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2007年09月27日 (木) | 編集 |
なんで「めがね」?
昨年、単館系ながら口コミで異例の大ヒットとなった、「かもめ食堂」のスタッフ・キャストによる二匹目の鰌。
監督の荻上直子、主演の小林聡美、もたいまさこは共通だが、舞台は北欧フィンランドから日本の南国へとお引越し。
舞台が変わっただけで一見して前作と同じところを狙っているのかと思いきや、実際の作品の構造は大きく異なる。
春の日。
とある南国の空港に降り立ったタエコ(小林聡美)は、大きなトランクを引きずって民宿ハマダにたどり着く。
そこは観光地もない黄昏た田舎の海岸。
毎日釣りばかりしてるハマダの主人のユージ(光石研)、毎年春になるとどこからかやって来て海岸でカキ氷屋を開く謎の人、サクラさん(もたいまさこ)、なぜか朝ご飯をハマダで食べる高校教師のハルナ先生(市川実日子)と言った不思議な人たちが集う旅の宿。
彼らの奇妙なノリに耐えられなくなったタエコは、島のもうひとつの宿マリンパレスに移ろうとするのだが・・・
絵の様に美しい南国の海岸という非日常の空間に、日常を脱出した旅人がやって来て、「何か」を得て帰ってゆくという基本コンセプトは、前作の「かもめ食堂」と同じ。
しかし「かもめ食堂」は、ロケーションもフィンランドと特定されていたし、カリカチュアされてはいたものの、登場人物の設定にもギリギリのリアリティはあり、いわば地に足が着いたファンタジーと言える作品だった。
対して「めがね」はロケーションこそ日本の南国と思しき場所、つまりより身近に感じていいはずの場所に移っているにも関わらず、その非日常化は加速している。
舞台となっているのは日本の南の島であろうというのは示唆されるが、それが具体的にどこかという描写は一切無いし、登場人物のバックグラウンドも全くといっていいほど明かされない。
民宿ハマダは客が一人だけで、主人のユージは釣りしかしてないのに、なぜか営業できているし、ハルナ先生は毎日のように学校に遅刻しているにもかかわらず、クビにはならない。
サクラさんのカキ氷屋はどうやらお金ではなく、物々交換でカキ氷を買えるらしい。
そもそもこの映画には、日常のリアリティの象徴たるお金を使う場面が全く出てこない。
つまりここは「かもめ食堂は客が来ないので困っている」と言った最低限のリアリティすらない、完全なファンタジー世界なのだ。
ドラマらしいドラマは無い。
劇中タエコがハマダの面々に、「ここに来る人たちは何をしに来るのですか?」と聞く場面がある。
それに対する答えは「黄昏」(笑
要するにボーッとしているという事だ。
大雑把に言えばこの作品には登場人物が、寝ているか、食べているか、体操しているか、黄昏ているか、の四つの描写しかないのだ。
何も起こらない事がドラマ、というのは「かもめ食堂」と同じなのだが、ここでリアリズムの立ち位置が問題になる。
日常から全く乖離してしまっている「めがね」の世界では、この世界で得たものを日常に持ち帰ることが出来ない。
簡単に言えば、世界観もキャラクターも浮世離れし、かつ背景がまるで描かれないので、登場人物の誰にも感情移入することが出来ず、このファンタジー世界を眺めるだけしか出来ないのだ。
映画のラストが「かもめ食堂」と対照的なのも、日常とファンタジーの関係が異なるためだろう。
この世界は、私たちのリアリティとは繋がらない。
したがって、物語はファンタジーの中で自己完結するしか無いのだ。
「めがね」は、何となくだが、作り手自身がイメージで作ってしまったような作品で、その曖昧さはタイトルにも現れていると思う。
荻上監督の作品は、今まで内容とタイトルが明確に繋がっていたが、この作品の「めがね」というタイトルは最後まで観てもよく判らない。
私は「かもめ食堂」の記事で、「荻上監督は、小津安二郎に匹敵するような、心地よい映画のリズムを掴んだ様だ」と書いたが、この作品は何よりもそのリズムを作ることが主眼になっていて、物語は二の次になってしまい、単に美しくて癒されるイメージの提供で終わってしまっている。
思うに主人公のタエコの背景をもう少し描くだけで、印象はだいぶ変わっただろう。
この世界への「目」として、なるべくニュートラルなキャラクターにしたかったのだろうが、観客にとっては殆どタエコしか感情移入の対象が無いようなものだから、ある程度のインフォメーションは必要だったと思うのだ。
とは言え、純粋なファンタジーとして観ると、これはこれで気持ちいい。
徹底的に生活臭を排した世界観は不思議な心地よさがあるし、凪の海の様に時がゆったりと流れる独特のリズムは健在だ。
映画にはどうしても物語を求めてしまう、という人にはお勧め出来ない作品だが、106分の間、日常から離れて黄昏気分を味わうにはちょうどいい。
民宿ハマダの面々とは、正直言ってあんまり友達にはなりたくないけど、あの美味しそうなご飯は食べてみたい。
そう、荻上映画の一番印象的なポイントは、美味しそうなご飯である。
彼女には、是非「ご飯」そのものをテーマとした映画を一度撮ってもらいたい。
今回は、やっぱり劇中でものすごく旨そうだったビール。
ちょうど映画の公開にあわせた様に、小林聡美ともたいまさこが出てるビールのCMが流れていて、てっきりタイアップなのかと思っていた。
でもこのCMはドラマの「やっぱり猫が好き」からのイメージだった様で、当然映画には室井滋は出てこない(笑
で、今回はそのお酒じゃなくて、日本一南国が似合うビール、「オリオン ドラフト」をチョイス。
私も丸ごとの伊勢海老をかじりながら、思いっきりビールを飲みたい!
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昨年、単館系ながら口コミで異例の大ヒットとなった、「かもめ食堂」のスタッフ・キャストによる二匹目の鰌。
監督の荻上直子、主演の小林聡美、もたいまさこは共通だが、舞台は北欧フィンランドから日本の南国へとお引越し。
舞台が変わっただけで一見して前作と同じところを狙っているのかと思いきや、実際の作品の構造は大きく異なる。
春の日。
とある南国の空港に降り立ったタエコ(小林聡美)は、大きなトランクを引きずって民宿ハマダにたどり着く。
そこは観光地もない黄昏た田舎の海岸。
毎日釣りばかりしてるハマダの主人のユージ(光石研)、毎年春になるとどこからかやって来て海岸でカキ氷屋を開く謎の人、サクラさん(もたいまさこ)、なぜか朝ご飯をハマダで食べる高校教師のハルナ先生(市川実日子)と言った不思議な人たちが集う旅の宿。
彼らの奇妙なノリに耐えられなくなったタエコは、島のもうひとつの宿マリンパレスに移ろうとするのだが・・・
絵の様に美しい南国の海岸という非日常の空間に、日常を脱出した旅人がやって来て、「何か」を得て帰ってゆくという基本コンセプトは、前作の「かもめ食堂」と同じ。
しかし「かもめ食堂」は、ロケーションもフィンランドと特定されていたし、カリカチュアされてはいたものの、登場人物の設定にもギリギリのリアリティはあり、いわば地に足が着いたファンタジーと言える作品だった。
対して「めがね」はロケーションこそ日本の南国と思しき場所、つまりより身近に感じていいはずの場所に移っているにも関わらず、その非日常化は加速している。
舞台となっているのは日本の南の島であろうというのは示唆されるが、それが具体的にどこかという描写は一切無いし、登場人物のバックグラウンドも全くといっていいほど明かされない。
民宿ハマダは客が一人だけで、主人のユージは釣りしかしてないのに、なぜか営業できているし、ハルナ先生は毎日のように学校に遅刻しているにもかかわらず、クビにはならない。
サクラさんのカキ氷屋はどうやらお金ではなく、物々交換でカキ氷を買えるらしい。
そもそもこの映画には、日常のリアリティの象徴たるお金を使う場面が全く出てこない。
つまりここは「かもめ食堂は客が来ないので困っている」と言った最低限のリアリティすらない、完全なファンタジー世界なのだ。
ドラマらしいドラマは無い。
劇中タエコがハマダの面々に、「ここに来る人たちは何をしに来るのですか?」と聞く場面がある。
それに対する答えは「黄昏」(笑
要するにボーッとしているという事だ。
大雑把に言えばこの作品には登場人物が、寝ているか、食べているか、体操しているか、黄昏ているか、の四つの描写しかないのだ。
何も起こらない事がドラマ、というのは「かもめ食堂」と同じなのだが、ここでリアリズムの立ち位置が問題になる。
日常から全く乖離してしまっている「めがね」の世界では、この世界で得たものを日常に持ち帰ることが出来ない。
簡単に言えば、世界観もキャラクターも浮世離れし、かつ背景がまるで描かれないので、登場人物の誰にも感情移入することが出来ず、このファンタジー世界を眺めるだけしか出来ないのだ。
映画のラストが「かもめ食堂」と対照的なのも、日常とファンタジーの関係が異なるためだろう。
この世界は、私たちのリアリティとは繋がらない。
したがって、物語はファンタジーの中で自己完結するしか無いのだ。
「めがね」は、何となくだが、作り手自身がイメージで作ってしまったような作品で、その曖昧さはタイトルにも現れていると思う。
荻上監督の作品は、今まで内容とタイトルが明確に繋がっていたが、この作品の「めがね」というタイトルは最後まで観てもよく判らない。
私は「かもめ食堂」の記事で、「荻上監督は、小津安二郎に匹敵するような、心地よい映画のリズムを掴んだ様だ」と書いたが、この作品は何よりもそのリズムを作ることが主眼になっていて、物語は二の次になってしまい、単に美しくて癒されるイメージの提供で終わってしまっている。
思うに主人公のタエコの背景をもう少し描くだけで、印象はだいぶ変わっただろう。
この世界への「目」として、なるべくニュートラルなキャラクターにしたかったのだろうが、観客にとっては殆どタエコしか感情移入の対象が無いようなものだから、ある程度のインフォメーションは必要だったと思うのだ。
とは言え、純粋なファンタジーとして観ると、これはこれで気持ちいい。
徹底的に生活臭を排した世界観は不思議な心地よさがあるし、凪の海の様に時がゆったりと流れる独特のリズムは健在だ。
映画にはどうしても物語を求めてしまう、という人にはお勧め出来ない作品だが、106分の間、日常から離れて黄昏気分を味わうにはちょうどいい。
民宿ハマダの面々とは、正直言ってあんまり友達にはなりたくないけど、あの美味しそうなご飯は食べてみたい。
そう、荻上映画の一番印象的なポイントは、美味しそうなご飯である。
彼女には、是非「ご飯」そのものをテーマとした映画を一度撮ってもらいたい。
今回は、やっぱり劇中でものすごく旨そうだったビール。
ちょうど映画の公開にあわせた様に、小林聡美ともたいまさこが出てるビールのCMが流れていて、てっきりタイアップなのかと思っていた。
でもこのCMはドラマの「やっぱり猫が好き」からのイメージだった様で、当然映画には室井滋は出てこない(笑
で、今回はそのお酒じゃなくて、日本一南国が似合うビール、「オリオン ドラフト」をチョイス。
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2007年09月27日 (木) | 編集 |
仕事の参考になるかと思い、東京都現代美術館で開かれている「ジブリの絵職人 男鹿和雄展-トトロの森を描いた人」に行った。
アニメの背景画にスポットを当てた美術展は珍しい上に、人気のジブリ作品だけではなくて、かなり初期の作品も含めて展示されていて、なかなか見応えがあった。
男鹿和雄というと、ある高名なアニメ作家が宮崎作品の画を見て、「暗い、あれは日本の風景ではない」と批判していたので、そのあたりも気になっていた。
確かに宮崎作品の背景では、日本というよりも中部から北部のヨーロッパ、例えば「ミス・ポター」で描かれた湖水地方あたりを連想させる色彩が多々あるが、他の作品では全く日本の山里の風景と思える物も多いので、これは男鹿氏のタッチというよりも、宮崎駿の好みの問題なのかも知れない。
展示でよかったのは、背景美術以外にも、これらの美術が実際のアニメ制作でどう使われるのかという実践的な展示があって、セルアニメの作り方が一般に人々にも分かりやすく展示されていたのは高ポイント。
むしろこっちをもう少し充実させても良かったかもしれない。
それにしても、9月の平日だというのに、昼過ぎにはもうディズニーランドの人気パビリオン並みの行列が出来ていたのは驚いた。
改めてスタジオジブリというブランドの威力を見せ付けられた気がする。
東京都現代美術館での「ジブリの絵職人 男鹿和雄展-トトロの森を描いた人」は今週末まで。
アニメーション好きなら一見の価値はある。
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アニメの背景画にスポットを当てた美術展は珍しい上に、人気のジブリ作品だけではなくて、かなり初期の作品も含めて展示されていて、なかなか見応えがあった。
男鹿和雄というと、ある高名なアニメ作家が宮崎作品の画を見て、「暗い、あれは日本の風景ではない」と批判していたので、そのあたりも気になっていた。
確かに宮崎作品の背景では、日本というよりも中部から北部のヨーロッパ、例えば「ミス・ポター」で描かれた湖水地方あたりを連想させる色彩が多々あるが、他の作品では全く日本の山里の風景と思える物も多いので、これは男鹿氏のタッチというよりも、宮崎駿の好みの問題なのかも知れない。
展示でよかったのは、背景美術以外にも、これらの美術が実際のアニメ制作でどう使われるのかという実践的な展示があって、セルアニメの作り方が一般に人々にも分かりやすく展示されていたのは高ポイント。
むしろこっちをもう少し充実させても良かったかもしれない。
それにしても、9月の平日だというのに、昼過ぎにはもうディズニーランドの人気パビリオン並みの行列が出来ていたのは驚いた。
改めてスタジオジブリというブランドの威力を見せ付けられた気がする。
東京都現代美術館での「ジブリの絵職人 男鹿和雄展-トトロの森を描いた人」は今週末まで。
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2007年09月23日 (日) | 編集 |
「Potterさん」と言っても、眼鏡を掛けた魔法使いの少年ではない。
英国の児童文学者で画家、というよりは世界一有名なウサギ、ピーター・ラビットの生みの親として知られるビアトリクス・ポターの半生を描いた「ミス・ポター」は、彼女の紡いだ物語の様に、優しく穏やかな佳作。
子供の頃に彼女の作品に親しんだ人なら、きっと心の琴線に触れるところがあるだろう。
ヴィクトリア朝時代が終わり新世紀が始まったものの、まだまだ封建社会のムードが色濃く残る1902年のロンドン。
上流階級の娘に生まれたビアトリクス・ポター(レネ・ゼルウィガー)は、絵本作家になる夢を追って、自作を出版社に持ち込む日々を送っていた。
それは子供のころからの彼女の「友達」、ピーター・ラビットを主人公とした物語。
ある日、ウォーン兄弟の経営する出版社を訪れたビアトリクスは、編集者ノーマン・ウォーン(ユアン・マクレガー)と運命の出会いをする。
ビアトリクスの才能を見抜いたノーマンは、早速「ピーター・ラビットのおはなし」を出版し、たちまちベストセラーとなる。
やがてビアトリクスとノーマンは愛し合うようになるが、労働を蔑むビアトリクスの両親は、身分違いの結婚を許さなかった・・・
色々な意味で非常に丁寧に作られた作品であるけれど、所謂伝記映画として観ると、物足りなさを感じるかもしれない。
92分というコンパクトな上映時間からも分かるように、ビアトリックス・ポターという人物の人生全てを描こうとした作品ではないのだ。
女性の児童文学者として果たしたパイオニア的役割もナショナルトラスト運動への大きな貢献も、非常にあっさりとしか描かれないし、作りようによっては幾らでも抑揚をつけて盛り上げられる、ノーマン・ウォーンとの恋の顛末すらあっけないくらいにシンプルに描かれる。
「べイブ」以来11年ぶりの監督作品となるクリス・ヌーナンの演出も、極めて抑制が効いていて全体に淡々としており、物語の抑揚はあえて抑えられていることもあっ、て「ドラマチック」という言葉を感じる所はあまり無い。
ただ物語の起承転結は極めて明確で、それが主人公の感情の流れと密接に結びついているので、ヴィアトリックスの心情はとても素直に観るものの心に流れ込んでくる。
思いっきり人生に後ろ向きの両親に育てられ、子供時代に第二の故郷である湖水地方で過ごした思い出を、大切に内面で育てて物語を創造にするような、どちらかと言えば内行的な性格の女性として描かれるビアトリクスが、作家としての成功により自信を得て、また一つの恋の物語を初めから終わりまでを経験する事で、物質的にも精神的にも自立してゆく。
これは、封建時代の空気が残る20世紀初頭という時代を生きた一人の女性が、彼女の人生のステージに登場する様々な人々に影響されながら、ゆっくりと、しかし確実に自らの生き方を確立してゆく物語なのだ。
その意味で、この作品は極めて私小説的な方法論で作られており、タイトルが未婚女性を表す「ミス・ポター」なのも、物語の内容を考えると実に象徴的。
このゆったりとした物語の流れを、抑揚がなくて退屈と受け取るか、大人のセンスと受け取るかで、この作品の評価は大きく変わってくるだろう。
タイトルロールのビアトリクス・ポターを演じるレネ・ゼルウィガーが素晴しい。
彼女は、本作では主演とエグゼクティブ・プロデューサーを兼務するほど、思い入れたっぷりにビアトリクスを演じているが、しっかりと一世紀前の英国女性に見える。
その演技は表情から立ち振る舞い、絵画を描き出す指先まで神経が行き届き、優美さすら感じさせる。
そういえば彼女は出世作の「ブリジット・ジョーンズの日記」でも英国人の役をやっていたけど、これは天性の才能と丁寧な役作りが結実した、彼女のもう一つの代表作と言っても良いと思う。
ビアトリクスの人生を彩るバイブレイヤーたちも、でしゃばらず、薄すぎず、絶妙の存在感で物語を彩る。
ポターを人間的に成長させる悲恋の相手、ノーマン・ウォーン役のユアン・マクレガーはしっとりとした良い感じの英国紳士だし、ノーマンの妹で、ビアトリックスの親友となるミリー・ウォーンを演じるエミリー・ワトソンも、相変わらず変な目力で強い印象を残す。
そしてもちろん、出番は少ないものの、美しいアニメーションで描写されるピーター・ラビットやあひるのジマイマら、ビアトリックスの「友達」たちも命をもって動き出す。
彼らの「物語」を生み出す作家としての喜びが、控えめながらもしっかりと描写さているのもこの作品の深みになっている。
画作りも丁寧に、良い仕事をしている。
ビクトリア様式が残る100年前のロンドンのビジュアルも見事だが、何よりもビアトリクスが創造した様々な物語の故郷である、湖水地方の風景が美しい。
アンドリュー・ダンのカメラは、この地方の空気感を上手く写し取っているが、それは正にビアトリクスの紡いだ作品の世界そのもので、この風景を彩るナイジェル・ウェストレイクのスコア、ケイティ・メルアの主題歌も心地良い。
「ミス・ポター」は、湖水地方の草原を流れる風のような、控えめでゆったりとした、優しい映画だ。
日本とは全く違う風景なのに、どことなくこの映画の世界に郷愁を感じたとしたら、それは観る者の心のどこかに、ピーター・ラビットがまだ住んでいるからだろう。
作家の人生は作品の中に残るものだけど、もし彼女の作品が好きで、その背景にあるものを少しだけ知りたいと思った人は、観て損の無い映画だと思う。
この映画を観たら、ピーターやジマイマやロビンソンの事を、きっと今までよりも好きになる。
今回は、梅酒のチョーヤのHPでその名も「ピーター・ラビット」というカクテルが紹介されていたので、作ってみた。
梅酒30mlに、適量のダージリンティー、オレンジスライスを添えて完成。
多分、ダージリンティーを使っているあたりが、ピーター・ラビットなんだろうけど、確かに上品で優しいお味。
個人的にはダージリンティーが多めの方が、甘すぎず風味が立って美味しいと思う。
ダージリンティーは元々色々なお酒と相性が良いから、この組み合わせも納得だ。
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英国の児童文学者で画家、というよりは世界一有名なウサギ、ピーター・ラビットの生みの親として知られるビアトリクス・ポターの半生を描いた「ミス・ポター」は、彼女の紡いだ物語の様に、優しく穏やかな佳作。
子供の頃に彼女の作品に親しんだ人なら、きっと心の琴線に触れるところがあるだろう。
ヴィクトリア朝時代が終わり新世紀が始まったものの、まだまだ封建社会のムードが色濃く残る1902年のロンドン。
上流階級の娘に生まれたビアトリクス・ポター(レネ・ゼルウィガー)は、絵本作家になる夢を追って、自作を出版社に持ち込む日々を送っていた。
それは子供のころからの彼女の「友達」、ピーター・ラビットを主人公とした物語。
ある日、ウォーン兄弟の経営する出版社を訪れたビアトリクスは、編集者ノーマン・ウォーン(ユアン・マクレガー)と運命の出会いをする。
ビアトリクスの才能を見抜いたノーマンは、早速「ピーター・ラビットのおはなし」を出版し、たちまちベストセラーとなる。
やがてビアトリクスとノーマンは愛し合うようになるが、労働を蔑むビアトリクスの両親は、身分違いの結婚を許さなかった・・・
色々な意味で非常に丁寧に作られた作品であるけれど、所謂伝記映画として観ると、物足りなさを感じるかもしれない。
92分というコンパクトな上映時間からも分かるように、ビアトリックス・ポターという人物の人生全てを描こうとした作品ではないのだ。
女性の児童文学者として果たしたパイオニア的役割もナショナルトラスト運動への大きな貢献も、非常にあっさりとしか描かれないし、作りようによっては幾らでも抑揚をつけて盛り上げられる、ノーマン・ウォーンとの恋の顛末すらあっけないくらいにシンプルに描かれる。
「べイブ」以来11年ぶりの監督作品となるクリス・ヌーナンの演出も、極めて抑制が効いていて全体に淡々としており、物語の抑揚はあえて抑えられていることもあっ、て「ドラマチック」という言葉を感じる所はあまり無い。
ただ物語の起承転結は極めて明確で、それが主人公の感情の流れと密接に結びついているので、ヴィアトリックスの心情はとても素直に観るものの心に流れ込んでくる。
思いっきり人生に後ろ向きの両親に育てられ、子供時代に第二の故郷である湖水地方で過ごした思い出を、大切に内面で育てて物語を創造にするような、どちらかと言えば内行的な性格の女性として描かれるビアトリクスが、作家としての成功により自信を得て、また一つの恋の物語を初めから終わりまでを経験する事で、物質的にも精神的にも自立してゆく。
これは、封建時代の空気が残る20世紀初頭という時代を生きた一人の女性が、彼女の人生のステージに登場する様々な人々に影響されながら、ゆっくりと、しかし確実に自らの生き方を確立してゆく物語なのだ。
その意味で、この作品は極めて私小説的な方法論で作られており、タイトルが未婚女性を表す「ミス・ポター」なのも、物語の内容を考えると実に象徴的。
このゆったりとした物語の流れを、抑揚がなくて退屈と受け取るか、大人のセンスと受け取るかで、この作品の評価は大きく変わってくるだろう。
タイトルロールのビアトリクス・ポターを演じるレネ・ゼルウィガーが素晴しい。
彼女は、本作では主演とエグゼクティブ・プロデューサーを兼務するほど、思い入れたっぷりにビアトリクスを演じているが、しっかりと一世紀前の英国女性に見える。
その演技は表情から立ち振る舞い、絵画を描き出す指先まで神経が行き届き、優美さすら感じさせる。
そういえば彼女は出世作の「ブリジット・ジョーンズの日記」でも英国人の役をやっていたけど、これは天性の才能と丁寧な役作りが結実した、彼女のもう一つの代表作と言っても良いと思う。
ビアトリクスの人生を彩るバイブレイヤーたちも、でしゃばらず、薄すぎず、絶妙の存在感で物語を彩る。
ポターを人間的に成長させる悲恋の相手、ノーマン・ウォーン役のユアン・マクレガーはしっとりとした良い感じの英国紳士だし、ノーマンの妹で、ビアトリックスの親友となるミリー・ウォーンを演じるエミリー・ワトソンも、相変わらず変な目力で強い印象を残す。
そしてもちろん、出番は少ないものの、美しいアニメーションで描写されるピーター・ラビットやあひるのジマイマら、ビアトリックスの「友達」たちも命をもって動き出す。
彼らの「物語」を生み出す作家としての喜びが、控えめながらもしっかりと描写さているのもこの作品の深みになっている。
画作りも丁寧に、良い仕事をしている。
ビクトリア様式が残る100年前のロンドンのビジュアルも見事だが、何よりもビアトリクスが創造した様々な物語の故郷である、湖水地方の風景が美しい。
アンドリュー・ダンのカメラは、この地方の空気感を上手く写し取っているが、それは正にビアトリクスの紡いだ作品の世界そのもので、この風景を彩るナイジェル・ウェストレイクのスコア、ケイティ・メルアの主題歌も心地良い。
「ミス・ポター」は、湖水地方の草原を流れる風のような、控えめでゆったりとした、優しい映画だ。
日本とは全く違う風景なのに、どことなくこの映画の世界に郷愁を感じたとしたら、それは観る者の心のどこかに、ピーター・ラビットがまだ住んでいるからだろう。
作家の人生は作品の中に残るものだけど、もし彼女の作品が好きで、その背景にあるものを少しだけ知りたいと思った人は、観て損の無い映画だと思う。
この映画を観たら、ピーターやジマイマやロビンソンの事を、きっと今までよりも好きになる。
今回は、梅酒のチョーヤのHPでその名も「ピーター・ラビット」というカクテルが紹介されていたので、作ってみた。
梅酒30mlに、適量のダージリンティー、オレンジスライスを添えて完成。
多分、ダージリンティーを使っているあたりが、ピーター・ラビットなんだろうけど、確かに上品で優しいお味。
個人的にはダージリンティーが多めの方が、甘すぎず風味が立って美味しいと思う。
ダージリンティーは元々色々なお酒と相性が良いから、この組み合わせも納得だ。

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2007年09月19日 (水) | 編集 |
どこかで観たような世界観に、どこかで会ったようなキャラクター。
リュック・ベッソンが引退を宣言して挑んだ「アーサーとミニモイの不思議な国」は、彼としては初のCGアニメと実写の合成で描くファンタジーアドベンチャー。
とは言っても、実際にCGキャラクターと実写の人物が絡む場面はほとんど無く、全体的には普通のCGアニメという印象だ。
冒険を夢見る少年アーサー(フレディ・ハイモア)は、両親と離れアメリカの片田舎に住む祖母(ミア・ファロー)と暮らしているが、土地代未払いのため屋敷は立ち退きを迫られている。
ある日、アーサーは冒険中に行方不明になってしまった祖父が残した書物を見つける。
そこにはアフリカに住む人間の「歯」ほどの大きさの小人族ミニモイ秘密とともに、裏庭に埋められたルビーの財宝の事が書かれていた。
ミニモイの国へ行くための秘密を手にしたアーサーは、ミニモイ化して庭先の地下の国に潜入するが、そこではミニモイ族と、恐ろしい魔法使いのマルタザードの争いが起こっていた。
財宝がマルタザードの支配する国にあると知ったアーサーは、ミニモイのセレニア王女、弟のベタと共に、冒険の旅に出発する・・・
過去の様々な作品から、モチーフを抽出して一本に仕立て上げたという印象が強い。
主人公が小人化して庭先を探検するというのは、ジョー・ジョンストン監督の「ミクロキッズ」やピクサーのCGアニメ「バッグズライフ」を連想させる。
ミニモイのキャラクターデザインやミニモイの国の造形は、ジム・ヘンソンが創造した人間が登場しない異色のファンタジー「ダーククリスタル」そっくりだし、平凡な日常から、突如として身近な異世界が開かれるのは同じくヘンソンの「ラビリンス/魔王の迷宮」を思わせる。
もっとも、「ラビリンス」も大元を辿ると「不思議な国のアリス」あたりまで行き着くのだけれど。
いずれにしても、リュック・ベッソンによるミニモイの国の冒険には、あまりオリジナリティが感じられない。
むしろ、ヨーロッパ的というかフランス映画的なものを感じさせるのは、ミニモイ化した主人公とヒロインの関係だったりする。
現実世界では10歳の子供である主人公のアーサーは、どうやらミニモイ化すると結婚年齢に達しており、セレニア王女と結構なロマンスを展開する。
キッズ向けアニメのCGキャラクターが、キスシーンを演じるというのは、アメリカ映画では考えられないし、細かな描写が微妙にエロいのもフランスの作品らしい。
セレニア王女の造形はいかにもベッソンが好きそうなタイプで、どことなく元カノのミラ・ジョヴォヴィッチを思わせるのはご愛嬌(笑
また冒険の途中に、ミニモイ側でもマルタザード側でもない、何だか良く判らないクラブがあって、とってつけたようなPVチックなアクションシーンがあったりするのはいかにもベッソン的で楽しい。
良く知っている風景が、極小の視点から眺める事によって、全くの異世界になるというのは過去にやりつくされた内容ではあるものの、冒険心をそそられてそれなりに面白く観られるのも事実だ。
ただ、この映画の場合、脚本のディテールが酷く荒っぽくて、作品の魅力をかなりスポイルしてしまっている。
観ているうちに忘れてしまうような、どうでもいい所なら良いのだが、物語の核心の部分が適当だったりするから困る。
例えば、アーサーがミニモイの国に行く時に、36時間以内に戻ってこないと、次の千日間人間の世界に戻れなくなるという「お約束」が示されるのだけど、映画を観ているとどう考えてもアーサーは60時間をミニモイの国で過ごしている。
普通こういうタイムリミットは、終盤でサスペンスを盛り上げるために効果的に使われる物だから、こんな適当で良い訳がない。
またベタが十得ナイフみたいな道具を持っていて、アーサー達が危機に陥ってロープを必要とする時に、その道具にはロープの機能はないと説明されるのに、そのすぐ後のシーンでは道具からロープがビヨーンと飛び出している。
さらには、前記したように次にミニモイの国に行けるのは千日後だと言っていたにも関わらず、アーサーとセレニア王女は10番目の満月の日に再会するという約束を取り交わす。
千日と十ヶ月じゃ大違いだけど、説明は全く無い。
他にも、アーサーがミニモイの国を冒険する大前提である、庭に埋められたルビーの設定とアーチボルト爺さんとの関係が大いに矛盾しているなど、突っ込みどころは無数にある。
これだけ矛盾が積み重なってくると、途中で気になって仕方なくて、物語に集中できなかった。
ベッソンは、子供向けだから話は適当で良いと思ったのだろうか。
やっつけ仕事のような未完成の部分が目につき、なぜもっとキッチリと脚本を仕上げなかったのか、理解に苦しむ。
主人公のアーサーには、またまたフレディー・ハイモア。
この子は上手いんだけど、似た役柄が多くてデジャヴを感じすぎる。
ファンタジー、爺さんと少年というモチーフだと、彼ばっかりになるのは何でなのか。
SF物というとやたら出てくるキャメロン・ブライトといい、上手い子役は人材不足なのかもしれない。
他に人間キャラではアーサーのおばあちゃん役で、ミア・ファローが良い味をだしている。
英語版ではミニモイにデ・ニーロやデヴィッド・ボウイ、マドンナといった面々が声の出演をしているが、今回は吹き替え版だったので、残念ながらそのあたりの楽しみは無し。
ところで、これを撮ったら引退するはずだったベッソンだが、アメリカではコケたものの、本国フランスでは600万人を動員する大ヒットになったことから、あっさり撤回して2本の続編を監督するようだ。
一応、これは三部作なので、宣言の撤回ではないと言っているけど、続編はヒットした後に発表されたわけだから、当初から企画されていた訳ではなかろう。
多分、この人にとっては、映画はもう表現手段というよりは単にビジネスなんだろうなあという気がする。
まあ続編もそれなりに楽しめるようには作るだろうが、どうせやるならもうちょっと気合を入れて、突っ込みどころの無い脚本を書いてもらいたい物である。
今回は、スロヴェニア共和国産の赤ワイン、エディ・シムチッチの「デュエット・リゼルヴァ」をチョイス。
ワイン産地としては日本ではあまり馴染みの無い国だが、非常に複雑・豊潤かつ気品があり、上質のイタリアワインに近い印象がある。
エディ・シムチッチのワインはラベルデザインがとてもユニークで、こちらのラベルにはミニモイならぬ親戚の(?)ドワーフが登場。
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リュック・ベッソンが引退を宣言して挑んだ「アーサーとミニモイの不思議な国」は、彼としては初のCGアニメと実写の合成で描くファンタジーアドベンチャー。
とは言っても、実際にCGキャラクターと実写の人物が絡む場面はほとんど無く、全体的には普通のCGアニメという印象だ。
冒険を夢見る少年アーサー(フレディ・ハイモア)は、両親と離れアメリカの片田舎に住む祖母(ミア・ファロー)と暮らしているが、土地代未払いのため屋敷は立ち退きを迫られている。
ある日、アーサーは冒険中に行方不明になってしまった祖父が残した書物を見つける。
そこにはアフリカに住む人間の「歯」ほどの大きさの小人族ミニモイ秘密とともに、裏庭に埋められたルビーの財宝の事が書かれていた。
ミニモイの国へ行くための秘密を手にしたアーサーは、ミニモイ化して庭先の地下の国に潜入するが、そこではミニモイ族と、恐ろしい魔法使いのマルタザードの争いが起こっていた。
財宝がマルタザードの支配する国にあると知ったアーサーは、ミニモイのセレニア王女、弟のベタと共に、冒険の旅に出発する・・・
過去の様々な作品から、モチーフを抽出して一本に仕立て上げたという印象が強い。
主人公が小人化して庭先を探検するというのは、ジョー・ジョンストン監督の「ミクロキッズ」やピクサーのCGアニメ「バッグズライフ」を連想させる。
ミニモイのキャラクターデザインやミニモイの国の造形は、ジム・ヘンソンが創造した人間が登場しない異色のファンタジー「ダーククリスタル」そっくりだし、平凡な日常から、突如として身近な異世界が開かれるのは同じくヘンソンの「ラビリンス/魔王の迷宮」を思わせる。
もっとも、「ラビリンス」も大元を辿ると「不思議な国のアリス」あたりまで行き着くのだけれど。
いずれにしても、リュック・ベッソンによるミニモイの国の冒険には、あまりオリジナリティが感じられない。
むしろ、ヨーロッパ的というかフランス映画的なものを感じさせるのは、ミニモイ化した主人公とヒロインの関係だったりする。
現実世界では10歳の子供である主人公のアーサーは、どうやらミニモイ化すると結婚年齢に達しており、セレニア王女と結構なロマンスを展開する。
キッズ向けアニメのCGキャラクターが、キスシーンを演じるというのは、アメリカ映画では考えられないし、細かな描写が微妙にエロいのもフランスの作品らしい。
セレニア王女の造形はいかにもベッソンが好きそうなタイプで、どことなく元カノのミラ・ジョヴォヴィッチを思わせるのはご愛嬌(笑
また冒険の途中に、ミニモイ側でもマルタザード側でもない、何だか良く判らないクラブがあって、とってつけたようなPVチックなアクションシーンがあったりするのはいかにもベッソン的で楽しい。
良く知っている風景が、極小の視点から眺める事によって、全くの異世界になるというのは過去にやりつくされた内容ではあるものの、冒険心をそそられてそれなりに面白く観られるのも事実だ。
ただ、この映画の場合、脚本のディテールが酷く荒っぽくて、作品の魅力をかなりスポイルしてしまっている。
観ているうちに忘れてしまうような、どうでもいい所なら良いのだが、物語の核心の部分が適当だったりするから困る。
例えば、アーサーがミニモイの国に行く時に、36時間以内に戻ってこないと、次の千日間人間の世界に戻れなくなるという「お約束」が示されるのだけど、映画を観ているとどう考えてもアーサーは60時間をミニモイの国で過ごしている。
普通こういうタイムリミットは、終盤でサスペンスを盛り上げるために効果的に使われる物だから、こんな適当で良い訳がない。
またベタが十得ナイフみたいな道具を持っていて、アーサー達が危機に陥ってロープを必要とする時に、その道具にはロープの機能はないと説明されるのに、そのすぐ後のシーンでは道具からロープがビヨーンと飛び出している。
さらには、前記したように次にミニモイの国に行けるのは千日後だと言っていたにも関わらず、アーサーとセレニア王女は10番目の満月の日に再会するという約束を取り交わす。
千日と十ヶ月じゃ大違いだけど、説明は全く無い。
他にも、アーサーがミニモイの国を冒険する大前提である、庭に埋められたルビーの設定とアーチボルト爺さんとの関係が大いに矛盾しているなど、突っ込みどころは無数にある。
これだけ矛盾が積み重なってくると、途中で気になって仕方なくて、物語に集中できなかった。
ベッソンは、子供向けだから話は適当で良いと思ったのだろうか。
やっつけ仕事のような未完成の部分が目につき、なぜもっとキッチリと脚本を仕上げなかったのか、理解に苦しむ。
主人公のアーサーには、またまたフレディー・ハイモア。
この子は上手いんだけど、似た役柄が多くてデジャヴを感じすぎる。
ファンタジー、爺さんと少年というモチーフだと、彼ばっかりになるのは何でなのか。
SF物というとやたら出てくるキャメロン・ブライトといい、上手い子役は人材不足なのかもしれない。
他に人間キャラではアーサーのおばあちゃん役で、ミア・ファローが良い味をだしている。
英語版ではミニモイにデ・ニーロやデヴィッド・ボウイ、マドンナといった面々が声の出演をしているが、今回は吹き替え版だったので、残念ながらそのあたりの楽しみは無し。
ところで、これを撮ったら引退するはずだったベッソンだが、アメリカではコケたものの、本国フランスでは600万人を動員する大ヒットになったことから、あっさり撤回して2本の続編を監督するようだ。
一応、これは三部作なので、宣言の撤回ではないと言っているけど、続編はヒットした後に発表されたわけだから、当初から企画されていた訳ではなかろう。
多分、この人にとっては、映画はもう表現手段というよりは単にビジネスなんだろうなあという気がする。
まあ続編もそれなりに楽しめるようには作るだろうが、どうせやるならもうちょっと気合を入れて、突っ込みどころの無い脚本を書いてもらいたい物である。
今回は、スロヴェニア共和国産の赤ワイン、エディ・シムチッチの「デュエット・リゼルヴァ」をチョイス。
ワイン産地としては日本ではあまり馴染みの無い国だが、非常に複雑・豊潤かつ気品があり、上質のイタリアワインに近い印象がある。
エディ・シムチッチのワインはラベルデザインがとてもユニークで、こちらのラベルにはミニモイならぬ親戚の(?)ドワーフが登場。

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2007年09月15日 (土) | 編集 |
スティーブン・オカザキ監督の「ヒロシマナガサキ」は、衝撃的なシーンで始まる。
現在の渋谷で青春を謳歌する若者たち。
そんな彼らに映画は問いかける。
「1945年8月6日に、何が起こったか知っていますか?」
何と、唯一の被爆国であるこの国で、この当たり前な質問に答えられる若者は誰もいないのである!
オカザキ監督によれば、これは決して映画の誇張ではなくて、実際に渋谷で取材をした際に、誰一人として「ヒロシマ」の名を挙げる者はなかったという。
映画は、実にシンプル。
ヒロシマ・ナガサキが忘却の昭和に消えつつあるこの国で、最後の生き証人たる被爆者たちが、あの日、あの時に何が起こったのか、そしてそれからどんな人生を歩んできたのかを、彼ら自身の証言によって淡々と語りかける。
600人以上が死亡した小学校で、唯一生き残った少女。
自らも被爆し、あの日から今日まで、被爆者たちの治療に一生を捧げた医師。
家族が生きながら焼かれるのを目の当たりにし、後に「はだしのゲン」を描く漫画家。
戦後米国で整形治療を受け、原爆乙女と呼ばれた女性。
原爆で受けた被害も、その後の人生も千差万別な彼らに共通するのは、原爆そのもの体験以上に、その後の原爆症という時限爆弾、そしていわれのない差別による悲しみ。
ここには、「夕凪の街 桜の国」が描ききれなかった物が確かにある。
62年前の記録映像の中に彼ら自身がいて、それを現在の彼らが語る。
ここでは確実に「あの日」と「今」が繋がっている。
ヒロシマ・ナガサキは「歴史」ではないのだ。
この映画は、単に可哀想な被爆者たちに同情してもらうための作品ではない。
戦後60年を超えてもなおも続く、彼らの苦しみを描くその先には、そんな惨禍を引き起こしたヒロシマ型原爆40万発以上の核兵器が存在するという、世界の現状への憂いがある。
この恐ろしい世界に生きながら、1945年8月6日に何が起こったのかすらも知らないという、核不感症とも言うべき人々への真摯なメッセージなのだ。
被爆者たちの語りのカウンターとして、原爆の開発者、そしてエノラ・ゲイの搭乗員のインタビューが入り、人類全体にとって、原爆とは何だったのかというビジョンが示される。
原爆開発者の一人はこういう。
「我々はパンドラの箱を開けてしまった。我々は核と共に生きるしかない」
本当にそうだろうか。本当にそれでいいのだろうか。
スティーブン・オカザキ監督は、アメリカの日系人強制収用をテーマとした「待ちわびる日々」でオスカーを受賞したドキュメンタリーの巨匠。
彼は、私が在米の時にご近所さんだった人で、面識があるのだが、ネイティブアメリカンのようなひょうひょうとした風貌と、深く優しい眼差しが印象的な人物だ。
5,6年前に、次回作は何を撮るのかと聞いたとき、次はまた原爆をテーマにしようと思っています、と答えられていた。
それがこの「ヒロシマナガサキ」と、前作でやはりヒロシマをテーマとした「マッシュルーム・クラブ」だったのだろう。
もっとも彼が原爆をテーマとしたのは、これが初めてではなくて、四半世紀前の「生存者たち」という作品で、既に在米被爆者の問題を扱っているし、「ヒロシマ・ナガサキ」に続く、原爆テーマの新作も準備中だそうである。
核というのは、彼にとってライフワークの様なテーマなのかもしれない。
「マッシュルーム・クラブ」は35分、この「ヒロシマナガサキ」にしても1時間半に満たない上映時間であり、もっと、もっと観てみたいという欲求に駆られる。
この映画が一人でも多くの人に観られる事で、次回作の製作費も集まる。
是非、劇場に足を運んで欲しい作品である。
この映画の上映後、映画に登場する被爆者の医師・肥田舜太郎さんによる、短い講演があった。
彼は自らもヒロシマで被爆し、その直後から医療活動を開始し、90歳の現在に至るまで被爆者の診療を続けているという。
彼はヒロシマの惨状を語ると同時に、原爆症という病気の研究が、軍事機密の壁によっていかに遅れているか、そして体内被曝した場合の放射線の人体への影響が、いかに過小評価されているかを強く訴えていた。
原発事故の際、よく言われる「国の基準値以内だから大丈夫」というのは、ほとんど根拠がないそうである。
また、劣化ウラン弾によって、アフガンで、イラクで、コソボで、確実に新たな被爆者が生まれているという事実と、それを健康被害の原因として認めない政治への、医師としての強い怒り。
彼は、講演の最後に「私はもう長くは生きられない。後は貴方たちに託します」と結ばれた。
私を含めてこのメッセージを受け取った観客たちは、やはり何かを考えなければならないだろう。
私は、この映画は国会で上映すべきだと思う。
この国のリーダーという神聖な仕事を、訳のわからない理由で投げ出してしまった坊ちゃん宰相にも、彼の後を受ける次の宰相にも、是非この映画を観て欲しい。
昨日、「国が原爆症の認定基準を見直す検討会設置」というニュースが流れた。
「美しい国」は、62年も経って、いまだに被爆者の認定すらまともに行っていないのが現実なのである。
今回は、「男たちの大和」の時にも引き合いに出した、広島の地酒「加茂鶴」の純米をあわせて、鎮魂の酒としたい。
※スティーブン・オカザキ監督のプロダクションFarallon Filmsのウェッブサイト。
作品の購入も出来る。
http://www.farfilm.com/
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長崎の原爆投下前の24時間を描いた秀作
現在の渋谷で青春を謳歌する若者たち。
そんな彼らに映画は問いかける。
「1945年8月6日に、何が起こったか知っていますか?」
何と、唯一の被爆国であるこの国で、この当たり前な質問に答えられる若者は誰もいないのである!
オカザキ監督によれば、これは決して映画の誇張ではなくて、実際に渋谷で取材をした際に、誰一人として「ヒロシマ」の名を挙げる者はなかったという。
映画は、実にシンプル。
ヒロシマ・ナガサキが忘却の昭和に消えつつあるこの国で、最後の生き証人たる被爆者たちが、あの日、あの時に何が起こったのか、そしてそれからどんな人生を歩んできたのかを、彼ら自身の証言によって淡々と語りかける。
600人以上が死亡した小学校で、唯一生き残った少女。
自らも被爆し、あの日から今日まで、被爆者たちの治療に一生を捧げた医師。
家族が生きながら焼かれるのを目の当たりにし、後に「はだしのゲン」を描く漫画家。
戦後米国で整形治療を受け、原爆乙女と呼ばれた女性。
原爆で受けた被害も、その後の人生も千差万別な彼らに共通するのは、原爆そのもの体験以上に、その後の原爆症という時限爆弾、そしていわれのない差別による悲しみ。
ここには、「夕凪の街 桜の国」が描ききれなかった物が確かにある。
62年前の記録映像の中に彼ら自身がいて、それを現在の彼らが語る。
ここでは確実に「あの日」と「今」が繋がっている。
ヒロシマ・ナガサキは「歴史」ではないのだ。
この映画は、単に可哀想な被爆者たちに同情してもらうための作品ではない。
戦後60年を超えてもなおも続く、彼らの苦しみを描くその先には、そんな惨禍を引き起こしたヒロシマ型原爆40万発以上の核兵器が存在するという、世界の現状への憂いがある。
この恐ろしい世界に生きながら、1945年8月6日に何が起こったのかすらも知らないという、核不感症とも言うべき人々への真摯なメッセージなのだ。
被爆者たちの語りのカウンターとして、原爆の開発者、そしてエノラ・ゲイの搭乗員のインタビューが入り、人類全体にとって、原爆とは何だったのかというビジョンが示される。
原爆開発者の一人はこういう。
「我々はパンドラの箱を開けてしまった。我々は核と共に生きるしかない」
本当にそうだろうか。本当にそれでいいのだろうか。
スティーブン・オカザキ監督は、アメリカの日系人強制収用をテーマとした「待ちわびる日々」でオスカーを受賞したドキュメンタリーの巨匠。
彼は、私が在米の時にご近所さんだった人で、面識があるのだが、ネイティブアメリカンのようなひょうひょうとした風貌と、深く優しい眼差しが印象的な人物だ。
5,6年前に、次回作は何を撮るのかと聞いたとき、次はまた原爆をテーマにしようと思っています、と答えられていた。
それがこの「ヒロシマナガサキ」と、前作でやはりヒロシマをテーマとした「マッシュルーム・クラブ」だったのだろう。
もっとも彼が原爆をテーマとしたのは、これが初めてではなくて、四半世紀前の「生存者たち」という作品で、既に在米被爆者の問題を扱っているし、「ヒロシマ・ナガサキ」に続く、原爆テーマの新作も準備中だそうである。
核というのは、彼にとってライフワークの様なテーマなのかもしれない。
「マッシュルーム・クラブ」は35分、この「ヒロシマナガサキ」にしても1時間半に満たない上映時間であり、もっと、もっと観てみたいという欲求に駆られる。
この映画が一人でも多くの人に観られる事で、次回作の製作費も集まる。
是非、劇場に足を運んで欲しい作品である。
この映画の上映後、映画に登場する被爆者の医師・肥田舜太郎さんによる、短い講演があった。
彼は自らもヒロシマで被爆し、その直後から医療活動を開始し、90歳の現在に至るまで被爆者の診療を続けているという。
彼はヒロシマの惨状を語ると同時に、原爆症という病気の研究が、軍事機密の壁によっていかに遅れているか、そして体内被曝した場合の放射線の人体への影響が、いかに過小評価されているかを強く訴えていた。
原発事故の際、よく言われる「国の基準値以内だから大丈夫」というのは、ほとんど根拠がないそうである。
また、劣化ウラン弾によって、アフガンで、イラクで、コソボで、確実に新たな被爆者が生まれているという事実と、それを健康被害の原因として認めない政治への、医師としての強い怒り。
彼は、講演の最後に「私はもう長くは生きられない。後は貴方たちに託します」と結ばれた。
私を含めてこのメッセージを受け取った観客たちは、やはり何かを考えなければならないだろう。
私は、この映画は国会で上映すべきだと思う。
この国のリーダーという神聖な仕事を、訳のわからない理由で投げ出してしまった坊ちゃん宰相にも、彼の後を受ける次の宰相にも、是非この映画を観て欲しい。
昨日、「国が原爆症の認定基準を見直す検討会設置」というニュースが流れた。
「美しい国」は、62年も経って、いまだに被爆者の認定すらまともに行っていないのが現実なのである。
今回は、「男たちの大和」の時にも引き合いに出した、広島の地酒「加茂鶴」の純米をあわせて、鎮魂の酒としたい。
※スティーブン・オカザキ監督のプロダクションFarallon Filmsのウェッブサイト。
作品の購入も出来る。
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長崎の原爆投下前の24時間を描いた秀作


2007年09月12日 (水) | 編集 |
ここのところ、映画に活躍のフィールドを広げつつある木村拓哉の最新作は、2001年に放送されたヒットドラマ「HERO」のザ・ムービー。
内容的には、昨年放送されたスペシャル版テレビドラマの続編的な性格の作品であり、オリジナルのシリーズ以外にも、このスペシャルを観ていないと意味不明な部分が多い。
要するに、過去の全作品をちゃんと観ている様な、キムタクファン、HEROファンを対象にしたテレビの拡大版であり、それ以上でも以下でもない。
型破りな若手検事、久利生公平(木村拓哉)が東京に戻ってきた。
再び事務官の雨宮舞子(松たか子)とコンビを組んだ久利生は、同僚の芝山(阿部寛)が起訴した傷害致死事件の公判検事を担当する事になる。
当初、容疑者が起訴事実を認めていることから、簡単な事件と思われていたが、公判初日に容疑者が突然全面否認に転じる。
相手の担当弁護士は、元検事で敏腕弁護士として知られる蒲生一臣(松本幸四郎)。
実はこの事件の容疑者は、事件があったのと同じ日、同じ時間に、別の汚職事件の容疑者となっている政治家の目撃証人となっていた・・・
「武士の一文」で、映画俳優としても非凡なところを見せた木村拓哉だが、今回の作品は勝手知ったるテレビキャラクターだけあって、いつものキムタク。
既に確立されたキャラクターなので、改めて出来ることは少ないし、また望まれてもいないだろう。
その意味ではキムタクは彼の仕事をキッチリこなしていると言って良い。
彼以外のレギュラー陣もそれは同じこと。
テレビと同じキャラクターたちを観ていると、むしろ久々に懐かしいお店に入ったような安心感を感じるから、これは狙い通りなのだろう。
ただ・・・あらゆる点で、テレビドラマの延長線上である本作。
テレビ版を観ていない観客を露骨に拒絶する作りからして、それが本来の企画意図なのは判っていても、映画としての展開や深化が全く観られないのはいかがなものか。
タダで観られるテレビと違って、1800円を取るならば、やはりザ・ムービーならではの盛り上げが欲しい。
韓国パートで友情出演のイ・ビョンホンやタモリといった豪華なゲストキャラ程度しか、プラスアルファの要素がみられないのは正直がっかりだ。
福田靖の脚本は、相変わらずキャラの立て方は上手いものの、構成力は感じられない。
130分もの長尺でありながら、物語の動きそのものは恐ろしく鈍い。
ぶっちゃけ、この話で描かれている内容は、一時間枠のテレビドラマ一本分と大して変わらないのだ。
映画とテレビドラマでは、本来操る時間の流れが違う。
この作品は、二つの関係ない事件がクロスするという、上手く作れば非常に映画的なアイディアを持ちながら、頑ななまでにテレビシリーズの流儀を守ってしまっている。
二時間超の映画用に綿密なプロットを組んだというよりも、作者にとって描きやすいテレビ用プロットを無理やり倍以上に引き伸ばし、間延びした分は韓国出張やあんまり物語の流れに関係ないキャラクターの性格描写で埋めているという感じなのだ。
必然的に物語の起承転結に関係ない描写が多くなり、ある意味では物語の間と言えなくも無いが、このシリーズの熱烈なファンでなければどうでもいいシーンがやたらと多い。
話の決着が一応ついた後の、ラストカットまでの流れなど正直言ってダラダラして退屈だった。
「お約束」を破った衝撃(?)のラストなど、冒険したつもりかもしれないが、これも所詮はテレビシリーズの不文律をちょっとだけ犯してみたに過ぎないから、熱烈ファンでない私にとってはそこになんのカタルシスも感じることが出来ず、どうでもよかった。
同じフジテレビのドラマの映画化でも、いくら物語が破綻しようとも、映画は映画ならではのsomething newをみせようとした「踊る大走査線」の君塚良一の仕事と比べても、この作品の脚本はかなりお粗末に思える。
この脚本を受けた鈴木雅之の演出も、何だかこれ見よがしに無理やりカットを割って、まるでPVみたいに「演出」を強調した部分が多い。
よく言えば映像で演出してるんだけど、悪く言えば時間稼ぎ以外に意味の無いカット割りだったりする。
まあ実際意味の無いシーンが多いし、テレビの印象から大きく外す訳にもいかないから、演出家としては他にやり様が無かったのかもしれないけど。
映画版「HERO」は、もしテレビのスペシャルドラマだとすれば、これで良いかも知れないが、お金を出して鑑賞する映画と考えると、やはり少々物足りない。
テレビシリーズの個性を尊重しつつ、映画館の暗闇でこそ感じられる映画的なカタルシスを感じさせて欲しかった。
駐車場のトリックなど、推理物としてちょっと面白い部分もあるのだが、全体としてはテレビドラマをただ引き伸ばしただけの、ザ・ムービーとしてはもっとも安直な作りになってしまっている。
話が間延びしている分、むしろ退化してるいのではとも思うのだが、オリジナルのシリーズから培ってきた、キャラクターの魅力で何とか持っているという印象だ。
ヒットしたテレビシリーズを映画化すること自体は、結構な事だと思うのだが、あらゆるものが予定調和に落ち着いてしまって、物語から感じられるカタルシスまで、テレビサイズのちっちゃな物に感じてしまうのは、やはり映画としては幸福とは言えないと思うのだが。
今回は、お酒のマスプロダクションの象徴とも言うべきビールから「エビスビール」をチョイス。
大量生産が前提で、過去に無数の新商品が登場しては消えていったビールの世界で、100年以上に渡りこだわりを持って作られてきた国産ビールの誇り。
ちなみに日本で、ビールの銘柄が地名になっているのは、このエビスビール発祥地である渋谷区恵比寿が唯一である。
同じようにマスプロダクション化しているテレビドラマの世界でも、映画版はエビスビールのようなこだわりをみせて欲しかったのだが。
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内容的には、昨年放送されたスペシャル版テレビドラマの続編的な性格の作品であり、オリジナルのシリーズ以外にも、このスペシャルを観ていないと意味不明な部分が多い。
要するに、過去の全作品をちゃんと観ている様な、キムタクファン、HEROファンを対象にしたテレビの拡大版であり、それ以上でも以下でもない。
型破りな若手検事、久利生公平(木村拓哉)が東京に戻ってきた。
再び事務官の雨宮舞子(松たか子)とコンビを組んだ久利生は、同僚の芝山(阿部寛)が起訴した傷害致死事件の公判検事を担当する事になる。
当初、容疑者が起訴事実を認めていることから、簡単な事件と思われていたが、公判初日に容疑者が突然全面否認に転じる。
相手の担当弁護士は、元検事で敏腕弁護士として知られる蒲生一臣(松本幸四郎)。
実はこの事件の容疑者は、事件があったのと同じ日、同じ時間に、別の汚職事件の容疑者となっている政治家の目撃証人となっていた・・・
「武士の一文」で、映画俳優としても非凡なところを見せた木村拓哉だが、今回の作品は勝手知ったるテレビキャラクターだけあって、いつものキムタク。
既に確立されたキャラクターなので、改めて出来ることは少ないし、また望まれてもいないだろう。
その意味ではキムタクは彼の仕事をキッチリこなしていると言って良い。
彼以外のレギュラー陣もそれは同じこと。
テレビと同じキャラクターたちを観ていると、むしろ久々に懐かしいお店に入ったような安心感を感じるから、これは狙い通りなのだろう。
ただ・・・あらゆる点で、テレビドラマの延長線上である本作。
テレビ版を観ていない観客を露骨に拒絶する作りからして、それが本来の企画意図なのは判っていても、映画としての展開や深化が全く観られないのはいかがなものか。
タダで観られるテレビと違って、1800円を取るならば、やはりザ・ムービーならではの盛り上げが欲しい。
韓国パートで友情出演のイ・ビョンホンやタモリといった豪華なゲストキャラ程度しか、プラスアルファの要素がみられないのは正直がっかりだ。
福田靖の脚本は、相変わらずキャラの立て方は上手いものの、構成力は感じられない。
130分もの長尺でありながら、物語の動きそのものは恐ろしく鈍い。
ぶっちゃけ、この話で描かれている内容は、一時間枠のテレビドラマ一本分と大して変わらないのだ。
映画とテレビドラマでは、本来操る時間の流れが違う。
この作品は、二つの関係ない事件がクロスするという、上手く作れば非常に映画的なアイディアを持ちながら、頑ななまでにテレビシリーズの流儀を守ってしまっている。
二時間超の映画用に綿密なプロットを組んだというよりも、作者にとって描きやすいテレビ用プロットを無理やり倍以上に引き伸ばし、間延びした分は韓国出張やあんまり物語の流れに関係ないキャラクターの性格描写で埋めているという感じなのだ。
必然的に物語の起承転結に関係ない描写が多くなり、ある意味では物語の間と言えなくも無いが、このシリーズの熱烈なファンでなければどうでもいいシーンがやたらと多い。
話の決着が一応ついた後の、ラストカットまでの流れなど正直言ってダラダラして退屈だった。
「お約束」を破った衝撃(?)のラストなど、冒険したつもりかもしれないが、これも所詮はテレビシリーズの不文律をちょっとだけ犯してみたに過ぎないから、熱烈ファンでない私にとってはそこになんのカタルシスも感じることが出来ず、どうでもよかった。
同じフジテレビのドラマの映画化でも、いくら物語が破綻しようとも、映画は映画ならではのsomething newをみせようとした「踊る大走査線」の君塚良一の仕事と比べても、この作品の脚本はかなりお粗末に思える。
この脚本を受けた鈴木雅之の演出も、何だかこれ見よがしに無理やりカットを割って、まるでPVみたいに「演出」を強調した部分が多い。
よく言えば映像で演出してるんだけど、悪く言えば時間稼ぎ以外に意味の無いカット割りだったりする。
まあ実際意味の無いシーンが多いし、テレビの印象から大きく外す訳にもいかないから、演出家としては他にやり様が無かったのかもしれないけど。
映画版「HERO」は、もしテレビのスペシャルドラマだとすれば、これで良いかも知れないが、お金を出して鑑賞する映画と考えると、やはり少々物足りない。
テレビシリーズの個性を尊重しつつ、映画館の暗闇でこそ感じられる映画的なカタルシスを感じさせて欲しかった。
駐車場のトリックなど、推理物としてちょっと面白い部分もあるのだが、全体としてはテレビドラマをただ引き伸ばしただけの、ザ・ムービーとしてはもっとも安直な作りになってしまっている。
話が間延びしている分、むしろ退化してるいのではとも思うのだが、オリジナルのシリーズから培ってきた、キャラクターの魅力で何とか持っているという印象だ。
ヒットしたテレビシリーズを映画化すること自体は、結構な事だと思うのだが、あらゆるものが予定調和に落ち着いてしまって、物語から感じられるカタルシスまで、テレビサイズのちっちゃな物に感じてしまうのは、やはり映画としては幸福とは言えないと思うのだが。
今回は、お酒のマスプロダクションの象徴とも言うべきビールから「エビスビール」をチョイス。
大量生産が前提で、過去に無数の新商品が登場しては消えていったビールの世界で、100年以上に渡りこだわりを持って作られてきた国産ビールの誇り。
ちなみに日本で、ビールの銘柄が地名になっているのは、このエビスビール発祥地である渋谷区恵比寿が唯一である。
同じようにマスプロダクション化しているテレビドラマの世界でも、映画版はエビスビールのようなこだわりをみせて欲しかったのだが。

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2007年09月08日 (土) | 編集 |
異色のスピリチュアルアドベンチャー。
「The Last Mimzy」という変わったタイトルを聞いたときから、もしかしてと思っていたのだが、これはヘンリー・カットナーの古典SF「ボロゴーヴはミムジィ(Mimsy Were the Borogoves)」の映画化。
アメリカでも、どちらかというと知る人ぞ知るSF作家のカットナーは、1940年代から50年代にかけて数々の秀作を発表し、レイ・ブラットベリやリチャード・マシスンに強い影響を与えた人物だ。
この原作はパートナーのC・L・ムーアとの共著ペンネームのルイス・バジェット名義で1943年に発表されたもの。
よくぞこんな地味な小説に目をつけたものだと思ったが、これがなかなか。
原作のコンセプトを生かしつつ、21世紀の現在が求めるスピリチュアルな精神世界を上手く描いている。
ゲームに夢中の少年ノア(クリス・オニール)と、妹のエマ(リアノン・リー・リン)は湖の岸辺で不思議な箱を見つける。
箱から現れたミムジィというウサギのぬいぐるみは、妹のエマと心を通じ、兄弟の精神を開放して覚醒させる。
突如として子供たちが超能力者になってしまった両親は戸惑い、異常な力を察知した政府機関も調査に乗り出す。
実は兄弟の見つけた箱は、滅亡の縁にある未来の人類が、最後の希望を託して過去に送り込んだタイムマシンだった。
その任務は、未来には人類から失われてしまった最も大切な心の成分を持ち帰ること・・・
SFというよりも、スピリチュアリズムへの傾倒から、好き嫌いの分かれる作品だと思う。
原作の「ボロゴーヴはミムジィ」というタイトルは、キャロルの「鏡の国のアリス」に出てくる奇妙な詩の一節からとられている。
作中のハンプティ・ダンプティの説明によれば、Mimsyとは二つ以上の単語を合成して作る「 かばん語(portmanteau word)」の一つで、 flimsy とmiserableを合成したもので「幸福でない(unhappy)」という意味だという。
映画では、MimsyをMimzyに換えて、兄弟を不思議の世界に導く白兎ならぬ、薄汚れたウサギのぬいぐるみの名前にしてある訳だ。
原作でも映画でも、「アリス」のモデルとなったアリス・リデルとの関わりは触れられるのだが、原作からして「アリス」の持つ精神性に触発されたのは確実だ。
この悲しげなミムジィの胸にはうずまき文様が刻まれている。
アリスを生んだ英国においてはケルトの代表的な文様であり、日本でも縄文以来多くの遺跡で発見されているうずまき文様は、太陽であり、水であり、魂の再生を象徴すると言われている。
そして作品中でもう一つ重要な意味を持つのが、宇宙の理を表しているというチベットの曼荼羅だが、ケルトにおいてうずまき文は宇宙観そのものを表すという点で、曼荼羅と同様の意味を持つ。
ウサギのぬいぐるみが、作品のテーマと世界観を象徴していると言っても良いだろう。
脚本のブルース・ジョエル・ルービン(トビー・エメリッチと共同)は「ブレインストーム」で脚本家デビューし、「ゴースト/ニューヨークの幻」や「ジェイコブス・ラダー」と言った作品で知られる。
人間の精神や魂といった物をテーマに作品を作ってきた人物である。
そして監督のロバート・シェイは、二ユーラインシネマの重鎮であり、最近では「LOTR」三部作のエグゼクティブ・プロデューサーとして知られる人物だが、実は「エルム街の悪夢」シリーズの生みの親でもある。
この人もまた、人間の精神に深い興味を抱く人物であるのは想像に難くない。
彼等はシンプルな原作の持つ精神性に着目して、その部分を物語の中心にして、人間の心の持つポテンシャルの再発見を作品のテーマに据えた。
これ自体は非常に面白い試みなのだが、この作品は高尚な精神性と共にある種の胡散臭さを併せ持つ。
作品のテーマを説得力を持って表現するために、チベットの曼荼羅の宇宙観とか、僧侶のリインカネーションとかいったロジックを持ってきているのだがどうにも浅い。
おそらく、スピリチュアルな世界をオカルトと否定してしまう人に対しても、説得力を持たせたかったのだろうが、この作品のテーマを考えると、ここは下手に理屈で説明する必要は無かったのじゃないだろうか。
俳優たちはなかなか良い。
ノアを演じるクリス・オニールとエマ役のリアノン・リー・リンは、「E.T」のヘンリー・トーマスとドリュー・バリモア兄妹を思わせる好演。
彼らの覚醒に戸惑い、冷静さを失ってしまう両親はジョエリー・リチャードソンとテイモシー・ハットン。
最近はテレビでの活躍が多いハットン、最初は誰か判らなかったけど、さすがに二十歳でオスカーを受賞した名優である。
もし、自分の子供がある日突然自分とは違う存在になってしまったら、こういう風になるんだろうなという姿をリアルに演じている。
もう一組、精神の覚醒を求めながら、それで目指すのはロト6の当たりくじという、俗世っぽいスピリチュアルカップルをレイン・ウィルソンとキャスリン・ハーンが演じていて、良い意味で作品の精神性を低めて、とっつきやすくしてくれている(笑
「ラスト・ミムジィ」は、古典SFからヒントを得て、人間の精神性という極めて現代的なテーマに切り込んだ意欲作だ。
細かい点では物足りない部分も多いが、心の進化という分野に興味を持つ人は、観て損は無い作品だと言えると思う。
「LOTR」つながりのハワード・ショアの楽曲もなかなか良い。
今回はウサギつながりで、カリフォルニアから、ラビット・リッジの「カベルネ・ソーヴィニヨン・パソ・ロブルス」をチョイス。
俊足のランナーだったオーナーのあだ名から、ブランド名をウサギにしたという。
カベルネ・ソーヴィニヨンにプティ・シラーをブレンドしたワインで、ぎゅっと濃縮された果実香に微妙な苦味が良い感じで残る。
飲みやすさとボディの強さのバランスもよく、なかなかに良く出来たワインである。
ちなみに2007年9月現在、この作品は日本公開が決まっていない様である。
確かに興行的には難しい作品だろうが、(その内容の是非は別として)スピリチュアル番組がゴールデンで高視聴率を得る日本の事、売り方次第では結構受けそうな気がするのだが。
ついでにずっと絶版状態の原作もタイアップで復刻してくれたらもっと嬉しい。
私もずいぶん昔に読んだきりで、今回の映画を観て久々に読み返してみたくなった。
※2010年に日本でDVDが発売されたので、タイトル表記を原題から邦題に変更します。
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「The Last Mimzy」という変わったタイトルを聞いたときから、もしかしてと思っていたのだが、これはヘンリー・カットナーの古典SF「ボロゴーヴはミムジィ(Mimsy Were the Borogoves)」の映画化。
アメリカでも、どちらかというと知る人ぞ知るSF作家のカットナーは、1940年代から50年代にかけて数々の秀作を発表し、レイ・ブラットベリやリチャード・マシスンに強い影響を与えた人物だ。
この原作はパートナーのC・L・ムーアとの共著ペンネームのルイス・バジェット名義で1943年に発表されたもの。
よくぞこんな地味な小説に目をつけたものだと思ったが、これがなかなか。
原作のコンセプトを生かしつつ、21世紀の現在が求めるスピリチュアルな精神世界を上手く描いている。
ゲームに夢中の少年ノア(クリス・オニール)と、妹のエマ(リアノン・リー・リン)は湖の岸辺で不思議な箱を見つける。
箱から現れたミムジィというウサギのぬいぐるみは、妹のエマと心を通じ、兄弟の精神を開放して覚醒させる。
突如として子供たちが超能力者になってしまった両親は戸惑い、異常な力を察知した政府機関も調査に乗り出す。
実は兄弟の見つけた箱は、滅亡の縁にある未来の人類が、最後の希望を託して過去に送り込んだタイムマシンだった。
その任務は、未来には人類から失われてしまった最も大切な心の成分を持ち帰ること・・・
SFというよりも、スピリチュアリズムへの傾倒から、好き嫌いの分かれる作品だと思う。
原作の「ボロゴーヴはミムジィ」というタイトルは、キャロルの「鏡の国のアリス」に出てくる奇妙な詩の一節からとられている。
作中のハンプティ・ダンプティの説明によれば、Mimsyとは二つ以上の単語を合成して作る「 かばん語(portmanteau word)」の一つで、 flimsy とmiserableを合成したもので「幸福でない(unhappy)」という意味だという。
映画では、MimsyをMimzyに換えて、兄弟を不思議の世界に導く白兎ならぬ、薄汚れたウサギのぬいぐるみの名前にしてある訳だ。
原作でも映画でも、「アリス」のモデルとなったアリス・リデルとの関わりは触れられるのだが、原作からして「アリス」の持つ精神性に触発されたのは確実だ。
この悲しげなミムジィの胸にはうずまき文様が刻まれている。
アリスを生んだ英国においてはケルトの代表的な文様であり、日本でも縄文以来多くの遺跡で発見されているうずまき文様は、太陽であり、水であり、魂の再生を象徴すると言われている。
そして作品中でもう一つ重要な意味を持つのが、宇宙の理を表しているというチベットの曼荼羅だが、ケルトにおいてうずまき文は宇宙観そのものを表すという点で、曼荼羅と同様の意味を持つ。
ウサギのぬいぐるみが、作品のテーマと世界観を象徴していると言っても良いだろう。
脚本のブルース・ジョエル・ルービン(トビー・エメリッチと共同)は「ブレインストーム」で脚本家デビューし、「ゴースト/ニューヨークの幻」や「ジェイコブス・ラダー」と言った作品で知られる。
人間の精神や魂といった物をテーマに作品を作ってきた人物である。
そして監督のロバート・シェイは、二ユーラインシネマの重鎮であり、最近では「LOTR」三部作のエグゼクティブ・プロデューサーとして知られる人物だが、実は「エルム街の悪夢」シリーズの生みの親でもある。
この人もまた、人間の精神に深い興味を抱く人物であるのは想像に難くない。
彼等はシンプルな原作の持つ精神性に着目して、その部分を物語の中心にして、人間の心の持つポテンシャルの再発見を作品のテーマに据えた。
これ自体は非常に面白い試みなのだが、この作品は高尚な精神性と共にある種の胡散臭さを併せ持つ。
作品のテーマを説得力を持って表現するために、チベットの曼荼羅の宇宙観とか、僧侶のリインカネーションとかいったロジックを持ってきているのだがどうにも浅い。
おそらく、スピリチュアルな世界をオカルトと否定してしまう人に対しても、説得力を持たせたかったのだろうが、この作品のテーマを考えると、ここは下手に理屈で説明する必要は無かったのじゃないだろうか。
俳優たちはなかなか良い。
ノアを演じるクリス・オニールとエマ役のリアノン・リー・リンは、「E.T」のヘンリー・トーマスとドリュー・バリモア兄妹を思わせる好演。
彼らの覚醒に戸惑い、冷静さを失ってしまう両親はジョエリー・リチャードソンとテイモシー・ハットン。
最近はテレビでの活躍が多いハットン、最初は誰か判らなかったけど、さすがに二十歳でオスカーを受賞した名優である。
もし、自分の子供がある日突然自分とは違う存在になってしまったら、こういう風になるんだろうなという姿をリアルに演じている。
もう一組、精神の覚醒を求めながら、それで目指すのはロト6の当たりくじという、俗世っぽいスピリチュアルカップルをレイン・ウィルソンとキャスリン・ハーンが演じていて、良い意味で作品の精神性を低めて、とっつきやすくしてくれている(笑
「ラスト・ミムジィ」は、古典SFからヒントを得て、人間の精神性という極めて現代的なテーマに切り込んだ意欲作だ。
細かい点では物足りない部分も多いが、心の進化という分野に興味を持つ人は、観て損は無い作品だと言えると思う。
「LOTR」つながりのハワード・ショアの楽曲もなかなか良い。
今回はウサギつながりで、カリフォルニアから、ラビット・リッジの「カベルネ・ソーヴィニヨン・パソ・ロブルス」をチョイス。
俊足のランナーだったオーナーのあだ名から、ブランド名をウサギにしたという。
カベルネ・ソーヴィニヨンにプティ・シラーをブレンドしたワインで、ぎゅっと濃縮された果実香に微妙な苦味が良い感じで残る。
飲みやすさとボディの強さのバランスもよく、なかなかに良く出来たワインである。
ちなみに2007年9月現在、この作品は日本公開が決まっていない様である。
確かに興行的には難しい作品だろうが、(その内容の是非は別として)スピリチュアル番組がゴールデンで高視聴率を得る日本の事、売り方次第では結構受けそうな気がするのだが。
ついでにずっと絶版状態の原作もタイアップで復刻してくれたらもっと嬉しい。
私もずいぶん昔に読んだきりで、今回の映画を観て久々に読み返してみたくなった。
※2010年に日本でDVDが発売されたので、タイトル表記を原題から邦題に変更します。

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