描かれる8人の登場人物たちのドラマは、なかなかに良く出来ており、7年前に消息を絶ったはずのイカロス1号からの謎の救難信号が届いてからは、ミステリー的な要素も加わって飽きさせない。
そして孤独な宇宙空間で、あまりにも巨大な太陽と対峙する人間という舞台装置が、この作品にハードSFとしての哲学性と神秘性を付与している。
「サンシャイン2057」を並みのSFスリラー以上のものにしているのは、何よりも徹底的に作りこまれたコンセプトデザインと、圧倒的な太陽のビジュアルである。
まさにSFの決め手はディティールにあるという事を再確認させてもらった。
この作品を観れば誰でも、まるで自分がイカロス2号の乗組員として宇宙を旅しているような錯覚を起こすだろう。
そのくらい映像は見事であり、ここしばらくのSF映画の中でも圧倒的に素晴らしい。
物語の中で、登場人物の多くが太陽そのものに魅了され、宗教的な啓示すら感じている様に設定されているが、それに説得力を与えているのは、間違いなくビジュアルの見事さである。
惜しむらくは「もう一人の乗組員」が登場した後の展開が、あまりにもホラーチックすぎて、なおかつ「イベントホライゾン」に似すぎている点だ。
物語的な盛り上げにはなっているのだが、本作のハードSFとしての風格には若干水を差す展開だったのではないだろうか。
ホラー的な展開が前面に出すぎて、彼らはいったい太陽で何を見て、何を感じたのか、太陽とは彼らにとって何だったのかがぼやけてしまった。
人間がその本当の姿を絶対に見ることが出来ない(観た瞬間目が焼けてしまう)太陽という、ある意味で神そのものの様な存在と対峙したときの人間たちの姿が、本来この作品の核であるはずで、ここまでホラー色を強める必要は無かったというのが正直なところだ。
ダニー・ボイルという映画作家の資質にも関係するのかもしれないが、「イベントホライゾン」だけではなく、様々な映画のシチュエーションをそのまんま感じさせてしまうのも、トータルで考えるとネガティブな面が強いと思う。
もっとも観ていてしょっちゅうデジャヴを感じさせるのは、SFファンには元ネタを想像して楽しめる要素でもある。
宇宙船の中に森があるというのは、70年代を代表する傑作「サイレントランニング」だし、コンピューターとの対峙は「2001年宇宙の旅」を思わせる。
また、太陽に向かう宇宙船の名前が、ギリシャ神話で翼を付けてどこまでも天に昇って行って、ついには翼の蝋が溶けて墜落したイカロスだったり、物語の語り部の役目をするキャラクターがロバート・キャパ(笑)だったり、言葉の遊びも楽しい。
太陽に向かう船にそんな名前付けちゃいかんだろう(笑
ところで、いろいろなデジャヴを感じた本作だが、どうしてもオリジナルが思い出せないのが二点。
一つは暴走するコンピューターを止めるために、冷却水の中に無理やり押し込むというシーン。
もう一つは、未知の第三者が密航しているがゆえに、宇宙船の酸素が足りなくなってしまうという部分。
この二点はそっくりなシチュエーションを別の作品で観た様な記憶があるのだが、どうにも思い出せずにもやもやする。
ご存知の方は是非教えて欲しい。
今回は、真田広之のサムライ魂に敬意を表して、滋賀県の北島酒造の「太陽の一滴」をチョイス。
「いってき」ではなく「ひとしずく」と読ませる。
適度に酸味が感じられ、純米酒らしいふくよかさを持つバランスの良い飲みやすいお酒。
太陽に消えたイカロスたちが何を見たのか、一滴分だけでも知りたかった。

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2007年04月15日 (日) | 編集 |
「面白ければ、それでいい!」とは、なんとも潔いキャッチコピー。
本編の主人公万源九郎も、口癖のように「おもしれえ!」を連発する。
予告編から、ポスターから、キャッチから、露骨にB級プログラムピクチャを連想させる「大帝の剣」は、どうやら「面白い」が唯一絶対の作品の存在意義で、観客への公約の様なものらしい。
結論から言うと、確かに面白かった。
ただし最初の30分だけ、ね・・・・・。
遠い昔に宇宙から飛来した超金属オリハルコン。
それは三つの神器に加工され、なぜか全て17世紀の日本にあった。
その一つ、巨大な長剣である「大帝の剣」を持つ万源九郎(阿部寛)は、とにかく面白い事が大好きな豪放磊落な巨漢。
ある日、徳川方に追われた豊臣方の舞姫(長谷川京子)を助ける羽目になるのだが、徳川にはオリハルコンを狙う妖怪忍者土蜘蛛衆が付いていた。
豊臣方も徳川方も、持つ者に無限の力を与えるというオリハルコンの三つの神器を手に入れようとしていたのだ。
同じころ、千年も戦い続けていた二人の宇宙人が地球に墜落、それぞれが姫と土蜘蛛の頭領の体を乗っ取ってしまう。
かくして、源九郎は頼りない護衛の忍者佐助(宮藤官九郎)と、半分宇宙人の姫と共に、残りの神器を探す旅に出るのだが・・・
正直、あんまり語る気が起きない映画なのだが、それでは身も蓋もないので、一応なぜ30分で失速してしまったのかを考えてみた。
要するに、狙いがあざと過ぎかつ、作りが雑過ぎなのだ。
そもそも、この映画のコンセプトって古くないか?
昔のB級プログラムピクチャをあえて笑い飛ばして楽しむって、かなり前にコアな映画ファンの間で流行ったけど、正直いまさらという感じだ。
徹底的にチープかつおちゃらけて、パロディ的に笑い飛ばしたいのかと思うと、普通のアクション時代劇的な撮り方をしてる部分もあり、妙に中途半端。
子供向けのファンタジーとして観ると、結構残酷な流血描写も多く、いったい誰にみせたい作品なのか理解に苦しむ。
宇宙人の人間ののっとり方なんてモロ「吸血鬼ゴケミドロ」だったりして、B級ファンをニヤリとさせるところもあるのだけど、トータルだとパロディにもなってないし。
作り手が馴れ合いで作って内輪で楽しんでいる様なノリが鼻に付き、映画というよりも限りなくバラエティに近いテレビの安い二時間ドラマを見ているような印象だ。
監督の堤幸彦という人は、役者の素を生かしてキャラクターを立てるのが上手い。
だからこの作品も、個性的な登場人物たちが次々と登場して、冒険の世界に身を投じてゆく冒頭はキャラの魅力で話が持つ。
どことなく「トリック」とかぶる阿部寛の万源九郎も、とりあえずは漫画チックでなかなかに魅力的なキャラクターとなっている。
旅の仲間の長谷川京子とクドカンも、いつものまんまといえばそうなのだが、それぞれのキャラ自体はわかりやすい。
長谷川京子は、以前から表情の無い人だなあという印象ではあったけど、今回のハーフ宇宙人はまるで能面がはりついた様に無表情で、これはこれで個性を生かしていると言うべきか(笑
その他、やたらハイテンションの悪役は竹内力、お色気忍者は杉本彩、腹芸の得意そうなおやかた様は津川雅彦ととにかくわかりやすく、楽しいキャラが満載だ。
関係ないけど、タツノコプロの「ヤッターマン」が実写映画されるが、ドロンジョさまは是非とも杉本姐さんにやっていただきたい。
キャラは楽しい、しかし逆に言えばそれだけの映画。
主な登場人物が一通りそろい、いざ三人が目的に向かって旅を始めると、映画はとたんにテンポを失ってしまう。
起承転結の承以降の展開があまりに雑過ぎる。
B級プログラムピクチャ風に作るというのは、別に適当に見せ場のエピソードをつなぎ合わせるのとは違うだろう。
思いついたエピソードをとりあえずツギハギしている様にしかみえず、特に三人の三角関係みたいな部分はダラダラしていて見るに耐えない。
この手の映画では、あんなものはそれこそ匂わせるくらいで良いのだ。
「SW/EP5」の「I love you 」「I know」程度で十分なのである。
アクションも流れが無くて唐突に話しに割って入っているという印象で、盛り上がりに欠く。
あと、せっかくの三つの神器が生きていない。
タイトルにもなっている「大帝の剣」はあまりにも長すぎて殺陣にならず、アクションにはほとんど使われていない。
普通の日本刀で大体決着が付いたあと、ライダーキックかスペシュウム光線みたいにキメ技にはなっているのだが、特にそれを強調して撮っている訳ではないので、あまり目立たないし活躍しない印象になってしまっている。
ほかの神器も含めて、オリハルコンが持ち手を選ぶという設定が実際の描写にまったく生かされておらず、単に出てきただけなのは勿体無い。
「大帝の剣」は、良くも悪くも堤幸彦のバラエティ的内輪ノリな面が強調された作品で、とりあえず彼の映画はみんな好きという人にはたぶん楽しめるだろう。
が、この作品の本来のウリであるはずの、アクション・SF・ファンタジーなB級映画をこよなく愛する私にとっては、なんとも中途半端であざとい印象の作品だった。
今回は映画があまりにも軽くて薄いので、ちょっと濃くてユニークな酒を。
小林酒造の「江戸期古伝柱焼酎造り清酒SAMURAI ROCK秘剣燕返し」というすごい名前の酒は、清酒もろみに 焼酎を添加し搾るという手法で作られた清酒。
その歴史は意外と古く、江戸時代まで遡ると言う。
製法から想像できるように、日本酒と焼酎の良いとこ取りをしたような独特の風味で、すっきりとしている。
活躍しないオリハルコンの剣よりは、よほど切れ味鋭い。
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本編の主人公万源九郎も、口癖のように「おもしれえ!」を連発する。
予告編から、ポスターから、キャッチから、露骨にB級プログラムピクチャを連想させる「大帝の剣」は、どうやら「面白い」が唯一絶対の作品の存在意義で、観客への公約の様なものらしい。
結論から言うと、確かに面白かった。
ただし最初の30分だけ、ね・・・・・。
遠い昔に宇宙から飛来した超金属オリハルコン。
それは三つの神器に加工され、なぜか全て17世紀の日本にあった。
その一つ、巨大な長剣である「大帝の剣」を持つ万源九郎(阿部寛)は、とにかく面白い事が大好きな豪放磊落な巨漢。
ある日、徳川方に追われた豊臣方の舞姫(長谷川京子)を助ける羽目になるのだが、徳川にはオリハルコンを狙う妖怪忍者土蜘蛛衆が付いていた。
豊臣方も徳川方も、持つ者に無限の力を与えるというオリハルコンの三つの神器を手に入れようとしていたのだ。
同じころ、千年も戦い続けていた二人の宇宙人が地球に墜落、それぞれが姫と土蜘蛛の頭領の体を乗っ取ってしまう。
かくして、源九郎は頼りない護衛の忍者佐助(宮藤官九郎)と、半分宇宙人の姫と共に、残りの神器を探す旅に出るのだが・・・
正直、あんまり語る気が起きない映画なのだが、それでは身も蓋もないので、一応なぜ30分で失速してしまったのかを考えてみた。
要するに、狙いがあざと過ぎかつ、作りが雑過ぎなのだ。
そもそも、この映画のコンセプトって古くないか?
昔のB級プログラムピクチャをあえて笑い飛ばして楽しむって、かなり前にコアな映画ファンの間で流行ったけど、正直いまさらという感じだ。
徹底的にチープかつおちゃらけて、パロディ的に笑い飛ばしたいのかと思うと、普通のアクション時代劇的な撮り方をしてる部分もあり、妙に中途半端。
子供向けのファンタジーとして観ると、結構残酷な流血描写も多く、いったい誰にみせたい作品なのか理解に苦しむ。
宇宙人の人間ののっとり方なんてモロ「吸血鬼ゴケミドロ」だったりして、B級ファンをニヤリとさせるところもあるのだけど、トータルだとパロディにもなってないし。
作り手が馴れ合いで作って内輪で楽しんでいる様なノリが鼻に付き、映画というよりも限りなくバラエティに近いテレビの安い二時間ドラマを見ているような印象だ。
監督の堤幸彦という人は、役者の素を生かしてキャラクターを立てるのが上手い。
だからこの作品も、個性的な登場人物たちが次々と登場して、冒険の世界に身を投じてゆく冒頭はキャラの魅力で話が持つ。
どことなく「トリック」とかぶる阿部寛の万源九郎も、とりあえずは漫画チックでなかなかに魅力的なキャラクターとなっている。
旅の仲間の長谷川京子とクドカンも、いつものまんまといえばそうなのだが、それぞれのキャラ自体はわかりやすい。
長谷川京子は、以前から表情の無い人だなあという印象ではあったけど、今回のハーフ宇宙人はまるで能面がはりついた様に無表情で、これはこれで個性を生かしていると言うべきか(笑
その他、やたらハイテンションの悪役は竹内力、お色気忍者は杉本彩、腹芸の得意そうなおやかた様は津川雅彦ととにかくわかりやすく、楽しいキャラが満載だ。
関係ないけど、タツノコプロの「ヤッターマン」が実写映画されるが、ドロンジョさまは是非とも杉本姐さんにやっていただきたい。
キャラは楽しい、しかし逆に言えばそれだけの映画。
主な登場人物が一通りそろい、いざ三人が目的に向かって旅を始めると、映画はとたんにテンポを失ってしまう。
起承転結の承以降の展開があまりに雑過ぎる。
B級プログラムピクチャ風に作るというのは、別に適当に見せ場のエピソードをつなぎ合わせるのとは違うだろう。
思いついたエピソードをとりあえずツギハギしている様にしかみえず、特に三人の三角関係みたいな部分はダラダラしていて見るに耐えない。
この手の映画では、あんなものはそれこそ匂わせるくらいで良いのだ。
「SW/EP5」の「I love you 」「I know」程度で十分なのである。
アクションも流れが無くて唐突に話しに割って入っているという印象で、盛り上がりに欠く。
あと、せっかくの三つの神器が生きていない。
タイトルにもなっている「大帝の剣」はあまりにも長すぎて殺陣にならず、アクションにはほとんど使われていない。
普通の日本刀で大体決着が付いたあと、ライダーキックかスペシュウム光線みたいにキメ技にはなっているのだが、特にそれを強調して撮っている訳ではないので、あまり目立たないし活躍しない印象になってしまっている。
ほかの神器も含めて、オリハルコンが持ち手を選ぶという設定が実際の描写にまったく生かされておらず、単に出てきただけなのは勿体無い。
「大帝の剣」は、良くも悪くも堤幸彦のバラエティ的内輪ノリな面が強調された作品で、とりあえず彼の映画はみんな好きという人にはたぶん楽しめるだろう。
が、この作品の本来のウリであるはずの、アクション・SF・ファンタジーなB級映画をこよなく愛する私にとっては、なんとも中途半端であざとい印象の作品だった。
今回は映画があまりにも軽くて薄いので、ちょっと濃くてユニークな酒を。
小林酒造の「江戸期古伝柱焼酎造り清酒SAMURAI ROCK秘剣燕返し」というすごい名前の酒は、清酒もろみに 焼酎を添加し搾るという手法で作られた清酒。
その歴史は意外と古く、江戸時代まで遡ると言う。
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2007年04月06日 (金) | 編集 |
エドワード・ズウィックのベスト。
アフリカの紛争地帯を舞台に、巨大なピンクダイヤモンドを巡る冒険を描いた社会派サスペンス大作だ。
アフリカ、内乱下のシエラレオネ、1990年代。
滅亡した白人国家ローデシア出身のダニー(レオナルド・デ・カプリオ)は、幼くして傭兵となり、今はダイヤの密輸で生計を立てている。
彼にとってダイヤは、この暗黒の大陸から脱出させてくれる希望の光だ。
メンデ人の猟師ソロモン(ジャイモン・フンスー)は、突然村を襲ってきたゲリラによって息子を奪われ、自身はダイヤの採掘場の奴隷として連行される。
ある日偶然にも巨大なピンクダイヤの原石を発見したソロモンは、密かにそれを隠すが、直後に採掘場は政府軍に攻撃され、ソロモンも連行される。
留置所でソロモンがピンクダイヤを隠している事を知ったダニーは、彼の子供の奪還を手伝う事を条件に、ダイヤの隠し場所に案内させる約束をする。
紛争地からの密輸ダイヤのルートを追うアメリカ人ジャーナリスト、マディー(ジェニファー・コネリー)に協力を仰いだダニーは、3人で反乱軍が支配する地域に侵入してゆくのだが・・・
エドワード・ズウィックという人は、バディムービーの名手である。
南北戦争の黒人部隊を描いた「グローリー」、明治維新を舞台に滅びゆくサムライとアメリカ軍人の出会いを描いた「ラスト・サムライ」、人種のるつぼNYでアラブ系移民とアメリカ社会の軋轢を描いた「マーシャル・ロー」など、彼の映画には常に対照的な二つの文化と、異なる背景を持った複数の主人公が登場する。
民族や文化を背負った極めて魅力的なキャラクター達が、時に対立しながら理解を深め、最後に互いに深い理解と尊敬を得るというのがパターンだ。
今回もこのズウィックパターンは不変。
ローデシア(ジンバブエ)出身の白人であり、元傭兵のダイヤ密売人ダニーと、子供を武装勢力に奪われたアフリカ人ソロモンが、ピンクダイヤと子供の奪還という異なる目標を持ちながら、互いを必要とするために対立しながらも過酷で危険な旅の仲間となる。
ここにアメリカ人ジャーナリストのマディーが絡むが、彼女の役割は観客とこの作品世界との橋渡しであり、テーマの部分の解説者の役割も負う。
先進国の普通の観客からは、あまりにも遠い存在であるダニーとソロモンが、マディーが間に入る事でスムーズに観客の感情移入の対象となり、彼らの物語を自分たちの問題として考える事が出来る。
ダイヤモンドという題材が上手い。
紛争地で非合法に産出される密輸ダイヤが、政府軍・ゲリラ双方の武器・弾薬の資金源となり、結果的にアフリカの民衆を抑圧する。
そのダイヤを最終的に買い求めるのは、先進国に住む我々一般消費者だ。
この物語自体は、劇中の台詞にもあるように、石油でもニッケルでもウランでも成立するだろう。
先進国の利権が群がる「何か」があれば良い訳だ。
だがいかにも利権がありそうで、政治的な臭いのする資源と違って、煌びやかなダイヤモンドは嗜好品であり、ぶっちゃけ無くても良い物なのだ。
言い換えれば、我々一人一人が欲しがるからそこに利権が発生しているわけで、産業資源である石油やウランより、遥かにダイレクトにアフリカの問題を観客に突きつける。
私たちが大金を出して買い求めるダイヤの裏に、数多くの声無きアフリカ人の血と涙があるという、その事実が胸を打つ。
実際よく作ったものだと思う。
映画に登場するダイヤメジャー(?)は名前こそ変えてあるものの、よく知られたダイヤモンド大手そのものだし、アメリカでは公開前にダイヤ業界からも映画の内容に懸念の声が上がったと言う。
勿論ダイヤの採掘その物はアフリカの貴重な産業である訳で、紛争地ダイヤとはキチンと別けて考えるべきなのだが、ルール違反を許すかどうかは顧客である我々にかかっているというのは確かにそうだと思う。
テーマ性の部分での観客へのメッセージは、しっかりと届いているだろう。
ダニーを演じるレオナルド・デ・カプリオは本作でオスカーにノミネートされたが、「デパーテッド」ではなくてこちらでノミネートされたのは、作品を観れば納得である。
彼が俳優として一皮向けたのは間違いなくスコセッシのおかげではあるだろうが、ダニー役の深みのあるキャラクターは彼のベストアクトの一つと言って良いだろう。
こちらもオスカーの助演男優賞にノミネートされたジャイモン・フンスーも、デ・カプリオに伍して凄みのあるキャラクターを演じている。
余談だが、この映画の終盤、ソロモンのキャラクターが「グラディエーター」で彼が演じたジュバ役に被って見えた。
地に足の着いたイメージのフンスーは、地上に留まれない「英雄」を葬る役がよく似合う。
出番は少ないながら、この物語を成立させるのに不可欠なキャラクターであるマディーを演じたジェニファー・コネリーも、人生の深みを感じさせる良い役者になった。
私の世代には「フェノミナ」の殺人鬼の影に怯える美少女役が鮮烈な印象として残っているが、もうこの人もオスカー女優だもんね。
骨太だが、しばしば大味な感もあるエドワード・ズウィックの映画だが、今回はチャールズ・レビットの脚本がとても良く書けていて、殆んど突っ込みどころが無い。
登場人物をメインの三人に絞ったのも正解で、観客の視点が彼らにより密着し、密度の濃い映画的時間となっていて、一瞬中ダレしそうになる時間はあるものの、二時間半の長尺を飽きさせない。
物語的に捻ったところは無いので、途中で先が読めてしまうのだが、それが特にマイナスにはなっていないと思う。
マディーとダニーの間にありがちなロマンスの要素を入れなかったのも、下手なハリウッド映画らしくなくて好感が持てる。
先進国の食い物にされるアフリカの現実と言う骨太のテーマをしっかりと観客に突きつけつつも、戦争サスペンスとしてもよく出来ている。
映画の完成度は高く、大作の風格も持つ第一級の社会派娯楽映画と言って良い。
ちなみに映画の中ではバックグラウンド程度にしか触れられないが、ダニーの故郷であるローデシアの歴史や舞台となるシエラレオネの内乱の背景も、とても興味深いので映画で興味を持った人は是非調べてみて欲しい。
今回はダイヤモンドの名を持つ酒を、ダイヤモンドの最大消費国であるアメリカからセレクト。
ナパの外れにある、シュレイダーの「ダブル・ダイアモンド マヤカマス・レンジ・エステート・ヴィンヤード」はしっかりとしたボディを持つ良質の液体ダイヤ。
石のダイヤと違って、こちらは永遠には輝かないが、カベルネ・ソーヴィニヨンらしい豊かな香りが楽しめる。
私は実のところ、こっちのダイヤの方が好きだ(笑
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シュレイダー
ダブル・ダイアモンド マヤカマス・レンジ・エステート・ヴィンヤード [2002]
アフリカの紛争地帯を舞台に、巨大なピンクダイヤモンドを巡る冒険を描いた社会派サスペンス大作だ。
アフリカ、内乱下のシエラレオネ、1990年代。
滅亡した白人国家ローデシア出身のダニー(レオナルド・デ・カプリオ)は、幼くして傭兵となり、今はダイヤの密輸で生計を立てている。
彼にとってダイヤは、この暗黒の大陸から脱出させてくれる希望の光だ。
メンデ人の猟師ソロモン(ジャイモン・フンスー)は、突然村を襲ってきたゲリラによって息子を奪われ、自身はダイヤの採掘場の奴隷として連行される。
ある日偶然にも巨大なピンクダイヤの原石を発見したソロモンは、密かにそれを隠すが、直後に採掘場は政府軍に攻撃され、ソロモンも連行される。
留置所でソロモンがピンクダイヤを隠している事を知ったダニーは、彼の子供の奪還を手伝う事を条件に、ダイヤの隠し場所に案内させる約束をする。
紛争地からの密輸ダイヤのルートを追うアメリカ人ジャーナリスト、マディー(ジェニファー・コネリー)に協力を仰いだダニーは、3人で反乱軍が支配する地域に侵入してゆくのだが・・・
エドワード・ズウィックという人は、バディムービーの名手である。
南北戦争の黒人部隊を描いた「グローリー」、明治維新を舞台に滅びゆくサムライとアメリカ軍人の出会いを描いた「ラスト・サムライ」、人種のるつぼNYでアラブ系移民とアメリカ社会の軋轢を描いた「マーシャル・ロー」など、彼の映画には常に対照的な二つの文化と、異なる背景を持った複数の主人公が登場する。
民族や文化を背負った極めて魅力的なキャラクター達が、時に対立しながら理解を深め、最後に互いに深い理解と尊敬を得るというのがパターンだ。
今回もこのズウィックパターンは不変。
ローデシア(ジンバブエ)出身の白人であり、元傭兵のダイヤ密売人ダニーと、子供を武装勢力に奪われたアフリカ人ソロモンが、ピンクダイヤと子供の奪還という異なる目標を持ちながら、互いを必要とするために対立しながらも過酷で危険な旅の仲間となる。
ここにアメリカ人ジャーナリストのマディーが絡むが、彼女の役割は観客とこの作品世界との橋渡しであり、テーマの部分の解説者の役割も負う。
先進国の普通の観客からは、あまりにも遠い存在であるダニーとソロモンが、マディーが間に入る事でスムーズに観客の感情移入の対象となり、彼らの物語を自分たちの問題として考える事が出来る。
ダイヤモンドという題材が上手い。
紛争地で非合法に産出される密輸ダイヤが、政府軍・ゲリラ双方の武器・弾薬の資金源となり、結果的にアフリカの民衆を抑圧する。
そのダイヤを最終的に買い求めるのは、先進国に住む我々一般消費者だ。
この物語自体は、劇中の台詞にもあるように、石油でもニッケルでもウランでも成立するだろう。
先進国の利権が群がる「何か」があれば良い訳だ。
だがいかにも利権がありそうで、政治的な臭いのする資源と違って、煌びやかなダイヤモンドは嗜好品であり、ぶっちゃけ無くても良い物なのだ。
言い換えれば、我々一人一人が欲しがるからそこに利権が発生しているわけで、産業資源である石油やウランより、遥かにダイレクトにアフリカの問題を観客に突きつける。
私たちが大金を出して買い求めるダイヤの裏に、数多くの声無きアフリカ人の血と涙があるという、その事実が胸を打つ。
実際よく作ったものだと思う。
映画に登場するダイヤメジャー(?)は名前こそ変えてあるものの、よく知られたダイヤモンド大手そのものだし、アメリカでは公開前にダイヤ業界からも映画の内容に懸念の声が上がったと言う。
勿論ダイヤの採掘その物はアフリカの貴重な産業である訳で、紛争地ダイヤとはキチンと別けて考えるべきなのだが、ルール違反を許すかどうかは顧客である我々にかかっているというのは確かにそうだと思う。
テーマ性の部分での観客へのメッセージは、しっかりと届いているだろう。
ダニーを演じるレオナルド・デ・カプリオは本作でオスカーにノミネートされたが、「デパーテッド」ではなくてこちらでノミネートされたのは、作品を観れば納得である。
彼が俳優として一皮向けたのは間違いなくスコセッシのおかげではあるだろうが、ダニー役の深みのあるキャラクターは彼のベストアクトの一つと言って良いだろう。
こちらもオスカーの助演男優賞にノミネートされたジャイモン・フンスーも、デ・カプリオに伍して凄みのあるキャラクターを演じている。
余談だが、この映画の終盤、ソロモンのキャラクターが「グラディエーター」で彼が演じたジュバ役に被って見えた。
地に足の着いたイメージのフンスーは、地上に留まれない「英雄」を葬る役がよく似合う。
出番は少ないながら、この物語を成立させるのに不可欠なキャラクターであるマディーを演じたジェニファー・コネリーも、人生の深みを感じさせる良い役者になった。
私の世代には「フェノミナ」の殺人鬼の影に怯える美少女役が鮮烈な印象として残っているが、もうこの人もオスカー女優だもんね。
骨太だが、しばしば大味な感もあるエドワード・ズウィックの映画だが、今回はチャールズ・レビットの脚本がとても良く書けていて、殆んど突っ込みどころが無い。
登場人物をメインの三人に絞ったのも正解で、観客の視点が彼らにより密着し、密度の濃い映画的時間となっていて、一瞬中ダレしそうになる時間はあるものの、二時間半の長尺を飽きさせない。
物語的に捻ったところは無いので、途中で先が読めてしまうのだが、それが特にマイナスにはなっていないと思う。
マディーとダニーの間にありがちなロマンスの要素を入れなかったのも、下手なハリウッド映画らしくなくて好感が持てる。
先進国の食い物にされるアフリカの現実と言う骨太のテーマをしっかりと観客に突きつけつつも、戦争サスペンスとしてもよく出来ている。
映画の完成度は高く、大作の風格も持つ第一級の社会派娯楽映画と言って良い。
ちなみに映画の中ではバックグラウンド程度にしか触れられないが、ダニーの故郷であるローデシアの歴史や舞台となるシエラレオネの内乱の背景も、とても興味深いので映画で興味を持った人は是非調べてみて欲しい。
今回はダイヤモンドの名を持つ酒を、ダイヤモンドの最大消費国であるアメリカからセレクト。
ナパの外れにある、シュレイダーの「ダブル・ダイアモンド マヤカマス・レンジ・エステート・ヴィンヤード」はしっかりとしたボディを持つ良質の液体ダイヤ。
石のダイヤと違って、こちらは永遠には輝かないが、カベルネ・ソーヴィニヨンらしい豊かな香りが楽しめる。
私は実のところ、こっちのダイヤの方が好きだ(笑

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ダブル・ダイアモンド マヤカマス・レンジ・エステート・ヴィンヤード [2002]


2007年04月03日 (火) | 編集 |
ポール・バーホーベン渾身の力作。
「四番目の男」以来、実に23年ぶりに故郷オランダでメガホンを取った本作は、自身の名を世界に知らしめた傑作「女王陛下の戦士」と同じ、第二次大戦下のオランダを舞台としたサスペンス大作だ。
原点に回帰したバーホーベンの演出は、巨匠の風格すら漂う。
第二次大戦末期のオランダ。
隠れ家に住むユダヤ人のラヘル(カリス・ファン・ハウテン)は、国外に逃がすというレジスタンスを名乗る男に騙され、ドイツ軍の待ち伏せで家族全員を射殺されてしまう。
抗独レジスタンスのリーダー、カイパース(デレク・デ・リント)に身を寄せたラヘルは、エリスと名を変えてレジスタンス活動に身を投じる。
エリスはレジスタンスの勇士アッカーマンス(トム・ホフマン)と組んで、ドイツ軍情報将校ムンツェ(セバスチャン・コッホ)に接近する。
ドイツ軍のパーティで、家族を殺した男、フランケン(ワルデマー・コブス)を見つけたエリスは、レジスタンスの裏切り者とフランケンが癒着し、ユダヤ人を騙して金品を略奪している事実を突き止めるのだが・・・・
バーホーベンと言えば、エロスとバイオレンス。
それは御歳68歳の今も変わらない。
以前何かのインタビューでバーホーベンが語っていたのだが、子供時代をナチ占領下で過ごし、暴力と死が日常の風景であったという経験は、彼自身の中の「何か」を壊してしまったと言う。
死体が街に転がり、隣人が連行され突然この世から消える。
そんな光景を見て育ったからか、この人の映画からは「人間とは、どのみちこんなモノさ」という諦めの無常観が漂う。
「トータルリコール」ではヒーローであるはずのシュワちゃんが、平気で通行人を盾にするし、「スターシップ・トルーパーズ」では洗脳された兵士たちが無感動に殺し、あっけなく死ぬ。
善悪の問題ではなく、人はごく簡単に死ぬし、だからこそ自分が助かるためなら何でもする強さを持つ。
バーホーベンの世界では、死は日常の一部であり、同時に生の証としての強烈なセックスが作品世界の天秤を均等に保つ。
この無常観故に、本作は極めてユニークな視点を持ちえている。
映画はユダヤ人女性のラヘルがレジスタンス活動に身を投じ、様々な危機を掻い潜りながら、やがてナチスと裏切り者の陰謀を暴くまでの物語である。
驚くべき事に、この映画に描かれている事は基本的に史実を元にしており、登場人物もほぼ実在するという。
正に事実は小説より奇なりだが、この物語は作り方によっていくらでも社会派になるし、「政治的に正しい」歴史物にも仕上げられるだろう。
だが、どこかで「人間なんて」と達観しているバーホーベンは、事の善悪や歴史的・政治的意味合いには興味がない様で、徹底的に個々の人間の思惑が織り成すパーソナルな事象として事の顛末を描く。
結果的に歴史物でも社会派でもなく、優れた娯楽サスペンス映画が誕生したのだ。
かといって、決して軽い作品では無い。
第二次大戦末期、ドイツの降伏も秒読みとなっている微妙な時期に、征服者とレジスタンス、そして双方に通じる事となるユダヤの主人公が織り成すモザイクのような人間模様は、見応えがある。
ここには紋切り型のステロタイプはいない。
何人ものレジスタンスを死に追いやったナチス情報将校ムンツェは、一個人になると切手を愛好する知的な紳士だし、ユダヤ人の死体から金品を剥ぎ取る品性下劣なフランケンは、音楽家でピアノの名手の顔を持つ。
最後までドイツの勝利と権威を信じていた誇り高き将軍は、敗戦が決まるとコロッと敵の協力者となり部下に責任を転嫁する。
誰もが英雄視するレジスタンスの英雄も、ナチスの協力者としての恐るべき裏の顔を持つ。
抑圧されていたオランダ民衆も、解放された途端今度はナチス協力者への抑圧を始める。
ラヘルと同じように、戦時下のオランダでレジスタンスのスパイとして活動していた事で知られるオードリー・ヘップバーンの伝記ドキュメンタリーで、このあたりの実際の映像を観た事があるが、解放直後の市民によるナチス協力者狩りは、かなり凄惨な物だったようで、本作の中でも進駐してきたカナダ軍将校が「ナチスと変わらない」と吐き捨てる描写がる。
結局のところ、掲げる旗が変わっただけで人間の所業は何も変わらないのだ。
観客は、主人公であるラヘルの目を借りて、二時間二十五分の間、これ等一癖も二癖もある登場人物たちの騙しあいを目にし、最後にはこう思うのだ「人間て、何と悲しい・・・」と。
この映画の無常観は、戦後のラヘルを追ったラストシーンでますます明確となる。
ラヘルは力強く生きてはいるが、結局人間というものの業からは解放されはしない。
人間というのは、正と不の狭間でもがきながら生きてゆくしかないのだという、ある意味でとても悲しいラストである。
ここでは、例えばイーストウッド映画にあるような、この世の無常を理解しながらも、心のどこかで人間の正の部分をより強く信じる性善説は力を失う。
個人的にはどこか性善説を信じていたい気がするが、バーホーベンの描く「ブラックブック」の世界も、間違いなくこの世の一面なのだろう。
人間とはかくも悲しく、いとおしい存在である。
今回はオランダを代表するビール、ハイネケンの「ダーク」をチョイス。
普通のハイネケンと異なり、どちらかというドイツビールのようなテイストが特徴。
オランダとドイツの複雑な歴史的関係を思わせて、本作の様な映画を観た後だと中々に味わい深い。
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「四番目の男」以来、実に23年ぶりに故郷オランダでメガホンを取った本作は、自身の名を世界に知らしめた傑作「女王陛下の戦士」と同じ、第二次大戦下のオランダを舞台としたサスペンス大作だ。
原点に回帰したバーホーベンの演出は、巨匠の風格すら漂う。
第二次大戦末期のオランダ。
隠れ家に住むユダヤ人のラヘル(カリス・ファン・ハウテン)は、国外に逃がすというレジスタンスを名乗る男に騙され、ドイツ軍の待ち伏せで家族全員を射殺されてしまう。
抗独レジスタンスのリーダー、カイパース(デレク・デ・リント)に身を寄せたラヘルは、エリスと名を変えてレジスタンス活動に身を投じる。
エリスはレジスタンスの勇士アッカーマンス(トム・ホフマン)と組んで、ドイツ軍情報将校ムンツェ(セバスチャン・コッホ)に接近する。
ドイツ軍のパーティで、家族を殺した男、フランケン(ワルデマー・コブス)を見つけたエリスは、レジスタンスの裏切り者とフランケンが癒着し、ユダヤ人を騙して金品を略奪している事実を突き止めるのだが・・・・
バーホーベンと言えば、エロスとバイオレンス。
それは御歳68歳の今も変わらない。
以前何かのインタビューでバーホーベンが語っていたのだが、子供時代をナチ占領下で過ごし、暴力と死が日常の風景であったという経験は、彼自身の中の「何か」を壊してしまったと言う。
死体が街に転がり、隣人が連行され突然この世から消える。
そんな光景を見て育ったからか、この人の映画からは「人間とは、どのみちこんなモノさ」という諦めの無常観が漂う。
「トータルリコール」ではヒーローであるはずのシュワちゃんが、平気で通行人を盾にするし、「スターシップ・トルーパーズ」では洗脳された兵士たちが無感動に殺し、あっけなく死ぬ。
善悪の問題ではなく、人はごく簡単に死ぬし、だからこそ自分が助かるためなら何でもする強さを持つ。
バーホーベンの世界では、死は日常の一部であり、同時に生の証としての強烈なセックスが作品世界の天秤を均等に保つ。
この無常観故に、本作は極めてユニークな視点を持ちえている。
映画はユダヤ人女性のラヘルがレジスタンス活動に身を投じ、様々な危機を掻い潜りながら、やがてナチスと裏切り者の陰謀を暴くまでの物語である。
驚くべき事に、この映画に描かれている事は基本的に史実を元にしており、登場人物もほぼ実在するという。
正に事実は小説より奇なりだが、この物語は作り方によっていくらでも社会派になるし、「政治的に正しい」歴史物にも仕上げられるだろう。
だが、どこかで「人間なんて」と達観しているバーホーベンは、事の善悪や歴史的・政治的意味合いには興味がない様で、徹底的に個々の人間の思惑が織り成すパーソナルな事象として事の顛末を描く。
結果的に歴史物でも社会派でもなく、優れた娯楽サスペンス映画が誕生したのだ。
かといって、決して軽い作品では無い。
第二次大戦末期、ドイツの降伏も秒読みとなっている微妙な時期に、征服者とレジスタンス、そして双方に通じる事となるユダヤの主人公が織り成すモザイクのような人間模様は、見応えがある。
ここには紋切り型のステロタイプはいない。
何人ものレジスタンスを死に追いやったナチス情報将校ムンツェは、一個人になると切手を愛好する知的な紳士だし、ユダヤ人の死体から金品を剥ぎ取る品性下劣なフランケンは、音楽家でピアノの名手の顔を持つ。
最後までドイツの勝利と権威を信じていた誇り高き将軍は、敗戦が決まるとコロッと敵の協力者となり部下に責任を転嫁する。
誰もが英雄視するレジスタンスの英雄も、ナチスの協力者としての恐るべき裏の顔を持つ。
抑圧されていたオランダ民衆も、解放された途端今度はナチス協力者への抑圧を始める。
ラヘルと同じように、戦時下のオランダでレジスタンスのスパイとして活動していた事で知られるオードリー・ヘップバーンの伝記ドキュメンタリーで、このあたりの実際の映像を観た事があるが、解放直後の市民によるナチス協力者狩りは、かなり凄惨な物だったようで、本作の中でも進駐してきたカナダ軍将校が「ナチスと変わらない」と吐き捨てる描写がる。
結局のところ、掲げる旗が変わっただけで人間の所業は何も変わらないのだ。
観客は、主人公であるラヘルの目を借りて、二時間二十五分の間、これ等一癖も二癖もある登場人物たちの騙しあいを目にし、最後にはこう思うのだ「人間て、何と悲しい・・・」と。
この映画の無常観は、戦後のラヘルを追ったラストシーンでますます明確となる。
ラヘルは力強く生きてはいるが、結局人間というものの業からは解放されはしない。
人間というのは、正と不の狭間でもがきながら生きてゆくしかないのだという、ある意味でとても悲しいラストである。
ここでは、例えばイーストウッド映画にあるような、この世の無常を理解しながらも、心のどこかで人間の正の部分をより強く信じる性善説は力を失う。
個人的にはどこか性善説を信じていたい気がするが、バーホーベンの描く「ブラックブック」の世界も、間違いなくこの世の一面なのだろう。
人間とはかくも悲しく、いとおしい存在である。
今回はオランダを代表するビール、ハイネケンの「ダーク」をチョイス。
普通のハイネケンと異なり、どちらかというドイツビールのようなテイストが特徴。
オランダとドイツの複雑な歴史的関係を思わせて、本作の様な映画を観た後だと中々に味わい深い。

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