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ナルニア国物語~第2章:カスピアン王子の角笛~・・・・・評価額1500円
2008年05月26日 (月) | 編集 |
C・S・ルイス原作「ナルニア国物語」のシリーズ第二弾。
2006年に公開された「第1章:ライオンと魔女」に続く「第2章:カスピアン王子の角笛」は、前作から1300年後のナルニアを舞台に、侵略者である人間の王国とナルニアの戦いを描く。
子供たちの成長と共にビジュアルは大幅にグレードアップし、物語もぐっと大人の関心が持てる物になった。

ナルニア暦2303年。
ナルニアが人間の王国テルマールに征服されてから、長い歳月が流れ、言葉を話す動物や妖精たちといったナルニア人たちは深い森の中に隠れて細々と暮らしていた。
おりしも、テルマールでは、亡き王の一人息子であるカスピアン王子(ベン・バーンズ)暗殺を狙う叔父のミラース卿(セルジオ・カステリット)の陰謀によってお家騒動が勃発し、カスピアン王子はナルニアの森の奥深くに逃亡する。
追っ手に追われたカスピアンは、そこで古の王を呼び戻すと言う角笛を吹き鳴らす。
それは1300年の昔、ナルニアの黄金時代を築いた四人の王、ピーター(ウィリアム・モーズリー)、スーザン(アナ・ポップルウェル)、エドマンド(スキャンダー・ケインズ)、ルーシィ(ジョージー・ヘンリー)のペベンシー四兄妹を再びナルニアに召還する事になるのだが・・・


「ナルニア国物語」は優れた児童文学であり、年少の子供でも物語が理解できるように、元々ストーリーラインはとてもシンプルだ。
だが映画化にあたっては、そのシンプル過ぎる物語が仇となり、前作「第1章:ライオンと魔女」では、映像的には迫力があって楽しめるものの、話が単純な割に無駄に長くて中身が無いという、あまり芳しくない結果となってしまった。
今回の「第2章:カスピアン王子の角笛」では、王位継承権をめぐるお家騒動が物語の中心に座り、征服者と被征服者の軋轢といった生々しい要素が織り込まれて、大人も興味がもてる内容になっており、物語の脚色としてもよく出来ている。

アンドリュー・アダムソンの演出も、二作目ともなるとこなれてきて、売り物の戦闘シーンはますます派手になり、地形や建物の構造をいかしたテルマール軍VSナルニア軍の合戦や、ピーターとミラースの一対一の決闘は見ごたえ十分。
一作目の敵役であった白い魔女の再登場の使い方、見せ方も上手い。
子供たちは、劇中では一年だが、現実には制作期間が二年半開いているのでかなり成長著しい。
タイトルロールのカスピアン王子は、原作よりも年齢をあげているにも関わらず、行動やメンタリティは原作と同じなのでかなり頼りないが、前作の経験値を生かしたペベンシー兄妹はそれぞれの個性を生かして活躍し、特にスーザンはレゴラスばりの弓の腕を披露し、かなり唐突ながらカスピアン王子とのロマンスまで描かれ、主役と言っても良い存在感だ。
もっとも最終的に危機を救うのは、やはり「たのもしのきみ」ことルーシィで、最年少だっただけに、一番見た目で成長を感じるキャラクターにもなっている。

では、私がこの作品を心底楽しめたのかというと、そうでもないのだ。
前作で指摘した幾つかの欠点は、ほぼそのまま引き継がれてしまっている。
ニュージーランドのロケーション中心の世界観は、異世界というには明るすぎ、リアルすぎてファンタジーの深遠を感じない。
また物語がリアルになればなるほど、子供が戦場で戦う痛々しさは増幅するばかりだ。
だが、「ナルニア国物語」に共通する最大の難点は、やはり感情移入の対象がいない事だろう。
物語の内容が王位継承にまつわるドロドロしたお家騒動だったり、ある種の民族対立だったりと、非常に生々しく大人っぽい反面、メインとなる登場人物に大人はいない。
「LOTR」では王となる運命に葛藤を抱えるアラゴルンは勿論、小人であるホビットのフロドも中身は十分大人であり、大人が感情移入する対象には事欠かなかった。
対照的にナルニアの世界では、悪役ミラース卿を始めろくな大人が出てこないし、善玉は妖精か喋る動物か子供ばかり。
大人は、この世界に身の置き所が無くて、ある程度引いて観るしかないのがこのシリーズの辛いところなのだ。

しかし、観ているうちに「ナルニア国物語」はこれで良いのではないかと思えてきた。
ナルニアというのは言わば子供が大人の役割を要求される国
役割は大人でも中身は子供、だから大人にとっては彼らの行動はもどかしく、素直な感情移入の対象にはなりにくい。
カスピアン王子はいかにも優柔不断で王に相応しくなく思えるし、前回の経験値である程度王者らしい風格を持つピーターにしても、やはり大人のふりをした子供には違いない。
だが、別の言い方をすれば、それは物語が「子供だまし」では無いと言う事でもある。

英国の児童文学には、人には誰でも果たすべき役割があり、それを見つけ、成し遂げるために人は成長するということを強調したものが多い。
物語を通して主君としての責任を負ったピーターにしてもカスピアンにしても、試練が過酷であればあるほど成長は著しい。
ナルニアは、子供たちが成長するステージとしての装置なのだ。
だからこそ、ラストのアスランの台詞の様に、物語を通じて十分に成長したピーターとスーザンは、もはや現実世界での果たすべき役割を見つけられるだけ成熟したので、もはやナルニアを必要としないし、ナルニアにも居場所は無い。
純粋に大人が鑑賞する一本の映画として観るなら、未だに多くの欠点を持った本作だが、原作と同じベクトルを持った、キリスト教精神を伝えるための児童映画として観れば、これはこれで良いのだと思う。
本来、大人はお呼びでない世界なのだから。

子供たちの成長は早い。
ピーターとスーザンはナルニアの冒険から卒業し、残る二人も恐らくあと一作が限界だろう。
もっとも原作でもペベンシー兄妹が活躍するのも、次の「第3章:朝びらき丸 東の海へ」で終わりなので、丁度良いタイミングで映画を作っているとも言える。
次回作に期待したい。

今回はイギリスのお隣、アイルランドを代表するビールであり、三世紀を超える歴史を持つギネスベースのカクテル「ギネス・カシス」をチョイス。
ちなみにギネス社は現在はイギリスの酒造会社と合弁し、本社はロンドンに置かれている。
ギネス・スタウトをジョッキに注ぎ、クレーム・ド・カシスを1tspを加え、軽くステアして完成。
適度な甘さと口当たりのよさが特徴だが、カシスを入れすぎるとしつこくなるので注意。
酒器はやはりパブっぽくジョッキを選びたい。
ギネスはカクテルのベースとしても優れたお酒で、シャンパンで割ったり、爆弾酒にしたりと様々な飲み方が楽しめる。

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光州5・18・・・・・評価額1500円
2008年05月21日 (水) | 編集 |
戒厳令下の韓国で、軍が市民デモを弾圧した事が切っ掛けになり、蜂起した市民と軍の武力衝突で数千人の死傷者を出し、韓国現代史上最大の暗部と呼ばれる所謂「光州事件」を描いた大作である。
映画は非常戒厳令が全国に発令された5月17日から、光州市が軍に制圧される5月27日までの激動の10日間を市民の目線から描く。
今だ抑圧と暴力が後を絶たないこの世界に、「光州5・18」は28年前から何を語りかけてくるのだろうか。

1980年5月、光州市。
タクシー運転手のミヌ(キム・サンギョン)は、たった一人の家族である弟のジヌ(イ・ジュンギ)の大学進学を楽しみにしている。
ジヌと同じ教会に通う美しい看護婦、シネ(イ・ヨウォン)に思いを寄せるミヌだが、奥手の彼はなかなか告白できないでいる。
その頃街では、戒厳令を布告した軍政に対する大学生のデモが拡大し、彼らを鎮圧するために軍部隊が派遣されてくる。
ミヌの勤めるタクシー会社社長で退役陸軍大佐のフンス(アン・ソンギ)は、軍の権力への野心に危惧を感じるが、大学生のデモを凄惨な暴力で鎮圧した軍に対し市民の怒りは高まり、遂に数万の市民が軍と対峙する事態となる。
遂に軍は市民に対し無差別発砲を開始、逃げまどう群集の中、ミヌは鮮血に染まるジヌの姿を見る・・・


「ハリウッド的」あるいは「邦画っぽい」など、映画をステロタイプに押し込めて観るのはあまり好きではないが、これは良くも悪くも非常に韓国映画らしい作品である。
シリアスな社会問題をテーマとしているにもかかわらず、あくまでも観客を飽きさせない娯楽映画でもあるというスタンス、物語を彩る過剰なくらいに個性を強調されたキャラクターは、韓国映画以外では余り観ることの無いカラーである。
この作品の場合、それは観客の心に極めて映画的なエモーションを呼び起こすが、同時にやや深みに欠ける世界観を形作ってしまっている。

1980年の5月に、光州で何が起こったかについては、事件後10年以上たってようやく全貌が明らかになり、現在でも様々な評価や研究が行われている。
事件の概要は、学生デモ鎮圧に出動した軍の実力行使が次第にエスカレートし、その仕打に怒った一般市民が大挙してデモに加わった事で衝突が拡大し、双方引くに引けない事態になってしまったと言う事でどの研究もほぼ一致している様だ。
映画でも、市民の野次やジョークを最初は笑って聞いていた兵士たちが、命令と共に憎しみをたぎらせて市民へと発砲するシーンはショッキング。
否応でも、現代のミャンマーやチベットの映像と被って見える。
私はどんな清廉潔白な組織であっても、権力を握った瞬間に腐敗しはじめると思っているが、この映画の軍部は正にその典型。
国民を守るはずの組織が、一番腐心しているのが自らの権力の拡大と維持で、そのためには手段を選ばない存在となっているのは皮肉としか言いようが無い。

映画では全ての市民が団結していた様に見えるが、実際には市民の間でも徹底抗戦派と軍との交渉を主張する穏健派の対立がかなり激しかったらしい。
この市民同士の葛藤をカットしてしまったのは、物語の構造を「軍VS市民」というわかりやすい形に纏めたかったからだろうが、それは結果的にこの事件の意味付けを単純化してしまっている嫌いがある。
作劇の意図は理解できるが、ここは多少複雑になっても、市民同士の葛藤を盛り込んだ方が、より深い内容になったのではないだろうか。

これが長編第二作となるキム・ジフン監督は、光州事件当時は小学生。
脚本のナ・ヒョンとジフン監督は、当時を知る多くの人々に取材し、複数のモデルを組み合わせて登場人物を造形。
彼ら一人一人を丁寧に描写してゆく。
朴訥な主人公ミヌをキム・サンギョン「王の男」の美青年で注目されたイ・ジュンギが優等生の弟ジヌを好演している。
ミヌが思いを寄せるシネを演じるイ・ヨウォンは、初めてスクリーンで見る役者さんだが、見事に80年代という時代の衣装をまとい、当時の女性をリアリティたっぷりに演じる。
若い俳優たちに混じって、市民義勇軍を指揮する事になるパク・フンス退役大佐を名優アン・ソンギが演じ、びしっと画面を引き締める。
脇で強い印象を残すのが、お調子者のタクシー運転手を演じた、くりぃむしちゅーの上田晋也そっくりのパク・チョルミンと、女たらしの遊び人を演じたふかわりょうみたいな髪型のパク・ウォンサン
この二人のそっくりさんは、実録物には似つかわしくないほどハイテンションで軽いキャラクターなのだが、逆にその軽さゆえに彼らの最期は観客の感情を強く揺さぶるのもまた事実。
また最初はデモに反対しているが、最後は教え子を庇って死ぬ高校教師や、最後まで市民に抵抗を呼びかけるシネの姿などは実際のエピソードから再現されているそうで、物語全体の構図がやや型にはまってしまっている反面、こうしたリアリティを感じさせるディテールは、この作品に強い説得力を与えている。

「光州5・18」は、幾つかの欠点を抱えながら、見ごたえのある骨太の大作である。
今なお独裁時代の亡霊によって、社会の分裂が問題となる韓国ではもちろん意義のある映画だろうし、世界中に存在する第二、第三の「光州」を考える上で、私たちにとっても十分に観る価値ある作品だと思う。
映画で語られる様に、光州事件は悲劇的な結末を迎えるわけだが、そこで起こった事は戒厳令下の韓国で、人から人へと静かに、しかし広く伝えられ、その後の民主化運動の精神的な基盤となったと言う。
その意味で、光州の犠牲者たちは決して犬死ではなかったと思いたい。
民主化運動に抗し切れなくなった軍部が民主化を宣言し、軍政が終わりを告げるのは事件から7年後の事である。
ちなみに原題の「華麗なる休暇」とは、当時の軍の作戦名。
市民の弾圧作戦にこんな名をつけるとは、軍上層部にもかなりの皮肉屋がいたのだろうか。

今回は、韓国市民の爆発的なエネルギーの源(?)爆弾酒
作り方は簡単。
まず大き目のグラスにビールを注ぎ、次にショットグラスに韓国焼酎をなみなみと入れる。
そして焼酎のグラスをそのまま落としてビールに沈める。
本来はこれを一気飲みして、飲み終わったらグラスを掲げてカラカラ鳴らしてみせるのが韓国流だが、飲みすぎるともの凄く悪酔いするキケンなお酒でもある。
まあこれも考えようによってはある種のカクテル。
悪酔いしない程度にほどほどに・・・・

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「光州事件」はこの作品でも重要な要素だった



隠し砦の三悪人 / The Last Princess・・・・・評価額1600円
2008年05月16日 (金) | 編集 |
このところ映画にテレビドラマにとリメイクが続く黒澤映画だが、遂に娯楽時代劇の代表作とも言える「隠し砦の三悪人」がリメイクされた。
正直なところ全く期待していなかったのだが、これがなかなかどうして面白い。
昨年末に公開された森田芳光版「椿三十郎」は、極力何も変えない事で黒澤映画の面白さを再現しようとしていたが、今回「The Last Princess」という副題のついた「隠し砦の三悪人」は、全くアプローチが異なる。
メガホンをとった樋口慎嗣と脚本の中島かずきは、オリジナルの物語の骨子を残しながら、極めてスピーディーなスペクタクル活劇として再構築している。
黒澤映画の熱烈なファンには受け入れ難い作品かも知れないが、旧作へオマージュをささげた別物と考えれば、近年稀にみる大作らしい娯楽時代劇と言えるのではないか。

戦国の世。
富める国だった秋月が、隣国山名によって攻め滅ぼされた。
流浪の山の民であった武蔵(松本潤)と新八(宮川大輔)は、攻め落とされた秋月の城内で、隠された軍資金を探すために駆り出されていた。
爆発事故のどさくさで逃げ出した二人は、偶然川で秋月の隠し金の一部を発見する。
残りの金を探す二人だが、その金は既に真壁六郎太(阿部寛)によって秋月の隠し砦に集められていた。
隠し金と秋月家唯一の生き残りである雪姫(長澤まさみ)を、同盟国早川に脱出させようとする六郎太は、武蔵と新八に手伝わせて山名領内を突破しようとするのだが・・・


旧作の「隠し砦の三悪人」のプロットが、「スター・ウォーズ/エピソードⅣ」の下敷きになったのはあまりにも有名な話。
藤原釜足、千秋実が演じた凹凸コンビ又七と太平がR2-D2とC3-POのロボットコンビとなり、三船敏郎の真壁六郎太はオビ=ワンあるいはハン・ソロに、上原美佐の演じた雪姫はレイア姫となった。
本作の樋口監督、脚本の中島かずきは正に「スター・ウォーズ」世代
そのせいか、このリメイク版は黒澤のオリジナルに「スター・ウォーズ」の要素を取り込んで、更に再構成したような感がある。
旧作で藤田進が演じた、豪放磊落な田所兵衛は、ダース・ヴェーダーそっくりの鷹山刑部に変身し明確な悪役となり、旧作では狂言まわしの役回りだった又七と太平はそれぞれ武蔵と新八という新たな名を得、ルーク・スカイウォーカー的なヒーローとコミックリリーフに役割を変えた。

キャラクターの変更にあわせて、旧作で前半の大半を占めていた隠し砦でのシークエンスは大幅にカットされ、物語は非常にハイペースで山名領内での追いつ追われつの追撃戦に移ってゆく。
更には後半のかなりの時間を費やして、山名領内に作られたデススター・・じゃなくてもう一つの隠し砦からの脱出劇が付け加えられている。
結果的に、これらの変更はある程度成功していると思う。
樋口慎嗣は、「ローレライ」「日本沈没」と同じ人物とは思えないくらい、特撮とアクションたっぷりの活劇を活き活きと演出している。
今まで大そうなテーマを前面に出して、結局描ききれずに中途半端な作品になってしまっていただけに、徹底的に現象の面白さを追求した本作は、樋口監督にとって初めてその作家性を存分に発揮できる場となったのではないだろうか。
まあ勢いあまって、オイオイあり得ねーだろと突っ込みたくなる部分も多々あるし、現象だけを描くことに割り切っている分、喰い足りない部分も多い。
脚本も、黒澤版を上手く換骨奪胎しているとは思うが、やはり武蔵と雪姫のロマンスは物語の流れからすると唐突だし、新八の使い方も少々中途半端だ。
旧作では秋月再興を狙う六郎太と雪姫に対して、ひたすら金が欲しい又七と太平という決して交わらない二つの価値観の化かし合いの面白さがあったが、今回のリメイクではキャラクターはより個に立脚してそれぞれの思惑で行動し、ぶつかり合う。
武蔵と新八が山の民という設定は、所謂サンカ衆をイメージしているのだろうが、身分制度の外にいた彼らを主人公に設定したのも、登場人物の関係をより自由にしたかった意図があるのだろう。
もっとも、山名の領民と山の民の関係など未整理でよくわからない部分もあり、細かい部分の詰めの甘さは勿体無い。
また相変わらずキャラクターの感情は台詞と状況描写に頼り、人間の内面の描写はおざなりにされているとも言えるのだが、元々黒澤版からしてそれほど人間を深く描いている話とも思えないので、これに関しては特に欠点とは言えないだろう。

真壁六郎太を演じる阿部寛がいい。
ギラギラとした眼光も鋭く、長身のアクの強いキャラクターがスクリーンに映え、存在感はオリジナルの三船敏郎に負けていない。
「セカチュー」の後、代表作らしい代表作の無かった長澤まさみも、男勝りのお姫様が意外なほど良く似合い、堂々たるオーラを放つ。
本作は雪姫の主君としての成長が物語のバックボーンにもなっており、それは旧作のエピソードに新しいエピソードを重ねることで、きっちりと表現されていたと思う。
そう、リメイク版の主役は副題が示す様に雪姫なのだ。
割を喰ったのが、旧作の狂言まわしからヒーローに出世した松本潤の武蔵だが、それでも「スター・ウォーズ」のルークくらいには活躍しており、和製ヴェーダー卿の椎名桔平、お笑いキャラの宮川大輔を含め、総じて登場人物は上手くキャラ立ちしている。

「隠し砦の三悪人 / the Last Princess」は、一言でいって黒澤発、ルーカス経由の樋口着といった作品で、旧作とはかなり趣が異なるものの、これはこれで十分に楽しめる娯楽時代劇の良作である。
旧作の決め台詞であった「裏切り御免」の粋な再利用法、変形ワイプによる場面転換などをみてもわかる様に、元ネタの良さをきちんと理解した上で異なったアプローチにトライしているのも好感が持てる。
まあどっちが好きかと言われれば、個人的には軽妙で物語的にも捻りのある黒澤版が好きだが、これはたとえ旧作を知っていても楽しめる様には出来ていると思う。
樋口慎嗣はいわば和製マイケル・ベイ
深いテーマ性や人間意識の深層など、端から興味が無いのだろう。
その分、映像スペクタクルとアクション活劇を撮らせたらなかなかの物である事は十分わかったので、今後はこの路線を追求して欲しい。
もちろん、それにはある程度のレベルの脚本が用意されている事が必須条件なのは言うまでも無いのだけど。

本筋とは関係ないが、「The Last Princess」という副題はダサくないか?
まあ今回は前半の隠し砦のシーンが大幅に短縮されてしまっているし、そもそも「三悪人」が誰の事なのかもわかり難くなってしまっていて、新しいタイトルをつけたくなる気持ちもわからないでもないのだが、横文字の副題は何だか子供っぽく感じてしまう。
この副題だけでかなり観客の数を減らしている気がするのは、私だけだろうか。
それと、やっぱりこの手の映画はシネスコで観たかったなあ・・・

今回は、昔黒澤明がCMに出演していた「サントリーリザーブ」をチョイス。
言わずと知れたサントリーの代表的なウィスキーだが、サントリーは黒澤を長年CMに起用していた。
ある程度の年齢以上の方に懐かしいのは、ちょうど「影武者」を撮影中の黒澤をフランシス・コッポラが訪ね、二人で酒を酌み交わすというリザーブのCMだろう。
当時、「ゴッドファーザー」「地獄の黙示録」で飛ぶ鳥を落とす勢いだった若き巨匠と黒澤という、今にして思えば豪華なCMだった。

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ミスト・・・・・評価額1800円
2008年05月14日 (水) | 編集 |
打率10割!
稀代のベストセラー作家、スティーブン・キングの小説は極めて映像的で人気があるにも関わらず、実際の映画化が非常に難しい事でも知られている。
今まで数多の映画作家たちがキングの原作にトライし、幾つかは名作となったが、それよりも遥かに多い数の作品が箸にも棒にもかからない駄作として消えていった。
ところがそんなキングの原作を、今のところ100%の確率で傑作に仕立て上げているのがフランク・ダラボン監督である。
映画史に残る名作となった「ショーシャンクの空に」「グリーンマイル」に続いて、ダラボンが選んだのは、1980年に発表された中篇「霧」を原作とする「ミスト」
前二作の感動路線とは異なり、極めてホラー色の強い作品だが、ダラボンはこの作品をとてつもなく恐ろしく、同時に深いテーマ性を持つ作品として見事に仕上げた。
今のところ全打席ホームラン
原作者と映画監督のコンビネーションとしては、もしかしたら史上最強かもしれない。

メイン州の田舎町を史上最大の嵐が襲った次の日。
映画のポスター画家のデイヴィッド(トーマス・ジェーン)は、息子ビリー(ネイサン・ギャンブル)と隣人の弁護士ノートン(アンドレ・ブラウアー)を連れて町のスーパーマーケットに買い物に出掛ける。
ところが停電のマーケットで買い物をしているうちに、町は正体不明の濃い霧に覆われてしまう。
町中に鳴り響く警報のサイレン。
すると、一人の男が血を流しながら、マーケットに駆け込んでくる。
霧の中に恐ろしい何かがいる!と叫びながら・・・・


キングとダラボンのコンビ作に共通するのは、極めて宗教的な世界観である。
「ショーシャンクの空に」も「グリーンマイル」も、原作よりも映画の方がキリスト教的な価値観が前面に出ていたし、特に「グリーンマイル」においては信仰そのものをどう捉えるかが重要なテーマの一つになっていた。
「ミスト」はモンスターホラーの範疇に入る作品だと思うが、ダラボンは物語に二本の背骨を通す事によって、観客を心底怖がらせつつ、同時にキリスト教社会の精神世界を本質的に描き出すという離れ業をやってのけている。

背骨の一つは、霧の中から襲ってくる正体不明の怪物たちと対決する、サバイバルホラーとしての物語。
もう一つは、密室状態となったスーパーマーケットに閉じ込められた人々の、心理サスペンスである。
極限状態の中で、全ては神の思し召しだという狂信的な女性、ミセス・カーモディによって徐々に束ねられてゆく恐怖に支配され自我を失った人々と、あくまでも理性に従おうとする人々の間で起こる葛藤の物語だ。
ミセス・カーモディを演じるオスカー女優、マーシャ・ゲイ・ハーデンが圧巻で、キングの映画に登場した数多の狂信系キャラクターの中でも特に怖い。
怪物が人間たちに恐怖をもたらし、恐怖に駆られた人間たちは信仰に逃げ、やがてそれは狂信となって、残った人間たちに更なる恐怖となって襲い掛かる。
怪物も怖いし、人の心は更に怖く、肉体的な恐怖と心理的な恐怖が折り重なって襲ってくるのだから、これは超絶に怖い

実は怪物と人間の心理ドラマという二つの要素が絡み合う映画というのは、B級ホラーに最も多く、最も失敗しやすい作劇でもある。
怪物の方に力が入りすぎては人間ドラマがとって付けた様な印象になってしまうし、逆に人間ドラマばっかりになって肝心の怪物の方が忘れられてしまっている様な映画も多い。
この映画は、二つの要素のバランスが絶妙で、サスペンスの盛り上げとテーマ性の追求という二つの点での相乗効果を生み出している。

しかし映像化されて始めて判ったが、「ミスト」の世界は楳図かずおの「漂流教室」に似ている。
霧の中から襲ってくる悪夢が実体化した様な怪物たちとの攻防戦は、未来世界に飛ばされた小学校での怪物たちとの戦いにそっくりだし、突然極限状態に置かれた人々の群像劇という点も共通している。
まあ実際にはラブクラフトあたりの影響が強そうではあるが、「漂流教室」もこんな具合に映画化してくれたらよかったのに、とか関係ない事を思ってしまった。
実はこの映画、原作とオチが異なり、本国公開時には賛否両論が渦巻いたという。
その事を聞いていたので、私も本棚の奥から昔買った原作を引っ張り出して、読み返してから映画を観たのだけど、途中でもしかしたら「漂流教室」的な世界観を最後に持って来るのかと思った。
原作では「あちら」が「こちら」に来ている訳だけど、映画では「こちら」が「あちら」に行っているというオチなのかと思った訳だ。
結果的にその読みははずれた訳だが、映画のオチはキングが「先に思いついていたら自分が小説で使った」というくらいだから、なるほどと思わされる見事なエンディング。
何よりもテーマ性がこれ以上無いくらいクッキリと浮かび上がったという点で、原作を遥かに超えていると言って良いだろう。

たぶん、本来スティーブン・キングもフランク・ダラボンも信心深い人なんだろうと思う。
この映画では狂信者にも不信心者にも、等しく罰が下される。
そして結局、最も根源的な感情(つまりは神の創りたもうた人間性)に従った者だけが救われているのだ。
主人公たちの拘る理性もまた、客観視できなければ狂信的な信仰と同じくらい自己中心的な思い込みである事を冷徹な現象として見せ付ける。
人が神を語るのも許されないが、同時に本来神がすべき裁きを行った人もまた許される存在ではないのである。
モンスターホラーを観に行って、キリスト教社会の精神世界について深く考えさせられるとは、タラボン恐るべし。
後味が良いか悪いかは別として、映画としてはまごうことなき傑作であり、必見と言って良いと思う。

今回は、「霧」の名を持つワイン、南仏のJFリュルトンから「フュメ・ブランシュ ソーヴィニョン・ブラン」をチョイス。
フルーティで辛口。
比較的さっぱりとして軽く飲める。
お値段もリーズナブルだが、その割には満足させてくれるだろう。

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ゼア・ウィル・ビー・ブラッド・・・・・評価額1750円
2008年05月09日 (金) | 編集 |
「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」というタイトルと、半分死神の様な主人公のポスターを見たとき、これはサスペンス映画なのだと勝手に思い込んでいた。
実際には石油を追い求める一人の男の一代記だったわけだが、このタイトルには複雑な意味が込められていそうだ。
殺伐とした荒野に巨大な炎が吹き上がる地獄の様な光景、そしてそこを流れる真っ黒な石油は言わばアメリカの血液であり、同時に清浄の地を汚す欲望の象徴でもある。
異才ポール・トーマス・アンダーソンが、名優ダニエル・デイ=ルイスを主演に迎えて作り上げたのは、神学論的なアメリカの影の原風景なのではないだろうか。

19世紀末の西部。
一匹狼のプロスペクター、ダニエル・プレインヴュー(ダニエル・デイ=ルイス)は荒野で小さな金鉱を掘り当て、その金を元手に石油の掘削に乗り出す。
事故で死んだ作業員の1人息子を、自分の息子H.W(ディロン・フレイジャー)として育てたダニエルは、家族思いの石油屋というイメージを演出して試掘予定地の地権者の信頼を獲得してゆく。
ある日、ポール・サンデー(ポール・ダノ)という青年から、「故郷の不毛の土地に石油がある」と聞いたダニエルは、カリフォルニアの小さな町、リトル・ボストンに赴き、言葉巧みに土地を安く買い叩き油井を掘り当てる。
その町にはポールの双子の兄弟イーライが牧師を勤める教会があり、真っ向から異なる価値観を持つダニエルとイーライはしばしば対立する。
そんな時、油田でガスの噴出事故が起こり、巻き込まれたH.Wが聴力を失ってしまう・・・


オープニングが凄い。
約20分の間、うめき声と赤ん坊の泣き声をのぞけば殆ど台詞らしい台詞が無い。
ゴルゴダの丘を思わせる荒涼とした丘陵地帯の地面の下で、主人公ダニエル・プレインヴューの欲望だけが蠢いている。
レディオヘッドのジョニー・グリーンウッドの楽曲は、音楽と言うよりは不快な不協和音。
観客はこの男の欲望の凄まじさを五感で感じ、グイグイと作品世界に引き込まれる。
これは正しく映画の体感に他ならない。

主人公のダニエルは、極度の人間嫌いで欲望の塊とも言うべき怪物だが、単純な悪という訳ではない。
詐欺同然のやり方で土地を買い占めたかと思うと、孤児を自ら育て、事故で人が死ねば綺麗な服を着せて送り出せと言う。
もっともこれは思いやりというよりは、冷徹なロジックによる人心の掌握術と言った方が正しいだろう。
地の底に広がる油田の様に、ダニエルのキャラクターは掴み所が無く、その欲望も人間性も表面には殆ど現れることは無いのである。

ダニエルと事あるごとに対立しつつ、強い因縁で結ばれるイーライは物語的にはダニエルの対であり、同時に彼の内面の一部の投影とも見える。
牧師のイーライにはポールという双子の兄弟がいるが、ポールは金で故郷を売った男で、言わばダニエル側の人間だ。
ポールは、ダニエルとイーライが出会ってからは登場せず、物語の構造的にはダニエルの一部として吸収されたと言えるだろう。
そう考えると、この作品はもう一つのカインとアベルの物語であるのかもしれない。
物語のあちこちに仕掛けられた神学的な比喩も興味深く、この作品に描かれた現代アメリカの原風景とは、キリスト教と唯心論に代表される精神世界と経済と唯物論の物質世界の対立と融合の物語と見る事も出来る。

ダニエル・プレインヴューを演じるダニエル・デイ=ルイスが圧巻だ。
この英国出身の稀代の名優は、ものの見事に内面に欲望の炎を燃やす粗野なアメリカ人に成り切っている。
ギラギラとしたキャラクターは、「市民ケーン」のオーソン・ウェルズから「アビエイター」のレオナルド・ディカプリオまで、スクリーンに登場した多くの怪物たちを巧みに取り入れつつ、繊細に表現している。
晩年の内面から壊れてゆく様子などは、鬼気迫る表情に恐怖を感じるほどで、アカデミー主演男優賞も納得である。
彼に対するイーライを演じるのは、「リトル・ミス・サンシャイン」のニーチェ男も記憶に新しいポール・ダノ
狂信的カリスマ牧師というもう一人の怪物を、本当に何かに取り憑かれた様に演じ、デイ=ルイスに伍する印象を残す。
この二人が本当の意味で対峙するラストシーンは凄まじく、私は何となくキューブリックを連想してしまった。

ポール・トーマス・アンダーソン監督は、どちらかというと「マグノリア」の様な群像劇を得意とする映画作家という印象があったが、この作品ではダニエル、イーライ、H.Wの三人に物語の中心を絞り、彼らの内面をジックリと描いてゆく。
原作物を手がけるのも初めてで、彼にとっては新境地と言える作品になった。
ハリウッドにおけるロバート・アルトマンの後継者という評価を受けた事もある人物だが、エンドクレジットの最後にその答えも用意されていて、軽い驚きと共に思わず熱いものが込み上げて来た。

この映画に欠点らしい欠点は無い。
あえて言えば、H.Wが成長した後のダニエルとの関係がやや紋切り型なくらいな事か。
夕暮れの荒野に燃える油田は、禍々しくも美しい。
それはまるで神聖なる清教徒の大地に突き立てられた、巨大な欲望の剣の様に見えた。
激動の人生の終わりに、ダニエルはどこに辿り着いたのだろうか。
「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」=「そこに血があらわれる」の意味が明確となる瞬間の、あまりにも悲しい一人の男の姿が、観終わってもしばらくの間目に焼き付いていた。

今回は、悪魔の名を持つカクテル「ディアブロ」をチョイス。
ホワイト・ポートワイン40ml、ドライベルモット20ml、レモンジュース1tsをシェイクしてぐラスに注ぐ。
名前とは裏腹に、レモンの風味も爽やかで、スッキリとして飲みやすい。
ヘヴィーな映画の後にはピッタリだ。

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さよなら。いつかわかること・・・・・評価額1600円
2008年05月05日 (月) | 編集 |
平凡な一家に、ある日突然やって来た「戦後」
ジェームス・C・ストラウス監督のデビュー作「さよなら。いつかわかること」は、愛する者との永遠の別離に直面した一つの家族の姿を描いた、切なく瑞々しい佳作だ。
若い新人監督が、これほど洗練された奥深い作品を見事に物にするのだから、やはりアメリカ映画は侮れない。

シカゴのホームセンターで働くスタンレー・フィリップス(ジョン・キューザック)は、妻グレースと娘のハイディ(シェラン・オキーフ)とドーン(グレイシー・ベドナルジク)の四人家族。
だが軍人であるグレースは、家族を残してイラク戦争に出征中。
朴訥なスタンレーは、遠い戦場にいるグレースを想う娘たちとどう接して良いのかわからず、親子の間には微妙な隙間風が吹いている。
そんなある日、スタンレーの元にイラクでグレースが戦死したという知らせが届く。
母親の死をどう娘たちに伝えていいのかわからないスタンレーは、唐突に娘たちを連れてドーンが行きたがっていたフロリダの遊園地へ旅に出るのだが・・・・


典型的なロードムービーである。
突然妻を亡くした男と、その事実を知らない娘たち。
途中でスタンレーの人となりを説明する役回りで、彼の弟のジョンが出てくる以外は、殆どこの三人しか描かれない。
行き場の無い葛藤を抱えたスタンレーは、迷走する心の赴くままに娘たちを連れて旅に出る。

主人公であるスタンレー・フィリップスのキャラクターが出色だ。
実はスタンレー自身も元軍人で、身体的な理由でやむなく除隊させられたという過去を持ち、現役軍人である妻を愛する一方で彼女に対するコンプレックスも抱えている。
故に父親としても自信が持てず、亡き妻の助けを誰よりも欲しているのもスタンレー自身という複雑なキャラクターとなっている。
本作のプロデューサーをかねるジョン・キューザックは、いつの間にかずいぶんと恰幅が良くなったが、内面に葛藤を抱え、年頃の娘たちとの接し方に戸惑う、平凡だが愛に満ちた男を見事に演じている。

誰もが予想するとおり、物語のクライマックスは一体スタンレーがいつどの様にして母親の死を娘たちに伝えるかという事で、物語の全ての要素はこの一点に向かって構成されている。
そして結果的に言えば、ジェームス・C・ストラウスは実に巧みにこの瞬間を演出している。
ストラウス自身による脚本は緻密に構成されていて、複線の張り方も上手い。
娘たちが真実を知る段取りは二段構造になっていて、最初の段取りはある小道具をつかって上手く表現されているが、ここで下手をするとロジック凝り過ぎていかにも作った様なクライマックスになってしまう。
ところがストラウスは、美しい映像と切ない音楽をキャラクターの感情にピタリとリンクさせる事で最大限の力を発揮させ、シンプルかつ極めて映画的な時間として昇華することに成功しているのである。

驚いたのは、音楽をクリント・イーストウッドが担当している事。
何となくイーストウッドみたいな音楽の使い方だな、と思っていたがまさか本人とは想わなかった。
優れた作曲家としても知られているイーストウッドが、自作以外の劇場用映画の音楽を担当したのはこれが初めてではないだろうか。
なるほど、この淡々とキャラクターの内面を追ってゆく物語のスタイルは、イーストウッドの映画に通じる物がある。
何れにしても、決してでしゃばらず、さりとて埋没する事も無く、キャラクターの感情をしっかりとサポートした良い楽曲だったと思う。

もちろんそう思えるのは、元々スタンレーの葛藤がしっかりと画面から伝わってくるからであり、この作品の俳優の表現力と彼らのポテンシャルを引き出した演出力は非常にハイレベル。
スタンレーだけでなく、姉ハイディ役のシェラン・オキーフ、妹ドーン役のグレイシー・ベドナルジクも、驚くほど巧みに心の動きを表現している。
特にスタンレーと微妙な距離感を感じつつも、様子のおかしな父の心を気遣い、大人と子供の狭間世代の曖昧さを繊細に表現したオキーフの演技は強く心に残る。
クレマン、トリュフォー、スピルバーグの例を見るまでも無く、子供の演出が上手い人物にダメ監督はまずいない。
その意味でも、ジェームス・C・ストラウスは今後注目してゆきたい映画作家である。

「さよなら。いつかわかること」は、普遍的な物語で、所謂反戦映画としての作り方はしていない。
だが家族を、大切な人を戦場へ送り出すと言うこと、そしてその人が二度と帰らないということを、ごくごくパーソナルな視点から考えさせてくれる映画であるのも確かだ。
戦争が長引くにつれて、現在進行形であるにも関わらず、イラク戦争を扱った映画も増えてきた。
しかし単純に戦争の是非をテーマとしているのではなく、必然的に生み出されるそれぞれの「戦後」にこれほどしっかりとスポットを当てた作品は初めてかもしれない。
イラク戦争開戦から早や6年、既にアメリカだけで4000を超える家族が、イラクではその数十倍の家族が「グレース」を送り出している。

イーストウッドの映画を観ると、いつも腹に染み渡る日本酒が飲みたくなる。
これはイーストウッド監督作じゃないけど、似た系統ということで「神亀 純米辛口」をチョイス。
日本で唯一一貫して純米酒専業の蔵として知られる神亀の酒の中でも、辛口に仕立てられた長期熟成タイプで、深いコクと複雑な旨みを味わえる名品である。
映画の後味をより深めてくれるだろう。

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少林少女・・・・・評価額650円
2008年05月01日 (木) | 編集 |
今年はカンフーが来ているのだそうな。
言われてみれば「カンフーくん」やら「カンフーパンダ」やら「カンフーダンク」やら、その手の映画が目白押し。
過去にもカンフー映画は何度もブームになったが、今回のは元をたどればチャウ・シンチー監督・主演「少林サッカー」「カンフーハッスル」の世界的なヒットが引き金になっているらしい。
「少林少女」はそのシンチーをエグゼクティブ・プロデューサーに迎え、「踊る大走査線」シリーズの本広克行がメガホンを取った、いわば正統派番外編
しかしながら、その出来ばえは本命どころかブームを一気に冷却してしまいかねないトホホな仕上がりとなってしまった。

少林寺での9年間の修行を終え、日本に帰国した桜沢凛(柴崎コウ)。
しかし敬愛する祖父の道場は朽ち果て、師匠格だった岩井拳児(江口洋介)は少林拳を捨て、場末の中華料理店の店長になっていた。
一人で道場を再建しようとする凛の元に、岩井の店でアルバイトとして働く中国人留学生の眠眠(キティ・チャン)が訪ねてくる。
凛の運動能力を見込んで、大学のラクロス部へスカウトしたいと言うのだ。
交換に眠眠が少林拳を学ぶことを条件に、ラクロス部へ入部した凛だったが、そのパワーが災いして試合には惨敗。
チームメイトの信頼も失ってしまう。
そんな凛を氷の様な目で見つめていたのは、大学の学長大場雄一郎(仲村トオル)。
彼と少林拳には凛もまだ知らない因縁があった・・・・


チグハグとしか言いようの無い映画である。
本作のコンセプトを簡単に言えば、「少林サッカー」「カンフーハッスル」というチャウ・シンチー監督の大ヒット映画のコンセプトを輸入して、日本人のスター俳優を組み込んで再生産した番外編だ。
だが、笑いとアクション満載で、時にはホロリとまでさせられたオリジナルと違い、この日本版は殆ど笑えるシーンは無く、アクションのカタルシスも無く、当然ながら感動することも出来ない、無味乾燥なコスプレショーに成り下がってしまっている。
見えてくるのは安直な企画性とあざとい商売っ気だけだ。

一体なんでこうなってしまったのかと思うくらい、物語がグダグダだ。
9年間少林寺で学んだ凛が帰国して、ひょんな事からラクロスを始めるのはまあいい。
バカ力はあるものの、ラクロスなどやったことの無い凛が試合で敗れて挫折するのもお約束だ。
だがここで、なぜかコーチとして乱入してきた岩井が「負けたのはお前がチームワークを知らないからだ」と凛を責め立てる。
映画を観ている限り、負けたのは単に凛のシュートのコントロールが悪かったからにしか見えないのだが、とにかく凛はチームプレーに徹する様になる。
すると当然ながら、プレーはごくありふれた物になってしまい、観客が期待する「少林サッカー」のラクロス版という展開からはどんどん離れて、普通のスポコン友情ものになってしまう。
おまけに、後半になると悪の学園を支配する格闘技オタクの謎の学長、大場が凛を狙う様になり、彼との対決が物語の本筋になっていまい、ラクロスは完全に忘れ去られてしまう。
要するに、前半「少林サッカー」、後半「カンフーハッスル」みたいな物なのだが、この二つがまるっきり融合していないのだ。

キャラクター造形もチグハグ感は強い。
主人公の凛は凄い気を持っていて、一度ダークサイドに落ちると抜け出せなくなるとかならないとか、どこかで聞いたような設定なのだけど、なぜそんな凄い気を持っていて、それが暴走すると最終的にどうなるのかという説明は無い。
凛の暴走を恐れる岩井は「お前は戦うな、俺が守ってやる」なんて偉そうな事を言っていたのに、実際に敵が来たら、自分は無抵抗のままさっさと凛を戦いに送り出す。
彼が戦いを拒否するのは、嘗て大場と戦って負けた事が切っ掛けになって、少林拳の技ではなく心に開眼したかららしいのだが、映画を観る限りは単に敗北がトラウマになって戦えないヘタレにしか見えない。
ダークサイドな敵役である大場も、なぜか悪の学園を運営しているというかなり変な人だ。
この人は悪の会議で「力に投資する時代は終わった、これからは美に投資する」とか言っているのに、自分はどう見ても力の信奉者にしかみえない。
そもそも何であんなに回りくどい事をして凛と戦うのかよくわからない。
戦いを拒否していたのは岩井であって、岩井に感化される前の凛は別に戦いを拒否していなかったはず。
ちなみに後半の、凛が塔の天辺にいる大場に辿り着くまでのゲームみたいな展開は、シンチーというよりはブルース・リー映画のパロディ満載なのだが、ギャグセンスが無いので、ちっとも笑えない。
もっとも元ネタが古すぎて、パロディとしても成立してない気もするけど。
何よりも酷いのは凛と大場の戦いのクライマックスで、思わず「キャシャーン」かと思ってしまった。
カンフーアクションの大トリに、平和な心象風景を見せられるとは思ってもみなかったよ。

「少林少女」は、作り手が何を描きたかったかが全然見えない。
劇中で、ラクロスのチームメイトに少林拳の技だけを教えようとする凛に対して、師匠格の岩井が「お前は心を教えていない」と批判するシーンがある。
だがこの映画に「心」はあるのか。
私にはチャウ・シンチーのカンフー映画というブランドだけを借りてきて、日本の人気俳優を混ぜ込んで再生産した、笑えない劣化コピーにしか見えなかった。
作り手の心が、この映画からは何も伝わってこない。
もちろんオフィシャルに名前を出している以上、この内容でOKを出したチャウ・シンチーも同罪だろう。

映画は本来自由な物で、物理的に可能であるなら誰がどんな物を作ろうが自由だ。
しかし個人的には、こういう自分で自分の首を絞めるような映画作りは、やめた方が良いと思う。
話題性があれば、お客は入るかもしれない。
だが言葉は悪いが、偽ブランド品をつかまされた観客の信頼は、確実に失ってしまうのである。

今回は、作り手の心が伝わってくるお酒、その名も「真心」をチョイス。
岩手県は花泉の磐乃井酒造のお酒。
山田錦を50%まで精米して純米吟醸で、東北のお酒らしく辛口で、スッキリとした飲み応えが心地良い。
真心を感じない映画の後は、真心を感じるお酒で口直ししよう。

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私的シンチーのベストはこれ