酒を呑んで映画を観る時間が一番幸せ・・・と思うので、酒と映画をテーマに日記を書いていきます。 映画の評価額は幾らまでなら納得して出せるかで、レイトショー価格1200円から+-が基準で、1800円が満点です。
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ダイ・ハード4.0・・・・・評価額1550円
2007年06月26日 (火) | 編集 |
ハリウッドのアクション映画の歴史を紐解くと、何年かに一度それまでの常識を覆すような傑作が生まれている。
80年代以降なら「レイダース/失われたアーク」「スピード」「マトリックス」と言ったあたりが、それにあたるだろう。
1988年に公開された「ダイ・ハード」もその一つ、というかこの第一作はアクション映画史上の最高傑作と行っても過言ではないかもしれない。
当時テレビの人気スターだったブルース・ウィリスは、この作品で一気にハリウッドの頂点に駆け上がり、新進監督のジョン・マクティアナンもアクションの巨匠の名声を手にいれた。
あれから早19年、第3作の「ダイ・ハード3」からも12年。
ハゲ隠しに剃りあげた頭を光らせながら、ニューヨーク市警のジョン・マクレーン刑事、久々の登場である。

独立記念日の前夜。
NY市警のジョン・マクレーン刑事(ブルース・ウィリス)はニュージャージの大学に通う娘ルーシーの元を訪ねていた。
ところがデートに割って入られたルーシーは激怒し、マクレーンはけんもほろろに追い返されてしまう。
その頃、ワシントンにあるFBIのサイバー犯罪部が、何者かにハッキングされると言う事件が起こる。
FBIはブラックリストに載っているハッカーを片っ端から拘束するという荒療治に出るのだが、マクレーンにもNJに住むマット(ジャスティン・ロング)というハッカーを逮捕するようにという命令が下る。
しかし、マットのアパートに向かったマクレーンを待っていたのは、マットを暗殺しようとする謎の武装グループだった。
その頃、全米の生命線ともいうべきネットワークシステムが次々と何者かに乗っ取られ始める。
金融、通信、交通、全てをコンピューターネットワークに頼った社会は一瞬で機能を失ってしまう・・・


「ダイ・ハード」の第一作は、映画の構造に幾つかの特徴があった。
一つは、主人公が外界から隔絶された状況で危機に陥り、圧倒的不利な状況であること。
二番目に、単純に暴れるだけのアクションに留まらず、絶対不利の状況を様々な機転と知略で逆転させてゆく知的な一面を持っていた事。
そして最後は、主人公が一見したところどう見ても強そうにない、しょぼくれたオヤジであることだ。
当時はシュワ知事やスタローンら、絶対死にそうもない筋肉男たちの全盛期で、彼らとは対照的に頼りなさそうなルックスで高所恐怖症のマクレーン刑事が、裸足でボロボロになりながらも戦い続ける姿に、観客は喝采を送ったものだ。
このシリーズがだんだんと勢いを失っていったのも、回を重ねるごとにマクレーンがどんどんスーパーヒーローになってしまい、本来の面白さを失ってしまった事が大きな要因だと思う。

さて、監督に「アンダーワールド」シリーズの若手レン・ワイズマンを迎えて、復活したこの「ダイ・ハード4.0」はどうか。
残念ながらキャラクターから言うと、やはり第一作が持っていた、見た目ショボイけど「私、本気出したら凄いんです」という意外性は無い。
マクレーンは殆ど超人的なスーパーヒーローとして描かれており、バディとなるマットがヒョロヒョロのオタク青年なので、なおさらヒーローっぽさが強調される。
ただ今回は観客もマクレーンも、一般のオッサンがヒーローへと変貌する歴史を経験しているという前提で描いているので、例えば「ダイ・ハード3」の唐突な超人化で感じた様な違和感は無い。
物語的にはアナログ・マッチョな初老オヤジ=マクレーンとデジタル・ひ弱なオタク青年=マットで対照的なバディを組ませ、頭脳と暴力を兼ね備えた「敵」と対峙させるのが基本構造で、孤立無援のマクレーンたちと外部の協力者との連携や、途中で犯人が活用する「人質」の設定などは、第一作を思わせる。
さすがに殆ど完璧な物語構造を持つ第一作には及ばないが、今回もそれなりにきちんと複線が張られていて、物語重視というシリーズの伝統が生きているのは嬉しいポイント。
第一作のような新鮮さは無いが、20年近い歴史を踏まえて作られた本作は、これはこれでシリーズのツボをしっかりと押さえている。

今回の敵は、インターネットを発明した国、合衆国のコンピューターシステムを乗っ取って全てを破壊しようとするサイバーテロリスト
毎回手を代え品を代え様々なテロリストが登場するこのシリーズだが、やはり21世紀にはこれをもって来たかという感じだ。
もっともパネル上で表現できてしまうサイバーテロだけでは盛り上がらない事この上ないので、重要な拠点はやはり実働部隊が出なければならない設定にして、アクションとしての見せ場は確保している。
「アンダーワールド」シリーズでも随所に感じられたが、レン・ワイズマンの演出は古典的なアクション映画からの映画的記憶を感じさせる。
「マトリックス」から「300 スリーハンドレッド」に連なる、デジタル映像の特徴を極限まで強調するスタイルとは対照的に、デジタルをあくまでも黒子として活用し、主役はあくまでもアクションの仕掛けにある。
建物の構造をうまく使ったロジカルなアクションの連続はなかなかの物だし、前半と後半に二回ある、空vs陸のチェイスも空間演出が上手くてスリリングだ。
「ダイ・ハード4.0」は全体としての印象は、第三作に第一作の構造を取り込んだという感じで、新鮮さは無いが良く出来た「ダイ・ハード」ムービーであると思う。
まあ二十年も引っ張った、ある意味で手垢にまみれたシリーズの再生という困難な仕事、結果的にはシリーズのファンにもまずまず受け入れられる仕上がりになっているのではないだろうか。
老舗の料理屋に入ったら、さすがに最初に食べた時の様な新鮮さはないが、技はしっかりと継承されていて十分に美味しかったという感じだ。

今回はハリウッド映画の中のハリウッド映画という事で、マクレーンにもっとも似合いそうなお酒をチョイス。
バド、ミラーと共にアメリカを代表するビール、「クアーズ」のライトを。
ブルース・ウィリスってビール以外の酒があんまり想像できない。
野球帽かぶってスタジアムでライトビールをがぶ飲みしているのが、これほど似合う人もいないだろう。
その普通のオッサン臭さがもっと出たら良かったんだけど。

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アポカリプト・・・・・評価額1450円
2007年06月20日 (水) | 編集 |
一見歴史冒険物に見えるが、本質は真性Mによる変態さん映画である。
オスカーを受賞した「ブレイブハート」でもその気は見えたし、前作の「パッション」も痛さ全開だったが、これだけ続くともはや断言しても良いだろう。
メル・ギブソンが描きたい事の第一義は「痛さ」であり、その他のテーマは二義的な物に過ぎない。
中世マヤ文明を舞台とした「アポカリプト」は、何しろ全体のバランスを崩してまで執拗に描写されるサディスティックな描写で溢れている。

中世、中央アメリカのジャングル。
部族長の息子ジャガー・パウ(ルディ・ヤングブラッド)は、愛する家族と共に豊潤な森で幸せに暮らしていた。
しかし、ある時彼らの村はマヤの都会から派遣されてきた軍隊の奇襲攻撃を受ける。
臨月の妻(ダリア・ヘルナンデス)と幼い息子を、村はずれの涸れ井戸に隠したジャガー・パウは、村を守るために必死で戦うが多勢に無勢、村は壊滅し村人は奴隷として連行されてしまう。
もし雨が降れば、涸れ井戸は直ぐに水が流れ込み妻子は溺死してしまう。
何とか脱出の機会を探るジャガー・パウだったが、都市に連行された彼らを待っていたのは想像以上に過酷な運命だった・・・


残虐な描写に拘るんだからSじゃないの?という声もありそうだが、まず間違いなくメル・ギブソンはMだと思う。
正直に告白すると、私もちょっとMっ気があるから判るのだ(笑
自らの処刑シーンを喜々として演じていた「ブレイブハート」は言うに及ばず、この作品を含めて3作の監督作品は全て、ひたすら痛い思いをする主人公の目線で描かれている。
ああ、いろんな痛いシチュエーションを夢想しながら作ったんだろうなあ、ゾクゾクしただろうなあ・・・と、M仲間としては思ってしまった。

一応テーマとしては、台詞でも強調される「本質的な恐怖の克服」という事なんだろうけど、それがこれほどまでにスプラッターな描写に拘る理由にはなるまい。
当たり前だが、恐怖は痛みと繋がってはいるが、イコールではない。
にもかかわらず、ギブソンは刺され、斬られ、喰いちぎられ、破壊され、陵辱される人体そのものを、何かにとりつかれたかの様に徹底的に描写する。
ここまでやると、もはやビジュアル的な痛みが恐怖も何も覆い隠してしまって、恐怖の克服というテーマは台詞で思い出させてくれなければ忘れてしまう。
主人公はひたすら自らと家族に降りかかった生命の危機から逃れようと、本能的な闘争を続けているだけだし、映画で描写される事と、台詞で語られるテーマは今ひとつキッチリとはリンクしない。
勿論、痛みから逃れ打ち勝ち、生き延びること自体が恐怖の克服であるという事もいえるだろうが、それならばもう少し描写は精神的であるべきで、そういう意味では、この映画はかなり薄っぺらで、弱い。
この映画が後世に残るとすれば、アカデミー賞監督がその変態性を封じ込めた、カルトなスプラッター映画としての可能性の方が強いだろう。

もっともテーマ性の部分は置いといて、秘境冒険物としてみると、これはこれでかなり面白い。
ギブソンとファラド・サフィニアによる脚本はプロットだけ見ると、囚われた英雄が家族を救うために闘争するという、娯楽映画の王道というべきシンプルでベーシックな物。
ちょっとマイケル・マン監督の「ラスト・オブ・モヒカン」を思わせる密林での戦いは、濃密な緑の大気を感じさせるロケーションも素晴らしく、正に疾走するスピード感溢れる見せ場の連続で飽きさせない。
地上、水中から木の上までを使ったジャングルならではの立体的なアクション演出はさすがと言っていい仕上がりだ。

また、俳優出身の監督は役者の扱いが上手いものだが、メル・ギブソンもまた無名の俳優達をリアリティ溢れるキャラクターに生かしてみせる。
本作で印象的なのは、目線の演出だ。
父と子、夫と妻、大人と子供、敵と味方が目で表現する、愛情、憎しみ、慈愛、不安、絶望、希望。
ギブソン拘りのマヤ語による台詞回し以上に、どんな台詞よりも雄弁に語りかける登場人物たちの目の演技が素晴らしい。
それを可能としているのが、ネイティブ系俳優たちの圧倒的な目力であり、彼らの感情を引き出す演出である。
映画監督のもっとも重要な仕事は俳優の演技を引き出すことであり、その点でギブソンは見事な仕事をしている。

冒険映画として、変態映画として、「アポカリプト」はなかなかだ。
しかし、やはりとってつけたようなテーマ性が映画全体の印象としては邪魔をする。
「恐怖の克服」以外にも映画の冒頭の字幕で語られる「文明が征服される要因は、内部崩壊である」という文章も、映画を観ると要領を得ない。
少なくともこの映画において、「文明の征服」などは描かれていないし、「内部崩壊」というのが映画で描かれた腐敗したマヤの都市文明だとしたら、それはそれで疑問符を抱かざるを得ない。
このあたりの歴史をかじった人なら判ると思うが、この映画に描かれたマヤの都市文明はまるでマヤとアステカが合体した様でちょっと奇妙だし、マヤは必ずしも内部分裂を起こして征服された訳ではない。
それにギブソンは明らかに、ジャガー・パウらの暮らす森の村との対比で、マヤ文明を悪意を持って描いている。
これは例えば、作り手も観客も漫画と割り切っている「300 スリーハンドレッド」 でペルシャ軍の描写が荒唐無稽というのとは全く意味が違ってくると思うのだが・・・
タイトルの「アポカリプト」とはギリシャ語で「新時代」を意味する言葉だが、それが素直にラストから読み取れるかも疑問で、私はむしろ言い訳がましいこじつけに思えてしまった。
エンタメとしての潔い作りとは対照的に、「恐怖の克服」「文明の征服」「新時代」という言葉で明示される三つのテーマは最後まで輪郭がボケたままだった気がする。

今回は、結構暑苦しい映画なんで、ちょいサッパリ系。
マヤを受け継ぐメキシコのビール「テカテ」をチョイス。
テカテとはクチュマ山近くのテカテという街で今から60年以上前に生まれた、メキシコを代表するビールで、本国を含む北中米でシェアNo.1を誇る。
ライムと岩塩と一緒にグビグビやるのがメキシコ流だ。

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ゾディアック・・・・・評価額1600円
2007年06月16日 (土) | 編集 |
今から38前、全米を恐怖に陥れたシリアルキラーがいた。
自らを「ゾディアック(十二宮)」と名乗り、マスコミに暗号のような声明文を送りつけ、まるでゲームを楽しむように犯罪を犯し、警察とマスコミを翻弄する。
デビット・フィンチャー監督の「ゾディアック」は、日本でもあの酒鬼薔薇聖斗が崇拝していた事で知られる、前代未聞の猟奇殺人犯の正体を追い求めた、四人の男たちの物語だ。

1969年、カリフォルニア州サンフランシスコ近郊の街で、ドライブ中のカップルが襲撃され、女性は死亡、男性も重症を負う事件が起こった。
1ヵ月後、新聞社に犯人と思しき人物から犯行声明と暗号文が届けられる。
犯人曰く、暗号文を新聞に載せないと無差別大量殺人を実行するという。
暗号は新聞に掲載され、サンフランシスコ市警のデビッド(マーク・ラファエロ)とウィリアム(アンソニーエドワーズ)両刑事、そして新聞記者のエイブリー(ロバート・ダウニーJr.)や風刺漫画家のグレイスミス(ジェイク・ギレンホール)は姿なき殺人鬼「ゾディアック」の謎解きに次第にのめり込んで行くのだが、それは数十年に渡る戦いの序章に過ぎなかった・・・


映画の宣伝では、まるで「羊たちの沈黙」の様な、ホラーテイストのサスペンス風味を強調しているが、正直言って看板に偽りあり。
そういった要素が全く無いとは言わないが、恐怖やスリルを求めてこの映画を観ようという人は、やめておいた方が良い。
これは、サスペンスの形をとってはいるが、実際に存在するのかどうかも判らない、「ゾディアック」という見えない恐怖に取り付かれ、人生を狂わされた男たちの数十年に渡る情念の物語だ。
実は、私はこの作品を観て、二本の映画を思い出した。
一本は、本作と同じジェイク・ギレンホール主演の「ブロークバック・マウンテン」
勿論ジャンルも描かれる感情もまるで違うのだが、一つのイメージに取り付かれ、それ以上何も進めなくなってしまった男たちの、悲しくも純粋な生き様にはどこか共通点があるような気がする。
そしてもう一本は、80年代末に韓国で起こった華城連続殺人事件を描いたポン・ジュノの傑作「殺人の追憶」だ。
ゾディアックと同じように、自己の存在を誇示する見えない犯人を執拗に追う二人の刑事のドラマは、内容そのもの以上に、物語への時代を俯瞰したアプローチという点で、本作に強い影響を与えていそうだ。

おそらくそのテーマから、「セブン」を期待した人も多いのだろうが、デビット・フィンチャーの演出は、いつもの外連味を押さえた淡々としたもので、ビジュアルも地味。
今までのフィンチャーのファンなら、本作の演出スタイルは、まるで人が違ったかの様に感じるかもしれない。
もっともビジュアル的に地味といっても、そこはフィンチャー、実際にはものすごく凝った映像を駆使して、重厚なイメージを作り出している。
オールデジタル撮影で、70年代のフィルム調で仕上げた映像に加え、60年代末から30年間のサンフランシスコの風景を再現したVFXと美術は実に見事な仕上がりだ。
まったく自然なので、殆どの人は意識しないだろうが、私の様な映像畑の人間が観れば驚嘆せざるを得ない。
偶然ながら、私は70年代と80年代にサンフランシスコを訪れた事があり、90年代にはずっと住んでいた第二のホームタウンなので、その懲りに凝った再現の見事さ、時代の息遣いまで感じられそうな細部まで神経の行き届いた演出は素直に凄いと思う。

四人の男たちのうち、新聞漫画家のグレイスミスがこの物語の原作者であり、語り部の役割を果たす。
演じるジェイク・ギレンホールは、やはりどことなく「ブロークバック~」を連想させるが、ドラマのコアとして一番客観的で、しかし内面に情熱を秘めたキャラクターを好演している。
ロバート・ダウニーJr演じる、狂気すら感じられる事件記者エイブリーとはドラマの上で好コントラスト。
刑事では、やや受身で影の薄いウィリアムに対して、刑事コロンボの様な70年代ルックに身をつつんだマーク・ラファエロのデビッドが、いかにも切れ者という感じでやはり良いコントラストを形作る。
フィンチャーは、映像のムードだけではなく、徹底的に四人の主人公の三十年という時間の断片一つ一つを綿密に再現することで、実際にその時間を生きた彼らの人生を臨場感たっぷりに紡いでゆく。
ゾディアックとの終わりなきゲームから、途中でドロップアウトする者、その存在の重さに潰されてしまう者、追求の欲求に蓋をして生きる者、そして地味にしつこく追い続ける者。
なぜこの事件は、これほどまでに彼らの生き方を狂わせたのか。
あるいは、なぜ彼らはこれほどまでにゾディアックという怪物を、自らの中で成長させてしまったのか。
映画は明確にはその理由を提示しない。
しかし、そこには確実に血の通った人間たちの生き様が刻まれており、そこにどのような意味を見出すかは、観客一人一人に委ねられている。

ちなみに、ゾディアックは、「ダーティハリー」の悪役スコーピオンのモデルとしても知られているが、本作にもそのプレミアのシーンがある。
何でもサンフランシスコ市警は、自己顕示欲の強いゾディアックが自分がモデルになった映画のプレミアに姿を見せるかも知れないと推定し、劇場のアンケート箱の中に刑事を潜ませていたらしい。
昔この話を聞いたときは笑い話だと思ったが、この映画を観たら姿無きゾディアックに警察組織がどれほど追い詰められていたのかを逆に実感してしまった。

「ゾディアック」は、デビット・フィンチャーという映画作家が新境地を切り開いた力作である。
サスペンス映画として観に行くと、おそらく拍子抜けだろうが、じっくりと人間の生き様を描いた人間ドラマとしては十分に見応えがあり、上映時間2時間37分は決して長くない。
果たして、真の殺人者は天空の十二宮のどこに隠れているのか。
それとも、星座というものが古代の人類の想像力が夜空に見出したイリュージョンであるように、姿なき殺人者自身もまた、あの時代の人間たちの心が作り出した幻影に過ぎないのだろうか。
ゾディアック・キラー事件は、2007年現在公式にはいまだ未解決である。

今回はその十二宮の一つ、蠍座からテキーラの「スコーピオン・ブルー」を。
幻想的な美しい青色が印象的だが、シトラスのフレーバーで後味はさっぱり。
映画がドヨーンとヘヴィに圧し掛かってくるタイプなので、鑑賞後のお酒は強くてもあまり後に引かないテキーラあたりがぴったりだろう。


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プレステージ・・・・・評価額1600円
2007年06月12日 (火) | 編集 |
ウルヴァリンVSバットマン。
若き異才、クリストファー・ノーランが二大アメコミヒーロー俳優を主役に迎え、二人の天才マジシャンの交錯する運命の皮肉を描いた「プレステージ」は、良くも悪くもノーランらしいひねりの効いた佳作と言える。
何しろミステリーだと思って観に行ったら、SFだったのだから(笑

※映画のラストに触れていますよ

19世紀末のロンドン。
新進の奇術師アンジャー(ヒュー・ジャックマン)は、脱出トリックの失敗でアシスタントだった愛する妻を亡くす。
その原因を作ったのがライバルの奇術師ボーデン(クリスチャン・ベール)だと考えた彼は、ボーデンの舞台を失敗させて復讐する。
一方のボーデンも、自分を憎悪しことごとく邪魔をするアンジャーに対して、憎しみの感情を抱いていく。
ボーデンの編み出した瞬間移動のトリックが解けないアンジャーは、愛人のオリヴィア(スカーレット・ヨハンソン)をスパイとしてボーデンの元に送り込むのだが・・・・


凝った構造の作劇である。
クリストファー・ノーランの作劇は、いつも何かしら特徴があるが、今回は二人の日記を軸にした回想形式だ。
映画は、アンジャーの瞬間移動マジックが失敗し、舞台下に置かれていた水槽でアンジャーが死亡、彼とライバル関係にあったボーデンが、水槽を移動してアンジャーを殺害した容疑で逮捕されるところから始まる。
彼らは長年憎しみ合うライバル関係にあり、互いにマジックのタネを探り合う中だったのだ。
獄中のボーデンは、アンジャーの日記を入手して、彼のマジックの秘密を探ろうとするのだが、それ以前にアンジャーもまたボーデンの日記を手に入れて、彼のタネを探ろうとしている。

要するに、この作品はまるで合わせ鏡のように似た者同士である二人のマジシャンが、互いの秘密を探りあい、出し抜こうとする騙し合いで構成されている。
同時に彼ら二人のキャラクターの違いが、反作用となって物語を動かしてゆくという寸法だ。
ボーデンの小さな自尊心が、アンジャーの妻の命を奪い、そこから紡がれて行く愛憎入り混じった二人の歴史はなかなか面白い。
冒頭でアンジャーの死とボーデンの逮捕を先に見せているので、物語がどう転んであのような結末に行き着くのかという興味も加わり、飽きさせない。
もちろん、冒頭の事件が本当に物語の結末なのかという興味も含めてだが。

マジシャンはある意味で嘘が商売であり、いったい何が本当で何が嘘なのか、そもそも彼らの人生に真実が存在するのかという問いも含め、ノーランの複雑なプロットは観客と作り手の間にヴァーチャルな掛け合いを楽しませる。
作り手の問いにこちらが答えを考え、また作り手がそれをひねって問い掛けるという様な感覚だ。
一方通行の映画が多い中、画面の向こうから観客にコンゲームを仕掛けるようなノーランの個性は貴重である。
この映画の前半は、まるでよく出来た推理小説を読んだ時の様に、知的好奇心を擽って小気味良い。

しかし、映画が提示するであろう結末を想像しているうちに、物語はとんでもない方向転換をするのである。
テスラコイルの発明で知られる実在のマッドサイエンティスト、ニコラ・テスラの登場と共に、マジックにまつわるミステリー映画は突然SF映画になってしまうのだ。
これではマジックの仕掛けもへったくれも無い。
これを壮大な飛躍ととるか、大いなる破綻ととるかで、この映画の評価は180度変わるだろう。
見方によっては、物語纏める事を放棄したととれなくも無いのだから。

個人的には、この突拍子もない物語の展開もまたノーランの仕掛けであると、これは好意的に評価したい。
マジックの秘密にまつわるミステリー的興味は霧散したが、逆に物語の象徴性や寓話性がクリアになったことも確かであると思う。
脚本家・監督クリストファー・ノーランは、観客との対話を楽しみつつ、物語る者としてもしっかりした仕事をしている。

もっとも、予告編や広告でしつこく告知されている、どんでん返しに関しては大した驚きも感動も無かった。
これはこの映画だけに限らないのだが、最後の最後まで観客を騙そうと思ったら、もっと不親切にならなければ。
一言で言えばファロン怪しすぎ(笑
正直言って、このラストはかなり前から読めてしまうので、タネのわかっているマジックと同じで、最後はその確認をしているという印象だった。
ただ、マジックに使う鳥の巣箱と死体の入った水槽を重ね合わせたビジュアルイメージはなかなかに秀逸で、決してラストが悪い訳ではない。
良く考えられた、見応えのある作品である。

今回はマジックつながりで、「マジック・トレース」をチョイス。
バーボンを36ml、ドランブイを24ml、それにベルモット、オレンジジュース、レモンジュースをティースプーン1杯づつ。
これらの材料をシェイクして完成。
バーボンの濃厚なコクと柑橘類の酸味が、頭を使う映画の後にぴったりだ。
「プレステージ」を観ると、こんなお酒を飲みながら、クローズアップマジックでも鑑賞したくなる。

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ザ・シューター 極大射程・・・・・評価額1400円
2007年06月10日 (日) | 編集 |
心に傷を負った凄腕のスナイパーを主人公とした、スティーブン・ハンターのベストセラー小説「ザ・シューター 極大射程」の映画化。
ヒッチコックの「北北西に進路を取れ」や「知りすぎていた男」などの様な、巻き込まれ型サスペンスだ。
テンポも良く、見せ場には事欠かない娯楽映画だが、細かい部分での展開の荒っぽさが気になる。

海兵隊の敏腕スナイパーだったボブ・リー・スワガー(マーク・ウォルバーグ)は、アフリカでの作戦で同僚を死なせてしまった事を切欠に軍を辞め、山奥で世捨て人の様に暮らしている。
ある日、退役軍人のジョンソン大佐(ダニー・グローバー)らが訪ねて来て、スワガーに大統領暗殺計画の阻止を手伝ってほしいと要請してきた。
スワガーは自らのスナイパーとしての経験から、大統領の遊説先で唯一狙撃可能なポイントを発見し、演説当日も大佐らとともに現場の監視につく。
しかし、それは大統領暗殺にみせかけて、同席者のアフリカの司教を暗殺する計画だった。
米軍がアフリカで働いた残虐行為の秘密を握る司教を暗殺し、その罪をスワガーに着せて射殺する、というのがジョンソンたちの計画だったが・・・


監督は「トレーニング・ディ」や「キング・アーサー」のアントワーン・フークアだが、この人の作品の特徴が良くも悪くも出ている。
キャラクターをきっちりと立てるのは上手く、主役は魅力的で演出のテンポも良いのだが、物語のディティールにはあまり神経が行き届いていない。
一言で言えば大味なのだ。

原作は未読だが、分厚い文庫で上下巻に分かれている長大な小説を、この上映時間でストレートに映像化できないのは判りきっている。
脚色の段階で物語の取捨選択が行われ、おそらくかなりの要素が切り取られているのは想像に難くない。
ジョナサン・レムキンの脚本はそれなりに綺麗に纏めてはいるのだが、あっちこっちで辻褄が合わない部分が出来てしまっていて、どうにも気になるのだ。
例えば、何で米軍の残虐行為の秘密を知るアフリカの司教を、わざわざアメリカ国内で暗殺しなければならないのか。
どうせ殺すなら、アメリカに来させない方がよほど簡単に思える。
他にも劇中でスワガーを撃った警官が口封じですぐに殺されてしまい、FBI捜査官が「(ケネディ暗殺犯の)オズワルドの時と同じだ」と叫ぶシーンがあるが、そりゃこんな拙速な事したら余計怪しまれるだろう。
そもそも事が公になっても、結局アメリカの法的には追訴できないのなら、悪の組織は一体なんでこんな危ない橋を渡って謀略を巡らしたのか。
たぶんこのあたりは、原作ではもっと上手く理由付けされているのだろうが、映画ではどうにも矛盾点が目立つ。
ヒッチコック並みとは言わないが、せめて観ている間くらいは意識させないで欲しかった。

まあそれでも細かい点に目を瞑れば、それなりにスリリングな逃避行となっており、スワガー役のマーク・ウォールバーグも、どことなく「“ボーン“シリーズ」のジェイソン・ボーンを思わせる、地味派手なスーパースナイパーを好演している。
物語の中心にはあくまでもスワガーを置き、ケイト・マーラ演じる、死んだ元同僚の婚約者サラ、マイケル・ベーニャ演じる、FBIのダメ捜査官ニックという二人の協力者を上手く物語の流れに絡めてメリハリを生んでいる。
アクション描写もなかなか迫力があって、二時間四分を飽きさせない。
傑作とは言えないが、まずまず楽しめる娯楽サスペンスと言えるだろう。

ところで予告編にあった小型ジェット機が爆破されるシーンが本編には無かったが、あれは一体どこに入るべきシーンだったのだろう?
もしかしたら編集段階では複数のエンディングがあったのかもしれない。
私は、追訴されなくても過去の犯罪が公になってしまったジョンソン大佐を議会の黒幕が爆殺し、その黒幕を仕事人スワガーが葬るというのが一番すっきりしたと思うのだが・・・

今回は典型的なあっさりテイストのハリウッド映画なので、鑑賞後もライトにいきたい。
とは言っても映画よりは少し濃い目が欲しいので、代表的なアメリカン地ビールである「サミュエル・アダムス」をチョイス。
元々はボストンのローカルブランドだったのだが、今では世界中で飲めるようになった。
ブランド名は第二代大統領のジョン・アダムスの兄であり、「独立の父」と言われる政治家たちの一人であるサミュエル・アダムズに由来する。
バドに代表されるメジャービールに比べると、濃厚で苦味も強いが、しっかりと「酒を飲んだ」という感覚を残してくれる。

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ウォールバーグとマット・ディモンってキャラが少しかぶる・・・



大日本人・・・・・評価額1300円
2007年06月05日 (火) | 編集 |
ダウンタウンの松本人志、劇場用映画初監督作。
「ボラット」とはだいぶ趣が違うが、これもある種のフェイクドキュメンタリー。
突っ込みだけでボケもフォローも無いサシャ・バロン・コーエンとは対照的に、こちらは一言で言えば、ボケだけの漫才を延々みせられているような映画だ。
これはこれで嫌いではないけど、正直言って他人には勧めにくい。
カンヌで途中退席者が沢山出たというのも、真っ当な反応ではないだろうか。
というか、その事に松本監督がショックを受けていたという報道を読んで、もしかしたら彼と彼のファンを含む観客との間には、ウケるという事の認識に関してずいぶんとギャップがあるのかもしれないと思った。

平凡な中年男性、大佐藤(松本人志)は、たまに日本を襲う「獣」が現れると、防衛庁から依頼されて巨大ヒーロー「大日本人」となる。
彼は大日本人であることを誇りに感じているが、しばしば怪獣と共に街を破壊する大日本人に対する世間の目は厳しく、獣の減少と共に活躍の場も減っていた。
ある日、老人ホームで暮らす認知症の4代目大日本人が、巨大化して街を危機に陥れるという事件が発生し、大佐藤に対する風当たりはますます厳しくなるのだが・・・


一応これが松本人志の初監督ということになっているが、彼は1993年に「頭頭(とうず)」というVシネ形式の60分の中篇映画を作っている。
監督こそ山口将哉だが、松本人志は企画・構成・主演を兼ねているので、実質的に彼の作品と言って良いと思う。
「とうず」という干からびた老人のような奇怪な生物(どうやら海洋生物で食用になるらしい)が存在する世界で、淡々と日常が描かれる異色作で、「頭頭」の存在以外に特に変わったことは何も無い。
限りなく普通なのに、ほんのちょっとだけ違うという日常の切り取り方が、彼一流の才気を感じさせる印象深い作品だった。

あれから14年、満を持してという感じでようやく登場した劇場用映画だが、やはり「頭頭」によく似ている。
今回描かれるのは、変身して巨大ヒーロー「大日本人」となる一人の男、大佐藤の日常。
この世界が我々の世界と違うのは、変身する巨大ヒーロー(とその敵)が存在するという一点だけ。
不要の烙印を押されてしまったヒーローという設定は、「ミスター・インクレデブル」を思わせるが、映画の方法論はまったく異なる。
映画は、「獣(じゅう)」と呼ばれる変な怪獣たちとの戦いを挟みながら、1時間53分の上映時間の大半を費やして、ドキュメンタリー形式で大佐藤の日常を追ってゆく。
たまに巨大化する以外はごくごく一般的なくたびれた中年男。
現実からのほんの僅かのずれが、我々の住む世界の本質を浮かび上がらせるという手法であるが、ぶっちゃけそこにそれほど深い物は無い。
ドン・キングみたいなシュールな髪型の大日本人と、かなりふざけた造形の獣たちとの気持ち悪い戦いはそれなりに見ものだが、前記したように殆どボケだけ構成されているようなこの映画の前半は、ユニークではあるが少々長い。
「頭頭」くらいの長さであればなんとかなっても、さすがに一時間を越えては辛くなってくる。

ところが、映画は板尾創路演じる「臭いの獣」が登場するあたりから、急速にそのタッチを変えるのである。
まるで行間を読めといわれているかの様だった前半に比べて、初めて喋る獣が登場すると、突然吉本新喜劇みたいな漫才映画が始まるのだ。
神木隆之介の「童の獣」を挟んで、クライマックス(?)の大北朝鮮人VS大日本人に、大アメリカ人(家族)が割り込んでくるあたりまでの、ベタなお笑い娯楽映画はそれまでの作品世界を軽々と覆す。
そしてさらに、大アメリカ人登場後から反省会までの、SEでスタッフの笑い声が入りそうなテレビのバラエティのコント的な〆方は一体どう評価すればいいのか。

これは何となく想像したのだが、この映画の奇妙さは松本人志の笑いに対する「恐れ」その物なのではないか。
映画的な文法を無視し、お笑いとしてもある意味サプライズなヒーロー物である前半に対して、普通のお笑いに走り、ついにはテレビもどきに突っ走る後半の展開は、裏を返せば松本人志の笑い、あるいは彼の笑いを受ける観客に対する恐れの表現であるように見える。
一時間の「頭頭」では貫き通せたが、二時間の映画では怖い。
そんな意識が垣間見えた気がしたのだが。
松本人志の笑いは、尖がった印象があるし、漠然と本人も判る人だけ判れば良いと考えているのではと思っていたが、件のカンヌでの話などを聞くと、案外普通に自分の笑いは万人受けすると思っているのかもしれない。
もっとも、長いと思わせるあたりも既に計算で、最後まで彼の冷徹な笑いのプロットに踊らされているだけかもしれないが、多分それは深読みしすぎだろう。
まあ極めてユニークな映画であることは間違いなく、しばらくしたらもう一回くらい観たくなる・・・ような気もする。

今回はつかみ所の無い作品なんで、無難に以前松ちゃんがCMに出てたサントリーの「スーパーブルー」にしておこう。
わりと良く出来た発泡酒。
それにしてもすきっと爽快さが必要なビール・発泡酒系のCMには一番似合わない芸人だと思うけど、なぜキャスティングされたのだろう(笑

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