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2007年08月03日 (金) | 編集 |
「セカチュー」の大ヒットで、邦画原作物ブームを作り上げた行定勲監督による、久々のオリジナル作品。
一見して夏休みにあわせた児童向けファンタジー映画にみえるが、これは作家の中の童心とアングラ魂が炸裂した賛否両論必死の異色作で、過去の行定作品と比べても、そのテイストは全く異なる。
行定勲ランドとでも名付けたくなる、現実の様で現実にはあり得ない不思議空間で展開する、奇妙で愉快な人間賛歌である。
抜けるような高い青空と、深い緑に覆われたこの村は、新空港建設の問題でゆれている。
小学生の楠木亮介(神木降之介)は、空港を建設の責任者として赴任する父の雄一郎(三浦友一)と共に、村に引っ越してくる。
都会的で洗練された亮介は、すぐに小学校の人気者となるが、ガキ大将の土田公平(ささの友間)たちは気に入らない。
さっそく亮介と公平は泥まみれ、ウンコまみれの大喧嘩をするが、その事がきっかけで仲良くなる。
一方、雄一郎は土地の権力者である天童(石橋蓮司)や青年団のトバ(田中哲司)らと対立しながら、強引に空港建設を進めようとする。
父の冷徹なやりかたに反発を覚えていた亮介は、あるときUFOを呼んでいるというヒハル(大後寿々花)という不思議な少女と出会う。
彼女の父は、昔UFOに乗って去ってしまったので、いつか帰ってくるのを待っているのだという。
亮介たちは、村の変わり者赤星(長塚圭史)も巻き込んで、丘の上に秘密基地を作るのだが・・・
行定勲監督は、エミール・クストリッツァの「黒猫・白猫」からこの作品の着想を得て、内容を膨らませていったという。
なるほど、映画のクライマックスにあたる伊藤歩演じるサワコ先生の結婚式のイメージは、旧ユーゴを舞台にジプシーファミリーの結婚式を巡る騒動を、エキセントリックな映像と愉快な音楽で飾り付けた、クストリッツァの喜劇にそのまま被る。
もうこの時点で判る人は判るだろうが、「遠くの空に消えた」はちょっと変な映画である。
空港開発といういかにもありそうな現実的な設定ではあるが、その舞台となる村はまるでジブリアニメあるいはイーハトーブような理想化された世界だ。
さらにキャラクターたちは、日活の渡り鳥シリーズに出てくるような和製ウエスタン調のチンピラたち、彼らがたむろするバーのまるでフェリーニ映画のようなけばけばしい楽団に異人の娘たち、はたまた70年代の児童アニメのような少年たちなど、正にごった煮のいでたちで登場する。
内容的にも一応空港建設への反対運動というコアはあるものの、亮介と公平、ヒハルを中心にした子供たちのエピソード、雄一郎と村人たちの大人のエピソード、さらには結婚を控えたサワコ先生と天空からやって来た「鳥人」とのファンタジックな恋のエピソードと、まるでバラバラに展開し、ドラマチックに収束することも無い。
物語その物には流れで明確なテーマを形作るような整合性は無いし、登場人物の感情も一定しない。
所謂ドラマツルギーの観点から、この映画を観るとおそらく拍子抜けするだろう。
これは言ってみれば、映画というステージに、行定勲が自らの映画的記憶の中で考え付く限りの仕掛けを並べて、遊んでみせたような作品なのだ。
そして遊びの中に意味を見つけるのは、子供の心。
基本的にこの映画は子供目線。
正確に言えば、それはリアルな子供というよりも、今現在30代後半である作者の、思い出の中に存在する「子供」の目線で語られる。
だからだろうか、この映画の視点はファンタジーの世界にどっぷりと浸かるというよりは、少し引いている。
この映画では、空想は空想のまま存在する。
理想化された世界はある意味ハリボテだし、登場人物もカリカチュアされている。
ただ一点重要なのは、この映画の登場人物は大人も子供も、心のどこかに何かしらの希望を持っていて、それが適うと信じている事で、世界観はそれに説得力を持たせるための舞台装置だ。
作り手も観客も、この世界を絵空事であると理解したうえで、幸福な作り物の中に遊ぶ。
それはしばしば、日常の中に忘れてしまいそうになる、自分たちの心の中にある「信じる心」の再発見に他ならない。
これは、子供的イマジネーションを通して、観客一人一人の中にある夢や希望をもう一度活性化させるための御伽噺なのだ。
ただ、その意味では、全体にもう少し整合性を重視してもよかったかなという気はする。
あまりにも色々な要素が詰め込まれているので、明らかに描き足りない部分も出てきてしまっている。
特にヒハルの後半の描き方は、薄すぎてあまり印象に残らない。
「信じる」という、この作品の核を体現するキャラクターだけに、彼女の描写が不足している事で、子供たちのエピソード全体が弱くなってしまっている。
多分、明確な物語の幹はあえて作らなかったのだと思うが、個人的には子供たちのエピソードをもうちょっと中心においた方が、より観やすくて魅力の伝わりやすい作品になったと思う。
「遠くの空に消えた」は、夏休みの初めに、これからの一月半一体どんな冒険をして遊ぼうかと想像をめぐらした、子供時代の様な楽しさに満ちている。
これは言わば行定勲のイマジネーションの箱庭であり、この映画を楽しめるか否かは、ここで楽しく遊べるかどうかにかかっていると言えるだろう。
行定監督は、「何かを信じられなくなった時、信じ続けるパワーをくれる映画を作りたかった」と語っている。
なるほど、「何かは」何でもいいのだろう。
人間は生きてゆくための希望が必要で、それがある限りはこの世界そのものを信じられる。
この映画に描かれた沢山の仕掛けの中に、「信じる心」という自分自身の心の断片をみつけられた人にとっては、これは至福の映画的時間となるだろう。
今回は、無国籍な空想の世界にかけてカクテルの「ドリーム」をチョイス。
ブランデーとオレンジ・キュラソーを2:1の割合、ペルノ・アブサンを数滴加え、シェイクする。
元々オレンジ・キュラソーとブランデーの相性は良いが、ここにアブサンを加えてインパクトを演出してるのがミソ。
ただしアブサンの香りはきついので、量はお好みで。
少年たちには早すぎるが、大人の見る夢としては良いだろう。
追記:本日二度目の鑑賞をしたのだが、一回目の鑑賞で欠点だと指摘した部分が、これはこれで良いのではないかと思えてきた。
ヒハルの存在がやや薄いという印象は変わらないが、後半子供たちの物語が中心に来る必要は今回あまり感じなかった。
この作品に描かれる「奇跡」は、彼ら以外の様々な人々にも、それぞれの解釈で訪れるので、エンディングにかけての物語的な拡散は作品の本質としては正解なのかもしれない。
初鑑賞の印象として評価は変更しないが、ロジックで固められた作品ではないだけに、鑑賞するごとに印象は有機的に変化するのだろう。
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一見して夏休みにあわせた児童向けファンタジー映画にみえるが、これは作家の中の童心とアングラ魂が炸裂した賛否両論必死の異色作で、過去の行定作品と比べても、そのテイストは全く異なる。
行定勲ランドとでも名付けたくなる、現実の様で現実にはあり得ない不思議空間で展開する、奇妙で愉快な人間賛歌である。
抜けるような高い青空と、深い緑に覆われたこの村は、新空港建設の問題でゆれている。
小学生の楠木亮介(神木降之介)は、空港を建設の責任者として赴任する父の雄一郎(三浦友一)と共に、村に引っ越してくる。
都会的で洗練された亮介は、すぐに小学校の人気者となるが、ガキ大将の土田公平(ささの友間)たちは気に入らない。
さっそく亮介と公平は泥まみれ、ウンコまみれの大喧嘩をするが、その事がきっかけで仲良くなる。
一方、雄一郎は土地の権力者である天童(石橋蓮司)や青年団のトバ(田中哲司)らと対立しながら、強引に空港建設を進めようとする。
父の冷徹なやりかたに反発を覚えていた亮介は、あるときUFOを呼んでいるというヒハル(大後寿々花)という不思議な少女と出会う。
彼女の父は、昔UFOに乗って去ってしまったので、いつか帰ってくるのを待っているのだという。
亮介たちは、村の変わり者赤星(長塚圭史)も巻き込んで、丘の上に秘密基地を作るのだが・・・
行定勲監督は、エミール・クストリッツァの「黒猫・白猫」からこの作品の着想を得て、内容を膨らませていったという。
なるほど、映画のクライマックスにあたる伊藤歩演じるサワコ先生の結婚式のイメージは、旧ユーゴを舞台にジプシーファミリーの結婚式を巡る騒動を、エキセントリックな映像と愉快な音楽で飾り付けた、クストリッツァの喜劇にそのまま被る。
もうこの時点で判る人は判るだろうが、「遠くの空に消えた」はちょっと変な映画である。
空港開発といういかにもありそうな現実的な設定ではあるが、その舞台となる村はまるでジブリアニメあるいはイーハトーブような理想化された世界だ。
さらにキャラクターたちは、日活の渡り鳥シリーズに出てくるような和製ウエスタン調のチンピラたち、彼らがたむろするバーのまるでフェリーニ映画のようなけばけばしい楽団に異人の娘たち、はたまた70年代の児童アニメのような少年たちなど、正にごった煮のいでたちで登場する。
内容的にも一応空港建設への反対運動というコアはあるものの、亮介と公平、ヒハルを中心にした子供たちのエピソード、雄一郎と村人たちの大人のエピソード、さらには結婚を控えたサワコ先生と天空からやって来た「鳥人」とのファンタジックな恋のエピソードと、まるでバラバラに展開し、ドラマチックに収束することも無い。
物語その物には流れで明確なテーマを形作るような整合性は無いし、登場人物の感情も一定しない。
所謂ドラマツルギーの観点から、この映画を観るとおそらく拍子抜けするだろう。
これは言ってみれば、映画というステージに、行定勲が自らの映画的記憶の中で考え付く限りの仕掛けを並べて、遊んでみせたような作品なのだ。
そして遊びの中に意味を見つけるのは、子供の心。
基本的にこの映画は子供目線。
正確に言えば、それはリアルな子供というよりも、今現在30代後半である作者の、思い出の中に存在する「子供」の目線で語られる。
だからだろうか、この映画の視点はファンタジーの世界にどっぷりと浸かるというよりは、少し引いている。
この映画では、空想は空想のまま存在する。
理想化された世界はある意味ハリボテだし、登場人物もカリカチュアされている。
ただ一点重要なのは、この映画の登場人物は大人も子供も、心のどこかに何かしらの希望を持っていて、それが適うと信じている事で、世界観はそれに説得力を持たせるための舞台装置だ。
作り手も観客も、この世界を絵空事であると理解したうえで、幸福な作り物の中に遊ぶ。
それはしばしば、日常の中に忘れてしまいそうになる、自分たちの心の中にある「信じる心」の再発見に他ならない。
これは、子供的イマジネーションを通して、観客一人一人の中にある夢や希望をもう一度活性化させるための御伽噺なのだ。
ただ、その意味では、全体にもう少し整合性を重視してもよかったかなという気はする。
あまりにも色々な要素が詰め込まれているので、明らかに描き足りない部分も出てきてしまっている。
特にヒハルの後半の描き方は、薄すぎてあまり印象に残らない。
「信じる」という、この作品の核を体現するキャラクターだけに、彼女の描写が不足している事で、子供たちのエピソード全体が弱くなってしまっている。
多分、明確な物語の幹はあえて作らなかったのだと思うが、個人的には子供たちのエピソードをもうちょっと中心においた方が、より観やすくて魅力の伝わりやすい作品になったと思う。
「遠くの空に消えた」は、夏休みの初めに、これからの一月半一体どんな冒険をして遊ぼうかと想像をめぐらした、子供時代の様な楽しさに満ちている。
これは言わば行定勲のイマジネーションの箱庭であり、この映画を楽しめるか否かは、ここで楽しく遊べるかどうかにかかっていると言えるだろう。
行定監督は、「何かを信じられなくなった時、信じ続けるパワーをくれる映画を作りたかった」と語っている。
なるほど、「何かは」何でもいいのだろう。
人間は生きてゆくための希望が必要で、それがある限りはこの世界そのものを信じられる。
この映画に描かれた沢山の仕掛けの中に、「信じる心」という自分自身の心の断片をみつけられた人にとっては、これは至福の映画的時間となるだろう。
今回は、無国籍な空想の世界にかけてカクテルの「ドリーム」をチョイス。
ブランデーとオレンジ・キュラソーを2:1の割合、ペルノ・アブサンを数滴加え、シェイクする。
元々オレンジ・キュラソーとブランデーの相性は良いが、ここにアブサンを加えてインパクトを演出してるのがミソ。
ただしアブサンの香りはきついので、量はお好みで。
少年たちには早すぎるが、大人の見る夢としては良いだろう。
追記:本日二度目の鑑賞をしたのだが、一回目の鑑賞で欠点だと指摘した部分が、これはこれで良いのではないかと思えてきた。
ヒハルの存在がやや薄いという印象は変わらないが、後半子供たちの物語が中心に来る必要は今回あまり感じなかった。
この作品に描かれる「奇跡」は、彼ら以外の様々な人々にも、それぞれの解釈で訪れるので、エンディングにかけての物語的な拡散は作品の本質としては正解なのかもしれない。
初鑑賞の印象として評価は変更しないが、ロジックで固められた作品ではないだけに、鑑賞するごとに印象は有機的に変化するのだろう。

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