酒を呑んで映画を観る時間が一番幸せ・・・と思うので、酒と映画をテーマに日記を書いていきます。 映画の評価額は幾らまでなら納得して出せるかで、レイトショー価格1200円から+-が基準で、1800円が満点です。
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夕凪の街 桜の国・・・・・評価額1350円
2007年07月31日 (火) | 編集 |
今年ももうすぐ、8月6日がやってくる。
人類の記憶に、「ヒロシマ」という日本の地方都市の名前が、永遠に刻まれる事になった日。
「夕凪の街 桜の国」は、あの日あの街に居たために、原爆症というあまりにも悲しい重荷を背負う事となったある家族の、三世代にわたる物語だ。

昭和33年、広島。
原爆の生き残りである平野皆美(麻生久美子)は、ある日同僚の打越(吉沢悠)に愛を告白される。
しかし皆美は、原爆で父と妹が無残に死んでいったのに、自分は生き残っているという事に深い罪悪感を抱いていた。そしていつ発症するかもわからない原爆症という時限爆弾。
自分は、「こっちがわ」にいてはいけない人間。
彼女の心の傷を知った打越は、深い愛で彼女を包むが、原爆症はゆっくりと皆美を蝕んでいった・・・
そして現在。
東京で暮らす皆実の弟・旭(堺昌章)は、家族に秘密にして広島を訪れる。
父の行動を心配する娘の七波(田中麗奈)は、偶然出会った幼馴染の利根東子(中越典子)と共に、旭の後を追って広島へ向かう。
それは七波にとって、漠然と感じていた自らのルーツにまつわる不安感と向き合う旅となる・・・・


こうの史代の原作漫画は三部構成で、1950年代に生きた被爆一世の皆美を描く「夕凪の街」、皆美の姪で被爆二世の七波の少女時代と現在を描く「桜の国・前後編」に別れている。
かなり凝った構成だが、良い意味で作劇上の引算が駆使されて無駄が無く、60年間に渡る物語を僅か100ページというコンパクトなパッケージに纏めている。
映画版は若干構成を変えているが、極めて原作に忠実だ。
しかし、原作に忠実であろうとするあまり、かえってそのテーマ性は薄れてしまった気がする。

広島を描いた映画や漫画は国内外に無数にあるが、この原作が秀逸な点は二つ。
まず、原爆を描くのに原爆の惨禍そのものではなく、原爆症という見えない影を背負い込んだ、一つの家族の歴史を通して、過去に風化しつつある原爆をしっかりと現在の物語として成立させている事。
途切れることの無い家族の歴史の中で原爆を描く事で、これが60年前に終わった事件ではなく、現在の私たちにもしっかりと繋がる物語なのだという事を、受け手に明確に意識させる。
もう一つは、本来被害者であるはずの被爆者とその子孫が抱く、ある種の罪悪感を注視する事で、きれい事ではない日本人の精神文化そのものを描き出した点だ。
文化人類学者のルース・ベネディクトは、名著「菊と刀」の中で、日本文化の特質として、西洋的な「罪の文化」と対極的な「恥の文化」であることを上げている。
この文化の特徴は、自分自身の行動・行為に対する他者の目を極めて重視する事で、時にそれは常識的な善悪という判断基準とは別の結論に傾くこともある。
「本来殺されるはずだったのに生き残った」という恥、「無数の犠牲者の屍の上に生きている」という恥。

「なぜあの時、愛する者たちと共に死ねなかったのか」

この物語の登場人物は、まさしく「生き恥」を晒して生きているのではないかという罪悪感に付きまとわれている。
さらに、ここでは「恥の文化」にプラスして、「穢れの文化」も加わってくる。
この穢れを象徴するのが、他ならぬ原爆症だ。
原爆にあった事で、穢れてしまった自分。
程度の差はあれ、皆美も七波も「自分は生きていていい人間なのだろうか?」という疑念を常に持っていて、それが原爆という兵器の残酷さ、罪深さを際立たせているのだ。

残念ながら映画版は、この部分が弱い。
「チルソクの夏」や「半落ち」などで知られる、監督の佐々部清は、丁寧な仕事をする反面、直球しか投げられない人という印象がある。
対して原作はかなりの変化球。
それならば直球に直せばよかったのだが、原作に忠実に変化球で作ってしまった。
結果的に、やりたいことはわかるものの、何とも居心地のわるい、窮屈な印象の映画になってしまっている。
原作の構造が持つ表現のベクトルと、映画版が志向した表現のベクトルが今ひとつかみ合わない。

一言で言って映画版は人間が優しすぎるのだ。
恥と穢れが生み出した、負の情念とも言うべき内面からの自己否定の心。
この映画はそれが台詞以外で殆ど語られておらず、決定的に弱い。
例えば皆美が繰り返し見る原爆のフラッシュバックを、原爆絵画で表現しているのは、演出的な意図は判らないでもないが、彼女の心情を表現するにはあまりにもパワー不足だ。
あのイメージは、皆美がとりつかれている「あっちがわ」そのものなのだから、やはりそこで何が起こったのかという強いイメージが必要だと思う。
皆美の最期にしても、暗黒に沈み込むような恐ろしさを感じさせる原作に対して、映画版は難病物のメロドラマみたいになってしまっている。
映画では彼女の内面の葛藤よりも、彼女を包み込む周囲の愛の強さの方が強調されていてテーマ性が薄いのだ。
同じ意味で、幼くして被爆者の母を失い、原爆症におびえる祖母を見て育った子供時代を否定しようとする、七波の心理描写も少し弱い。
彼女がなぜ、桜並木のある街で過ごした少女時代を頑なに否定しようとするのかが、今ひとつ良く判らない。
原爆症という負い目を持ってしまった彼女たちの、内面の悲しい葛藤を前面に出してこそ、屈折しながらも精一杯な生き方、人生の誇りと希望を感じさせることが出来るのだと思う。
麻生久美子、田中麗奈はじめ俳優陣が総じて好演しているがゆえ、あと一歩がもどかしい。

「夕凪の街 桜の国」は真摯に丁寧に作られた作品だと思うが、正直に言って原作を超えていない。
もちろん別の表現なのだから、同じである必要はないのだが、全てが原作が表現している範囲に収まってしまっている。
「夕凪の街」で皆美が絶命したときに寄りかかっていた苗木が、「桜の国」では大木に育っていて時の流れを象徴しているなど、映画的表現を膨らませた部分もあるのだが、それが今ひとつ映画ならではのテーマ性の表現には貢献してないのは残念だ。

ただ私は、映画として様々な欠点を承知した上で、これは作る価値・観る価値のある作品だったと思う。
もちろんベターな作品に仕上げることは可能だっただろうが、こういう作品は何よりも語り続けることが大切なのである。
特に、辞任した某大臣のような発言をされる方には、この映画を観て、さらには原作も読んでもらって、ほんとうに「しょうがない」事だったのかもう一度良く考えていただきたいものである。

今回は、以前にも一度付け合わせた事のある、埼玉の神亀の「ひこ孫 大古酒 時のながれ」をチョイス。
これは昭和59年から61年までの、三つの年代の純米大吟醸の古酒をブレンドしたもの。
それはまるで、世代を超えて受け継がれてゆくそのものだ。
純米大吟醸から普通想像する、わかりやすい豊潤さや華やかさはあまりないが、年代を経たことで生まれる複雑な旨み、香味はこの酒独特のもの。
この他に比べるものの無い独創の世界こそ、映画にももう少し欲しかった要素なのだが。

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レミーのおいしいレストラン・・・・・評価額1650円
2007年07月27日 (金) | 編集 |
最近アニメばかり観ている気がするが、いよいよ夏アニメの真打登場だ。
ピクサーアニメーションスタジオの「レミーのおいしいレストラン」は、同社がディズニー傘下となって公開される第一作。
ピクサー史上初めて、人間(?)が主人公になった「Mr.インクレディブル」のブラッド・バード監督は、今回も生抜き組のピクサー作品からはちょっと外した、独自のテイストで作品を仕上げている。

パリ郊外の田舎町の農家住むネズミのレミーは、料理が大好き。
フランス一の天才シェフ、故グストーの言葉「誰でも料理が出来る!」を信じて、シェフになる日を夢見ている。
ある日、農家のおばあさんに見つかったレミー(パットン・オズワルド)の一族は、猟銃で狙われて、下水道に脱出する。
途中で一族とはぐれてしまったレミーは、自分の想像が生み出したグストー(ブラッド・ギャレット)の幽霊に勇気付けられて、下水道から外に出るが、そこは何とパリのグストーの店の前だった。
嘗ては栄光を誇ったグストーの店も、グストーのスー・シェフだったスキナー(イアン・ホルム)が料理長になってからは凋落し、ブランドの栄光を頼った冷凍食品事業などに手を染めている。
ちょうどそこへ、グストーの元恋人の息子だというリングイニ(ルー・ロマーノ)がやって来て、雑用係として採用されるのだが、この男ものすごくぶきっちょ。
リングイニは完成していたスープをこぼして、それを誤魔化すために適当な材料を入れてしまうのだが、驚いたレミーが何とかスープが客に出される前に、味を修正することに成功する。
そのスープの味は大評判となるのだが、怪しんだスキナーは、リングイニに見ている前でスープを再現しろと命ずるのだが・・・


いや~良く出来ている。
私は昔、飲食店を経営していた事があるのだが、厨房の描写なんて凄く細かくてリアル。
もしかしたらブラット・バードも、飲食店で働いた経験があるのかもしれない。
うちのレストランも建物が古かったのでネズミには悩まされたが、その仇敵をこんな風に主人公として見せられるとは、逆転の発想に目から鱗だ。
シェフを夢見、リングイニと協力して一生懸命料理に打ち込むレミーに感情移入してゆくうちに、昔ありとあらゆるトラップで、戦争のようにネズミ退治した記憶が蘇ってきて、罪悪感を感じてしまった。
彼らは思いのほか頭が良くて、一度かかったトラップには絶対に二度はかからない。
あの知能の高さから想像力を膨らませれば、なるほどよくこんなお話を思いついたなあとまず感心。

シェフになりたいけど、レストランでは嫌われ者のネズミのレミー
そして、料理は出来ないけど、レストランで働きたい人間のリングイニ
この二人がお互いの足りない部分を補いあって、夢をかなえようとするプロセスは愉快で、これにレストランの相続権を巡るスキナーの陰謀や、リングイニと教育係のコレットとの恋が絡む。
面白いのは、棺桶型の書斎に座る恐ろしげな料理評論家のアントン・イーゴで、シニカルながら料理を愛し、主人公たちの成長の糧となるキャラクターだ。
クライマックスで、イーゴが原題にもなっている「ラタトゥーユ」を口に含んだ瞬間の演出は、その意味合いを実に判りやすく描写していて見事。
彼がレミーとリングイニの料理に関して書いた評論の文章は、料理でなくても物を生み出す者と評価する者の関係、評論という物の本質に迫っていて、なかなか深く考えさせられた。

全体に、いつものピクサー作品に比べて、対象としている年齢層が少し高く感じる。
キャラクターはかわいいし、パリの地形を生かしたアクションシークエンスも大いに盛り上がるが、この作品のシチュエーションはどちらかというと子供よりは、将来に迷っている若者に説得力を持っているのではないだろうか。
ちょっとだけ、ジブリ作品でも子供よりもむしろ若いOL層の絶大な支持を受けた「魔女の宅急便」を思い出した。

もちろん、画も凄い。
先日の「シュレック3」でも驚いたが、これはそのさらに上を行く。
エンドクレジットの、「100%手付けアニメ、ノーモーションキャプチャー」というのには笑った。
もちろん「100%自然栽培」などの食材によくあるキャッチからのジョークだろうが、アニメーターの意地みたいな物が感じられるし、実際キャラクターアニメーションは素晴しく良く出来ている。
さらにネズミのフワフワの毛なんて、触りたくなるくらいだし、今までの様な架空の舞台ではなく、パリの街を適度にカリカチュアしながら、ムード満点に再現した美術も見事だ。
ただし、料理そのものに関しては、やはり実写ほどにはおいしそうに見えない
色、光、様々な要因があると思うが、ここにまだCGの技術的な伸びしろみたいな物が見えた気がする。
もっとも、この作品の場合料理を題材にしてはいるが、グルメ映画ではなくて、あくまでも主人公たちの成長物語なので、決定的な欠点にはなっていない。

「レミーのおいしいレストラン」は、夏バテの腹にももたれない、さっぱりした夏野菜の煮込み料理(ラタトゥーユ)の様な美味しい映画だ。
大急ぎのフルコースの様に、矢継ぎ早にエピソードが展開するので、もうちょっと描いて欲しかった部分や、やや中途半端に終わっている部分など、多少の物足りなさも感じなくはないのだが、同じブラッド・バード監督の「Mr.インクレディブル」と比べても、物語のバランスは数段良い。
ピクサー作品としては少し異色作だが、十二分に楽しめる秀作と言えるだろう。
一つ気になったのは、邦題から原題の「RATATOUILLE」(ラタトゥーユ)という言葉が消えてしまっている事。
ラタトゥーユとはフランスの煮込み料理で、言わばおふくろの味
この料理は、物語の中でも色々な意味を持ってくるので、作品の本質を表すという点でも、邦題にも入れておいて欲しかった。
「ラタトゥーユ / レミーのおいしいレストラン」でも良かったんじゃないだろうか。

今回は、映画を観るとお腹が空いてくる。
観賞後はやはりフレンチを食べてワインを飲みたい。
季節柄白も良いけど、ここはボディの強い赤をオーダーしたい。
劇中でイーゴが意地悪でオーダーするシュヴァル・ブラン'47は、さすがに宝くじでも当たらないと手に入らないので、ラタトゥーユの故郷南仏から、シャトー・ラ・ネルトの「シャトー・ヌフ・デュ・パプ」の2004をチョイス。
ブラックベリーをベースに、複雑なアロマが折り重なる、重厚かつデリケートな上質の赤で、疲れた体に力を与えてくれるだろう。

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ピアノの森・・・・・評価額1350円
2007年07月25日 (水) | 編集 |
私は、音楽を聴くのは好きだが、演奏するほうはからっきし苦手だ。
絶対音感なんて望むべくも無く、小学校の発表会で私だけ縦笛が上手く吹けず、先生から「全体の迷惑になるから、吹くまねだけして、音を出さないでね!」と、残酷な指令を受けたくらい酷い(笑
だから、どんな楽器でもスラスラと弾いている人を見ると、それだけで何だか尊敬してしまう。
この「ピアノの森」は、私とは対照的に音楽の神に祝福された、二人の少年の物語だ。

代々ピアニストの家系に生まれた雨宮修平(神木降之介)は、家庭の事情で引っ越した田舎街で、深い森の奥から聞こえてくる、不思議なピアノの旋律を聴く。
森にうち捨てられた古いピアノを演奏していたのは、修平の小学校のクラスメートとなった一ノ瀬海(上戸彩)。
裕福な修平とは対照的に、貧しい母子家庭で育った海は、運命に導かれるようにこの森でピアノと出会い、独学で演奏していたのだった。
幼い頃から英才教育を受けてきた修平は、天性と思える海のピアノを聴いて衝撃を受ける。
海の弾いている森のピアノは、元々は小学校の音楽教師の阿字野壮介(宮迫博之)の物だった。
若い頃天才と謳われたピアニストだった阿字野は、自分以外には演奏できないと思っていた特殊なピアノを、海が弾きこなすのを偶然見てしまう。
その天才を確信した阿字野は、海にピアノを教えようとするのだが・・・・


原作は一色まことの人気漫画で、何となく気にはなっていたのだが、私は読んだことがない。
おそらくは原作を全部映画化している訳ではなくて、その導入部にあたる何巻かを纏めた物語なのだろう。
実際映画の印象は、長大な大河ドラマの「序章」という感じだ。

物語そのものは、ものすごく判りやすい。
幼い頃からエリート教育を受けてきた主人公の前に、正に音楽の神に選ばれたとしか思えない天才が現れる。
しかもその天才は自分の才能に対する自覚が無いから、色々なものを犠牲にしてピアノに打ち込んできた主人公は、ますます彼の才能に嫉妬する。
そして悲劇的な過去を持つ嘗ての名ピアニストが、無自覚な天才を頂点へと導こうとする。
これは音楽物に限らず、古今東西の映画や漫画、小説で繰り返し描写されてきた王道中の王道のプロットだ。
この粗筋だけ読んでも、多くの人が「ガラスの仮面」「ヒカルの碁」、あるいは「アマデウス」におけるサリエリとモーツアルトの関係を思い浮かべることだろう。
「ピアノの森」は、キャラクターのルックスも含めて、この物語の黄金比とも言うべきプロットに忠実であり、その意味では新鮮味はない。
しかし、王道の物語というのは、そのままで見やすくて面白いのも確かなのだ。
物語の大枠はもう決まっているから、あとはその決まりきったお約束にどう話のディテールを載せてゆくかの勝負になる。
この辺は、小島正幸監督の演出も、奇を衒わない正攻法ながら、音楽の神秘性をうまく使っていてなかなか楽しめる。
原作でどう表現されているのかは判らないが、モーツアルトの幽霊なんて面白いアイディアだと思う。

音楽の神秘性とえば、やはり深い森に佇むピアノがこの作品を際立たせるキービジュアルといえるだろう。
自然の中に投げ出されたピアノというと、ジェーン・カンピオン監督の「ピアノ・レッスン」の砂浜のピアノがまず思い浮かぶが、まるで天然のステージのような森の広場で、月光に浮かび上がるピアノというこの作品の美しさもなかなかの物だ。
それにしても、自然の中にある楽器と音楽というのは何とも普遍的な美を感じさせる。
一説によれば、音楽の起源は遠く原始の時代に遡り、人々の心に直接訴えかける魔力を持つと同時に、神々に捧げられた神聖な物であったという。
アミニズムの時代には、本来が自然の中で演奏する物であったのかもしれない。
よくよく考えると、森に捨てられたピアノなんて、湿気と雨ですぐにボロボロになってしまうだろうが、これをある種の神話的ファンタジーとして捉えれば、強い説得力を持つ描写と言えるだろう。

ビジュアルイメージを支える映像は美しく、なかなか丁寧な仕事がなされているし、演奏シーンも見事だ。
音楽に合わせて画を作るのは、見た目よりもずっと大変なのだが、これは少なくとも素人目には違和感を感じなかった。
もちろん、物が物だけに音楽のクオリティ自体もハイレベルな物が求められるが、ピアノの音には聞惚れた。
正直なところ音楽に関しては映画みたいに細かな分析は出来ないけれど、心に響く良い演奏だったと思う。

「ピアノの森」は、これから長く続くのであろう二人のピアニストのライバル物語の導入部として、なかなか良く出来ている。
おそらくかなり原作に忠実なのだろうと創造できるが、逆に言えば映画としてはそれが欠点ともいえる。
とりあえずそつなく、エピソードを過不足無く並べて纏めましたという感覚がどうしても抜けず、原作の動くプロモ映像に見えなくもないのだ。
実際のところ、私はこの作品を観て、この映画の続きを観たいというよりは、原作の漫画を全部読んでみたくなった。
もっとも、音楽とシンクロした映像の面白さや、美しい色彩で表現されたビジュアルなどはアニメーション映画ならではの物であり、原作を読んだ人が観たとしても、それなりの感慨を抱かせてくれる作品ではあるのだと思う。

今回は、カリフォルニアを代表するワインの一つ、その名も「作品番号1」を意味する「オーパス・ワン」をチョイス。
音楽用語からとられたその名前通り、まるで美しいピアノ曲のような、繊細で優美な芸術品。
正直言って、これとあわせると映画の方がオードブルになってしまうのだが、オーパス・ワン自体が十分メインとなって人々に感動を与える力のある酒だ。
近年日本で異常な人気となって、バカ高くなってしまっているのが少し残念だが、カリフォルニアワインの真の実力を証明する一品である。

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ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団・・・・・評価額1450円
2007年07月19日 (木) | 編集 |
少年時代の終わり・・・
このシリーズ、毎回思うのだけど、子供の成長って本当に早い。
第一作の「賢者の石」なんて、ついこの間の事のように思っていたが、主人公たちはもう別人の様だ。
ハリーやロンはすっかり逞しい若者だし、モップみたいな髪型がキュートだったハーマイオニーも、どこから見ても立派なレディ。
そして、彼らの成長と共に、夢一杯だった魔法物語にも大きな変化が訪れている。

ダーズリー家で休暇を過ごすハリー(ダニエル・ラドクリフ)は、突如として現れたディメンターに襲われる。
ダドリーを助けるために、魔法でディメンターを撃退するハリーだったが、その事が原因でホグワーツを退学処分になってしまう。
嘗てヴォルデモート卿と戦った、シリウス(ゲイリー・オールドマン)ら不死鳥の騎士団の協力を得たハリーは、何とか退学処分の撤回を勝ち取るが、ホグワーツに戻ったハリーは周囲の白い目に晒される。
孤独感に苛まれるハリーは、ロン(ルパート・グリント)やハーマイオニー(エマ・ワトソン)にもギスギスした態度で当たってしまう。
その頃、ヴォルデモート卿復活を認めたくない魔法省は、ホグワーツの監視者としてドローレス・アンブリッジ(イメルダ・ストーントン)を送り込んでいた・・・


もし、一作目の「賢者の石」だけ観て、次にこの「不死鳥の騎士団」を観た人がいたとしたら、きっと驚くだろう。
雰囲気があまりにも違いすぎて、まるで別のシリーズに見える。
恋を知り、前作で死すら知ったハリーは、もはや無垢なる少年期を脱している。
彼が直面しているのは、邪悪で狡猾な現実とのリアルな戦いだ。
「ハリー・ポッター」の物語構造が「スター・ウォーズ」に似ているのは、原作が出版された当初から言われていた事だが、確かにここへ来て自らの内面に潜むヴォルデモート的な部分に悩むハリーは、残酷な現実に打ちのめされて、ダークサイドに落ちていったアナキン・スカイウォーカーにかぶる。

へヴィな新展開となったこの作品のメガホンをとったのは、テレビのベテラン監督ディビッド・イェーツ
正直言ってこの人の作品は観たこと無いけど、脚本のマイケル・ゴールデンバーグと共に、長大な原作を手堅く纏めているし、クライマックスの予言の間での戦いは、正に映画ならではの大迫力の映像で魅せる。
前作の「炎のゴブレット」を手がけたマイク・ニューウェルもそうだが、このシリーズには作家性の強い映画監督よりも、テレビ出身の職人肌の演出家の方が相性が良いのかもしれない。

全体の印象としては、相変わらず長大な原作を端折った感はあるのだが、一応映画だけ観ても辻褄が合わなかったりすることは無い。
もちろん原作を読んでないと、意味が良く判らなかったり、あっさりと流されてしまう部分は多々あるのだが、あくまでも原作を読んでいる人はより深く楽しめるという作りになっており、物語上の違和感には繋がっていないと思う。
このあたりは前作に引き続いて良く出来ているポイントだ。

登場人物は、ハリーらおなじみの面々に加えて、新キャラクターも沢山登場。
イメルダ・ストーントン演じるアンブリッジ先生は、もしかしたら原作を超えているかもしれない。
全身ピンクのこの先生、とにかく人を不快にさせることに関してはピカイチで、レギュラー陣全員を喰ってしまった。
ヘレナ・ボナム=カーターの、闇の魔女ベラトリックス・レストレンジや、新人イバナ・リンチ演じるホグワーツの不思議ちゃん、ルーナ・ラブグッドは今後の活躍が楽しみだ。
それにしても、このシリーズは毎回新キャラクターに大物俳優が登板するが、五作の間に登場したキャラクターだけで凄いオールスターキャストになってしまっている。
中には殆ど出てきただけで終わってるキャラクターもいて、レギュラーの先生たちも、今回はあまり目立たない。
エマ・トンプソンやマギー・スミスの様な大物が、たったあれだけのために出演してるんだからある意味凄い(笑

「ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団」はもはやキッズムービーではない。
内容のダークさを考えると、ファミリームービーというジャンルに当てはまるかどうかすら迷いを感じる。
物語的にも前作でヴォルデモート卿が完全復活したことで、初期の作品とは構造が変わってきている。
一応、一本の中での起承転結は作られているものの、一話完結的な物語から壮大な「サガ」へと変化しつつあり、この第五作は今までのシリーズ中もっとも「途中感」が強い。
その意味では満足度はやや低めだが、原作はいよいよ完結するし、映画のほうも佳境へ向かって期待を煽るという点ではこれで良いのかもしれない。
いずれにしても、ファンにとってはこれも「Must Watch」な一編である。

今回はそろそろ大人のハリーと飲みたい、「ギネス・フォーリン・エクストラ・スタウト」をチョイス。
これは輸出用のスタウトで、なぜか本国仕様よりもアルコール度数が高い。
調子に乗って飲んでいると、いつの間にかよいが回っているキケンなビールだ。
ハリーたちも、そろそろパブでビールを引っ掛けたりするお年頃が近づいているけど、本当に時の経つのって早い・・・・

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ルネッサンス・・・・・評価額1300円
2007年07月18日 (水) | 編集 |
近未来のパリを舞台にしたSFフィルムノワール
全編にわたって、殆ど白と黒だけの極端なハイコントラスト画面で表現され、演出上のキーとなる一部分を除いて色が存在しない。
リアルに作りこまれたキャラクターと美術は、一見して実写なのかアニメなのか戸惑うが、モーションキャプチャーを用いた3DCGアニメである。
物語そのものはオーソドックスな物で、このエキセントリックな映像が本作をアニメ史の中でも特異なものとしている。
「ルネッサンス」というタイトルは、一般にはヨーロッパの芸術におけるギリシャ・ローマ文化の復興運動として知られているが、本来は中世的価値観からの人間性の解放を目的とした文化運動であり、どちらかというと元の意味の方が内容に引っ掛けられている。

西暦2054年、パリ。
アンチエイジング技術で急成長する、医療関連企業アヴァロンの若手研究員イローナ(ロモーラ・ガライ)が何者かに誘拐される。
事件を担当したカラス刑事(ダニエル・クレイグ)は、元アヴァロンの研究者で現在は街の診療所の医師であるムラー博士の過去の研究をイローナが探っていた事を突き止める。
カラスは、アヴァロンの社員でもあるイローナの姉ビスレーン(キャスリン・マコーマック)の協力のもとに、ムラー博士(イアン・ホルム)らが2006年に行った恐るべき実験の秘密を探り出す。
早老症治療の副作用として生まれたその秘密は、人類の生と死に関する常識を覆す可能性を秘めていた・・・


フランスはアニメーションの母国である。
映画が発明される以前の19世紀後半には、既にプラクシノスコープという映写機を使い、エミール・レイノーによる手描き動画アニメーションが制作されていた。
その後、(諸説あるものの)メリエスによるストップモーション技法の発見や、最初のアニメ作家とされるエミール・コールによって、映画フィルムによる近代アニメーションの歴史が始まる。
以来、現在に至るまで、ヨーロッパのアニメ大国フランスからは、時たまアヴァンギャルドで斬新な作品が登場するのである。
この作品の白と黒だけで表現される世界も、少なくとも全編これで表現した作品は過去には存在しなかっただろう。
しかし、正直なところ全体としての印象は、技法の斬新さとは裏腹に、あまり独自性が感じられないのだ。
最初から最後まで、どこかで観たような既視感がつきまとう。

まず連想するのは、実写映画ながらデジタル技術を駆使して、まるで漫画のような世界観を作り上げた「シン・シティ」だ。
この作品ほど極端ではなかったが、コントラストが高く明暗がくっきりとした画作りはもちろん、舞台となる街そのものを陰の主役に据えたあたりもよく似ている。
物語そのものは、クラッシクなフィルムノワール調なのも同じだ。
そして日本アニメ。
物語のキーとなるの早老症の子供たちからは、誰でも「AKIRA」を連想するだろうし、敵の暗殺者達が使う透明コスチュームは「攻殻機動隊」だ。
ディテールだけではなくて、全体のタッチや物語の展開はどことなく押井守+リドリー・スコット(のブレラン)を思わせる。
勿論パクリというわけではないのだが、クリスチャン・ヴォルクマンの演出、アレクサンル・ド・ラ・パトリエールマチュー・デラポルトの脚本は、あまりにも無邪気に重要なポイントに、映画的な記憶の引用がちりばめられていて、どうしても気になってしまう。

この作品を特徴付けているビジュアルも、斬新に感じられるのは慣れるまでの間。
一度こんな物だというイメージが出来てしまえば、驚きがずっと続くわけでもなく、むしろ情報量が少ない分、登場人物の顔が判別しにくくて困る。
さすがに眉毛に特徴のある主人公はわかったが、サブキャラなんて途中で誰が誰なのかよく判らないカットも多かった。
この表現自体は面白いけど、例えば背景はこれでやって、キャラクターは演技が伝わりやすい別の手法と組み合わせても良かったんじゃないだろうか。

もっとも、こうした点を押さえた上で、一本のSFフィルムノワールとしてこの映画を評価すれば、特に傑出した作品ではないが、つまらない訳でもない。
物語はしっかりと作られているし、複線もきちんと張られている。
主人公の背景がムスリム移民であったり、昨今のフランス社会のリアリズムが反映されているのも、さりげなく作品に奥行きを与えている。
テーマ性も最後にはベタベタな台詞で説明してしまっているものの、一応観た者にしっかりと伝わる様には作ってある。
そういえば、このテーマの説明台詞は殆ど映画版の「銀河鉄道999」そのものだった。
この監督と脚本家、よほど日本のアニメが好きと見える。
まあ、この「ルネッサンス」という作品を冷静に観ると、お話やテーマ性はありきたりな物で、正直なところ、このビジュアルが無ければもっと印象の薄い作品だったことは間違いないだろう。
この画で2時間近い作品を作ろうというチャレンジは評価するし、ビジュアルがアニメーション映画という表現において極めて重要なポイントであることは言うまでもないが、作品そのものの印象はまずまずの出来栄えの普通の近未来SFであり、それ以上ではない。
勿論、ユニークな作品であることは確かで、その意味では十分に観る価値のある作品である。

今回はフレンチノワールという事で、フランスのスピリッツ、コニャックから「マーテルVSOP」をチョイス。
今から300年ほど前に、ジャン・マーテルによって設立されていらい、一族経営を守り続ける老舗。
コニャックの良さである口当たりのやわらかさと、深いコクを兼ね備える名品である。
映画は、この酒のような深みが少々欠けていた。

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フレンチアニメといえば・・・

フレンチアニメといえば・・・



河童のクゥと夏休み・・・・・評価額1600円
2007年07月15日 (日) | 編集 |
この夏、数少ない非シリーズ物のファミリー映画。
今は初めからシリーズ化を前提とした作品が多くて、途中から観ると訳が判らずに苦痛しか感じられない作品が多いが、これは文字通りのファミリー映画として、老若男女全てにお勧めできる。
子供たちに映画をせがまれているけど、ハリポタやポケモンの世界を知らないお父さんたちには、救いになる作品だろう。

夏休み前のある日、小学生の上原康一(横川貴大)は河原で不思議な石を見つけて持ち帰った。
一見亀の化石に見えた石に水をかけて洗おうとすると、何とそこから河童の子供(冨澤風斗)が蘇った。
康一と家族たちは、驚きながらもこの河童をクゥと名づける。
クゥは、何百年も前に父親を侍に殺され、その直後に起きた地震で出来た地割れに飲み込まれ、そのまま石となって眠っていたという。
しばらくは家の中に隠していたものの、仲間のもとへ帰りたがるクゥを心配した康一は、夏休みに河童伝説のある遠野へ、クゥの仲間を探す旅に出る事を決意するのだが・・・


河童を拾った少年が、現代社会で河童が生きていける道を探す、ひと夏の冒険に出るという基本設定は、全く目新しくない。
誰もが思い浮かべる通り、お話のベースは「E.T」であり、正直またかよと思うくらいにありきたりだ。
この設定で今映画を作るなら、いかにして「E.T」から離れるかが勝負の分かれ目となるだろうが、アニメーション映画史に残る快作「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!大人帝国の逆襲」を世に放った原恵一監督は、自作を含めて様々な作品の映画的な記憶を引用しながら、極めて日本的な価値観にこの作品を落とし込んでゆく。

「河童のクゥと夏休み」でとても印象的なのは、河童のクゥの存在が康一だけの秘密ではなく、家族の中で開けっぴろげである事だ。
お父さんなどは、むしろ康一以上にストレートにクゥを受け入れている。
一応、家の外には秘密にしているものの、それほど深刻に隠し通そうとしている訳でもなく、一度バレてしまえばあっさりと表に出す。
そして河童を目の当たりにした世間の方でも、大騒ぎにはなるものの、それはいわば芸能人的、あるいは一頃のアザラシの○○ちゃん的な騒がれ方で、「E.T」の様に国家権力が介入してくる訳でもない。
ぶっちゃけ、この映画における河童という存在そのものが、「E.T」における宇宙人ほど「凄いもの」ではないのだ。
ここに、この作品の独自性が際立っている。
本来アニミズム文化圏である日本人にとって、河童をはじめとした妖怪は、特別であると同時にとても身近な物だ。
信仰、畏怖の対象であると同時に、ちょっと珍しい小動物の様でもあり、日常の様々な現象のメタファーでもある。
普段は見えないけど、ある意味で「いて当然」の存在なのだ。
ゆえに大した驚きもなく河童を受け入れるこの作品の登場人物は、日本人の中に残るアニミズム的な価値観を体現していると言える。
それは大都会の東京でも、観光地化された民話の故郷、遠野にも、等しく息づいている日本の文化の原点なのである。

この作品に見える、人と妖怪である河童のクゥとの独特な距離感は、私たちの中にある自然の森羅万象への密かな信仰を思い出させてくれる。
今の都会には確かに河童の住む場所は無いかもしれないが、まだ人間の中には河童を受け入れる余地が残っている。
東京の街を歩いていると、ビル街の片隅にも小さな祠がぽつんと存在してる風景に時たま出会う事があるが、それらは殆ど例外なく綺麗に手入れされて、しっかりと祀られている。
いかに都会化しても、私たちの心は、こうした異界の者たちをまだどこかで信じているのだろう。
勿論、クゥのような存在を受け入れる一方、私利私欲に駆られてクゥの父を殺し、河童の住む沼を埋め立ててしまうのもまた人間。
原恵一はこうした精神世界の根底を、しばしば覆い隠そうとする人間のゆがみからも逃げない。
良くも悪くも人間性というものを、しっかりと描写するのである。

物語の精神性を支える映像もなかなか見事だ。
カットによって作画レベルにばらつきがあるのは残念なポイントだが、全体に画は美しく、特に緑が目に映える遠野などは実際に行ってみたくなる。
康一とクゥが清流で泳ぐシーンなどは、子供の頃の川遊びを思い出して懐かしかった。
また観る前には、なんとも愛嬌が無いなあと感じていたキャラクターデザインも、実際に作品を観ると演技をさせやすいニュートラルなデザインである事が判る。
それぞれのキャラクターにつけられた芝居はとてもリアルで、見た目よりもその演技によってどんどんと感情移入させるキャラクターとなっている。
あんまりかわいいとは思えなかったクゥすらも、映画が終わる事にはなんとも愛しく思えてくる。
ああ、あとキャラクターでは「おっさん」が漢・・・(泣

もっとも映画として欠点が無いわけではなく、例えば物語の構成ではちょっと失敗していると思う。
映画の前半は、康一目線で物語が進む。
クゥという未知なる友を得た康一の、ひと夏の成長物語である。
しかし、クゥの存在が世間にバレ、クゥが人間に殺された父の腕のミイラと再会するあたりから、物語はクゥ目線に変わってゆく。
ここからはクゥの自分の居場所を探す物語になる。
ややこしいのはここで完全に目線が代わり切らず、康一と同級生の沙代子を巡る淡い恋心を絡めた、もう一つの居場所の物語が同時に描かれる事である。
観ている方としては、突然目線の置き所があっちこっちに代わるので、感情の流れが断ち切られて、物語が滞った印象となり、少々中ダレを感じてしまう。
現状の上映時間2時間18分は少々長く、視点の変化も含めて、もう少しエピソードを上手く並べて、2時間強くらいに纏める事は可能だったと思う。

「河童のクゥと夏休み」は、普段意識しない私たちの心の源流を、笑って泣ける王道の物語を通じて思い出させてくれる良質なファンタジーである。
大人も子供もそれぞれの目線で楽しめるが、この作品から受け取るメッセージは、たぶん観る者全てが共有できる類の物だ。
これは子供たちに見せたい映画であり、もし私に子供がいたら、共に観たい映画と言えるだろう。
タイトル通り、正しい「夏休み映画」として、観る価値のある作品である。

今回は遠野の地酒、上閉伊酒造のその名も「遠野河童の盗み酒」をチョイス。
観光用の酒と思いきや、創業二百年を超える老舗が、山田錦を38%まで精米した立派な大吟醸。
康一とクゥが遊んだ清流を思わせる、すっきりとしたお酒だ。
ちなみにこの蔵には「酔狂河童」というどぶろくを思わせる濁り酒もある。
濁り酒は好き嫌いがあると思うが、なるほど確かに妖怪たちが酌み交わすとすれば、こんな感じのお酒かもしれない。

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転校生 さよならあなた・・・・・評価額1400円
2007年07月10日 (火) | 編集 |
大林宣彦が故郷尾道を舞台に、山中亘の児童小説「おれがあいつであいつがおれで」を原作とした「転校生」を撮ってから、今年で四半世紀。
当時の映画では珍しいジュブナイルファンタジーで、映画版「A MOVIE」とテレビ編集版「A TELEVISION」を同時に作り、映画館の封切りとテレビ放映をほぼ同時に行うなど、興行形態までアヴァンギャルドな一作で、大林マニアと呼ばれるファン層を作り出した秀作だった。
その大林自身が、2007年の今になって「転校生」をセルフリメイクするという。
サイレントとトーキーで「十戒」を二度作ったセシル・B・デミル、パイロット版から含めると、徐々に予算を増やしながら「死霊のはらわた」を四回も作ったサム・ライミ。
映画監督が自作をリメイクする理由は色々あるだろうが、今回極めて高い完成度を持つ「転校生」という作品をリメイクする理由ははたして?

※ネタバレ注意!

離婚した母と共に尾道から母の故郷、長野へ転校してきた斉藤一夫(森田直幸)は、高校で幼馴染の斉藤一美(蓮佛美沙子)と再会する。
再開した二人は思い出の場所である聖地「さびしらの水場」を見に行くのだが、柄杓で水を飲もうとして二人ともバランスを崩して水中に転落してしまう。
ようやく水から上がったとき、二人の体には驚くべきことが起こっていた。
何と一夫と一美の心と体が入れ替わってしまったのだ。
慣れない異性の体に戸惑いながら、二人はそれぞれの家で奇妙な新生活を送りはじめるのだが・・・・


み、観難い・・・・
何しろ画面がずっと傾いているのである。
90年代以降の大林映画にしばしばみられる、異様に早口で芝居の間を見せない演技・編集も相俟って、旧作と同じ「A MOVIE」のタイトルからこの映画の世界に慣れるまでのしばらくの間は、なんだかスクリーンから拒絶されているかのような違和感を味わう事になる。
しかもそれに何の意図があるのか良く判らないので、観ている方としては戸惑うしかない。
あえて言えば大林宣彦の世界への通過儀礼みたいなものであろうか。
物語は尾道から長野へ舞台を移しているが、旧作とほぼ同じ展開。
主人公が尾道からの転校生であるという設定など、随所に旧作を連想させる味付けがしてあるのは、オールドファンに一定の感慨を抱かせる。
しかし、変な画作りはともかくとして、映画の印象としてはあえてリメイクをするほどではないなあ・・・・と思っていたら、映画はいきなり方向転換
まるでフェリーニか、クストリッツァか、はたまた寺山かという幻想の世界のなかで、命を賭した逃避行を描いてゆく。
いや、これはやはり大林宣彦の世界としか言いようが無いのだろう。

旧作の「転校生」は、斉藤一夫と斉藤一美の人生が、思春期の一時期だけ交錯し、やがて二人は少しだけ成長して元の体に戻り、それぞれの人生を歩んでゆく。
したがって物語はそこで閉じている
対して、「さよならあなた」というサブタイトルがついているリメイク版「転校生」では、二人は肉体的には元に戻るものの、一美の死によって精神的には永遠に一つとなる。
「おれ」でも「あいつ」でもない「あなた」へのさようなら。
物語の結末における主人公は、冒頭の主人公と同じではなく、「あなた」との別離の結果生まれたある意味で新しい人格だ。
ここでは、物語は閉じていない

「転校生 さよならあなた」は大林宣彦版の「ビッグフィッシュ」とも言うべき作品だ。
この映画で描かれるのは、「物語」そのもの。
エンディングのやや過剰とも思える説明の字幕にもあるように、旧作の「転校生」をその一部に取り込んで、受け継ぎ再生してゆくことで、永遠に終わらない「物語」を象徴している作品なのだ。
一夫と一美は肉体を取り替えたのではなく、あの瞬間互いを取り込んで一体となった。
一つの映画には終わりの時間があるように、一つの肉体にも終わりがある。
しかし、その生命の物語は受け取った者の血となり肉となり、語り告がれることで永遠となる
大林はあえて自作をリメイクする事で、物語の永遠性そのものを描写しようとしたのだろう。

そう考えると、えらく特徴的でしばし観難さすら感じさせる画作りも、全くリアリティのない登場人物の造形も、酷く強引であり得ない展開すら、これはこれでアリだと思えてくる。
何しろこれは大林宣彦の「物語」なのだから。
一人の映画作家の脳内で展開し、映画として観客に問いかけられているこの物語に、どんな意味を感じ取るのか、あるいは自らの中に物語を受け取るか否かは受け手次第だ。
正直言って、一本の映画として観たら旧作の方があらゆる点で完成度が高く、出来は良い。
ただ、この作品は旧作をダシにして、全く違ったテーマを描いた作品なので、比較そのものに意味が無いだろう。
「転校生 さよならあなた」は、四半世紀前に作られた旧作を内包する新しい解釈の作品であり、映画作家大林宣彦の物語論という点で、極めてユニークで印象深い作品である。

今回は長野の地酒、「真澄 七號」をチョイス。
映画の通り、長野県は豊かな水に恵まれた酒どころ。
豊かな果実香を持つ、すっきりとして滑らかな喉ごしのお酒。
思春期に、旧作を見た世代としては、感じるのはやはりノスタルジー。
優しい日本酒を飲みながら、自らの物語を思い出すのも良いだろう。

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シュレック3・・・・・評価額1400円
2007年07月02日 (月) | 編集 |
絵本作家ウィリアム・スタイグが創造した緑の怪物、シュレックの活躍を描く、シニカルなパロディアニメの第三弾。
相変わらずギャグ満載だが、パロディのネタとしてはそろそろ出尽くした感があり、映画のとんがり具合も、シュレックのキャラクターと共にややマイルドになってきている気がする。

「遠い遠い国」ではカエルの王様が崩御。
王位につくのが嫌なシュレック(マイク・マイヤーズ)は、長靴をはいた猫(アントニオ・バンデラス)とドンキー(エディー・マーフィー)を連れて、王位継承権を持つもう一人の男、アーサー(ジャスティン・ティンバーレイク)を探す旅に出る。
旅に出る前に、フィオナ(キャメロン・ディアス)に妊娠を告げられたシュレックは、自分が父親になるという事に戸惑いを隠せない。
その頃、プリンス・チャーミング(ルパート・エヴァレット)は御伽噺の悪者たちを誘って、シュレックのいない「遠い遠い国」を襲って占領してしまう。
チャーミングは自分が主役を勤める芝居で、シュレックを殺して王位につくという筋書きを演じようとするのだが・・・


ドリームワークスSKGの「K」ジェフリー・カッツェンバーグとディズニーの確執はあまりにも有名だ。
一時期低迷していた名門ディズニースタジオを、「リトルマーメイド」「美女と野獣」などの大ヒットで救い、CGアニメに注目してディズニーとピクサーの提携を実現させた名プロデューサーだが、1994年にボスであるマイケル・アイズナーと大喧嘩して追われる様にディズニーを後にすると、ドリームワークス創設に参加。
第一弾の「プリンス・オブ・エジプト」を大ヒットさせると、ディズニー・ピクサーが「バッグズ・ライフ」を作れば「アンツ」を作り、「ファインディング・ニモ」を作れば「シャーク・テイル」をぶつけるという様に、殆ど嫌がらせみたいな作品ラインナップで仇敵のディズニー・ピクサーラインに対抗してきた。
彼の率いるドリームワークスアニメ部門が放った最大の、そしてアニメ史上最大のヒットシリーズとなったのが、「シュレック」シリーズなのは象徴的だ。
何しろこれはディズニー的な清く正しい「御伽噺」の偽善性を徹底的に笑い飛ばす、要するにディズニーをコケにした映画だったからだ。
2001年に創設されたアカデミー長編アニメ賞の最初に受賞作品に、「シュレック」の第一作が、「モンスターズ・インク」を押さえて選ばれたのは、カッツェンバーグにとっては正に溜飲を下げた瞬間だっただろう。

さて、「シュレック3」である。
相変わらず小ネタの連続で笑わせるし、おなじみのキャラクターたちも楽しい。
おバカで、ちょっと下品なギャグの連続で決して飽きさせる事は無い。
アンドリュー・アダムソンからメガホンを引き継いだ、クリス・ミラーの演出も軽快でテンポはいい。
しかし、内容的にやっている事は、第一作以来あまり変わっていないのも事実だ。
シュレックが親になる葛藤を描いたり、長靴をはいた猫とドンキーの心が魔法で入れ替わったり、新しいことをやろうとしているのはわかるが、大元のコンセプトに作品そのものが縛られてしまっている。
元々ディズニーへのアンチテーゼとして作られてきた作品だけに、御伽噺を茶化すというお約束を外れるわけにはいかないし、物語の面白さで売ってきている訳でもないので、プロットで新味を出すには世界観のキャパシティに限界がある。
「シュレック」は三作合計で、全世界で20億ドル近くを売り上げている。
本来のアンチディズニーのニッチェ作品として企画されたのだろうが、もはや本家ディズニーの御伽噺以上にメジャーな存在である。
御伽噺の世界への破天荒な侵入者だったシュレックが、ここへ来て御伽噺のマンネリズムに自らはまってしまっている様に見えるのは、なんとも皮肉な話だ。

停滞を感じる物語に対して、ビジュアル面は著しい進化を感じる。
ロボット工学の世界には「不気味の谷」という言葉がある。
ロボットのルックスや動きを人間にどんどん近づけてゆくと、ある時点を越えると人間はそれに嫌悪感を覚える。
そしてさらに技術を進めて人間との見分けが殆ど出来なくなると、嫌悪感は消えて親近感に変化するという。
人は自分に似ているけどどこか異質な物に対して、ニセモノを見る様で不気味に感じ、このリアリズムの谷間の部分を、「不気味の谷」という。
これはCGにもそのまま当てはまる。
CGアニメには様々な技術的アプローチがあるが、実はシュレックは半分「リアル系」であると言って良いと思う。
リアル系CGアニメといえば「ファイナル・ファンタジー」を思い出すが、あれはものの見事に「不気味の谷」にはまっていた。
人間を志向しているのに、人間性が無く、まるでマネキンが動いているような気味の悪さがあった。
そしてマンガとリアルの折衷であるとは言え、同じことは「シュレック」の第一作にも言えた。
シュレックを初め、非人間型キャラクターには普通に親しみを感じられるのに、人間キャラに対してはどうしても能面チックな冷たさを覚えてしまった。

ところが、「シュレック3」は「不気味の谷」を(ほぼ)越えている。
モーションやキャラクター表現の技術進歩以上に効果的だったのは、驚くほど自然で精巧な照明である。
複雑な陰を落とす室内シーンや木漏れ日が美しい自然のシーンなど、何度も見事な照明に唸らされた。
高度な技術に支えられ、結果的にプリンス・チャーミングやその一党など、こういう俳優っているよね、と思う瞬間が何度もあるのだ。
もっともそれは、彼らが人間的に見えているということで、非人間こそ人間的であるという「シュレック」の世界においては、必ずしも歓迎すべき事ではないのかもしれないが。

「シュレック3」はいつものシュレックそのものであって、面白いけど印象としては前二作と殆ど変わりない。
正直なところ、そろそろ予想もつかない新機軸でも打ち出さないかぎり、シリーズ物としては寿命が来ている気がする。
しかし、見事としか言いようの無い映像も含め、それなりに楽しめるのは確かで、観て損を感じるような映画ではない。
物語の元ネタへの依存度が減った分、ファミリー映画としての間口はむしろ広がっているかもしれない。

今回はシュレックらしく緑のキツーイお酒、「ペルノ・アブサン」を。
その名前は原料に使われているニガヨモギにちなむ。
他にもアニスを初めとする大量の香草・薬草が使われているので、風味は強烈。
印象としては、酒というよりも漢方薬か何かみたいな感じで、嫌いな人にはシュレックの家の沼の味に感じるかもしれない。
昔はグラスにこの酒を注ぎ、角砂糖を乗せた専用の穴あきスプーンの上から、さらに水を注いで割って呑むのが流行ったらしい。
例によって水を加えると白濁する。
この酒は一時ニガヨモギの覚醒作用が神経系を侵すということで製造が禁止されていたが、現在の物は成分的には規定範囲内に収まっているという。
その作用故か、昔は芸術関係者に大人気だったそうだ(笑


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