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2007年05月31日 (木) | 編集 |
テレビのコメディショー発の、なんちゃってドキュメンタリー。
ユダヤ系イギリス人コメディアンのサシャ・バロン・コーエンが、その濃すぎる顔立ちを生かしてカザフスタン国営放送のリポーター、ボラットに扮しアメリカ市民たちにアポなしインタビューを繰り広げる。
彼のことを、本当に未知なる国カザフスタンから来た客人だと思い込んだアメリカ人たちが、破天荒な彼の言動に戸惑う姿を覗き見して笑いものにするというのが、まあ基本といえば基本。
昨年全米で公開されるや、予想外の大ヒットとなり、なぜか批評家にも絶賛されてしまった。
元ソ連邦で、中央アジアに位置するカザフスタン。
国営放送のリポーター、ボラット(サシャ・バロン・コーエン)はアメリカ文化を学ぶためにプロデューサーのアザマート(ケン・デヴィティアン)と共にアメリカに乗り込む。
そこはカザフスタンとはまったく違った不思議の国。
ボラットたちはアメリカを知るために、一般の市民たちと触れ合おうとするのだが・・・
要するに、ネタばらしの無いテレビのイタズラ番組みたいな物だ。
ボラットたちカザフスタンテレビ局のクルーたちは仕込みで、インタビューや触れ合いの対象になるアメリカ人たちはまさか騙されているとは知らない素人さん。
サシャ・バロン・コーエンの見事な化けっぷりや、かなりアブナイ自虐的なユダヤネタといういわばプロの技で笑わせておいて、それに騙されるアメリカ人のバカっぷりを観てさらに笑おうという訳だ。
マナー教室の先生やらフェミニスト団体の幹部やら、キリスト教のテレビ伝道師やら、ある意味でいかにもアメリカ的なインテリたちがボラットのイタズラにはまり、バカを晒す。
まあ実にイギリス的な、悪意に満ちたイタズラである。
偽ドキュメンタリーとしては結構良く出来ていて、途中まではどこまでが仕込みなのか判らなくなる事もある。
売春婦のルネルなんて、まさか本物かよとちょっと騙された。
もっともカザフスタンギャグはあまりにもぶっ飛びすぎていて、いくらなんでもあり得ねーという感が強い。
もっともこれはあえて過剰にして、観てる方に本当のカザフスタンはこれほど変な国じゃないだろうという事を暗示しようとしているのかもしれないが、たぶんそんな配慮はまったく考えてないだろう(笑
まあ深読みすれば皮肉たっぷりに描かれるカザフスタンも、抑圧的な独裁政権への批判と取れない事もないし、バカにされるアメリカ人たちも、彼らの考える「普通」がいかに排他的で脆い価値観かを描写するために使われたと言えなくも無い。
が、実際のところはとんでもなく自分と違う人物に出会った時の、人間の反応を観察して面白がろうというのがこの作品の第一義で、それはそれなりに成功していると思う。
ただ、ぶっちゃけた話、あんまり新鮮味は感じなかったのも事実。
この手のアポなしドキュメンタリーは「電波少年」などで見慣れた物だし、自虐的な危ないギャグも「ケンタッキー・フライド・ムービー」あたりからあんまり進化してない。
何となく、過去の色々な作品の延長線上にこの作品がみえてしまうのだ。
もっとも、そういった物を感じなければこの作品は非常に新鮮だろうし、笑えるだろう。
後は、この人を騙して笑ってフォロー無しというスタイルを、観ている方がどこまで受け入れられるかだろう。
テレビ伝道師やフェミニスト団体、ロデオ興行主(あと最初っから大バカな大学生たち)といった地位も名誉もある社会的な強者を笑いものにするのは、ある種の痛快さを感じるのだが、ユダヤ人の老夫婦を騙すあたりはちょっとやりすぎに感じてしまったのも事実。
何でもボラットの取材に騙されて応じてしまったために、懲戒処分を受けてしまった人もいるという。
イタズラは面白いけど、やはり他人に迷惑をかけないのが最低限のルールだという気がするのだが。
うーん、今回は難しいな。
カザフスタンの酒はさすがに知らないし(国民の半数がイスラム教徒だからそもそも酒はあまり無いのかも)。
偽物・・・と言えばこの前新宿の某店で久保田の紅寿を注文したら、出てきたのはどうやら百寿だった。
たとえば百寿をごまかして千寿として出してる店はたまにあるというが、いくらなんでも紅寿とは味が全然違うだろう。
インチキするにしてもボラットくらい上手くやって欲しい物である。
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ユダヤ系イギリス人コメディアンのサシャ・バロン・コーエンが、その濃すぎる顔立ちを生かしてカザフスタン国営放送のリポーター、ボラットに扮しアメリカ市民たちにアポなしインタビューを繰り広げる。
彼のことを、本当に未知なる国カザフスタンから来た客人だと思い込んだアメリカ人たちが、破天荒な彼の言動に戸惑う姿を覗き見して笑いものにするというのが、まあ基本といえば基本。
昨年全米で公開されるや、予想外の大ヒットとなり、なぜか批評家にも絶賛されてしまった。
元ソ連邦で、中央アジアに位置するカザフスタン。
国営放送のリポーター、ボラット(サシャ・バロン・コーエン)はアメリカ文化を学ぶためにプロデューサーのアザマート(ケン・デヴィティアン)と共にアメリカに乗り込む。
そこはカザフスタンとはまったく違った不思議の国。
ボラットたちはアメリカを知るために、一般の市民たちと触れ合おうとするのだが・・・
要するに、ネタばらしの無いテレビのイタズラ番組みたいな物だ。
ボラットたちカザフスタンテレビ局のクルーたちは仕込みで、インタビューや触れ合いの対象になるアメリカ人たちはまさか騙されているとは知らない素人さん。
サシャ・バロン・コーエンの見事な化けっぷりや、かなりアブナイ自虐的なユダヤネタといういわばプロの技で笑わせておいて、それに騙されるアメリカ人のバカっぷりを観てさらに笑おうという訳だ。
マナー教室の先生やらフェミニスト団体の幹部やら、キリスト教のテレビ伝道師やら、ある意味でいかにもアメリカ的なインテリたちがボラットのイタズラにはまり、バカを晒す。
まあ実にイギリス的な、悪意に満ちたイタズラである。
偽ドキュメンタリーとしては結構良く出来ていて、途中まではどこまでが仕込みなのか判らなくなる事もある。
売春婦のルネルなんて、まさか本物かよとちょっと騙された。
もっともカザフスタンギャグはあまりにもぶっ飛びすぎていて、いくらなんでもあり得ねーという感が強い。
もっともこれはあえて過剰にして、観てる方に本当のカザフスタンはこれほど変な国じゃないだろうという事を暗示しようとしているのかもしれないが、たぶんそんな配慮はまったく考えてないだろう(笑
まあ深読みすれば皮肉たっぷりに描かれるカザフスタンも、抑圧的な独裁政権への批判と取れない事もないし、バカにされるアメリカ人たちも、彼らの考える「普通」がいかに排他的で脆い価値観かを描写するために使われたと言えなくも無い。
が、実際のところはとんでもなく自分と違う人物に出会った時の、人間の反応を観察して面白がろうというのがこの作品の第一義で、それはそれなりに成功していると思う。
ただ、ぶっちゃけた話、あんまり新鮮味は感じなかったのも事実。
この手のアポなしドキュメンタリーは「電波少年」などで見慣れた物だし、自虐的な危ないギャグも「ケンタッキー・フライド・ムービー」あたりからあんまり進化してない。
何となく、過去の色々な作品の延長線上にこの作品がみえてしまうのだ。
もっとも、そういった物を感じなければこの作品は非常に新鮮だろうし、笑えるだろう。
後は、この人を騙して笑ってフォロー無しというスタイルを、観ている方がどこまで受け入れられるかだろう。
テレビ伝道師やフェミニスト団体、ロデオ興行主(あと最初っから大バカな大学生たち)といった地位も名誉もある社会的な強者を笑いものにするのは、ある種の痛快さを感じるのだが、ユダヤ人の老夫婦を騙すあたりはちょっとやりすぎに感じてしまったのも事実。
何でもボラットの取材に騙されて応じてしまったために、懲戒処分を受けてしまった人もいるという。
イタズラは面白いけど、やはり他人に迷惑をかけないのが最低限のルールだという気がするのだが。
うーん、今回は難しいな。
カザフスタンの酒はさすがに知らないし(国民の半数がイスラム教徒だからそもそも酒はあまり無いのかも)。
偽物・・・と言えばこの前新宿の某店で久保田の紅寿を注文したら、出てきたのはどうやら百寿だった。
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2007年05月26日 (土) | 編集 |
やりたい放題・・・・
こんな無茶苦茶な、もとい自由なハリウッド大作は久々に観た。
前作「デッドマンズ・チェスト」の記事で、このシリーズは「SW」に近くなってきたと書いたが、撤回する。
展開に「SW」からのいただきと思しき部分は残るものの、これはもう「パイレーツ・オブ・カリビアン」独自の世界としか言いようが無い。
製作のジェリー・ブラッカイマーとゴア・ヴァーヴィンスキー監督によるこのシリーズは、一応今回で打ち止めだというが、21世紀初頭に良くも悪くも強烈な印象を残したシリーズとして映画史に記憶されるだろう。
「深海の悪霊」デヴィ・ジョーンズ(ビル・ナイ)の心臓を収めた「デッドマンズ・チェスト」を手にいれた英国海軍のベケット卿(トム・ホランダー)は、ジョーンズとその配下の幽霊船フライング・ダッチマンを支配する事に成功する。
海賊を滅亡させて世界の海を支配することを目論むベケットは、海賊たちを次々に処刑してゆき、いまや自由の海は風前の灯となる。
海賊たちに残された最後の道は伝説の9人の海賊長たちが結集し、力を合わせて戦うこと。
その9人の海賊長の一人であるジャック・スパロー(ジョニー・デップ)を探すエリザベス(キーラ・ナイトレイ)とウィル(オーランド・ブルーム)は、死者の世界から蘇ったバルボッサ船長(ジェフリー・ラッシュ)と共に、世界の果てが記された海図を持つというシンガポールの海賊長サオ・フェン(チョウ・ユンファ)の元を訪れるのだが、そこにも英国海軍の手は伸びていた・・・
はっきり言ってダメダメな映画である。
特にお話のデタラメさはますます酷くなり、多くの登場人物が裏切りあってあっちに付いたりこっちに付いたり、終いには誰が味方で誰が敵なのか、そもそも裏切ることで何がどうなるのかも判らない有様だ(笑
これは、書いているうちに脚本家自身も判らなくなっちゃってるんじゃないの、などと馬鹿な想像してしまうほど混乱している。
映画の根っこであり、土台となるのは脚本である。
もし映画学校の脚本のクラスで、これを提出したら赤点確実。
これだけ酷い脚本を映像化して、普通ならまともな映画になるわけは無い。
いや、確かに「パイレーツ・オブ・カリビアン/ワールド・エンド」は、理屈で評価すれば脚本の通りかなり酷い映画なのだ。
にもかかわらず・・・・なんだこの楽しさは。
このダメダメな映画で、私は実に幸福な時間を過ごしてしまった。
なぜなら、私がこの作品に期待し、予想した物をそのまま、いや予想以上にスケールアップしてみせてくれているからだ。
良く考えると、前作で既に破綻を楽しんでしまった私は、この作品に「映画」というよりも「パイレーツ・オブ・カリビアン」の世界を期待して観に来たのであって、この作品は完璧にそれに答えている。
勿論、それは三部作という時間をかけて、観客の意識の中に作ってきた世界観のイメージがあるからこそ成立するのであって、いきなりこのノリで映画を作られたら白けるだけだろう。
実際、物語的には第一作が一番普通の映画としてまとまっていて、回をおうごとに破綻の度合いが増している。
それでも強烈なキャラクターと世界観の魅力、そしてまさに釣瓶打ちというべき見せ場の連続で見せ切ってしまう。
欠点がモロ判りなのにも拘らず、満足してしまうのだから、やはり映画というのは理屈だけでは量れない物だなあと思わされる。
驚きを伴う派手な見せ場で一気に客の興味を惹きつけ、その余韻が収まらないうちに予想外の次の見せ場を用意して行くというのは、なるほど映画というよりもテーマパークの楽しさに近い。
この映画の楽しさは、物語という流れのある線の上ではなく、シリーズが作り上げた世界観という面の上に散りばめられているのかも知れない。
もっとも物語の整合性という点では劣悪と言ってもいい脚本ながら、実は何にも考えていない訳では決して無い。
それが良く判るのは、この映画の最大の魅力であるキャラクターのバランスで、おそらくシリーズ中で一番キャラ立ちしている。
前作では人気のジャック・スパローに振り過ぎていてバランスが少し崩れていたが、今回は、ジャック、ウィル、エリザベスの三人がほぼ均等に目立つように軌道修正。
さらに二時間五十分という長大な上映時間を生かして、バルボッサ船長や靴ひものビルといったサブキャラクターたちにも十分な活躍の機会を与えている。
見せ場とキャラクターはセットで良く考えられており、このあたりを見ると、物語の破綻はあえて放置したのかもしれないとさえ思えてくる。
ジャックを演じるジョニー・デップは相変わらずノリノリで、今回は「マルコビッチの穴」状態のシュールなギャグで笑わせ、彼が切望したというキース・リチャーズ(何気に似ている)との共演も楽しい。
キーラ・ナイトレイ演じるエリザベスは、前二作では物語の中に何とか居場所を見つけているという感じで影の薄いキャラクターだったが、今回は堂々の主役と言ってよい。
彼女がクローズアップされた事で、対となるオーランド・ブルーム演じるウィルの存在感も必然的に強まり、大団円に向けてバランスを整えてゆく。
もっともチョウ・ユンファの様に、良く判らないまま終わってしまう割を喰ったキャラクターもいるのだが。
正直言って、テッド・エリオットとテリー・ロッシオの脚本は、丁寧なんだか雑なんだか良く判らない(笑
「パイレーツ・オブ・カリビアン/ワールド・エンド」は、まるで大海を行く海賊の生き様のように、ハチャメチャで自由な作品だ。
あくまでも、三部作の結果としてのみ成立する作品だが、これほどハリウッド映画らしく、同時にハリウッド映画の法則から脱線した映画も珍しい。
決して万人が同じように好意的に受け取るとは思えないが、とりあえずこのシリーズの1より2の方が好きという人にはお勧めだ。
劇場を出る頃には、ハンス・ジマーのテーマ曲を口ずさみ、都会の人海が冒険の大海原に見えてくるだろう。
それと絶対、ディズニーランドに行きたくなる(笑
鑑賞後は今回もラム。
カリブ海のグアドループ産の長期熟成ラム、「ダモワゾーラム」の15年もの。
原料のサトウキビから直接ジュースを搾り取る、アグリコールという製法で作られたお酒は香りは柔らかく、味はまろやか。
南国の陽気な太陽の下で、酔っ払ってひっくりかえったら、海賊ならずとも最高だろう。
メジャー大作の仮面の下に、アングラ魂とアナーキーさを隠し持つ「海賊映画」に乾杯!
・・・ところで、エリザベス的には十年に一日で良いのか?(笑
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こんな無茶苦茶な、もとい自由なハリウッド大作は久々に観た。
前作「デッドマンズ・チェスト」の記事で、このシリーズは「SW」に近くなってきたと書いたが、撤回する。
展開に「SW」からのいただきと思しき部分は残るものの、これはもう「パイレーツ・オブ・カリビアン」独自の世界としか言いようが無い。
製作のジェリー・ブラッカイマーとゴア・ヴァーヴィンスキー監督によるこのシリーズは、一応今回で打ち止めだというが、21世紀初頭に良くも悪くも強烈な印象を残したシリーズとして映画史に記憶されるだろう。
「深海の悪霊」デヴィ・ジョーンズ(ビル・ナイ)の心臓を収めた「デッドマンズ・チェスト」を手にいれた英国海軍のベケット卿(トム・ホランダー)は、ジョーンズとその配下の幽霊船フライング・ダッチマンを支配する事に成功する。
海賊を滅亡させて世界の海を支配することを目論むベケットは、海賊たちを次々に処刑してゆき、いまや自由の海は風前の灯となる。
海賊たちに残された最後の道は伝説の9人の海賊長たちが結集し、力を合わせて戦うこと。
その9人の海賊長の一人であるジャック・スパロー(ジョニー・デップ)を探すエリザベス(キーラ・ナイトレイ)とウィル(オーランド・ブルーム)は、死者の世界から蘇ったバルボッサ船長(ジェフリー・ラッシュ)と共に、世界の果てが記された海図を持つというシンガポールの海賊長サオ・フェン(チョウ・ユンファ)の元を訪れるのだが、そこにも英国海軍の手は伸びていた・・・
はっきり言ってダメダメな映画である。
特にお話のデタラメさはますます酷くなり、多くの登場人物が裏切りあってあっちに付いたりこっちに付いたり、終いには誰が味方で誰が敵なのか、そもそも裏切ることで何がどうなるのかも判らない有様だ(笑
これは、書いているうちに脚本家自身も判らなくなっちゃってるんじゃないの、などと馬鹿な想像してしまうほど混乱している。
映画の根っこであり、土台となるのは脚本である。
もし映画学校の脚本のクラスで、これを提出したら赤点確実。
これだけ酷い脚本を映像化して、普通ならまともな映画になるわけは無い。
いや、確かに「パイレーツ・オブ・カリビアン/ワールド・エンド」は、理屈で評価すれば脚本の通りかなり酷い映画なのだ。
にもかかわらず・・・・なんだこの楽しさは。
このダメダメな映画で、私は実に幸福な時間を過ごしてしまった。
なぜなら、私がこの作品に期待し、予想した物をそのまま、いや予想以上にスケールアップしてみせてくれているからだ。
良く考えると、前作で既に破綻を楽しんでしまった私は、この作品に「映画」というよりも「パイレーツ・オブ・カリビアン」の世界を期待して観に来たのであって、この作品は完璧にそれに答えている。
勿論、それは三部作という時間をかけて、観客の意識の中に作ってきた世界観のイメージがあるからこそ成立するのであって、いきなりこのノリで映画を作られたら白けるだけだろう。
実際、物語的には第一作が一番普通の映画としてまとまっていて、回をおうごとに破綻の度合いが増している。
それでも強烈なキャラクターと世界観の魅力、そしてまさに釣瓶打ちというべき見せ場の連続で見せ切ってしまう。
欠点がモロ判りなのにも拘らず、満足してしまうのだから、やはり映画というのは理屈だけでは量れない物だなあと思わされる。
驚きを伴う派手な見せ場で一気に客の興味を惹きつけ、その余韻が収まらないうちに予想外の次の見せ場を用意して行くというのは、なるほど映画というよりもテーマパークの楽しさに近い。
この映画の楽しさは、物語という流れのある線の上ではなく、シリーズが作り上げた世界観という面の上に散りばめられているのかも知れない。
もっとも物語の整合性という点では劣悪と言ってもいい脚本ながら、実は何にも考えていない訳では決して無い。
それが良く判るのは、この映画の最大の魅力であるキャラクターのバランスで、おそらくシリーズ中で一番キャラ立ちしている。
前作では人気のジャック・スパローに振り過ぎていてバランスが少し崩れていたが、今回は、ジャック、ウィル、エリザベスの三人がほぼ均等に目立つように軌道修正。
さらに二時間五十分という長大な上映時間を生かして、バルボッサ船長や靴ひものビルといったサブキャラクターたちにも十分な活躍の機会を与えている。
見せ場とキャラクターはセットで良く考えられており、このあたりを見ると、物語の破綻はあえて放置したのかもしれないとさえ思えてくる。
ジャックを演じるジョニー・デップは相変わらずノリノリで、今回は「マルコビッチの穴」状態のシュールなギャグで笑わせ、彼が切望したというキース・リチャーズ(何気に似ている)との共演も楽しい。
キーラ・ナイトレイ演じるエリザベスは、前二作では物語の中に何とか居場所を見つけているという感じで影の薄いキャラクターだったが、今回は堂々の主役と言ってよい。
彼女がクローズアップされた事で、対となるオーランド・ブルーム演じるウィルの存在感も必然的に強まり、大団円に向けてバランスを整えてゆく。
もっともチョウ・ユンファの様に、良く判らないまま終わってしまう割を喰ったキャラクターもいるのだが。
正直言って、テッド・エリオットとテリー・ロッシオの脚本は、丁寧なんだか雑なんだか良く判らない(笑
「パイレーツ・オブ・カリビアン/ワールド・エンド」は、まるで大海を行く海賊の生き様のように、ハチャメチャで自由な作品だ。
あくまでも、三部作の結果としてのみ成立する作品だが、これほどハリウッド映画らしく、同時にハリウッド映画の法則から脱線した映画も珍しい。
決して万人が同じように好意的に受け取るとは思えないが、とりあえずこのシリーズの1より2の方が好きという人にはお勧めだ。
劇場を出る頃には、ハンス・ジマーのテーマ曲を口ずさみ、都会の人海が冒険の大海原に見えてくるだろう。
それと絶対、ディズニーランドに行きたくなる(笑
鑑賞後は今回もラム。
カリブ海のグアドループ産の長期熟成ラム、「ダモワゾーラム」の15年もの。
原料のサトウキビから直接ジュースを搾り取る、アグリコールという製法で作られたお酒は香りは柔らかく、味はまろやか。
南国の陽気な太陽の下で、酔っ払ってひっくりかえったら、海賊ならずとも最高だろう。
メジャー大作の仮面の下に、アングラ魂とアナーキーさを隠し持つ「海賊映画」に乾杯!
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2007年05月25日 (金) | 編集 |
いわずと知れたオスカー女優、ヒラリー・スワンク主演のオカルトホラー映画。
これ、予告編がかなり面白そうで、期待していたのである。
「リーピング」とは「刈り取り」とか「受け取る」という意味で、タイトル自体が伏線となっている。
元牧師のキャサリン(ヒラリー・スワンク)は、夫と幼い娘を理不尽な暴力で亡くした事を切欠に信仰を捨て、今では大学教授として超常現象を科学的に解明する事に取り組んでいる。
ある日、彼女の元へ南部の田舎町の教師と名乗る男(デビッド・モリッシー)がやってきて、彼の町で起こっている奇妙な現象を解明してほしいと依頼する。
その町では、ある少年の死を切欠に川が血の色に染まり、町外れに住む12歳の少女ローレン(アナソフィア・ロブ)が「神の怒りをかった」として町の人々に憎まれているという。
「ヘイヴン」というその町に乗り込んだキャサリンの前で、次々と聖書を再現した様な超常現象が起こり、頑なに神を否定していたキャサリンは敗北感に打ちひしがれるのだが・・・
神の裏切りが元で、信仰を捨てた元聖職者という主人公の設定は面白い。
神を信じてアフリカに旅立ち、神に裏切られて家族を失った彼女は、いわばオカルトハンターとして、世界中で報告される「神の奇跡」を科学的に解明して、その存在を否定して回っているのだが、信心深い南部の田舎町に起こった騒動で、ついに科学では否定できない「奇跡」を目の当たりにする。
信念と信仰の間でゆれるキャサリンを演じるヒラリー・スワンクは流石に上手い。
この人はオスカーを受賞した「ミリオンダラーベイビー」や「ボーイズ・ドント・クライ」の様な渋い秀作の他にも、「ザ・コア」なんていうダメダメなジャンルムービーにもさりげなく出てたりするのだが、映画の出来不出来に関わらず、彼女が登場すると画面が締まるのである。
派手なタイプの演技者ではないが、貴重な存在だと思う。
物語も、旧約聖書の出エジプト記で、イスラエル人を奴隷化していたエジプトに対して、神が起こしたとされる十の災いが次々と再現され、村人から災いを起こしていると噂される少女の正体を探ってゆくあたりまでは中々に面白い。
聖書の災いを持ってきた割に話のスケールは小さいながら、ホラー的な怖さというよりは謎解きの面白さがあるのだ。
だが、残念ながら一時間が経過するあたりで、勘のいい人なら先が読めてしまう。
あまりにも親切に伏線を張りすぎて、多分これしかないよな・・・と思った通りに話が進んでいってしまうのだ。
決定的なのは、村人に悪魔の化身として忌み嫌われる少女役に「チャーリーとチョコレート工場」や「テラビシアにかける橋」
のアナソフィア・ロブをキャスティングしている事。
お話は怒りに刈られた村人が少女ローレンを殺そうとし、彼女の正体が本当に悪魔なのか、災いを起こしているのは神か悪魔かどちらなのかという点に絞られてくる。
ローレン役が本作のためにキャスティングされた新人というならいざ知らず、アイドルスターであるアナソフィア・ロブである時点で結末はもうバレバレである。
前途洋々のアイドルが、この年齢でわざわざ汚れ役をやる必要性は全然無いもんね(笑
それに快調な前半はあまり気にならないのだが、スローダウンする後半になってくると脚本の矛盾点も目に付いてくる。
一番微妙なのはスティーブン・リア演じるコスティガンで、彼の物語中の位置付けと彼の身に起こった事は良く考えるとものすごく矛盾している。
最初に異変の「予兆」を感じる彼は、キャサリンと観客をミスリードする役回りなのを差し引いても、ちょっとおかしな事になっている。
こういうのは一度目に付き始めると、映画の作品世界全体が説得力を失ってしまうもの。
「24」のスティーブン・ホプキンスの演出はなかなかにムードもあり、悪くは無かったのだが、後半脚本に足をすくわれた格好だ。
ビジュアルイメージなどはかなり凝っていて、血の川や空を埋め尽くすイナゴの大群など、十の災いの映像化は観ていて十分面白いので、勿体無い印象が残る。
「リーピング」の製作は、ロバート・ゼメキスとジョエル・シルバー率いるホラー専門レーベルのダークキャッスル。
この会社の作品は、仕掛けの面白さは抜群ながら、いつも最後の詰めが甘くて腰砕けに終わる印象があるのだが、今回もそれは変わらなかった。
そういえばここは同じくオスカー女優のハル・ベリー主演の「ゴシカ」も作っていたっけ。
ダークキャッスルとオスカー女優のコラボ企画は、最後がユルイという映画界の新しいジンクスが生まれそうだ。
今回は焼ける様に情熱的な南部のバーボン「フォア・ローゼス」を。
ラベルに描かれた真紅のバラは、この酒の生みの親ポール・ジョーンズがプロポーズした相手が、結婚OKの印として身に着けたバラに由来する。
テイストは深く、クリーミーでとてもまろやか。
ハリウッド映画ではホラーの舞台となることが多い南部だが、こんなにも豊かなお酒を生み出す豊穣の土地でもあるのだ。
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これ、予告編がかなり面白そうで、期待していたのである。
「リーピング」とは「刈り取り」とか「受け取る」という意味で、タイトル自体が伏線となっている。
元牧師のキャサリン(ヒラリー・スワンク)は、夫と幼い娘を理不尽な暴力で亡くした事を切欠に信仰を捨て、今では大学教授として超常現象を科学的に解明する事に取り組んでいる。
ある日、彼女の元へ南部の田舎町の教師と名乗る男(デビッド・モリッシー)がやってきて、彼の町で起こっている奇妙な現象を解明してほしいと依頼する。
その町では、ある少年の死を切欠に川が血の色に染まり、町外れに住む12歳の少女ローレン(アナソフィア・ロブ)が「神の怒りをかった」として町の人々に憎まれているという。
「ヘイヴン」というその町に乗り込んだキャサリンの前で、次々と聖書を再現した様な超常現象が起こり、頑なに神を否定していたキャサリンは敗北感に打ちひしがれるのだが・・・
神の裏切りが元で、信仰を捨てた元聖職者という主人公の設定は面白い。
神を信じてアフリカに旅立ち、神に裏切られて家族を失った彼女は、いわばオカルトハンターとして、世界中で報告される「神の奇跡」を科学的に解明して、その存在を否定して回っているのだが、信心深い南部の田舎町に起こった騒動で、ついに科学では否定できない「奇跡」を目の当たりにする。
信念と信仰の間でゆれるキャサリンを演じるヒラリー・スワンクは流石に上手い。
この人はオスカーを受賞した「ミリオンダラーベイビー」や「ボーイズ・ドント・クライ」の様な渋い秀作の他にも、「ザ・コア」なんていうダメダメなジャンルムービーにもさりげなく出てたりするのだが、映画の出来不出来に関わらず、彼女が登場すると画面が締まるのである。
派手なタイプの演技者ではないが、貴重な存在だと思う。
物語も、旧約聖書の出エジプト記で、イスラエル人を奴隷化していたエジプトに対して、神が起こしたとされる十の災いが次々と再現され、村人から災いを起こしていると噂される少女の正体を探ってゆくあたりまでは中々に面白い。
聖書の災いを持ってきた割に話のスケールは小さいながら、ホラー的な怖さというよりは謎解きの面白さがあるのだ。
だが、残念ながら一時間が経過するあたりで、勘のいい人なら先が読めてしまう。
あまりにも親切に伏線を張りすぎて、多分これしかないよな・・・と思った通りに話が進んでいってしまうのだ。
決定的なのは、村人に悪魔の化身として忌み嫌われる少女役に「チャーリーとチョコレート工場」や「テラビシアにかける橋」
のアナソフィア・ロブをキャスティングしている事。
お話は怒りに刈られた村人が少女ローレンを殺そうとし、彼女の正体が本当に悪魔なのか、災いを起こしているのは神か悪魔かどちらなのかという点に絞られてくる。
ローレン役が本作のためにキャスティングされた新人というならいざ知らず、アイドルスターであるアナソフィア・ロブである時点で結末はもうバレバレである。
前途洋々のアイドルが、この年齢でわざわざ汚れ役をやる必要性は全然無いもんね(笑
それに快調な前半はあまり気にならないのだが、スローダウンする後半になってくると脚本の矛盾点も目に付いてくる。
一番微妙なのはスティーブン・リア演じるコスティガンで、彼の物語中の位置付けと彼の身に起こった事は良く考えるとものすごく矛盾している。
最初に異変の「予兆」を感じる彼は、キャサリンと観客をミスリードする役回りなのを差し引いても、ちょっとおかしな事になっている。
こういうのは一度目に付き始めると、映画の作品世界全体が説得力を失ってしまうもの。
「24」のスティーブン・ホプキンスの演出はなかなかにムードもあり、悪くは無かったのだが、後半脚本に足をすくわれた格好だ。
ビジュアルイメージなどはかなり凝っていて、血の川や空を埋め尽くすイナゴの大群など、十の災いの映像化は観ていて十分面白いので、勿体無い印象が残る。
「リーピング」の製作は、ロバート・ゼメキスとジョエル・シルバー率いるホラー専門レーベルのダークキャッスル。
この会社の作品は、仕掛けの面白さは抜群ながら、いつも最後の詰めが甘くて腰砕けに終わる印象があるのだが、今回もそれは変わらなかった。
そういえばここは同じくオスカー女優のハル・ベリー主演の「ゴシカ」も作っていたっけ。
ダークキャッスルとオスカー女優のコラボ企画は、最後がユルイという映画界の新しいジンクスが生まれそうだ。
今回は焼ける様に情熱的な南部のバーボン「フォア・ローゼス」を。
ラベルに描かれた真紅のバラは、この酒の生みの親ポール・ジョーンズがプロポーズした相手が、結婚OKの印として身に着けたバラに由来する。
テイストは深く、クリーミーでとてもまろやか。
ハリウッド映画ではホラーの舞台となることが多い南部だが、こんなにも豊かなお酒を生み出す豊穣の土地でもあるのだ。

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2007年05月22日 (火) | 編集 |
都知事、入魂の一作。
「俺は、君のためにこそ死ににいく」というまるで軍歌みたいなタイトルに、製作委員会のクレジットにズラズラと並んだ右系メディア。
ある意味で、久々に政治的な遠慮の無い思いっきりの良い戦争映画である。
確かに言いたい事は伝わってくるが、映画としてのネックは肝心の都知事の脚本だ。
昭和二十年、鹿児島県知覧。
太平洋戦争も終盤に差し迫り、追い詰められた日本は、ついに禁断の戦法というべき「特攻」に手を出す。
特攻隊の基地となった知覧で食堂を経営する鳥濱トメ(岸恵子)の元には、毎日の様に基地の若い特攻隊員たちがやってくる。
一度出撃すれば決して帰ることの出来ない隊員たちにとって、親身になってくれるトメはまるで母の様な存在だった。
やがて戦争が終わるまでの数ヶ月間、トメは様々な思いを胸に死地へ旅立つ沢山の若者たちを見送る事になる・・・
まあ観る前からこれほど予測のつく作品も無いので、観る気は無かったのだが、主演の岸恵子が「私は、若い彼ら(特攻隊員)を殺した国家というものに大変怒りを感じている。ずいぶんと悩んで出演を決めました」と発言しているのを聞いて、観てみようかと考えを変えた。
なるほど確かに、特攻という物を考え出した指導者たちのグロテスクさは良く出ているし、特攻隊員のキャラクターも、通り一遍のステロタイプに陥るのを避けて、なるべく多角的に特攻という行為とそれに直面した人間を描こうという意欲は感じる。
しかし、石原慎太郎は映画の脚本の書き方を忘れてしまったのではないか。
あまりにも視点がとっ散らかってしまって、映画の前半はまるでシーンの断片をツギハギしたようなとりとめの無い話になってしまっている。
初めは、この映画は多くの特攻隊員に母の様に慕われたという鳥濱トメという女性の視点で、決して帰ることの無い旅に出てゆく多くの若者達を描く作品なのかと思っていたが、どうもそうではない。
鳥濱トメは物語のコアにいるものの、描かれ方は他の登場人物と対して変わらず、群像劇の一登場人物という感じなのだ。
群像劇としても、一人一人の描き方が非常に断片的な上に、登場人物はどんどん特攻していなくなってしまうので、ちょこっと感情移入したらはい次という感じで視点の置き所がない。
後半、徳重聡演じる中西少尉率いる部隊が赴任してくると、ようやく物語りは彼らを中心に回り始めるが、それでも感情の流れが断ち切られる様な、落ち着きの無い展開は最後まで変わらない。
撮り方も変だ。
ただでさえキャラクターが薄っぺらになりがちな群像劇なのに、人物の表情を捉えたカットが異様に少ない。
カメラは、まるで親の仇のようにクローズアップを嫌うのだ。
オープニングの妙に窮屈な画面構成といい、寄るべきところで逆に引いてゆく奇妙なカットといい、この映画の画作りには妙なミスマッチ感が漂う。
新城卓監督が群像劇に慣れていないのか、演出的にも全体に非常に観づらい作品になってしまっている。
この映画に描かれる指導者たちは、「負けるにも負け方がある」とか「国体を守るため」など理屈を使って特攻という行為を正当化しようとするが、結果的に特攻で戦局は変わらなかったし、無条件降伏によって「負け方」も「国体」も絵に描いた餅にしかならなかった。
天皇が今も存在しているのは、別に5000人の若者が特攻したからではなく、戦後の国際政治の力学がもたらした米国の理性的な計算の結果である。
少なくとも現在、特攻を仕掛けられた米国において、特攻とは戦時中の日本人がいかに狂信的なキチガイであったかを物語る行為であって、間違っても日本人の勇気や心意気とは捕らえられていない。
実際、客観的に観れば特攻とは犬死以外の何物でもなく、それを命じた指揮官たちは無能な愚か者であろう。
しかし、実際に特攻した若者たちには、それぞれに意思や想いがあり、彼らの生き方(死に方)そのものは尊重すべきだというこの映画のスタンスには一定の説得力がある。
特攻隊員に個性の強い俳優を配し、爆弾を捨てては帰ってくるという筒井道隆演じる田端少尉や、仲間の隊員が先に特攻してしまい、死に急いでいる窪塚洋介演じる板東少尉など興味深いキャラクターも多い。
せっかく鳥濱トメという語部がいるのだから、映画はもう少し登場人物を絞り込んで、彼女のどっしりとした目線で個性的な若者たちの生き様を追ったほうが良かったのではないだろうか。
また、彼らのキャラクターに魅力があるからこそ、明らかに意図を持ってしつこく繰り返される「靖国神社であおう」の台詞や、後半言い訳の様に挿入される大西将軍の切腹などは、現代人である石原慎太郎の顔が見えて少し興醒めだった。
まあそれは同時にこの映画に現在性という点では評価すべき事なのかもしれないが、政治的な映画であるゆえに、このあたりの捉え方は観る者の政治的な立場によって変わるだろう。
ちなみに私は、都知事選で彼には投票していない。
今回は知覧の地酒である知覧酒造の芋焼酎「ほたる」をチョイス。
劇中でも語られている様に、知覧は蛍の多い街で、特攻が始まってからは死んだ若者たちの魂に蛍のはかない光が重ねあわされたという。
このお酒も、そんな知覧の人々の戦没者への想いが形になった物。
芋の風味はそれほど強烈でなく、どちらかというとマイルドで飲みやすい。
特攻隊員を見守り続けたトメさんの様に、母を感じるお酒だ。
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「俺は、君のためにこそ死ににいく」というまるで軍歌みたいなタイトルに、製作委員会のクレジットにズラズラと並んだ右系メディア。
ある意味で、久々に政治的な遠慮の無い思いっきりの良い戦争映画である。
確かに言いたい事は伝わってくるが、映画としてのネックは肝心の都知事の脚本だ。
昭和二十年、鹿児島県知覧。
太平洋戦争も終盤に差し迫り、追い詰められた日本は、ついに禁断の戦法というべき「特攻」に手を出す。
特攻隊の基地となった知覧で食堂を経営する鳥濱トメ(岸恵子)の元には、毎日の様に基地の若い特攻隊員たちがやってくる。
一度出撃すれば決して帰ることの出来ない隊員たちにとって、親身になってくれるトメはまるで母の様な存在だった。
やがて戦争が終わるまでの数ヶ月間、トメは様々な思いを胸に死地へ旅立つ沢山の若者たちを見送る事になる・・・
まあ観る前からこれほど予測のつく作品も無いので、観る気は無かったのだが、主演の岸恵子が「私は、若い彼ら(特攻隊員)を殺した国家というものに大変怒りを感じている。ずいぶんと悩んで出演を決めました」と発言しているのを聞いて、観てみようかと考えを変えた。
なるほど確かに、特攻という物を考え出した指導者たちのグロテスクさは良く出ているし、特攻隊員のキャラクターも、通り一遍のステロタイプに陥るのを避けて、なるべく多角的に特攻という行為とそれに直面した人間を描こうという意欲は感じる。
しかし、石原慎太郎は映画の脚本の書き方を忘れてしまったのではないか。
あまりにも視点がとっ散らかってしまって、映画の前半はまるでシーンの断片をツギハギしたようなとりとめの無い話になってしまっている。
初めは、この映画は多くの特攻隊員に母の様に慕われたという鳥濱トメという女性の視点で、決して帰ることの無い旅に出てゆく多くの若者達を描く作品なのかと思っていたが、どうもそうではない。
鳥濱トメは物語のコアにいるものの、描かれ方は他の登場人物と対して変わらず、群像劇の一登場人物という感じなのだ。
群像劇としても、一人一人の描き方が非常に断片的な上に、登場人物はどんどん特攻していなくなってしまうので、ちょこっと感情移入したらはい次という感じで視点の置き所がない。
後半、徳重聡演じる中西少尉率いる部隊が赴任してくると、ようやく物語りは彼らを中心に回り始めるが、それでも感情の流れが断ち切られる様な、落ち着きの無い展開は最後まで変わらない。
撮り方も変だ。
ただでさえキャラクターが薄っぺらになりがちな群像劇なのに、人物の表情を捉えたカットが異様に少ない。
カメラは、まるで親の仇のようにクローズアップを嫌うのだ。
オープニングの妙に窮屈な画面構成といい、寄るべきところで逆に引いてゆく奇妙なカットといい、この映画の画作りには妙なミスマッチ感が漂う。
新城卓監督が群像劇に慣れていないのか、演出的にも全体に非常に観づらい作品になってしまっている。
この映画に描かれる指導者たちは、「負けるにも負け方がある」とか「国体を守るため」など理屈を使って特攻という行為を正当化しようとするが、結果的に特攻で戦局は変わらなかったし、無条件降伏によって「負け方」も「国体」も絵に描いた餅にしかならなかった。
天皇が今も存在しているのは、別に5000人の若者が特攻したからではなく、戦後の国際政治の力学がもたらした米国の理性的な計算の結果である。
少なくとも現在、特攻を仕掛けられた米国において、特攻とは戦時中の日本人がいかに狂信的なキチガイであったかを物語る行為であって、間違っても日本人の勇気や心意気とは捕らえられていない。
実際、客観的に観れば特攻とは犬死以外の何物でもなく、それを命じた指揮官たちは無能な愚か者であろう。
しかし、実際に特攻した若者たちには、それぞれに意思や想いがあり、彼らの生き方(死に方)そのものは尊重すべきだというこの映画のスタンスには一定の説得力がある。
特攻隊員に個性の強い俳優を配し、爆弾を捨てては帰ってくるという筒井道隆演じる田端少尉や、仲間の隊員が先に特攻してしまい、死に急いでいる窪塚洋介演じる板東少尉など興味深いキャラクターも多い。
せっかく鳥濱トメという語部がいるのだから、映画はもう少し登場人物を絞り込んで、彼女のどっしりとした目線で個性的な若者たちの生き様を追ったほうが良かったのではないだろうか。
また、彼らのキャラクターに魅力があるからこそ、明らかに意図を持ってしつこく繰り返される「靖国神社であおう」の台詞や、後半言い訳の様に挿入される大西将軍の切腹などは、現代人である石原慎太郎の顔が見えて少し興醒めだった。
まあそれは同時にこの映画に現在性という点では評価すべき事なのかもしれないが、政治的な映画であるゆえに、このあたりの捉え方は観る者の政治的な立場によって変わるだろう。
ちなみに私は、都知事選で彼には投票していない。
今回は知覧の地酒である知覧酒造の芋焼酎「ほたる」をチョイス。
劇中でも語られている様に、知覧は蛍の多い街で、特攻が始まってからは死んだ若者たちの魂に蛍のはかない光が重ねあわされたという。
このお酒も、そんな知覧の人々の戦没者への想いが形になった物。
芋の風味はそれほど強烈でなく、どちらかというとマイルドで飲みやすい。
特攻隊員を見守り続けたトメさんの様に、母を感じるお酒だ。

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2007年05月19日 (土) | 編集 |
「ゲゲゲの鬼太郎」が日本のコスプレショーなら、「クイーン」は由緒正しい大英帝国的コスプレショー。
ダイアナ妃の突然の事故死から一週間の英国王室と政府の混乱と葛藤を、エリザベス女王と当時就任したばかりのブレア首相を軸に描いた作品だが、「オイオイこれっていいのかよ~?」と心配になるくらい大胆に「実話風フィクション」として描ききっている。
どこまで事実に基づいているのかは知らないが、実際にこんな風だったんだろうなと思わせるだけの説得力があるのだ。
1997年8月、元英国皇太子妃ダイアナが突然の事故でこの世を去る。
英国の世論が一気にダイアナを悼むムードに包まれる中、エリザベス女王(ヘレン・ミレン)はコメントを出さない。
英国王室にとって、ダイアナはトラブルメーカーであって、既に離婚して王室を出た身。
本来ならもう関わりあわないのが筋なのだ。
新しい時代に合わせて、王室としても弔意を示すべきだというチャールズ皇太子(アレックス・ジェニングス)の意見も、女王にはメディアに迎合し王室の権威を貶める行為にしか見えない。
しかしメディアを通して沈黙を守る王室の姿勢が大きく報道され、王室は薄情だという批判世論が巻き起こる。
就任したばかりのブレア首相(マイケル・シーン)は、頑なな女王の心を動かそうと普請するが、次第に君主として確固たる信念を持つ女王の心情に引かれてゆく・・・・
これ、観終わって一番気になったのは、「一体今何故これを作ったのか?」という部分だった。
お話としては十分面白かったが、企画意図というか、作り手が観客に何を投げかけているのかが良く見えず、それが引っかかっていた。
まさか英国王室を使って、そっくりさんのコスプレショーがやりたかった訳でもないだろうし。
しかし、よくよく考えてみると、これはイギリス映画であって、かの地の観客にとってはまさに自分たちの社会をシニカルに風刺した社会派映画であるのだろう。
王室をどうするのか、王室とどう付き合ってゆくのかというのは国の未来を左右する一大事という訳で、おそらく英国民にとって一番王室の存在が揺れたあの一週間を描くというのは、日本人がこれを観るのとはまったく違った意味合いがあるのだと思う。
日本人にとっては、例えば昭和天皇の大葬の礼前後の一週間の皇室を描いた様な物かもしれない。
ベテラン、スティーブン・フリアーズ監督は、二重のロジックを使って英国民にとって王室とは何なのかを問いかける。
一つ目は勿論タイトルロールのクィーン・エリザベス二世を通して。
もう一つは事実よりもメディアによって揺り動かされる英国人を通して。
英国の伝統と格式の守護者として、好むと好まざるを得ずに自分に課せられた運命にあくまでも忠実に生きようとするエリザベス。
しかし、その心はメディアというフィルターにかけられ、想いは国民に届かない。
大地に根を張った大木の様に強固な、女王の心の中にある彼女が守るべきと考える英国と、メディアの報道によっていかようにも移ろう現実の英国の乖離。
ブレア首相は、メディアのフィルターを外して、女王に接する事の出来た「稀有な庶民」という役回りと言えるかも知れない。
普通なら、何らかの比喩表現によって描かれるであろう物語を、そのまんま実在する女王を主人公として描いたのが本作の最大の特徴だろう。
右向け右的なビッグブラザー的世界観が、王室や政府という国家権力からでなく、むしろマスコミを媒介とした民意から感じ取れるのも面白い。
それにしても王とはかくも孤独な存在なのか。
映画の中で女王は誰に対しても本心を見せない。
国民に選ばれた代表者たるブレア首相に対しても、自分の夫であるフィリップ殿下に対しても、実の息子であるチャールズ皇太子に対してもだ。
唯一、実母であるエリザベス皇太后に対してだけはある程度心を許すが、それも女王としてではなく、一人の母と娘としての触れ合いに見える。
そんな女王が、広大な狩場で一人ぼっちになったとき、心の堰が切れたように嗚咽し、自分をさらけ出すのは本編でもっとも印象的なシーンだ。
女王はこの後、立派な王冠のような角を蓄えた一頭の牡鹿と出会い、彼に追いすがる人間(つまり自分の家族なのだが)から逃そうとする。
彼女にとって、猟犬に追い立てられる平原の孤独な王の姿は、その瞬間に誰よりもシンパシーを感じる相手だったのだろう。
先日、アメリカを訪問したエリザベス女王の公式晩餐会でのスピーチを読んで、彼女の感じてきた孤独の一端が見えた気がした。
スピーチの中で、彼女は自分に謁見した英国首相たちの事を述べているのだが、何しろ彼女の女王としての記憶はチャーチルまで遡るのだ!
数年の任期で去ってゆく首相たちと違い、彼女の任期は一生続く。
半世紀以上君臨してきた君主の重み。
半世紀以上の権力の孤独に耐える痛み。
本作でオスカーを受賞したヘレン・ミレン演じるエリザベス女王を筆頭に、ブレア首相夫妻やチャールズ皇太子などおなじみの面々がドキュメンタリーかと思うくらいのそっくりショーを見せる。
特に、動じないエリザベス女王に対して、彼女の人柄に触れて大きく価値観を変えられるブレア首相はいわば対となるキャラクターで、演じるのマイケル・シーンも、なかなかの好演。
もっとも劇似っぷりでは、ブレア夫人役のヘレン・マッコーニーが一番凄いかもしれないが。
それにしても、すべて実在する存命の人物を使って、ここまで内面に踏み込んだフィクションを作ってしまい、しかもそれが許されるあたりに、英国の文化の懐の深さを感じる。
スティーブン・フリアーズは、今まで省みられる事の無かった「クイーン」の内面に踏み込み、ある意味で現在の英国人に公平に考える切欠を与えたのかもしれない。
まあ、この映画を観てる我々自身も本当かどうか判らない事に感情移入している点で、映画の大衆と変わらないのだが。
是非ともエリザベス女王本人の感想が聞いてみたいものである。
今回はベリーブラザーズ&ラッドのブラン・ド・ブラン ブリュットをチョイス。
一応英国王室御用達なのだが、お酒に限らず御用達アイテムは沢山あるので、あんまりこだわる事も無い。
BBRは醸造業者では無くワイン商で、各地の優秀なワインを自社セレクションとしてブランド化して販売している。
こちらはメニル産のシャンパンで、比較的リーズナブルながら、フルーティーで飲みやすい女性的な味ながら芯のしっかりした酒で、どこか劇中のエリザベス女王を思わせる。
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ダイアナ妃の突然の事故死から一週間の英国王室と政府の混乱と葛藤を、エリザベス女王と当時就任したばかりのブレア首相を軸に描いた作品だが、「オイオイこれっていいのかよ~?」と心配になるくらい大胆に「実話風フィクション」として描ききっている。
どこまで事実に基づいているのかは知らないが、実際にこんな風だったんだろうなと思わせるだけの説得力があるのだ。
1997年8月、元英国皇太子妃ダイアナが突然の事故でこの世を去る。
英国の世論が一気にダイアナを悼むムードに包まれる中、エリザベス女王(ヘレン・ミレン)はコメントを出さない。
英国王室にとって、ダイアナはトラブルメーカーであって、既に離婚して王室を出た身。
本来ならもう関わりあわないのが筋なのだ。
新しい時代に合わせて、王室としても弔意を示すべきだというチャールズ皇太子(アレックス・ジェニングス)の意見も、女王にはメディアに迎合し王室の権威を貶める行為にしか見えない。
しかしメディアを通して沈黙を守る王室の姿勢が大きく報道され、王室は薄情だという批判世論が巻き起こる。
就任したばかりのブレア首相(マイケル・シーン)は、頑なな女王の心を動かそうと普請するが、次第に君主として確固たる信念を持つ女王の心情に引かれてゆく・・・・
これ、観終わって一番気になったのは、「一体今何故これを作ったのか?」という部分だった。
お話としては十分面白かったが、企画意図というか、作り手が観客に何を投げかけているのかが良く見えず、それが引っかかっていた。
まさか英国王室を使って、そっくりさんのコスプレショーがやりたかった訳でもないだろうし。
しかし、よくよく考えてみると、これはイギリス映画であって、かの地の観客にとってはまさに自分たちの社会をシニカルに風刺した社会派映画であるのだろう。
王室をどうするのか、王室とどう付き合ってゆくのかというのは国の未来を左右する一大事という訳で、おそらく英国民にとって一番王室の存在が揺れたあの一週間を描くというのは、日本人がこれを観るのとはまったく違った意味合いがあるのだと思う。
日本人にとっては、例えば昭和天皇の大葬の礼前後の一週間の皇室を描いた様な物かもしれない。
ベテラン、スティーブン・フリアーズ監督は、二重のロジックを使って英国民にとって王室とは何なのかを問いかける。
一つ目は勿論タイトルロールのクィーン・エリザベス二世を通して。
もう一つは事実よりもメディアによって揺り動かされる英国人を通して。
英国の伝統と格式の守護者として、好むと好まざるを得ずに自分に課せられた運命にあくまでも忠実に生きようとするエリザベス。
しかし、その心はメディアというフィルターにかけられ、想いは国民に届かない。
大地に根を張った大木の様に強固な、女王の心の中にある彼女が守るべきと考える英国と、メディアの報道によっていかようにも移ろう現実の英国の乖離。
ブレア首相は、メディアのフィルターを外して、女王に接する事の出来た「稀有な庶民」という役回りと言えるかも知れない。
普通なら、何らかの比喩表現によって描かれるであろう物語を、そのまんま実在する女王を主人公として描いたのが本作の最大の特徴だろう。
右向け右的なビッグブラザー的世界観が、王室や政府という国家権力からでなく、むしろマスコミを媒介とした民意から感じ取れるのも面白い。
それにしても王とはかくも孤独な存在なのか。
映画の中で女王は誰に対しても本心を見せない。
国民に選ばれた代表者たるブレア首相に対しても、自分の夫であるフィリップ殿下に対しても、実の息子であるチャールズ皇太子に対してもだ。
唯一、実母であるエリザベス皇太后に対してだけはある程度心を許すが、それも女王としてではなく、一人の母と娘としての触れ合いに見える。
そんな女王が、広大な狩場で一人ぼっちになったとき、心の堰が切れたように嗚咽し、自分をさらけ出すのは本編でもっとも印象的なシーンだ。
女王はこの後、立派な王冠のような角を蓄えた一頭の牡鹿と出会い、彼に追いすがる人間(つまり自分の家族なのだが)から逃そうとする。
彼女にとって、猟犬に追い立てられる平原の孤独な王の姿は、その瞬間に誰よりもシンパシーを感じる相手だったのだろう。
先日、アメリカを訪問したエリザベス女王の公式晩餐会でのスピーチを読んで、彼女の感じてきた孤独の一端が見えた気がした。
スピーチの中で、彼女は自分に謁見した英国首相たちの事を述べているのだが、何しろ彼女の女王としての記憶はチャーチルまで遡るのだ!
数年の任期で去ってゆく首相たちと違い、彼女の任期は一生続く。
半世紀以上君臨してきた君主の重み。
半世紀以上の権力の孤独に耐える痛み。
本作でオスカーを受賞したヘレン・ミレン演じるエリザベス女王を筆頭に、ブレア首相夫妻やチャールズ皇太子などおなじみの面々がドキュメンタリーかと思うくらいのそっくりショーを見せる。
特に、動じないエリザベス女王に対して、彼女の人柄に触れて大きく価値観を変えられるブレア首相はいわば対となるキャラクターで、演じるのマイケル・シーンも、なかなかの好演。
もっとも劇似っぷりでは、ブレア夫人役のヘレン・マッコーニーが一番凄いかもしれないが。
それにしても、すべて実在する存命の人物を使って、ここまで内面に踏み込んだフィクションを作ってしまい、しかもそれが許されるあたりに、英国の文化の懐の深さを感じる。
スティーブン・フリアーズは、今まで省みられる事の無かった「クイーン」の内面に踏み込み、ある意味で現在の英国人に公平に考える切欠を与えたのかもしれない。
まあ、この映画を観てる我々自身も本当かどうか判らない事に感情移入している点で、映画の大衆と変わらないのだが。
是非ともエリザベス女王本人の感想が聞いてみたいものである。
今回はベリーブラザーズ&ラッドのブラン・ド・ブラン ブリュットをチョイス。
一応英国王室御用達なのだが、お酒に限らず御用達アイテムは沢山あるので、あんまりこだわる事も無い。
BBRは醸造業者では無くワイン商で、各地の優秀なワインを自社セレクションとしてブランド化して販売している。
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2007年05月04日 (金) | 編集 |
「忍者ハットリくん ザ・ムービー」のチームが二匹目の泥鰌を狙って立ち上げた企画だというので、観る前から大体ノリはわかっていたし、正直内容にはあまり期待せずにコスプレショーのつもりで観にいった。
結果的に漫画のコスプレとしてはまあまあ満足。
しかし、やっぱりそれだけで1時間40分は持たないんだな~。
ゲゲゲの鬼太郎(ウエンツ瑛士)の元へ、人間の少年健太(内田流果)から手紙が届く。
健太は、お父さんの晴彦(利重剛)とお姉さんの実花(井上真央)と共に団地で暮らしているが、そこにテーマパークの建設計画が始まってから、悪い妖怪がたくさん出るのだという。
人間界にやってきた鬼太郎は、早速人を驚かせていた妖怪たちを追い払うが、それは人間の儲け話に乗っかったねずみ男(大泉洋)の仕業だった。
鬼太郎にせっかくのチャンスをつぶされたねずみ男は、化け狐一族が守っていた恐るべき力を持つ妖怪石を、偶然手にいれるのだが、その価値を知らずに人間の質屋に売り飛ばしてしまう。
そして石の魔力に魅入られたのは、健太のお父さんの晴彦だった・・・・
ビジュアルは安いなりに結構がんばっていたと思うし、バラエティノリも判っていればそれほど気にならない。
妖怪キャラなんて予想以上に良く出来ている物もあった。
そういう意味での興味はまずまず満たしてくれるのだが、このお話のゆるさは一体何だ?
はじめから終わりまで辻褄の合わない事ばかりで、はっきり言って面白くない。
いくら子供向けと言っても、これはないだろう。
もうこんな当たり前の事は何度も書くのも嫌なのだが、「子供向けに作る」という事は「適当に作る」のとは断じて違う。
古今東西の優れた子供向け映画、いや映画だけではない、漫画だって絵本だって、良いと言われている物はしっかりとしたわかりやすい物語を持っているものだ。
むしろ子供向けの方が、整合性を重視して作らないと飽きられてしまう。
物語がちゃんとつながっていて、キャラクターに感情移入が出来るから、飽きっぽい子供たちの興味を最後までつなぎとめることが出来るのだ。
そりゃハリウッド映画の様に、お金と工夫を凝らした見せ場をつるべ打ち出来るなら、多少の物語の破綻は帳消しに出来るかもしれない。
しかし、残念ながら「鬼太郎」はハリウッド映画ではないのだ。
映画版「鬼太郎」は森がテーマパークとして切り開かれ、子供たちが鬼太郎を呼び寄せる手紙を送るところから始まる。
「ああ、テーマの部分にエコを持ってきたのね、まあありきたりだけど、現代から妖怪にアプローチするには悪くないかな」と思っていたのに、このテーマパークの話はその後まったく出てこない。
鬼太郎を呼んだ少年のお父さんも、話の流れからはテーマパーク反対運動で疲れ果てているのかと思いきや、ただのリストラオヤジだったし。
いつの間にか話は化け狐の守ってきた妖怪石の争奪戦に摩り替わるのだが、肝心の妖怪石はたまに光るだけで、いったい何がそんなに凄いのかまったく描写されない。
妖怪石を狙って妖怪世界を統一するとか言っている化け狐も、そもそも元々自分らが守ってきた石なのだから、盗られる前に統一すりゃ良かったじゃん。
後半唐突に現れる化け狐のボスキャラ、天狐さまも、一体今まで何してたの?と言いたくなるような強引さ。
極めつけは妖怪を信じていなかった少女と鬼太郎の淡い恋・・・て、思いっきり感情の入らないお約束通りのセリフだけでしか表現されていないけど。
つーか、鬼太郎の存在価値薄っ!
要するに脚本が、矛盾だらけでデタラメなのだ。
子供向けだから、バラエティノリだから、話はこんな程度で良いと思ったのだろうか?
映画が始まって30分もしないうちから、観客の子供たちはぺちゃくちゃしゃべり始め、終いには場内を駆け回っていた。
後ろの席で観ていた親子連れの小学生くらいの子供は、いちいちその場面の感想を言葉にしてくれるのだが、彼の発した言葉は、「しょぼっ」「ありえね」「わかんね」「もういいよ」というとても正直なものだった(笑
この小学生にも失笑されるような酷い代物を書いたのは羽原大介。
正直言って、とても「パッチギ!」を書いたのと同一人物の仕事とは思えない。
お話の辻褄を合わせるという最低限の事すら出来てないんだけど、プロの脚本家がクレジットに名前を出す仕事としてこれでいいの?
これは「ゆるさを狙って作っている」というレベルではないと思う。
本木克英の演出も、出来の悪い脚本に引きずられる様にボロボロで、何の工夫もセンスも無い。
一匹目の泥鰌である「忍者ハットリくん ザ・ムービー」は、腰砕けのクライマックスは別としても、こんな矛盾だらけの内容ではなかったし、ゆるいなりにセンスと遊び心があってそれなりに面白かった。
このあたりは、作り手の原作への思い入れの差があるのかも知れないが、それがこの出来に対するエクスキューズになるとは思えない。
結局見所としては妖怪キャラだけという事になるのだが、おなじみのネズミ男や猫娘、砂かけ婆、こなき爺といったあたりは役者の個性をそのまんま生かした仕上がりでなかなか笑える。
特にハットリくん繋がりの田中麗奈の猫娘は、他のキャストが凝ったメイクでキャラを作っているのに、一人だけメイクなし(笑
素顔で妖怪を演じられるのも凄いが、一応演技派女優なのにかなり恥ずかしい猫ダンスまで見せてくれる。
めちゃめちゃイメージどおりの大泉洋のねずみ男と共に本編の白眉だ。
残念なのは、「蟲師」のオダギリジョーとの劇似ぶりが話題になってしまったウエンツ瑛士が、やはりどうしても鬼太郎には見えなかった事。
やはり鬼太郎は「汚いガキ」じゃないとね。
映画版「ゲゲゲの鬼太郎」は、漫画のコスプレショーとしてはそれなりに成功しているが、大人の、いや子供の鑑賞にも堪える映画になってない。
「鬼太郎」の実写化は、二十年位前にフジテレビでやっていたバラエティノリの二時間ドラマ、「月曜ドラマランド」でもやったことがあるが、ぶっちゃけ今回のよりは面白かった記憶がある。
あの時はねずみ男を竹中直人が怪演してたっけ。
今回は、水木しげるの故郷でそのものずばり「鬼太郎焼酎」なるものが売られているので、迷いなし。
米と芋のセットで、私も水木ファンとして呑んでみた。
まあ正直なところ、味に妖怪を感じさせるものは何にもないのだけど、普通においしいので好きな人なら水木ラベル目当てに買ってしまっても良いと思う。
映画と違ってごくごくまっとうな作りのお酒だ。
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結果的に漫画のコスプレとしてはまあまあ満足。
しかし、やっぱりそれだけで1時間40分は持たないんだな~。
ゲゲゲの鬼太郎(ウエンツ瑛士)の元へ、人間の少年健太(内田流果)から手紙が届く。
健太は、お父さんの晴彦(利重剛)とお姉さんの実花(井上真央)と共に団地で暮らしているが、そこにテーマパークの建設計画が始まってから、悪い妖怪がたくさん出るのだという。
人間界にやってきた鬼太郎は、早速人を驚かせていた妖怪たちを追い払うが、それは人間の儲け話に乗っかったねずみ男(大泉洋)の仕業だった。
鬼太郎にせっかくのチャンスをつぶされたねずみ男は、化け狐一族が守っていた恐るべき力を持つ妖怪石を、偶然手にいれるのだが、その価値を知らずに人間の質屋に売り飛ばしてしまう。
そして石の魔力に魅入られたのは、健太のお父さんの晴彦だった・・・・
ビジュアルは安いなりに結構がんばっていたと思うし、バラエティノリも判っていればそれほど気にならない。
妖怪キャラなんて予想以上に良く出来ている物もあった。
そういう意味での興味はまずまず満たしてくれるのだが、このお話のゆるさは一体何だ?
はじめから終わりまで辻褄の合わない事ばかりで、はっきり言って面白くない。
いくら子供向けと言っても、これはないだろう。
もうこんな当たり前の事は何度も書くのも嫌なのだが、「子供向けに作る」という事は「適当に作る」のとは断じて違う。
古今東西の優れた子供向け映画、いや映画だけではない、漫画だって絵本だって、良いと言われている物はしっかりとしたわかりやすい物語を持っているものだ。
むしろ子供向けの方が、整合性を重視して作らないと飽きられてしまう。
物語がちゃんとつながっていて、キャラクターに感情移入が出来るから、飽きっぽい子供たちの興味を最後までつなぎとめることが出来るのだ。
そりゃハリウッド映画の様に、お金と工夫を凝らした見せ場をつるべ打ち出来るなら、多少の物語の破綻は帳消しに出来るかもしれない。
しかし、残念ながら「鬼太郎」はハリウッド映画ではないのだ。
映画版「鬼太郎」は森がテーマパークとして切り開かれ、子供たちが鬼太郎を呼び寄せる手紙を送るところから始まる。
「ああ、テーマの部分にエコを持ってきたのね、まあありきたりだけど、現代から妖怪にアプローチするには悪くないかな」と思っていたのに、このテーマパークの話はその後まったく出てこない。
鬼太郎を呼んだ少年のお父さんも、話の流れからはテーマパーク反対運動で疲れ果てているのかと思いきや、ただのリストラオヤジだったし。
いつの間にか話は化け狐の守ってきた妖怪石の争奪戦に摩り替わるのだが、肝心の妖怪石はたまに光るだけで、いったい何がそんなに凄いのかまったく描写されない。
妖怪石を狙って妖怪世界を統一するとか言っている化け狐も、そもそも元々自分らが守ってきた石なのだから、盗られる前に統一すりゃ良かったじゃん。
後半唐突に現れる化け狐のボスキャラ、天狐さまも、一体今まで何してたの?と言いたくなるような強引さ。
極めつけは妖怪を信じていなかった少女と鬼太郎の淡い恋・・・て、思いっきり感情の入らないお約束通りのセリフだけでしか表現されていないけど。
つーか、鬼太郎の存在価値薄っ!
要するに脚本が、矛盾だらけでデタラメなのだ。
子供向けだから、バラエティノリだから、話はこんな程度で良いと思ったのだろうか?
映画が始まって30分もしないうちから、観客の子供たちはぺちゃくちゃしゃべり始め、終いには場内を駆け回っていた。
後ろの席で観ていた親子連れの小学生くらいの子供は、いちいちその場面の感想を言葉にしてくれるのだが、彼の発した言葉は、「しょぼっ」「ありえね」「わかんね」「もういいよ」というとても正直なものだった(笑
この小学生にも失笑されるような酷い代物を書いたのは羽原大介。
正直言って、とても「パッチギ!」を書いたのと同一人物の仕事とは思えない。
お話の辻褄を合わせるという最低限の事すら出来てないんだけど、プロの脚本家がクレジットに名前を出す仕事としてこれでいいの?
これは「ゆるさを狙って作っている」というレベルではないと思う。
本木克英の演出も、出来の悪い脚本に引きずられる様にボロボロで、何の工夫もセンスも無い。
一匹目の泥鰌である「忍者ハットリくん ザ・ムービー」は、腰砕けのクライマックスは別としても、こんな矛盾だらけの内容ではなかったし、ゆるいなりにセンスと遊び心があってそれなりに面白かった。
このあたりは、作り手の原作への思い入れの差があるのかも知れないが、それがこの出来に対するエクスキューズになるとは思えない。
結局見所としては妖怪キャラだけという事になるのだが、おなじみのネズミ男や猫娘、砂かけ婆、こなき爺といったあたりは役者の個性をそのまんま生かした仕上がりでなかなか笑える。
特にハットリくん繋がりの田中麗奈の猫娘は、他のキャストが凝ったメイクでキャラを作っているのに、一人だけメイクなし(笑
素顔で妖怪を演じられるのも凄いが、一応演技派女優なのにかなり恥ずかしい猫ダンスまで見せてくれる。
めちゃめちゃイメージどおりの大泉洋のねずみ男と共に本編の白眉だ。
残念なのは、「蟲師」のオダギリジョーとの劇似ぶりが話題になってしまったウエンツ瑛士が、やはりどうしても鬼太郎には見えなかった事。
やはり鬼太郎は「汚いガキ」じゃないとね。
映画版「ゲゲゲの鬼太郎」は、漫画のコスプレショーとしてはそれなりに成功しているが、大人の、いや子供の鑑賞にも堪える映画になってない。
「鬼太郎」の実写化は、二十年位前にフジテレビでやっていたバラエティノリの二時間ドラマ、「月曜ドラマランド」でもやったことがあるが、ぶっちゃけ今回のよりは面白かった記憶がある。
あの時はねずみ男を竹中直人が怪演してたっけ。
今回は、水木しげるの故郷でそのものずばり「鬼太郎焼酎」なるものが売られているので、迷いなし。
米と芋のセットで、私も水木ファンとして呑んでみた。
まあ正直なところ、味に妖怪を感じさせるものは何にもないのだけど、普通においしいので好きな人なら水木ラベル目当てに買ってしまっても良いと思う。
映画と違ってごくごくまっとうな作りのお酒だ。

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2007年05月02日 (水) | 編集 |
私はサム・ライミ監督の「スパイダーマン」シリーズが大好きだ。
特に、派手な特撮アクションとヒーローの悲哀たっぷりの物語が高度にバランスした「2」は、数あるアメコミヒーロー映画の中でも最高傑作だと思っている。
そのライミが、「スパイダーマン3」ではついに「復讐」をテーマに描くという。
ヒーローの復讐!しかもビジュアル的に実に格好良いブラックスパイダーマンも登場だ!
おまけになんと今回はニューゴブリン、サンドマン、ヴェノムと敵が3人もいるという!
もしかしたら、もしかすると、これはとんでもなく凄い作品になるのではないか?
・・・・という期待をしたのは私だけではないだろうが、面白いことは面白いが結果はやや微妙。
スパイダーマンとして日々活躍するピーター・パーカー(トビー・マグワイア)は、とうとうMJ(キルスティン・ダンスト)へのプロポーズを決意する。
ところが、自己中な行動が災いして、プロポーズ作戦は失敗。
落ち込むピーターのもとへ、叔父殺しの真犯人マルコ(トーマス・へイデン・チャーチ)が脱獄したという知らせが来る。
復讐心に駆られたピーターは、宿主の攻撃性を増幅させる謎の黒いアメーバ状生命体に取り付かれてしまい、ブラックスパイダーマンになってしまう。
逃亡中の事故で体を粒子化出来るサンドマンとなったマルコの前に、復讐と憎しみの権化となったピーターが立ちはだかるのだが・・・・
本作の冒頭で、スパイダーマンことピーター・パーカーは少し天狗になっている。
スーパーヒーローとして認められ、恋人MJとの交際も順調、つまり世界が自分を中心に回っている状態だ。
当然ながら、子供っぽい超人と周りの関係はすぐにギクシャクしだす。
スパイダーマンを父グリーン・ゴブリンの仇と信じる嘗ての親友ハリーには付け狙われ、カメラマンとしてのキャリアにもエディー・ブロックというライバルが現れる。
特にMJとの関係悪化は天狗のピーターに効果覿面、今度は高校時代のネクラ少年に逆戻りしたような狼狽っぷりが痛々しい。
そんなピーターの前に現れたのが叔父さん殺しの真犯人サンドマンと、宇宙から飛来した宿主の攻撃性を増幅する寄生生命体とくれば、蜘蛛男のダークサイド転落は決まったような物だ。
それぞれに復讐心を秘めた超人たちが大バトルを繰り広げ、やがてその無意味さを悟ったスパイダーマンが悲しみの地平に立つ。
その姿が、大人の観客には映画の世界を超えて普遍性をもったテーマを感じさせる、観る前はそんなイメージを想像していたのだが・・・。
ちょっと話を詰め込み過ぎではないか。
確かテレビのインタビューでサム・ライミか脚本家の兄さん、アイヴァン・ライミが言っていたと思うのだが、元々このプロットにヴェノムはいなかったらしい。
今までの登場人物が、70年代あたりまでの原作に登場するキャラクターばかりなのを気にかけたプロデューサーの助言で、今の子供たちに馴染みの深いヴェノムを加えてプロットを練り直したらしいが、やはりこの話の中に盛り込むには無理があったと思う。
本来なら、脱ぎ捨てられたブラックスパイダーマンのスーツを、エディー・ブロックが見つけるあたりで終わらせて、続きは「4」にご期待という感じだったのだろう。
ちなみにいつの間にかスパイダーマンは三部作という扱いになっているようだが、ライミ自身はすでに4の準備に入っていると発言しているらしい?いったいどうなってんの??
この作品でヴェノムが登場した事で、復讐に駆られたピーターとハリーという二人の男の情念が、サンドマンを間に挟んで交錯するという綺麗な物語構造が壊れてしまい、全体のエピソードをまとめるのに四苦八苦という印象になってしまっている。
それでもキャラクター一人一人を追ってみれば、それなりにきちんと感情がつながっているのは大したものだが、何しろ描かなければならない描写が多すぎて、ドラマ全体にぶつ切り感が出てしまっている。
特にクライマックスに至る流れはかなり駆け足で、ピーター・パーカーが突然ハリーに助けを求めるあたりは心理描写の不足で違和感があったし、ハリーの変心も唐突に見える。
シリーズ最長の二時間二十分を費やしても、物語は上手くまとめきれたとは思えない。
それにただでさえ、今回の物語はピーター自身の復讐がテーマとなっていて、物語のスケールは元々大きくないのに、相当セコイ復讐心に駆られたヴェノムがプラスされたことで、さらに小さな話になってしまった。
ぶっちゃけた話、「スパイダーマン3」はお互いを嫌いな超人男子たちによるちっちゃな喧嘩であり、小学校の教室で毎日繰り広げられている事の、拡大版に過ぎない。
頭の悪い超人男子たちの、意地の張り合いに巻き込まれてばかりのMJには同情するが、話がちんまりとし過ぎていて、テーマが映画の枠を超えてこないのだ。
もちろん、映画史上最高額とも言われるバジェットが注ぎ込まれたビジュアルは圧巻だし、ベタなのは判っていても、少年漫画的なハリーの助太刀にはワクワクしてしまった。
ベン伯父さんの死の真相が明らかになり、スパイダーマンがサンドマンを「許す」と言うのも新しい。
「スパイダーマン3」は、決してつまらない作品ではない。
ただ、意欲作ではあるが、少し欲張りすぎてしまったが故に、前二作を超えていない。
アメコミアクション映画としては、依然としてハイレベルな仕上がりと言えるのだが、観ている方としてはやはりシリーズ物には進化を期待したくなる。
復讐と憎しみの連鎖に陥ってしまった子供っぽい超人と言う、現在アメリカを省みても実に面白そうなテーマ性を持ちながら、それを表現すべき物語の混乱が残念だ。
まあ、これはこれで十分楽しめるので、次なる作品での飛躍に期待しよう。
今回はピーターのプロポーズ大作戦から、シャンパンの名品カナール・デュシェーヌの「グラン・キュヴェ ロゼ」をチョイス。
そういえばカメオ出演なんてもんじゃないノリノリ(悪ノリ)演技で、怪しいフランス人マネージャーを演じてたブルース・キャンベルは可笑しかった。
次はスパイダーマンvsキャプテンスーパーマーケットでも良いかな(笑
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特に、派手な特撮アクションとヒーローの悲哀たっぷりの物語が高度にバランスした「2」は、数あるアメコミヒーロー映画の中でも最高傑作だと思っている。
そのライミが、「スパイダーマン3」ではついに「復讐」をテーマに描くという。
ヒーローの復讐!しかもビジュアル的に実に格好良いブラックスパイダーマンも登場だ!
おまけになんと今回はニューゴブリン、サンドマン、ヴェノムと敵が3人もいるという!
もしかしたら、もしかすると、これはとんでもなく凄い作品になるのではないか?
・・・・という期待をしたのは私だけではないだろうが、面白いことは面白いが結果はやや微妙。
スパイダーマンとして日々活躍するピーター・パーカー(トビー・マグワイア)は、とうとうMJ(キルスティン・ダンスト)へのプロポーズを決意する。
ところが、自己中な行動が災いして、プロポーズ作戦は失敗。
落ち込むピーターのもとへ、叔父殺しの真犯人マルコ(トーマス・へイデン・チャーチ)が脱獄したという知らせが来る。
復讐心に駆られたピーターは、宿主の攻撃性を増幅させる謎の黒いアメーバ状生命体に取り付かれてしまい、ブラックスパイダーマンになってしまう。
逃亡中の事故で体を粒子化出来るサンドマンとなったマルコの前に、復讐と憎しみの権化となったピーターが立ちはだかるのだが・・・・
本作の冒頭で、スパイダーマンことピーター・パーカーは少し天狗になっている。
スーパーヒーローとして認められ、恋人MJとの交際も順調、つまり世界が自分を中心に回っている状態だ。
当然ながら、子供っぽい超人と周りの関係はすぐにギクシャクしだす。
スパイダーマンを父グリーン・ゴブリンの仇と信じる嘗ての親友ハリーには付け狙われ、カメラマンとしてのキャリアにもエディー・ブロックというライバルが現れる。
特にMJとの関係悪化は天狗のピーターに効果覿面、今度は高校時代のネクラ少年に逆戻りしたような狼狽っぷりが痛々しい。
そんなピーターの前に現れたのが叔父さん殺しの真犯人サンドマンと、宇宙から飛来した宿主の攻撃性を増幅する寄生生命体とくれば、蜘蛛男のダークサイド転落は決まったような物だ。
それぞれに復讐心を秘めた超人たちが大バトルを繰り広げ、やがてその無意味さを悟ったスパイダーマンが悲しみの地平に立つ。
その姿が、大人の観客には映画の世界を超えて普遍性をもったテーマを感じさせる、観る前はそんなイメージを想像していたのだが・・・。
ちょっと話を詰め込み過ぎではないか。
確かテレビのインタビューでサム・ライミか脚本家の兄さん、アイヴァン・ライミが言っていたと思うのだが、元々このプロットにヴェノムはいなかったらしい。
今までの登場人物が、70年代あたりまでの原作に登場するキャラクターばかりなのを気にかけたプロデューサーの助言で、今の子供たちに馴染みの深いヴェノムを加えてプロットを練り直したらしいが、やはりこの話の中に盛り込むには無理があったと思う。
本来なら、脱ぎ捨てられたブラックスパイダーマンのスーツを、エディー・ブロックが見つけるあたりで終わらせて、続きは「4」にご期待という感じだったのだろう。
ちなみにいつの間にかスパイダーマンは三部作という扱いになっているようだが、ライミ自身はすでに4の準備に入っていると発言しているらしい?いったいどうなってんの??
この作品でヴェノムが登場した事で、復讐に駆られたピーターとハリーという二人の男の情念が、サンドマンを間に挟んで交錯するという綺麗な物語構造が壊れてしまい、全体のエピソードをまとめるのに四苦八苦という印象になってしまっている。
それでもキャラクター一人一人を追ってみれば、それなりにきちんと感情がつながっているのは大したものだが、何しろ描かなければならない描写が多すぎて、ドラマ全体にぶつ切り感が出てしまっている。
特にクライマックスに至る流れはかなり駆け足で、ピーター・パーカーが突然ハリーに助けを求めるあたりは心理描写の不足で違和感があったし、ハリーの変心も唐突に見える。
シリーズ最長の二時間二十分を費やしても、物語は上手くまとめきれたとは思えない。
それにただでさえ、今回の物語はピーター自身の復讐がテーマとなっていて、物語のスケールは元々大きくないのに、相当セコイ復讐心に駆られたヴェノムがプラスされたことで、さらに小さな話になってしまった。
ぶっちゃけた話、「スパイダーマン3」はお互いを嫌いな超人男子たちによるちっちゃな喧嘩であり、小学校の教室で毎日繰り広げられている事の、拡大版に過ぎない。
頭の悪い超人男子たちの、意地の張り合いに巻き込まれてばかりのMJには同情するが、話がちんまりとし過ぎていて、テーマが映画の枠を超えてこないのだ。
もちろん、映画史上最高額とも言われるバジェットが注ぎ込まれたビジュアルは圧巻だし、ベタなのは判っていても、少年漫画的なハリーの助太刀にはワクワクしてしまった。
ベン伯父さんの死の真相が明らかになり、スパイダーマンがサンドマンを「許す」と言うのも新しい。
「スパイダーマン3」は、決してつまらない作品ではない。
ただ、意欲作ではあるが、少し欲張りすぎてしまったが故に、前二作を超えていない。
アメコミアクション映画としては、依然としてハイレベルな仕上がりと言えるのだが、観ている方としてはやはりシリーズ物には進化を期待したくなる。
復讐と憎しみの連鎖に陥ってしまった子供っぽい超人と言う、現在アメリカを省みても実に面白そうなテーマ性を持ちながら、それを表現すべき物語の混乱が残念だ。
まあ、これはこれで十分楽しめるので、次なる作品での飛躍に期待しよう。
今回はピーターのプロポーズ大作戦から、シャンパンの名品カナール・デュシェーヌの「グラン・キュヴェ ロゼ」をチョイス。
そういえばカメオ出演なんてもんじゃないノリノリ(悪ノリ)演技で、怪しいフランス人マネージャーを演じてたブルース・キャンベルは可笑しかった。
次はスパイダーマンvsキャプテンスーパーマーケットでも良いかな(笑

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