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酒を呑んで映画を観る時間が一番幸せ・・・と思うので、酒と映画をテーマに日記を書いていきます。 映画の評価額は幾らまでなら納得して出せるかで、レイトショー価格1200円から+-が基準で、1800円が満点です。ネット配信オンリーの作品は★5つが満点。
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2007 unforgettable movies
2007年12月29日 (土) | 編集 |
早いもので2007年も後二日となってしまった。
例によって、今年も「忘れられない映画」を思い出してみようと思う。
映画の良し悪しではなくて、一年を思い返すとなんとなく心に残っている、そんな映画を考えてみたい。
何でも、今年の世相を現す漢字は「偽」となったらしいが、映画に関して言えばトレンドは「真」だったと思う。
事実は小説よりも奇なりというが、環境問題から戦争、医療まで様々な主義・主張を持った優れたドキュメンタリーが作られ、注目された年だったと言えるだろう。
またフィクションの世界でも、社会的なテーマを持つ作品が少なくなかったのは今年の傾向と言えるかもしれない。
それでは鑑賞順に。

「それでもボクはやってない」は、周防正行監督の11年ぶりとなる新作映画。
一般にあまり知られていない世界を、映画という形で紹介するというスタンスは以前と変わらないが、「作らねばならない」というテーマに対する作家の強い使命感が感じられた作品だった。

「パンズ・ラビリンス」は、メキシコの鬼才ギレルモ・デルトロの最高傑作。
死が生を侵食し、全てが交じり合った少女の精神世界を圧倒的な描写力で描いた。
60年以上前のスペイン内乱を舞台とした作品だが、今でも世界中に存在するであろう、迷宮に迷う子供たちの魂が痛々しい。

「300 スリーハンドレッド」はデジタルシネマ時代の新しい表現を模索した力作。
フランク・ミラーのグラフィックノベルを映像化するという難題に果敢にチャレンジし、結果的にそれを超えた。俳優すら映像の一要素と捕らえ、極めてアニメーション的なアプローチで制作された実写作品である。

「ナイト・ミュージアム」は、子供の頃に見た夢が現実化したような、楽しさ一杯の娯楽快作。
あんな博物館があれば、誰でも絶対行ってみたくなるが、実際にこの映画の公開後、全米の博物館の入場者は軒並み上昇して、ナイトツアーを行う博物館も多いという。
私も久々に上野の科学博物館に行ってしまった。

「ブラット・ダイヤモンド」は、バディムービーの名手エドワード・ズウィックのベスト。
アフリカの密輸ダイヤという社会派なテーマを、ある意味で実にハリウッドらしい骨太のアクションアドベンチャーとして描いた。
描く対象に対する真摯な姿勢が、娯楽映画と社会的なテーマを乖離させず纏め上げる事の出来た要因だろう。

「東京タワー オカンとボクと、時々、オトン」は、丁寧に作られた邦画の秀作。
マザコンの極みの様な気がしないでもないが、やはり泣かされてしまった。
樹木希林/内田也哉子という絶妙なキャスティングで既に勝った様な物。
正直なところ、私は人情物には弱い。

「バベル」は、痛い。
イニャリトゥの力作は、バベルの塔を作った事で神の怒りに触れた人間たちの物語。
罪と不寛容が世界各地で同時多発的に人間たちを苦しめ、ある者には救済が訪れる。
やや技巧に走った感はあるが、神のような巨視的な視点で、地上を這い回る切なく痛々しい人間の姿を描き上げた力作だった。

「パイレーツ・オブ・カリビアン/ワールド・エンド」は、わかっちゃいるけどやめられない~・・・。
映画としてはもの凄く出来が悪いのに、たまらなく好きな映画だ。
この映画に関してはロジックで語ることは出来ない。
なんだかわからないけど、好き。そんな映画がたまにあっても良いだろう。

「河童のクゥと夏休み」は、原恵一監督が見せてくれた正しい夏休み映画。
作劇に若干混乱した部分もあるが、ワクワクする物語と美しい映像は、観客の子供たち(大人たちも)の忘れられない夏休みの思い出になっただろう。

「レミーのおいしいレストラン」は、アメリカ発の夏休みアニメの真打。
ピクサーアニメーションスタジオの物作りのレベルの高さをまざまざと見せ付ける秀作だった。
レストランの嫌われ者のネズミがシェフになるという逆転の発想から、シンプルな物語の中にしっかりと描かれるテーマ性まで、実に見事なフルコースだった。

「遠くの空に消えた」は、行定流の少年映画。
ジブリ映画を実写化したような不思議な世界観に、これまたデザイン化された大人たちのキャラクター。
この世界では空想は空想のまま存在し、ある意味で物語もキャラクターも纏まる事を拒否したような奇妙な、しかし心に残る作品だった。

「シッコ」は、マイケル・ムーアの新境地。
アメリカの医療制度問題をテーマに、従来の突撃取材ではなくて、海外との徹底的な比較を通して、問題の本質に迫ってくる。
ムーアの作品は基本的にプロパガンダだが、今そこにある問題を炙り出すという目的においては完璧な仕上がりであり、圧倒的な迫力で心に迫ってくる。 

「ヒロシマナガサキ」は、ドキュメンタリーの巨匠スティーブン・オカザキのライフワークとなる「核」をテーマとした一遍。ムーアが「動」だとしたらオカザキのこちらは「静」であり、ヒロシマ・ナガサキでの体験者のインタビューを淡々と流す。
しかしながら、その構成の見事さで、観るものに深い感慨を残す。

「ヘアスプレー」は、60年代の弾けるアメリカの青春。
観ていて踊りたくなるくらい、躍動感にあふれたミュージカルの傑作。
公民権運動という時代背景もしっかりと生かし、作品的な完成度も極めて高い。
新星ニッキー・ブロンスキーとジョン・トラボルタのオデブな母娘コンビも楽しかった。
そういえば今年は特殊メイクのデブキャラが活躍した年でもあった。

「ベオウルフ」は、ロバート・ゼメキスの独創のデジタルアニメーション。
実写をアニメーション的に捉えた「300 スリー・ハンドレット」とは対照的に、アニメーションを実写的に捉えた作品と言える。
俳優の肉体ではなく、演技力そのものをキャプチャして世界に取り込むという考え方は、単なるモーションキャプチャーを越えて、映画に新しいスタイルを確立する可能性を秘めている。

「カンナさん大成功です」は、2007年の最後に届いた韓国からの素敵なクリスマスプレゼント。
整形美人の切ない恋を通して、整形と言う「偽」の中にある心の「真」を描き出した、今年を締めくくるのに相応しい秀作だった。

ドキュメンタリー映画には他にも「北極のナヌー」「不都合な真実」などの秀作もあった。
全体にドキュメンタリーの製作本数、一般の劇場での公開は世界的に増加傾向にあり、この流れは来年も続くだろう。
また「ミス・ポター」「グッド・シェパード」など実在の人物や組織を描いた佳作も多かった。
ハリウッド映画は相変わらずシリーズ物が多かったが、その中では「ボーン・アルティメイタム」が頭一つ抜けていたと思う。
技術面に目を向けると、映画の制作現場ではデジタルがアナログを駆逐しつつあり、日本でも撮影素材はハイビジョンがフィルムを数の面で圧倒するという、急激な変化の時代に突入している。
「300 スリー・ハンドレット」と「ベオウルフ」は、CGという「偽」と実写という「真」の狭間にある作品だが、既に両者は融合し、過去に誰も見たことのない独特の表現が生まれつつあると言っても良いだろう。
日本映画では「ALWAYS 続・三丁目の夕日」が一人映像表現で気を吐いていた。
はたして2008年はどんな作品に出会えるのだろうか。

それでは皆さん、良いお年を。

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カンナさん大成功です!・・・・・評価額1700円
2007年12月29日 (土) | 編集 |
今年最後の拾い物。
キム・ヨンファ監督「カンナさん大成功です!」は、韓国映画の底力を見せ付けるラブコメの傑作である。
素晴らしい脚本と奇を衒わない丁寧な演出、そして絶妙と言って良いキャストたちの好演で、今年のトリを飾るのに相応しい幸福な一本と言って良い。

デブ・ブス・根暗と三拍子そろったカンナ(キム・アジュン)は、実は美声の持ち主で、美人でスタイル抜群だが音痴な歌手アミ(ソ・ユン)の口パクを担当している。
しかし、アミのプロデューサーのサンジュンに恋をしてしまったカンナは、一念発起して
美容整形界のゴッドハンド、イ先生(イ・ハヌィ)を訪ねる。
一年に及ぶ手術とダイエットの結果、全くの別人に生まれ変わったカンナは、歌手志望の韓国系米国人ジェニーとして、再びサンジュンの前に姿を現すのだが・・・・


原作は鈴木由美子による日本の漫画だそうだが、未読なのでどこまで原作に忠実なのかはわからない。
しかし、この作品はとにかくキム・ヨンファとノー・ヘヨンによる脚本が素晴らしくよく出来ている。
構成もキャラクター造形も、ほとんど文句のつけようがなく、整形という「偽」を描くことを通して、その中に潜む人間の切ない心という「真」を浮かび上がらせるという、テーマへのアプローチもしっかりとしている。
なおかつ「好きな事が出来るのは神様だけだ。人間は自分が出来ることをやったほうが良い」なんて心に染みる名台詞を、要所要所に配していたりするのだから小憎らしくなる。
映画学校の脚本のクラスで使っても良いくらいの、優れた脚本である。

これだけ完成度の高い脚本があるのだから、後は作り手がそれぞれに良い仕事をして、映画をしっかりと組み立てるだけ。
特殊メイクで、オデブのカンナと変身したジェニーを演じ、歌唱シーンまで吹き替えなしで歌い切ったというキム・アジュンは文句なしの好演。
何でもこの役は役者が整形していないことが絶対条件だったそうだが、確かにナチュラルな雰囲気を持ったステキな役者さんだ。
整形したのに自分が美人である事に慣れていないカンナが、妙に自意識過剰な変な人になってしまうあたりのコミカル演技はかなり笑える。
彼女の恋の相手であるサンジュン役のチュ・ジンモも、単なる優男ではない、内側の情念を感じさせてなかなか良い。
相変わらず韓国の役者は良い人揃っているが、「チャングムの誓い」のカン・ドックおじさんこと、イム・ヒョンシクがカンナの痴呆症の父親役で、美味しいところを持ってゆく。

作品を纏め上げるキム・ヨンファの演出そのものはオーソドックスな物だが、何しろ素材が良いので、奇を衒ったことは必要ない。
物語が十分面白いのに加えて、この作品の場合は音楽映画というプラスアルファの要素まであるので、盛り上がりには事欠かない。
前半の、アミのステージの裏で一人カンナが歌い上げるシーン、初めてのテレビ出演で観客の心を掴むシーン、そしてクライマックスのファーストコンサートのシーン。
カンナの歌声にこそ真実の心があるというコンセプトは一貫していて、それぞれの段階での彼女の心を訴えかけカタルシスを感じさせる素晴らしいシーンになっている。

「カンナさん大成功です!」というタイトルの意味は、映画を最後まで観るとわかるようになっているが、ともかく映画そのものは大成功と言っていい。
整形美人の心の叫びという、ある意味整形大国として知られる韓国らしい映画だが、描かれている内容は普遍性があり、おそらく世界中のどこに出しても理解される話だろう。
数年後、ハリウッド映画や日本のテレビドラマでリメイクされる可能性が大だと思う。
あえて言えば、まとまりが良過ぎて物足りないと言えなくもないが、実際欠点らしい欠点が無いのである。
日本では上映館が少ないのが残念だが、これだけ完成度の高い良質の娯楽映画にはなかなか出会える物ではない。
一時のブームは過ぎ去ってしまった韓流だが、本当はこういう映画こそヒットしなければならないはずなんだけどな。

今回は、美味なる韓国映画の付け合せに、韓国料理店でよくサーブされている「キューカンバー・サワー」をチョイスしよう。
フレッシュなキュウリを長さ5~8センチくらいに切り、更に細切りして韓国焼酎を炭酸水でお好みの濃さに割ったサワーに入れる。
炭酸が苦手な人は、単に水で割っても構わない。
キュウリは焼酎を、焼酎はキュウリの甘味を吸って、まるでさっぱりしたメロンの様なリッチなフレーバーとなる。
素顔のカンナさんの様に、素朴ながら中身はゴージャスなカクテルだ。

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アイ・アム・レジェンド・・・・・評価額1450円
2007年12月19日 (水) | 編集 |
もしも、この世界に一人ぼっちだったら・・・・
フランシス・ローレンス監督「アイ・アム・レジェンド」は、そんな子供じみた空想が現実になった世界の物語。

西暦2012年、ニューヨーク。
細菌学者のロバート・ネビル(ウィル・スミス)は愛犬サムと一緒に、無人の街でサバイバルしていた。
人類は、3年前に医療用から変異した恐るべきウィルスによって滅亡してしまった。
他の生存者の存在を信じて、日々ラジオ放送を続けるネビルだったが、夜になると厳重なシェルターと化した自宅に閉じこもらねばならない。
太陽が沈むと、街はただ食欲だけを持ち、人間としての知性や感情を失い吸血鬼と化したウィルス感染者たちの支配する恐怖の世界になるのだ。
たった一人で、ワクチンの研究を続けるネビルは、ある日動物実験で結果が出たワクチンを実証するために、感染者の女を捕らえるのだが・・・


リチャード・マシスンの古典SF「吸血鬼」の三度目のリメイク。
古い方は、子供の頃チャールトン・ヘストン主演の「地球最後の男 オメガマン」をテレビで観た記憶があるが、こちらは中ソの細菌戦争の結果、人類が滅びてしまうという設定で、いかにもB級然とした作品ながら、子供心にはそれなりに楽しかった。
ただ、今回のリメイク版は、世界観から言えば旧作よりもダニー・ボイルの「28日後」に近い。
特に吸血鬼というよりもゾンビに近い感染者の描写はかなりデジャヴを感じさせるし、舞台をロンドンからNYに置き換えた「28日後」のリメイクと言った方がしっくりくるかもしれない。
もっとも、感染者が吸血鬼の伝統通り太陽光に弱いという設定だけは原作通りなので、感染者の支配する恐怖の夜と、人間であるネビルの昼という対比が映像的に面白いコントラストを生み出している。

それにしても、実際に無人の廃墟と化したNYのビジュアルは圧巻。
野生動物が感染しないのは何でとか、食料何年も腐らないのとか、ウィルスが寒さに弱いなら、北極圏は無事なのではとか、設定に色々突っ込みどろこは多いながら、これだけ明確な世界観を映像で見せられると、もはや受け入れるしかない気分になってくるから不思議だ。

この異世界と化した街で孤独に耐える主人公に、人類を救う役ならお任せ、のウィル・スミス
一人芝居に近い状態が上映時間の大半を占めるが、しっかりと存在感で持たせるのは流石。
「幸せのちから」では息子と競演したが、今回は実の娘と回想シーンの親子役で競演を果たしている。
だが、今回のベストアクトは、彼のバディである犬のサマンサだろう。
ネビルの感情の受け皿となり、唯一の泣かせどころまで持ってゆくという大活躍だった。

しかし、近未来SFホラーとしてかなり面白い作品だが、観終わるとどこか物足りない
この映画の上映時間は、最近のホリディシーズン大作としては例外的に短い一時間四十分。
だが原因はそこではなくて、物語のオチが中途半端なせいだろう
具体的には、せっかく感染者側にネビルと対になるキャラクターを作りながら、それが生かせておらず、感情的にオチていないのだ
ネビルが実験台として感染者の女を奪ったとき、男がそれを追って、危険な日中に飛び出したのを見て、ネビルは感染者が自己の危険を理解する事も出来ないくらい退化していると感じた。
しかし実際には、感染者の男はリーダーシップを発揮して組織的な狩を行い、ネビルの行為をそっくり真似てサムを殺すという復讐すら成し遂げる。
暴力衝動こそあれど、感染者は依然として人間であり、愛する女を奪還するためにネビルを執拗に追跡する。
男の行動は、本来同じように愛するものを失ったネビルの合わせ鏡で、ネビルと感染者の男の対立構造によって物語が進む以上、ネビルが男の中に自分自身を見る事でしか、この物語はオチないのだ。
「神様の計画」の一言で物語を締めくくられては、それまでせっかく作り上げてきた興味深い対立構造が、結局何の意味もなかったという事になってしまい、肩透かしをくらった気分になってしまう。

実はタイトルの「アイ・アム・レジェンド」の持つ意味も、原作と映画では大きく異なっている。
映画では、命を賭して人類を救うワクチンを開発しようとするネビルが、生き残った人類の伝説となる、という意味での「レジェンド」だが、原作では吸血鬼が寝静まる日中に、吸血鬼狩りをして胸に杭を打ち込み続ける主人公が、吸血鬼社会の中では逆に恐怖の対象としての「レジェンド」として語り継がれているという皮肉な設定になっている。
同じ「伝説」でも意味合いがまるで違うのだ。
今回の映画では、感染者が知性を失っているという設定だから、原作をそのまま当てはめるのは無理があるが、立場を逆転して考えれば、結局どちらも同じだったというオチは、今回の映画版が途中まで準備しながらも結論をスルーしてしまった、最も重要な要素だったと思う。

そんな訳で、「アイ・アム・レジェンド」は、傑作に成りかけたけど、自らそれを放棄してしまった作品という気がする。
世界観は面白いし、それを現実化したビジュアルも見事。
フランシス・ローレンス監督は、コンパクトな上映時間の中でエンターテイメントとして十分に楽しめる作品を完成させているが、もう一歩テーマへの拘りがあれば近未来SFの傑作として本当に「レジェンド」に成っていたかも知れない。

今回は、伝説の名を持つ酒「レジェンド・オブ・キューバンラム」をチョイス。
1940年代~50年代にキューバで蒸留されたラムをスペインに運び、長い年月をかけて古酒として熟成された樽から、少しずつボトリングされる希少な酒。
濃密な味わいと豊かな香りは、歳月を経た酒ならではの物だ。
映画はちょっと伝説には成りそこなった感があるが、こちらは文句なしだ。

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一回目


二回目

スリザー・・・・・評価額1300円
2007年12月15日 (土) | 編集 |
アメリカの田舎町を舞台として典型的なB級侵略SF
よくも同じ設定の話を飽きずに作り続けるなあと思わないでもないが、新鮮味なんて知らないよ~んとばかりに開き直ったB級映画は、新しい味など無くても作り手の腕とサービス精神次第でそれなりに美味しくいただけるのも事実。
タイトルの「スリザー」とは、ズルズルと這う様子を表し、ヘビやナメクジの動きを表すときに使う言葉。
そのタイトル通りヌメヌメ、ドロドロのナメクジ型エイリアンが暴れまくる。

とあるアメリカの田舎町。
町の名士であるグラント(マイケル・ルーカー)は、ふとした事で妻のスターラ(エリザベス・バンクス)と気まずくなり、バーでヤケ酒を煽っていた。
飲んだ勢いで女友達のブレンダと森へ行ったグラントは、そこで奇妙な物体を発見する。すると突然小さな生き物が飛び出し、グラントの腹に刺さって、そのまま体内へと侵入してしまった。
次の日からグラントは人が代わったようになり、町では犬が行方不明になる事件が続発し、ブレンダも失踪してしまう。
警察署長のビル(ネイサン・フリオン)はブレンダ失踪の容疑者としてグラントを疑い、スターラもまたグラントの行動に不信感を募らせていった。
やがてグラントの容姿に明らかな異変が起こってくる・・・・


隕石が田舎町に落下するところから始まる侵略SFって、もしかしたら100本ぐらいあるんじゃなかろうか。
はっきり言って、オリジナリティはほぼゼロ
登場人物は田舎者のステロタイプだし、エイリアンのデザインや設定も、物語の展開も、すべてどこかで見たことのあるものばかり。
特に後半の大量発生したナメクジ型エイリアンが口から侵入し、乗っ取られた街の人間が次々とゾンビ化するというのは、1987年にフレッド・デッカー監督が発表した「クリープス」そっくりだ。
他にも多段変形するエイリアンがグラントに進入するのはもちろん「エイリアン」だし、そこから謎の軟体生物化するのはまるで「物体X」プラス漫画の「寄生獣」
風呂に入っている女の子が襲われるのも、警察の無線係が襲われるのも勿論お約束。
色々な作品から要素を借りてきているが、監督のジェイムス・ガンは、これらの元ネタを思いっきりグロく悪趣味に再生産する事で、全体の統一感を出している。

ちょっとユニークなのは、乗っ取られた人間が皆エイリアンと最初の宿主であるグラントの意識を共有することで、この設定をわかりやすくするために、一回エイリアンに乗っ取られかけるが、何とか助かる女性をメインキャラクターに用意している事。
簡潔な説明が困難な描写になると、このキャラクターが乗っ取られかけた時の記憶から、率先して説明してくれるので、物語がそこで滞らない。
ベタベタではあるものの、決して雑ではないのがこの作品の良いところだ。
ただ、始まってから30分くらいは派手な見せ場が無いので、話がありきたりな分だけ少々辛い。
エイリアンとの戦いが始まるとそこからは一気呵成にみせるのだが。

「スリザー」には侵略SFの新機軸の様な物は何も無いし、そもそも作り手が斬新な何かを見せようなどという意識を持っていない。
しかし、無数の先人たちの様々なトライ&エラーの結果作り上げられてきた、この手の映画のお約束の話は、ある意味で無駄なく洗練されており、新しい物は無くても安心して楽しむ事はできる
まあ「水戸黄門」型の勧善懲悪の時代劇と同じで、話のパターンは毎回同じでも、作り手がそのパターンの良さをしっかりと理解していればそれなりに楽しめてしまうのだ。
週末のレイトショーで、気楽に観るにはちょうど良いかもしれない。

さて、今回のエイリアンはナメクジ型。
ナメクジ退治といえば塩、というわけで塩と飲む酒といえばテキーラ。
本場メキシコ産の「サウザ・シルバー」をチョイス。
テキーラ本来のシンプルかつピュアな口当たりが楽しめる。
アメリカ南西部の田舎が似合う酒でもあるなあ。

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XX エクスクロス 魔境伝説・・・・・評価額1200円
2007年12月12日 (水) | 編集 |
観る前はホラーだと思っていたのだけど、こりゃアクションコメディ?
ケータイ小説のベストセラーを、深作健太が映画化した「XX エクスクロス 魔境伝説」は、山奥の村に伝わる人身御供の奇祭というホラー然とした設定を使いながら、まるで70年代の香港映画の様な、デタラメなサービス精神が詰まった大バカアクションが展開するという、今年の邦画でも群を抜いて珍妙な一本だ。

女子大生のしより(松下奈緒)は、親友の愛子(鈴木亜美)に誘われて、山奥にあるひなびた温泉地、阿鹿里村(あしかりむら)を訪れる。
彼氏の浮気で傷ついたしよりにとっては傷心旅行だったが、この村の住人はどこか奇妙で、しよりは不安を募らせる。
露天風呂に愛子を残して、一人で宿に戻ったしよりは、前の客が残していったと思われる携帯電話が鳴っているのを見つける。
「そこからすぐに逃げるんだ。足を切られるぞ!」
電話の男は、しよりにそう告げるのだったが・・・・


故深作欣ニ監督「バトルロワイヤルⅡ」の撮影時に死去した時、その後を引き継ぐ形で監督デビューしたのが息子である本作の深作健太監督。
しかしながらそのデビュー作は、ラジー賞級の散々な出来栄えで、一本目にしてダメ監督のレッテルを貼られてしまった。
世に親子監督はそれほど珍しくないが、これほど酷いデビュー作は、イタリア恐怖映画の巨匠マリオ・バーバを父に持ちながら、Z級ホラーばかりを連発する息子のランベルト・バーバ以来だったのじゃなかろうか。
実際「バトルロワイヤルⅡ」は、褒めるべきところの殆ど無い酷い代物だったが、昨年の「スケバン刑事 コードネーム=麻宮サキ」を経て今回の「エクスクロス 魔境伝説」までくると、深作健太の演出にもある種のスタイル(?)が確立されてきているのが面白い。

深作父は、B級プログラムピクチャーから文芸大作までこなす器用な演出家だったが、息子は言ってみれば父親の持つ最もB級なセンスだけを抽出して、エスカレートさせたような大バカ映画作家になりつつある。
それも例えば堤幸彦の「大帝の剣」あたりが、露骨に狙ってバカ映画を作ろうとしているのに比べて、深作健太はどちらかと言うと、大真面目に娯楽映画を作ろうとして、結果的にバカ映画になってしまっているフシがある。
本作の場合、山奥の秘境に人知れず恐るべき人身御供の儀式が残っているという、設定だけ考えれば、例えば英国の孤島に残る奇祭を描いた70年代の名作カルトシネマ「ウィッカーマン」の様な渋い作品にすることも出来ただろう。
が、実際に出来上がったものはホラーとアクションとコメディをごちゃ混ぜにして、勢いだけで見せ切るような豪快な一本だ。

物語は、奇妙な因習に囚われた村を舞台に、不気味な村人たちから人身御供に捧げられそうになる松下奈緒の逃亡劇と、鈴木亜美と彼女を追ってきた恋敵らしい小沢真珠演じる謎のハサミ女の延々続くバトルアクションが中心となり、そこに村の秘密や二人を村に誘い込んだ黒幕探しが絡む。
面白いのは松下奈緒の逃亡劇と、鈴木亜美vs小沢真珠の戦いは同じ時間軸の中で視点を変えた別々の物語として描かれている事で、この二つの物語を一つにまとめるキーアイテムとして携帯電話が効果的に使われている。
一つの事件を視点を変えて描くと言うのは、まるでイーストウッドの硫黄島二部作の様だが、まさかあの高尚な映画の作劇がこんなバカ映画で応用されているとは、流石のイーストウッドでも想像がつかないだろう。

もっともイーストウッドを連想させるのは作品の構造だけで、物語はあきれるほどに荒唐無稽だし、キャラクター造形はギャグそのものだ。
村まで直通の車道があるのに、主人公たちがわざわざ車からロープウェーに乗り換えていたり、ひなびた村のくせにやたらと豪華なバンガローが並んでいたり、ご都合主義もはなはだしいし、そもそもあんな不気味な村が観光で成り立つ訳がない(笑
もっともそんなのは序の口で、村の秘密とは全く関係なく登場する、ハサミ女の小沢真珠のキャラクターなんて完全に頭のネジが飛んでしまっているし、大体あのバーニングなハサミはどこから持ってきたんだ(笑
ハサミ女と因縁の対決をする鈴木亜美も、最初は逃げ回っているのに、突如としてアクションに目覚め、「死霊のはらわた」のブルース・キャンベルよろしく、「偶然」置いてあったチェンソーでハサミ女と戦うのだ。
いやはや、これはもう物語を追うのではなく、その場その場でのぶっ飛んだ展開を楽しむ作品なのだろう。

この作品の原作は未読だが、私はケータイ小説というのは、従来の文学とは似て非なる物だと思っている。
私がいくつか読んだ物に共通するのは、見事なまでの物語の整合性への拘りの無さと、次から次へという矢継ぎ早な展開である。
おそらくそれは、同じ読むという作業でも、一冊の本のページを捲る事で展開する従来の活字小説と、ごく小さな液晶画面をスクロールするケータイ小説の、スタイルの違いから来るものだろう。
故にケータイで読んでいる時は面白くても、塊として活字の本になって読むと、ほぼ例外なく話のアラが目立ってつまらない。
しかし、ひたすら展開だけに頼った作劇というのは、考えてみれば娯楽映画の原初の姿でもあり、案外ケータイ小説と映画の相性は悪くないのではないかとも思える。
この映画の整合性などまるで無視して、次に何が起こるかの面白さだけに振った作劇は、ある意味でエンターテイメントとして潔い。

「XX エクスクロス 魔境伝説」には血も凍る様な恐怖はないし、アドレナリンが沸騰する様な見事なアクションも無い。
ただ、イーストウッドもどきの凝った構成と、次に何が起こるのか全く予測できない、良くも悪くもぶっ飛んだ展開はそれなりに楽しく、1時間半の間飽きる事は無いだろう。
積極的に評価したい作品ではないが、暇つぶしに観るならこれはこれでという感じだ。

今回は、深作父の故郷茨城から「一人娘 吟醸さやか」をチョイス。
鬼怒川に面した常総市で八代続く老舗の酒蔵。
日本酒度は+5とそれほど辛口ではないが、やわらかい膨らみとキレのある喉越しを併せ持つ、爽やかなお酒。
映画とは対照的に洗練された味だ。

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真面目なエクスクロス
ベオウルフ/呪われし勇者・・・・・評価額1600円
2007年12月07日 (金) | 編集 |
ロバート・ゼメキス監督「ベオウルフ/呪われし勇者」は、8世紀ごろに書かれた北欧を舞台とした英雄叙事詩の映画化。
一見すると実写だが、実は俳優の演技は全てパフォーマンスキャプチャと呼ばれる技術によってデータ化されており、完成した画面に映っているのは3DCGによるアニメーションである。
予告編を観た時に、その完成度に驚いた一方で、何でこんな手の込んだ事をしたのか疑問だったが、完成した作品を観て納得した。
なるほど、これほど物理の法則を無視したカメラワークを駆使するなら、いっその事フルCGの方が作りやすかったのかもしれない。

6世紀のデンマーク。
老いたフローズガール王(アンソニー・ホプキンス)の催す宴の最中に、醜く乱暴な巨人グレンデルが姿を現した。
王は、宴を破壊し家臣を虐殺したグレンデルを討伐する英雄を募った。
戦士ベオウルフ(レイ・ウィンストン)は、フロースガールの呼び掛けに応じ、荒海を乗り越えて参上し、激闘の末にグレンデルを倒す。
しかし息子を殺されたグレンデルの母親(アンジェリーナ・ジョリー)が、戦勝に沸く館を襲い、ベオウルフの部下を皆殺しにしてしまう。
復讐に燃えるベオウルフは、グレンデルの母の住む洞窟に向かうのだが・・・


俳優をキャプチャしてアニメーションに置き換えるという手法は、ゼメキスの前作である「ポーラー・エクスプレス」でも試みられていたが、この三年間の技術の進歩は凄まじく、これがコンピューターによって描かれたアニメーションなのだという事を忘れてしまうほどに見事な仕上がりだ。
リアル系CGが陥りがちな「不気味の谷」も、もはや95%くらいは超えていると言って良いだろう。
それでも注視すれば実写の俳優とは微妙な違い(あえて残したのかもしれない)があるのだが、この作品ではその違和感がある種の神話性に上手く繋がっている。

J・R・R・トールキンが「ベオウルフ」の研究者であり、彼の「指輪物語」がその強い影響を受けているのは有名な話だが、「指輪」を含めた最近書かれたファンタジーと比べ、「ベオウルフ」のキャラクター造形や作劇は遥かに神話に近い。
神話の英雄の例に漏れず、ベオウルフはどちらかと言うと自分勝手で高慢な英雄で、映画ではCGなのを良いことに、やたらと脱いでマッチョな肉体を誇示したがるという変なキャラクターになっている。
決して現在の観客が積極的に感情移入して応援したくなる対象ではない。

脚本のニール・ゲイマンとロジャー・エイバリーは、このキャラクター造形をあえて現代的にすることをせず、物語も神話性を損なうことなく巧みに脚色している。
元の話は、巨人グレンデルとの戦いを描いた前半と、それから突然数十年間時間が飛んで、老いたベオウルフとドラゴンとの戦いを描いた後半に分かれていて、それぞれの戦いに明確な関連性は無い。
映画はこの構成を踏襲しつつ、圧倒的な力を持ちながら、魔物に魅入られた英雄の悲劇が、実は世代を超えて繰り返されているというアイディアを持ち込み、物語に見事に一本の芯を通した。
ベオウルフが常人には理解できないくらいの奇天烈な英雄でも、魔に魅入られる弱さは人間そのものであり、自らが招き入れた過酷な運命を、老境になって贖わざるを得ないという悲劇性は、神話的であり寓話的だが、普遍的な説得力を持っており、結果的に不思議な風格を映画に与えている。

物語の舞台となる6世紀の北欧は、キリスト教が進出し、古の魔物や神々が次第に衰退してゆく時代。
またそれは同時に英雄の時代の終わりでもある。
映画のラストで、ベオウルフが葬られるのが、原作と違って海であるのは、海からやってきた英雄を海に返す事で、この物語の神話としての永続性を強調したのであろう。
ゲイマンとエイバリーの一歩引いた視点での脚色は、ファタジー映画というよりも、一編の古典叙事詩を鑑賞したという感慨を観客に与える事に成功していると思う。

ゼメキスは、この古典のベースに現代のアイディアが入った物語を、デジタル技術で存分に描いてみせる。
限りなくリアルだが、決して現実ではない世界を、物理法則を全く無視したカメラが縦横無尽に駆け巡る。
このリアルとファンタジーの狭間に存在する神話的な世界に、CGキャラクターの持つほんの僅かな違和感が、不思議なマッチングを見せるのである。

よく比較される「300 スリーハンドレッド」が、その技術的な背景も含めて限りなくアニメーション的なアプローチで作られた実写作品だとすれば、「ベオウルフ」は実写的な要素を内包したアニメーションと言える。
考え方は真逆だが、共にほんの十年前には不可能だった表現を駆使してデジタル時代の新たな可能性をトライした作品と言えるだろうが、どちらも現実とは僅かにずれた世界観を持ち、極めて叙事詩的というか、壮麗な絵巻物を見るような感覚があるのは面白い。
思うにロバート・ゼメキスは「フォレストガンプ」でデジタルの持つ無限の可能性に目覚めたのだろう。
「ポーラー・エクスプレス」の時は、よく出来ている事は認めつつも、これなら実写でも良かったんじゃないかなと思ったが、ここまで来るとこれはこれで一つの独創的な表現手法だと認めざるを得ない。
ゼメキスの次回作はあの「クリスマスキャロル」だそうで、ジム・キャリーがスクルージと三人のゴーストを演じるという。
勿論、キャリーの肉体がスクリーンに露出することは無い。
独創のアニメーション監督、ロバート・ゼメキスがどこへ行こうとしているのか、なかなかに目が離せなくなってきた。

今回は物語の舞台となったデンマークから「アクアヴィット」をチョイス。
ジャガイモから作られる蒸留酒で、かなりきつい。
テキーラグラスのような小さなグラスで一気飲みし、カッカとほてった喉をビールで冷ますのがデンマーク流。
悪酔いしそうだが、こんな程度で酔っていては北国の英雄にはなれない。
しかし、この飲み合わせは何となく韓国の爆弾酒を連想させるのだけど・・・(笑

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椿三十郎・・・・・評価額1350円
2007年12月05日 (水) | 編集 |
観る前から、面白さの最低保障が付いている様な一本だ。
何しろオリジナルは黒澤明の代表作の一つで、既に娯楽時代劇の傑作としての評価が世界的に確立している。
しかも、リメイクにあたっての改変はせずに、菊島隆三、小国英雄、黒澤明による脚本をそのまま使うというのだから、つまらなく作るほうが難しいだろう。
「映画の出来の八割は脚本で決まる」と言ったのはその黒澤だったが、はたして平成の森田芳光版「椿三十郎」はオリジナルの八割からどこまで上に迫れたのだろうか。

藩の上役の汚職を訴えるために、井坂伊織(松山ケンイチ)ら九人の若侍たちが神社に集まっていた。
井坂の伯父の城代家老(藤田まこと)に訴えたものの、相手にしてもらえず、大目付の菊井(西岡徳馬)と話をしたところ、詳しく話を聞きたいから仲間を集めろ言われたという。
そこへ突然、襖の奥で話を盗み聞きしていた小汚い浪人・三十郎(織田裕二)が現れて、計画に異議を挟みこんだ。
彼によれば、伊織たちが頼っている大目付の菊井がむしろ怪しいという。
最初はおどろいて信じなかった若侍たちだが、そこへ菊井の刺客が大挙して押し寄せてきた。
浪人は若侍たちを床下に隠すと、一人大軍の前に躍り出るのだったが、刺客を率いていた室戸半兵衛(豊川悦司)は、一目でその男が只者でない事を見抜いていた・・・


オリジナルがあまりにも有名かつ隙の無い出来栄えなので、リメイク版を作るというのは、恐ろしくプレッシャーのかかる作業だったと思う。
同じ脚本を使う以上、どう作ろうがオリジナルと比較されるし、それを超えると言うことは殆ど不可能に近い。
結果的に森田芳光がどうしたかというと、可能な限り黒澤版の面白さをそのまま再現するという消極的な手法を選んだ。
印象的なカットは殆ど画柄を借りてきているし、音楽の使い方も大体同じ。
個人的には、こういうスタンスでのリメイクというのはあまり好きではない。
ただ、例えばガス・ヴァン・サント版の「サイコ」の様に、旧作のカーボンコピーを作ることに作り手が夢中になっているのとは少し違う。
「用心棒」と「椿三十郎」の三十郎シリーズで、黒澤と三船敏郎が作り出したキャラクターはあまりにも強烈過ぎて、どちらかというとアメコミヒーローのようなイメージのお約束が出来てしまっている。
森田芳光はオリジナルを綿密に分析し、結局この脚本を一番面白く見せる演出は黒澤版がベストであり、また観客も特に三十郎のキャラクターに関しては下手なオリジナリティを求めていないと判断して、あえてオリジナリティを捨てているように思える。
もっとも黒澤版はモノクロ、リメイク版はカラーであるように、画一つとっても全く同じには作りたくても作れない。
森田は黒澤版の印象を再現しつつ、実際は結構アレンジを効かせている。
このリメイク版の上映時間は119分もあり、オリジナルよりも20分以上伸びている。
同じように見えても、細部は結構違うのだ。

黒澤版を踏襲すると言うスタンスは演技陣に関しても同じで、三十郎を演じる織田裕二は見事なまでの三船三十郎のコスプレだ。
彼は脚本上の文章で書かれた椿三十郎というよりは、明らかに三船敏郎によって演じられた三十郎を忠実に再現する事を目指している様に思えるし、それは室戸半兵衛を演じた豊川悦司も同じだ。

同じ脚本を使って、演出も演技もオリジナルを手本にして同じ印象を目指す。
その方向性自体はこの作品の場合、これもアリだったと思う。
ただ、やはりコピーはコピーであり、同じではあり得ない。
特に役者は上手いコスプレではあるが、印象はやはり大きく違う。
織田裕二も豊川悦司も、三船敏郎や仲代達矢ではないのである。
劇中で城代の奥方が三十郎を評して「ギラギラした抜き身の刀の様」と言うシーンがあるが、織田裕二の三十郎は破天荒ではあるが、それほどギラギラしては見えない。
同様に豊川悦司にも仲代達矢の様な、触れば切れそうな鋭さは見出せない。
これは別に織田や豊川が悪いのではなくて、もはやああいう俳優は存在しないのだ。

時代が変われば人間も変わる。
演出は技術で同じ印象に出来ても、人間の違いだけはどうしようもない。
この映画が惜しいのはこのあたりの追求が中途半端な事だ。
優れたシェフは、食材の産地や質が変われば、同じ料理を作るのにも微妙に調理法を変えるだろう。
それと同じように、俳優の資質が違うなら、彼らをより生かす演出を追及して欲しかった。
それが不可能でないのは、この映画のラストで森田芳光自身が証明して見せている。

あまりにも有名なラストの三十郎と半兵衛の決闘シーンを、どう再現するのだろうというのが本作で一番の興味のあるポイントであったのだが、これはさすがに黒澤のコピーにはなっておらず、森田芳光が作家魂を見せた。
オリジナルは映画史上最初のスプラッター(笑)とも言われる衝撃的なシーンだったが、リメイク版は三十郎の「あいつは俺にそっくりだ!」という決闘後の台詞に意味を持たせた凝った立ち合いになっており、なかなかのアイディアだったと思う。
このシーンの演出は、おそらく三船、仲代よりも織田、豊川のコンビネーションの方がしっくり来る。
どうせなら、この部分の演出スタンスを全体に広げて、若い俳優の持つ現代性を生かす演出をもっと追及して欲しかったところだ。
松山ケンイチら若侍も、絶妙なコミックリリーフである捕虜の木村を演じた佐々木蔵之助も、俳優たちはとても魅力的だ。
また若い俳優たちの中にあって、城代夫婦を演じた中村玉緒と藤田まことが、出番は少ないながらも昭和の雰囲気を今の時代に感じさせ、強い印象を残す。

森田芳光版の「椿三十郎」は、どの道黒澤のコピーにすぎまいという意地悪な観方をしても、それなりに幸福な時間を過ごせてしまう。
それだけベースとなっている作品が凄いという事なのだが、オリジナルはモノクロ作品なので、現代ではテレビ放送される機会も少ない。
故に、この傑作脚本を二十一世紀に再現するのは意味のある事なのかもしれないし、旧作を知らない人たちは十分時代劇の醍醐味を楽しめると思う。
ただ、オリジナルを知っている者としては、イメージを壊しても良いから、森田芳光ならではという新しい三十郎を見せて欲しかったのが正直な所だ。
このところ、映画にドラマにアニメと黒澤作品はリメイク続きだが、黒澤にまで手を出さなければならないほど企画力が無いのかと思うと、素直には喜べない。
桑畑の方の三十郎もそのうちリメイクされるのだろうか。

今回は椿にちなんで、新潟は雪椿酒造の「越之雪椿純米酒」をチョイス。
切れ味スッキリな典型的な越後のお酒だが、純米種らしく芳醇な華やかさもしっかりとある。
映画がわりとまったりしたコミカルな作品なので、鑑賞後は半兵衛の剣のようにシャープなこのお酒があうだろう。

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三十郎初登場!


オリジナルを観て欲しい
ミッドナイトイーグル・・・・・評価額1050円
2007年12月01日 (土) | 編集 |
日本アルプス山中に墜落した、米軍のステルス爆撃機の積荷を巡る山岳アクション。
予告編を観たときから、何となく「ホワイトアウト」「亡国のイージス」を足して2で割った様な映画だなあと思っていたが、実際出来上がった映画もそんな感じ。
雪山を舞台としたスケールの大きなサスペンスとしてそれなりに楽しめるものの、作劇のディテールが甘く、やたらと冗長な構成のせいもあって、大味で間延びした印象の大作となってしまった。

著名な戦場カメラマンだった西崎(大沢たかお)は、イラク戦争の経験からトラウマを抱え、作品を発表できなくなっていた。
学生時代から続けていた山に逃げ込んだ西崎は、妻の病気すら気付くことが出来ず、みすみす死なせてしまい、たった一人の息子も妻の妹である雑誌記者の有沢慶子(竹内結子)と共に東京に去ってしまった。
ある日、西崎は北アルプスの山中で、墜落する赤い光を撮影するが、それは米軍のステルス爆撃機B5だった。
その機体には日本には本来あってはならない「爆弾」が搭載されていた事から、回収のために自衛隊の特殊部隊が送り込まれるが、同時に正体不明の武装集団も北アルプスに潜入していた。
後輩の新聞記者の落合(玉木宏)と共に山に入った西崎は、武装集団の襲撃を受け、事態を東京の慶子に知らせようとするのだが・・・・


敵は例によって東アジアの某国
決して国名は出さないものの、近年の日本映画において、往年のハリウッド映画におけるソ連並みの悪役となってしまった某国だが、今回も都合の良い悪役として大活躍だ。
もっとも、その都合よさに頼った物語はかなり荒っぽく、辻褄の合わない部分だらけ。
そもそも、何故某国の工作員が核爆弾を起爆しようとするのが
祖国上空を好き勝手に飛行する米軍に破壊工作をするのはまあ理解できるが、日本に特殊部隊を送り込んで核爆弾を爆発させたりしたら、確実に滅びるのは某国の方だと思うんだけど・・・
それにB5がアルプスに墜落したのは偶然のはずなのに、某国の工作部隊が何で自衛隊よりも米軍よりも早く、何十人もの完全武装した部隊を現地に展開できるのかも
しかも地の利の無いはずの日本アルプスで、何であんなに強いのかはもっと謎(笑
原作は高嶋哲夫のベストセラー小説なのだが、原作ではもうちょっとマシな処理をしているのだろうか。

まあ、このあたりは全体から見たらほんの些細な部分なのだが、ディテールが甘いのは某国の描写だけではない。
物語はご都合主義が目立ち、サスペンスとしての作劇もあまり上手くない。
決定的なのは、核爆弾の起爆を阻止するためのキーアイテムを竹内結子が手に入れるのが早すぎる事で、せめてこのアイテムの正体を隠しておけば良いものを、最初から説明しすぎてしまうので、以降の雪山での核爆発までのカウントダウンが全くスリリングにならない
おまけに核爆発の阻止がクライマックスなのかと思いきや、その後に再度危機が襲ってくるというダブルクライマックスの構造なので、後半部分がやたらと冗長だ。
本来ならここは、ミックスしてしまって、畳み掛けるようにスリルとアクションを釣瓶打ちすべきで、そこに切り札としてキーアイテムの存在があるべきなのではないか。

もっとも、そうしなかった理由も何となくわかる。
これは良くも悪くも日本映画で、ノーテンキなアクションだけではなくて、色々と言いたい事が多いのだ。
語るべきテーマ性を持っているという、その事自体は良いのだが、結果的にテーマ表現を主人公たちの会話に頼ってしまっているがために、ちょこっとアクションしては語り、またアクションしては語りと肝心のクライマックスの描写がダラダラしているせいで、言いたい事もぶつ切り状態になってしまい、アクション同様に印象に残らない。
俳優たちが総じて好演しているので余計に勿体無いのだが、キャラクターの行動原理は判りやすいものの、観客が知っておくべきインフォメーションの殆ど全てが台詞でしか表現されていないので、表層的なことこの上ない。

脚本の長谷川康夫と飯田健三郎は「ホワイトアウト」や「亡国のイージス」を担当した人。
なんだやっぱり最初の印象どおりじゃないか。
この二本もキャラクターがステロタイプで底が浅く、かつサスペンス部分のディテールがスカスカで白けてしまったが、今回も全く同じことが言える。
正直言ってこの二人の脚本家は、この手の作品に全く向いてないと思うのだが、何でテロリストが出てくるアクションというと毎度この人選なのか理解に苦しむ。

脚本が浅いなら、演出でそれをフォローする作りこみを見せて欲しいところだが、成島出監督の演出にもディテールへのこだわりはあまり見られない。
特に終盤、主人公がカメラを銃に持ち換える瞬間は、物語のテーマ性を考えれば精神的クライマックスとも言えるシーンなのに、そこに何の演出も無く、あっさりとスルーされてしまったのには正直言って驚いた。
あれ?テーマ語るためにこんなにダラダラと語らせていたんじゃないの?それなのにもっとも映画的な瞬間はスルー??
この無神経な演出を見る限り、テーマらしいことはとりあえず言ってみただけとしか思えない。
だったら初めから、ハリウッド的なノーテンキなアクション映画を目指せばよかったんじゃなかろうか。

「ミッドナイト・イーグル」は、「真夜中の鷲」というタイトル通りに、北アルプスの暗闇の中で着地点を見失って墜落してしまった様な映画だ。
設定の面白さと、雪山というロケーション、そしてそれなりにキャラクターを確立している俳優たちの好演で、何とか飽きずには見られるものの、あれもこれもと詰め込んだ結果、あらゆる意味で中途半端という勿体無い作品となってしまった。
長大な原作から取捨選択し、映画として何を描くかビジョンを明確にしておけば、テーマ性に振るにしてもアクションに振るにしても、もう少しスッキリとした作品になったと思うのだけど。

今回は北アルプスに擁かれた飛騨の地酒をチョイス。
アルプスの伏流水で仕込まれた、原田酒造の「山車 純米吟醸 超辛口 雷吟」は日本酒度+15という超辛口。
とはいっても過剰に辛さを追求しているわけでは無く、適度なコクを残しつつスッキリとした切れ味の鋭い酒だ。
今ひとつクリアでない映画の後味を、シャープに彩ってくれる。

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