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酒を呑んで映画を観る時間が一番幸せ・・・と思うので、酒と映画をテーマに日記を書いていきます。 映画の評価額は幾らまでなら納得して出せるかで、レイトショー価格1200円から+-が基準で、1800円が満点です。ネット配信オンリーの作品は★5つが満点。
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シッコ・・・・・評価額1800円
2007年08月31日 (金) | 編集 |
よくぞ言ってくれた。
アメリカの電波少年、マイケル・ムーアの最新作「シッコ」は、「アメリカの医療保険制度の問題」を取り上げた意欲作。
これには、政治的な立場を超えて、喝采を叫んだ観客も多いんじゃないだろうか。
私はアメリカにずいぶんと長く暮らしたけれど、アメリカの医療保険制度は本当にデタラメなのだ。
幸い私は医療保険に入れていたし、在米の間深刻な事故や病に見舞われることも無かったので、直接的な被害には合っていないけれど、私の知人には2万ドルを超える怪我の治療費を請求された人や、医療保険に入っていながら書類の不備を理由に支払いを拒否された人もいる。
この映画に描かれている様に、バカ高い割には受診できる病院が制限されていたりするし、歯科保険はカバーされず、医療保険とは別に加入しなければならなかったりする。
私は渡米して直ぐに虫歯を患って、ちょっと歯科医に行ったら700ドルを請求されたので、以来虫歯になっても我慢して、歯科医には日本に帰った時に掛かる様にしていたくらいだ。
世界一の超大国で、何でこんなに貧相なのかと常々不思議に思っていたのが、アメリカの医療保険制度だった。

例によっていつものごとく、マイケル・ムーアは「医療保険」をモチーフにして、集めに集めた映像を巧みにコラージュして、問題点を浮かび上がらせる。
ただし今回は、「ボーリング・フォー・コロンバイン」「華氏911」とは作品の構造が大きく異なる。
前作までは基本的に「人民vs権力」というコンセプトが明確で、社会問題に晒される市井の人々の悲しみに、全米ライフル協会やブッシュ政権、あるいは石油企業と言った強者としての権力を対比する事で、それぞれのテーマを訴えていた。
しかし、今回はそのコンセプトを可能にしていた、ムーアの突撃取材が殆ど見られない。
おそらく彼のスタイルが知れ渡ったために、取材相手の保険会社や製薬会社CEOに防衛線を張られたのだと思うが、彼のアポなし取材にこの世界の権力者がどう答えるのかは見てみたかったシーンだ。
そこで今回ムーアがとった手法は、徹底的に医療を受ける患者の立場に拘った取材をし、歪んだアメリカの医療保険制度のカウンターとして、国民皆保険制度を持つ外国の医療保険制度と比較することだ。
ムーアの大好きなカナダの他にも、イギリス、イラク戦争でアメリカを怒らせたフランス、そしてアメリカの仮想敵国キューバと盛りだくさんだ。
医療が国民の権利として当然のように無償で受けられる国々と、営利企業に支配されて多くの人々が医者に掛かることすら出来ないアメリカが実にわかりやすく対比され、これを観たら誰だってアメリカの医療保険制度に疑問を持つように出来ている。
9・11の現場で長く救出活動にあたったため、体を壊した英雄たちがアメリカでまともな医療を受けられず、言わば敵国であるキューバで初めて本物の英雄としての扱いを受ける下りは、おそらく取材を受けたキューバ側に政治的な意図があったとしても、感慨を覚えざるを得ない。

もちろん、あらゆる要素がムーアの主張を肯定するために構成されたこの作品が、果たして「ドキュメンタリー」なのかという批判も出来るだろう。
例えばフランスの医療保険制度や国民の暮らしぶりを憧れの眼差しで賞賛して、殆ど理想郷の様に描く反面、理想と引替えにフランス社会が抱える様々な問題は全く描写しない。
キューバやイギリスにしても同じ事で、そういう意味ではこの作品に限らず、ムーアの作品は常に一方的で、必ずしも公正な目で作られた作品とは言えず、やはりプロパガンダという言い方が一番しっくりくる。
ただ、言うまでも無く、これはアメリカの医療保険制度の問題をテーマとした作品であって、集められた映像は全てそれを描くために存在する。
ドキュメンタリー映画とは単なる映像の記録ではなく、映画的手段を使って記録映像にテーマを持たせた物という、ヴェルトフ以来の近代ドキュメンタリーの定義に鑑みれば、ムーアのスタイルはドキュメンタリーの究極の進化形と言えなくも無いだろう。
ムーアという人は編集の天才で、膨大な素材をコラージュして形を整え、一本の作品に仕立て上げるセンスとテクニックは相変わらず見事なものがあり、医療保険制度の問題というテーマを、記録映像を使って明確に表現するという点において、この作品は完璧である。

それにしても、この映画に描かれていることは全く他人事ではない。
日本には一応国民皆保険があるが、患者負担の割合は年々増え続けているし、国民健康保険料として徴収される金額は、ぶっちゃけアメリカの民間医療保険より高い
まあ後から難癖をつけられて保険料の支払いを拒否されないだけでもマシではあるが、国民年金の問題あたりまで考えると、この国もかなりヤバイところまで来ていると思わされる。
正直、「医療費?タダよ」というフランス人やカナダ人の事を羨ましいと思ったのは、別にアメリカ人だけではないと思う。
一度利権と腐敗のスパイラルに陥ると、どんな高潔な制度でも、落ちるところまで落ちてしまう事はしっかりと認識しておきたい。
アメリカとフランスの違いを問われた出演者が、「政府が国民を恐れるのか、国民が政府を恐れるのかの違いだ」と語っていたのが印象的だった。
果たして、日本はどちらだろうか。

今回は、ムーア曰く「世界で最も医療制度が整った国」キューバから「ハバナクラブ ラム」の7年ものをチョイス。
サトウキビの糖蜜を原料とした伝統的なキューバラムで、適度に熟成されたテイストはマイルドでストレートでも美味しい。
こんな強い酒を日常的に飲んでても世界有数の長寿国なんだから、確かに医療制度は整っていそうだ。

ちなみに、私はここしばらくアメリカに来ていたのだが、もちろん成田でフルカバーの保険を掛けてきた(笑

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馬に乗った悪魔/The Devil Came on Horseback・・・・・ダルフールで起こっている事
2007年08月28日 (火) | 編集 |
ドキュメンタリー映画が、静かなブームなんだそうである。
火付け役はもちろんマイケル・ムーア「華氏911」だろう。
あの作品がボックスオフィスを爆走して以来、様々なドキュメンタリー作品が劇場にかかるようになった。
8月末の米国だけで、公開中のムーアの「シッコ」、デ・カプリオがプロデュースした「The 11th hour」、ゲームのドンキーコングの内幕物「King of Kong」など幾つもの作品が公開中で、それぞれ話題になっている。
これらの作品は医療や環境、ゲームと扱う内容は様々ながら、比較的観客が身近に感じられるテーマで、なおかつウィットに富んだシニカルな視点を持つなど、娯楽として楽しめる様に出来ているのが特徴になっている。
いわば難しい時事問題を、少しひねった変化球として投げる事で、人々の興味を惹いていると言えると思う。
ドキュメンタリーが、あるテーマを観客に訴えるためのプロパガンダであると考えれば、このやり方は正しい。

そんな中「The Devil Came on Horseback」という作品を観た。
アフリカ、スーダンのダルフール地方で、2003年以来続く民族紛争を扱った作品である。
ここには娯楽は無い。変化球的な視点すらなく、ド直球で「今、そこにある真実」を伝えてくる。
映画は、停戦監視のためにスーダンに赴き、やがてダルフールのジェノサイドを見る事になる元アメリカ海兵隊大尉ブライアン・スタイドル氏(Brian Steidle)を通して、今ダルフールで何が起こっているか、何が必要とされているのかを強烈に描写する。
この作品が、日本で上映される機会があるのかどうかは現時点では不明だが、非常に強いインパクトを持った作品なので、出来る限り内容を紹介したいと思う。
今回はレビューというよりは、作品紹介と割り切りたい。
もし機会があれば、是非見てほしい作品である。
また、映画の上映後に、この作品のプロデューサーであるジェーン・ウェルスさんのお話を聞く機会もあったので、併せて紹介したい。

ブライアン・スタイドルは、代々軍人の家系に生まれ、彼自身も常々人の役に立つ仕事をしたいと願っていた。
あくまでも現場に拘った彼は、海兵隊に入隊して大尉まで勤めて退職。
次に何をしようかと迷っていた時に、インターネットで目にしたのがスーダンの停戦監視の任務だった。
当時のスーダンは、20年に及ぶ北部アラブ系と南部キリスト教系の内戦が終結し、復興が始まったばかりだった。
スタイドルと彼のチームは、初め比較的平穏な南部に赴任した。
しかし、前年から始まったダルフール地方の紛争が悪化しているという情報が入り、2004年9月に、スタイドルは初めてダルフールに足を踏み入れる。
非武装の彼が持つのは、紙とペンとカメラだけだ。

この時点では、この映画はまだ制作がはじまっていないので、映画はスタイドルの撮影した膨大な写真とナレーションによって語られるのだが、その凄惨さは想像を絶する。
現地では、スーダン政府の支援を受けたバッガーラ族を中心としたアラブ系遊牧民による、アフリカ系の村々への襲撃が相次ぎ、多くの村人が殺され、レイプされ、家を焼かれて難民化していた。
アラブ系もアフリカ系もどちらもイスラム教徒であり、これは宗教紛争ではなく、人種的な民族紛争なのである。
アフリカ系の村人は、襲撃してくるアラブ系の民兵をジャンジャヴィードjanjaweed(馬に乗った悪魔)と呼び恐れていた。

ダルフールにあるのは、死・絶望・悲しみ・・・
スタイドルのカメラは、この紛争の無残な風景を淡々と捉える。
原型を留めないほど激しく殴られて、撲殺された子供の死体が無造作に転がる荒地。
ある学校では、手錠をかけられた女生徒の黒焦げの死体があった。
彼女は、おそらくレイプされ、生きながら焼かれたと思われる。
いたるところに死体が放置され、村人たちは誰もが喪失感に苛まれていた。
息子を失った父、娘を失った母、あるいは家族全てを失った人々。

ショッキングなのは、「レイプが武器として使われている」という証言だ。
レイプは、単なる民兵の性欲の捌け口ではない。
保守的なこの地域では、例え女性に非が無かったとしても、レイプされた女性ははそれだけで家族を失う。
「夫は去った。私の身に起こったことに耐えられなかったからだ・・・」と語る、被害女性の悲しい表情が心に残る。
こうして、レイプによって家族を破壊し、部族社会そのものを崩壊に追い込むのがレイプを武器として使うという事なのだ。

スーダン政府はジャンジャヴィードとの関わりを公には否定するが、劇中に登場するジャンジャヴィードの幹部は、はっきりと言う。
「我々を訓練しているのも、命令しているのも政府だ」と。

スタイドルが現地で出来ることは、記録する事だけ。
やがて彼は膨大な写真と記録と共に、アメリカに帰り、ダルフールの現実を世論に訴える行動に出る。
この映画が企画され、撮影が始めるのもこの時点だった様だ。
ダルフールのジェノサイドを止めるためには、十分な装備を持った多国籍軍の展開が不可欠だ。
しかし、政治の厚い壁がそれを阻む。
産油国であるスーダンには、生産量の80%の石油を輸入する中国のバックアップがある。
またアメリカのブッシュ政権自体も、対テロ戦争でスーダン政府の協力を必要としているという事情から、ダルフール紛争のジェノサイド停止に対して、決して熱心ではなかった。
驚くべきことに、ブッシュ政権はスタイドルに対しても、写真の公表をしないようにと圧力をかけてきたという。
スタイドルの撮影したぶ厚いアルバム数冊にもなる膨大な記録は、政治よりもまずは人々の関心を呼び起こす。
ニューヨークタイムズに取り上げられた事で、ダルフールの現実は徐々にアメリカ人に知られるようになり、隣国チャドの難民キャンプにも支援の手が届くようになる。
次期大統領候補のオバマ氏を初め、ダルフールの紛争に積極的に取り組む政治家も増えてきている。

映画の後半、スタイドルは再びアフリカに戻り、チャドの難民キャンプや嘗てジェノサイドが起こったルワンダを訪れる。
ここは1994年に100万人が犠牲となったジェノサイドの舞台である。
虐殺の跡をそのまま保存した施設を見たスタイドルは言う。
「これは、ルワンダを再び起こさないために、我々に与えられた一つのチャンスでもあるのだ」

ダルフールの問題に取り組む人は、確実に増えている。
しかし、いまだにダルフール紛争は様々な政治的な要因によって、解決の道筋は立っていないのが現状だ。
映画の中で、難民キャンプの老人が語りかける。
「私たちはイスラム教徒なのに、イスラムは誰も助けてくれない。アラブ人は一体どこにいる。助けに来てくれたのはアメリカ人だけだ。ありがとう、本当にありがとう」
アメリカ人にとっても、アラブ人にとっても、そして遠いアフリカのダルフールの出来事を、傍観者として見ている我々にとっても何とも複雑な気分にさせられる言葉だろう。
ダルフールの犠牲者は、今年8月までに推定45万人
250~300万人が難民化し、300~500万人が飢餓の淵にいる。

  ※     ※     ※     ※     ※     ※     ※      

本作のプロデューサーであり、スタイドルと共に実際に現地を取材したジェーン・ウェルスさんのティーチ・インも行われたので、一部を紹介したい。
彼女は、週末劇場に張り付いて、上映が終わるたびに観客とのティーチ・インを繰り返しているらしい。凄い情熱だ。

Q:私たちは何をすべきなのでしょう

J:まずはこの映画に関心を持ってくれて感謝します。
現在ダルフールの紛争に対して、様々な民間の支援プロジェクトが存在します。
彼らのウェッブサイトを訪ねてみてください。
そして、もし貴方が支持している政治家がいたら、手紙を書いてください。
昨日はサンフランシスコ市長がこの映画を観て、政府に働きかけをすると約束してくれました。
皆さんの身近な政治家にも、この問題に関心を持ってもらってください。

Q:アラブ系の政府と民兵が、アフリカ系住民を虐殺しているという事ですが、映画を見る限り、どちらも同じアフリカ人に見えます。宗教もイスラム同士だと言うし、一体何が違うのでしょう。

J:確かにスーダンのアラブ系の人々も、一般に私たちがイメージするアラブ人よりは、アフリカ系の顔をしています。
しかし、スーダンは部族社会であり、部族が違えば何もかも違うのです。
彼らにはスーダン人という概念すらあまり無くて、部族が違えば外国人のようなものと言えば判ってくれるでしょうか。
ダルフールの場合は、ここに住んでいたアフリカ系農耕民と、後から進入したアラブ系遊牧民の軋轢が元々ありました。
それに政府が火をつけたようなものです。
悲しい事ですが、政府というのは必ずしも国民全てを守るものではなく、一部の国民だけの利益を代表するものなのです。

Q:ダルフール紛争を止めるために、何が必要だと思いますか。

J:ジェノサイドを止めるため、今すぐに必要なものは、国連決議に基づいた強力な多国籍軍の展開です。
ジャンジャヴィードの武装そのものは貧弱な物で、訓練された軍隊を相手に戦争をする事は出来ません。
十分な装備を持つ部隊が一つの村に一つ駐留していれば、それだけでジャンジャヴィードは手が出せない。襲撃は止めるとこが出来るのです

Q:アフリカ連合の部隊が既に展開していますが、十分ではないのですか。

J:アフリカ連合の部隊では十分とは言えません。彼らの部隊は装備も貧弱で、数も足りません。また、アフリカ連合加盟国の多くがスーダンと同じような独裁政権の国という点も、考慮する必要があります。スーダン政府のすることを積極的に止めようとする国だけではないのです。
残念ながら、アフリカの問題はアフリカだけでは解決出来ないのが現実です。
現状ではアフリカ連合のほかに、インドネシアとデンマークの部隊が少しいますが、現実にジェノサイドを止めるにははるかに大規模な部隊が必要です。
訓練された規律のある軍隊を持つ、欧州やアジアの国々から派兵を求め、国際的な部隊が展開すべきだと思います。

Q:中国政府に抗議するために、オリンピックをボイコットするべきという意見もあります。

J:オリンピックをボイコットする事は、アスリートの夢を奪うだけで何も生まないと思います。
ただ、オリンピックは平和の祭典であり、その事とダルフールを結び付けられる事に、中国政府はプレッシャーを感じています。
実際にボイコットすべきではないと思いますが、オリンピックを成功させたいなら、ダルフールでも責任を果たすべきというメッセージは伝えるべきです。

Q:アメリカ政府の反応に対してはどうですか。

J:残念ながらブッシュ政権はこの問題に及び腰です。
実はアメリカはテロリストの手配に関してスーダン政府の協力を得ており、その事が積極性を奪っています。
またイラク戦争に手一杯で、他の問題に大きくコミットしたくないという事もあるでしょう。
しかし、アルカイダのテロリストを捕まえるために、ダルフールの住民が虐殺されるのを見過ごして良いという事にはならないと思います。
既に40万人以上が犠牲になりました。
そして、今この瞬間にも人が死んでいるのです。
私たちには力があります。
一人一人が小さな行動をすれば、ダルフールで起こっている事を、止めることが出来るのです。
そのことを知ってください。


この映画のことをもっと知りたい方は:
http://www.thedevilcameonhorseback.com

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ダルフール救済チャリティアルバムです。
私も購入いたしました。レノンのトリヴュートアルバムとしても、とても充実した聞き応えのある作品です。



ボーン・アルティメイタム・・・・・評価額1700円
2007年08月25日 (土) | 編集 |
映画史上もっとも地味で最もスーパーな、元CIA秘密工作員ジェイソン・ボーンの活躍を描くシリーズ第三弾。
第一作の「ボーン・アイデンティティー」から続く、ボーンの「失われた記憶」=「アイデンティティー」を探す旅もいよいよ佳境。
「ボーン・アルティメイタム」では、謎に包まれたジェイソン・ボーンの正体が、遂に明らかになる。
「007」の様な一話完結物とは異なり、物語は前作からの続きで登場人物も共通なので、前作を観てない人、あるいは忘れてしまった人は予習しておいた方が良いだろう。

モスクワから姿を消したジェイソン・ボーン(マット・デイモン)だったが、彼とトレッドストーン作戦の事がイギリスの新聞ガーディアンの記事に出る。
ボーンは記事を書いたサイモン記者(パディ・コンシダイン)と接触し情報源を聞き出すが、網を張っていたCIAに捕捉され、記者は暗殺されてしまう。
情報源の元に向かったボーンだが、記者の死を知った情報源は一足違いで逃亡した後だった。
彼の事務所でニッキー(ジュリア・スティールズ)と再会したボーンは、彼女を連れて情報源の逃亡先であるモロッコのタンジールに飛ぶ。
しかし情報源の行く先に、ボーンも向かうと読んでいたCIAは、タンジールに暗殺者を潜入させていた・・・


元々完成度の高かったシリーズだが、今回も良く出来ている。
とにかく物語の流れが全く止まらない。
脚本は主人公のジェイソン・ボーンを徹底的にフィーチャーし、殆ど全編出ずっぱりなのだが、そのボーンは常にサスペンスの中を歩いているか、走っているか、格闘しているかなので、中ダレしようにもする場面が無い。
まあ脚本の出来が良い分だけ、時たまボーンが自分から危機を呼び込むような真似をするのが気にならない訳でもない。
ただ、これは以前からそうだったので、意外と自信家で自己顕示欲が強いボーンの性格?と思えば良いのかもしれないが・・・・
逆に、その部分を除けば、殆ど物語にアラらしいアラは無いのも事実である。

第二作「ボーン・スプレマシー」から続投のポール・グリングラス監督の演出は、御馴染の手持ちカメラと第三者的視点の多用で、1時間51分という適度な上映時間の間、画面に緊迫感を与え続ける。
アクション演出も、モロッコの迷宮のような街の構造を生かした立体的な追跡戦から、ニューヨークの大カーチェイスまで地味派手取り混ぜて、存分に魅せる。
もちろん現在の映画だから、CGも多用しているし、ボーンも何気にあり得ない様な超人的なアクションをしているのだが、演出がそれを感じさせないライブ感の強いスタイルなのだ。
作品の内容と演出家のスタイルが、上手くマッチングした好例と言えるだろう。

主演のジェイソン・ボーンを演じるマット・デイモンにとっても、この役は一世一代の当たり役となった。
それでも、役柄自体は荒唐無稽なスーパーヒーローではなくて、地味目でいかにもいそうなキャラクターなので、シリーズで演じたからといって、ジェームス・ボンドやスーパーマンの様にイメージが固定化されてしまう訳でもない。
俳優にとっては実にオイシイ代表作である。
今回はクライマックスとあって、ボーン誕生の秘密を握るCIA幹部たちにスコット・グレン、アルバート・フィニイ、デビッド・ストラザーンという大ベテランを配しているが、彼らが登場すると画面が締まり、雰囲気がぐっと深くなるのはさすがである。
話そのものにそれほど深いテーマ性がある訳ではないが、ボーンが自らの過去を直視する事で、今まで戦ってきた暗殺者たちが、彼の過去そのものだった事に気付く切なさは、シリーズの流れを踏まえて上手く表現されている。
自らの過去を殺しながら、自らの過去にたどり着くという皮肉は、なるほどグリングラスらしい。

「ボーン・アルティメイタム」はシリーズの大団円に相応しい、極めて良く出来た娯楽映画である。
細部まで神経を行き届かせ、大味さを感じさせない作品の作り込みは、本作をハリウッド映画でありながら、ヨーロッパ映画的なムードを持つ、小粒ながらピリリと辛い良質のスパイサスペンスに仕上げている。
「007」や「M.I」シリーズは大味すぎて今ひとつ気に入らないという人も、このシリーズは楽しめるのではないだろうか。
今回でロバート・ラドラム原作による「ボーン・シリーズ」は、どうやら打ち止めになるようだ。
まあ元々自らのアイデンティティーを探し、過去に決着を付ける物語だったのだから、ここで終わらせるのがベストだろう。
しかし、イラク駐留の米軍を描くという、グリングラス注目の次回作である「Imperial Life in the Emerald City」にはマット・デイモンが主演するというし、ラドラム原作の「The Chancellor Manuscript」もグリングラス監督、デ・カプリオ主演で映画化されることが発表されている。
このシリーズによって生まれた人の繋がりは、まだまだ新しい楽しみを提供してくれそうだ。

今回は、物語上重要な舞台となるモロッコから、カクテルの「カサブランカ」をチョイス。
もちろん、モロッコが舞台となった、あまりにも有名な映画から名前が取られている。
ホワイト・ラム80ml、レモン果汁20ml、オレンジ・キュラソー2dash、グレナデン・シロップ2dash、アンゴスチュラ・ビターズ1dashをシェイク。
良質な映画の後味を増幅する、複雑な味のハーモニーを楽しめる。

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インベージョン・・・・・評価額1250円
2007年08月23日 (木) | 編集 |
ジャック・フィニイ原作の侵略SFの古典「盗まれた街(ボディ・スナッチャーの襲撃)」の、実に四度目となるリメイクである。
ドン・シーゲル、フィリップ・カウフマン、アベル・フェラーラに続いてメガホンを取るのは、ドイツの鬼才オリヴァー・ヒルシュピーゲル
この話はリメイクを重ねるごとに、原作から離れてゆく傾向があり、三度目の「ボディ・スナッチャーズ」(1993)などは、設定以外殆どオリジナルの内容だったが、今回はそれよりは原作に近い作りになっている。
過去の映画化は、作品の出来は別として、どちらかというとB級SFの括りで語られる事が多かったが、今回は何と二コール・キッドマン、ダニエル・グレイグ、ジェフリー・ライトとオールスターキャストの大作だ。

地球に帰還する途中のスペースシャトルが事故で墜落。
機体は未知の細胞組織で汚染されており、現場に赴いたタッカー・カウフマン(ジェレミー・ノーサム)はその破片で手を切ってしまう。
タッカーの元妻で医師のキャロル・ベンネル(二コール・キッドマン)は、離婚した後一人息子のオリバー(ジャクソン・ボンド)と暮らしている。
同じく医師である恋人のベン・ドリスコル(ダニエル・グレイグ)との仲も順調だが、ある日患者の女性が奇妙な事を訴える。
彼女の夫が、何者かに変わってしまったというのだ。
見た目も、記憶も間違いなく夫だが、中身が別人だと言う。
その日を堺に、キャロルは街の様子が徐々に変わっている事に気付く。
雑踏の中、まるで感情がない様に無表情に街に立つ人々。
その数はだんだんと増えていっていき、やがては彼女の身近な人々にも異変が起こり始める。
そんなある日、キャロルは面会のためにオリバーをタッカーに預けるのだが・・・・


あまりにも有名なフィニイの原作は、様々な作品に影響を与えてきた、侵略SFのパイオニアの一つである。
今回を含めて四度の映画化の他にも、ロバート・ロドリゲスの「パラサイト」などの映画、藤子・F・不二夫の「流血鬼」や岩明均の「寄生獣」をはじめとする漫画など、インスパイアされた作品は各ジャンルに無数に存在する。
物語が普遍的で骨子がしっかりしていて、なおかつ映像化しやすいという事であるが、別の言い方をすれば、それだけ手垢に塗れた原作という事になる。
それゆえに、過去の映画化の際も、毎回様々な工夫を凝らしていた。
最初の映画化であり、かなり原作に忠実だったドン・シーゲル版「ボディ・スナッチャー 恐怖の街」(1956)と、伝説となった人面犬を初め力の入った特殊メイクと、冷たく乾いた映像が印象的だったフィリップ・カウフマン版「SF/ボディ・スナッチャー」(1978)は既に映画としても古典の仲間入りをしていると言っても良いだろう。
三作目のアベル・フェラーラ版がかなり思い切った脚色をして、今ひとつ不評だったからか、今回は物語そのものは原作回帰の姿勢が見られる。
その分、ボディ・スナッチャーの設定、物語のテーマ性に新しい味付けをしているのだ。

まず、今回はエイリアンの人体乗っ取りの手法が違う。
前作までのボディ・スナッチャーは、犠牲となる人間から、巨大なサヤエンドウの様なサナギが生え、その中にエイリアン化したクローンが作られる。
クローンが生まれると、元になっている人間は干からびて死んでしまう。
対して今回のボディ・スナッチャーは、墜落したスペースシャトルの破片にくっ付いて、地上にばら撒かれたエイリアンウィルスであり、睡眠中に感染した人間の細胞を急激に取り込み、元の体を乗っ取って支配する。
途中でエイリアンウィルスの細胞皮膜に覆われて、サナギ化する描写はあるものの、異星人の侵略というよりは、ウィルスによるミューテーション、つまりは「進化」という設定である。

なるほど、「es [エス]」「ヒットラー~最期の12日間~」と言った人間心理を鋭く突いた佳作を物にしてきた、オリヴァー・ヒルシュピーゲルらしい方向性の脚色である。
突然の進化に伴う、人間性というものの激変に直面した時、人はどう思い、どういう行動をとるのか、あるいはとるべきなのかというテーマは極めて興味深い。
全ての人間が同じ価値観を共有し、戦争も飢餓も暴力も存在しない世界。
それはある意味で人類が夢見てきたユートピアに他ならない。
そして、新しい価値観に対抗するのが、人類のもっとも古い良心とも言うべき「母性」であり、原作では男性だった主人公の医師が女性になっているのも、この対立構図を際立たせるためだろう・
理想郷の出現を人類は受け入れるのか否かというテーマは、過去の三作とは一線を画している。

しかし、残念ながらこのテーマ性は最後の最後まで物語の前面に出ることは無いのである。
伝え聞くところによると、ヒルシュピーゲルはスタジオと大もめにもめ、クレジットはされていないものの、最終的に作品はウォシャウスキー兄弟に委ねられ、「Vフォー・ヴェンデッタ」ジェームス・マクティーグ監督が現場を仕切って仕上げたという。
おそらくヒルシュピーゲルの目指した物は、もっと心理劇としての色彩の強いものだったと想像するが、完成した作品は限りなく「普通」である。
途中まで撮られた作品を引き継いだという事で、ウォシャウスキー兄弟やマクティーグにしても、自分の個性を存分に出すという訳にもいかなかっただろう。
物語の骨組みは最低保障が付いている様なものだから、決してつまらなくは無いし、娯楽SFとしてアベレージには達しているが、深いテーマ性が垣間見えるだけに、この不完全燃焼は少々残念だ。
完成した「インベージョン」は、平凡な出来栄えのSFサスペンスであり、強く印象に残るのが、二コール・キッドマンの美貌だけというのは、作品の持つポテンシャルからすると勿体無い気がする。

今回は原作のジャック・フィニイの生まれ故郷ミルウォーキーから、「ミラージェニュインドラフト」をチョイス。
ミルウォーキーはミラーをはじめ複数のビール会社が本拠を置く、世界で最も有名なビール都市の一つ。
中学生の頃、札幌・ミュンヘン・ミルウォーキーを「世界三大ビール都市」として教わった人も多いだろう。(もっともこの定義は国によって違うのだが・・・)
この街のビールのうち、現在日本でオフィシャルに手に入るのはミラーのみだが、アメリカンビールらしいすっきりした喉越しは日本の残暑にもあう。
バドほどあっさりでもなく、適度にコクもあり、やや物足りない映画の後味を適度に補ってくれるだろう。

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ベクシル 2077日本鎖国・・・・・評価額1550円
2007年08月19日 (日) | 編集 |
意外と言っては失礼ながら、かなりの拾い物である。
曽利文彦監督の前作「ピンポン」は、世評は高かったが、私には原作の忠実なコスプレにしか見えず、あまり面白いとは思えなかった。
今回の「ベクシル 2077日本鎖国」も正直なところ期待していなかったのだが、それでも劇場に足を運んだのは、予告編で垣間見える世界観がなかなか面白そうで、なおかつ軍人のオッサンが叫んでいる「あれは、人ではないというのかぁ!?」という台詞の答えを聞きたかったからだ(笑

西暦2067年、ロボット技術の国際規制に反対した日本は、ハイテク鎖国を敢行する。
直接の入国は勿論、周辺に張り巡らされた電磁シールドによって、偵察機や衛星からも撮影が不可能となり、以来10年間日本の姿を見た者はいない。
2077年、日本のロボット企業大和重鋼の不穏な動きを察知した米軍特殊部隊SWORDは、日本潜入作戦を決意し、女性兵士ベクシルを送り込む事に成功する。
嘗て東京と呼ばれた街でベクシルが見たものは、城壁に囲まれた広大なスラムと、城壁の外に広がる無限の荒野。
そして、荒野を徘徊する巨大な金属の怪獣だった・・・・


なるほど、これはもう一つの「マトリックス」であり、「銀河鉄道999」であり、「日本沈没」である。
ロボット技術で世界の頂点を極めた日本が、その増長を恐れた国連から圧力をかけられて鎖国、その閉ざされた世界で一体何が起こったのかという謎。
観客は、外界からの訪問者であるベクシルの目を通して、驚愕の世界を目の当たりにする。
「世界観の謎」を売り物にした作品は、結局劇中でショボイ世界観しか披露出来ずに、尻すぼみに終わってしまう事が多いが、この作品は観客の期待を裏切らない。
予告編からある程度の予測はしていたものの、この作品はその予測を上回るビジュアルイメージを見せてくれるのだ。
物語そのものは荒唐無稽かつ壮大なホラ話だが、ディテールは細かく描写され、鎖国日本の設定など微妙に現在の北朝鮮を思わせて、ギリギリのリアリティを保っている。
これは曽利監督が元々アニメの人ではないからだろうが、画柄は日本の伝統的アニメーションを受け継ぐものの、演出的志向はどちらかというと実写に近い。
「デューン砂の惑星」のサンドワームを思わせる、巨大な機械生物とのスリリングな追撃戦を初め、アクションシーンは迫力満点。
クライマックスのラスト30分は、邦画アニメというよりはハリウッド映画的だが、あちら物と比べても決して遜色ない仕上がりになっている。

ただし、良く出来ていることは認めつつも、詰めの甘さも感じる。
本作のテーマの部分は、ご丁寧にラストでベクシルがナレーションで丁寧に説明してくれるのだが、正直なところそこで語られるテーマと物語は乖離している。
ぶっちゃけ、凄く面白そうな世界観を先に思いついて、それにストーリーをのせ、後からテーマを無理やりくっ付けましたという印象だ。
実は、キャラクターの感情はある程度自然に描けているし、物語からテーマは自然に匂ってきている
あえてラストでとって付けた様なナレーションを入れる必要はなかったし、入れるならもう少しあいまいな表現にすべきだったと思う。

物語的には、敵のボスキャラが弱い、つうか狡い
作品の構造としては、主人公たちが強大な敵に立ち向かい、犠牲を出しながらも希望をつなぐ事で、テーマが浮き彫りになる形なのだが、実際には敵のボスキャラ恐ろしく軽い小悪党なので、こいつを倒す事がそのままテーマに繋がらず、物語のカタルシスはやや薄い。
ボスキャラは、この映画の世界の中においても、あまりにも幼稚かつ漫画チックな悪役すぎて、正直言って浮いていた。

また映像的には面白い世界観を作り出していたが、正直言ってキャラクターデザインには違和感を覚えた。
この作品のキャラクターは、「シュレック3」の時にも述べたロボット工学の「不気味の谷」に見事にはまっている。
この作品そのものが、人間そっくりのアンドロイドにまつわる話なのは皮肉だが、登場人物が全員人工的なマネキンに見えてしまう。
背景はこれでいいとしても、キャラクターに関してはもう少し伝統的なアニメキャラ的で良かったのではないか。
曽利文彦監督がプロデューサーとして手がけた「アップルシード」の方が、まだキャラクターデザインとしては違和感がなかったと思う。
まあCGアニメのリアル系キャラクターの試行錯誤は、壮大な失敗作だった「ファイナル・ファンタジー」の頃から続いている事だが、実写と漫画のせめぎ合いの中で微妙なスィートスポットを探す作業は今後も課題として残るだろう。

他にも、人間が実験台にされたのは良いとして、日本中が更地になっているのはなんで?とか、あんな小人数の実働部隊に佐官が二人もいる米軍ってどうよ?とか、大小様々な突っ込み所はあるが、「ベクシル 2077日本鎖国」は、作り手の明確なイメージを高い技術で映像化することに成功した力作だ。
特に最近の原作物偏重の風潮の中で、オリジナル脚本でこれだけの物を作り上げたのは、大変な困難だったと思う。
昨年の「日本沈没」が描けなかったテーマ性がこちらで表現されている事も含めて、この作品のチャレンジは高く評価したいし、日本アニメの一つの進化発展形として、この路線は注視しておきたい。

今回は、あんまり酒のイメージがわかない作品なのだが、「ロボット」というキーワードからチョイスしよう。
元々この言葉は、チェコの作家のカレル・チャペックが、戯曲「ロボット」で労働を意味するチェコ語のROBOTAから作った造語である。
ロボット工場で起こる機械人間たちの反乱を描いたこの戯曲は、機械文明の発展が人類に何をもたらすのかを問うたロボットSFの元祖であると同時に、本作「ベクシル 2077日本鎖国」の原型すら見ることが出来る。
というわけでロボットの発祥地、チェコから「ピルスナー ウルケル」を。
ちなみにこのビールが、世界のビール市場で圧倒的多数を占める所謂ピルスナービールの元祖。
チェコはロボットの母国であると同時にビールの母国でもあるのだ。

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インランド・エンパイア・・・・・評価額1450円
2007年08月17日 (金) | 編集 |
デビット・リンチの悪夢的迷宮。
「インランド・エンパイア」は、女優志望のヒロインが迷い込んだハリウッドという幻想を描いた傑作「マルホランド・ドライブ」と対を成す様な作品だ。
リンチによって作品として提示され、無数の観客の脳内に創造される虚構の帝国
今回、彼の内なるハリウッドをさ迷うのは、ローラ・ダーン演じる映画女優ニッキー・グレース。
例によってリンチらしい独創の世界だが、ぶっ飛び具合はターボがかかって加速しており、観方によってはほとんど実験映画と言っていいほど難解かつ不条理な作品になっている。

映画女優のニッキー・グレース(ローラ・ダーン)は、キングスリー・スチュワート監督(ジェレミー・アイアンズ)の新作映画「暗い明日の空の上で」の主演に選ばれる。
ところが、セットで不穏な事が起き、監督はニッキーと相手役のデヴォン(ジャスティン・セロー)に、この映画の秘密を明かす。
実は「暗い明日の空の上で」は、ジプシー民話を元にした未完のポーランド映画「47」のリメイクであり、元の映画は撮影中に主演二人が殺害されたことから中止になったという、いわく付きの作品だったのだ。
やがて、撮影が進むうちにニッキーは映画と現実の区別がつかなくなってゆく・・・


おそらく、リンチの映画を知らない人がこの映画を観たら、相当戸惑うだろう。
ほとんど全編ダウナー系のドラッグでもやって、バッドトリップしている様な作品だ。
物語は一応あるとはいえ、それは作品の進行上ほとんど意味を持たず、無数に分断された壊れたパーツに過ぎない。
劇中の台詞にもあるように、「何が前で何が後だったかわからない」様な作りになっているのだ。
リンチは、このつかみ所の無い物語をさらに小技を効かせて破壊してゆく。
ビデオ撮りでわざとキネコ感を強調した様な荒い映像に、全編に渡って被せられる不気味で不快なノイズ。
会話シーンの切り替えしでは、互いを見る俳優の目線を意図的にずらせて、観客の違和感を誘う。
複数の時空に存在する登場人物が、突然現れては物語を遮り、単体では意味不明の台詞を言う。
さらには登場人物の演技の気持ち悪い「間」!
まさしくリンチ節全開である。

とは言え、全く整合性を無視して作られている訳ではない。
少なくとも主人公のニッキーに関しては、壊れたパズルのピースを脳内で組み立てると、一通り筋が通っている事が解る。
本筋に纏わりつくように描写される様々なエピソードによる「混沌」が、整然とした物語をわざと破壊する仕掛けになっており、観客はストレートに筋を追うことが出来ず、リンチの迷宮に迷わされる。
これは当然作家のロジックであって、決してデタラメに作っている訳ではないのだ。
もっとも、普通の映画のように文学的ロジックできっちりと設計されているという訳でもなく、整合性はあくまでもこの世界の底にかすかに感じられる程度。
作家の志向するベクトルがそちらを向いていない事も事実だろう。
本作でstreet person#2を演じた裕木奈江によると、彼女の役は最初ホームレスガールという設定だけが明らかにされ、後日数ページの彼女の台詞だけのスクリプトを送ってきたそうだ。
元々リンチは、明確な脚本無しに撮影するのが何時もの事らしいが、この話からも本作がかなり直感的なプロセスで作られている事がわかる。

まるでデビット・リンチという映画作家の脳内迷宮のような本作、観客は常に形を変えるアメーバの様な、フワフワとした悪夢的な世界に投げ込まれた様なものだ。
一生懸命ピースを頭の中で組み立てて、物語を追うのも良いし、ストレートに映画に浸って、映像ドラッグでトリップするのも良い。
一応、素直な見方をすれば「インランド・エンパイア」とは虚構のハリウッド、あるいは映画そのものであり、映画という表現をいかに知覚するかという作家から観客への問いかけの様に思える。
あるいは、映画という虚構を通してある種の真実を描いた寓話なのかもしれない。
たぶん、どちらも間違ってはいない。
元々映画のテーマは映画作家の頭の中にしか正解は無いものだが、普通はそのテーマを観客に伝えるために、様々なロジックと工夫を凝らして物語を紡いでゆく。
だから往々にして、受け手が感じたテーマこそが「その作品の表現したかったもの」と捉えて良いのだろうが、この作品の場合は、観客が作品を知覚するという事そのものがテーマであるように思える。
したがって、ここには正解は観た観客の数だけあるのだろう。
ある意味で、映画という表現の根源にもっとも忠実な作品と言えるかもしれない。
 
しかし、まあバッドトリップで三時間はさすがに長い。
劇場の椅子があまり良く無くて、お尻が痛くなって困った。
私の場合、もうちょっと短い方が心地よく浸れたかな。

今回は、結構力のある酒じゃないと負けてしまう。
「コル ソラーレ」の赤をチョイス。
イタリアのアンティノリとワシントンのシャトー・サンミッシェルの合作による良質の赤。
その出自の通り、高級イタリアワインを強く連想させる。
口当たりはとてもしっとりとして優美、かつボディもしっかりしていて、くっきりとした味の輪郭を感じることが出来る。
不気味な悪夢のような映画から、現実の喜びへとしっかりと連れ戻してくれるだろう。

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プロヴァンスの贈りもの・・・・・評価額1500円
2007年08月11日 (土) | 編集 |
恋とワインと人生と。
映画史に残る傑作、「グラディエーター」の監督・主演コンビによる久々の新作「プロヴァンスの贈りもの」は、前作とは打って変わった大人のロマンチックコメディ。
南仏プロヴァンスを舞台に、テンポの良いウィットに富んだ会話と、過剰なくらい魅力的に描写される、フランスのハートランドでのスローライフが心地よい。

ロンドンのシティーで働く敏腕トレーダー、マックス・ミリオン(ラッセル・クロウ)は、ある日フランスのプロヴァンスに住んでいたおじのヘンリー(アルバート・フィニー)が亡くなったという知らせを受ける。
少年時代のマックスは毎年夏になると、シャトーの主だったヘンリーを訪ねていたのだが、大人になってからはすっかり疎遠になっていた。
シャトーを相続する事になったマックスは、出来るだけ高値で売却しようと、十数年ぶりにプロヴァンスを訪れる。
主を失ったシャトーで過ごすうちに、マックスの中で徐々にヘンリーに教えられた人生の哲学が蘇ってくる。
そして、彼の前にプロヴァンスのレストランで働く、ファニー(マリオン・コティヤール)と、ヘンリーの隠し子だというクリスティ(アビー・コーニッシュ)という二人の女性が現れた事で、マックスの人生は大きく変わってゆく・・・・


物語のキーとなるヘンリーおじさんを、アルバート・フィニーが演じているからだろうか、どことなくティム・バートン監督の「ビッグ・フィッシュ」を思い出してしまった。
マックスの少年時代を「チャーリーとチョコレート工場」のフレディ・ハイモアが演じている事もあり、キャラクターはバートンの映画を思わせる。
「ビッグ・フィッシュ」では、ホラ吹きオヤジの人生を息子がたどる事で、彼の人生の真実の姿が見えてくるが、「プロヴァンスの贈りもの」では、仕事人間のマックスがユーモラスなおじさんと過ごした少年時代の思い出をたどる事で、真に豊かな人生の哲学を学び取る。
キャラクターはそれぞれの役割に非常に解りやすく色分けされ、ある種の寓話的登場人物として機能している。
ピーター・メイルの創造した物語は、豊潤なプロヴァンスを流れる風のように、さわやかでよどみが無い。
観客は、撮影監督フィリップ・ル・スールの切り取った、素晴しく美しい風景の中で繰り広げられる恋と人生の優しい物語を心地よく楽しむ事が出来るだろう。

ただし、別の見方をすればキャラクターはステロタイプで深みが無く、ヘンリーの人生を象徴するプロヴァンスを過剰に美化していると言えなくも無い。
英国人であるメイルは、プロヴァンスの人と自然に引かれてこの地に移住、ベストセラーとなった「南仏プロヴァンスの12ヶ月」は記憶に新しい。
リドリー・スコットもまた、この地に別荘としてシャトーを所有しているという。
この映画は言わば、英国の広告業界という戦場で生きていた二人のクリエイターが、自らの安らぎの場としてのプロヴァンスを見つける過程を、そのまんま寓話にして描いた自伝なのかもしれない。
プロヴァンスを愛するが故に、その世界は逆に現実感の薄い理想郷となっている。
もちろん、私はプロヴァンスに住んだことは無いから、もしかしらた本当に映画のような理想郷なのかもしれないが、サムライオタクのエドワード・ズィックが理想化された日本を描いた「ラスト・サムライ」に感じた気恥ずかしさと同様な感傷を、この映画からは少し感じた。
フランス人の感想が聞いてみたいものである。

自らの人生を思い入れたっぷりに描いたからか、この映画はある意味でとてもマニアック
人生を象徴するワインは勿論、映画に登場する物やキャラクターにも、作り手が密かに込めた象徴性を見ることが出来る。
ワイン醸造者のデュフロの飼い犬が「タチ」というのは、劇中のデートのシーンで、寓話的休暇を描いたジャック・タチ監督の名作「ぼくの伯父さんの休暇」が映し出される事で、先人に対するオマージュとわかる。
また土地っ子のファニーの愛車が、フランスの古きよき時代を思わせるルノー・キャトルで、よそ者であるマックスが乗って来るのが、独仏スイスの合作であり、21世紀の統合ヨーロッパを象徴するスマートなのは、この二人の体現する異なる価値観を、さりげなく描写している。
他にも、英国人のマックスとアメリカ人のクリスティと言ったアングロサクソン系登場人物と、フランス人たちの細かい台詞の応酬による意地の張り合いも楽しい。
この映画は全編にわたって、こうした小ネタが散りばめられていて、全部を理解するには相当な雑学が必要で、観に行くならヘンリーおじさんみたいな趣味人と行った方が良いかもしれない。
もっとも、そんな事は知らなくても十分楽しめるし、逆にこれら象徴性の強調は、一面では映画のステロタイプ化を強めてしまっているとも言えるのだが。

「プロヴァンスからの贈りもの」は、仕事人間が恋とワインによって人生の真実を再発見する過程を描いた、軽妙な寓話である。
画面に映し出される数々の「美しいもの」を観ているだけでも、画面にさりげなく隠された「楽しいもの」を見つけるだけでも、十分に楽しめるが、反面あまりにも話が出来すぎていて、心の奥底までは今ひとつ迫ってこない。
本物の人生を取り戻したはずのマックスにしたところで、シティーでの仕事人間な生活も十分エネルギッシュでイキイキしていたじゃないか、という突っ込みも出来てしまう。
だがいずれにしても、猛暑の日本からひと時離れて、南仏の心地よい風に吹かれる映画的時間は、誰にとっても気分の良いものだと思う。
夏向きの映画だ。

この映画をワインに例えるならば、フルボディな赤というよりは、軽やかで涼を感じさせるロゼ
という訳で、今回はプロヴァンスからドメーヌ・タンピエの「バンドール・ロゼ」をチョイス。
美しい桜色で、桃やバラを思わせる繊細な果実香、僅かに苦味を残したドライなフィニッシュまで、日本人の感性には訴える物がある。
真夏の赤も悪くは無いけど、やはりこの高温多湿な夏に素直に飲んで美味しいのは白かロゼだと思う。
美味なる映画とワインがあれば、夏の夜も十分心地良い。

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トランスフォーマー・・・・・評価額1550円
2007年08月06日 (月) | 編集 |
男の子の夢。
クルマに戦闘機、戦車、そして変形する巨大ロボット
マイケル・ベイ監督「トランスフォーマー」は、正に男の子の夢のオモチャ箱。
深い人間ドラマなど一切存在しないが、とてつもない金と手間をかけて、世界中の少年男子たちが夢想した映像をしっかりと見せてくれる。

カタールの米軍基地が、突如として何者かに攻撃され、全滅する。
手がかりは、データベースへのハッキング時に残された、奇妙な金属音だけ。
その頃、冴えない高校生のサム・ウィットウィッキー(シア・ラブーフ)は、念願の車を買ってもらうのだが、それは期待に反してボロボロの骨董物カマロだった。
しかし、その晩車は突然動き出し、後を追ったサムの目の前で、巨大なロボットに変形する。
驚く間もなく、パトカーからトランスフォームしたもう一体のロボットが現れ、サムのカマロとの間で激しい戦いとなる。
カマロのロボットは、オートボッツ軍団のバンブルビーと名乗る。
彼らは滅亡した惑星の金属生命体で、その惑星の生命の源であるキューブを追って地上へやってきた。
しかし、やはりキューブを狙う悪の金属生命体ディセプティコン軍団が、キューブを使って地球の支配を狙っているという。
キューブの隠し場所を示すのは、サムが曽祖父から受け継いだ古い眼鏡。
100年以上前に、北極で氷結したディセプティコンを発見した彼の眼鏡には、キューブの座標が焼き込まれているという。
やがて、オプティマスプライム率いるオートボッツの援軍も現れ、地球の存亡を懸けたキューブを巡る争奪戦がはじまる・・・・


実写のロボット物というと、エンパイアピクチャーズが1990年に製作した「ロボジョックス」が思い浮かぶ。
モデルアニメーションの名手、ディブ・アレンの手によるVFXはなかなかの出来栄えだったが、会社の倒産騒動の中で撮られた作品だけに、正直言って当時の目で観てもB級然とした仕上がりは隠せなかった。
その意味で、今回の実写版「トランスフォーマー」は初めて、日本型の巨大ロボットが金と手間をふんだんにかけられる環境で映像化された、記念すべき作品と言えるかもしれない。

元々「トランスフォーマー」は、日本のタカラが80年代初頭に出した可動フェギアの「ダイアクロン」シリーズをベースに、アメリカの玩具会社が「ミクロマン」などの他のフェギアとミックスして「トランスフォーマー」として売り出した物だ。
日本から見れば、言わば逆輸入品という事になる。
私は、「ダイアクロン」の頃には、もうこの手の玩具に夢中になる歳でもなかったので、あまり記憶に無いのだが、アメリカに住んでいた頃に日系人の従兄弟が「トランスフォーマー」の熱烈なファンだったので、アメリカ版のアニメはよく観ていた。
今回の実写版はアニメとはだいぶ雰囲気が違うが、何よりも変形する巨大ロボットが実に格好良く撮られているので、アニメ版「トランスフォーマー」ファンの枠を超えて、「鉄人28号」以来巨大ロボットで育った世界中の男の子(と元男の子)全てに幅広くアピールするのではないだろうか。

演出的には出し惜しみは一切無く、オープニングから一気呵成に見せる。
ヘリコプターがディセプティコンのロボットに変形し、圧倒的な力で米軍を壊滅させてからクライマックスの市街戦まで、殆ど息つく間もなく見せ場の連続だ。
これは、元々スピルバーグが監督を希望して引き受けた企画だったらしいが、突如として侵略者が現れ、圧倒的な力を見せ付けるのは「宇宙戦争」の構成を思わせるし、平凡な高校生の日常の中に、異星のロボット生命体同士の時空を超えた戦争という壮大な設定が投げ込まれるのも、スピルバーグ的なプロットだ。
もっとも、実際に完成した映画からはそれほどスピルバーグ色は感じられず、ひたすら見せ場の風呂敷を広げ続けるマイケル・ベイ印の映画になっており、よくも悪くも「E.T」や「宇宙戦争」よりは、「アルマゲドン」を連想させる。

ぶっちゃけ、もっと面白くする事は出来たと思う。
やたらと登場人物が多い割には、あまり機能してないキャラクターも多く、例えばオタクなハッカーチームの二人なんて、結局あまり役に立っていなかった。
オートボッツも最初はバンブルビーが中心になるのかと思っていたら、途中からオプティマスプライム率いる軍団が登場。
主役の座もオプティマスプライムに移ってしまうので、バンブルビーが微妙に中途半端になってしまい、ラストがイマイチしまらない。
唯一地球の物に変形しないディセプティコンのボスキャラ、メガトロンとオプティマスプライムの因縁ももうちょっとしっかり描いた方が盛り上がると思う。
主役のサムにしても、存在感が薄くて、命を懸けてもオートボッツたちと戦う心情があんまり真に迫ってこない。

まあ例によってマイケル・ベイの大味な所がでてしまっているのだが、反面この人はメカ物を格好良く撮る事にかけては世界一かもしれず、巨大ロボだけではなくて、変形する前の車や飛行機も実に格好良い。
リアリティへのこだわりも半端じゃなく、V-22オスプレイやF-22ラプターは、本物が映画に登場するのはこれが初ではないだろうか。
そういえば、ベイは「パール・ハーバー」でも、現存する飛行可能な零戦を全部集めて戦闘シーンを撮るという恐ろしく贅沢な事をやっていて、貴重な機体を貸し出したオーナーたちは、傷付けられるのじゃないかと、怖くて見ていられなかったらしい(笑
今回も、オートボッツたちがいちいち日本風の見得を切るアクションをしっかりやってくれているあたりは、さすがに解っている。
もっともアクションシーンはさすがの迫力だが、ロボット同士のバトルは動きが速過ぎて、もうちょっと全体の状況がわかるカットが欲しかったし、せっかくのトランスフォームを、じっくり見せてくれるカットも欲しかった。
まあこのあたりは、早速決まったという続編に期待ということにしよう。

「トランスフォーマー」は、マイケル・ベイがスピルバーグ的な要素を取り込みつつ、熱いオタク魂で仕上げた夏休みらしいド派手な娯楽大作だ。
やや大味な部分もあるが、史上初のハリウッドメジャー制巨大ロボットアクション映画であり、その意味でこれは映画史上のエポックである。
女子たちがこれを楽しめるのかは正直言って良くわからないが、子供の頃に、オモチャ箱に一つでもロボットフェギアを持っていた男子諸君にとっては、長年の夢の一つが結実した、必見の作品であるのは間違いないだろう。

関係ないけど、あのカマロに4000ドルはいくらなんでも高すぎるだろう。
精々1500ドルくらいがいいところだと思うが、中古車価格のリサーチぐらいしなかったのだろうか・・・

今回は、アメリカンビールの「ミッキー」をチョイス。
かわいいボトルだが、アルコール度数は6%と高めで、コクもしっかりとしている。
バドやミラーと比べると、しっかりとした飲み応えがあり、野外でのスポーツ観戦用というよりは、カウチ三昧向きか。
映画を観た後、これを飲みながらオリジナルのアニメを再鑑賞するのも良いだろう。


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遠くの空に消えた・・・・・評価額1600円
2007年08月03日 (金) | 編集 |
「セカチュー」の大ヒットで、邦画原作物ブームを作り上げた行定勲監督による、久々のオリジナル作品。
一見して夏休みにあわせた児童向けファンタジー映画にみえるが、これは作家の中の童心とアングラ魂が炸裂した賛否両論必死の異色作で、過去の行定作品と比べても、そのテイストは全く異なる。
行定勲ランドとでも名付けたくなる、現実の様で現実にはあり得ない不思議空間で展開する、奇妙で愉快な人間賛歌である。

抜けるような高い青空と、深い緑に覆われたこの村は、新空港建設の問題でゆれている。
小学生の楠木亮介(神木降之介)は、空港を建設の責任者として赴任する父の雄一郎(三浦友一)と共に、村に引っ越してくる。
都会的で洗練された亮介は、すぐに小学校の人気者となるが、ガキ大将の土田公平(ささの友間)たちは気に入らない。
さっそく亮介と公平は泥まみれ、ウンコまみれの大喧嘩をするが、その事がきっかけで仲良くなる。
一方、雄一郎は土地の権力者である天童(石橋蓮司)や青年団のトバ(田中哲司)らと対立しながら、強引に空港建設を進めようとする。
父の冷徹なやりかたに反発を覚えていた亮介は、あるときUFOを呼んでいるというヒハル(大後寿々花)という不思議な少女と出会う。
彼女の父は、昔UFOに乗って去ってしまったので、いつか帰ってくるのを待っているのだという。
亮介たちは、村の変わり者赤星(長塚圭史)も巻き込んで、丘の上に秘密基地を作るのだが・・・


行定勲監督は、エミール・クストリッツァ「黒猫・白猫」からこの作品の着想を得て、内容を膨らませていったという。
なるほど、映画のクライマックスにあたる伊藤歩演じるサワコ先生の結婚式のイメージは、旧ユーゴを舞台にジプシーファミリーの結婚式を巡る騒動を、エキセントリックな映像と愉快な音楽で飾り付けた、クストリッツァの喜劇にそのまま被る。
もうこの時点で判る人は判るだろうが、「遠くの空に消えた」はちょっと変な映画である。
空港開発といういかにもありそうな現実的な設定ではあるが、その舞台となる村はまるでジブリアニメあるいはイーハトーブような理想化された世界だ。
さらにキャラクターたちは、日活の渡り鳥シリーズに出てくるような和製ウエスタン調のチンピラたち、彼らがたむろするバーのまるでフェリーニ映画のようなけばけばしい楽団に異人の娘たち、はたまた70年代の児童アニメのような少年たちなど、正にごった煮のいでたちで登場する。
内容的にも一応空港建設への反対運動というコアはあるものの、亮介と公平、ヒハルを中心にした子供たちのエピソード、雄一郎と村人たちの大人のエピソード、さらには結婚を控えたサワコ先生と天空からやって来た「鳥人」とのファンタジックな恋のエピソードと、まるでバラバラに展開し、ドラマチックに収束することも無い。
物語その物には流れで明確なテーマを形作るような整合性は無いし、登場人物の感情も一定しない。
所謂ドラマツルギーの観点から、この映画を観るとおそらく拍子抜けするだろう。

これは言ってみれば、映画というステージに、行定勲が自らの映画的記憶の中で考え付く限りの仕掛けを並べて、遊んでみせたような作品なのだ。
そして遊びの中に意味を見つけるのは、子供の心
基本的にこの映画は子供目線。
正確に言えば、それはリアルな子供というよりも、今現在30代後半である作者の、思い出の中に存在する「子供」の目線で語られる。
だからだろうか、この映画の視点はファンタジーの世界にどっぷりと浸かるというよりは、少し引いている。
この映画では、空想は空想のまま存在する。
理想化された世界はある意味ハリボテだし、登場人物もカリカチュアされている。
ただ一点重要なのは、この映画の登場人物は大人も子供も、心のどこかに何かしらの希望を持っていて、それが適うと信じている事で、世界観はそれに説得力を持たせるための舞台装置だ。
作り手も観客も、この世界を絵空事であると理解したうえで、幸福な作り物の中に遊ぶ。
それはしばしば、日常の中に忘れてしまいそうになる、自分たちの心の中にある「信じる心」の再発見に他ならない。
これは、子供的イマジネーションを通して、観客一人一人の中にある夢や希望をもう一度活性化させるための御伽噺なのだ。

ただ、その意味では、全体にもう少し整合性を重視してもよかったかなという気はする。
あまりにも色々な要素が詰め込まれているので、明らかに描き足りない部分も出てきてしまっている。
特にヒハルの後半の描き方は、薄すぎてあまり印象に残らない。
「信じる」という、この作品の核を体現するキャラクターだけに、彼女の描写が不足している事で、子供たちのエピソード全体が弱くなってしまっている。
多分、明確な物語の幹はあえて作らなかったのだと思うが、個人的には子供たちのエピソードをもうちょっと中心においた方が、より観やすくて魅力の伝わりやすい作品になったと思う。

「遠くの空に消えた」は、夏休みの初めに、これからの一月半一体どんな冒険をして遊ぼうかと想像をめぐらした、子供時代の様な楽しさに満ちている。
これは言わば行定勲のイマジネーションの箱庭であり、この映画を楽しめるか否かは、ここで楽しく遊べるかどうかにかかっていると言えるだろう。
行定監督は、「何かを信じられなくなった時、信じ続けるパワーをくれる映画を作りたかった」と語っている。
なるほど、「何かは」何でもいいのだろう。
人間は生きてゆくための希望が必要で、それがある限りはこの世界そのものを信じられる。
この映画に描かれた沢山の仕掛けの中に、「信じる心」という自分自身の心の断片をみつけられた人にとっては、これは至福の映画的時間となるだろう。

今回は、無国籍な空想の世界にかけてカクテルの「ドリーム」をチョイス。
ブランデーとオレンジ・キュラソーを2:1の割合、ペルノ・アブサンを数滴加え、シェイクする。
元々オレンジ・キュラソーとブランデーの相性は良いが、ここにアブサンを加えてインパクトを演出してるのがミソ。
ただしアブサンの香りはきついので、量はお好みで。
少年たちには早すぎるが、大人の見る夢としては良いだろう。

追記:本日二度目の鑑賞をしたのだが、一回目の鑑賞で欠点だと指摘した部分が、これはこれで良いのではないかと思えてきた。
ヒハルの存在がやや薄いという印象は変わらないが、後半子供たちの物語が中心に来る必要は今回あまり感じなかった。
この作品に描かれる「奇跡」は、彼ら以外の様々な人々にも、それぞれの解釈で訪れるので、エンディングにかけての物語的な拡散は作品の本質としては正解なのかもしれない。
初鑑賞の印象として評価は変更しないが、ロジックで固められた作品ではないだけに、鑑賞するごとに印象は有機的に変化するのだろう。


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