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2007年10月29日 (月) | 編集 |
「EX MACHINA -エクスマキナ-」というヘンテコなタイトルだが、英語タイトルに「Apple seed」が入っている事からも判るように、2004年に公開された士郎正宗原作のSFアニメ「アップルシード」の続編的な作品。
前作同様に荒牧伸志が監督を務め、主人公のデュナンを演じる声優も共通で、今回はプロデュースにジョン・ウー、音楽監修に細野晴臣が参加している。
西暦2138年。
世界に壊滅的な打撃を与えた非核大戦後に、世界の平和を維持するために築かれた理想都市オリュンポス。
ここは人間とサイボーグ、そして人間のDNAを元に感情を抑制し、クローン技術で作られたバイオロイドが共存する街。
特殊部隊ES.W.A.T.の隊員デュナン(小林愛)と彼女のパートナーでサイボーグのブリアレオス(山寺宏一)はある作戦に参加するが、そこでデュナンをかばったブリアレオスが瀕死の重傷を負ってしまう。
戦線離脱となった彼の代わりに、デュナンの新たなパートナーとしてテレウスが配属されるが、彼はブリアレオスのDNAによって作られたバイオロイドで、肉体を失う前の彼の顔を持っていた・・・・
これは間違いなく「アップルシード」なのだが、公開が近かったせいか、どうしても「ベクシル 2077日本鎖国」とイメージがかぶる。
元々「ベクシル」自体、「アップルシード」をプロデュースした曽利文彦が監督しているし、キャラクターや美術などは同一の作品と思えるほどによく似ていて、いわば異母兄弟のような関係にある作品だ。
だが、あちらが「日本人絶滅」という超豪快なホラ話とサプライズな世界観で、派手に見せるSFにもって行ったのに対して、こちらの話は本質的にはずっと小さい。
もちろん、派手なドンパチの見せ場も盛りだくさんではあるのだが、本作で中心となるのは、主人公デュナンと機械の肉体を持つパートナー、ブリアレオス、そして人間だった頃のブリアレオスの顔を持つテレウスの間の三角関係だ。
彼らは人間、サイボーグ、バイオロイドを象徴するキャラクターで、そこには異なる存在間での寛容性というテーマも持っているのだが、本質的にはこの三人の関係だけで完結する物語であり、それをマッドサイエンティストによるクーデター計画という大仕掛けが外側から揺さぶる構造になっている。
ある意味で、近年の日本のSFらしいのは「ベクシル」よりもこちらだろうし、テーマ的にも興味深いのだが、話が小さくて繊細な分だけ、細かい脚本のアラが目に付くのが残念。
奇妙な全体主義思想に凝り固まったマッドサイエンティスト集団が、携帯端末を利用して人々をコントロールしようとするのに、ES.W.A.T.がなかなか気がつかなかったりするのはかなりマヌケ。
怪電波が発信されて、人々が狂うのだから、真っ先に電波の受信装置を疑うだろうよ・・・普通は。
そもそもマッドサイエンティストたちの主張する、一つの意識っていうのは、例えば「インベージョン」で提示された全体意識みたいな概念だが、映画を観る限りではどう考えても単なる暴力的ヒステリー状態にしか見えないのが辛い。
この映画の最も大きな仕掛けの部分で、結局マッドサイエンティストたちは何がやりたかったの?という印象になってしまう。
また肝心のクライマックスが「天空の城ラピュタ」の中で「マトリックス・レボリューションズ」をやったようなオリジナリティの無い物だったのも少々がっかり。
過去の作品にオマージュを捧げ、引用するのは決して悪いことではないが、上手くやらないと単なるパクリに見えてしまう。
またこれも「ベクシル」とかぶるのだが、この手の3DCGのキャラクター造形は、どうもマネキン人形が喋っているようで不気味さが拭えない。
ブリアレオスみたいに完全にメカフェイスだとあまり違和感が無いのだが、80年代の日本アニメから抜け出してきたようなアニメ顔で、でかい黒目を持つヒトミ政務次官などは特に気持ち悪かった。
この方向性のCGアニメはハリウッドのものとは一線を画すスタイルだし、日本の2Dアニメの延長線上にある物としてポテンシャルは感じるのだが、キャラクターをどう描くかに関しては一考の余地ありだ。
「EX MACHINA -エクスマキナ-」は、デュナンを挟んで、機械の肉体を持った人間ブリアレオスと、感情を抑制されたもう一人のブリアレオスであるテレウスが対峙するという構造は興味深いし、心理劇としてはまずまず面白いのだが、アクションSFとしての作りの荒っぽさが、本質の部分の邪魔をしてしまっているように思う。
それなりに楽しめる作品なのは確かだが、繊細なテーマにあわせて物語ももう少し丁寧に作れば、もっと奥行きのある作品になったと思う。
同じようなスタイルの作品で比較すれば、まるで70年代のSFの様な豪快さで、細部の破綻を吹き飛ばしてしまうパワーを持った「ベクシル」に軍配を挙げたくなる。
それにしても、この商売っ気の全く感じられないタイトルは何とかならなかったのか。
一体どれだけの日本人が「エクスマキナ」のラテン語の意味を解るのだろう。
演劇用語である「deus ex machina」=「機械仕掛けの神」から採ったのだろうけど、これでは大半の観客には全くイメージが伝わらないだろう。
同じ事は「ベクシル 2077日本鎖国」の時にも思ったのだが、どうも日本のSF物はタイトルのつけ方が妙に内向きで、センスが感じられない作品が多い。
タイトルって、単に内容を表すだけじゃなくて、それを的確に観客にイメージさせる役割があると思うのだけどな。
今回はギリシャ神話をモチーフにした作品だけに、ギリシャのワイン「アヴァンテス シラー」をチョイス。
ギリシャは元々神話時代からのワインの歴史を持つ国だが、こちらは複雑で繊細な香りと、豊かなボディを持つ赤。
バランス、という点では映画にもこのくらいのレベルを期待したかったところだが、力強い味わいが補ってくれそうだ。
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前作同様に荒牧伸志が監督を務め、主人公のデュナンを演じる声優も共通で、今回はプロデュースにジョン・ウー、音楽監修に細野晴臣が参加している。
西暦2138年。
世界に壊滅的な打撃を与えた非核大戦後に、世界の平和を維持するために築かれた理想都市オリュンポス。
ここは人間とサイボーグ、そして人間のDNAを元に感情を抑制し、クローン技術で作られたバイオロイドが共存する街。
特殊部隊ES.W.A.T.の隊員デュナン(小林愛)と彼女のパートナーでサイボーグのブリアレオス(山寺宏一)はある作戦に参加するが、そこでデュナンをかばったブリアレオスが瀕死の重傷を負ってしまう。
戦線離脱となった彼の代わりに、デュナンの新たなパートナーとしてテレウスが配属されるが、彼はブリアレオスのDNAによって作られたバイオロイドで、肉体を失う前の彼の顔を持っていた・・・・
これは間違いなく「アップルシード」なのだが、公開が近かったせいか、どうしても「ベクシル 2077日本鎖国」とイメージがかぶる。
元々「ベクシル」自体、「アップルシード」をプロデュースした曽利文彦が監督しているし、キャラクターや美術などは同一の作品と思えるほどによく似ていて、いわば異母兄弟のような関係にある作品だ。
だが、あちらが「日本人絶滅」という超豪快なホラ話とサプライズな世界観で、派手に見せるSFにもって行ったのに対して、こちらの話は本質的にはずっと小さい。
もちろん、派手なドンパチの見せ場も盛りだくさんではあるのだが、本作で中心となるのは、主人公デュナンと機械の肉体を持つパートナー、ブリアレオス、そして人間だった頃のブリアレオスの顔を持つテレウスの間の三角関係だ。
彼らは人間、サイボーグ、バイオロイドを象徴するキャラクターで、そこには異なる存在間での寛容性というテーマも持っているのだが、本質的にはこの三人の関係だけで完結する物語であり、それをマッドサイエンティストによるクーデター計画という大仕掛けが外側から揺さぶる構造になっている。
ある意味で、近年の日本のSFらしいのは「ベクシル」よりもこちらだろうし、テーマ的にも興味深いのだが、話が小さくて繊細な分だけ、細かい脚本のアラが目に付くのが残念。
奇妙な全体主義思想に凝り固まったマッドサイエンティスト集団が、携帯端末を利用して人々をコントロールしようとするのに、ES.W.A.T.がなかなか気がつかなかったりするのはかなりマヌケ。
怪電波が発信されて、人々が狂うのだから、真っ先に電波の受信装置を疑うだろうよ・・・普通は。
そもそもマッドサイエンティストたちの主張する、一つの意識っていうのは、例えば「インベージョン」で提示された全体意識みたいな概念だが、映画を観る限りではどう考えても単なる暴力的ヒステリー状態にしか見えないのが辛い。
この映画の最も大きな仕掛けの部分で、結局マッドサイエンティストたちは何がやりたかったの?という印象になってしまう。
また肝心のクライマックスが「天空の城ラピュタ」の中で「マトリックス・レボリューションズ」をやったようなオリジナリティの無い物だったのも少々がっかり。
過去の作品にオマージュを捧げ、引用するのは決して悪いことではないが、上手くやらないと単なるパクリに見えてしまう。
またこれも「ベクシル」とかぶるのだが、この手の3DCGのキャラクター造形は、どうもマネキン人形が喋っているようで不気味さが拭えない。
ブリアレオスみたいに完全にメカフェイスだとあまり違和感が無いのだが、80年代の日本アニメから抜け出してきたようなアニメ顔で、でかい黒目を持つヒトミ政務次官などは特に気持ち悪かった。
この方向性のCGアニメはハリウッドのものとは一線を画すスタイルだし、日本の2Dアニメの延長線上にある物としてポテンシャルは感じるのだが、キャラクターをどう描くかに関しては一考の余地ありだ。
「EX MACHINA -エクスマキナ-」は、デュナンを挟んで、機械の肉体を持った人間ブリアレオスと、感情を抑制されたもう一人のブリアレオスであるテレウスが対峙するという構造は興味深いし、心理劇としてはまずまず面白いのだが、アクションSFとしての作りの荒っぽさが、本質の部分の邪魔をしてしまっているように思う。
それなりに楽しめる作品なのは確かだが、繊細なテーマにあわせて物語ももう少し丁寧に作れば、もっと奥行きのある作品になったと思う。
同じようなスタイルの作品で比較すれば、まるで70年代のSFの様な豪快さで、細部の破綻を吹き飛ばしてしまうパワーを持った「ベクシル」に軍配を挙げたくなる。
それにしても、この商売っ気の全く感じられないタイトルは何とかならなかったのか。
一体どれだけの日本人が「エクスマキナ」のラテン語の意味を解るのだろう。
演劇用語である「deus ex machina」=「機械仕掛けの神」から採ったのだろうけど、これでは大半の観客には全くイメージが伝わらないだろう。
同じ事は「ベクシル 2077日本鎖国」の時にも思ったのだが、どうも日本のSF物はタイトルのつけ方が妙に内向きで、センスが感じられない作品が多い。
タイトルって、単に内容を表すだけじゃなくて、それを的確に観客にイメージさせる役割があると思うのだけどな。
今回はギリシャ神話をモチーフにした作品だけに、ギリシャのワイン「アヴァンテス シラー」をチョイス。
ギリシャは元々神話時代からのワインの歴史を持つ国だが、こちらは複雑で繊細な香りと、豊かなボディを持つ赤。
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2007年10月23日 (火) | 編集 |
弾け飛ぶアメリカの青春!
アダム・シャンクマン監督のミュージカル「ヘアスプレー」は、1988年に作られたジョン・ウォーターズ監督のカルトな青春映画のリメイク。
正確に言えば、ウォーターズ版が2002年にブロードウェイで舞台ミュージカル化され、今回はその舞台の映画化という事になる。
映画のリズムに体が反応して、観ていて動きたくてムズムズしてくる感覚を久々に味わった。
オリジナルとかなり装いは異なるが、これは見事な青春ミュージカルの傑作と言って良い。
公民権運動が高まりを見せる激動の1960年代。
保守的な街ボルチモアに暮らす、ちょっとオデブな高校生トレイシー(ニッキー・ブロンスキー)は、テレビのダンス番組コーニー・コリンズショウに夢中。
この番組の出演者で、同じ高校に通うハンサムなリンク(ザック・エフロン)には淡い恋心を抱いていた。
ある時、番組の新メンバー募集のオーディションがある事を知ったトレイシーは、無理を承知でチャレンジしてみようとするが、オデブコンプレックスで十年も家から出ないお母さんのエドナ(ジョン・トラボルタ)は大反対。
だが、お父さんのウィルバー(クリストファー・ウォーケン)が夢に向かう彼女の背中を押してくれる。
オーディションに挑むトレイシーだったが、番組の実験を握っているのは白人至上主義者で、カラードもオデブも番組には必要ないと考えるプロデューサーのベルマ(ミッシェル・ファイファー)だった・・・
主人公トレイシーを演じる新星ニッキー・ブロンスキーは、正に映画史上もっとも魅力的なオデブ。
大きな良く動く目が印象的で、ボリュームがでかい分だけ、ミュージカルシーンの肉体の迫力も大きい。
こんな娘がダンス番組にいたら、そりゃあ目立つだろう。
そしてトレイシーを二周りは大きくした様な母エドナを演じるのは、何と女装したジョン・トラボルタだ。
なぜトラボルタなのかというと、この役はオリジナルの映画でディバインが、舞台版ではハーベイ・ファイアスタインというどちらも男性が演じており、エドナ役は女装の男が演じるという「伝統」に従ったのだろうし、嘗て50年代の青春を描いた大ヒットミュージカル「グリース」に主演し、以降ミュージカルへの出演を拒んできたトラボルタがこの役を演じることの象徴的な意味もあるのだろう。
女装のトラボルタが60年代という時代に「ウエルカム」されるシーンでは、久々にミュージカルの世界に飛び込んだトラボルタとエドナのキャラクターが被り、屈折した精神を爆発させる素晴しいパフォーマンスになっている。
そのトラボルタとノミの夫婦である夫ウィルバーは、何とクリストファー・ウォーケンが演じ、もちろん歌って踊ってくれる。
白人至上主義者のステージママにしてテレビプロデューサーを演じるミッシェル・ファイファーと、その娘役のブリタニー・スノウ、ショウMCのコーニー・コリンズ役のジェームス・マースデン、そしてニグロ・ディのMCメイベルを演じるクィーン・ラティファまで、キャラクターは善玉から悪玉まで非常に魅力的で華やかだ。
「ヘアスプレー」は単にオデブの女の子が、恋をして幸せになるだけの物語ではない。
ダンスを通して、当時は白人との間に厳格な線が引かれていた黒人文化に触れたトレイシーは、やがて黒人のダンス番組ニグロ・ディをつぶそうとするベルマの陰謀に対抗して、公民権運動の先頭に立つのだ。
もちろん、これは別にシリアスな社会派ドラマではないので、公民権運動に関して決して突っ込んで描いている訳ではないが、60年代という時代そのものをバックグラウンドとすることで物語に普遍的なメッセージを織り込んでおり、ドラマ的な完成度も高い。
物語に関して難を言えば、トレイシーとリンクの恋のプロセスが唐突で、なぜ彼がそれほど彼女に惹かれたのかがよく判らない。
いい雰囲気になる前は、彼女のダンスに感心する描写ぐらいしか無かった気がする。
これならば、トレイシーの親友のペニーと黒人ダンサーのシーウィードが、一目惚れして一瞬にして恋に落ちる描写の方が、まだ説得力がある。
もっとも、不満と言えるのはそれくらい。
監督のアダム・シャンクマンは振付師として長いキャリアを持つ人物だが、映画監督としてはそれほど大した作品を物にしてはいなかった。
しかし本作では得意ジャンルでエンジン全開、躍動感溢れるオープニングのミュージカルナンバーから、怒涛のエンディングまで、全く飽きさせない。
正にザッツ・エンターテイメントという感じの素晴しいミュージカルシーンでたっぷり楽しませて、それでいてしっかりとテーマ性も描いており、観終わった時の充実感はとても深い。
この映画には、単に人間の価値は姿形じゃない、という単純なテーマを超える時代の祈りの様なものを感じる。
1960年代はベトナム戦争が激化し、公民権運動によってアメリカ社会が真っ二つに割れた激動の時代だったけれど、この映画では混沌は確実に希望に繋がっている。
四十年後の21世紀も、アメリカはまた混沌とした時代に突入しているけれど、果たして今の時代は一体何に繋がっているのだろう?
2007年版「ヘアスプレー」からは、躍動する画面の裏側に、そんな作り手の密かな問いかけが隠されているような気がした。
あとちょっと気になったのは、日本語字幕で「ニグロ」を「ブラック」と訳していた事。
確かにどちらも黒人を指す言葉なのだが、侮蔑的な意味を持つニグロとブラックではまるでニュアンスが違う。
おそらく、ニグロと表記した場合にクレーマーに抗議されたりする事を恐れたのだと思うが、60年代というこの作品の時代背景、そしてテーマ性を考えても、ここはしっかりとした訳をしてほしかった所だ。
今回はオリジナル版の作者、ジョン・ウォーターズの代表作「ピンク・フラミンゴ」にちなんでカクテルの「フラミンゴ・レディ」をチョイス。
ウォッカ25mlとクレームドペシェ20ml、パイナップルジュース20ml、レモンジュース10ml、グレナデンシロップ1tspをシェイクして、グラスに注ぎ、一杯になったらレモンライスを添える。
グレナデンシロップと砂糖でグラスの縁をピンクに縁取っても可愛い。
ピンク・フラミンゴの様な淡いピンクのルックスで、目と舌両方で楽しめるカクテルだ。
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アダム・シャンクマン監督のミュージカル「ヘアスプレー」は、1988年に作られたジョン・ウォーターズ監督のカルトな青春映画のリメイク。
正確に言えば、ウォーターズ版が2002年にブロードウェイで舞台ミュージカル化され、今回はその舞台の映画化という事になる。
映画のリズムに体が反応して、観ていて動きたくてムズムズしてくる感覚を久々に味わった。
オリジナルとかなり装いは異なるが、これは見事な青春ミュージカルの傑作と言って良い。
公民権運動が高まりを見せる激動の1960年代。
保守的な街ボルチモアに暮らす、ちょっとオデブな高校生トレイシー(ニッキー・ブロンスキー)は、テレビのダンス番組コーニー・コリンズショウに夢中。
この番組の出演者で、同じ高校に通うハンサムなリンク(ザック・エフロン)には淡い恋心を抱いていた。
ある時、番組の新メンバー募集のオーディションがある事を知ったトレイシーは、無理を承知でチャレンジしてみようとするが、オデブコンプレックスで十年も家から出ないお母さんのエドナ(ジョン・トラボルタ)は大反対。
だが、お父さんのウィルバー(クリストファー・ウォーケン)が夢に向かう彼女の背中を押してくれる。
オーディションに挑むトレイシーだったが、番組の実験を握っているのは白人至上主義者で、カラードもオデブも番組には必要ないと考えるプロデューサーのベルマ(ミッシェル・ファイファー)だった・・・
主人公トレイシーを演じる新星ニッキー・ブロンスキーは、正に映画史上もっとも魅力的なオデブ。
大きな良く動く目が印象的で、ボリュームがでかい分だけ、ミュージカルシーンの肉体の迫力も大きい。
こんな娘がダンス番組にいたら、そりゃあ目立つだろう。
そしてトレイシーを二周りは大きくした様な母エドナを演じるのは、何と女装したジョン・トラボルタだ。
なぜトラボルタなのかというと、この役はオリジナルの映画でディバインが、舞台版ではハーベイ・ファイアスタインというどちらも男性が演じており、エドナ役は女装の男が演じるという「伝統」に従ったのだろうし、嘗て50年代の青春を描いた大ヒットミュージカル「グリース」に主演し、以降ミュージカルへの出演を拒んできたトラボルタがこの役を演じることの象徴的な意味もあるのだろう。
女装のトラボルタが60年代という時代に「ウエルカム」されるシーンでは、久々にミュージカルの世界に飛び込んだトラボルタとエドナのキャラクターが被り、屈折した精神を爆発させる素晴しいパフォーマンスになっている。
そのトラボルタとノミの夫婦である夫ウィルバーは、何とクリストファー・ウォーケンが演じ、もちろん歌って踊ってくれる。
白人至上主義者のステージママにしてテレビプロデューサーを演じるミッシェル・ファイファーと、その娘役のブリタニー・スノウ、ショウMCのコーニー・コリンズ役のジェームス・マースデン、そしてニグロ・ディのMCメイベルを演じるクィーン・ラティファまで、キャラクターは善玉から悪玉まで非常に魅力的で華やかだ。
「ヘアスプレー」は単にオデブの女の子が、恋をして幸せになるだけの物語ではない。
ダンスを通して、当時は白人との間に厳格な線が引かれていた黒人文化に触れたトレイシーは、やがて黒人のダンス番組ニグロ・ディをつぶそうとするベルマの陰謀に対抗して、公民権運動の先頭に立つのだ。
もちろん、これは別にシリアスな社会派ドラマではないので、公民権運動に関して決して突っ込んで描いている訳ではないが、60年代という時代そのものをバックグラウンドとすることで物語に普遍的なメッセージを織り込んでおり、ドラマ的な完成度も高い。
物語に関して難を言えば、トレイシーとリンクの恋のプロセスが唐突で、なぜ彼がそれほど彼女に惹かれたのかがよく判らない。
いい雰囲気になる前は、彼女のダンスに感心する描写ぐらいしか無かった気がする。
これならば、トレイシーの親友のペニーと黒人ダンサーのシーウィードが、一目惚れして一瞬にして恋に落ちる描写の方が、まだ説得力がある。
もっとも、不満と言えるのはそれくらい。
監督のアダム・シャンクマンは振付師として長いキャリアを持つ人物だが、映画監督としてはそれほど大した作品を物にしてはいなかった。
しかし本作では得意ジャンルでエンジン全開、躍動感溢れるオープニングのミュージカルナンバーから、怒涛のエンディングまで、全く飽きさせない。
正にザッツ・エンターテイメントという感じの素晴しいミュージカルシーンでたっぷり楽しませて、それでいてしっかりとテーマ性も描いており、観終わった時の充実感はとても深い。
この映画には、単に人間の価値は姿形じゃない、という単純なテーマを超える時代の祈りの様なものを感じる。
1960年代はベトナム戦争が激化し、公民権運動によってアメリカ社会が真っ二つに割れた激動の時代だったけれど、この映画では混沌は確実に希望に繋がっている。
四十年後の21世紀も、アメリカはまた混沌とした時代に突入しているけれど、果たして今の時代は一体何に繋がっているのだろう?
2007年版「ヘアスプレー」からは、躍動する画面の裏側に、そんな作り手の密かな問いかけが隠されているような気がした。
あとちょっと気になったのは、日本語字幕で「ニグロ」を「ブラック」と訳していた事。
確かにどちらも黒人を指す言葉なのだが、侮蔑的な意味を持つニグロとブラックではまるでニュアンスが違う。
おそらく、ニグロと表記した場合にクレーマーに抗議されたりする事を恐れたのだと思うが、60年代というこの作品の時代背景、そしてテーマ性を考えても、ここはしっかりとした訳をしてほしかった所だ。
今回はオリジナル版の作者、ジョン・ウォーターズの代表作「ピンク・フラミンゴ」にちなんでカクテルの「フラミンゴ・レディ」をチョイス。
ウォッカ25mlとクレームドペシェ20ml、パイナップルジュース20ml、レモンジュース10ml、グレナデンシロップ1tspをシェイクして、グラスに注ぎ、一杯になったらレモンライスを添える。
グレナデンシロップと砂糖でグラスの縁をピンクに縁取っても可愛い。
ピンク・フラミンゴの様な淡いピンクのルックスで、目と舌両方で楽しめるカクテルだ。

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2007年10月17日 (水) | 編集 |
アラビア半島に広がる広大な王国、サウジアラビア。
そこは中東の親米国家にして、アメリカ向け原油の最大の輸出国。
同時に原理主義の影響が強いイスラム教国であり、オサマ・ビンラディンを初めとする多くの国際テロリストの母国でもある。
ピーター・バーグ監督の「キングダム 見えざる敵」は、この掴み所の無い不思議の王国に潜入したFBI捜査官たちが、異文化の壁にぶち当たりながらテロ事件の真相に迫る社会派サスペンス大作。
作品の志は高いが、仕上がりは少々中途半端な結果となった。
サウジアラビアにある外国人居住区で大規模なテロ事件が発生。
米国系石油会社の駐在員たちが犠牲となり、さらに救出活動中に第二のテロが起こったことから、100人以上が犠牲になる大惨事となる。
FBI捜査官フルーリー(ジェイミー・フォックス)は、爆発物専門家のサイクス(クリス・クーパー)、法医学者のメイズ(ジェニファー・ガーナー)、情報分析官レビット(ジェイソン・ベイトマン)らとスペシャルチームを組んでサウジアラビアに乗り込むが、そこに待っていたのはぶ厚いイスラム文化の壁だった・・・
オープニングが秀逸だ。
タイトルバックに、建国から現在に至るまでのサウジアラビアの歴史、石油利権やアメリカとの複雑な関係が、デザイン化された怒涛の映像として紹介され、観客の期待を煽る。
そして、サウジアラビアの外国人居住区で起こるおぞましいテロ。
背後に大物テロリストの存在を確信した、ジェイミー・フォックス扮するFBI捜査官は、外交ルートから恐喝技までを駆使してサウジに捜査チームを送り込む。
しかし彼らは、閉鎖的な「キングダム」の政治と文化の壁に阻まれ、アメリカの常識の通用しない世界で予想以上に困難に直面する・・・あたりまでの展開はなかなか興味深く、期待を裏切らない。
ただし、それも事件の核心に迫るまでの話。
事件の全貌が一応の形を見せ始めると、映画はキングダムの奥底に潜むテロリズムの本質へのアプローチを放棄してしまう。
そこからの展開はぶっちゃけ普通のアクション映画だ。
ビーター・バーグ監督の演出はサスペンス・アクション映画としては水準以上、しかしテーマを追求しようとする姿勢は弱い。
バーグと脚本のマシュー・マイケル・カーナハンは、迷宮のキングダムで捜査している間に、これが何を描く映画なのかを忘れてしまった様だ。
テロリスト探しはスリリングだし、一刻を争う救出劇も手に汗握る。
しかし、テロを生み出す温床が何なのかという本質には、捜査チームは遂に迫ることは無いのである。
カーナハンの脚本はテロリスト組織へサウジ王族の資金が流れていること、そのサウジ王族をアメリカが庇護している事、サウジ国内での地域・部族対立など、この地域の混乱の要因をチラリチラリと物語に織り込んでいるが、それはあくまでもディテールに留まり、フルーリー捜査官らの追う映画の本筋には絡んでこない。
このあたりの政治的、民族的な暗部をあっさりスルーせずに物語に織り込んで欲しかった。
現状ではテーマと絡んで観客には迫ってこない。
キャストにもジェイミー・フォックス、ジェニファー・ガーナー、クリス・クーパーと芸達者を揃えているが、総じて印象は薄い。
物語の中で割り振られた役割を忠実に演じているだけで、正直なところ彼らのベストアクトとは言いかねる。
むしろ彼らの「バディ」となるサウジアラビア国家警察の捜査官、ファリス・アル・ガージー大佐を演じるパレスチナ人俳優、アシュラフ・バルフムが人間味溢れる演技でハリウッドスター達を喰ってしまい、強い印象を残す。
「キングダム 見えざる敵」は、例えば「ブラッド・ダイヤモンド」が社会的なテーマ性と娯楽性を高度な次元で融合させていたのに比べると、正直なところ薄っぺらな印象は拭えず、かなり喰い足りない。
サウジアラビアという(アメリカ人から見れば)エキゾチックで得体の知れない異郷で、困難に直面しながら頑張るアメリカ人を主人公とした普通のアクション映画になってしまっている。
ただ、この映画のラストは、おそらくイラク戦争が泥沼化する以前に作られたとしたら、違った物になっていただろう。
そう考えると、ここまで状況が混沌として、ようやくアメリカの視点に変化が出てきたとも言えるのかもしれないが、二時間を費やしてようやく描き出したのが「復讐の連鎖」止まりでは、9.11以降の世界を描いた秀作が多数作られている現在では、今更という感は否めない。
アラブの内部で起こった対欧米人テロというモチーフは興味深いし、アプローチの仕方によっては、もっとずっと深みのある作品に成り得たと思うと少し残念な仕上がりだ。
ただ、テーマの部分に目を瞑り、ハラハラドキドキするサスペンス・アクションだと考えれば、その部分での満足度はそれなりに高い。
今回は、アルコール厳禁の国の話なので、ちょっと反則技を。
アメリカの代表的なノン・アルコールビール、「テキサスセレクト」をチョイス。
まあノン・アルコールとは言っても、0.5%は含まれているので、厳格に考えればダメだろう。
私の知っている信心深いムスリムは、醸造の過程でアルコールが発生するので、醤油さえダメだと言っていた。
まあそこまで厳格な人は珍しいけど。
ちなみに私はノン・アルコールビールと知らずにこれを飲んで、何でこんなに酔えないのだろうと悩んだ事がある(笑
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そこは中東の親米国家にして、アメリカ向け原油の最大の輸出国。
同時に原理主義の影響が強いイスラム教国であり、オサマ・ビンラディンを初めとする多くの国際テロリストの母国でもある。
ピーター・バーグ監督の「キングダム 見えざる敵」は、この掴み所の無い不思議の王国に潜入したFBI捜査官たちが、異文化の壁にぶち当たりながらテロ事件の真相に迫る社会派サスペンス大作。
作品の志は高いが、仕上がりは少々中途半端な結果となった。
サウジアラビアにある外国人居住区で大規模なテロ事件が発生。
米国系石油会社の駐在員たちが犠牲となり、さらに救出活動中に第二のテロが起こったことから、100人以上が犠牲になる大惨事となる。
FBI捜査官フルーリー(ジェイミー・フォックス)は、爆発物専門家のサイクス(クリス・クーパー)、法医学者のメイズ(ジェニファー・ガーナー)、情報分析官レビット(ジェイソン・ベイトマン)らとスペシャルチームを組んでサウジアラビアに乗り込むが、そこに待っていたのはぶ厚いイスラム文化の壁だった・・・
オープニングが秀逸だ。
タイトルバックに、建国から現在に至るまでのサウジアラビアの歴史、石油利権やアメリカとの複雑な関係が、デザイン化された怒涛の映像として紹介され、観客の期待を煽る。
そして、サウジアラビアの外国人居住区で起こるおぞましいテロ。
背後に大物テロリストの存在を確信した、ジェイミー・フォックス扮するFBI捜査官は、外交ルートから恐喝技までを駆使してサウジに捜査チームを送り込む。
しかし彼らは、閉鎖的な「キングダム」の政治と文化の壁に阻まれ、アメリカの常識の通用しない世界で予想以上に困難に直面する・・・あたりまでの展開はなかなか興味深く、期待を裏切らない。
ただし、それも事件の核心に迫るまでの話。
事件の全貌が一応の形を見せ始めると、映画はキングダムの奥底に潜むテロリズムの本質へのアプローチを放棄してしまう。
そこからの展開はぶっちゃけ普通のアクション映画だ。
ビーター・バーグ監督の演出はサスペンス・アクション映画としては水準以上、しかしテーマを追求しようとする姿勢は弱い。
バーグと脚本のマシュー・マイケル・カーナハンは、迷宮のキングダムで捜査している間に、これが何を描く映画なのかを忘れてしまった様だ。
テロリスト探しはスリリングだし、一刻を争う救出劇も手に汗握る。
しかし、テロを生み出す温床が何なのかという本質には、捜査チームは遂に迫ることは無いのである。
カーナハンの脚本はテロリスト組織へサウジ王族の資金が流れていること、そのサウジ王族をアメリカが庇護している事、サウジ国内での地域・部族対立など、この地域の混乱の要因をチラリチラリと物語に織り込んでいるが、それはあくまでもディテールに留まり、フルーリー捜査官らの追う映画の本筋には絡んでこない。
このあたりの政治的、民族的な暗部をあっさりスルーせずに物語に織り込んで欲しかった。
現状ではテーマと絡んで観客には迫ってこない。
キャストにもジェイミー・フォックス、ジェニファー・ガーナー、クリス・クーパーと芸達者を揃えているが、総じて印象は薄い。
物語の中で割り振られた役割を忠実に演じているだけで、正直なところ彼らのベストアクトとは言いかねる。
むしろ彼らの「バディ」となるサウジアラビア国家警察の捜査官、ファリス・アル・ガージー大佐を演じるパレスチナ人俳優、アシュラフ・バルフムが人間味溢れる演技でハリウッドスター達を喰ってしまい、強い印象を残す。
「キングダム 見えざる敵」は、例えば「ブラッド・ダイヤモンド」が社会的なテーマ性と娯楽性を高度な次元で融合させていたのに比べると、正直なところ薄っぺらな印象は拭えず、かなり喰い足りない。
サウジアラビアという(アメリカ人から見れば)エキゾチックで得体の知れない異郷で、困難に直面しながら頑張るアメリカ人を主人公とした普通のアクション映画になってしまっている。
ただ、この映画のラストは、おそらくイラク戦争が泥沼化する以前に作られたとしたら、違った物になっていただろう。
そう考えると、ここまで状況が混沌として、ようやくアメリカの視点に変化が出てきたとも言えるのかもしれないが、二時間を費やしてようやく描き出したのが「復讐の連鎖」止まりでは、9.11以降の世界を描いた秀作が多数作られている現在では、今更という感は否めない。
アラブの内部で起こった対欧米人テロというモチーフは興味深いし、アプローチの仕方によっては、もっとずっと深みのある作品に成り得たと思うと少し残念な仕上がりだ。
ただ、テーマの部分に目を瞑り、ハラハラドキドキするサスペンス・アクションだと考えれば、その部分での満足度はそれなりに高い。
今回は、アルコール厳禁の国の話なので、ちょっと反則技を。
アメリカの代表的なノン・アルコールビール、「テキサスセレクト」をチョイス。
まあノン・アルコールとは言っても、0.5%は含まれているので、厳格に考えればダメだろう。
私の知っている信心深いムスリムは、醸造の過程でアルコールが発生するので、醤油さえダメだと言っていた。
まあそこまで厳格な人は珍しいけど。
ちなみに私はノン・アルコールビールと知らずにこれを飲んで、何でこんなに酔えないのだろうと悩んだ事がある(笑

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2007年10月14日 (日) | 編集 |
「スターダスト」とは、星屑の事だが、人を魅了する魅力という意味でも使われる。
これは、ひょんな事から地球に落ちてきた「流れ星」を巡って、凶暴な王子、魔女、飛行船を操る空賊、そして少々頼りない主人公が争奪戦を繰り広げる異世界ファンタジー。
昨今のファンタジーブームに乗っかった作品だが、ハードさを前面に出した最近のファンタジー映画の中ではちょっと異色の作品で、どちらかというと、7、80年代の作品の様な、牧歌的昔話の雰囲気が強い。
イングランドの田舎のウォール村には、異界との境界と言われる石垣があった。
石垣の外側は現世とは異なる別世界が広がっていて、何人も超えてはならないという。
この村に住む青年トリスタン(チャーリー・コックス)は、村一番の美女ビクトリアに恋をする。
ある夜、トリスタンはビクトリアを誘い出すが、彼女はなかなか心を許してくれない。
その時、空に流れ星が現れ、石垣の向こうに落下。
トリスタンはビクトリアに、愛の証として石垣の向こうから流れ星を持ち帰ると宣言する。
実は、この流れ星には秘密があった。
石垣の向こうの国、ストームホールドの王(ピーター・オトゥール)が息を引き取る前、国王の証であるルビーのネックレスが天空へ舞い上がり、宇宙の星を弾き飛ばしたのだった。
凶暴な三人の王子たちは、我こそは後継者にならんと、流れ星と共に落下したルビーを探しに出発する。
同じ頃、ストームホールドの魔女の三姉妹も400年間待ち焦がれた流れ星を見て大喜び。
流れ星を食べた物は、永遠の若さを約束されるのだ。
異界の者たちの思惑が交差する中、石垣を越えたトリスタンは、一足先に流れ星が落ちたところにたどり着く。
ところが、クレーターの底にはルビーのネックレスと共に、若い女(クレア・デインズ)が倒れているだけ。
実は彼女こそ流れ星の正体。
こうして、トリスタンと魔女、王子たちの間で、流れ星とルビーの争奪戦が始まった・・・
異世界冒険ファンタジーとは言っても、間違っても「LOTR」みたいなのを想像してはいけない。
物語はゆったりしたリズムで、キャラクターはかなりマヌケだし、見せ場はVFXを駆使したスペクタクル性よりはお笑いの方に力が入っている。
壮大な大河ドラマ的ファンタジーというよりも、どちらかといえば異世界を箱庭的に捉えて、その中で登場人物が右往左往するというボードゲーム的な楽しみのある作品で、全体の雰囲気は1987年にロブ・ライナー監督が発表した「プリンセス・ブライド・ストーリー」によく似ている。
凶暴な王子たちが互いに殺し合い、殺された亡霊が生き残りの争いを見物していたり、流れ星がいきなり人間だったりと、リアリズムとは程遠い、ユーモアたっぷりの昔々の昔話的な世界観。
争奪戦の対象となるヒロインが、イマイチ可愛くないあたりもロブ・ライナー作品を思わせる。
「プリンセス・ブライド・ストーリー」では本の中に異世界が存在していたが、今回は日常のすぐ隣に異世界への境界があるというのがユニーク。
それも普通に石垣で区切られているだけなのだ。
「トンネルを抜けると雪国だった」というのは川端康成の「雪国」の有名な表現だが、こちらは正に「石垣を超えると異世界だった」というわけだ。
この作品の異世界のイメージは、現世とは無関係に存在する完全な異世界というよりは、日常の隣り合わせにある少しだけずれたもう一つの世界というイメージで、民話的な懐かしさがある。
原作のニール・ゲイマンは「もののけ姫」の英語版脚本を手がけた人物だそうで、なるほどトリスタンを助ける飛行船の「空賊」などの描写は、「天空の城 ラピュタ」のドーラ一家を思わせる。
ただ、元々飛行船を使ったアニメ冒険活劇はチェコのゼーマンあたりが元祖なので、これをもって宮崎アニメの影響を論じることは少々短絡的かもしれず、むしろキャラクターのユーモラスな味付けなどに、どこと無く宮崎アニメに通じるものを感じる。
ちなみにゲイマンは、間もなく公開される北欧神話をベースとしたロバート・ゼメキス監督の大作、「ベオウルフ」の脚本も手掛けている。
マシュー・ヴォーンの演出も、見せ場のツボは抑えつつもあまり物語のメリハリを重視せず、キャラの魅力を前面に立てて、まったりゆったりと進んでゆく。
この人の作品は初めて観るけども、案外渋い人間ドラマやロマンチックコメディあたりが上手そうなスタイルだ。
キャストは脇役陣が妙に豪華。
魔女の長姉にミシェル・ファイファー、空賊の親玉にロバート・デ・ニーロ、ストームホールドの王にピーター・オトゥールと、名だたる名優が余裕綽々にこのファンタジー世界で遊んでいる。
彼らを脇に従える主人公のトリスタンは、若手のチャーリー・コックス。
ちょっとマヌケで頼りないが、どこか憎めないノビタ的主人公を好演している。
他の登場人物すべてから狙われる「流れ星」にはクレア・デインズ。
失礼ながら、彼女は「ロミオ&ジュリエット」の頃が可愛さのピークで、その後は成長と共にだんだんと劣化しているというのが正直なところ。
今回も、普通ならもうちょっと可愛い人を使えば良いのに、というところなのだが、作品の良くも悪くも力の抜けたまったりムードに浸っていると、まあこれはこれでアリかなあという気分になってくる。
「スターダスト」は、冬の日にコタツに篭って聞いたお爺ちゃんやお婆ちゃんのオリジナル脚色付きの昔話の様な雰囲気がある。
ノリは軽いし、特に現在を比喩するようなテーマ性も薄いが、昔話に欠かせない寓話性はしっかりと織り込まれており、これはこれで中々に楽しいファミリー映画である。
「LOTR」以降のハードなファンタジーを見慣れた目には、意外と新鮮に感じられた。
今回は、ルビー色の「いちごワイン」をチョイス。
イングランドならぬ栃木県の「とちおとめ」を使った飲みやすく、優しい味の果実種。
栓を開けると、ほのかにいちごの甘酸っぱい香りが立ちあがる。
ジュース感覚で飲めるが、甘い中にも微かな酸味がありアクセントになっている。
どこか懐かしい味わいがあり、このまったりとしたファンタジー映画にはぴったりだ。
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これは、ひょんな事から地球に落ちてきた「流れ星」を巡って、凶暴な王子、魔女、飛行船を操る空賊、そして少々頼りない主人公が争奪戦を繰り広げる異世界ファンタジー。
昨今のファンタジーブームに乗っかった作品だが、ハードさを前面に出した最近のファンタジー映画の中ではちょっと異色の作品で、どちらかというと、7、80年代の作品の様な、牧歌的昔話の雰囲気が強い。
イングランドの田舎のウォール村には、異界との境界と言われる石垣があった。
石垣の外側は現世とは異なる別世界が広がっていて、何人も超えてはならないという。
この村に住む青年トリスタン(チャーリー・コックス)は、村一番の美女ビクトリアに恋をする。
ある夜、トリスタンはビクトリアを誘い出すが、彼女はなかなか心を許してくれない。
その時、空に流れ星が現れ、石垣の向こうに落下。
トリスタンはビクトリアに、愛の証として石垣の向こうから流れ星を持ち帰ると宣言する。
実は、この流れ星には秘密があった。
石垣の向こうの国、ストームホールドの王(ピーター・オトゥール)が息を引き取る前、国王の証であるルビーのネックレスが天空へ舞い上がり、宇宙の星を弾き飛ばしたのだった。
凶暴な三人の王子たちは、我こそは後継者にならんと、流れ星と共に落下したルビーを探しに出発する。
同じ頃、ストームホールドの魔女の三姉妹も400年間待ち焦がれた流れ星を見て大喜び。
流れ星を食べた物は、永遠の若さを約束されるのだ。
異界の者たちの思惑が交差する中、石垣を越えたトリスタンは、一足先に流れ星が落ちたところにたどり着く。
ところが、クレーターの底にはルビーのネックレスと共に、若い女(クレア・デインズ)が倒れているだけ。
実は彼女こそ流れ星の正体。
こうして、トリスタンと魔女、王子たちの間で、流れ星とルビーの争奪戦が始まった・・・
異世界冒険ファンタジーとは言っても、間違っても「LOTR」みたいなのを想像してはいけない。
物語はゆったりしたリズムで、キャラクターはかなりマヌケだし、見せ場はVFXを駆使したスペクタクル性よりはお笑いの方に力が入っている。
壮大な大河ドラマ的ファンタジーというよりも、どちらかといえば異世界を箱庭的に捉えて、その中で登場人物が右往左往するというボードゲーム的な楽しみのある作品で、全体の雰囲気は1987年にロブ・ライナー監督が発表した「プリンセス・ブライド・ストーリー」によく似ている。
凶暴な王子たちが互いに殺し合い、殺された亡霊が生き残りの争いを見物していたり、流れ星がいきなり人間だったりと、リアリズムとは程遠い、ユーモアたっぷりの昔々の昔話的な世界観。
争奪戦の対象となるヒロインが、イマイチ可愛くないあたりもロブ・ライナー作品を思わせる。
「プリンセス・ブライド・ストーリー」では本の中に異世界が存在していたが、今回は日常のすぐ隣に異世界への境界があるというのがユニーク。
それも普通に石垣で区切られているだけなのだ。
「トンネルを抜けると雪国だった」というのは川端康成の「雪国」の有名な表現だが、こちらは正に「石垣を超えると異世界だった」というわけだ。
この作品の異世界のイメージは、現世とは無関係に存在する完全な異世界というよりは、日常の隣り合わせにある少しだけずれたもう一つの世界というイメージで、民話的な懐かしさがある。
原作のニール・ゲイマンは「もののけ姫」の英語版脚本を手がけた人物だそうで、なるほどトリスタンを助ける飛行船の「空賊」などの描写は、「天空の城 ラピュタ」のドーラ一家を思わせる。
ただ、元々飛行船を使ったアニメ冒険活劇はチェコのゼーマンあたりが元祖なので、これをもって宮崎アニメの影響を論じることは少々短絡的かもしれず、むしろキャラクターのユーモラスな味付けなどに、どこと無く宮崎アニメに通じるものを感じる。
ちなみにゲイマンは、間もなく公開される北欧神話をベースとしたロバート・ゼメキス監督の大作、「ベオウルフ」の脚本も手掛けている。
マシュー・ヴォーンの演出も、見せ場のツボは抑えつつもあまり物語のメリハリを重視せず、キャラの魅力を前面に立てて、まったりゆったりと進んでゆく。
この人の作品は初めて観るけども、案外渋い人間ドラマやロマンチックコメディあたりが上手そうなスタイルだ。
キャストは脇役陣が妙に豪華。
魔女の長姉にミシェル・ファイファー、空賊の親玉にロバート・デ・ニーロ、ストームホールドの王にピーター・オトゥールと、名だたる名優が余裕綽々にこのファンタジー世界で遊んでいる。
彼らを脇に従える主人公のトリスタンは、若手のチャーリー・コックス。
ちょっとマヌケで頼りないが、どこか憎めないノビタ的主人公を好演している。
他の登場人物すべてから狙われる「流れ星」にはクレア・デインズ。
失礼ながら、彼女は「ロミオ&ジュリエット」の頃が可愛さのピークで、その後は成長と共にだんだんと劣化しているというのが正直なところ。
今回も、普通ならもうちょっと可愛い人を使えば良いのに、というところなのだが、作品の良くも悪くも力の抜けたまったりムードに浸っていると、まあこれはこれでアリかなあという気分になってくる。
「スターダスト」は、冬の日にコタツに篭って聞いたお爺ちゃんやお婆ちゃんのオリジナル脚色付きの昔話の様な雰囲気がある。
ノリは軽いし、特に現在を比喩するようなテーマ性も薄いが、昔話に欠かせない寓話性はしっかりと織り込まれており、これはこれで中々に楽しいファミリー映画である。
「LOTR」以降のハードなファンタジーを見慣れた目には、意外と新鮮に感じられた。
今回は、ルビー色の「いちごワイン」をチョイス。
イングランドならぬ栃木県の「とちおとめ」を使った飲みやすく、優しい味の果実種。
栓を開けると、ほのかにいちごの甘酸っぱい香りが立ちあがる。
ジュース感覚で飲めるが、甘い中にも微かな酸味がありアクセントになっている。
どこか懐かしい味わいがあり、このまったりとしたファンタジー映画にはぴったりだ。

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2007年10月07日 (日) | 編集 |
「食」をテーマにした映画は、ある意味ずるい。
生命の根源である美味しそうなご飯を見ていると、何だかそれだけで満ち足りた気分になってしまって、仮に映画に欠点が沢山あったとしても、そのかなりの部分を覆い隠してくれる。
そのぐらい、人間にとって食べるということは幸福な事なのだ。
「幸せのレシピ」というそのものズバリの邦題が付いた本作も、そんな美味しい幸せを感じさせてくれる佳作である。
レストラン激戦区のニューヨークでシェフを勤めるケイト(キャサリン・ゼタ=ジョーンズ)は、完璧主義の仕事人間。
熱心さゆえに、時にはレストランのオーナーや顧客とも衝突する事も辞さないが、自分が積み重ねてきた仕事に対しては、人一倍自信と愛着を持っている。
ところがある日、たった一人の姉が事故で他界し、その一人娘ゾーイ(アビゲイル・ブレスリン)がケイトに託される事になる。
予期せぬ事態から突然母親の役をこなさなければならなくなったケイトだったが、当然子育ては料理の様にはいかず、ゾーイとの距離はなかなか埋まらない。
そんな中、職場復帰したケイトの前に、イタリアかぶれの新人スーシェフ、ニック(アーロン・エッカート)が現れる。
人当たりが良く、料理の実力も確かなニックに、シェフのポジションを奪われるのではないかとナーバスになるケイトだったが、ニックの存在は彼女とゾーイとの関係にも重要な変化をもたらすのだった・・・
ドイツ映画「マーサの幸せレシピ」のリメイクだが、残念ながらオリジナルは未見。
主人公のケイトは、まるでアメリカ版働きマン。
切れ者で仕事への情熱もあり、料理の実力とセンスはピカイチ。
しかし、心はどこか満ち足りず、心理カウンセラーに通っていたりする。
そう、この映画で料理されるのは、極上の食材だけではない。
一番のメインディッシュは、本人も自覚しないうちに壁を作って閉ざされているケイトの心そのものだ。
この映画の冒頭のケイトは、いわば料理されていないピザ生地の様なもの。
ポテンシャルはあるが、まだそれだけでは美味しくない。
極上のディッシュを作るために登場するさらなる食材は、たった一人の肉親となったゾーイと、仕事を楽しみ人生を楽しんでいるラテンなニック。
キャサリン・ゼタ=ジョーンズは、少々きつい作りの顔のせいか今までとっつきにくい美人という印象だったが、本作ではコワモテの内側に隠れた弱さや優しさを繊細に表現していてなかなかの好演。
オスカーを受賞した「シカゴ」の様なインパクトは無いが、本人のイメージを上手く生かしたナイスキャスティングだ。
アーロン・エッカートのイタリア人かぶれのニックは、多分オリジナルのドイツ映画では本物のイタリア人だったんだろうなと想像するが、なるほどドイツ的な固さを持つケイトに対しては豪放磊落なニックのイメージは、生地を包み込むとろけるチーズでという感じだろうか。
演じるエッカートも、前作の「ブラック・ダリア」とはまるで別人に見える見事な化けっぷり、というかインタビューなどを見ているとこちらの方が素の彼に近いのだろう。
ヨーロッパにおけるドイツとイタリアは、アメリカに置き換えればお堅いニューヨーカーと陽気なカリフォルニアン。
その意味でいかにもカリフォルニアンなエッカートははまり役だった。
もちろんこの映画の三角関係の最後の一編を受け持つゾーイを演じたアビゲイル・ブレスリンも、見事な芸達者ぶり。
生地がケイトでチーズがニックだとすれば、ゾーイは両者を一つに溶け合わせるジューシーなトマトか香り高いハーブだろうか。
物語の方は、どうやらオリジナルにかなり忠実らしいのだが、徹底的にケイト目線で描いた事は正解だったと思う。
彼女の心理状態というのは、現在を生きる多くの人に共通しているだろうし、抱えている葛藤は必ずしも女性ならではの物という訳でもない。
働きシェフのケイトに共感する男性も少なくないだろう。
ただし、ケイトをフィーチャーしたが故に、物語のディテールは多少弱い。
登場人物の行動は唐突さが目立つし、ニックのケイトへのリスペクトが恋愛に変化してゆく過程、そしてケイトがそれを受け入れる過程も、十分な説得力があるとは言いかねる。
後半はケイトの心が二転三転して物語の流れがギクシャクし、少し中ダレも感じさせてしまう。
それでも、「幸せのレシピ」を観た観客は、タイトルどおり幸せな気分になるだろう。
名作「シャイン」を物にしたスコット・ヒックス監督は、ケイトの人生に現れたニックとゾーイという二人の人物を巧みに料理し、最後にはまずまずの満腹感を与えてくれる。
それに多少料理の手順に戸惑ったとしても、画面に映し出される数々の美味しそうな料理の描写が絶妙な後味のスパイスとなって、観ている間に感じた小さな不満を覆い隠してくれる。
色々な意味で幸せな映画である。
今回は、映画のデザートという感じで、イタリアはピエモンテ州の「フォンタナ・フレッダ モスカート・ダスティ」をチョイス。
マスカット種の爽やかな香りと仄かな酸味が楽しめる甘口の微発泡スプマンテ。
アルコール度数も5~6度とそれほど高くなく、強くない人でもジュース感覚で楽しく飲める。
コストパフォーマンスが高いのも魅力で、「あのビストロ」で日曜日のブランチあたりに出すのに似合いそう。
クルクル回る三角のウィンドサインは可愛かった。
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生命の根源である美味しそうなご飯を見ていると、何だかそれだけで満ち足りた気分になってしまって、仮に映画に欠点が沢山あったとしても、そのかなりの部分を覆い隠してくれる。
そのぐらい、人間にとって食べるということは幸福な事なのだ。
「幸せのレシピ」というそのものズバリの邦題が付いた本作も、そんな美味しい幸せを感じさせてくれる佳作である。
レストラン激戦区のニューヨークでシェフを勤めるケイト(キャサリン・ゼタ=ジョーンズ)は、完璧主義の仕事人間。
熱心さゆえに、時にはレストランのオーナーや顧客とも衝突する事も辞さないが、自分が積み重ねてきた仕事に対しては、人一倍自信と愛着を持っている。
ところがある日、たった一人の姉が事故で他界し、その一人娘ゾーイ(アビゲイル・ブレスリン)がケイトに託される事になる。
予期せぬ事態から突然母親の役をこなさなければならなくなったケイトだったが、当然子育ては料理の様にはいかず、ゾーイとの距離はなかなか埋まらない。
そんな中、職場復帰したケイトの前に、イタリアかぶれの新人スーシェフ、ニック(アーロン・エッカート)が現れる。
人当たりが良く、料理の実力も確かなニックに、シェフのポジションを奪われるのではないかとナーバスになるケイトだったが、ニックの存在は彼女とゾーイとの関係にも重要な変化をもたらすのだった・・・
ドイツ映画「マーサの幸せレシピ」のリメイクだが、残念ながらオリジナルは未見。
主人公のケイトは、まるでアメリカ版働きマン。
切れ者で仕事への情熱もあり、料理の実力とセンスはピカイチ。
しかし、心はどこか満ち足りず、心理カウンセラーに通っていたりする。
そう、この映画で料理されるのは、極上の食材だけではない。
一番のメインディッシュは、本人も自覚しないうちに壁を作って閉ざされているケイトの心そのものだ。
この映画の冒頭のケイトは、いわば料理されていないピザ生地の様なもの。
ポテンシャルはあるが、まだそれだけでは美味しくない。
極上のディッシュを作るために登場するさらなる食材は、たった一人の肉親となったゾーイと、仕事を楽しみ人生を楽しんでいるラテンなニック。
キャサリン・ゼタ=ジョーンズは、少々きつい作りの顔のせいか今までとっつきにくい美人という印象だったが、本作ではコワモテの内側に隠れた弱さや優しさを繊細に表現していてなかなかの好演。
オスカーを受賞した「シカゴ」の様なインパクトは無いが、本人のイメージを上手く生かしたナイスキャスティングだ。
アーロン・エッカートのイタリア人かぶれのニックは、多分オリジナルのドイツ映画では本物のイタリア人だったんだろうなと想像するが、なるほどドイツ的な固さを持つケイトに対しては豪放磊落なニックのイメージは、生地を包み込むとろけるチーズでという感じだろうか。
演じるエッカートも、前作の「ブラック・ダリア」とはまるで別人に見える見事な化けっぷり、というかインタビューなどを見ているとこちらの方が素の彼に近いのだろう。
ヨーロッパにおけるドイツとイタリアは、アメリカに置き換えればお堅いニューヨーカーと陽気なカリフォルニアン。
その意味でいかにもカリフォルニアンなエッカートははまり役だった。
もちろんこの映画の三角関係の最後の一編を受け持つゾーイを演じたアビゲイル・ブレスリンも、見事な芸達者ぶり。
生地がケイトでチーズがニックだとすれば、ゾーイは両者を一つに溶け合わせるジューシーなトマトか香り高いハーブだろうか。
物語の方は、どうやらオリジナルにかなり忠実らしいのだが、徹底的にケイト目線で描いた事は正解だったと思う。
彼女の心理状態というのは、現在を生きる多くの人に共通しているだろうし、抱えている葛藤は必ずしも女性ならではの物という訳でもない。
働きシェフのケイトに共感する男性も少なくないだろう。
ただし、ケイトをフィーチャーしたが故に、物語のディテールは多少弱い。
登場人物の行動は唐突さが目立つし、ニックのケイトへのリスペクトが恋愛に変化してゆく過程、そしてケイトがそれを受け入れる過程も、十分な説得力があるとは言いかねる。
後半はケイトの心が二転三転して物語の流れがギクシャクし、少し中ダレも感じさせてしまう。
それでも、「幸せのレシピ」を観た観客は、タイトルどおり幸せな気分になるだろう。
名作「シャイン」を物にしたスコット・ヒックス監督は、ケイトの人生に現れたニックとゾーイという二人の人物を巧みに料理し、最後にはまずまずの満腹感を与えてくれる。
それに多少料理の手順に戸惑ったとしても、画面に映し出される数々の美味しそうな料理の描写が絶妙な後味のスパイスとなって、観ている間に感じた小さな不満を覆い隠してくれる。
色々な意味で幸せな映画である。
今回は、映画のデザートという感じで、イタリアはピエモンテ州の「フォンタナ・フレッダ モスカート・ダスティ」をチョイス。
マスカット種の爽やかな香りと仄かな酸味が楽しめる甘口の微発泡スプマンテ。
アルコール度数も5~6度とそれほど高くなく、強くない人でもジュース感覚で楽しく飲める。
コストパフォーマンスが高いのも魅力で、「あのビストロ」で日曜日のブランチあたりに出すのに似合いそう。
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2007年10月02日 (火) | 編集 |
マーベルコミックの人気シリーズの、実写版劇場用映画第二弾。
同社の「スパイダーマン」や「X-マン」と比べて、やや低年齢層向けに振った作りで、SF考証などはこのシリーズの原作が生まれた1960年代並の大らかさ。
大人の観客には少々他愛無く感じる部分もあるが、これはこれでそれになりに楽しい。
ファンタスティック・フォーのリード(ヨアン・グリフィズ)とスーザン(ジェシカ・アルバ)は結婚式を間近に控えているが、超人カップルのゴールインに世間の関心は膨らむばかり。
二人はパパラッチに追い回され、スーザンは結婚しても幸せな家庭を築くことが出来るのか不安になり、マリッジブルーに。
同じ頃、謎の宇宙生命体が地球に飛来し、ジョニー(クリス・エヴァンズ)が追跡するが、あっけなく返り討ちにされてしまう。
その敵は、まるで銀色のサーフィンに乗っているように見えることから、シルバーサーファーと名付けられたが、彼との接触以来、ジョニーはファンタスティック・フォーのメンバーに触れるだけで互いの能力を交換できるようになってしまう。
「シルバーサーファーが現れた惑星は8日後に滅亡する」という事を知ったリードたちは、米軍と協力してサーファーを捕らえようとするが、そこへ現れたのは死んだはずのビクター(ジュリアン・マクマホン)だった・・・・
例によって一作目でキャラと世界観の紹介は済んでいるので、今回は最初から飛ばす。
原作の人気キャラクターである銀色のサーフボードに乗ったシルバーサーファーが飛来し、文字通り地球存亡の危機に四人が挑む。
このシルバーサーファー、コミックでは格好良いのだけど実際に映像化されてみると、どうにもサーフボードに乗ったペプシマンに見えてしまう。
もっともサーフボードに乗った宇宙人という設定自体が、よくよく考えてしまうと相当マヌケな画面なんだけど。
ただ、物語の後半で彼のバックグラウンドが描かれてからは、悪役でありながらある種の哀愁を背負ったダークヒーローとしての色彩が強調され、なかなかに判官贔屓な日本人好みのキャラクターである。
お話にも描写にも、突っ込みどころは多い。
前記したように、このシリーズは基本的に子供向け。
SF設定は初めから現実の科学知識にきちんと合わせようとはしてないし、地理的な概念もかなりいい加減。
今回新登場したファンタスティック・フォーが乗る合体メカ・ファンタスティックカーは、シベリアにいたかと思うと、次の瞬間には万里の長城に着いてしまうし、そこから上海までも一瞬だ。
マッハいくつで飛んでるのか知らないが、妙に小さな地球に思えてしまう。
ちなみにHEMIエンジン搭載ってギャグは、日本ではよほどのカーマニアしか判らないと思うぞ(笑
それでも、このあたりはまだご愛嬌の範囲なのだけど、キャラクターまで幼稚園児並みに頭が悪いのはいかがなものか。
前作であれだけ酷い目にあわされたのに、ドクター・ドゥームを簡単に信じてしまう軍の将軍はいくらなんでも馬鹿すぎで、わかりやすいといえばその通りだけど、騙されるにしても、もうちょっと説得力のある複線を張っておいて欲しかった。
まあ縦横無尽に空を飛ぶ、シルバーサーファーvsファンタスティックフォーの空中戦など、映像はなかなかよく出来ているし、前作から続投のティム・ストーリーの演出は適度にスピーディーで飽きさせない。
主人公が四人もいる分、それぞれのキャラクターは小粒なのだが、ある意味でステロタイプなほどにキャラクターを明確にして、それぞれのキャラクターのぶつかり合いも上手く生かしている。
そして、それが決して深刻な対立に陥らずに、ユーモアで落としている点も、他のアメコミヒーロー物には無いこのシリーズの特徴で、マニアックな部分が無くてとてもとっつきやすい。
物語の他愛無さは、キャラの魅力と画のパワーでカバーという感じだ。
「ファンタスティック・フォー 銀河の危機」は、ある意味でもっともコミックらしいコミック映画で、サム・ライミやブライアン・シンガーといった大御所が丹精込めて作り上げた「スパイダーマン」や「X-マン」と比べてしまうと、大味で安っぽい感は否めない。
ただ、ペラペラのアメリカンコミックを読むような気軽さで、1時間半をそれなりに楽しめるのは確か。
積極的に観たいとは思わないが、この手のジャンルが好きな人なら、観て損をした気分には決してならないだろう。
今回は銀色のペプシマンの頑張りに敬意を表して、ペプシ・・・じゃなくて、四人のヒーローにちなんで、アルド・コンテルノの「カルテット」をチョイス。
四重奏を意味する名前は、ネッビオーロ、バルベーラ、カベルネソーヴィニヨン、メルローの四種の葡萄をブレンドしているところから。
こちらは香り豊かで洗練された、大人向けのファンタスティック・フォーだ。
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同社の「スパイダーマン」や「X-マン」と比べて、やや低年齢層向けに振った作りで、SF考証などはこのシリーズの原作が生まれた1960年代並の大らかさ。
大人の観客には少々他愛無く感じる部分もあるが、これはこれでそれになりに楽しい。
ファンタスティック・フォーのリード(ヨアン・グリフィズ)とスーザン(ジェシカ・アルバ)は結婚式を間近に控えているが、超人カップルのゴールインに世間の関心は膨らむばかり。
二人はパパラッチに追い回され、スーザンは結婚しても幸せな家庭を築くことが出来るのか不安になり、マリッジブルーに。
同じ頃、謎の宇宙生命体が地球に飛来し、ジョニー(クリス・エヴァンズ)が追跡するが、あっけなく返り討ちにされてしまう。
その敵は、まるで銀色のサーフィンに乗っているように見えることから、シルバーサーファーと名付けられたが、彼との接触以来、ジョニーはファンタスティック・フォーのメンバーに触れるだけで互いの能力を交換できるようになってしまう。
「シルバーサーファーが現れた惑星は8日後に滅亡する」という事を知ったリードたちは、米軍と協力してサーファーを捕らえようとするが、そこへ現れたのは死んだはずのビクター(ジュリアン・マクマホン)だった・・・・
例によって一作目でキャラと世界観の紹介は済んでいるので、今回は最初から飛ばす。
原作の人気キャラクターである銀色のサーフボードに乗ったシルバーサーファーが飛来し、文字通り地球存亡の危機に四人が挑む。
このシルバーサーファー、コミックでは格好良いのだけど実際に映像化されてみると、どうにもサーフボードに乗ったペプシマンに見えてしまう。
もっともサーフボードに乗った宇宙人という設定自体が、よくよく考えてしまうと相当マヌケな画面なんだけど。
ただ、物語の後半で彼のバックグラウンドが描かれてからは、悪役でありながらある種の哀愁を背負ったダークヒーローとしての色彩が強調され、なかなかに判官贔屓な日本人好みのキャラクターである。
お話にも描写にも、突っ込みどころは多い。
前記したように、このシリーズは基本的に子供向け。
SF設定は初めから現実の科学知識にきちんと合わせようとはしてないし、地理的な概念もかなりいい加減。
今回新登場したファンタスティック・フォーが乗る合体メカ・ファンタスティックカーは、シベリアにいたかと思うと、次の瞬間には万里の長城に着いてしまうし、そこから上海までも一瞬だ。
マッハいくつで飛んでるのか知らないが、妙に小さな地球に思えてしまう。
ちなみにHEMIエンジン搭載ってギャグは、日本ではよほどのカーマニアしか判らないと思うぞ(笑
それでも、このあたりはまだご愛嬌の範囲なのだけど、キャラクターまで幼稚園児並みに頭が悪いのはいかがなものか。
前作であれだけ酷い目にあわされたのに、ドクター・ドゥームを簡単に信じてしまう軍の将軍はいくらなんでも馬鹿すぎで、わかりやすいといえばその通りだけど、騙されるにしても、もうちょっと説得力のある複線を張っておいて欲しかった。
まあ縦横無尽に空を飛ぶ、シルバーサーファーvsファンタスティックフォーの空中戦など、映像はなかなかよく出来ているし、前作から続投のティム・ストーリーの演出は適度にスピーディーで飽きさせない。
主人公が四人もいる分、それぞれのキャラクターは小粒なのだが、ある意味でステロタイプなほどにキャラクターを明確にして、それぞれのキャラクターのぶつかり合いも上手く生かしている。
そして、それが決して深刻な対立に陥らずに、ユーモアで落としている点も、他のアメコミヒーロー物には無いこのシリーズの特徴で、マニアックな部分が無くてとてもとっつきやすい。
物語の他愛無さは、キャラの魅力と画のパワーでカバーという感じだ。
「ファンタスティック・フォー 銀河の危機」は、ある意味でもっともコミックらしいコミック映画で、サム・ライミやブライアン・シンガーといった大御所が丹精込めて作り上げた「スパイダーマン」や「X-マン」と比べてしまうと、大味で安っぽい感は否めない。
ただ、ペラペラのアメリカンコミックを読むような気軽さで、1時間半をそれなりに楽しめるのは確か。
積極的に観たいとは思わないが、この手のジャンルが好きな人なら、観て損をした気分には決してならないだろう。
今回は銀色のペプシマンの頑張りに敬意を表して、ペプシ・・・じゃなくて、四人のヒーローにちなんで、アルド・コンテルノの「カルテット」をチョイス。
四重奏を意味する名前は、ネッビオーロ、バルベーラ、カベルネソーヴィニヨン、メルローの四種の葡萄をブレンドしているところから。
こちらは香り豊かで洗練された、大人向けのファンタスティック・フォーだ。

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