2007年07月15日 (日) | 編集 |
この夏、数少ない非シリーズ物のファミリー映画。
今は初めからシリーズ化を前提とした作品が多くて、途中から観ると訳が判らずに苦痛しか感じられない作品が多いが、これは文字通りのファミリー映画として、老若男女全てにお勧めできる。
子供たちに映画をせがまれているけど、ハリポタやポケモンの世界を知らないお父さんたちには、救いになる作品だろう。
夏休み前のある日、小学生の上原康一(横川貴大)は河原で不思議な石を見つけて持ち帰った。
一見亀の化石に見えた石に水をかけて洗おうとすると、何とそこから河童の子供(冨澤風斗)が蘇った。
康一と家族たちは、驚きながらもこの河童をクゥと名づける。
クゥは、何百年も前に父親を侍に殺され、その直後に起きた地震で出来た地割れに飲み込まれ、そのまま石となって眠っていたという。
しばらくは家の中に隠していたものの、仲間のもとへ帰りたがるクゥを心配した康一は、夏休みに河童伝説のある遠野へ、クゥの仲間を探す旅に出る事を決意するのだが・・・
河童を拾った少年が、現代社会で河童が生きていける道を探す、ひと夏の冒険に出るという基本設定は、全く目新しくない。
誰もが思い浮かべる通り、お話のベースは「E.T」であり、正直またかよと思うくらいにありきたりだ。
この設定で今映画を作るなら、いかにして「E.T」から離れるかが勝負の分かれ目となるだろうが、アニメーション映画史に残る快作「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!大人帝国の逆襲」を世に放った原恵一監督は、自作を含めて様々な作品の映画的な記憶を引用しながら、極めて日本的な価値観にこの作品を落とし込んでゆく。
「河童のクゥと夏休み」でとても印象的なのは、河童のクゥの存在が康一だけの秘密ではなく、家族の中で開けっぴろげである事だ。
お父さんなどは、むしろ康一以上にストレートにクゥを受け入れている。
一応、家の外には秘密にしているものの、それほど深刻に隠し通そうとしている訳でもなく、一度バレてしまえばあっさりと表に出す。
そして河童を目の当たりにした世間の方でも、大騒ぎにはなるものの、それはいわば芸能人的、あるいは一頃のアザラシの○○ちゃん的な騒がれ方で、「E.T」の様に国家権力が介入してくる訳でもない。
ぶっちゃけ、この映画における河童という存在そのものが、「E.T」における宇宙人ほど「凄いもの」ではないのだ。
ここに、この作品の独自性が際立っている。
本来アニミズム文化圏である日本人にとって、河童をはじめとした妖怪は、特別であると同時にとても身近な物だ。
信仰、畏怖の対象であると同時に、ちょっと珍しい小動物の様でもあり、日常の様々な現象のメタファーでもある。
普段は見えないけど、ある意味で「いて当然」の存在なのだ。
ゆえに大した驚きもなく河童を受け入れるこの作品の登場人物は、日本人の中に残るアニミズム的な価値観を体現していると言える。
それは大都会の東京でも、観光地化された民話の故郷、遠野にも、等しく息づいている日本の文化の原点なのである。
この作品に見える、人と妖怪である河童のクゥとの独特な距離感は、私たちの中にある自然の森羅万象への密かな信仰を思い出させてくれる。
今の都会には確かに河童の住む場所は無いかもしれないが、まだ人間の中には河童を受け入れる余地が残っている。
東京の街を歩いていると、ビル街の片隅にも小さな祠がぽつんと存在してる風景に時たま出会う事があるが、それらは殆ど例外なく綺麗に手入れされて、しっかりと祀られている。
いかに都会化しても、私たちの心は、こうした異界の者たちをまだどこかで信じているのだろう。
勿論、クゥのような存在を受け入れる一方、私利私欲に駆られてクゥの父を殺し、河童の住む沼を埋め立ててしまうのもまた人間。
原恵一はこうした精神世界の根底を、しばしば覆い隠そうとする人間のゆがみからも逃げない。
良くも悪くも人間性というものを、しっかりと描写するのである。
物語の精神性を支える映像もなかなか見事だ。
カットによって作画レベルにばらつきがあるのは残念なポイントだが、全体に画は美しく、特に緑が目に映える遠野などは実際に行ってみたくなる。
康一とクゥが清流で泳ぐシーンなどは、子供の頃の川遊びを思い出して懐かしかった。
また観る前には、なんとも愛嬌が無いなあと感じていたキャラクターデザインも、実際に作品を観ると演技をさせやすいニュートラルなデザインである事が判る。
それぞれのキャラクターにつけられた芝居はとてもリアルで、見た目よりもその演技によってどんどんと感情移入させるキャラクターとなっている。
あんまりかわいいとは思えなかったクゥすらも、映画が終わる事にはなんとも愛しく思えてくる。
ああ、あとキャラクターでは「おっさん」が漢・・・(泣
もっとも映画として欠点が無いわけではなく、例えば物語の構成ではちょっと失敗していると思う。
映画の前半は、康一目線で物語が進む。
クゥという未知なる友を得た康一の、ひと夏の成長物語である。
しかし、クゥの存在が世間にバレ、クゥが人間に殺された父の腕のミイラと再会するあたりから、物語はクゥ目線に変わってゆく。
ここからはクゥの自分の居場所を探す物語になる。
ややこしいのはここで完全に目線が代わり切らず、康一と同級生の沙代子を巡る淡い恋心を絡めた、もう一つの居場所の物語が同時に描かれる事である。
観ている方としては、突然目線の置き所があっちこっちに代わるので、感情の流れが断ち切られて、物語が滞った印象となり、少々中ダレを感じてしまう。
現状の上映時間2時間18分は少々長く、視点の変化も含めて、もう少しエピソードを上手く並べて、2時間強くらいに纏める事は可能だったと思う。
「河童のクゥと夏休み」は、普段意識しない私たちの心の源流を、笑って泣ける王道の物語を通じて思い出させてくれる良質なファンタジーである。
大人も子供もそれぞれの目線で楽しめるが、この作品から受け取るメッセージは、たぶん観る者全てが共有できる類の物だ。
これは子供たちに見せたい映画であり、もし私に子供がいたら、共に観たい映画と言えるだろう。
タイトル通り、正しい「夏休み映画」として、観る価値のある作品である。
今回は遠野の地酒、上閉伊酒造のその名も「遠野河童の盗み酒」をチョイス。
観光用の酒と思いきや、創業二百年を超える老舗が、山田錦を38%まで精米した立派な大吟醸。
康一とクゥが遊んだ清流を思わせる、すっきりとしたお酒だ。
ちなみにこの蔵には「酔狂河童」というどぶろくを思わせる濁り酒もある。
濁り酒は好き嫌いがあると思うが、なるほど確かに妖怪たちが酌み交わすとすれば、こんな感じのお酒かもしれない。
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今は初めからシリーズ化を前提とした作品が多くて、途中から観ると訳が判らずに苦痛しか感じられない作品が多いが、これは文字通りのファミリー映画として、老若男女全てにお勧めできる。
子供たちに映画をせがまれているけど、ハリポタやポケモンの世界を知らないお父さんたちには、救いになる作品だろう。
夏休み前のある日、小学生の上原康一(横川貴大)は河原で不思議な石を見つけて持ち帰った。
一見亀の化石に見えた石に水をかけて洗おうとすると、何とそこから河童の子供(冨澤風斗)が蘇った。
康一と家族たちは、驚きながらもこの河童をクゥと名づける。
クゥは、何百年も前に父親を侍に殺され、その直後に起きた地震で出来た地割れに飲み込まれ、そのまま石となって眠っていたという。
しばらくは家の中に隠していたものの、仲間のもとへ帰りたがるクゥを心配した康一は、夏休みに河童伝説のある遠野へ、クゥの仲間を探す旅に出る事を決意するのだが・・・
河童を拾った少年が、現代社会で河童が生きていける道を探す、ひと夏の冒険に出るという基本設定は、全く目新しくない。
誰もが思い浮かべる通り、お話のベースは「E.T」であり、正直またかよと思うくらいにありきたりだ。
この設定で今映画を作るなら、いかにして「E.T」から離れるかが勝負の分かれ目となるだろうが、アニメーション映画史に残る快作「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!大人帝国の逆襲」を世に放った原恵一監督は、自作を含めて様々な作品の映画的な記憶を引用しながら、極めて日本的な価値観にこの作品を落とし込んでゆく。
「河童のクゥと夏休み」でとても印象的なのは、河童のクゥの存在が康一だけの秘密ではなく、家族の中で開けっぴろげである事だ。
お父さんなどは、むしろ康一以上にストレートにクゥを受け入れている。
一応、家の外には秘密にしているものの、それほど深刻に隠し通そうとしている訳でもなく、一度バレてしまえばあっさりと表に出す。
そして河童を目の当たりにした世間の方でも、大騒ぎにはなるものの、それはいわば芸能人的、あるいは一頃のアザラシの○○ちゃん的な騒がれ方で、「E.T」の様に国家権力が介入してくる訳でもない。
ぶっちゃけ、この映画における河童という存在そのものが、「E.T」における宇宙人ほど「凄いもの」ではないのだ。
ここに、この作品の独自性が際立っている。
本来アニミズム文化圏である日本人にとって、河童をはじめとした妖怪は、特別であると同時にとても身近な物だ。
信仰、畏怖の対象であると同時に、ちょっと珍しい小動物の様でもあり、日常の様々な現象のメタファーでもある。
普段は見えないけど、ある意味で「いて当然」の存在なのだ。
ゆえに大した驚きもなく河童を受け入れるこの作品の登場人物は、日本人の中に残るアニミズム的な価値観を体現していると言える。
それは大都会の東京でも、観光地化された民話の故郷、遠野にも、等しく息づいている日本の文化の原点なのである。
この作品に見える、人と妖怪である河童のクゥとの独特な距離感は、私たちの中にある自然の森羅万象への密かな信仰を思い出させてくれる。
今の都会には確かに河童の住む場所は無いかもしれないが、まだ人間の中には河童を受け入れる余地が残っている。
東京の街を歩いていると、ビル街の片隅にも小さな祠がぽつんと存在してる風景に時たま出会う事があるが、それらは殆ど例外なく綺麗に手入れされて、しっかりと祀られている。
いかに都会化しても、私たちの心は、こうした異界の者たちをまだどこかで信じているのだろう。
勿論、クゥのような存在を受け入れる一方、私利私欲に駆られてクゥの父を殺し、河童の住む沼を埋め立ててしまうのもまた人間。
原恵一はこうした精神世界の根底を、しばしば覆い隠そうとする人間のゆがみからも逃げない。
良くも悪くも人間性というものを、しっかりと描写するのである。
物語の精神性を支える映像もなかなか見事だ。
カットによって作画レベルにばらつきがあるのは残念なポイントだが、全体に画は美しく、特に緑が目に映える遠野などは実際に行ってみたくなる。
康一とクゥが清流で泳ぐシーンなどは、子供の頃の川遊びを思い出して懐かしかった。
また観る前には、なんとも愛嬌が無いなあと感じていたキャラクターデザインも、実際に作品を観ると演技をさせやすいニュートラルなデザインである事が判る。
それぞれのキャラクターにつけられた芝居はとてもリアルで、見た目よりもその演技によってどんどんと感情移入させるキャラクターとなっている。
あんまりかわいいとは思えなかったクゥすらも、映画が終わる事にはなんとも愛しく思えてくる。
ああ、あとキャラクターでは「おっさん」が漢・・・(泣
もっとも映画として欠点が無いわけではなく、例えば物語の構成ではちょっと失敗していると思う。
映画の前半は、康一目線で物語が進む。
クゥという未知なる友を得た康一の、ひと夏の成長物語である。
しかし、クゥの存在が世間にバレ、クゥが人間に殺された父の腕のミイラと再会するあたりから、物語はクゥ目線に変わってゆく。
ここからはクゥの自分の居場所を探す物語になる。
ややこしいのはここで完全に目線が代わり切らず、康一と同級生の沙代子を巡る淡い恋心を絡めた、もう一つの居場所の物語が同時に描かれる事である。
観ている方としては、突然目線の置き所があっちこっちに代わるので、感情の流れが断ち切られて、物語が滞った印象となり、少々中ダレを感じてしまう。
現状の上映時間2時間18分は少々長く、視点の変化も含めて、もう少しエピソードを上手く並べて、2時間強くらいに纏める事は可能だったと思う。
「河童のクゥと夏休み」は、普段意識しない私たちの心の源流を、笑って泣ける王道の物語を通じて思い出させてくれる良質なファンタジーである。
大人も子供もそれぞれの目線で楽しめるが、この作品から受け取るメッセージは、たぶん観る者全てが共有できる類の物だ。
これは子供たちに見せたい映画であり、もし私に子供がいたら、共に観たい映画と言えるだろう。
タイトル通り、正しい「夏休み映画」として、観る価値のある作品である。
今回は遠野の地酒、上閉伊酒造のその名も「遠野河童の盗み酒」をチョイス。
観光用の酒と思いきや、創業二百年を超える老舗が、山田錦を38%まで精米した立派な大吟醸。
康一とクゥが遊んだ清流を思わせる、すっきりとしたお酒だ。
ちなみにこの蔵には「酔狂河童」というどぶろくを思わせる濁り酒もある。
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