酒を呑んで映画を観る時間が一番幸せ・・・と思うので、酒と映画をテーマに日記を書いていきます。 映画の評価額は幾らまでなら納得して出せるかで、レイトショー価格1200円から+-が基準で、1800円が満点です。
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マイティ・ハート -愛と絆-・・・・・評価額1600円
2007年11月28日 (水) | 編集 |
今から5年前の2002年の一月に、パキスタンで起こったWSJの米国人記者ダニエル・パール氏の誘拐殺害事件は記憶に新しい。
当時は9.11後の米軍によるアフガニスタン攻撃でタリバン政権が崩壊し、アフガンに潜伏していた多くのアルカイダ要員とタリバン残党が、隣国パキスタンに流入し混沌した情勢が生まれていた。
パール事件は、以来数多く繰り返される、テロリストによる非武装の民間人誘拐戦略の口火を切った事件だった。
マイケル・ウィンターボトム監督「マイティ・ハート -愛と絆-」は、ダニエルの妻でやはりジャーナリストであるフランス人女性マリアンヌを中心に、事件発生から悲劇的な結末を迎えるまでを臨場感たっぷりに描いた異色作だ。

2002年初頭のパキスタン、カラチ。
アメリカ人記者ダニエル・パール(ダン・ファターマン)が、ある男とのインタビューのために出かけたまま消息を絶った。
送りつけられた写真から、彼がテロリストグループに誘拐されたのは確実だった。
ダニエルの妻でフランス人ラジオ記者のマリアンヌ(アンジェリーナ・ジョリー)は妊娠五ヶ月の身重の体だったが、事件の捜査のために派遣されたパキスタンの対テロ機関の捜査員や、ジャーナリスト仲間の協力を得て、ダニエル救出のために事件の真相に迫ってゆく・・・


事件そのものは非常に政治的なのだが、映画はほぼ妻のマリアンヌをフィーチャーし、あまり政治性に踏み込まない。
その意味で、この映画は所謂ポリティカルサスペンスとは少し違う。
映画が淡々と、しかし深く映画いてゆくのは政治ではなく、マリアンヌとその周りの人々の一途な心だ。
この事件は当時日本でも詳しく報道されたので、覚えている人も多いだろうが、夫のダニエルがユダヤ人で、マリアンヌが創価学会の信者なのは良く知られている。
つまりこの映画の中では、一部のイスラム過激派がアメリカ人ユダヤ教徒を拉致し、その妻であるフランス人仏教徒をアメリカ人やフランス人のキリスト教徒、インド人ヒンズー教徒、パキスタン人イスラム教徒が支えるという図式になっている。
もちろんマリアンヌの周りにいた登場人物一人一人には、それぞれの思惑があるだろうし、必ずしも善意の存在ではなかったかもしれない。
しかし、人間の不寛容が生み出した、この事件に向き合った彼らは、「ダニエルという一人の人間を助けたい」というただ一つの意識において、宗教や民族を超えて結束している。

それは、政治と宗教、民族という複雑な概念が生み出した混沌の中で、人間性というもっともベーシックかつ普遍的な精神を見出す事でもある。
劇中のマリアンヌの台詞で非常に印象的なものが二つあった。
一つは犯人から送られてきたダニエルの写真を見て、「銃を突きつけられても彼は笑っている。決して負けていない」という物。
もう一つは事件が悲劇に終わった後に、テレビのインタビューに答えた時、インタビューアーの心無い質問に、思わず母国語であるフランス語で「あなたは人間なの?」と本音を突きつけるシーン。
この二つのシーンには、マリアンヌの信念としての人間性の強さと切なさがよく表現されている。

監督のマイケル・ウィンターボトムは、アフガン難民の少年の一万キロに及ぶ亡命の旅を描いた2002年の「イン・ディス・ワールド」や、理不尽な理由でテロリストと誤認されたパキスタン人を描いた2006年の「グアンタナモ、僕達が見た真実」などで、この地域を扱った映画のスペシャリストみたいになっているが、その一歩引いたジャーナリスティックな視点とドキュメンタリーを思わせる演出スタイルは、作品に一定の説得力をもたらす。
もっともほぼ無名の俳優を使って、本当にドキュメンタリーと見紛う様な作りだった前記の二作に比べると、アンジェリーナ・ジョリーというバリバリのハリウッドスターを起用(この場合、彼の方が彼女に起用されたと言った方が正しいのだけど)したこの作品の場合、演出の軸足はやはりそれほど客観的にはいられないのだが。

そのアンジェリーナ・ジョリーは熱演と言って良いと思う。
彼女のライフスタイル自体は色々なメディアで報道されているし、そこから透けて見える人物像から、この作品を映画化し、マリアンヌを演じるという使命感に駆られた事に驚きはない。
現実のマリアンヌとは正直なところ全く似てないのだけど、これはこれで彼女なりのマリアンヌ像を説得力を持って作り上げていたと思う。
ただ、これは別に演技者としての彼女の責任ではないが、元々ポリティカルな臭いのするアンジェリーナ・ジョリーによって演じられた事で、作品が慎重に避けてきた政治性が逆に強調されてしまったのは少々皮肉だ。

「マイティ・ハート -愛と絆-」は、誰もが知っている悲劇的な結末を迎え、その後のマリアンヌも少しだけ描かれる。
そこには、事件の悲しみと同時に、不思議な精神的な静寂と平静が存在しているように思う。
マリアンヌは言う「私たちは、負けてない」と。
それは凄惨な経験の中ですら、被害者であるダニエルを含めた全員が、人間性の尊厳を失わなかったという自負によるものなのかも知れない。
ポスト9.11の世界を描いた作品の中でも、なかなかにユニークな一作である。

現実のアンジェリーナ・ジョイリーは勿論フランス人ではなくてカリフォルニアンなわけだが、今回はカリフォルニアはナパからケイマス・ヴィンヤードの「コナンドラム」をチョイスしよう。
「コナンドラム」とはなぞなぞの事で、飲んだ人に向けて、「このワインの葡萄はなんでしょう?」となぞなぞを出している訳だ。
実はこのワインにはソーヴィニヨン・ブラン、マスカット、セミヨン、シャルドネ、ヴィオニエの五種類がブレンドされている。
個性の違った葡萄もこの酒の中では一つの完成されたハーモニーを奏でる。
この事件のために集まった人々も、混沌の中に人間性という一瞬のハーモニーを観たのかもしれない。

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ナンバー23・・・・・評価額900円
2007年11月23日 (金) | 編集 |
本来人間は、法則性を好む動物である。
それは統計学に基づいた場合もあれば、何気ない日常の中のジンクスである場合もある。
方位をやたらと気にする人もいるし、血液型や名前の画数が気になって仕方がない人もいる。
「ナンバー23」はそのタイトル通り、数字の23に取り憑かれてゆく男を巡るサスペンス。

動物管理局に勤めるウォルター(ジム・キャリー)は、妻と息子と共に幸せな生活を送っている。
彼は、2月3日の誕生日に、妻が古書店で偶然見つけた「ナンバー23」という本を贈られる。
それは、23という数字に支配された主人公と殺人事件を巡るミステリ小説だったが、読み進めてゆくうちに、ウォルターは小説の主人公が自分自身に酷似している事に気付く。
一体この本の著者は何者なのか。
やがて、ウォルターは本に描かれている事は現実で、小説の主人公と同じように、自分の人生は23という数字に支配されているという強迫観念に苛まれるようになる・・・


論評に困る映画というのがたまにある。
作り手が、描いている対象を絶対視して、過剰なまでの情熱と愛情でもって、自分の世界にどっぷりつかって描いてしまっている場合だ。
たいていの場合、本人にはものすごく大切な物でも、他人にとってはどうでもよい物なので、観ている方としては作り手が熱くなればなるほどどんどん白けてくる。
本作の主演ジム・キャリーは、実生活でも数字の23の神秘性に取り憑かれているマニアなのだそうだ。
なるほどね、確かにキャリーは自分の人生に無数の23を見つけて驚く男を熱演しているが、それは彼が23マニアになった姿その物なのだろう。
ただ、それが他人にとっても説得力を持つかどうかは全く別の話だ。

そう、ぶっちゃけこの映画に描かれる23の神秘性というのは、私には単なるこじつけにしか思えず、なんで主人公がこんなに23に引かれていくのかがさっぱり理解できなかった。
映画の中ではウォルターの身近な事例から始まって、果ては天地創造の日やマヤ暦の終末予言の日が23日とか、23という数字がいかに謎めいているかが強調されるのだが、よくよく考えれば、人間の生活なんて無数の数字に囲まれている訳で、その中のごく一部を抜き出してきて、しかも足したり引いたり割ったりしていったら、そりゃいくつかは23にもなるだろう。
でもそれは同じくらいの確率で17にもなれば36にもなるんじゃないだろうか。
例えば私の住所は4から始まる。誕生日も4から始まる。家の電話番号を全部足したら40で、これも4から。
おお、携帯電話の番号を全部足したら31、3と1を足したら4ではないか。
だから私の人生は4に支配されている!・・・・なんて主張したらアホかと言われて終わりだろう。

実際、この映画で主人公のウォルターが23にのめり込めばのめり込むほど、単に数字フェチの頭のネジが緩い人にしか見えず、物語の盛り上がりとは対照的に、観ている方はどんどん引いてゆくしかない。
逆に言えば、23という数字の魔力を、説得力をもって観客に提示できれば、これはかなり興味深い作品になったかもしれない。
この作品がミステリ仕立ての作劇なのも、本来は物語の流の中で、数字の魔力にリアリティを与えるためだったのだろうが、残念ながら作り手自身が23という数字に陶酔してしまっているのか、せっかくの凝った作劇はあまり生かされず、機能不全のまま終わってしまう。
脚本の新人、ファーンリー・フィリップスは数字に取り憑かれる主人公を客観視することが出来ず、ミステリとの絡みも中途半端なままだ。
監督のジョエル・シューマッカーは、クールな映像を武器に、「セント・エルモス・ファイアー」や「フォーリングダウン」など、多くの秀作、問題作を生み出してきたベテランだが、彼をもってしても、このつかみ所の無い物語を一級の娯楽映画として成立させる事は出来ていない。

たぶん、この映画はキャリーと同じようにある種の数字に限りないこだわりを持つ数字フェチの人にとっては、我が意を得たりという至福の映画なのだろう。
ただ、おそらくは圧倒的多数であろう、それ以外の観客にとっては、どうでもいい事へのこだわりを延々と見せられる退屈な映画に過ぎない。
まあ一風変わった作品であることは間違いなく、この手の不思議話が好きな人なら、一応話題のネタに観ておいても良いかもしれない。

今回は、数字の映画にちなんで数字の名前を持つ酒を。
スコットランドのウィスキー、「シンジケート 58/6」をチョイス。
これはもちろん58/6の神秘性なんてものに由来する訳ではなくて、1958年にエジンバラの6人の仲間が自分たちのオリジナルウィスキーを作るシンジケートを結成したというところから名付けられている。
18種類のシングルモルトと2種類のシングルグレーンを使用しており、味も香りも複雑ながら、飲みやすく、非常に完成度が高い。
映画は残念ながら看板倒れの出来だったが、こちらのお酒は喉も脳も潤してくれる。

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グッド・シェパード・・・・・評価額1650円
2007年11月20日 (火) | 編集 |
マット・デイモンがCIAのエージェントを演じると言っても、出世したジェイソン・ボーンの話ではない。
ロバート・デ・ニーロ監督「グッド・シェパード」は、一人のエージェントの半生を通して、CIAの創成と、諜報という名のアメリカ裏社会の歴史を描いた、もう一つの「ゴッドファーザー」とでも言うべき骨太の大作だ。

1961年春。
亡命キューバ人たちによるカストロ政権転覆を目指したキューバ侵攻事件、所謂「ピッグス湾事件」が、支援したCIAからの情報漏えいが原因で失敗。
責任者の一人であるエドワード・ウィルソン(マット・デイモン)の元に、情報源の物と思われる写真と一本の録音テープが送られてくる。
エドワードは、密かに証拠の解析を進め、組織内の裏切り者を探し始めるが、彼の脳裏には20年以上前に、CIAの前身であるOSSに身を投じた頃の思い出が蘇って来た・・・


タイトルの「グッド・シェパード」はCIAを指し、おそらく二つの意味がある。
一つ目はシェパード、つまり代表的な牧用犬の事であり、人民の忠実な僕としてのCIA。
もう一つは、元々の意味である羊飼い、牧師、あるいは統率者、つまり迷える子羊を導く「キリスト」に匹敵する力である。
映画の終盤で「CIAになぜtheがつかないのか。神にtheをつけないのと同じだ」という印象的な台詞がある。
つまり、CIAは一神教の神の如く、アンタッチャブルで神聖かつ強大な存在だということだ。

映画は、「ピッグス湾事件」が失敗し、組織内の裏切り者探しから始まる。
作戦の責任者の一人であるエドワードが組織内の裏切り者を探す物語に、彼のCIAエージェントとしての20余年間が回想形式で絡み合い、一人のエージェントと一つの組織が完成してゆく様を描いてゆく。
そこに描かれるのは、決して世間に知られる事の無い、裏の世界での信頼、友情、愛、そして裏切り

そう、お話の作り方は「ゴッドファーザー」そのまんま。
コッポラもエクゼクティブ・プロデューサーに名を連ねているし、デ・ニーロ監督は、師匠から学んだ大河ドラマの作劇・演出術を余すところ無く再現してなかなかに見事な仕上がりだ。
この作品のCIAの描き方は本国アメリカでも賛否があるようだが、徹底的に作りこまれた「時代」と、複雑に入り組んだキャラクターたちが繰り広げる愛憎劇は、少なくとも一本の映画としてはリアリティ十分で、正に「ゴッドファーザー番外編」とでも言うべき風格を備えている。

物語は若くしてCIA創設に関わったエドワードを中心に、幾つものエピソードがレイヤーのように重なりあい、対比を形作りながら繊細かつ重厚なアンサンブルを奏でている。
「フォレスト・ガンプ」「ミュンヘン」など、大河ドラマ系を得意とするエリック・ロスによる脚本は丁寧に作られていて、物語的な完成度は極めて高い。
ただ、組織人エドワードと家庭人エドワードの対比の部分はちょっと描写不足だ。
エドワードが組織と仕事に没頭して行く様は良く描かれているのだが、そもそも家庭で彼と対比を作り出す、アンジェリーナ・ジョリー演じる妻マーガレット(クローバー)の内面が殆ど描かれていないので、彼女の抱える葛藤があまり真に迫ってこない。
なんだか、突然出てきて突然怒っているように見えてしまうのだ。

思えば「ゴッドファーザー」も男たちのドラマだったが、ダイアン・キートンやタリア・シャイアといった女性陣も、出番は少ないながらも要所要所をキッチリと締めていた。
アンジェリーナ・ジョリーの出番自体は決して少なくないのだが、肝心の部分が描写されていないために、損をしている印象だ。
この家庭の不和はその後もずっと後を引くし、結果的に物語の核心部分にも繋がってゆくので、ここの描写不足はちょっと残念だ。

もっともその分、諜報と裏切りのサスペンスは見所たっぷり。
スパイ物がすっかり板に付いたマット・デイモンも、こういった大河ドラマは新境地と言えるかも知れない。
まあ童顔だから、1940年も1960年も同じに見えてしまうのはご愛嬌。
主人公のエドワード・ウィルソンは架空のキャラクターだが、彼を取り巻くCIAのリチャード・ヘイズやフィリップ・アレンといったモデルが誰か容易に推測できるキャラクターも含め、各国諜報機関のスパイたちは虚実取り混ぜており、それぞれ説得力のあるキャラクターになっている。
特に強い印象を残すのが、マイケル・ガンボン演じる英国諜報機関のフレデリックス教授。
スパイとしてのエドワードの師匠であり、エドワードに悲しみと非情の世界の住人である事の運命を強く印象付ける重要な役回りだった。
関係ないけど、マイケル・ガンボンといえばダンブルドア校長でもあり、先日J・K・ローリングスが「ダンブルドアはゲイ」という裏設定を明かしたのは、この映画を観て思いついたんじゃないの?と思ってしまった(笑

「グッド・シェパード」は久々に見応えのあるヘビー級の歴史大河ドラマであり、もう一つのアメリカ「裏」現代史として、「ゴッドファーザー」と比較して観るのも興味深い。
スパイサスペンス物としても良く出来ているが、作品の性格上あえて物語の事実関係をぼかしている部分も多く、登場人物が押並べて難しい顔をしたスーツ姿の男である事も含め、観客にはそれなりに集中力を要求する。
三時間近い上映時間だが、この手の作品が好きな観客には決して長くは感じないだろう。

肉汁の滴るサーロインステーキの様な重厚なドラマには、やはり血の様な赤を。
この作品で神にまで例えられるCIAだが、今回はそのキリスト教の修道院で醸造されていた酒をルーツに持つ「オーコートドニュイ レ ロンシエール」をチョイス。
複雑かつ上品な完成度の高いブルゴーニュで、キリスト教において神の血に例えられるワインは、ヘヴィな映画にも力負けする事はないだろう。

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バイオハザード3・・・・・評価額1300円
2007年11月14日 (水) | 編集 |
2002年に第一作が公開された、ミラ・ジョヴォビッチ主演のアクションホラーの第3作。
アンブレラ社の引き起こした、Tウィルスによる人類ゾンビ化という大災厄はいよいよ佳境を迎え、スーパーヒロインのアリスの中に潜む、「人類を救う可能性」を巡る争奪戦が展開する。

ラクーンシティを壊滅させたTウィルスの感染は、5年後には全世界を多い尽くした。
ウィルスは人間だけでなく、自然の生態系すべてを破壊し、地球は荒涼とした荒地をアンデッドが埋め尽くす、死の世界へと変貌。
生き残った人間たちは、アンデッドを避けて、流浪の生活を余儀なくされていた。
ウィルスを生み出したアンブレラ社のアイザック博士(イアン・グレン)は、地下基地の中でクローン複製したアリス(ミラ・ジョヴォビッチ)から、アンデッドへの対抗策を開発しようとしていた。
一方、本物のアリスは、アンブレラ社の監視衛星の追跡を逃れ、荒野を流離っていた。
ある日、立ち寄った廃墟のガソリンスタンドで、アリスはアラスカには汚染が及んでいないと書かれたノートを手にいれる。
生き残った人間たちのグループである、クレア(アリ・ラーター)の車列の無線を傍受したアリスは、彼女たちと合流するのだが、ついにアンブレラ社にその所在を突き止められてしまう・・・


シリーズの生みの親であるポール・W・S・アンダーソンは今回も脚本を担当し、監督はなんと久々登場のラッセル・マルケイ
クィーンやデュラン・デュランのPVで名を売った後、華々しく劇映画に進出したマルケイも、ここしばらくは全く名前を聞かなくなってしまっていたが、何でもPV時代のマルケイの熱烈なファンだったアンダーソンが、この完結編(?)の監督として招聘したらしい。
マルケイと言えば、「ハイランダー」の印象が強いが、劇場用映画デビュー作は故郷オーストラリアの荒野を舞台に、人喰い巨大イノシシと人間の死闘をスタイリッシュな映像で描いた「レイザーバック」という異色のホラー映画。
荒々しい乾燥した大地の風景が印象的な作品だった。

だからという訳ではないだろうが、「バイオハザード3」の舞台は、前作までとはちがって、荒涼とした西部の砂漠地帯だ。
砂漠を埋め尽くすゾンビの群れ、砂に埋まったラスベガス、といったビジュアルイメージはなかなか良く出来ていて、ある程度目を惹き付ける。
が、さすがに3作目ともなるとネタ切れなのか、物語自体はどこかで見たようなシチュエーションの連続だ。
荒野を行く武装した車列は、マルケイの母国オーストラリアの「マッドマックス」か「バトルトラック」みたいだし、メンバーの一員が人知れずゾンビに噛まれているのはもう思い出すのも鬱陶しいくらいにお約束だ。
映画オタクのアンダーソンの脚本だから、車列のスクールバスがカラスに襲撃されるシーンに、ヒッチコックへのオマージュを臭わせるなど、ニヤリとさせられる部分もあるし、決してパクリには見えない工夫はされているのだが、やはり殆ど全部がどこかで見たような画面ばっかりでは観ていてどこか白けてしまう。

思えば第一作の「バイオハザード」は、極端にシンプルで冷たく乾いた印象のアンブレラ社のラボを舞台とすることで、荒廃した世界を舞台とした従来のゾンビ物と一線を画した世界観を構築していた。
第二作の市街戦を経て、この三作目で荒野を持ち出してきたのはこのシリーズとしては新機軸なのかもしれないが、それは皮肉にも最もありきたりなゾンビ映画への回帰となってしまっている。

クライマックスも、世界を救う最後の戦いにしては今ひとつ盛り上がりを欠く。
ボスキャラがあまり強そうに見えず、悪役キャラとしても魅力的でないのだ。
アレなら二作目のネメシスの方がよほど凄そうだった。
特に造形はもうちょっと何とかならなかったのか、T-1000がグチャグチャになったような姿は正直言ってダサい。

ただ、散々文句を言いつつも、「バイオハザード3」は単体の映画として見ると、なかなか良く出来ているのもまた事実。
既視感は付きまとうものの、危機また危機の連続で飽きさせないし、一つ一つのアクションは迫力がありスリリングだ。
おそらく、あんまりゾンビ映画などを観ないで、このシリーズだけを観に来る観客の方が、余計な事を考えずに楽しめる作品だろう。

それに結局のところ、この作品の要であり、「バイオハザード」として作品を成立させているのは、ミラ・ジョヴォビッチ演じるアリスというキャラクターの魅力である。
コンピュータゲームの世界から抜け出してきた様な、現実離れした肉体の迫力は、それだけで百の言葉よりも説得力を持っている。
ただミラ様、アップになると皺隠しなのか顔全体にエフェクトがかかるのだが、妙にツルンとした質感のために、かえって違和感が出てしまっていた。
普通に写っているだけで相変わらず格好良いし、アクションも十分に見応えがあるのだから、あまり変な所に気を使わなくても良いのにと思うのだが、これも女心なのだろうか。

今回は主人公と同じ名を持つ、アリス・エ・オリヴィエ・ド・ムールからクールな白「ブルゴーニュ ア・リゴテ」をチョイスしよう。
名前の通り、アリスとオリヴィエという近年急速に評価が高まっている二人の若い醸造家によって作られる良質の酒で、シャルドネが有名だが、このアリゴテも十分に美味しい。
ここの酒はラベルがフランス人らしいウィットに富んだデザインで、なかなか楽しい。
バイオレンス映画で神経が疲れた後は、さっぱりしたお酒で心を癒そう。

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ALWAYS 続・三丁目の夕日・・・・・評価額1550円
2007年11月08日 (木) | 編集 |
昭和は遠くなりにけり・・・・
「ALWAYS 続・三丁目の夕日」は、タイトル通り2005年に公開された「ALWAYS 三丁目の夕日」の完全な続編。
前作は、昭和という人々の思い出の中に存在する「時間」その物を、VFXを駆使してテーマパーク的に再現するという、「大特撮人情喜劇」とでも言うべき全く新しいコンセプトの作品だった。
最新のテクノロジーによって、現実では絶対に見ることの出来ない世界を描く。
これは正に映画の夢そのものであって、日本映画においては何故か忘れられがちな映像技術の持つ可能性を、圧倒的なビジュアルイメージとして見せつけた前作は、ある意味日本映画史のエポックであった。
前作以降、二匹目の泥鰌を狙った作品もいつくか作られたが、やはり作品コンセプトの明快さと作りこみの違いは歴然としていて、内容的にも興行的にも「ALWAYS 三丁目の夕日」を越えた作品は無い。
あれから二年。満をきたしての真打再登場である。

高度成長時代前夜の昭和34年春、夕日町三丁目。
小説家の茶川さん(吉岡秀隆)は、去っていったヒロミ(小雪)の事を想いながら、今日も子供向けの小説を書いている。
ある日、川渕(小日向文世)が再び淳之介(須賀健太)を連れ戻しにやって来るが、三丁目の住人たちの助力もあって、茶川さんは何とか条件付で、淳之介と暮らすことを川渕に認めさせる。
その条件とは淳之介に「人並みの暮らし」をさせること。
一念発起した芥川は、淳之介のため、そして去っていったヒロミのために、芥川賞への再挑戦を決意し、純文学の執筆に取り掛かる。
一方、お向かいの鈴木オートでは、六子(掘北真希)も仕事を覚えて、商売もまずまず順調。
そんなある日、鈴木家に事業に失敗した親戚の女の子が預けられる事になる・・・


「ALWAYS 三丁目の夕日」シリーズは、特撮映画である。
その事を端的に表しているのが、遊び心満点のオープニング
まさかこう来るとは思わなかったが、作り手がこの映画が観客にどんな風に受け取られているのかをしっかりと把握している事が判って、とりあえず掴みはOK。
もっとも、この続編では、昭和30年代の東京という前作で最大のウリになったビジュアルは、相変わらず良く出来ているものの、やはり前作ほどのインパクトは無い。
最近高速道路の撤去が計画されている日本橋や羽田空港など、新しい「名所」は登場するものの、何しろメインの舞台となる夕日町三丁目は前作と同じだから、もはや見慣れた風景だ。
何よりも、前作のキービジュアルだった建設中の東京タワーという、作品世界を象徴するほどの強いビジュアルイメージは、そうそう作れるものでもない。
となると、前作を上回る146分もの上映時間を持たせるのは、必然的に物語の魅力という事になる。

前作で、見事な映像により再現された「古き良き時代」のイメージが、多くの人の心を捉えて大ヒットしたのは記憶に新しいが、映像の見事さに対して、短編の原作をツギハギした物語は若干冗長で、映像負けしている印象は否めなかった。
コミックの映画化にはありがちだが、次から次へと登場するキャラクターがとにかく多く
て、彼らの紹介だけでも一苦労。
加えてメインとなる物語を、原作で主人公的な存在である鈴木オートの一家と、小説家の茶川さんの二本立てにした事から、物語がなかなか収束せず、全体のバランスはちょっとゴチャゴチャしていた
そこで今回は、ある程度原作から離れて、茶川さんが「理想の家族」を手にいれる物語という幹を明確にし、そこに原作からの様々なエピソードを絡ませるという手法をとっている。

結果的にこれは正解だったと思う。
物語にはっきりとした本流と起承転結が生まれた事で、ずっと観易くなったし、キャラクターへの感情移入もし易い。
売れない小説家の茶川さん、親に捨てられた淳之介、そして薄幸のダンサーのヒロミ。
この見事なまでに判りやすい苦労人三人が、前作での切ない別離を乗り越えて、いかに幸せを掴むか、という話は正直ベタだが、日本人の琴線に触れる人情劇であり、茶川さんの芥川賞挑戦のエピソードも含めて王道の物語である。
もちろん、本筋以外にも非常に沢山の小ネタが散りばめられているので、相変わらず少々とっ散らかった感はあるものの、これはむしろ原作ファンにとっては嬉しい作りだろう。
ハンドクリームや洗濯板、カレーライス、24色の色鉛筆といった小道具も上手く使われていて、ポイントポイントで効いている。
観客の目がこの世界に慣れた事を見越してか、全体的にこれ見よがしな東京名所巡り的な作りをせずに、日常的な描写を丁寧に見せていくなど演出的にも洗練されてきている。
山崎貴監督と共同脚本の古沢良太は、前作で見せた可能性を進化させる事に成功していると思う。

映画の結末は、ある意味で予定調和だ。
映画の夕日町三丁目は、ちょっぴり切なさを誘う理想化された思い出の世界であって、リアリズムを過度に持ち込むことは許されないし、観客もそれを望んでいないだろう。
その意味で、この映画の落とし方はこれ以外に無いし、心地よい予定調和だと思う。
ただ、原作のファンの方は判るだろうが、西岸良平の原作は、レトロ趣味ではあるものの、実は昭和30年代という時代のリアリズムに立脚している。
物語は悲劇的なものも多いし、現実の事件を反映したエピソードも多く、結構簡単に人が死ぬ。
あえて時代を表層的に描いている映画とは、微妙に世界観の捉え方が異なるのである。
個人的には、少なくとも茶川さんを巡る物語は完結したと思うので、もし続編があるならば、もう少し時代とそこにいる人間を深く突っ込んだ作品が見たい。
膨大な原作があるからネタには困らないし、マンネリ化を防ぐにはやはり少しずつ視点を変えてみる事も必要だと思う。
もっとも「寅さん」の様に、偉大なるマンネリを目指す、という手もあるのだが。
いずれにしても、これだけの大金脈が二作で終わりになるとは思えない。
次がどんな作品になるのか、期待して待ちたいと思う。

今回は前回と同じ、昭和の香りの残る「ホッピー」のカクテル。
ホッピービバレッジ株式会社のサイトには、ホッピーの飲み方がいつくか紹介されているが、その中から「ホッピースプリッツアー」をチョイス。
辛口の白ワインとホッピーを50:50でグラスに注ぐだけ。
白ワインはこれも国産の「マンズ・山梨県産・樽仕込・甲州 97‘」にして、ホッピーもワインもキンキンに冷やして飲むのがベスト。
ちょっと洗練された昭和の味を楽しめる。

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とりあえず一作目を観てないと、話が判らない





北極のナヌー・・・・・評価額1700円
2007年11月04日 (日) | 編集 |
ナショナルジオグラフィック製作の素晴しいドキュメンタリー作品。
「北極のナヌー」というタイトルから、かわいいいクマの物語だと思う人もいるだろうが、原題は「Arctic Tale」で、直訳すると「北極物語」となるだろうか。
クマが主役ではあるが、北極に生きる生命全般を描いた作品である。

作品の軸となるのはホッキョクグマのナヌーと、セイウチのシーラ
ナヌーとは、イヌイット語でホッキョクグマを意味する、ナヌークという言葉からとられているという。
映画は、同じ春に生まれたこの二頭の雌の7年に及ぶ成長を追いながら、温暖化によって年々生存環境が厳しくなる北極の現実を描いている。
海面温度が上昇すると、ホッキョクグマの狩場である氷原の氷が薄くなり、狩が出来なくなる。
またセイウチにとっても、十分な強度のある氷が無ければ体を休める事が出来ないし、アザラシにとっては子育てのための氷の隙間が使えないので、危険な氷上に子供を放置しなければならない。
泳げないホッキョクギツネは移動すらままならなくなる。
 
今年の夏は北極の氷原が、過去に例がないくらいに縮小し、そのペースは科学者の予測よりも10年も早いという。
我々がニュースで耳にしても、漠然としたイメージしか描けないこの温暖化の現実を、映画は実際にそこに生きる生命の物語として、圧倒的な映像の説得力で教えてくれる。

近年では人々も温暖化慣れしてしまったのか、一部では北極の氷が消滅する事を見越して、氷がなくなれば資源や航路の開発が可能になり、悪いことばかりではない、などとする論調まで出ている。
はたして本当にそうなのか。
映画に登場する自然とそこに暮らす動物たちは、荘厳で美しい。
このまま放置して、この世界が消滅してしまうのを、指を咥えて黙って見ている事が本当に正しいのだろうか。
ホッキョクグマが死滅しても、我々の生活には関係ないかもしれない。
北極の油田が開発されれば、しばらくの間ガソリンは安くなるかもしれない。

しかし、この作品で、薄く張った氷の上で狩が出来ずに立ち尽くすナヌーたちの姿は、明日の人類の姿と見る事も出来る。
この星はひとつの大きなシステムであり、北極で起こっていることは、必ず何らかの形で私たちに降りかかってくるのだと思う。
日本は温暖化の影響が比較的弱い地域であり、危機感は全体的に薄いのかもしれない。
温暖化によって失われるものを、今ひとつイメージできない人は、是非この作品を観て欲しい。
人類は今までも多くのものを失ってきたし、大抵の場合失ってから悔いているのだ

「北極のナヌー」が描いているテーマはとてもシビアだが、その映像は素晴しく、語り口も決して説教臭くない。
観客は自然にナヌーとシーラに感情移入しながら、共感を持って彼らの生きる現実を学び、一個の生命として大切な何かを感じるだろう。
ホッキョクグマとセイウチの寿命は共に30年近くあるという。
願わくば、10年後、20年後にナヌーやシーラ、そして彼女らの子供達のその後の姿が観たい。
それまでこの美しい世界が存在できていればなのだが・・・・

今回は、ナヌーにちなんでカクテルの「スノーホワイト」をチョイス。
「スノーホワイト」は「白雪姫」の事だが、ナヌーは女の子なので、正しく氷原の白いお姫様・・・、というかあの貫禄は雪の女王というべきか。
アップルワイン30mlとウォッカ15ml、グレナデンシロップを1tspをシェイクして、クラッシュドアイスを詰めたグラスに注ぐ。
本来はスライスしたりんごを添えるが、他の果物でも良い。
荘厳な氷原の女王たちに乾杯。

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ブレイブ ワン・・・・・評価額1400円
2007年11月03日 (土) | 編集 |
女タクシー・ドライバー。
ジョディ・フォスターが、アイルランドの鬼才ニール・ジョーダンと組んだ「ブレイブ ワン」は、1976年にフォスターが12歳の娼婦を演じてオスカーにノミネートされた、「タクシー・ドライバー」を思わせる。
あの作品でロバート・デ・ニーロが演じたトラビスは、急激に治安が悪化した70年代のニューヨークで、犯罪者処刑人として喝采を浴びた狂気のヒーローだったが、30年後に作られた「ブレイブ ワン」でフォスターが演じるのは、9.11テロ後の徹底的な治安対策で「世界で最も安全」になったはずのニューヨークで、恐怖と復讐を内包しながら暗躍する新種の処刑人だ。

NYでラジオのパーソナリティーをしているエリカ(ジョディ・フォスター)は、恋人のデビット(ナヴィーン・アンドリュース)との仲も順調で、幸せな日々を送っていた。
ところがある夜、散歩中に暴漢に襲われ、デビットは撲殺され、エリカも瀕死の重傷を負う。
数週間後に意識を取り戻したエリカだったが、デビットを失った喪失感と、事件への恐怖感から外出すらままならない精神状態になってしまう。
恐怖を封じ込めるために、不法に銃を手にしたエリカだったが、ある時偶然入ったマーケットで、銃撃事件に巻き込まれてしまい、犯人を射殺してしまう。
事件現場に駆けつけたマーサー刑事(テレンス・ハワード)は、犯人を殺して金に手をつけずに立ち去った第三の「男」に興味を覚えるのだが・・・


ニール・ジョーダンは、過去にも社会的アウトサイダーを好んで描いてきた映画作家だが、今回もエリカを通して現在のNY、そしてアメリカのメンタリティ表現しようとしている。
9.11テロの後、当時のルドルフ・ジュリアーニNY市長は、NYを「世界で最も安全な大都市」にすると公約した。
大幅な警察官の増員などを柱とした治安対策によって、実際にNYの犯罪発生率は減少しているのだが、この作品ははたして本当に安全になったのか、実は人々は恐怖から逃れられていないのではないか、と問いかける。
主人公エリカは、幸福の絶頂で暴力によって全てを奪われ、その恐怖の記憶から逃れるための抑止力として銃を手にするのだが、ある犯罪に巻き込まれた事をきっかけに、今度は法で裁けぬ犯罪者を抹殺する処刑人と化してゆく。
このあたりはおそらく意図的に「タクシー・ドライバー」を意識させる演出が成されており、エリカが性的倒錯者の車から売春婦を救出する下りなどは、30年前の作品でフォスター自らが演じた売春婦アイリスのエピソードを思い起こさせる。
ただ、「タクシー・ドライバー」のトラビスが、自分の存在を世間に認めさせるために私刑に走ったのに対して、エリカの行動のベースにあるのは「恐怖」だ。
恐怖に対抗するために、銃という力で武装し、対象を抹殺しようとしているその姿は、正しく9.11以降のアメリカの姿に重なる。
似たモチーフを選びながら、しっかりと時代性を作品に反映させているあたりは、秀逸と言っていい。

非合法の処刑人となったエリカと、表層的にはあくまでも法と理性の守護者であるマーサー刑事の関係を軸にした作品の構造は、現在アメリカの縮図としてもなかなか興味深い。
しかしながら、脚本にはご都合主義が目に付く。
エリカは暴漢に襲われた後も、「偶然」にも僅かの期間に何件もの犯罪に巻き込まれる。
幾らNYでもこれは出来すぎの設定だし、作為性を強く感じさせてしまう。
描きたいテーマは明確なのだが、そのために物語の流れがやや紋切り型になってしまっていて、複雑なエリカの心情を描く邪魔になってしまっている部分もある。
第一の事件はこの心理状態、第二の事件はこれ、第三の事件の時はこれ、と非常に段階的なので、心理状態は判っても、なぜそうなっていったのかという説得力には疑問がある。
話の流れにキャラクターの心理が引きずられている印象だ。
まあそれでも、彼女が徐々に処刑人としてのメンタリティに支配されてゆくプロセスは、しっかりとしたテーマ性がバックボーンにあるだけに、十分興味を惹きつける。

ところが、恋人を殺した犯人が検挙され、エリカに復讐のチャンスが巡ってくると、「タクシー・ドライバー」は突然チャールズ・ブロンソン主演の家族を殺された男のB級復讐譚「狼よさらば」になってしまうのだ。
もちろん、「狼よさらば」は傑作だし、それがいけない訳ではないのだが、それまでの物語のカラーからいきなり脱線してしまったような違和感があった。
復讐者エリカと処刑人エリカが今ひとつ噛合わない。
極めつけはラスト5分の展開で、マーサー刑事の唐突な行動などは、犯人じゃなくても「オイオイ、あんたそういうキャラじゃなかったやん!」と突っ込みたくなってしまった。
あれでは、作品のテーマとしてオチていない
これは本当にニール・ジョーダンの意図したラストなのだろうか。
どうも「ハリウッドの法則」を感じてしまったのだが・・・またハリウッド流に反発してアイルランドに帰ってしまうのじゃないだろうか。

「ブレイブ ワン」は恋人を暴漢に殺された一人の女性が、処刑人へと変貌してゆく様を描いた異色の社会派サスペンスだが、彼女の行動が内包する複雑なテーマを、十分に描ききっているとは言いかねる。
ジョディ・フォスターは熱演しているし、物語も興味深いものだが、肝心のクライマックスでB級ハリウッド映画に変身してしまうので、最後の最後でうっちゃりをかまされた気分だ。
総合的に観ればまずまずの作品だが、特にニール・ジョーダン作品として期待すると、今ひとつ満足度は低い。

今回は寝苦しい夜の悪夢のような映画なので、鑑賞後は爽やかに。
ニューヨーク発生のカクテル、「ロングアイランドアイスティー」をチョイス。
ジン15ml、ウォッカ15ml、ホワイトラム15ml、オレンジ・キュラソー 15ml、レモンジュース 30ml、シュガーシロップ1tsp、スパークリングミネラルウォーター適量を、クラッシュドアイスを入れたグラスに注いでステアする。
最後にスライスオレンジ飾って完成。
季節的には夏向きのカクテルだけど、濃い映画の鑑賞後の口直しにもちょうど良いだろう。

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