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2008年09月30日 (火) | 編集 |
「グーグーだって猫である」は少女漫画の巨匠、大島弓子による自伝的なエッセイ漫画の映画化。
ただし、原作の主人公は大島弓子本人なのに、映画では彼女をモデルとした小島麻子という架空の人物になっている。
なぜわざわざこの様な改変をしたのかが疑問だったのだが、映画を観てようやく理解できた。
「グーグーだって猫である」は、タイトルとモチーフは共通しているものの、物語的にはほぼ映画オリジナルであり、原作漫画とは全くの別物なのだ。
天才漫画家の小島麻子(小泉今日子)は、愛猫サバを失った悲しみからペットロスに陥る。
アシスタントのナオミ(上野樹里)たちは、落ち込む麻子を見ていられない。
そんなある日、麻子は突然ペットショップでぐるぐる模様の子猫を買ってきて、グーグーと命名する。
ようやく元気になる麻子だったが、ある日雌猫を追いかけてグーグーが逃亡。
公園でグーグーを捕まえてくれたのは、近所に住む青年・沢村(加瀬亮)だった。
ナオミはいまだ独身の麻子を結婚させるチャンスとばかりに、麻子と沢村を接近させようとするのだが、今度は麻子が突然の体調不良に襲われて・・・
う~ん、困った映画だ。
私は大島弓子の漫画が大好きだし、勿論この原作も持っていて、映画化には大いに期待していた。
なのに、この映画は私が観たかった物はちっとも見せてくれないばかりか、ほとんど別物といって良いくらいに改変してしまっている。
原作は、基本的に大島弓子と猫のグーグーの物語であって、人間の主要人物は彼女以外ほとんど出てこないし、猫は逆にグーグー以外にもどんどんと増えて、猫との暮らしを通して、大島弓子が知った事、感じた事を素直に綴った漫画となっている。
猫派の私としては、当然映画も人間と猫の心の交流を描いた猫映画だと思っていた。
ところが出来上がった映画は、一応グーグーは出てくるものの、存在感は思いのほか薄く、ほとんど完全な人間ドラマに成ってしまっている。
冒頭で麻子がサバを失って、グーグーと出会う部分と、突然の病気に襲われる事以外は、劇中の出来事も登場人物を含めてほぼオリジナル脚本と言える物語であり、正直なところ原作ファンとしては失望としか言い様がない。
しかしながら・・・実は一本の映画として観れば、出来は悪くないのだ。
実質的に物語は、二人の女性の視点で語られる。
小島麻子の視点と、彼女にあこがれる一回り歳の離れたアシスタント、ナオミの視点が絡み合い、真摯に生き方を問う二人の女性の物語と観れば、決してつまらない話ではなく、同じ創作という分野に身を置く私としては、むしろ彼女らにどっぷりと感情移入してしまった。
長年無心に仕事をして、多くの作品を作り出してきたはずなのに、愛猫の死によってふと気付かされる自分自身の心の穴。
小泉今日子が抜群に良い事もあって、麻子の心の機微が繊細に伝わってくる。
原作を忘れて、40代の独身女性である小島麻子を主人公とした人間ドラマとしては、これはこれでなかなか良く出来ているのだ。
犬童一心監督は、大島弓子のファンなんだろうと思う。
原作ではほとんど触れられていない彼女の仕事にまつわる描写が多く、映画全体もどことなく大島漫画の雰囲気を持たせようとしているように見える。
麻子とナオミの関係は、大島漫画によく描かれる女性二人の主人公を思わせるし、サバが傷心の麻子の元へ人間の少女の姿で現れるのは、言わずと知れた代表作「綿の国星」のイメージだろう。
たぶん犬童監督は、「グーグーだって猫である」を追求しているうちに、そこに描かれている人間と猫の物語よりも、主人公である大島弓子というキャラクターそのものを描きたくなってしまったのではないだろうか。
この作品は、小島麻子と名を変えた、大島弓子という女性の内面を映し出す事に、グーグーを含めたすべての要素が当てはめられている様に思える。
そう考えると、これは犬童監督による「大島弓子論」に近いのかもしれず、その意味では良く出来た作品だ。
ただ、やはり私にはこの作品に「グーグーだって猫である」というタイトルが付いていることが気になる。
少なくとも、原作を読んでいる人にとっては、これは違うだろうと思わざるを得ないんじゃないだろうか。
元々猫物に限らず、動物映画は難しい。
まず動物は人間と違って心を表現する言葉を持たないから、人間との感情の交わりそのものが描きにくく、物語を成立させにくい。
それにうまく物語を作れたとしても、決して思い通りに動いてくれる事はないから、今度はそれを撮るのが難しい。
ハリウッド映画みたいに、CGの動物に演技させたり喋らせたりという手もあるが、あれは動物映画というカテゴリとは違うものだと思う。
そんなこんなで、動物映画として企画されても、ほとんどの作品は実質的には動物は添え物で単なる人間ドラマになってしまい、猫萌え、犬萌えを期待して行く観客をがっかりさせてしまうのだ。
今回の「グーグーだって猫である」も、そういう意味では予想通りと言えなくもないのだが、やはり原作が素晴らしいだけに、テーマを含めて全く異なるアプローチにはちょっと納得出来ない気持ちがある。
一本の映画として、「なかなか面白いドラマじゃないか」と冷静に観ている自分と「こんなんグーグーじゃない」とがっかりしている自分が、観終わって心の中で葛藤している、そんな微妙な作品だった。
たぶん、原作未読者の方が素直に楽しめるのではないだろうか。
今回は仔猫(Kitty)という名のカクテルを。
赤ワインとジンジャーエールを1:1の割合で、氷を入れたグラスに注ぎ、軽くステアして完成。
酸味の中にほのかな甘さを感じ、あっさりとして飲みやすい。
因みに世間には酒を飲む猫がいると聞いた事があるが、本当だろうか。
うちの猫はアルコールの香りが嫌いで、飲んでいるとどこかへ行ってしまうが・・・
愛猫と晩酌。
ある意味猫派の酒飲みの夢である。(ホントに)
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ただし、原作の主人公は大島弓子本人なのに、映画では彼女をモデルとした小島麻子という架空の人物になっている。
なぜわざわざこの様な改変をしたのかが疑問だったのだが、映画を観てようやく理解できた。
「グーグーだって猫である」は、タイトルとモチーフは共通しているものの、物語的にはほぼ映画オリジナルであり、原作漫画とは全くの別物なのだ。
天才漫画家の小島麻子(小泉今日子)は、愛猫サバを失った悲しみからペットロスに陥る。
アシスタントのナオミ(上野樹里)たちは、落ち込む麻子を見ていられない。
そんなある日、麻子は突然ペットショップでぐるぐる模様の子猫を買ってきて、グーグーと命名する。
ようやく元気になる麻子だったが、ある日雌猫を追いかけてグーグーが逃亡。
公園でグーグーを捕まえてくれたのは、近所に住む青年・沢村(加瀬亮)だった。
ナオミはいまだ独身の麻子を結婚させるチャンスとばかりに、麻子と沢村を接近させようとするのだが、今度は麻子が突然の体調不良に襲われて・・・
う~ん、困った映画だ。
私は大島弓子の漫画が大好きだし、勿論この原作も持っていて、映画化には大いに期待していた。
なのに、この映画は私が観たかった物はちっとも見せてくれないばかりか、ほとんど別物といって良いくらいに改変してしまっている。
原作は、基本的に大島弓子と猫のグーグーの物語であって、人間の主要人物は彼女以外ほとんど出てこないし、猫は逆にグーグー以外にもどんどんと増えて、猫との暮らしを通して、大島弓子が知った事、感じた事を素直に綴った漫画となっている。
猫派の私としては、当然映画も人間と猫の心の交流を描いた猫映画だと思っていた。
ところが出来上がった映画は、一応グーグーは出てくるものの、存在感は思いのほか薄く、ほとんど完全な人間ドラマに成ってしまっている。
冒頭で麻子がサバを失って、グーグーと出会う部分と、突然の病気に襲われる事以外は、劇中の出来事も登場人物を含めてほぼオリジナル脚本と言える物語であり、正直なところ原作ファンとしては失望としか言い様がない。
しかしながら・・・実は一本の映画として観れば、出来は悪くないのだ。
実質的に物語は、二人の女性の視点で語られる。
小島麻子の視点と、彼女にあこがれる一回り歳の離れたアシスタント、ナオミの視点が絡み合い、真摯に生き方を問う二人の女性の物語と観れば、決してつまらない話ではなく、同じ創作という分野に身を置く私としては、むしろ彼女らにどっぷりと感情移入してしまった。
長年無心に仕事をして、多くの作品を作り出してきたはずなのに、愛猫の死によってふと気付かされる自分自身の心の穴。
小泉今日子が抜群に良い事もあって、麻子の心の機微が繊細に伝わってくる。
原作を忘れて、40代の独身女性である小島麻子を主人公とした人間ドラマとしては、これはこれでなかなか良く出来ているのだ。
犬童一心監督は、大島弓子のファンなんだろうと思う。
原作ではほとんど触れられていない彼女の仕事にまつわる描写が多く、映画全体もどことなく大島漫画の雰囲気を持たせようとしているように見える。
麻子とナオミの関係は、大島漫画によく描かれる女性二人の主人公を思わせるし、サバが傷心の麻子の元へ人間の少女の姿で現れるのは、言わずと知れた代表作「綿の国星」のイメージだろう。
たぶん犬童監督は、「グーグーだって猫である」を追求しているうちに、そこに描かれている人間と猫の物語よりも、主人公である大島弓子というキャラクターそのものを描きたくなってしまったのではないだろうか。
この作品は、小島麻子と名を変えた、大島弓子という女性の内面を映し出す事に、グーグーを含めたすべての要素が当てはめられている様に思える。
そう考えると、これは犬童監督による「大島弓子論」に近いのかもしれず、その意味では良く出来た作品だ。
ただ、やはり私にはこの作品に「グーグーだって猫である」というタイトルが付いていることが気になる。
少なくとも、原作を読んでいる人にとっては、これは違うだろうと思わざるを得ないんじゃないだろうか。
元々猫物に限らず、動物映画は難しい。
まず動物は人間と違って心を表現する言葉を持たないから、人間との感情の交わりそのものが描きにくく、物語を成立させにくい。
それにうまく物語を作れたとしても、決して思い通りに動いてくれる事はないから、今度はそれを撮るのが難しい。
ハリウッド映画みたいに、CGの動物に演技させたり喋らせたりという手もあるが、あれは動物映画というカテゴリとは違うものだと思う。
そんなこんなで、動物映画として企画されても、ほとんどの作品は実質的には動物は添え物で単なる人間ドラマになってしまい、猫萌え、犬萌えを期待して行く観客をがっかりさせてしまうのだ。
今回の「グーグーだって猫である」も、そういう意味では予想通りと言えなくもないのだが、やはり原作が素晴らしいだけに、テーマを含めて全く異なるアプローチにはちょっと納得出来ない気持ちがある。
一本の映画として、「なかなか面白いドラマじゃないか」と冷静に観ている自分と「こんなんグーグーじゃない」とがっかりしている自分が、観終わって心の中で葛藤している、そんな微妙な作品だった。
たぶん、原作未読者の方が素直に楽しめるのではないだろうか。
今回は仔猫(Kitty)という名のカクテルを。
赤ワインとジンジャーエールを1:1の割合で、氷を入れたグラスに注ぎ、軽くステアして完成。
酸味の中にほのかな甘さを感じ、あっさりとして飲みやすい。
因みに世間には酒を飲む猫がいると聞いた事があるが、本当だろうか。
うちの猫はアルコールの香りが嫌いで、飲んでいるとどこかへ行ってしまうが・・・
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