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2008年02月29日 (金) | 編集 |
山田洋次は、今の日本映画界で巨匠と言う称号の似合う、数少ない映画監督の一人だと思う。
その事を改めて実感させてくれた、藤沢周平原作による時代劇三部作に続いて、山田監督が挑んだのは、昭和初期のある家族を描いた「母べえ」だ。
これは黒澤明監督作品のスクリプターとして知られる、野上照代の自叙伝「父へのレクイエム」の映画化となる。
昭和15年。
両親と二人の娘、初子と照美の野上家は、それぞれに「父べえ」「母べえ」「初べえ」「照べえ」と呼び合う仲睦まじい家。
決して裕福ではなかったが、ささやかな幸せを感じて暮らしていた。
ところが文学者である父・滋が突然治安維持法違反で逮捕されてしまう。
その日から、母として、妻として、家族を守るための、母べえの長い長い奮闘が始まる・・・
一見すると時代劇三部作とは真逆のベクトルの作品に見えるが、テーマ性の部分では良く似ている。
あえて比較するなら、「たそがれ清兵衛」と「武士の一文」を足して二で割って、時代を江戸から昭和へ、主人公を男性から女性へと移した様な作品だ。
ただ、時代劇三部作に無くて「母べえ」にあるもの、それは強烈なまでの時代への怒りだ。
「たそがれ清兵衛」でも、幕末の激動がささやかに生きる主人公たちを飲み込もうとしていたが、それはどちらかと言うと不可避な時代の流れとして描かれ、侍という消えゆく存在へのレクイエムとして詩的に描かれていた。
だが今回、山田洋次の怒りは、人間の負の部分が噴出し、市井の人々のほんの小さな幸せすら許さない、禍々しい力としての「時代」に明確に向けられている様に見える。
日中戦争が泥沼化し、太平洋戦争開戦が迫る時代。
稀代の悪法として名高い治安維持法で検挙される父・滋は、いわゆる「良心の囚人」だ。
彼は一人の物書きとして、戦争の時代に平和を願う文章を書いただけで獄に繋がれてしまう。
彼は過激派でもなく、家族を想い平穏な幸せを望む平凡な男だが、権力に転向を強要されても、最後の一線だけは譲らない。
父べえの頑なな姿勢は、一見するとエゴにも見えなくも無い。
自由になりたければ、家族の元に返りたければ、権力の提示する条件を飲めば良い。
しかしそれを飲む事は、自らが守るべき家族が暮らす日本という国を、滅亡へと追い込んでいる時代の流れを肯定することになる。
父べえにとっては、目先の幸せを享受することが、家族を守る事にはならなかったのだろう。
一文士が抵抗しても、時代の流れは変えられないかも知れないが、少なくとも彼の愛する家族には、得体の知れない巨大な力に流されない自分を見せることで、大切な何かを伝える事が出来たはずだ。
もしそうでなければ、この映画の原作は書かれていなかっただろう。
父べえを釈放させるために奔走する母べえは、政治的にはノンポリに見える。
夫の様に自分から何か意見を言ったりする訳ではないし、勤め始めた小学校の代用教員としても特に政治的な姿勢を見せる事はない。
彼女はただ獄中の夫を想い、子供たちの日常を想い、家族を支えてくれる暖かい人々を想い、ささやかな日常を時代と言う激流から必死につなぎ止めようとしているだけだ。
ただ、やり方こそ違えど、父べえと母べえの求めた物は、良心にもとづいて、幸せに、人間らしく生きたいという事であって、その点で二人は同志でもあるのだ。
母べえの、家族皆で幸せに暮らしたいという必死の願いはしかし、父べえの獄死という悲しい結末を迎えるのだが、時代は彼女から大切な者たちを更に奪ってゆく。
父不在の一家を支えた二人の若者、滋の教え子である「山ちゃん」は出征しする途中で船が沈められ、父の妹で野上家の子供たちにとっては優しい相談役だった久子叔母さんは原爆によって、共に若い命を奪われる。
家族が普通に暮らすことすら許されず、何の罪も無い者達が未来を奪われる時代に、家族を守って気丈に生きた母べえの姿は、不幸が塊となって襲ってくる終盤には、ある意味で理想化されているように見える。
だが、それゆえに・・・・・この物語の最後の最後に彼女が吐き出す本音は鮮烈で悲しい。
相変わらず俳優たちは見事に生かされているが、やはりタイトルロールの吉永小百合が良い。
彼女は多分世界一若く見える62歳だろう。
実年齢では父べえ役の坂東三津五郎よりも10歳年上だし、実際には親子ほど歳の離れた浅野忠信演じる山ちゃんに密かに想われてしまうという設定でも、見た目の違和感を感じさせない。
「武士の一文」で鮮烈なデビューを飾った壇れいが美しい久子叔母さん、自由人のおじさんを笑福亭鶴瓶が演じ、ともに強い印象を残す。
野上家の二人の娘、初べえと照べえを演じるのは、志田未来と佐藤未来。
子供たちのユーモアが、この悲しい映画にまろやかなふくらみを与えている。
オープンセットで作られた下町の街並みや民家の美術も精巧で、この時代の生活感が伝わってくる。
近年の日本映画では、現代劇と時代劇の狭間となる、この時代の市井の人々の生活をリアルに描いた作品は少ない。
その意味でも希少な一本である。
今回は東京の地酒、澤乃井の「大吟醸 梵」を。
山田錦を精米歩合35%まで磨き上げて造られた匠の酒。
辛口で吟醸酒らしい果実香も楽しめ、とても飲みやすい。
巨匠の力作の後には、やはりそれなりに相応しい酒を飲みたい。
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その事を改めて実感させてくれた、藤沢周平原作による時代劇三部作に続いて、山田監督が挑んだのは、昭和初期のある家族を描いた「母べえ」だ。
これは黒澤明監督作品のスクリプターとして知られる、野上照代の自叙伝「父へのレクイエム」の映画化となる。
昭和15年。
両親と二人の娘、初子と照美の野上家は、それぞれに「父べえ」「母べえ」「初べえ」「照べえ」と呼び合う仲睦まじい家。
決して裕福ではなかったが、ささやかな幸せを感じて暮らしていた。
ところが文学者である父・滋が突然治安維持法違反で逮捕されてしまう。
その日から、母として、妻として、家族を守るための、母べえの長い長い奮闘が始まる・・・
一見すると時代劇三部作とは真逆のベクトルの作品に見えるが、テーマ性の部分では良く似ている。
あえて比較するなら、「たそがれ清兵衛」と「武士の一文」を足して二で割って、時代を江戸から昭和へ、主人公を男性から女性へと移した様な作品だ。
ただ、時代劇三部作に無くて「母べえ」にあるもの、それは強烈なまでの時代への怒りだ。
「たそがれ清兵衛」でも、幕末の激動がささやかに生きる主人公たちを飲み込もうとしていたが、それはどちらかと言うと不可避な時代の流れとして描かれ、侍という消えゆく存在へのレクイエムとして詩的に描かれていた。
だが今回、山田洋次の怒りは、人間の負の部分が噴出し、市井の人々のほんの小さな幸せすら許さない、禍々しい力としての「時代」に明確に向けられている様に見える。
日中戦争が泥沼化し、太平洋戦争開戦が迫る時代。
稀代の悪法として名高い治安維持法で検挙される父・滋は、いわゆる「良心の囚人」だ。
彼は一人の物書きとして、戦争の時代に平和を願う文章を書いただけで獄に繋がれてしまう。
彼は過激派でもなく、家族を想い平穏な幸せを望む平凡な男だが、権力に転向を強要されても、最後の一線だけは譲らない。
父べえの頑なな姿勢は、一見するとエゴにも見えなくも無い。
自由になりたければ、家族の元に返りたければ、権力の提示する条件を飲めば良い。
しかしそれを飲む事は、自らが守るべき家族が暮らす日本という国を、滅亡へと追い込んでいる時代の流れを肯定することになる。
父べえにとっては、目先の幸せを享受することが、家族を守る事にはならなかったのだろう。
一文士が抵抗しても、時代の流れは変えられないかも知れないが、少なくとも彼の愛する家族には、得体の知れない巨大な力に流されない自分を見せることで、大切な何かを伝える事が出来たはずだ。
もしそうでなければ、この映画の原作は書かれていなかっただろう。
父べえを釈放させるために奔走する母べえは、政治的にはノンポリに見える。
夫の様に自分から何か意見を言ったりする訳ではないし、勤め始めた小学校の代用教員としても特に政治的な姿勢を見せる事はない。
彼女はただ獄中の夫を想い、子供たちの日常を想い、家族を支えてくれる暖かい人々を想い、ささやかな日常を時代と言う激流から必死につなぎ止めようとしているだけだ。
ただ、やり方こそ違えど、父べえと母べえの求めた物は、良心にもとづいて、幸せに、人間らしく生きたいという事であって、その点で二人は同志でもあるのだ。
母べえの、家族皆で幸せに暮らしたいという必死の願いはしかし、父べえの獄死という悲しい結末を迎えるのだが、時代は彼女から大切な者たちを更に奪ってゆく。
父不在の一家を支えた二人の若者、滋の教え子である「山ちゃん」は出征しする途中で船が沈められ、父の妹で野上家の子供たちにとっては優しい相談役だった久子叔母さんは原爆によって、共に若い命を奪われる。
家族が普通に暮らすことすら許されず、何の罪も無い者達が未来を奪われる時代に、家族を守って気丈に生きた母べえの姿は、不幸が塊となって襲ってくる終盤には、ある意味で理想化されているように見える。
だが、それゆえに・・・・・この物語の最後の最後に彼女が吐き出す本音は鮮烈で悲しい。
相変わらず俳優たちは見事に生かされているが、やはりタイトルロールの吉永小百合が良い。
彼女は多分世界一若く見える62歳だろう。
実年齢では父べえ役の坂東三津五郎よりも10歳年上だし、実際には親子ほど歳の離れた浅野忠信演じる山ちゃんに密かに想われてしまうという設定でも、見た目の違和感を感じさせない。
「武士の一文」で鮮烈なデビューを飾った壇れいが美しい久子叔母さん、自由人のおじさんを笑福亭鶴瓶が演じ、ともに強い印象を残す。
野上家の二人の娘、初べえと照べえを演じるのは、志田未来と佐藤未来。
子供たちのユーモアが、この悲しい映画にまろやかなふくらみを与えている。
オープンセットで作られた下町の街並みや民家の美術も精巧で、この時代の生活感が伝わってくる。
近年の日本映画では、現代劇と時代劇の狭間となる、この時代の市井の人々の生活をリアルに描いた作品は少ない。
その意味でも希少な一本である。
今回は東京の地酒、澤乃井の「大吟醸 梵」を。
山田錦を精米歩合35%まで磨き上げて造られた匠の酒。
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2008年02月25日 (月) | 編集 |
フィリップ・プルマンのベストセラーファンタジー小説、「ライラの冒険」シリーズの映画化第一弾。
主人公のライラを演じるのは新人のダコダ・ブルー・リチャーズだが、脇を二コール・キッドマン、ダニエル・クレイグ、エヴァ・グリーンとオールスターキャストが固め、総製作費は一億八千万ドルに及ぶ超大作となった。
本来はこの第一部「黄金の羅針盤」を皮切りに、第二部の「神秘の短剣」、第三部の「琥珀の望遠鏡」と続くはずだったのだが、開始早々シリーズ存続の危機に陥ってしまっているという。
イギリスのオックスフォード。
ただし、それは我々の世界ではなく、無数に存在するパラレルワールドの一つだ。
事故で両親を亡くした12歳の少女ライラ・ベラクア(ダコダ・ブルー・リチャーズ)は、魂が具現化した精霊(ダイモン)のパンタライモンとジョーダン学寮で暮らしている。
ライラの叔父のアスリエル卿(ダニエル・クレイグ)は探検家で、北極で見られるこの世界の真理に繋がる「ダスト」という現象を探っている。
ライラの周りではゴブラーという組織が暗躍し、子供たちが次々と誘拐される事件が起こっている。
ある時、学寮長から真実を指し示すという真理計(アレシオメーター)を渡されたライラは、有力者のコールター夫人(ニコール・キッドマン)に預けられる事になるのだが・・・・
一言でファンタジーといってもその中に様々なジャンルが存在するが、パラレルワールドを舞台とした「ライラの冒険」は、ある種の異世界ファンタジーと言って良いだろう。
名作といわれる異世界ファンタジーには、その世界を特徴付ける「何か」が設定されていることが多い。
例えばル=グィンの「ゲド戦記」シリーズの世界では、全ての物に本質を表す「まことの名」があり、それを他人に知られると心を支配されてしまうので、人々はまことの名を隠して生きている。
本作の場合は、人間の魂がダイモンと呼ばれる動物の形の精霊として体の外に現れるという設定がユニークで、世界観だけでなく物語のベースにもなっている。
ダイモンと人間は文字通り一心同体で、人間が死ねばダイモンも消滅し、ダイモンと人間が切り離されると、どうやら魂を奪われた様な状態になってしまうらしい。
恐らくネイティブアメリカンの一部に見られる様な、動物の守護精霊の信仰から着想を得ているのだろうが、我々の世界と似ている様で違う異世界を実感させる、うまい設定だと思う。
「アバウト・ア・ボーイ」のクリス・ワイツ監督は自ら脚本も描いているが、原作にあるエピソードは一通り盛り込んでいる。
しかしやはり二時間弱の上映時間では無理があったのではないか。
物語の進行があまりにも駆け足で、ドラマの緩急というものがほとんど感じられない。
アレシオメーターの謎やコールター夫人の正体、誘拐された子供たちの運命など、ドラマチックな要素はテンコ盛りなのだが、謎解きのワクワクを感じるまもなく、次々と回答を見せられてしまうので、物語に浸るための間を与えられないまま勢いで見せられているような印象だ。
私は原作の第一部しかまだ読んでないので、言い切ることは出来ないのだが、既に完結している物語なのだから、もう少しエピソードを取捨選択して、シンプルなストーリーラインとする事は可能だったのではないだろうか。
もし原作全てをきちんと映像化しようとするなら、この上映時間は決定的に不足していると思うし、原作未読者には次々と出てくる不思議な用語や世界観の設定を追うだけでも一苦労だろう。
キャラクターたちはユニークで魅力的だし、現実世界からちょっとずれたパラレルワールドのビジュアルも、ジューヌ・ベルヌか宮崎駿のアニメみたいで楽しい。
その世界に行ってみたくなる、という異世界ファンタジーの鉄則は満たされているし、物語その物も良く出来ているだけに、二時間弱の尺にギュウギュウに押し込まれてダイジェストを感じさせてしまっているのは残念だ。
実は、この作品を観て一番感じたのは、「ロード・オブ・ザ・リング」シリーズがまさに奇跡の様な作品だったという事だ。
トールキンの緻密かつ膨大な原作を、ピーター・ジャクソンが愛情を込めて映像化したあの作品は、劇場公開版でも一作あたり三時間、ジャクソン自身が正式版と呼ぶ素晴らしいスペシャル・エクステンデット版では最長四時間十一分に達する。
ジャクソンは、これだけの上映時間をかけても、原作の中から注意深く切り取れるエピソードを探し、ストーリーラインをコンパクト化しているのだ。
「ライラの冒険」の原作は「LOTR」ほどの物量は無いが、映画の駆け足な展開を見ると、やはり二時間半以上は必要だったのではないだろうか。
「ナルニア国」の様に、原作自体がコンパクトな物は別にして、長大なファンタジー小説を僅か二時間弱に押し込めるのは無理があるのは「LOTR」以降に作られた多くのファンタジー映画が、原作の動く挿絵にしかなっていない事が物語っていると思う。
描く内容の量と必要上映時間の間には、一定の法則が存在し、もしそれを崩したければ大胆な脚色をするしかない。
内容を削れば原作ファンが怒る、しかし上映時間が長くなれば興行的に苦しいというジレンマは判るが、結果的に原作の熱烈なファン以外にはそっぽを向かれる様な作品にしてしまっては本末転倒だと思うし、長くても誰もが納得する良い物を作って、結果的に大ヒットした「LOTR」の成功のロジックを何故踏襲しないのか不思議だ。
「ライラの冒険 黄金の羅針盤」も、シリーズ物として今後の展開が楽しみな作品なのだが、全米興行では予想を大きく下回り、今後の続編の行方は不透明になってしまった。
続編の可否は、全米に次ぐ巨大市場である日本の結果が大きく影響しそうで、日本の観客がどんなジャッジを下すのか興味深い。
個人的には決して嫌いではないし、続きが観たいのでがんばって欲しいけど、「LOTR」以降二匹目三匹目の泥鰌を狙った濫作によって、ファンタジーというジャンル自体の信頼性が低下している気がしている。
「エラゴン」の二の舞にならなければ良いのだけど。
今回はゴールデン・コンパスならぬ「ゴールデン・ドリーム」をチョイス。
黄金色のリキュール、ガリアーノとホワイト・キュラソー、オレンジジュース、生クリームを1:1:1:1の割合でシェイクし、グラスに注ぐ。
ガリアーノのスミレの香りと柑橘類の香りが甘く混ざり合い、滑らかな口当たりのファンタステックなカクテル。
駆け足な映画にちょっと疲れたら、デザート代わりにこちらをいかが。
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主人公のライラを演じるのは新人のダコダ・ブルー・リチャーズだが、脇を二コール・キッドマン、ダニエル・クレイグ、エヴァ・グリーンとオールスターキャストが固め、総製作費は一億八千万ドルに及ぶ超大作となった。
本来はこの第一部「黄金の羅針盤」を皮切りに、第二部の「神秘の短剣」、第三部の「琥珀の望遠鏡」と続くはずだったのだが、開始早々シリーズ存続の危機に陥ってしまっているという。
イギリスのオックスフォード。
ただし、それは我々の世界ではなく、無数に存在するパラレルワールドの一つだ。
事故で両親を亡くした12歳の少女ライラ・ベラクア(ダコダ・ブルー・リチャーズ)は、魂が具現化した精霊(ダイモン)のパンタライモンとジョーダン学寮で暮らしている。
ライラの叔父のアスリエル卿(ダニエル・クレイグ)は探検家で、北極で見られるこの世界の真理に繋がる「ダスト」という現象を探っている。
ライラの周りではゴブラーという組織が暗躍し、子供たちが次々と誘拐される事件が起こっている。
ある時、学寮長から真実を指し示すという真理計(アレシオメーター)を渡されたライラは、有力者のコールター夫人(ニコール・キッドマン)に預けられる事になるのだが・・・・
一言でファンタジーといってもその中に様々なジャンルが存在するが、パラレルワールドを舞台とした「ライラの冒険」は、ある種の異世界ファンタジーと言って良いだろう。
名作といわれる異世界ファンタジーには、その世界を特徴付ける「何か」が設定されていることが多い。
例えばル=グィンの「ゲド戦記」シリーズの世界では、全ての物に本質を表す「まことの名」があり、それを他人に知られると心を支配されてしまうので、人々はまことの名を隠して生きている。
本作の場合は、人間の魂がダイモンと呼ばれる動物の形の精霊として体の外に現れるという設定がユニークで、世界観だけでなく物語のベースにもなっている。
ダイモンと人間は文字通り一心同体で、人間が死ねばダイモンも消滅し、ダイモンと人間が切り離されると、どうやら魂を奪われた様な状態になってしまうらしい。
恐らくネイティブアメリカンの一部に見られる様な、動物の守護精霊の信仰から着想を得ているのだろうが、我々の世界と似ている様で違う異世界を実感させる、うまい設定だと思う。
「アバウト・ア・ボーイ」のクリス・ワイツ監督は自ら脚本も描いているが、原作にあるエピソードは一通り盛り込んでいる。
しかしやはり二時間弱の上映時間では無理があったのではないか。
物語の進行があまりにも駆け足で、ドラマの緩急というものがほとんど感じられない。
アレシオメーターの謎やコールター夫人の正体、誘拐された子供たちの運命など、ドラマチックな要素はテンコ盛りなのだが、謎解きのワクワクを感じるまもなく、次々と回答を見せられてしまうので、物語に浸るための間を与えられないまま勢いで見せられているような印象だ。
私は原作の第一部しかまだ読んでないので、言い切ることは出来ないのだが、既に完結している物語なのだから、もう少しエピソードを取捨選択して、シンプルなストーリーラインとする事は可能だったのではないだろうか。
もし原作全てをきちんと映像化しようとするなら、この上映時間は決定的に不足していると思うし、原作未読者には次々と出てくる不思議な用語や世界観の設定を追うだけでも一苦労だろう。
キャラクターたちはユニークで魅力的だし、現実世界からちょっとずれたパラレルワールドのビジュアルも、ジューヌ・ベルヌか宮崎駿のアニメみたいで楽しい。
その世界に行ってみたくなる、という異世界ファンタジーの鉄則は満たされているし、物語その物も良く出来ているだけに、二時間弱の尺にギュウギュウに押し込まれてダイジェストを感じさせてしまっているのは残念だ。
実は、この作品を観て一番感じたのは、「ロード・オブ・ザ・リング」シリーズがまさに奇跡の様な作品だったという事だ。
トールキンの緻密かつ膨大な原作を、ピーター・ジャクソンが愛情を込めて映像化したあの作品は、劇場公開版でも一作あたり三時間、ジャクソン自身が正式版と呼ぶ素晴らしいスペシャル・エクステンデット版では最長四時間十一分に達する。
ジャクソンは、これだけの上映時間をかけても、原作の中から注意深く切り取れるエピソードを探し、ストーリーラインをコンパクト化しているのだ。
「ライラの冒険」の原作は「LOTR」ほどの物量は無いが、映画の駆け足な展開を見ると、やはり二時間半以上は必要だったのではないだろうか。
「ナルニア国」の様に、原作自体がコンパクトな物は別にして、長大なファンタジー小説を僅か二時間弱に押し込めるのは無理があるのは「LOTR」以降に作られた多くのファンタジー映画が、原作の動く挿絵にしかなっていない事が物語っていると思う。
描く内容の量と必要上映時間の間には、一定の法則が存在し、もしそれを崩したければ大胆な脚色をするしかない。
内容を削れば原作ファンが怒る、しかし上映時間が長くなれば興行的に苦しいというジレンマは判るが、結果的に原作の熱烈なファン以外にはそっぽを向かれる様な作品にしてしまっては本末転倒だと思うし、長くても誰もが納得する良い物を作って、結果的に大ヒットした「LOTR」の成功のロジックを何故踏襲しないのか不思議だ。
「ライラの冒険 黄金の羅針盤」も、シリーズ物として今後の展開が楽しみな作品なのだが、全米興行では予想を大きく下回り、今後の続編の行方は不透明になってしまった。
続編の可否は、全米に次ぐ巨大市場である日本の結果が大きく影響しそうで、日本の観客がどんなジャッジを下すのか興味深い。
個人的には決して嫌いではないし、続きが観たいのでがんばって欲しいけど、「LOTR」以降二匹目三匹目の泥鰌を狙った濫作によって、ファンタジーというジャンル自体の信頼性が低下している気がしている。
「エラゴン」の二の舞にならなければ良いのだけど。
今回はゴールデン・コンパスならぬ「ゴールデン・ドリーム」をチョイス。
黄金色のリキュール、ガリアーノとホワイト・キュラソー、オレンジジュース、生クリームを1:1:1:1の割合でシェイクし、グラスに注ぐ。
ガリアーノのスミレの香りと柑橘類の香りが甘く混ざり合い、滑らかな口当たりのファンタステックなカクテル。
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2008年02月23日 (土) | 編集 |
「人のセックスを笑うな」って・・・・。(笑
何とも人を喰ったタイトルだが、ある意味で日本映画のスタンダードとも言える「芝居を楽しめる」一本だった。
淡々とした流れは好き嫌いが分かれるだろうが、私としてはかなり好みの一本だ。
地方の美大に通うみるめ君(松山ケンイチ)は、ある時新任のリトグラフ講師のゆり(永作博美)にモデルを頼まれ、彼女のアトリエを訪れる。
そこで言葉巧みに服を脱がされて、みるめ君は20歳年上のゆりにすっかり夢中になってしまう。
しかしある日ゆりに夫がいることをあっさり告げられ、茫然自失。
奔放な年上の女性に振り回されるみるめ君に、同級生のえんちゃん(蒼井優)は複雑な感情を覚えるのだが・・・
久しぶりに、日本映画らしい長まわし演出を観た気がする。
どのぐらいの長いかと言うと、途中でトイレに行って戻ってきても、まだ画面では同じカットが続いているくらい。
キャラクターのアップは数えるほどしかなく、説明的な描写は極端に少ない。
80年代ごろは、メジャー系でもこの手の邦画が多く制作されていて、長まわしこそがトレンディだった事もあったが、最近では単館系を除けばあまり見られなくなったスタイルだ。
長まわし演出は、私小説的な物語を映像に置き換えるのに向いているため、映画の描写する対象が個人の内面に傾倒していった時代にピタリとあったのだろうが、反面カット割という映画の最大の武器を半ば放棄してしまうので、演出力の無い作家がやると目も当てられない結果となる。
一時期の、邦画=ダラダラしていてつまらない、という固定観念は多分に長まわし演出の流行が作り出した側面があるのは否めない。
では、「人のセックスを笑うな」の場合はどうか。
物語的には、人妻講師ゆりちゃんの気まぐれな行動に翻弄されるみるめ君をフィーチャーした物語で、他の登場人物も基本的には彼に絡んでくる人ばかり。
演出的にはロングショットを多用した長まわしというのが一番の特徴だと言え、メタファーを用いる心理描写なども極力避けられている。
登場人物の心情は、あくまでも彼らの行動とリアクションを通して観客の脳内で結実するような構造となっている。
その結果、映画は遠くからみるめ君の奇妙な日常を覗き見するかの様な、不思議な倒錯感のあるユニークな作品となっている。
当たり前だが、長まわし演出の作品において、もっとも重要なのは芝居である。
どんなに美しい構図を決めた所で、それだけで二分、三分という尺は持たない。
切り取られたフレームの中で、登場人物がどれだけ魅力的で説得力のある芝居をするかが決定的な要素となる。
映画監督の現場での第一義的な仕事は俳優の演技指導だが、長まわしの作品ではこの原点が何にも増して重要であり、故に演出力の無い作家がやると酷い結果を招くのだ。
長まわしの演出家の元で役者が育つといわれるのは、高い演出力によって、高度な芝居を引き出されるためである。
その意味で、本作の井口奈己監督はなかなか見事な仕事をしていると思う。
ほとんどアップらしいアップも無いのに、俳優たちは実に魅力的で、彼らの心の機微が絶妙に伝わってくる。
なかでも、ゆりちゃん役の永作博美が抜群に良い。
今までもテレビドラマや映画で印象的な芝居を見せてくれた人だが、これは代表作の一つになるのではないだろうか。
奔放で掴み所が無く、みるめ君を誘惑する仕草なんて、実にエロい。
「ラスト、コーション」と違って、直接的な描写は全く無いのに、まるで他人の秘め事を覗いてしまった様な、妙にリアルな感覚がある。
ゆりちゃんは映画の設定では39歳だが、永作博美の実年齢は昭和45年生まれの37歳。
う~む、見えない。
がんばれ、昭和40年代生まれ。
どちらかと言うと攻めのゆりちゃんに対する受けのみるめ君を演じる松山ケンイチも、いかにも今時の美大にいそうでリアル。
作品全体のベースとなるキャラクターをぶれずに演じた。
彼ら二人の関係を、複雑な心境で見守るえんちゃん役の蒼井優は相変わらず完璧だ。
全体に、本作のキャラクター造形は個性的ながら、自分の身の回りにいても全く違和感が無いくらいに説得力がある。
ゆりちゃんとえんちゃんの、「みるめ君のこと、触りたくないの~?」「え~、触りたいけどぉ・・・」みたいなやり取りは、二人の役者の呼吸が絶妙で、これは演技も見事だけど、男性の監督ではなかなか演出できない部分だろう。
女性二人のキャラクターが強くて、みるめ君が受けの役割なのは、もしかしたら女性監督ならではの作りなのかもしれない。
「人のセックスを笑うな」は、なるほどタイトル通りに他人の恋路を覗き見て、クスクスと笑う様な作品だ。
見方によっては結構悪趣味な物語かもしれないが、そこはある種の格調を感じさせる丁寧な演出とハイレベルな演技で、上手くユーモアとして昇華している。
観終わって特に心に残る様な強いテーマ性も無いし、意地悪な観方をすれば、だから何?と言えなくも無いのだが、これはこれでキャラクターたちへの共感を込めた、愛すべき佳作であると思う。
楽しい造形感覚と生活感を上手く織り交ぜた木村威夫の美術や、本業は音響畑ながら空気感のある映像を写し撮った鈴木昭彦のカメラも印象的だ。
今回は、舞台となる桐生に近い群馬の地酒、「赤城山 大吟醸」をチョイス。
端麗辛口で、大吟醸らしいフルーティな香りも楽しめる、洗練された上毛美人の様な酒。
私はみるめ君よりは温水洋一の山田先生に近いけど、ゆりちゃんみたいなエロい人妻と、こんな酒を飲んでみたいものである(笑
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長まわしと言えば
何とも人を喰ったタイトルだが、ある意味で日本映画のスタンダードとも言える「芝居を楽しめる」一本だった。
淡々とした流れは好き嫌いが分かれるだろうが、私としてはかなり好みの一本だ。
地方の美大に通うみるめ君(松山ケンイチ)は、ある時新任のリトグラフ講師のゆり(永作博美)にモデルを頼まれ、彼女のアトリエを訪れる。
そこで言葉巧みに服を脱がされて、みるめ君は20歳年上のゆりにすっかり夢中になってしまう。
しかしある日ゆりに夫がいることをあっさり告げられ、茫然自失。
奔放な年上の女性に振り回されるみるめ君に、同級生のえんちゃん(蒼井優)は複雑な感情を覚えるのだが・・・
久しぶりに、日本映画らしい長まわし演出を観た気がする。
どのぐらいの長いかと言うと、途中でトイレに行って戻ってきても、まだ画面では同じカットが続いているくらい。
キャラクターのアップは数えるほどしかなく、説明的な描写は極端に少ない。
80年代ごろは、メジャー系でもこの手の邦画が多く制作されていて、長まわしこそがトレンディだった事もあったが、最近では単館系を除けばあまり見られなくなったスタイルだ。
長まわし演出は、私小説的な物語を映像に置き換えるのに向いているため、映画の描写する対象が個人の内面に傾倒していった時代にピタリとあったのだろうが、反面カット割という映画の最大の武器を半ば放棄してしまうので、演出力の無い作家がやると目も当てられない結果となる。
一時期の、邦画=ダラダラしていてつまらない、という固定観念は多分に長まわし演出の流行が作り出した側面があるのは否めない。
では、「人のセックスを笑うな」の場合はどうか。
物語的には、人妻講師ゆりちゃんの気まぐれな行動に翻弄されるみるめ君をフィーチャーした物語で、他の登場人物も基本的には彼に絡んでくる人ばかり。
演出的にはロングショットを多用した長まわしというのが一番の特徴だと言え、メタファーを用いる心理描写なども極力避けられている。
登場人物の心情は、あくまでも彼らの行動とリアクションを通して観客の脳内で結実するような構造となっている。
その結果、映画は遠くからみるめ君の奇妙な日常を覗き見するかの様な、不思議な倒錯感のあるユニークな作品となっている。
当たり前だが、長まわし演出の作品において、もっとも重要なのは芝居である。
どんなに美しい構図を決めた所で、それだけで二分、三分という尺は持たない。
切り取られたフレームの中で、登場人物がどれだけ魅力的で説得力のある芝居をするかが決定的な要素となる。
映画監督の現場での第一義的な仕事は俳優の演技指導だが、長まわしの作品ではこの原点が何にも増して重要であり、故に演出力の無い作家がやると酷い結果を招くのだ。
長まわしの演出家の元で役者が育つといわれるのは、高い演出力によって、高度な芝居を引き出されるためである。
その意味で、本作の井口奈己監督はなかなか見事な仕事をしていると思う。
ほとんどアップらしいアップも無いのに、俳優たちは実に魅力的で、彼らの心の機微が絶妙に伝わってくる。
なかでも、ゆりちゃん役の永作博美が抜群に良い。
今までもテレビドラマや映画で印象的な芝居を見せてくれた人だが、これは代表作の一つになるのではないだろうか。
奔放で掴み所が無く、みるめ君を誘惑する仕草なんて、実にエロい。
「ラスト、コーション」と違って、直接的な描写は全く無いのに、まるで他人の秘め事を覗いてしまった様な、妙にリアルな感覚がある。
ゆりちゃんは映画の設定では39歳だが、永作博美の実年齢は昭和45年生まれの37歳。
う~む、見えない。
がんばれ、昭和40年代生まれ。
どちらかと言うと攻めのゆりちゃんに対する受けのみるめ君を演じる松山ケンイチも、いかにも今時の美大にいそうでリアル。
作品全体のベースとなるキャラクターをぶれずに演じた。
彼ら二人の関係を、複雑な心境で見守るえんちゃん役の蒼井優は相変わらず完璧だ。
全体に、本作のキャラクター造形は個性的ながら、自分の身の回りにいても全く違和感が無いくらいに説得力がある。
ゆりちゃんとえんちゃんの、「みるめ君のこと、触りたくないの~?」「え~、触りたいけどぉ・・・」みたいなやり取りは、二人の役者の呼吸が絶妙で、これは演技も見事だけど、男性の監督ではなかなか演出できない部分だろう。
女性二人のキャラクターが強くて、みるめ君が受けの役割なのは、もしかしたら女性監督ならではの作りなのかもしれない。
「人のセックスを笑うな」は、なるほどタイトル通りに他人の恋路を覗き見て、クスクスと笑う様な作品だ。
見方によっては結構悪趣味な物語かもしれないが、そこはある種の格調を感じさせる丁寧な演出とハイレベルな演技で、上手くユーモアとして昇華している。
観終わって特に心に残る様な強いテーマ性も無いし、意地悪な観方をすれば、だから何?と言えなくも無いのだが、これはこれでキャラクターたちへの共感を込めた、愛すべき佳作であると思う。
楽しい造形感覚と生活感を上手く織り交ぜた木村威夫の美術や、本業は音響畑ながら空気感のある映像を写し撮った鈴木昭彦のカメラも印象的だ。
今回は、舞台となる桐生に近い群馬の地酒、「赤城山 大吟醸」をチョイス。
端麗辛口で、大吟醸らしいフルーティな香りも楽しめる、洗練された上毛美人の様な酒。
私はみるめ君よりは温水洋一の山田先生に近いけど、ゆりちゃんみたいなエロい人妻と、こんな酒を飲んでみたいものである(笑

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長まわしと言えば


2008年02月19日 (火) | 編集 |
台湾の異才、アン・リーの最新作「ラスト、コーション」は、やはり一筋縄ではいかない。
前作「ブロークバック・マウンテン」は、ゲイのカウボーイ同士の数十年に渡る切ない愛の物語だったが、今回は日中戦争下の上海を舞台に、敵味方の間に交わされた濃密にして激しい性愛模様が描かれる。
1938年、日中戦争が激化する時代の香港。
本土から疎開してきた大学生のワン・チアチー(タン・ウェイ)は、クァン(ワン・リーホン)たちの抗日演劇運動に参加する。
最初は演劇を通して募金を募る運動だったが、次第に直接的なレジスタンスを志向したグループは、日本軍の傀儡である汪兆銘政権の大物イー(トニー・レオン)を暗殺のターゲットとする。
ワンは上流階級の「マイ夫人」としてイーに接近するが、学生たちの暗殺計画はイーの突然の転出によってあっけなく失敗する。
四年後、上海で国民党の工作員となっていたクァンに再開したワンは、特務機関の長官となって上海に赴任しているイーに再び接近する事を依頼される。
マイ夫人として、四年ぶりにイーと再会したワンは、やがて彼の愛人として奇妙な恋に囚われてゆく・・・・
戦時下で、レジスタンスのスパイ活動に身を投じた女性が、ターゲットと危険な恋愛関係を結んでゆくという本作の設定は、第二次大戦中のオランダを舞台としたポール・バーホーベン監督の「ブラックブック」と全体的な印象が似ている。
勿論、アン・リーとバーホーベンでは作家としての資質は天と地ほど違うし、サスペンス色の強い「ブラックブック」に対して、「ラスト、コーション」はずっとラブストーリーとしての色彩が濃い。
ただ物語のコアとなる部分は、女スパイが本来憎むべき敵であるはずの男と、いつの間にか心の奥底でつながってしまうという設定であり、この点で二本は共通していると言っていい。
もっとも、戦争という命がもっとも軽んじられる状況下で、敵味方同士で互いの生を確認するかのような、抜き差しならない恋愛が成立するという設定は決して目新しい物ではなく、例えばリリアーナ・カヴァーニ監督の「愛の嵐」などもこの変形と捉える事が出来るだろう。
「恋人たちの食卓」「グリーン・デスティニー」でアン・リーとコンビを組んだワン・フィリンの脚本は、ほとんど主人公であるワンの視点で物語を紡いでいるが、適度な客観性を保ち、2時間38分の長尺の中で彼女と交錯する他の登場人物の目線を取り込んで物語を重層化している。
ワンとイーの関係の切っ掛けを作りながら、ワンの想い人であり、自身も彼女への複雑な想いを抱くクァンや、毎日の様に麻雀卓を囲み、周りの女たちと心を探り合っている様なイーの妻のキャラクターは、映画に屈折した深みをもたらしている。
「ブロークバック・マウンテン」、イニャリトゥの「バベル」などで知られるロドリゴ・プリエトのカメラは重厚で、パン・ライの手による見事な美術も相まって、陰影の美しい映像設計は登場人物の心理を映像面から描写する。
はたしてこの映画に描かれる複雑な男女の感情は、本質としての愛だったのだろうか。
戦時下の上海という、ある種の閉鎖空間で育まれる情愛は、しばしば誘拐事件などで犯人と人質が閉ざされた状態で体験を共有する事で、人質が犯人に共感や愛情を持つようになるというストックホルム症候群の様にも見えなくはない。
またワンは英国に渡った父親に戦火の中国に置き去りにされたという設定もあり、親子ほど歳の離れたイーに対しての感情は、倒錯したファーザーコンプレックスの様な物も垣間見られる。
トニー・レオンとタン・ウェイの激しいラブシーンは公開前から物議をかもして、中国本土では7分間もカットされたという。
日本公開版も、さすがにこれだけ赤裸々な描写はまだ問題になってしまうのか、久々にボカシだらけのラブシーンを観た気がする。
この長く、激しい性愛描写は、ワンとイーの命の交錯であるから激しいのは必然であるが、何で四十八手みたいなアクロバティックな体位ばっかりなのかは謎(笑
変なAVみたいで、笑ってしまった。
もっともアン・リーとしては、ここに描かれる変則的な恋愛の本質を描くのに、激しくて変な体位を象徴的に使いたかったのかも知れないが、演出意図がストレートに伝わるかどうかはちょっと疑問だ。
アン・リーの映画はいつもタイトルが意味深だが、今回の原題は「色、戒」。
タイトルの「ラスト、コーション」の「ラスト」は「Last」ではなく「Lust」、つまり色欲の事である。
「Lust(色欲)、Caution(戒め)」とは、自らの欲望を戒めるという意味だが、はたしてこれは誰に掛かる言葉なのか。
イーはワンとの情愛に溺れるが故に、自らを危険に晒した。
一方でワンは色を仕掛けたつもりで、いつの間にか自らがその罠に絡まってしまっていた。
誰よりもつながりを求めていたのは、実はイーではなくワンの方だったのかも知れない。
今回は、上海の夜に飲みたい紹興酒ベースのカクテル、「シャンハイ・ハイボール」をチョイス。
紹興酒をタンブラーに注ぎ、好みの量のスパークリングウォーターで割る。
風味の独特のクセが和らぎ、とても飲みやすくなる。
重厚かつ複雑な後味を残す映画の後では、このくらいさっぱりとしたお酒が良い。
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前作「ブロークバック・マウンテン」は、ゲイのカウボーイ同士の数十年に渡る切ない愛の物語だったが、今回は日中戦争下の上海を舞台に、敵味方の間に交わされた濃密にして激しい性愛模様が描かれる。
1938年、日中戦争が激化する時代の香港。
本土から疎開してきた大学生のワン・チアチー(タン・ウェイ)は、クァン(ワン・リーホン)たちの抗日演劇運動に参加する。
最初は演劇を通して募金を募る運動だったが、次第に直接的なレジスタンスを志向したグループは、日本軍の傀儡である汪兆銘政権の大物イー(トニー・レオン)を暗殺のターゲットとする。
ワンは上流階級の「マイ夫人」としてイーに接近するが、学生たちの暗殺計画はイーの突然の転出によってあっけなく失敗する。
四年後、上海で国民党の工作員となっていたクァンに再開したワンは、特務機関の長官となって上海に赴任しているイーに再び接近する事を依頼される。
マイ夫人として、四年ぶりにイーと再会したワンは、やがて彼の愛人として奇妙な恋に囚われてゆく・・・・
戦時下で、レジスタンスのスパイ活動に身を投じた女性が、ターゲットと危険な恋愛関係を結んでゆくという本作の設定は、第二次大戦中のオランダを舞台としたポール・バーホーベン監督の「ブラックブック」と全体的な印象が似ている。
勿論、アン・リーとバーホーベンでは作家としての資質は天と地ほど違うし、サスペンス色の強い「ブラックブック」に対して、「ラスト、コーション」はずっとラブストーリーとしての色彩が濃い。
ただ物語のコアとなる部分は、女スパイが本来憎むべき敵であるはずの男と、いつの間にか心の奥底でつながってしまうという設定であり、この点で二本は共通していると言っていい。
もっとも、戦争という命がもっとも軽んじられる状況下で、敵味方同士で互いの生を確認するかのような、抜き差しならない恋愛が成立するという設定は決して目新しい物ではなく、例えばリリアーナ・カヴァーニ監督の「愛の嵐」などもこの変形と捉える事が出来るだろう。
「恋人たちの食卓」「グリーン・デスティニー」でアン・リーとコンビを組んだワン・フィリンの脚本は、ほとんど主人公であるワンの視点で物語を紡いでいるが、適度な客観性を保ち、2時間38分の長尺の中で彼女と交錯する他の登場人物の目線を取り込んで物語を重層化している。
ワンとイーの関係の切っ掛けを作りながら、ワンの想い人であり、自身も彼女への複雑な想いを抱くクァンや、毎日の様に麻雀卓を囲み、周りの女たちと心を探り合っている様なイーの妻のキャラクターは、映画に屈折した深みをもたらしている。
「ブロークバック・マウンテン」、イニャリトゥの「バベル」などで知られるロドリゴ・プリエトのカメラは重厚で、パン・ライの手による見事な美術も相まって、陰影の美しい映像設計は登場人物の心理を映像面から描写する。
はたしてこの映画に描かれる複雑な男女の感情は、本質としての愛だったのだろうか。
戦時下の上海という、ある種の閉鎖空間で育まれる情愛は、しばしば誘拐事件などで犯人と人質が閉ざされた状態で体験を共有する事で、人質が犯人に共感や愛情を持つようになるというストックホルム症候群の様にも見えなくはない。
またワンは英国に渡った父親に戦火の中国に置き去りにされたという設定もあり、親子ほど歳の離れたイーに対しての感情は、倒錯したファーザーコンプレックスの様な物も垣間見られる。
トニー・レオンとタン・ウェイの激しいラブシーンは公開前から物議をかもして、中国本土では7分間もカットされたという。
日本公開版も、さすがにこれだけ赤裸々な描写はまだ問題になってしまうのか、久々にボカシだらけのラブシーンを観た気がする。
この長く、激しい性愛描写は、ワンとイーの命の交錯であるから激しいのは必然であるが、何で四十八手みたいなアクロバティックな体位ばっかりなのかは謎(笑
変なAVみたいで、笑ってしまった。
もっともアン・リーとしては、ここに描かれる変則的な恋愛の本質を描くのに、激しくて変な体位を象徴的に使いたかったのかも知れないが、演出意図がストレートに伝わるかどうかはちょっと疑問だ。
アン・リーの映画はいつもタイトルが意味深だが、今回の原題は「色、戒」。
タイトルの「ラスト、コーション」の「ラスト」は「Last」ではなく「Lust」、つまり色欲の事である。
「Lust(色欲)、Caution(戒め)」とは、自らの欲望を戒めるという意味だが、はたしてこれは誰に掛かる言葉なのか。
イーはワンとの情愛に溺れるが故に、自らを危険に晒した。
一方でワンは色を仕掛けたつもりで、いつの間にか自らがその罠に絡まってしまっていた。
誰よりもつながりを求めていたのは、実はイーではなくワンの方だったのかも知れない。
今回は、上海の夜に飲みたい紹興酒ベースのカクテル、「シャンハイ・ハイボール」をチョイス。
紹興酒をタンブラーに注ぎ、好みの量のスパークリングウォーターで割る。
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2008年02月10日 (日) | 編集 |
白黒を足して二で割れば、そこにあるのは灰色のアメリカ。
「アメリカン・ギャングスター」は、リドリー・スコット監督とラッセル・クロウ主演によるコンビ第三弾。
前作「プロヴァンスの贈り物」は軽妙なラブコメディだったが、今回は打って変わって70年代の激動のアメリカを舞台としたハードなフィルムノワールとなっている。
タイトルロールの相手役にデンゼル・ワシントンを迎え、オスカー俳優同士の豪華な対決も見ものだ。
1968年、ハーレムの黒人ギャングのボスとして君臨していた男が死に、彼の右腕だったフランク・ルーカス(デンゼル・ワシントン)は独自の組織構築に乗り出す。
彼はボスに仕えるうちに培った人脈と、卓越したアイディアを駆使し、瞬く間にNYの麻薬王として頭角を現す。
一方、麻薬組織との汚職が蔓延る警察の中で、一人正義を貫こうとするリッチー・ロバーツ刑事(ラッセル・クロウ)は、麻薬犯罪専門の特別チームの編成を任される。
急速に街に蔓延しはじめた、「ブルーマジック」という新種の麻薬の出所を探るリッチーたちのチームだったが、それは全く尻尾を見せない謎の麻薬組織との長い戦いの始まりだった・・・
やはり俳優が良い。
商品の流通ルートにおける中間搾取を無くし、確実な輸送手段によって生産者と消費者をダイレクトに結びつけ、良質で安価な商品を安定供給する。
同時に、強面ではなく紳士的な態度と冷静なロジック、驚異的な行動力で取引相手の信頼を得てゆく麻薬王・フランク・ルーカスは、一見するとまるでやり手のビジネスマンだ。
だが一方で、自分の邪魔になる相手は顔色一つ変えずに排除する冷酷さを併せ持つ。
このキャラクター造形が非常に面白く、物語の前半はこの悪のカリスマによって作品世界に引き込まれる。
逆に正義を体現するロバーツ刑事の存在感はそれほど強くなく、強烈な個性を持つ敵役に対して、一見破滅型にも見える刑事では弱すぎるのではないかと思わされる。
だが、後半ルーカスが危機に陥り、ロバーツとの攻守が逆転すると、今度は徐々に明かされるロバーツの複雑でしたたかな内面に魅力される。
名優同士の演技合戦は、キャラクター造形でも魅力の面でもさすがに見事なもので、リドリー・スコットの演出も徹底的に彼ら二人をフィーチャーする。
スコットと共に物語を紡ぐ脚本家は、「シンドラーのリスト」の名手スティーブン・ザイリアン。
物語その物は一見してオーソドックスな刑事vs犯罪者のフィルムノワールだが、公民権運動、ベトナム戦争を経て、従来の価値観がひっくり返った70年代の米国という時代性そのものが重要なキーとなっている。
この映画において描かれるアメリカとは、対立と矛盾によって形作られており、それを体現するのが二人の主人公だ。
対立点は単に白人と黒人と言う肌の色だけではない。
権力とアウトローという社会的ポジション、正義と悪という道徳観念、更には個人と家族の捉え方など、社会に存在する様々な対立要因がこの二人の周りに存在する。
だがこの対照的な二人自身が、内部にも複雑な矛盾と内なる対立を抱えているのがこの作品のキモだ。
本来権力者であるはずのリッチー・ロバーツは、実際には汚職が横行する警察内部で孤立し、むしろ弱者の立場にある。
また刑事でありながら、司法試験に挑戦しているが、私生活ではその司法によって子供の親権を奪われつつある。
冷酷なギャングであるはずのフランク・ルーカスは、一方で家族を愛し彼らに富を与えるが、同時に彼らが日のあたる場所に出る機会を奪ってしまう。
また彼は白人に対して強い対抗意識を抱き、黒人としてのアイデンティティに誇りを抱いている様にみえるが、彼の麻薬ビジネスの顧客は黒人であり、結果的にルーカスは黒人社会を破壊している。
彼ら二人は、一見全く対照的に見えるが、実はどちらも70年代アメリカという、絶対の正義が説得力を失った、混沌の時代を象徴するピースなのだ。
面白いのは、映画を構成する自己矛盾を抱え込んだ対立が、全体を通して見ると奇妙なハーモニーを形作っている事だ。
対立は混沌を形作るが、混沌は増殖するフラクタル曲線のように巨視的に見るとある種の秩序を形作る。
「アメリカン・ギャングスター」は、飽くなき人間の欲望によって成長してきたアメリカという社会が、善悪の二元論で割り切れなくなった今の時代のルーツそのものを、ギャングのボスと刑事という二人の男の魂の交錯によって描き出す。
それは、正義でも悪でもなく、混沌と曖昧さが支配する灰色の時代の始まりだ。
もちろん、この作品は小難しい社会派映画でなく、娯楽映画としても良くできており、二時間四十分という長尺を全く感じさせない。
見事なのは二人の名優の火花散る演技合戦を観ているつもりでも、実際には彼ら二人の絡みは映画がほとんど終わりになるまで無い点で、スティーブン・ザイリアンの脚本は、綿密なロジックで二つの並行するドラマに、硬く絡みついた運命の糸を感じさせるのに成功している。
この絶妙な距離感があるから、二人が遂に対面してからラストまでの、ある意味で非常に皮肉な物語の流れは、控えめながらドラマチックなカタルシスを感じさせる。
もちろんリドリー・スコットの演出もザイリアンの優れた脚本と二人の名優を最大限生かしながら、十分に個性的で相変わらずムーディー。
作品の完成度から言っても、彼のベスト作品の一つと言えるだろう。
今回はリドリー・スコット監督作品ということで、彼の「ブラック・レイン」の名に由来するカクテルをチョイスしよう。
グラスに漆黒のリキュール、ブラック・サンブーカとシャンパンを1:9の割合で注ぎ、軽くステアする。
黒いカクテルは珍しいが、オーストラリアのホテルのバーで、映画にちなんで作られたのが最初だという。
ブラック・サンブーカの香りには結構クセがあるので、混沌とした映画と違ってこちらは好みが明確に分かれるかもしれない。
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「アメリカン・ギャングスター」は、リドリー・スコット監督とラッセル・クロウ主演によるコンビ第三弾。
前作「プロヴァンスの贈り物」は軽妙なラブコメディだったが、今回は打って変わって70年代の激動のアメリカを舞台としたハードなフィルムノワールとなっている。
タイトルロールの相手役にデンゼル・ワシントンを迎え、オスカー俳優同士の豪華な対決も見ものだ。
1968年、ハーレムの黒人ギャングのボスとして君臨していた男が死に、彼の右腕だったフランク・ルーカス(デンゼル・ワシントン)は独自の組織構築に乗り出す。
彼はボスに仕えるうちに培った人脈と、卓越したアイディアを駆使し、瞬く間にNYの麻薬王として頭角を現す。
一方、麻薬組織との汚職が蔓延る警察の中で、一人正義を貫こうとするリッチー・ロバーツ刑事(ラッセル・クロウ)は、麻薬犯罪専門の特別チームの編成を任される。
急速に街に蔓延しはじめた、「ブルーマジック」という新種の麻薬の出所を探るリッチーたちのチームだったが、それは全く尻尾を見せない謎の麻薬組織との長い戦いの始まりだった・・・
やはり俳優が良い。
商品の流通ルートにおける中間搾取を無くし、確実な輸送手段によって生産者と消費者をダイレクトに結びつけ、良質で安価な商品を安定供給する。
同時に、強面ではなく紳士的な態度と冷静なロジック、驚異的な行動力で取引相手の信頼を得てゆく麻薬王・フランク・ルーカスは、一見するとまるでやり手のビジネスマンだ。
だが一方で、自分の邪魔になる相手は顔色一つ変えずに排除する冷酷さを併せ持つ。
このキャラクター造形が非常に面白く、物語の前半はこの悪のカリスマによって作品世界に引き込まれる。
逆に正義を体現するロバーツ刑事の存在感はそれほど強くなく、強烈な個性を持つ敵役に対して、一見破滅型にも見える刑事では弱すぎるのではないかと思わされる。
だが、後半ルーカスが危機に陥り、ロバーツとの攻守が逆転すると、今度は徐々に明かされるロバーツの複雑でしたたかな内面に魅力される。
名優同士の演技合戦は、キャラクター造形でも魅力の面でもさすがに見事なもので、リドリー・スコットの演出も徹底的に彼ら二人をフィーチャーする。
スコットと共に物語を紡ぐ脚本家は、「シンドラーのリスト」の名手スティーブン・ザイリアン。
物語その物は一見してオーソドックスな刑事vs犯罪者のフィルムノワールだが、公民権運動、ベトナム戦争を経て、従来の価値観がひっくり返った70年代の米国という時代性そのものが重要なキーとなっている。
この映画において描かれるアメリカとは、対立と矛盾によって形作られており、それを体現するのが二人の主人公だ。
対立点は単に白人と黒人と言う肌の色だけではない。
権力とアウトローという社会的ポジション、正義と悪という道徳観念、更には個人と家族の捉え方など、社会に存在する様々な対立要因がこの二人の周りに存在する。
だがこの対照的な二人自身が、内部にも複雑な矛盾と内なる対立を抱えているのがこの作品のキモだ。
本来権力者であるはずのリッチー・ロバーツは、実際には汚職が横行する警察内部で孤立し、むしろ弱者の立場にある。
また刑事でありながら、司法試験に挑戦しているが、私生活ではその司法によって子供の親権を奪われつつある。
冷酷なギャングであるはずのフランク・ルーカスは、一方で家族を愛し彼らに富を与えるが、同時に彼らが日のあたる場所に出る機会を奪ってしまう。
また彼は白人に対して強い対抗意識を抱き、黒人としてのアイデンティティに誇りを抱いている様にみえるが、彼の麻薬ビジネスの顧客は黒人であり、結果的にルーカスは黒人社会を破壊している。
彼ら二人は、一見全く対照的に見えるが、実はどちらも70年代アメリカという、絶対の正義が説得力を失った、混沌の時代を象徴するピースなのだ。
面白いのは、映画を構成する自己矛盾を抱え込んだ対立が、全体を通して見ると奇妙なハーモニーを形作っている事だ。
対立は混沌を形作るが、混沌は増殖するフラクタル曲線のように巨視的に見るとある種の秩序を形作る。
「アメリカン・ギャングスター」は、飽くなき人間の欲望によって成長してきたアメリカという社会が、善悪の二元論で割り切れなくなった今の時代のルーツそのものを、ギャングのボスと刑事という二人の男の魂の交錯によって描き出す。
それは、正義でも悪でもなく、混沌と曖昧さが支配する灰色の時代の始まりだ。
もちろん、この作品は小難しい社会派映画でなく、娯楽映画としても良くできており、二時間四十分という長尺を全く感じさせない。
見事なのは二人の名優の火花散る演技合戦を観ているつもりでも、実際には彼ら二人の絡みは映画がほとんど終わりになるまで無い点で、スティーブン・ザイリアンの脚本は、綿密なロジックで二つの並行するドラマに、硬く絡みついた運命の糸を感じさせるのに成功している。
この絶妙な距離感があるから、二人が遂に対面してからラストまでの、ある意味で非常に皮肉な物語の流れは、控えめながらドラマチックなカタルシスを感じさせる。
もちろんリドリー・スコットの演出もザイリアンの優れた脚本と二人の名優を最大限生かしながら、十分に個性的で相変わらずムーディー。
作品の完成度から言っても、彼のベスト作品の一つと言えるだろう。
今回はリドリー・スコット監督作品ということで、彼の「ブラック・レイン」の名に由来するカクテルをチョイスしよう。
グラスに漆黒のリキュール、ブラック・サンブーカとシャンパンを1:9の割合で注ぎ、軽くステアする。
黒いカクテルは珍しいが、オーストラリアのホテルのバーで、映画にちなんで作られたのが最初だという。
ブラック・サンブーカの香りには結構クセがあるので、混沌とした映画と違ってこちらは好みが明確に分かれるかもしれない。

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2008年02月06日 (水) | 編集 |
ネッシー・オウチ・デンワ・・・・
ネッシー版の「E.T」?それとも「のび太の恐竜」?軍隊が絡んでくるあたりは故・影山民夫の「遠い海から来たCoo」?
伝説化した一枚の写真がモチーフとなるあたりは、チャールズ・スターリッジの「フェアリーテイル」も思わせる。
と、過去の色々な作品を連想させる本作「ウォーター・ホース」だが、実際に観てみるとやはり「E.T」だった。
第二次大戦中のスコットランド。
ネス湖の近くに住むアンガス少年(アレックス・エテル)は、貴族の屋敷の管理人である母アン(エミリー・ワトソン)と姉と共に、出征して連絡の途絶えた父の帰りを待っている。
ある日、アンガスはネス湖の湖畔で大きな卵を拾うのだが、その卵からは見た事もない不思議な生き物が生まれる。
アンガスはその生き物にクルーソーという名前をつけ、育て始める。
ちょうどその頃、アンガスたちの住む屋敷に、ネス湖にドイツ軍の潜水艦が侵入するのを警戒するために、イギリス軍が進駐してくるのだが・・・・
プレシオサウルス説や巨大ナメクジ説など、ネス湖の怪物の正体には諸説あるが、元々この地には古くから伝わるウォーター・ホースの伝説がある。
ウォーター・ホースとは、ケルト伝説の水魔。
馬の様な姿をして、イギリスの沼や湖に住むといわれ、日本各地残る牛鬼伝説の一部にも良く似た伝承が見られる。
この作品では、生物というよりも妖怪に近いウォーター・ホースを、ストレートにネッシーの正体として位置付け、あの有名な写真が撮られた第二次大戦中を舞台としている。
いわば現代ネッシー伝説のルーツを明かすと言う志向だ。
ただ、物語そのものはこの手のスタンダードとは言え、要所要所の描き方があまりにも「E.T」に似すぎている。
舞台は80年代のアメリカの郊外から、第二次世界大戦中のスコットランドへ大きく変わっているし、相手も等身大の宇宙人と伝説の巨大生物と、設定だけ見ればかなり違う。
だが父親への喪失感を抱える主人公の内向的なキャラクター、更に母親や姉との関係はエリオットを強く感じさせる。
何よりも決定的なのは、少年がネッシーと初めて対面するシーンで、これはエリオットがE.Tと対面するシーンそっくりだ。
舞台もあえて同じ物置というあたりに、作り手のオマージュを感じさせるが、ここだけでなく、物語のあちこちに「E.T」チックな場面が散りばめられているので、観ていてどうしても「オリジナル」の存在を思い出してしまう。
どうせなら、有名過ぎる「E.T」的な要素を取り込みながら、あのネッシーを一躍有名にしたインチキ写真を、もう少し物語に絡めたらよかったのではないだろうか。
予告編を観て、この写真が物語の核にあるのかと思ったが、実際には映画の一シーンであっけなくスルーされてしまう。
このあたりは、同じように後年にインチキと判明した妖精写真をモチーフとした「フェアリーテイル」が、なかなかに上手い展開をしているので、こっちを参考にしても良かった気がする。
ロバート・ネルソン・ジェイコブスの脚本は、とりあえず色々詰め込まれているのだが、あまり生かされていないエピソードも少なくない。
軍の料理長と屋敷のおばさんの恋なんて別になくても良いから、ハンターの兵士に対するアンガスの恐れなどはもっと突っ込んだほうが面白かっただろう。
高慢な軍人のハミルトン大尉が、いつの間にかすっかり良い人になってしまうご都合主義も気になる。
物語的なまとまりは、今ひとつという感じだ。
ただ、元ネタの存在を感じさせるとは言え、アンガス少年の内面はしっかりと描かれているし、エミリー・ワトソンら脇を固める芸達者たちも好演しており、決して安っぽいファンタジーではないのも確かである。
ジェイ・ラッセルの演出も、やや大味な感はあるが、キャラクターへの眼差しは優しく真摯で、人間に興味の無い人ではない様である。
背景となるネス湖の自然描写も美しく、情感演出はなかなかのもので、少年の成長物としてはある程度の説得力がある。
もう一方の主役と言うべきクルーソーは、成長した姿がカワイイかどうかはともかく、その出来ばえは見事なもので、アンガスを乗せて水中を疾走するシーンは、スピード感もあって中々に楽しかった。
思うに、「ウォーター・ホース」の不幸は、やはり「E.T」に印象が似すぎている事だろう。
同じように「E.T」的な物語であるが、強い独自性を感じさせる秀作、「河童のクゥと夏休み」のとの違いを言えば、ジェイ・ラッセルはついついディテールを再現したくなるくらい「E.T」が大好きで、原恵一はそれほどでもなかったという事だろうか。
だが、「E.T」を思わせる部分が多いとはいえ、映画そのものはしっかりと丁寧に作られており、作品の完成度は決して低くはない。
たぶん、「E.T」を知らない今の子供たちが観れば、かなり心に残る作品なのかもしれない。
実際、私は「E.T」を知っていても、クライマックスではそれなりに感動したし、楽しめた。
今回はスコットランドの物語と言うことで、安直にスコッチ。
真にスコッチらしいスコッチと言うことで、「バランタイン」の17年もの。
40種類以上のモルトをブレンドして、味の奥行きはネス湖の様に深くミステリアスだ。
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ネッシー版の「E.T」?それとも「のび太の恐竜」?軍隊が絡んでくるあたりは故・影山民夫の「遠い海から来たCoo」?
伝説化した一枚の写真がモチーフとなるあたりは、チャールズ・スターリッジの「フェアリーテイル」も思わせる。
と、過去の色々な作品を連想させる本作「ウォーター・ホース」だが、実際に観てみるとやはり「E.T」だった。
第二次大戦中のスコットランド。
ネス湖の近くに住むアンガス少年(アレックス・エテル)は、貴族の屋敷の管理人である母アン(エミリー・ワトソン)と姉と共に、出征して連絡の途絶えた父の帰りを待っている。
ある日、アンガスはネス湖の湖畔で大きな卵を拾うのだが、その卵からは見た事もない不思議な生き物が生まれる。
アンガスはその生き物にクルーソーという名前をつけ、育て始める。
ちょうどその頃、アンガスたちの住む屋敷に、ネス湖にドイツ軍の潜水艦が侵入するのを警戒するために、イギリス軍が進駐してくるのだが・・・・
プレシオサウルス説や巨大ナメクジ説など、ネス湖の怪物の正体には諸説あるが、元々この地には古くから伝わるウォーター・ホースの伝説がある。
ウォーター・ホースとは、ケルト伝説の水魔。
馬の様な姿をして、イギリスの沼や湖に住むといわれ、日本各地残る牛鬼伝説の一部にも良く似た伝承が見られる。
この作品では、生物というよりも妖怪に近いウォーター・ホースを、ストレートにネッシーの正体として位置付け、あの有名な写真が撮られた第二次大戦中を舞台としている。
いわば現代ネッシー伝説のルーツを明かすと言う志向だ。
ただ、物語そのものはこの手のスタンダードとは言え、要所要所の描き方があまりにも「E.T」に似すぎている。
舞台は80年代のアメリカの郊外から、第二次世界大戦中のスコットランドへ大きく変わっているし、相手も等身大の宇宙人と伝説の巨大生物と、設定だけ見ればかなり違う。
だが父親への喪失感を抱える主人公の内向的なキャラクター、更に母親や姉との関係はエリオットを強く感じさせる。
何よりも決定的なのは、少年がネッシーと初めて対面するシーンで、これはエリオットがE.Tと対面するシーンそっくりだ。
舞台もあえて同じ物置というあたりに、作り手のオマージュを感じさせるが、ここだけでなく、物語のあちこちに「E.T」チックな場面が散りばめられているので、観ていてどうしても「オリジナル」の存在を思い出してしまう。
どうせなら、有名過ぎる「E.T」的な要素を取り込みながら、あのネッシーを一躍有名にしたインチキ写真を、もう少し物語に絡めたらよかったのではないだろうか。
予告編を観て、この写真が物語の核にあるのかと思ったが、実際には映画の一シーンであっけなくスルーされてしまう。
このあたりは、同じように後年にインチキと判明した妖精写真をモチーフとした「フェアリーテイル」が、なかなかに上手い展開をしているので、こっちを参考にしても良かった気がする。
ロバート・ネルソン・ジェイコブスの脚本は、とりあえず色々詰め込まれているのだが、あまり生かされていないエピソードも少なくない。
軍の料理長と屋敷のおばさんの恋なんて別になくても良いから、ハンターの兵士に対するアンガスの恐れなどはもっと突っ込んだほうが面白かっただろう。
高慢な軍人のハミルトン大尉が、いつの間にかすっかり良い人になってしまうご都合主義も気になる。
物語的なまとまりは、今ひとつという感じだ。
ただ、元ネタの存在を感じさせるとは言え、アンガス少年の内面はしっかりと描かれているし、エミリー・ワトソンら脇を固める芸達者たちも好演しており、決して安っぽいファンタジーではないのも確かである。
ジェイ・ラッセルの演出も、やや大味な感はあるが、キャラクターへの眼差しは優しく真摯で、人間に興味の無い人ではない様である。
背景となるネス湖の自然描写も美しく、情感演出はなかなかのもので、少年の成長物としてはある程度の説得力がある。
もう一方の主役と言うべきクルーソーは、成長した姿がカワイイかどうかはともかく、その出来ばえは見事なもので、アンガスを乗せて水中を疾走するシーンは、スピード感もあって中々に楽しかった。
思うに、「ウォーター・ホース」の不幸は、やはり「E.T」に印象が似すぎている事だろう。
同じように「E.T」的な物語であるが、強い独自性を感じさせる秀作、「河童のクゥと夏休み」のとの違いを言えば、ジェイ・ラッセルはついついディテールを再現したくなるくらい「E.T」が大好きで、原恵一はそれほどでもなかったという事だろうか。
だが、「E.T」を思わせる部分が多いとはいえ、映画そのものはしっかりと丁寧に作られており、作品の完成度は決して低くはない。
たぶん、「E.T」を知らない今の子供たちが観れば、かなり心に残る作品なのかもしれない。
実際、私は「E.T」を知っていても、クライマックスではそれなりに感動したし、楽しめた。
今回はスコットランドの物語と言うことで、安直にスコッチ。
真にスコッチらしいスコッチと言うことで、「バランタイン」の17年もの。
40種類以上のモルトをブレンドして、味の奥行きはネス湖の様に深くミステリアスだ。

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