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酒を呑んで映画を観る時間が一番幸せ・・・と思うので、酒と映画をテーマに日記を書いていきます。 映画の評価額は幾らまでなら納得して出せるかで、レイトショー価格1200円から+-が基準で、1800円が満点です。ネット配信オンリーの作品は★5つが満点。
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シルク・・・・・評価額1400円
2008年01月28日 (月) | 編集 |
幻想の国ニッポン。
過去に様々な作品でモチーフとなってきた、ホワイトマン・ミーツ・サムライの一遍である。
だが、ここには「ラスト・サムライ」の様な感情迸るアクションも無いし、懐かしの「将軍」の様な賢覧豪華なビジュアルも無い。
まるでテレンス・マリックの映画を観ているかのような、ゆったりとした不思議な時間感覚を感じさせる異色作である。

1862年フランス。
軍人のエルヴェ(マイケル・ピット)は、村の有力者で製糸業を営むヴァルダヴュー(アルフレッド・モリーナ)から、日本へ蚕の卵の買い付けに行って欲しいという依頼を受ける。
軍隊生活に嫌気がさし、除隊して恋人のエレーヌ(キーラ・ナイトレイ)と結婚したいと思っていたエルヴェは依頼を受け、遥か極東の日本へと旅立つ。
明治維新の動乱は、徐々に日本を包み込みつつあったが、エルヴェが苦労の末に辿り着いた山深い里は、豪族原十兵衛(役所広司)が支配する静寂の世界だった・・・・


「シルク」という映画を一言で言えば、西洋人が大真面目に「わびさび」を解釈して、奥ゆかしいラブストーリーとして映像化したような作品である。
マイケル・ゴールディングの脚本、フランソワ・ジラールの演出は、徹底的に抑揚を抑え、心象風景としてシーンを構成しようとしている。
登場人物は日本人、フランス人の区別無く一様に寡黙で、感情をほとんど表面に出さず、あらゆるシーン、出来事は直接的な描写を避け、意味深な間接描写として描かれる。
舞台となる十九世紀のフランスの村、厳しい自然に抱かれた日本の山村は、共にどこか退廃を感じさせ、それを眺めるキャラクターの鬱屈した精神のよどみを感じさせる。
極めつけは芦名星演じる「少女」のキャラクターで、彼女自身は一言も台詞が無く、何者なのかという説明すらほとんど無い。
結果的にその曖昧さ故にエルヴェの心深くに住み着く事になるのだが、劇中ではたった一通の短い手紙以外、具体的な行動すらしていないのである。

ただ、あまりにも物語、特にキャラクターの心理が抽象的に描かれるために、なんだかごまかされた様な気分になってくるのも事実。
映画を観ていると間は、何となくそのエキゾチックなムードで納得してしまうのだが、よくよく考えると何でエルヴェがそれほど「少女」に惹かれるのかは今一つわからない。
映画の中で彼女は「日本人ではない」という噂が出てくるが、存在感があやふや過ぎて、どっちかと言うと実在すら怪しい、精霊の様な存在にすら思えてくる。
また何の説明も無いのに、エルヴェの中に巣食う東洋の女の影を感じ取り、切ない愛のギミックを仕掛けるエレーヌも、エスパー並みの直観力と言わざるを得ない。
彼らの愛を取り持つ関係となる、マダム・ブランシュを演じる中谷美紀の説得力にかなり助けられているというのが正直なところだ。
まあ日本的なわびさびのイメージは感じるものの、それがムード以上に本質に迫る物であるかと言われると、ちょっと考えてしまう。

この映画を観たときに連想したテレンス・マリックの「ニュー・ワールド」も、キャラクターの心象風景として物語を描写することで、実に日本的なわびさびの先にある風雅を感じさせていた。
だが、あの作品のキャラクターに曖昧性は無く、しっかりと地に足をつけていたのに比べると、こちらはややムード優先という気がする。
もちろん、そのムードは丁寧に形作られており、少なくとも観ている間はそれなりに説得力があるのは事実なのだが。

「シルク」はそのタイトル通り、繊細で美しく、儚げな存在感のある佳作だ。
アラン・ドスティエのカメラは美しく、しばしば日本人が見るとどっちらけとなる日本の山里の描写も、美術の小川登美夫や衣装の黒澤和子が参加し、それほど違和感は感じない。
坂本龍一の情感たっぷりの音楽と相まって、エキゾチックムード満点である。
深淵の愛の物語は、鑑賞者一人一人の心の中で噛み砕く必要があるとして、あくまでも奥ゆかしさと美しさに拘ったこの作品、たゆたう様な浮遊感はなかなかに心地よい物だった。

今回は絹の様に繊細かつ力強い、国産ワイン「サントリー登美」の2002年をチョイス。
このワインが造られる山梨県地方は、八世紀頃から葡萄が自生していたという日本の葡萄の故郷の様な土地。
この特別な土地で、とびきりの銘醸年にだけ造られる特別なワインが「登美」である。
カベルネ・ソーヴィニヨン、メルロ、カベルネ・フランのブレンドが作り出す味わいは、力強いボディの中に濃厚な果実味がまろやかに広がり、まさに絹の様な繊細な余韻を味わえる。
ワインと言う西洋の文化と、日本の匠の技の幸福なマリアージュがここにある。

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スウィーニー・トッド フリート街の悪魔の理髪師・・・・・評価額1700円
2008年01月21日 (月) | 編集 |
ティム・バートンジョニー・デップといえば、90年代から数々の傑作を物にしてきた名コンビ。
毎回変わった趣向を打ち出す彼らの最新作は、スティーブ・ソンドハイムが1979年に発表した舞台ミュージカル「スウィーニー・トッド フリート街の悪魔の理髪師」の映画化だ。
舞台は煤煙と霧に煙る19世紀のロンドン。鮮血とブラックなユーモアを伴奏に、耽美にして華麗な悲劇の幕が開く。

嘗てロンドン一の理髪師として、妻と生まれたばかりの娘と幸せに暮らしていたベンジャミン・バーカー(ジョニー・デップ)は、妻に横恋慕したターピン判事(アラン・リックマン)の罠に落ち、終身刑を宣告される。
十五年後、脱獄したバーカーは、復讐者スウィーニー・トッドとなってロンドンに舞い戻る。
だが大家のミセス・ラベット(ヘレナ・ボナム・カーター)によると、妻は毒を飲んで死に、赤ん坊だった娘は長年の間ターピンに囚われたままだという。
復讐の鬼と化したトッドは、ターピンを店に誘い込んで殺すために、計画を練り始めるのだが・・・


オリジナルの舞台は残念ながら未見なのだが、かなり忠実な映画化だという。
冒頭、霧の中から忽然と現れる船に乗った、スウィニー・トッドの帰還によって幕が開き、ドラマの大半を数日間の出来事に集約する作劇は、確かに舞台の構成を思わせる。
だからと言って映画的でない訳では勿論無く、むしろ限りなく映画的といえる。
ティム・バートンの演出は、いつも以上にけれん味たっぷりだが、例えば「チャーリーとチョコレート工場」の様に、勢い余って上滑りしてしまう部分がなく、この作品世界をガッチリと掴んで離さない。
世界観を一気に見せる冒頭から、個性たっぷりにカリカチュアされたキャラクターへの細やかな演出、そして鮮血が飛び散る殺戮シーンの残酷な美しさまで、「スウィーニー・トッド」の世界は、バートンのイマジネーションの大地にしっかりと足をつけている様に思える。
それを具現化し、迷宮のようなロンドンの街並みを生かしたダリウス・ウォルスキーのカメラとダンテ・フェレッティの美術は、まるで銅版画を思わせる質感と相まって、悪夢的な幻想世界をスクリーンに映し出し、アカデミー賞級の出来ばえだ。

逃亡者スウィーニー・トッドが、旅路の果てにロンドンに持ち帰ったのは、人間の悲しみとあまりにも暗く歪んだ情念。
このダークな世界を表現するキャストは、ほとんど完璧と言って良い。
まるでブラック・ジャックの様な、ツートンカラーの扮装のスウィーニー・トッドを演じるジョニー・デップのパフォーマンスは、彼のベストアクトの一つと言えるだろう。
歌唱力は正直言って素晴らしいとは思えなかったが、そこはさすがに役者。
単純な歌の上手い下手以上に、詩にこめられた感情の表現は圧巻である。
心の闇を切々と歌い上げるデップの目力には、彼のファンでなくても魅了されてしまうだろう。
バートンは執拗にクローズアップを多用してトッドの表情を描写するが、普通あまり映画的で無いという事で敬遠されるアップの演出が、逆に素晴らしく映画的に見えるのも、ジョニー・デップという役者とスウィーニー・トッドというキャラクターの幸福な出会いの賜物と言えるかもしれない。
また、トッドの犠牲者達を細切れのひき肉にして、何とミートパイの具として売ってしまうという、ミセス・ラベットを演じるヘレナ・ボナム・カーターも良い。
女の情念と滑稽さ、残酷さをカリカチュアして表現したようなキャラクターで、トッドの復讐に手を貸すうちに、切ない恋心を抱いてしまった彼女が、秘めていた夢を歌い上げるシーンで、私は恥ずかしながら落涙してしまった。
腹黒いターピン判事を演じるアラン・リックマン、彼の腰巾着の役人のティモシー・スポールもぴったりとしか言いようの無いはまり具合だ。
トッドのライバル(?)のインチキ理髪師を演じていたのは、どこかで見た事があると思っていたら、「ボラット」の怪優サシャ・バロン・コーエン
色彩の無いこの世界で、唯一ド派手なカラーを身にまとい、強いインパクトのあるオイシイ役だった。

映像も演出も演技も、そして勿論素晴らしい楽曲も含めて非常に満足度の高いこの作品だが、わずかながら不満を感じる部分もある。
ターピン判事に囚われているトッドの娘ジョアンナと、若い船乗りアンソニーのロマンスは少々中途半端だ。
彼らはこの物語の中で、血に塗られたトッドの復讐の世界から、唯一外れた場所にいるキャラクターであり、映画のラスとでトッドの物語が見事に完結しても、彼らの物語は閉じていない。
ゆえに、忘れられた様な彼らの物語の結末が、この物語のオチに微妙な未消化感を残してしまっている。
また、ターピン暗殺に失敗したトッドが、人の世に絶望して突如として人々を殺しまくる展開は、少し説明不足かもしれない。
スウィニー・トッドになる前のベンジャミン・バーカーがどの様にして罠に落ち、どの様にしてこの世界に絶望していったかが僅かしか描かれないので、トッドとミセス・ラベットの厭世的心情が今ひとつ理解出来ないのだ。
もっとも、実際に華麗なる殺戮が始まってしまうと、トッドのエキセントリックなキャラクターによって、半ば強引に納得させられてしまうのだが。

「スウィーニー・トッド フリート街の悪魔の理髪師」は、残酷で美しく、恐ろしくパワフルな悲劇で、久々にティム・バートンの力技を感じさせる快作だ。
思うに、バートンという映画作家にとっては、「物語」という根源的なテーマを描いた傑作「ビッグ・フィッシュ」が一つのターニング・ポイントだったと思うのだが、以降の作品はどうも作者と物語との距離感、というか感情の浮遊感が気になっていた。
だが、これは内容と作家性が見事にマッチして、久々に吹っ切れた様にバートン節全開である。
ここしばらくの作品に、今ひとつ納得できていなかったファンも、この鮮血の歌劇は堪能出来るのではないだろうか。

今回は、血まみれの映画に相応しい「ブラッディ・メアリー」をチョイス。
プロテスタントを弾圧し、数百人の宗教指導者を処刑した事で知られる英国の女王メアリー一世の名にちなんでいる。
ちなみに「ブラッディ・マリー」と呼ばれる事もあるが、原語に近いのはメアリーである。
氷を入れたタンブラーにウオッカとトマトジュースを1:4で注ぐ。
好みでタバスコや塩を添えたり、トマトソース感覚でセロリを入れたりしても楽しい。
恐らく血の様な赤から名付けられたのだろうが、見た目とは違ってさっぱりして飲みやすい。
トッドの暗い情念に当てられたら、これで口直しを。

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アース・・・・・評価額1550円
2008年01月13日 (日) | 編集 |
英BBCがNHKと共同で制作したドキュメンタリー番組、「プラネットアースPlanet Earth」は記憶に新しいが、「アース」は五年にわたって撮影された映像を再編集して新たに制作された劇場版。
監督を務めるのは、このジャンルのスペシャリストであるアラステア・フォザーギルとマーク・リンフィールドだ。
テレビ番組の時も、その映像の美しさは印象的だったが、劇場の大スクリーンで観る地球の姿はまさに圧巻だ。

北極点から南極海まで、壮大な地球の風景の中で生きる動植物たちの姿を描いた「アース」の特徴は、ある意味「神の視点」で描かれたドキュメンタリーだという点にある。
多くの自然ドキュメンタリーがミクロ的な視点で、自然の1シーンを切り取っているのに対して、この作品は非常にマクロ的な視点で描かれる。
それは描く対象である動植物との距離感もそうだし、人工衛星や航空機からの鳥瞰ショットを多用した演出面もそうだ。

例えば冒頭と最後に描かれるホッキョクグマのエピソードは、偶然にもナショナルジオグラフィックの「北極のナヌー」とシチュエーションも展開もそっくりだ。
だがメインとなるホッキョクグマにナヌーという名前をつけ、積極的に彼らへの感情移入を誘う「北極のナヌー」に対して、「アース」の視点は明らかにクールで、そこで起こっている現象を淡々と描いているに過ぎない。

同様に「ナヌー」では大きなテーマとなっていた地球温暖化に対する警鐘も、こちらでは前面に出ることはない。
ナレーションで強調はされるものの、北極の氷の減少以外に、映像的にそれを描写した部分も無い。
あくまでも今、地球上で起こっている現象の一つ、という位置づけの様に思える。
これは勿論温暖化の事実を軽視しているのではなくて、問題へのアプローチの姿勢の違いだろうと思う。
「アース」の主役はあくまでもタイトル通り地球そのもので、動植物たちはその巨大なシステムの中で生かされている小さな小さな存在に過ぎない。

映画は、今ここにある地球と言うエコシステムが、いかに貴重な存在なのかを圧倒的な映像の洪水で描く。
下手な映画会社ではとても太刀打ちできない、二つの公共放送という巨大な制作システムと高い技術レベルがそれを可能としている。
シベリアの平原でトナカイを狩る狼。あるいは乾燥したアフリカの平原で水を求めて彷徨い歩くゾウの群れ。
映画は地上で撮られた彼らの等身大のショットから、大自然の中での彼らの小ささを強調する航空機からの鳥瞰ショット、果ては砂漠がやがて緑に満たされるまでの静止衛星からの超鳥瞰ショットを自在に使い分け、地上の営みが地球と言う巨大なエコシステムの中で繰り広げられている現象だということを観客に実感させる。
また枯れ木の山に季節が流れ、太陽が地表を照らし、桜が正に山肌を駆け上がってくる様子を数秒に短縮して描いた吉野の風景では、今度は季節というもう一つのシステムを見事に描写してみせる。
映像のサイズと時間をコントロールする事で、人間の目には決して見ることの出来ない、神の視点での地球観察を可能としているのである。
我々が小さな視点で見て知っているつもりになっているこの世界は、神の視点で見せられるとあまりにも荘厳で美しく、「奇跡」という言葉が自然に頭をよぎる。
「アース」は、あくまでも美しく希少な地球を見せることで、その一住人たる我々に、地球と言う母なる存在への責任を考えさせる作品なのだと思う。

惜しむらくは、やはり全地球的な規模で命を描くには、一時間四十分は短すぎるという事。
中心となるホッキョクグマ、ゾウ、クジラの三種はそれなりにしっかりと描写されているが、ほんのわずかしか触れられていない動物たちも多く、アムールヒョウやオオヤマネコ、アデリーペンギンなどは紹介だけされて、その後をカットされた様な印象で、ダイジェスト感は否めない。
これはやはり劇場で感動した後、全11巻が発売されている「プラネットアース」のDVDを鑑賞するのが正解なのかもしれない。
私もテレビ版は何本か観たのだが、改めて鑑賞したくなった。

さて今回は季節感漂う日本のお酒を。
島根県の米田酒造の「豊の秋 大吟醸」をチョイス。
深く、ほのかな香りとふっくらとした味わいが印象的な、母なる大地の様なやさしい酒。
このまま地球温暖化が進むと、近い将来フランス、イタリアあたりのワインは作れなくなると言う。
日本で米が取れなくなる事は当面無さそうだが、日本酒作りには冬の寒冷な気候が不可欠なのは言うまでもない。
地球の恵みである、美味しいお酒を飲めなくなるような世界には、決してなって欲しくない。

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ルイスと未来泥棒・・・・・評価額1150円
2008年01月06日 (日) | 編集 |
「ルイスと未来泥棒」は新生ディズニー発、ホリディーシーズンの正統派子供アニメ。
「ロボッツ」ウィリアム・ジョイスの原作を、スティーブン・アンダーソン監督が映像化している。
雰囲気はなかなか楽しそうで、演出もスピーディーなのだが、作劇に少々難ありだ。

赤ん坊のときに母に捨てられたルイスは、孤児院で天才発明少年に育つが、そのとっぴな行動と奇妙な発明品のおかげで養子縁組は断られてばかり。
ある時、母に対する思いを募らせたルイスは自分の記憶をスキャンして、潜在意識中の母の顔を映像化する機械を発明するのだが、発表会場の科学フェアには山高帽の怪しい男と、奇妙な少年が潜入していた。
実は彼らは未来人で、ルイスの機械は山高帽の男に盗まれてしまう。
ルイスは未来人の少年ウィルバーと共に未来へ向かうのだが・・・


とにかく前半物語が進まない。
ルイスが発明して、未来人がやって来て、未来へ行ってという個別の展開はあるのだが、それらがなかなか有機的に結びつかないので、お話が進んだ感じがしないのだ。
ワンシチュエーションのコントを連続して見せられている様で、しかもその一つ一つがやたらと長いので正直言って退屈。
周囲のお子様たちも欠伸を連発していたので、これは私だけの印象ではないだろう。

未来世界は楽しそうだし、登場人物はエキセントリックだけど、それだけで話は持たない。
この作品の場合、「山高帽の男の正体」という一点の謎に、物語全体が引きずられてしまった。
彼の正体を隠すことに気を使いすぎて、決定的に説明不足なのだ。
もちろん、謎を引きずってその間は状況の面白さで持たせ、後半一気に物語を動かすと言う考えは分からなくも無いが、盗まれました、未来に来ました、変な人たちと会いました、という一つ一つのシチュエーションが物語上どんな意味を持つのかが一向に説明されないままどんどん進んで行くので、観客は置いていかれてしまう。
本来時間物の面白さは単なる謎解きではなくて、絡み合った過去と未来の状況をどう解決するかという部分にあるのではないか。
これほどまでに謎を謎のまま引っ張る必然性は無く、実際後半に入って登場人物の相互関係が明らかになると、話は俄然面白くなるのだから、この作劇は明らかに失敗だっただろう。

後半の入り組んだ因縁を解決する過程は、あまりタイムパラドックスなどのSF的なことは考えられておらず大らかで単純なのだが、展開がスピーディーでなかなかに楽しい。
帽子型ロボットなんてドラえもんチックなメカとの戦いが、一瞬マトリックスのパロディになったり、ビジュアルイメージもここへ来て生き生きしてくるのだが、どうせならこのノリで全体を作れば、お子様CGアニメ版の「バック・トゥ・ザ・フューチャー2」になったのに。

この作品は、2006年5月にピクサーディズニー傘下に入り、実質的にディズニーのアニメ部門がピクサーの仕切りになってから制作された第一作にあたり、エグゼクティブ・プロデューサーとしてジョン・ラセターがクレジットされている。
もっとも制作期間を考えると、物語作りに二年を費やすと言うピクサー流が十分に反映されているとは思えず、3Dオブジェクト同士の食い込みがそのままになっている部分があるなど、映像的にもピクサー作品と比べると明らかにラフで、技術的にも特に見るべきところは無い。
ラセターのディズニー改革はまだ漸くその途についたところなのかもしれないが、この作品を観る限り、ディズニーブランドでのCGアニメは明確にお子様向け、もう少し年齢層の高い観客にはピクサーブランドという住み分けをしてゆくのかもしれない。
どちらかと言うとラセターには、ディズニーのアニメ部門トップに就任したときに明言した2Dアニメ部門の再生をより期待したいところだ。

さて、キッズアニメでお酒というのもなんだが、付き添いのお父さんたちのために正月に喜ばれる酒の代表として「越乃寒梅」の純米酒をチョイス。
すっきり辛口の新潟を代表する酒で、正月の定番だ。
冷かぬる燗で飲むのが美味しい。

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AVP2 エイリアンズVS.プレデター2・・・・・評価額1300円
2008年01月06日 (日) | 編集 |
まさかこの手のネタ物に2作目があるとは(笑
2004年に作られた「AVP」は20世紀FOXの誇る凶悪宇宙人の二台巨頭、エイリアンとプレデターを競演させた、かなり強引なSFアクション大作だったが、見世物的な興味からかそれなりにヒット。
この「AVP2 エイリアンズVS.プレデター2」は前作のラストから始まる完全な続編だが、内容的にはほとんど関係ないので、これだけ観ても理解できるだろう。

エイリアンとの死闘で死んだプレデターの体から、プレデターの特徴を持つ新種のエイリアンが出現。
プレデターの宇宙船はコロラド州の森へと墜落してしまう。
宇宙船に積まれていたフェイスハガーやエイリアンは獲物を求めて人間の街へ侵入してゆく。
一方、宇宙船の遭難を知った母星のプレデターも、エイリアン駆除のために地球に潜入する・・・


超人気キャラクター同士の夢の競演、というのは誰でも観てみたいもの。
私の子供の頃には「マジンガーZ VS デビルマン」とか「ジャッカー電撃隊VSゴレンジャー」なんていうおバカなスペシャル版が劇場にかかっていた物だし、古くは「座頭市対用心棒」「キングコング対ゴジラ」なんて物もあった。
ホリディシーズンらしい景気の良い祭り映画だが、この手のVS物には一つのジンクスがある。
それは一方を立てれば一方が立たず、結局両方を立てようとして中途半端な仕上がりになってしまうのだ。
前作の「AVP」もやはりこのジンクスからは逃れられなかった様で、ビミョーな不完全燃焼感の漂う作品で、正直なところ内容もほとんど覚えてない。
今回の二作目の冒頭を観て、そういえばこんなラストだったと漸く思い出したくらいだ。

まあ一作目からそんな具合なので、2作目ともなれば肩の力を抜いて、ビール片手にほろ酔いで観るくらいでちょうど良い。
とりあえず最初の犠牲者が出るシーンで、ハリウッド映画では稀な子供殺しをいきなりやったのには驚いたが、VFX畑出身のグレッグとコリンのザ・ブラザーストラウスの演出は、さすがに怪物の見せ方は心得ている。
無数のエイリアンVS一匹狼プレデターVS一般人の戦いは、森、地下道、プール、発電所と舞台も様々でなかなか楽しめる。
もっとも、エイリアンもプレデターも過去に散々露出しまくったキャラクターなので、その戦い方自体は特に新鮮味はないのも事実。
エイリアンの繁殖方法に、まるで「スリザー」を思わせる無理やりな新手法が加わっているくらいだ。

シェーン・サラーノの脚本も数の多い登場人物を上手く裁いて、それなりにキッチリと纏めているものの、お約束の多いキャラクター物ではあまり冒険をする訳にもいかず、意外な登場人部が意外な所で死ぬくらいしかひねりは効かせられていない。
まあ、物語をよくみるとエイリアンやプレデターが暴れまくっても、結局一番恐ろしいのは人間という皮肉なテーマが描かれているのだが、残念ながらそちらに軸足を置くわけにもいかず、あまり印象的にはなってない。
ステロタイプながらバラエティ豊かな人間達にもう少し重心を置けば、それはそれで面白くなったかもしれないが、そうなると今度は肝心の宇宙人バトルが蚊帳の外になってしまうし、なかなかに難しいところだ。

結局のところ「AVP2」は、宇宙怪物VS宇宙怪人の見世物アクションに、申し訳程度の人間ドラマがついていると思えば良い。
正月の派手な祭りと考えれば、それなりによく出来ていて楽しめるし、元々この手の作品にそんなに大きな期待をする人もいないだろう。
年末の格闘技番組の宇宙規模の続きと思えばこれはこれで良い様に思う。
が、ラストを観るとまだまだやりそうな続々編はもう結構かな。
どうせやるなら新しいキャラでのVS物が観たい。

さて、この手の能天気娯楽映画にはビールが一番だが、今回は正月らしく、おめでたい「エビスビール」をチョイス。
今年もよろしくお願いします。

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