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※noraneko285でつぶやいてます。ブログで書いてない映画の話なども。
※noraneko285ツイッターでつぶやいた全作品をアーカイブしています。


2008年08月29日 (金) | 編集 |
特定の都市をモチーフにしたオムニバス映画は、それほど珍しく無い。
「TOKYO!」というそのものズバリのタイトルを持つ本作の企画に、パリを舞台に十八人の監督が5分間の愛の物語を綴った「パリ、ジュテーム」が強い影響を与えているのは間違いないだろうし、昨年は欧州四都市を舞台に、サッカーのUEFAチャンピオンズリーグの決勝戦が開催される一日を描いた「ワンディ・イン・ヨーロッパ」という変り種もあった。
ミッシェル・ゴンドリー、レオス・カラックス、ポン・ジュノという、強烈に個性的な三人の外国人監督に与えられた時間は一人頭30分強。
オムニバス映画の場合、なかなか映画を観たという満足感を得る事が難しいが、この長さは短すぎず、長過ぎない、調度良いバランスだ。
一流の観察眼を持つ彼ら三人が、巨大なエネルギーを秘めたこの都市と向かい合う事で、我々日本人にはなかなか見えてこない、東京の隠れた姿が浮かび上がってくるという志向で、本作のコンセプトは、「東京≠TOKYO」と言ってもいいだろう。
「インテリア・デザイン」
ミッシェル・ゴンドリーが描くのは、映画監督志望のアキラと共に地方から東京にやって来たヒロコの物語。
エド・ウッドみたいな変な映画を撮っている割に、バイトも見つかって、それなりに東京暮らしを楽しんでいる天然のアキラに対して、日々の生活に追われ、居候先に気兼ねするヒロコはどんどんと疎外感を募らせてゆく。
彼女自身は東京という街に、特に目的があって来た訳ではなく、流れに任せてはみたものの、人々の念が渦を巻く巨大都市の中で、心は居場所を失って彷徨いだしてしまう。
そしてある時、自分の居場所と存在価値を求めて、彼女の心と肉体がたどり着いた先は・・・江戸川乱歩のある作品を思わせて、なんともシュール。
かなりぶっ飛んだ展開なのだけど、不思議と納得できてしまうのは、彼女に共感する自分が確実にいるという事だ。
ただ、細かな部分に、実際の東京を知る者にはリアリティを感じない描写が幾つかあり、それが物語をややスポイルする。
いくらなんでも、あの廃墟の様なアパートの入居に40万円は無いだろう。
この話の中で、ファンタジー的な要素はあくまでもヒロコに起こった事だけにして、世界観はあくまでもリアルに徹した方が寓話性が際立ったと思うのだけど。
「メルド」
二番手は懐かしや、レオス・カラックスだ。
ずいぶんとお久しぶりと思ったら、「ポーラX」以来9年ぶりの劇場用映画だという。
彼が描くのは「メルド(糞)」という、地下道から現れ人々を襲う奇妙な怪人に翻弄される東京。
ある意味で、三本中最も難解な作品となっている。
この不気味な怪人は、明らかに「ゴジラ」をモチーフとしており、劇中のテーマ曲もゴジラのマーチがそのまま使われている。
日本人を忌み嫌い、旧日本軍の地下遺構に住み、世界でも数人しか理解できない謎の言葉を話し、好物はお札と菊の花。
ゴジラが核のメタファーだった様に、この男も何かのメタファーなのだろうが、つかみ所が無さ過ぎて、観る者をひたすら戸惑いに誘う。
日本軍の武器を使って無差別テロを起こすあたり、オウム事件を思わせるし、日本社会の負の側面をカリカチュア化した存在にも見える。
不死身のメルドが次に現れるのはニューヨークらしいから、この手の自己攻撃性は東京に限らず、過密な現代社会ならどこにでも現れるという事か。
フランス人らしい、シニカルな文明批判と受け取っても良いのかもしれない。
「シェイキング東京」
文字通り、揺れ動く東京。
韓国の鬼才ポン・ジュノの一作は、単体の映画としてみると、三本の中で最も完成度が高く、切なくも優しい寓話となっている。
彼が選んだモチーフは、「引きこもり」だ。
香川照之演じる「僕」は10年間家から出ずに引きこもり生活を続けている。
ひたすら読書し、家の中はゴミも含めて異常なほど整頓されており、外とのつながりは電話だけで、家にやってくる様々な配達人とは決してコミュニケーションをとらない。
そんな「僕」が、ある時ふと目を合わせてしまったピザの配達人に恋をする。
人間とのかかわりを拒絶してきた「僕」の心臓は、その時彼女と共鳴し、そして世界もまた同期しているかの様に揺れ動く。
気絶した蒼井優の「彼女」は、パソコンのボタンアイコンの様なタトゥーを持ち、電源ボタンを押さないと再起動しない。
つまり、彼女に触れなければならないという事だ。
1000万人もの人々が暮らしながら、そのつながりは年々希薄になっている現代の東京。
たった一人との触れ合いの、なんと切実な事か。
ポン・ジュノは、過去にもオムニバス映画を何度か手がけている事もあってか、短編の作り方をよく知っている。
日本の漫画をこよなく愛する人物らしく、シニカルでありながら、日常を優しく切り取る感覚はどこか良く出来た短編漫画を読むような安心感があり、わずか30分程度ながら、この作品のセンス・オブ・ワンダー溢れる味わいは、長編映画にも引けをとらないくらいに後を引く。
三本の大トリとして、納得の作品であった。
「TOKYO!」は、日本人が撮ったとしたら決して出てこないであろう、ユニークな発想力に満ちていて、どの作品もなかなかに観応えがある。
面白いのは、三人の映画作家が捉えた三者三様東京の姿は、どれもリアリズムに基づく物語ではなく、寓話的なファンタジーに落とし込まれている事だ。
一見すると、東京でなくても成立する話にも思えてくるのだが、東京は一つの街というにはあまりに複雑かつ巨大過ぎて、外側から観察してシンプルに描こうとすると、結局それは濃縮された「日本」の一面を描いてしまうという事だろう。
三皿のコース料理の後は、東京の名を持つデザートカクテルで幕を引こう。
「トーキョー・ジョー」は氷を入れたグラスに、ウォッカ150mlとメロンリキュール100mlを注いでステアするだけのシンプルなカクテル。
美しいグリーンは目を楽しませ、甘いメロンの香りは舌を楽しませる。
東京は、混沌として、豊かな味わいに満ちているのだ。
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「TOKYO!」というそのものズバリのタイトルを持つ本作の企画に、パリを舞台に十八人の監督が5分間の愛の物語を綴った「パリ、ジュテーム」が強い影響を与えているのは間違いないだろうし、昨年は欧州四都市を舞台に、サッカーのUEFAチャンピオンズリーグの決勝戦が開催される一日を描いた「ワンディ・イン・ヨーロッパ」という変り種もあった。
ミッシェル・ゴンドリー、レオス・カラックス、ポン・ジュノという、強烈に個性的な三人の外国人監督に与えられた時間は一人頭30分強。
オムニバス映画の場合、なかなか映画を観たという満足感を得る事が難しいが、この長さは短すぎず、長過ぎない、調度良いバランスだ。
一流の観察眼を持つ彼ら三人が、巨大なエネルギーを秘めたこの都市と向かい合う事で、我々日本人にはなかなか見えてこない、東京の隠れた姿が浮かび上がってくるという志向で、本作のコンセプトは、「東京≠TOKYO」と言ってもいいだろう。
「インテリア・デザイン」
ミッシェル・ゴンドリーが描くのは、映画監督志望のアキラと共に地方から東京にやって来たヒロコの物語。
エド・ウッドみたいな変な映画を撮っている割に、バイトも見つかって、それなりに東京暮らしを楽しんでいる天然のアキラに対して、日々の生活に追われ、居候先に気兼ねするヒロコはどんどんと疎外感を募らせてゆく。
彼女自身は東京という街に、特に目的があって来た訳ではなく、流れに任せてはみたものの、人々の念が渦を巻く巨大都市の中で、心は居場所を失って彷徨いだしてしまう。
そしてある時、自分の居場所と存在価値を求めて、彼女の心と肉体がたどり着いた先は・・・江戸川乱歩のある作品を思わせて、なんともシュール。
かなりぶっ飛んだ展開なのだけど、不思議と納得できてしまうのは、彼女に共感する自分が確実にいるという事だ。
ただ、細かな部分に、実際の東京を知る者にはリアリティを感じない描写が幾つかあり、それが物語をややスポイルする。
いくらなんでも、あの廃墟の様なアパートの入居に40万円は無いだろう。
この話の中で、ファンタジー的な要素はあくまでもヒロコに起こった事だけにして、世界観はあくまでもリアルに徹した方が寓話性が際立ったと思うのだけど。
「メルド」
二番手は懐かしや、レオス・カラックスだ。
ずいぶんとお久しぶりと思ったら、「ポーラX」以来9年ぶりの劇場用映画だという。
彼が描くのは「メルド(糞)」という、地下道から現れ人々を襲う奇妙な怪人に翻弄される東京。
ある意味で、三本中最も難解な作品となっている。
この不気味な怪人は、明らかに「ゴジラ」をモチーフとしており、劇中のテーマ曲もゴジラのマーチがそのまま使われている。
日本人を忌み嫌い、旧日本軍の地下遺構に住み、世界でも数人しか理解できない謎の言葉を話し、好物はお札と菊の花。
ゴジラが核のメタファーだった様に、この男も何かのメタファーなのだろうが、つかみ所が無さ過ぎて、観る者をひたすら戸惑いに誘う。
日本軍の武器を使って無差別テロを起こすあたり、オウム事件を思わせるし、日本社会の負の側面をカリカチュア化した存在にも見える。
不死身のメルドが次に現れるのはニューヨークらしいから、この手の自己攻撃性は東京に限らず、過密な現代社会ならどこにでも現れるという事か。
フランス人らしい、シニカルな文明批判と受け取っても良いのかもしれない。
「シェイキング東京」
文字通り、揺れ動く東京。
韓国の鬼才ポン・ジュノの一作は、単体の映画としてみると、三本の中で最も完成度が高く、切なくも優しい寓話となっている。
彼が選んだモチーフは、「引きこもり」だ。
香川照之演じる「僕」は10年間家から出ずに引きこもり生活を続けている。
ひたすら読書し、家の中はゴミも含めて異常なほど整頓されており、外とのつながりは電話だけで、家にやってくる様々な配達人とは決してコミュニケーションをとらない。
そんな「僕」が、ある時ふと目を合わせてしまったピザの配達人に恋をする。
人間とのかかわりを拒絶してきた「僕」の心臓は、その時彼女と共鳴し、そして世界もまた同期しているかの様に揺れ動く。
気絶した蒼井優の「彼女」は、パソコンのボタンアイコンの様なタトゥーを持ち、電源ボタンを押さないと再起動しない。
つまり、彼女に触れなければならないという事だ。
1000万人もの人々が暮らしながら、そのつながりは年々希薄になっている現代の東京。
たった一人との触れ合いの、なんと切実な事か。
ポン・ジュノは、過去にもオムニバス映画を何度か手がけている事もあってか、短編の作り方をよく知っている。
日本の漫画をこよなく愛する人物らしく、シニカルでありながら、日常を優しく切り取る感覚はどこか良く出来た短編漫画を読むような安心感があり、わずか30分程度ながら、この作品のセンス・オブ・ワンダー溢れる味わいは、長編映画にも引けをとらないくらいに後を引く。
三本の大トリとして、納得の作品であった。
「TOKYO!」は、日本人が撮ったとしたら決して出てこないであろう、ユニークな発想力に満ちていて、どの作品もなかなかに観応えがある。
面白いのは、三人の映画作家が捉えた三者三様東京の姿は、どれもリアリズムに基づく物語ではなく、寓話的なファンタジーに落とし込まれている事だ。
一見すると、東京でなくても成立する話にも思えてくるのだが、東京は一つの街というにはあまりに複雑かつ巨大過ぎて、外側から観察してシンプルに描こうとすると、結局それは濃縮された「日本」の一面を描いてしまうという事だろう。
三皿のコース料理の後は、東京の名を持つデザートカクテルで幕を引こう。
「トーキョー・ジョー」は氷を入れたグラスに、ウォッカ150mlとメロンリキュール100mlを注いでステアするだけのシンプルなカクテル。
美しいグリーンは目を楽しませ、甘いメロンの香りは舌を楽しませる。
東京は、混沌として、豊かな味わいに満ちているのだ。

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2008年08月24日 (日) | 編集 |
クラウザーさん、ナイスです!
「デトロイト・メタル・シティ」は、気弱なミュージシャン志望の青年が、本人の意思とは関係なく、デスメタルのカリスマに祭り上げられてしまうという、若杉公徳原作の人気漫画の映画化。
邦画、洋画問わず、娯楽映画にもヘヴィーなテーマを盛り込んだ作品が多い今年の夏休みにあって、貴重な超オバカコメディだ。
マニアックな音楽を扱った作品ということで、二の足を踏む人もいそうだが、物語は実に判りやすく、強烈に立ったキャラクターのおかしさは、原作読者でなくても十分楽しめる。
オシャレ系ミュージシャンを目指して上京した根岸崇一(松山ケンイチ)は、事務所の方針で悪魔系デスメタルバンド、デトロイト・メタル・シティのボーカル、ヨハネ・クラウザー二世として売り出されてしまう。
図らずも、本人も気づかなかったメタルの才能を開花させた崇一は、一躍インディーズシーンのカリスマとなるものの、自分のやりたかった音楽とのギャップに、悩みは深まるばかり。
ある日、大学時代の憧れの同級生、相川さん(加藤ローザ)と再開した崇一は、相川さんがメタル嫌いと知って、ますます自分がクラウザー二世である事に負い目を感じてしまう。
そんな時、デスメタルの帝王と呼ばれた伝説の男、ジャック・イル・ダーク(ジーン・シモンズ)が引退を表明、最後のワールドツアーで、自分と対決するバンドにDMCを指名するのだが・・・
人気漫画を映画化する場合、方向性は主に二つあると思う。
一つは漫画をあくまでも物語の原作と割り切り、ビジュアル面での追求はしない場合。
もう一つは、キャラや世界観を含めて、漫画の世界を徹底的に再現する場合。
「DMC」は明らかに後者で、松山ケンイチ演じるヨハネ・クラウザー二世こと根岸崇一は、まるで漫画から抜け出してきた様に、ルックスから身のこなしまで漫画のキャラそのものだ。
バンドメンバーのジャギ様やカミュ、松雪泰子演じるデスレコーズの社長などもほとんどコスプレ状態と言っていい。
メインキャラだけではなく、限りなくエキストラに近いバンドのファンまで漫画そっくりにしてあるのだから、その徹底ぶりは相当なもの。
まあ、元々原作漫画自体の面白さが、クラウザー二世のキャラにあるのだから、この方向性は正解だろう。
とにかくこのキャラクターが強すぎて、殆ど彼を描写しているだけで画面が持ってしまう。
あの格好で、普通の街に立っているだけで笑いがこみ上げてきてしまうのだから、大したものだ。
物語から見ると、この作品の構造はアメコミ・ヒーロー物のパロディに近い。
気弱で真面目な根岸崇一とメタルモンスターのクラウザー二世、そして崇一が恋する相川さんの関係を、クラーク・ケントとスーパーマン、ロイス・レインに当てはめてみればわかりやすいだろう。
辞めたいけど、辞められないという主人公の葛藤も、アメコミヒーローにお馴染みな物だ。
現在まで6巻出ている原作漫画も、全体としての流れはあるものの、基本的には一話完結的な作りになっている。
映画は第1巻に描かれている、DMCとメタルの帝王ジャック・イル・ダークとの対決をクライマックスに持ってきて、後は原作の細かなエピソードを分解して再構成する事で起承転結を作り出しているが、大森美香による脚色はなかなか良く出来ており、それほどツギハギ感を感じさせない。
実は映画版の後半の展開は、流れとしては原作からはかなり離れているのだが、使われているエピソードのパーツ自体は原作から持ってきているので、元を読んでいる人にも違和感があまりない。
未完結の原作を使いながら、映画単体でキッチリとオチをつけた、なかなかに良い仕事だと思う。
監督の李闘士男は、「お父さんのバックドロップ」という、地味ながら注目に値する作品を作っている人だが、この人は元々テレビのバラエティ出身。
まるでお笑いの舞台かのような超ハイテンション演出に、最初戸惑う人もいるかもしれないが、結果的にこの作品にはあっていたと思う。
もちろん、いかにギャグと言えども、バンドが主人公の音楽映画である限りは劇中の楽曲の出来も映画の重要な要素となり、ここが弱ければ映画全体がショボイ印象となってしまう。
この作品の場合は、この点もまず合格点と言っても良いのではないか。
DMCの楽曲は、漫画を読みながら想像したイメージ通りだったし、崇一のオシャレ系音楽の方はカジヒデキ、MC鬼刃のラップはKダブシャインと抜かりはない。
おかげで崇一の曲が、それほど酷くは聞こえなかったりもするのだけど・・・
しかし、そんな参加アーティストの中でも、よく引っ張りだしたなあと感心したのは、やはりKISSのジーン・シモンズ。
KISSは、ビジュアル系メタルの元祖の一つというか、その奇抜なメイクから70年代の小学生に大人気だったバンドで、当時クラスに何人かはKISSの切抜きを下敷きに挟んでいたメタルな子供がいたものだ。
元々「デトロイト・メタル・シティ」というタイトルそのものがKISSの「デトロイト・ロック・シティ」のパロディだし、原作のジャック・イル・ダークもシモンズとアリス・クーパーを合わせたようなキャラクターだったから、この役柄にはピッタリで、私くらいの世代から上の人は懐かしさも感じさせるキャラクターであった。
「デトロイト・メタル・シティ」は、ぶっちゃけ観終わって何も残らない。
しかし漫画のファンも、松ケンのファンも、別に何のファンでもない人も、大いに笑って、ちょっとホロリとさせられて、楽しい時間を過ごす事が出来るだろう。
ただ、もしかすると、本当にデスメタルというジャンルが好きな人には、ある意味彼らの愛する物をコケにして笑い物にするこの作品は受け入れられないかもしれない。
因みに「DMC」には「蟲師」の長濱博史監督によるアニメ版もあり、こちらもなかなか良く出来た作品なので、実写版と見比べるのも楽しいだろう。
今回はベルギーのビール「デュベル」をチョイス。
その名の意味はズバリ悪魔だ。
ベルギービールらしく、高めのアルコール度数に、適度な苦味とスパイシーな香りを楽しめる。
非常に泡立ちが良いのが特徴で、うま過ぎて泡の中に悪魔が潜んでいるといわれる。
ギフト用に、「メタル・チューブ」と呼ばれる金属の缶に入った物もある(笑
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「デトロイト・メタル・シティ」は、気弱なミュージシャン志望の青年が、本人の意思とは関係なく、デスメタルのカリスマに祭り上げられてしまうという、若杉公徳原作の人気漫画の映画化。
邦画、洋画問わず、娯楽映画にもヘヴィーなテーマを盛り込んだ作品が多い今年の夏休みにあって、貴重な超オバカコメディだ。
マニアックな音楽を扱った作品ということで、二の足を踏む人もいそうだが、物語は実に判りやすく、強烈に立ったキャラクターのおかしさは、原作読者でなくても十分楽しめる。
オシャレ系ミュージシャンを目指して上京した根岸崇一(松山ケンイチ)は、事務所の方針で悪魔系デスメタルバンド、デトロイト・メタル・シティのボーカル、ヨハネ・クラウザー二世として売り出されてしまう。
図らずも、本人も気づかなかったメタルの才能を開花させた崇一は、一躍インディーズシーンのカリスマとなるものの、自分のやりたかった音楽とのギャップに、悩みは深まるばかり。
ある日、大学時代の憧れの同級生、相川さん(加藤ローザ)と再開した崇一は、相川さんがメタル嫌いと知って、ますます自分がクラウザー二世である事に負い目を感じてしまう。
そんな時、デスメタルの帝王と呼ばれた伝説の男、ジャック・イル・ダーク(ジーン・シモンズ)が引退を表明、最後のワールドツアーで、自分と対決するバンドにDMCを指名するのだが・・・
人気漫画を映画化する場合、方向性は主に二つあると思う。
一つは漫画をあくまでも物語の原作と割り切り、ビジュアル面での追求はしない場合。
もう一つは、キャラや世界観を含めて、漫画の世界を徹底的に再現する場合。
「DMC」は明らかに後者で、松山ケンイチ演じるヨハネ・クラウザー二世こと根岸崇一は、まるで漫画から抜け出してきた様に、ルックスから身のこなしまで漫画のキャラそのものだ。
バンドメンバーのジャギ様やカミュ、松雪泰子演じるデスレコーズの社長などもほとんどコスプレ状態と言っていい。
メインキャラだけではなく、限りなくエキストラに近いバンドのファンまで漫画そっくりにしてあるのだから、その徹底ぶりは相当なもの。
まあ、元々原作漫画自体の面白さが、クラウザー二世のキャラにあるのだから、この方向性は正解だろう。
とにかくこのキャラクターが強すぎて、殆ど彼を描写しているだけで画面が持ってしまう。
あの格好で、普通の街に立っているだけで笑いがこみ上げてきてしまうのだから、大したものだ。
物語から見ると、この作品の構造はアメコミ・ヒーロー物のパロディに近い。
気弱で真面目な根岸崇一とメタルモンスターのクラウザー二世、そして崇一が恋する相川さんの関係を、クラーク・ケントとスーパーマン、ロイス・レインに当てはめてみればわかりやすいだろう。
辞めたいけど、辞められないという主人公の葛藤も、アメコミヒーローにお馴染みな物だ。
現在まで6巻出ている原作漫画も、全体としての流れはあるものの、基本的には一話完結的な作りになっている。
映画は第1巻に描かれている、DMCとメタルの帝王ジャック・イル・ダークとの対決をクライマックスに持ってきて、後は原作の細かなエピソードを分解して再構成する事で起承転結を作り出しているが、大森美香による脚色はなかなか良く出来ており、それほどツギハギ感を感じさせない。
実は映画版の後半の展開は、流れとしては原作からはかなり離れているのだが、使われているエピソードのパーツ自体は原作から持ってきているので、元を読んでいる人にも違和感があまりない。
未完結の原作を使いながら、映画単体でキッチリとオチをつけた、なかなかに良い仕事だと思う。
監督の李闘士男は、「お父さんのバックドロップ」という、地味ながら注目に値する作品を作っている人だが、この人は元々テレビのバラエティ出身。
まるでお笑いの舞台かのような超ハイテンション演出に、最初戸惑う人もいるかもしれないが、結果的にこの作品にはあっていたと思う。
もちろん、いかにギャグと言えども、バンドが主人公の音楽映画である限りは劇中の楽曲の出来も映画の重要な要素となり、ここが弱ければ映画全体がショボイ印象となってしまう。
この作品の場合は、この点もまず合格点と言っても良いのではないか。
DMCの楽曲は、漫画を読みながら想像したイメージ通りだったし、崇一のオシャレ系音楽の方はカジヒデキ、MC鬼刃のラップはKダブシャインと抜かりはない。
おかげで崇一の曲が、それほど酷くは聞こえなかったりもするのだけど・・・
しかし、そんな参加アーティストの中でも、よく引っ張りだしたなあと感心したのは、やはりKISSのジーン・シモンズ。
KISSは、ビジュアル系メタルの元祖の一つというか、その奇抜なメイクから70年代の小学生に大人気だったバンドで、当時クラスに何人かはKISSの切抜きを下敷きに挟んでいたメタルな子供がいたものだ。
元々「デトロイト・メタル・シティ」というタイトルそのものがKISSの「デトロイト・ロック・シティ」のパロディだし、原作のジャック・イル・ダークもシモンズとアリス・クーパーを合わせたようなキャラクターだったから、この役柄にはピッタリで、私くらいの世代から上の人は懐かしさも感じさせるキャラクターであった。
「デトロイト・メタル・シティ」は、ぶっちゃけ観終わって何も残らない。
しかし漫画のファンも、松ケンのファンも、別に何のファンでもない人も、大いに笑って、ちょっとホロリとさせられて、楽しい時間を過ごす事が出来るだろう。
ただ、もしかすると、本当にデスメタルというジャンルが好きな人には、ある意味彼らの愛する物をコケにして笑い物にするこの作品は受け入れられないかもしれない。
因みに「DMC」には「蟲師」の長濱博史監督によるアニメ版もあり、こちらもなかなか良く出来た作品なので、実写版と見比べるのも楽しいだろう。
今回はベルギーのビール「デュベル」をチョイス。
その名の意味はズバリ悪魔だ。
ベルギービールらしく、高めのアルコール度数に、適度な苦味とスパイシーな香りを楽しめる。
非常に泡立ちが良いのが特徴で、うま過ぎて泡の中に悪魔が潜んでいるといわれる。
ギフト用に、「メタル・チューブ」と呼ばれる金属の缶に入った物もある(笑

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2008年08月18日 (月) | 編集 |
熱帯のスラムの淀み湿った空気が、スクリーンを通して客席にも漂ってきそうだ。
幼児の臓器売買、買春というおぞましい現実を描いた梁石日の小説を、坂本順治監督が映画化した「闇の子供たち」は、私たちに人間の暗部を突きつける大変な力作である。
鋭いテーマを持った社会派映画でありながら、ドラマチックな展開はサスペンス映画としても一級品であり、2時間18分の間、観客の目はスクリーンに釘付けされる。
日本の新聞社のバンコク支社に勤務する南部(江口洋介)は、日本の子供の心臓移植がタイで行われるという情報を入手する。
裏社会の情報網を使って、臓器ブローカーと接触した南部は、提供者の子供は生きながら心臓を奪われて殺されるというショッキングな事実を知る。
取材を続ける南部は、社会福祉NGOを通じて情報を集めようとするが、そこで日本人ボランティアの恵子(宮崎あおい)と出会う。
あまりにも理想主義的な恵子に苛立つ南部だが、彼女たちが監視する幼児売春の組織は、実は臓器売買とも深いかかわりがあった。
南部は、フリーカメラマンの依田(妻夫木聡)と共に、臓器売買の証拠を押さえようとするのだが・・・
ジャーナリズムと小児性愛という要素から、セバスチャン・コルデロ監督の「タブロイド」を思い出した。
観終わった後の、心に重石をされたような感触も少し似ている。
「タブロイド」は、小児性愛者による連続殺人事件と、それを取材するジャーナリズムを通して、人間の二面性と原罪を描き出していた。
実は「闇の子供たち」においても、それは物語の重要なキーではあるのだが、どちらかというと隠しテーマ的な感じで巧みに物語の底に隠されており、最後に浮かび上がってくる複雑な物語構造となっている。
タイの裏社会を舞台とした物語だが、作り手の視点は、例えば「タイの恥部を暴く!」などというセンセーショナルなスタンスとは違う。
むしろここに描かれている現実が、スクリーンを鏡として観ている側の問題として跳ね返ってくるような作りになっており、グローバリズムの一つの現実として極めて冷静かつ公平な視点で描かれている。
もっとも、扱っているテーマがテーマだけに、観ていて居た堪れない気持ちになってくるのは確かだ。
わずかな金で人身売買組織に買われて来て、都会の売春宿で客をとらされる年端も行かない少年・少女たち。
エイズに罹り、使い道が無くなれば、ゴミ袋に詰められて生ゴミとして捨てられる。
最後の力を振り絞って、ボロボロになって故郷にたどり着いたとしても、そこで更に愛する者たちから見捨てられるのである。
そして、金持ちの外国人のために、生きながら臓器を抜き取られ殺される少女。
正に神も仏も無い。
実際は、ここまで凄惨ではないのではないかと思ったが、個別の事例はフィクションではあるものの、全体としてはかなり実態を正確に描写している様である。
タイの名誉のために言っておけば、人身売買に対する法整備などに関しては、むしろ日本よりも進んでいる。
ただ、法の裏をかいてでも、この手の犯罪が行われているのは、結局のところ貧困と社会格差がそれだけ激しいという事だろう。
映画の中で印象的なのが、人身売買組織の男も、少年時代に小児性愛者に陵辱されて育ってきていて、この現実を当然と考える一方、買手の小児性愛者に対しても憎悪の感情を抱いている事で、事を単純な善悪の構造から描くのではなくて、もっと問題の内面に入り込もうという意欲を感じる。
もちろん、これがビジネスとして成立しているということは、そこに需要があるということでもある。
タイまで行って、少年少女たちを陵辱するのは、金持ちの欧米人であり、日本人だ。
この映画に登場する彼らは、とてつもなく醜い。
坂本順治は一切の曖昧さを排し、この冷徹な現実を写し取ってゆく。
観客は、事態を取材する日本人ジャーナリスト、あるいはボランティアの女性の目を通してこの物語を観る。
しかしこの作品の真の凄さは、正義感やヒューマニズムすら、あっさりと突き放す冷徹さにある。
物語の結末は、正に驚愕としか言いようがなく、ある意味で観客が一番観たくなかった瞬間ではないだろうか。
原作を読んでないので、確証は無いのだが、映画と原作の結末は異なるのではないかと推測している。
おそらく文章では、これほどのインパクトを与えるのは難しく、実に映画的な処理という気がするのだが、間違いなく映画の物語の起点はこの結末であり、ここに至るまでの物語を、原作のプロットを分解して構成していったのではないだろうか。
坂本順治は演出だけでなく、脚本構成でも見事な仕事をしていると思う。
心の奥底に闇を抱えた、南部を演じる江口洋介が良い。
南部の持つ、ジャーナリストとしての冷静な正義感に感情移入する観客は多いだろう。
しかし、映画は観客が物語に見出したそんな小さな希望を、木っ端微塵に打ち砕く。
南部は、恐ろしい事実に蓋をして、知らないフリをしている我々日本人のメタファーとしてのキャラクターだ。
彼の中にわずかでも自分を見た観客は、これを他人事とは考えられなくなるだろう。
江口洋介にとっても代表作となった。
もっとも、映画の本当のラスト、落とし方は少し疑問がある。
私は、鏡に写った妻夫木聡の顔でカットアウトした方が、ズーンと余韻が残ったと思う。
オープニングとイメージを対比させたかったのだと思うが、ラストカットは意図が伝わりにくいし、正直なところ桑田佳祐の主題歌は作品のカラーにまるで合っていない。
もちろん彼自体は素晴らしいミュージシャンであるし、この主題歌もそれ自体は決して悪い曲ではないのだけど、残念ながらこの映画と彼の音楽のスタイルは水と油だ。
懐石料理の〆にフルーツパフェが出てきたような違和感があった。
おそらく、製作にアミューズが加わっているためのタイアップなのだろうが、せめて歌詞をテロップで入れるのはやめて欲しかった。
突然カラオケビデオが始まったのかと思ったよ。
確かに、桑田佳祐の歌は、歌詞を聞き取りにくいのだけど・・・
今回は難しい。
このむせかえる様な熱気の後には、やはりビールを飲んで少しさっぱりと喉を潤したい。
タイのビール「シンハー」をチョイス。
ビールはその土地で飲むのが一番美味しく感じる物だが、年々熱帯の気候に近くなっている真夏の東京。
案外とこのビールは合う。
しかし、タイ料理の様にピリリと辛いこの映画、決して酒を飲んで忘れていい内容ではない。
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読んでみたくなって、注文した
幼児の臓器売買、買春というおぞましい現実を描いた梁石日の小説を、坂本順治監督が映画化した「闇の子供たち」は、私たちに人間の暗部を突きつける大変な力作である。
鋭いテーマを持った社会派映画でありながら、ドラマチックな展開はサスペンス映画としても一級品であり、2時間18分の間、観客の目はスクリーンに釘付けされる。
日本の新聞社のバンコク支社に勤務する南部(江口洋介)は、日本の子供の心臓移植がタイで行われるという情報を入手する。
裏社会の情報網を使って、臓器ブローカーと接触した南部は、提供者の子供は生きながら心臓を奪われて殺されるというショッキングな事実を知る。
取材を続ける南部は、社会福祉NGOを通じて情報を集めようとするが、そこで日本人ボランティアの恵子(宮崎あおい)と出会う。
あまりにも理想主義的な恵子に苛立つ南部だが、彼女たちが監視する幼児売春の組織は、実は臓器売買とも深いかかわりがあった。
南部は、フリーカメラマンの依田(妻夫木聡)と共に、臓器売買の証拠を押さえようとするのだが・・・
ジャーナリズムと小児性愛という要素から、セバスチャン・コルデロ監督の「タブロイド」を思い出した。
観終わった後の、心に重石をされたような感触も少し似ている。
「タブロイド」は、小児性愛者による連続殺人事件と、それを取材するジャーナリズムを通して、人間の二面性と原罪を描き出していた。
実は「闇の子供たち」においても、それは物語の重要なキーではあるのだが、どちらかというと隠しテーマ的な感じで巧みに物語の底に隠されており、最後に浮かび上がってくる複雑な物語構造となっている。
タイの裏社会を舞台とした物語だが、作り手の視点は、例えば「タイの恥部を暴く!」などというセンセーショナルなスタンスとは違う。
むしろここに描かれている現実が、スクリーンを鏡として観ている側の問題として跳ね返ってくるような作りになっており、グローバリズムの一つの現実として極めて冷静かつ公平な視点で描かれている。
もっとも、扱っているテーマがテーマだけに、観ていて居た堪れない気持ちになってくるのは確かだ。
わずかな金で人身売買組織に買われて来て、都会の売春宿で客をとらされる年端も行かない少年・少女たち。
エイズに罹り、使い道が無くなれば、ゴミ袋に詰められて生ゴミとして捨てられる。
最後の力を振り絞って、ボロボロになって故郷にたどり着いたとしても、そこで更に愛する者たちから見捨てられるのである。
そして、金持ちの外国人のために、生きながら臓器を抜き取られ殺される少女。
正に神も仏も無い。
実際は、ここまで凄惨ではないのではないかと思ったが、個別の事例はフィクションではあるものの、全体としてはかなり実態を正確に描写している様である。
タイの名誉のために言っておけば、人身売買に対する法整備などに関しては、むしろ日本よりも進んでいる。
ただ、法の裏をかいてでも、この手の犯罪が行われているのは、結局のところ貧困と社会格差がそれだけ激しいという事だろう。
映画の中で印象的なのが、人身売買組織の男も、少年時代に小児性愛者に陵辱されて育ってきていて、この現実を当然と考える一方、買手の小児性愛者に対しても憎悪の感情を抱いている事で、事を単純な善悪の構造から描くのではなくて、もっと問題の内面に入り込もうという意欲を感じる。
もちろん、これがビジネスとして成立しているということは、そこに需要があるということでもある。
タイまで行って、少年少女たちを陵辱するのは、金持ちの欧米人であり、日本人だ。
この映画に登場する彼らは、とてつもなく醜い。
坂本順治は一切の曖昧さを排し、この冷徹な現実を写し取ってゆく。
観客は、事態を取材する日本人ジャーナリスト、あるいはボランティアの女性の目を通してこの物語を観る。
しかしこの作品の真の凄さは、正義感やヒューマニズムすら、あっさりと突き放す冷徹さにある。
物語の結末は、正に驚愕としか言いようがなく、ある意味で観客が一番観たくなかった瞬間ではないだろうか。
原作を読んでないので、確証は無いのだが、映画と原作の結末は異なるのではないかと推測している。
おそらく文章では、これほどのインパクトを与えるのは難しく、実に映画的な処理という気がするのだが、間違いなく映画の物語の起点はこの結末であり、ここに至るまでの物語を、原作のプロットを分解して構成していったのではないだろうか。
坂本順治は演出だけでなく、脚本構成でも見事な仕事をしていると思う。
心の奥底に闇を抱えた、南部を演じる江口洋介が良い。
南部の持つ、ジャーナリストとしての冷静な正義感に感情移入する観客は多いだろう。
しかし、映画は観客が物語に見出したそんな小さな希望を、木っ端微塵に打ち砕く。
南部は、恐ろしい事実に蓋をして、知らないフリをしている我々日本人のメタファーとしてのキャラクターだ。
彼の中にわずかでも自分を見た観客は、これを他人事とは考えられなくなるだろう。
江口洋介にとっても代表作となった。
もっとも、映画の本当のラスト、落とし方は少し疑問がある。
私は、鏡に写った妻夫木聡の顔でカットアウトした方が、ズーンと余韻が残ったと思う。
オープニングとイメージを対比させたかったのだと思うが、ラストカットは意図が伝わりにくいし、正直なところ桑田佳祐の主題歌は作品のカラーにまるで合っていない。
もちろん彼自体は素晴らしいミュージシャンであるし、この主題歌もそれ自体は決して悪い曲ではないのだけど、残念ながらこの映画と彼の音楽のスタイルは水と油だ。
懐石料理の〆にフルーツパフェが出てきたような違和感があった。
おそらく、製作にアミューズが加わっているためのタイアップなのだろうが、せめて歌詞をテロップで入れるのはやめて欲しかった。
突然カラオケビデオが始まったのかと思ったよ。
確かに、桑田佳祐の歌は、歌詞を聞き取りにくいのだけど・・・
今回は難しい。
このむせかえる様な熱気の後には、やはりビールを飲んで少しさっぱりと喉を潤したい。
タイのビール「シンハー」をチョイス。
ビールはその土地で飲むのが一番美味しく感じる物だが、年々熱帯の気候に近くなっている真夏の東京。
案外とこのビールは合う。
しかし、タイ料理の様にピリリと辛いこの映画、決して酒を飲んで忘れていい内容ではない。

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読んでみたくなって、注文した


2008年08月14日 (木) | 編集 |
「レイダース/失われたアーク」が、トレジャー・ハンティングというジャンルをハリウッドのメインストリームに復活させて以来、「ロマンシング・ストーン」から「ナショナル・トレジャー」まで、多くのフォロワーが登場した。
その中で、もっとも荒唐無稽かつ何でもあり、という成り立ちで、確固たるポジションを築いたのが、スティーブン・ソマーズの生み出した「ハムナプトラ・シリーズ」だろう。
今回、「インディ」復活の盛り上がりにチョイ相乗りとばかりに、七年ぶりに登場した「ハムナプトラ3/呪われた皇帝の秘宝」は、映像の派手さと話のぶっ飛び具合は相変わらずながら、前二作とは微妙に雰囲気が異なる。
1946年。
冒険の時代は過去へ去り、リックとエヴリンのオコーネル夫妻は悠々自適ながら少し退屈な生活を送っていた。
そんな時、外務省から、「シャングリラの目」と呼ばれる巨大なブルーダイヤを、中国に返還する役目を依頼された夫妻は、遠路上海に赴く。
同じ頃、リックの息子であるアレックスは、呪いによって封じられた中国の初代皇帝の墓の発掘に成功。
皇帝の復活を目論む軍閥のヤン将軍は、皇帝にかけられた呪いを解く鍵である「シャングリラの目」を狙って上海のオコーネル夫妻を襲うのだが・・・
「ハムナプトラ」という邦題は、一作目に出てくる古代の死者の都の名前なので、エジプトが舞台の前二作ならともかく、今回の様な内容だとさすがに無理がある。
最初から素直に「The Mummy」にしておけば良かったのに。
物語の舞台は北京オリンピック開催に合わせたかの様に、第二次大戦直後の中国。
ジェット・リー扮する封印された古代中国の邪悪な皇帝が、Mummy(ミイラ)として復活。
現代中国の征服に乗り出し、例によってブレンダン・フレイザー演じるリックとエヴリンのカップルが阻止するというお話は、ぶっちゃけ前二作の焼き直しだ。
今回はこれまたインディに合わせたかの様に、二人の息子が成長して、主役の一角を占めているあたりが新機軸と言えば新機軸だが・・・
元々このシリーズは、一作目の生みの親であるスティーブン・ソマーズが、1932年に作られた古典ホラー「ミイラ再生」をモチーフに、発展的リメイクとして作り出した物。
今回ソマーズはプロデューサーに名を連ねているものの、実質的には外れ、変わってロブ・コーエンが監督している。
この人は「トリプルX」などでアクション物には定評があるし、中国関連では1993年に「ドラゴン/ブルース・リー物語」という傑作を放っているので、ある意味ピッタリの人選に思える。
しかしながら、私にはやはりソマーズが抜けたのが作品の出来栄えに影を落としているように見えた。
元々このシリーズの売り物はVFXを駆使したスペクタクルな映像と、ソマーズらしいユーモアのセンスにあったはず。
だからこそ元々コメディ色の強いブレンダン・フレイザーが主役のリックに抜擢されたのだろうし、妻のエヴリンと兄のジョナサンの三人が繰り広げるお笑い冒険旅行はなかなか楽しかった。
今回は画の派手さは及第点だが、演出家のスタイルが異なるために以前に比べてコミカルな描写が少なく作品の印象が妙に硬質だ。
完全なコミックリリーフであった、ジョナサンなど手持ち無沙汰な様子だし、レイチェル・ワイズからマリア・ベロに変わったエヴリンも今ひとつ目立たない。
「ハムナプトラ」的な物を、一生懸命作ろうとしてはいるものの、笑いのセンスがないために、全体に滑り気味の様に思える。
物語の方も複雑な設定を作ってあるのに、ストーリーラインの組み方が雑なために、それほどドラマチックにつながって来ない。
皇帝と魔法使いツイ・ユアンとミン将軍の三角関係はまあ良いとしても、軍閥のヤン将軍は皇帝を現在に蘇らせて何をするつもりだったのだろうか。
弾丸一発で粉々になってしまう泥の軍団など、二十世紀には何の役にも立たない気がするのだが。
ちなみに悪の皇帝はどう見ても始皇帝なのだが、さすがに中華帝国の創始者を邪悪なミイラ呼ばわりするのは遠慮したのか、一応架空の人物という事になっている。
この皇帝も、せっかくジェット・リーをキャスティングしているのに、彼の功夫アクションが生かされる場面が殆ど無いのもいかがなものか。
二作目のロック様よろしく、スコーピオン・キングならぬキング・ギドラもどきの三頭龍に変身したりするのだが、ファンが見たいのはそんなんじゃなくて、彼の超人的な肉体を使ったアクションなんだと思うのだけど。
せっかくミッシェル・ヨーとの競演まで用意しているのに、二人のアクションの絡みが殆ど無いのももったいない。
「ハムナプトラ3/呪われた皇帝の秘宝」は、面白くなりそうな材料は盛り沢山なのだが、どうもそれを上手く料理できていない。
見所はほぼCGによる派手なスペクタクル映像のみで、芸達者な役者たちのおかげもあって、それだけでも楽しんで観られるものの、ユーモアというスパイスを失ったこの作品は、前作までの味わいをどこか失ってしまった。
アクション映画としての見せ場は、内容的に微妙にかぶる「ドラゴン・キングダム」の方が数段上だったと思う。
ロブ・コーエンとしては、妙にソマーズの世界を引きずるよりは、もちょっと自分流の「ハムナプトラ」に軌道修正してしまったほうが良かったのではないだろうか。
今回は、劇中のキーアイテムであるブルーダイヤに引っ掛けて、「チャイナ・ブルー」をチョイス。
ライチ・リキュール30mlとブルー・キュラソー10ml、グレープフルーツジュース80mlをステアして完成。
好みでグレープフルーツを減らしてトニックウォーターを加えても良い。
透き通った青が美しい、夏向きのカクテルだ。
そう言えば「シャングリラの目」が桃源郷への入り口を示すシーンは、まんま「天空の城ラピュタ」だった。
キング・ギドラからラピュタまで、東洋が舞台になったからか、日本映画からの引用も多かったかも。
良くも悪くもごった煮のハリウッド映画である。
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その中で、もっとも荒唐無稽かつ何でもあり、という成り立ちで、確固たるポジションを築いたのが、スティーブン・ソマーズの生み出した「ハムナプトラ・シリーズ」だろう。
今回、「インディ」復活の盛り上がりにチョイ相乗りとばかりに、七年ぶりに登場した「ハムナプトラ3/呪われた皇帝の秘宝」は、映像の派手さと話のぶっ飛び具合は相変わらずながら、前二作とは微妙に雰囲気が異なる。
1946年。
冒険の時代は過去へ去り、リックとエヴリンのオコーネル夫妻は悠々自適ながら少し退屈な生活を送っていた。
そんな時、外務省から、「シャングリラの目」と呼ばれる巨大なブルーダイヤを、中国に返還する役目を依頼された夫妻は、遠路上海に赴く。
同じ頃、リックの息子であるアレックスは、呪いによって封じられた中国の初代皇帝の墓の発掘に成功。
皇帝の復活を目論む軍閥のヤン将軍は、皇帝にかけられた呪いを解く鍵である「シャングリラの目」を狙って上海のオコーネル夫妻を襲うのだが・・・
「ハムナプトラ」という邦題は、一作目に出てくる古代の死者の都の名前なので、エジプトが舞台の前二作ならともかく、今回の様な内容だとさすがに無理がある。
最初から素直に「The Mummy」にしておけば良かったのに。
物語の舞台は北京オリンピック開催に合わせたかの様に、第二次大戦直後の中国。
ジェット・リー扮する封印された古代中国の邪悪な皇帝が、Mummy(ミイラ)として復活。
現代中国の征服に乗り出し、例によってブレンダン・フレイザー演じるリックとエヴリンのカップルが阻止するというお話は、ぶっちゃけ前二作の焼き直しだ。
今回はこれまたインディに合わせたかの様に、二人の息子が成長して、主役の一角を占めているあたりが新機軸と言えば新機軸だが・・・
元々このシリーズは、一作目の生みの親であるスティーブン・ソマーズが、1932年に作られた古典ホラー「ミイラ再生」をモチーフに、発展的リメイクとして作り出した物。
今回ソマーズはプロデューサーに名を連ねているものの、実質的には外れ、変わってロブ・コーエンが監督している。
この人は「トリプルX」などでアクション物には定評があるし、中国関連では1993年に「ドラゴン/ブルース・リー物語」という傑作を放っているので、ある意味ピッタリの人選に思える。
しかしながら、私にはやはりソマーズが抜けたのが作品の出来栄えに影を落としているように見えた。
元々このシリーズの売り物はVFXを駆使したスペクタクルな映像と、ソマーズらしいユーモアのセンスにあったはず。
だからこそ元々コメディ色の強いブレンダン・フレイザーが主役のリックに抜擢されたのだろうし、妻のエヴリンと兄のジョナサンの三人が繰り広げるお笑い冒険旅行はなかなか楽しかった。
今回は画の派手さは及第点だが、演出家のスタイルが異なるために以前に比べてコミカルな描写が少なく作品の印象が妙に硬質だ。
完全なコミックリリーフであった、ジョナサンなど手持ち無沙汰な様子だし、レイチェル・ワイズからマリア・ベロに変わったエヴリンも今ひとつ目立たない。
「ハムナプトラ」的な物を、一生懸命作ろうとしてはいるものの、笑いのセンスがないために、全体に滑り気味の様に思える。
物語の方も複雑な設定を作ってあるのに、ストーリーラインの組み方が雑なために、それほどドラマチックにつながって来ない。
皇帝と魔法使いツイ・ユアンとミン将軍の三角関係はまあ良いとしても、軍閥のヤン将軍は皇帝を現在に蘇らせて何をするつもりだったのだろうか。
弾丸一発で粉々になってしまう泥の軍団など、二十世紀には何の役にも立たない気がするのだが。
ちなみに悪の皇帝はどう見ても始皇帝なのだが、さすがに中華帝国の創始者を邪悪なミイラ呼ばわりするのは遠慮したのか、一応架空の人物という事になっている。
この皇帝も、せっかくジェット・リーをキャスティングしているのに、彼の功夫アクションが生かされる場面が殆ど無いのもいかがなものか。
二作目のロック様よろしく、スコーピオン・キングならぬキング・ギドラもどきの三頭龍に変身したりするのだが、ファンが見たいのはそんなんじゃなくて、彼の超人的な肉体を使ったアクションなんだと思うのだけど。
せっかくミッシェル・ヨーとの競演まで用意しているのに、二人のアクションの絡みが殆ど無いのももったいない。
「ハムナプトラ3/呪われた皇帝の秘宝」は、面白くなりそうな材料は盛り沢山なのだが、どうもそれを上手く料理できていない。
見所はほぼCGによる派手なスペクタクル映像のみで、芸達者な役者たちのおかげもあって、それだけでも楽しんで観られるものの、ユーモアというスパイスを失ったこの作品は、前作までの味わいをどこか失ってしまった。
アクション映画としての見せ場は、内容的に微妙にかぶる「ドラゴン・キングダム」の方が数段上だったと思う。
ロブ・コーエンとしては、妙にソマーズの世界を引きずるよりは、もちょっと自分流の「ハムナプトラ」に軌道修正してしまったほうが良かったのではないだろうか。
今回は、劇中のキーアイテムであるブルーダイヤに引っ掛けて、「チャイナ・ブルー」をチョイス。
ライチ・リキュール30mlとブルー・キュラソー10ml、グレープフルーツジュース80mlをステアして完成。
好みでグレープフルーツを減らしてトニックウォーターを加えても良い。
透き通った青が美しい、夏向きのカクテルだ。
そう言えば「シャングリラの目」が桃源郷への入り口を示すシーンは、まんま「天空の城ラピュタ」だった。
キング・ギドラからラピュタまで、東洋が舞台になったからか、日本映画からの引用も多かったかも。
良くも悪くもごった煮のハリウッド映画である。

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2008年08月08日 (金) | 編集 |
2004年の「イノセンス」以来となる、押井守の新作アニメーション映画。
彼は意外と寡作な作家で、劇場用アニメーションに限れば、監督としては「攻殻機動隊」と「パトレイバー」の両シリーズ、「うる星やつら2/ビューティフルドリーマー」しか手がけていない。
その分、一作ごとの変化も興味深く、「スカイ・クロラ」という一風変わったタイトルを持つこの作品も、今までの押井守作品とは微妙に雰囲気が異なり、今の時代を強く意識した物になっている。
戦争がショーとして行われる世界。
年をとらず、永遠に思春期の姿で生きる「キルドレ」の函南優一(加瀬亮)は、戦闘機パイロットとして兎離州基地に赴任する。
前任者の機体を受け継いだ優一だったが、不思議な事にまるで自分が長年乗っていた機体であるかのように、自然に乗りこなす事が出来る。
そんな優一を複雑な感情を湛えた眼差しで見つめる、指揮官の草薙水素(菊地凛子)は、優一の前任者と浅からぬ因縁があるようだったが、基地の誰もその事に触れようとはしない。
ある日、同僚パイロットの湯田川が撃墜され戦死する事件が起こる。
相手は機体に黒豹のマークを描いた「ティーチャー」と呼ばれる撃墜王だった・・・
不思議なムードを持つ、極めて詩的な作品である。
ジャンルとしては、ある種のパラレルワールドを舞台とした戦争映画と言って良いと思うが、物語の背景の説明などは殆ど無い。
そこがどんな世界で、なぜ戦争が行われていて、そもそも戦っている彼らは何者なのかという説明は、物語の進行と共に徐々に判ってくる構造になっているが、それでもトータルで観ると最後まで明かされない部分が多い。
この世界の戦争は、それを遂行する専門の企業によって行われる一種のゲームであり、実際に戦闘機に乗り、戦闘に参加しているのは、思春期のまま永遠に年をとらない「キルドレ」と呼ばれる若者たち。
物語は、キルドレの一人である函南優一の視点で進むのだが、そもそも彼自身が自分を含めた世界の姿を理解していないのである。
彼は、ある日基地に赴任してきて、旧日本海軍の震電に似たエンテ型の戦闘機「散花」に乗って、任務があれば飛び、敵がいれば戦う。
特に何を考えるでもなく、年をとらないから、戦死しないかぎり、永遠にその繰り返しだ。
この作品は、「何も変わらない日常」を生きる優一が、女性指揮官である草薙水素やパートナーの土岐野尚史といったキルドレたち、あるいは基地の近くに住むフーコら大人の女たちとのつながりを通して、少しずつ自分自身の存在というものを認識してゆく物語と言えるかもしれない。
「我思う、故に我あり」とは哲学者のデカルトの言葉だが、自分の存在すら実感できない優一はある意味で存在していないのと同じである。
これは劇中で明かされる、キルドレたち誕生の秘密と、なぜ彼らが戦っているのかという設定にも関わってくるのだが、彼らは存在していないが故に、ゲームとしての戦争が成り立っている。
永遠の生は、見方によっては永遠の死と同じである。
キルドレたちの中には生と死の区別はおそらく無く、そのどちらも実感が希薄で、いわば偽りの生と偽りの死の狭間あるヴァーチャルな存在であり、彼らが戦っているのも、創造主である大人たちの作り出した偽りの戦争だ。
もちろん、そんな戦争によって保たれている外の世界の平和もまた、偽りの産物である事に変わりは無いのだが。
背景や戦闘機などのメカはリアルな3DCGで作られ、空戦シーンは迫力がある。
対照的に人間は昔ながらの手描きアニメーションのタッチで表現されており、「ベクシル」などに観られるセル調デザインの3DCGはあえて避けられ、そこにギャップを生み出している。
不思議な事に、観ているうちにだんだんと手描きのキャラクターたちがリアルに、最初リアルに感じた3DCGの背景や空中戦の描写が幻想のように見えてくる。
これは優一の心理にシンクロして、徐々にキルドレたちに感情移入して観ているからだろうが、本来の生命のプロセスから外れた存在であるキルドレは、満ち足りているのに生きている実感を得られず、閉塞感に苛まれる今の時代の象徴だろう。
自らの生に現実感を持たない主人公が、世界をいかに感じるかというアプローチによって、生命の中に見出す希望というテーマを描き出したのは秀逸だ。
面白いのは、物語前半の優一を含めて、永遠のループに特に抵抗する姿勢を見せない男たちに対して、キルドレでありながら子供を生むという選択をした水素や、生を感じられない自分に恐怖すら感じる三ツ矢碧といった女性キャラクターは、現状に抵抗を試みている事だ。
たとえ自らは生死の外にある存在だとしても、女という性の持つ命を生み出す力は、それ自体が希望に繋がるという事だろうか。
キャラクターとしては一度もその姿を見せないにもかかわらず、影のように物語を支配する撃墜王ティーチャーは、キルドレではなく大人の男。
つまり、創造物であるキルドレが決して越えられない現実の壁だ。
水素とのつかの間の出会で愛を知り、生きる事の意味を見出した優一は、永遠の日常を外れて、あえて壁に挑む事で、世界を包み込む巨大なループに希望という名の小さな楔を打ち込んだのかもしれない。
「スカイ・クロラ」は、極めて今日的なテーマを含んだ秀作だが、気になる点もある。
それまで頑なに説明的な描写を避けてきた物語が、キルドレの秘密とテーマの核心を明かす核心部分で、たった2シーンの台詞で全部言い切ってしまったのは少々唐突な感じがしたし、狙いだとしても浮いていたと思う。
また厳密に考えれば、戦争を一般社会から隔離して、キルドレという「人とは異なるモノ」が戦うゲームととらえた時点で、劇中で語られる、人間社会のバランスを取る装置として戦争が必要、という論理は破綻しているのではないか。
それはもう既に、本来の意味での戦争と意味が違ってしまっており、同時に効果も失っていると思うのだが。
もっとも偽りの戦闘と平和を含めて、世界全体の破綻を描き出しているという解釈もなりたつのだけど。
今回は夏の空の様な青いボトルが特徴的な「スカイ・ウォッカ」をチョイス。
アメリカとイタリアの合作で作られるこの酒は、非常にスッキリと飲みやすく、夏向きである。
キンキンに冷やしてストレートも良いが、ロックにしてグレープフルーツを絞ったりしても美味しい。
曖昧な時代の憂鬱を味わった後は、舌と喉で生命を実感しよう。
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彼は意外と寡作な作家で、劇場用アニメーションに限れば、監督としては「攻殻機動隊」と「パトレイバー」の両シリーズ、「うる星やつら2/ビューティフルドリーマー」しか手がけていない。
その分、一作ごとの変化も興味深く、「スカイ・クロラ」という一風変わったタイトルを持つこの作品も、今までの押井守作品とは微妙に雰囲気が異なり、今の時代を強く意識した物になっている。
戦争がショーとして行われる世界。
年をとらず、永遠に思春期の姿で生きる「キルドレ」の函南優一(加瀬亮)は、戦闘機パイロットとして兎離州基地に赴任する。
前任者の機体を受け継いだ優一だったが、不思議な事にまるで自分が長年乗っていた機体であるかのように、自然に乗りこなす事が出来る。
そんな優一を複雑な感情を湛えた眼差しで見つめる、指揮官の草薙水素(菊地凛子)は、優一の前任者と浅からぬ因縁があるようだったが、基地の誰もその事に触れようとはしない。
ある日、同僚パイロットの湯田川が撃墜され戦死する事件が起こる。
相手は機体に黒豹のマークを描いた「ティーチャー」と呼ばれる撃墜王だった・・・
不思議なムードを持つ、極めて詩的な作品である。
ジャンルとしては、ある種のパラレルワールドを舞台とした戦争映画と言って良いと思うが、物語の背景の説明などは殆ど無い。
そこがどんな世界で、なぜ戦争が行われていて、そもそも戦っている彼らは何者なのかという説明は、物語の進行と共に徐々に判ってくる構造になっているが、それでもトータルで観ると最後まで明かされない部分が多い。
この世界の戦争は、それを遂行する専門の企業によって行われる一種のゲームであり、実際に戦闘機に乗り、戦闘に参加しているのは、思春期のまま永遠に年をとらない「キルドレ」と呼ばれる若者たち。
物語は、キルドレの一人である函南優一の視点で進むのだが、そもそも彼自身が自分を含めた世界の姿を理解していないのである。
彼は、ある日基地に赴任してきて、旧日本海軍の震電に似たエンテ型の戦闘機「散花」に乗って、任務があれば飛び、敵がいれば戦う。
特に何を考えるでもなく、年をとらないから、戦死しないかぎり、永遠にその繰り返しだ。
この作品は、「何も変わらない日常」を生きる優一が、女性指揮官である草薙水素やパートナーの土岐野尚史といったキルドレたち、あるいは基地の近くに住むフーコら大人の女たちとのつながりを通して、少しずつ自分自身の存在というものを認識してゆく物語と言えるかもしれない。
「我思う、故に我あり」とは哲学者のデカルトの言葉だが、自分の存在すら実感できない優一はある意味で存在していないのと同じである。
これは劇中で明かされる、キルドレたち誕生の秘密と、なぜ彼らが戦っているのかという設定にも関わってくるのだが、彼らは存在していないが故に、ゲームとしての戦争が成り立っている。
永遠の生は、見方によっては永遠の死と同じである。
キルドレたちの中には生と死の区別はおそらく無く、そのどちらも実感が希薄で、いわば偽りの生と偽りの死の狭間あるヴァーチャルな存在であり、彼らが戦っているのも、創造主である大人たちの作り出した偽りの戦争だ。
もちろん、そんな戦争によって保たれている外の世界の平和もまた、偽りの産物である事に変わりは無いのだが。
背景や戦闘機などのメカはリアルな3DCGで作られ、空戦シーンは迫力がある。
対照的に人間は昔ながらの手描きアニメーションのタッチで表現されており、「ベクシル」などに観られるセル調デザインの3DCGはあえて避けられ、そこにギャップを生み出している。
不思議な事に、観ているうちにだんだんと手描きのキャラクターたちがリアルに、最初リアルに感じた3DCGの背景や空中戦の描写が幻想のように見えてくる。
これは優一の心理にシンクロして、徐々にキルドレたちに感情移入して観ているからだろうが、本来の生命のプロセスから外れた存在であるキルドレは、満ち足りているのに生きている実感を得られず、閉塞感に苛まれる今の時代の象徴だろう。
自らの生に現実感を持たない主人公が、世界をいかに感じるかというアプローチによって、生命の中に見出す希望というテーマを描き出したのは秀逸だ。
面白いのは、物語前半の優一を含めて、永遠のループに特に抵抗する姿勢を見せない男たちに対して、キルドレでありながら子供を生むという選択をした水素や、生を感じられない自分に恐怖すら感じる三ツ矢碧といった女性キャラクターは、現状に抵抗を試みている事だ。
たとえ自らは生死の外にある存在だとしても、女という性の持つ命を生み出す力は、それ自体が希望に繋がるという事だろうか。
キャラクターとしては一度もその姿を見せないにもかかわらず、影のように物語を支配する撃墜王ティーチャーは、キルドレではなく大人の男。
つまり、創造物であるキルドレが決して越えられない現実の壁だ。
水素とのつかの間の出会で愛を知り、生きる事の意味を見出した優一は、永遠の日常を外れて、あえて壁に挑む事で、世界を包み込む巨大なループに希望という名の小さな楔を打ち込んだのかもしれない。
「スカイ・クロラ」は、極めて今日的なテーマを含んだ秀作だが、気になる点もある。
それまで頑なに説明的な描写を避けてきた物語が、キルドレの秘密とテーマの核心を明かす核心部分で、たった2シーンの台詞で全部言い切ってしまったのは少々唐突な感じがしたし、狙いだとしても浮いていたと思う。
また厳密に考えれば、戦争を一般社会から隔離して、キルドレという「人とは異なるモノ」が戦うゲームととらえた時点で、劇中で語られる、人間社会のバランスを取る装置として戦争が必要、という論理は破綻しているのではないか。
それはもう既に、本来の意味での戦争と意味が違ってしまっており、同時に効果も失っていると思うのだが。
もっとも偽りの戦闘と平和を含めて、世界全体の破綻を描き出しているという解釈もなりたつのだけど。
今回は夏の空の様な青いボトルが特徴的な「スカイ・ウォッカ」をチョイス。
アメリカとイタリアの合作で作られるこの酒は、非常にスッキリと飲みやすく、夏向きである。
キンキンに冷やしてストレートも良いが、ロックにしてグレープフルーツを絞ったりしても美味しい。
曖昧な時代の憂鬱を味わった後は、舌と喉で生命を実感しよう。

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2008年08月05日 (火) | 編集 |
この夏のハリウッド映画はアメコミヒーローだらけで、バットマンに続いて、超人ハルクも帰ってきた。
「インクレディブル・ハルク」は、2003年にアン・リー監督で作られた「ハルク」の続編にあたる作品だが、監督と主要キャストがそろって続投した「ダークナイト」とは対照的に、監督は「ダニー・ザ・ドッグ」や「トランスポーター2」のアクション派フランス人監督ルイ・レテリエにチェンジし、キャストも主人公以下全員を入れ替えている。
研究中のガンマ線被爆が原因で、怒りの感情によって緑の怪物ハルクに変身する体になってしまったブルース・バナー(エドワード・ノートン)は、故国アメリカから逃亡し、ブラジルに潜伏しながら治療法の研究を続けている。
ハルクの軍事利用を狙うロス将軍(ウィリアム・ハート)は、バナーの潜伏先を突き止め、部下のブロンスキー(ティム・ロス)らの部隊に急襲させる。
間一髪で逃亡したバナーは、アメリカに戻り嘗ての恋人ベティ(リヴ・タイラー)の協力を経て、ガンマ線治療の鍵を握る謎の科学者、ミスター・ブルーを探そうとする。
同じ頃、ハルクの力を目の当たりにしたブロンスキーは、自らもその力を手に入れたいと願い、実験台に名乗りを上げるのだが・・・
変身時のぶっ飛んだCG描写も含めてB級テイスト満載で、何かと評判の悪い前作の「ハルク」だが、私が子供の頃馴染んだテレビシリーズが、元々ルー・フェグリノの筋肉だけが見物の低予算作品だった事もあって、そんなに違和感は無かった。
後半の展開が、「ハルク」と言うよりは東宝の「サンダ対ガイラ」みたいになってしまっていたけど、それなりに楽しめる作品だったと思う。
さて大幅なメンバーチェンジをした今回の作品だが、一番びっくりしたのはブルース・バナーを演じているのがエドワード・ノートンという事だ。
どちらかと言うと作家性の強い作品に好んで出るタイプで、この手の映画には一番興味のなさそうな人だと思うのだが、一体何が彼を動かしたのだろう。
もっともサプライズなのは彼のキャスティングくらいで、後は物語的にもビジュアル的にも典型的なアメコミアクション。
正直なところ、特に語るべき内容には乏しい。
あえて注目すべきポイントを探すとなると、今までひたすらハクルに変身しない事を追及していたバナーが、初めて自らの意思で変身する事を選択するという展開だろうか。
科学者の彼にとって、ハルクの体というのはパンドラの箱であって、決して開けてはいけない物。
自分の体を治療する事で、箱を封印しようとしていたのだが、自らの意思でもう一人のハルクとなったブロンスキーの登場で、その思惑は狂ってしまう。
自分たちの作り出した怪物を、初めて客観的な目で見たバナーは、自らの身を犠牲にして止めようとする。
という風に、一応苦悩の末の決断というのもきちんと描かれてはいるのだが、監督のベクトルが明らかにアクションの方に向いている事もあって、心理描写は必要最小限。
ブロンスキーが、危険を顧みずなぜあれほど変身したがるのかも今ひとつ説得力が無く、見所はやっぱり二人が変身した後の「サンダ対ガイラ」なのだった。
「ダークナイト」で超長濃密な人間ドラマを観てしまった後では、物語面ではかなり薄味に感じてしまう。
まあ、元々「ハルク」というキャラクターは、バットマンやスパイダーマンと言ったスーツ・ヒーローと違って、生身の人間である時と変身時のキャラクターの連続性が薄い。
何しろ変身時には肉体だけでなく心すら変化してしまうので、ブルース・バナーの苦悩がそのままハルクの苦悩につながらず、感情移入という点ではどうしても弱く、変身した怪物キャラの大暴れに映画の中心が行ってしまうのはやむを得ない面がある。
もっとも、今回はバナーとハルクの心を、ベティを介してつなげようしている試みはあり、新機軸としてそれなりに面白かった。
ラストの意味深なバナーの表情も、ハルクへの変身を精神でコントロールできるようになったという事を示唆しているのだろうか。
あと、ちょっと興味を引かれたのは、バナーの元恋人ベティとその新恋人レナードとの三角関係で、もしアン・リーだったら確実に膨らませてくる部分だと思うが、レテリエは興味が無いのかあっさりスルー。
最初こそ戸惑っていたベティも、あっという間にレナードの事など忘れてバナーと元の鞘に納まってしまい、レナードには同情を禁じえない(笑
ただ、レナードにはロス将軍との会話で印象的な台詞を吐かせるなど、一応キャラを確立しようと言う意図を感じるのだが、もしかしたら続編で何らかの役割を与えられるのかもしれない。
「インクレディブル・ハルク」は、典型的なアメコミ原作物で、物語的にもキャラクター的にもその範疇を超えるものではなく、スタッフ・キャストを一新した割には、結局前作と同じ事をやっているというのが正直な印象だ。
しかしまあ、ヒーローの生き難いこの時代に、複雑な葛藤を抱えた新時代のアメコミヒーローが続々と生まれている中、ある意味で類型的なこの作品は、新鮮味は無いものの安心して楽しめる作品ではある。
「ダークナイト」は、正直子連れのお父さんが観に行ける映画ではないが、これは大丈夫。
その意味では、正しい夏休みの娯楽映画としてはこちらの方が正解なのかもしれない。
因みに、おまけのラストはびっくりしたけど、これをやるなら「アイアンマン」を先に公開しないと意味不明なのではないか。
お客さん皆キョトンとしていたぞ。
ややあっさりテイストのこの大作には、緑のお酒「ペルノ・アブサン」を。
アニスやニガヨモギといった香草を大量に使ったこのお酒は、かなり強烈な香りを放ち、好き嫌いがはっきり分かれる。
この酒は嘗てニガヨモギによって幻覚作用が起こるという事で、長く製造が禁止されていたが、法規制の範囲内に抑えて復活した経緯がある。
トラディショナルな飲み方は、グラスに酒を注いだ後、穴あきスプーンに角砂糖を載せて、その上から水を注いで割る。
元々は緑色だが、水を加えると白濁するのも面白い。
そういえばこの酒は「シュレック」の時も合わせた様な・・・
同じ緑の巨人ではあるけども(笑
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「インクレディブル・ハルク」は、2003年にアン・リー監督で作られた「ハルク」の続編にあたる作品だが、監督と主要キャストがそろって続投した「ダークナイト」とは対照的に、監督は「ダニー・ザ・ドッグ」や「トランスポーター2」のアクション派フランス人監督ルイ・レテリエにチェンジし、キャストも主人公以下全員を入れ替えている。
研究中のガンマ線被爆が原因で、怒りの感情によって緑の怪物ハルクに変身する体になってしまったブルース・バナー(エドワード・ノートン)は、故国アメリカから逃亡し、ブラジルに潜伏しながら治療法の研究を続けている。
ハルクの軍事利用を狙うロス将軍(ウィリアム・ハート)は、バナーの潜伏先を突き止め、部下のブロンスキー(ティム・ロス)らの部隊に急襲させる。
間一髪で逃亡したバナーは、アメリカに戻り嘗ての恋人ベティ(リヴ・タイラー)の協力を経て、ガンマ線治療の鍵を握る謎の科学者、ミスター・ブルーを探そうとする。
同じ頃、ハルクの力を目の当たりにしたブロンスキーは、自らもその力を手に入れたいと願い、実験台に名乗りを上げるのだが・・・
変身時のぶっ飛んだCG描写も含めてB級テイスト満載で、何かと評判の悪い前作の「ハルク」だが、私が子供の頃馴染んだテレビシリーズが、元々ルー・フェグリノの筋肉だけが見物の低予算作品だった事もあって、そんなに違和感は無かった。
後半の展開が、「ハルク」と言うよりは東宝の「サンダ対ガイラ」みたいになってしまっていたけど、それなりに楽しめる作品だったと思う。
さて大幅なメンバーチェンジをした今回の作品だが、一番びっくりしたのはブルース・バナーを演じているのがエドワード・ノートンという事だ。
どちらかと言うと作家性の強い作品に好んで出るタイプで、この手の映画には一番興味のなさそうな人だと思うのだが、一体何が彼を動かしたのだろう。
もっともサプライズなのは彼のキャスティングくらいで、後は物語的にもビジュアル的にも典型的なアメコミアクション。
正直なところ、特に語るべき内容には乏しい。
あえて注目すべきポイントを探すとなると、今までひたすらハクルに変身しない事を追及していたバナーが、初めて自らの意思で変身する事を選択するという展開だろうか。
科学者の彼にとって、ハルクの体というのはパンドラの箱であって、決して開けてはいけない物。
自分の体を治療する事で、箱を封印しようとしていたのだが、自らの意思でもう一人のハルクとなったブロンスキーの登場で、その思惑は狂ってしまう。
自分たちの作り出した怪物を、初めて客観的な目で見たバナーは、自らの身を犠牲にして止めようとする。
という風に、一応苦悩の末の決断というのもきちんと描かれてはいるのだが、監督のベクトルが明らかにアクションの方に向いている事もあって、心理描写は必要最小限。
ブロンスキーが、危険を顧みずなぜあれほど変身したがるのかも今ひとつ説得力が無く、見所はやっぱり二人が変身した後の「サンダ対ガイラ」なのだった。
「ダークナイト」で超長濃密な人間ドラマを観てしまった後では、物語面ではかなり薄味に感じてしまう。
まあ、元々「ハルク」というキャラクターは、バットマンやスパイダーマンと言ったスーツ・ヒーローと違って、生身の人間である時と変身時のキャラクターの連続性が薄い。
何しろ変身時には肉体だけでなく心すら変化してしまうので、ブルース・バナーの苦悩がそのままハルクの苦悩につながらず、感情移入という点ではどうしても弱く、変身した怪物キャラの大暴れに映画の中心が行ってしまうのはやむを得ない面がある。
もっとも、今回はバナーとハルクの心を、ベティを介してつなげようしている試みはあり、新機軸としてそれなりに面白かった。
ラストの意味深なバナーの表情も、ハルクへの変身を精神でコントロールできるようになったという事を示唆しているのだろうか。
あと、ちょっと興味を引かれたのは、バナーの元恋人ベティとその新恋人レナードとの三角関係で、もしアン・リーだったら確実に膨らませてくる部分だと思うが、レテリエは興味が無いのかあっさりスルー。
最初こそ戸惑っていたベティも、あっという間にレナードの事など忘れてバナーと元の鞘に納まってしまい、レナードには同情を禁じえない(笑
ただ、レナードにはロス将軍との会話で印象的な台詞を吐かせるなど、一応キャラを確立しようと言う意図を感じるのだが、もしかしたら続編で何らかの役割を与えられるのかもしれない。
「インクレディブル・ハルク」は、典型的なアメコミ原作物で、物語的にもキャラクター的にもその範疇を超えるものではなく、スタッフ・キャストを一新した割には、結局前作と同じ事をやっているというのが正直な印象だ。
しかしまあ、ヒーローの生き難いこの時代に、複雑な葛藤を抱えた新時代のアメコミヒーローが続々と生まれている中、ある意味で類型的なこの作品は、新鮮味は無いものの安心して楽しめる作品ではある。
「ダークナイト」は、正直子連れのお父さんが観に行ける映画ではないが、これは大丈夫。
その意味では、正しい夏休みの娯楽映画としてはこちらの方が正解なのかもしれない。
因みに、おまけのラストはびっくりしたけど、これをやるなら「アイアンマン」を先に公開しないと意味不明なのではないか。
お客さん皆キョトンとしていたぞ。
ややあっさりテイストのこの大作には、緑のお酒「ペルノ・アブサン」を。
アニスやニガヨモギといった香草を大量に使ったこのお酒は、かなり強烈な香りを放ち、好き嫌いがはっきり分かれる。
この酒は嘗てニガヨモギによって幻覚作用が起こるという事で、長く製造が禁止されていたが、法規制の範囲内に抑えて復活した経緯がある。
トラディショナルな飲み方は、グラスに酒を注いだ後、穴あきスプーンに角砂糖を載せて、その上から水を注いで割る。
元々は緑色だが、水を加えると白濁するのも面白い。
そういえばこの酒は「シュレック」の時も合わせた様な・・・
同じ緑の巨人ではあるけども(笑

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2008年08月03日 (日) | 編集 |
観終わった瞬間、鳥肌が立った。
7月18日の全米公開以来、あらゆる興行記録を塗り替えているとか、IMDbのユーザー評価で歴代1位に躍り出たとか、故ヒース・レジャーのオスカー受賞が早くも取りざたされているとか、とにかく凄いらしいという事は伝わってきていたが、これは本当に期待に違わぬ出来栄えであった。
「ダークナイト」は、間違いなく「バットマン・ビギンズ」を遥かに上回るクリストファー・ノーランのベスト、いやアメコミ原作物の決定版と言える、映画史に残る傑作である。
バットマンことブルース・ウェイン(クリスチャン・ベール)によって冷や飯を食わされていた犯罪組織のボスたちは、バットマンを殺してみせるという謎の男、ジョーカー(ヒース・レジャー)を雇う。
彼は、「バットマンがマスクを脱ぐまでは、市民を殺し続ける」というルールで、バットマンと市当局に宣戦を布告する。
ジョーカーの執拗な襲撃によって、次々とターゲットとされた人々が倒れると、恐怖に駆られた人たちは、姿を見せないバットマンを卑怯者呼ばわりし始める。
正義感溢れる新任地方検事のデント(アーロン・エッカート)に、ゴッサムシティの正義を託そうとするバットマンは、会見で自分の正体を明かす決断をするのだが・・・
クリストファー・ノーランと言えば凝りに凝った脚本の人だが、今回は特に凄い。
物語の中心にいるのはバットマンとジョーカー、デントの三人。
彼らはそれぞれ陰と陽、善と悪、表と裏を象徴するキャラクターだが、一見対照的な彼ら三人は、実は同時に合わせ鏡であり、互いの中に自分を見る関係である。
互いが同時に裏の裏をかこうとするスリリングかつ複雑怪奇な騙し合いの中で、幾重にも絡み合った登場人物の葛藤が、物語に深いテーマを描き出してゆく。
これは本当に頭の良い人にしか書けない脚本である。
ゴッサムシティの影の番人としてのバットマンと、対照的に表の世界で新たなヒーローとして登場したデント。
レイチェルがデントに惹かれてゆく事に、バットマンは人間的な痛みを感じ、早くダークヒーローとしての役割を終えたがっている。
そこへ登場したのが、バットマンの考える「悪」という概念の外にいるジョーカー。
彼は、理屈の存在しない悪のための悪、破壊のための破壊、つまりは恐怖そのものだ。
この理解不能な敵は、バットマンが正体を明かすまで、ゴッサムシティを攻撃し続けるという脅しをかける。
恐怖からあっさりとバットマン非難に転じる人々を見て、バットマンの葛藤はより深まる。
この状況の中で、バットマンとデントは、人々の心に残る正義の炎を絶やさない為に、自己犠牲的な行動によってジョーカーを追い詰めようとするのだが、それすらもジョーカーに新たなゲームのネタを提供しただけという皮肉。
ジョーカーが死のゲームを通して繰り出す、いくつもの「究極の選択」は、人々の心を急速に支配してゆく。
闇の中に恐怖が充満し、混沌としたゴッサムシティは、ある意味でアメリカ人の見た世界の戯画化された姿かもしれない。
ジョーカーは明確な目的を持たず、破壊のための破壊を行うテロリズムのメタファーと見ることが出来る。
劇中、ジョーカーがバットマンを名乗った偽者を拉致し、彼を拷問し処刑するビデオをマスコミに送りつけるのは、イラクやアフガニスタンで誘拐した外国人の処刑シーンをネットに流し、世界に恐怖を植えつけるテロリストの行動を思わせる。
そのジョーカーに対抗する術を持たず、あまつさえ彼の中に自らの姿すら見てしまうバットマンの困惑と痛みは、もはや単なるアメコミヒーロー物の範疇を軽く超えている。
スパイダーマンやハルクの葛藤は、基本的に彼ら個人の問題であったが、ここでは世界のあり方そのものが葛藤の核心となるのである。
ぶっちゃけ「漫画」であるにもかかわらず、混沌と恐怖によって支配されるこの映画の世界は、恐ろしく今の時代のリアリティに富む。
クライマックスで、バットマンが一縷の望みを託す大衆の選択が、むしろ一番嘘っぽく見えてしまうあたり、物語を通して世界の本質的な姿を見せ付けられてしまったかのようにすら思えてくる。
だからこそ、この時代に真のヒーローは、闇の騎士「ダークナイト」として生きるしかないのだろう。
因みに今回バットマンは、マフィアの資金の鍵を握る中国人実業家ラウを捕らえるために、初めてゴッサムシティを離れて香港に飛ぶ。
この映画が戯画化された世界だと考えると、ゴッサムシティという虚構の街からあえて香港という現実の街を描写したあたりも、中国と言う存在に対するある種の恐れを反映している様で意味深だ。
前作を含めて、これがノーランとの三度目のコンビとなる、クリスチャン・ベール以下のキャストは前作からほぼ続投。
唯一レイチェル役だけがケイティ・ホームズからマギー・ギレンホールへと代わっている。
新キャラクターとしては、アーロン・エッカート扮する地方検事ハーヴェイ・デントが登場し、ゲイリー・オールドマンの御馴染ゴードン警部補と犯罪撲滅でタッグを組む。
前作ではあまり目立たなかったゴードンも、今回は大活躍だ。
物語の後半登場するのはトゥー・フェイス。
この役は原作を知っていれば誰の事なのかはお馴染みだが、原作も「バットマン・ビギンズ」以前の映画も知らないという人には意外性のあるキャラクターだろう。
「バットマン・フォーエヴァー」ではトミー・リー・ジョーンズが演じていたが、今回トゥー・フェイス誕生の経緯は原作と大きく異なり、なるほど物語の流れを生かした上手い脚色になっている。
そして・・・今回の作品を決定付けたのはやはりジョーカーだろう。
この映画史上屈指のパラノイア系キャラクターを演じたヒース・レジャーは、残念ながら今年一月に急死してしまったが、彼の演技は鬼気迫るもの。
ティム・バートン版でジャック・ニコルソンが演じた、コミカルな狂気を感じさせるキャラクターとは大きく異なり、正に人間の中の醜さと悲しさだけを抽出したような存在になっている。
落書きが水に塗れて溶けた様な、不気味極まりないメイクも含めて、子供が見たらトラウマ化必至のキャラクターで、観る者の脳裏に強烈に残る。
ヒース・レジャーは、図らずも劇中のジョーカーの意図した通り、死して暗黒の時代の伝説となったのかもしれない。
この深みとキレに対抗できるのは、やはり歳月を経たウィスキー。
今回はイギリスを代表する蒸留所グレンリヴェットから、「ベリーズ・オウン・セレクション ザ・グレンリヴェット 1974」をチョイス。
適度に軽く、それでいてエレガントで深い。
お手本のようなシングルモルト。
犬に追い立てられ、ヨレヨレになって逃げるバットマンの悲哀に思いを馳せたい。
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7月18日の全米公開以来、あらゆる興行記録を塗り替えているとか、IMDbのユーザー評価で歴代1位に躍り出たとか、故ヒース・レジャーのオスカー受賞が早くも取りざたされているとか、とにかく凄いらしいという事は伝わってきていたが、これは本当に期待に違わぬ出来栄えであった。
「ダークナイト」は、間違いなく「バットマン・ビギンズ」を遥かに上回るクリストファー・ノーランのベスト、いやアメコミ原作物の決定版と言える、映画史に残る傑作である。
バットマンことブルース・ウェイン(クリスチャン・ベール)によって冷や飯を食わされていた犯罪組織のボスたちは、バットマンを殺してみせるという謎の男、ジョーカー(ヒース・レジャー)を雇う。
彼は、「バットマンがマスクを脱ぐまでは、市民を殺し続ける」というルールで、バットマンと市当局に宣戦を布告する。
ジョーカーの執拗な襲撃によって、次々とターゲットとされた人々が倒れると、恐怖に駆られた人たちは、姿を見せないバットマンを卑怯者呼ばわりし始める。
正義感溢れる新任地方検事のデント(アーロン・エッカート)に、ゴッサムシティの正義を託そうとするバットマンは、会見で自分の正体を明かす決断をするのだが・・・
クリストファー・ノーランと言えば凝りに凝った脚本の人だが、今回は特に凄い。
物語の中心にいるのはバットマンとジョーカー、デントの三人。
彼らはそれぞれ陰と陽、善と悪、表と裏を象徴するキャラクターだが、一見対照的な彼ら三人は、実は同時に合わせ鏡であり、互いの中に自分を見る関係である。
互いが同時に裏の裏をかこうとするスリリングかつ複雑怪奇な騙し合いの中で、幾重にも絡み合った登場人物の葛藤が、物語に深いテーマを描き出してゆく。
これは本当に頭の良い人にしか書けない脚本である。
ゴッサムシティの影の番人としてのバットマンと、対照的に表の世界で新たなヒーローとして登場したデント。
レイチェルがデントに惹かれてゆく事に、バットマンは人間的な痛みを感じ、早くダークヒーローとしての役割を終えたがっている。
そこへ登場したのが、バットマンの考える「悪」という概念の外にいるジョーカー。
彼は、理屈の存在しない悪のための悪、破壊のための破壊、つまりは恐怖そのものだ。
この理解不能な敵は、バットマンが正体を明かすまで、ゴッサムシティを攻撃し続けるという脅しをかける。
恐怖からあっさりとバットマン非難に転じる人々を見て、バットマンの葛藤はより深まる。
この状況の中で、バットマンとデントは、人々の心に残る正義の炎を絶やさない為に、自己犠牲的な行動によってジョーカーを追い詰めようとするのだが、それすらもジョーカーに新たなゲームのネタを提供しただけという皮肉。
ジョーカーが死のゲームを通して繰り出す、いくつもの「究極の選択」は、人々の心を急速に支配してゆく。
闇の中に恐怖が充満し、混沌としたゴッサムシティは、ある意味でアメリカ人の見た世界の戯画化された姿かもしれない。
ジョーカーは明確な目的を持たず、破壊のための破壊を行うテロリズムのメタファーと見ることが出来る。
劇中、ジョーカーがバットマンを名乗った偽者を拉致し、彼を拷問し処刑するビデオをマスコミに送りつけるのは、イラクやアフガニスタンで誘拐した外国人の処刑シーンをネットに流し、世界に恐怖を植えつけるテロリストの行動を思わせる。
そのジョーカーに対抗する術を持たず、あまつさえ彼の中に自らの姿すら見てしまうバットマンの困惑と痛みは、もはや単なるアメコミヒーロー物の範疇を軽く超えている。
スパイダーマンやハルクの葛藤は、基本的に彼ら個人の問題であったが、ここでは世界のあり方そのものが葛藤の核心となるのである。
ぶっちゃけ「漫画」であるにもかかわらず、混沌と恐怖によって支配されるこの映画の世界は、恐ろしく今の時代のリアリティに富む。
クライマックスで、バットマンが一縷の望みを託す大衆の選択が、むしろ一番嘘っぽく見えてしまうあたり、物語を通して世界の本質的な姿を見せ付けられてしまったかのようにすら思えてくる。
だからこそ、この時代に真のヒーローは、闇の騎士「ダークナイト」として生きるしかないのだろう。
因みに今回バットマンは、マフィアの資金の鍵を握る中国人実業家ラウを捕らえるために、初めてゴッサムシティを離れて香港に飛ぶ。
この映画が戯画化された世界だと考えると、ゴッサムシティという虚構の街からあえて香港という現実の街を描写したあたりも、中国と言う存在に対するある種の恐れを反映している様で意味深だ。
前作を含めて、これがノーランとの三度目のコンビとなる、クリスチャン・ベール以下のキャストは前作からほぼ続投。
唯一レイチェル役だけがケイティ・ホームズからマギー・ギレンホールへと代わっている。
新キャラクターとしては、アーロン・エッカート扮する地方検事ハーヴェイ・デントが登場し、ゲイリー・オールドマンの御馴染ゴードン警部補と犯罪撲滅でタッグを組む。
前作ではあまり目立たなかったゴードンも、今回は大活躍だ。
物語の後半登場するのはトゥー・フェイス。
この役は原作を知っていれば誰の事なのかはお馴染みだが、原作も「バットマン・ビギンズ」以前の映画も知らないという人には意外性のあるキャラクターだろう。
「バットマン・フォーエヴァー」ではトミー・リー・ジョーンズが演じていたが、今回トゥー・フェイス誕生の経緯は原作と大きく異なり、なるほど物語の流れを生かした上手い脚色になっている。
そして・・・今回の作品を決定付けたのはやはりジョーカーだろう。
この映画史上屈指のパラノイア系キャラクターを演じたヒース・レジャーは、残念ながら今年一月に急死してしまったが、彼の演技は鬼気迫るもの。
ティム・バートン版でジャック・ニコルソンが演じた、コミカルな狂気を感じさせるキャラクターとは大きく異なり、正に人間の中の醜さと悲しさだけを抽出したような存在になっている。
落書きが水に塗れて溶けた様な、不気味極まりないメイクも含めて、子供が見たらトラウマ化必至のキャラクターで、観る者の脳裏に強烈に残る。
ヒース・レジャーは、図らずも劇中のジョーカーの意図した通り、死して暗黒の時代の伝説となったのかもしれない。
この深みとキレに対抗できるのは、やはり歳月を経たウィスキー。
今回はイギリスを代表する蒸留所グレンリヴェットから、「ベリーズ・オウン・セレクション ザ・グレンリヴェット 1974」をチョイス。
適度に軽く、それでいてエレガントで深い。
お手本のようなシングルモルト。
犬に追い立てられ、ヨレヨレになって逃げるバットマンの悲哀に思いを馳せたい。

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