2007年07月31日 (火) | 編集 |
今年ももうすぐ、8月6日がやってくる。
人類の記憶に、「ヒロシマ」という日本の地方都市の名前が、永遠に刻まれる事になった日。
「夕凪の街 桜の国」は、あの日あの街に居たために、原爆症というあまりにも悲しい重荷を背負う事となったある家族の、三世代にわたる物語だ。
昭和33年、広島。
原爆の生き残りである平野皆美(麻生久美子)は、ある日同僚の打越(吉沢悠)に愛を告白される。
しかし皆美は、原爆で父と妹が無残に死んでいったのに、自分は生き残っているという事に深い罪悪感を抱いていた。そしていつ発症するかもわからない原爆症という時限爆弾。
自分は、「こっちがわ」にいてはいけない人間。
彼女の心の傷を知った打越は、深い愛で彼女を包むが、原爆症はゆっくりと皆美を蝕んでいった・・・
そして現在。
東京で暮らす皆実の弟・旭(堺昌章)は、家族に秘密にして広島を訪れる。
父の行動を心配する娘の七波(田中麗奈)は、偶然出会った幼馴染の利根東子(中越典子)と共に、旭の後を追って広島へ向かう。
それは七波にとって、漠然と感じていた自らのルーツにまつわる不安感と向き合う旅となる・・・・
こうの史代の原作漫画は三部構成で、1950年代に生きた被爆一世の皆美を描く「夕凪の街」、皆美の姪で被爆二世の七波の少女時代と現在を描く「桜の国・前後編」に別れている。
かなり凝った構成だが、良い意味で作劇上の引算が駆使されて無駄が無く、60年間に渡る物語を僅か100ページというコンパクトなパッケージに纏めている。
映画版は若干構成を変えているが、極めて原作に忠実だ。
しかし、原作に忠実であろうとするあまり、かえってそのテーマ性は薄れてしまった気がする。
広島を描いた映画や漫画は国内外に無数にあるが、この原作が秀逸な点は二つ。
まず、原爆を描くのに原爆の惨禍そのものではなく、原爆症という見えない影を背負い込んだ、一つの家族の歴史を通して、過去に風化しつつある原爆をしっかりと現在の物語として成立させている事。
途切れることの無い家族の歴史の中で原爆を描く事で、これが60年前に終わった事件ではなく、現在の私たちにもしっかりと繋がる物語なのだという事を、受け手に明確に意識させる。
もう一つは、本来被害者であるはずの被爆者とその子孫が抱く、ある種の罪悪感を注視する事で、きれい事ではない日本人の精神文化そのものを描き出した点だ。
文化人類学者のルース・ベネディクトは、名著「菊と刀」の中で、日本文化の特質として、西洋的な「罪の文化」と対極的な「恥の文化」であることを上げている。
この文化の特徴は、自分自身の行動・行為に対する他者の目を極めて重視する事で、時にそれは常識的な善悪という判断基準とは別の結論に傾くこともある。
「本来殺されるはずだったのに生き残った」という恥、「無数の犠牲者の屍の上に生きている」という恥。
「なぜあの時、愛する者たちと共に死ねなかったのか」
この物語の登場人物は、まさしく「生き恥」を晒して生きているのではないかという罪悪感に付きまとわれている。
さらに、ここでは「恥の文化」にプラスして、「穢れの文化」も加わってくる。
この穢れを象徴するのが、他ならぬ原爆症だ。
原爆にあった事で、穢れてしまった自分。
程度の差はあれ、皆美も七波も「自分は生きていていい人間なのだろうか?」という疑念を常に持っていて、それが原爆という兵器の残酷さ、罪深さを際立たせているのだ。
残念ながら映画版は、この部分が弱い。
「チルソクの夏」や「半落ち」などで知られる、監督の佐々部清は、丁寧な仕事をする反面、直球しか投げられない人という印象がある。
対して原作はかなりの変化球。
それならば直球に直せばよかったのだが、原作に忠実に変化球で作ってしまった。
結果的に、やりたいことはわかるものの、何とも居心地のわるい、窮屈な印象の映画になってしまっている。
原作の構造が持つ表現のベクトルと、映画版が志向した表現のベクトルが今ひとつかみ合わない。
一言で言って映画版は人間が優しすぎるのだ。
恥と穢れが生み出した、負の情念とも言うべき内面からの自己否定の心。
この映画はそれが台詞以外で殆ど語られておらず、決定的に弱い。
例えば皆美が繰り返し見る原爆のフラッシュバックを、原爆絵画で表現しているのは、演出的な意図は判らないでもないが、彼女の心情を表現するにはあまりにもパワー不足だ。
あのイメージは、皆美がとりつかれている「あっちがわ」そのものなのだから、やはりそこで何が起こったのかという強いイメージが必要だと思う。
皆美の最期にしても、暗黒に沈み込むような恐ろしさを感じさせる原作に対して、映画版は難病物のメロドラマみたいになってしまっている。
映画では彼女の内面の葛藤よりも、彼女を包み込む周囲の愛の強さの方が強調されていてテーマ性が薄いのだ。
同じ意味で、幼くして被爆者の母を失い、原爆症におびえる祖母を見て育った子供時代を否定しようとする、七波の心理描写も少し弱い。
彼女がなぜ、桜並木のある街で過ごした少女時代を頑なに否定しようとするのかが、今ひとつ良く判らない。
原爆症という負い目を持ってしまった彼女たちの、内面の悲しい葛藤を前面に出してこそ、屈折しながらも精一杯な生き方、人生の誇りと希望を感じさせることが出来るのだと思う。
麻生久美子、田中麗奈はじめ俳優陣が総じて好演しているがゆえ、あと一歩がもどかしい。
「夕凪の街 桜の国」は真摯に丁寧に作られた作品だと思うが、正直に言って原作を超えていない。
もちろん別の表現なのだから、同じである必要はないのだが、全てが原作が表現している範囲に収まってしまっている。
「夕凪の街」で皆美が絶命したときに寄りかかっていた苗木が、「桜の国」では大木に育っていて時の流れを象徴しているなど、映画的表現を膨らませた部分もあるのだが、それが今ひとつ映画ならではのテーマ性の表現には貢献してないのは残念だ。
ただ私は、映画として様々な欠点を承知した上で、これは作る価値・観る価値のある作品だったと思う。
もちろんベターな作品に仕上げることは可能だっただろうが、こういう作品は何よりも語り続けることが大切なのである。
特に、辞任した某大臣のような発言をされる方には、この映画を観て、さらには原作も読んでもらって、ほんとうに「しょうがない」事だったのかもう一度良く考えていただきたいものである。
今回は、以前にも一度付け合わせた事のある、埼玉の神亀の「ひこ孫 大古酒 時のながれ」をチョイス。
これは昭和59年から61年までの、三つの年代の純米大吟醸の古酒をブレンドしたもの。
それはまるで、世代を超えて受け継がれてゆく魂そのものだ。
純米大吟醸から普通想像する、わかりやすい豊潤さや華やかさはあまりないが、年代を経たことで生まれる複雑な旨み、香味はこの酒独特のもの。
この他に比べるものの無い独創の世界こそ、映画にももう少し欲しかった要素なのだが。
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人類の記憶に、「ヒロシマ」という日本の地方都市の名前が、永遠に刻まれる事になった日。
「夕凪の街 桜の国」は、あの日あの街に居たために、原爆症というあまりにも悲しい重荷を背負う事となったある家族の、三世代にわたる物語だ。
昭和33年、広島。
原爆の生き残りである平野皆美(麻生久美子)は、ある日同僚の打越(吉沢悠)に愛を告白される。
しかし皆美は、原爆で父と妹が無残に死んでいったのに、自分は生き残っているという事に深い罪悪感を抱いていた。そしていつ発症するかもわからない原爆症という時限爆弾。
自分は、「こっちがわ」にいてはいけない人間。
彼女の心の傷を知った打越は、深い愛で彼女を包むが、原爆症はゆっくりと皆美を蝕んでいった・・・
そして現在。
東京で暮らす皆実の弟・旭(堺昌章)は、家族に秘密にして広島を訪れる。
父の行動を心配する娘の七波(田中麗奈)は、偶然出会った幼馴染の利根東子(中越典子)と共に、旭の後を追って広島へ向かう。
それは七波にとって、漠然と感じていた自らのルーツにまつわる不安感と向き合う旅となる・・・・
こうの史代の原作漫画は三部構成で、1950年代に生きた被爆一世の皆美を描く「夕凪の街」、皆美の姪で被爆二世の七波の少女時代と現在を描く「桜の国・前後編」に別れている。
かなり凝った構成だが、良い意味で作劇上の引算が駆使されて無駄が無く、60年間に渡る物語を僅か100ページというコンパクトなパッケージに纏めている。
映画版は若干構成を変えているが、極めて原作に忠実だ。
しかし、原作に忠実であろうとするあまり、かえってそのテーマ性は薄れてしまった気がする。
広島を描いた映画や漫画は国内外に無数にあるが、この原作が秀逸な点は二つ。
まず、原爆を描くのに原爆の惨禍そのものではなく、原爆症という見えない影を背負い込んだ、一つの家族の歴史を通して、過去に風化しつつある原爆をしっかりと現在の物語として成立させている事。
途切れることの無い家族の歴史の中で原爆を描く事で、これが60年前に終わった事件ではなく、現在の私たちにもしっかりと繋がる物語なのだという事を、受け手に明確に意識させる。
もう一つは、本来被害者であるはずの被爆者とその子孫が抱く、ある種の罪悪感を注視する事で、きれい事ではない日本人の精神文化そのものを描き出した点だ。
文化人類学者のルース・ベネディクトは、名著「菊と刀」の中で、日本文化の特質として、西洋的な「罪の文化」と対極的な「恥の文化」であることを上げている。
この文化の特徴は、自分自身の行動・行為に対する他者の目を極めて重視する事で、時にそれは常識的な善悪という判断基準とは別の結論に傾くこともある。
「本来殺されるはずだったのに生き残った」という恥、「無数の犠牲者の屍の上に生きている」という恥。
「なぜあの時、愛する者たちと共に死ねなかったのか」
この物語の登場人物は、まさしく「生き恥」を晒して生きているのではないかという罪悪感に付きまとわれている。
さらに、ここでは「恥の文化」にプラスして、「穢れの文化」も加わってくる。
この穢れを象徴するのが、他ならぬ原爆症だ。
原爆にあった事で、穢れてしまった自分。
程度の差はあれ、皆美も七波も「自分は生きていていい人間なのだろうか?」という疑念を常に持っていて、それが原爆という兵器の残酷さ、罪深さを際立たせているのだ。
残念ながら映画版は、この部分が弱い。
「チルソクの夏」や「半落ち」などで知られる、監督の佐々部清は、丁寧な仕事をする反面、直球しか投げられない人という印象がある。
対して原作はかなりの変化球。
それならば直球に直せばよかったのだが、原作に忠実に変化球で作ってしまった。
結果的に、やりたいことはわかるものの、何とも居心地のわるい、窮屈な印象の映画になってしまっている。
原作の構造が持つ表現のベクトルと、映画版が志向した表現のベクトルが今ひとつかみ合わない。
一言で言って映画版は人間が優しすぎるのだ。
恥と穢れが生み出した、負の情念とも言うべき内面からの自己否定の心。
この映画はそれが台詞以外で殆ど語られておらず、決定的に弱い。
例えば皆美が繰り返し見る原爆のフラッシュバックを、原爆絵画で表現しているのは、演出的な意図は判らないでもないが、彼女の心情を表現するにはあまりにもパワー不足だ。
あのイメージは、皆美がとりつかれている「あっちがわ」そのものなのだから、やはりそこで何が起こったのかという強いイメージが必要だと思う。
皆美の最期にしても、暗黒に沈み込むような恐ろしさを感じさせる原作に対して、映画版は難病物のメロドラマみたいになってしまっている。
映画では彼女の内面の葛藤よりも、彼女を包み込む周囲の愛の強さの方が強調されていてテーマ性が薄いのだ。
同じ意味で、幼くして被爆者の母を失い、原爆症におびえる祖母を見て育った子供時代を否定しようとする、七波の心理描写も少し弱い。
彼女がなぜ、桜並木のある街で過ごした少女時代を頑なに否定しようとするのかが、今ひとつ良く判らない。
原爆症という負い目を持ってしまった彼女たちの、内面の悲しい葛藤を前面に出してこそ、屈折しながらも精一杯な生き方、人生の誇りと希望を感じさせることが出来るのだと思う。
麻生久美子、田中麗奈はじめ俳優陣が総じて好演しているがゆえ、あと一歩がもどかしい。
「夕凪の街 桜の国」は真摯に丁寧に作られた作品だと思うが、正直に言って原作を超えていない。
もちろん別の表現なのだから、同じである必要はないのだが、全てが原作が表現している範囲に収まってしまっている。
「夕凪の街」で皆美が絶命したときに寄りかかっていた苗木が、「桜の国」では大木に育っていて時の流れを象徴しているなど、映画的表現を膨らませた部分もあるのだが、それが今ひとつ映画ならではのテーマ性の表現には貢献してないのは残念だ。
ただ私は、映画として様々な欠点を承知した上で、これは作る価値・観る価値のある作品だったと思う。
もちろんベターな作品に仕上げることは可能だっただろうが、こういう作品は何よりも語り続けることが大切なのである。
特に、辞任した某大臣のような発言をされる方には、この映画を観て、さらには原作も読んでもらって、ほんとうに「しょうがない」事だったのかもう一度良く考えていただきたいものである。
今回は、以前にも一度付け合わせた事のある、埼玉の神亀の「ひこ孫 大古酒 時のながれ」をチョイス。
これは昭和59年から61年までの、三つの年代の純米大吟醸の古酒をブレンドしたもの。
それはまるで、世代を超えて受け継がれてゆく魂そのものだ。
純米大吟醸から普通想像する、わかりやすい豊潤さや華やかさはあまりないが、年代を経たことで生まれる複雑な旨み、香味はこの酒独特のもの。
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