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2008年08月08日 (金) | 編集 |
2004年の「イノセンス」以来となる、押井守の新作アニメーション映画。
彼は意外と寡作な作家で、劇場用アニメーションに限れば、監督としては「攻殻機動隊」と「パトレイバー」の両シリーズ、「うる星やつら2/ビューティフルドリーマー」しか手がけていない。
その分、一作ごとの変化も興味深く、「スカイ・クロラ」という一風変わったタイトルを持つこの作品も、今までの押井守作品とは微妙に雰囲気が異なり、今の時代を強く意識した物になっている。
戦争がショーとして行われる世界。
年をとらず、永遠に思春期の姿で生きる「キルドレ」の函南優一(加瀬亮)は、戦闘機パイロットとして兎離州基地に赴任する。
前任者の機体を受け継いだ優一だったが、不思議な事にまるで自分が長年乗っていた機体であるかのように、自然に乗りこなす事が出来る。
そんな優一を複雑な感情を湛えた眼差しで見つめる、指揮官の草薙水素(菊地凛子)は、優一の前任者と浅からぬ因縁があるようだったが、基地の誰もその事に触れようとはしない。
ある日、同僚パイロットの湯田川が撃墜され戦死する事件が起こる。
相手は機体に黒豹のマークを描いた「ティーチャー」と呼ばれる撃墜王だった・・・
不思議なムードを持つ、極めて詩的な作品である。
ジャンルとしては、ある種のパラレルワールドを舞台とした戦争映画と言って良いと思うが、物語の背景の説明などは殆ど無い。
そこがどんな世界で、なぜ戦争が行われていて、そもそも戦っている彼らは何者なのかという説明は、物語の進行と共に徐々に判ってくる構造になっているが、それでもトータルで観ると最後まで明かされない部分が多い。
この世界の戦争は、それを遂行する専門の企業によって行われる一種のゲームであり、実際に戦闘機に乗り、戦闘に参加しているのは、思春期のまま永遠に年をとらない「キルドレ」と呼ばれる若者たち。
物語は、キルドレの一人である函南優一の視点で進むのだが、そもそも彼自身が自分を含めた世界の姿を理解していないのである。
彼は、ある日基地に赴任してきて、旧日本海軍の震電に似たエンテ型の戦闘機「散花」に乗って、任務があれば飛び、敵がいれば戦う。
特に何を考えるでもなく、年をとらないから、戦死しないかぎり、永遠にその繰り返しだ。
この作品は、「何も変わらない日常」を生きる優一が、女性指揮官である草薙水素やパートナーの土岐野尚史といったキルドレたち、あるいは基地の近くに住むフーコら大人の女たちとのつながりを通して、少しずつ自分自身の存在というものを認識してゆく物語と言えるかもしれない。
「我思う、故に我あり」とは哲学者のデカルトの言葉だが、自分の存在すら実感できない優一はある意味で存在していないのと同じである。
これは劇中で明かされる、キルドレたち誕生の秘密と、なぜ彼らが戦っているのかという設定にも関わってくるのだが、彼らは存在していないが故に、ゲームとしての戦争が成り立っている。
永遠の生は、見方によっては永遠の死と同じである。
キルドレたちの中には生と死の区別はおそらく無く、そのどちらも実感が希薄で、いわば偽りの生と偽りの死の狭間あるヴァーチャルな存在であり、彼らが戦っているのも、創造主である大人たちの作り出した偽りの戦争だ。
もちろん、そんな戦争によって保たれている外の世界の平和もまた、偽りの産物である事に変わりは無いのだが。
背景や戦闘機などのメカはリアルな3DCGで作られ、空戦シーンは迫力がある。
対照的に人間は昔ながらの手描きアニメーションのタッチで表現されており、「ベクシル」などに観られるセル調デザインの3DCGはあえて避けられ、そこにギャップを生み出している。
不思議な事に、観ているうちにだんだんと手描きのキャラクターたちがリアルに、最初リアルに感じた3DCGの背景や空中戦の描写が幻想のように見えてくる。
これは優一の心理にシンクロして、徐々にキルドレたちに感情移入して観ているからだろうが、本来の生命のプロセスから外れた存在であるキルドレは、満ち足りているのに生きている実感を得られず、閉塞感に苛まれる今の時代の象徴だろう。
自らの生に現実感を持たない主人公が、世界をいかに感じるかというアプローチによって、生命の中に見出す希望というテーマを描き出したのは秀逸だ。
面白いのは、物語前半の優一を含めて、永遠のループに特に抵抗する姿勢を見せない男たちに対して、キルドレでありながら子供を生むという選択をした水素や、生を感じられない自分に恐怖すら感じる三ツ矢碧といった女性キャラクターは、現状に抵抗を試みている事だ。
たとえ自らは生死の外にある存在だとしても、女という性の持つ命を生み出す力は、それ自体が希望に繋がるという事だろうか。
キャラクターとしては一度もその姿を見せないにもかかわらず、影のように物語を支配する撃墜王ティーチャーは、キルドレではなく大人の男。
つまり、創造物であるキルドレが決して越えられない現実の壁だ。
水素とのつかの間の出会で愛を知り、生きる事の意味を見出した優一は、永遠の日常を外れて、あえて壁に挑む事で、世界を包み込む巨大なループに希望という名の小さな楔を打ち込んだのかもしれない。
「スカイ・クロラ」は、極めて今日的なテーマを含んだ秀作だが、気になる点もある。
それまで頑なに説明的な描写を避けてきた物語が、キルドレの秘密とテーマの核心を明かす核心部分で、たった2シーンの台詞で全部言い切ってしまったのは少々唐突な感じがしたし、狙いだとしても浮いていたと思う。
また厳密に考えれば、戦争を一般社会から隔離して、キルドレという「人とは異なるモノ」が戦うゲームととらえた時点で、劇中で語られる、人間社会のバランスを取る装置として戦争が必要、という論理は破綻しているのではないか。
それはもう既に、本来の意味での戦争と意味が違ってしまっており、同時に効果も失っていると思うのだが。
もっとも偽りの戦闘と平和を含めて、世界全体の破綻を描き出しているという解釈もなりたつのだけど。
今回は夏の空の様な青いボトルが特徴的な「スカイ・ウォッカ」をチョイス。
アメリカとイタリアの合作で作られるこの酒は、非常にスッキリと飲みやすく、夏向きである。
キンキンに冷やしてストレートも良いが、ロックにしてグレープフルーツを絞ったりしても美味しい。
曖昧な時代の憂鬱を味わった後は、舌と喉で生命を実感しよう。
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彼は意外と寡作な作家で、劇場用アニメーションに限れば、監督としては「攻殻機動隊」と「パトレイバー」の両シリーズ、「うる星やつら2/ビューティフルドリーマー」しか手がけていない。
その分、一作ごとの変化も興味深く、「スカイ・クロラ」という一風変わったタイトルを持つこの作品も、今までの押井守作品とは微妙に雰囲気が異なり、今の時代を強く意識した物になっている。
戦争がショーとして行われる世界。
年をとらず、永遠に思春期の姿で生きる「キルドレ」の函南優一(加瀬亮)は、戦闘機パイロットとして兎離州基地に赴任する。
前任者の機体を受け継いだ優一だったが、不思議な事にまるで自分が長年乗っていた機体であるかのように、自然に乗りこなす事が出来る。
そんな優一を複雑な感情を湛えた眼差しで見つめる、指揮官の草薙水素(菊地凛子)は、優一の前任者と浅からぬ因縁があるようだったが、基地の誰もその事に触れようとはしない。
ある日、同僚パイロットの湯田川が撃墜され戦死する事件が起こる。
相手は機体に黒豹のマークを描いた「ティーチャー」と呼ばれる撃墜王だった・・・
不思議なムードを持つ、極めて詩的な作品である。
ジャンルとしては、ある種のパラレルワールドを舞台とした戦争映画と言って良いと思うが、物語の背景の説明などは殆ど無い。
そこがどんな世界で、なぜ戦争が行われていて、そもそも戦っている彼らは何者なのかという説明は、物語の進行と共に徐々に判ってくる構造になっているが、それでもトータルで観ると最後まで明かされない部分が多い。
この世界の戦争は、それを遂行する専門の企業によって行われる一種のゲームであり、実際に戦闘機に乗り、戦闘に参加しているのは、思春期のまま永遠に年をとらない「キルドレ」と呼ばれる若者たち。
物語は、キルドレの一人である函南優一の視点で進むのだが、そもそも彼自身が自分を含めた世界の姿を理解していないのである。
彼は、ある日基地に赴任してきて、旧日本海軍の震電に似たエンテ型の戦闘機「散花」に乗って、任務があれば飛び、敵がいれば戦う。
特に何を考えるでもなく、年をとらないから、戦死しないかぎり、永遠にその繰り返しだ。
この作品は、「何も変わらない日常」を生きる優一が、女性指揮官である草薙水素やパートナーの土岐野尚史といったキルドレたち、あるいは基地の近くに住むフーコら大人の女たちとのつながりを通して、少しずつ自分自身の存在というものを認識してゆく物語と言えるかもしれない。
「我思う、故に我あり」とは哲学者のデカルトの言葉だが、自分の存在すら実感できない優一はある意味で存在していないのと同じである。
これは劇中で明かされる、キルドレたち誕生の秘密と、なぜ彼らが戦っているのかという設定にも関わってくるのだが、彼らは存在していないが故に、ゲームとしての戦争が成り立っている。
永遠の生は、見方によっては永遠の死と同じである。
キルドレたちの中には生と死の区別はおそらく無く、そのどちらも実感が希薄で、いわば偽りの生と偽りの死の狭間あるヴァーチャルな存在であり、彼らが戦っているのも、創造主である大人たちの作り出した偽りの戦争だ。
もちろん、そんな戦争によって保たれている外の世界の平和もまた、偽りの産物である事に変わりは無いのだが。
背景や戦闘機などのメカはリアルな3DCGで作られ、空戦シーンは迫力がある。
対照的に人間は昔ながらの手描きアニメーションのタッチで表現されており、「ベクシル」などに観られるセル調デザインの3DCGはあえて避けられ、そこにギャップを生み出している。
不思議な事に、観ているうちにだんだんと手描きのキャラクターたちがリアルに、最初リアルに感じた3DCGの背景や空中戦の描写が幻想のように見えてくる。
これは優一の心理にシンクロして、徐々にキルドレたちに感情移入して観ているからだろうが、本来の生命のプロセスから外れた存在であるキルドレは、満ち足りているのに生きている実感を得られず、閉塞感に苛まれる今の時代の象徴だろう。
自らの生に現実感を持たない主人公が、世界をいかに感じるかというアプローチによって、生命の中に見出す希望というテーマを描き出したのは秀逸だ。
面白いのは、物語前半の優一を含めて、永遠のループに特に抵抗する姿勢を見せない男たちに対して、キルドレでありながら子供を生むという選択をした水素や、生を感じられない自分に恐怖すら感じる三ツ矢碧といった女性キャラクターは、現状に抵抗を試みている事だ。
たとえ自らは生死の外にある存在だとしても、女という性の持つ命を生み出す力は、それ自体が希望に繋がるという事だろうか。
キャラクターとしては一度もその姿を見せないにもかかわらず、影のように物語を支配する撃墜王ティーチャーは、キルドレではなく大人の男。
つまり、創造物であるキルドレが決して越えられない現実の壁だ。
水素とのつかの間の出会で愛を知り、生きる事の意味を見出した優一は、永遠の日常を外れて、あえて壁に挑む事で、世界を包み込む巨大なループに希望という名の小さな楔を打ち込んだのかもしれない。
「スカイ・クロラ」は、極めて今日的なテーマを含んだ秀作だが、気になる点もある。
それまで頑なに説明的な描写を避けてきた物語が、キルドレの秘密とテーマの核心を明かす核心部分で、たった2シーンの台詞で全部言い切ってしまったのは少々唐突な感じがしたし、狙いだとしても浮いていたと思う。
また厳密に考えれば、戦争を一般社会から隔離して、キルドレという「人とは異なるモノ」が戦うゲームととらえた時点で、劇中で語られる、人間社会のバランスを取る装置として戦争が必要、という論理は破綻しているのではないか。
それはもう既に、本来の意味での戦争と意味が違ってしまっており、同時に効果も失っていると思うのだが。
もっとも偽りの戦闘と平和を含めて、世界全体の破綻を描き出しているという解釈もなりたつのだけど。
今回は夏の空の様な青いボトルが特徴的な「スカイ・ウォッカ」をチョイス。
アメリカとイタリアの合作で作られるこの酒は、非常にスッキリと飲みやすく、夏向きである。
キンキンに冷やしてストレートも良いが、ロックにしてグレープフルーツを絞ったりしても美味しい。
曖昧な時代の憂鬱を味わった後は、舌と喉で生命を実感しよう。

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