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2008年04月25日 (金) | 編集 |
超能力物の近未来SFは珍しくないが、これは「二分後の未来」だけが見える中途半端な予知能力を持った男の物語。
フィリップ・K・ディックの短編小説「ゴールデン・マン」を原作としているが、出来上がった映画にディックらしさは微塵も無く、内容的には殆どオリジナルだ。
ラスベガスでB級マジシャンとして活動するクリス(ニコラス・ケイジ)は、実は「二分後の未来」が見える予知能力者。
彼の能力を知ったFBI捜査官カリー(ジュリアン・ムーア)は、ロサンゼルスで核テロが起こるのを阻止するため、クリスに捜査への協力を要請する。
だがクリスは、ダイナーで見かける女性リズ(ジェシカ・ビール)に夢中。
能力を使って彼女と知り合う事に成功したクリスだが、事件の魔の手は彼らに迫っていた・・・
困った映画だ。
かなり以前に観てレビューも途中まで書いてはみたものの、何だか書いているうちに脱力してしまって中断したままだった。
本国公開からほぼ一年も放置されていた事からもわかると思うが、娯楽映画としての出来ばえはかなり微妙だ。
チンケな超能力を持つマジシャンに、FBIが核弾頭捜索への協力を持ちかけてくるのはまあいい。
だがこの男、事件の捜査よりも恋に御執心で、そうこうしているうちに、事件に巻き込まれ次から次へと襲ってくる危機から、能力を活用して逃げ回るという展開が延々と続く。
肝心の核弾頭探しはちっとも前へ進まない。
いや、二分先だけが見えるというコンセプトは面白いし、よく出来たVFXを駆使したアクションシークエンスもそれ自体は楽しむことは出来る。
問題は、映画全体の構成なのだ。
引っ張って引っ張って、ハイ、ニコラスの恋の話し了解。で、いつ核弾頭探しの本筋に入るのだろうと期待していると、唐突にラストはやってくる。
「えええええ!!これで終わりですかぁ!?」と、誰もが椅子から転げ落ちるだろう。
もしワーストラスト・オブ・ザ・イヤーという賞があったら、ダントツの一位は確実である。
それまでの突っ込みどころは満載なれど、そこそこ見ていられた映画の印象もこれで崩壊。
まさに核弾頭炸裂くらいインパクトのあるオチであった。
「007/ダイ・アナザー・デイ」などで知られるリー・タマホリ監督は、アクションシーンではさすがに魅せるものの、映画全体のコーディネイトはグダグダもいいところ。
元々構成力があるとは言えないゲイリー・ゴールドマンの脚本と共に、映画の根幹部分が未完成な印象なのは残念だ。
唯一ディックの原作のアイディアが残る、「二分先しか見えない」という、スリルとサスペンスと物語の流れを生み出すせっかくの括りまでもが、途中であっけなく放棄されてしまうのだ。
まあ物語全体を支配する括りが、ある瞬間破られるというのは、作劇のひとつのパターンとしてアリだと思うが、それはまさしく物語の切り札として使われるべきだろう。
この作品の場合、言ってみれば序破急の序と破の途中だけで終わってしまっているような妙な作劇なので、物語のピークがどこにも無く、唐突に能力が成長したようにしかみえないのだ。
主人公はどうも作品選びの基準がよく判らないニコラス・ケイジ。
この人一応オスカー俳優なのだが、出演作品の半分くらいはラジー賞の対象になりそうな勢いだ。
一流であるのは間違いないのだろうが、俳優としては演技の引き出しがたった一つしかなくて、どんな作品でも感情が同じなら全く同じ表情しかしない。
役柄ではなくて、ニコラス・ケイジというキャラで勝負している、ある意味典型的スター俳優である。
そして彼を事件に巻き込むことになるFBI捜査官は、やっぱり作品選びの基準がよく判らないジュリアン・ムーア。
この人も四回もオスカーにノミネートされている大物なのに、時たま「フォーガットン」みたいなぶっ飛んだ作品で嬉々として熱演していたりする。
これで彼らの珍品リストに、最新の一作が加わったという事は間違いないだろう。
「NEXT-ネクスト-」は、一言で言えば行き当たりばったりな映画だ。
ディックの原作の持つ「二分後の未来が見える」という秀逸なアイディアだけを借り出して、後は全体の構成を考えずに突っ走ってしまったような作品で、下絵を描かずに絵を描き始めたら最終的にキャンバスに収まりきらなくなって、訳の判らない奇妙な絵が完成してしまったという感じだ。
まあ物語自体が、二分後の未来のビジョンだけを頼りに、行き当たりばったりな人生を送る主人公の人生そのまんまと考えれば、これはこれで映画そのものがシニカルなメタファーと言えなくも無いのだけど、それにしてももうちょっときちんと構成を考えるべきだったと思う。
まあ脱力系の映画が好きな人なら、これも楽しめるかも知れないが、正直なところそういうちょっと特殊な趣味の人以外には薦められない作品である。
今回は、二分先の未来のビジョンを見る主人公から「ビジョン・セラーズ ピノ・ノワール ゲーリーズ・ヴィンヤード」の2004をチョイス。
オーナーはカリフォルニアのワイン業界でも珍しいアフリカ系で、1995年以来ピノ・ノワールに特化した丁寧なワイン作りを続けている。
ラベルはアフリカの儀式用仮面がデザインされているユニークなもの。
芳醇な果実香が楽しめるパワフルなワインで、とてもまとまりが良い。
映画もこのくらいの構成力があればよかったのに。
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フィリップ・K・ディックの短編小説「ゴールデン・マン」を原作としているが、出来上がった映画にディックらしさは微塵も無く、内容的には殆どオリジナルだ。
ラスベガスでB級マジシャンとして活動するクリス(ニコラス・ケイジ)は、実は「二分後の未来」が見える予知能力者。
彼の能力を知ったFBI捜査官カリー(ジュリアン・ムーア)は、ロサンゼルスで核テロが起こるのを阻止するため、クリスに捜査への協力を要請する。
だがクリスは、ダイナーで見かける女性リズ(ジェシカ・ビール)に夢中。
能力を使って彼女と知り合う事に成功したクリスだが、事件の魔の手は彼らに迫っていた・・・
困った映画だ。
かなり以前に観てレビューも途中まで書いてはみたものの、何だか書いているうちに脱力してしまって中断したままだった。
本国公開からほぼ一年も放置されていた事からもわかると思うが、娯楽映画としての出来ばえはかなり微妙だ。
チンケな超能力を持つマジシャンに、FBIが核弾頭捜索への協力を持ちかけてくるのはまあいい。
だがこの男、事件の捜査よりも恋に御執心で、そうこうしているうちに、事件に巻き込まれ次から次へと襲ってくる危機から、能力を活用して逃げ回るという展開が延々と続く。
肝心の核弾頭探しはちっとも前へ進まない。
いや、二分先だけが見えるというコンセプトは面白いし、よく出来たVFXを駆使したアクションシークエンスもそれ自体は楽しむことは出来る。
問題は、映画全体の構成なのだ。
引っ張って引っ張って、ハイ、ニコラスの恋の話し了解。で、いつ核弾頭探しの本筋に入るのだろうと期待していると、唐突にラストはやってくる。
「えええええ!!これで終わりですかぁ!?」と、誰もが椅子から転げ落ちるだろう。
もしワーストラスト・オブ・ザ・イヤーという賞があったら、ダントツの一位は確実である。
それまでの突っ込みどころは満載なれど、そこそこ見ていられた映画の印象もこれで崩壊。
まさに核弾頭炸裂くらいインパクトのあるオチであった。
「007/ダイ・アナザー・デイ」などで知られるリー・タマホリ監督は、アクションシーンではさすがに魅せるものの、映画全体のコーディネイトはグダグダもいいところ。
元々構成力があるとは言えないゲイリー・ゴールドマンの脚本と共に、映画の根幹部分が未完成な印象なのは残念だ。
唯一ディックの原作のアイディアが残る、「二分先しか見えない」という、スリルとサスペンスと物語の流れを生み出すせっかくの括りまでもが、途中であっけなく放棄されてしまうのだ。
まあ物語全体を支配する括りが、ある瞬間破られるというのは、作劇のひとつのパターンとしてアリだと思うが、それはまさしく物語の切り札として使われるべきだろう。
この作品の場合、言ってみれば序破急の序と破の途中だけで終わってしまっているような妙な作劇なので、物語のピークがどこにも無く、唐突に能力が成長したようにしかみえないのだ。
主人公はどうも作品選びの基準がよく判らないニコラス・ケイジ。
この人一応オスカー俳優なのだが、出演作品の半分くらいはラジー賞の対象になりそうな勢いだ。
一流であるのは間違いないのだろうが、俳優としては演技の引き出しがたった一つしかなくて、どんな作品でも感情が同じなら全く同じ表情しかしない。
役柄ではなくて、ニコラス・ケイジというキャラで勝負している、ある意味典型的スター俳優である。
そして彼を事件に巻き込むことになるFBI捜査官は、やっぱり作品選びの基準がよく判らないジュリアン・ムーア。
この人も四回もオスカーにノミネートされている大物なのに、時たま「フォーガットン」みたいなぶっ飛んだ作品で嬉々として熱演していたりする。
これで彼らの珍品リストに、最新の一作が加わったという事は間違いないだろう。
「NEXT-ネクスト-」は、一言で言えば行き当たりばったりな映画だ。
ディックの原作の持つ「二分後の未来が見える」という秀逸なアイディアだけを借り出して、後は全体の構成を考えずに突っ走ってしまったような作品で、下絵を描かずに絵を描き始めたら最終的にキャンバスに収まりきらなくなって、訳の判らない奇妙な絵が完成してしまったという感じだ。
まあ物語自体が、二分後の未来のビジョンだけを頼りに、行き当たりばったりな人生を送る主人公の人生そのまんまと考えれば、これはこれで映画そのものがシニカルなメタファーと言えなくも無いのだけど、それにしてももうちょっときちんと構成を考えるべきだったと思う。
まあ脱力系の映画が好きな人なら、これも楽しめるかも知れないが、正直なところそういうちょっと特殊な趣味の人以外には薦められない作品である。
今回は、二分先の未来のビジョンを見る主人公から「ビジョン・セラーズ ピノ・ノワール ゲーリーズ・ヴィンヤード」の2004をチョイス。
オーナーはカリフォルニアのワイン業界でも珍しいアフリカ系で、1995年以来ピノ・ノワールに特化した丁寧なワイン作りを続けている。
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2008年04月22日 (火) | 編集 |
今年はアメリカ大統領選が行われる年。
言い換えれば二期八年のブッシュ政権の総決算がされる年でもある。
ロバート・レッドフォード監督の「大いなる陰謀」は、ブッシュ政権の負の遺産とも言うべき対テロ戦争を題材に、三つの物語を重層的に絡ませることによって、アメリカが今直面する本当の危機を浮き上がらせようとした意欲作である。
ワシントンDC、午前10時。
権力への野望を抱くアーヴィング上院議員(トム・クルーズ)は、ベテラン記者のロス(メリル・ストリーブ)に、アフガニスタンでの対テロ戦争の戦況を劇的に転換させる、新戦略について熱弁をふるっていた。
ロスは、アーヴィングの言葉の裏に不穏な臭いを感じ取り、彼の言葉に隠された真実を読み取ろうとしていた。
同じ頃、アフガニスタンの山岳地帯では、アーヴィングの仕掛けた作戦によって二人の若い兵士アーネスト(マイケル・ベーニャ)とフィンチ(デレク・ルーク)が危機に陥っていた。
そしてロスの大学では、苦渋の思いで二人の教え子を戦場へ送り出した大学教授(ロバート・レッドフォード)が、目標を見失った一人の学生を呼び出して信念を語ろうとしていた・・・
特異な映画である。
アフガニスタンでの戦争に纏わる三つの物語が、ほぼ実際の上映時間と同じ1時間35分の時間軸の中にリアルタイムで描かれ、明確な結論に向かう物語構造は持たない。
「踊る大捜査線」風に言えば事件は会議室、あるいは現場で起きている。
「会議室」がワシントン、「現場」がアフガニスタン、そしてそこで起こっている戦争という事件の意味を、ベトナム帰還兵のレッドフォード教授のいるロスの大学での会話が一歩引いた視点で考えさせる。
そう、これはレッドフォード教授のポリティカルサイエンス講座であり、観客は受講生だ。
ワシントンとアフガニスタンの物語が浮かび上がらせる対テロ戦争の本質を考え、「君はどうすべきなのか?」と問いかける。
映画は、教授との会話で深い葛藤を抱えた学生の、苦悩する表情のアップで終わるが、この表情こそ、レッドフォードが観客に期待した物だろう。
この映画は、明らかに民主党よりのリベラル派の視点を感じるが、同時に断定的なプロパガンダになることは慎重に避けている。
民主党大統領候補の予備選の争点の一つにもなっていたが、開戦当時にイラク戦争へ賛同したリベラル派の責任、政府と共に若者を戦場へ送るキャンペーンを張りながら、その事を忘れた様にブッシュバッシングに転じたジャーナリスト達といった事実もフォローされている。
見るからに権力欲に溺れたネオコン然としたアーヴィングの主張にも、一定の正論はあるし、観客という学生たちがレッドフォード教授からの課題を考えるのには、比較的公平な材料がそろっていると言えるだろう。
もっとも最終的には、アメリカの現状に対して大いなる憂いを感じさせる作品であることは間違いなく、その意味でこの作品は明確な政治映画であることは一目瞭然なのだが。
この映画を通して、観客にアメリカの行く末を自分自身の生き方の問題として捉えさせると言う作品の意図は判る。
しかし、それが映画として上手く機能しているかというと、正直なところ疑問だ。
ワシントンの政治家とジャーナリスト、アフガニスタンの兵士、そしてそこからテーマを浮かび上がらせるためのロスの大学教授と生徒。
作品のロジックが余りにも型にはまりすぎていて、言いたいことは良くわかるが心に響いてこない。
まるで本当に、大学でポリティカルサイエンスの講座を受講している様な気分になってしまうのだ。
力のある作家は、言いたいテーマが明確にあればあるほど、凝ったロジックで訴えたくなって、結果作品が妙に説教臭くなってしまう。
それをいかに映画的に語るかが作品の成否の鍵なのだが、レッドフォードはあれほど詩情あふれる作品を作っている人なのに、この作品に関していえば、ロジックの魔力から逃れられていない。
まあこのテーマは、作り手からしてそれだけ考え込んでしまう題材なのかもしれないが、日々伝えられる世界の現実はこの映画で語られるよりもずっと広く複雑で、映画そのものが箱庭的に見えてしまうのは作品のあり方として余り幸福とは言えまい。
この映画は、本国では大コケ。
その理由は明確で、わざわざ政治的な映画を観に映画館へ足を運ぶ層は、この映画に描かれているテーマはとっくに自分の中で考えているからだ。
またそうでない人々を惹きつけるには、映画のスタイルがあまりにも硬すぎる。
政治に無関心な人は、あからさまな政治映画など最初から観に行かないのである。
本国でもそんな感じだから、正直なところ日本人にとって内容との距離感は更に遠い。
まあ大物スターがそろっての熱演は見ものだし、語り口は丁寧でよく考えられているので決して飽きることは無いと思う。
アメリカ人の政治的なメンタリティに興味がある人なら、観て損は無いだろう。
原題は「Lions for Lambs」で、これは劇中の説明によれば、第一次大戦中にイギリス軍兵士の勇敢さと、指揮官の無能さを見たドイツの将軍が「この様な愚鈍な羊たちに率いられた、勇敢なライオンを私は見たたことが無い」と皮肉たっぷりに語ったことから取られているという。
で、今回はライオンならぬマーライオンの国から(笑)、「シンガポール・スリング」をチョイス。
ドライ・ジン45ml、レモンジュース20ml、砂糖1tsをシェイク、氷を入れたタンブラーに注ぎ、ソーダでわってステアする。
そこにチェリー・ブランデー15mlを加えて、お好みでチェリーやパインといったフルーツを添えて完成。
ミスマッチの様だが、余りにも生真面目な映画の後に生真面目な酒は辛い。
このくらい華やかな酒で、気分をほぐしたい。
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言い換えれば二期八年のブッシュ政権の総決算がされる年でもある。
ロバート・レッドフォード監督の「大いなる陰謀」は、ブッシュ政権の負の遺産とも言うべき対テロ戦争を題材に、三つの物語を重層的に絡ませることによって、アメリカが今直面する本当の危機を浮き上がらせようとした意欲作である。
ワシントンDC、午前10時。
権力への野望を抱くアーヴィング上院議員(トム・クルーズ)は、ベテラン記者のロス(メリル・ストリーブ)に、アフガニスタンでの対テロ戦争の戦況を劇的に転換させる、新戦略について熱弁をふるっていた。
ロスは、アーヴィングの言葉の裏に不穏な臭いを感じ取り、彼の言葉に隠された真実を読み取ろうとしていた。
同じ頃、アフガニスタンの山岳地帯では、アーヴィングの仕掛けた作戦によって二人の若い兵士アーネスト(マイケル・ベーニャ)とフィンチ(デレク・ルーク)が危機に陥っていた。
そしてロスの大学では、苦渋の思いで二人の教え子を戦場へ送り出した大学教授(ロバート・レッドフォード)が、目標を見失った一人の学生を呼び出して信念を語ろうとしていた・・・
特異な映画である。
アフガニスタンでの戦争に纏わる三つの物語が、ほぼ実際の上映時間と同じ1時間35分の時間軸の中にリアルタイムで描かれ、明確な結論に向かう物語構造は持たない。
「踊る大捜査線」風に言えば事件は会議室、あるいは現場で起きている。
「会議室」がワシントン、「現場」がアフガニスタン、そしてそこで起こっている戦争という事件の意味を、ベトナム帰還兵のレッドフォード教授のいるロスの大学での会話が一歩引いた視点で考えさせる。
そう、これはレッドフォード教授のポリティカルサイエンス講座であり、観客は受講生だ。
ワシントンとアフガニスタンの物語が浮かび上がらせる対テロ戦争の本質を考え、「君はどうすべきなのか?」と問いかける。
映画は、教授との会話で深い葛藤を抱えた学生の、苦悩する表情のアップで終わるが、この表情こそ、レッドフォードが観客に期待した物だろう。
この映画は、明らかに民主党よりのリベラル派の視点を感じるが、同時に断定的なプロパガンダになることは慎重に避けている。
民主党大統領候補の予備選の争点の一つにもなっていたが、開戦当時にイラク戦争へ賛同したリベラル派の責任、政府と共に若者を戦場へ送るキャンペーンを張りながら、その事を忘れた様にブッシュバッシングに転じたジャーナリスト達といった事実もフォローされている。
見るからに権力欲に溺れたネオコン然としたアーヴィングの主張にも、一定の正論はあるし、観客という学生たちがレッドフォード教授からの課題を考えるのには、比較的公平な材料がそろっていると言えるだろう。
もっとも最終的には、アメリカの現状に対して大いなる憂いを感じさせる作品であることは間違いなく、その意味でこの作品は明確な政治映画であることは一目瞭然なのだが。
この映画を通して、観客にアメリカの行く末を自分自身の生き方の問題として捉えさせると言う作品の意図は判る。
しかし、それが映画として上手く機能しているかというと、正直なところ疑問だ。
ワシントンの政治家とジャーナリスト、アフガニスタンの兵士、そしてそこからテーマを浮かび上がらせるためのロスの大学教授と生徒。
作品のロジックが余りにも型にはまりすぎていて、言いたいことは良くわかるが心に響いてこない。
まるで本当に、大学でポリティカルサイエンスの講座を受講している様な気分になってしまうのだ。
力のある作家は、言いたいテーマが明確にあればあるほど、凝ったロジックで訴えたくなって、結果作品が妙に説教臭くなってしまう。
それをいかに映画的に語るかが作品の成否の鍵なのだが、レッドフォードはあれほど詩情あふれる作品を作っている人なのに、この作品に関していえば、ロジックの魔力から逃れられていない。
まあこのテーマは、作り手からしてそれだけ考え込んでしまう題材なのかもしれないが、日々伝えられる世界の現実はこの映画で語られるよりもずっと広く複雑で、映画そのものが箱庭的に見えてしまうのは作品のあり方として余り幸福とは言えまい。
この映画は、本国では大コケ。
その理由は明確で、わざわざ政治的な映画を観に映画館へ足を運ぶ層は、この映画に描かれているテーマはとっくに自分の中で考えているからだ。
またそうでない人々を惹きつけるには、映画のスタイルがあまりにも硬すぎる。
政治に無関心な人は、あからさまな政治映画など最初から観に行かないのである。
本国でもそんな感じだから、正直なところ日本人にとって内容との距離感は更に遠い。
まあ大物スターがそろっての熱演は見ものだし、語り口は丁寧でよく考えられているので決して飽きることは無いと思う。
アメリカ人の政治的なメンタリティに興味がある人なら、観て損は無いだろう。
原題は「Lions for Lambs」で、これは劇中の説明によれば、第一次大戦中にイギリス軍兵士の勇敢さと、指揮官の無能さを見たドイツの将軍が「この様な愚鈍な羊たちに率いられた、勇敢なライオンを私は見たたことが無い」と皮肉たっぷりに語ったことから取られているという。
で、今回はライオンならぬマーライオンの国から(笑)、「シンガポール・スリング」をチョイス。
ドライ・ジン45ml、レモンジュース20ml、砂糖1tsをシェイク、氷を入れたタンブラーに注ぎ、ソーダでわってステアする。
そこにチェリー・ブランデー15mlを加えて、お好みでチェリーやパインといったフルーツを添えて完成。
ミスマッチの様だが、余りにも生真面目な映画の後に生真面目な酒は辛い。
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2008年04月19日 (土) | 編集 |
「不思議の国のアリス」+「グレムリンズ」+「ジュマンジ」
一昔前だったら、「スティーブン・スピルバーグ製作総指揮」の冠が付きそうな、アンブリン・エンターテイメント的なご近所冒険ファンタジー。
基本的に一軒の屋敷とその周辺の話なので、壮大なスケール感は無いが、物語の仕掛けがなかなか良く出来ていて飽きさせない。
少年ジャレッド(フレディ・ハイモア)は、双子の兄弟サイモン(ハイモアの二役)、姉のマロリー(サラ・ボルジャー)と共に、鬱蒼とした森の中にある屋敷へとやって来た。
彼らの両親が離婚したので三人は母親と暮らすことを選択し、NYからこの親戚にあたるスパイダーウィック家の古い邸宅に引っ越してきたのだ。
ある日ジャレッドは、屋根裏の隠し部屋で、封印された古い本を発見する。
その書には、嘗ての屋敷の主人であり数十年前に行方不明となった大叔父アーサー・スパイダーウィックの“決して読んではならない”という警告のメモがついていた。
しかし、ジャレッドは好奇心を抑えきれず、封印をといて本を開いてしまう。
その瞬間、屋敷とその周り一帯は本当の姿を現し始める・・・・
またまたフレディ・ハイモアだ!
ハリウッドと言う所は、多彩な題材と豊かな才能の宝庫のはずなのだが、何で子役だけは判で押したようなキャスティングばかりなのだろう。
ここ数年、SFではキャメロン・ブライト、ファンタジーならフレディ・ハイモアを何度みたことか。
もちろんこれはキャスティングする側の問題なのだけど、将来のある子役をステロタイプに押し込めて消費してしまうのはいかがなものかと思う。
もっともハイモアの演技そのものは、性格の異なる双子をしっかり演じ分けていたり、相変わらず達者なのだけど。
彼が演じるのは、ちょっとはみ出し者の香りのするジャレッドと生真面目なサイモン。
映画はこのジャレッドが封印された本を開いてしまう事でドラマの幕が開く。
そこには様々な妖精たちの秘密がびっしりと書かれており、屋敷の妖精ブラウニーのシンブルタッグは恐ろしい事がおこると警告する。
その日から、ジャレッドと兄弟たちにとっては、屋敷とその周りの森は良い者、邪悪な者とわず、妖精たちの跋扈する不思議の世界となってしまう。
そして本を狙うゴブリンたちとの争奪戦が始まるのだ。
この映画の妖精たちは、フェアリーテイルという言葉から想像するヒラヒラ儚げなイメージとはちょっと違う。
勿論そういう妖精も出てはくるが、多くは異形でおどろおどろしい姿をしており、イメージ的には和風の「妖怪」に近い。
彼らクリーチャー関係はフィル・ティペットのスタジオが担当しており、どことなくスターウォーズの旧三部作のパペット風なのが面白い。
マーク・ウォーターズの演出は、まるで80年代のアンブリン製ファンタジーの様に、子供と妖精に愛情を注ぎ、しっかりとキャラクターとして命を吹き込んでいる。
屋敷に押し寄せるゴブリンたちとのバトルは「グレムリンズ」を思わせるが、屋敷の構造やご近所の地形を上手く生かしてなかなかに楽しく、手に汗握らせる。
チョイグロ目のキャラクター造形も含めて、ゴブリンの描写は小さな子供には結構怖いかもしれないが、微妙なホラーテイストがこの作品のいい感じの隠し味になっていると思う。
原作はトニー・ディテルリッジとホリー・ブラックによる児童文学なのだが、あらすじを読むと、映画は五巻ある原作を一本に纏めている様だ。
原作の文量は未読なのでわからないが、ダイジェスト感はあまり感じない。
どちらかというと比較的低年齢向けに書かれた物語の様なので、原作自体がコンパクトなものなのかもしれない。
それでも、物語の構造は決して単純ではなく、子供たちと邪悪なマルガラス率いるゴブリンたちとの本争奪戦を縦軸に、消えたアーサー・スパイダーウィックと彼の愛娘であり、ジャレッドたちを屋敷に迎え入れたルシンダ叔母さんのエピソードを横軸に持って来て絡ませるなど構成も凝っていて、児童文学の脚色としてはかなり成功している部類ではないかと思う。
そんな脚本を書いたのは誰?と思っていたら、なんとジョン・セイルズの名前があるではないか。
最近ではあまり名前を聞かなくなっていたが、ジョー・ダンテと組んだ「ピラニア」「ハウリング」、そして「E.T」が当初SFホラーとして企画されていた時の脚本家として知られ、監督としてもインディーズを中心に多くの秀作を残している人物だ。
「シャーロットの贈り物」のカーリー・カートパトリック、「エルフ」のデビット・ベレンバウムとの共同脚本だが、なるほどこの作品のテイストにどこか懐かしさを感じる訳がわかった。
「スパイダーウィックの謎」は、よく出来たファミリー映画で、ゴールデンウィークに家族で観に行くのにちょうど良い作品だと思う。
「グレムリンズ」や「グーニーズ」といった80年代のスピルバーグ印の作品の様な、身近な冒険ファンタジーのワクワクする楽しさをメインに、適度にふりかけられたライトなホラーテイスト、秀逸なビジュアルイメージが作品をデコレーションし、なかなかに満足度は高い。
超大作のような派手さは無いが、しっかりと映画の夢がつまった楽しいおもちゃ箱だ。
今回は、南オーストラリアから蜘蛛の名を持つワインを。
「ダーレンベルグ・マネースパイダー」の2004をチョイス。
しっかりとしたボディを持つ辛口の白。
熟成にオーク樽を使わないのがここの特徴で、葡萄本来の香りが楽しめる。
ちなみにマネースパイダーとは所謂「銭クモ」の事で、イギリスではこの蜘蛛を繁栄の象徴として大切にした歴史がある。
ある意味縁起物の名前なのである。
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一昔前だったら、「スティーブン・スピルバーグ製作総指揮」の冠が付きそうな、アンブリン・エンターテイメント的なご近所冒険ファンタジー。
基本的に一軒の屋敷とその周辺の話なので、壮大なスケール感は無いが、物語の仕掛けがなかなか良く出来ていて飽きさせない。
少年ジャレッド(フレディ・ハイモア)は、双子の兄弟サイモン(ハイモアの二役)、姉のマロリー(サラ・ボルジャー)と共に、鬱蒼とした森の中にある屋敷へとやって来た。
彼らの両親が離婚したので三人は母親と暮らすことを選択し、NYからこの親戚にあたるスパイダーウィック家の古い邸宅に引っ越してきたのだ。
ある日ジャレッドは、屋根裏の隠し部屋で、封印された古い本を発見する。
その書には、嘗ての屋敷の主人であり数十年前に行方不明となった大叔父アーサー・スパイダーウィックの“決して読んではならない”という警告のメモがついていた。
しかし、ジャレッドは好奇心を抑えきれず、封印をといて本を開いてしまう。
その瞬間、屋敷とその周り一帯は本当の姿を現し始める・・・・
またまたフレディ・ハイモアだ!
ハリウッドと言う所は、多彩な題材と豊かな才能の宝庫のはずなのだが、何で子役だけは判で押したようなキャスティングばかりなのだろう。
ここ数年、SFではキャメロン・ブライト、ファンタジーならフレディ・ハイモアを何度みたことか。
もちろんこれはキャスティングする側の問題なのだけど、将来のある子役をステロタイプに押し込めて消費してしまうのはいかがなものかと思う。
もっともハイモアの演技そのものは、性格の異なる双子をしっかり演じ分けていたり、相変わらず達者なのだけど。
彼が演じるのは、ちょっとはみ出し者の香りのするジャレッドと生真面目なサイモン。
映画はこのジャレッドが封印された本を開いてしまう事でドラマの幕が開く。
そこには様々な妖精たちの秘密がびっしりと書かれており、屋敷の妖精ブラウニーのシンブルタッグは恐ろしい事がおこると警告する。
その日から、ジャレッドと兄弟たちにとっては、屋敷とその周りの森は良い者、邪悪な者とわず、妖精たちの跋扈する不思議の世界となってしまう。
そして本を狙うゴブリンたちとの争奪戦が始まるのだ。
この映画の妖精たちは、フェアリーテイルという言葉から想像するヒラヒラ儚げなイメージとはちょっと違う。
勿論そういう妖精も出てはくるが、多くは異形でおどろおどろしい姿をしており、イメージ的には和風の「妖怪」に近い。
彼らクリーチャー関係はフィル・ティペットのスタジオが担当しており、どことなくスターウォーズの旧三部作のパペット風なのが面白い。
マーク・ウォーターズの演出は、まるで80年代のアンブリン製ファンタジーの様に、子供と妖精に愛情を注ぎ、しっかりとキャラクターとして命を吹き込んでいる。
屋敷に押し寄せるゴブリンたちとのバトルは「グレムリンズ」を思わせるが、屋敷の構造やご近所の地形を上手く生かしてなかなかに楽しく、手に汗握らせる。
チョイグロ目のキャラクター造形も含めて、ゴブリンの描写は小さな子供には結構怖いかもしれないが、微妙なホラーテイストがこの作品のいい感じの隠し味になっていると思う。
原作はトニー・ディテルリッジとホリー・ブラックによる児童文学なのだが、あらすじを読むと、映画は五巻ある原作を一本に纏めている様だ。
原作の文量は未読なのでわからないが、ダイジェスト感はあまり感じない。
どちらかというと比較的低年齢向けに書かれた物語の様なので、原作自体がコンパクトなものなのかもしれない。
それでも、物語の構造は決して単純ではなく、子供たちと邪悪なマルガラス率いるゴブリンたちとの本争奪戦を縦軸に、消えたアーサー・スパイダーウィックと彼の愛娘であり、ジャレッドたちを屋敷に迎え入れたルシンダ叔母さんのエピソードを横軸に持って来て絡ませるなど構成も凝っていて、児童文学の脚色としてはかなり成功している部類ではないかと思う。
そんな脚本を書いたのは誰?と思っていたら、なんとジョン・セイルズの名前があるではないか。
最近ではあまり名前を聞かなくなっていたが、ジョー・ダンテと組んだ「ピラニア」「ハウリング」、そして「E.T」が当初SFホラーとして企画されていた時の脚本家として知られ、監督としてもインディーズを中心に多くの秀作を残している人物だ。
「シャーロットの贈り物」のカーリー・カートパトリック、「エルフ」のデビット・ベレンバウムとの共同脚本だが、なるほどこの作品のテイストにどこか懐かしさを感じる訳がわかった。
「スパイダーウィックの謎」は、よく出来たファミリー映画で、ゴールデンウィークに家族で観に行くのにちょうど良い作品だと思う。
「グレムリンズ」や「グーニーズ」といった80年代のスピルバーグ印の作品の様な、身近な冒険ファンタジーのワクワクする楽しさをメインに、適度にふりかけられたライトなホラーテイスト、秀逸なビジュアルイメージが作品をデコレーションし、なかなかに満足度は高い。
超大作のような派手さは無いが、しっかりと映画の夢がつまった楽しいおもちゃ箱だ。
今回は、南オーストラリアから蜘蛛の名を持つワインを。
「ダーレンベルグ・マネースパイダー」の2004をチョイス。
しっかりとしたボディを持つ辛口の白。
熟成にオーク樽を使わないのがここの特徴で、葡萄本来の香りが楽しめる。
ちなみにマネースパイダーとは所謂「銭クモ」の事で、イギリスではこの蜘蛛を繁栄の象徴として大切にした歴史がある。
ある意味縁起物の名前なのである。

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2008年04月14日 (月) | 編集 |
インターネットの闇サイトを舞台にした、連続猟奇殺人事件を追うサイコスリラー。
地味な作品だが、ネットの仕組みを殺人のロジックに使うなど、仕掛けの部分がなかなか良く出来ていて、飽きさせない。
執拗なまでに悪趣味な殺害方法や、女性捜査官と姿の見えない犯人との頭脳戦は、プチ「羊たちの沈黙」という感じか。
オレゴン州ポートランド。
FBIサイバー捜査官のジェニファー(ダイアン・レイン)の元に、ある夜子猫を虐待しているサイトの調査依頼が舞い込む。
サイトの名は「Kill With Me?(一緒に殺す?)」
犯罪性があるとして、ジェニファーはサイトを閉鎖しようとするが、閉鎖しても直ぐにミラーサイトが現れてしまう。
おまけにそのサイトは複雑な経路をたどってアップされており、追跡はほぼ不可能で、諦めざるを得なかった。
ところがその翌日、地元のヘリコプターパイロットが誘拐され、「Kill With Me?」に縛りつけられた彼のライブ映像が映し出される。
しかも被害者には出血を促進する抗凝固剤が投薬されており、サイトの閲覧数が増えれば増えるほど投薬量が増える、つまり死が早まる仕掛けになっていた。
ジェニファーたちが何の手も打てないうちに、ネット上の殺人ショーに無数のアクセスが殺到しはじめていた・・・
今までもネット犯罪を扱った作品は色々あったが、どちらかと言うと経済犯罪や監視社会をテーマにした物が多く、猟奇殺人の手段として使われるというのは記憶にない。
なるほど実際に動物の虐待ライブが後を絶たない現状を見ると、この映画の様なことを考える人間がいても不思議は無く、妙なリアリティがあるのだ。
原題は「Untraceable(追跡不能)」で、実際にこれほど完璧に発信元を隠すことが出来るのかどうかはちょっと疑問だが、利用者の多くが便利さと同時になんと無く不安を感じているネット経由の犯罪をテーマとしたのは面白いし、興味本位でアクセスすればするほど被害者の死が早まる、つまり一般の閲覧者が無意識のうちに犯人と共犯関係に陥るというあたりもネット社会の特性を上手サスペンスに組み込んでいて上手い。
主人公のサイバー捜査官ジェニファーは、つい最近も「ジャンパー」に出演していたダイアン・レイン。
何だか急に老け込んでしまって実年齢よりも上に見えるのはビックリなのだが、この作品ではむしろ夫を失ったシングルマザーのくたびれた感じが出ていて悪くない。
「リトルロマンス」の美少女も、30年たつとこうなるのだなあ・・・・というのが昔を知る人にはちょっと引っかかってしまうのが悲しいけど。
グレゴリー・ホブリットの演出は、ベテランらしく破綻無く丁寧で、遠くから監視されている様な登場人物のロングショットを多用して不安感を醸し出し、ホラーギリギリの陰惨な殺害シーンも含めて、観客を作品世界にしっかりと留め置く。
マーク・R・ブリンカーとアリソン・バーネットの脚本はネットを使った猟奇殺人というインパクトのある一点からスタートして、犠牲者の文字通りのダイングメッセージの意味付けや、ジェニファーの家族である一人娘と猫の使い方など、細かい部分も手が込んでいる。
物語の中盤で、次の殺害ターゲットをある人物と思わせて、捜査陣と同時に観客をもミスリードするあたりもなかなか上手い。
ただ、凝っている反面細かく観ていくと突っ込み所も多く、特に犯人側のキャラクター造形の甘さが目立つ。
劇中で明かされる犯人の「動機」は、よく考えれば犯行理由としてはかなり弱いし、ネット社会の非道に結びつける犯人の言葉にも無理やり感がただよう。
この手のサイコスリラーでは犯人像のインパクトと説得力が作品の最終的な印象に強く影響するが、犯人像に説得力が余り無いので、犯行の陰惨さだけが際立って、ハッピーエンドにも関わらず、なんだか暗い気分で映画が終わってしまう。
またFBIも歯が立たない犯人が、スーパーハッカーなのはともかくとして、薬品の窃盗やらどこから買ってきたのかわからない巨大水槽やら、現実世界で足が付きそうな事を一杯やっているにもかかわらず、プロ犯罪者でもないのに全く証拠を残さないのは不自然だし、クライマックスで危機に陥るジェニファーの行動が、FBI捜査官のわりには余りにも無防備でマヌケなのはご都合主義を感じてしまう。
このあたりの詰めの甘さは勿体無いところだ。
「ブラックサイト」は、全体としてはなかなかに良く出来たスリラーで十分に楽しめる。
幾つかの点でB級を脱していないのはちょっと残念が、話のアイディアは面白いし、ラストカットの落とし方も上品ではないがなかなか粋で、作者のセンスを感じる。
猟奇殺人でなくても、ネット社会の落とし穴はそこらじゅうに開いていそうで、スクリーンの向こうにどんな人がいるのか、ちょっと怖くなる映画である。
今回は、舞台となるオレゴン生まれのビール「ヘンリー ワインハード」をチョイス。
一世紀半の歴史を持ち、ホップもオレゴン産。
西海岸のビールらしく、適度にコクがあってまろやかだ。
決して爽快とは言えない、映画の後味を少しは和らげてくれるだろう。
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地味な作品だが、ネットの仕組みを殺人のロジックに使うなど、仕掛けの部分がなかなか良く出来ていて、飽きさせない。
執拗なまでに悪趣味な殺害方法や、女性捜査官と姿の見えない犯人との頭脳戦は、プチ「羊たちの沈黙」という感じか。
オレゴン州ポートランド。
FBIサイバー捜査官のジェニファー(ダイアン・レイン)の元に、ある夜子猫を虐待しているサイトの調査依頼が舞い込む。
サイトの名は「Kill With Me?(一緒に殺す?)」
犯罪性があるとして、ジェニファーはサイトを閉鎖しようとするが、閉鎖しても直ぐにミラーサイトが現れてしまう。
おまけにそのサイトは複雑な経路をたどってアップされており、追跡はほぼ不可能で、諦めざるを得なかった。
ところがその翌日、地元のヘリコプターパイロットが誘拐され、「Kill With Me?」に縛りつけられた彼のライブ映像が映し出される。
しかも被害者には出血を促進する抗凝固剤が投薬されており、サイトの閲覧数が増えれば増えるほど投薬量が増える、つまり死が早まる仕掛けになっていた。
ジェニファーたちが何の手も打てないうちに、ネット上の殺人ショーに無数のアクセスが殺到しはじめていた・・・
今までもネット犯罪を扱った作品は色々あったが、どちらかと言うと経済犯罪や監視社会をテーマにした物が多く、猟奇殺人の手段として使われるというのは記憶にない。
なるほど実際に動物の虐待ライブが後を絶たない現状を見ると、この映画の様なことを考える人間がいても不思議は無く、妙なリアリティがあるのだ。
原題は「Untraceable(追跡不能)」で、実際にこれほど完璧に発信元を隠すことが出来るのかどうかはちょっと疑問だが、利用者の多くが便利さと同時になんと無く不安を感じているネット経由の犯罪をテーマとしたのは面白いし、興味本位でアクセスすればするほど被害者の死が早まる、つまり一般の閲覧者が無意識のうちに犯人と共犯関係に陥るというあたりもネット社会の特性を上手サスペンスに組み込んでいて上手い。
主人公のサイバー捜査官ジェニファーは、つい最近も「ジャンパー」に出演していたダイアン・レイン。
何だか急に老け込んでしまって実年齢よりも上に見えるのはビックリなのだが、この作品ではむしろ夫を失ったシングルマザーのくたびれた感じが出ていて悪くない。
「リトルロマンス」の美少女も、30年たつとこうなるのだなあ・・・・というのが昔を知る人にはちょっと引っかかってしまうのが悲しいけど。
グレゴリー・ホブリットの演出は、ベテランらしく破綻無く丁寧で、遠くから監視されている様な登場人物のロングショットを多用して不安感を醸し出し、ホラーギリギリの陰惨な殺害シーンも含めて、観客を作品世界にしっかりと留め置く。
マーク・R・ブリンカーとアリソン・バーネットの脚本はネットを使った猟奇殺人というインパクトのある一点からスタートして、犠牲者の文字通りのダイングメッセージの意味付けや、ジェニファーの家族である一人娘と猫の使い方など、細かい部分も手が込んでいる。
物語の中盤で、次の殺害ターゲットをある人物と思わせて、捜査陣と同時に観客をもミスリードするあたりもなかなか上手い。
ただ、凝っている反面細かく観ていくと突っ込み所も多く、特に犯人側のキャラクター造形の甘さが目立つ。
劇中で明かされる犯人の「動機」は、よく考えれば犯行理由としてはかなり弱いし、ネット社会の非道に結びつける犯人の言葉にも無理やり感がただよう。
この手のサイコスリラーでは犯人像のインパクトと説得力が作品の最終的な印象に強く影響するが、犯人像に説得力が余り無いので、犯行の陰惨さだけが際立って、ハッピーエンドにも関わらず、なんだか暗い気分で映画が終わってしまう。
またFBIも歯が立たない犯人が、スーパーハッカーなのはともかくとして、薬品の窃盗やらどこから買ってきたのかわからない巨大水槽やら、現実世界で足が付きそうな事を一杯やっているにもかかわらず、プロ犯罪者でもないのに全く証拠を残さないのは不自然だし、クライマックスで危機に陥るジェニファーの行動が、FBI捜査官のわりには余りにも無防備でマヌケなのはご都合主義を感じてしまう。
このあたりの詰めの甘さは勿体無いところだ。
「ブラックサイト」は、全体としてはなかなかに良く出来たスリラーで十分に楽しめる。
幾つかの点でB級を脱していないのはちょっと残念が、話のアイディアは面白いし、ラストカットの落とし方も上品ではないがなかなか粋で、作者のセンスを感じる。
猟奇殺人でなくても、ネット社会の落とし穴はそこらじゅうに開いていそうで、スクリーンの向こうにどんな人がいるのか、ちょっと怖くなる映画である。
今回は、舞台となるオレゴン生まれのビール「ヘンリー ワインハード」をチョイス。
一世紀半の歴史を持ち、ホップもオレゴン産。
西海岸のビールらしく、適度にコクがあってまろやかだ。
決して爽快とは言えない、映画の後味を少しは和らげてくれるだろう。

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2008年04月09日 (水) | 編集 |
ヘビー級の歴史絵巻。
セルゲイ・ボドロフ監督の「モンゴル」は十二世紀から十三世紀にかけて、人類史上空前絶後の大帝国を築いたチンギス・ハーンの半生を描いた大作である。
シリーズ化が予定されているらしく、この作品では妻ボルテと出会った少年時代から、若き日のライバルであるジャムカとの決戦までの二十数年間が、史実と神話的な要素を取り混ぜて描かれる。
十二世紀のモンゴル平原。
九歳の少年テムジン、後のチンギス・ハーン(浅野忠信)は、部族の有力者であった父に連れられて嫁探しのために母方の部族につれて来られる。
そこで聡明な少女ボルテ(クーラン・チュラン)と出会い、五年後の結婚の約束をする。
しかしその後父が急死して一族は瓦解、テムジンは仇敵によって命を狙われる身となる。
流浪の最中に彼を助けたのが、盟友(アンダ)となるジャムカ(スー・ホンレイ)だった。
苦難の末に成人したテムジンは、ようやくボルテを妻として迎え入れ、幸せな生活を始めるが、今度はメルキト族によってボルテが連れ去れてしまう。
ジャムカの加勢を得たテムジンは、メルキトとの合戦に勝利しボルテを奪還するが、この時兵を公平に扱うテムジンに魅了されたジャムカの部下が、主をテムジンに変えた事から、テムジンとジャムカの間に小さな亀裂が入る。
やがてそれはテムジンとジャムカの一族を超えて、モンゴル平原全体を揺るがす抗争に発展してゆく・・・
チンギス・ハーンの伝記映画というと、日本でも去年「蒼き狼 地果て海尽きるまで」という作品があったが、正直なところかなりアレな出来ばえであった。
モンゴル人が日本語を喋っているあたりは、ハリウッド映画を考えればそれほど問題にもならないと思うが、何だか映画全体が芝居がかっていて、コスプレショーに見えてしまったのは辛かった。
対して「モンゴル」は、ちゃんと800年前の世界に見える。
同じ題材を扱っても、作り手のセンスでこれほどの差が出来てしまうという好例だろう。
この二作に共通しているのは、チンギス・ハーンの物語であるという事と、主人公を演じているのが日本人の俳優だという事だ。
日本映画の「蒼き狼」の主役が日本人なのはともかく、ドイツ・カザフスタン・ロシア・モンゴルの合作映画である本作で、チンギス・ハーンを演じるのが浅野忠信なのは、日本映画で織田信長をモンゴル人が演じる様な物で、ある意味でとても不思議だ。
もっとも浅野テムジンは、モンゴル語の発音などは判断できないものの、内面の芯の強さとナイーブさを併せ持つ、800年前の心優しい英雄を自然に演じ、少なくとも日本人の我々には違和感は無い。
むしろライバルのジャムカを演じるスー・ホンレイの方が、マッチョな肉体とヘアスタイルのせいもあって、今風の雰囲気だ。
ただ、これはテムジンとのキャラクターの対比にもなっているので、意図されたキャラクター造形だと思う。
主人公を演じるのは日本人、ライバルは中国人、ヒロインはモンゴル人、そして監督はロシア人という多国籍軍のような布陣を考えると、この映画自体がバラバラだったモンゴル平原を平定したテムジンの様に、汎アジア的な才能の結集を図る意図があったのかもしれない。
そういえば昔、ジョン・ウェインがテムジンを演じた「征服者」という無理やりな映画もあった。さすがにアレは酷かったけど・・・
監督のセルゲイ・ボドロフは、「モスクワ・天使のいない夜」や「コーカサスの虜」などで知られる現代ロシアの巨匠だが、スケールの大きな、しかし大味に陥らない丁寧な演出で物語を引っ張る。
とにかくエピソードの多い人物だから、脚本は非常に難しかったと思うが、物語の起点に妻ボルテとの出会いを置き、彼女との絆を物語の芯においたのは成功していると思う。
大平原の雄大な風景の中、騎馬軍団同士の合戦シーンも見所で、実写とCGを上手く使い分けなかなかに迫力がある。
アクションシーンのカット割りが最近流行の細切れの映像ではなく、しっかりと何が起こっているのかを見せてくれるので、古典的なチャンバラの面白さがあるのも良い。
脚本も演出も、良い意味で風格のある伝統的なスタイルである。
惜しむらくは前半に対して後半がやや駆け足な事で、特に一度ジャムカに敗れて虜囚にまで辱められ、たった一人になってしまったテムジンが、巨大な軍団を作り上げるまでの数年間がナレーションだけで片付けられてしまったのは少々残念だ。
120分という、この手の歴史物にしては短めの上映時間が後30分延びても良いから、この下りは描いて欲しかった。
またチンギス・ハーン伝説の神話的な要素を強調する様に、物語の節々に超自然的な現象が織り交ぜられているのだが、どちらかというとリアリズム志向の映画のタッチに必ずしもマッチしておらず、話を論理的に説明するのを端折られてしまった様に感じてしまう。
史実に伝説を取り混ぜるのは良いと思うが、その表現方法は一考の余地ありではなかっただろうか。
「モンゴル」は、チンギス・ハーンという歴史と神話の両方の領域に存在する巨大な偶像を正面から描き、一定の成功を収めている力作だ。
それにしても、映画のテムジンの人生は周り中敵だらけ。
私を含めて、今時の日本の男ならこんな環境では直ぐに死んじまうだろうなあと思うが、まるで品物の様に奪い奪われる女性はもっと大変だ。
まあそんな状況に苦しめられつつ、徐々に変革者としての信念を育ててゆくテムジンのキャラクターはよく描けていると思う。
劇中で印象的な台詞に「モンゴル人は○○だ、だが俺は違う」という物がある。
○○の部分は所謂既成概念であり、それにとらわれず信ずる我が道を行くというテムジンの信念を表している。
はたして、続編でこの後のテムジンがどう描かれて行くのか、世界帝国を築いた英雄、大虐殺を行った非情な征服者、あるいはその両面が描かれるのか、どちらにしても興味深い作品になりそうだ。
今回は、蒼き狼チンギス・ハーンにちなんで、米焼酎「天の狼 創世記」をチョイス。
天の狼とは中国で天上でもっとも明るく輝くシリウスの事。
丁寧に作られた蒸留酒ならではのきりりとした風味と、シンプルで深い味わいを持つ。
度数42°というホンモノのスピリットだ。
ヘビーな映画の後には、このぐらい本格的な酒が飲みたくなる。

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セルゲイ・ボドロフ監督の「モンゴル」は十二世紀から十三世紀にかけて、人類史上空前絶後の大帝国を築いたチンギス・ハーンの半生を描いた大作である。
シリーズ化が予定されているらしく、この作品では妻ボルテと出会った少年時代から、若き日のライバルであるジャムカとの決戦までの二十数年間が、史実と神話的な要素を取り混ぜて描かれる。
十二世紀のモンゴル平原。
九歳の少年テムジン、後のチンギス・ハーン(浅野忠信)は、部族の有力者であった父に連れられて嫁探しのために母方の部族につれて来られる。
そこで聡明な少女ボルテ(クーラン・チュラン)と出会い、五年後の結婚の約束をする。
しかしその後父が急死して一族は瓦解、テムジンは仇敵によって命を狙われる身となる。
流浪の最中に彼を助けたのが、盟友(アンダ)となるジャムカ(スー・ホンレイ)だった。
苦難の末に成人したテムジンは、ようやくボルテを妻として迎え入れ、幸せな生活を始めるが、今度はメルキト族によってボルテが連れ去れてしまう。
ジャムカの加勢を得たテムジンは、メルキトとの合戦に勝利しボルテを奪還するが、この時兵を公平に扱うテムジンに魅了されたジャムカの部下が、主をテムジンに変えた事から、テムジンとジャムカの間に小さな亀裂が入る。
やがてそれはテムジンとジャムカの一族を超えて、モンゴル平原全体を揺るがす抗争に発展してゆく・・・
チンギス・ハーンの伝記映画というと、日本でも去年「蒼き狼 地果て海尽きるまで」という作品があったが、正直なところかなりアレな出来ばえであった。
モンゴル人が日本語を喋っているあたりは、ハリウッド映画を考えればそれほど問題にもならないと思うが、何だか映画全体が芝居がかっていて、コスプレショーに見えてしまったのは辛かった。
対して「モンゴル」は、ちゃんと800年前の世界に見える。
同じ題材を扱っても、作り手のセンスでこれほどの差が出来てしまうという好例だろう。
この二作に共通しているのは、チンギス・ハーンの物語であるという事と、主人公を演じているのが日本人の俳優だという事だ。
日本映画の「蒼き狼」の主役が日本人なのはともかく、ドイツ・カザフスタン・ロシア・モンゴルの合作映画である本作で、チンギス・ハーンを演じるのが浅野忠信なのは、日本映画で織田信長をモンゴル人が演じる様な物で、ある意味でとても不思議だ。
もっとも浅野テムジンは、モンゴル語の発音などは判断できないものの、内面の芯の強さとナイーブさを併せ持つ、800年前の心優しい英雄を自然に演じ、少なくとも日本人の我々には違和感は無い。
むしろライバルのジャムカを演じるスー・ホンレイの方が、マッチョな肉体とヘアスタイルのせいもあって、今風の雰囲気だ。
ただ、これはテムジンとのキャラクターの対比にもなっているので、意図されたキャラクター造形だと思う。
主人公を演じるのは日本人、ライバルは中国人、ヒロインはモンゴル人、そして監督はロシア人という多国籍軍のような布陣を考えると、この映画自体がバラバラだったモンゴル平原を平定したテムジンの様に、汎アジア的な才能の結集を図る意図があったのかもしれない。
そういえば昔、ジョン・ウェインがテムジンを演じた「征服者」という無理やりな映画もあった。さすがにアレは酷かったけど・・・
監督のセルゲイ・ボドロフは、「モスクワ・天使のいない夜」や「コーカサスの虜」などで知られる現代ロシアの巨匠だが、スケールの大きな、しかし大味に陥らない丁寧な演出で物語を引っ張る。
とにかくエピソードの多い人物だから、脚本は非常に難しかったと思うが、物語の起点に妻ボルテとの出会いを置き、彼女との絆を物語の芯においたのは成功していると思う。
大平原の雄大な風景の中、騎馬軍団同士の合戦シーンも見所で、実写とCGを上手く使い分けなかなかに迫力がある。
アクションシーンのカット割りが最近流行の細切れの映像ではなく、しっかりと何が起こっているのかを見せてくれるので、古典的なチャンバラの面白さがあるのも良い。
脚本も演出も、良い意味で風格のある伝統的なスタイルである。
惜しむらくは前半に対して後半がやや駆け足な事で、特に一度ジャムカに敗れて虜囚にまで辱められ、たった一人になってしまったテムジンが、巨大な軍団を作り上げるまでの数年間がナレーションだけで片付けられてしまったのは少々残念だ。
120分という、この手の歴史物にしては短めの上映時間が後30分延びても良いから、この下りは描いて欲しかった。
またチンギス・ハーン伝説の神話的な要素を強調する様に、物語の節々に超自然的な現象が織り交ぜられているのだが、どちらかというとリアリズム志向の映画のタッチに必ずしもマッチしておらず、話を論理的に説明するのを端折られてしまった様に感じてしまう。
史実に伝説を取り混ぜるのは良いと思うが、その表現方法は一考の余地ありではなかっただろうか。
「モンゴル」は、チンギス・ハーンという歴史と神話の両方の領域に存在する巨大な偶像を正面から描き、一定の成功を収めている力作だ。
それにしても、映画のテムジンの人生は周り中敵だらけ。
私を含めて、今時の日本の男ならこんな環境では直ぐに死んじまうだろうなあと思うが、まるで品物の様に奪い奪われる女性はもっと大変だ。
まあそんな状況に苦しめられつつ、徐々に変革者としての信念を育ててゆくテムジンのキャラクターはよく描けていると思う。
劇中で印象的な台詞に「モンゴル人は○○だ、だが俺は違う」という物がある。
○○の部分は所謂既成概念であり、それにとらわれず信ずる我が道を行くというテムジンの信念を表している。
はたして、続編でこの後のテムジンがどう描かれて行くのか、世界帝国を築いた英雄、大虐殺を行った非情な征服者、あるいはその両面が描かれるのか、どちらにしても興味深い作品になりそうだ。
今回は、蒼き狼チンギス・ハーンにちなんで、米焼酎「天の狼 創世記」をチョイス。
天の狼とは中国で天上でもっとも明るく輝くシリウスの事。
丁寧に作られた蒸留酒ならではのきりりとした風味と、シンプルで深い味わいを持つ。
度数42°というホンモノのスピリットだ。
ヘビーな映画の後には、このぐらい本格的な酒が飲みたくなる。


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2008年04月04日 (金) | 編集 |
「ジェイソン・ボーン三部作」の脚本家として知られるトニー・ギルロイ、50歳での遅咲きの監督デビュー作である。
原題の「Michael Clayton」が「フィクサー」に変わったのは、やはりジュラシック・パークの原作者を連想させてしまうからだろうか。
もっとも、「フィクサー」というタイトルも映画を観るとあまりしっくり来ない。
日本ではこの言葉から、国や社会を裏で動かす黒幕的な大物を連想してしまうが、本作の主人公、マイケル・クレイトンは企業や金持ちの不祥事を闇に葬る、ちんまい揉み消し屋だからだ。
まあ、劇中でマイケルが自分の事をフィクサーだと言っているから仕方が無いのだけど。
ニューヨークの大手法律事務所に勤めるマイケル・クレイトン(ジョージ・クルーニー)は不祥事の揉み消しを専門とする弁護士。
法律の裏舞台を歩き続ける仕事に、先の見えない不安感を感じている。
そんな時、同僚の弁護士アーサー・イーデンス(トム・ウィルキンソン)が、クライアントであり、薬害集団訴訟の加害者である農薬会社ユーノース社を裏切り、被害者の市民側につくという前代未聞の行動を起こす。
上司のマーティ(シドニー・ポラック)の命を受けたマイケルは、事態の収拾に乗り出すが、アーサーは訴訟の行方をひっくり返すユーノースの裏の秘密を握っていた。
一方、ユーノース社の法務担当者であるカレン・クラウダー(ティルダ・スゥイントン)は、恐るべき手段で事態を解決しようとするのだが・・・・
監督・脚本を兼ねるギルロイにとってはボーン・シリーズでサスペンスはお手の物だろうが、今回は元CIAの凄腕暗殺者ではなくて、企業スキャンダルに巻き込まれた弁護士の話だから、アクションに頼るわけにはいかない。
その分マイケルを始めとする登場キャラクターを丹念に描きこみ、巨大な組織に対抗する小さな個人の戦いというクラッシックかつストレートなスタイル与えている。
その意味で、この作品は社会正義というテーマを描いた王道的なハリウッド映画であり、本国アメリカでは多くの古典的名作、特に社会と個人の対立が露見した70年代の社会派サスペンスの秀作と比較した論評が多かったという。
実際、完成した作品はジョージ・クルーニーやティルダ・スゥイントンらの好演もあって、なかなかに重厚かつスリリングな作品となっていて、非常に見ごたえがある。
本年度のオスカーは、ご存知のようにコーエン兄弟の異色作「ノーカントリー」が作品賞を受賞したが、時代の気分が今ほど暗くなかった10年前だったら正統派の「フィクサー」がとっていた気がする。
映画は、いきなりクルーニーが暗殺の危機に晒されるクライマックス部分を見せてしまって、その後で時間を遡り事件の顛末を語り始めるという構成をとっている。
最近では「M.i.?」が似たような処理をしていたが、観客に一度主人公が苦境に陥った状態を見せて、一体なぜ何故主人公がそんな状態に陥るのだろうと言う興味をいだかせる。
サスペンス物の一つの御手本のような展開だ。
その後は法律家として苦悩するマイケルが、彼にとっては降って湧いた様なアーサーとユーノースの戦いに巻き込まれてゆく様が丁寧に描かれている。
マイケル・クレイトンのキャラクターは、仕事や家族の問題など自分自身の現状への不安感、またそれゆえにギャンブルに嵌っていたり、細かい点まで緻密に作りこまれており、一個の人間として説得力がある。
また、明らかな悪を弁護するという良心の呵責から、被害者サイドに寝返るアーサー役のトム・ウィルキンソン、事なかれ主義ないかにもいそうな上司像のマーティを演じるシドニー・ポラックもリアリティ満点の好演。
マイケルやアーサーの、直接的な敵となるカレン・クラウダーを演じるのは、本作でアカデミー助演女優賞を獲得したティルダ・スゥイントンで、登場シーンは意外なほど少ないのだが、巨大な組織の無言の重圧を一人で感じ、次第に道を踏み外してゆく人間の恐ろしさと弱さを上手く表現している。
キャラクターは説得力があり、サスペンスも緻密。
トニー・ギルロイの仕事は初監督とは思えないくらいに円熟を感じさせる。
ただ、あえて言えばマイケルが危機から逃れるくだりは、ある意味でもの凄く御都合主義で、誤魔化されたような気分になるのが少し残念だ。
キャラクターの行動に観念的な流れを作っているので、あまり気にならないのは上手さを感じるが、マイケルがあのタイミングでああいう行動をとるとはいくら何でも偶然に頼り過ぎな気がする。
一体何が、彼をああいう行動に向かわせたのかをもう少し明確にして欲しかった。
「フィクサー」は、良い意味で典型的なハリウッド映画で、決して観客の期待を裏切らない。
黄金時代からの豊かな文化的な蓄積を感じさせる、良く出来た娯楽映画であり、読後感もすっきりとしている。
ただ、この様な勧善懲悪的な物語をリアリズム重視で作ると、残念ながらどこかに嘘臭さを感じてしまうのは、映画の問題というよりは今のこの時代が病んでいるのだろう。
そして、映画の出来栄えとは別に、その時代の空気によりピッタリとしているのは、やはり「フィクサー」よりは「ノーカントリー」だなあと思ってしまうのだ。
今回は、正統派の映画に対して、アメリカの美を合わせよう。
「アメリカン・ビューティー」はその名の通り、味でも目でも楽しめる美しいカクテル。
ブランデーとドライ・ベルモット、グレナデン・シロップ、オレンジジュースを4:3:2:3の割合で、更に適量のペパーミント・ホワイトを加えてシェイク。
グラスに注ぎ、静かになったらスプーン一杯のポートワインをそっとのせる。
二層になったカクテルが、内側に情念を秘めたマイケル・クレイトンの心の様だ。
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原題の「Michael Clayton」が「フィクサー」に変わったのは、やはりジュラシック・パークの原作者を連想させてしまうからだろうか。
もっとも、「フィクサー」というタイトルも映画を観るとあまりしっくり来ない。
日本ではこの言葉から、国や社会を裏で動かす黒幕的な大物を連想してしまうが、本作の主人公、マイケル・クレイトンは企業や金持ちの不祥事を闇に葬る、ちんまい揉み消し屋だからだ。
まあ、劇中でマイケルが自分の事をフィクサーだと言っているから仕方が無いのだけど。
ニューヨークの大手法律事務所に勤めるマイケル・クレイトン(ジョージ・クルーニー)は不祥事の揉み消しを専門とする弁護士。
法律の裏舞台を歩き続ける仕事に、先の見えない不安感を感じている。
そんな時、同僚の弁護士アーサー・イーデンス(トム・ウィルキンソン)が、クライアントであり、薬害集団訴訟の加害者である農薬会社ユーノース社を裏切り、被害者の市民側につくという前代未聞の行動を起こす。
上司のマーティ(シドニー・ポラック)の命を受けたマイケルは、事態の収拾に乗り出すが、アーサーは訴訟の行方をひっくり返すユーノースの裏の秘密を握っていた。
一方、ユーノース社の法務担当者であるカレン・クラウダー(ティルダ・スゥイントン)は、恐るべき手段で事態を解決しようとするのだが・・・・
監督・脚本を兼ねるギルロイにとってはボーン・シリーズでサスペンスはお手の物だろうが、今回は元CIAの凄腕暗殺者ではなくて、企業スキャンダルに巻き込まれた弁護士の話だから、アクションに頼るわけにはいかない。
その分マイケルを始めとする登場キャラクターを丹念に描きこみ、巨大な組織に対抗する小さな個人の戦いというクラッシックかつストレートなスタイル与えている。
その意味で、この作品は社会正義というテーマを描いた王道的なハリウッド映画であり、本国アメリカでは多くの古典的名作、特に社会と個人の対立が露見した70年代の社会派サスペンスの秀作と比較した論評が多かったという。
実際、完成した作品はジョージ・クルーニーやティルダ・スゥイントンらの好演もあって、なかなかに重厚かつスリリングな作品となっていて、非常に見ごたえがある。
本年度のオスカーは、ご存知のようにコーエン兄弟の異色作「ノーカントリー」が作品賞を受賞したが、時代の気分が今ほど暗くなかった10年前だったら正統派の「フィクサー」がとっていた気がする。
映画は、いきなりクルーニーが暗殺の危機に晒されるクライマックス部分を見せてしまって、その後で時間を遡り事件の顛末を語り始めるという構成をとっている。
最近では「M.i.?」が似たような処理をしていたが、観客に一度主人公が苦境に陥った状態を見せて、一体なぜ何故主人公がそんな状態に陥るのだろうと言う興味をいだかせる。
サスペンス物の一つの御手本のような展開だ。
その後は法律家として苦悩するマイケルが、彼にとっては降って湧いた様なアーサーとユーノースの戦いに巻き込まれてゆく様が丁寧に描かれている。
マイケル・クレイトンのキャラクターは、仕事や家族の問題など自分自身の現状への不安感、またそれゆえにギャンブルに嵌っていたり、細かい点まで緻密に作りこまれており、一個の人間として説得力がある。
また、明らかな悪を弁護するという良心の呵責から、被害者サイドに寝返るアーサー役のトム・ウィルキンソン、事なかれ主義ないかにもいそうな上司像のマーティを演じるシドニー・ポラックもリアリティ満点の好演。
マイケルやアーサーの、直接的な敵となるカレン・クラウダーを演じるのは、本作でアカデミー助演女優賞を獲得したティルダ・スゥイントンで、登場シーンは意外なほど少ないのだが、巨大な組織の無言の重圧を一人で感じ、次第に道を踏み外してゆく人間の恐ろしさと弱さを上手く表現している。
キャラクターは説得力があり、サスペンスも緻密。
トニー・ギルロイの仕事は初監督とは思えないくらいに円熟を感じさせる。
ただ、あえて言えばマイケルが危機から逃れるくだりは、ある意味でもの凄く御都合主義で、誤魔化されたような気分になるのが少し残念だ。
キャラクターの行動に観念的な流れを作っているので、あまり気にならないのは上手さを感じるが、マイケルがあのタイミングでああいう行動をとるとはいくら何でも偶然に頼り過ぎな気がする。
一体何が、彼をああいう行動に向かわせたのかをもう少し明確にして欲しかった。
「フィクサー」は、良い意味で典型的なハリウッド映画で、決して観客の期待を裏切らない。
黄金時代からの豊かな文化的な蓄積を感じさせる、良く出来た娯楽映画であり、読後感もすっきりとしている。
ただ、この様な勧善懲悪的な物語をリアリズム重視で作ると、残念ながらどこかに嘘臭さを感じてしまうのは、映画の問題というよりは今のこの時代が病んでいるのだろう。
そして、映画の出来栄えとは別に、その時代の空気によりピッタリとしているのは、やはり「フィクサー」よりは「ノーカントリー」だなあと思ってしまうのだ。
今回は、正統派の映画に対して、アメリカの美を合わせよう。
「アメリカン・ビューティー」はその名の通り、味でも目でも楽しめる美しいカクテル。
ブランデーとドライ・ベルモット、グレナデン・シロップ、オレンジジュースを4:3:2:3の割合で、更に適量のペパーミント・ホワイトを加えてシェイク。
グラスに注ぎ、静かになったらスプーン一杯のポートワインをそっとのせる。
二層になったカクテルが、内側に情念を秘めたマイケル・クレイトンの心の様だ。

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