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2008年07月31日 (木) | 編集 |
過去30年に渡って、男子たちの心を熱くさせてきた功夫(クンフー)映画の二大スター、ジャッキー・チェンとジェット・リー。
彼ら二人の競演作が遂に作られたとなると、これは「エイリアンvsプレデター」以来の事件であり、これはもう観に行くしかない。
ドラゴンなど出てこないけど、「ドラゴン・キングダム」という邦題が付けられた本作の国籍は、意外にも香港でも中国でも無くアメリカだ。
香港映画ファンの気弱な少年ジェイソン(マイケル・アランガーノ)は、不良少年達に強要されて、チャイナタウンの顔見知りの老人の店へ強盗に入るのを手伝わされてしまう。
不良少年の放った弾丸に倒れた老人は、ジェイソンに元の持ち主に返して欲しいと言って、一本の古びた武術用の棒を差し出す。
不良達から逃げたジェイソンは、追い詰められて屋上から転落してしまう。
目が覚めると、そこは古の時代の中国。
ジェイソンは突然現れた軍隊に追われるのだが、そこへ一人の酔っ払い(ジャッキー・チェン)が現れ、目にも留まらぬ技で兵たちをなぎ倒し、ジェイソンを救う。
彼はジェイソンの持つ棒こそ、伝説の如意棒だと言う。
ジェイド将軍の圧制に苦しむ人々は、嘗て石に封印された孫悟空の復活を待ちわびていた。
如意棒を孫悟空の元へ返す事、それが世界を変える唯一の方法なのだが・・・
確か、ジェット・リーはほんの二年ばかり前に、「SPIRITスピリット」で功夫映画は引退すると言っていた様な気がするが、ハテ私の記憶違いだろうか・・・?
まあ彼の美技が再び見られるなら、野暮は言うまい(笑
二大スターの競演作というのは過去にも数多くあったが、観る方も作る方も大いに気にするのが、物語の中での二人のバランスだ。
一方を立てれば一方が立たずでは、ファンも当のスターも納得しないだろう。
今回の場合、物語の主役にはアメリカ人のヘタレ青年ジェイソンを置き、ジャッキー・チェンとジェット・リーが、ジェイソンを鍛え上げる対照的な二人の師匠という設定にして、上手くバランスをとっている。
ジャッキーのアクションというと、ユーモラスで小道具のギミックも効かせ、サイレント映画のハロルド・ロイドあたりからの流れを汲む、いかにも映画的なアクションだし、逆にジェット・リーは「少林寺」のプロモーションで、本物の少林寺出身者(笑)と宣伝されたくらい、ストイックで本格的な武術の印象が強い。
この対照的な二人のスタイルをどう一本の中で絡めるのかと思ったら、今回はアクション監督にユエン・ウーピンを迎え、基本的に彼の仕切りでアクションが作られているようだ。
その意味では本作のアクションはいかにもウーピン風味で、ジャッキーvsジェットの異種格闘技戦を期待していたこちらとしてはチョイ残念。
もっとも、ウーピンのアクションは相変わらずダイナミックで美しく、まとまりという点では正解だと思うのだけど。
物語は、日本でもおなじみの「西遊記」の冒頭部分をモチーフに膨らませてあるのだが、むしろ世界観は「ロード・オブ・ザ・リング」の影響が色濃い。
舞台となるのが「ミドル・アース」ならぬ「ミドル・キングダム」なのは多分「中国」という漢字からもイメージ出来たと思うが、プチ・サウロンというかサルマン的役回りのジェイド将軍の城のデザインはミナス・モルグルそっくりだし、翡翠帝(天帝?)の宴はまるでリヴェンデールの様だ。
全体に世界観は、指輪を捨てに行く代わりに如意棒を返しに行く、「LOTR」の東洋版と言った感じである。
まあぶっちゃけ、平凡なアメリカ人少年が魔術的力で突然別世界に召喚されるという、ゲームライクな展開からして、話そのものは完全に漫画かRPGであり、香港映画ヲタクのある種の妄想を具現化したような物である。
その意味で、アニメ出身のロブ・ミンコフ監督は、まずまずの仕事をしていると言って良いのではないか。
パラレルワールドの様な古の中国を舞台としたビジュアルは、多少借り物感があったとしても楽しいし、ほぼ中国人で固めたキャスト&アクションスタッフの作り出す華麗なアクションはやはり見事で、アメリカ人向けの超豪華な香港映画と思えばかなり楽しめる。
ただ、基本的には師匠二人と弟子一人が悪の将軍と戦うだけの話の割には、風呂敷を広げすぎの感が無きにしも非ずで、脚本は突っ込みどころ多数、また設定はされているのに描写されていない部分も多く、妙に駆け足でダイジェスト感があるのは残念だ。
「LOTR」みたいに三部作じゃないんだから、もうちょっと整理するか、上映時間を少し延ばしても良かったと思う。
因みにこの脚本を書いたジョン・フスコは、「ヤング・ガン」などで知られるアクションを得意とする人物だが、次回作はタイを舞台にリメイクされる「七人の侍」だそうである。
う~ん、色んな意味で心配だ(笑
あと、これは演出の問題だが、クライマックスのジェット・リーの正体が明かされる展開を生かすのなら、冒頭に登場する孫悟空をもう少し誰だか判らない様にした方が盛り上がった気がするのだが。
あれじゃ、出てきた瞬間もろバレではなかろうか。
「ドラゴン・キングダム」は、一言で言って、アメリカの香港映画ファンの夢を叶えるための映画であって、その意味ではまずまず良く出来ている。
深さは全く無いものの、ヘタレ少年が冒険を通して、功夫の技よりも勇気という心を得るというテーマも判りやすく表現されている。
壮大な世界観の割りには、話の本質はコンパクトだったりするので、あまり過度な期待は禁物だが、ある種のイベントムービーとしては十分楽しめる出来栄えだ。
今回は、アメリカのチャイナタウンの定番「青島ビール」をチョイス。
元々ドイツの租借地であった青島で、ドイツ人が作り始めた歴史を持つからか、少しドイツビールの風情が残るものの、ややあっさりすっきりテイストなのは、やはり脂っこい中華料理と共に進化してきたからか。
アメリカンテイストのチャイニーズムービーにも、これはこれでなかなか合う。
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彼ら二人の競演作が遂に作られたとなると、これは「エイリアンvsプレデター」以来の事件であり、これはもう観に行くしかない。
ドラゴンなど出てこないけど、「ドラゴン・キングダム」という邦題が付けられた本作の国籍は、意外にも香港でも中国でも無くアメリカだ。
香港映画ファンの気弱な少年ジェイソン(マイケル・アランガーノ)は、不良少年達に強要されて、チャイナタウンの顔見知りの老人の店へ強盗に入るのを手伝わされてしまう。
不良少年の放った弾丸に倒れた老人は、ジェイソンに元の持ち主に返して欲しいと言って、一本の古びた武術用の棒を差し出す。
不良達から逃げたジェイソンは、追い詰められて屋上から転落してしまう。
目が覚めると、そこは古の時代の中国。
ジェイソンは突然現れた軍隊に追われるのだが、そこへ一人の酔っ払い(ジャッキー・チェン)が現れ、目にも留まらぬ技で兵たちをなぎ倒し、ジェイソンを救う。
彼はジェイソンの持つ棒こそ、伝説の如意棒だと言う。
ジェイド将軍の圧制に苦しむ人々は、嘗て石に封印された孫悟空の復活を待ちわびていた。
如意棒を孫悟空の元へ返す事、それが世界を変える唯一の方法なのだが・・・
確か、ジェット・リーはほんの二年ばかり前に、「SPIRITスピリット」で功夫映画は引退すると言っていた様な気がするが、ハテ私の記憶違いだろうか・・・?
まあ彼の美技が再び見られるなら、野暮は言うまい(笑
二大スターの競演作というのは過去にも数多くあったが、観る方も作る方も大いに気にするのが、物語の中での二人のバランスだ。
一方を立てれば一方が立たずでは、ファンも当のスターも納得しないだろう。
今回の場合、物語の主役にはアメリカ人のヘタレ青年ジェイソンを置き、ジャッキー・チェンとジェット・リーが、ジェイソンを鍛え上げる対照的な二人の師匠という設定にして、上手くバランスをとっている。
ジャッキーのアクションというと、ユーモラスで小道具のギミックも効かせ、サイレント映画のハロルド・ロイドあたりからの流れを汲む、いかにも映画的なアクションだし、逆にジェット・リーは「少林寺」のプロモーションで、本物の少林寺出身者(笑)と宣伝されたくらい、ストイックで本格的な武術の印象が強い。
この対照的な二人のスタイルをどう一本の中で絡めるのかと思ったら、今回はアクション監督にユエン・ウーピンを迎え、基本的に彼の仕切りでアクションが作られているようだ。
その意味では本作のアクションはいかにもウーピン風味で、ジャッキーvsジェットの異種格闘技戦を期待していたこちらとしてはチョイ残念。
もっとも、ウーピンのアクションは相変わらずダイナミックで美しく、まとまりという点では正解だと思うのだけど。
物語は、日本でもおなじみの「西遊記」の冒頭部分をモチーフに膨らませてあるのだが、むしろ世界観は「ロード・オブ・ザ・リング」の影響が色濃い。
舞台となるのが「ミドル・アース」ならぬ「ミドル・キングダム」なのは多分「中国」という漢字からもイメージ出来たと思うが、プチ・サウロンというかサルマン的役回りのジェイド将軍の城のデザインはミナス・モルグルそっくりだし、翡翠帝(天帝?)の宴はまるでリヴェンデールの様だ。
全体に世界観は、指輪を捨てに行く代わりに如意棒を返しに行く、「LOTR」の東洋版と言った感じである。
まあぶっちゃけ、平凡なアメリカ人少年が魔術的力で突然別世界に召喚されるという、ゲームライクな展開からして、話そのものは完全に漫画かRPGであり、香港映画ヲタクのある種の妄想を具現化したような物である。
その意味で、アニメ出身のロブ・ミンコフ監督は、まずまずの仕事をしていると言って良いのではないか。
パラレルワールドの様な古の中国を舞台としたビジュアルは、多少借り物感があったとしても楽しいし、ほぼ中国人で固めたキャスト&アクションスタッフの作り出す華麗なアクションはやはり見事で、アメリカ人向けの超豪華な香港映画と思えばかなり楽しめる。
ただ、基本的には師匠二人と弟子一人が悪の将軍と戦うだけの話の割には、風呂敷を広げすぎの感が無きにしも非ずで、脚本は突っ込みどころ多数、また設定はされているのに描写されていない部分も多く、妙に駆け足でダイジェスト感があるのは残念だ。
「LOTR」みたいに三部作じゃないんだから、もうちょっと整理するか、上映時間を少し延ばしても良かったと思う。
因みにこの脚本を書いたジョン・フスコは、「ヤング・ガン」などで知られるアクションを得意とする人物だが、次回作はタイを舞台にリメイクされる「七人の侍」だそうである。
う~ん、色んな意味で心配だ(笑
あと、これは演出の問題だが、クライマックスのジェット・リーの正体が明かされる展開を生かすのなら、冒頭に登場する孫悟空をもう少し誰だか判らない様にした方が盛り上がった気がするのだが。
あれじゃ、出てきた瞬間もろバレではなかろうか。
「ドラゴン・キングダム」は、一言で言って、アメリカの香港映画ファンの夢を叶えるための映画であって、その意味ではまずまず良く出来ている。
深さは全く無いものの、ヘタレ少年が冒険を通して、功夫の技よりも勇気という心を得るというテーマも判りやすく表現されている。
壮大な世界観の割りには、話の本質はコンパクトだったりするので、あまり過度な期待は禁物だが、ある種のイベントムービーとしては十分楽しめる出来栄えだ。
今回は、アメリカのチャイナタウンの定番「青島ビール」をチョイス。
元々ドイツの租借地であった青島で、ドイツ人が作り始めた歴史を持つからか、少しドイツビールの風情が残るものの、ややあっさりすっきりテイストなのは、やはり脂っこい中華料理と共に進化してきたからか。
アメリカンテイストのチャイニーズムービーにも、これはこれでなかなか合う。

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2008年07月26日 (土) | 編集 |
妙に謙虚なM・ナイト・シャマラン。
10年前、「シックス・センス」の大ヒットとオスカーへのノミネートによって一躍脚光を浴びたものの、その後はどちらかというとラジー賞候補の常連となってしまった感のあるシャマラン。
長年組んでいたブエナ・ビスタを離れワーナーで挑んだ前作の大コケで、いよいよ尻に火がついたのか、今回はいつもの外連味は前面に出る事はなく、地道にB級道を追求している。
彼の映画はいつも「何か」が突然起こる事で展開してきたが、「ハプニング」というストレートなタイトルも含めて、映画作家としての方向性の模索を感じられる作品だ。
ある日のセントラル・パーク。
突然人々に異変が起こり、次々と自殺するという奇妙な事件が起こる。
その最初の兆候は、意味不明な事を口走るようになり、次に方向感覚が麻痺、最後に自らを攻撃し死に至る。
生物教師のエリオット(マーク・ウォールバーグ)は、妻のアルマ(ズーイー・デシャネル) 、同僚のジュリアン(ジョン・レグイザモ)とその娘ジェス(アシュリン・サンチェス)と共に、列車でフィラデルフィアを脱出する。
しかし異変は米北東部全域に広がりをみせ、列車は途中で立ち往生。
ある仮説を事件の原因と考えたエリオットは、人口の少ない奥地へと避難しようとするのだが・・・・
元々私は、彼の出世作である「シックス・センス」を、世評ほど優れた作品と思っていない。
霊との会話という物語は、ほぼ同時期に同じアイディアの作品が封切られている事からもわかる様に特別な話ではないし、主人公が実は死んでいたというオチにしたところで、すでに使い古されたアイディアで、それほど斬新なネタとは思えない。
かと言って、作品のテーマ性が際立って高い訳でもない。
要するにあの作品の成功というのは、それまでオカルトという狭い範囲に封じ込められていたアイディアを、あえてそう見えない様に撮ったという、視点の置き方の上手さにあったと思う。
ごくありふれたチャーハンも、器と盛り付けにめちゃめちゃ凝ってみれば、何となく凄い創作料理に見えてくるのと同じ様な事だ。
ところがこれで勘違いしてしまったシャマランは、「ヒット作を作る法則がわかった」などという大言壮語をしてしまい、結果的にその後の作品でズルズルと評価を落とす事となる。
個人的には、「アンブレイカブル」や「サイン」の様な、B級趣味が比較的素直に出た作品は結構楽しめたのだが、ブラッドベリもどきの「ヴィレッジ」や御伽噺の陳腐な再解釈「レディ・イン・ザ・ウォーター」などは、観客の期待を煽るハッタリが効いている分、実際の作品との落差だけが印象に残ってしまった。
因みにシャマランの他にも同じ台詞を吐いた映画人を何人か知っているが、全員が言った直後に大コケ作品を作ってヒンシュクを買っている。
本当にヒットを願う人は、たとえそう思っていても禁句にしておいた方がいい縁起の悪い言葉である。
さて、そんなシャラマンの7本目の商業作品となるのが「ハプニング」
「レディ・イン・ザ・ウォーター」に対して、世界中で吹き荒れた酷評がよほど堪えたのか、得意のハッタリは影を潜め、すっかりおとなしくなってしまった。
シャマラン自身が、彼の最も敬愛するアイドルだと語るのがスティーブン・スピルバーグ。
一番本来のB級趣味がストレートに出た「サイン」のプロットが、「E.T」の初期アイディアに酷似している事はよく知られているし、彼の映画にほぼ共通する、平凡な主人公にある日突然予期せぬ「何か」が起こり、巻き込まれてゆくという基本構造は初期のスピルバーグ作品に良く観られたパターンだ。
この事からもシャマランの映画的記憶のベースはスピルバーグにあると言って良いと思う。
今回の「ハプニング」の場合、スピルバーグ的な物はもちろん感じるのだが、それプラス彼の様々な映画的記憶がチラチラとスクリーンに見え隠れする。
突然理解不能な自然からの恐怖に見舞われて、都市近郊の田舎を逃げ回るというのは、スピルバーグが影響を受けたと語るヒッチコックの「鳥」を思わせるし、本作の音楽の使い方はまるで60~70年代のホラー映画の様で、ジェームス・ニュートン・ハワードのスコア自体、おそらく意図してレトロな雰囲気だ。
相変わらず語り口は上品なものの、本作の方向性は明らかなB級狙いで、それは結果的にまずまず成功していると言って良いだろう。
偶然にもほんの数週間前に、ニューズウィーク誌で全米のミツバチの減少に関する記事を読んだばかりだったのだが、自然界の「あるもの」が彼らにとって「害」となった人間を攻撃するというアイディアは面白い。
確かに人間は自らのもその一部でであるにもかかわらず、自然一般に対してずいぶんな扱いをしているし、ガイア思想的な立場に立ってみれば此方の方が害虫みたいなものかもしれない。
自然の様々な法則を実は人間は殆ど知らず、全く未知の作用によって生存を脅かされるというのは最近の環境問題への意識の高まりともリンクして、タイムリーな発想だ。
脚本の突っ込みどころは相変わらず多いが、人間が排除される理由が一切明かされず、ただ無理やり自殺させられるというシチュエーションは結構怖い。
B級テイストの不条理ホラーと考えると、それなりに良く出来た作品と言える。
しかし・・・ハッタリの無いシャマランは、それはそれで何となく物足りない(笑
ついつい何時もの無理やりな展開を期待してしまい、捻りの無い素直なオチも含めて、いつに無く薄味に感じてしまうのも事実。
ただ、「シックス・センス」のラストが妙に評判になってしまったために、「衝撃の展開」がトレードマークの様に思われてしまっているが、元々彼の持ち味はB級なアイディアを丁寧に格調高く、新しい視点で見せるということだったはずで、その意味でこの作品の方向性は彼にとっては原点回帰なのだと思う。
個人的には、外連味たっぷりの愛すべき一発屋テイストも捨てがたいが、M・ナイト・シャマランは、この上品なB級志向を極めて行くのが正解だろう。
まあ今回は、今までの反動か、真面目に作りすぎてやや萎縮してしまっている様な気がする。
せめてカメオ出演までは、自粛しなくても良かったのではないだろうか(笑
今回は、「グリーン・デビル」という名を持つカクテルを。
ドライジン50mlとクレーム・ド・ミント・グリーン25ml、レモンジュース15mlをシェイクして、氷を入れたグラスに注ぐ。
「緑の悪魔」は、美しい外見とは異なりかなりドライで強い酒だが、ミントの香りですっきりと飲める。
やや薄味のシャマラン節に物足りない人はこちらで刺激をプラス。
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10年前、「シックス・センス」の大ヒットとオスカーへのノミネートによって一躍脚光を浴びたものの、その後はどちらかというとラジー賞候補の常連となってしまった感のあるシャマラン。
長年組んでいたブエナ・ビスタを離れワーナーで挑んだ前作の大コケで、いよいよ尻に火がついたのか、今回はいつもの外連味は前面に出る事はなく、地道にB級道を追求している。
彼の映画はいつも「何か」が突然起こる事で展開してきたが、「ハプニング」というストレートなタイトルも含めて、映画作家としての方向性の模索を感じられる作品だ。
ある日のセントラル・パーク。
突然人々に異変が起こり、次々と自殺するという奇妙な事件が起こる。
その最初の兆候は、意味不明な事を口走るようになり、次に方向感覚が麻痺、最後に自らを攻撃し死に至る。
生物教師のエリオット(マーク・ウォールバーグ)は、妻のアルマ(ズーイー・デシャネル) 、同僚のジュリアン(ジョン・レグイザモ)とその娘ジェス(アシュリン・サンチェス)と共に、列車でフィラデルフィアを脱出する。
しかし異変は米北東部全域に広がりをみせ、列車は途中で立ち往生。
ある仮説を事件の原因と考えたエリオットは、人口の少ない奥地へと避難しようとするのだが・・・・
元々私は、彼の出世作である「シックス・センス」を、世評ほど優れた作品と思っていない。
霊との会話という物語は、ほぼ同時期に同じアイディアの作品が封切られている事からもわかる様に特別な話ではないし、主人公が実は死んでいたというオチにしたところで、すでに使い古されたアイディアで、それほど斬新なネタとは思えない。
かと言って、作品のテーマ性が際立って高い訳でもない。
要するにあの作品の成功というのは、それまでオカルトという狭い範囲に封じ込められていたアイディアを、あえてそう見えない様に撮ったという、視点の置き方の上手さにあったと思う。
ごくありふれたチャーハンも、器と盛り付けにめちゃめちゃ凝ってみれば、何となく凄い創作料理に見えてくるのと同じ様な事だ。
ところがこれで勘違いしてしまったシャマランは、「ヒット作を作る法則がわかった」などという大言壮語をしてしまい、結果的にその後の作品でズルズルと評価を落とす事となる。
個人的には、「アンブレイカブル」や「サイン」の様な、B級趣味が比較的素直に出た作品は結構楽しめたのだが、ブラッドベリもどきの「ヴィレッジ」や御伽噺の陳腐な再解釈「レディ・イン・ザ・ウォーター」などは、観客の期待を煽るハッタリが効いている分、実際の作品との落差だけが印象に残ってしまった。
因みにシャマランの他にも同じ台詞を吐いた映画人を何人か知っているが、全員が言った直後に大コケ作品を作ってヒンシュクを買っている。
本当にヒットを願う人は、たとえそう思っていても禁句にしておいた方がいい縁起の悪い言葉である。
さて、そんなシャラマンの7本目の商業作品となるのが「ハプニング」
「レディ・イン・ザ・ウォーター」に対して、世界中で吹き荒れた酷評がよほど堪えたのか、得意のハッタリは影を潜め、すっかりおとなしくなってしまった。
シャマラン自身が、彼の最も敬愛するアイドルだと語るのがスティーブン・スピルバーグ。
一番本来のB級趣味がストレートに出た「サイン」のプロットが、「E.T」の初期アイディアに酷似している事はよく知られているし、彼の映画にほぼ共通する、平凡な主人公にある日突然予期せぬ「何か」が起こり、巻き込まれてゆくという基本構造は初期のスピルバーグ作品に良く観られたパターンだ。
この事からもシャマランの映画的記憶のベースはスピルバーグにあると言って良いと思う。
今回の「ハプニング」の場合、スピルバーグ的な物はもちろん感じるのだが、それプラス彼の様々な映画的記憶がチラチラとスクリーンに見え隠れする。
突然理解不能な自然からの恐怖に見舞われて、都市近郊の田舎を逃げ回るというのは、スピルバーグが影響を受けたと語るヒッチコックの「鳥」を思わせるし、本作の音楽の使い方はまるで60~70年代のホラー映画の様で、ジェームス・ニュートン・ハワードのスコア自体、おそらく意図してレトロな雰囲気だ。
相変わらず語り口は上品なものの、本作の方向性は明らかなB級狙いで、それは結果的にまずまず成功していると言って良いだろう。
偶然にもほんの数週間前に、ニューズウィーク誌で全米のミツバチの減少に関する記事を読んだばかりだったのだが、自然界の「あるもの」が彼らにとって「害」となった人間を攻撃するというアイディアは面白い。
確かに人間は自らのもその一部でであるにもかかわらず、自然一般に対してずいぶんな扱いをしているし、ガイア思想的な立場に立ってみれば此方の方が害虫みたいなものかもしれない。
自然の様々な法則を実は人間は殆ど知らず、全く未知の作用によって生存を脅かされるというのは最近の環境問題への意識の高まりともリンクして、タイムリーな発想だ。
脚本の突っ込みどころは相変わらず多いが、人間が排除される理由が一切明かされず、ただ無理やり自殺させられるというシチュエーションは結構怖い。
B級テイストの不条理ホラーと考えると、それなりに良く出来た作品と言える。
しかし・・・ハッタリの無いシャマランは、それはそれで何となく物足りない(笑
ついつい何時もの無理やりな展開を期待してしまい、捻りの無い素直なオチも含めて、いつに無く薄味に感じてしまうのも事実。
ただ、「シックス・センス」のラストが妙に評判になってしまったために、「衝撃の展開」がトレードマークの様に思われてしまっているが、元々彼の持ち味はB級なアイディアを丁寧に格調高く、新しい視点で見せるということだったはずで、その意味でこの作品の方向性は彼にとっては原点回帰なのだと思う。
個人的には、外連味たっぷりの愛すべき一発屋テイストも捨てがたいが、M・ナイト・シャマランは、この上品なB級志向を極めて行くのが正解だろう。
まあ今回は、今までの反動か、真面目に作りすぎてやや萎縮してしまっている様な気がする。
せめてカメオ出演までは、自粛しなくても良かったのではないだろうか(笑
今回は、「グリーン・デビル」という名を持つカクテルを。
ドライジン50mlとクレーム・ド・ミント・グリーン25ml、レモンジュース15mlをシェイクして、氷を入れたグラスに注ぐ。
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2008年07月24日 (木) | 編集 |
「歩いても 歩いても」は、ある意味で是枝裕和の劇場用映画デビュー作、「幻の光」と対になるような作品だ。
心に傷を負った一人の女性が、ゆったりとした能登の田舎での生活の中、徐々に癒されてゆく過程を描いた「幻の光」に対して、こちらはとある一家の再会の一日を通して、彼らの心が互いに対してほんの少しだけ優しくなる様を描いた、ある種の群像劇と言える。
シチュエーションは対照的ながら、日常を生きる人々の心の機微をカメラで優しくすくい取り、物語を「描く」というよりは静かに「観察」するようなスタンスは変わらない。
ある年の夏、三浦海岸。
失業中の横山良多(阿部寛)は、妻のゆかり(夏川結衣)と妻の連れ子のあつしを連れて実家を訪れた。
開業医だった父(原田芳雄)とは昔から何かにつけて衝突してきた経緯もあり、母(樹木希林)も子連れのゆかりとの結婚を内心良く思っていない事がわかっていたので、気の進まない帰郷だ。
姉のちなみ(YOU)の一家も既に来ていて、母と共に楽しそうに御馳走の用意をしていた。
互いに近況が気になりながらも、なかなか心を割って向かい合えない頑固な父と良多。
この久々の団欒は、実は若くして逝った一家の長男の命日なのだった・・・
「幻の光」には、こんな長廻しのカットがある。
主人公が、輪島の朝市で買い物中、店のおばちゃんと会話していると、彼女のいる場所に徐々に太陽が射し込んでくる。
曇り空で撮影をしていたのに、途中で晴れ間が出てしまったという、明らかなNGのカットであり、劇映画を見慣れている目には違和感がある。
おそらく最初からフィクションで育った映画作家なら、そのままボツにしたカットだと思う。
ところが是枝監督は、この太陽の光を、能登の暮らしによって癒され、心の雲を取り払いつつある主人公の心象表現として、そのまま使っているのである。
俳優にも無理に演技をつけようとしていない。
二人の子役はもちろん、素人同然だった江角マキコにも、シチュエーションの中で自然に動いてもらい、それを一歩引いた視点で観察するようなスタンスは、ドキュメンタリー出身者を強く感じさせる作りだったが、同時にその冷静かつ確かな人間観察眼には舌を巻かされた。
初の時代劇となった一昨年の「花よりもなほ」では、さすがにフィクションの造りこみの度合いが違ったが、基本的に彼の作品に共通するのは、人間への深い興味と理解だ。
三浦海岸近くの、嘗て開業医を営んでいた一軒の家。
この家に暮らす老夫婦の元へ、独立した子供たちがそれぞれの家族を連れて集まってくる。
ごくごく平凡な日常の風景だが、やがて彼らは15年前に死んだ一家の長男を弔うために集まったという事がわかってくるのだ。
物語的には恐ろしくシンプルで、特にドラマチックな盛り上げというのは考慮されていない。
それどころか物語の設定や、登場人物たちの関係などを説明する描写すら殆ど存在しない。
あくまでも日常のさりげない会話や描写を通して、自然に観客に状況を認識させる。
その代わりに、登場人物たちは徹底的に造形されており、性格から趣味嗜好、互いをどう思っているのか、なぜそう思うようになったのかが物語の中で示唆され、彼らのたどってきた長い人生をリアルに実感させる。
無数の人間がひしめく社会の中で、本来一番近くて一わかり合っているはずのミニマムな集団、「家族」
しかしこの映画の登場人物は、強く結びつきつつも、同時に見えない壁によって隔てられている様に見える。
そりの合わない良多と父の間はわかり易いが、ゆかりと母との間、ちなみ家族と父母の間、一見すると何の問題もなさそうな家族の間に、超える事の出来ない一線が存在している。
家族だからこそ、決して言えない事があり、見せたくない自分がいるのは当然だが、この家族は結びつきたい気持ち、離れたい気持ちのバランスが少し崩れ、それぞれが個を守るためにバリアーを張った様な状態になっている。
それが食事の準備、一家団欒の食卓、墓参の道筋といった日常の一瞬に少しずつ見えてくるのだが、それは離れ離れに暮らしている彼らが、直に触れ合う事で始めてわかってくる事なのだ。
樹木希林が抜群に良い。
長男の事故死の原因となった男に対する、秘められた恨みを告白するシーンと、迷い込んできた蝶に長男の魂を見るシーンは本編の白眉だろう。
「誰も知らない」では育児放棄する母親を演じていたYOUや、いかにもいそうな頑固オヤジの原田芳雄、姑に気兼ねする嫁を繊細に演じた夏川結衣も好演していたと思う。
語り部の役回りである主人公の横山良多を演じた阿部寛は、決して悪くないが少しキャラが濃すぎたかもしれない。
なんとなくCMのハイムさんを思い出してしまった。
「歩いても 歩いても」は、是枝裕和一流の人間観察と、綿密な脚本作りが結びついた秀作だ。
一家にとっての特別な一日が過ぎたとき、見た目には何も変わっていないし、実際何も起こっていない。
しかし、ほんのわずかながら、それぞれが心に秘めたものを少しずつ感じ取った彼らは、前日よりも少しだけお互いのことを知り、思いやる事が出来るのである。
まるで他人の家の一日を覗き見たような感覚にもなる作品だが、最終的に伝わってくるのは、触れ合う事、語り合うことの大切さと、人間の絆だ。
人は、決して一人では生きられない。
人生には悲しい事も、うれしい事も、やるせない事もあるけど、それでも人間は誰かと共に生きてゆかなければならない。
そんな事を感じさせてくれるこの作品は、少しばかり残酷で、そして優しいのである。
今回は是枝監督のデビュー作、「幻の光」の舞台となった輪島の地酒「千枚田」をチョイス。
輪島市内にある清水酒造という小さな酒蔵の作品だが、喉ごしすっきりしていて、それでいて十分なコクがあり、純米酒らしい香りも楽しめる。
この季節は冷にして飲むのがお勧めだ。
決して大げさではないが、丹念にしっかりと作られた、まさに是枝作品の様なお酒である。
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心に傷を負った一人の女性が、ゆったりとした能登の田舎での生活の中、徐々に癒されてゆく過程を描いた「幻の光」に対して、こちらはとある一家の再会の一日を通して、彼らの心が互いに対してほんの少しだけ優しくなる様を描いた、ある種の群像劇と言える。
シチュエーションは対照的ながら、日常を生きる人々の心の機微をカメラで優しくすくい取り、物語を「描く」というよりは静かに「観察」するようなスタンスは変わらない。
ある年の夏、三浦海岸。
失業中の横山良多(阿部寛)は、妻のゆかり(夏川結衣)と妻の連れ子のあつしを連れて実家を訪れた。
開業医だった父(原田芳雄)とは昔から何かにつけて衝突してきた経緯もあり、母(樹木希林)も子連れのゆかりとの結婚を内心良く思っていない事がわかっていたので、気の進まない帰郷だ。
姉のちなみ(YOU)の一家も既に来ていて、母と共に楽しそうに御馳走の用意をしていた。
互いに近況が気になりながらも、なかなか心を割って向かい合えない頑固な父と良多。
この久々の団欒は、実は若くして逝った一家の長男の命日なのだった・・・
「幻の光」には、こんな長廻しのカットがある。
主人公が、輪島の朝市で買い物中、店のおばちゃんと会話していると、彼女のいる場所に徐々に太陽が射し込んでくる。
曇り空で撮影をしていたのに、途中で晴れ間が出てしまったという、明らかなNGのカットであり、劇映画を見慣れている目には違和感がある。
おそらく最初からフィクションで育った映画作家なら、そのままボツにしたカットだと思う。
ところが是枝監督は、この太陽の光を、能登の暮らしによって癒され、心の雲を取り払いつつある主人公の心象表現として、そのまま使っているのである。
俳優にも無理に演技をつけようとしていない。
二人の子役はもちろん、素人同然だった江角マキコにも、シチュエーションの中で自然に動いてもらい、それを一歩引いた視点で観察するようなスタンスは、ドキュメンタリー出身者を強く感じさせる作りだったが、同時にその冷静かつ確かな人間観察眼には舌を巻かされた。
初の時代劇となった一昨年の「花よりもなほ」では、さすがにフィクションの造りこみの度合いが違ったが、基本的に彼の作品に共通するのは、人間への深い興味と理解だ。
三浦海岸近くの、嘗て開業医を営んでいた一軒の家。
この家に暮らす老夫婦の元へ、独立した子供たちがそれぞれの家族を連れて集まってくる。
ごくごく平凡な日常の風景だが、やがて彼らは15年前に死んだ一家の長男を弔うために集まったという事がわかってくるのだ。
物語的には恐ろしくシンプルで、特にドラマチックな盛り上げというのは考慮されていない。
それどころか物語の設定や、登場人物たちの関係などを説明する描写すら殆ど存在しない。
あくまでも日常のさりげない会話や描写を通して、自然に観客に状況を認識させる。
その代わりに、登場人物たちは徹底的に造形されており、性格から趣味嗜好、互いをどう思っているのか、なぜそう思うようになったのかが物語の中で示唆され、彼らのたどってきた長い人生をリアルに実感させる。
無数の人間がひしめく社会の中で、本来一番近くて一わかり合っているはずのミニマムな集団、「家族」
しかしこの映画の登場人物は、強く結びつきつつも、同時に見えない壁によって隔てられている様に見える。
そりの合わない良多と父の間はわかり易いが、ゆかりと母との間、ちなみ家族と父母の間、一見すると何の問題もなさそうな家族の間に、超える事の出来ない一線が存在している。
家族だからこそ、決して言えない事があり、見せたくない自分がいるのは当然だが、この家族は結びつきたい気持ち、離れたい気持ちのバランスが少し崩れ、それぞれが個を守るためにバリアーを張った様な状態になっている。
それが食事の準備、一家団欒の食卓、墓参の道筋といった日常の一瞬に少しずつ見えてくるのだが、それは離れ離れに暮らしている彼らが、直に触れ合う事で始めてわかってくる事なのだ。
樹木希林が抜群に良い。
長男の事故死の原因となった男に対する、秘められた恨みを告白するシーンと、迷い込んできた蝶に長男の魂を見るシーンは本編の白眉だろう。
「誰も知らない」では育児放棄する母親を演じていたYOUや、いかにもいそうな頑固オヤジの原田芳雄、姑に気兼ねする嫁を繊細に演じた夏川結衣も好演していたと思う。
語り部の役回りである主人公の横山良多を演じた阿部寛は、決して悪くないが少しキャラが濃すぎたかもしれない。
なんとなくCMのハイムさんを思い出してしまった。
「歩いても 歩いても」は、是枝裕和一流の人間観察と、綿密な脚本作りが結びついた秀作だ。
一家にとっての特別な一日が過ぎたとき、見た目には何も変わっていないし、実際何も起こっていない。
しかし、ほんのわずかながら、それぞれが心に秘めたものを少しずつ感じ取った彼らは、前日よりも少しだけお互いのことを知り、思いやる事が出来るのである。
まるで他人の家の一日を覗き見たような感覚にもなる作品だが、最終的に伝わってくるのは、触れ合う事、語り合うことの大切さと、人間の絆だ。
人は、決して一人では生きられない。
人生には悲しい事も、うれしい事も、やるせない事もあるけど、それでも人間は誰かと共に生きてゆかなければならない。
そんな事を感じさせてくれるこの作品は、少しばかり残酷で、そして優しいのである。
今回は是枝監督のデビュー作、「幻の光」の舞台となった輪島の地酒「千枚田」をチョイス。
輪島市内にある清水酒造という小さな酒蔵の作品だが、喉ごしすっきりしていて、それでいて十分なコクがあり、純米酒らしい香りも楽しめる。
この季節は冷にして飲むのがお勧めだ。
決して大げさではないが、丹念にしっかりと作られた、まさに是枝作品の様なお酒である。

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2008年07月20日 (日) | 編集 |
「芸術は爆発だ!」と言ったのは岡本太郎だったが、「崖の上のポニョ」は正しく宮崎駿のイマジネーションの爆発だ。
物語そのものは、よく知られているアンデルセンの「人魚姫」をベースに、アレンジを加えた物だが、なによりも最初から最後まで文字通り津波のごとく押し寄せる、アニメーションの洪水に圧倒される。
岬の崖の上の家に暮らす5歳の宗介(土井洋輝)は、ある日海岸で瓶に詰まってしまった赤い魚を見つける。
ポニョ(奈良柚莉愛)と名づけられたその魚は、不思議な魔法を持っており、宗介とポニョはお互いを好きになる。
実はポニョは、元人間の海底人フジモト(所ジョージ)と母なる海グランマンマーレ(天海祐希)の子供で、フジモトは隙を見てポニョを海に連れ戻してしまう。
宗介に会いたいポニョは、たくさんの妹たちの助けを借りて逃げ出し、魔法で人間の女の子にばけて嵐と共に地上に戻るのだが・・・・
「となりのトトロ」以来、二十年ぶりのキッズアニメという事で、宮崎駿の原点回帰と見る向きもあるようだが、事はそう単純ではない。
確かにシンプルなストーリーライン、動きと色彩の楽しさが詰まった表現、ここしばらくの作品よりも格段に年少の主人公など、「子供向け」を示唆する要素には事欠かない。
しかし、一見肩の力を抜いた小品にも見えるこの作品の、破壊的なエネルギーはどうだ!
宮崎駿は一時間四十分の間、まるで何かに取り憑かれたかの様に、ひたすらカリカチュアし、描き、ブレーキを失った動輪の様に、画を動かし続ける。
その表現の強さは明らかに物語の枠組みを破壊し、そこに配された多くの思わせぶりな設定には殆ど何の解決も示されないまま、映像の津波に押し流される。
いわば軽自動車の車体に800馬力のF1エンジンを載せた様な、パワフルではあるものの、恐ろしくアンバランスなこの作品には、「となりのトトロ」に見られた心地よい調和は無い。
いや、正確に言えば「トトロ」で見られたコンパクトに纏まろうとする牧歌的御伽噺の楽しさと、「ハウルの動く城」の様な拡散する物語の破綻が、モザイクのように合体しているのである。
その意味で、この作品は原点回帰どころか、2008年の宮崎駿にしか作れない作品であると言えると思う。
私は、アニメーションの持つ「止まった画を動かす」という魔法の力を再発見でもしたかのように、夢中になって映像を疾走させる宮崎駿のパワーに圧倒されてしまった。
物語はある程度しっかり考えた形跡はあるものの、描いている内にどうでも良くなってしまったのか、設定だけされて途中から忘れ去られている部分が多くある。
これは、プロットからきっちりとした脚本を経ずに、いきなり画コンテを書き始めるという宮崎スタイルの明らかな弊害だと思うが、それでも意図した事はある程度読み取れる。
最初わりとゆったりとスタートする物語は、宗介に会いたいというポニョの一途な思いと共に怒涛の疾走をはじめ、それはやがて宗介とポニョの二人による、母リサを捜す冒険の旅へと姿を変える。
共にその基本になっているのは、大切な誰かと会いたい、守ってあげたいという素朴な心だ。
互いを思う子供たちの心が生んだ冒険は、レイモンド・ブリックスの絵本を思わせるパステル風の背景の中に、恐ろしく緻密かつ大胆に描きこまれた動画として表現され、それはまるで、宗介とポニョの生命力がそのままフィルムに焼き付けられたかのような、清々しいエネルギーをスクリーンから発散させる。
そういえば、この冒険のシークエンスには、未来への希望を表現したユージン・スミスの有名な写真「楽園への歩み」からインスパイアされたと思しき印象的なカットもあった。
一方で、宗介の通う保育園の隣には、介護施設があり、そこには人生の終わりに差し掛かった車椅子の老婆たちが暮らしている。
物語の終盤で、彼女らが宗介たちの試練の立会人となる、海底の不思議な泡の中は、生命が再生される母なる海の竜宮城、常世の世界のイメージなのかもしれない。
またポニョの魔法で大きくなったおもちゃのポンポン船で、リサを探す航海の途中、宗介とポニョが出会うのは、彼らの近い未来の姿かもしれない、赤ん坊を抱いた若い夫婦。
魔法の力で人間になったポニョは、この時の母親とのやりとりで初めて地上の命の仕組みを知るのである。
このシーンは、物語上明らかに異質で、他の部分とのつながりも無く、おそらく明確な意図をもってここに配されているのだと思われる。
生命にあふれ、未来に突き進む宗介とポニョ、それに対して物語の背景にさりげなく配された、生と死が循環するライフサイクルのイメージは、年少の観客には読み取りにくいだろうが、この作品に深みを与えている。
宗介役の土井洋輝と、ポニョ役の奈良柚莉愛の二人の子役の芸達者振りに驚かされるが、総じてキャラクターの声のマッチングはまずまずだった。
声に本職の声優ではなくて、実写の俳優を当てるやり方には賛否があると思うが、少なくとも主要人物の声から露骨に俳優の顔が浮かんでしまった「ハウル」よりは好感が持てる仕上がりだ。
特に、なぜか3ナンバーの軽自動車で峠を爆走する、走り屋(笑)の肝っ玉母さんを演じた山口智子は爽快で良かった。
でも、サンドイッチを食べながら、片手運転で攻めるのは、危ないのでやめましょう(笑
「崖の上のポニョ」は、今年67歳の宮崎駿が、彼の中の生命力を宗介とポニョに託してスクリーンで炸裂させたイマジネーションの爆弾であり、2008年時点での集大成と言える。
この中には「ラピュタ」で描かれた異世界のビジュアルの楽しさがあり、「トトロ」の童心、「もののけ姫」の疾走感、「千と千尋」の神秘性、そして「ハウル」の破綻までもが取り込まれている。
シンプルな物語と、ワクワクする世界観、美しくアニメーションの楽しさにあふれた映像は文句なしに楽しめるが、巨匠宮崎駿に高い完成度や思慮深く落ち着いたメッセージを期待した人には、少々エキセントリック過ぎるかも知れない。
今回は、母なる海の様な美しいカクテル、「ブルーシャンパン」をチョイス。
シャンパングラスに青の素となるブルーキュラソーを1tsp落し、そこにシャンパンを注ぐ。
カットフルーツをグラスの縁に飾って完成だ。
ブルーキュラソーのオレンジの風味が爽やか。
短めな割りに、結構お腹いっぱいになる宮崎映画の後は、すっきりしたシャンパンで喉を潤したい。
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物語そのものは、よく知られているアンデルセンの「人魚姫」をベースに、アレンジを加えた物だが、なによりも最初から最後まで文字通り津波のごとく押し寄せる、アニメーションの洪水に圧倒される。
岬の崖の上の家に暮らす5歳の宗介(土井洋輝)は、ある日海岸で瓶に詰まってしまった赤い魚を見つける。
ポニョ(奈良柚莉愛)と名づけられたその魚は、不思議な魔法を持っており、宗介とポニョはお互いを好きになる。
実はポニョは、元人間の海底人フジモト(所ジョージ)と母なる海グランマンマーレ(天海祐希)の子供で、フジモトは隙を見てポニョを海に連れ戻してしまう。
宗介に会いたいポニョは、たくさんの妹たちの助けを借りて逃げ出し、魔法で人間の女の子にばけて嵐と共に地上に戻るのだが・・・・
「となりのトトロ」以来、二十年ぶりのキッズアニメという事で、宮崎駿の原点回帰と見る向きもあるようだが、事はそう単純ではない。
確かにシンプルなストーリーライン、動きと色彩の楽しさが詰まった表現、ここしばらくの作品よりも格段に年少の主人公など、「子供向け」を示唆する要素には事欠かない。
しかし、一見肩の力を抜いた小品にも見えるこの作品の、破壊的なエネルギーはどうだ!
宮崎駿は一時間四十分の間、まるで何かに取り憑かれたかの様に、ひたすらカリカチュアし、描き、ブレーキを失った動輪の様に、画を動かし続ける。
その表現の強さは明らかに物語の枠組みを破壊し、そこに配された多くの思わせぶりな設定には殆ど何の解決も示されないまま、映像の津波に押し流される。
いわば軽自動車の車体に800馬力のF1エンジンを載せた様な、パワフルではあるものの、恐ろしくアンバランスなこの作品には、「となりのトトロ」に見られた心地よい調和は無い。
いや、正確に言えば「トトロ」で見られたコンパクトに纏まろうとする牧歌的御伽噺の楽しさと、「ハウルの動く城」の様な拡散する物語の破綻が、モザイクのように合体しているのである。
その意味で、この作品は原点回帰どころか、2008年の宮崎駿にしか作れない作品であると言えると思う。
私は、アニメーションの持つ「止まった画を動かす」という魔法の力を再発見でもしたかのように、夢中になって映像を疾走させる宮崎駿のパワーに圧倒されてしまった。
物語はある程度しっかり考えた形跡はあるものの、描いている内にどうでも良くなってしまったのか、設定だけされて途中から忘れ去られている部分が多くある。
これは、プロットからきっちりとした脚本を経ずに、いきなり画コンテを書き始めるという宮崎スタイルの明らかな弊害だと思うが、それでも意図した事はある程度読み取れる。
最初わりとゆったりとスタートする物語は、宗介に会いたいというポニョの一途な思いと共に怒涛の疾走をはじめ、それはやがて宗介とポニョの二人による、母リサを捜す冒険の旅へと姿を変える。
共にその基本になっているのは、大切な誰かと会いたい、守ってあげたいという素朴な心だ。
互いを思う子供たちの心が生んだ冒険は、レイモンド・ブリックスの絵本を思わせるパステル風の背景の中に、恐ろしく緻密かつ大胆に描きこまれた動画として表現され、それはまるで、宗介とポニョの生命力がそのままフィルムに焼き付けられたかのような、清々しいエネルギーをスクリーンから発散させる。
そういえば、この冒険のシークエンスには、未来への希望を表現したユージン・スミスの有名な写真「楽園への歩み」からインスパイアされたと思しき印象的なカットもあった。
一方で、宗介の通う保育園の隣には、介護施設があり、そこには人生の終わりに差し掛かった車椅子の老婆たちが暮らしている。
物語の終盤で、彼女らが宗介たちの試練の立会人となる、海底の不思議な泡の中は、生命が再生される母なる海の竜宮城、常世の世界のイメージなのかもしれない。
またポニョの魔法で大きくなったおもちゃのポンポン船で、リサを探す航海の途中、宗介とポニョが出会うのは、彼らの近い未来の姿かもしれない、赤ん坊を抱いた若い夫婦。
魔法の力で人間になったポニョは、この時の母親とのやりとりで初めて地上の命の仕組みを知るのである。
このシーンは、物語上明らかに異質で、他の部分とのつながりも無く、おそらく明確な意図をもってここに配されているのだと思われる。
生命にあふれ、未来に突き進む宗介とポニョ、それに対して物語の背景にさりげなく配された、生と死が循環するライフサイクルのイメージは、年少の観客には読み取りにくいだろうが、この作品に深みを与えている。
宗介役の土井洋輝と、ポニョ役の奈良柚莉愛の二人の子役の芸達者振りに驚かされるが、総じてキャラクターの声のマッチングはまずまずだった。
声に本職の声優ではなくて、実写の俳優を当てるやり方には賛否があると思うが、少なくとも主要人物の声から露骨に俳優の顔が浮かんでしまった「ハウル」よりは好感が持てる仕上がりだ。
特に、なぜか3ナンバーの軽自動車で峠を爆走する、走り屋(笑)の肝っ玉母さんを演じた山口智子は爽快で良かった。
でも、サンドイッチを食べながら、片手運転で攻めるのは、危ないのでやめましょう(笑
「崖の上のポニョ」は、今年67歳の宮崎駿が、彼の中の生命力を宗介とポニョに託してスクリーンで炸裂させたイマジネーションの爆弾であり、2008年時点での集大成と言える。
この中には「ラピュタ」で描かれた異世界のビジュアルの楽しさがあり、「トトロ」の童心、「もののけ姫」の疾走感、「千と千尋」の神秘性、そして「ハウル」の破綻までもが取り込まれている。
シンプルな物語と、ワクワクする世界観、美しくアニメーションの楽しさにあふれた映像は文句なしに楽しめるが、巨匠宮崎駿に高い完成度や思慮深く落ち着いたメッセージを期待した人には、少々エキセントリック過ぎるかも知れない。
今回は、母なる海の様な美しいカクテル、「ブルーシャンパン」をチョイス。
シャンパングラスに青の素となるブルーキュラソーを1tsp落し、そこにシャンパンを注ぐ。
カットフルーツをグラスの縁に飾って完成だ。
ブルーキュラソーのオレンジの風味が爽やか。
短めな割りに、結構お腹いっぱいになる宮崎映画の後は、すっきりしたシャンパンで喉を潤したい。

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2008年07月17日 (木) | 編集 |
言わずと知れた野坂昭如の同名小説にして、高畑勲監督による日本アニメ映画史上屈指の傑作、「火垂るの墓」の実写リメイク。
毎年の様に夏になるとテレビ放映され、日本人のほとんど誰もが知っている作品のリメイクは、ある意味で黒澤映画のリメイクよりも難しい。
しかも今回の実写化は、元々故・黒木和雄監督の企画として進んでいたのが、監督の急死によって親子ほど歳の違う日向寺太郎監督に引き継がれたという経緯がある。
図らずも、だろうが、日向寺監督としては、高畑勲と黒木和雄という日本を代表する二人の巨匠に勝負を挑むような格好になってしまった。
昭和20年、神戸。
空襲で母を失い、住む家も無くなった14歳の清太と4歳の妹・節子は、西宮に住む親戚の家へと向かった。
戦争未亡人である西宮のおばは、最初二人を追い出そうとしたが、食料を持っている事を知って、いやいやながら部屋を貸す事にする。
おばの二人に対する態度はひどいもので、最初は我慢していた清太も、次第に反発を強め、ついには節子と二人で出て行く事にするのだが・・・
物語の骨子はアニメ版と同じだが、フォーカスを当てた部分は少し違う。
高畑勲は、戦争によって孤児となった清太と節子を徹底的にフィーチャーし、社会から忘れられ、人知れず死んでいった彼らの幽霊によって(80年代の)現代日本を俯瞰させる事で、40年というスパンで戦争と戦後日本そのものを一つの寓話の中に描き出した。
対して今回の実写版は、二人の周りにそれぞれ比喩的な役割を持った大人たちを配し、彼らと対比する事で、清太の行動の意味を見出そうとしている様だ。
戦前、幸せだった彼らの過去を象徴するのが、回想シーンに登場する父母の姿である。
そして孤児となった現在において、清太がそのイメージを擬似的に投影するのが、父と同じく剣道を嗜み、戦時下にあっても優しさと幸せを感じさせる西宮の校長先生一家。
これは清太にとって、自分が本来あるべき姿と言えるだろう。
彼と対照的なのが、清太と同じ喘息を煩う兵役不適格者で、刹那的な生き方をする男、高山である。
彼はいわば、清太が決して認めたくない未来の自分である。
もう一人は、アニメ版でも印象的だった、兄妹を追い込んでゆく西宮のおばさんだ。
彼女の役割は、偽りの善意で清太の幸せを破壊し、搾取してゆく時代そのものと言ったところだ。
最初はおばさんや高山に反発しつつも、なんとか時代の中で生きようとする清太だが、校長先生一家は思わぬ悲劇によって自滅し、高山も社会によって排除される。
結局、追い詰められた清太がとった行動は、よく知られている通りだ。
大人たちとの関係から、兄妹の悲劇の意味を問うという凝った作劇だが、一方で描かなければならない事を増やしてしまい、結果的にドラマの印象がかなり薄味になってしまっている感は否めない。
安直な泣かせに走らず、しっかりとドラマを構成しようとする意図は間違っていないと思うが、反面で泣かせるほどに描ききれていないという事も言えてしまう。
断片化されたエピソードが多く、特に後半兄妹がおばの家を飛び出して、廃棄された防空壕で暮らし始めてからは、何かダイジェストを観ている様で、彼らが確実に死に向かってゆく切実さをあまり感じない。
節子も、気づいたら死んでいたという感じだ。
銃撃で人が死ぬシーンでも、撃たれる瞬間は見せないなど、全体に観念的に描こうという意図を感じるが、下痢に苦しみやせ細ってゆく節子の姿、それを見て恐れ戸惑う清太の表情などは、きっちり描かなければ伝わらなかったのではないだろうか。
アニメ版とは別のアプローチをしようという意欲は買えるものの、正直なところ、突き抜けることは出来なかった様だ。
もっとも、この作劇のアプローチによって、アニメ版よりも明確に描き出された事も確かにある。
清太は、おばさんからの独立によって、精一杯時代に抵抗しているように見えるが、結局のところ彼の行動も、無謀な理想を掲げ、戦争に突き進んだ当時の日本社会そのものと変わらない。
食糧難の時代に、下級兵士の戦争未亡人であるおばさんの生活が大変なのは事実だろうし、子供の世話を遠縁の親戚に頼まれたなら、そのために預かった資産を処分するのはある意味当然だろう。
おばさんを泥棒呼ばわりし、節子を道連れに、どう見ても破綻する道を突き進む清太の行動は、彼の現実を見ようとしないエゴイズムに過ぎないのである。
人間は、現実と理想との葛藤で生きている動物であり、認めたくない真実に出会ってしまったとき、理屈では分かっていても、しばしば無謀な理想に向けて突き進んでしまう。
節子を殺したのは清太である、というアニメ版でも物語の裏に仕込まれていた事実を、この実写版はより明確にする。
映画のラストはアニメ版とは異なる。
無数の節子の屍の上に、生き延びてきた戦後日本。
それは、ラストの清太の姿によって象徴されている様に思う。
だからこそ、この物語はわれわれの原罪意識を揺さぶり、とても悲しいのだ。
今回は舞台となった灘から、鎮魂の酒を。
江戸時代からの歴史を持つ木谷酒造の「純米酒 喜一」をチョイス。
日本酒度はそれほど高くなく、切れよりも純米酒らしいコクを重視したお酒である。
因みに戦後長い間、日本酒の評価を貶めてきた所謂アル添三倍酒も、元はと言えば戦時中の食糧不足がルーツになっている。
戦争という物は、あらゆるものを貧しくしてしまうという典型的な例である。
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毎年の様に夏になるとテレビ放映され、日本人のほとんど誰もが知っている作品のリメイクは、ある意味で黒澤映画のリメイクよりも難しい。
しかも今回の実写化は、元々故・黒木和雄監督の企画として進んでいたのが、監督の急死によって親子ほど歳の違う日向寺太郎監督に引き継がれたという経緯がある。
図らずも、だろうが、日向寺監督としては、高畑勲と黒木和雄という日本を代表する二人の巨匠に勝負を挑むような格好になってしまった。
昭和20年、神戸。
空襲で母を失い、住む家も無くなった14歳の清太と4歳の妹・節子は、西宮に住む親戚の家へと向かった。
戦争未亡人である西宮のおばは、最初二人を追い出そうとしたが、食料を持っている事を知って、いやいやながら部屋を貸す事にする。
おばの二人に対する態度はひどいもので、最初は我慢していた清太も、次第に反発を強め、ついには節子と二人で出て行く事にするのだが・・・
物語の骨子はアニメ版と同じだが、フォーカスを当てた部分は少し違う。
高畑勲は、戦争によって孤児となった清太と節子を徹底的にフィーチャーし、社会から忘れられ、人知れず死んでいった彼らの幽霊によって(80年代の)現代日本を俯瞰させる事で、40年というスパンで戦争と戦後日本そのものを一つの寓話の中に描き出した。
対して今回の実写版は、二人の周りにそれぞれ比喩的な役割を持った大人たちを配し、彼らと対比する事で、清太の行動の意味を見出そうとしている様だ。
戦前、幸せだった彼らの過去を象徴するのが、回想シーンに登場する父母の姿である。
そして孤児となった現在において、清太がそのイメージを擬似的に投影するのが、父と同じく剣道を嗜み、戦時下にあっても優しさと幸せを感じさせる西宮の校長先生一家。
これは清太にとって、自分が本来あるべき姿と言えるだろう。
彼と対照的なのが、清太と同じ喘息を煩う兵役不適格者で、刹那的な生き方をする男、高山である。
彼はいわば、清太が決して認めたくない未来の自分である。
もう一人は、アニメ版でも印象的だった、兄妹を追い込んでゆく西宮のおばさんだ。
彼女の役割は、偽りの善意で清太の幸せを破壊し、搾取してゆく時代そのものと言ったところだ。
最初はおばさんや高山に反発しつつも、なんとか時代の中で生きようとする清太だが、校長先生一家は思わぬ悲劇によって自滅し、高山も社会によって排除される。
結局、追い詰められた清太がとった行動は、よく知られている通りだ。
大人たちとの関係から、兄妹の悲劇の意味を問うという凝った作劇だが、一方で描かなければならない事を増やしてしまい、結果的にドラマの印象がかなり薄味になってしまっている感は否めない。
安直な泣かせに走らず、しっかりとドラマを構成しようとする意図は間違っていないと思うが、反面で泣かせるほどに描ききれていないという事も言えてしまう。
断片化されたエピソードが多く、特に後半兄妹がおばの家を飛び出して、廃棄された防空壕で暮らし始めてからは、何かダイジェストを観ている様で、彼らが確実に死に向かってゆく切実さをあまり感じない。
節子も、気づいたら死んでいたという感じだ。
銃撃で人が死ぬシーンでも、撃たれる瞬間は見せないなど、全体に観念的に描こうという意図を感じるが、下痢に苦しみやせ細ってゆく節子の姿、それを見て恐れ戸惑う清太の表情などは、きっちり描かなければ伝わらなかったのではないだろうか。
アニメ版とは別のアプローチをしようという意欲は買えるものの、正直なところ、突き抜けることは出来なかった様だ。
もっとも、この作劇のアプローチによって、アニメ版よりも明確に描き出された事も確かにある。
清太は、おばさんからの独立によって、精一杯時代に抵抗しているように見えるが、結局のところ彼の行動も、無謀な理想を掲げ、戦争に突き進んだ当時の日本社会そのものと変わらない。
食糧難の時代に、下級兵士の戦争未亡人であるおばさんの生活が大変なのは事実だろうし、子供の世話を遠縁の親戚に頼まれたなら、そのために預かった資産を処分するのはある意味当然だろう。
おばさんを泥棒呼ばわりし、節子を道連れに、どう見ても破綻する道を突き進む清太の行動は、彼の現実を見ようとしないエゴイズムに過ぎないのである。
人間は、現実と理想との葛藤で生きている動物であり、認めたくない真実に出会ってしまったとき、理屈では分かっていても、しばしば無謀な理想に向けて突き進んでしまう。
節子を殺したのは清太である、というアニメ版でも物語の裏に仕込まれていた事実を、この実写版はより明確にする。
映画のラストはアニメ版とは異なる。
無数の節子の屍の上に、生き延びてきた戦後日本。
それは、ラストの清太の姿によって象徴されている様に思う。
だからこそ、この物語はわれわれの原罪意識を揺さぶり、とても悲しいのだ。
今回は舞台となった灘から、鎮魂の酒を。
江戸時代からの歴史を持つ木谷酒造の「純米酒 喜一」をチョイス。
日本酒度はそれほど高くなく、切れよりも純米酒らしいコクを重視したお酒である。
因みに戦後長い間、日本酒の評価を貶めてきた所謂アル添三倍酒も、元はと言えば戦時中の食糧不足がルーツになっている。
戦争という物は、あらゆるものを貧しくしてしまうという典型的な例である。

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2008年07月14日 (月) | 編集 |
今年は、タツノコプロのアニメ「マッハGoGoGo」が放送されて41年目にあたる。
このアニメにリアルタイムで胸躍らせたのは、多分私よりも少し上の世代ではないかと思うが、私も幼少の頃に再放送をそれなりにワクワクしながら観た記憶がある。
しかし現在の日本では、古いアニメの再放送がなかなか行われず、少なくとも若者の間では、ほぼ忘れ去られている作品だと思う。
一方で、これは日本アニメ史上、アメリカで最も成功した作品の一つである。
「スピード・レーサー」のタイトルで知られる英語版は、数十年の間繰り返し放送され、世代を超えて愛されてきた。
このタイトルを知らないアメリカ人は、まずいないと言っても良い。
もちろんウォシャウスキー兄弟も、子供の頃にアニメ板を夢中になって観た世代。
彼らによる今回の実写作品は、オリジナルのアニメ版とその時代への愛が満ち溢れ、良くも悪くもかなりの異色作となった。
スピード・レーサー(エミール・ハーシュ)は、レーシングカーデザイナーであるパパ・レーサー(ジョン・グッドマン)の一家に生まれた生粋のレーシングドライバー。
彼は、レース中に事故死した兄レックスの遺志をついで、チャンピオンを目指すが、あるときレース界を牛耳るローヤルトン工業のオーナー(ロジャー・アラム)からのスポンサーオファーを断った事から、卑劣な妨害工作を受ける。
冷酷な企業家たちがレースの結果をコントロールしているという実態を知ったスピードは、
不正を暴こうとする謎の男、レーサーX(マシュー・フォックス)と共に、八百長の証拠を握るテジョ・トゴーカーン(ピ)のチームで、過酷なラリーに挑むのだが・・・
これほど長所と短所が、わかりやすく見てとれる作品も少ないだろう。
ウォシャウスキー兄弟は、アニメ版が生まれた60年代末と、彼らが実際に作品に触れたのであろう70年代という時代性を、まさに「サイケデリック」としか言い様の無い強烈な色彩の中に再現しようとしている。
ある程度の年齢の人なら覚えているだろうが、この原色のネオンをスクリーン一杯にぶちまけたようなチカチカした映像は、70年代に一斉を風靡した映像作家、ロバート・エイブルの一連のCM作品そのものだ。
エイブルは、現在のCG全盛時代の基礎を作ったデジタル映像のパイオニアの一人であるが、ウォシャウスキー兄弟は「スピード・レーサー」のリメイクを通して、この偉大な映像作家と、彼が作り出した映像の時代に対しても深い敬意を表しているように見える。
まるで光と色だけで構成された様な世界観にしても、映像のコラージュのように展開して行く編集のスタイルにしても、これはウォシャウスキー兄弟によるエイブルの再解釈と言っても過言ではない。
もちろん彼らは、タツノコのアニメ版に対しても、深い愛情をもってデジタル世界での再構築に挑戦している。
内容的にも、驚くほどオリジナルに忠実であり、ファン納得のキャラクター造形はもちろん、アニメとほぼ同じレトロなデザインながら、ディテールを現代化することで説得力をもたせたマッハ号のデザイン、アニメ版のお約束描写の再現など、作者がいかにオリジナルを愛しているかは良く伝わってくる。
エンドクレジットの冒頭で、アメリカ版ではない、日本語版の主題歌をかけるあたり、タツノコの作り手への深いリスペクトを感じさせて、オリジナルをリアルタイムで観ているオールドファンなら、胸が熱くなるのではないだろうか。
もっとも、この作品の場合、長所と同じくらい短所も目立つのが残念。
脚本は練り込み不足が目立ち、135分もある上映時間は長すぎて中ダレしてしまう。
ファンの方には申し訳ないが、真田広之の出演シーンは全部カットしても全く問題無いし、コミックリリーフであるスプライトルとチムチムのギャグも少々しつこい。
何よりも、最初から最後まで同じ葛藤が繰り返されているだけなので、ドラマ的な起伏に乏しのだ。
もう少し物語を整理して、2時間以内に収めた方がスムーズになっただろうし、リズム感も出て観やすかっただろう。
また、肝心のレースシーンも、カットが細かすぎ、編集が懲りすぎているために、何が起こっているか、誰と誰が競っているのか良くわからない。
これでは、観ている人間が置いていかれてしまい、スリルを感じることが出来ない。
車自体が猛スピードで疾走しているのだから、演出はもう少し落ち着いて、しっかりと見せても良かったのではないか。
ただ、いくつかの海外批評サイトなどで、過剰にCGを意識させる映像がスリルを削いでいるという意見を見たが、それはちょっと違うと思う。
何しろオリジナルはセルアニメである。
人間は、文字通りの絵空事にすらスリルも興奮も感じることが出来るのであり、CGっぽいからスリルを感じないという事はあり得ない。
実写版「スピード・レーサー」の問題は、CGを意識させるか否かの画の問題ではなく、純粋にレースの見せ方、つまりは演出の問題である。
本作で、ウォシャウスキー兄弟が手本としたロバート・エイブルの演出スタイルは、ワクワクする華やかさはあるものの、手に汗握るスリルを演出するには向いていない。
色彩や質感などの画作りの基本的なセンスは、この作品を特長付ける強力なアクセントとなっているが、エキサイティングなレースムービーには映像のコラージュ的な美しさだけではなく、レースそのものをスリリングに見せる演出が必要であり、そのあたりを作者が掴めていなかったのが問題の根本だろう。
実写版「スピード・レーサー」は、「マトリックス」で、デジタルアクションの新しい扉を開けたウォシャウスキー兄弟が、彼らの映画的記憶の源流とも言うべき「マッハGoGoGo」とロバート・エイブルという二つの歴史的な存在へ大いなるオマージュを捧げた作品であり、幾つかの明確な問題点を抱えてはいるが、決してつまらない作品ではない。
物語そのものはベタベタではあるもののわかりやすく、キャラクターの感情表現までもあえてアニメ的に作られた世界観は、家族連れが安心して楽しめるだろう。
70年代のデジタル黎明期のビジュアルイメージを、最新の3DCGで再現したレトロモダンでサイケな映像は21世紀の現在においては逆に新鮮だ。
どうすればもっと良くなるのかが明らかなだけに、少々勿体無い感は否めないが、これはやはり劇場で楽しむべき作品だろう。
もっとも、「マトリックス・リローデッド」以来大味な感が付きまとうウォシャウスキー兄弟には、「バウンド」の頃の様なコンパクトでありながら濃密な物語の面白さを思い出して欲しいところだけど。
今回はタツノコプロの創設者である吉田兄弟にちなんで、出身地の京都のお酒。
月の桂の銘柄で知られる増田徳兵衛商店から、純米大吟醸の三年貯蔵古酒「藝」をチョイス。
古酒らしい琥珀色が美しい大吟醸は、濃厚なコクと旨みが楽しめ、名前の通りの芸術品である。
映画はここまでの完成度は無いが、古典的な作品をこれほど大胆な映像で再生するというチャレンジ精神は高く評価したい。
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このアニメにリアルタイムで胸躍らせたのは、多分私よりも少し上の世代ではないかと思うが、私も幼少の頃に再放送をそれなりにワクワクしながら観た記憶がある。
しかし現在の日本では、古いアニメの再放送がなかなか行われず、少なくとも若者の間では、ほぼ忘れ去られている作品だと思う。
一方で、これは日本アニメ史上、アメリカで最も成功した作品の一つである。
「スピード・レーサー」のタイトルで知られる英語版は、数十年の間繰り返し放送され、世代を超えて愛されてきた。
このタイトルを知らないアメリカ人は、まずいないと言っても良い。
もちろんウォシャウスキー兄弟も、子供の頃にアニメ板を夢中になって観た世代。
彼らによる今回の実写作品は、オリジナルのアニメ版とその時代への愛が満ち溢れ、良くも悪くもかなりの異色作となった。
スピード・レーサー(エミール・ハーシュ)は、レーシングカーデザイナーであるパパ・レーサー(ジョン・グッドマン)の一家に生まれた生粋のレーシングドライバー。
彼は、レース中に事故死した兄レックスの遺志をついで、チャンピオンを目指すが、あるときレース界を牛耳るローヤルトン工業のオーナー(ロジャー・アラム)からのスポンサーオファーを断った事から、卑劣な妨害工作を受ける。
冷酷な企業家たちがレースの結果をコントロールしているという実態を知ったスピードは、
不正を暴こうとする謎の男、レーサーX(マシュー・フォックス)と共に、八百長の証拠を握るテジョ・トゴーカーン(ピ)のチームで、過酷なラリーに挑むのだが・・・
これほど長所と短所が、わかりやすく見てとれる作品も少ないだろう。
ウォシャウスキー兄弟は、アニメ版が生まれた60年代末と、彼らが実際に作品に触れたのであろう70年代という時代性を、まさに「サイケデリック」としか言い様の無い強烈な色彩の中に再現しようとしている。
ある程度の年齢の人なら覚えているだろうが、この原色のネオンをスクリーン一杯にぶちまけたようなチカチカした映像は、70年代に一斉を風靡した映像作家、ロバート・エイブルの一連のCM作品そのものだ。
エイブルは、現在のCG全盛時代の基礎を作ったデジタル映像のパイオニアの一人であるが、ウォシャウスキー兄弟は「スピード・レーサー」のリメイクを通して、この偉大な映像作家と、彼が作り出した映像の時代に対しても深い敬意を表しているように見える。
まるで光と色だけで構成された様な世界観にしても、映像のコラージュのように展開して行く編集のスタイルにしても、これはウォシャウスキー兄弟によるエイブルの再解釈と言っても過言ではない。
もちろん彼らは、タツノコのアニメ版に対しても、深い愛情をもってデジタル世界での再構築に挑戦している。
内容的にも、驚くほどオリジナルに忠実であり、ファン納得のキャラクター造形はもちろん、アニメとほぼ同じレトロなデザインながら、ディテールを現代化することで説得力をもたせたマッハ号のデザイン、アニメ版のお約束描写の再現など、作者がいかにオリジナルを愛しているかは良く伝わってくる。
エンドクレジットの冒頭で、アメリカ版ではない、日本語版の主題歌をかけるあたり、タツノコの作り手への深いリスペクトを感じさせて、オリジナルをリアルタイムで観ているオールドファンなら、胸が熱くなるのではないだろうか。
もっとも、この作品の場合、長所と同じくらい短所も目立つのが残念。
脚本は練り込み不足が目立ち、135分もある上映時間は長すぎて中ダレしてしまう。
ファンの方には申し訳ないが、真田広之の出演シーンは全部カットしても全く問題無いし、コミックリリーフであるスプライトルとチムチムのギャグも少々しつこい。
何よりも、最初から最後まで同じ葛藤が繰り返されているだけなので、ドラマ的な起伏に乏しのだ。
もう少し物語を整理して、2時間以内に収めた方がスムーズになっただろうし、リズム感も出て観やすかっただろう。
また、肝心のレースシーンも、カットが細かすぎ、編集が懲りすぎているために、何が起こっているか、誰と誰が競っているのか良くわからない。
これでは、観ている人間が置いていかれてしまい、スリルを感じることが出来ない。
車自体が猛スピードで疾走しているのだから、演出はもう少し落ち着いて、しっかりと見せても良かったのではないか。
ただ、いくつかの海外批評サイトなどで、過剰にCGを意識させる映像がスリルを削いでいるという意見を見たが、それはちょっと違うと思う。
何しろオリジナルはセルアニメである。
人間は、文字通りの絵空事にすらスリルも興奮も感じることが出来るのであり、CGっぽいからスリルを感じないという事はあり得ない。
実写版「スピード・レーサー」の問題は、CGを意識させるか否かの画の問題ではなく、純粋にレースの見せ方、つまりは演出の問題である。
本作で、ウォシャウスキー兄弟が手本としたロバート・エイブルの演出スタイルは、ワクワクする華やかさはあるものの、手に汗握るスリルを演出するには向いていない。
色彩や質感などの画作りの基本的なセンスは、この作品を特長付ける強力なアクセントとなっているが、エキサイティングなレースムービーには映像のコラージュ的な美しさだけではなく、レースそのものをスリリングに見せる演出が必要であり、そのあたりを作者が掴めていなかったのが問題の根本だろう。
実写版「スピード・レーサー」は、「マトリックス」で、デジタルアクションの新しい扉を開けたウォシャウスキー兄弟が、彼らの映画的記憶の源流とも言うべき「マッハGoGoGo」とロバート・エイブルという二つの歴史的な存在へ大いなるオマージュを捧げた作品であり、幾つかの明確な問題点を抱えてはいるが、決してつまらない作品ではない。
物語そのものはベタベタではあるもののわかりやすく、キャラクターの感情表現までもあえてアニメ的に作られた世界観は、家族連れが安心して楽しめるだろう。
70年代のデジタル黎明期のビジュアルイメージを、最新の3DCGで再現したレトロモダンでサイケな映像は21世紀の現在においては逆に新鮮だ。
どうすればもっと良くなるのかが明らかなだけに、少々勿体無い感は否めないが、これはやはり劇場で楽しむべき作品だろう。
もっとも、「マトリックス・リローデッド」以来大味な感が付きまとうウォシャウスキー兄弟には、「バウンド」の頃の様なコンパクトでありながら濃密な物語の面白さを思い出して欲しいところだけど。
今回はタツノコプロの創設者である吉田兄弟にちなんで、出身地の京都のお酒。
月の桂の銘柄で知られる増田徳兵衛商店から、純米大吟醸の三年貯蔵古酒「藝」をチョイス。
古酒らしい琥珀色が美しい大吟醸は、濃厚なコクと旨みが楽しめ、名前の通りの芸術品である。
映画はここまでの完成度は無いが、古典的な作品をこれほど大胆な映像で再生するというチャレンジ精神は高く評価したい。

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2008年07月09日 (水) | 編集 |
果たされる事の無い、「東方の約束」
デビッド・クローネンバーグが前作「ヒストリー・オブ・バイオレンス」のヴィゴ・モーテンセンと再び組んだ「イースタン・プロミス」は、ロンドンのロシアンマフィアの暗部を描いたフィルムノワール。
ここにあるのは血と暴力と小さな希望。
巨匠、円熟の一作である。
ロンドンのある病院に、産気づいて意識不明の少女が運び込まれてくる。
赤ん坊の命は助かったものの、母親は死亡。
ロシア系英国人である助産師のアンナ(ナオミ・ワッツ)は、少女の身元を捜そうとするが、手がかりは彼女の残したロシア語で書かれた日記のみ。
日記に挟まれていた店のカードを頼りに、ロシア料理店のオーナーに話を聞くアンナだったが、オーナーは自分が日記を翻訳しようと申し出る。
同じ頃、日記を目にしたアンナの叔父は、その内容が裏社会の秘密に通じている事から、
日記を他人に見せるなと警告する。
実はロシア料理店のオーナーは、悪名高いマフィア「法の泥棒」のボスであった。
やがてアンナの周りに、ボスの不肖の息子キリル(ヴァンサン・カッセル)と共に仕事をしている自称「運転手」の謎めいた男、ニコライ(ヴィゴ・モーテンセン)が出没し始める・・・・
「ヒストリー・オブ・バイオレンス」では、一人の男の戦いを通して、アメリカの暴力の歴史をメタファーとして描いたクローネンバーグだが、同じくモーテンセンを主演に迎えたこの作品では、一冊の日記を巡る物語を通して、異国で生きるロシア移民の悲しみの暗部を暴き出す。
近年は石油大国として、金持ちイメージで語られる事の多いロシアだが、貧困層はまだまだ多く、特にロシア連邦を構成する諸共和国の少数民族は、成功を夢見て外国に脱出する者も多いと聞く。
経済的弱者の周りには、彼らを食い物にしようとする裏社会の者たちが群がる。
そうした組織の人間が、出国を希望する女性たちに語って聞かせるのが、移民先にはいい仕事があり、すぐに金持ちになって帰国できるという成功の約束、「イースタン・プロミス」である。
映画は、その約束にだまされて、売春婦として奴隷労働をさせられた挙句に死んだ少女の身元を捜し、赤ん坊を故郷に送り届けたいというアンナの行動が、思いもかけずマフィアの抗争とリンクしてしまい、そこに謎の男、ニコライの意外な正体が絡んで、全く目を放せない。
スティーヴ・ナイトによる、抜群の展開力を持つ、ほとんど突っ込みどころの無い緻密な脚本を、クローネンバーグが冷徹な視線で淡々と描く。
フィルムノワールとして第一級の仕上がりである。
本作は基本的には、勧善懲悪的な構造を持っているが、もちろんそれだけの浅い話をクローネンバーグほどの作家が描くはずも無く、本質的には決して一人では生きられない人間の悲しみと希望を描いたものである。
登場人物の心理は、お互いに対する感情が重層的に絡み合い、相反する情念のうねりが物語を満たす。
残された命を守り、少女の無念を弔おうとするアンナと、ある目的をもって暗躍するニコライが惹かれあう事で生まれてくるのが人間の陽の部分だとすれば、キリルとボスの親子の葛藤は陰の感情で溢れんばかりだ。
そしてラストに明かされるニコライの正体と目的も含めて、この映画はロンドンという異文化の中に存在する、ロシアンコミュニティーという小さな世界の悲哀を、奇妙な調和の中に描ききるのである。
基本的に物語はナオミ・ワッツ演じるアンナの視点で進み、彼女は所謂巻き込まれ型の主人公を好演しているが、やはりこの映画で光るのはヴィゴ・モーテンセンだろう。
サイボーグの様にピッチリと固めた特異な髪型といい、刺青だらけの体といい、ニコライの暴力の歴史と鋼の意思を感じさせる、肉体のビジュアルが秀逸だ。
公衆浴場での、暗殺者との全裸の格闘シーンは、まさに肉体を切り裂かれる痛みに満ちており、本作の、いや犯罪映画の歴史の中でも屈指の名シーンと言えるだろう。
ニコライが剛だとすれば、対照的な軟はボスのダメ息子キリルを演じるヴァンサン・カッセル。
父親の影から抜け出せない、二代目の苦悩を人間味たっぷりに演じた。
物語のクライマックスでのキリルの選択は、このダークな物語の中で、一筋の希望を感じさせるものだった。
そう、たとえ世界が暴力と絶望に満ちていたとしても、小さな命は人間たちを明日へと導いて行くのだ。
物語の要所要所に挿入される、希望に満ちた明日を語る少女の日記の朗読が切ない。
貧困の中、「イースタン・プロミス」を信じてロンドンに渡った彼女は、すぐにその約束が決して果たされない事を知り、絶望の中で14歳の生涯を閉じるのである。
これは、程度の差はあれ、決してドラマの中の話だけではないという。
貧困に生きる者と、彼らが見る小さな夢は、犯罪者の視点から見ればお金を生む金の卵なのである。
儚い希望は、いとも簡単に闇の金に換金され、消費されてしまう。
私の住む街も、日本の中では移民が多く、街を歩いていると外国語が良く聞こえてくる。
もちろん、彼らのほとんどは普通に生活している人々であろうが、日本も「イースタン・プロミス」で語られる、約束の土地の一つである事は確かであろう。
日本は嘗て米国務省の人身売買に関する報告書で、海外から女性や子供が搾取のために売買されている要監視国に指定されており、現在でも対応が不十分な国のリストに載せられている。
このハードな映画には、甘ったるいカクテルなどは似合わない。
映画の余韻を引きずって、ロシアンウォッカをストレートかでちびちび飲もう。
スミノフの「ブラック」をチョイス。
焼ける様な熱が、酷寒の地に生きる人々の魂の炎を感じさせる。
モスクワ産のこの酒は、嘘偽りの無いウォッカの味わいを約束してくれるのだが・・・
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デビッド・クローネンバーグが前作「ヒストリー・オブ・バイオレンス」のヴィゴ・モーテンセンと再び組んだ「イースタン・プロミス」は、ロンドンのロシアンマフィアの暗部を描いたフィルムノワール。
ここにあるのは血と暴力と小さな希望。
巨匠、円熟の一作である。
ロンドンのある病院に、産気づいて意識不明の少女が運び込まれてくる。
赤ん坊の命は助かったものの、母親は死亡。
ロシア系英国人である助産師のアンナ(ナオミ・ワッツ)は、少女の身元を捜そうとするが、手がかりは彼女の残したロシア語で書かれた日記のみ。
日記に挟まれていた店のカードを頼りに、ロシア料理店のオーナーに話を聞くアンナだったが、オーナーは自分が日記を翻訳しようと申し出る。
同じ頃、日記を目にしたアンナの叔父は、その内容が裏社会の秘密に通じている事から、
日記を他人に見せるなと警告する。
実はロシア料理店のオーナーは、悪名高いマフィア「法の泥棒」のボスであった。
やがてアンナの周りに、ボスの不肖の息子キリル(ヴァンサン・カッセル)と共に仕事をしている自称「運転手」の謎めいた男、ニコライ(ヴィゴ・モーテンセン)が出没し始める・・・・
「ヒストリー・オブ・バイオレンス」では、一人の男の戦いを通して、アメリカの暴力の歴史をメタファーとして描いたクローネンバーグだが、同じくモーテンセンを主演に迎えたこの作品では、一冊の日記を巡る物語を通して、異国で生きるロシア移民の悲しみの暗部を暴き出す。
近年は石油大国として、金持ちイメージで語られる事の多いロシアだが、貧困層はまだまだ多く、特にロシア連邦を構成する諸共和国の少数民族は、成功を夢見て外国に脱出する者も多いと聞く。
経済的弱者の周りには、彼らを食い物にしようとする裏社会の者たちが群がる。
そうした組織の人間が、出国を希望する女性たちに語って聞かせるのが、移民先にはいい仕事があり、すぐに金持ちになって帰国できるという成功の約束、「イースタン・プロミス」である。
映画は、その約束にだまされて、売春婦として奴隷労働をさせられた挙句に死んだ少女の身元を捜し、赤ん坊を故郷に送り届けたいというアンナの行動が、思いもかけずマフィアの抗争とリンクしてしまい、そこに謎の男、ニコライの意外な正体が絡んで、全く目を放せない。
スティーヴ・ナイトによる、抜群の展開力を持つ、ほとんど突っ込みどころの無い緻密な脚本を、クローネンバーグが冷徹な視線で淡々と描く。
フィルムノワールとして第一級の仕上がりである。
本作は基本的には、勧善懲悪的な構造を持っているが、もちろんそれだけの浅い話をクローネンバーグほどの作家が描くはずも無く、本質的には決して一人では生きられない人間の悲しみと希望を描いたものである。
登場人物の心理は、お互いに対する感情が重層的に絡み合い、相反する情念のうねりが物語を満たす。
残された命を守り、少女の無念を弔おうとするアンナと、ある目的をもって暗躍するニコライが惹かれあう事で生まれてくるのが人間の陽の部分だとすれば、キリルとボスの親子の葛藤は陰の感情で溢れんばかりだ。
そしてラストに明かされるニコライの正体と目的も含めて、この映画はロンドンという異文化の中に存在する、ロシアンコミュニティーという小さな世界の悲哀を、奇妙な調和の中に描ききるのである。
基本的に物語はナオミ・ワッツ演じるアンナの視点で進み、彼女は所謂巻き込まれ型の主人公を好演しているが、やはりこの映画で光るのはヴィゴ・モーテンセンだろう。
サイボーグの様にピッチリと固めた特異な髪型といい、刺青だらけの体といい、ニコライの暴力の歴史と鋼の意思を感じさせる、肉体のビジュアルが秀逸だ。
公衆浴場での、暗殺者との全裸の格闘シーンは、まさに肉体を切り裂かれる痛みに満ちており、本作の、いや犯罪映画の歴史の中でも屈指の名シーンと言えるだろう。
ニコライが剛だとすれば、対照的な軟はボスのダメ息子キリルを演じるヴァンサン・カッセル。
父親の影から抜け出せない、二代目の苦悩を人間味たっぷりに演じた。
物語のクライマックスでのキリルの選択は、このダークな物語の中で、一筋の希望を感じさせるものだった。
そう、たとえ世界が暴力と絶望に満ちていたとしても、小さな命は人間たちを明日へと導いて行くのだ。
物語の要所要所に挿入される、希望に満ちた明日を語る少女の日記の朗読が切ない。
貧困の中、「イースタン・プロミス」を信じてロンドンに渡った彼女は、すぐにその約束が決して果たされない事を知り、絶望の中で14歳の生涯を閉じるのである。
これは、程度の差はあれ、決してドラマの中の話だけではないという。
貧困に生きる者と、彼らが見る小さな夢は、犯罪者の視点から見ればお金を生む金の卵なのである。
儚い希望は、いとも簡単に闇の金に換金され、消費されてしまう。
私の住む街も、日本の中では移民が多く、街を歩いていると外国語が良く聞こえてくる。
もちろん、彼らのほとんどは普通に生活している人々であろうが、日本も「イースタン・プロミス」で語られる、約束の土地の一つである事は確かであろう。
日本は嘗て米国務省の人身売買に関する報告書で、海外から女性や子供が搾取のために売買されている要監視国に指定されており、現在でも対応が不十分な国のリストに載せられている。
このハードな映画には、甘ったるいカクテルなどは似合わない。
映画の余韻を引きずって、ロシアンウォッカをストレートかでちびちび飲もう。
スミノフの「ブラック」をチョイス。
焼ける様な熱が、酷寒の地に生きる人々の魂の炎を感じさせる。
モスクワ産のこの酒は、嘘偽りの無いウォッカの味わいを約束してくれるのだが・・・

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2008年07月05日 (土) | 編集 |
「告発のとき」の原題、「In the valley of elah」とは、旧約聖書でイスラエルの少年ダビデが、宿敵ペリシテ軍の巨人ゴリアテを倒した場所の事。
パレスチナの地である。
このタイトルが示唆する様に、ポール・ハギス待望の第二作は、イラク戦争の帰還兵が抱える心の闇をテーマとした社会派ドラマ。
前作「クラッシュ」では、社会の様々な階層の人間同士の衝突を、ある種のファンタジーとして見事に描き出したハギスだが、今回も重厚なテーマを寓話的に切り取っている。
2004年。
退役軍人のハンク(トミー・リー・ジョーンズ)に、軍から連絡が入る。
イラクから帰還したばかりの息子のマイクが、基地に戻らないというのだ。
真面目な息子が脱走するなどという事は信じられないハンクは、一人基地のある町へ向かう。
息子と同じ部隊の戦友たちに話を聞いても、誰一人として失踪の理由は思い当たらないという。
元軍のMPとして事件を追った経験のあるハンクは、マイクの携帯電話に残された映像に失踪の原因が隠されていると考え、独自にマイクの足取りを追う。
ところがそんな時、ハンクの元にマイクが切断された焼死体となって発見されたという連絡が入る。
ハンクは、軍内の何者かが事件に関与していると睨み、地元警察の女性刑事エミリー(シャーリーズ・セロン)の協力を得て、軍という分厚い壁に挑もうとするのだが・・・
ジャンルとしては反戦映画だと言って良いと思うが、それをストレートに表現はしない。
描かれているのは、あくまでも失踪した一兵士を探す父親の物語であり、ストーリーテラー、ハギスは物語に仕込まれた様々な仕掛けによって、徐々に核心のテーマに迫ってゆく。
「ノーカントリー」でそうであったように、ここでもトミー・リー・ジョーンズが演じるのは古き良きアメリカの男だ。
ハンクが愛し、また軍人として彼が守ったとして自負するアメリカは、今どこへ行こうとしているのか。
彼にとって、「理想の息子」だったマイクは、イラクで何を見たのか。
なぜ彼は失踪し、無残な死体となって発見されなければならなかったのか。
戦争は、人間の心に何をもたらすのか。
映画は犯人探しのミステリであると同時に、そのプロセスによってイラク戦争の帰還兵が抱えるトラウマの正体を暴き出す。
ハギスは、「クラッシュ」と同じように、様々なメタファーを用いて、物語の根底に巧みにテーマを仕込み、ラストでそれが浮かび上がってくる様なロジックを組んでいる。
それは主人公であるハンクの、人生を支えてきた価値観を、根底から覆す事実なのである。
タイトルにもなっている、「エラの谷」のエピソードは特に象徴的で、巨人ゴリアテに立ち向かった少年ダビデの勇気ある物語として知られるこの話を、物語全体と対比することでテーマが読み取りやすくなっている。
因みに字幕ではダビデの使った投石器(slingshot)を、「パチンコ」と訳していたけど・・・この翻訳者は旧約聖書の絵とか見た事が無いのだろうか。
確かに投石器もY字型のパチンコも英語では同じslingshotなんだけど・・・
他にも逆さまに掲揚された国旗の意味や、飼い犬を殺した兵士のエピソードなど、映画のテーマを比喩的に表現する描写が物語の中に多く盛り込まれており、観客は一兵士の失踪と死の真相を巡る物語に散りばめられたメタファーを通して、イラクの戦場で生まれた、癒しがたい闇を知るのである。
ただし、一級品ではあるが、残念ながら傑作とまでは言いがたい。
それは皮肉にも、ハギスが超一流の脚本家であるが故に、ロジックに懲りすぎてリアリティの欠落を招いてしまっているのが原因だ。
一言で言えば、多くのメタファーを初めとした物語の象徴性が出来すぎているのである。
この話は実話がベースとなっているが、元の話をきちんと読んだわけではないので、正直なところどこまで忠実に作られているのかはわからない。
失踪した兵士の父親が事件の真相を暴いたというのは事実らしいが、彼が元MPで地元警察よりもよほど有能な捜査官である時点で、かなり稀な「偶然」であるといえるだろう。
これだけならまだしも、この映画には他にもあまりにも都合よく相互リンクし、テーマとつながる「偶然」が多すぎる。
「クラッシュ」も、しばし御都合主義を感じるほどに、メタファーを多用した作劇だったが、あれはラストを「LAの雪」という小さなファンタジーに落とし込む事で、テーマを絶妙な形で昇華させていた。
しかし、今回は現在進行形の戦争という、前作以上にシリアスで、しかも希望が見出しにくいテーマを選んでおり、ハギスの得意とする寓話的な作劇スタイルとはあまり相性が良くは無かったようだ。
物語は良く出来ているし、テーマ性もしっかりと伝わってくる。
しかしながら、微妙な作り物感が漂ってしまっているのが、この作品の残念なところだ。
ところで、あるメディアで評論家がこの映画を評して、「一見イラク戦争批判だが、若い兵士の心的外傷などを持ち出して、自分たちを哀れんでいる。ちがうんじゃない?」と書いていて、私はこの様な受けとり方をする人がいるのかと驚いた。
この理屈からすれば日本人やドイツ人の作る反戦映画も、外国ではすべて「ちがうんじゃない?」と言われてしまうだろう。
いや、そもそも反戦映画を作る資格のある国民など、世界のどこにもいないのではないか。
実際国内ではきわめて評価の高い邦画の反戦映画の多くが、国際的には黙殺されてきたのは、この「ちがうんじゃない?」という感情のためである。
この意見を述べた人は、「アメリカの戦争」を客観視している様でいて、実は国家と個人を同一視し、加害者と被害者というステロタイプでしか観ていない。
映画評論家を名乗る人がしてはいけない観方である。
この映画が描いているのは戦争という物が個人の心に何をもたらしたのかであって、戦争そのものの意味付けを試みている訳ではないし、あえて言えば政治的な映画ですらない。
戦争そのものは、後の歴史しか評価する事は出来ないだろう。
しかし、その歴史が証明しているのは、戦争とはそれに関わった人々全てを、何らかの形で確実に傷つけるという事だけである。
今回は、イスラエルを代表するワイン、ヤルデンの「ハイツ ワイン」をチョイス。
収穫後の葡萄を、氷結させてから圧搾するというある種のアイスワインである。
芳醇で甘く、風味も強いこのワインが造られる土地も、その複雑な歴史に翻弄されてきた。
ヤルデンはゴラン高原を基盤とするワイナリーで、シリアとイスラエルの和平交渉次第によっては、シリアに返還される運命である。
先日、テレビでゴラン高原のワイナリーが紹介されていたが、彼らの多くはワイナリーを移転してでも和平を支持しているという。
世界最古のワイン生産地の一つに、果たしてワイン文化が残るのか、和平の行方と共に注目してゆきたい。
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パレスチナの地である。
このタイトルが示唆する様に、ポール・ハギス待望の第二作は、イラク戦争の帰還兵が抱える心の闇をテーマとした社会派ドラマ。
前作「クラッシュ」では、社会の様々な階層の人間同士の衝突を、ある種のファンタジーとして見事に描き出したハギスだが、今回も重厚なテーマを寓話的に切り取っている。
2004年。
退役軍人のハンク(トミー・リー・ジョーンズ)に、軍から連絡が入る。
イラクから帰還したばかりの息子のマイクが、基地に戻らないというのだ。
真面目な息子が脱走するなどという事は信じられないハンクは、一人基地のある町へ向かう。
息子と同じ部隊の戦友たちに話を聞いても、誰一人として失踪の理由は思い当たらないという。
元軍のMPとして事件を追った経験のあるハンクは、マイクの携帯電話に残された映像に失踪の原因が隠されていると考え、独自にマイクの足取りを追う。
ところがそんな時、ハンクの元にマイクが切断された焼死体となって発見されたという連絡が入る。
ハンクは、軍内の何者かが事件に関与していると睨み、地元警察の女性刑事エミリー(シャーリーズ・セロン)の協力を得て、軍という分厚い壁に挑もうとするのだが・・・
ジャンルとしては反戦映画だと言って良いと思うが、それをストレートに表現はしない。
描かれているのは、あくまでも失踪した一兵士を探す父親の物語であり、ストーリーテラー、ハギスは物語に仕込まれた様々な仕掛けによって、徐々に核心のテーマに迫ってゆく。
「ノーカントリー」でそうであったように、ここでもトミー・リー・ジョーンズが演じるのは古き良きアメリカの男だ。
ハンクが愛し、また軍人として彼が守ったとして自負するアメリカは、今どこへ行こうとしているのか。
彼にとって、「理想の息子」だったマイクは、イラクで何を見たのか。
なぜ彼は失踪し、無残な死体となって発見されなければならなかったのか。
戦争は、人間の心に何をもたらすのか。
映画は犯人探しのミステリであると同時に、そのプロセスによってイラク戦争の帰還兵が抱えるトラウマの正体を暴き出す。
ハギスは、「クラッシュ」と同じように、様々なメタファーを用いて、物語の根底に巧みにテーマを仕込み、ラストでそれが浮かび上がってくる様なロジックを組んでいる。
それは主人公であるハンクの、人生を支えてきた価値観を、根底から覆す事実なのである。
タイトルにもなっている、「エラの谷」のエピソードは特に象徴的で、巨人ゴリアテに立ち向かった少年ダビデの勇気ある物語として知られるこの話を、物語全体と対比することでテーマが読み取りやすくなっている。
因みに字幕ではダビデの使った投石器(slingshot)を、「パチンコ」と訳していたけど・・・この翻訳者は旧約聖書の絵とか見た事が無いのだろうか。
確かに投石器もY字型のパチンコも英語では同じslingshotなんだけど・・・
他にも逆さまに掲揚された国旗の意味や、飼い犬を殺した兵士のエピソードなど、映画のテーマを比喩的に表現する描写が物語の中に多く盛り込まれており、観客は一兵士の失踪と死の真相を巡る物語に散りばめられたメタファーを通して、イラクの戦場で生まれた、癒しがたい闇を知るのである。
ただし、一級品ではあるが、残念ながら傑作とまでは言いがたい。
それは皮肉にも、ハギスが超一流の脚本家であるが故に、ロジックに懲りすぎてリアリティの欠落を招いてしまっているのが原因だ。
一言で言えば、多くのメタファーを初めとした物語の象徴性が出来すぎているのである。
この話は実話がベースとなっているが、元の話をきちんと読んだわけではないので、正直なところどこまで忠実に作られているのかはわからない。
失踪した兵士の父親が事件の真相を暴いたというのは事実らしいが、彼が元MPで地元警察よりもよほど有能な捜査官である時点で、かなり稀な「偶然」であるといえるだろう。
これだけならまだしも、この映画には他にもあまりにも都合よく相互リンクし、テーマとつながる「偶然」が多すぎる。
「クラッシュ」も、しばし御都合主義を感じるほどに、メタファーを多用した作劇だったが、あれはラストを「LAの雪」という小さなファンタジーに落とし込む事で、テーマを絶妙な形で昇華させていた。
しかし、今回は現在進行形の戦争という、前作以上にシリアスで、しかも希望が見出しにくいテーマを選んでおり、ハギスの得意とする寓話的な作劇スタイルとはあまり相性が良くは無かったようだ。
物語は良く出来ているし、テーマ性もしっかりと伝わってくる。
しかしながら、微妙な作り物感が漂ってしまっているのが、この作品の残念なところだ。
ところで、あるメディアで評論家がこの映画を評して、「一見イラク戦争批判だが、若い兵士の心的外傷などを持ち出して、自分たちを哀れんでいる。ちがうんじゃない?」と書いていて、私はこの様な受けとり方をする人がいるのかと驚いた。
この理屈からすれば日本人やドイツ人の作る反戦映画も、外国ではすべて「ちがうんじゃない?」と言われてしまうだろう。
いや、そもそも反戦映画を作る資格のある国民など、世界のどこにもいないのではないか。
実際国内ではきわめて評価の高い邦画の反戦映画の多くが、国際的には黙殺されてきたのは、この「ちがうんじゃない?」という感情のためである。
この意見を述べた人は、「アメリカの戦争」を客観視している様でいて、実は国家と個人を同一視し、加害者と被害者というステロタイプでしか観ていない。
映画評論家を名乗る人がしてはいけない観方である。
この映画が描いているのは戦争という物が個人の心に何をもたらしたのかであって、戦争そのものの意味付けを試みている訳ではないし、あえて言えば政治的な映画ですらない。
戦争そのものは、後の歴史しか評価する事は出来ないだろう。
しかし、その歴史が証明しているのは、戦争とはそれに関わった人々全てを、何らかの形で確実に傷つけるという事だけである。
今回は、イスラエルを代表するワイン、ヤルデンの「ハイツ ワイン」をチョイス。
収穫後の葡萄を、氷結させてから圧搾するというある種のアイスワインである。
芳醇で甘く、風味も強いこのワインが造られる土地も、その複雑な歴史に翻弄されてきた。
ヤルデンはゴラン高原を基盤とするワイナリーで、シリアとイスラエルの和平交渉次第によっては、シリアに返還される運命である。
先日、テレビでゴラン高原のワイナリーが紹介されていたが、彼らの多くはワイナリーを移転してでも和平を支持しているという。
世界最古のワイン生産地の一つに、果たしてワイン文化が残るのか、和平の行方と共に注目してゆきたい。

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