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2008年09月30日 (火) | 編集 |
「グーグーだって猫である」は少女漫画の巨匠、大島弓子による自伝的なエッセイ漫画の映画化。
ただし、原作の主人公は大島弓子本人なのに、映画では彼女をモデルとした小島麻子という架空の人物になっている。
なぜわざわざこの様な改変をしたのかが疑問だったのだが、映画を観てようやく理解できた。
「グーグーだって猫である」は、タイトルとモチーフは共通しているものの、物語的にはほぼ映画オリジナルであり、原作漫画とは全くの別物なのだ。
天才漫画家の小島麻子(小泉今日子)は、愛猫サバを失った悲しみからペットロスに陥る。
アシスタントのナオミ(上野樹里)たちは、落ち込む麻子を見ていられない。
そんなある日、麻子は突然ペットショップでぐるぐる模様の子猫を買ってきて、グーグーと命名する。
ようやく元気になる麻子だったが、ある日雌猫を追いかけてグーグーが逃亡。
公園でグーグーを捕まえてくれたのは、近所に住む青年・沢村(加瀬亮)だった。
ナオミはいまだ独身の麻子を結婚させるチャンスとばかりに、麻子と沢村を接近させようとするのだが、今度は麻子が突然の体調不良に襲われて・・・
う~ん、困った映画だ。
私は大島弓子の漫画が大好きだし、勿論この原作も持っていて、映画化には大いに期待していた。
なのに、この映画は私が観たかった物はちっとも見せてくれないばかりか、ほとんど別物といって良いくらいに改変してしまっている。
原作は、基本的に大島弓子と猫のグーグーの物語であって、人間の主要人物は彼女以外ほとんど出てこないし、猫は逆にグーグー以外にもどんどんと増えて、猫との暮らしを通して、大島弓子が知った事、感じた事を素直に綴った漫画となっている。
猫派の私としては、当然映画も人間と猫の心の交流を描いた猫映画だと思っていた。
ところが出来上がった映画は、一応グーグーは出てくるものの、存在感は思いのほか薄く、ほとんど完全な人間ドラマに成ってしまっている。
冒頭で麻子がサバを失って、グーグーと出会う部分と、突然の病気に襲われる事以外は、劇中の出来事も登場人物を含めてほぼオリジナル脚本と言える物語であり、正直なところ原作ファンとしては失望としか言い様がない。
しかしながら・・・実は一本の映画として観れば、出来は悪くないのだ。
実質的に物語は、二人の女性の視点で語られる。
小島麻子の視点と、彼女にあこがれる一回り歳の離れたアシスタント、ナオミの視点が絡み合い、真摯に生き方を問う二人の女性の物語と観れば、決してつまらない話ではなく、同じ創作という分野に身を置く私としては、むしろ彼女らにどっぷりと感情移入してしまった。
長年無心に仕事をして、多くの作品を作り出してきたはずなのに、愛猫の死によってふと気付かされる自分自身の心の穴。
小泉今日子が抜群に良い事もあって、麻子の心の機微が繊細に伝わってくる。
原作を忘れて、40代の独身女性である小島麻子を主人公とした人間ドラマとしては、これはこれでなかなか良く出来ているのだ。
犬童一心監督は、大島弓子のファンなんだろうと思う。
原作ではほとんど触れられていない彼女の仕事にまつわる描写が多く、映画全体もどことなく大島漫画の雰囲気を持たせようとしているように見える。
麻子とナオミの関係は、大島漫画によく描かれる女性二人の主人公を思わせるし、サバが傷心の麻子の元へ人間の少女の姿で現れるのは、言わずと知れた代表作「綿の国星」のイメージだろう。
たぶん犬童監督は、「グーグーだって猫である」を追求しているうちに、そこに描かれている人間と猫の物語よりも、主人公である大島弓子というキャラクターそのものを描きたくなってしまったのではないだろうか。
この作品は、小島麻子と名を変えた、大島弓子という女性の内面を映し出す事に、グーグーを含めたすべての要素が当てはめられている様に思える。
そう考えると、これは犬童監督による「大島弓子論」に近いのかもしれず、その意味では良く出来た作品だ。
ただ、やはり私にはこの作品に「グーグーだって猫である」というタイトルが付いていることが気になる。
少なくとも、原作を読んでいる人にとっては、これは違うだろうと思わざるを得ないんじゃないだろうか。
元々猫物に限らず、動物映画は難しい。
まず動物は人間と違って心を表現する言葉を持たないから、人間との感情の交わりそのものが描きにくく、物語を成立させにくい。
それにうまく物語を作れたとしても、決して思い通りに動いてくれる事はないから、今度はそれを撮るのが難しい。
ハリウッド映画みたいに、CGの動物に演技させたり喋らせたりという手もあるが、あれは動物映画というカテゴリとは違うものだと思う。
そんなこんなで、動物映画として企画されても、ほとんどの作品は実質的には動物は添え物で単なる人間ドラマになってしまい、猫萌え、犬萌えを期待して行く観客をがっかりさせてしまうのだ。
今回の「グーグーだって猫である」も、そういう意味では予想通りと言えなくもないのだが、やはり原作が素晴らしいだけに、テーマを含めて全く異なるアプローチにはちょっと納得出来ない気持ちがある。
一本の映画として、「なかなか面白いドラマじゃないか」と冷静に観ている自分と「こんなんグーグーじゃない」とがっかりしている自分が、観終わって心の中で葛藤している、そんな微妙な作品だった。
たぶん、原作未読者の方が素直に楽しめるのではないだろうか。
今回は仔猫(Kitty)という名のカクテルを。
赤ワインとジンジャーエールを1:1の割合で、氷を入れたグラスに注ぎ、軽くステアして完成。
酸味の中にほのかな甘さを感じ、あっさりとして飲みやすい。
因みに世間には酒を飲む猫がいると聞いた事があるが、本当だろうか。
うちの猫はアルコールの香りが嫌いで、飲んでいるとどこかへ行ってしまうが・・・
愛猫と晩酌。
ある意味猫派の酒飲みの夢である。(ホントに)
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ただし、原作の主人公は大島弓子本人なのに、映画では彼女をモデルとした小島麻子という架空の人物になっている。
なぜわざわざこの様な改変をしたのかが疑問だったのだが、映画を観てようやく理解できた。
「グーグーだって猫である」は、タイトルとモチーフは共通しているものの、物語的にはほぼ映画オリジナルであり、原作漫画とは全くの別物なのだ。
天才漫画家の小島麻子(小泉今日子)は、愛猫サバを失った悲しみからペットロスに陥る。
アシスタントのナオミ(上野樹里)たちは、落ち込む麻子を見ていられない。
そんなある日、麻子は突然ペットショップでぐるぐる模様の子猫を買ってきて、グーグーと命名する。
ようやく元気になる麻子だったが、ある日雌猫を追いかけてグーグーが逃亡。
公園でグーグーを捕まえてくれたのは、近所に住む青年・沢村(加瀬亮)だった。
ナオミはいまだ独身の麻子を結婚させるチャンスとばかりに、麻子と沢村を接近させようとするのだが、今度は麻子が突然の体調不良に襲われて・・・
う~ん、困った映画だ。
私は大島弓子の漫画が大好きだし、勿論この原作も持っていて、映画化には大いに期待していた。
なのに、この映画は私が観たかった物はちっとも見せてくれないばかりか、ほとんど別物といって良いくらいに改変してしまっている。
原作は、基本的に大島弓子と猫のグーグーの物語であって、人間の主要人物は彼女以外ほとんど出てこないし、猫は逆にグーグー以外にもどんどんと増えて、猫との暮らしを通して、大島弓子が知った事、感じた事を素直に綴った漫画となっている。
猫派の私としては、当然映画も人間と猫の心の交流を描いた猫映画だと思っていた。
ところが出来上がった映画は、一応グーグーは出てくるものの、存在感は思いのほか薄く、ほとんど完全な人間ドラマに成ってしまっている。
冒頭で麻子がサバを失って、グーグーと出会う部分と、突然の病気に襲われる事以外は、劇中の出来事も登場人物を含めてほぼオリジナル脚本と言える物語であり、正直なところ原作ファンとしては失望としか言い様がない。
しかしながら・・・実は一本の映画として観れば、出来は悪くないのだ。
実質的に物語は、二人の女性の視点で語られる。
小島麻子の視点と、彼女にあこがれる一回り歳の離れたアシスタント、ナオミの視点が絡み合い、真摯に生き方を問う二人の女性の物語と観れば、決してつまらない話ではなく、同じ創作という分野に身を置く私としては、むしろ彼女らにどっぷりと感情移入してしまった。
長年無心に仕事をして、多くの作品を作り出してきたはずなのに、愛猫の死によってふと気付かされる自分自身の心の穴。
小泉今日子が抜群に良い事もあって、麻子の心の機微が繊細に伝わってくる。
原作を忘れて、40代の独身女性である小島麻子を主人公とした人間ドラマとしては、これはこれでなかなか良く出来ているのだ。
犬童一心監督は、大島弓子のファンなんだろうと思う。
原作ではほとんど触れられていない彼女の仕事にまつわる描写が多く、映画全体もどことなく大島漫画の雰囲気を持たせようとしているように見える。
麻子とナオミの関係は、大島漫画によく描かれる女性二人の主人公を思わせるし、サバが傷心の麻子の元へ人間の少女の姿で現れるのは、言わずと知れた代表作「綿の国星」のイメージだろう。
たぶん犬童監督は、「グーグーだって猫である」を追求しているうちに、そこに描かれている人間と猫の物語よりも、主人公である大島弓子というキャラクターそのものを描きたくなってしまったのではないだろうか。
この作品は、小島麻子と名を変えた、大島弓子という女性の内面を映し出す事に、グーグーを含めたすべての要素が当てはめられている様に思える。
そう考えると、これは犬童監督による「大島弓子論」に近いのかもしれず、その意味では良く出来た作品だ。
ただ、やはり私にはこの作品に「グーグーだって猫である」というタイトルが付いていることが気になる。
少なくとも、原作を読んでいる人にとっては、これは違うだろうと思わざるを得ないんじゃないだろうか。
元々猫物に限らず、動物映画は難しい。
まず動物は人間と違って心を表現する言葉を持たないから、人間との感情の交わりそのものが描きにくく、物語を成立させにくい。
それにうまく物語を作れたとしても、決して思い通りに動いてくれる事はないから、今度はそれを撮るのが難しい。
ハリウッド映画みたいに、CGの動物に演技させたり喋らせたりという手もあるが、あれは動物映画というカテゴリとは違うものだと思う。
そんなこんなで、動物映画として企画されても、ほとんどの作品は実質的には動物は添え物で単なる人間ドラマになってしまい、猫萌え、犬萌えを期待して行く観客をがっかりさせてしまうのだ。
今回の「グーグーだって猫である」も、そういう意味では予想通りと言えなくもないのだが、やはり原作が素晴らしいだけに、テーマを含めて全く異なるアプローチにはちょっと納得出来ない気持ちがある。
一本の映画として、「なかなか面白いドラマじゃないか」と冷静に観ている自分と「こんなんグーグーじゃない」とがっかりしている自分が、観終わって心の中で葛藤している、そんな微妙な作品だった。
たぶん、原作未読者の方が素直に楽しめるのではないだろうか。
今回は仔猫(Kitty)という名のカクテルを。
赤ワインとジンジャーエールを1:1の割合で、氷を入れたグラスに注ぎ、軽くステアして完成。
酸味の中にほのかな甘さを感じ、あっさりとして飲みやすい。
因みに世間には酒を飲む猫がいると聞いた事があるが、本当だろうか。
うちの猫はアルコールの香りが嫌いで、飲んでいるとどこかへ行ってしまうが・・・
愛猫と晩酌。
ある意味猫派の酒飲みの夢である。(ホントに)

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2008年09月27日 (土) | 編集 |

ポール・ニューマンが亡くなった。
享年83歳というから、大往生と言って良いだろう。
俳優としては説明の必要のないくらいの大スターだったし、地味ながら数本の注目すべき監督作品も残している。
1987年の「ガラスの動物園」が、彼の監督しての最高傑作にして遺作(それにしてももう21年も前の作品だが)となってしまった。
彼の経歴で特異なのは、映画界以外の分野でも大いに活躍した事で、モータースポーツ好きには偉大なるアマチュアレーサー、あるいはインディーカーの名門ニューマン・ハース・チームのオーナーとしてもお馴染みだった。
彼は、伝統のデイトナ24時間レースにおいて、史上最高齢でクラス優勝を成し遂げた男でもあり、俳優(声優?)としての遺作が「カーズ」のドク・ハドソン役だったのは、ある意味でとても彼らしい。
ただ個人的には、ニューマンというと、食品会社のNewman’s Ownの創設者としての印象が強い。
25年ほど前にドレッシングからスタートしたこの会社は、単なる俳優のサイドビジネスという枠をはるかに超えて、現在ではドレッシングからドッグフードまで、多岐に渡る食品を作っており、この分野でアメリカを代表する企業の一つである。
私はアメリカに住んでいた頃、Newman’s Ownのパスタソースが大好きで、大瓶を何本も買い込んでいたくらいだ。
毎日冷蔵庫を開けると、ニューマン印のラベルと顔をあわせていたのだから、映画よりも何よりも印象が強くならないわけは無い。
残念ながら日本では殆ど見かける事がないのだけど、どこか正規輸入してくれないだろうか。
ネットショップなどではあるけど、お値段高めだし。
全般にここの製品はあっさり味で日本人の味覚には合うと思うのだけど。
映画、そして食という二つの文化に大きな足跡を残した、アメリカの偉大なお爺ちゃん。
盟友レッドフォードはどのような想いか。
安らかに・・・合掌。


2008年09月24日 (水) | 編集 |
ジュール・ヴェルヌ原作の「地底探検」のリメイク。
監督に、懐かしのディズニーランドの立体映画アトラクション「キャプテンEO」などのVFXマンとして知られるエリック・ブレヴィッグを起用した「センター・オブ・ジ・アース 3D」は、完全な立体映画として作られている。
物語はいたってシンプルで、映画は迫力ある立体映像を楽しませるために徹底的にビジュアル重視に仕上げられており、そのためには最低限のリアリティすらあえて踏み外す作りは、映画というよりは遊園地のライドに近い。
映画館によって2D上映と3D上映があるが、観に行くなら多少遠くても3D上映を選ぶべきだ。
この内容で2D上映では、楽しさ半分、アルコールの入ってない酒を飲むようなものである。
地質学者のトレバー(ブレンダン・フレイザー)は、甥っ子のショーン(ジョシュ・ハッチャーソン)を預かる事になる。
彼は十年前に失踪した兄の子だが、ゲームにしか関心を向けないイマドキの問題児。
その頃、アイスランドに設置されている計測器が異常な数値を計測している事がわかり、トレバーはやむなくショーンを連れてアイスランドへ。
山岳ガイドのハンナ(アニタ・ブリエム)に案内されて現場のスネフェル山脈にたどり着いたものの、金属の計測器めがけて、激しい落雷が襲う。
避難のために入った洞窟に閉じ込められてしまった三人は、出口を求めて奥へと進むのだが、突如として巨大な竪穴が口を開ける。
長い長い落下の末に、彼らは驚愕の地底世界に投げ出される。
だが、人跡未踏のはずのその世界には、既に誰かが足を踏み入れた形跡があった・・・・
今まで何度も映像化されてきたヴェルヌの原作だが、さすがに100年以上前に書かれたSF小説は現在の目で見ればSFというよりはファンタジーに近く、脚色にはちょっとした工夫が凝らされている。
主人公トレバーの失踪した兄は、ヴェルヌの小説は「サイエンス・フィクション」ではなく、事実に基づいた「サイエンス・ファクト」だと信じるヴェルニアンと呼ばれるマニアで、「地底探検」は、彼が追い求めていた地底世界への手引書だという設定になっている。
地球の構造に関する科学知識が、広く一般に知れ渡った現在に、荒唐無稽な地底世界を成立させる、なかなかに上手い導入部だ。
これは、原作をそのまま映画化したというよりは、子供の頃原作を読んで、こんな世界があったらなあと夢見た作り手たちが、その夢想のプロセスを映画の中に再現した様な作品なのだ。
映像的には、最大の売りである立体映像を最大限楽しませる作りになっている。
ちょっと年配の方は立体映画というと赤青のメガネを連想するかもしれないが、こちらはメガネはメガネでも、見た目は普通のサングラス。
Real3D方式と呼ばれる最新の立体上映システムは、原理的には従来の立体技術を組み合わせて発展させた物なのだが、圧倒的に目への負担が少ないという利点がある。
今までは一時間も観ていると目がかなり疲れる感じがあったが、これは最後まで疲労感は無かった。
もっとも、元々メガネの人にとっては、二重にメガネをかける事になり、なんとも鼻が重たい事に変わりはないのだけど。
多くの遊園地やエキスポの3Dライドがそうであるように、ぶっちゃけ物語の整合性は二の次で、この作品のプライオリティはいかに立体である事を強調するかという点に尽きる。
三人が地下に閉じ込められた後は、「インディー・ジョーンズ/魔宮の伝説」を思わせるトロッコチェイスを皮切りに、いつ果てるとも無い竪穴の落下、地底の大海の横断、古代生物との戦いと、行き着くまもなく見せ場の連続。
それもいちいち画面の奥行きを強調する空間設計が施されており、どう考えても実用上ありえないトロッコ線路の設計とか、普通に考えればおかしなところも立体演出上効果的なら御構いなし。
もちろん今までも派手なビジュアルのつるべ打ちで見せていった映画は数多いが、これは本当に遊園地の3Dライドを何度も乗り継ぐように、10分見せ場があって、休息を兼ねた5分のドラマ、また10分見せ場で5分ドラマと、機械的な構成が徹底している。
そう、この映画では物語を楽しむために立体効果があるのではなく、立体効果を楽しむためそのガイドとして物語が設えられている作品なのだ。
ただ、短時間で完結するライドと異なり、二時間近い時間を暗闇に留め置かなければならない映画の場合、やはりそれなりの方法論が必要なのではないだろうか。
確かにそれぞれの見せ場は迫力満点で実に楽しい物だったが、個人的にはあまりもシステマチックな作品の構造に、途中からやや中ダレを感じてしまったのも事実だ。
映画館で映画を鑑賞するというスタイルが、今後生き残ってゆくために、立体映画が大きな武器になるのは間違いないだろう。
事実、アメリカを中心にReal3D方式をはじめ立体上映が可能な映画館は嘗て無い勢いで増加しており、立体上映に対応した作品も年々増えている。
ただ多くの場合、普通の映画の付加価値として立体上映を行っているのに対して、「センター・オブ・ジ・アース 3D」は、その間逆のスタンスで作られている。
見世物としての立体映画に、付加価値としての物語。
これは19世紀終わりに、見世物として映画が発明されて、現在の形になるまでの原初の姿そのものだが、やはり上映時間のくくりがある以上、見世物としてだけ存在する映画には限界があると思う。
これはこれで楽しいが、過去何度もあった立体映画ブームがそうであったように、このスタンスの映画作りは直ぐに飽きられるだろう。
結局のところ、暗闇で平面のスクリーンに上映するという根本が変わらない限り、立体上映はあくまでも付加価値に留まるのではないだろうか。
今回は、原作者ヴェルヌの生まれ故郷、ナント市のあるロワール地方で作られるワイン
ドメーヌ・ル・ブリゾーの「モルティエ」2005年もの。
シンプルだが味の輪郭がクリアで、じんわりと余韻が後を引く。
作り手の顔の見える、良い意味で昔気質な酒である。
古い素材を使ってはいるものの、かなり今風の映画に対して、手作りの味の良さを感じさせてくれるだろう。
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このくらい遊び心があれば・・・
監督に、懐かしのディズニーランドの立体映画アトラクション「キャプテンEO」などのVFXマンとして知られるエリック・ブレヴィッグを起用した「センター・オブ・ジ・アース 3D」は、完全な立体映画として作られている。
物語はいたってシンプルで、映画は迫力ある立体映像を楽しませるために徹底的にビジュアル重視に仕上げられており、そのためには最低限のリアリティすらあえて踏み外す作りは、映画というよりは遊園地のライドに近い。
映画館によって2D上映と3D上映があるが、観に行くなら多少遠くても3D上映を選ぶべきだ。
この内容で2D上映では、楽しさ半分、アルコールの入ってない酒を飲むようなものである。
地質学者のトレバー(ブレンダン・フレイザー)は、甥っ子のショーン(ジョシュ・ハッチャーソン)を預かる事になる。
彼は十年前に失踪した兄の子だが、ゲームにしか関心を向けないイマドキの問題児。
その頃、アイスランドに設置されている計測器が異常な数値を計測している事がわかり、トレバーはやむなくショーンを連れてアイスランドへ。
山岳ガイドのハンナ(アニタ・ブリエム)に案内されて現場のスネフェル山脈にたどり着いたものの、金属の計測器めがけて、激しい落雷が襲う。
避難のために入った洞窟に閉じ込められてしまった三人は、出口を求めて奥へと進むのだが、突如として巨大な竪穴が口を開ける。
長い長い落下の末に、彼らは驚愕の地底世界に投げ出される。
だが、人跡未踏のはずのその世界には、既に誰かが足を踏み入れた形跡があった・・・・
今まで何度も映像化されてきたヴェルヌの原作だが、さすがに100年以上前に書かれたSF小説は現在の目で見ればSFというよりはファンタジーに近く、脚色にはちょっとした工夫が凝らされている。
主人公トレバーの失踪した兄は、ヴェルヌの小説は「サイエンス・フィクション」ではなく、事実に基づいた「サイエンス・ファクト」だと信じるヴェルニアンと呼ばれるマニアで、「地底探検」は、彼が追い求めていた地底世界への手引書だという設定になっている。
地球の構造に関する科学知識が、広く一般に知れ渡った現在に、荒唐無稽な地底世界を成立させる、なかなかに上手い導入部だ。
これは、原作をそのまま映画化したというよりは、子供の頃原作を読んで、こんな世界があったらなあと夢見た作り手たちが、その夢想のプロセスを映画の中に再現した様な作品なのだ。
映像的には、最大の売りである立体映像を最大限楽しませる作りになっている。
ちょっと年配の方は立体映画というと赤青のメガネを連想するかもしれないが、こちらはメガネはメガネでも、見た目は普通のサングラス。
Real3D方式と呼ばれる最新の立体上映システムは、原理的には従来の立体技術を組み合わせて発展させた物なのだが、圧倒的に目への負担が少ないという利点がある。
今までは一時間も観ていると目がかなり疲れる感じがあったが、これは最後まで疲労感は無かった。
もっとも、元々メガネの人にとっては、二重にメガネをかける事になり、なんとも鼻が重たい事に変わりはないのだけど。
多くの遊園地やエキスポの3Dライドがそうであるように、ぶっちゃけ物語の整合性は二の次で、この作品のプライオリティはいかに立体である事を強調するかという点に尽きる。
三人が地下に閉じ込められた後は、「インディー・ジョーンズ/魔宮の伝説」を思わせるトロッコチェイスを皮切りに、いつ果てるとも無い竪穴の落下、地底の大海の横断、古代生物との戦いと、行き着くまもなく見せ場の連続。
それもいちいち画面の奥行きを強調する空間設計が施されており、どう考えても実用上ありえないトロッコ線路の設計とか、普通に考えればおかしなところも立体演出上効果的なら御構いなし。
もちろん今までも派手なビジュアルのつるべ打ちで見せていった映画は数多いが、これは本当に遊園地の3Dライドを何度も乗り継ぐように、10分見せ場があって、休息を兼ねた5分のドラマ、また10分見せ場で5分ドラマと、機械的な構成が徹底している。
そう、この映画では物語を楽しむために立体効果があるのではなく、立体効果を楽しむためそのガイドとして物語が設えられている作品なのだ。
ただ、短時間で完結するライドと異なり、二時間近い時間を暗闇に留め置かなければならない映画の場合、やはりそれなりの方法論が必要なのではないだろうか。
確かにそれぞれの見せ場は迫力満点で実に楽しい物だったが、個人的にはあまりもシステマチックな作品の構造に、途中からやや中ダレを感じてしまったのも事実だ。
映画館で映画を鑑賞するというスタイルが、今後生き残ってゆくために、立体映画が大きな武器になるのは間違いないだろう。
事実、アメリカを中心にReal3D方式をはじめ立体上映が可能な映画館は嘗て無い勢いで増加しており、立体上映に対応した作品も年々増えている。
ただ多くの場合、普通の映画の付加価値として立体上映を行っているのに対して、「センター・オブ・ジ・アース 3D」は、その間逆のスタンスで作られている。
見世物としての立体映画に、付加価値としての物語。
これは19世紀終わりに、見世物として映画が発明されて、現在の形になるまでの原初の姿そのものだが、やはり上映時間のくくりがある以上、見世物としてだけ存在する映画には限界があると思う。
これはこれで楽しいが、過去何度もあった立体映画ブームがそうであったように、このスタンスの映画作りは直ぐに飽きられるだろう。
結局のところ、暗闇で平面のスクリーンに上映するという根本が変わらない限り、立体上映はあくまでも付加価値に留まるのではないだろうか。
今回は、原作者ヴェルヌの生まれ故郷、ナント市のあるロワール地方で作られるワイン
ドメーヌ・ル・ブリゾーの「モルティエ」2005年もの。
シンプルだが味の輪郭がクリアで、じんわりと余韻が後を引く。
作り手の顔の見える、良い意味で昔気質な酒である。
古い素材を使ってはいるものの、かなり今風の映画に対して、手作りの味の良さを感じさせてくれるだろう。

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このくらい遊び心があれば・・・


2008年09月19日 (金) | 編集 |
身近な人の葬儀に初めて出たのは、小学校五年生の春に祖母が亡くなった時だと思う。
それ以来、一体何件の「旅立ち」を見届けてきただろうか・・・
タイトルの「おくりびと」とは、納棺師の事。
浴衣姿の遺体を死装束に着替えさせ、化粧を施して納棺するのは、てっきり葬儀会社の人だと思っていたので、納棺師という独立した職業があること、そこにこれほどまでに洗練された一つの文化がある事は初めて知った。
世の中、まだまだ知らない事だらけだ。
小林大悟(本木雅弘)はオーケストラのチェロ奏者。
ところが突然楽団が解散し、1800万円ものチェロの借金を抱えて途方にくれ、結局音楽の道を諦めて、妻の美香(広末涼子)と共に故郷の山形へ帰る事にする。
就職先を探していた大悟は、新聞広告に出ていた「旅のお手伝い」という文句に引かれて、NKエージェントという会社の面接に訪れる。
即日採用となるものの、てっきり旅行関係だと思っていた会社の業務内容は、葬儀の際の納棺。
つまりNOU-KANエージェントだったのだ。
美香には仕事の詳しい内容を言えないまま、納棺師として徐々に経験をつんでゆく大悟。
しかしある日、美香に仕事の内容がばれてしまい、「汚らわしい仕事」を辞めて欲しいと懇願されるのだが・・・
山形の、四季を感じさせるロケーションが素晴らしい。
雄大な自然の描写だけではなく、大悟の実家やNKエージェントの社屋、重要な舞台となる銭湯の佇まいなど、良くぞ見つけてきたという味のある建物で、この作品の風格作りに大いに寄与している。
ありものだけではなく、実父が昔喫茶店をやっていたという設定の、大悟の実家の内部セットや、NKエージェント二階のジャングルのような社長室のセットもビジュアル的に面白い。
こういうちょっとしたハズシが、いかに画面を豊かにするのか、今更ながら再確認させてもらった。
また地方都市という舞台設定は、もし大都市が舞台であれば御都合主義を感じさせてしまうであろう、濃密な人間関係を自然に感じさせる効果も生んでいる。
ごくごく狭いコミュニティの中で、誰も彼もが顔見知りという状況で展開する物語は、無数の顔も知らない人同士が行き交う東京では、成立しなかっただろう。
まあそれでも、わずか半年の間の出来事としては、ドラマの展開があまりにも整然と揃いすぎているという出来過ぎ感は残るのだが、逆に言えばこの作品で欠点と言えるのはそれだけだ。
この映画は一人の男が、納棺師という職業の意義を自らの中に見出してゆく物語であるが、そこには日本人の死生観に纏わる深い文化的な考察も見て取れる。
大悟の仕事が、遺体を扱う納棺師である事を知った美香は、激しく動揺し彼に仕事を辞める様に懇願する。
そして彼女に触れようとする大悟に「触らないで、汚らわしい!」と叫ぶのだ。
「汚らわしい」は穢れ(ケガレ)に通じる。
この作品には日本人の持つ、死に対する複雑な禁忌感情である、穢れの文化も巧みに織り込まれている。
ちょっと気になって調べてみたが、遺体に対する穢れ感情というのは、元々日本土着のものであったらしい。
やがて仏教が伝来すると、遺体を魂の抜けた単なる物体とみる仏教の死生観から、遺体に触れることを恐れない仏教徒が、平安の頃に葬儀の執行を職業として確立させたという。
つまり日本風のお葬式というのは、仏教徒によって確立されて千年を超える歴史があるという事のようだ。
結婚式は神社で、葬式はお寺でという、外国人が首を傾げる不思議な住み分けには、このような背景があるのだ。
長い歴史のなかで、仏教も神道その他の日本の土着信仰と交じり合い、一般の仏教徒も死に対する穢れ感情を持つようになり、また葬儀の様式という物も洗練され、磨かれていったのだろう。
脚本を書いたのは、これが映画初挑戦となる小山薫堂。
著名な放送作家であり、幾つかのテレビドラマでも脚本を手がけているが、私はどっちかというと、ラジオのJ-WAVEで時事問題を扱う番組のパーソナリティーとしての印象しか持っていなかったので、正直あまりに完成度の高い脚本に驚いた。
納棺師という未知の世界へ足を踏み入れた大悟の心を繊細に描写する一方で、顔も覚えていない父親に対する複雑な葛藤を巧みにリンクさせ、全体として生と死と人間の想いが一つのトリニティを作り出す構成は見事。
前記した様に、若干きっちりと整い過ぎではあるものの、登場人物への深い洞察と人間への愛情、日本の葬儀文化へ誠実に向き合って物語を作り出している姿勢には大いに感銘を受けた。
この良く出来た脚本を受けて、ベテラン滝田洋二郎監督は、山形の四季を通して、時の流れの中で繰り返される生と死の営みを、戸惑いながら着実に前に進む大悟の感情にピッタリと寄り添わせる事で、一つのサイクルとして見事に描いた。
物語の中で、印象的に使われる小道具に石文がある。
これは石を手紙の代わりに伝えたい人に渡し、その石の大きさや形で送り手の想いを伝えようというロマンチックな風習だが、これが物語の結末に大きな意味を持ってくる。
石が象徴するのは、限りある命に対して、人の想いの永続性。
幼い頃に父と生き別れた大悟は、最後に父からもらった石文を大切に持っているが、それは彼の父に対する解ける事の無いわだかまりでもある。
大悟が決してNKエージェントを辞めないのも、納棺師という仕事への拘り以上に、山崎努演じる社長に父親の面影を感じたからだと思うのは、私だけではないだろう。
そんな背景が念入りに描かれているからこそ、物語のラストで届く、もう一つの石文の意味が際立つ。
死と誕生がリンクし、死者からの優しいメッセージが大悟の心に残った最後の残雪を溶かすシーンは、物語の締めのお手本の様な素晴らしさだった。
滝田監督にとっても、これは代表作となる仕事だろう。
映画を構成する全ての要素が、美しいハーモニーを奏でる「おくりびと」の最後のピースはやはり主演の本木雅弘だ。
元々この作品は、彼が実在の納棺師の方が書かれた本を読んで、感銘を受けた事から企画がスタートした作品だという。
つまり、これは本木雅弘自身の企画であり、その分演技の完成度は圧倒的に高く、間違いなく彼のベストアクト。
納棺師大悟の仕事、「納棺の儀」は正にこの作品の最大の見どころと言っていい。
荘厳で美しく、死者と遺族に対する最大限の配慮が様式化されたその技は、一つの芸術というに相応しい。
パートパートを徹底的に磨き上げる日本文化の特質をこんな所で見る事が出来るとは、正直なところ思いもよらなかった。
今までも納棺の儀は何度か見ている筈なのだが、一体自分は何を見ていたのかと後悔したくらいだ。
映画の中で、余貴美子演じるNKエージェントの事務員が、この仕事についた理由を問われて、社長が行った納棺の儀の美しさを見て、自分が死んだら、この人に送って欲しいと思ったからだと言うシーンがあるが、私も大悟の仕事に同じ事を思った。
「もし自分が死んだら、小林大悟に送って欲しい」
そう思わせたら、もう映画の勝利といっていいだろう。
今回は、舞台となる山形の地酒「東北泉 純米吟醸 出羽燦々」をチョイス。
東北の代表的な酒米である出羽燦々を大吟醸水準である50%まで精米し、鳥海山の伏流水で仕込んだ酒で、林檎を思わせるほのかな香りと適度な酸味が特徴。
全体の印象はまろやかで芳醇な甘さを感じ、とても飲みやすい。
映画の余韻をより深く、心に染み込ませてくれるだろう。
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モッくんが映画俳優として認知されたのは、やはりこれから
それ以来、一体何件の「旅立ち」を見届けてきただろうか・・・
タイトルの「おくりびと」とは、納棺師の事。
浴衣姿の遺体を死装束に着替えさせ、化粧を施して納棺するのは、てっきり葬儀会社の人だと思っていたので、納棺師という独立した職業があること、そこにこれほどまでに洗練された一つの文化がある事は初めて知った。
世の中、まだまだ知らない事だらけだ。
小林大悟(本木雅弘)はオーケストラのチェロ奏者。
ところが突然楽団が解散し、1800万円ものチェロの借金を抱えて途方にくれ、結局音楽の道を諦めて、妻の美香(広末涼子)と共に故郷の山形へ帰る事にする。
就職先を探していた大悟は、新聞広告に出ていた「旅のお手伝い」という文句に引かれて、NKエージェントという会社の面接に訪れる。
即日採用となるものの、てっきり旅行関係だと思っていた会社の業務内容は、葬儀の際の納棺。
つまりNOU-KANエージェントだったのだ。
美香には仕事の詳しい内容を言えないまま、納棺師として徐々に経験をつんでゆく大悟。
しかしある日、美香に仕事の内容がばれてしまい、「汚らわしい仕事」を辞めて欲しいと懇願されるのだが・・・
山形の、四季を感じさせるロケーションが素晴らしい。
雄大な自然の描写だけではなく、大悟の実家やNKエージェントの社屋、重要な舞台となる銭湯の佇まいなど、良くぞ見つけてきたという味のある建物で、この作品の風格作りに大いに寄与している。
ありものだけではなく、実父が昔喫茶店をやっていたという設定の、大悟の実家の内部セットや、NKエージェント二階のジャングルのような社長室のセットもビジュアル的に面白い。
こういうちょっとしたハズシが、いかに画面を豊かにするのか、今更ながら再確認させてもらった。
また地方都市という舞台設定は、もし大都市が舞台であれば御都合主義を感じさせてしまうであろう、濃密な人間関係を自然に感じさせる効果も生んでいる。
ごくごく狭いコミュニティの中で、誰も彼もが顔見知りという状況で展開する物語は、無数の顔も知らない人同士が行き交う東京では、成立しなかっただろう。
まあそれでも、わずか半年の間の出来事としては、ドラマの展開があまりにも整然と揃いすぎているという出来過ぎ感は残るのだが、逆に言えばこの作品で欠点と言えるのはそれだけだ。
この映画は一人の男が、納棺師という職業の意義を自らの中に見出してゆく物語であるが、そこには日本人の死生観に纏わる深い文化的な考察も見て取れる。
大悟の仕事が、遺体を扱う納棺師である事を知った美香は、激しく動揺し彼に仕事を辞める様に懇願する。
そして彼女に触れようとする大悟に「触らないで、汚らわしい!」と叫ぶのだ。
「汚らわしい」は穢れ(ケガレ)に通じる。
この作品には日本人の持つ、死に対する複雑な禁忌感情である、穢れの文化も巧みに織り込まれている。
ちょっと気になって調べてみたが、遺体に対する穢れ感情というのは、元々日本土着のものであったらしい。
やがて仏教が伝来すると、遺体を魂の抜けた単なる物体とみる仏教の死生観から、遺体に触れることを恐れない仏教徒が、平安の頃に葬儀の執行を職業として確立させたという。
つまり日本風のお葬式というのは、仏教徒によって確立されて千年を超える歴史があるという事のようだ。
結婚式は神社で、葬式はお寺でという、外国人が首を傾げる不思議な住み分けには、このような背景があるのだ。
長い歴史のなかで、仏教も神道その他の日本の土着信仰と交じり合い、一般の仏教徒も死に対する穢れ感情を持つようになり、また葬儀の様式という物も洗練され、磨かれていったのだろう。
脚本を書いたのは、これが映画初挑戦となる小山薫堂。
著名な放送作家であり、幾つかのテレビドラマでも脚本を手がけているが、私はどっちかというと、ラジオのJ-WAVEで時事問題を扱う番組のパーソナリティーとしての印象しか持っていなかったので、正直あまりに完成度の高い脚本に驚いた。
納棺師という未知の世界へ足を踏み入れた大悟の心を繊細に描写する一方で、顔も覚えていない父親に対する複雑な葛藤を巧みにリンクさせ、全体として生と死と人間の想いが一つのトリニティを作り出す構成は見事。
前記した様に、若干きっちりと整い過ぎではあるものの、登場人物への深い洞察と人間への愛情、日本の葬儀文化へ誠実に向き合って物語を作り出している姿勢には大いに感銘を受けた。
この良く出来た脚本を受けて、ベテラン滝田洋二郎監督は、山形の四季を通して、時の流れの中で繰り返される生と死の営みを、戸惑いながら着実に前に進む大悟の感情にピッタリと寄り添わせる事で、一つのサイクルとして見事に描いた。
物語の中で、印象的に使われる小道具に石文がある。
これは石を手紙の代わりに伝えたい人に渡し、その石の大きさや形で送り手の想いを伝えようというロマンチックな風習だが、これが物語の結末に大きな意味を持ってくる。
石が象徴するのは、限りある命に対して、人の想いの永続性。
幼い頃に父と生き別れた大悟は、最後に父からもらった石文を大切に持っているが、それは彼の父に対する解ける事の無いわだかまりでもある。
大悟が決してNKエージェントを辞めないのも、納棺師という仕事への拘り以上に、山崎努演じる社長に父親の面影を感じたからだと思うのは、私だけではないだろう。
そんな背景が念入りに描かれているからこそ、物語のラストで届く、もう一つの石文の意味が際立つ。
死と誕生がリンクし、死者からの優しいメッセージが大悟の心に残った最後の残雪を溶かすシーンは、物語の締めのお手本の様な素晴らしさだった。
滝田監督にとっても、これは代表作となる仕事だろう。
映画を構成する全ての要素が、美しいハーモニーを奏でる「おくりびと」の最後のピースはやはり主演の本木雅弘だ。
元々この作品は、彼が実在の納棺師の方が書かれた本を読んで、感銘を受けた事から企画がスタートした作品だという。
つまり、これは本木雅弘自身の企画であり、その分演技の完成度は圧倒的に高く、間違いなく彼のベストアクト。
納棺師大悟の仕事、「納棺の儀」は正にこの作品の最大の見どころと言っていい。
荘厳で美しく、死者と遺族に対する最大限の配慮が様式化されたその技は、一つの芸術というに相応しい。
パートパートを徹底的に磨き上げる日本文化の特質をこんな所で見る事が出来るとは、正直なところ思いもよらなかった。
今までも納棺の儀は何度か見ている筈なのだが、一体自分は何を見ていたのかと後悔したくらいだ。
映画の中で、余貴美子演じるNKエージェントの事務員が、この仕事についた理由を問われて、社長が行った納棺の儀の美しさを見て、自分が死んだら、この人に送って欲しいと思ったからだと言うシーンがあるが、私も大悟の仕事に同じ事を思った。
「もし自分が死んだら、小林大悟に送って欲しい」
そう思わせたら、もう映画の勝利といっていいだろう。
今回は、舞台となる山形の地酒「東北泉 純米吟醸 出羽燦々」をチョイス。
東北の代表的な酒米である出羽燦々を大吟醸水準である50%まで精米し、鳥海山の伏流水で仕込んだ酒で、林檎を思わせるほのかな香りと適度な酸味が特徴。
全体の印象はまろやかで芳醇な甘さを感じ、とても飲みやすい。
映画の余韻をより深く、心に染み込ませてくれるだろう。

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モッくんが映画俳優として認知されたのは、やはりこれから


2008年09月17日 (水) | 編集 |
マーク・ミラーのグラフィック・ノベルを原作としたアクション大作。
1000年の歴史を持つ暗殺組織にまつわる物語だが、これが普通の人間ではなく、まるでジェダイ騎士団みたいな超能力を持った連中なので、ビルからビルへ飛び移るわ、弾丸の玉を曲げるわもう無茶苦茶。
怒涛のビジュアルに圧倒されて、あっという間の110分だが、どうも物語を額面どおりには解釈し難い。
顧客管理担当のサラリーマンとしては働くウェズリー(ジェームズ・マカヴォイ)は、ストレス100%の毎日を送っており、持病のパニック障害も悪化の一途。
ところがある日、スーパーマーケットで見ず知らずの男に銃撃され、突然現れた謎の美女フォックス(アンジェリーナ・ジョリー)に救われる。
実はウェズリーは、暗殺団「フラタニティ」の敏腕エージェントの息子で、銃撃してきたのは父を殺し、ウェズリーの命も狙う裏切り者のクロス(トーマス・クレッチマン)という男だという。
フラタニティのボス、スローン(モーガン・フリーマン)はウェズリーに受け継がれている暗殺者としての特殊能力を見抜き、組織の一員として迎え入れようとするのだが・・・
ダメ男が実は超能力暗殺団の敏腕エージェントの息子で、今まで想像もしなかった血と暴力の世界へ導かれるという導入部は、映像表現も含めて何となく「マトリックス」に似ているなあと思ったら、原作は元々「マトリックス」に強い影響を受けて描かれたらしい。
この物語を映像化するのは、「ナイト・ウォッチ/NOCHNOI DOZOR」で注目されたロシアのティムール・ペクマンペトフ監督。
私は「ナイト・ウォッチ」も、その続編の「デイ・ウォッチ」も、混乱したストーリーラインに、ひたすらスタイリッシュな映像を詰め込んだだけの一人よがりな代物にしか見えず、全く楽しめなかった。
ただハリウッド進出となった本作では、ペクマンペトフの最大の欠点である脚本を別チームが手がけているおかげで、少なくとも物語が追える分、彼の得意の大胆な映像表現を楽しむ事が出来た。
物語的には、「マトリックス」+「スターウォーズ」といった感じで、凄腕エージェントの血を引く主人公ウェズリーを、「ナルニア国物語」のタムナスさんで有名になったジェームズ・マカヴォイが演じ、彼を暗殺のプロに育て上げる、オビ・ワン的キャラクターであるフォクスにアンジェリーナ・ジョリー、組織の謎めいたボスにモーガン・フリーマンと芸達者が揃う。
宣伝ではアンジェリーナ・ジョリー主演が強調されているが、実際にはこれは完全にウェズリーの物語であり、終始彼の目線で物語が進む。
マカヴォイは強迫性障害気味のサラリーマンから、地獄の特訓を経て、目がイっちゃってる暗殺者になるまで、なかなかの好演と言える。
売り物のアクションも、冒頭の「マトリックス」ばりの高層ビルでのジャンピング・アタックから、マーケットの銃撃戦、ヴァイパーV10とトラックのカーチェイスと畳み掛け、殆ど息つく間もない。
ウェズリーが一人前になって、クロスとの追撃戦に移ってからも、列車アクションに一人対無数の銃撃戦と、やや既視感を感じさせながらも、工夫を凝らしたアクションシークエンスの連続で、物語の構成という不得意分野から開放されたペクマンペトフの演出もノリがよく、「帝国の逆襲」の有名なシーンを連想してしまうドンデン返し以降も中ダレすることなく最後まで一気呵成に突っ走る。
しかし、見所は盛りだくさんなのに、全体に爽快感を感じない。
それは結局のところ、映画の中で実際に描かれているのが、ヤクザの抗争にも似た、ちっちゃな、ちっちゃな組織の内部抗争に過ぎないからだ。
「一を殺して千を救う」という台詞から想像する、ストレートにヒロイズムを連想させる物語はここにはなく、洗脳されて殺人マシーンと化したマヌケな男が、一般市民も巻き込んだ、やりたい放題の大虐殺の結果、自分の欲求を晴らすだけの話になってしまっている。
ぶっちゃけ、この話で爽快感など得られる訳が無いのである。
しかし私は、この映画を観て、「マトリックス」と同時期に作られた、もう一つの問題作、デビッド・フィンチャーの「ファイトクラブ」を連想してしまった。
私には、この映画全体が、社会生活のストレスを限界まで抱えたウェズリーの破壊的な妄想と考えた方がシックリ来るし、その方が物語としても皮肉が利いている様に思う。
あのコロンバイン高校乱射事件の犯人が、「バスケットボール・ダイアリーズ」という映画の、主人公の高校生が学校で銃を乱射する妄想シーンに影響を受け、そのまんま実行してしまったという話は有名だが、この映画のウェズリーも実はそういう事ではないのか。
そう考えると、これは現実と仮想の曖昧さを巧みなレトリックで表現した「マトリックス」と、精神世界の物語を映画的なビジュアル表現に昇華した「ファイトクラブ」を合体させた進化形と捉えた方が正解なのかもしれない。
ただ、ペクマンペトフの映画は、「ナイト・ウォッチ」や「デイ・ウォッチ」も、ドラッグでもやって幻覚に浸っている様な映画だったから、単に演出家のスタイルがたまたまそう見せたと言えなくもない。
「ファイトクラブ」的な物語の解釈も、私の好意的な妄想に過ぎない訳で、実際に作者の意図したものがそっちだとすると、完成した映画が少々中途半端なのも確かだろう。
本作のヒットで、どうやら作られる事は確実そうな続編を観れば、そのあたりの応えも示されるのだろうか。
今回は、監督の出身地にちなんでロシアのワイン・・・ではなくて、カリフォルニアはソノマのロシアン・リバーのワインをチョイス。
カリフォルニアワインの最高峰の一つである、オーパス・ワンの醸造責任者として知られる、セシル・レマール・ダービーズが独立して作り出した、「ダービーズ・ワイン シャルドネ・ソノマ」の2002をチョイス。
いわゆるノン・フィルターワインで、徹底的な手作りへの拘りで、少量生産されるマニアックな酒。
華やかな果実味とオーク香が楽しめ、華やかで透明感のあるスッキリ味。
今後徐々に値段が上がってくる銘柄である事は確実なので、比較的リーズナブルな今が買いどきかもしれない。
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1000年の歴史を持つ暗殺組織にまつわる物語だが、これが普通の人間ではなく、まるでジェダイ騎士団みたいな超能力を持った連中なので、ビルからビルへ飛び移るわ、弾丸の玉を曲げるわもう無茶苦茶。
怒涛のビジュアルに圧倒されて、あっという間の110分だが、どうも物語を額面どおりには解釈し難い。
顧客管理担当のサラリーマンとしては働くウェズリー(ジェームズ・マカヴォイ)は、ストレス100%の毎日を送っており、持病のパニック障害も悪化の一途。
ところがある日、スーパーマーケットで見ず知らずの男に銃撃され、突然現れた謎の美女フォックス(アンジェリーナ・ジョリー)に救われる。
実はウェズリーは、暗殺団「フラタニティ」の敏腕エージェントの息子で、銃撃してきたのは父を殺し、ウェズリーの命も狙う裏切り者のクロス(トーマス・クレッチマン)という男だという。
フラタニティのボス、スローン(モーガン・フリーマン)はウェズリーに受け継がれている暗殺者としての特殊能力を見抜き、組織の一員として迎え入れようとするのだが・・・
ダメ男が実は超能力暗殺団の敏腕エージェントの息子で、今まで想像もしなかった血と暴力の世界へ導かれるという導入部は、映像表現も含めて何となく「マトリックス」に似ているなあと思ったら、原作は元々「マトリックス」に強い影響を受けて描かれたらしい。
この物語を映像化するのは、「ナイト・ウォッチ/NOCHNOI DOZOR」で注目されたロシアのティムール・ペクマンペトフ監督。
私は「ナイト・ウォッチ」も、その続編の「デイ・ウォッチ」も、混乱したストーリーラインに、ひたすらスタイリッシュな映像を詰め込んだだけの一人よがりな代物にしか見えず、全く楽しめなかった。
ただハリウッド進出となった本作では、ペクマンペトフの最大の欠点である脚本を別チームが手がけているおかげで、少なくとも物語が追える分、彼の得意の大胆な映像表現を楽しむ事が出来た。
物語的には、「マトリックス」+「スターウォーズ」といった感じで、凄腕エージェントの血を引く主人公ウェズリーを、「ナルニア国物語」のタムナスさんで有名になったジェームズ・マカヴォイが演じ、彼を暗殺のプロに育て上げる、オビ・ワン的キャラクターであるフォクスにアンジェリーナ・ジョリー、組織の謎めいたボスにモーガン・フリーマンと芸達者が揃う。
宣伝ではアンジェリーナ・ジョリー主演が強調されているが、実際にはこれは完全にウェズリーの物語であり、終始彼の目線で物語が進む。
マカヴォイは強迫性障害気味のサラリーマンから、地獄の特訓を経て、目がイっちゃってる暗殺者になるまで、なかなかの好演と言える。
売り物のアクションも、冒頭の「マトリックス」ばりの高層ビルでのジャンピング・アタックから、マーケットの銃撃戦、ヴァイパーV10とトラックのカーチェイスと畳み掛け、殆ど息つく間もない。
ウェズリーが一人前になって、クロスとの追撃戦に移ってからも、列車アクションに一人対無数の銃撃戦と、やや既視感を感じさせながらも、工夫を凝らしたアクションシークエンスの連続で、物語の構成という不得意分野から開放されたペクマンペトフの演出もノリがよく、「帝国の逆襲」の有名なシーンを連想してしまうドンデン返し以降も中ダレすることなく最後まで一気呵成に突っ走る。
しかし、見所は盛りだくさんなのに、全体に爽快感を感じない。
それは結局のところ、映画の中で実際に描かれているのが、ヤクザの抗争にも似た、ちっちゃな、ちっちゃな組織の内部抗争に過ぎないからだ。
「一を殺して千を救う」という台詞から想像する、ストレートにヒロイズムを連想させる物語はここにはなく、洗脳されて殺人マシーンと化したマヌケな男が、一般市民も巻き込んだ、やりたい放題の大虐殺の結果、自分の欲求を晴らすだけの話になってしまっている。
ぶっちゃけ、この話で爽快感など得られる訳が無いのである。
しかし私は、この映画を観て、「マトリックス」と同時期に作られた、もう一つの問題作、デビッド・フィンチャーの「ファイトクラブ」を連想してしまった。
私には、この映画全体が、社会生活のストレスを限界まで抱えたウェズリーの破壊的な妄想と考えた方がシックリ来るし、その方が物語としても皮肉が利いている様に思う。
あのコロンバイン高校乱射事件の犯人が、「バスケットボール・ダイアリーズ」という映画の、主人公の高校生が学校で銃を乱射する妄想シーンに影響を受け、そのまんま実行してしまったという話は有名だが、この映画のウェズリーも実はそういう事ではないのか。
そう考えると、これは現実と仮想の曖昧さを巧みなレトリックで表現した「マトリックス」と、精神世界の物語を映画的なビジュアル表現に昇華した「ファイトクラブ」を合体させた進化形と捉えた方が正解なのかもしれない。
ただ、ペクマンペトフの映画は、「ナイト・ウォッチ」や「デイ・ウォッチ」も、ドラッグでもやって幻覚に浸っている様な映画だったから、単に演出家のスタイルがたまたまそう見せたと言えなくもない。
「ファイトクラブ」的な物語の解釈も、私の好意的な妄想に過ぎない訳で、実際に作者の意図したものがそっちだとすると、完成した映画が少々中途半端なのも確かだろう。
本作のヒットで、どうやら作られる事は確実そうな続編を観れば、そのあたりの応えも示されるのだろうか。
今回は、監督の出身地にちなんでロシアのワイン・・・ではなくて、カリフォルニアはソノマのロシアン・リバーのワインをチョイス。
カリフォルニアワインの最高峰の一つである、オーパス・ワンの醸造責任者として知られる、セシル・レマール・ダービーズが独立して作り出した、「ダービーズ・ワイン シャルドネ・ソノマ」の2002をチョイス。
いわゆるノン・フィルターワインで、徹底的な手作りへの拘りで、少量生産されるマニアックな酒。
華やかな果実味とオーク香が楽しめ、華やかで透明感のあるスッキリ味。
今後徐々に値段が上がってくる銘柄である事は確実なので、比較的リーズナブルな今が買いどきかもしれない。

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2008年09月15日 (月) | 編集 |
中島哲也という人は、文句なしに素晴らしい才能に恵まれた人だと思うのだが、しばしばサービス精神が旺盛過ぎて、お腹いっぱいなのに更に詰め込まれるという苦しさがある。
私は、世評の高かった「嫌われ松子の一生」を、それほど楽しむ事が出来ず・・・というか途中で飽きちゃったので、輪をかけて濃そうなこの作品にはあまり期待していなかった。
この人の作品は、現実に虚構のフィルターを何重にもかぶせていって、一つの様式化された世界に再構築して寓話性を際立たせるというスタイルだが、何しろこの作品は予告編のビジュアルだけみても、前提となる「現実」が思いっきり希薄に思えた。
虚構の世界に虚構を重ねて言ったら、一体どんな腹にもたれるレイヤーケーキが出来上がるのかと思っていたのだが、いやこれは良い意味で裏切られた。
「パコと魔法の絵本」は日本映画には珍しい、徹底的に作りこまれた本格的なファンタジーであり、大人が観ても十分に感動的な作品に仕上がっている。
一代で大企業を築き、他人を一切信用せずに生きてきた大貫(役所広司)は、体調を崩して入院中。
その病院には、芝居狂の院長先生(上川隆也)を初め、オカマの木之元(國村隼)やヤクザの龍門寺(山内圭哉)、自殺未遂を繰り返す俳優の室町(妻夫木聡)など、奇妙な人たちが集まっていた。
「お前が私を知っている事に腹が立つ!」と言い放つ大貫は、ここでも嫌われ者。
病院には、毎日「ガマ王子対ザリガニ魔王」という絵本を朗読している少女パコ(アヤカ・ウィルソン)も入院していて、彼女は交通事故の後遺症で、一日しか記憶が持たないという障害を抱えている。
パコの病気の事を知らない大貫は、ある日大切にしていた純金のライターを、パコに盗まれたと勘違いして彼女を殴ってしまい、ひどく後悔するのだが・・・
たぶん、中島作品が好きな人でも、この作品の導入部には面食らうだろう。
舞台となるのは、とある病院なのだが、これがド派手な原色で彩られたあり得ない空間で、登場人物もルックスからキャラクターまで、超エキセントリックにぶっ飛んだ連中ばかり。
なんというか、アングラ劇団の芝居を観ている様な感覚に囚われるのだが、実はこの作品の原作は後藤ひろひと作の「MIDSUMMER CAROL ガマ王子vsザリガニ魔人」という舞台劇。
そっちは観ていないので、物語を含めてどこまで忠実なのかはわからないが、舞台のスチル写真と見比べても、映画の造形感覚の派手さと意図的な作り物臭さは強烈で、やり過ぎ感漂う阿部サダヲを語り部として物語が展開する冒頭から、多くの観客に戸惑いを感じさせるだろう。
正直なところ、私はこの冒頭で「こりゃやっぱりダメかも」と思ってしまったのだが、やがて奇想天外なキャラクターたちの紹介が終わり、大貫とタイトルロールであるパコとの絡みが始まると、物語は俄然面白くなる。
冒頭、故人である大貫の家を年老いた語り部役の阿部ダサヲが訪ね、仏壇に置かれていた絵本にまつわる物語を、大貫のヲタクの甥に語って聞かせるという全体の構成は、「嫌われ松子の一生」と少し似ている。
中心となるのは、人間を信じられない偏屈老人の大貫と、少女パコの心の交流の物語。
パコは交通事故で両親を亡くし、自らも一日分の記憶しか保てない障害を負ってしまう。
彼女は7歳の誕生日に母親から送られた絵本「ガマ王子対ザリガニ魔王」を、毎朝起きるたびに枕元に見つけ、永遠の誕生日を生きているのだ。
勘違いから殴られた翌日、再び大貫がパコの頬に触れると、記憶を持たないはずのパコは「おじさん、昨日もパコのほっぺにさわったよね」と、満面の笑顔で語りかけ、大貫の寂しい心を守ってきた氷の塀は、このあまりにも切なく重い一言に、あっけなく崩壊する。
横暴な池の嫌われ者であるガマ王子の物語に自らを重ねた大貫は、パコの心に何かを残そうと、病院の皆を巻き込んで、絵本をお芝居として上演しようとするのだ。
まあ、簡単に言えば、心を病んだ頑固ジジイが、無垢な少女とのふれあいで改心する物語だが、もちろんそれだけでは終わらない。
この作品は、とにかくエキセントリックなキャラクターが満載だが、彼ら一人一人のバックグラウンドがサブストーリーとして語られ、これがまた面白い。
子役時代の栄光から脱皮する事が出来ず、自殺未遂を繰り返す俳優の室町と、土屋アンナ演じる彼を密かに慕うヤンキー看護婦のタマコの物語。
実の娘の結婚式に、出席する事が出来ないオカマの木之元の物語。
そして劇団ひとりの演じる勇気を持てないヘタレ消防士の物語。
「嫌われ松子の一生」では、全てのパワーを松子の物語に集中して描いてしまったために、ややオーバーフロー気味だったが、今回は中ダレしそうになると、綿密に張り巡らされたサブストーリーが物語を重層的に盛り上げ、一本調子になるのを防いでいる。
大貫を含めたキャラクターは、全て明確な役割を持ってカリカチュアされたキャラクターで、メイクと衣装で元の俳優が誰なのか判らないくらい作りこまれているのも、俳優の持つイメージから役を独立させたかったからだろう。
例外はパコ役のアヤカ・ウィルソンと阿部サダヲで、パコはもちろん無垢なる魂の象徴として、変幻自在の阿部サダヲは物語の語り部として、作品世界の中で独自のポジションを与えられている。
「げろげーろ」という大きな声の朗読も可愛いアヤカ・ウィルソンは、ちょっと長澤まさみをハーフにした様な雰囲気の、絵に描いたような美少女で、これからが楽しみな逸材だ。
大貫の仕掛けた「ガマ王子対ザリガニ魔王」の芝居は、病院に集う皆を巻き込んで進んでゆくが、この芝居を演じる事で、彼らはそれぞれの抱える問題と向き合い、一定の答えを得る。
この過程は、舞台の構造をそのまま生かして、さらに劇中劇をパコのイマジネーションによって現実化したCGアニメとして描く事で、映画ならではの飛躍も表現されている。
CG化された絵本の世界のクオリティは素晴らしく、頻繁に切り替わる実写パートとの接続の違和感も全く無い。
外連味たっぷりに作られた、実写パートのビジュアルデザインが、ここで生きてくるのだ。
「ガマ王子対ザリガニ魔王」の絵本は、池の皆を守るため、ザリガニ魔王と戦ったガマ王子が命を落として終わる。
ガマ王子役の大貫も当然・・・と思わせておいて、この映画はそこから更に一ひねりしてあり、このクライマックスの展開は号泣もの。
こうくるとは思っていなかった私も、しっかりと泣かされてしまった。
正直なところ、相変わらず好き嫌いはあると思うが、「パコと魔法の絵本」は、中島哲也という演出家の資質と、物語の素材との幸福なマリアージュを味わう事の出来る秀作だ。
食わず嫌いの人も、試して損は無い一皿である。
今回は、子供にも飲める(?)甘―い緑のカクテル「グリーン・カルピス」をチョイス。
メロン・リキュール30mlとカルピス30mlをグラスに注ぎ、ソーダで割る。
喉でシュワーッと炭酸が弾ける感覚は、物語の後味をさわやかにまとめてくれるだろう。
メロンリキュールをそのままメロンシロップに変えれば、子供の大好きなメロン・カルピスのソーダ割りとなるので、大人も子供も楽しめる。
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私は、世評の高かった「嫌われ松子の一生」を、それほど楽しむ事が出来ず・・・というか途中で飽きちゃったので、輪をかけて濃そうなこの作品にはあまり期待していなかった。
この人の作品は、現実に虚構のフィルターを何重にもかぶせていって、一つの様式化された世界に再構築して寓話性を際立たせるというスタイルだが、何しろこの作品は予告編のビジュアルだけみても、前提となる「現実」が思いっきり希薄に思えた。
虚構の世界に虚構を重ねて言ったら、一体どんな腹にもたれるレイヤーケーキが出来上がるのかと思っていたのだが、いやこれは良い意味で裏切られた。
「パコと魔法の絵本」は日本映画には珍しい、徹底的に作りこまれた本格的なファンタジーであり、大人が観ても十分に感動的な作品に仕上がっている。
一代で大企業を築き、他人を一切信用せずに生きてきた大貫(役所広司)は、体調を崩して入院中。
その病院には、芝居狂の院長先生(上川隆也)を初め、オカマの木之元(國村隼)やヤクザの龍門寺(山内圭哉)、自殺未遂を繰り返す俳優の室町(妻夫木聡)など、奇妙な人たちが集まっていた。
「お前が私を知っている事に腹が立つ!」と言い放つ大貫は、ここでも嫌われ者。
病院には、毎日「ガマ王子対ザリガニ魔王」という絵本を朗読している少女パコ(アヤカ・ウィルソン)も入院していて、彼女は交通事故の後遺症で、一日しか記憶が持たないという障害を抱えている。
パコの病気の事を知らない大貫は、ある日大切にしていた純金のライターを、パコに盗まれたと勘違いして彼女を殴ってしまい、ひどく後悔するのだが・・・
たぶん、中島作品が好きな人でも、この作品の導入部には面食らうだろう。
舞台となるのは、とある病院なのだが、これがド派手な原色で彩られたあり得ない空間で、登場人物もルックスからキャラクターまで、超エキセントリックにぶっ飛んだ連中ばかり。
なんというか、アングラ劇団の芝居を観ている様な感覚に囚われるのだが、実はこの作品の原作は後藤ひろひと作の「MIDSUMMER CAROL ガマ王子vsザリガニ魔人」という舞台劇。
そっちは観ていないので、物語を含めてどこまで忠実なのかはわからないが、舞台のスチル写真と見比べても、映画の造形感覚の派手さと意図的な作り物臭さは強烈で、やり過ぎ感漂う阿部サダヲを語り部として物語が展開する冒頭から、多くの観客に戸惑いを感じさせるだろう。
正直なところ、私はこの冒頭で「こりゃやっぱりダメかも」と思ってしまったのだが、やがて奇想天外なキャラクターたちの紹介が終わり、大貫とタイトルロールであるパコとの絡みが始まると、物語は俄然面白くなる。
冒頭、故人である大貫の家を年老いた語り部役の阿部ダサヲが訪ね、仏壇に置かれていた絵本にまつわる物語を、大貫のヲタクの甥に語って聞かせるという全体の構成は、「嫌われ松子の一生」と少し似ている。
中心となるのは、人間を信じられない偏屈老人の大貫と、少女パコの心の交流の物語。
パコは交通事故で両親を亡くし、自らも一日分の記憶しか保てない障害を負ってしまう。
彼女は7歳の誕生日に母親から送られた絵本「ガマ王子対ザリガニ魔王」を、毎朝起きるたびに枕元に見つけ、永遠の誕生日を生きているのだ。
勘違いから殴られた翌日、再び大貫がパコの頬に触れると、記憶を持たないはずのパコは「おじさん、昨日もパコのほっぺにさわったよね」と、満面の笑顔で語りかけ、大貫の寂しい心を守ってきた氷の塀は、このあまりにも切なく重い一言に、あっけなく崩壊する。
横暴な池の嫌われ者であるガマ王子の物語に自らを重ねた大貫は、パコの心に何かを残そうと、病院の皆を巻き込んで、絵本をお芝居として上演しようとするのだ。
まあ、簡単に言えば、心を病んだ頑固ジジイが、無垢な少女とのふれあいで改心する物語だが、もちろんそれだけでは終わらない。
この作品は、とにかくエキセントリックなキャラクターが満載だが、彼ら一人一人のバックグラウンドがサブストーリーとして語られ、これがまた面白い。
子役時代の栄光から脱皮する事が出来ず、自殺未遂を繰り返す俳優の室町と、土屋アンナ演じる彼を密かに慕うヤンキー看護婦のタマコの物語。
実の娘の結婚式に、出席する事が出来ないオカマの木之元の物語。
そして劇団ひとりの演じる勇気を持てないヘタレ消防士の物語。
「嫌われ松子の一生」では、全てのパワーを松子の物語に集中して描いてしまったために、ややオーバーフロー気味だったが、今回は中ダレしそうになると、綿密に張り巡らされたサブストーリーが物語を重層的に盛り上げ、一本調子になるのを防いでいる。
大貫を含めたキャラクターは、全て明確な役割を持ってカリカチュアされたキャラクターで、メイクと衣装で元の俳優が誰なのか判らないくらい作りこまれているのも、俳優の持つイメージから役を独立させたかったからだろう。
例外はパコ役のアヤカ・ウィルソンと阿部サダヲで、パコはもちろん無垢なる魂の象徴として、変幻自在の阿部サダヲは物語の語り部として、作品世界の中で独自のポジションを与えられている。
「げろげーろ」という大きな声の朗読も可愛いアヤカ・ウィルソンは、ちょっと長澤まさみをハーフにした様な雰囲気の、絵に描いたような美少女で、これからが楽しみな逸材だ。
大貫の仕掛けた「ガマ王子対ザリガニ魔王」の芝居は、病院に集う皆を巻き込んで進んでゆくが、この芝居を演じる事で、彼らはそれぞれの抱える問題と向き合い、一定の答えを得る。
この過程は、舞台の構造をそのまま生かして、さらに劇中劇をパコのイマジネーションによって現実化したCGアニメとして描く事で、映画ならではの飛躍も表現されている。
CG化された絵本の世界のクオリティは素晴らしく、頻繁に切り替わる実写パートとの接続の違和感も全く無い。
外連味たっぷりに作られた、実写パートのビジュアルデザインが、ここで生きてくるのだ。
「ガマ王子対ザリガニ魔王」の絵本は、池の皆を守るため、ザリガニ魔王と戦ったガマ王子が命を落として終わる。
ガマ王子役の大貫も当然・・・と思わせておいて、この映画はそこから更に一ひねりしてあり、このクライマックスの展開は号泣もの。
こうくるとは思っていなかった私も、しっかりと泣かされてしまった。
正直なところ、相変わらず好き嫌いはあると思うが、「パコと魔法の絵本」は、中島哲也という演出家の資質と、物語の素材との幸福なマリアージュを味わう事の出来る秀作だ。
食わず嫌いの人も、試して損は無い一皿である。
今回は、子供にも飲める(?)甘―い緑のカクテル「グリーン・カルピス」をチョイス。
メロン・リキュール30mlとカルピス30mlをグラスに注ぎ、ソーダで割る。
喉でシュワーッと炭酸が弾ける感覚は、物語の後味をさわやかにまとめてくれるだろう。
メロンリキュールをそのままメロンシロップに変えれば、子供の大好きなメロン・カルピスのソーダ割りとなるので、大人も子供も楽しめる。

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2008年09月11日 (木) | 編集 |
「バイオハザード」や「エイリアンvsプレデター」で知られるB級野郎、ポール・W・S・アンダーソンの新作は、監獄島を舞台に囚人たちが繰り広げる死のレースを描いた、その名も「デス・レース」
1975年にロジャー・コーマン製作、ポール・バーテル監督で作られた「デス・レース2000年」のリメイクという位置付けだが、キャラクターの特徴とコンセプトが受け継がれているだけで、物語的には大幅に異なる。
西暦2012年。
経済が崩壊し、社会が不安定化したアメリカ。
元レーサーのジェンセン(ジェイソン・ステイサム)は、妻殺しの濡れ衣を着せられ、凶悪犯だけが収容される監獄島、ターミナルアイランドに送られる。
そこでは、囚人たちによって死を賭けたデス・レースが行われており、レースはテレビ放送されて人々の熱狂的人気を集めていた。
刑務所の所長(ジョアン・アレン)は、ジェンセンに事故死した人気覆面レーサー、フランケンシュタインの代役としてレースに出場する事を依頼する。
優勝すれば自由、失敗すれば死が待っている。
そんな時、ジェンセンはレースに出場するメンバーの中に、妻を殺した真犯人の姿を見る・・・
この作品は、言ってみれば一昔前のB級近未来SF映画のリミックス版だ。
旧作の「デス・レース2000年」は独裁政権下となった西暦2000年のアメリカを舞台に、大衆を熱狂させる死の大陸横断レースを描いた作品だったが、今回はキャラクターこそオリジナルを踏襲しているものの、舞台を「ニューヨーク1997」の様な監獄島に限定し、そこで繰り広げられる囚人たちの、死と自由を天秤に賭けたレースが描かれる。
物語的には、旧作とやはり囚人が自由を賭けてショーアップされた逃亡劇を繰り広げる、「バトル・ランナー」を合体させた様な内容になっている。
ああ、そういえばメカ・デザインなどは、懐かしのオーストリア映画「マッド・マックス」シリーズや、その亜流作品の「バトル・トラック」あたりも入っていた。
この節操のないごちゃ混ぜ具合は、多分アンダーソン監督の好みを反映しているのだろうが、よくもまあB級映画ばっかり集めたものである。
普通ならあれもこれもと詰め込んだ挙句に破綻してしまいそうだが、そこはさすがにオタクの星、それぞれの作品からキャラ・世界観・ストーリーライン・メカといった要素をバラバラに抽出しながら上手い具合に纏めている。
しかしながら全体の印象としては、アンダーソンの興味の対象はあくまでもキャラやビジュアルといった表面的な部分だけで、物語の成り立ちやテーマ性には関心が無い様に思える。
旧作を始め、冷戦の真っ只中に作られた7、80年代のB級SF映画は、その多くが全体主義に対する強迫観念的な恐れを物語のバックボーンに含んでいる。
いかに予算が無くて映像がチープだろうが、薄っぺらな描写に留まっていようが、観終わった観客に「この作品のテーマは?」と聞けば、誰でも明確に答えられるような作りになっていたものである。
対して今回のリメイク版は、デジタル技術の発展もあって、映像的にはとてもよく出来ているものの、逆にテーマ性は極めて希薄だ。
西暦2012年という妙に近場な未来を舞台にして、経済破綻したアメリカという、これまた決してあり得なくは無い設定を持ってきているのに、この作品で描かれる血と暴力の世界の中身の無さはどうだ。
この感覚は、描写は実写と見紛うばかりにリアルなのに、いくらでもリセット出来てしまうゲームの世界の擬似的なリアリティに通じる。
まあアンダーソン自身の出世作が、ゲームの映画化である「バイオ・ハザード」だから、たぶんこの人は素直にこういうのが好きなのだろう。
逆に世界観に作り物感が漂うからこそ、旧作とは比べ物にならないくらいにグレードアップした血みどろの残酷描写も何とか見ていられるのかもしれない。
旧作でデヴィッド・キャラダインが演じた凄腕ドライバーのフランケンシュタインを、「トランスポーター」シリーズでカーアクションならお任せのジェイソン・ステイサムが演じ、彼のライバルで旧作では無名時代のシルベスタ・スタローンが演じたマシンガン・ジョーは、何とハードゲイ(笑)という設定になって、ミュージシャンのタイリース・ギブソンが演じている。
また、旧作でもそれぞれのドライバーには異性のナビゲーターが付いているという設定だったが、今回もこの設定は踏襲され、フランケンシュタインのマシンには豊かな黒髪が印象的なナタリー・マルチネスが同乗し、華を添える。
ただ、出演者で出色なのは、冷酷な刑務所所長を演じたジョアン・アレンだ。
「ジェイソン・ボーン」シリーズでの好演も記憶に新しいが、ちょっと高慢そうな女性管理職を演じさせたらピカイチであり、今回も物語的に美味しいところを持ってゆく。
アクション演出はシャープで迫力があり、1時間47分を飽きさせないが、何しろ描写があまりにも悪趣味かつ色々な意味でイタタな内容なので、個人的にはあまり好きな映画ではない。
要するに「デス・レース」の「デス」の部分に力が入りすぎており、本来志向したはずのB級SF的な大らかさよりも、殺伐としたバイオレンスだけが印象に残って、あまり爽快感を感じないのだ。
まあ、旧作もかなりオゲレツな中身ではあったが、何しろ映像が限りなくチープなので、描写不足を脳内補完せねばならず、笑って許せる範囲だった。
対して21世紀のテクノロジーで作られたこちらは、リアルすぎて想像力の介入すら許さない。
全米興行の予想外の低迷も、このあたりのスパイスの効きすぎが観客に敬遠されたからではないかと思うのだが・・・
「ワイルド・スピード」とスプラッタ映画を、同じ皿で味わいたい人にだけお勧めする。
アメリカンレースというと、無条件でビール、それもバドかミラーを想像してしまうが、今回は映画のコクの無さが気になるので、アメリカンはアメリカンでももう少し飲み応えのあるビールにしよう。
「アンカー・スチーム」はサンフランシスコの小さな醸造所で作られる、アメリカを代表する地ビール。
しっかりとしたボディにコクのある華やかさ、適度な苦味にスモーキーさを併せ持つ、味わい深い本物のビールだ。
映画で殺伐とした心を、優しく解してくれるだろう。
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1975年にロジャー・コーマン製作、ポール・バーテル監督で作られた「デス・レース2000年」のリメイクという位置付けだが、キャラクターの特徴とコンセプトが受け継がれているだけで、物語的には大幅に異なる。
西暦2012年。
経済が崩壊し、社会が不安定化したアメリカ。
元レーサーのジェンセン(ジェイソン・ステイサム)は、妻殺しの濡れ衣を着せられ、凶悪犯だけが収容される監獄島、ターミナルアイランドに送られる。
そこでは、囚人たちによって死を賭けたデス・レースが行われており、レースはテレビ放送されて人々の熱狂的人気を集めていた。
刑務所の所長(ジョアン・アレン)は、ジェンセンに事故死した人気覆面レーサー、フランケンシュタインの代役としてレースに出場する事を依頼する。
優勝すれば自由、失敗すれば死が待っている。
そんな時、ジェンセンはレースに出場するメンバーの中に、妻を殺した真犯人の姿を見る・・・
この作品は、言ってみれば一昔前のB級近未来SF映画のリミックス版だ。
旧作の「デス・レース2000年」は独裁政権下となった西暦2000年のアメリカを舞台に、大衆を熱狂させる死の大陸横断レースを描いた作品だったが、今回はキャラクターこそオリジナルを踏襲しているものの、舞台を「ニューヨーク1997」の様な監獄島に限定し、そこで繰り広げられる囚人たちの、死と自由を天秤に賭けたレースが描かれる。
物語的には、旧作とやはり囚人が自由を賭けてショーアップされた逃亡劇を繰り広げる、「バトル・ランナー」を合体させた様な内容になっている。
ああ、そういえばメカ・デザインなどは、懐かしのオーストリア映画「マッド・マックス」シリーズや、その亜流作品の「バトル・トラック」あたりも入っていた。
この節操のないごちゃ混ぜ具合は、多分アンダーソン監督の好みを反映しているのだろうが、よくもまあB級映画ばっかり集めたものである。
普通ならあれもこれもと詰め込んだ挙句に破綻してしまいそうだが、そこはさすがにオタクの星、それぞれの作品からキャラ・世界観・ストーリーライン・メカといった要素をバラバラに抽出しながら上手い具合に纏めている。
しかしながら全体の印象としては、アンダーソンの興味の対象はあくまでもキャラやビジュアルといった表面的な部分だけで、物語の成り立ちやテーマ性には関心が無い様に思える。
旧作を始め、冷戦の真っ只中に作られた7、80年代のB級SF映画は、その多くが全体主義に対する強迫観念的な恐れを物語のバックボーンに含んでいる。
いかに予算が無くて映像がチープだろうが、薄っぺらな描写に留まっていようが、観終わった観客に「この作品のテーマは?」と聞けば、誰でも明確に答えられるような作りになっていたものである。
対して今回のリメイク版は、デジタル技術の発展もあって、映像的にはとてもよく出来ているものの、逆にテーマ性は極めて希薄だ。
西暦2012年という妙に近場な未来を舞台にして、経済破綻したアメリカという、これまた決してあり得なくは無い設定を持ってきているのに、この作品で描かれる血と暴力の世界の中身の無さはどうだ。
この感覚は、描写は実写と見紛うばかりにリアルなのに、いくらでもリセット出来てしまうゲームの世界の擬似的なリアリティに通じる。
まあアンダーソン自身の出世作が、ゲームの映画化である「バイオ・ハザード」だから、たぶんこの人は素直にこういうのが好きなのだろう。
逆に世界観に作り物感が漂うからこそ、旧作とは比べ物にならないくらいにグレードアップした血みどろの残酷描写も何とか見ていられるのかもしれない。
旧作でデヴィッド・キャラダインが演じた凄腕ドライバーのフランケンシュタインを、「トランスポーター」シリーズでカーアクションならお任せのジェイソン・ステイサムが演じ、彼のライバルで旧作では無名時代のシルベスタ・スタローンが演じたマシンガン・ジョーは、何とハードゲイ(笑)という設定になって、ミュージシャンのタイリース・ギブソンが演じている。
また、旧作でもそれぞれのドライバーには異性のナビゲーターが付いているという設定だったが、今回もこの設定は踏襲され、フランケンシュタインのマシンには豊かな黒髪が印象的なナタリー・マルチネスが同乗し、華を添える。
ただ、出演者で出色なのは、冷酷な刑務所所長を演じたジョアン・アレンだ。
「ジェイソン・ボーン」シリーズでの好演も記憶に新しいが、ちょっと高慢そうな女性管理職を演じさせたらピカイチであり、今回も物語的に美味しいところを持ってゆく。
アクション演出はシャープで迫力があり、1時間47分を飽きさせないが、何しろ描写があまりにも悪趣味かつ色々な意味でイタタな内容なので、個人的にはあまり好きな映画ではない。
要するに「デス・レース」の「デス」の部分に力が入りすぎており、本来志向したはずのB級SF的な大らかさよりも、殺伐としたバイオレンスだけが印象に残って、あまり爽快感を感じないのだ。
まあ、旧作もかなりオゲレツな中身ではあったが、何しろ映像が限りなくチープなので、描写不足を脳内補完せねばならず、笑って許せる範囲だった。
対して21世紀のテクノロジーで作られたこちらは、リアルすぎて想像力の介入すら許さない。
全米興行の予想外の低迷も、このあたりのスパイスの効きすぎが観客に敬遠されたからではないかと思うのだが・・・
「ワイルド・スピード」とスプラッタ映画を、同じ皿で味わいたい人にだけお勧めする。
アメリカンレースというと、無条件でビール、それもバドかミラーを想像してしまうが、今回は映画のコクの無さが気になるので、アメリカンはアメリカンでももう少し飲み応えのあるビールにしよう。
「アンカー・スチーム」はサンフランシスコの小さな醸造所で作られる、アメリカを代表する地ビール。
しっかりとしたボディにコクのある華やかさ、適度な苦味にスモーキーさを併せ持つ、味わい深い本物のビールだ。
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2008年09月08日 (月) | 編集 |
なんともインパクトのあるタイトル・・・・
観たくても劇場の窓口でこのタイトルが言えずに、モジモジしているシャイな男性が結構いそうな気がする。
この夏、世界中の女性たちを熱狂させている「セックス・アンド・ザ・シティ」は、1998年から2004年にかけて放送された、4人のニューヨーカー女性を描いたテレビドラマのザ・ムービーだ。
初めに言っておくと、私はテレビ版を観た事が無い。
筋書きも雑誌の記事などで何となく知っいてる程度だ。
だが、そんな私が観ても、4人の主人公のキャラクターはわかりやすく説明され、それぞれの置かれたシチュエーションも自然に紹介されているので、若干の脳内補完だけで十分ついて行く事が出来た。
キャリー・ブラッドショー(サラ・ジェシカ・ハーパー)は、ニューヨーク在住の人気コラムニスト。
恋人のMr.ビッグ(クリス・ノース)と新しい家への引越しを控えた彼女は、思いもかけぬプロポーズを受ける。
長年の親友のミランダ(シンシア・ニクソン)、シャーロット(クリスティン・ディビス)、サマンサ(キム・キャトラル)も祝福してくれて、キャリーの気分も段々と盛り上がってくる。
最初はジミ婚にしようとしていたものの、婚約が新聞記事になったり、雑誌社が彼女のウエディングで特集記事を作るという事になったり、段々と大事に。
これが三度目の結婚であるMr.ビッグは、その盛り上がりに腰が引けてしまう。
結婚当日、式場に到着したキャリーだったが、そこに花婿の姿は無かった・・・
ちょっと雰囲気的に「プラダを着た悪魔」の年長版という感じもある。
ビジュアルイメージが似ているなあと思ったら、両方で重要な要素となるコスチュームデザインの担当がどちらもパトリシア・フィールドだった。
ファッションがそれほど前面に出るくらいだから、あとは恋にバカンスに結婚と、完全に女性向けの映画だが、別に男が観てもイケナイ訳ではないし、実際結構面白く観る事が出来た。
主人公となるのは今40代の4人の女性。
彼女たちは20代の頃に、「ブランドと恋」を求めてニューヨークにやって来て知り合い、以来無二の親友となって、人生の喜びも悲しみも分かち合ってきた仲。
その中でも、ドラマの中心となるのはコラムニストのキャリーだ。
「セックス・アンド・ザ・シティ」というのは、どうやら彼女が女性たちの本音を赤裸々に綴った著作という設定らしく、つまりは本作のストーリーテラーの役割も持つ。
リアリストのセレブで靴フェチでハイテク嫌い、お金持ちの優しい彼氏がいて、恋には夢も希望も失っていない。
たぶん、同世代独身女性の理想を体現しているキャラクターなのではないだろうか。
キャリーを含めた4人のキャラクターは、色々な意味で明確に個性が付けられ、性格や人生観、実際におかれたシチュエーションもバラバラだ。
性にワイルドで、狙った男は落とさずにはいられない、セックス依存症(?)のサマンサ。
多忙な弁護士である一方、アルツハイマーの義母の世話や、幼い子供の母親としての日常にも追われているミランダ。
健康オタクで不潔なものが嫌いで、やや天然の性格なのは、ただ一人専業主婦であるシャーロット。
世の女性たちは、この異なった性格、人生のステージを生きる4人の中の誰かに自分を重ね、たっぷりと感情移入してこのドラマを観るのだという。
なるほどね。
彼女らのキャラクターは、ある程度わかりやすくするためにステロタイプ的にカリカチュアされているものの、たいていの人が似た部分を見つけられる様に設定されている。
演じる俳優たちも、テレビシリーズを知らない私が観ても、長年役と共に生きてきた一体感のようなものが感じられて、十分に魅力的だ。
映画版にはもう一人、セントルイスからニューヨークにやって来た「セント・ルイーズ」というキャリーの歳若き新たな「友達」を、あの「ドリーム・ガールズ」のジェニファー・ハドソンが演じ、強い存在感を感じさせる。
やはりこの人は只者ではない。
私はなんとなく、観客の女性たちの多くは、どちらかというとこのルイーズのような視点、つまり4人に自分をある程度重ねると同時に、憧れの友達を見るような感じでこの作品に浸っているのではないかと思った。
何しろ、色々問題は出てくるものの、キャリーたちは言わば人生の勝ち組だ。
彼女たちは皆、少なくとも経済的には満ち足りていて、それぞれのやり方で彼女たちを心から愛してくれる、優しい男たちに囲まれている幸せ者なのだ。
その意味で、センセーションを感じさせるタイトルとは対照的に、物語そのものは保守的とも言える定番の展開で、それ自体に新しさは特に感じない。
もっとも、40代女性が本音で語る恋愛物という作品コンセプトに忠実であろうとすると、たぶんそんなに奇を衒う必要はないのだろう。
感情移入できる恋愛なんて、それ自体が特別である必要はどこにも無い。
実際この作品の物語はベタベタではあるものの、2時間半近い長尺を飽きさせず、男が観てもそれなりに共感できる物だった。
それにしても、本作の場合完全にサブである4人の夫や彼氏たちの良い人っぷりはどうだ。
Mr.ビッグの敵前逃亡はさすがにどうかと思うが、一回の浮気を馬鹿正直に告白して半年間も謝り続けるミランダの夫スティーブや、年上の彼女のわがままを優しく受け止めるサマンサの彼氏のスミスの人間的なことと言ったら、男として泣けてくる。
主人公の4人が、この世代の女性がこうありたいと思う存在だとしたら、男性キャラクターたちも、こんな彼氏がいたらなあという理想の姿なのかもしれない。
しかし、これだけ女性のハートを踊らす作品が、男性クリエイターによって作られているのは面白い。
テレビシリーズから続投の監督・脚本のマイケル・パトリック・キングとプロデューサーのダーレン・スターには、是非女心を掴むコツを聞いてみたいものである。
今回はその名も「ニューヨーク」というカクテルを。
バーボン45ml、ライムジュース15ml、グレナデン・シロップ1tsp、パウダーシュガー1tspをシェイクする。
ビターな蒸留酒とフルーツのハーモニーが、巨大都市の夜の彩を感じさせて、映画の華やかさを更に盛り上げてくれるだろう。
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観たくても劇場の窓口でこのタイトルが言えずに、モジモジしているシャイな男性が結構いそうな気がする。
この夏、世界中の女性たちを熱狂させている「セックス・アンド・ザ・シティ」は、1998年から2004年にかけて放送された、4人のニューヨーカー女性を描いたテレビドラマのザ・ムービーだ。
初めに言っておくと、私はテレビ版を観た事が無い。
筋書きも雑誌の記事などで何となく知っいてる程度だ。
だが、そんな私が観ても、4人の主人公のキャラクターはわかりやすく説明され、それぞれの置かれたシチュエーションも自然に紹介されているので、若干の脳内補完だけで十分ついて行く事が出来た。
キャリー・ブラッドショー(サラ・ジェシカ・ハーパー)は、ニューヨーク在住の人気コラムニスト。
恋人のMr.ビッグ(クリス・ノース)と新しい家への引越しを控えた彼女は、思いもかけぬプロポーズを受ける。
長年の親友のミランダ(シンシア・ニクソン)、シャーロット(クリスティン・ディビス)、サマンサ(キム・キャトラル)も祝福してくれて、キャリーの気分も段々と盛り上がってくる。
最初はジミ婚にしようとしていたものの、婚約が新聞記事になったり、雑誌社が彼女のウエディングで特集記事を作るという事になったり、段々と大事に。
これが三度目の結婚であるMr.ビッグは、その盛り上がりに腰が引けてしまう。
結婚当日、式場に到着したキャリーだったが、そこに花婿の姿は無かった・・・
ちょっと雰囲気的に「プラダを着た悪魔」の年長版という感じもある。
ビジュアルイメージが似ているなあと思ったら、両方で重要な要素となるコスチュームデザインの担当がどちらもパトリシア・フィールドだった。
ファッションがそれほど前面に出るくらいだから、あとは恋にバカンスに結婚と、完全に女性向けの映画だが、別に男が観てもイケナイ訳ではないし、実際結構面白く観る事が出来た。
主人公となるのは今40代の4人の女性。
彼女たちは20代の頃に、「ブランドと恋」を求めてニューヨークにやって来て知り合い、以来無二の親友となって、人生の喜びも悲しみも分かち合ってきた仲。
その中でも、ドラマの中心となるのはコラムニストのキャリーだ。
「セックス・アンド・ザ・シティ」というのは、どうやら彼女が女性たちの本音を赤裸々に綴った著作という設定らしく、つまりは本作のストーリーテラーの役割も持つ。
リアリストのセレブで靴フェチでハイテク嫌い、お金持ちの優しい彼氏がいて、恋には夢も希望も失っていない。
たぶん、同世代独身女性の理想を体現しているキャラクターなのではないだろうか。
キャリーを含めた4人のキャラクターは、色々な意味で明確に個性が付けられ、性格や人生観、実際におかれたシチュエーションもバラバラだ。
性にワイルドで、狙った男は落とさずにはいられない、セックス依存症(?)のサマンサ。
多忙な弁護士である一方、アルツハイマーの義母の世話や、幼い子供の母親としての日常にも追われているミランダ。
健康オタクで不潔なものが嫌いで、やや天然の性格なのは、ただ一人専業主婦であるシャーロット。
世の女性たちは、この異なった性格、人生のステージを生きる4人の中の誰かに自分を重ね、たっぷりと感情移入してこのドラマを観るのだという。
なるほどね。
彼女らのキャラクターは、ある程度わかりやすくするためにステロタイプ的にカリカチュアされているものの、たいていの人が似た部分を見つけられる様に設定されている。
演じる俳優たちも、テレビシリーズを知らない私が観ても、長年役と共に生きてきた一体感のようなものが感じられて、十分に魅力的だ。
映画版にはもう一人、セントルイスからニューヨークにやって来た「セント・ルイーズ」というキャリーの歳若き新たな「友達」を、あの「ドリーム・ガールズ」のジェニファー・ハドソンが演じ、強い存在感を感じさせる。
やはりこの人は只者ではない。
私はなんとなく、観客の女性たちの多くは、どちらかというとこのルイーズのような視点、つまり4人に自分をある程度重ねると同時に、憧れの友達を見るような感じでこの作品に浸っているのではないかと思った。
何しろ、色々問題は出てくるものの、キャリーたちは言わば人生の勝ち組だ。
彼女たちは皆、少なくとも経済的には満ち足りていて、それぞれのやり方で彼女たちを心から愛してくれる、優しい男たちに囲まれている幸せ者なのだ。
その意味で、センセーションを感じさせるタイトルとは対照的に、物語そのものは保守的とも言える定番の展開で、それ自体に新しさは特に感じない。
もっとも、40代女性が本音で語る恋愛物という作品コンセプトに忠実であろうとすると、たぶんそんなに奇を衒う必要はないのだろう。
感情移入できる恋愛なんて、それ自体が特別である必要はどこにも無い。
実際この作品の物語はベタベタではあるものの、2時間半近い長尺を飽きさせず、男が観てもそれなりに共感できる物だった。
それにしても、本作の場合完全にサブである4人の夫や彼氏たちの良い人っぷりはどうだ。
Mr.ビッグの敵前逃亡はさすがにどうかと思うが、一回の浮気を馬鹿正直に告白して半年間も謝り続けるミランダの夫スティーブや、年上の彼女のわがままを優しく受け止めるサマンサの彼氏のスミスの人間的なことと言ったら、男として泣けてくる。
主人公の4人が、この世代の女性がこうありたいと思う存在だとしたら、男性キャラクターたちも、こんな彼氏がいたらなあという理想の姿なのかもしれない。
しかし、これだけ女性のハートを踊らす作品が、男性クリエイターによって作られているのは面白い。
テレビシリーズから続投の監督・脚本のマイケル・パトリック・キングとプロデューサーのダーレン・スターには、是非女心を掴むコツを聞いてみたいものである。
今回はその名も「ニューヨーク」というカクテルを。
バーボン45ml、ライムジュース15ml、グレナデン・シロップ1tsp、パウダーシュガー1tspをシェイクする。
ビターな蒸留酒とフルーツのハーモニーが、巨大都市の夜の彩を感じさせて、映画の華やかさを更に盛り上げてくれるだろう。

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2008年09月05日 (金) | 編集 |
夏の終わりに、祭りの季節を笑いで〆たくなるのは洋の東西を問わない欲求らしい。
日本の夏のトリを飾ったのがクラウザーさんなら、全米のサマーシーズンで圧倒的な強さを誇った「ダークナイト」の5週連続1位を阻んだのが、ベン・スティラー主演の「トロピック・サンダー/史上最低の作戦」だ。
少々濃すぎるキャラクターのためか、日本ではイマイチ人気が無かったスティラーだが、前作の「ナイトミュージアム」がヒットして、段々と認知度も上がってきた。
今回、自ら監督・脚本も兼ねて作り出したのは、ベトナム戦争映画のパロディであり、またハリウッドの楽屋落ちネタ満載の、正に抱腹絶倒の笑いの爆弾だ。
なんと「太陽の帝国」に出演した時に思いついて以来、構想二十年の念願の企画だそうである。
落ち目のアクションスター、ダグ・スピードマン(ベン・スティラー)は、フォー・リーフ・ティバック(ニック・ノルティ)と呼ばれるベトナム帰還兵の書いたノンフィクション作品の映画化を撮影中。
しかし監督のダミアン・コックバーン(スティーブ・クーガン)は、超個性的な俳優たちを纏め切れず、撮影中のアクシデントで大幅な予算超過もあって、現場は空中分解寸前。
ティバックの提案で、コックバーンはダグら五人の俳優をヘリコプターでジャングルに連れ出し、隠しカメラでドキュメンタリー風にゲリラ撮影しようとするのだが、実はそこは麻薬組織のゲリラが出没する本物の戦場だった・・・
最近はすっかりイラク戦争物にお株を奪われた感があるが、ベトナム戦争映画は、7~80年代のハリウッド映画の定番の一つであり、「ディア・ハンター」や「地獄の黙示録」「プラトーン」「フルメタル・ジャケット」など、映画史に残る傑作が綺羅星のごとく並ぶ。
この作品は、そんなベトナム戦争物を制作しているハリウッドの舞台裏をモチーフにしたパロディ映画の一種だが、それだけではない。
映画のはずがいつの間にか本物に、というこれまたハリウッドコメディの定番設定を組み合わせる事で、映画制作の舞台裏をギャグのネタとして取り込み、現実とフィクションの垣根を取り払った、ある意味でかなり自虐的な要素を含む新しい笑いを生み出している。
とにかく全編に仕掛けられたギミックが満載で、まずは本編が始まるまでに仕掛けがある。
妙に予告編が長いなあと思ったら、この作品のキャラクターを使ったフェイクの予告編が流されているではないか。
しかもこれが、本編に出演していない大物俳優まで使った凝りに凝った物で、一見すると普通の映画の予告と勘違いしそうになる。
もちろんこの予告編集も、本編の複線になっているので、ボーっとして見逃さない様に。
1本のフェイクCMと3本のフェイク予告という前フリが終わって、ようやく「地獄の黙示録」と「プラトーン」を合わせたような、「トロピック・サンダー」の幕が開く。
本作の主人公、ダグ・スピードマンはアクション映画「スコーチャー」で人気者になった俳優だが、演技派に転進を狙って知的障害者を演じた「シンプル・ジャック」が大不評で、一気に世間の笑いものになってしまう。
そして起死回生の一発を狙って出演しているのがベトナム戦争映画の「トロピック・サンダー」という訳だ。
彼の共演者は、ジャック・ブラック演じる、超お下品な下ネタコメディアンのジェフ・ポートノイや、ロバート・ダウニーJr.演じる、アカデミー賞を五回も受賞した名優カーク・ラザラスなど一癖も二癖もある連中。
この豪華な面々が、映画の撮影だと思って、いつの間にかゲリラ相手の本物の戦争に巻き込まれていくというのが本作の骨子だが、この作品には他にも多くの有名人が俳優として、あるいは本人として登場しており、正にオールスターキャストと言って良い。
面白いのはスティラー、ブラックらコメディ系が一目で本人とわかるキャラクターに配されているのに対して、ダウニーJr.やトム・クルーズらシリアス系(?)の俳優はぱっと見一体どこに出ているのか判らない様になっている。
メガヒットの「アイアンマン」に続いて本作と、珍しく純娯楽映画に続けて出演のダウニーJr.は、白人なのに皮膚手術を受けてまで黒人を演じるというエキセントリックなやり過ぎ演技派俳優を演じて、強烈なインパクトを与える。
しかし、エンドクレジット観るまで、本当にどこに出ているのかわからないトム・クルーズの化けっぷりは更にその上を行く笑撃さで、ファンにはショックかもしれないが、ある意味これは彼の新たな魅力を引き出したのかも・・・
超オバカな芸能エージェントを演じるマシュー・マコノヒーを含め、「え?この人こういうキャラだっけ・・・」という様な役柄をあえてやらせて、本人とのギャップを楽しもうという志向で、さすがベン・スティラー監督は俳優のいじり方をよくわかっている。
元々彼は「リアリティ・バイツ」などで、監督として先に頭角を現した人で、この作品では最初から最後まで錚々たるメンバーをいじり倒し、演出家としてもノリノリの悪ノリっぷりを見せる。
たぶん、本人もやっていて凄く楽しかったのではないだろうか。
「トロピック・サンダー/史上最低の作戦」は、言わばシェフが自らを料理してメインディッシュとして皿に盛り付けてしまった様な、過激な創作料理。
このハイテンションにはっちゃけたコメディは、なかなか日本人には真似できない世界で、人によってはしつこく感じてしまうかもしれない。
しかし1時間47分の間、文字通り熱帯の雷のごとく押し寄せる笑いの絨毯爆撃は、文句なしに腸がねじ切れる可笑しさで、コテコテのアメリカンギャグでお腹いっぱいにしてくれる。
ハリウッドの楽屋落ちネタ満載も楽しく、ある種の祭り気分で観に行くにはピッタリだろう。
ただ残念なのは11月という日本公開時期。
ノリ的には完全な夏のバケーション映画で、11月という季節とはイメージ的に最もかけ離れた作品なのは間違いなく、出来れば日本でも夏に同時公開して欲しかった。
映画にも旬というものがあると思うのだけど。
今回は悪乗りついでに、インパクトのあるネーミング世界一の「セックス・オン・ザ・ビーチ」をチョイス。
本作で新境地に達した(?)トム・クルーズ主演の「カクテル」で有名になったカクテルだが、ウォッカと果実系リキュールを複数組み合わせた味わいは正に甘~いロマンスの味。
ウォッカ20ml、メロンリキュール20ml、クレーム・ド・フランボワーズ10ml、パインジュース80mlをステアする。
名前ほど過激さは無く、飲みやすいデザートカクテルだ。
映画が濃いので、鑑賞後はこのぐらいで良かろう。
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日本の夏のトリを飾ったのがクラウザーさんなら、全米のサマーシーズンで圧倒的な強さを誇った「ダークナイト」の5週連続1位を阻んだのが、ベン・スティラー主演の「トロピック・サンダー/史上最低の作戦」だ。
少々濃すぎるキャラクターのためか、日本ではイマイチ人気が無かったスティラーだが、前作の「ナイトミュージアム」がヒットして、段々と認知度も上がってきた。
今回、自ら監督・脚本も兼ねて作り出したのは、ベトナム戦争映画のパロディであり、またハリウッドの楽屋落ちネタ満載の、正に抱腹絶倒の笑いの爆弾だ。
なんと「太陽の帝国」に出演した時に思いついて以来、構想二十年の念願の企画だそうである。
落ち目のアクションスター、ダグ・スピードマン(ベン・スティラー)は、フォー・リーフ・ティバック(ニック・ノルティ)と呼ばれるベトナム帰還兵の書いたノンフィクション作品の映画化を撮影中。
しかし監督のダミアン・コックバーン(スティーブ・クーガン)は、超個性的な俳優たちを纏め切れず、撮影中のアクシデントで大幅な予算超過もあって、現場は空中分解寸前。
ティバックの提案で、コックバーンはダグら五人の俳優をヘリコプターでジャングルに連れ出し、隠しカメラでドキュメンタリー風にゲリラ撮影しようとするのだが、実はそこは麻薬組織のゲリラが出没する本物の戦場だった・・・
最近はすっかりイラク戦争物にお株を奪われた感があるが、ベトナム戦争映画は、7~80年代のハリウッド映画の定番の一つであり、「ディア・ハンター」や「地獄の黙示録」「プラトーン」「フルメタル・ジャケット」など、映画史に残る傑作が綺羅星のごとく並ぶ。
この作品は、そんなベトナム戦争物を制作しているハリウッドの舞台裏をモチーフにしたパロディ映画の一種だが、それだけではない。
映画のはずがいつの間にか本物に、というこれまたハリウッドコメディの定番設定を組み合わせる事で、映画制作の舞台裏をギャグのネタとして取り込み、現実とフィクションの垣根を取り払った、ある意味でかなり自虐的な要素を含む新しい笑いを生み出している。
とにかく全編に仕掛けられたギミックが満載で、まずは本編が始まるまでに仕掛けがある。
妙に予告編が長いなあと思ったら、この作品のキャラクターを使ったフェイクの予告編が流されているではないか。
しかもこれが、本編に出演していない大物俳優まで使った凝りに凝った物で、一見すると普通の映画の予告と勘違いしそうになる。
もちろんこの予告編集も、本編の複線になっているので、ボーっとして見逃さない様に。
1本のフェイクCMと3本のフェイク予告という前フリが終わって、ようやく「地獄の黙示録」と「プラトーン」を合わせたような、「トロピック・サンダー」の幕が開く。
本作の主人公、ダグ・スピードマンはアクション映画「スコーチャー」で人気者になった俳優だが、演技派に転進を狙って知的障害者を演じた「シンプル・ジャック」が大不評で、一気に世間の笑いものになってしまう。
そして起死回生の一発を狙って出演しているのがベトナム戦争映画の「トロピック・サンダー」という訳だ。
彼の共演者は、ジャック・ブラック演じる、超お下品な下ネタコメディアンのジェフ・ポートノイや、ロバート・ダウニーJr.演じる、アカデミー賞を五回も受賞した名優カーク・ラザラスなど一癖も二癖もある連中。
この豪華な面々が、映画の撮影だと思って、いつの間にかゲリラ相手の本物の戦争に巻き込まれていくというのが本作の骨子だが、この作品には他にも多くの有名人が俳優として、あるいは本人として登場しており、正にオールスターキャストと言って良い。
面白いのはスティラー、ブラックらコメディ系が一目で本人とわかるキャラクターに配されているのに対して、ダウニーJr.やトム・クルーズらシリアス系(?)の俳優はぱっと見一体どこに出ているのか判らない様になっている。
メガヒットの「アイアンマン」に続いて本作と、珍しく純娯楽映画に続けて出演のダウニーJr.は、白人なのに皮膚手術を受けてまで黒人を演じるというエキセントリックなやり過ぎ演技派俳優を演じて、強烈なインパクトを与える。
しかし、エンドクレジット観るまで、本当にどこに出ているのかわからないトム・クルーズの化けっぷりは更にその上を行く笑撃さで、ファンにはショックかもしれないが、ある意味これは彼の新たな魅力を引き出したのかも・・・
超オバカな芸能エージェントを演じるマシュー・マコノヒーを含め、「え?この人こういうキャラだっけ・・・」という様な役柄をあえてやらせて、本人とのギャップを楽しもうという志向で、さすがベン・スティラー監督は俳優のいじり方をよくわかっている。
元々彼は「リアリティ・バイツ」などで、監督として先に頭角を現した人で、この作品では最初から最後まで錚々たるメンバーをいじり倒し、演出家としてもノリノリの悪ノリっぷりを見せる。
たぶん、本人もやっていて凄く楽しかったのではないだろうか。
「トロピック・サンダー/史上最低の作戦」は、言わばシェフが自らを料理してメインディッシュとして皿に盛り付けてしまった様な、過激な創作料理。
このハイテンションにはっちゃけたコメディは、なかなか日本人には真似できない世界で、人によってはしつこく感じてしまうかもしれない。
しかし1時間47分の間、文字通り熱帯の雷のごとく押し寄せる笑いの絨毯爆撃は、文句なしに腸がねじ切れる可笑しさで、コテコテのアメリカンギャグでお腹いっぱいにしてくれる。
ハリウッドの楽屋落ちネタ満載も楽しく、ある種の祭り気分で観に行くにはピッタリだろう。
ただ残念なのは11月という日本公開時期。
ノリ的には完全な夏のバケーション映画で、11月という季節とはイメージ的に最もかけ離れた作品なのは間違いなく、出来れば日本でも夏に同時公開して欲しかった。
映画にも旬というものがあると思うのだけど。
今回は悪乗りついでに、インパクトのあるネーミング世界一の「セックス・オン・ザ・ビーチ」をチョイス。
本作で新境地に達した(?)トム・クルーズ主演の「カクテル」で有名になったカクテルだが、ウォッカと果実系リキュールを複数組み合わせた味わいは正に甘~いロマンスの味。
ウォッカ20ml、メロンリキュール20ml、クレーム・ド・フランボワーズ10ml、パインジュース80mlをステアする。
名前ほど過激さは無く、飲みやすいデザートカクテルだ。
映画が濃いので、鑑賞後はこのぐらいで良かろう。

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2008年09月02日 (火) | 編集 |
1993年から2002年にかけて、全201話が放送された「X-ファイル」は、間違いなくテレビ史上に残る傑作シリーズであった。
科学では説明のつかない超常現象を専門に扱うFBI捜査官、モルダーとスカリーの活躍を通して、謎が謎を呼ぶ形で世界観が広がる独特の作風は、テレビドラマの世界に絶大な影響を与え、現在に至るまで多くのフォロワーを生み出した。
1998年には、劇場版である「X-ファイル:ザ・ムービー」が公開され、これまた大ヒットしたのも記憶に新しい。
しかしながら、テレビシリーズは21世紀に入った頃から息切れが激しく、最後は全盛期の人気を失って行ったのもまた事実。
もちろん、熱烈なファンはいまだに多いだろうが、放送終了から6年も経って登場した劇場版第二作「X-ファイル:真実を求めて」は、何故今になって続編なのか?という疑問を多くの人に抱かせることだろう。
ウエストバージニアでFBI捜査官の女性が失踪する事件が起こる。
あるカソリック病院に医師として勤務しているスカリー(ジリアン・アンダーソン)の元に、FBIのドラミー捜査官(イクズィビット)が訪れ、行方をくらましているモルダー(デヴィッド・ドゥカヴニー)に捜査協力の要請を伝えてくれるよう依頼する。
モルダーとスカリーは、超能力者であるジョー神父(ビリー・コノリー)と共に、事件を追う事になるのだが・・・
色々な意味で、意外性のある作品であった。
テレビシリーズを御覧になった事のある方はお判りだろうが、「X-ファイル」は基本的には一話完結だが、シリーズ全体を通して描かれる大きなドラマの流れがある。
それはモルダーが少年の頃に失踪した妹サマンサと、宇宙人を巡る物語だ。
彼は妹の失踪は宇宙人による誘拐だと信じており、それを止められなかった事をトラウマとして抱えている。
サマンサの行方を捜すために、UFOの存在を隠蔽する政府の陰謀と戦い、真実を解き明かそうとしており、その一環としてFBIの超常現象事件簿、「X-ファイル」を手がけているのだ。
つまり、このシリーズは、モルダーが真実を追究する長大な物語が基本にあり、その過程で出会ってきた様々な超常現象が各エピソードとして描かれるという構造を持っている。
10年前の最初の劇場版も、この宇宙人ネタの延長として描かれており、今回の第二作も当然そうなのだろうと思っていたが、意外にも全く独立したエピソードで、かろうじてサマンサには言及されるものの、宇宙人関連の話は全くと言って良いほど出てこない。
今回の話は、失踪した女性たちを追うモルダーたちが、ある異常な医療犯罪と戦う物語であり、その過程でジョー神父の超能力を巡り、モルダーとスカリーの間で真実を巡る葛藤が描かれる。
ウリである超常現象的な部分さえも、事件の謎の一部とジョー神父くらいで、全体にテレビの一話完結のエピソードの拡大版という感が強い。
正直なところ、映画的なスケール感は、SF大作の風格を持っていた劇場版一作目と比べても格段に小さく、この作品をきっかけに新たな展開を期待していたファンにとっては、肩透かしの内容かも知れない。
もっとも、シリーズ産みの親であるクリス・カーターとフランク・スポトニッツが脚本を書き、カーター自身がメガホンを取った本作は、よくよく噛み砕けば、これはこれではなかなか興味深い内容を含んでいる。
テレビシリーズ終了から6年、モルダーもスカリーも既にFBIを辞めていて、スカリーは医師として医療現場に復帰し、モルダーにいたってはFBIが自分を逮捕しようとしていると思い、ひっそりと隠遁生活を送っている。
連続失踪事件への協力という形で現場復帰した二人は、超能力者であるジョー神父と共に真実を追う事になるのだが、このジョー神父こそが本作のテーマを際立たせるキーパーソンだ。
神父の能力に対するモルダーとスカリーのスタンスは例によって正反対となるのだが、これは単なる超常現象への解釈という以上に、二人の生き方にとっての重要な葛藤を含んでいるのである。
そんな二人は、テレビ版ではありそうで遂に無かった恋人関係になっている。
つまり彼らは今、共に帰る家があるのである。
事件の謎解きとは別に、神父との関わりを通して、二人は今後自分たちがどう生きて行くべきなのかという深刻なテーマに直面し、苦悩する。
この作品の邦題には「真実を求めて」という副題がついているが、原題は「I want to believe(私は信じたい)」となっている。
信じて前に進むか、信じずにそこに留まるか、「X-ファイル」という居場所を失った二人にとって、これは何を人生の真実として求めるのかを正面から描いた心理劇と言える作品なのである。
裏を読めば、劇中の二人と同じように、長年人生をシリーズに捧げてきたクリス・カーターやデヴィッド・ドゥカヴニー、ジリアン・アンダーソンらにとっても、「X-ファイル」後の人生を、これからどう生きてゆくべきなのかという内輪なテーマに通じる様に思う。
これは物語の作り手たちが、現実と物語の折り合いをつけるために作ったいわば私小説的な作品なのかもしれない。
たぶん、この映画に描かれている内容は、シリーズを最初から観て、ある程度登場人物の過ごして来た15年間の歴史を、生の時間として捉えられる人にしか伝わらないだろう。
もちろん、一本の猟奇サスペンス映画として観ても、なかなか良く出来ているし、特にこのシリーズに思い入れが無かったとしても、決して飽きる事は無いと思う。
ただ、やはりこれはテレビの延長線上にある「X-ファイル」の後始末、エピローグ的な物語であり、長年のファンが観ればこそ、深みのある作品である事は間違いないのではないか。
作品の作りから言っても、おそらく「X-ファイル」はこれで見納めだろう。
一見さんには薦められないが、シリーズに思い入れのある人には、映画館で観てもらいたい一作である。
「X-ファイル」といえばテレビのオープニングクレジットの「Truth is out there(真実はそこにある)」というキャッチが有名だが、今回はそのものズバリな名前のお酒を。
福島県は豊国酒造のその名も「真実」をチョイス。
蔵元の娘さんの名前からとられたそうだが、吟醸酒らしい華やかな吟醸香が広がり、まろやかで芳醇な女性的なテイスト。
特に強い特徴は無いが、飲み飽きる事の無い酒だ。
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科学では説明のつかない超常現象を専門に扱うFBI捜査官、モルダーとスカリーの活躍を通して、謎が謎を呼ぶ形で世界観が広がる独特の作風は、テレビドラマの世界に絶大な影響を与え、現在に至るまで多くのフォロワーを生み出した。
1998年には、劇場版である「X-ファイル:ザ・ムービー」が公開され、これまた大ヒットしたのも記憶に新しい。
しかしながら、テレビシリーズは21世紀に入った頃から息切れが激しく、最後は全盛期の人気を失って行ったのもまた事実。
もちろん、熱烈なファンはいまだに多いだろうが、放送終了から6年も経って登場した劇場版第二作「X-ファイル:真実を求めて」は、何故今になって続編なのか?という疑問を多くの人に抱かせることだろう。
ウエストバージニアでFBI捜査官の女性が失踪する事件が起こる。
あるカソリック病院に医師として勤務しているスカリー(ジリアン・アンダーソン)の元に、FBIのドラミー捜査官(イクズィビット)が訪れ、行方をくらましているモルダー(デヴィッド・ドゥカヴニー)に捜査協力の要請を伝えてくれるよう依頼する。
モルダーとスカリーは、超能力者であるジョー神父(ビリー・コノリー)と共に、事件を追う事になるのだが・・・
色々な意味で、意外性のある作品であった。
テレビシリーズを御覧になった事のある方はお判りだろうが、「X-ファイル」は基本的には一話完結だが、シリーズ全体を通して描かれる大きなドラマの流れがある。
それはモルダーが少年の頃に失踪した妹サマンサと、宇宙人を巡る物語だ。
彼は妹の失踪は宇宙人による誘拐だと信じており、それを止められなかった事をトラウマとして抱えている。
サマンサの行方を捜すために、UFOの存在を隠蔽する政府の陰謀と戦い、真実を解き明かそうとしており、その一環としてFBIの超常現象事件簿、「X-ファイル」を手がけているのだ。
つまり、このシリーズは、モルダーが真実を追究する長大な物語が基本にあり、その過程で出会ってきた様々な超常現象が各エピソードとして描かれるという構造を持っている。
10年前の最初の劇場版も、この宇宙人ネタの延長として描かれており、今回の第二作も当然そうなのだろうと思っていたが、意外にも全く独立したエピソードで、かろうじてサマンサには言及されるものの、宇宙人関連の話は全くと言って良いほど出てこない。
今回の話は、失踪した女性たちを追うモルダーたちが、ある異常な医療犯罪と戦う物語であり、その過程でジョー神父の超能力を巡り、モルダーとスカリーの間で真実を巡る葛藤が描かれる。
ウリである超常現象的な部分さえも、事件の謎の一部とジョー神父くらいで、全体にテレビの一話完結のエピソードの拡大版という感が強い。
正直なところ、映画的なスケール感は、SF大作の風格を持っていた劇場版一作目と比べても格段に小さく、この作品をきっかけに新たな展開を期待していたファンにとっては、肩透かしの内容かも知れない。
もっとも、シリーズ産みの親であるクリス・カーターとフランク・スポトニッツが脚本を書き、カーター自身がメガホンを取った本作は、よくよく噛み砕けば、これはこれではなかなか興味深い内容を含んでいる。
テレビシリーズ終了から6年、モルダーもスカリーも既にFBIを辞めていて、スカリーは医師として医療現場に復帰し、モルダーにいたってはFBIが自分を逮捕しようとしていると思い、ひっそりと隠遁生活を送っている。
連続失踪事件への協力という形で現場復帰した二人は、超能力者であるジョー神父と共に真実を追う事になるのだが、このジョー神父こそが本作のテーマを際立たせるキーパーソンだ。
神父の能力に対するモルダーとスカリーのスタンスは例によって正反対となるのだが、これは単なる超常現象への解釈という以上に、二人の生き方にとっての重要な葛藤を含んでいるのである。
そんな二人は、テレビ版ではありそうで遂に無かった恋人関係になっている。
つまり彼らは今、共に帰る家があるのである。
事件の謎解きとは別に、神父との関わりを通して、二人は今後自分たちがどう生きて行くべきなのかという深刻なテーマに直面し、苦悩する。
この作品の邦題には「真実を求めて」という副題がついているが、原題は「I want to believe(私は信じたい)」となっている。
信じて前に進むか、信じずにそこに留まるか、「X-ファイル」という居場所を失った二人にとって、これは何を人生の真実として求めるのかを正面から描いた心理劇と言える作品なのである。
裏を読めば、劇中の二人と同じように、長年人生をシリーズに捧げてきたクリス・カーターやデヴィッド・ドゥカヴニー、ジリアン・アンダーソンらにとっても、「X-ファイル」後の人生を、これからどう生きてゆくべきなのかという内輪なテーマに通じる様に思う。
これは物語の作り手たちが、現実と物語の折り合いをつけるために作ったいわば私小説的な作品なのかもしれない。
たぶん、この映画に描かれている内容は、シリーズを最初から観て、ある程度登場人物の過ごして来た15年間の歴史を、生の時間として捉えられる人にしか伝わらないだろう。
もちろん、一本の猟奇サスペンス映画として観ても、なかなか良く出来ているし、特にこのシリーズに思い入れが無かったとしても、決して飽きる事は無いと思う。
ただ、やはりこれはテレビの延長線上にある「X-ファイル」の後始末、エピローグ的な物語であり、長年のファンが観ればこそ、深みのある作品である事は間違いないのではないか。
作品の作りから言っても、おそらく「X-ファイル」はこれで見納めだろう。
一見さんには薦められないが、シリーズに思い入れのある人には、映画館で観てもらいたい一作である。
「X-ファイル」といえばテレビのオープニングクレジットの「Truth is out there(真実はそこにある)」というキャッチが有名だが、今回はそのものズバリな名前のお酒を。
福島県は豊国酒造のその名も「真実」をチョイス。
蔵元の娘さんの名前からとられたそうだが、吟醸酒らしい華やかな吟醸香が広がり、まろやかで芳醇な女性的なテイスト。
特に強い特徴は無いが、飲み飽きる事の無い酒だ。

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