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2008年05月09日 (金) | 編集 |
「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」というタイトルと、半分死神の様な主人公のポスターを見たとき、これはサスペンス映画なのだと勝手に思い込んでいた。
実際には石油を追い求める一人の男の一代記だったわけだが、このタイトルには複雑な意味が込められていそうだ。
殺伐とした荒野に巨大な炎が吹き上がる地獄の様な光景、そしてそこを流れる真っ黒な石油は言わばアメリカの血液であり、同時に清浄の地を汚す欲望の象徴でもある。
異才ポール・トーマス・アンダーソンが、名優ダニエル・デイ=ルイスを主演に迎えて作り上げたのは、神学論的なアメリカの影の原風景なのではないだろうか。
19世紀末の西部。
一匹狼のプロスペクター、ダニエル・プレインヴュー(ダニエル・デイ=ルイス)は荒野で小さな金鉱を掘り当て、その金を元手に石油の掘削に乗り出す。
事故で死んだ作業員の1人息子を、自分の息子H.W(ディロン・フレイジャー)として育てたダニエルは、家族思いの石油屋というイメージを演出して試掘予定地の地権者の信頼を獲得してゆく。
ある日、ポール・サンデー(ポール・ダノ)という青年から、「故郷の不毛の土地に石油がある」と聞いたダニエルは、カリフォルニアの小さな町、リトル・ボストンに赴き、言葉巧みに土地を安く買い叩き油井を掘り当てる。
その町にはポールの双子の兄弟イーライが牧師を勤める教会があり、真っ向から異なる価値観を持つダニエルとイーライはしばしば対立する。
そんな時、油田でガスの噴出事故が起こり、巻き込まれたH.Wが聴力を失ってしまう・・・
オープニングが凄い。
約20分の間、うめき声と赤ん坊の泣き声をのぞけば殆ど台詞らしい台詞が無い。
ゴルゴダの丘を思わせる荒涼とした丘陵地帯の地面の下で、主人公ダニエル・プレインヴューの欲望だけが蠢いている。
レディオヘッドのジョニー・グリーンウッドの楽曲は、音楽と言うよりは不快な不協和音。
観客はこの男の欲望の凄まじさを五感で感じ、グイグイと作品世界に引き込まれる。
これは正しく映画の体感に他ならない。
主人公のダニエルは、極度の人間嫌いで欲望の塊とも言うべき怪物だが、単純な悪という訳ではない。
詐欺同然のやり方で土地を買い占めたかと思うと、孤児を自ら育て、事故で人が死ねば綺麗な服を着せて送り出せと言う。
もっともこれは思いやりというよりは、冷徹なロジックによる人心の掌握術と言った方が正しいだろう。
地の底に広がる油田の様に、ダニエルのキャラクターは掴み所が無く、その欲望も人間性も表面には殆ど現れることは無いのである。
ダニエルと事あるごとに対立しつつ、強い因縁で結ばれるイーライは物語的にはダニエルの対であり、同時に彼の内面の一部の投影とも見える。
牧師のイーライにはポールという双子の兄弟がいるが、ポールは金で故郷を売った男で、言わばダニエル側の人間だ。
ポールは、ダニエルとイーライが出会ってからは登場せず、物語の構造的にはダニエルの一部として吸収されたと言えるだろう。
そう考えると、この作品はもう一つのカインとアベルの物語であるのかもしれない。
物語のあちこちに仕掛けられた神学的な比喩も興味深く、この作品に描かれた現代アメリカの原風景とは、キリスト教と唯心論に代表される精神世界と経済と唯物論の物質世界の対立と融合の物語と見る事も出来る。
ダニエル・プレインヴューを演じるダニエル・デイ=ルイスが圧巻だ。
この英国出身の稀代の名優は、ものの見事に内面に欲望の炎を燃やす粗野なアメリカ人に成り切っている。
ギラギラとしたキャラクターは、「市民ケーン」のオーソン・ウェルズから「アビエイター」のレオナルド・ディカプリオまで、スクリーンに登場した多くの怪物たちを巧みに取り入れつつ、繊細に表現している。
晩年の内面から壊れてゆく様子などは、鬼気迫る表情に恐怖を感じるほどで、アカデミー主演男優賞も納得である。
彼に対するイーライを演じるのは、「リトル・ミス・サンシャイン」のニーチェ男も記憶に新しいポール・ダノ。
狂信的カリスマ牧師というもう一人の怪物を、本当に何かに取り憑かれた様に演じ、デイ=ルイスに伍する印象を残す。
この二人が本当の意味で対峙するラストシーンは凄まじく、私は何となくキューブリックを連想してしまった。
ポール・トーマス・アンダーソン監督は、どちらかというと「マグノリア」の様な群像劇を得意とする映画作家という印象があったが、この作品ではダニエル、イーライ、H.Wの三人に物語の中心を絞り、彼らの内面をジックリと描いてゆく。
原作物を手がけるのも初めてで、彼にとっては新境地と言える作品になった。
ハリウッドにおけるロバート・アルトマンの後継者という評価を受けた事もある人物だが、エンドクレジットの最後にその答えも用意されていて、軽い驚きと共に思わず熱いものが込み上げて来た。
この映画に欠点らしい欠点は無い。
あえて言えば、H.Wが成長した後のダニエルとの関係がやや紋切り型なくらいな事か。
夕暮れの荒野に燃える油田は、禍々しくも美しい。
それはまるで神聖なる清教徒の大地に突き立てられた、巨大な欲望の剣の様に見えた。
激動の人生の終わりに、ダニエルはどこに辿り着いたのだろうか。
「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」=「そこに血があらわれる」の意味が明確となる瞬間の、あまりにも悲しい一人の男の姿が、観終わってもしばらくの間目に焼き付いていた。
今回は、悪魔の名を持つカクテル「ディアブロ」をチョイス。
ホワイト・ポートワイン40ml、ドライベルモット20ml、レモンジュース1tsをシェイクしてぐラスに注ぐ。
名前とは裏腹に、レモンの風味も爽やかで、スッキリとして飲みやすい。
ヘヴィーな映画の後にはピッタリだ。
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実際には石油を追い求める一人の男の一代記だったわけだが、このタイトルには複雑な意味が込められていそうだ。
殺伐とした荒野に巨大な炎が吹き上がる地獄の様な光景、そしてそこを流れる真っ黒な石油は言わばアメリカの血液であり、同時に清浄の地を汚す欲望の象徴でもある。
異才ポール・トーマス・アンダーソンが、名優ダニエル・デイ=ルイスを主演に迎えて作り上げたのは、神学論的なアメリカの影の原風景なのではないだろうか。
19世紀末の西部。
一匹狼のプロスペクター、ダニエル・プレインヴュー(ダニエル・デイ=ルイス)は荒野で小さな金鉱を掘り当て、その金を元手に石油の掘削に乗り出す。
事故で死んだ作業員の1人息子を、自分の息子H.W(ディロン・フレイジャー)として育てたダニエルは、家族思いの石油屋というイメージを演出して試掘予定地の地権者の信頼を獲得してゆく。
ある日、ポール・サンデー(ポール・ダノ)という青年から、「故郷の不毛の土地に石油がある」と聞いたダニエルは、カリフォルニアの小さな町、リトル・ボストンに赴き、言葉巧みに土地を安く買い叩き油井を掘り当てる。
その町にはポールの双子の兄弟イーライが牧師を勤める教会があり、真っ向から異なる価値観を持つダニエルとイーライはしばしば対立する。
そんな時、油田でガスの噴出事故が起こり、巻き込まれたH.Wが聴力を失ってしまう・・・
オープニングが凄い。
約20分の間、うめき声と赤ん坊の泣き声をのぞけば殆ど台詞らしい台詞が無い。
ゴルゴダの丘を思わせる荒涼とした丘陵地帯の地面の下で、主人公ダニエル・プレインヴューの欲望だけが蠢いている。
レディオヘッドのジョニー・グリーンウッドの楽曲は、音楽と言うよりは不快な不協和音。
観客はこの男の欲望の凄まじさを五感で感じ、グイグイと作品世界に引き込まれる。
これは正しく映画の体感に他ならない。
主人公のダニエルは、極度の人間嫌いで欲望の塊とも言うべき怪物だが、単純な悪という訳ではない。
詐欺同然のやり方で土地を買い占めたかと思うと、孤児を自ら育て、事故で人が死ねば綺麗な服を着せて送り出せと言う。
もっともこれは思いやりというよりは、冷徹なロジックによる人心の掌握術と言った方が正しいだろう。
地の底に広がる油田の様に、ダニエルのキャラクターは掴み所が無く、その欲望も人間性も表面には殆ど現れることは無いのである。
ダニエルと事あるごとに対立しつつ、強い因縁で結ばれるイーライは物語的にはダニエルの対であり、同時に彼の内面の一部の投影とも見える。
牧師のイーライにはポールという双子の兄弟がいるが、ポールは金で故郷を売った男で、言わばダニエル側の人間だ。
ポールは、ダニエルとイーライが出会ってからは登場せず、物語の構造的にはダニエルの一部として吸収されたと言えるだろう。
そう考えると、この作品はもう一つのカインとアベルの物語であるのかもしれない。
物語のあちこちに仕掛けられた神学的な比喩も興味深く、この作品に描かれた現代アメリカの原風景とは、キリスト教と唯心論に代表される精神世界と経済と唯物論の物質世界の対立と融合の物語と見る事も出来る。
ダニエル・プレインヴューを演じるダニエル・デイ=ルイスが圧巻だ。
この英国出身の稀代の名優は、ものの見事に内面に欲望の炎を燃やす粗野なアメリカ人に成り切っている。
ギラギラとしたキャラクターは、「市民ケーン」のオーソン・ウェルズから「アビエイター」のレオナルド・ディカプリオまで、スクリーンに登場した多くの怪物たちを巧みに取り入れつつ、繊細に表現している。
晩年の内面から壊れてゆく様子などは、鬼気迫る表情に恐怖を感じるほどで、アカデミー主演男優賞も納得である。
彼に対するイーライを演じるのは、「リトル・ミス・サンシャイン」のニーチェ男も記憶に新しいポール・ダノ。
狂信的カリスマ牧師というもう一人の怪物を、本当に何かに取り憑かれた様に演じ、デイ=ルイスに伍する印象を残す。
この二人が本当の意味で対峙するラストシーンは凄まじく、私は何となくキューブリックを連想してしまった。
ポール・トーマス・アンダーソン監督は、どちらかというと「マグノリア」の様な群像劇を得意とする映画作家という印象があったが、この作品ではダニエル、イーライ、H.Wの三人に物語の中心を絞り、彼らの内面をジックリと描いてゆく。
原作物を手がけるのも初めてで、彼にとっては新境地と言える作品になった。
ハリウッドにおけるロバート・アルトマンの後継者という評価を受けた事もある人物だが、エンドクレジットの最後にその答えも用意されていて、軽い驚きと共に思わず熱いものが込み上げて来た。
この映画に欠点らしい欠点は無い。
あえて言えば、H.Wが成長した後のダニエルとの関係がやや紋切り型なくらいな事か。
夕暮れの荒野に燃える油田は、禍々しくも美しい。
それはまるで神聖なる清教徒の大地に突き立てられた、巨大な欲望の剣の様に見えた。
激動の人生の終わりに、ダニエルはどこに辿り着いたのだろうか。
「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」=「そこに血があらわれる」の意味が明確となる瞬間の、あまりにも悲しい一人の男の姿が、観終わってもしばらくの間目に焼き付いていた。
今回は、悪魔の名を持つカクテル「ディアブロ」をチョイス。
ホワイト・ポートワイン40ml、ドライベルモット20ml、レモンジュース1tsをシェイクしてぐラスに注ぐ。
名前とは裏腹に、レモンの風味も爽やかで、スッキリとして飲みやすい。
ヘヴィーな映画の後にはピッタリだ。

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