2008年09月15日 (月) | 編集 |
中島哲也という人は、文句なしに素晴らしい才能に恵まれた人だと思うのだが、しばしばサービス精神が旺盛過ぎて、お腹いっぱいなのに更に詰め込まれるという苦しさがある。
私は、世評の高かった「嫌われ松子の一生」を、それほど楽しむ事が出来ず・・・というか途中で飽きちゃったので、輪をかけて濃そうなこの作品にはあまり期待していなかった。
この人の作品は、現実に虚構のフィルターを何重にもかぶせていって、一つの様式化された世界に再構築して寓話性を際立たせるというスタイルだが、何しろこの作品は予告編のビジュアルだけみても、前提となる「現実」が思いっきり希薄に思えた。
虚構の世界に虚構を重ねて言ったら、一体どんな腹にもたれるレイヤーケーキが出来上がるのかと思っていたのだが、いやこれは良い意味で裏切られた。
「パコと魔法の絵本」は日本映画には珍しい、徹底的に作りこまれた本格的なファンタジーであり、大人が観ても十分に感動的な作品に仕上がっている。
一代で大企業を築き、他人を一切信用せずに生きてきた大貫(役所広司)は、体調を崩して入院中。
その病院には、芝居狂の院長先生(上川隆也)を初め、オカマの木之元(國村隼)やヤクザの龍門寺(山内圭哉)、自殺未遂を繰り返す俳優の室町(妻夫木聡)など、奇妙な人たちが集まっていた。
「お前が私を知っている事に腹が立つ!」と言い放つ大貫は、ここでも嫌われ者。
病院には、毎日「ガマ王子対ザリガニ魔王」という絵本を朗読している少女パコ(アヤカ・ウィルソン)も入院していて、彼女は交通事故の後遺症で、一日しか記憶が持たないという障害を抱えている。
パコの病気の事を知らない大貫は、ある日大切にしていた純金のライターを、パコに盗まれたと勘違いして彼女を殴ってしまい、ひどく後悔するのだが・・・
たぶん、中島作品が好きな人でも、この作品の導入部には面食らうだろう。
舞台となるのは、とある病院なのだが、これがド派手な原色で彩られたあり得ない空間で、登場人物もルックスからキャラクターまで、超エキセントリックにぶっ飛んだ連中ばかり。
なんというか、アングラ劇団の芝居を観ている様な感覚に囚われるのだが、実はこの作品の原作は後藤ひろひと作の「MIDSUMMER CAROL ガマ王子vsザリガニ魔人」という舞台劇。
そっちは観ていないので、物語を含めてどこまで忠実なのかはわからないが、舞台のスチル写真と見比べても、映画の造形感覚の派手さと意図的な作り物臭さは強烈で、やり過ぎ感漂う阿部サダヲを語り部として物語が展開する冒頭から、多くの観客に戸惑いを感じさせるだろう。
正直なところ、私はこの冒頭で「こりゃやっぱりダメかも」と思ってしまったのだが、やがて奇想天外なキャラクターたちの紹介が終わり、大貫とタイトルロールであるパコとの絡みが始まると、物語は俄然面白くなる。
冒頭、故人である大貫の家を年老いた語り部役の阿部ダサヲが訪ね、仏壇に置かれていた絵本にまつわる物語を、大貫のヲタクの甥に語って聞かせるという全体の構成は、「嫌われ松子の一生」と少し似ている。
中心となるのは、人間を信じられない偏屈老人の大貫と、少女パコの心の交流の物語。
パコは交通事故で両親を亡くし、自らも一日分の記憶しか保てない障害を負ってしまう。
彼女は7歳の誕生日に母親から送られた絵本「ガマ王子対ザリガニ魔王」を、毎朝起きるたびに枕元に見つけ、永遠の誕生日を生きているのだ。
勘違いから殴られた翌日、再び大貫がパコの頬に触れると、記憶を持たないはずのパコは「おじさん、昨日もパコのほっぺにさわったよね」と、満面の笑顔で語りかけ、大貫の寂しい心を守ってきた氷の塀は、このあまりにも切なく重い一言に、あっけなく崩壊する。
横暴な池の嫌われ者であるガマ王子の物語に自らを重ねた大貫は、パコの心に何かを残そうと、病院の皆を巻き込んで、絵本をお芝居として上演しようとするのだ。
まあ、簡単に言えば、心を病んだ頑固ジジイが、無垢な少女とのふれあいで改心する物語だが、もちろんそれだけでは終わらない。
この作品は、とにかくエキセントリックなキャラクターが満載だが、彼ら一人一人のバックグラウンドがサブストーリーとして語られ、これがまた面白い。
子役時代の栄光から脱皮する事が出来ず、自殺未遂を繰り返す俳優の室町と、土屋アンナ演じる彼を密かに慕うヤンキー看護婦のタマコの物語。
実の娘の結婚式に、出席する事が出来ないオカマの木之元の物語。
そして劇団ひとりの演じる勇気を持てないヘタレ消防士の物語。
「嫌われ松子の一生」では、全てのパワーを松子の物語に集中して描いてしまったために、ややオーバーフロー気味だったが、今回は中ダレしそうになると、綿密に張り巡らされたサブストーリーが物語を重層的に盛り上げ、一本調子になるのを防いでいる。
大貫を含めたキャラクターは、全て明確な役割を持ってカリカチュアされたキャラクターで、メイクと衣装で元の俳優が誰なのか判らないくらい作りこまれているのも、俳優の持つイメージから役を独立させたかったからだろう。
例外はパコ役のアヤカ・ウィルソンと阿部サダヲで、パコはもちろん無垢なる魂の象徴として、変幻自在の阿部サダヲは物語の語り部として、作品世界の中で独自のポジションを与えられている。
「げろげーろ」という大きな声の朗読も可愛いアヤカ・ウィルソンは、ちょっと長澤まさみをハーフにした様な雰囲気の、絵に描いたような美少女で、これからが楽しみな逸材だ。
大貫の仕掛けた「ガマ王子対ザリガニ魔王」の芝居は、病院に集う皆を巻き込んで進んでゆくが、この芝居を演じる事で、彼らはそれぞれの抱える問題と向き合い、一定の答えを得る。
この過程は、舞台の構造をそのまま生かして、さらに劇中劇をパコのイマジネーションによって現実化したCGアニメとして描く事で、映画ならではの飛躍も表現されている。
CG化された絵本の世界のクオリティは素晴らしく、頻繁に切り替わる実写パートとの接続の違和感も全く無い。
外連味たっぷりに作られた、実写パートのビジュアルデザインが、ここで生きてくるのだ。
「ガマ王子対ザリガニ魔王」の絵本は、池の皆を守るため、ザリガニ魔王と戦ったガマ王子が命を落として終わる。
ガマ王子役の大貫も当然・・・と思わせておいて、この映画はそこから更に一ひねりしてあり、このクライマックスの展開は号泣もの。
こうくるとは思っていなかった私も、しっかりと泣かされてしまった。
正直なところ、相変わらず好き嫌いはあると思うが、「パコと魔法の絵本」は、中島哲也という演出家の資質と、物語の素材との幸福なマリアージュを味わう事の出来る秀作だ。
食わず嫌いの人も、試して損は無い一皿である。
今回は、子供にも飲める(?)甘―い緑のカクテル「グリーン・カルピス」をチョイス。
メロン・リキュール30mlとカルピス30mlをグラスに注ぎ、ソーダで割る。
喉でシュワーッと炭酸が弾ける感覚は、物語の後味をさわやかにまとめてくれるだろう。
メロンリキュールをそのままメロンシロップに変えれば、子供の大好きなメロン・カルピスのソーダ割りとなるので、大人も子供も楽しめる。
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私は、世評の高かった「嫌われ松子の一生」を、それほど楽しむ事が出来ず・・・というか途中で飽きちゃったので、輪をかけて濃そうなこの作品にはあまり期待していなかった。
この人の作品は、現実に虚構のフィルターを何重にもかぶせていって、一つの様式化された世界に再構築して寓話性を際立たせるというスタイルだが、何しろこの作品は予告編のビジュアルだけみても、前提となる「現実」が思いっきり希薄に思えた。
虚構の世界に虚構を重ねて言ったら、一体どんな腹にもたれるレイヤーケーキが出来上がるのかと思っていたのだが、いやこれは良い意味で裏切られた。
「パコと魔法の絵本」は日本映画には珍しい、徹底的に作りこまれた本格的なファンタジーであり、大人が観ても十分に感動的な作品に仕上がっている。
一代で大企業を築き、他人を一切信用せずに生きてきた大貫(役所広司)は、体調を崩して入院中。
その病院には、芝居狂の院長先生(上川隆也)を初め、オカマの木之元(國村隼)やヤクザの龍門寺(山内圭哉)、自殺未遂を繰り返す俳優の室町(妻夫木聡)など、奇妙な人たちが集まっていた。
「お前が私を知っている事に腹が立つ!」と言い放つ大貫は、ここでも嫌われ者。
病院には、毎日「ガマ王子対ザリガニ魔王」という絵本を朗読している少女パコ(アヤカ・ウィルソン)も入院していて、彼女は交通事故の後遺症で、一日しか記憶が持たないという障害を抱えている。
パコの病気の事を知らない大貫は、ある日大切にしていた純金のライターを、パコに盗まれたと勘違いして彼女を殴ってしまい、ひどく後悔するのだが・・・
たぶん、中島作品が好きな人でも、この作品の導入部には面食らうだろう。
舞台となるのは、とある病院なのだが、これがド派手な原色で彩られたあり得ない空間で、登場人物もルックスからキャラクターまで、超エキセントリックにぶっ飛んだ連中ばかり。
なんというか、アングラ劇団の芝居を観ている様な感覚に囚われるのだが、実はこの作品の原作は後藤ひろひと作の「MIDSUMMER CAROL ガマ王子vsザリガニ魔人」という舞台劇。
そっちは観ていないので、物語を含めてどこまで忠実なのかはわからないが、舞台のスチル写真と見比べても、映画の造形感覚の派手さと意図的な作り物臭さは強烈で、やり過ぎ感漂う阿部サダヲを語り部として物語が展開する冒頭から、多くの観客に戸惑いを感じさせるだろう。
正直なところ、私はこの冒頭で「こりゃやっぱりダメかも」と思ってしまったのだが、やがて奇想天外なキャラクターたちの紹介が終わり、大貫とタイトルロールであるパコとの絡みが始まると、物語は俄然面白くなる。
冒頭、故人である大貫の家を年老いた語り部役の阿部ダサヲが訪ね、仏壇に置かれていた絵本にまつわる物語を、大貫のヲタクの甥に語って聞かせるという全体の構成は、「嫌われ松子の一生」と少し似ている。
中心となるのは、人間を信じられない偏屈老人の大貫と、少女パコの心の交流の物語。
パコは交通事故で両親を亡くし、自らも一日分の記憶しか保てない障害を負ってしまう。
彼女は7歳の誕生日に母親から送られた絵本「ガマ王子対ザリガニ魔王」を、毎朝起きるたびに枕元に見つけ、永遠の誕生日を生きているのだ。
勘違いから殴られた翌日、再び大貫がパコの頬に触れると、記憶を持たないはずのパコは「おじさん、昨日もパコのほっぺにさわったよね」と、満面の笑顔で語りかけ、大貫の寂しい心を守ってきた氷の塀は、このあまりにも切なく重い一言に、あっけなく崩壊する。
横暴な池の嫌われ者であるガマ王子の物語に自らを重ねた大貫は、パコの心に何かを残そうと、病院の皆を巻き込んで、絵本をお芝居として上演しようとするのだ。
まあ、簡単に言えば、心を病んだ頑固ジジイが、無垢な少女とのふれあいで改心する物語だが、もちろんそれだけでは終わらない。
この作品は、とにかくエキセントリックなキャラクターが満載だが、彼ら一人一人のバックグラウンドがサブストーリーとして語られ、これがまた面白い。
子役時代の栄光から脱皮する事が出来ず、自殺未遂を繰り返す俳優の室町と、土屋アンナ演じる彼を密かに慕うヤンキー看護婦のタマコの物語。
実の娘の結婚式に、出席する事が出来ないオカマの木之元の物語。
そして劇団ひとりの演じる勇気を持てないヘタレ消防士の物語。
「嫌われ松子の一生」では、全てのパワーを松子の物語に集中して描いてしまったために、ややオーバーフロー気味だったが、今回は中ダレしそうになると、綿密に張り巡らされたサブストーリーが物語を重層的に盛り上げ、一本調子になるのを防いでいる。
大貫を含めたキャラクターは、全て明確な役割を持ってカリカチュアされたキャラクターで、メイクと衣装で元の俳優が誰なのか判らないくらい作りこまれているのも、俳優の持つイメージから役を独立させたかったからだろう。
例外はパコ役のアヤカ・ウィルソンと阿部サダヲで、パコはもちろん無垢なる魂の象徴として、変幻自在の阿部サダヲは物語の語り部として、作品世界の中で独自のポジションを与えられている。
「げろげーろ」という大きな声の朗読も可愛いアヤカ・ウィルソンは、ちょっと長澤まさみをハーフにした様な雰囲気の、絵に描いたような美少女で、これからが楽しみな逸材だ。
大貫の仕掛けた「ガマ王子対ザリガニ魔王」の芝居は、病院に集う皆を巻き込んで進んでゆくが、この芝居を演じる事で、彼らはそれぞれの抱える問題と向き合い、一定の答えを得る。
この過程は、舞台の構造をそのまま生かして、さらに劇中劇をパコのイマジネーションによって現実化したCGアニメとして描く事で、映画ならではの飛躍も表現されている。
CG化された絵本の世界のクオリティは素晴らしく、頻繁に切り替わる実写パートとの接続の違和感も全く無い。
外連味たっぷりに作られた、実写パートのビジュアルデザインが、ここで生きてくるのだ。
「ガマ王子対ザリガニ魔王」の絵本は、池の皆を守るため、ザリガニ魔王と戦ったガマ王子が命を落として終わる。
ガマ王子役の大貫も当然・・・と思わせておいて、この映画はそこから更に一ひねりしてあり、このクライマックスの展開は号泣もの。
こうくるとは思っていなかった私も、しっかりと泣かされてしまった。
正直なところ、相変わらず好き嫌いはあると思うが、「パコと魔法の絵本」は、中島哲也という演出家の資質と、物語の素材との幸福なマリアージュを味わう事の出来る秀作だ。
食わず嫌いの人も、試して損は無い一皿である。
今回は、子供にも飲める(?)甘―い緑のカクテル「グリーン・カルピス」をチョイス。
メロン・リキュール30mlとカルピス30mlをグラスに注ぎ、ソーダで割る。
喉でシュワーッと炭酸が弾ける感覚は、物語の後味をさわやかにまとめてくれるだろう。
メロンリキュールをそのままメロンシロップに変えれば、子供の大好きなメロン・カルピスのソーダ割りとなるので、大人も子供も楽しめる。

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